良い子-4

良い子-4

 次の日、そのログハウスに客人がやってきたと、久しぶりの服を着せられて部屋に出さされたココは、目の前にいる彼を認めて目を見張った。
「ココ、おまえの客だ。懐かしいだろう」
「て、り……」
「兄さん」
 5年の月日は、高校生だった弟のテリーを成人にし、その背は兄を超えるほどになっていた。
 それに華奢だった身体にはしっかりとした筋肉が付き、その立ち姿はどこか威風堂々としたボスの身体を彷彿させる力強さを感じた。
「ココって?」
 呆然とするココへ、弟が無邪気に笑いながら問いかける。
 兄の名は、ディードで、ココなんかじゃ無いはずだと、その瞳が物語る。
「ボスが付けた愛称でね。冗談で読んでいたら、根付いてしまったんだ。まあココも、君のお兄さんもまんざらでもなくってね」
 テリーの横で穏やかに笑うのは、組織の集まりでも見た、側近の一人。
「それって、リイドが俺のことをテンって名付けたのと一緒?」
 話しかけられて、心底嬉しそうにその男、ボスが名付け親のリイドを見上げる弟の瞳が何を意味しているのか、この場にいる誰もが気づいているだろう。
 リイドがお気に入りに愛称を付けたがるのはココ以外周知の事実で。
 にこりと微笑むボスの表情に、ココという名も気に入られた証拠なのだと弟は理解したようだ。
「そうだよ、テン。さあ、俺のボスに挨拶を」
「あ、はじめまして。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。兄がいつもお世話になっています。リイドの……店で調教師役やらせてもらっています、テンです」
「こちらこそ、敏腕調教師のテンが、ココの弟だったとはさすがに初耳だったよ。リイドもベイルーフも人が悪い」
「失礼ながら、私も存じておりませんでした。彼のことは後見人にすべてを任せており、別に何かトラブルに巻き込まれない限りは報告の義務も課しておりませんでしたので」
 昨日の会話から改めて問い合わせしたら、今はリイドのところにいると聞いて驚いたのも事実だ。
 同じ組織の人間の元にいるのだから、と、後見人も問題視しなかったのだという。
 それを聞いて、からからと明るく笑うボスは、さもありなん、と頷いた。
 ココはココ、弟は弟。
 約束ではあったが、すべてが配下任せで何のフォローもしていなかったし、皆もそんなボスが判っているから、報告する必要性も感じていなかったのだろう。
 だが、敏腕調教師のテンの名前だけは耳に入っていた。
 何しろつい先日話をしたマゾ奴隷と同じく、大切な稼ぎ頭と評判だ。
 彼の苛烈な調教には熱烈なファンがいて、彼に手ひどく扱われることを切望し、自ら命を落とすほどになったマゾな客もいるほどなのだ。
 もっとも死んだら死んだで、店に事後処理の損害を与えたと損害賠償で大金を勝ち取ることができるから、別に問題など無い。訴えられた相手も、恥ずかしい場所で死んだ親族のことは隠したがるものだから、その辺りは難なく回収できた。
 司法の手など届かぬ世界での出来事で、すべては金で動く世界だ。
 それでもそこまで苛烈な調教師はなかなかに育たないのが世の常ではあったけれど、このテンは、まだ若輩ながらその手を躊躇わないことで有名だ。
 だが。
「ち、調教師……って」
 だが初耳のココは呆然とその言葉を繰り返す。
「ん、後見人の人が学費はたっぷり出してくれていたし、生活費も貰っていたんだけど。でももっと稼ぎたくて、割の良いバイトを探していたときに、リイドに出会って」
「ちょっ、ちょっと待って。なんでそんなに稼ぎたいってっ」
「だって、最初は俺、兄さんが親父達の借金のせいでどっかの親父の愛人やってるって思ったから、その身請けの金集めるつもりで……って、やば、すみません、その……」
 そのどっかの親父に該当する男が目の前にいるのだと気がついたのか、慌てて頭を下げて。
「まさか、すっかり仲良く暮らしているとはおもっていなくて」
「仲良く……」
 その言葉の意味することに、ココが絶句してしまう。だが、否定することはできないと、それ以上の言葉は出てこないようだ。
 男も、テンの失言など意に介すことなく、話の展開を愉しんでいる。
「その時は俺もココの弟とは知らなかったんだよ。人受けしそうな子だから、店で受け付けでもしてもらおうって」
「その時は、単なるカフェだって思っていたんだけどなあ」
「昼間はカフェで間違いないだろう?」
 その仲良い会話は、恋人同士のそれ。
 いや、間違いなく二人の間にあるのはそれだろう。
 苦笑を浮かべる男に気づいたのか、リイドがしまったと頭を下げて。
 つんつんとテンに話を戻すように進める。
「あ、それで、高校卒業するときに、リイドに仕事どうしょうって……」
「大学には行かなかったのかい?」
 不思議そうに問いかけるのはボス。
 それに、テンはこくりと頷く。
「後見人の人に世話になりっぱなしって嫌だったし、もっともっと金がいるって思って。働こうと思ったらいくらでも働き口はあったし」
「それがですね、そのうちに、偶然テンが調教風景を見てしまって……」
 それは軽い、公然での調教風景で、けれど、M奴隷が僅かな刺激でその場で射精してしまったのだ。テンがいる目の前で。
「その時、最初は何が起きたかぜんぜっん判らなかったけど、けど、人前で達ったんだって。そいつ誰かに調教されてんだって気がついて。その時、おれもこんなふうに虐めてみたい、足の下に踏みつけて、思うさまに扱ってみたい——そんなことを思ってしまって」
「最初はテンもそんな自分に困惑して、それで俺に相談に来て」
「ほんとうにそうなのか、試してみようって。そしたら、ああ、これが本当の自分なんだっそれこそ開眼したっていうか」
「店の誰よりも天職だって思いましたよ、俺もその時は」
 にっこりと、あっけらかんに言った弟の言葉に、誰よりも衝撃を受けたのはココだった。
「天職って……」
「うん、しかもそれを職にしたら、下手に大学出のエリートよりよっぽど高給取りになれてさ。今や、俺結構な小金持ちなんだ」
 ニコニコと何でも無いように言い放ったテンは、ココにはもっと隠していることがあった。
 その過程で人を殺したことはもちろんのこと、それにすら快感を覚えてしまう自分のこと。
 特に兄のような馬鹿正直な男が一番好みで。
 ある意味ブラコンだと、それを知ったリイドにからかわれたほど、そのくらいの年頃の兄に似た姿形の客が来れば、率先してその技を奮っていることを。
 それがサドの客として来た者であったとしても、プレイが終わる頃にはテン様と泣いて縋るほどのマゾ奴隷に開花させたことは、今や店の伝説にすらなっている。
 そんなテンが、リイドのボスの下に兄がいると聞いたのは、つい昨日のことだ。しかも会わせてもらえると知ったその時、その脳裏に過ぎった光景など、決して口にはできないと思っていた。
 思っていたけれど。
「だから今日会えたときには、その親父……いえ、そのボスから全財産費やしても兄さんを買い取ろうって思ったんだけど」
 こうやって会わせてもらえて、会ったとたんに調教師としての性から気がついてしまった。
「悔しいなあ。もっと早く兄さんを取り戻せなかったこと」
 心底口惜しげに呟いてしまったのは、そこにもう自分の手の入れようなど無いと、感じてしまったから。
「兄さんって、すっごく愉しそうなんだもんなあ。すてきなご主人様に毎日可愛がってもらえてんだろう? もうできあがってるじゃん」
 弟が天性の調教師ならば、兄は天性のマゾ奴隷。
 そんなことが一目で見て取れてしまうほどにテンの目は狂いが無い。
「え……?」
 何を言われたかピンと来ないココに、テンが唇を尖らして返した。
 隠そうと思っていたことすら忘れていた。
「どうせちゃちな技で弄ばれているだけかと思ったのに、肌はつやつや、髪もさらさら。前より健康的な色っぽい肉付きで、ずいぶん大事にされてるみたいだし。それに、ずっと可愛がってもらっているんだろう? イヤらしいニオイがプンプンしてる」
 言い放つ仕草は、あんなことになる前の懐かしい弟の仕草なのに、その込められた意味は、あまりも衝撃的なものだった。
 まさか、と一瞬否定しかけて、けれど、それが紛れもなく隠そうとしていた真実を見抜かれたのだとココは気がついた。
 ココにしてみれば、そんなふうに見抜かれるなど思いもよらなかったのだろう。ごまかすことも出来ずに、おろおろとうろたえ、自ら暴露してしまっている。
「そ、それはっ」
「隠しても無駄だよ。だって、兄さんの身体から、男のニオイがぷんぷんするもの。あ、兄さんのニオイじゃ無いよ。ご主人様のニオイ。そこのボスの。もう染みついちゃってる。それに、なんつうか、メスのニオイもプンプンしてるし、そっちの方が兄さんのニオイだ」
 慌てる兄の言葉が続けられぬように、たたみ込んでしまうのは、いつもの癖だ。
「えっ」
 その驚愕にテンの調教師としての性はたいそう擽られてしまった。
「ん、兄さんほどに調教されたら、俺の手なんか入りようが無いなあ。良かったね、すてきなご主人様の下にいられて」
 先の言葉は、調教師であるテンにとっては最上の褒め言葉だ。仕立て上げた奴隷が、心底マゾ奴隷になったと認めたことを表す賛辞。
 それこそが奴隷になった者の最上の幸いだと信じて疑わない。
 実際、テンに調教師の手ほどきを教えた者達も、そして、テンが一番信頼している恋人のリイドも、そう教えてくれていたから。
 もとよりその素質があったのは偶然だったが、それに気付いたリイドによって、彼の思惑通りにこの5年間洗脳され続けて育ってきたテンは、彼を疑いもせずに、与えられた情報のすべてを信じていた。
 だからこそ、テンは人をマゾ奴隷化することに躊躇わないし。だからこそ。
 いつものように口にした言葉に、ココが衝撃を受けたかのように硬直したのには気付かなかった。
 何より、気付く前にテンは、兄をそんな奴隷に仕立て上げられた尊敬から視線をボスへと向けてしまっていたから。
「リイドから、ボスの調教の技はすごいって聞いたことがあって。俺なんかよりよっぽどすごいし、素晴らしい逸物をお持ちだって。そんな技見てみたいってずっと思っていたんだけど……。確かに、兄さんって、りっぱにマゾ奴隷に仕立て上げられていますね、なんか悔しいけど……調教師としては尊敬します」
「はははっ、さすが売れっ子調教師と言われるだけのことはある。その目も度胸も確かに並みではないな。良かったな、ココ。おまえの弟はりっぱに成人している。もう心配ないだろう?」
「それは……はい……」
 弟の身の安全と将来を。
 ココに取って、それは自分が奴隷に身をやつしてまで願った事柄だった。
 それが叶ってしまったら、ココがここにいる理由など無いのだ。無いのだけど……。
 嬉しいはずなのに、ココの顔色は優れず、不安げにその瞳が揺れる。
 その様子に、ボスは気づき、ついでベイルーフも気づいてリイドに視線を送った。
 ベイルーフほどでは無いけれど、それでもボスに名を貰っただけの男だ。すぐさまに、その意味を読み取り、傍らのテンに呼びかける。
「テン、ここはボスがココのために作ったログハウスなんだけど、なかなか見応えのあるものがいっぱいある。参考に見せて貰うと良いから案内するよ」
「え、でも」
「ボスに許可を貰っているから、今日はここに泊まることにしているから。ココとはまだゆっくりと話す時間があるから」
 まだ話したりないとばかりに躊躇うテンの腕をひく。
 それでも、視線をココに戻していたテンは、ふっとココの様子に気づいて動きを止めて。
「そうだね、そうする、じゃ、兄さん、また後で」
 先ほどまでのためらいなどどこふく風のように部屋から出て行った。




 二人が出て行って、ベイルーフも出て行った部屋の中で、ソファに背を預け腕組みをして、尊大な態度でココをみやる男は、薄ら笑いすら口元に浮かべていた。
「おまえの願いが叶ったと言って解放を望むのであれば、私はおまえを外に放りだそう」
 その言葉が耳に入ったとたん、ココの身体がびくりと震えた。
「だが、弟がいくらおまえを引き取りたいと言っても、リイドはそれを許すことはできない。今あれはリイドと暮らしているが、リイドがおまえと暮らすことは私が許可しないからだ。ここから出て行ったおまえが、私の目の届く範囲にいることは許さない」
 それは、暗に、弟がココを引き取ろうとすれば、弟自身の仕事もできなくなるということだ。
 あの仲の良い恋人同士を引き裂いて。
 天職だと喜ぶ弟の、内容はともかく、その仕事を放り出させて。
「まともな職業で無いあれの働き口は、別の組織の支配下しか無いが……だが、おまえがいる以上、私はそれは絶対に許さない。私は自分の身内にいたものが別の組織の支配下になることなど許さない」
 それは組織を支配するボスとして当然のルールだった。
 実際ココはボスの執務室の隣にずっといたのだ、
 意識していなくても、聞いてはならない内容の話も耳にしているはずだった。
 つまり、ココが身を寄せたとたん、二人そろって路頭に迷うことになってしまうということで。
 不安に満ちていたその瞳は、ボスの言葉にますます強く激しく揺らぐ。
「そしておまえも。もとよりその身体を飾るアクセサリーくらいは選別にやるが、だが、収入などなかったおまえは一文無しなのは変わりない。まあ、実の弟にたやすく淫乱さを見抜かれてしまう、その手の男を誘うニオイを放ちながら彷徨い歩けば、夜の世界で瞬く間に人気者になるだろうが。排泄ですら感じまくり、太い腕を喜び、乳首で絶頂を迎えるような淫乱奴隷ならば、弟に世話になるまでも無く、生粋のマゾ奴隷として飼ってくれる人間は五万といるだろうよ」
 その言葉に、ココは絶句し、けれどそれが容易に想像できてしまうのか、おずおずと力無く俯いた。
 先の弟の言葉に、何よりもメスのニオイ云々の部分がココを打ちのめしていた。
 だが、と、男は冷たくココをさらにさげすみ、追い詰める。
「そんな淫乱なメス奴隷であっても、ここに残るというのであれば、私は今まで通りおまえを飼う。奴隷として、今と同じく、いや、今まで以上に愉しい、私の欲を解消するオモチャとして扱ってやろう」
 その言葉に、今度は跳ね上がったのはココの頭だ。
 その表情から血の気が失せ、わなわなと唇が震えていた。
「今私がおまえに許すのは二つのうちのどちらか」
 指を二本立て、一本ずつ折る。
「残るか、出るか」
 選べと言われて、ココはひどく混乱していた。
 心の奥底ではここから出て行くことを望んでいたはずだ。
 出て行って、人並みの普通の暮らしがしたい、と。衣服すら与えられず、男の欲をその身に受けて暮らすことなどせずに。
 だが、男から改めて言われた言葉に、それもまた真実の己の姿なのだと否定できずに打ちのめされていた。
 もう普通の生活など望むべくも無い身体だ、今と違う生活を初めて、この身体は保てるだろうか?
 男にペニスを貰わない日が続くと物足りなくなり、勝手に自慰をしてしまう身体。そのせいでプラグを入れられても、気がつけばカツカツと表面を叩いている。
 今はもう、精液は飲み干すことが当然となっていて、あの味がまずいとも思わなくなっていた。
 それほどまでに日常と化した、非日常の出来事を、どうやってこの身体から消し去れば良いのか?
 考えれば考えるほどに、考えられなくなる。
 だって、どう考えても、放り出された自分の未来は、男を欲しがり、縋り付いて情けをもらう光景しか思いつかないのだ。
 弟は巻き込めない。せっかく手に入れたと喜んでいる仕事も恋人も奪ってしまうために、自分はここにいたわけでは無いのだから。
 ならばどうしろ、と考えようとしても、ぐるぐると考え込んでも答えは出てこない。
 だがそれは、従うこと以外考えないように調教され続けていた結果なのだと、ココは知らない。
 ここに来てから従うことだけを考えて、言われたことだけをしてきて。考えることを放棄してきた頭は、こんなにすぐには正常に働くはずも無かった。
 ここに残るのも地獄、出て行くのも地獄。
 究極の選択を、迷う時間はあまりにも少なくて。
 返事を促すように、男がココを指さす。
「出て行きたいなら、おまえの弟が帰ってくる前にそのままここから出て行きなさい」
 スーツ姿の下は、下着の代わりに淫らなアクセサリーで彩られた身体だけだ。
 財布など望むべくも無く、小銭一つ持っていない。
 残るのは、淫らな身体だけ。
「ああ、鍵がいるな。ほら」
 かちゃん、と冷たい音を立てて、目の前の床に小さな鍵が跳ねた。
 時にはひどく切望し、泣いて縋って願ったアナルを塞ぐ金具を止める鍵が今目の前にあった。
 けれど、手が伸びない。
 あれを持って出て行けば、この男に従う生活から解放されるのに。
 だがココは。
 いつまでも、その場から動くことが、できなかった。


続く