?接点? – 2002-06-21 – 【リオとダテのお話】

 第11司令部ヘーパイトスの工作司令艦に配属されたトシマサ・ダテ少尉の話。ダテの新しい上官は、超絶美麗&超我が儘な男であった。
エロ無し,あまあま,ストレス,トラウマ,出会い編?
? 

1
「トシマサ・ダテ少尉、本日付けでヘーパイトス・デーミウールゴス(職人の神) カベイロス工作司令艦の司令室勤務に任命する」
 その指令書を受け取ったとき、ダテは特に何の感慨も抱けなかった。
 別にどこに所属になってもいい。
 人生に特に楽しみもなかった。
 何故、ここまで年寄りじみた考えに陥ってしまったのか自分でも判らない。ただ、今まで出来ることをやっていたら、ここに辿り着いてしまった。苦労知らずの人生が、そういう自分を作り出したのかも知れない……と分析したこともあったが……それも、どうでもいいことだ。
 これでもまだ25歳。
 まだまだ先は長いのだ。何の変哲もない人生を歩めたらそれでいいと思う。だが、配属先の希望を提出するときも何も考えていなかった。
 そこそこの成績で士官学校を出ることができたから、まあ希望通りの配属先に行けるだろうとは思っていたが、その希望先もコンピューターで適当に決めた。
 ダテが所属するヘーパイトス・デーミウールゴス(職人の神)は、独自の艦隊を持たない。
 それは、戦艦等の武器・防御施設の設計・改造・管理その他諸々、全ての艦隊・オリンポス上の全ての機械・装置類を造り維持すること、それら全てがヘーパイトス・デーミウールゴス(職人の神)の役目だから、全ての場所にヘーパイトスの隊員がいるのは当然であった。
 今回、ダテが配属されたカベイロス工作司令艦は配下に100隻程度の工作艦を有し、オリンポス第二艦隊である<プロノイア・アテナ(先見の女神)>に派遣されている。
 まあ、私みたいな若造が司令室に配属になったと言っても、どうせ最初はお茶くみみたいなものだ。上官達にへいこらして、適当にやっていければいい。
 ダテは愚かにもそう考えていた。
 だが。
 配属された司令室への初出頭の日。
 ダテはその考えが甘かったことを知らされた。

「君が、新人クンかい?」
「はい……」
 何と言うことだろう。
 ダテは案内された上官がいるという部屋にいた目前の人物を見た途端、固まってしまった。
 カベイロス工作艦の直属の上官は……見事なまでの美男子だった。それに思った以上に若い。士官学校ですらスキップして卒業した強者と聞いてはいたが……まだ30代前半。それで小さいとはいえ工作艦隊の司令室詰めか……。
 さらさらの茶色の髪は無造作に後ろで一つに括られている。整った眉の下の瞳は、同じく茶色なのだが、ひどく強い光を持っている。すらりとした鼻筋はちょうどいい高さで、唇は化粧もしていないのに赤い。
 その口から、耳に心地よい声が漏れる。
 自分はまあそこそこに見られる顔だとは思っていたが、そんなものこの人の前では掠れ飛んでしまった。
 だが、その口調が揶揄しているように思えたのは気のせいだろうか?
「トシマサ・ダテ。階級は少尉。25歳。黒髪ってのは昨今では珍しいな。瞳は焦げ茶。専攻は、熱伝導システム。士官学校を次席卒業。在籍中は、動物型アンドロイドの動力部門を担当して2回優勝。性格、いたって穏和。上昇志向希薄……」
 コンピューターに表示されているのだろうが、何も目前に本人がいるというのに、声を上げて読まなくては良いのではないかと思う。
 しかし、上昇志向希薄、とは……そんなことまで記載されているのか。
 ったく……。
 微かに眉間にしわが寄ってしまった。
「ふーん。いたって穏和っていうのはもしかして間違いか?」
 目前の人物が自分を見ながらほくそ笑んだのに気付き、内心舌打ちをする。
慌てて、表情を取り繕った。
 しかし、僅かな表情の変化を目敏く見つけるとは、ただのぼんくらエリートとは違いそうだ。もっともこのオリンポスで実力のない者が上につける訳ではないのだから当然と言えば当然か……。
「私が、君の直属の上官になる。このカベイロス工作艦で、伝達部門を指揮している、リオ・カケイだ。階級は大佐。年は32。専攻は、細神経伝達システムだ。よろしくな」 
 差し出された手を呆然と見つめる。
 これは、どうすれば良いんだろう。
 本来敬礼すべきなのだが、向こうから差し出された手を邪険に扱う事もできない。
 仕方ない……。
 私は軽く敬礼してから、その手を握った。
 その動作に、カケイ大佐は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「くそ真面目な奴だな」
「申し訳ありません……」
 他に何と答えられよう。
 だが、この返答はカケイ大佐にはことの他受けたようで、いきなり大爆笑されてしまった。
 随分と楽しそうな様子に、何となく不愉快な気持ちは隠せない。
 むっとしたまま突っ立っていると、大佐は本当に楽しそうに命令した。その言葉使いまでが先ほどまでのモノとはがらりと変わっている。
「気に入った。お前、オレ付きにしてやる。今日から早速、この部屋がお前の仕事場だ」
「え?」
 その言葉を聞いた途端、あまりの事にダテの頭の中が真っ白になった。
 数秒呆然と目前の大佐を見つめていたらしい。
「何を呆けている」
 不機嫌そうな声音に慌てて意識を覚醒させた。マジでその時は、頭が飛んでいたのだ。
「も、申し訳ありません。しかし、私のようなものが大佐付きとは?」
 本来士官学校出たての私のような者は、目の前にいる上官付きの方のさらに下に付くことになる。だいたい彼のような身分の所では、すでにもっと優秀な人間がついている筈だ。
 だが、ダテの問いにカケイ大佐はふんと鼻を鳴らすと、その襟元をぐいと掴んだ。身長は大佐の方が10cmばかり高いので、上から覗き込まれるようになった。
 綺麗な顔が間近に迫り、それだけでダテの心臓がどきりと鳴った。
 男に対してそんなことになるとは思わなかったが、急遽内心の動揺を必死で押さえる。
 しかし、その赤い唇から吐き出された台詞は、ダテの顔色を変えさせるのに十分なものだった。
「オレが気に入った。お前はオレのモノだ。それに誰も文句は言わせない。ここではオレの命令で全てが動く。お前とて例外ではない。それを覚えておくことだ」
 その強い瞳がダテを射抜く。
「……はい」
 この人には逆らえない。
 ただ肯定することしかできなかった。
 それははなはだ不本意ではあったけれど……他に選択肢は無かったのだ。
 ダテは、自分の直属の上官のことを調べてこなかったことを後悔していた。どうもこの人は、今まで接触していたどの上官とも違っているようだ。
「ところで、トシマサ・ダテか……呼びにくいな。お前、友達には何と呼ばれているんだ?」
「友人は、トシマサです。ダテと読んで下されば良いですが」
「何だ、平凡だな。それに名字で呼ぶのはすかん」
 すかんって言われても……普通名字で呼ばないか……。
 考え込んでいるこの見目麗しい上官殿は、その顎に指をかけひとしきり考えていたが、ぽんと手を叩いた。
「トマにしよう。その方が面白い!」
「トマ……」
 ダテは再び呆然とすることになった。
 トマ…トマ…思わず間に「ん」の字を想像してしまった。なんてゴロの悪い名前……嫌だ、これは……。
「すみませんが、それはちょっと……」
 おずおずと進言すると明らかに大佐は不愉快そうに顔を歪めた。その顔も何故か、格好良い。
 いや、それどころではない。
 ダテは慌てて、大佐に縋った。
「申し訳ありませんが、できればダテとお呼び下さい」
「何だ、オレがつけた名前が気に入らないのか?」
 うわっ、滅茶苦茶不機嫌になったのがありありと判る。この人は、内心の動きをはっきりと表に出す。
「申し訳ありません……」
 私はただ頭を下げるしかなかった。
「ちっ、しようがないな……」
 その言葉に、私はほっとした。諦めてくれたんだ、と思った。
 が……。
「じゃあ、ダテちゃんと呼ぶ事にする」
「ダテ、ちゃん……て」
 一難去ってまた一難。
「面白いだろう。これで決定な、ダテちゃん」
 面白いって……この人の頭の中にはそれしかないのだろうか……。
 よりによって”ちゃん”付け?
 それって子供を呼ぶときにつける言葉じゃないのか?
 ダテは恨みがましくカケイ大佐を見つめていた。
「どうした、まだ文句があるのか?それじゃあ、ダテちゃんをもじって、ダッテちゃん、なんてどうだ?」
 ダテは思わず深くなってしまった眉間の皺を指で押さえた。
 これ以上逆らうととんでもないことになりそうだ。崩壊寸前の理性が私に警告してきた。
「ダテちゃん、でいいです……」
「よし、決まり。よろしくな、ダテちゃん」
 にこにことご機嫌そうなカケイ大佐に、内心でため息を付くことを止めることはできなかった。
 そんなダテの心境を知ってか知らずか、カケイ大佐はしばらくコンピューターを操作していた。
 退出許可が出ていないので、どうして良いか判らず、そこにぼーっと立っていた。
 と、いきなり大佐が顔を上げた。
「ああ、そうだ。どうせ暇だし、艦内を案内してやる」
 その言葉に、ダテは本気で断る方便を探した。
 どうもこの人の言動は、私の知っている常識を越えていた。
 できれば必要のない時は、お近づきになりたくないとばかり、ダテは後ずさった。
 だが、部屋の外に脱出する前に大佐の手がダテの腕を掴む。
「逃がさない!」
 にやりと嗤うその表情は、獲物を見つけた大型肉食獣の笑み。
 ダテの背筋にぞくりと寒気が走った。
「離してください!」
 恐怖に駆られた躰が無意識の内に動いた。掴まれた腕をぐいっと後方に引っ張る。と、意外にも大佐はぐらりとダテの方によろけてきた。
 バランスを失った躰をとっさに抱える。
 だが、はっきり言ってダテより体格の良い大佐を抱えることは、無理というもので……。
「うわっ」
「あっ」
 二人の悲鳴が、室内に響く。
 大佐を抱えたまま、後ろに転倒したダテはしたたかに後頭部を打ち付け、文字通り目から火花が出た。
「っ痛……」
 床に転がったまま後頭部押さえて唸っているダテに、大佐はその上に乗っかったまま言い放つ。
「ドジ!」
「すみません……」
 痛みで思わず浮かんだ涙を拭いながら謝りの言葉を口にして……ダテはふっと口を噤んだ。
 何で私が謝らないといけないんだ?
 この場合、謝るのは大佐の方じゃないのか?
 それに……いつまで私の上にいるんだ、この人は。
 じろりと上にいる人を睨むと、大佐はくすりと笑みを漏らした。
「いい格好だな。襲いたくなりそうだ」
「え?」
 呆然と目前の上官を見上げる。大佐の手がダテの両肩を押さえつけていた。
 この人は何を言っているんだ?
「オレに逆らうと、こうなる……」
 大佐の顔が目前に迫った。
 近づく顔をただ見つめているダテ。
 一体、何がどうなって、どういうことになっているんだ?
 ダテの見開かれた目の先に見目麗しい上官の顔がある。
「あ、あの……」
 発しようとした言葉が大佐の口の中に飲みこまれた。唇に感じた柔らかい感触を呆然と受け取る。
 ダテが身動きできずにいると、大佐の喉元がくっと鳴った。
 それにはっと我に帰る。
 慌てて突っ張った手で、カケイ大佐の躰を押しのけた。
「止めてください!何するんですかっ!」
 ぐいっと押しのけると、大佐はくくっと嗤いながら、それでも立ち上がった。ダテは後ろ手をついて上半身を起こし、ぎろっとカケイ大佐を睨む。
「私は男です!」
「判ってるわ、そんなこと。どうみたって男にしかみえん」
「なら何で!」
 ダテの頭の中はパニクっていて、冷静な対応が出来なかった。
 普段なら絶対しないであろう対応をしているのにも気付かない。
「言ったろう、オレに逆らうからだ。逆らう奴には罰が必要だ」
「これが罰ですって!」
 かっと頭に血が昇った。
「そうだよ。今後オレに逆らったら、こうやって、どこででもキスしてやる。それが嫌なら、逆らわないことだ……」
 な、何だ……この人は……。
「いつまでそうやっているつもりだ。それともオレのキスで腰が抜けたか?」
 不機嫌なカケイ大佐に、内心理不尽なものを感じたが、それでもダテは立ち上がった。
 腰が抜けたなんて思われるのも癪だった。
「行くぞ!」
「……はい」
 逆らうわけにはいかない。男にキスされて喜ぶ趣味はなかった。
 この人は我が儘だから、それに「はいはい」と返事をすればいいんだ……。
 ダテは内心で大きなため息を漏らしながら、カケイ大佐の後ろに着いていった。

「おい、こいつ、オレのもんな。手続き頼むわ」
 カケイ大佐が、部屋の外でたむろしていた数人の部下達に声をかける。
 ダテよりはるかに年上で、上官の人たちの好奇の目に曝されて、思わず顔が紅潮するのを止められない。
 ううっ、この人は!
 だが、こういう事は慣れっこなのか、皆平然としている。それどころか、どこか憐憫の隠った視線がダテに向けられている。
「大佐あ、どちらへ?」
 ダテを大佐の元に案内してくれたグリームベル中佐の言葉に、
「こいつに艦内を案内するからな、帰ってくるまでにこいつの席用意しとけっ!」
 と、叫び返す。
「あ、あの、待ってください!」
「さっさと歩け」
 逆に怒られた。
 何を言っても怒られるんだ、と口を開く気力も無くなり、ただ後ろを着いて歩く。
 それに逆らってキスされるのも嫌だ。
 配属初日、ダテは本気で転属願いを出したくなった。
2
 用事をこなして部屋に戻ると、幸いにしてダテの傍若無人な上官殿はまだ会議に出ていて留守だった。
 ほおっと一息をつく。
 ここにきてから一ヶ月。息つく暇も無かった。暇さえあれば、リオに連れ回された。
 リオ、この呼び名も厄介だった。理不尽極まりないことに「カケイ大佐」と呼ぶと、返って怒られるのだ。二人きりのと時はリオと呼べ、と強要され、嫌だと言い張ったが……結局キスされそうになって、陥落した。
 しかし、二人きりでリオと呼んでいると、他人がいる何かの時にまで「リオ」と呼びそうになる。
 何度と無く出かかるその言葉を、何度飲みこんだことか。
 お陰で、言いたいことまで一緒に飲みこんでしまう癖までついてしまった。 ダテにしてみれば、常に大勢で仕事をしている方が楽なのだが、みんなが集まると、リオはさっさとに逃げようとする。それを捕まえて、スケジュール通りに動いてもらうよう、し向けるのがダテに与えられた最初で最大の任務だった。
 今日の会議だってすんでの所で逃げられるところだった。
 だが、その会議ももうすぐ終わる。
 気にくわない会議であれば、部屋に戻れば戻ったでその苛立ちをダテにぶつける。それでなくても馴れない仕事とリオの相手に、ダテはいい加減グロッキー状態だった。
「おーいダテちゃん、生きているか?」
「グリームベル中佐?」
 開け広げられたままの扉から、リオの事務副官であるシェンダー・グリームベル中佐が柔らかな笑みを浮かべながら入ってきた。リオより10歳は年上というから40代半ばの彼は、このチームを実質的に取り仕切っている。
 その姿にダテは虚ろな視線を向ける。
「疲労が溜まってるな。明日は休みだろ、しっかり休養を取るんだな。それで鋭気を養ってリオズ・カーニバルの相手をして貰わないと」
 その言葉にダテは、笑おうとして失敗した。
 口元にだけひきつった笑みが張りつく。 
 「リオズ・カーニバル」イコール 「リオ・カケイ大佐」である。これは、人々が地球という星でしか生活できなかった頃からある祭りの一つらしいのだが、その喧噪さがそっくりなのと名前をもじってからつけられたらしい。だがリオはこの呼び名が気に入らないらしく、間違っても耳に入れてはならないと最初にグリームベル中佐に念押しされていた。
「この一ヶ月、彼に邪魔されずに済んでいるんで、仕事が進む進む……ダテちゃんのお陰ってみんな喜んでいるんだよ」
 人当たりの良いこの中佐はダテの相談相手にもなってくれるような人だが、その言葉にはさすがにダテもムッとした。
「私は生け贄ですか?」
 ダテの言葉に、グリームベル中佐はくすりと笑う。
「そうかも知れないね。新人クンが来ると聞いて妙に張り切っている我らが上官殿に、若干の不安を感じていたんだが……あそこまで君のことを気に入るとは思わなかったよ。彼はああ見えても、普通の人間ではとても対抗できないだろう。だから、生け贄でも何でもいいから、とにかく彼の気に入る人が来てくれることだけを私たちは願っていたのだから」
 しみじみと言われると怒る気にもなれない。
 コンピューターがはじき出した希望配属先のリストから何も調べもせずにここを選んでしまったのは自分自身なのだから。
「いいんです。生け贄でも人身御供でも……。それでみなさんが仕事ができて助かるというのであれば……」
「まあ、ここを離れたいと思うんなら、転属願いを出して気長に待つか……。だけど、彼にばれたら速攻でもみ消されるだろうね、今の状況なら。そうじゃなかったら、彼に逆らって逆らって逆らいまくるってのもあるが……まあ、そこに至るまでには相当の覚悟が必要だろうけどね」
 苦笑が張りついた顔で言われても、説得力はない。まして、そんな事できようがないのをグリームベル中佐は何よりも知っている。相応の覚悟というのは、半端な覚悟ではないのだ。
 リオは気にいらなければ上官であろうが、部下であうが、胸に杭を突き刺してぐりぐりと捻るような嫌みと言葉の暴力で相手をこてんぱんにしてしまう。
 司令室仲間に言わせてみれば、気に入られたダテのような存在の方が珍しいらしい。
「だけどダテちゃんは、それでも随分と彼に助けて貰っているだろう」
 その言葉にダテも頷くしかない。
 ダテにとって配属されたここでの仕事は、はっきり言って完全に専門外だったのだ。
 本来新人のダテは、まずもっと下っ端の仕事から入っていく。そのために配属されたこの工作艦隊のチームで先輩達の仕事っぷりを見、経験を積み、さらに上へ上がっていく。だがその経験を積むためのここで、いきなり副官レベルの仕事を任せられたのだ。
 右も左も判らないダテを、懇切丁寧に指導したのが、実はリオだった。
 もちろん、その百倍にもなる嫌みと暴言付きである。
「それはまあ、そうかも知れませんけど……何やっても、馬鹿だの、小学校からやり直せ、この頭には糠味噌でも詰まってんのか……と言われ続けたら、感謝する気も起きません……」
「それはまあ……」
 グリームベル中佐も実態を知っているので、曖昧な笑みを浮かべるしかできない。その額には冷や汗が流れていた。
 まして、あれからは未遂ではあるが、何度キスされそうになったか判らない。本当に些細な事で、「気に入らない」と言ってキスしようとする。
 そして、リオはこのキスの洗礼はダテにしか行わない。
 それについては、確認のしようがなかったのだが、だからと言って相談しようもなく……ダテは必要以上の緊張を自らに強いるしかなかった。
 ここを出ていきたいとは初日から思っているが、それをされるためには何回キスされなきゃいけないだろう。
 それはそれで嫌だ……。
「まあ、本音の所は他に移りたいですけど……ね。だけどそう簡単には移れませんから……諦めています」
 ダテの顔に諦めと自虐的な思いが入り交じった嗤いが口の端に張りついていた。
「で、今日のカケイ大佐のスケジュールは?」
 グリームベル中佐は軽く息を吐くと、ここに来た理由を思い出してダテに尋ねる。
「会議は12時までです。その後は、特に入っていません」
「相変わらず、気楽なスケジュール……じゃあ、ここの天下も昼までか」
 くすりと笑われる。
 ダテは引きつった笑みを浮かべた。
 そう、もうすぐあの人が戻ってくる。この部屋の主。あの傍若無人なリオズ・カーニバル。
 はあっとため息が漏れる。途端に。
「おーい、帰ったぞ!」
 普通に開けたら音がしないはずのドアを音を立てて開けて入ってくるのは部屋の主。
「お帰りなさい」
「お帰りなさい、それではな、ダテちゃん」
「行かれるんですか?」
 入れ替わりに出ていくグリームベル中佐に縋るような視線を投げかけたが、くつくつと笑みを浮かべたまま彼は出ていってしまった。
「何だ、ダテちゃんのお気に入りはベルなのか?」
 何故かリオがムッとしたように言う。
 ベルとはグリームベル中佐の呼び名ではあるのだが、そう読んでいるのはカケイだけだ。
「グリームベル中佐は、カケイ大佐の予定を聞きに来られただけです」
 ダテは努めて冷静に返答した。
 だが、リオはその言葉を聞いてますます眉間の皺を深くした。
「二人の時はリオと呼べって言っているだろう」
 しまった!
 ダテは顔を引きつらせた。その背中に回ったリオが、ずしりと体重をかけてくる。
 ダテは強ばった躰でその重みに堪えていた。
「何回言ったら、この頭は覚えるんだ?一応次席卒業なんだろ?まさか、酒粕状態じゃねえのか?」
「すみません……」
 逆らうと余計酷くなるから、素直に謝る。
 一ヶ月、この人の下で学んだ成果だ。しかし、こんな成果は嬉しくはない。
「心にも無いことを」
 しかし、今日は簡単には許してくれそうになかった。肩から首にその両腕が回ってくる。
 耳元でリオが囁く。
「俺が入ってきたとき、ため息ついていたろう?何でだ?ん?」
 聞かれていた……。
 本当にこの人は地獄耳だ。何て厄介な……。
 リオの手が、黙ったまま固まっているダテの顎をくいっと持ち上げる。後ろに無理矢理振り向かせようとするリオの真意に気が付き、慌ててその手をはね除けようとする。
「待ってください!すみませんでした!」
 抗うダテの行為をものともせずに、その動きを使ってダテを振り向かせそのまま背後の机に張り付けた。
 ダテの躰が腰の所で仰け反る格好になり、痛みが走る。両腕が一つにまとめられ、頭の上で押しつけられていた。
「リオ……」
 リオの完全に座った目に、ダテの心中に恐れにも似た感情が走る。
「何があったんですか?」
 問いかける声が震えている。
 今まで名前を呼び間違えたことは幾らでもあった。ため息をついて怒られたことだって。だが、ここまでひどく怒ってしまったのは初めてだった。
 だから聞いてみた。この人が素直に答えてくれるとは思わなかったが、それでも。
 すると、リオが驚いたように目を見開き、そしてすうっとその目が細められた。
「判らないか?まあ、お前の頭ではその程度だろう」
 その顔に冷笑が浮かんだ。
 それを見た途端背筋に寒気が走る。リオのように整った顔立ちの男がそんな笑みを見せるとこんなにも酷く冷めたものになるんだ……。
 ダテの目に走る怯えに気が付いたリオが、今度は面白そうにくすりと笑う。
「怖いのか、オレが。だったら、ここを出たいとは思うな。オレはお前が気に入ったと言っただろう。どんな事があっても離すつもりはない」
「ま、さか……」
 その言葉に、先ほどの会話を完全に聞かれていたことに気が付いた。
 盗聴器?まさか……。
「ほお、やっと気が付いたのか」
 リオが空いている手で自らの胸ポケットから5cm角程度の小さな装置を取り出す。
「オレ様がつくった超高性能盗聴器だ。お前の行動は全てオレに筒抜けだからな」
 リオの声が目前の口元とその機械からダブルで聞こえてきた。
 それはとても鮮明で、雑音など一切ない。
 ダテは絶望的な思いでリオとその機械を見比べた。
「お前はオレのモノだ。どんな時でも見張っている」
「そ、そんなあ?」
「別に気にすることはないだろう。普通にオレ様の下僕としてがんばれば何もとって喰おうっていうわけじゃないんだし」
「とって喰われそうですって」
 ダテが情けない声で訴える。だが、それでリオが許すはずもなく……。
 駄目か、今日は……。ダテの心中を諦めが支配する。
 唇を覆う柔らかな濡れた感触に、ダテは目を固く瞑って堪えた。
 いつになったら、こんな事がなくなるんだろう……。
 ダテは、ただ堪えることしかできなかった。
3
 ダテは朝から惰眠を貪っていた。
 今日は、休み。あの無茶苦茶綺麗な顔立ちの傍若無人な上官に遭わないですむというだけで、ダテは幸せだった。
 夢の世界までが、パステルカラー色の花園。
 が。
 幸せというものは破壊されるために存在するのだろうか。
 数分後。目覚めたダテが回らない頭で最初に考えたのがそのことだった。その幸せを破壊した相手をぼうっとした眼で見つめる。
 何故?
 どうして?
 分かり切った問いと答えを頭の中で反芻する。
「まったく、オレ様よりより遅く起きるとは何事だ」
 ぐりぐりと頭に拳骨を当てられ、ダテは悲鳴を上げて身を捩った。その痛みに完璧に目が覚める。
「痛いですっ、止めてください!」
「うるさい、お仕置きだ」
「だって、私は今日は休みなんですよ」
「そんなもん、却下」
「そんなあ?」
「とりあえずさっさと着替えろ。俺もまだ朝飯喰っとらん」
「はい……」
 それは私に朝食を用意しろって事だよな。
 ああ、めんど……。
 こぼれかけるため息を飲みこむ。
 服……仕事なんだよな……。
 未練がましくクローゼットの私服を見つめ、そしてクリーニングされた制服に視線を移す。
 それを手に取ると、シャワールームへ向かった。
「ここで着替えないのか?」
 背後から飛んできた言葉に、後ろを振り返る。
 ワンルームの片隅に備え付けの狭いベッド。壁に固定されている食卓も兼ねる机はベッドが椅子代わりにもなるように配置されている。狭い部屋、何事も共用出来るように作られているそのベッドに腰掛け、テーブルに肘をついてリオがダテの様子を窺っていた。
「私の裸でも見たいんですか?」
「見たい」
 冗談で言ったのに真顔で肯定された。
 ダテは、思わず立ち竦む。それでも、何とか言葉を絞り出した。
「男の裸なんか見て、面白いですか?」
 最近、リオはゲイなんじゃないかという気がする。だから、私にキスするんじゃないのか、と勘ぐっていた。
 結局、リオに背を向けて着替える。
 ずっとリオの視線が背に張り付いているのを感じていた。それがくすぐったく感じて、身を捩った。
 本当にこの人は理解できない。
 今まで逢ってきた軍人達とは違いすぎる。現場での人たちは、突拍子も無い人たちが多い、という話は聞いたことがあった。だが、これほどまでとは……。
 それにしても……。
 ダテは、しくしくと妙な痛みを訴える鳩尾辺りを押さえた。
 この理解できない上官の行動のせいで、最近あまり胃の調子が良くない。
「今日は休みなのに……」
 言っても無駄だとは思っていたことが、つい口をついて出た。
「他の日に休みをやる」
 間髪入れずに返され、躰を捻ってリオを見つめる。
 だが、言うべき言葉が見つからないまま、ダテは息を吐くと上着を羽織った。
 どうせそんなこと、叶えられるとは思わない。
 この人はいつだって、自分勝手で、我が儘で……でも。
 手を伸ばし、右肩に触れる。
 鎖に繋がれた4本の黄金色の槌。それが絡み合って作られた模様。
 それはヘーパイトスのカベイロス工作艦にあるカケイ隊のマーク。伝達部門の専門家達が揃ったチーム。
 それを率いるリオは例えどんなに傍若無人であっても……それでも……。
 誰もリオを嫌っていない。
 だが、それは判っていても……。
「着替えたら、飯、いつまで待たせるんだ?」
「はい」
 振り向き答えるダテの顔に浮かぶのは引きつった笑顔だけ。 
 適当に聞き流して、言われたとおりにすればいいとは判っていても、どうしても、まだそこまでの境地には到達できない。
 ダテは調理システムに向かった。
 そう言えば、ロックはどうしたんだろう……。
 自動ロックのドアは、ダテの認識パターンでロックが解除される。他の手段といえば、マスターシスタムだけの筈。
 だが、それが愚問であろう事は想像できたので、聞くつもりはない。
 リオにとってそんなシステムを破ることは朝飯前。そして、それはダテですらできることなのだから……。
 ダテはリオの視線を感じながら、黙って朝食を用意する。と言ってもモーニングセット(バン&コーヒーセット)をレンジで解凍して出すだけ。トレー付きで、そのまま食卓に出せる。使用済みのトレーは、各部屋に一つはある回収ボックスに放り込んでおけば、自動回収されてリユースされる。簡単な味付けの追加など、自分で調理しようと思えば出来るシステムもこの部屋には備え付けてあるのだが、今日はとてもそんな気分になれなかった。
「どうぞ」
 ダテがトレーをリオの前のテーブルに差し出すと、リオはムッとしたようにダテを見上げる。
「俺はお前の手料理が食いたかったのに」
「……申し訳ありません。また別の機会にお作りしますので、今日はこれを食べてください」
 手料理と言われても、本格的に料理しようと思ったら、共用スペースである食堂の横のキッチンまで行かなければならない。朝っぱらからそんな元気はなかった。
「お前は?」
「後で頂きます」
 胃のためにも後でゆっくりと食べたいとは思っていたが、その懇願は当然のように却下された。
「今食べろ」
 やっぱり……。
 きっぱりと言われ、仕方なくリオの隣に座る。
 どうしてプライベートな時間まで上官と過ごさなければならないのか。
「今日は時間がない。急げよ」
 そう言いながら食べ始めたリオの口の中に、あっという間に食べ物が消えていく。
 急ぐって、何するんだろう……また、変なことじゃなきゃいいけど。
 そんな事を考えていると、自然に表情が曇る。それに気付いたリオが眉をひそめた。
 あ、まず。
 リオの変化を敏感に感じ取ったダテが慌ててパンを口に運んだ。
 とにかく食べよう。必死に食べよう。食べて早くこの場から逃れよう。
 ダテは食欲がない躰に無理矢理食事を詰め込んだ。
 リオは手を止めそんなダテの様子を眺めていたが、しばらくするとフンと鼻を鳴らすと食べるのを再開した。
 だが、ダテにしてみれば何も言わないだけのリオが不機嫌なのが判ってしまう。
 ど、どうしよう……。
 激しい緊張に強いられた躰が、食べ物を飲みこむことすら拒否し始める。
 気持ち悪い……どうしよう。
「もう食べられないのか?その程度の量も食べられないといざっていう時躰がもたん。食べろ」
 んなこと言われても……。
 食べろと言われても、受け付けない胃に逆らう気力もなかった。
「すみません。食べられません……」
 力無く断りを入れるダテの様子に気付いたリオが持っていたカップを置いた。
 俯いているダテを覗き込むようにリオが覗き込む。
「顔色が悪い」
 その言葉にダテが顔を上げる。
 綺麗で整ったリオの顔が目前にあった。
「大丈夫です」
 言葉とは裏腹に胃の辺りがしくしくと痛み、胸焼けが激しい。
 無理矢理食べたの、まずったなあ……。
 マジで気持ち悪い……。
 考えてみれば今まで胃にきていなかった方が不思議な位だ。
 歯を喰い縛り、顔がひきつる。
 その様子を見て取ったリオが覗き込んでいた顔を離した。
「馬鹿が……」
 ぽつりと漏らされた言葉。
 その意味を探る余裕はなかった。
 痛みを自覚してしまうと、だんだんそれがひどくなっているような気がする。鳩尾を押さえ、前屈みになって痛みを逃そうとした。
 ふと向けた視線の先で、リオがカプセル上の物から何かを取り出そうとしていた。小さな円盤状の物が幾粒かその掌に転がる。
 リオがダテに視線を向けた。
「飲め」
「は?」
 飲む?
 不審気な視線を向けて、それでも手を出さずにいると、業を煮やしたリオが無理矢理、口に指を入れてきた。
「痛っ!」
 入ってきた指が、素早く口を開こうとした。逃れようとしてバランスを失い、ベッドに仰向けに倒れる。
「やっ」
 閉じることが出来ないように指が入れられたその横から、先ほどの粒が押し込まれる。
 何、これ?
 慌てて吐き出そうとするダテの口をリオが自らの掌で塞ぐ。リオがすかさず空いている方の手でダテの肩を掴んで強くベッドに押し付け、太股の上に乗り上がった。
「くっ」
 重いっ!
 ダテよりはるかに体格の良いリオの体重が足と肩の一カ所のみにかけられた状態で、その痛みにダテが顔をしかめる。
 口を押さえていた手が離された。この隙に、と咥内の物を舌で押し出そうとする。
「胃薬だ、大人しく飲め」
 思いもかけない単語が耳に入り、ダテが驚いたように目を見開いた。
「薬?」
「胃にきてるんだろ。よく効く薬だからな。ああ、水がいるな。飲ませてやる」
 咥内に入った物が、唾液で溶け始めた。口の中に苦みが広がり、顔をしかめたダテを見ながら、リオはテーブルにおいてあるコップを手に取った。
「暴れると零れるから、大人しくしていろ」
 言い聞かせるような声がリオの口から発せられた。
 どうやって?
 と疑問に思う暇もなく、リオはコップの水を口に含むとダテに口付けた。そこから流れ出した水が溢れて、ダテの頬を伝う。
「飲めって言ったろう」
 ほとんど零れてしまったそれに、リオがムッとしたようにダテを睨む。
「でも……」
 泣きたい気分だ。
 いくらなんでも口移しは無いだろうと思う。起きられない病人ではないのだ。
 だが、リオは再び水を口に含むと、ダテに押しつけてきた。
 口の中の苦みが水を欲していた。口移しというその行為に嫌悪があったものの、その苦みから逃れたくなってきていた。それに……受け入れるまでリオはり続けるだろう。
 結局ダテは与えられるままに水を咥内に受け入れた。薄れていく苦み。それにほっとしつつもその水の流れを借りて、ダテは薬を飲み込んだ。
 ごくりと動く喉をリオが満足げに見つめる。
 良かった、終わった……。
 はああ。
 安堵もあって大きく息を吐き出したダテに、リオはふっと目を細めた。
「リオ?」
 それに気付いたダテが呼びかけるが、リオは黙ったまま再度水を口に含んだ。そのまま再び、ダテの口に注ぎ込む。
 もう、終わったのに……なんで?
 逆らう事もできずに注がれるままにその水を飲み込む。溢れた水が、頬を通ってベッドに流れた。
 顔の横から頭にかけて濡れている。
 シーツ、洗濯だな……。
 意識が現実に関わるのに拒否反応を示し、とりとめもないことを考えてしまう。
 コトリとコップが置かれる音がした。
 口付けたままのリオの両手が、ダテの頭を掻き抱く。と、途端にするっと何がダテの咥内に侵入してきた。
 その熱く柔らかい固まりが、ダテの舌を絡め取ろうとする。それが何かを理解したダテの目が大きく見開かれた。
 う、そだろ……。
 今までの強要されてきたキスは時間の差こそあれ、触れるだけのモノだった。だからこそ、男相手のキスとはいえ、受けることができた。
 ディープキスって……男とやるもんじゃないだろう……。
 慌てて押し出そうとするが、その動きは巧みに避けられ、余計にリオの舌が咥内を貪るように動く。
 やだ……。
 リオの舌が咥内を蹂躙する度に嫌悪感が募る。躰の上のリオを押し戻そうと手に力を入れるが、きつく抱き締められ逃げることもままならなかった。口を塞がれ、咥内に溜まる唾液のせいで呼吸がうまくできない。息苦しさに襲われ、目尻に涙が溢れた。
 飲み込みきれずに溢れ、頬を伝う唾液はどちらのものかも判らない。
「……う……んんっ」
 逃れようとする舌が捕らえられ、絡められ、吸い上げられる。それでも逃れようとしていると、今度は歯列をなぞられ、上顎の敏感な部分を強く擦られる。
「ん、ふ」
 蠢く舌が咥内をまさぐるにつれ、嫌悪感とは違う甘く疼くような感覚に襲われる。痺れるようなその疼きが背筋を走り、下半身が熱を持つ。
 嫌、だ……。
 理性は、嫌悪と驚愕でこの行為を止めて欲しいと願っているのに、躰がその刺激を受け入れようとしている。確実に反応している躰をリオに気づかれたくなくて、身を捩ろうとするが、両足がきつくリオに絡められていた。時折、リオの足がその部分を押し上げるように動いている。きつく押さえられるたびに、響いてくる激しい疼きに、発せられない声が喉の奥で響く。
「う……」
 徐々にダテの腕から抗う力が抜け、かろうじてリオの服に引っかかるように手がかかっていた。それもぱたりと落ちる。
 嫌、だ……止めて……。
 男にキスされ、その上、明らかに自分の躰が性的興奮に襲われているのを自覚してしまう。襲い来る激しい羞恥心が、さらに自分を高める。
 耳まで赤くなったダテに気づきながらも、リオは離れることはなかった。
 こんなことって……。
 酸欠と性的な興奮に翻弄され頭が霞がかかったようにぼおっとする。熱くなった躰は、前にもまして刺激に敏感になっていた。
 このままではまずい。
 そう思い、力の入らない手を上げようとした。が。
 すっとリオの唇が離れた。
「トシマサ……」
 リオの口から漏れた自分の名前に、ダテはゆっくりと目を開いた。真正面にあったリオの目が劣情に赤く染まっていた。
 この人は、私に興奮しているのか……?
 リオの熱い吐息が頬をくすぐる。その途端、ドキッと心臓が高鳴った。顔が火を噴く。
 真っ赤になったダテを見やったリオがふっと笑みを浮かべ、そして。
「よっと」
 かけ声と共にダテの躰から跳ね起きた。
 まるで何事もなかったかのようにベッドサイドに立ち上がったリオが、ダテを見下ろす。
「いつまで寝てるんだよ、お前は?出かけるから用意しろ」
 それはいつもの口調だった。
「出かける?」
 状況が把握できないダテは、躰を起こしながら呆然と問いかける。未だ力が入らない躰、そして高ぶった股間の物がダテの動きを妨げていた。
「そうだ、早くしろ……どうした?力が入らないのか?」
 言われて、カッと躰が火を噴いた。
 誰のせいだと……。
「大丈夫です……」
 慌てて言い繕うが、掠れて震えた声しか出ない。俯いてしまったダテの肩にリオが手をかけた。
「あっ!」
 途端に肩から下腹部にかけて、ズキンと激しい疼きが走った。
 起こしかけていた躰が倒れそうになるのを、リオが支える。そのせいでダテはリオの胸に顔を埋めるようになった。
「す、すみません!」
 慌てて手を突っ張る。心臓が激しく鳴り響く。
 熱い顔を上げることもできずに、俯いたまま唇を噛み締める。 
「……30分後にもう一度来る。それまでに出かける用意をしろ」
「え?」
 思わず顔を上げた時には、リオは部屋から出ていこうとしていた。
「あ、あの!」
「30分しかないんだ。さっさと用意しておけ!」
 振り返ることなく言い放ったリオは、そのまま部屋を出ていってしまった。
「リオ……」
 怒ったんだろうか……。
 出ていってくれたことは嬉しい。高ぶってしまった躰は、容易なことでは冷めそうになかった。
 だが、リオの様子も気になった。
「ともかく……薬、くれたんだよな」
 確かに先ほどまでの胃痛はすっきりと消えていた。
 普通に渡してくれればいいのに……。
 そうだったら、感謝だけで済んだ。
 いつだってそうだ。
 仕事のやり方にしろ、何かを教えて貰うにしろ、必ず余計な言動がひっついてくる。基本的には、優しいのだとは思う。だが、それを消しても余りあるその言動がリオの印象をマイナスにしていた。
 リオといると、その極端な言動の間に垣間見える優しさに、縋りそうになる。だが、下手に縋ってしまうと返ってくるのは、拒絶ではないかと思える言動だけだ。だから、リオといると疲れる。
 いっそのこと、完全に相容れない相手なら、嫌うだけで済む。どんな嫌みな攻撃に遭おうともさっさと転属願いを出していた。
「あなたって人は、どこまで私を翻弄すれば気が済むんです?」
 決して答えが貰えそうにない問い。
 それでも口に出さずにはいられなかった。
4
 一体、何が、どうなっているのか……。
 30分後に迎えに来たリオは、有無を言わせずダテを連絡艇に押し込んだ。
「カケイ大佐、遅いです」
 憮然とした面持ちのパイロットに心のこもっていない詫びの言葉を投げつけたリオは、ダテを座席に座らせる。
「ど、どうして、連絡艇に乗るんです?」
「パラス・アテナに行くからな」
 それって……。
「何で?」
「呼び出された」
「何で?」
「うるさい。行けば判る」
 どうやら触れられたくない話題らしいと踏んだダテは、問いかけるのを止めた。
 パラス・アテナ……第二艦隊<プロノイア・アテナ>の旗艦。
 何故そこに呼びだされるのだろう。
 しかも、何故私が一緒に行かなければならないのだろう。
 どうやら二人の乗船を待っていたらしく、パイロットが苛々と管制室と連絡を取っている。
 と、いきなり発進した。
 その乱暴な操縦に思わず舌を噛みそうになった。

 パラス・アテナに降り立ったリオが馴れた足取りで向かった所。
 それは、絶対にダテが一生涯訪問するはずのないと思っていた所だった。呆然とリオを見やると、彼は馴れた手つきでそこに入室するために認証システムを操作していた。
「リオ・カケイ大佐。同行者トシマサ・ダテ少尉」
 ピアスに登録されているパターンと音声・顔・網膜パターンに脳波パターンまでもが全て一瞬でスキャニングされる。
 リオの右耳に光るピアスは正式名称をメモリーガードと言う。オリンポス隊員全ての右耳に必ずあるそれは、緊急時の重要記憶の消去を主たる働きにしているためその名で呼ばれるが、それ以外にいろいろな各所で認証システムと連動している。
「確認いたしました。どうぞ」
 そのメッセージとともに自動的に開かれたドア。
 何で私がここにいる?
 ここ、パラス・アテナの中枢に……。
 入った部屋は落ち着いた色調で、広々としていた。だが、そこかしこにスクリーンがあり、操作盤がある。居住性と機能性を上手にミックスした部屋だとは見てとれた。
「お前……緊張しているのか?」
 リオがダテを見てくすりと笑う。
 その言葉に反論する気はなかった。それが事実だったからだ。
 正面やや右に座る女性が、第二艦隊<プロノイア・アテナ>の次期総司令、ユウカ・リー中将。若干28歳で、第二艦隊を統率する資格を有する才媛。だが、見た目はその辺りの普通の女性と対して変わらない。
 そして、その隣に座って、同じスクリーンを見入っているのが、その参謀副官ジェフリー・マリッド少将。
 次期総司令決定の際のニュースで出たその顔写真を、羨望の眼差しで見つめた二人を見間違いようもない。
 彼女たちは同世代の隊員達にとって、誇りであり、尊敬の対象であった。
 本来なら逢う事もなかった筈の二人が目の前にいる。
 そんな彼女らが見入っていたスクリーンから顔を上げた。
 彼女らが顔を上げるのを待っていたかのように、リオが口を開く。
「ユウカ、ケインはどこだ?」
 その友達のような口調に愕然とする。
 だいたい、はるかな高みにいる上官の部屋に来て、敬礼も何もしないで、いきなりそれか?
 治った筈の胃の痛みがぶり返しそうだった。
「ケインは、隣の部屋だ。今日は、ケインに会いに来たのか?」
「リオ、あんたの隣でダテ少尉が困っているけど……説明していないの?」
 二人の言葉が、僅かにハモった。それをダテはかろうじて聞き分けることができた。
 リオもその言葉を把握したのか、隣に続くドアをちらりと眺め、そしてダテに視線を移した。
「オレとこいつらは親友なんだ」
「親友?」
 アテナの次期とリオが?
 しかも、親友?
 ダテはその言葉が表す二つの意味に驚愕を隠せない。親友と言う言葉をリオが使った方が信じられなかった。
 いつだって我が儘を自で行っているような人なのに。
「だから、名前で呼んでいる。お前も名前で呼べばいい。どうせ、そう年は変わらないだろ」
「そんな!年は変わらなくても、階級が違います!」
 自分は決して到達できそうにない階級にいる二人を名前で呼ぶことなど出来やしない。だいたい、リオの事を呼ぶのですら、随分とかかったのだ。
「かまわないわよ。私たちなら」
 ダテの言葉にユウカの方が反応した。
「ユウカで結構。こっちもジェフって呼ばれているわよ、このパラス・アテナの中ではね。その方が馴れているから」
「しかし……」
 くらくらする頭を必死で巻き戻す。
「もう一人、事務副官にケインってのがいるから。そいつも含めて、名前でいいって」
 ジェフリーにまでそう言われては、逆らうことも出来ない。
 また胃痛の原因が……。
 まあ、ここの人たちとはそんなに会うことは無いだろうけど……。 
 それにしても……。
 上官なんだから、それらしくしてくれた方が相手にするのは楽なのに。挨拶は敬礼で、命令には服従して……それが許されない上官なんて、その方がよっぽどつき合いにくい。
 学校にいた教官や、時折来る将校達の方がよっぽどそう言うことは厳しくて、だがらつき合いやすかった。マニュアル通りに対応すればよかったから。
「ケインが、オレ達に呼んだ。どうしても来いっていうから」
 リオが憮然と言い放つ。
 何だかとっても機嫌が悪いような気がする。
「そう、聞いていないけど?」
 ユウカが答えた途端、隣室に繋がる扉が開いた。
 部屋に入ってきたのは、他の二人よりはるかに端正な顔立ちで背も高い男。
 彼がケインか……。
 まだ若い。後の二人とそうたいして変わらないように見えたが、どこかずっと落ち着いた感じがする。
 その切れ長のアイスブルーの目のせいだろうか。冷たい感じをもたらすその目の色。そして発せられた声音も低い。
「リオ、来てたのか?」
 その台詞にダテは見なくてもリオの顔が引きつったのが判ってしまう。
「お前が呼んだんだろうが」
 案の定、リオから明らかにムッとした返答が出される。
 嫌だなあ……こんな所で喧嘩なんて……。
 ダテは眉間に深い皺を寄せて、俯く。
「ふん、そうだったな」
 だが、ダテの心配を余所に二人は睨み合ったままだった。
「だから、何の用事だ?オレはお前のような暇人じゃない」
「どうせ、次に何を悪戯しようかと考えているだけだろう。私は今度の訓練計画の経費の概算を出さなければ行けないんだが……」
 暗に邪魔だと言われ、リオの怒りは頂点に達しかけていた。
「その忙しいお前がオレ達に何の用だって言ってんだよ!」
「ああ、別にお前に用事があるわけじゃない」
 あくまで静かに冷静に返事をするケインの視線は、リオを通り越してダテを見ていた。
「君が噂のダテ少尉か」
「はい?」
 噂?
 何の噂だ?
 ふと見ると、ユウカとジェフリーが、顔を見合わせている。その顔が引きつっているように見えるのは気のせいだろうか。
 ダテは、二人から視線を再度ケインに移した。
 と、リオがケインの視線を塞ぐようにダテの直前に出る。
 そのせいで、ダテに見える範囲がリオの背中だけになってしまう。
「こいつはオレのモンだ」
 あれ?
 ダテは何故か違和感を覚えた。
 どことなく焦りが感じられるリオの声音。それは今まで聞いたことのない物だった。
「ほお、所有権を主張するという訳か」
「当たり前だ、こいつはオレの部下だ。何の魂胆があるんだ、てめーは」
 冷静沈着なケインに対するリオの苛々とした口調。
 一体、どういう意味なんだ?
 ダテはどう見ても自分のことで言い合っている二人が、実は何を言いたいのかはっきり判らなくて、戸惑っていた。
 と、その二人を迂回するようにジェフリーがダテの傍らに歩いて来た。
「行こう」
「え?」
 腕を掴まれ、引っ張られるままに移動する。
「あ、あの……二人は?」
 引っ張られるままに室外に出たリオは、中の二人が気になってしようがないと、訴えるようにジェフリーに視線を向けた。
「ああ、いつものことだよ。ほんとに二人とも好みって言うか、好きになる相手がいつも一緒なんだよ。でもたいてい、性格の差でケインが勝つんだけどね」
「好きな相手って?」
 好み?一緒って……。
 言われている意味が理解できない。というより、朝からずっと理解できないことばかりだ。
 だいたい今の状況だって理解できないことの一つだ。
 何で、私が少将の階級章をつけたこの人と話しをしているのか?
「ああ、もしかして何も知らないんだ?」
 くすりと笑われ、羞恥に顔が熱くなる。
「今日はいきなり連れてこられたんです」
 俯いて呟くダテに、ジェフリーはその背をぽんぽんと優しく叩いた。
「あの二人は兄弟なんだよ。リオの方が上。父親が違うから似ていないし、性格も全く違うけどね。まあ、どっちも優秀っていう所と興味をそそられる相手が同じって所だけ似ているんだ」
「き、兄弟!」
 あの二人が?
 今、中で火花散らして睨み合っている二人が!
「とにかく昔から、好きになる相手が同じでさ……だけど、たいていケインが勝つんだよね。リオは性格が今ひとつだからさ。それで、ああやって顔をつきあわす度に喧嘩している。こういう時は逃げるが勝ち」
「逃げるのはいいけど、私も連れだしてよね、ついでに。危うくあの中に取り残される所だったじゃない」
 ドアの開く軽い音と共に、きつい口調の言葉が投げつけられる。それに苦笑を浮かべ、ジェフリーが肩を竦めた。
「で、どうする?」
「しばらく、仕事にならないわ。ちょうど良いから、彼を医務室にでも連れて行きましょう」
「そうだな」
 当の本人を全く無視して進むその会話に口を開く間もなく、ダテは引きずられるように連れて行かれた。
 ああ、もう!
 一体何が起こっているんだ?
 医務室?
 どうして?
 も、理解できないよお!
 リオ?!
 って……私は何を言っているんだ……。
 助けてくれそうにない相手を心の中で思わず叫んでしまい、自己嫌悪に陥る。
 二人はそんなダテを無視して、勝手知ったる旗艦の中をまっすぐに目的地に向かって歩いていった。
「彼のピアスを作りたい」
「了解しました。こちらの書類にサインを」
 消毒薬の微かな匂いがする医務室。
 いや、それはすでに病院といって良いほどの設備を持つ場所で、そこで3人はある一室に通された。そこで、ジェフリーが女医相手に説明している。
「ピアスって……」
 思わず自分の右耳についているピアスに触れる。黒色の平らな円のピアスは、配属が決まったときに新しく作り直したばかりで、士官クラスとしては一番基本レベルのメモリーガードだ。
 ダテの疑問にユウカが何でもないように答える。
「今のは、尉官クラスの最下位のピアスでしょ。もう少しランクアップさせないと不便だからね」
「しかし、私は少尉ですから、このクラスで充分の筈ですが?」
 このピアスでは不便って……この人達は一体何を企んでいるんだ?
 自然に眉間に皺が寄る。
「上官が必要と認めれば、それ以上のピアスを付けることはできます。ちなみにリオのは、将官クラスが使用できる最高ランクのものよ」
「え……」
 脳裏に思い描いたそれは、リオの右耳。黄色みを帯びたその透明な真球のピアスは、いつも見慣れた物だったが……将官クラスのピアスって、どこにでも入れるじゃないか……。それこそ、その気になれば、作戦会議中の部屋にだって入れたりするかも知れない。
 どうして?
 どうして、あんな理不尽きわまりない傍若無人で我が儘な人がそんなピアスをしているんだ?
「どうして……」
「リオのこと?」
 ユウカがにこりと笑いかける。
「はい」
「彼は、私たちの親友だからよ」
 親友……って、そんな理由で、そんなピアスを渡したのか?
 この人達って一体……。
「ダテ少尉。こちらにどうぞ」
 女医に促されて、ダテ達は処置室へ向かった。
「何色が似合うかな?」
「そうねえ、今時珍しい黒髪ですものね。何色でも似合いそう」
「確か、アレースの次期の副官が黒髪だったろ。彼は赤色っぽいのしてたよな」
「そうね。でも彼の場合、赤は似合わないような気がしない?」
 放っといたら本人を無視して、延々会話を続けそうな二人に割ってはいる。
「あのー、何の話です?」
「あ、ごめんね、本人が決めないとね。ピアスの色の話よ。何色にするの」
 言われてやっと思い当たる。
 それを待っていたかのように、女医がスクリーンを操作して色と形の見本の一覧を表示させた。
「この一覧にある物はどれでも在庫があるから、選んで」
「はい……」
 見やったスクリーンには多種多様なピアスが並んでいる。
 もともとそういうデザインには関心がないから、いきなり選べと言われても、困る……。
「決まらないか?」
 ジェフリーが声をかけた途端、室内の電話が鳴った。
 女医がそれをONにした途端、スクリーンにリオが現れる。
「ダテちゃん!そこにいるんだろ!」
 怒っているようなその声にびくりとダテの頬が引きつる。
「ここにいます」
 女医に変わって電話に出る。
「ピアス作るんだってな」
「よくご存じで……」
 また盗聴器か……?
「ケインが言った。お前、もう決めたのか?」
「何を?」
「色!」
「いいえ」
「じゃあ、エメラルドグリーンにしろ。そいつが一番お前に似合う!」
「は?」
「いいな!」
 返事をする間もなく切れた。
 エメラルドグリーンって何色だっけ?
 何色でもどんなデザインでもよかった。リオがそう言うのなら、そうすればいい。
「あの、エメラルドグリーンってどの色ですか?」
 ユウカが黙って何個かの画像を指さした。
 その中から一番シンプルな真球デザインのものにした。

「少しだけ眠って貰います。1時間後には目覚めることができるから。それで、セッティングは終了よ」
 新しいピアスが耳にはめられ、それに持ち主のパターンを移すための手順が開始された。
 目の前に点滅する光点を見つめていたダテは、あっという間に睡魔に引き込まれていった。
5
 目覚めると、爽快な気分だった。
 朝起きてから一度もゆっくりと落ち着く間もなかった神経。それが、ずいぶんとゆったりとしている。
 それに妙に腹が減っていた。
 今更ながらに朝食を僅かしか食べていなかったことに気が付く。
「ここは?」
 ふと、辺りを見渡すと、寝たときとは違う場所にいる。その傍らにはトレーにのった食事が置いてあった。明らかに病室だと見て取れる。
 カーテンで仕切られたそのベッドの周囲には誰もいない。ダテはベッドから降りると、カーテンを引いてみた。
 無機質な部屋に並んだベッド。
 病室……だよな。
 ダテは、周りのベッドに誰もいないのを確認すると、ドアへと視線を向けた。
 どうしよう……。
 勝手にうろうろしていいものか迷っていた。前回ピアスを作ったときは、その場で目覚めさせられた。こんな風に病室に寝かされたことはないし、そういう事を聞いたこともなかった。
 と、ドアが開いた。
 誰が来るのかと緊張して身構えてしまう。
「あら、お目覚め?」
 まだ幼い顔立ちの看護婦が、にっこりと微笑みかけてきた。その途端、気張っていた神経が一気に緩む。
「あの……」
「ちょっと待っててね、ドクターを呼んでくるから」
 看護婦はダテの言葉を聞く前に部屋を出ていってしまった。
 ダテは仕方なく、ベッドに座り込む。
 それから間を置かず、ドクターがやって来た。
 さっきと違う……。
 初老のそのドクターは、ダテにピアスを処方していたドクターとは違う。
「精神科担当のリンドバーグだ」
 医療を司るアフロディーテの象徴「薔薇色の十字」をその左腕に携えている彼の地位は、大佐。ユウカ達に比べれば、確かに階級は落ちるが、それでもあのカケイ大佐と同じく、雲の上であることには間違いない。
 落ち着いていたはずの神経が、ぴりりと引きつって緊張を伝える。
 眉間にしわを寄せ小難しい顔をしたそのドクターは、ダテのその緊張を見て取ったのか、ダテにベッドに横たわるよう指示した。
「まずリラックスしなさい。君はやっとストレスから解消されたのだ。階級は気にすることはない。私は医者で、君は患者だ。その立場さえわきまえてくれればいい。私は患者を治す。それがアフロディーテとしての私の責務なのだから」
 堅苦しい言葉ではあったが、そこには優しさが含まれていた。わずかに見せた笑みが、ダテをリラックスさせる。
 安心させるように、そっと胃の部分にその大きな手が置かれた。
「今日だけ?胃が痛くなったのは?」
 その険しい顔からとは思えない優しい口調に、ダテは素直に答える。
「はい、今日が初めてです」
 どうして知っているのだろう。そんな疑問は、ドクターの説明を聞いて立ち消えた。
「君のストレス度が異常に高くて、ピアス生成システムが拒否反応を示したんだ。だから、まずストレス解消システムにかけて、ついでに内科検診を行った。君が寝ている間にね」
「はあ……」
 それで、あんなにも爽快な気分だったのか……。
「君の胃は胃潰瘍の寸前だったよ。朝飲んだ薬を見せて貰ったが……彼は、君がここまでひどくなっていると知った上で、そのストレスを解消する手段を講じなかったということになるね」
 その彼という言葉が、ひどくきつい言い様だったのが気になって、ドクターを見つめる。
「彼には始末書を書いて貰っている。直属の部下の健康状態を把握しておきながら、その充分な対応をとらなかったということは、上官としては不適格としか言い様がない」
 その彼がリオを指しているのは明確だ。
 だが、リオが不的確だなんて……そんなの何をいまさら……指摘しているのか。それがリオではないのか?
「しかし、カケイ大佐から薬を頂きました」
 ドクターのリオに対する印象がすこぶる付きで悪いのが気になって、つい言葉を挟む。
「薬は対症療法でしかない。彼が取るべき行為としては、それに気づいた時点で部下のストレスを解消する手段であって、そしてそれは君の精神状態を静穏化する手段だ。そして、彼はそれをしなければならない立場にある。ここがオリンポスである以上、それを徹底的に教育されている筈だからな」
 それは、ダテが受けた教育の中にも入っていた。
 部下の健康管理ができない上官は上官として不適合を受けても仕方がない。
 他の国家では、そういう事は一笑に付されるであろうその不文律。
 だが、ここオリンポスではそれは頑ななまでに守られていた。現に、部下が多量に心因性疾患に陥った部署での上官の更迭は、よくあることだった。それは、いざという時に動けない部下を作るな、という絶対条件が根底にあるからだ。
 だが、ダテはそんな事はすっかり忘れていた。
 だから、あのリオのことだからそんな事は記憶になんかないだろうと思う。
 だが、このままではリオは上官を更迭されるかも知れない……。
 そんな事になったら、どうすれば良いんだろう。俺のせいで、リオがいなくなる。
 きっとグリームベル中佐や他の人たちが嘆願書を出して、更迭はくい止められるんじゃないかとは思う。だが、降格は免れないし……何より……。
 リオの元にいられなくなるかも知れない……。
 そう思った途端、じわっと目の奥が熱くなった。
 黙り込んで天井を睨むようにしているダテに、ドクターは吐息をつく。
「君は、それでもあのカケイ大佐がいいと言うのかね」
「え?」
 まるで心を見透かされたような気分に陥る。思わずそちらを見たダテは、途端に溢れた涙に驚いた。
 目尻から流れ出した涙が耳の上を伝い、枕まで流れ落ちる。
「あれ?」
 その感触に思わず手をやる。しっとりと濡れる指に、やっと自分が流したのだと認識する。
「泣いていたことに気が付いていなかったのかい?」
 優しい言葉が降ってきた。思わずその言葉に頷く。
 目の奥が熱いとは思っていた。だけど、本当に涙がでていたなんて……。
「どうやら、君のストレスは、確かにカケイ大佐に原因があるのは確かだが、それ以上に君の心にも問題がありそうだね」
「私の心……?」
「そうだよ。……さて、実は決めかねていたのだが……君の涙を見て、やっと決心できたよ」
 にっこりと優しげに笑いかけられ、ダテは戸惑いが隠せなかった。
 それより何より、何が決定されたって?
「ドクター?」
「ああ、君は入院だよ。ここにね。2週間ばかりね」
「入院……って、入院!」
 思わず跳ね起きた。
「どういうことです!」
 思わず喰ってかかる。
「どういうことって……病名は胃潰瘍の初期及びその心因性である原因からの隔離。それと君とじっくり話がしたい。それで2週間だ」
 胃潰瘍……それは判る。
 原因からの隔離……リオの事だと判る。
 だけど、話がしたいって?
「話って?」
「してみれば判るよ。何、ちょっと私とつき合ってくれればいいからね」
 こともなげに言うドクター。だが、ダテにしてみれば何の事やら判らない。
 何をするんだ?
 話だけで2週間もここに?
 新たな不安が沸き起こる。
「さてと、では君の上官殿を説得してくるか」
 どこか楽しげなドクターは、ダテの肩をぽんと叩くと病室から出ていった。どこかスキップでもしそうな足取りに、ダテはこみ上げてくる不安を隠せなくて、ぱたんと上半身をベッドに倒した。
「何が一体どうなってんだ?」
 リオが怒っていた。
 ドクターが何と言って説得したのか判らない。
 だが、しばらくしてやってきたリオは一言。
「2週間後に迎えに来るからな」
 無表情のままそう言っただけで、ダテの返事も待たずに去っていった。
 無表情なのに、ダテにはリオが怒っているのが判っていた。今まで感じたことのない、冷たい雰囲気に言葉を発することが出来なかったのも事実。
 取り残された病室。
 他に誰もいない病室は、一気に静けさがやってきた。
 配属されてから1ヶ月。始めてリオがいない環境。
 本当にリオは2週間、来ないつもりなのだろうか?
 自分の乗艦でないこの艦にいる以上、勝手に自分の艦に戻ることも、やっとうまくつき合えるようになった仲間達とも合うことは出来ない。
 ここにいるのは、自分一人。
 リオから解放されて嬉しいはずなのに、どこか寂しい。ダテはその静けさが絶えられなくて、頭まで掛け布を被った。
 それにリオが怒っている。
 それがたまらなく嫌だった。
 いつの間にか、傍らにいて当然と思っていた人がいなくなる。それはこんなにも寂しい事なんだと、ダテは始めて気が付いた。
 リオから離れたいっていつも思っていたのに、いざその段になって、それが嫌だと感じているなんて……私は馬鹿だ。
 自嘲めいた笑みが口元に浮かぶ。
 あんなにも嫌っていたあのリオの側の席が、実は自分にとって帰るべき場所になっている。
 胸の奥からこみ上げる思いに突き動かされ、ダテは声に出して呟いた。
「帰りたい……帰りたいです、リオ」
 それが本心だと、ダテには判っていた。

?
6
 訳判らない……。
 ダテは一人ぶつぶつと呟いていた。
 病室に閉じこめられてから1週間が過ぎた。
 あれから、たいした検査はしていないし、もちろん治療もされていない。
 だいたい胃潰瘍なんてこのご時世、薬で治る代物の筈。
 ほとんど軟禁状態のこの状態は一体どういうことなのだろう。
 幾ら、言われるがままに過ごしているダテとしても、この状態は異常だと思う。
「まさか……な」
 ふと、嫌な予感がした。
 ダテには、ひとつだけリオにも誰にも言っていない事柄があった。だが、それははるか過去に決別した筈だった。誰もが諦めていたはずだった。
 それが蒸し返されたのではないかという危惧。
 それを蒸し返されないために、ダテは今までずっと大人しく従順に過ごしてきた。
「伯母さん……諦めていなかったんだろうか……」
 だが、今更蒸し返されたところでダテにはその意志はなかった。あの時、全てを封じ込めた。
 その時までダテにあったもの全て。
 ぱたんとベッドに身を投げ出す。
 仰向けの状態でじっと天井を見つめる。
 白い天井は、間接照明の柔らかな光を反射していた。
 艦内の時間は、オリンポス司令部の地区を基準にして設定されている。
 今は夜中。
 草も眠る丑三つ時、という時間。
 そんな時間になってもダテは眠ることができなかった。
 絶対的な運動量が足りないせいで、躰が疲れない。昼間とて、することがないので、ぼーっとテレビを見ていて寝ていることがある。
 そのせいで余計寝られない。
 だから、先ほどから頭の中をいろいろな事が駆けめぐる。
 そして、何を考えていても最終的に辿り着くのがリオのことだった。
「リオ・カケイ大佐……か」
 初めて出会ったとき、その端正な顔に驚いた。それこそ美青年という言葉はあの人のためにあるのだと思った。だが、性格は最悪だった。
 上官には従うべきもの、という規則に真面目に従って生きていたダテにとって、彼の性格は破天荒そのものだった。上官だから従おうとするのだが、そうはいかない理不尽な行為を強いる。
 気に入らなければキスするなど、どこの上官がするというんだ……。
 だが……。
 どうも最近、それでもいいかなって思っている自分がいた。
 会って数刻の後には、配属願いを出そうとしていた自分なのに、今はあそこに帰りたいと心底願っている自分がいる。
 リオの事を考えると、胸が熱くなるのは何故だろう。
 あんな我が儘で強引で、自分以外の人を人とも思わない態度。
 だけど、熱心にダテに仕事を教えてくれる。
 胃痛に苦しむダテに薬をくれた。
 そっと耳朶に手をやる。
 そこには1週間前に新しくしたエメラルドグリーンのピアスがある。思わず選んでしまった真球デザインは、リオと同じだったから……。
「帰りたい……」
 ぽつりと漏らす。
 帰って、またリオの傍で働きたいと思う。
 お前は俺のモノだ。俺の言うことを効かない奴にはキスするからな。
 あんな理不尽なことを言われても、それでも居たいって思うのは……何でだろうな……。
 その口元に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
 あの人は、人を惹きつける力がある。
 会って言いたいことがある。
 あの人になら……付いていきたいと思ってしまったことを……伝えておきたい。
 それが、ダテが1週間ずっと考えてきた結論だった。
 と、物音がした。
 ドアが開く音。
 それにダテは慌てて寝たふりをする。
 昨夜、遅くまで起きていたのを見つかって、看護士からお小言を言われたばかり。二晩続けて寝ていなかったから、睡眠導入剤でも処方されそうな気がする。
 息を潜めて、早く行かないかなっと様子を窺っていると、微かな足音しかしていないことに気が付いた。
 ?
 忍び足で近づくその気配にダテの躰に緊張が走る。
 それでも身動き一つしないようにじっとしていた。と、いきなり、鼻を摘まれた。
「!」
 驚いて目を開いたその先に、にやりと笑みを浮かべた顔があった。
 忘れようもない思わず見惚れそうな顔。
「リオ!」
 がばっと跳ね起きたダテの口をリオが慌てて手で塞いだ。
「ばかっ!見つかる!」
 その言葉に慌てて自分で口を塞ぐ。
「ど、どうして、ここに」
「見舞いだ」
 ベッドの上に四つん這いになってリオに迫るダテに、リオはベッドに腰掛けて当たり前のように言う。
「でも、許可されていないって……」
「そうなんだよなあ。んで、忍び込んできた」
「はあ……」
 忍び込む?
 この厳重警戒な旗艦パラス・アテナに?
 いや、リオはどこにでも入れるピアスをしているから、入り込むのは簡単なんだろうけど……。
「何だ、嬉しくないのか?」
 むすっと不機嫌そうに言われて慌ててダテは頭をふった。
「いえ、嬉しいです。凄く。だって逢いたかったです。だって……」
 そこまで言うと、胸の奥からじわっと熱い塊が昇ってきた。
「だって……ここは変です。何か変で、凄く帰りたかった。みんなの所に……」
「ダテちゃん……」
 ダテの様子が変なことに気が付いたのかリオが呆気に取られている。
「帰りたいです。早く……」
 ぽろりと涙が溢れた。
「お、まえ……」
 一度、溢れた感情は止まらない。
 ダテは、ぽろぽろと溢れる涙そのままにリオに縋り付いた。
「ここは……嫌だ……帰りたい……」
 しゃくりを上げて泣き続けるダテをリオがその背に手を回して抱き締めた。
「ダテ……帰ろうな。俺達の船へ。絶対に連れて帰る。すまない……俺のせいだ。こんな所に連れてきたばっかりに……」
「ここは、嫌だ……嫌な予感がする。すごく……」
「何か判るのか?」
 リオの口調が固い。
「判らない……でも、怖い。どうしてだか、判らないけれど、怖い」
 リオがいるから、少しはほっとした。だけど、何か訳の分からない不安がつきまとう。
「リオ、私はずっと隠してきたことがある。それが私をあなたの所から引き離そうとしている。たぶん……そうだ。どうして……もう無くしてしまったはずなのに……それでも駄目なんだろうか……」
「おい……」
 リオがダテの肩を強く揺さぶる。
「リオ、私はあなたが好きです。だから、私を離さないで欲しい……助けて欲しい……」
 思わず口をついて出た言葉。
 言わないと……今言わないと……言えなくなる。
 そんな恐怖が躰の芯から沸き起こったから。だから、伝える。
「ダテ……」
 リオがすっと手を離した。
 茫然とダテを見つめ……そして、再度手を伸ばした。
 リオの胸に強く抱き締められ、ダテの顔が強くリオの胸に押しつけられた。
「守る。必ずお前を守る。だから、信じてくれ。例え、俺を信じられない出来事が起きても、必ず信じてくれ。必ず、連れて帰る。必ず……守る」
 その言葉がダテの心に染みこんでいく。
 ひどくほっとしている自分がいた。
 リオがそう言ってくれたことに。
 そして、リオの胸から伝わる鼓動が激しい。
 その音が何かを伝えようとしている。
「リオ……」
 それを聞きたくて顔を上げた途端、リオの表情が険しくなった。
「くそっ」
 忌々しく呟いたリオが、ダテの顔を両手で掴んだ。
 その真正面にリオが自分の顔を持ってくる。
「ダテ……信じてくれ。俺を。必ず守る」
 その真剣な瞳に思わず頷く。
「好きだ」
 小さな声が耳に入った。同時に唇をかすめ取られる。
 驚いて目を見張った時には、ダテは身を翻して……部屋から出ていった……。
 今、何て……。
 慌てて、ベッドから降りて追いかける。
 しかし、ドアを開けた途端、その行く手に警備兵が現れた。
「ダテ少尉、ベッドにお戻りください」
 その有無を言わせぬ言葉に、ダテは渋々頷いた。
 ふと、その後ろを見ると、数人の警備兵がうろうろしている。
 何だ、これは……。
 ダテは茫然とその様子を眺める。
 一体……何が起きているんだ?
「お戻りください」
 警備兵が再度促してくるが、ふっとこれがリオのせいだと気が付いた。
「リオ!」
 慌てて、警備兵を押しのけて出ようとした。
「どけろ!」
 リオが捕まったんじゃ……。
「お戻りください!」
「煩い!どけろ!」
 暴れるダテの首筋に冷たい感触があった。
 圧入銃!
 慌てて身を捩ったが、微かな圧迫感を首筋を襲い……ダテの躰から急速に力が抜けた。
「ま…すい……か……」
 意識があったのはそこまでだった。
7
 ねえ、何があったの?
 繰り返される地響き。地震とは違うその不規則な振動に、大人達が引きつった顔を一様に向ける。その先にあるのは、母親がいる筈の工場。
 何が……あったの?
 問いかける声に嗚咽が混じっている。
 判っている。何があったかなんて。
 それでも問いかける。
「お母さんは、どこ?」
 誰かが首を振る。
 たくさんの人たちが泣いている。
 煙が立ち上がる。幾筋も幾筋も。
 大気清浄機が導入され、その煙が急速に消えていく。それでも煙は次から次へと発生する。その発生源が未だ火を噴いているのだから。
 ヘイパイトスの実験工場の一つが爆発した。
 トシマサ・ダテの母はその工場の責任者だった。
 被害は工場一つ。10人ほどの死者。多数の負傷者。
 何故、爆発したか?
 人為的ミスだという。
 設計上のミスという話もある。
 それでも、糾弾されたのは責任者である母だった。
 すでに死んでしまった母の……。
 少しでも助けるために最後まで残っていた母は、最後の爆発に巻き込まれた。ひとかけらの肉片にまで粉々になり、燃え尽きてしまった母の遺骨はない。
 墓に入っているのは、母の遺品だけ。
 それなのに、母のせいだと責め立てられた。
 そして、それに賛同したのが、ヘイパイトス総司令官エミ・コーダンテ大将。母の姉だった。
 優しい母だった。
 厳しくも頼もしい伯母だった。
 どちらも大好きだった。あの時までは……。
『おまえは、人を統べる力がある。物を創り上げる力がある。そして、運がある。お前を次期候補とする』
 伯母が私を見て言う。
 あれは、12歳の誕生日を過ぎた頃。適性検査の結果が出た頃だった。
「嫌だ」
 私はそう言った。
 嫌だ。嫌だ。
 司令官なんてなるもんじゃない。
 私は、嫌だ。
 自分の命を犠牲にしてみんなを助けたのに、責任者だから責められた。
 司令官だから、あんなにも可愛がっていた実の妹を責め立てた。
 そんなの嫌だ。
 司令官なんてなりたくない。
『おまえには運がある。運がある上官のもとにいる部下は、恵まれている。お前は次期候補になる』
 そんなの知らない。
 私は私の生きたいように生きる。
 このまんま一士官で生きていきたい。
 部下なんていらない。
 私は誰かに従って生きる。その方が向いている。
 だから、願う。
 人を統べる能力なんていらない。
 運なんかいらない。
 私が私でいられるのなら、そんなものいらない。
 だから無くなってしまえ。
 こんな力なんかなくなってしまえ。
 私は人に従って生きる道を選ぶのだから……。
 お前は私のモノだ。だから、私に従え。
 ある意味、リオは私にとって最適な上官だったのかも知れない。
 人に従うことを選んだ私にとって、従えといってくれることがどんなに楽なことか……。しかし、彼は違っていた。
 彼は、別の意味で傍若無人に私を掻き回した。
 だけど、それでもいいと思った。
 だからあそこに帰りたい。あの船に帰りたい。
 なのに……。

「君が望むのはどちらだ?」
 どこからか声がする。
「人を統べ、人を率いていく事か。それとも人に従う事か?」
「私は従うことを望む」
 その答えに沈黙が漂う。
「では仕方がない」
 その言葉に、全身が総毛立った。
 嫌な予感がした。
 逃げないと……。
 だが、躰が動かなかった。
 た、すけて……。
 助けて……
「リオッ!」

 ぴくんと躰が激しく痙攣した。
 その拍子に目を見開く。
 暗闇の世界から一気に灯りのある世界に戻された。そんな感じだった。
 ずきすぎと頭の芯が痛みを訴える。
 鳩尾の辺りが重い。
「目覚めたか」
 その聞き知った声に視線を巡らすと、ドクターがいた。ドクター・リンドバーグ、精神科のドクター……。
「ここは……」
 ぼおっと辺りを見渡す。
 どこか気怠い躰が動くことを拒否しているようだ。
「治療室」
「何で?」
 何故ここにいるんだろう。
 回らない頭で必死で考える。
 リオがいた。
 そのリオが部屋を飛び出して……警備員が来て……
「麻酔……?」
「そうだ。君が飛び出そうとしたので、麻酔で眠って貰った。ついでに治療を始めた」
「治療?」
 視線を巡らした先でドクターが渋い顔をしていた。
「だが、時間が足りなくて、中途半端にしかできなかった。残念だ」
「中途半端?時間?」
 そういえば、あれからどのくらい立つんだろう。
 この身体の怠さはいったいどうしてだろう。
「私たちは君が昔自分に施していた自己暗示の解除を試みた」
 その言葉にダテはばっと半身を起こした。
「何故っ!」
「ヘイパイトスの総司令の依頼だ」
 その言葉にぎりりと歯を食い縛る。
 予感は当たっていた。
 伯母さんは諦めていなかったんだ……。
「そんな事……私はやらないといった筈だ!そんなことをする権利なんか例え総司令でもない筈だ!」
「ここはオリンポスだ。軍事力を高めるためなら個の意志より体制の意志が優先される。総司令官は君の力が必要だと感じた。だから、君の自己暗示を解除するように要請したのだ」
「そんな……」
 血の気の引いたダテの顔をドクターが覗き込む。
「残念ながら、君を帰さなければならなくなってね時間がなくなった。だが、一つの暗示は消すことができた」
「1つの?」
「そうだ、君は今自分がどんな言葉遣いをしているか判るかね?」
「言葉……っ」
 ダテは思わず口元を押さえた。私は……。
「君は私たちに敬語を使っていない。上官である私たちにね」
「何を一体したんだ!」
「従順でいることを課した暗示を解いた」
「それは……」
 人に従って生きるために、従順であれと願った。
 強く深く願った。何度も何度も。
 そして。
「君は上官に対して、従順ではいられない。もともとの君は、もっと攻撃的な性格の筈だから」
「どうして、そんな事を……」
 知っている。自分が攻撃的な性格だと言うことくらい。だから、隠した。だから暗示をかけてまで従順な性格であろうとした。
 そうすれば、人に従って生きていける。
「従って生きていくことに嫌悪を抱くのなら、人を従わせるしかない。解けてしまった暗示を再度かけることは出来ない。我々がそうしたから。だすら後は君次第だな……」
 どうしたらいい?
 ダテは、茫然と自分の手を見つめていた。白くなるほどきつく握りしめられた拳。
 従うことを拒否したら、リオは私の事をどう思うだろう……。
 私はリオをどうするだろう……。
 と。
 リオの事を考えたときに、ふっと気が付いた。
 私は何故、ここにいる?
 私をこのパラス・アテナに連れてきたのはリオだ。
「ドクター・リンドバーグ……」
「何だ?」
「あなたは何故、ここにいる?」
 きっと睨み付ける。
「それは私がこの第二艦隊アテナに派遣されているアフロディーテを統べる立場にあるからだ」
「ということは、ここに来ないとあなたはいない」
「そうだな」
 それが何か?と言うふうに首を傾げるドクターに、ダテは言葉を継ぐ。
「私は何故、アテナに派遣されている工作艦に配属された?」
 その問いの意味に気付いたのか、ドクターが口を噤んだ。
「これも仕組まれていたのか?」
 きつい口調のダテに、ドクターは隠していても仕方がないと思ったのか、こくりと頷く。
 コンピューターがカベイロス工作艦を選んだのは偶然ではない。作為があったということだ。
 ダテがどこでもいいと思っていたのは、あのころの仲間達や教官達ならみな知っている。
 そして……。
「リオはどこまで知っている?」
 この前のあの時の言葉。
 執拗に繰り返された言葉。
「彼はほぼ全てを知っている。君が次期候補であることも。自己暗示で本来持っているその力を封じ込めていることも……彼は、そこに興味を抱いてこの計画を引き受けたようだ」
 ぎりりと音がなる奥歯。
 だから、彼は私をここに連れてきた。
「彼が君をここに連れてくるのは計画通りだった。だが、まさか病人として連れてくるとは思わなかったが……」
 ……。
 そこまでリオは考えたのだろうか……。
 私を追いつめ、ストレスで胃を悪くしたのも作為的に行ったのだろうか……。
 全て……計画のため、なのだろうか。
 胸の奥底で何かどす黒いモノが蠢く。
 それが、神経を逆撫でし、ひどく不快にする。
 信じてくれ……。
 何を信じろという。
 何を!
「君は一つ思い違いをしている」
 突然のドクターの言葉に、ダテははっと顔をあげた。
 その顔に浮かんでいる苦笑の意味が謀りきれなくて、首を傾げる。
「カケイ大佐は、呼び寄せようとしていた我々の要請を最初拒否した」
「拒否……」
「そして、今回計画を途中止めにせざるを得なかったのは、彼のせいでもある」
 途中止め……。
 全ての暗示が解けなかったのはリオのせい?
「驚いたよ。彼は君を取り戻すためだけに、アテナの次期を巻き込んだ。次期とは言え、アテナの実権はすでに次期の3人に移っている。その次期の要請を受けては、ヘイパイトスの総司令官としても無視するわけにはいかなかった。しかも、アテナの次期はよりによってアレースの次期まで巻き込んだ。さすがといおうか、無謀と言おうか……」
「アテナの次期とアレースの次期?」
 さすがにダテも目を丸くした。
 守りの要と攻撃の要。
 知謀策略を得意とするアテナの口車にかかれば、アレースも動く。
 若造どもと切り捨てるわけにはいかなくなる。
 もともと総司令である伯母は、アレースとアテナには絶対の信頼を置いている。しかも、若い者がその力を発揮するのを喜ぶ。だからこそ、ダテのことがまどろっこしくてたまらないのであろうが……。
「総司令官より連絡を受けて、君のことはしばらく様子を見ることになった。アレースとアテナとどんな話をしたのか判らないが、それはカケイ大佐にでも聞くがいい」
 助けてくれたんだ……。
 信じろ。必ず守る。
 その言葉が心の中に甦る。
「後1時間もしない内に来るだろう。ゆっくりと躰を解しながら待合いの所で待っているがいい」
「解すって?」
「君は、3日間寝続けていたんだ。躰が強ばっているだろう」
「3日間?」
 ダテは驚いて目を丸くした。
 そんなにも寝ていたのか?
「どうも君の暗示が複雑で解析するのに時間がかかったんだ。もう少し、下準備をしたかったのだが、いつカケイ大佐が乗り込んでくると限らない状態になって、見切り発車したんだが……やはり甘かったか」
 ドクターの顔に苦笑が浮かぶ。
 ダテはゆっくりと躰を動かしながら、ちらりとドクターを見た。
「総司令官は諦めてはいないのか?」
 困ったことに言葉が元に戻らない。
 だが、ドクターは気にするふうでもなく、質問に答えた。
「諦めるわけはないだろう。そこまで強固な自己暗示をかけられるということは、自己のコントロールが優れていることに他ならない。ますます持って司令官向きではないか」
「冗談!」
 言い捨てて部屋を出ていく。
 だが、判っていた。総司令官が自分を決して手放さないことは。
 ダテはうまく動かない体を意志の力で動かして、待合いのソファに座り込んだ。
 はあっとため息をつくと頭を抱える。
 リオは知っていた。
 隠していたことも全て。
 知っていてあの態度をとった。
 あれはどういう意味なのだろう。私をからかっていただけなのだろうか。
 だが、病室で仕掛けられたキスは触れただけだったけれどひどく優しかった。
 好きだ……。
 あの言葉がまだ耳に残っている。
 信じて良いのだろうか……あの言葉を。
 だが、私は彼に従うことが出来るだろうか。
 従順であることを取り戻せない私にとって……彼は、とても尊敬すべき上官には思えない。
 腕は優れるのかも知れない。人を惹きつける何かはある。しかし……。
 こつこつ と足音が聞こえた。
 ダテは、躰を屈めずっと足下を見ていた。
 自分の足しか見えないその視界に、その歩いてきた足が入る。
「待たせたな」
 その声は聞き間違いようもない。
「遅いっ!」
 ダテは下を見たまま怒鳴っていた。
 咄嗟にでた言葉だった。
「遅いから、私は……私で無くなっていく。何でもっと早く……」
 そこまで言ってダテは口を手で塞いだ。ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
 私は……何で泣いているんだ?
「すまなかった……」
 どこか悲痛な響きを持つその声にダテは、はっと顔を上げた。
 見上げた先には、その眉間に深く皺を刻んだリオがいた。ダテの方をじっと見つめている。
「あの、くそババア。滅茶苦茶頑固でなかなか言うこと聞いてくれなかった。だからユウカ達の力借りた……」
 そのくそババアが誰を指しているのかはダテにも判った。さっきドクターが言っていた事が思い出される。
「守るっていったくせに!」
 それでも、荒々しく言ってしまう。
「ダテ……」
「守ってくれないから、私はあんたを上官として見れないかも知れない」
 その言葉にリオが明らかに狼狽えた。
「それは、どういう意味だ?」
「私は、私にかけていた暗示を解かれた。私は、もともと攻撃的な性格だ。理不尽な行為は許したくない。それを隠すために、自分が従順であれ、と暗示をかけていた。それが外れた。私は尊敬に値する上官以外、受け入れることが出来ない」
「俺は、お前にとって尊敬に値しないということか」
「当たり前だ!どこの世界に、人の弱みにつけ込んでキスしてくる上官がいる!」
「ここにいる」
 反論するのかと思ったら、肯定された。
 先ほどの僅かな狼狽えも今はもうない。
 あるのは絶対の自信。
 ダテはがっくりと肩を落とした。
「それだから……」
「だが、未だダテちゃんの上官は俺だ。認めようが認めたくなかろうとも」
 その言葉にダテはすくっと立ち上がった。
 その姿を見て、リオがその口元を僅かに上げ、嗤う。
「いいな、目に光が宿ったようだ。そんなダテちゃんも面白い。面白そうだな」
「そればっかだ、リオは」
「こんな俺だと嫌か?」
 少なくとも今はまだ彼の方が強いらしい。
 ダテは恨めしげにリオを見つめた。
 この人に逆らうには、私はまだ力不足だ。それに尊敬には値しないかも知れないけれど……彼の元を離れたくない想いがある。
「それを私に言わせるのですか」
 途端にリオがくすりと嗤った。
「何?」
「いつもの言葉遣いだ」
「!」
 自分の無意識は彼を認めている。
 ダテはため息をついた。
「そうなんでしょうね。私はあなたの副官なんですから」
「そして、恋人だ」
「え!」
 にやりと嗤われ、そして抱き込まれた。
「お前、俺に告白したぞ。あれで俺は本気で助ける気になったんだ。あの時のお前、可愛かったしな」
 その言葉に、ダテはかあっと躰が熱くなった。
「しかも泣き虫で、甘えん坊で寂しがりやだったな」
 くすくすと嗤われ、いてもたってもいられなくて、その手から逃れようとするががっしりと抱き込まれ、身動きもままならない。
 リオの指が髪に絡まる。
 少し強めに引っ張られる痛みが甘い疼きとなって全身に広がる。
 それは始めての感覚で、ダテを不安にさせた。
 ふと顔を上げるとリオの顔が間近にある。
「これからは絶対お前を守るから、俺を信じろ」
 触れあった唇はどこか熱くて、離したくない……。
 船に帰ると、グリームベル中佐達に出迎えられた。
 ひどく手荒な歓迎にぽろぽろになってしまう。
 だが、それが無性にうれしかった。
 やっぱりここが私の帰る場所だ。
 帰りたかった場所。
 たった1ヶ月の間に、ここが私の家になった。
 少し荒れてしまう言葉遣いにグリームベル中佐が嘆く。
「ダテちゃんがカケイ大佐に感化されていっていますねえ……」
 その嘆きぶりに、周りのみんながうんうんと頷く。
「俺は悪くないぞ!」
 むすっとふてているリオに合わせて、ダテもそっぽを向く
「カケイ大佐に似たいとは思いませんね」
 本気で嫌そうに言うと、リオが背後から襲いかかってきた。
「お前!そんな事を言うのはこの口か!」
 羽交い締めにされ、喉元を締められる。
「う?」
 マジで息が出来ない。ばたばたとリオの手を叩いていると、グリームベル中佐がくすくすと笑いながらリオの手を離させてくれた。
 ほっとして息を整える。と、グリームベル中佐が、首を傾げてリオに言う。
「ふざけている場合ではないんですけどね。いい加減始末書を提出しろと上がお冠なんで」
「始末書?」
 喉をさすりながらダテが問いかけると、グリ?ムベル中佐は、ちらりとダテを見やった。
「誰かさんが、面会謝絶の恋人の所に見舞いに行くためだけにパラス・アテナの警備装置を無茶苦茶に狂わしたんですよ。まあ、アテナの次期総司令殿が多少は誤魔化してくれたので、始末書程度で済んだんですけれどね、下手したら独房行きでしたよ、この人は」
「え?」
「ベル!」
 さあっとリオの頬が赤くなるのを信じられない思いで見つめていると、その視界の片隅でグリームベル中佐の目配せがいち早く伝わるのを見て取った。リオとダテが身の危険を感じた途端にその腕を捕らえられる。
 あ、何か、やばいっ!
 そう思うより早く、皆が動く。
「さて、さっさと作ってくださいね」
 その言葉に、一斉にリオの執務室に放り込まれた。
「ったあ……」
 バランスを失って、転がり込んだせいでしたたかに膝を打つ。
 背後でドアの閉まる音を聞きながら立ち上がると、その傍らでリオがむすっとした顔で突っ立っていた。
「あのやろー……」
 ひどくご機嫌斜めなその様子に、ダテはため息をついた。
 押し付けられた……。
「一体……何をやったんです?」
「別に」
 不機嫌そのもののリオではあるが、だからといってダテもその職務上彼に始末書を作らさなければならない。
「始末書書いてください」
「嫌だ」
 ふんとそっぽを向くリオにダテはがっくりと脱力した。
 どうしよ?。
 前のダテなら、ただ根気よく書いてくださいと繰り返すばかりだったろうが、今はそれができそうにない。
 ったく子供じゃないんだから……。
 それでも、今回の始末書は自分のせいでもあるという自覚はある。
「手伝いますから」
「何を」
「だから、始末書を書くのを」
「どうやって?」
 のらりくらりと誤魔化すリオにダテの怒りも強まっていく。
「リオ!」
 ばたんと机に手を叩き付けると、リオがにやりと嗤う。
「やる気ねーもん」
 あ、ああ……もう……。
 がっくりと椅子に座り込むと、リオが何かを言った。
「え?」
 顔を上げると、リオが再度言う。
「キスしてくれたらやる」
 な、何ですって!
 言葉にならない叫びが、頭の中を駆けめぐる。
「何だ、手伝ってくれると言ったのは嘘か」
「だ、だから、何でそうなるんですか!」
「キスしてくれたらやる気が起きるだろ」
 あ、ああ……もうこの人は……。
 ちょいちょいと指で招かれ、ダテも諦めをつけた。
「やってくださいよ」
 椅子に座っているリオの傍らに立ち、躰をかがめてその唇に触れるだけのキスをした。
 それだけなのに、躰が熱くなる。顔から火が噴きそうな感覚に、慌てて離れた。
「なんだ、これだけ?」
 物足りそうな口調のくせに、その顔は笑っている。
 ダテは口元を手で塞ぎながら、リオを睨んだ。
「早く始末書作ってくださいね!」
 う?、後で何か仕返ししてやる!
 心の中で叫んだこの言葉が実行できる確立は低いとは思いながら……それでも叫ばずにはいられなかった。

【了】