?羽ばたかない鳳凰? – 2002-09-13 – リオチームの最年少メンバー キイチ・ウォンの想い。

 ──ああ、いつもの夢だ。
 その中にいながら、それが夢だとはっきりと判る。
 泣いている子供がいる。
 そして、その子が自分自身だとキイチは知っている。
 その舞台は、自室であったり公園であったりといろいろだが、その子が何をしようとしているのか、何を目指しているのかは、いつも同じだ。
 機械仕掛けのオルゴール。
 小さな両手で抱えるようにして持っているそれは、動かなくなった大事な宝物。
 もともとが古い物だった。
 もう当時からかなりガタが来ているのも知っている。
 それでも、その頃のキイチにとってどんな最新式のおもちゃよりも大事な物。
「また、壊れちゃった……」
 不思議なくらいキイチの手に触れる物は壊れやすい。複雑な仕組みをしている物ほど、その被害は大きくなる。
 だから7歳の頃につけられたあだ名がクラッシャー。
 本人にはその気は全くないのだから、余計に始末が負えないと、両親からは高価なおもちゃより積み木、ボール等と言った壊れる要素の少ない物しか与えられなかった。
 その中で唯一複雑な仕組みの物。
 8歳の誕生日に、祖母のもとにあったそのオルゴールをもらった。
 欲しくて欲しくて堪らなくてじっと見ていたら、「あげるわ」と笑って渡してくれた。その頃から、キイチのクラッシャーぶりは有名であったというのに、祖母の大胆な決断に両親は顔色を変えたものだった。
 だからこそ、幼心にも大事にしたいと思っていた。
 年を経るごとに、壊れる頻度は少なくなったが、それでも何かの拍子にその名が取りざたされるほど巧みな壊し方をした。
 大事だから……宝物だから……そう思っていても例外ではない。
「壊れちゃったぁっ!」
 初めて逢ったのはいつだっただろう。
 気がついたら隣に住んでいた。
 自室で泣きわめいていた声を聞きつけて、窓から覗いたのが出会いだった。
 たぶん彼は17歳の時。キイチは9歳。
「見せてみろよ」
 泣きわめく様子に苦笑を浮かべながら差し出された手に、オルゴールを渡す。
 取り出された小さなドライバーが底のネジを外し、オルゴールの心臓部を露わにした。
 幼い自分には、魔法のからくりのような意味不明な機械の集まりを、彼は僅かな動きで止まっていた原因を探り当て、それを解放した。
 蓋がはめられ、ネジが締め付けられる。
 機械式のそれのネジがきっちりと巻かれ、ロックが外されると、それは元のように動き始めた。
「うっわあぁぁ」
 驚きに目を見開く。
 もう駄目だと……壊れてしまったと……。
 なのに……。
「ほら、直ったろ。だから、もう泣くな」
 手渡してくれるその手は、キイチの手を包み込むほど大きくて、そして優しかった。
「魔法みたいだ。お兄ちゃんの手って魔法の手みたいだね」
「魔法の手か……そりゃ、いいや」
 楽しそうに笑う彼につられて、キイチも笑う。
「ありがとう、お兄ちゃんっ!」
「壊れたらすぐもってこいよ。すぐ直してるからな」
 その約束はずっと違えられることはなかった。
 彼が隣からいなくなるその時まで。
 ずっと……。
 
 8歳違いの”魔法の手を持つお兄ちゃん”は、18歳で高校を卒業すると士官学校に入学した。
 あれからすぐに壊れたオルゴールを直して欲しくても、士官学校は遠く、そして彼も戻っては来なかった。
 だから……キイチは高校に進学しなかった。正式な配属が許されるには基本教育期間さえ終わっていればいい。特に優れた成績ではないから、順当に15歳までかけてそれをこなし、さっさと配属を希望した。後三年の修業教育を受けるチャンスも、四年間の専門教育を受けるチャンスもあったのに、キイチはそれを拒否した。
 早く……入りたかった。
 そうすれば……八年という差を縮められるかもしれないと、思ったから。
 そして、下積みとも言える訓練に明け暮れるキイチに朗報が舞い込んだのは、それから1年が経っていた。
「キイチ・ウォン二等兵をヘーパイトス カベイロス艦の配属とする」
 その言葉を聞いたとたん、あまりの嬉しさに意識が一瞬飛んだほどだ。
 彼がヘーパイトスに所属しているのは知っていたから、ずっと志願していた。
 しかし、ヘーパイトスは、オリンポスにおいて、機械設計・生産・メンテその他すべてを司っている司令部。なのにキイチには、工業的技能と呼ばれるものが何一つ身に付いていなかったから、誰からも無理だと言われていた。それでも志願し続けた結果の朗報は、生涯忘れやしない。
 ようやく彼の元に辿り着けた。
 その悦びを胸に抱いて再会した彼は……しかし。
『はじめまして、ロバート・グレイル少尉だ。コードネームは『ボブ』。君の上官になる。よろしくな』
 その言葉は再会を心待ちにしていた分、キイチを奈落の底に突き落とした。
 彼は、キイチの事ことも何もかもすっかりと忘れてくれていた。
 今まで見ていた世界が暗転する。
 いきなり足の下の大地がなくなりぐんと落下する感覚に、キイチはその衝撃を想像して全身を固くした。その途端びくんと体が激しく跳ねる。
 だが、その衝撃は固い地面のそれでなく、柔らかな寝具。しかもそこで跳ねて落下しただけの僅かな衝撃でしかなかった。
 見開いた視界には、見慣れた天井。
 あ……夢……。
 ゆっくりと巡らした視線の先にあるのは、確かに僕、キイチ・ウォンの荷物。
 間違いなく、工作艦カベイロスで自分に与えられた部屋だった。
 グレーが基調の壁面が、見ていると微妙なゆがみを見せる。
 目の奥がつんと熱い。
 ああ……またあの夢。
 精神に受けた衝撃が、実際の体にまでダメージを受けたように、どことなく怠い。
 上半身を起こし、たてた片膝に肘をついて頭を支えた。俯いて硬く目を瞑ると、目尻に涙が浮いて溢れ出る。
「……ちくしょ……」
 力無く零した悪態は、向ける相手もいなくて中空に消えていった。
 幸いにして、相部屋の奴は夜勤で留守だ。
 キイチの似合わない愚痴と泣き声を聞かれる心配はなかった。
 なんでこんなに悲しいのか……。
 だけど、夢見るたびに同じように泣いてしまう。
 逢いたくて逢いたくて……ようやく逢えたあの日から、もう1年が経っている。
 優しかったのに……。
 ずっとずっと慕って、そのためにここまで追いかけてきたのに。
 今はもうオブジェと化したそれは……彼と自分を繋ぐ想い出の品だと思っていたのに……。
 ハードクリスタルの半球のケース入ったクリスタル細工の鳳凰。
 半球の下に機械が組み込まれていて、音楽とともに虹色の光源が光り、鳳凰が羽ばたくという仕組みのオルゴール。
 それでも、と思い……あのオルゴールをちらりと見せた時も、何の感慨を浮かべた様子もなかった。
 音楽はもう鳴らない。
 だから鳳凰はもう羽ばたかない。
 これが鳳凰だと、教えてくれたのも彼だった。
 あのきれいだった虹色の鳳凰は、もう部屋の明かりを反射するただのガラス細工の置物でしかなかった。
 また見てみたい……。
 そう思って、わずかな希望を持ってずっと持ち歩いていたけれど……。
 ふっとまだあどけなさの残るその口元がかすかに歪む。
 直してくれた魔法の手は……もう、ないんだから……。

 結局自分だけだったのだ。
 逢えればまたあのころのように、楽しかったあのころを過ごせる。
 そう思っていたのは……。
「はあ……」
 過去の夢を見るたびにひどい自己嫌悪に陥る。
 自分にとっては懐かしい想い出でも彼にとっては、単なる過去の出来事だ。
 それを覚えていないからといって、何でこんなに感傷的にならなくてはいけないんだ?
 今が楽しくないわけでない。
 工作鑑カベイロスで、リオ・カケイ大佐の率いるチームに配属されてからは、見るもの聞くもの、とても地上では味わえなかったことばかり。この一風変わった上官の下にいると退屈せずに済む。そう思わせるくらいに楽しく、そして皆キイチの才能を高く評価してくれていた。
 勘がいい。
 簡単に一言で済ますとそうなる。
 とにかく、人の……特に敵意を持った人の気配には敏感で、危険地帯での修理に出張るときにはキイチは必ず呼ばれるようになってきた。
 先日もやっかいな事件に巻き込まれ、それの後処理が片づいたところだ。
「やっぱ……疲れてんのかなあ?」
 はああ、と息を吐く。
 ぱたりとベッドに身を転がすと、ふっと時計を見た。
 まだ早い……。だが寝てしまうには短すぎる時間。
 目を瞑ると先だっての作戦行動が詳細に思い起こされる。
 守護するのは自分の担当。
 それが自分の存在意義。
 機械一つ直せない。どちからというと壊す方が得意なキイチのヘーパイトスでの存在理由。
 それを揺るがせてくれたのだ、あのときは。
 仲間が……傷ついて倒れるのを見てしまったから……。
 まるで自分を庇うようにその手を差し出してきたダテが血にまみれて倒れるのを。腕の中にあふれ出す血の色は、キイチの視界を一瞬にしてその色に染め上げた。
 そのシーンを思い出すと、ぐっと心臓が絞られるような痛みを覚える。
 自分は動けなかった。
 爆発した敵の破片が迫ってくるのに気づいていたというのに……。
 ……ちしくょう……。
 このところ、キイチを責め苛むその記憶が、余計にキイチを苛ただせる。
 しかも、その上に加わってしまったもう一つの傷は、キイチにとって不可解な意識を自覚させてしまった。
 自分が上官であるあの人に対して持っている感情が、単なる思慕ではなくなっていたことに気づいてしまった。だが自覚したからと言って、だからと言ってどうしようもないその意識。
 心の奥底に封印しようと思っても、どうしても浮上してしまうその意識。
 何せ、それを自覚したのは、昨日のことだから。
 そのせいで、あんな懐かしい夢を見てしまったのかもしれない。
 なんであんなことを、あの人は。

 

「グレイル少尉っ!!」
 足早に去っていく彼を見つけたキイチは、慌てて追いかける。
「待ってくださいっ!」
 数度目の呼びかけで、ようやくその足が止まる。
 眉間にしわを刻んで振り返る彼は、ひどくご立腹のようだ。
 まあ、そうだろう……。
「何だ、キイ?」
 ロバート・グレイル少尉……通称、ボブがむすっとその目をすがめる。
「どこに行かれるんですか?自分はまだ先日の報告書のサインをいただいていませんが?」
 聞かなくても判ってはいる。
 ボブが歩いている通路の終着点は『繁華街』だ。
 唯一、公的に酒が許されている社交場。
「そんなものあとでいいだろう?」
 やはりサボりを決め込むつもりらしい上官に、キイチもそうはさせじと立ちはだかる。
 ここのところ、連チャンだ。
 今だって、出張修理の最中の僅かな時間を狙って帰ってきたところ。休暇に入る前にやるべき事は多々ある。
 あのころは、見上げるほどだったボブも、今ではキイチの方が上背はある。
「駄目ですよ。また、行かれるつもりなんでしょう?」
 ぐっと睨み付けると、さすがにボブも鼻白んだのか眉間のしわを薄くしてそっぽを向いた。
 戦闘が得意なキイチが本気になると、上官といえど後ずさる位の迫力はある。
 だからか、他のボブ配下のチームメンバー達はいつも上官を捕まえる役目をキイチに押しつける。
 まあ、キイチ自身もそれを半分は楽しんで、そして半分は自分のためにボブを捕まえに走っていた。
 そう、自分のために……。
「見逃せッ!」
 それでも、キイチの迫力をものともしないほどの肝っ玉も持ち合わせているのがこのボブだ。
 リオ・カケイのチームでも、その実力は五指に入る。
 いざ作戦行動となると、キイチ顔負けの行動力を取る男。
 それを十分知っているから、キイチも油断なく構える。
 行かせてはならない。
 あまりにも頻度の多いサボりは、直属の上官であるリオではなく、カベイロスの総司令官あたりにまで話が行ってしまう恐れがある。
 リオならば、勝手にしろ……と、一言で済ますが、その上となるとそうはいかない。
 判っているのか……この人は……。
 大げさにつきたいため息を、必死で堪える。
「お前は……今日は約束があるんだよ、行かせろよっ!」
 ぐいっと伸びてきた手を、遠慮なく捕まえる。
「また……女性とですか?」
 窺うように視線を向けると、ぱあっとその顔が笑顔に包まれた。
「おう、ルリナちゃんと約束してんだよ。もう、俺様と是非っ、なんて言われて断れるわけがないだろう?」
 ルリナちゃん?
 初めて聞く名にキイチは眉をひそめた。
「先日はシュンレイさん……と言われてましたが?」
 まんまと隙をつかれて逃げられた先日の時の会話を思い出す。
 あの日、ボブは帰ってこなかった。
 ずきりと微かに疼く胸に顔をしかめる。
 この人は……。
 節操がない。
 その一言につきるほど、女性遍歴がものすごい。そして、それを自慢するよう人だ。
 最近、ボブの口から女性の名前を聞くと、またか、と思うと同時になぜか胸が痛くなる。
 きりきりと絞られるような胸の痛みは、いつもキイチの表情を変化させるというのに、それにボブは気づかなかった。
 ますます締まりのなくなった顔を晒してくれる。
「そう、シュンレイも良かったけどねえ……今度のルリナちゃんもぜひとも頂きたいね。あのふくよかな胸を思い出すと、食指を動かされると思わないか?」
 とたんに、腕を掴んでいた手に力が入った。
 誰の胸に食指が動くって?
 そんなものなんかにっ!
 きりきりと痛むのは、胸。さらに深くなる眉間のしわ。
 聞きたくもないっ!
「い、いてっ、キイッ!」
 悲鳴にも近い声に、はっと我に返る。
 気がつけば、ボブの手の先が白い。
「あ、すみませんっ!」
 慌てて手を離してしまった。
 そのとたんに、ボブがするりとキイチから離れると、脱兎のごとく駆けだす。
「あっ!」
 自分の行動にあっけにとられていたから、追いかけるのが一瞬遅れた。
「ボブッ!待ってっ!」
 今度悲鳴に近い声を漏らしたのはキイチの方だ。
 慌てて出したその声音に幼さが混じる。
 一瞬忘れた敬語に気づき、慌てて口を噤んだ。
「キイッ!」
 呼びかけられ、はっとそちらを向く。
「お前、その方が似合う。いい加減、しゃちほこ張った敬語なんか止めろよ。作戦中の方が、よっぽど気楽に話してるぜ」
 その足が止まることなく風のように言葉だけを残してその姿が消えてしまった。
「誰のせいだよ……」
 ぐっと拳を握りしめる。
 敬語を使わないと、昔のように甘えてしまいそうだから……何もかも忘れている相手に縋ってしまいそうだから……、だから、あえて使っているというのに。
 わずかに震えるその拳を、思いっきり壁に叩きつけた。
 激しい痛みが腕から肘に抜けていく。
 溢れ出しそうな涙は痛みのせいだ。
 そう思わせるほどの痛みに耐えながら、ぐいっと目元を拭う。
 泣きたくなるような胸の苦しみは、きっとボブの暴言のせいなんだ……。
 数刻、そこにたたずんでいたキイチは、何度か首を大きく振るとぐっとボブの消えた先を睨み付けた。
 何とかしないと……。
 こうたびたびのサボりは、ろくでもないことになりそうだ。
 キイチの鋭い勘がそう告げる。
 女癖の悪い陽気で忘れっぽい薄情な上官とはいえ、放っておくわけにはいかない。
 キイチはいったん執務室に戻ることにした。
 ルリナ、と言われてもどこのどんな人物か判らない。
 狭い工作艦とはいえ、それでも闇雲に探すには複雑なところだ。
 まして、そのルリナ……という人の部屋にでも潜り込まれたら今のキイチでは探しようがないし、入り込むこともできない。
 所詮、一等兵という身分が、ここで効いてくる。
 尉官であるボブは、『繁華街』でも入れる場所が多い。
 確率の高いところで張っているしかないのだ。
 その情報を仕入れるのに一番確実なところに足早に入っていった場所は、執務室でも最奥のところ。
 今はその部屋の主であるリオはいない。
 それを知っての行動だ。
「ダテちゃんっ!」
 入ったとたんに呼びかけると、呼ばれた相手が驚いたように顔を上げた。
「何?」
 今年入ったばかりの新しい上官は、今はリオの副官見習いだ。もともとの素質もあるのか、先の作戦でも確実に成果を上げていた。
 その服の下から右腕を覆っているギプスがのぞき、キイチは気づかれないようにそれから視線を外した。自分のせいで怪我をしたというのに、彼はその血まみれの腕で体を支えながら、笑って大丈夫?と聞いてきたのだ。
「ルリナ……って人を捜したいんだ」
「ルリナ?ああ、いいよ」
 たぶん優秀な人なのだろう。
 なのに決して高ぶらないダテをキイチは好いていた。
 ダテも友達のように接してくれる。
 だからこそ、こんな頼みをしてしまうのだ。
「また、ボブが脱走したんだ。今日はそのルリナって人のところ行くっていっていたから」
「また……?」
 ダテが苦笑混じりに答える。
「最近……多いよなあ……」
 ダテとなら気軽に話せるのに。
 かちゃかちゃと微かな音を立てて、操作していくダテの手元をじっと見詰める。
 なめらかな手の動きを見ていると、完全に事務オンリーの人間のように見えるが、それがひとたび機械に触れると目も鮮やかにそれを操作するのをキイチは知っている。
 あの手も……あんなふうに動いていた。
 だから幼い自分の目には、魔法の手、としか見えなかった。
「あれ、キイ、どうしたんです?」
 穏やかな笑みを浮かべた現在探索中のボブの片割れが入ってきて声をかけてきた。
「ビルの片割れを探しているんだって」
 ダテが首をすくめて見せる。
「……またですか?」
 顔かたちはそっくりのボブとビル。
 だが、持っている雰囲気が全く違う。だから、初対面でも簡単に見分けられるのだ。
 知的なビルに、行動的なボブ。
 性格も言葉使いも立ち居振る舞いも全く違う。
「ボブの下半身にも困ったものですね。いっそのこと貞操帯でも取り付けますか?」
 ため息混じりの割には露骨な台詞に、キイチもダテも言葉を失う。
「それとも去勢手術とか……そうすると少しはおとなしくなりませんかね?ほら、動物などで雄を去勢するととたんにおとなしくなるらしいですし」
「ま、まあ……そこまでする必要はないんじゃないかなあ……」
 どこか遠い目をして、ダテが呟くのをキイチもこくりと頷いた。
 あのボブがおとなしくなるところを、見たいとは思わない。
「そうですか……でしたら、誰か特定の相手を見つけるまで無理でしょうねえ」
 腕を組んで首をかしげるビルには同感できるが、特定の相手……となると難しい。
「あ、出たよ。たぶん、この人」
 ダテの言葉にキイチは画面を覗き込んだ。
 少しぽっちゃりとした可愛めの女性。
「ああ、ボブの好みですね。痩せぎすの女性より、こういうポッチャリ系の方が好きなようですから」
「さすがによく知っているね……。やっぱ双子だから?」
 ダテの言葉にビルがくすりと笑みを漏らした。
「まあ、つきあいは長いですからね、でも双子だからといって私の好みはボブとは違いますよ。私の好みは……」
 すりすりと寄っていくビルにダテの血の気がすうっとひいていった。
 また、ダテちゃんってば、墓穴を……。
 苦笑混じりのキイチの顔が、だが、次の瞬間、はたと強ばった。
 来る?
 ぞくりとする悪寒を背筋に感じ、慌てて画面から必要な情報を読みとる。
 覚えのある気配は、危険信号を奏でている。
 こんなところはさっさとおさらばっ!!
 と、ドアへと向かう、と同時だった。
 ドアが開ききるのも待てないとばかりに鬼の形相のリオが飛び込んできたのは。
「ビルッ!!何してやがるっ!」
 壁に貼り付かせたダテの唇に今まさに自分のものを重ねようとしていたビルに、リオがいきなり跳び蹴りを食らわした。
「ぐっ!」
 避けたものの掠ったのだろう、脇腹あたりを押さえてじりじりと後ずさるビルの脇で、ダテがへなへなと崩れ落ちた。
「リオ、何でここに?ファーレーンにいるはずじゃ?」
 助けて貰ったダテは、だがここにリオがいるという事実に呆気に取られている。
「ちょっと用事があんだよ。っていうか、ビル、てめー、さっさとファーレーンに戻りやがれっ!いつまで油売ってる気だっ!」
「ちっ……良いところだったんですけとね」
 ダテはリオのお気に入り。
 それを承知でちょっかいを出すビルは自業自得。が、このままここにいると巻き込まれそうだと、キイチは開いたままのドアから速攻で飛び出していった。

?
2

 ルリナの居住区に近い通路の一角にあった休憩所で、ずっとキイチは通路の様子を窺っていた。
 時折見知った顔が何事かと声をかけてくるのをなんとか適当にあしらいながら、ずっと待っていた。
 寝るところ……というと、そうそうない。
 所詮、軍艦だ。
 居住区の整った衛星や地上ならともかく、スペースの限られた場所には必要以上の居住スペースは設けられない。だったら、寝る場所は互いの部屋。
 あのボブが、女性とデートして寝ないことはない……ということは悔しいくらいに見せつけられてきた。
 知り合いの目に入りやすいボブの部屋より、彼女の部屋に行くのではないか?
 キイチの勘がその確率の高さを訴える。
 だから、もう2時間もずっとそこで待っていた。
 きっと彼らはここを通る。
 ただそれだけを信じて待ち続けた。

 男と女の会話が耳に入り、ぴくりと通路に視線を向ける。
 間違いない。
 画面で見たルリナと呼ばれる女性。そしてその隣には見間違うはずもない、上官の姿。
 仲睦まじげに腕などを絡めている姿を見たとたん、キイチはばっと駆けだしていた。
「ボブっ!」
 叫ぶ声は呼吸の乱れを引き起こし、たどり着いた先でぜいぜいと呼吸を荒らす。
「き、キイ……」
 まさかこんなところに……。
 ひきつった顔がその心理を如実に物語っていた。
「捕まえましたよ……戻りましょう」
 ぐっと掴んだ腕を引き寄せる。かがめた腰のせいで下から見上げるようになる。
「い、いい加減にしろっ!とっととお前だけ帰れっ!」
 振り払おうとする腕に必死で縋り付く。
「駄目ですっ!今日こそは帰ってもらいますっ」
 ボブが処理しなければならない仕事だってたまっているのだ。
 それに……。
 こんなところにいて欲しくないんだっ!
 胸の奥に渦を巻くどろどろとした感情が、キイチを突き動かす。
「おまっ!離せっ!」
 ばたばたと暴れるボブとキイチに、少なくない人々が集まってきた。
 何事かと窺う視線に、それまで唖然と立ちつくしていたルリナが大きく息を吐いた。
 そしてにこりとボブに笑いかける。
「ボブ?」
 その甘ったるい声音に、キイチは身震いをした。
 こんな声で……ボブを落としたのか?
 甘えるような声……、自分のような男ができない、女の……特権……。
「今日は無理そうだから……私、一人で帰るわ」
「え、ええっ!」
 そんな情けない声を出さないで欲しい。
 情けなくて……だがらこそ連れて帰りたくて掴む手に力が入る。
「だって、あなたの忠実な部下が迎えにきたのよ。どうしようもないじゃない」
「そんな。今日はあなたの素敵な声をずっと聞いていられると思ったのに……」
 誘うように甘ったるい声音と台詞。
 嫌だ……。
 キイチはぐっと唇を噛みしめていた。
 聞きたくない。
 この人が、他人にこんな口をきくなんて……聞きたくない。
「また今度……ね」
 くすりと笑って余裕然とその場を離れる姿を、ボブが名残惜しそうに見送る。
「帰りましょう」
 ああ、もうっ!
 いつまでも動かないボブの腕を無理矢理引っ張る。
「ふんっ!」
 いきなり振り払われた。
 彼女が去っていったことで力が抜けていた手から、その腕がするっとすり抜けてしまう。
 その横顔は明らかに怒りに満ちていて、キイチはそれ以上声をかけるのを躊躇ってしまった。
 そんなキイチを無視して、ボブは元来た道を戻っていく。
 その後をずっとついて歩いた。
 また『繁華街』に行くようなら止めなければならない。
 だが意外にも、ボブはまっすぐ自分の居住区に帰っていくようだった。
 それにはほっとする。
 部屋にさえいてくれて、連絡が取れる状態なら……それでもいい。

 自分の部屋に入るボブを見送り、心底ほっとする。
 ここにいてくれれば……。
「何してる」
 普段よりはるかに低い声が、投げつけられた。
 はっと俯いていた顔を上げると、睨み付けてくる視線にひくりと頬が引きつる。
「入れよっ」
 有無を言わせぬ口調に、気がつくと足を進めていた。
 どうして呼び入れられたのか判らない。
 入ってすぐ、呆然と立ちすくんでいると、とんと背中を押された、
 その力の強さにたたらを踏む。
 バランスの失った体が、泳ぐように数歩前進した。
「ボブ?」
 振り返ろうとしたとたん、覆い被さるようにしてボブに体を押しつけられた。
 ぐらりと背中から倒れ込む。
「っ!」
 慌てて取ろうとした受け身は、抱きつかれているせいで取ることができない。
 ばんっ
 思ったほどの衝撃はなかった。
 背に感じたショックは、柔らかなマットのそれで、わずかに視界の隅にシーツの白さが入る。
「お前……どうするつもりだ?」
 ぐっと全身でのしかかられては、さすがに思うように動けない。
 それよりもそのきつい視線に縛られる。
「な、何?」
 ひどくボブが怒っている。
 そんなにもじゃまされたことが怒りを呼び起こしたのだろうか?
「せっかくあそこまで誘っておいて、俺は十分その気だったんだぞ。それなのに……」
 その気……って……。
「そんなこと……自分に言われても……さぼるあなたが悪いんです……」
 俺は……上官を連れ戻しただけ……。
「そうだな……だが、俺の高ぶりはおさまりやしねーぞ。どうしてくれる」
 ぐいっ押しつけられた腰に、ひくりと全身が強ばった。
 それは確かに硬くて、形を変えていた。
「そ、そんなこと……」
 何が言いたいのか?
 見つめる先のボブは酔っているのか目元が赤い。
「代わりにお前にでも相手をしてもらおうか?」
 どくんっ!
 ひときわ高く心臓が鳴り響き、全身が硬直した。
 首筋に熱い息がかかる。
 驚いたことに、それに反応してしまう自分がいる。
「ボ、ボブ……冗談……」
 うわずった声が漏れる。
「本気だ……。お前……いい匂いがする。それにそういう顔、そそられるな。ダテちゃんも可愛いいけど……お前もその図体がなかったら結構可愛いし……なあ、あの時のダテちゃんみたいに手で達かせろよ」
「あの時……っ!」
 催淫剤に冒されて我慢できなくなっていたダテをリオが手で慰めたように、キイチにもそれをしろ、と言う。
「俺も……してやるから……」
 くすぐったく触れてくる舌に身を捩る。
 ずしりとのしかかった体を押し返そうとしているのに……なぜか力が入らなかった。
 まるで腕が他人のもののように力が入らない。
「んっ!」
 耳のすぐ下を舌先でつつかれて、ずくんと甘い痺れが走った。
 な、んで……。
 なんで、こんなことに……。
 逆らいたいのに……逆らえない。
 体が、包まれていることに喜んでいる。
 嫌だ……と意識は言っているのに……。
「うっ……」
 のど元に吸い付かれ思わずボブの腕に縋り付いた。
 嫌だ……止めて……。
 硬く瞑った目から、ぽたぽたと涙が流れ落ちた。
 こんなに嫌だと思っているのに……どうして体が動かない?
 少なくとも体力勝負では敵わないはずはない相手。
 なのに……。
 体が悦んでいる?
 慣れた手つきで上着をくつろげられ、開いた胸元にきつく吸い付かれる。
 それだけで体が悦んで反応する。
 この人は上官で、そして……もう過去のことだけど、大切なお兄ちゃんで……。
 ずっとずっと追ってきた。
 逢いたくてたまらなかった。
 逢って、忘れられていたけれど、それでも離れることもできなくて、いつしか覚えていなくてもいいかと思うくらいにはなっていた。
 この人の傍にいるのが嬉しい。
 楽しい。
 声をかけてもらうのが嬉しくて、だから、気分を害されるとは知っていても、頼まれては脱走するこの人を追いかけ回していた。
「くっ……」
 震える体が自分のものでないような気がしてならない。
 体が悦び、震えている……。
 もしかして……。
 俺はこうしたかった?
 この人と……?
 ふと、浮かんだ考えに体が硬直する。
 自分は、この人のことを……。
「キイ?」
 ふっとボブの動きが止まった。それにうっすらと目を開けると間近にボブの顔があった。
 のしかかっていた上半身を持ち上げ、窺うようキイを見つめている。
「何で逆らわない?」
 何で……?
 そんなこと判らない。
 自分が判らないっ!
 再びかたく目を瞑り、何度も首を振る。
 聞かないで欲しい。
 判らないんだ……何もかも。
「そういえば、俺が女の名前出すといっつも突っかかってきていたよな。ということは、お前……もしかして俺のこと……」
 好きなのか?
 その先の言葉がぱあっと頭に浮かんだ。
「違うっ!」
 思わず叫んでいた。
 きっとボブを睨み付け、ぐいっとその胸を押し返す。
 今度こそ体が自分のものになったように、力が入る。
「あんたなんか……誰がっ!」
 押しのけた隙間を使って、ボブを蹴り上げた。
「ぐふっ!」
 ベッド下まで転げ落ち、腹を抱えて唸るボブを冷たく見下ろす。
「あんたなんか……嫌いだ……最低だっ!」
 言葉一つ吐き出すのがひどく苦しい。
 ずっと慕っていた。
 魔法の手のお兄ちゃんとして。
 頭の中を、好きだという感情がぐるぐると駆けめぐる。
 だが、その好きという意味が、自分が思っている以上に生々しいものだと気づいてしまった。
 頭が混乱する。
 こんなこと……。
「キイ……」
 苦しそうに喘ぐボブに、キイチはいてもたってもいられなくって、思わず叫んでいた。
「あんたなんか……魔法の手のお兄ちゃんじゃない……っ」
 言ったとたんにぼろぼろと涙が溢れてきた。
 呆然と見上げてくるボブの視線が堪えられない。
 気がつくと……キイチは部屋を飛び出していた。
 たぶん自分はボブのことが、そういう感情で好きなんだ。
 だからだ……。
 だから……動けなかった。
 昨日のことを思い出し、キイチはベッドの上で自嘲めいた笑みを浮かべた。
 あんなふうに迫られて自分は初めて気がついたのだ。
 体の方が意識より早く自分の心に気がついていたという事実に笑ってしまう。
 それも……そうされたいと願うほどの”好き”。
 だが、だから……彼が女性と逢瀬を楽しむことに不快感しかなかったのだ。
 ずっと追いかけていた人は、自分のことなどすっかり忘れていたというのに。
 あの時だって彼は酔っていたからあんな暴挙に出ただけだ。
 決して、彼が自分のことを好きになったわけではない。
「よっ」
 勢いをつけてベッドから飛び降りる。
 いい加減こんなところでいつまでも愚痴っていても仕方がない。
 警備担当のキイチにそうそう仕事はないが、だからこそ日々の鍛錬は重要な意味を持つ。
 たとえ、非番の日であっても、最低限の鍛錬は欠かせない。
 いつものように簡単な朝食を取ると、制服に身を包んで部屋を出た。
 と……。
「ボブ……」
 開けたとたんに腕を捕まれた。
 その気配のなさに対処しようもなかったのだが、それでもこうも簡単に腕を取られたことに驚きを隠せない。しかも、そこにいたボブはひどく真剣な顔をしている。
「何です?」
 問いかける声がうわずっていることに気がつき、視線を逸らす。
 落ち着け……。
 心中でゆっくりと数を数える。
 一、二、三……
「これから訓練か?」
 戸口のところで半ばもたれるようにしているボブは、こくりと頷くキイチを離そうとはしない。
「休みだというのに熱心だな、相変わらず」
 揶揄する言葉に、かろうじて笑って返した。
「上官がサボリ魔ですから、自分もそうなってはいけないと思いまして」
「言うな」
 ボブが苦笑を浮かべる。
「それで……何か用ですか?」
 よし、いつものように会話ができる。
 自覚した意識はずっと奥底に沈めるしかないのだから。
 だったら、いつも通り平静を保つしかない。
「それより部屋に入れろ。こんなところで立ち話もなんだろう?」
 言われてみれば、部屋を出たところで戸口も全開。
 通り過ぎる人が何事かと視線を向ける。
 だいたいここはキイチのように階級の低い隊員達の居住スペースだ。尉官であるボブがくれば目立つ。
「どうぞ」
 断る理由もないので、中に招き入れた。
 微かな音を立てて閉まる。中は寝るだけのための部屋、と言っていいほど狭いスペースだ。
「同室の奴は?」
 空っぽのベッドを覗き込むボブに、「夜勤」と短く答える。
 ボブがここに来たのは……二度目だ。
 キイチが持っている音楽ディスクを借りたいと言うのでつれてきた。持っていくと言ったのに、わざわざ訪ねてきた。
 それ以来の訪問。
「そうだ……キイにな、辞令がおりることになったんだ。まだ内示段階だが、決定だから……知らせに来た」
「辞令?」
 何だろう?
 その単語に背筋が伸びる。
 知らずに走る緊張に、ボブが微かに笑いを零す。
「そんなに緊張することはないさ。この前の事件に功績あり、と判断されて……曹長にランクアップだ」
「曹長……?」
 思わず呆然としてしまう。
 やっと先日一等兵になったばかり。
 曹長というと二階級いや……いきなり三階級?
「ああ、お前まだ一等兵だったんだな。それを聞くまで忘れていたよ」
 ボブの手がキイチの胸につけられた階級章に触れる。
「いつも堂々と俺に進言してくれるんでな。同じ尉官のように感じていたよ。まあ、リオの元にいると階級なんて関係ないけどな」
 階級章をその指が何度もなぞる。
 時折強く触れられるそれにキイチはふっと体を離した。
 ぞわりと総毛立つような感触に襲われたからだ。
 不快だとはおもわなかった……なのに。
 ふっと離れたそれに、ボブは所在なげに手を握りしめおろす。
 その苦渋に満ちた表情に、キイチも唇を噛みしめた。
 こんなことで怒る人ではないと思っていた。が、どうやら怒らしてしまったような気がする。
「すみません」
 ぽつりと呟くそれに、ボブが首を振った。
「いや、いいんだ」
 視線を逸らし、部屋の中を窺うように見渡している。
 その様子がいつものボブと違って、ひどく不自然に見える。
 だいたい、なぜわざわざここに来たのだろう?
 当然の疑問だ。
 先ほどのことが用件なら、わざわざ訪ねなくても呼び寄せればいい。
 ボブはキイチの直属の上官なのだから。
「これは……オルゴールか?」
 ベッドの枕元に飾っていたそれをボブが手に取った。
 確か前に見せたときも説明したはず。
 だが、そのことも思い出せないのだろう。
 所詮、彼にとってそれはその程度のものでしかない。
「はい……でも、壊れているので動きません」
 想い出の……壊れたオルゴール。
「ふうん……直せないのか?」
 ちらりとよこす視線に苦笑を浮かべて首を振った。
「はい。自分には、とても……」
 ヘーパイトスの人間とはいえ、その手の技能はいっさい持っていない。
 それすらもこの人は忘れているのだろうか?
 眉をひそめたキイチに、ボブは微かにため息をつく。
「違う……他の奴は?」
 首を振っていた。
 というか……なぜか、誰にも頼まなかったのだ。
 同室の奴にすら……。
「頼んでいませんから」
 首を振るだけでは、答えにならないと気づいて言葉を添える。
「なぜ?」
「……なんとなく……」
 歯切れの悪いそれに、ボブは何も言わなかった。
 ただ、じっと手に乗せたそれを見ている。
 その姿を見ていると、最後に修理してくれたときのことを思い出す。
 自分と違って、このボブの横顔はまえより精悍さは増したものの、そう変わりはない。その顔が、前と同じように、それを見ている。
 そのボブがふっと動いた。
 キイチのベッドに腰を下ろし、腰のベルトにつけていた万能工具セットを引っ張り出す。
 慣れた手つきで下部の機械部を開け、中を覗き込むと、ニードル状の工具で中をつつき始めた。
 それを見たとたん、キイチの脳裏に昔の光景がオーバーラップした。
 その手の動きは、忘れられない。
 魔法の手。
 子供ながらそう評したことは、今でも正しかったと思える。
 ほんの数刻。
 キイチの目から見れば何がどうなったのか判らない。
 なのに、それは動き始めたのだ。
 七色の光が下から照らし、ゆっくりと羽ばたく鳳凰と、美しく奏でる音楽。
「う、ごいた……」
 呆然と呟くキイチに、ボブがにやりと笑う。
「当たり前だ、俺を誰だと思っている」
 その自信満々な台詞も当時のまま。
 渡された手のひらの上で、鳳凰がゆっくりと羽ばたく。
「もう……動かないと思ってた……」
 彼がもう忘れていると知ったときから、ずっとそう思っていた。
「ば?か、壊れたらすぐ持ってこいって言っておいたろ。何を遠慮してんだよ」
 立ち上がったボブがぱふっとキイチの頭をはたく。
 だが、キイチは動けなかった。
 その言葉までもが脳裏にオーバーラップする。
 あの時も、彼はそう言っていた。
 ──壊れたらすぐもってこいよ。
「ったく……すっかり忘れていた俺も俺だが……黙っているお前も意地が悪くないか?まあ、あの泣き虫な坊やがこんなにも成長しているとは夢にも思わなかったし」
「……!」
 手の上で鳴り響く音がゆっくりと間延びしていく。
 昔ながらのねじ巻き式。
 夢の終わりの時が近づいている。
「だいたい、あのときお前いくつだったんだ?どう見ても1年生くらいにしか見えなかったし……俺、思い出してからしばらく混乱したぞ。どう考えても計算が合わねえ、って」
「あれは10歳でした。ボブとは8歳違いですから」
 その言葉にむうっと目を細めるボブは、まだ要領を得ないようだ。
 だが、要領を得ないのはキイチも一緒だ。
「いつ、思い出したんです?」
 少なくともこの前これを見せたときには何の反応もなかった。
「昨日だ」
「昨日?」
 その短い単語では訳がわからず、窺うように問い返す。
「俺がお前を押し倒した日だ。俺の腕の中で、真っ赤になっていたあの後だよ」
 にやりと意地悪げに教えてくれたその台詞は赤面もの。
「ボ、ボブ……」
 思わず一歩後ずさったとたん、ぐっと捕まれた襟首を引っ張られた。ぐらついた拍子にぱふっとその腕に抱きしめられる。
「最初は冗談だったんだけどさ、なんかお前の顔見てたら可愛くってさ……。そのうち、どこか前にもこんなこと在ったなあ……って思い始めた。思い出そうとしても思い出せない記憶にいらいらしてさ、つい冗談半分に始めちまったら、なんかもう、やり始めたら、止まらなくなって……。もしお前が逃げなかったら、最後までやっていたぞ。お前って、可愛い顔してんのに、すっげー色っぽいのな。こんなに馬鹿でかく成長しやがって。でも泣き顔は昔の可愛いまんまだ。」
 ボブの体がわずかに震えている。
 笑っているのだと気づいて、かああっと頬を赤らめながら押しのけた。
 前と違ってボブは簡単にその腕を放してくれた。
 だが、キイチの方は前よりいっそううろたえてしまう。
 熱い……。
 どきどきと高鳴る心臓は、激しく血を吹き出している。
 今、指先でも怪我したら、血が噴き出しそうなくらいに、激しく流れていると自覚できる。
「からかわないでください」
 だいたい、そのシチュエーションでどうやったら思い出せる?
「からかっちゃいないさ。確か、まだ小さいお前を慰めるために、こうやって抱きしめたってこともあったっけ……それにまあ、お前が去り際に言ってくれた”魔法の手”って奴は……もうキーワードだな。あの記憶の。忘れるわけがないだろ。幼いお前が俺につけたあだ名だ。俺は、結構気に入ってたんだからな」
 そういえば……混乱した頭だったからはっきりと記憶はないけれど……そんなことを言ったような気がする。
「それで思い出した。前に、ここでそれを見ていたから、思い出すと早かった」
「だけど」
 だが、あの後執務室で逢ったボブは顔を合わせようとしなかった。
「……お前に、嫌いだって言われたのがこれでも結構ショックだったんだ。キイは俺的には、その上官を上官とも思わない対応が結構気に入りだったし。まして、あの可愛がっていたあの子にそういうことを仕掛けてしまった自分が信じられなかったってのもあってな……俺って馬鹿だ、何やってんだ……って、結構な自己嫌悪に陥っていて……だから、逢わす顔がなかった。でもまあ……いつまでもこうしているわけにはいかないって思って、辞令にかこつけてやってきたんだ」
 そうやって正直に告白するのも恥ずかしいのか、その視線は天井を向き、時たま鼻の頭をぽりぽりと掻いている。
「別に……気にしていませんよ。それに嫌いって言ったのも、あの場の雰囲気でのことで……本気に取らないでください」
 ……それに、あのときは……流されてもいいと思ったのは自分の方もなのだから。
「そっか……よかった。俺、ビル以外は他に兄弟がいなかったから、あのときのお前って可愛い弟みたいに思っていたんだよな。だから、こんな風にまた逢えるなんて、すっごい嬉しいよな」
 弟……。
 ずきりと胸に痛みが走った。
「だからもっと早く教えてくれれば良かったのにな。ほんま、俺の忘れっぽさには自分でも呆れてんだからさ」
 なでなでと頭をなでられ、キイチは内心の動揺を隠して苦笑した。
「いつ気づくかと……最初のうちは思っていたのですが……諦めていたんです。それだけの存在だったのかなあ……と」
 でも、弟?
 いや、言われてみればそうだろう。
 自分だって、お兄ちゃんと呼んでいた。
 ずっとその記憶を持って追いかけてきた自分の中で、ボブの存在はお兄ちゃんから大きく変化はしていたけれど、忘れていたボブにとっては、思い出したら、キイチは可愛い弟でしかないのだ。
 それでも思い出してくれただけでも良しとしよう。
「また壊れたら、今度はすぐもってこいよ。魔法の手のお兄ちゃんは健在なんだからな」
 にっこりと笑うボブに、キイチも笑って返した。
 またあの時のように、あんな優しい時を過ごせるのだろうか?
 それは嬉しいのだけれど……。
 手放しで喜べない自分が存在することに気づいていた。
 それをボブに感づかれてはならない。
 キイチはその感情を心の奥底に押し隠そうとしていた。
 せっかく取り戻した関係を、その感情で壊したくはない。
 それは絶対に言えない言葉だ。
 弟としてではなく……。
「キイ、すぐ物を壊していたお前がヘーパイトスにくるなんて思いもしなかったから……ほんと、もう逢えるなんて思わなかった」
 懐かしそうなボブの笑顔が、胸に新たな傷を作るなどと、つい先日には想像ができなかった。
 しようがない、ことだ……。
 好きだ、なんて言葉。
 もうずっとこの胸の中に納めておくべき言葉なんだ。
 キイチはその思いを振り切るようにして、笑っていた。

 

「やっぱ、こういうのって……どうしたらいいんだろ……」
 呆然とするダテの前でキイは困ったように笑う。
 長い告白は、キイの苦痛が残さずダテに伝わってきてしまった。だからこそ、迂闊な言葉が言えない。
「思い出してくれればいいって思っていたのに、思い出したら、それ以上を望んでいるんだよね。でもボブにとって、僕は弟なんだよ。結局、目の前で女性のところに行くのは止まんないし……も、どうしようかなあ……」
 先ほどまでダテが寝ていたベッドに今度はキイが怠そうに四肢を投げ出している。
 はっきり言って自分のことですら手一杯のダテにとって、それに答える術は見つからない。
「あ……いいよ、気にしなくて……。誰かに聞いて欲しかっただけ」
 俯いた顔をこちらに向けて笑うキイの頭をぽんぽんと叩く。
 それだけが、ダテにできることだった。

【了】