クロワッサン・ラブ

クロワッサン・ラブ

【翡翠色の穂波】?クロワッサン・ラブ? – 2002-10-30 –

見習いパン職人 シュリがいる店に客としてやってきた彼に、シュリは一目惚れをしてしまった。今は見ているだけでいいと思っていたのだけれど……
1
「いらっしゃいませっ!」
 昔ながらの古風な形のドアベルが、心地よい音色を響かせて客の来店を知らせる。
 朝のピークを過ぎて、俺、シュリ・フラスタンは休憩がてら店番をしていた。
 勉強熱心な俺としてはその間に一つでもレシピを頭に入れようと、一生懸命それが表示されている画面に見入っていた。
 だけど、客が来た以上いつまでも見入っている訳には行かない。
 顔を上げ愛想笑いの一つでも浮かべようとした俺は……。
 ……一瞬で硬直した。

 男、だよな。
 どう見たって男だ。
 背だって俺より高い。
 なのに綺麗だって思えた。格好良いとも思った。
 そして何より、あの柔らかな癖っ毛の淡い茶色の髪。灯りを反射して柔らかな光を放っているように見えて──まるでこれ以上にはないって言うくらいに綺麗に焼けたロールパンの表面のよう。焦げすぎず、かといって白っぽくない。あの食欲をそそる色だ。
 それに、さらりと下りた長めの前髪を無造作に掻き上げる細くて長い指。わずかに見える首筋の肌ときたら、触れると適度な弾力がありそうでよくこねられたパン生地のよう。
 灯りの反射で光った瞳は鮮やかな薄緑色で、俺が所属するオリンポス  第九艦隊ヘスティア・スプーダイオス(重要な女神)の象徴色であるエメラルドグリーンをさらに薄めたような色だ。
 それは新鮮なキウイで作った透明感溢れるゼリーのよう。
 何もかもが、好みの色合い。
 なんたって……俺の頭に浮かんだ第一印象は。
「おいしそうっ!」
 別に変な意味じゃない。
 その醸し出す雰囲気と色合いが、俺の見習いとはいえ職人の血を沸き立たせてくれるってこと。
 そう、俺ってばパン職人の見習い中。
 朝から晩までパンのことばっか考えている俺は、色恋沙汰なんてどこか無縁だったのに、そのおいしそうな彼によって、眠っていた欲望が湧き起こってしまった、って感じ。
 彼に合うパンはどんなのを作れば良いんだろうって、ふっと思ってしまう。
 創造力をかき立ててくれる容姿なんてそう無いよな。
 俺が見つめる先で、彼はその細い指を顎に当てて、どのパンにしようかと考え込んでいる。
 それからも目が離せなくて……。
 「おいしそう」っていう感情が落ち着いてくると今度は「綺麗だな」で、そして心臓がばくばくと音を立て始める。
 視線を外すことなどできやしない。
 これって……。
 一目惚れかい……。
 そんな自覚はあったけれど、最初の衝撃が過ぎ去ってしまうと同時に俺は内心頭を抱えてしまった。
 だってこの人、男だぞ。
 きりりとした眉と目元は、綺麗だけど男らしさを感じさせるのに十分だったし、着ている制服だって男性用だ。そりゃ女性だって、男性用とそう変わる物ではないが、やっぱり体型が違う以上若干デザインに差が出る。
 彼のそれは、完璧に男用で……そんなとこ見なくても男だって判るのに。
 それなのに見惚れた。
 彼がパンを選び終えてレジに来る。
 それを受け取り、袋に詰めていく間、俺は何度パンを取り落としそうになったことか。
 触れそうで触れない距離に心臓がさらにリズムを早めていく。
 その動揺を気付かれるわけににはいかなくて必死で笑みをかたどる口元はひくひくと引きつっているというのに。
「ありがとうございましたっ!」
 袋に入れたパンとカードを返すと、彼は微かに笑みを浮かべた。
 うっわあああぁっっ!!
 マジ、いいっ!
 はにかんだようなその笑みなんて、もろ虜ですっ!!
 俺、シュリ、18年間生きていて、初めて恋をしましたっ!
 今まで恋って言っていたのは間違いだったと宣言します。
 俺は、俺は。
 あの人が好きでーすっ!
 ぜいぜい……。
 どうやら緊張の余り息を止めていたらしい。
 喋った途端に、くらくらっと酸欠状態に陥ってしまった。
 呼吸困難に苦しむ俺に既に背を向けていた彼は気付く筈もなく、その間に店から出てしまった。
 醜態を見られなくてほっとするけど、俺は見惚れた相手に何にも聞け無かった。
 ああ、俺ってバカ?
 こんな醜態、サンちゃん辺りに聞かれたら思いっきり笑い飛ばされそうだから俺一人の秘密にしとかなきゃ。
 俺は大仰に溜息をつくと、さっきまで見ていた画面に視線を移した。
 だけど、もうレシピなんて頭に入る余地なんて無かった
 だけど、そんな出会いでも判ったことがある。
 彼が制服を着ていたからなんだけどね。
 それは、彼も同じヘスティアの一員だって事。
 そのエンブレムが、枝付き小枝が絡んで円になり、その中に小麦の穂を啄む小鳥がいるってこと。
 エンブレムは所属するチームによって多少違ってくるので、それを調べれば彼がどのチームにいるか判る。そうすればどこで働いているか判る。
 それから彼の階級が少佐だってこと。
 判ったのは、ただそれだけ。
 だけど俺にしてみれば夢のまた夢の階級。どう見たってまだ若いのに、そんな階級にいるってことは、超エリート。
 顔の綺麗な人はきっと頭もいいんだろうなあって、そんな脈略も無いことを思いながら、俺は通りの向こうに去っていく彼を見送ることしかできなかった。
 いや、幾ら俺でも、初めてあった人に告白するほどの勇気はない。
 ましてや相手は綺麗だと言っても男なんだから……。
 今日もまた、来店してくれた彼を、ぼおっとレジの前で頬杖をついて見ていた。
 決して暇ではない。この店が持つレシピを全て頭に入れろ、という命令は常に俺の元にある。
 だけど、一日の内のたった10分程じゃないか?
 彼を見ているその時間くらい許して欲しい。
 未だ名前も知らない彼。
 もてそうな人だよな。
 背も高いよな。俺より10cmか15cmは高そうだし。
 俺なんか、パンづくりに邪魔にならないように短めにカットはしている髪はもっと暗い茶色でばさばさ。すぐぴんぴん跳ねてしまう。瞳は髪と同じ色。
 取り柄は元気の良さだけっていうのが、ちょっと情けない。
 そりゃ、近隣のおばちゃん達には人気者だけど、こんな完璧な容姿の人の前に立つと霞んでしまう。
 ……ま……いいんだけど……。
 彼や他のお客さんに気付かれないように俺は溜息をついた。
 容姿はまあ……良い方が良いけど、やっぱり一番はパン作りの腕だと思うし。
 マスターはまあ年の割には十人前の容姿だけど、その腕たるやオリンポス中のパン好きな人間なら知らぬ者は無いっていう程の腕を持っている人だから。
 俺としては、そんなマスターに憧れてこの道に入ったんだから、やっぱり目標はマスターな訳。
 だから半年前に18歳適性検査で、モノづくりに向いているという最高に有り難い評価を受けたときには小躍りするほど嬉しかった。これで、堂々とパン職人の道に進めるのだから。
 パンを作る。
 パンを作って売って、”おいしい”と言って貰う。
 それが俺の夢だったからだ。
 
 俺達のようにオリンポスの民として生まれた者は、そのときから(正確には6歳の時から)軍所属となる。
 その間にある幾たびかの適性検査はその人物の適正を判断して、よりオリンポスのためになるように配置するためのものだ。その診断は技能的な事だけでなく、ありとあらゆる方面から審査される。だから自分がどんなに好きでも、その検査でOKを貰わないと、その仕事に就くことは難しい。
 できないことはないんだ。
 どうしてもつきたければ、それなりの努力をすればい。
 オリンポスは軍事国家だから、いろんな規則やルールそして命令という名の強制は、幾らでもある。だけど、本人の意志をまず優先させるところがあるから、就きたい仕事にも就くことはできる。
 だけど、やはり適性のない仕事はなかなか難しいんだ。特に俺が進みたいパン職人の道はね。
 つまり俺はその適性検査によってお墨付きを貰ったんだ。
 その上。
 俺の配属先は、パン工房「レストーナ」。
 しかも工場部門じゃない。手作りパン工房側に配属されたんだ。
 嬉しい……なんてものじゃなかった。
 その辞令を卒業証書と共に受け取った瞬間、頭の中が真っ白になったくらいだ。
 どこに配属された……どの艦隊に配属されたとみんなが大騒ぎしている間、俺はその辞令を抱き締めて呆然としていた。周りの喧噪なんか耳に入っていなかった。
『宇宙に出たいとは思わない。艦隊に配属されて戦いたいなんて思わない。とにかく平穏無事に過ごせることと、おっいしい会心の作のパンを作れれば良い』
 俺の夢を叶えることができる、まさに夢の場所だったのだから。
 その俺の理想の場所、「レストーナ」。
 いつだって売り切れ御礼の札が立つほどに人気のこのパン屋は地元のみならず観光客相手のしても有名だ。店の大半は工場部門からの品物が並んでいるけれど、その中には俺達が所属する手作りパン工房の品物も並んでいる。
 そのどれもがとってもおいしいっていうのは身びいきじゃない。
 特に一年に一度行われる「春の祭り」だけに焼くコーンブレッド・フェスタは、売り出して1時間の間に300個が完売するほどの人気なんだ。コーンの甘みがライ麦を使ったパン生地に見事に溶け込んでい……シンプルなのに、また食べたいって思わせるそれに憧れたのが俺のこの道に入るきっかけだったのだから。
 ただ、それでもここは、オリンポス 第九艦隊ヘスティア・スプーダイオス(重要な女神)の司令部配下のれっきとした軍事施設。
 その店頭に輝く、「小枝にとまったウグイス」のエンブレムは、間違う事なきヘスティアの象徴をアレンジしたモノなのだから。
 やっぱこの店は俺にとって幸先良いところだ。
 彼は、いつだって来るんだろうか?
 何て人なんだろうか?
 あの時まで見たことはなかった。だけど、俺が奥に引っ込んでいる間にいつも来ていたのかも知れない。
 だけど、名前すらしらない彼。
 もし常連さんならマスターなら知っているかも?
 それで、マスターに相談したのだが……。
「うわっははははははっ!」
 何が面白いのか、抱腹絶倒という四字熟語がぴったりする笑い方をされては、こっちとしても気分は良くない。
「マスター……」
 俺は涙さえ滲ませているわが上官殿に非難の目を向けた。
 酷い……。
「す、すまねー。でも、よりによって男に惚れるたあ……不毛な奴!」
 きっぱりはっきり言われて俺も口を噤むしかない。
 そんなもん、惚れてしまったモノはどうしょーもないって。
 俺はマスターを睨むことしかできなかった。
 パン工房と言っても、オリンポスである以上軍の機関の一つで、店主であるマスターもクストー中尉という肩書きがついている。と言っても誰もそんな肩書きで呼んだりはしなかったけどね。今確か40才。優れた技能を持っている人だが、それを鼻にかけるふうでもなく、それに俺と馬が合ったのか、とにかくよく面倒を見てくれた。
 普段はこのマスターと、店頭で客の要望どおりにサンドイッチを作っている派手派手ねーちゃんのサンちゃん。それに俺の3人がこの店の手作り部門の主担当だ。
 この3人だけではどうしようも無いときや、手の空かないときの店番は職人さんが交替でくるんだけどね。
 ということで、俺の目の前にいる彼は、上官なんだけど……。
 そんなにも笑うこと無いじゃないか……。
 だけど、今の俺はマスターの対応に異を唱える気分にはならなかった。
 だって、本当に知りたい。
 せめて名前を知りたい。
 いまでも彼と呼ぶのも嫌だって思って。
「俺……でも、惚れちゃったんです、マジで。なんか気が付いたら彼のこと考えているし。何も判らないから、余計に考えるんじゃないかって思って、それで聞いているんです。で、マスターは何かご存じなんですか?」
 期待を込めて丁寧に問いかけるが、それはあっさりと首を振られた。
「司令部詰めの奴だったと思うけど……そのエンブレムはな……。たぶん逢ったこともあるんだが、名前なんか知らないぞ。だかな……お前……ほんとに本気なのか?」
 さっきまでの馬鹿笑い状態から、ふっと声を潜めるように変化させたマスターは、気が付けば眉間にシワを寄せて俺をじっと見つめていた。
 どんなに切羽詰まっているときでも笑い飛ばしそうなマスターのその神妙な顔に、俺はごくりと喉を鳴らす。
「……本気かどうか……確かめるためにも、もう少し知りたいって思うし……」
 真面目な顔をしているから、俺も真面目に答える。
 少なくとも、知りたいって言うことは本気だし、逢いたいっていう感情も本心だから。
「そうか……」
 マスターは逡巡するように目を伏せた。
 その顔がなんだか辛そうに見えたのは、気のせいだろうか?
「まあ、お前もまだ若いしな。いろいろあるだろうよ。ただな……勢いに任せて相手の意志を無視するような真似はするなよ」
 溜息と共に吐き出すように言われたその台詞に、俺は思わず呆然としてしまった。
「はあ?なんだよ、それ。マスター、俺のこと何だと思ってんだよ」
「お前、突っ走るタイプだからな。いいか、恋愛って言うのは片側だけの思惑だけでは進むもんじゃないぞ」
「れ、恋愛って……。まだそんな段階じゃないし……。俺だって、それくらい……判ってるよ」
 そりゃ、突っ走るタイプなのは認めるけど、そんな無節操じゃない、とは思うけど……。
「まあ、そうだな」
 だが、俺の言葉を信じたのかどうだか判らないけれど、マスタはーくすりと肩を竦めると悪戯っぽく目を細めて俺を見据えた。
「サンちゃんならもうちっと知っているんじゃねーか」
「サンちゃんですか?」
 俺は、ううと唸ってしまった。
 彼のことをもっと知りたいって思ったときに一番に浮かんだのはサンちゃんの事だったが。それでもマスターに相談したのは訳がある。
 サンちゃんは……こういう話が大好きなのだ。
 誰それと誰それが付き合っているっていう話になると目の色が変わる。
 その話を端から聞いている分には面白いが、だからと言ってその話題の中心になろうとは思わない。
 聞きたくねー……。
 だけど、たぶん彼女に聞くのが一番確実だろう。
 背に腹はかえられないとはまさにこのとことか。
 腹の底から何もかも吐き出すようなため息とともに、俺は仕方ないなと呟くしかなかった。

 

 サンちゃん。
 本名は、サンディ・サンウース。その名前とサンドイッチ部門を担当しているから、サンちゃん。
 他の店員や常連のお客さん達みんながサンちゃんと呼んでいる。
「は?い、いらっしゃいませっvv」
 脳天気な声が頭のてっぺんからでているようなあっかるい声。
 トレードマークのくるくるブロンドヘアは一つに束ねられて肩の下辺りでゆさゆさと揺れている。
「こちらのパンが今日はお勧めっ!」
 クルミを混ぜたロールパンの腹にざっくりとナイフを入れ、マスタード入りバターを手際よく塗る。
 客が指さす中身を、ささっと見栄えよろしく挟んでいく手際なんか神業だ。
 だって、レタスの間にスライストマトとペッパーチキンをパンに挟んで、上から特製ドレッシングをかけ、それを食べやすいようにナプキンで包んで渡すんだけど、その間10秒。
 食べ物は神様からの贈り物っ!
 と公言してはばからないサンちゃんだからほとんど零すようなことはないし、お客様に渡してもとっても食べやすいって好評だ。
「シュリィ!ライ麦パン、後少しよっ」
「後15分ほど待ってよっ」
 表通りに面した店頭販売がサンちゃんの担当だ。
 12時をいくらも経たないうちに、足りないパンの注文が裏の厨房へと飛び込んでくる。
「厚切りスライスは?」
「でっきあがりっ!!」
 レストーナの一日の売り上げの3割を弾き出すサンちゃん担当部門からの店内オーダーには、俺達もぼけっとしている訳にはいかない。
 このときばかりは工場部門からも応援が来て、ひたすらサンドイッチ用にパンを切り分ける。
 これが結構忙しいのだ。
 サンちゃんと彼女をサポートする工場からの応援組である3人娘達も昼のピークが終わるまで手を止めることも出来ない。
 しかも。
 あさってから始まる秋の収穫祭に備えて、オリンポスは観光シーズンまっただ中。観光客も大挙して押し寄せてきている。
 そんなイレギュラーな客をさばいていた俺達はもうへとへとだった。

 カランカランッ
「いらっしゃいっ!」
 サンちゃんの所に持っていくパンが乗ったトレーを掲げながら、入ってきた客の横をすり抜ける。
「サンちゃん、ご注文の品、お待ちっ!」
 ほいっと手渡すと手慣れた仕草で、トレーを定位置へと移動させる。
「これでライ麦パンはもう在庫なしっ!今日も売り切ってよ」
「もちろんっ!」
 言わずもがなっとサンちゃんが満面の笑みで応える。
 レストーナを紹介した雑誌が、『最高の笑顔』と評したやつだ。
 目の前のお客さんの目がハートになっているのは彼女目当てな観光客。だが、一度ここのサンドイッチを食べたら、今度はそれに病みつきになるってくらいにおいしいんだけどね。
「お客さんっ!今日のお勧め、マスタードチキンなんていかが?」
 にっこりと笑って勧めればたいていの奴はそれを追加で買ってしまう。
 恐ろしさや、元手ゼロで最高のセールス・マネジメント。
 それに落ちる客も客……と、いい加減見慣れてしまったその笑顔を見ながら、苦笑が浮かんでしまう。
 と……。
 そういや客が来てた。
 マスターは、奥で夕方用のパンを仕込んでいる。
 今は、オレが店番担当だ。
「お待たせしましたっ!」
 すでにレジ前には、パンが乗ったトレーが置かれていた。
──ラッキーっ!
 それを見て、俺の心は思いっきり弾んでいた。
 だってさ、そのトレーには俺が作ったクロワッサンが4つも乗っていたんだ。
 最近、俺は一人で何か一品作って店に並べることを許可されたんだ。
 『見習いお試し品』って、札がついているのはちょっと恥ずかしいけど、それでも俺が作ったパンが売り物として並ぶんだぜ。
 今までは、マスターの手伝いって部分が多かった。
 だけど、これは俺が100%作ったものだ。
 どんな人が買ったんだろ?
 ずっと買われていくパンを見ていた俺は、初めてその客を見上げた。
 そう、見上げなきゃいけないほどその人は高くって……俺が低いとも言うけど……んで、やっぱり硬直しちまった。
 だって……だって……っ!
「あ、あの……」
「はい?」
 震える口が言葉をきちんと吐き出させない。
 何か?とちょっとだけ見開かれた淡いエメラルドグリーンの瞳に俺が写る。
 あ……、リング式のピアスだ……。
 直径が1mmほどのゴールドの編み込み模様のリング。
 石がついたピアスが多い中で、そういうタイプは数が少ない。
 でも、とっても似合っていた。
 思わずぼおっと見惚れてしまった。
「あの……」
 はっと気が付いたら、困惑気味に顔をしかめた彼がいた。
「あ、すみませんっ!あの……俺が作ったパンなんです、それ。あの4つも買って貰えるなんてうれしくって」
 それも事実で、そう言いながら俺は急いでレジを打った。
 パンにチップを貼るわけにいかないから、こればっかりは手打ちで値段を打ち込む

「ああ、じゃあここに入った新しい子って君なんだね」
 初めて話しかけられて、それだけで俺はほわほわんと舞い上がりそうだった。
 しかも、頬まで熱くなってくるよ。
「あの、頑張りますのでよろしくお願いします」
 ほんとは名前を聞きたいのに、でもそんなことしか言えなくて。
「がんばってね」
「はいっ!ありがとうございましたっ!」
 受け取ったカードをレジに通して、パンとともに返す。
 そのときちょっとだけ触れあった指先の感触に、ドキリッと心臓が高鳴る。
 あっという間に最高速のリズムを奏でる心臓に、呼吸することすら苦しい。
 俺って、なんて純情なんだ?
 自分の初な反応に呆れてものも言えなくなってしまった。
 すっかり硬直していた俺に、帰りかけていた彼は、くるっと顔だけをこちらに向け、にっこりと笑いながら、俺の頭に爆弾を投下してくれたんだ……。
「君のクロワッサン、とってもおいしいから、ファンなんだよ」
「!!」
 も、真っ白……。
 目の前に天使が飛んでいた。
 ふにゃーーー。
 崩れ落ちなかっただけでも褒めて貰いたいぜ……。
 気が付いたら、ドアの遙か向こうに彼の後ろ姿。
 頭が働かない。
「ちょっと、シュリっ!次のパン持ってきてよっ!」
 サンちゃんの声が遠くに聞こえたっていうのに、だけど体も動かなかった。
「あの人はね、ヘスティア司令部の艦隊関係のチームに所属の人。名前は、ジーニアス・グレイ少佐。26才よ」
 昼間の失態を客の途切れたお昼過ぎにさんざん責め立てられた俺は、結局その原因をサンちゃんに喋るハメになってしまった。
 こんな形で聞きたくなかったけれど。
 案の定、さらりと教えてくれたサンちゃんの目が、悪戯っぽく俺を見据えている。
 ああ……からかいの種を教えてしまった。
 だけど、そのデメリットを考えても、彼女の持つデータは俺にとっては甘美なものでしかなかった。
「司令部?」
「そう、司令部」
 それってエリート中のエリート。やっぱ頭が良いんだろうな。
 まあ外見の特徴だけで、ああ、彼ねって教えてくれたサンちゃんの情報量も大したものだとは思う……けど。
「それにしても男よお。いっくら、顔良し、将来性良し、性格良しったって、子供も産めない同性よん」
 同性愛にそう敷居の高くないオリンポスだけど、それでもやっぱり普通じゃないって言う認識はある。
「いいじゃねーかよ。好きになっちまったものはどうしよーもないもん」
「もんって……開き直るんじゃないわよ」
 ばしっと頭をはたかれた。
「いてえっ!」
 頭を抱えて逃げるけれど、後ろからぐいっと襟首を掴まれる。
 首が締まるから、それ以上は逃げられない。俺は大人しく元の通りにイスに座った。
「彼はね、一日一回来ているわよ。うちのパンがお気に入りなの」
「毎日?」
「そ、毎日」
 途端に、顔がにやけてしまう。
 ということは、来る時間が判れば毎日だって逢えるよな。
 司令部には俺は行くことはできないけど、ここに入れば買いに来てくれる。
 んで、そのうちにさ、名前も聞いてお近づきになっちゃって……むふふふ。
「なんか、やらしー顔してる」
 サンちゃんの言葉に慌てて顔を引き締めた。
 だけど、疑いの眼差しは消えることがない。
「何だよ、淡い恋心、大目に見てやってよ」
「どこが、淡い、よ。まあいいけどさ。でも仕事は仕事よ。今日みたいにぼさっとしていたらあの人にもう来るなって言ってやるわよ」
「そ、それだけはご勘弁を?」
 サンちゃんの実行力には定評がある。
 するとなれば、する。
「仕事きちんとしま?す。だから、サンちゃんも俺に協力してよね」
 じとっと上目遣いに見上げれば、そこにあるのは意味ありげな笑み。
 ちょっと怖いんですけど……。
 じとっと汗ばむ背筋に俺は嫌な予感がしたけれど、だからと言って前言を撤回することはできない。
 味方にすればきっとサンちゃんほど頼りになる人はいないからな。
「いいわよ。その代わり、今日の片づけ私の当番だったけれど、シュリがやってよね」
「……はい……」
 やっぱり……と思いつつも、俺は素直に頷いた。
 だってさ、俺の最重要課題は彼とお近づきになりたいってことだからね。、
 ジーニアス・グレイ……。
 名前までかっこいいや。

?
2
 サンちゃんのお陰で彼が来ると速攻で店に出ることが出来るようになった。
 確かに毎日来ている彼と顔を合わせていると、自然に会話が生まれてくる。
 マスターが、しょうのないやつだって苦笑を浮かべているのは知っているけれど、このときばかりは俺もしたいようにさせて貰っていた。
「今日は、チョコ生地を練り込んだミニサイズのクロワッサンです。そんなに甘くはしていなくって」
「じゃ、これを5個と、こっちのストロベリーを5個」
「はい、ありがとうございます」
 俺が作ったお試し品を必ず一つは買ってくれているってことに気付いただけでも、もう、うきうきどきどき。
 俺の心臓は痛いくらいに跳ねている。
「もうお試し品なんて札、いらないんじゃないの?」
 なんて言ってくれた時には、天にも舞い上がる気分。
 浮かれている俺に、マスターがさすがに口を挟む。
「お前って、社交辞令って言葉しらねーのか?」
「は?い、彼に限ってはしりませ?ん」
 どんな揶揄もこんな調子で返すものだから、もうすっかりマスターもお手上げ状態だ。
 いっとくけど俺ちゃんと仕事はしているもん。
 名前を知ったあの日から、もう一ヶ月。
 マスターがOKを出す品も増えてきた。
 頑張るんだ。
 あの人にいっぱい俺のパンを食べて貰うために。
 店先に並ぶどのパンを取っても俺のパンだってことになるように。
 俺、彼のお陰で前よりずっと勤勉になったんだぜ。
「ありがとうございましたっ!」
 今日も俺のパンを買っていってくれた。
 いろいろ作っているうちに、彼のお気に入りはクロワッサンだって判ったから、俺もいろんなクロワッサンを試行錯誤で作っている。
 たまにとんでもない味のものをつくってマスターにどつかれることもあったけれど、スタンダードな品は、彼以外にもファンがいるようで、売れ残る、なんてことはなくなっていた。
 それもこれも彼のお陰だな、なんてまたまた俺を舞い上がらせる。
「豚もおだてりゃ木に登る」
 サンちゃんがぼそりと呟いても俺の耳には馬耳東風。
「馬の耳に念仏?」
って返してしまう。
「ま、それで幸せならいいけどね」
 さらりと言われて、俺は。
「もっちろん」
 と言いながら、でも、ちょっと落ち込んでしまった。
 確かに幸せだよ。
 彼と俺との唯一の接点。
 俺お手製のクロワッサン。
 それを彼が気に入ってくれているのが判っているから。
 だけどさ……。
 話が出来ればいいって思っていたのに、そこに到達すると、次に進みたくなるんだ。
 今度は、名前で呼んで欲しいっとかさ。
 俺は彼の名前知っているけれど、彼は俺の名前なんか気にもとめていない。
 俺……結局はお気に入りのパン屋の店員……でしかないんだから……。
 最近、ふっとそんな事を考えるようになって……。
 ああ、もう……。
 人の欲望って際限ないよね。
 なんて事を考えてしまう。
 あ?あ。
 
 サンちゃんの一言は、俺的には結構堪えてしまったんだよ。
「シュリ、今日はお前が配達に行ってこいっ!」
 いっつもなら、マスター自らが行く司令部売店への配達。
 コンテナ5個分の工場で作ったパンは、あっという間に売り切れてしまう人気で、それを毎朝9時に、車で10分の距離を運ぶのはいつもマスター。
 なんで忙しいマスターがいっつも運んでいるかって言うと、ついでに業務報告に行っているらしい。
 なのにさ……。
「え?、何で俺が?」
 って、口答えしたら、げんこつで殴られた。
 そりゃそうだ。
 いっつも半ば忘れているんだけど、よっく考えたら、マスターは上官だった。
「俺は今日司令部に遭いたくない奴がきてるんだよ」
 心底嫌そうなマスターの声音にはせっぱ詰まったものが混じっていた。
 このマスターが遭いたくない奴?
 俺はそいつにふっと興味が湧いてしまったけれど、そんな事を口にしたらまた殴られそうで止めた。
 後でサンちゃんにでもそれは聞けばいいや。
 で……。
 それとこれとは別物で、司令部の配達ってのはなんか嫌なんだよね。
 だってさ上官ばっかりだぞ。
 入ったら敬礼ばっかしなきゃいけないんだぞ。
 だいたいさ。
「マスターがいっつもしている業務報告どうすんです?」
「そんなもの、通信で送れば良いんだ」
 って澄ました顔で言ってくれるものだから、俺はじとっと睨んでしまった。
 だってさ、だったら誰だっていいじゃん。
 いっつもマスターがいない間、俺一人でてんてこ舞いしてるっていうのにっ!
「なんで工場の誰かに頼まないんです?」
 あそこには俺より上の階級幾らでもいるじゃねーか。
「工場はシフトが決まってていきなりってのは無理なんだよ。なんだてめーは、上官の言うことが聞けねーってのか?」
 ズルい……。
 こういうときばかり上官面するんだから……。
 だけど、それを言われると俺は逆らえない。
 なんだかんだ言っても上官命令は絶対だもんな。
 俺は、それでもぶづぶつ言いながら配達車にパンを積み込んだ。

 大きい?っ!
 いっつも遠目では見ていたけれど、間近で見るのは久しぶり。
 無駄に高いんじゃねーかって言うくらい、末広がりの形をしたビルがヘスティアの司令本部だ。ちなみに座っている女神を意識しているデザインとか何とか……。だとしたら、女神さんってのは、すっげーでっかい腰しているってことだよな。
 まあ、それはともかく……。
 その裏に回り……って……。裏ってどこだ?
 周囲ぐるりっと回ったって全部同じ景色が目の前に広がっているぞ?
 大通りに面した側かな?って思ったんだけど、それは3カ所あった。
 お?い、どっから入れば良いんだ?
 と思案していたら、別の配送車が入っていった。
 それを目で追いかけると、西側に面した所に気付かなかった道があった……。
「なんだあ、そこか」
って一人ごちて、俺は車をそこに回す。
 入っていったら半地下になっていて、荷受け場がそこにあった。
「こんにちは?、レストーナで?すっ!」
 受付みたいな所に向かって叫ぶと、ひょいっと案内ロボットがやってきた。
「こちらにどうぞ」
 なんて、人間そっくりに喋る。
「はいはい」
 ロボット相手なら気が楽だと、コンテナを乗せたカートを押していくと。
「リン。レストーナのパン、入荷しました」
「は?い、ありがと」
 ロボットがUターンして帰っていくのと、目の前の扉が開いたのとが同時だった。
「ご苦労様」
 母親ぐらいの年の人が、出てきた。
 この人がきっと売店の担当の人だよな。
 リンさんって、マスターも言っていたし。そう思ったら、リンさんが俺を見て不思議そうに首を傾げた。
「あら?マスターから、ジーニちゃんが大好きな子が行くから引き合わせてやってくれって言われていたのに……あなた……どう見ても男よね」
「ジーニちゃん?」
 何となく誰のことを言っているのか判ったんだけど、その前後の台詞に俺はひきつってしまった。
 マスター……あんた、何企んでんだよおっ!
 うるうると泣きたい気分になる。
 でも……もしかしてこの人に頼んだら、あの人に逢えるのかな?
 それはそれでちょっくら楽しみなんだけど……。
「ジーニアス・グレイ少佐よ。私らはジーニちゃんって呼んでるんだけど。ほんとにあなたなの?」
「はいっ!」
 ああ、やっぱり。
 そう思ったら、俺ってば大きく頷いてた。
 そしたらリンさん、まじまじと俺を見つめて、そして大きく溜息をついた。
「まあ、人それぞれよねえ。艦隊に所属している人たちって、手近なところで見つけるから、同性ってのも多いらしいけど……。ヘスティアって男女比率って結構ちょうどいいってのに……」
 んなこと言われても……。
「はあ……」
 困ってしまう。
 だって、好きになっちまったんだもん。
「まあ、マスターとの約束だから逢わせてあげる。そのパン、一箱持ってらっしゃい」
「はい」
 逢えるのかな?
 今の言葉は逢えるんだよな?
 たっぷりとパンの詰まったコンテナは、結構重かったけれど、それでも言われるがままに抱えていく。
「ちょっと、配達行ってくるから、しばらく頼むわ」
「は?い。あら、今日はマスターじゃないんですか?」
「マスターはお休み」
「……あ……そうか。今日は……」
 店番の女の子が意味ありげにその口元に笑みを浮かべる。
「そうなの」
 それに応えるリンさんも、ほくそ笑んでいて……。
「何なんです?」
 その質問には誰も答えてくれないから、判らないのは俺ばかり……だった。

 

「こんちは?っ!、パンの配達よ?っ!」
 威勢のいいかけ声とともに無造作に開けられたドアの向こうで、中にいた人たちが一斉に振り向いた。
 ずいぶんと高い所まで来てて、俺は来る途中でいい加減引きつっていたんだけど……。
 って……ひええぇぇぇっ!
 ここって、ここって……っ!
 茫然と突っ立っている俺の尻を、ぽんとリンさんが思いっきりはたいてくれた。
 いやっ、エッチっ!
 なんてふざけている場合ではない。
「おじゃまします……」
 いつもの何分の一かくらいにテンションを下げて、俺はその部屋に入っていった。
「あれ?マスターは?」
 扉に近い所にいた中年のおじさんが、不思議そうに問いかけてくる。
「用事があるので今日は休みです」
 引きつりそうになりながらも、丁寧な物言いで応える。
 だって、階級章が大尉なんだよ。
 他にもぱっと見、佐官クラスかそれ以上がごろごろとしている部屋。
 俺なんかからすると雲上人の部屋になんだって。
 ここってここって……。
 導かれるまま付いてきた俺には、ここがどこか判らない。
 助けを求めるようにリンさんに視線を送ると、笑いながら応えてくれた。
「ここはヘスティアの艦隊指揮室。こうやってね、週に一度の割合になるように順繰りに配達に回るのよ。今日はこの辺りがそうなの」
「か、艦隊指揮室……」
 ひくりと引きつる頬は、俺の緊張が最高潮になった証。
 だってさ、艦隊の位置、配置、指揮系統、その他もろもろ。ここには艦隊に関する機密事項が満載なんだよ。
 それくらい俺だって判る。
 そして、そんなところ、俺みたいなぺーぺーが普通入れる所じゃないんだ。
 マスターって……。
 いや、だからこそマスターがいっつも配達に来ていたんだ。
 だって、マスターなら入れる。
 階級は中尉だけど、マスターの耳に付けられた身分証も兼ねるピアスは、佐官クラスがつけるのと同等だって言ってた。
 あのマスター……あれで、オリンポス最大のパンのコンクールに二年連続で優勝した実力者なんだから。ほんとは、もっと上がっているはずの階級は、「パン作りだけがしたい」っていう我が儘な願いを上層部が聞いたせい。
 だけど……俺、こんな部屋、入って良いんだろうか?
 きっとリンさんが一緒だから入れた部屋。
「はいはい、さっさとしないと他に行っちゃうよ」
 リンさんの言葉に、わらわらとみんながコンテナを覗きに来る。
「いっつもこうやって売ってんですか?」
 みんながいろいろと物色してるのを見ながら、俺はリンさんに話しかけた。
「言ったろ。だいたい週に一度くらいの割合で回るんだって。この辺りまで来ると売店に来るのも面倒って人が多くってね。だけどパンは欲しいってのがあって。それで、こうやって回ってる。たまに他のものも売りに来るけど、やっぱりレストーナのパンが一番売れる」
 次々とパンが引き取られていく様を、リンさんが嬉しそうに見ていた。
 でもさ、集まっている人たちの中には彼はいない。
 この人達の腕についているエンブレムは彼のものと同じだから、同じチームなんだろうけど……。
 と。
「あれ?」
 背後から忘れようもない声が聞こえてきた。
 途端にどきんと高鳴る心臓。
「あ?ら、ジーニちゃん。いないと思ったら……」
「ちょっと他の部屋に用事があって……」
「買わない?」
「もう買ってますって。ね、シュリくん?」
 にっこりと俺を悩殺するあの笑顔とともにとんでない台詞がその口から聞こえた途端、俺ってばかっんぺきにフリーズしちまった。
 い、いま……名前、言った?
「そういえば、パンの時は買わないもんねえ、なんだもう仕入れていたのかい」
「ええ、ここで買うと楽だけどやっぱ種類が限定されるでしょう?それに、シュリくんのお試し品はさすがに扱っていないし」
「え……」
 彼の壮絶な流し目が俺に向けられて……。
 駄目……。
 も、頭ん中で象がダンスを踊ってる……。
 ドクンドクンっと頭の中に響く音がうるさくってなんにも考えられない。
「お試し品って?」
 俺がなんにも言わないもんだから、リンさんばっか彼と話をしている。
 あ、もー、悔しいっ!
 何で俺の口ってば動かないんだよっ!!
 俺、俺……せっかくチャンスなのにっ!!
「あ、いっけないっ!次の配達用のコーヒーセット忘れていたわ。シュリだっけ?持ってきてくれないかしら?」
 そんな俺を見て取ったリンさんが、俺にそんな事を言う。
「え?っ!」
 なんて思わず叫んで、慌てて俺は口を塞いだ。
 せっかく彼とお近づきになれそうなのに……って、何にもしゃべれてないんだけど……。
「あ、あの……でも、俺、場所が判らないから……」
 おずおずと言い訳なんぞを考えて見るけれど、
「大丈夫だから、行ってきなさい」
 なんて一蹴されてしまった。
 結局下っ端には逆らう権限なんてない。
 でもマジ、部屋の場所ってちゃんと覚えていないのに……。
 溜息をつきつつ、仕方なく踵を返そうとしたしたら。
「あ、ジーニちゃん。申し訳ないけど、ちょっとこの子にひっついて行ってきてくれる。彼一人だとここまで入れないから」
「えっ?」
 リンさんの言葉に、俺は唖然とその場に立ちすくんだ。
 しかも。
「ああ、いいですよ。ちょうど、売店に行こうと思っていたし」
 なんてなんて……。
 ラッキ────っ!!!
 天にも昇る気持ちってこういうの言うんだろうか?
「じゃ行こうか」
 なんて彼が俺の隣に立った時なんて、まともに歩けてんのか自分でも判っていなかった。
 なんか……ふわふわする……。
 吐き出す息がなんだか熱い。
 彼の傍にいる。
 ちらりと横目見つめると、やっぱ背が高い。
 俺の目線の高さは彼の喉もと。
 なめらかな首筋に目が離せなくなりそうで、俺は慌てて視線を逸らした。
 代わりに見上げるように窺えば、その掘りの深い顔が際だってて、ほんと綺麗。
 でも”ジーニちゃん”。
 ああ、その呼び名、俺の頭にしっかりとインプットされてしまいました……。
「あ、あの……」
「何?」
 問いかければけぶるような笑顔が振ってきた。
 う……。
 俺の心臓鷲づかみもののそれに俺はふらあっと意識を失いそうになる。
 だけど、それってやっぱりみっともないから、必死で自分を叱咤した。
 俺、男に惚れたけど、やっぱり男だもんな。
「何で俺の名前知ってんの?」
 じゃねーっ!
 相手は上官だぞっ!
 敬語を忘れた口は、日頃のたゆまぬマスターとの会話のお陰……。
 マズイって……。
 慌てて口を噤んでも、出ていった言葉は消し去れない。
「ああ、シュリくんだったね」
 なんて全く気にしているふうでもなくジーニちゃんは俺の問いかけに応えてくれた。
「だって、君のパンの隣の札に最近、『見習いシュリのお勧めパン』って札が立っていたからね」
「へ?」
 俺は呆けた顔をして、彼を見上げてしまった。
「あれ……知らなかったのかい?一週間ほど前からそういう札になっていたけれど?」
 こくこくと頷く。
 知らなかった。
「あ、あれ……パンの説明札、サンちゃんが書いているから……」
 一体いつの間に変更してたんだろ?
「たがら君の名がシュリって言うんだなって判ったんだけど」
 くすりと笑っている。
 それを見ているだけで幸せ。
 だって、名前で呼んで欲しいってずっと思っていたから、それが叶ったんだもん。
 これってばサンちゃんのお陰?
 後で礼を言わなきゃいけないんだろうけど──なんかそれってこっ恥ずかしくないかい。
 思いっきりからかわれそうな気がする。
 それに……。
「いっつもマスターが来ているのに、今日はどうしたのかな?」
「あ、……用事があるからって……」
 つまり、マスターもリンさんも俺のために……ってじわんと感動していたら……。
「あ、そうか……今日は……」
 って、言葉尻を濁すジーニちゃんに、俺は訝しげに眉を寄せた。
 みんなそんなことを言う。
 今日は一体何があるんだろう?
 会話のきっかけを見つけたくて、俺はその疑問を口にしていた。
「今日、何があるんですか?」
「知らないのかい?」
 少し驚いたように目を見開いた彼。
 知的で大人びた──って俺より8つも年上なんだから当たり前なんだけど──ジーニちゃんが、そんな表情をするとちょっとだけ子供みたいな感じがした。
 綺麗って思っていたのに、ちょっとだけ可愛いって感じが入って……。
 もっと見てみたい……。
 ちょっとした仕草でも、ますます惚れちゃってしまう……。
 なんか、俺の頭……もう壊れてる……?
「あの、教えて貰ってもいい?」
 吐き出した息に熱を込める。
 ああもう、心臓が苦しくって息が苦しくって、体が熱くて堪んない……。
 平静に会話をするのが結構苦しい。
 だけど、そんな俺に気付かないのか、ジーニちゃんはくくっと喉の奥で笑っていた。
 そんな笑い方も……。

 カッコよくて、だけど、かわい──よ?!

?
3
 ピンと背筋が伸びているから歩いている姿もカッコいい。
 もう知れば知るほど、いいところばっか目に付く。
 こうやって喋っていても、優しそうな雰囲気が伝わってくる。
「みんな心当たりがあるみたいですよね、マスターがここに来なかった理由」
 もうここまでくると、それが用事のせい、なんてことは俺でも信じない。
 そう問いかけるとふっと逡巡した彼が苦笑混じりに教えてくれた。
「今日は、ヘスティア艦隊の第二分隊が帰ってきててそこの分隊長が顔出しする予定があるからね。たぶん、そのせいだと思うよ」
「あ、それは知っているけど?」
 先日、宙港にその分隊の人たちが到着してその出迎えのための家族の人たちがいっぱい街に溢れていた。
 お陰で朝っぱらから結構な売り上げだったんだ。
 司令部があるから宙港が。宙港があるから司令部がある。
 そんな街にあるレストーナにはいろんな客が来るんだけど……。
「じゃあさ、マスターはその人が苦手か嫌いなわけなんだ?」
 そういや、遭いたくない奴って……。
 でもさ、普段そんな話聞いたことないよな。
「僕も詳しくは知らないけれど、マスターと分隊長は犬猿の仲だとか。そういうシーンには出くわしたことはないんだけど、噂ではマスターが逃げ惑っているって。まあ、艦隊が出かけるとなかなか帰ってこないから、そういう所に出くわしてしまう確率ってのも低いよね」
「ふ?ん」
 俺には、遭いたくないほど嫌な奴ってのはいないから、ちょっとその辺判んないけれど……。
 逢いたくない奴じゃなくて、四六時中でも見ていたい相手っていうのならここにいるけど。
 でもあの、一見ガラが悪そうで実は取っつきやすいマスターが嫌う人なんて……。
 パンの腕のみならず、客相手の愛想の良さが売りのあのマスターに……って想像つかない。
「その分隊長さんって、そんなに嫌な奴?」
「なんで?」
 俺の問いかけにきょとんとジーニちゃんが首を傾げる。
「だって、マスターが逃げ惑うほどの相手って言うから」
 だから嫌な奴なんだろう……って続けようと思ったら。
「だ?れが、嫌な奴だって??」
 突然背後からドスの低い声とともにがっしりとした腕が首に巻き付けられた。
「うぐぅっ!!」
 驚きに心臓が跳ねる前に、一発で急所を締められた俺は目を白黒させて悶え苦しむ。
 い、息ができ?んっ!!
 じたじたばたばた。
 首に巻き付いているごつい腕は殴ろうがひっかこうが、びくともしない。
 頸動脈を締めつけられ脳貧血を起こした頭がだんだん朦朧としてきた。
 お、おれ……こんなとこで死んじゃうのか?……。
 せっかくジーニちゃんにお近づきになれたのに?……。
 ああ……俺、もう……。
 視野がすうっと狭くなる。
 ……。
「シェルマン分隊長!」
 慌てて、ジーニちゃんがそのごつい腕から俺を助け出してくれなかったら、俺は良くて病院送りだったかしれない。
 どくどくといきなり回復した血流で頭がずきずきするう……。
 朦朧とした視界に心配そうに顔を顰めて覗き込んできたジーニちゃん。
 ああ、また惚れちゃうよん。
 なんて場合じゃなかった。
 痛む喉を押さえながら、ぜいぜいと喘ぐ俺の目と鼻の先に、俺より大きいジーニちゃんよりさらに一回り縦も横も大きい男がふんぞり返っていた。
 そのふてぶてしい顔が、俺を睨み付けている。
 って……そういや、今、分隊長って……。
「俺の悪口を言うたあ、いい度胸してるな」
 低い声音は、十分俺をビビらせる。
 なんでこんなのがヘスティアに……っいうくらい、どう見ても戦闘員向けのその筋肉質の体躯には圧倒される。しかもちょっと関わっただけで窺い知れるその性格もそうとう激しそうで……。
「そ、そんな悪口なんて……」
 嫌な奴とは言ったけれど────あっ、悪口か……。
「んにゃ、言った。それにマスターがどうのこうの言っていたな。お前、フレッグの何だ?」
「フレッグ?」
 聞き慣れない名前に、ぼおっとしてたら頭をはたかれた。しかもげんこつ。
「ったあああ……」
 頭ん中が揺れている?……。
「フレッグ・クストーだ」
「あ、マスター……」
 いけね。俺マスターの名前忘れてた……。
「彼は、マスターの所の見習いですよ。シュリくんです」
 代わってジーニちゃんが答えてくれた。
「シュリ・フラスタンです」
 見習いとしか言いようがないのが悲しいけどさ……。
 だけどどさくさに紛れてちゃんと自己紹介。
 やっぱフルネームで覚えて貰いたいし。
「何だ、見習いか。……ってことは、フレッグの野郎来てねーのか?」
「はあ……用事があるとかで……」
 なんか、マスターが逃げるのが判る気がする。
 怖いよ、この人。俺だって近づきたくねー。
 なんてマスターに同情してたら……。
「何だ、俺に会うのがそんなに恥ずかしーのか、あいつは。ったくしょうがねーなー」
 なんてイヤラしく相好を崩してのたまってくれた。
 って……冗談……言っている訳じゃないよな、こいつ。
「恥ずかしいって……」
「一年ぶりに逢えるって言うのになあ。せっかく帰ってくる日も伝えてやってんのに。ま、こんな衆目の場での再会が恥ずかしいんだったらしょーがねー。店に直接押しかけっか」
 な、何なんだ、その楽しそうな顔つきは。
 それに、さっきの恥ずかしい云々。
 なんだか頭がパニックを起こしていると、さらにそいつは追い打ちをかけてくれた。
「今日はたっぷりベッドの上で喘がしてやるって言っておいたからな。いやあ、もうあいつを抱きたくてこの一年間の宇宙暮らしを堪えていたんだから、覚悟しとけってなあ。うふふふふっ」
 き、きしょくわりーっ!
 強面の馬鹿でかい図体のそいつが、ちょっとばかり上気した目で遠いところを見て笑ってんだぜ。
 っていうか、マスターとこいつってそういう関係?
 でも……マスターが「遭いたくない奴」って言ったときの顔は、とても恋人に対するもんじゃなかった。
 いや、もう本気で、心底嫌がってたぞ……。
 これは……マスターに警告を……。
 と思った途端、まるでそれを読んでしまったかのように。
「お、お前、俺が店に行くことチクるなよ」
 ドスのきいた声で脅された。
 どうやら、マスターに逃げられているっていう自覚はあるらしい。
 その警告には、もう条件反射的にこくこくと頷く俺。
 ごめ?ん、マスター。
 俺ってやっぱ我が身の方が可愛いです?っ!
 嵐のようにやってきたそいつは、やっぱり嵐のように去っていった。
 俺達は、茫然自失っといった感じでそこから動けなくって……。そして、どちらからともなく顔を合わせた。
 口火を切ったのは彼の方。
「……大変だね、マスターも……」
「俺、マスターがそういう趣味だとは知らなかった。あんなに男に惚れるなんて……ってバカにしていたのに……」
「え?」
 思わずぽろりと零してしまってから、はっと我に返る。
 ジーニちゃんが訝しげに首を傾けていた。
 マズ……。
 なんとなくやばい雰囲気。
 もしかして、ジーニちゃんってそういうのを受け付けないタイプかも……。
 ただ好きだあって思っていた惚けた気分が、ちょっとだけ引き締まってしまった。
 下手に今の気持ちがバレたら、嫌がられるかもしれないって思って。
 だから、彼に聞こえてしまった言葉を無にするために、俺はとにかく話を逸らそさないとって思った。
 それに気のせいか、ジーニちゃんがずっと俺を見つめている。
 嬉しい反面、ちょっと今はそれどころじゃないってのもあったし。
「い、いや、マスター……さ、大丈夫かな?遭いたくない奴が来るって、なんか凄く嫌がっていたんだよ」
 俺がいないから、工場に店番を頼んでいない限りマスターが店先にいるはずだ。 となると、まず確実にマスターとあいつは店で鉢合わせする。
 その後店で繰り広げられるであろう愁嘆場は想像するに難くない。
 それまで真摯な瞳を俺に向けていた彼が、ふっと口の端を上げた。
「連絡……しないのかい?」
「出来ると思う?」
 責めるようなの眼差しに、俺はそれでもぶんぶんと首を横に振った。
 だって……出来るわけない。
「まあ……ヘスティアの中でも勇猛と名高いシェルマン分隊長だからねえ。僕も、彼を敵に回したくないよ」
 眉根を寄せ、口の端を自嘲気味に僅かに上げる。
「マスターには悪いけど……」
 その苦笑ですら俺を虜にするというのに、さっきまでの嵐どころかハリケーンのような展開に俺のテンションはどうも低い。
 それに、彼が同性っていうのが駄目そうって気配も俺を落ち込ませる要因。
 ちょっとさ……気付かれないようにって構えちゃうせいで、どうしても言葉がうまく出てこなくってさ。
 結局売店に行って部屋に戻るまで、当たり障りのない会話しかできなかった。
 せっかくのチャンス。
「どうだった?」
 帰る間際にリンさんが興味津々といった感じで聞いてきたけれど。
「ありがと……」
 なんとなく元気のない俺に、リンさんが訝しげに首を傾げていた。
 成果が無かった訳じゃない。
 前よりちょっとは親しくなれているし、名前を覚えて貰っていることも判ったから、嬉しいっちゃ、嬉しいんだけど……。
 気になることも出来ちゃったわけで。
 はあぁぁ……。
 帰る車の中で、俺は何度も溜息をついていた。
 だけどさ、悩んでだってしょーがねーじゃん。
 難しいことを長い間考えるのは苦手な脳が、考えることを放棄する。
 嬉しいよな。
 うん、嬉しかった。
 いろいろ問題はあるけれど、それでも進展はあったし。
 ちょっとだけ昂揚した気分。
 そしたら途端に違う問題が浮かび上がってきた。、
 う?ん。
 俺、やっぱりまだまだ先を望んでいるみたい。
 だって、こんな仕事場じゃなくて……二人だけで逢いたいって……思っちゃってるんだよね。

 

「こんにちは。今日の作品はどれ?」
「いらっしゃい。今日はこれで?す。マフィン作ってみたんだ」
「ああ、おいしそうだね」
 先日の一件以来、店の中でこんな会話をするようになった俺達。
 半分は自分の護身のためとは言え、俺にあんな機会を与えてくれたマスターには感謝っ!
 ただねえ……。
 ちらりと厨房の方に視線を移す。
 それにジーニちゃんも気付いて苦笑を浮かべる。
「今日もまだ?」
「うん……仕事になんなくて……」
 溜息混じりの苦笑が漏れてしまう。
 あの日、俺が帰ってきたらマスターはいなかった。
 サンちゃんがてんてこ舞いして留守番していたんだけど、彼女が言うにはやっぱりシェルマン分隊長に拉致されたらしい。
 次の日、真っ青な顔で仕事場に現れたマスターは下ごしらえはなんとかしたけれど、結局昼を待たずに二階にある休憩用の部屋に籠もって降りてこなかった。
 なんとなく……何が起きたか判ってしまった俺とサンちゃんは、声もかけられなくってさ。
 しかもその夕方にはまたあの人、来ちゃって……。
 もう逆らう気力もないのか、顔色の悪いままにマスターを連れて行った。
「今日は何にもしねーよ。食事に行くだけだって」
「食欲なんかねーよ」
 マスターはつっけんどんな物言いだというのに、シェルマン分隊長はにっこにこでさ。
 助けを求める悲壮な視線に答えることもできずに、俺達は彼らを見送った。
 そのせいで、マスターはここのところずっと体調不良を訴えている。
 今だって、ほとんど仕事になっていない状況で、だもんで、店に並んでいるパンの種類が少なくなっている。
 いや、ほんと……。
 この状態って、第二分隊が次の任務につくまで続くんだろうかって、俺達も結構困っているんだけど。
「マスターはともかく、シェルマン分隊長は若い頃からマスター一筋なんだと聞いたよ。いい加減マスターも諦めればいいのに……って、うちのノーム少将が言われていたけれど……それに、マスターだって本当のところは分隊長の事を憎からず思っているって。一見強引なようで、分隊長は嫌がる相手に無理強いするような人じゃないから、て」
「でもちっとも楽しそうじゃないよな。とにかく憂鬱そうで」
 ほんとに好きなら、もっと嬉しそうでもいいと思うけど。
 俺、あの男が現れてからマスターの笑顔なんかみたことないもん。
「そう、みたいだね。大変だね、シュリくんも」
「あ……いや……それほどでもないんだけど」
 えへへへ。
 マスターには悪いけど、俺にとってはジーニちゃんに心配して貰ったって言うだけで嬉しいもんね。
「……マスター、どっちなんだろうね」
 ぽつりと呟いたジーニちゃんに、俺は何のことかと視線を向ける。
「好きだけど嫌なフリをしているのか、本当に嫌いなのか?」
 その目がどこか遠いところを見ていて、俺はなんだか胸が締め付けられるような気になった。
 まるで自分に置き換えているみたいだって……そんな気がした。
 だけど次の瞬間には、にこりと微笑んだ彼は、俺からパンの入った袋を受け取っていた。
 一体、あの表情はなんだったんだろう?
「じゃあね」
「はい、グレイさんにいっつも俺のパンを買って貰っててすっごい嬉しいよ」
「シュリくんのパンはおいしいからね」
 なんて言われれば、もう天にも昇る気持ち。
「ありがとうございますっ!」
 返す言葉が頭のてっぺんから出ているみたいに上擦っている。
 そしたら、くすっと笑われて。
 恥ずかしいやら、嬉しいやら……。
 沸騰しそうな熱に脳がとろけてしまった俺は、ジーニちゃんが出て行く姿にすら見惚れてしまって、そのまま陶然とレジのところで座っていた。

「幸せそうだな……」
 どんよりとした声に、はっと我に返る。
「マスター……」
 この世の不幸を一身に背負った様子のマスターがぼおっと突っ立っていた。
 しばらく俺の顔を凝視していたマスターは、はああっと大きな溜息をつくとのろのろと空いていたイスに座り込んだ。
 再び、はあっと息を吐き出すと、カウンターに突っ伏してしまう。
「あの……」
 体の事を聞こうとして、結局口を噤んでしまう。
 聞いて良いものかどうか、迷ってしまったのだ。
「あ?、何だ?」
 俺から見えるのは、マスターの背だけ。
 顔も上げないマスターに問いかける言葉すら失ってしまう。
 ちょうど客もいなかったこともあって、奇妙な沈黙が漂ってしまった。
 心臓に悪いその沈黙を何とかしようとは思うんだけど、常と違いすぎるマスターに、俺も勝手が違いすぎる。
「シュリ……」
「はい?」
 ようやくマスターが俺の名を呼んで、ほっとしつつもその声音のあまりの暗さに嫌な感じがした。
 さっき言った「幸せそうだな」って言葉の意味。
 その真意がどこにあるのかと──それもあった。
「すまないな。俺、仕事、ほっちらかしてしもーて……」
「は?……あっ。いえ……、大丈夫ですって」
 いや、ほんとは全然大丈夫じゃないんだけど……。
「俺な、カースの事、嫌ってやいねーんだ……」
「は?」
 マスターの口から漏れた想像だにしていなかった言葉に、俺は茫然とした。というか、カースって誰だ?
「あ、あの……カースって?」
「ああ。シェルマンのことだよ。カルシェイス・シェルマンが本名なんだ。仲がいい奴らはみんなカースって呼んでる」
 仲がいい……か。それに嫌っていないって……。
 さっきジーニちゃんが言っていた言葉を思い出す。
「でも……」
 嫌そうだ。
 そう言いつのろうとして、顔を上げたマスターの表情に絶句する。
「困ったことに好きなんだ……」
 そう言いながら、笑っていた。
 ほんの微かな笑みなんだけど、あまり良くない顔色だというのに、笑っていて……。だけど、それは俺の顔を引きつらせる位には、衝撃的な笑みだった。
 なんつうか……幸せそうってのはほど遠いんだけど、でもいいんだって諦めにも似た笑い。
「俺、地上勤務だろ。で、絶対宙(そら)に出ることなんかない。だけどあいつは、艦隊勤務で、年の半分以上は宙で暮らしいているし、危険度だって半端じゃない。逢えるのだって年に一回か二回か……」
 ぽつりぽつりと呟くように言っているマスターは、俺に言うというより自分の立場を再認識するために喋っているって感じだった。
「だからさ、あいつ……俺を連れて行こうってするんだ。俺が嫌だって言って……あいつだって俺がどんなに今の仕事好きかって知っているくせに……。それでも俺に一緒に行こうって……。俺さ……そのたんびにあいつと喧嘩になって……だけど力では敵わないから……結局無理矢理……」
 ここでいつもの俺なら、何を?って聞いていた。
 だけど、聞けるわけねーじゃん。
 マスターの辛そうな表情見たら……。
 ここんとこのマスターの辛そうな姿って、俺、体のせいだって思っていたけど……もしかしてそれだけじゃないんだって判ってしまった。
「無理矢理されて……また喧嘩になって。不機嫌でしかいられなくてよ。そしたら、自己嫌悪に陥るんだ。たった数週間、長くて1ヶ月。なのに……それに……俺だってあいつを宙なんかに行かせたくないって思っていて……。今度また逢えるのか判らないから……行って欲しくないって、結局言い出せなくて」
 マスター……悩んでんだ。
 悩んでしまうほどに、あいつの事が好きで……だけど、決してあいつの希望通りにはできない自分に……苦しんでいる。
 楽しく過ごしたいのに、僅かな時を喧嘩することでしか過ごせなくって……。
 あの……どっちかってぇーと脳天気なタイプのマスターが、こんなに落ち込んでのってそうそうないじゃん。
 だから、俺も……どう声をかけていいか判んなくて……。
 また訪れた沈黙は、お互いにとにかく居たたまれなさを伴っていてさ。
 どうしよう……。
 うっわぁぁぁぁ、俺、俺……こんなのって、こんなのって……。
 深く考えられなくって、俺、頭がパニックしちまって……頭抱えてしまった。

「あ、いらっしゃいませ」
「へ?」
 明るいマスターの声に──と言っても、いつもよりは落ちるんだけど──俺が顔を上げるとお客様だった。
 あまりにパニクっていたせいで、ドアベルの音が聞こえなかったみたいだ。
「いらっしゃいませ」
 俺も慌てて笑顔を作る。
 ぴーんと張りつめていた空気が、それだけで和らいだ。
「ま……いつものことなんだ。そろそろ割り切ってしまえるって。だからな……すまんな。もうちょいの辛抱だって思ってくれ」
 客に聞こえないように俺に囁きながら、にかっと笑うマスターはすでにいつものマスターで……。
 でも。
 その背がなんだか寂しそうだった。
 だけど。
 俺……。
 判んない。
 好きでもどうしようもないっての……そういう事態があるってのは判る。
 だけど、どうして好き合っているのに、そんなに辛そうなんだろ。
 1年に1回しか逢えないってのは辛いって思えるけど、どうしてその数少ない機会を活かすことができないんだ?
 あんなふうに、不機嫌そのものでしか逢うことができないなんて……。
 どうして、短い時間なんだからさ、楽しく逢えないんだろ。
 そうやって辛さを割り切るくらいなら、どうして楽しく過ごせないんだろって……。
 俺はそのとき、本気でそう思っていた。

 
 マスターの言葉通り、それから1週間ほどしてマスターは前の通りになってきた。
 ジーニちゃんが言うには、先日シェルマン分隊長率いる第二分隊が宙(そら)に戻っていったって。
 予定通りだって言っていたから、今回2週間しか地上にいられなかったってことか……。
 その2週間の間、マスターが笑ったのは俺に告白したあの時だけだった。
 辛い……って言っていた、その根の深さは俺には判らない。
 逢いたくて楽しく過ごしたいのに、怒って拒絶してしか過ごせない仲なんて……判らない。
 だけど、その関係は気が付いたら今の俺には結構堪えたんだ。
 俺もジーニちゃんも今は地上勤務だから、その点はいいかもしれない。
 だけど、立場は違いすぎる。
 司令部勤務って超エリート。
 俺は未だしがない見習いでさ。
 しかもパン屋の見習いと客。
 それだけって関係。
 俺……駄目。
 名前で呼んでくれれば、親しく話が出来れば……って思っていたのに、今はもっともっと親しくなりたい。
 だいたい、頭ん中ではジーニちゃんなんて馴れ馴れしく呼んでいるけど、実際はグレイさんって仰々しく呼んでるし……。
 それに、あの笑顔を独り占めにしたい。
 そして……その先にも行きたいんだ……。
 もっともっと楽しい時を過ごしたい。
 今しかないかもしれないから──あの人がもっと偉くなったら、こんなふうに気軽に買いに来ることなんて出来なくなるかもしれない。
 他の基地にもっと偉い立場で出向してしまうかもしれない。
 それが地上じゃなかったら……。
 それでなくても機密事項を扱う部署だから……どこかに行ってしまったら、もう逢えないかもしれない。
 そんな想いが俺をひどく焦らせて、なんだかいてもたってもいられなくなる。
 店先だというのに、抱きつきたいような衝動に駆られることもあって、俺ってほんと節操なしなんだって思えて。
 だけど、まだそれを抑えることだけはできて……。
 それだけが今は救いだった。
4
「……リくん……シュリくん?」
「え?」
 呼びかけられた声がして、慌てて顔を上げたら目の前にジーニちゃんが立っていた。
 僅かに顰められたその柳眉に見惚れ、そしてはっと気付く。彼がずっと呼びかけてたんだろうってこと。
「あ、すみません」
「いや、もしかして僕のほうこそ邪魔しちゃったのかな?ずっと画面見ていたし」
「あ、いえ……」
 見ていたのは確かに見ていたけど、頭に入っていた訳じゃない。
 ずっと考えていた。
 どうやったらジーニちゃんと仲良くなれるか?
 嫌われないように事を運べるか?
 そして……。
 ありとあらゆる欲望の渦って奴が、頭の中を駆けめぐっていました、なんてとうてい言えなかった。
 だいたい俺ってこうやって見つめられただけで、その顔に釘付けになってしまうほどだから。
 綺麗に形作られたその唇の造形と色に、そこに触れたいと切に願う。
 その想いを振り切るのは並大抵ではない。
 だけど、俺はかろうじてそっと気付かれないように視線を外した。
「あ、今日は何にします?」
 不自然でないように話題を逸らす。
 平静なふりをして、それでもはやる自分を押さえながらカウンターの中から彼の傍らに移動した。
 幸い客もいないし、サンちゃんは店頭で他の客を相手にしている。
 ほんと、嬉しいシチュエーションなんだけど……それが辛い。
「今日は、ちょっと遅くなるから夜食分買いに来たんだ」
 ああ、そういえば、昼過ぎだ……って時計を見上げる。
 いつもは朝食か昼用に買うから、だからこんな時間には滅多にこない。
「じゃあ、腹が膨れる奴がいいよね。これなんかは?」
 たっぷりのコーンを使ったパンを示すと、彼はこくりと頷いた。
 いつだって遅いって。
 リンさんが言っていたっけ。
 背が高いせいかと思っていたけれど、でもこうやって並ぶと彼の線の細さが判ってしまう。
 そういえば、パンばっかり。
 栄養って考えてんだろうか?
 なんか腕を回すと簡単にすっぽりと収まりそうな細さ……。
 俺、これでも他の料理もできるから──なんか作ってあげたい……。
 でも、結局は俺は単なる店員なんだよな。しかも見習いでさ。
 そんなチャンスある訳じゃなくって……。
 だけど、それでもチャンスを作ろうって努力は……してみた。
「あの……」
 今度の休みは?
 って聞きたかったけれど、結局。
「あ、いえ……何でもない……」
 って言葉を濁す。
 ここんとこ、こればっか。
「最近、シュリくんの作品増えたよね。いろんな種類がある」
「あ、うん……いろいろ試行錯誤してて、大失敗とかあるんだけどさ」
 コロッケパン、この前作ってみた。
 惣菜系のパンはどうも苦手だったんだけど、ジーニちゃんのためだもん。
 だけど……失敗。
 火加減まずったのか、コロッケばかりが焦げちゃって……。
「そうなんだ」
 くすくすと笑う彼につられて俺も笑う。
 失敗したときはショックだったけど、彼の笑顔を見られるとなると話は別。
 幸せな時間。
 だけどさ。
「すみませ?ん」
「あ、はい」
 店には他の客だって来る。
 いつもいつもジーニちゃんの相手ばっかしてらんない。
 俺は彼に頭を下げて、レジへと戻った。
 ちらちらと窺う先で、ジーニちゃんの力仕事と縁の無さそうな指がトングを掴み、パンをトレーに乗せる。
 そんな優雅な仕草に見惚れながら。
「ありがとうございましたっ!」
 客相手にかれる慣れた言葉かけも、ジーニちゃんには別の意味も込めているというのに……きっと彼はそんなこと気づきやしない。
 来てくれてありがとう。
 話をしてくれてありがとう。
 俺……あなたが好きなんだ。だから、来てくれて……ありがとう。
 だけどさ。
 それこそこんな風な会話をすることすら難しい時だってあって。
 しかも僅かなチャンスに、プライベートの時に逢いたいっていう話すら出来ない。
 だいたい、どうやって誘えばいいんだよ。
 好きですって、言葉すら言えやしないのに。
 どんな理由つけて逢いたいなんて言えば……いいんだよ……。
 ここのところ、俺はずっとそんなことばっか考えてて。
 なんだかもう思いっきり煮詰まっちまってた。
 

 司令部のあるビルの正面からジーニちゃんが仕事を終えて出てくる。
 二つもある衛星が一つもない珍しい闇夜なのに、その白い肌ゆえかジーニちゃんの姿がくっきりと俺の目に入る。
 綺麗だ……って、思わず洩れる嘆息。
 なんだかどんどん酷くなる。
 もっと気楽に楽しくやっていけるって思っていた。
 だけど、駄目。
 ジーニちゃんを知れば知るほど、話をすればするほど──俺は、彼が欲しくて堪らなくなる。
 彼が同性に対してそういうつきあいはしそうにないって、リンさんにも聞いていたし、なんとなくそうだな……ては気付いていた。
 なのにさ、強引にでもねじ伏せて自分のモノにしたいって……思ってしまう。
 腕の中で艶やかな喘ぎを漏らす彼を夢想して……欲望を吐き出す。
 その回数が増えてきた。
 今だって思い出すだけで体の芯が熱くなって堪んない。
 欲しい……。
 触れたい……。
 その端正な顔を歪ませたい……。
 欲望は果てしなく俺を狂わせる。
 それでも、無理矢理は犯罪だって……今の関係すら壊れてしまうけだっていう理性がまだある。
 それに……彼は、少佐。
 身分違いって……この星では深くは考えなくていい事柄だけど、それでも一歩ひいてしまっていた。
 だから伸ばせば触れる距離にいるときですら、俺はあんなざっくばらんな口調で話しかけても自分から触れることはできなかった。
 彼が同期の人間だったら、ふざけるように抱きついてその反応を見ることだってできるのに。
 嫌がられたら冗談だって言えるのに……。
 触れたい……。
 ……キスしたい。
 あの濡れた唇に……口付けたい……。
 人間にとって一番大事な理性。だけど欲望ってさ、押さえつけられれば押さえつけられるほどに、大きくなるんだ。
 ジーニちゃんの事で俺ははっきりと判ってしまった。
 駄目だっていう理性に押さえつけられている欲望の渦が、どんどん大きく激しくなる。
 こんなことなら……親しくならなければ良かった……。
 そうすりゃ、嫌われたって前のままだって諦められたかも。
 そう思うほどに……。

 目の前を通り過ぎたジーニちゃんに気付かれないように、その背後から20mばかり離れて後をつける。
 まだ人通りが多くって……それにやっぱり近づいて話しかける勇気が湧いてこない。
 せっかくのチャンスだというのに。
 俺は、あれから率先してマスターの代わりに司令部へと顔出しして、売店のリンさんと親しくなった。
 当然彼女は、俺がジーニちゃん目当てだって知っているから、彼の情報を少しずつだけど教えてくれる。
 今は恋人がいないってこと。
 一人暮らしだってこと。
 今日は夜勤番だから、きていないとかさ。
 そんな些細なことだけだったけれど、俺はもうそんなことに一喜一憂してて。
「今日は定刻上がりらしいわよ」
 そんな情報を聞いたのは今日の納入の際。
 定刻っていったら5時なんだけど、ジーニちゃんの帰りはいっつも遅いらしい。
 なのに何で?って問いかけたら、リンさんの情報によると、
「シフトが急に変わって明日早番らしいのよ。それで早めに帰って寝るんじゃない?」
 たかだか売店のおばちゃんが何でそんなこと知ってんだよって言いたいけれど、そういうことは結構おおっぴらに司令部の中では飛び交っているらしい。
 まあ、リンさんの言う司令部はほんとに中央に近いところにあるとこのことだから、そのおおっぴらっていうのがどこまでの範囲なのかは疑問なんだけど。
 でも、俺、それを聞いた途端ある決意が頭の中に浮かんだ。
 店の中では立ち入った話なんて出来ないから。
 だけど、帰りに偶然逢ったことにすれば何とかなるんじゃないのかなって。
 最寄りの駅までほんの5分だけど、その僅かな間でも話ができたら……って思った。
 だから、俺は今日ばっかりはってマスターに頼んで店を出た後、ずっとジーニちゃんが司令部のビルから出てくるのを待っていた。
 今日こそは……プライベートでも会えるようなきっかけを作ろうって、そう思ったんだ。
 思ったけれど……もうすぐ駅に着く。
 結局20mの距離は縮まらない。
 彼が歩を緩めれば自分の歩も緩んでしまう。
 彼が店に立ち寄れば、俺は外でずっと出てくるのを待ってしまう。
 これって……。
 もう駅の入り口が見えているというのに近づけない俺は、自分自身に呆れかえっていた。
 なのに、駄目なのだ。
 どうしよう……。
 駅からトレインに乗ってしまえば、住宅街まで一直線。
 それから……ジーニちゃんの家って……どこなんだろ?
 一人暮らしって言っていたから、専用のアパート?
 それても少佐だから、やっぱり一人暮らしでも一軒家だろうか?
 どちらにせよ、俺なんかが住んでいる小汚い古いアパートなんかじゃないんだろうな。
 部屋……どんなんだろ?
 ジーニちゃんの雰囲気からすると、散らかっているってこと考えられない。
 綺麗にしているんだろうな。
 なんか怠惰に転がっているっていうの、考えつかない。
 
 って……。
 ああ、トレインに乗ってしまう……。

 気が付けば、俺もトレインに乗り込んでいた。
 彼に気付かれないように、隣の車両へと……。

 

 要所要所についた街灯。
 その中をジーニちゃんが歩いていく。
 まだ早い時間だから、人影は多い。
 俺……何してんだろ……。
 声をかけるタイミングならいくらでもあった。
 トレインの中でも良かったのに……。
 だけど、気が付けば隅っこでずっと彼の事を窺っていた。
 時折、彼に話しかける人の存在が鬱陶しい。
 走っていってぽんと肩を叩いて……。
 って待て?
 ぴたりと足が止まる。
 ほんの少し地面を見て、口から微かに唸る声。
「……どうして俺がここにいるって理由づければいいんだ?」
 だってさ、レストーナも俺の住居もトレインに乗る前の駅周辺だ。
 パン屋の仕事は朝早いから、店の近くのアパートを紹介して貰った。
 こんな住宅地とは縁がない。
 時折走る車と通り過ぎる人たち。
 きりっとした身なりを見なくても、ある程度の階級達が住まう場所だと判ってしまう。
 すっげー場違い……。
 俺は嘆息が止められない。
 なんかさ……こうゆーのって向いていない。
 俺、何がしたいんだろ……。
 こんなところまで来て、俺は自分の行動の異常さに改めて気が付いてしまった。
「これって……ストーカーって言うんだよな」
 それがバレた日には……。
 ぞくりと背筋に寒気が走る。
 ジーニちゃん……。
 好きだけど、犯罪者にまでなるこたぁない。
 もう帰ろう。
 帰って、また店で逢ったときにでも……話をした方がいいよな……。
 そう思っているのに、足は再びジーニちゃんの後を追いかけ始めた。
 俺……。
 理性と感情。
 どうやら今の俺を支配しているのは感情なんだな……。
 どっか冷めた脳の一部が考えている。そして、それに逆らえない理性。
 視界に入っているその姿が左に曲がる。
 人の流れに逆らうようなその動きに、俺は無意識のうちに足を速めていた。
 通りから外れたということは、もしかしなくてもこの近くに家があるんだ?
 そう思った途端、俺ははぐれないようにとさらに足を速めた。
 角を曲がって行ってしまったからジーニちゃんの姿が見えない。
 だからこそ、俺は走ってしまったのだ。
 見失うかもしれない。
 そのおそれが俺を襲ったから。

 角を曲がった。
 いきなり数戸の住宅に挟まれた人のいない通りの風景に、俺ははたと立ち止まってしまった。
 ジーニちゃんがいない……。
 見渡す限り一直線のその道は隠れる所などない。
 ってことは、この辺りの家がそうなんだろうか……。
 だけど……。
 俺はぼとぼとと足を進めていた。
 ぼんやりと左右の家を見つめる。
 たぶん、この家の人たちしか使わないだろう通り。だから人通りがないんだろう……って。
「見失っちゃった……」
 一軒一軒訪ね歩く?
 そんな不審者ばりばりの行為出来るわけがなかった。
 そういう妙な所はちゃんと意識が働くくせに、やってることはストーカー。
 そのまま引き返せばいいのにさ、俺、結局その通りを歩いていく。
 探したい。
 帰ろう。
 二つの意識が俺を支配する。
 何でこんなに俺、焦っているんだろう。
 ……。
 あの建物の中でジーニちゃんと話をしてからかな?
 それとも、マスターの話を聞いてからかな?
 なんだか……俺って……焦っている……。
 嘆息が口から漏れた。
 その瞬間だった。
 背後から伸びてきた腕が、俺の首に回された途端、ぐいっと後方に引き寄せられた。
「ぐっ!」
 この攻撃はいつかどこかで……。
 首を絞められ、喘ぐような呼吸しかできない俺は何故か今の状態にデジャブを感じていた。だが、あの時よりは細い腕。だけど……だからこそ、しっかりと急所を締めてくる腕。
「うっ……」
 首を絞めている腕を外そうと、必死でその腕を掴んだ。
 だけど、いくら力を入れてもその腕はぎりぎりと音を立てる位に締めつけてきて、決して緩むことはなかった。
 頭が酸素が足りないとわめいて、がんがんと音を立てて痛む。
「だ……ぁぁっ!」
 誰何しようにも、声が出せない。
「僕をつけてどうするつもりだ?」
 感情を抑えた声が低く、そして鋭く耳を貫いた。
 え……この……声……。
 朦朧とする意識の中で、俺はその声の主を脳裏に浮かべた。
 聞き間違えるはずなかった。
「ジーニ……ん……」
「!」
 思わず振り絞るように吐き出した名に、少しだけ腕の力が緩んだ。
「お前……誰だっ!」
 そう呼ぶのは知り合いだけだ……と、動揺が腕から、そして密着した背から伝わる。
「シ……シュリ……」
 吐き出した吐息に乗せて、名を名乗る。
 逆らう気力なんてなかった。
 朦朧とした意識が誤魔化しなどさせてくれない。
 途端に外された腕から、俺はくたりと体が崩れ落ちた。
 頭が働かない。
 痛い……痛い……。
 ガンガンと響くのは回復した血流の音。
 冷たい地面が頬に当たる。
 顔ばかりが熱くなっていたから気持ちいい、なんて呑気に考える。
 はああぁぁぁぁぁ……。
 堰き止められていた呼吸を吐き出した。
 途端に激しい刺激が気管を襲った。
「げ、げほっ、げっ、……けほっ、けほっ……」
 横たわったまま、何度も何度も咳き込む。
 咳のせいで、足りない酸素が肺まで届かない。
「げほっ……ひぃっ……けほけほっ、ひくっ……」
 震える体は横隔膜をも痙攣させ、とにかく呼吸を整えるのを邪魔する。
 もう自分の事だけで精一杯だった。
 苦しさのあまり溢れ出た涙が、頬を伝い、こめかみを伝った。
 しゃくりを上げながらぐじゅぐじゅと鼻を鳴らす。
 締められている時に呼気を求めて出していた舌のせいで、ヨダレが口の周りに溢れていた。
 息が整うに連れ、意識もなんとか回復していく。
 ぼんやりとした視界の大半を占める固化された地面。そこにある靴。ズボンの裾。
 それが誰か俺は誰よりも知っていた。
 のろのろと腕を動かし、手のひらで顔を覆う。
 涙と鼻水とヨダレでぐちゃぐちゃになった顔を晒したくなくて……。
 ストーカーの現行犯で捕まった自分の顔を晒したくなくて……。
 だけど、名前を言っちまった。
 彼は……俺の正体を知っている……。
「何で、僕の後をつけたんだ?」
 俺の呼吸が落ち着くのを待っていたのか、上から冷たい声が降ってきた。
 こんな声……聞いたことない。
 ほんとにあのジーニちゃんの声なのか?
 低くて……トゲトゲしい声音に、ブルリと全身が震える。
 知らない……。
 知らないけど……そんな声を出させたのは俺がした行為……。
 びくびくと怯える俺は何も答えることができなかった。
 今、この場から逃げ出したいのに、無様に横たわったまま動くことも敵わない。
「答えろよ。どうしてつけたんだ。これでも……一応訓練受けているからね。気配には敏感なんだ。それに……戦時中なら狙われても仕方のない仕事しているしね」
 誰に……なんて馬鹿な事は問うことはない。
 俺だって知っている。
 ジーニちゃんの仕事。
 艦隊編成と艦隊行動に関する事柄は機密事項が多いって事くらい。
 そんな職務につくジーニちゃんの事を見くびったのは俺のおごり。
 少佐……って、訓練内容も何もかも俺達見習いとは違うって事……忘れていた俺がバカ。
 ぎゅっと目を瞑る。
 何もかも何もかも……惨め。
 休みの約束貰いたくて──たったそれだけのことなのに、こんなことまでして……結局出来なくて、声がかけられなくて……最悪の失敗をしている自分。
 バッカだよな……。
「シュリ……何か言ってみろ」
 ジーニちゃんが動く気配がして、ぐいっと力強く俺の襟首を持ちあげた。
 力の入らない体が引き上げられる。
 うっすらと目蓋を開けると、涙で潤んだ視界の先にヘスティア・スプーダイオス 艦隊指揮室所属の事務官、ジーニアス・グレイ少佐だ。
 レストーナのパンが好きな常連のジーニちゃんではなかった。
「グレイさん……」
 掠れた声が痛んだ喉を震えさせる。
 痛みに顔を顰め、焦点の合わない視線が中空を彷徨っていた。
「……言いなさい」
 さすがに俺の悲惨な状況に気付いたのか、グレイ少佐の声音が少しだけ和らいだものになる。
 それでも……ジーニちゃんじゃない……。
「……話……したかった……」
 言ってから息を吐き出す。肺の中の空気、全て吐き出すほどに長く深い嘆息。
「話?」
 何のことだと、彼の眉間にシワが寄って考え込む。
 そりゃ……判んねーだろーな……。
 俺だって……こうしてつけ歩いても、実際には何の話をしたかったのか判っていなかった。
 彼は、俺が見つめているのに気付かない。
 寄せられた愁眉も、その下の淡いエメラルドグリーンの瞳も、俺を魅了してやまないってことに気付いていない。
 だから、そんな顔を間近で見せる。
 俺を……狂わせる。
 男相手にストーカー行為をするほどに……。
「何の話をしたいと言うんだ?」
 形の良い唇が言葉を紡ぐのですら、目が離せなくなるというのに。
 欲しい……。
 朦朧とした意識のせいだろうか?
 この悲惨な状況のせいだろうか?
 混濁した思考は、ただ感情に支配されようとしていた。
 俺は……。
 今、魅入られていた。
「シュリ?」
 ただ、見つめるだけの俺に、彼も気付いた。
 訝しげに眉根を寄せ、目を細める。
 問いかけるように僅かに開いた唇。
 その全てが俺を煽る。
「……好きだ……」
 掠れた声に、グレイ少佐は俺が何を言ったのか判らないと、さらに眉間のシワを深くする。
「シュリ?」
 聞こえなかったと問い返しながら、顔を近づけてきた。
 それに手を伸ばす。
 指先に柔らかな髪が触れた。
 その髪を掴む。
 もう一方の指が綺麗なラインを持つ首の後に回った。
「シュリ……?」
 先ほどとは違う、動揺の混じった声が目の前の喉を震わせた。
 それが俺に火をつける。
「好きだ」
 さっきよりはっきりした言葉。
 途端に、びくりと俺の手の中で震えた体。
 それを一気に引き寄せて……。

 夢にまで見た柔らかな唇。
 夢よりももっと柔らかく……甘く……疼く……。
5
 強張った体が、激しく反応するのに数秒を要した。
 驚愕に震える体が、俺から離れる。
 どこかぼんやりとしたオレの頭が……ようやく自分のしでかした事を教えてくれた。
 そして、今まさに彼に拒絶されたのだと……。
 視界の中に、口を手の甲で押さえて真っ赤な顔をしている彼がいた。
 その後は闇。
 衛星の明かりのない新月の日。
 その中で街灯に横顔を浮かび上がらせた彼。
 象牙色の肌が夜目にもほんのりと朱色に染まっていて、鮮やかに浮かび上がっていた。
「好きなんだ……」
 俺は、そんな彼から目を離すことなんて出来なかった。
 体が熱い。
 下腹部から疼くような震えが走る。
「シュリ……」
 苦痛を耐えるかのように顰められた顔が、俺に現実を教える。
「ずっと好きだった……。だから、話がしたくて……。だけど……俺って所詮は見習いで……。今日は、今度の休みがいつか聞きたくて……約束取り付けたくて……」
「シュリ……」
 ずっと彼は俺の名しか言わない。
 いや、言えないんだ。
 混乱しているから……。
 そりゃそうだ……、男に告られるなんてさ……。
「でも……話しかけられなかった。ははは……いざというときには勇気がなくなってるんだよ。で……これって玉砕って奴?……あは、はははははは……」
 喉からただ乾いた笑いが漏れる。
 俺……バカ……だ……。
 困った顔して、佇んでいる彼。
 ジーニアス・グレイ少佐。
 俺は、この人が好きだ。
 手に入れたい。
 抱きしめたい。
 キスしたい。
 そして……。
 俺の果てしない欲望が、今の現実を作り出した。
 今まで築いた関係を、自ら壊した。
「はは…………」
 ふっと笑いが止まる。
 彼は何も言わなかった。
 俺の言葉に反応しない。
 ただ、エメラルドグリーンの瞳がじっと俺を見つめていた。
 動かない表情。
 染み入るような闇を背負っているせいか……その瞳の奥の感情が見えてこない。
 軽蔑……なのだろうか?
 判らない……けれど、きっとそうだろう。
 俺は、振られたんだ。
 判っていたこと、だって彼は男相手に何とかなろうなんて想うような人じゃない。
 こんな容姿を持っていれば、彼に想いを寄せる女性は幾らでもいるはずだ。今がたまたま恋人がいないって言うだけで……。
「ね……最後のお願い……」
 俺は、片手をついてゆっくりと立ち上がった。
 背の高い彼の顔を、顔を上げて見つめる。
 ゆっくりと腕を伸ばすと、彼の体が大きく揺らいだ。
「ごめん……だけど、これで最後……ね……もう一度だけ……キス、させて……」
 ゆっくりと……本当にゆっくりと俺は彼に近づいた。
 今度は身じろぎもしない。
 ただ、じっと俺を見下ろしている。そして、俺もまたずっと見上げている。
 これって、させてくれるっていうことなんだろーか?
「最後だから……」
 手繰り寄せるように彼の髪に指を絡ませ、少しだけ引っ張った。
 狼狽が彼のエメラルドグリーンの瞳を揺るがせる。
 それでも逃げない。
「ごめん……」
 俯いて近づいた顔に、俺は思いっきり背伸びをして近づいた。
 なんか……情けねーぞ……。
 場違いな考えが、一瞬だけ浮かんで消えていく。
 そんなことよりも、今触れあっているその感触だけに意識を集中する。
 もう二度と手に入れることなど出来ないだろう。
 だから……これが最後……。
 
 もう一度と言ったけれど。
 俺は何度も何度もその唇に口づけた。
 髪の中に潜り込んだ指を滑らせ、離れないようにと頭を捕まえて。もう一方の手で、彼の背をかき抱く。
 柔らかくない男の体だというのに、至上の抱き心地。
 もっと……もっと……。
 もう一度だけと強請ったはずの俺の一度ではないその行為に、彼は離れるその時まで逆らわなかった。

 背伸びした足が堪えられなくなって──チクショーッ!もっと鍛えておくんだったっ!!ってバカな後悔をしながら、俺は最後に一度だけぎゅっと抱きしめてから離れた。
 指の間を滑って離れる髪すらも愛おしいのに……離れないといけない。
 彼は逆らわなかったけれど、身じろぎもしなかった。
 さっきより少し立ち位置が変わっただけで、その顔が逆光になって表情が読めなかった。
 ただ、何も言わなくて……。
 冷たい夜気に張りつめた緊張が辺りを支配する。
 堪えられなくて、くっと唇を噛みしめた。
 鼻の奥がひどく熱い。
 こみ上げてくるものを必死で堪えた。
 ……駄目だ……。
 でも……。
「……もう……近づかない……から……」
 喋ってしまうと歯止めが効かなくなって、ぽろぽろと熱い塊が頬を辿った。
 みっともねーけど……止まんない……。
「さ……よ……なら……」
 絞り出すように、やっと言葉を舌に乗せて……。
 駄目だ……もう……。
 最後だから、いつまでもここにいたかったけれど。
 だけど、その場の雰囲気に居たたまれない方が強くって、俺は踵を返すと脱兎のごとく走り出した。

 辛い。
 辛くってみっともなくて……堪んない。
 通りは暗いけど人通りが多くって、俺は人を避けるように脇道へと入っていった。
 住宅街の路地裏のような道を走り抜ける。
 息が上がって、心臓が悲鳴を上げるまで……俺は走り続けて……。
 限界を体の全てが訴えた頃、俺はようやく足を止めた。
 それでも立っていられなくて、ばたりと体を地面に投げ出す。
 柔らかくてそれでいて針のような刺激が頬に触れる。
 気が付けば、そこは公園だった。
 公園に敷き詰められた芝生に寝っ転がり、空を見上げる。
 1年に1回。
 二つの衛星が影に隠れて、覗かない日。
 今日がその時なんだと、俺は星しか見えない空を見上げていた。
 綺麗だよな……。
 澄んだ空気の中、瞬く星の群れ。
 一際強く輝く星は、人工衛星だって聞いた。
 パン作りを目指す俺には縁があまりないところだ。
 あそこにいる友達だっている。
 それでも、今の俺にとってはあれも星。
 ただの星。
 ジーニアス……。
 楽しかった日々が、走馬燈のように脳裏を流れていく。
 初めて逢ったときも、名前を呼んで貰ったときも……何もかも。
「へへへっ、失恋しちゃった……」
 あまりのショックに、零れるのは嗤い声。
 だってさ、なんかすっげー情けない振られ方。
 告白して玉砕したならまだマシだったかもしんないけど、ストーカーして嫌われたんだからね。
 すっげー、情けないったらありゃしない。
 そりゃそんなつもりはなかったけど……。
 あ?あ。
 大きく、長く息を吐き出す。
 胸の中のもやもや、全て吐き出すように。
 そして……。
「シュリ・フラスタンのおおばかやろ────っ!」
 こういう時の定番。
 俺は約束を違えることなく夜空に向かって叫んでいた。
 で……。
 な、んで……来るんだよっ!!
 俺は、とっさに厨房へと逃げ込んだ。
 幸いにして、表が暇だったサンちゃんが入ってきたところだったから、勝手にレジを押しつけて。
「シュリ、このバカっ!」
 サンちゃんの怒鳴っている声が聞こえたけど、無視っ!
 俺は、外からも見える窓に姿を晒さないように、必死で影に隠れていた。
 昨日の今日。
 まさか来るとは思わなかった。
 ほんと、いつもの時間。
 いつもより強張っている顔つき。
 だけど、間違えようもない。
 淡いエメラルドグリーンの瞳がぐるっと店内を見渡す。
 そっと覗いている俺の姿がその瞳にら捕らえられないか、俺の心臓はもうずっと爆発寸前で鼓動していた。
「……何やってんだ?」
 壁に張り付いている俺に、マスターが訝しげに声をかけてくる。
 それに唇に人差し指をあてて、表情だけで懇願した。
 声は聞こえないって判っていたけれど、万が一ってことを考えてしまう。
 マスターがちらりと店へと視線を向けた。
 そして、再び俺を見る。
「どした。無理矢理襲いでもしたのか?」
 襲いはしなかったけれど、全部が間違いとはとても言えない俺は、それに返事など出来ようはずもなく……。
 黙りこくって冷や汗をかいている俺に、マスターはすうっと目を細めた。
 そして。
「無理矢理ってのは……好き合ってでもやっちゃいけねーことだぞ」
 その言葉はこれでかって言うくらい太い杭になって俺の胸に突き刺さった。
 も……再起不能……だよ……マスター……。

 

「シュリッ!手伝え!」
 マスターの切羽詰まった様子に、店がごった返しているんだろうなと、俺は仕方なく店へと行った。
 あれから一週間。
 俺は出来るだけ店に出ることなく過ごしていた。
 ただ厨房に籠もっていて、そのせいで店番のサイクルが上手く動いていないってのは知っていたけれど……。
 あれ?
 店内を見渡しても、今レジを済ませている客以外は他に客はいない。その客が帰っていくと、それこそ無人の店内。
「マスター?」
 訝しげな俺の問いかけに、マスターはぽんと肩を叩くと代わりのように奥に引っ込んでいく。って、ちょっ、やばいって!
 俺、店には居たくねーんだよ!
 呼び止めようとしたマスターが、ぴたりと立ち止まると俺を睨み付けた。
「ちょっと腹具合がわりーから、お前店番してろ」
「えっ、でも!」
「何だ?俺の命令が聞けねえって言うのか?」
「う!」
 普段命令なんかしないのに……。
 俺はじとぉっと恨めしげにマスターの背中を見つめていたが、マスターはさっさと奥に引っ込んでしまった。
 うう、来たらどんな顔すればいいって言うんだよお。
 だけどまあ、いっつも来る訳じゃないだろうし、そんな偶然っていつもある訳じゃ無し。
 それにもしかすると今日は来ないかも知れない。
 それを期待していたのだが……。
 ドアベルがからんからんと鳴った。
「いらっしゃいま……せ……」
 ドアベルに反応した俺の声は尻つぼみ的に小さくなった。
 何となれば、入ってきた客が、一番遭いたくない相手だったから。
 俺は、奥に引っ込む理由がないかときょろきょろと辺りを見渡した。だが、そんなものがあるはずもない。それどころかサンちゃんまで、いなくなっているじゃないかっ!
 そ、そりゃ、客はあの人一人だけど……謀られたのか、これは?
 すうっと寄った眉間の皺に指をあて、考え込む。
 そんな俺を後目にジーニちゃんはうろうろと店内を歩き回っていた。
 ちらりと窺った先の表情は、何かを考え込んでいるようで、その口元はきりりと引き結ばれている。
 時折視線がこちらに向けられて、俺は目を合わせないようにじっとレジを見つめていた。
 並ぶキー。
 仇とでもいうように凝視する。
 だけど、店内の空気はぴーんと音が出そうなほど張りつめていてとにかくいたたまれない。
 俺の心臓は周りの音が聞こえないほどにばくばくと音を立てていた。
 と。
「……は?」
 何かが聞こえて、俺は慌てて顔を上げた。
 気がつけば、レジの前にジーニちゃんが立っている。
 さらに高鳴った心臓と緊張が俺を支配して、俺の躰は硬直していた。
 絶対呆けた顔をしているとは思うのだが、表情すらコントロールできない。
 だが、俺のそんな顔を見ているにも関わらずジーニちゃんの表情には変化がない。冷たく俺を見据えて、再度俺に問いかけてきた。
「今日の君の作品はどれ?」
「え?」
 それは、この前までいつも俺に向けられていた台詞と同じ物だったも関わらず、俺は情けなくも、それが理解できなかった。
 数秒後ようやく我に返った俺は慌てて立ち上がって、本日の俺の作品、ストロベリークロワッサンを指し示す。
「今日はこれです」
 レジから一番近いところに、「本日のシュリの作品、ストロベリークロワッサン」と書かれたプレートが立っているトレー。
 気づかないはずは無いはずなのに、なんでいちいち聞きに来るんだ?
「これか……」
 相変わらず感情が読めない声音がその口から漏れる。
 この人は何を考えているのだろう。
 ただここのパンが好きなだけなら、わざわざ俺が焼いたパンなんか買わなくたって良いじゃねーか。
 俺は……こんなのってやだ。
 これって、結構辛い。
 ジーニちゃんは、しばらく逡巡しつつトングを所在なげに握っては離してかちかちと音を立てていた。
 と。
「これ、全部貰う」
 指さした場所の一山分のクロワッサン。
「え?」
 小さいサイズとは言え、20個はある。
「これ、全部ですか?」
 俺の問いかけに彼は頷き返すと、俺にトレーごと手渡した。
「??」
 いつもはミニサイズだと10個程しか買わない人なのに。
 だが、客が買うと言っているんだから、俺はそれを精算するだけだ。根掘り葉掘り聞くもんじゃないし。
 俺はそれを袋に詰めるとチェックして済んだカードと共に手渡した。
「ありがとうございました」
 もう、これで……。
 ほっと一息つけると思ったのだか、ジーニちゃんはレジの前から動こうとしなかった。
「あの……」
 仕方なく上目遣いで彼を見上げると、ばちりと目が合う。
 淡いエメラルドグリーン。
 いつも暖かな雰囲気がしたその瞳が、ひどく冷たいものだと……思った。
 だけど……魅入られる。
 あのときと同じく目が離せない。
「あ……」
 まず……。
 また、引き寄せられそうだ。
 手を伸ばして……触れたいと……。
 忘れることなどできない柔らかな感触が唇の上に甦る。
 だ…けど……。
 くっと唇に歯を当てて、その欲求を振り払う。
 なんとか……ほんとうになんとか、目線を下げることに成功した。
 視界に入る、ジーニちゃんの制服。
 なぜ出て行かないんだろう。
 なぜ……ジーニちゃんは俺の前にいるんだ?
 あんなことしたのに……なぜ?
 俺の頭の中は疑問でいっぱいだ。
 答えの見つからない疑問がぐるぐると頭の中を駆けめぐり、俺を支配している。
「……なさい」
 だから聞こえなかった。
 言葉尻がかろうじて聞こえて、はっと顔を上げる。
 ジーニちゃんは俺を見下ろしていて……。
 笑ってる?
 勝ち誇ったような……そんな笑みがその口元を形作っているような気がした。
 何で?
 俺はどんなに呆けた顔をしていたか。
 だけど、ジーニちゃんがくすりと吐息に乗せて笑う。
 今度こそ確かに、耳にも聞こえた。
「今日の昼12時に、デルフォイの公園にある噴水広場に来なさい」
「え?」
 あの、何て……。
「必ず」
「あ、あのっ!」
 がたりと音を立てて椅子が倒れた。
 だけど彼は俺の反応なんて全く無視してさっさと店を出ていってしまった。
 何なんだ、これは?
 頭の中が真っ白になっていた。
 それでもかろうじて言われたことは覚えている。
 えっとえっと……これって行かなきゃやばいんだろーな。
 あの、でも何で?
 俺を呼びだして、どうしようって言うんだろ?
 でもでも……ジーニちゃん、笑ってた?
 最初は怒っているような感じだったけど……だけど、俺を見ていたジーニちゃんは……笑っていた。
 そりゃ……笑われるような変な顔していたかもしれないけど……。
 ああ、もうっ!
 俺はごっちゃになった頭の中を振り回すように、大きく頭を横に振っていた。
 だって、だってよ。
 もう何がなんだかっ!
 何でジーニちゃんが俺を見て怒って、そして笑ったかなんて……。
 何で今更呼び出されるかなんてっ!
 なんかメッチャ判んなくてっ!!
 ああっ!!
 何がどうなっているんだよおおおっ!!
 約束の時間まで1時間。
 行かなきゃいけないんだよな。
 どぎどきと高鳴る心臓が、だけどひどい不安に襲われてきゅうっと締め付けられる。
 苦しいよ……。
 でも、行かなきゃ……。
 きっと行かなきゃ終わらない。
 となると……。
 俺は厨房にとぼとぼと歩いていった。
 マスターに正直に呼び出された旨を伝える。
 と、尻を思いっきり叩かれて店を追い出された。
 転がりそうになるのを何とかバランスをとって堪えて背後を振り返る。
「まだ、早いですっ!」
 叫んだ先で、サンちゃんまでもがにこやかな笑みを浮かべて手を振っていた。
「いってらっしゃ?い。吉報待っているからねえ!」
「おお、とっとと言ってこいっ!!」
 って。
 おい。吉報って何だよ。
 吉報どころか、最悪なことになるかもしんないかも。
 だけど……さっきの笑顔。
 あれを思い出すと、もしかしたら……って気もして……。
 俺の心はあっちにいったりこっちにいったり……シーソーのように揺れ動く
 サンちゃんもマスターも俺が既に玉砕しているの知らないから、変に勘ぐっている。
 だけど、やっぱり……。
 店に入ってきたときは、ジーニちゃん怒ってたよな。
 ムスッとしていたもん。
 あの笑顔は、ただ俺がバカな顔してんの笑っただけだよな。
 おもしろがっているみたいだったし……。
 それに気づくのにそう時間はかからなかった。
 ああ、もう!何だって言うんだ。
 これ以上何があるのか知らないけど、もう、煮るなり焼くなり好きにしてくれっ!
 噴水広場につく頃には、そんな心境に陥っていた。
 

 噴水広場のベンチの場所を一通り回ってみたが、まだ来ていないようだった。
 そりゃそうだ。
 まだ約束の時間まで30分以上ある。
 マスターが苛々と俺を追い出すから、こんなに早くついてしまったじゃねーか。
 俺は所在なげに辺りを見渡した。
 平日だから、そんなに人はいない。
 俺は日陰になりそうな木陰を選んで芝生の上に寝っ転がった。
 頭の後で手を組み、空を見上げる。
 司令部近くの宙港からシャトルが飛び立った軌跡が空に向かって伸びていた。
 それ以外は、雲一つない晴天だ。
 昔、ここに植民を開始した頃は、こんな緑も青い空も無かったって言っていたな。
 それを少しずつ、人間が暮らしていくのに合った環境に変えていった第一世代の人達。
 こんな未来を想像してがんばったんだろうなあ……。
 それに比べて、俺なんか男追っかけて捕まえられて怒りを買って玉砕して落ち込んで、その相手に呼び出されて戦々恐々しているんだから、平和なもんだ。
 はああと大きなため息が漏れる。
 鳥の声がどこからか聞こえてき、心地よい風が頬をくすぐる。
 地面から漂う土の匂いですら、心をリラックスさせてくれるようだ。
 もう、どうでもいいや。あの人が何で俺を呼び出したのかは知らないけどさ、どう足掻いたってなるようにしかならないんだから。
 その考えに辿り着いたせいかな?
 悩んで苦しんでいたのがバカらしくなってしまった。
 そしたら……とっても眠くなっちまった。
 って……何で眠くなるんだよ……。
 これから修羅場かもしんねーのに……。
 だけど、ここんとこずっと眠ることの出来なかった体が、睡眠を欲しているのは自覚はしていて……。
 ……。
6
 何かが、俺の頬に触れていた。
 柔らかくて暖かい。それがつつっと顔のラインをまさぐるように動き、くすぐったくて俺はそれを払うように手を動かした。
 と、その手が何かに捕らえられた。
 上げたまま手首を捕まえられたそれに違和感を感じた途端、はっと気がついた。
 寝てた?
 慌てて目を開けた途端。思いっきり心臓が跳ねた。
 心臓が喉から飛び出すっていう比喩が、そっくりそのまま当てはまるか思った位だ。
 何と、俺を覗き込むようにしていたジーニちゃんの顔がすぐ間近。
 至近距離にある顔は憧れたときのままに綺麗で、格好良くて……。
「あ、あ、……」
 驚きのあまり言葉が出ない。意味不明な喘ぎ声に、ジーニちゃんがくすりと笑った。
 それを見た途端、今度は驚きではない感情に心臓が爆走する。
 だ、め、だよ。
 それって……。
 胸が痛い。呼吸をするのも苦しくて、俺は至近距離のその顔から逃れるように顔を背けた。
「また、逃げる?」
 触れんばかりの距離で囁かれて、俺の躰はびくりと反応した。
 逃げるって?
 その意味が分からなくて俺は横目でジーニちゃんを窺ってた。
「あの時も逃げたよね。言いたいことだけ言って、僕の言葉も聞かずに」
 あの時って……。
 ジーニちゃんが言っているのは、あの時のことだろう。
 捕まって、理由を言わされて、最後だからって堪らずにキスした……あの時。
 あのキスシーンは無理矢理だったけれど、今でも思い出すたびに躰が熱くなる。
 絶対に言えないけど、俺、あれをオカズに何度も達っているんだぜ。
 あんた、それを俺に思い出させるのかよ。
 ほんとに一瞬思い出しただけで、しかも至近距離にその相手がいるから、躰がかあっと熱くなる。
 欲望の象徴が、その時の愉悦を思い出してむくりと反応しそうだった。いや、もう反応しているんだろう。少しきつい……。
「どいてください」
 寝っ転がった躰の上に上半身を覆い被さるようにされているせいで動けない。
 だが、俺の頼みを聞くつもりはないようで、避けるどころか面白そうな笑みすら浮かべている。
 さっき、店で見たあの笑顔。
 どこか勝ち誇っているような、得意そうな……今まで見たことがなかったあの笑顔。
「あの時の返事、聞きたくないんだ?」
「へ、返事?」
 俺の呆けた声に、ジーニちゃんてばこくりと頷いた。
 返事って……一体?
 何のことか判っていない俺にジーニちゃんは少しだけ目を開いて、だけどその後、ふっと優しく微笑んだ。
 と、思ったら。
 え、えええええっ!!
 驚きのあまり見開いた視界に入りきらないほどの間近に顔があって、しかも、しかもっ!!
 息もできないほど、ぴったりと俺の唇は塞がれて。
 その柔らかい感触は、前にも味わった物と同じっ!!
 て、忘れるわけないっ!
 甘くって、柔らかくって、襲ってくる疼きまで一緒で……って、それどころじゃねーっ!
「んんっ!」
 驚いて叫び声をあげようにも、それは喉から意味不明の音でしか出ない。
 こ、これって……これって……ジーニちゃんからのキス???
 触れるだけのキスだったけれど、離されたときには俺の頭はぼおっとして、何がどうなったのか判らない。
 ただ呆然とジーニちゃんを見つめる。
 だって、目が離せない。
 今の状態が信じられなくて、視線を逸らすと何もかもが消えてしまいそうで。
 そんな俺を目の当たりにして、ジーニちゃんが紅潮した頬を惜しげもなく晒しながら可笑しそうに笑う。
「この前の勢いはどうしたんだい?」
「だって……」
 あん時は頭がぶっ飛んでいた。
 ただ単に勢いだけで、つっかかっていったから……。
「で、これが僕の返事なんだけど……感想は?」
 返事……返事……って、返事だよな。
 って!
「返事って、じゃあっ!!」
 がばっと跳ね起きたもんだから、咄嗟に躰を仰け反らせた。
「危ないなあ……」
 ごちるのを無視して、詰め寄る。
「これが返事って事は、じゃあ?」
「そういうことだよ」
 さらりと言ってのけるジーニちゃんを俺はただ呆然と見遣ることしかできない。
 一見平然としているように見えるその瞳が所在なげに揺れているのに気付いたのだけど……。
 だけど、何かを言おうと口をぱくぱくさせるのだが、今度は声帯が働かない。
「僕はあの時君が言ったことをすぐには理解できなかった。信じられなかった……っていうのが本音かな。だってさ……君からそういうこと言われるなんて……絶対にないって……思っていたから……」
 微かな吐息の音。
 途切れ途切れの言葉が彼の躊躇いを教えてくれる。しかもその顔は耳の後まで赤い。
「ずっとさ……君のことは気になっていたからさ。最初は元気な子だな、って位だったんだけど。そのうちいつ店に行っても……も君の視線を感じるようになって……。その視線、最初は気にならなかったんだけど、そのうちなんか見られることが心地よくなってきた。僕……こんな容姿だからじろじろ見られることには馴れていたんだけど、君のは、なんだか違って見えて」
「……ごめん」
「あ、いや責めている訳じゃなくて……」
 くすっと吐息だけで笑うと、じっと俺を見つめ返す。
 象牙色の肌が薄く染まるとほんとにピンク。
 キレイで思わず手を伸ばす。
 だけど、ジーニちゃんは逃げない。
 くすぐったそうに首を竦めて、それでもその瞳が外されることなく言葉を紡いでいる。
「君のパンは優しい味がするんだ。もともとあの店のパンが大好きでしょっちゅう買っていたけれど、ここまで毎日通うようになったのは、やっぱり君と知り合ってからだよ。君のパンが買いたくて、……君と……逢いたくて……」
 だんだん声が震えてきて、堪えきれなくなったようにすうっと伏せられた瞳は、何を見ているのだろう。
 俺はその視線を捕まえたかった。
 俺を見て話をして欲しかった。
 だから、伸ばした手をそっとジーニちゃんの顎に移動させる。
 ジーニちゃんは逆らわない。
 俺の誘(いざな)うままに顔を上げる。
 羞恥に染まった顔は、あまりにも扇情的。
「君のこと、知っている事って言えば、あのパン屋の店員で、修行中で、シュリって言う名前で、18歳だって言うこと位。……あのキスは驚いたけど、だけど君にもう一度って言われてしたキスは……不快じゃなかったんだ。君が何度も何度も口づけてくるうちにとっても気持ちよくなってきて……。だから、逃げていく君への反応が遅れてしまった」
 そ、そんな……。
 俺、頭の中がパニック起こしてる。
 だけど、ジーニちゃんの言いたいことが判る程度には働いて。
 だから……だから……。
「ほんとは……どうしたかった?」
 声が震えていた。
 声だけじゃない。
 ジーニちゃんの顎に添えている指も微かに震えて……。
「君の真意をもう一度確かめたくて、話がしたかった。だから店に行っていたのに、逢えなくてさ。君って、僕のこと避けていただろう?」
「それは……あんなことして、嫌われたと思ったから……」
「でさ、僕もなんだか腹が立ってきて。不思議だよね。キスされた時は、一向に腹なんか立たなかったのに……君が避けているってことに腹が立ったんだ。もうこうなったら、文句の一つも言ってやろうって、どうしても逢おうっていろいろ考えていた。そしたら……」
 言葉を切って、ふうっと小さな息を吐いている。
 俺は、そんなジーニちゃんの口元をじっと見ていた。
 喋って唇が乾いたのか、赤い舌がその隙間から覗いてぺろりと唇を舐める。
 すっげー、色っぽい……。
 ぞくりと寒気にも似た疼きが走る。
「聞いてる?」
 突然かけられた声に、俺はびくんと大きく躰を震わした。
 やっべーっ!これって聞いてなかった証拠じゃん!
 焦ったけれど、それでも首をこくこくと縦に振る。
 ばれてはいるのだろうけど、気にしたふうでもなく言葉を継いだ。
「そしたらさ、なんだか楽しいんだ。不思議だったよ。何でこんなに楽しいんだろうって。その内気がついた。君といる時っていっつも楽しかった。今まで、付き合ってきた誰よりも楽しいって思えた。それで気づいた……」
「気づいたって?」
「やっぱり僕は君のことが好きなんだってことに……」
 どくん
 心臓が大きく跳ね、そして続け様に鳴り響く。
「あ、の……グレイさん?それって、俺のこと好きって……でも……いつから?」
 好きっていろいろあるけど、さっきキスしてくれたし……そういう意味の好きってとって良いんだよな。
 俺は情けないことにほんとにおずおずとその顔を見つめていたんだ。
「たぶん……ずっと前から」
 はにかんだような笑みがその口元に浮かぶ。
 俺は、それを見た途端、理性なんか吹っ飛んだ。
 がばっと抱きついていた。
「うわっ!」
 バランスを崩して倒れそうになった躰を後ろ手をついてかろうじて支えているジーニちゃんを抱き締める。
 悔しいことに俺の方が小さいから、どうみたってジーニちゃんの胸に縋り付いてるってしか見えない。でも、こうやっても嫌がっていないのが判る。
 嬉しくて、目の奥がつんと熱くなってきた。
「俺、もう駄目かと思ってた。あんなふうに逃げたのも、怖かったから。あれって、もう最後だからなんでもしちゃえっ、て感じだったんだ。警察でも何でも突き出されたって仕方がないって思っていたから……だから、二度とあんたに逢えないって思っていたから」
「僕も……もう逢ってくれないかと思ったら……ひどく辛かった」
 ぽつりと声が振ってくる。
 俺はそっと顔を持ち上げて、ジーニちゃんを見つめた。
 さっきよりさらに染まった頬に手を這わせる。
「どうしても話をしないとって……ここ二三日はそればっかり考えていた。そうしたらマスターが気づいたんだろうね。僕、ここんとこ3食、あの店のパンだったから。君が焼いたパンをいっつも一杯買ってね、いつも中を窺うようにしていたから……それでマスターが今日あの時間に来るようにって言ってくれて……そしたら逢えた」
 やっぱ、あれは謀られていたのか。
 でも、今回ばかりはそれが嬉しい。
「ごめん。俺、もう駄目かと思っていたから、もの凄く逢うのが怖かった。苦しかった。逢いたかったけれど、それで罵倒でもされたらどうしようかって……そんな怖さばかりがあって……それでずっと中の仕事ばっかしてたんだ。だから、いまでも信じられない。ほんとに俺のこと好き?こんな見習いの俺なのに?」
 やっぱり自分に自信がなくて、窺うように尋ねる。と、ふんと鼻先で嗤われた。
 それがまた……コケティッシュ……。
 ああ……下半身が……疼く……。
「よく言うよ。僕のことつけ回していた頃の気持ちはもう無いわけ?見習いって言うけどさ、少佐たる僕にため口を聞く君が、どんな口でそんな事を言うわけだ?それに僕に自分のパンを売り込んでいた度胸はどこにいったんだ?そうやって、僕の心の中に入り込んでいった君が、今更そんな事を言う訳?そんなこと……もう手遅れだよ。君は僕を捕まえたんだ」
「俺が?」
「そうだよ。落ち着いて考えたら、君はずっと僕にアプローチしていたんだ。いつだって視線を感じていたから……。それが嫌でなくて、一言二言、言葉を交わすだけでも楽しいって思っていたのに気が付いて……。だんだん話をするのを期待している僕がいた……。君は気付いていなかったみたいだけど……」
「そんなの……気付く訳ない。もう自分の事考えるのだけで手一杯だったし……」
 ジーニちゃんがそういうふうに俺を見ていたなんて全く気がつかなかった……。
「あの時、キスされて不快でなかった。君の腕って僕なんかより力強いね。抱き締められて、嫌じゃなかったんだ……。今だって……君の寝顔を見ていてキスしたいって思えるほどに……これって君の責任だからね。ちゃんと責任取ってくれないと……困る」
 困るって……。
 見上げた先のジーニちゃんは、確かに照れたように赤い顔をしていたけど、その声がいたって平静にしか思えないのは気のせいだろうか?
 抱き締められていた俺は、その腕の中から身を乗り出した。
 じっと瞳を見つめていると、ふっと視線を逸らされた。
「俺を見てよ」
 囁くと再び視線を戻す。
 余裕のあるような笑みを口元にたたえてはいるけれど。
 でも、時折所在なげに動く瞳の方が、感情をめいっぱい教えてくれて。
 それがなんだか可愛くて、俺は嬉しくて仕方がなかった。
 も、俺って単純だなあ……。
 だって……ジーニちゃん、平静なふりして──でも、緊張してる。
 僅かに震えている唇なんてむしゃぶりつきたいくらい扇情的でさ。
 俺、も、堪えられない。
「なあ、キスしていい?」
 欲望の赴くまま伸ばした手で、ジーニちゃんの頭を捕らえる。
 ジーニちゃんは嫌がらなかった。それどころか。
「今更……聞かないで欲しいね」
 溜息をつきながら、その瞼を閉じる。
 俺はその溜息のくすぐったさに顔をしかめつつも、それらすらも嬉しくって、その僅かに開いた唇にそっと口付けた。
 それはやっぱりとっても柔らかくって。
「好きだ……ジーニちゃん……」
 ちょっとだけ唇を離して囁くと。
「その呼び方……なんかやだな。せめてジーニアスにしてくれないか?」
 ちょっとだけ不機嫌そうで、でもどこか掠れた声が聞こえてきた。
 俺は、返事の代わりに再度口づけた。
 くすりと笑いを乗せた吐息がジーニちゃんの口の中に消えていく。
 わずかに開いた唇の隙間に舌をこじ入れると、ぎゅうっと抱きしめられて……。
 俺は、より深い──恋人同士のキスにのめり込んでいった。
「あ、あのさ……」
 ぐいっと押しのけられ──俺はほんとは離したくなかったけれど、渋々腕からジーニちゃんを解放した。
「何?」
 それでも少しでも触れていたくて、その腕を掴んだまま。
 そんな俺にジーニちゃんは耳まで真っ赤になって俺に抗議の視線を向ける。その潤んで僅かに朱に染まった瞳が、俺の心臓を鷲づかみにしてくれるっていうのに。
「こんな……人がいるところでするような……キスじゃないだろ……」
「え?」
 その言葉に俺は密かに衆目を浴びているのに気が付いた。
 途端に、ぼんと全身が弾けるような激しい羞恥に襲われる。
 ついつい調子に乗ってしまった。
「このまま……最後まで行きそうな雰囲気で……焦った……」
 ぼそっと呟いたジーニちゃんの目は、恨みがましく俺を睨んでいた。その手が広げられた襟元をかき集めている。
 なんてこった……。
 俺って無意識のうちにそこまでしてた?
 じっと見つめる俺の視線から逃れるようにふぃっとそっぽを向くジーニちゃんは……駄目だ、むしゃぶりつきたいくらい色っぽい……。
 もう、俺って妄想の塊?
 合意のキスができたら、今度は次をって考えてる。
 このままだと、ここで押し倒しそうだ……。
「あ、あの……」
 なのに、俺の口ってば誘う言葉一つ吐き出さない。
「何?」
 はふっと吐息を漏らすその仕草すら、俺を煽るって気付いているんだろうか?
 どうして、俺ってこんなに節操なし?
 だけど、欲しくって堪んなくなる。
 気付かれていないって思うけど、実はズボンの下は結構苦しい状態なんだ。
「えっと……」
 何て言えば良いんだろ?
 まさか、いきなり『したい』はないよな?
 だいたい、俺出来るって言うことくらいは知っているけど、その準備とか……何が必要かなんて知んない。
 その……やっぱゴムってさ必要なのかな?
 そんなことなんか頭の中でぐるぐるしているのに、肝心の誘い文句なんて一個も浮かばない。
「シュリ?」
 何も言わずに見つめる俺に、ジーニちゃんは訝しげに眉根を寄せて問いかけてきた。
「あ、いや……何でもない」
 やっぱり、いきなりってのはないよな。
 そのさ……ゆっくりいかないと。
 もっといろいろと勉強して。
 あれって、慣れるまでは痛いっていうし……。
 ちらりと、マスターの辛そうな様子が思い浮かぶ。
 あんな……目に遭わせたくないし。
「あの……今日は、まだ仕事?」
 妄想も欲望も、何もかも心の片隅に押し込めて笑いかけると、ジーニちゃんは僅かに首を傾げて逡巡していた。
「うん、まあ。シュリも仕事中抜けてきたんだろ?」
「そうだけど」
 マスターに追い出されたけれど、いつまでも店空けているわけにはいかない。
 俺ってやっぱ見習いだし……。
「じゃあ……来週の火曜日は、逢えるかな?お店、休みとれる?」
「え?」
 火曜日?
「なんとか……なると思う」
 マスターの予定もサンちゃんの休みとも重ならないし……。
「休みなんだ。ちょっと買い物したいし、つき合ってくれるかい?」
 こ、これって?
 これってっ!!
「もちろんっ!!」
 俺、叫んじゃって……。
 ジーニちゃんってば……思いっきり、笑ってさ。
 その笑顔は初めて見たほんとに晴れやかなモノだった。

 

 買い物に行った日。
 ジーニちゃんは、俺を家に招待してくれた。
 あの場所からさらに5分ばかり行ったところ。
 そして。

「んっ……」
 甘いくぐもった声が、喉の奥から漏れ聞こえていた。
 俺の舌がゆっくりと背筋を舐め上げると、びくりと体を震わせる。
 ベッドについた手に力を込め覆い被さっていた体から上半身だけ持ち上げると、視界一杯にジーニちゃんの裸体が入ってきた。
 ごくりと……。
 息を飲み
その姿を見つめる。
 ほんとに……一昔前なら男に対して欲情するなんて思わなかった。
 だけど、ジーニちゃんは別。
 何もかもが綺麗だって……おいしそうだって思える。
「ジーニアス……」
 怒るからちゃんと呼ぶけど、目元まで朱に染まったその顔を見た途端、やっぱり頭の中はジーニちゃんって叫んでた。
 だって、そんな。
 そんな劣情を誘うような目線を送られて、俺が我慢できるわけないじゃんっ!
 それでも、必死で自分を取り戻して──それってメッチャ苦痛だったけど、ジーニちゃんのためって我慢して。
 粟立つように震える背の肩胛骨あたりにそっと手のひらを当てる。
「ん……」
 気怠げに息を吐き出す。
 それがひどく甘美な音で……もう俺の欲望は張り裂けんばかりに成長中!
 なんてお手軽なんだろ、俺って……。

 なんてことはない。
 あれだけ我慢しようって……ゆっくり進もうって思っていた俺なんだけど、気が付いたら、二人っきりになったらもう押し倒してた。
 だってさ……。
 ジーニちゃんの部屋をいろいろと見せて貰っていたら寝室にベッドがあって……いや……当たり前なんだけど……さ。
 寝て起きたまんまだったそれを、
「朝、時間がなくて……」
 と照れながら、整えだしたジーニちゃん。
 前屈みになってシーツを整えているせいで、白い首筋が露わになってさ。
 おいしそう。
 って、ぱんと頭の中が弾けて、俺の下半身は節操もなく疼いてくれた。
 二人っきり……だよな。
 しかも、ベッド。
 そのさ、他にも誰もいるわけじゃなし……。
 なんとなく持ってきてしまったゴムは、俺のポケットのなかにあったりして……。
 だって……。
 やっぱ、こういうものは必需品だって、教えて貰ったんだもん。
 それと、男は濡れないから潤滑剤も必需品だとか……。
 で……まあ、最初のデートでそこまで行くのはマズイだろ……てば思ったんだけどさ、やっぱり保険……ってことで……。
 ポケットの奥深く、そこに突っ込んだ手の中でそれらを確認する。
 手のひらに伝わる感触は、妙に存在感が大きくて、俺の欲望に火をつけて、なおかつそれに油を注いでくれたのだ。
「ジーニちゃんってば……」
 そう呼びかけると、ちょっとむくれて俺を見返した。
「ジーニアスって呼んで欲しいね。君にジーニちゃんって呼ばれるのは嫌だ」
 なんてことを言う。
 その表情がなんか可愛くって、俺は思わず吹き出していた。
「ほら、笑う……」
 余計にふてくされてしまった。
 店で見ていたときは、うっすらとした笑顔か思案顔か無表情か……そんなのばっかだったから、そういう不機嫌な顔も新鮮でさ。
 俺の妄想をいろいろと刺激してくれるんだ。
 もっと虐めてみたいって思うのは……好きだから。
 だっていろんな表情させてみたい。
「じゃ、ジーニアス?」
 呼びかけながら近づいて、その両肩に手を置いた。
 ここにいたっても何を仕掛けようとしているのか気付いていないジーニちゃん。
 まだきょとんとしていた。
 そんな彼を見上げて。
「ね、キスしていい?」
 にっこりと笑いながら問いかける。
 途端に驚いた拍子に一歩下がって、だけどそこにはベッドがあった。
「っ!」
 喉に引っかかったような微かな悲鳴が聞こえ、その体がベッドに沈む。
 すぐさま跳ね起きたけれど、ぐいっと近づいた俺の体のせいで立ち上がることはできなかった。
 ああ、ちょうどいいや。
 座ったことで、俺より低くなったその顔。
 ちょっと不安げなその表情が俺をそそる。
「ジーニアス……」
 怒らせたくないから、ちゃんと名前で呼んで。
 くいっとその綺麗な顎に指をかけて持ち上げると、朱に染まった顔が俺を見上げた。
 あっ……堪んない……。
 少し開いたいつもより赤い唇に誘われるように、俺はそっと口づけていた。
「っ……」
 微かな音が喉から漏れてる。
 見開かれた瞳が俺をずっと見ていた。
 ああ、そうか……。
 今更ながらに気が付いた。
 ジーニちゃんってば、少しとろいんだ。
 だって……、キスしたら反応するまでちょっとだけ間が空く。
 最初は驚いているせいかと思ったんだけど、だけど今だってそう。
 きっとなまじっか頭がいいからいろいろと考える方が先に立つんだろうな。キスした瞬間その回転の良いはずの頭が必死で今の状況を計算してんだと思う。そういう仕事だし。
 だけど計算通りにならないから、結論が遅れる。
 つまり、反応が遅れる。
 まっ……それはそれで面白いかも?。
 新しい発見はジーニちゃんと一緒にいるときに結構使えそうねなんて単純に喜んでしまう。
 でも今は。
 俺その間を使ってジーニちゃんを押し倒していた。
 背に腕を回してきつく抱きしめながら、ベッドの上に体重をかけて押しつける。
 気が付いても逃れられないように。
「んんっ……」
 数秒後、俺の体勢がしっかり整った時点で、ようやくジーニちゃんの腕に力が入った。
 苦しいのかな?って思ったけれど、離すつもりなんかない。
 だって……俺、我慢できない。
 苦しげに開かれた唇の間に舌を潜り込ませ、奥へと隠れている柔らかなそれを引きずり出す。
 びちゃ
 溢れた唾液が、舌を伝ってジーニちゃんの口内へと流れ込んだ。それでもはみ出た唾液は、お互いの触れあった粘膜の間で音を立てる。
 ぐいっと膝を押しつけると、びくんと体の下でジーニちゃんが震えた。
 感じてくれてんだ。
 腰に当たる確かな感触。
 俺もそうなんだと伝えたくて……この先、俺が何をしようとしているのか教えたくて、俺の分も、ぐりっとジーニちゃんに押しつける。
「んっ?」
 いつの間にか固く閉じられていた目蓋が驚きで見開かれた様子が、目に入ってきた。
 不安げに淡いエメラルドグリーンの瞳が揺れ動く。
 ごめん……。
 だけど俺ってほんともう我慢できない。
 ちょっとだけ、唇を離してジーニちゃんを見下ろす。
 向けられたままの瞳が俺をじっと見つめていた。
「……シュリ……」
 熱い吐息とともに呼ばれる俺の名。
 どこかとろけているその表情に俺の理性はもうノックアウトだ。
「ごめん、我慢できない……」
 我慢することが苦しくて、俺は眉間のシワを深くしながら謝っていた。
「……この状態って……僕が女役……なんだよね……」
 上目遣いに見つめる瞳。僅かに震える声が彼の躊躇いを教えてくれる。
「駄目?だって……俺、挿れたい」
 だから、ちょっとだけ小首を傾げて、可愛くねだる。
 ま、その内容は可愛いもんじゃないって判っているけどさ。
 それでも俺のおねだりに、ジーニちゃんはひくりと頬を引きつらせて……そしてうろうろと視線を彷徨わせた。
 考えてんだろう。
 俺なんか考えるより先に動いてしまうけど。
 でも、それも一瞬。
 すっと固定された視線は俺を凝視していた。
 耳まで朱に染めた顔の中、どこよりも赤い唇がゆっくりと動く。
「……いい……よ」
 言った途端にその目が固く閉じられた。
 俺はもう何も言えなくなって、その首筋にむしゃぶりついた……。

 その日のジーニちゃんはTシャツに、パーカーを羽織っているだけの簡単な服で、脱がすのに手間はかかんなかった。
 どうも俺ってそういうことばっか手が早いのかね。
 視界を埋める白い肌。そこに散った朱色の花びらが蠢く様は、もう喉を鳴らすっきゃない。
 それに、なんかすっげー敏感。
 俺の拙い愛撫に反応してくれる様は見ていて気持ちいいし、もっと頑張りたくなる。
 過ぎる刺激はジーニちゃんを苦しめているようで、辛そうに顔をしかめ、涙が溢れることだってあるっていうのに。
 俺は、先走りで濡れそぼって震えるその先端にそっと口づけた。
「んあっ……」
 一オクターブは高い声が室内に響く。
 慌てて押しのけようとしたその手をものともせずに、熱くて堅いその塊をぱくりと口に含んだ。
「や、止めっ!」
 慌てたように制止の声を上げるのを無視して、舌でざらりとなめ回すと、俺の頭を掴んでいた力が一気に弱まる。
「ん、……んく……」
 必死で声を押し殺す様もいいよなあ……。
 綺麗な肌。
 薄い茶色の柔らかい髪が汗で額に張り付いて、いつもは半ば隠れ気味だった目元今はがはっきりと見える。
 時折うっすらと開いて、俺の様子を窺って……そして堪えられないと固く瞑っているジーニちゃんに俺は、目線だけを向けていた。
 きゅっと口をすぼめると、感じているのがはっきりとその顔に出る。
 俺の舌の意のまま翻弄されるジーニちゃんを見ていると、もっともっと悶えさせたくなってしまう。
 とにかく気持ちいいだろうって所を何カ所も何カ所も探ってみては、ジーニちゃんが一番感じるところを探していった。
 俺って勤勉だな……なんてバカな事をちらっと考えたけど、でもこれはジーニたゃんのためだもん。どんな苦労だって惜しまないさ。
「あ、もう……駄目……」
 途端にせっぱ詰まった声が頭上から降ってきた。
 なすがままに受け入れていたのに、その手がぐいっと俺の頭を押しのけようとする。
 させるかよ。
 避けさせようとするから、俺は意地になって、外れないようにぎゅっと口をきつくすぼめた。
「うっ、くうぅぅっ!」
 銜えていたものがぶるっと震えた途端、喉の奥に熱い塊が降りてきた。
 その独特の妙な味に顔を顰める。
 でも、あれ……。
 ふっと見上げると、ジーニちゃんが大きく肩で息をしていた。
 えっ……と、これって……。
 ぽかんと開けたせいで口の中からぬるっとジーニちゃんのものが飛び出してしまった。
 でも口内に残るこの味ってば……。
 えへへへへ
 真っ赤になって視線を逸らすジーニちゃんに俺はにっこりと微笑んでしまった。
 口の端から顎に垂れるそれを見つけたジーニちゃんは、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「さっさと吐き出したら……」
 その声が掠れちゃってる。
 必死で落ち着こうってしているんだけど、でも耳の後まで真っ赤になっているジーニちゃんを見ていると、嬉しくって堪らない。
 口の中にあるものもジーニちゃんが出したものだって思ったら、吐き出すのももったいなくて、俺はごくりと飲み込んでしまった。
 ごくりと動く喉に、ジーニちゃんがもっと真っ赤になる。
「そんなもの……」
 抗議の声を上げかけて……ふっと口を閉ざした。
「何?」
 にっこりと笑いかけると、ジーニちゃんってばふるふると首を横に振った。
「何?」
 言いかけて止めるなんてすっごい気になるんだけど?
「……いいよ、もう……」
 何か諦めているみたい。
 俺ってそんなに突っ走っているのかな?
 ちょっと不安になって顔を覗き込むと、しようがないなって感じでちょっとだけ笑われた。
「シュリ……いいよ、したいようにして。僕は……覚悟はしているから……」
 判っているから。
 そう言って俺に抱きついてきた。
 汗ばんだ体からいい匂いがする。
 もっともっと嗅ぎたくなるような甘い匂い。
 俺……結局ジーニちゃんに甘やかされているな。
 だって、男だったら女みたいに受け入れるっていろいろと葛藤があるらしいし。そんなに素直に受け入れられるんじゃないって……聞いたから。
 でも、ジーニちゃんは本能的に逆らう以外はずっと従順。
 俺のしたいようにさせてくれる。
 ほんとに……いいのかな?
 この僥倖に俺のなけなしの理性が、少しは留まれって訴えてくるのはそのせい。
 だけど……。
 いろいろと理性が言ってくるけれど……。
 やっぱ止まんねー……。
7
「したことないんだ……」
 再び唇を合わせて、柔らかさを存分に味わって離したら、そんな事を言う。
 そりゃ……男となんてしたことない方が多いよな。
 って思ったら……。
「……セックス……」
 恥ずかしそうに顔を背ける。
 って……!
「初めて!?」
 つまりは童貞ってこと?
 こういうのってさらっと流すべきなんだろうけど、このときの俺って、あまりの告白に頭がぶっ飛んでいた。
 だって、店でもこの人が来たら振り返る女性客がいるくらいモテそうな顔してんのにっ!
 俺があんまり驚いたせいか、今度はムッとして眉間にシワを寄せてしまった。
 あっ……マズっ……。
「あ、でも俺も初めてだから。女の子としたことないしっ」
 モテないわけじゃなかったけど、そこまでの仲にはならなかったから。
「でも君は18だろ。ずっと学校行ってて仕事についたばかりで。でも僕は……26で……」
 もしかして……。
 実は童貞っての気にしているのかな?
 決して目を合わせようとしないジーニちゃん。
 でも……ジーニちゃんにとっては恥ずかしいことかしれないけど、俺的にはとっても嬉しい。
 だってだってさ。
「だって忙しかったんじゃないの?士官学校出て、司令部勤務だなんてさ」
 全身真っ赤になってあられもない姿見るのって俺が初めてってことだし。
 こんな姿、誰も知らないんだよね。
「モテない訳じゃなかったんだけど……。深い仲になろうとすると、他の女性達から横槍がはいって……。合コンとか行っても二人っきりってなれなかったんだ。誰か一人と仲良くなりかけると、騒がしいことになったりして……そんな雰囲気なんかなれなかった。そんなんでいい加減嫌気もさしていたから……そういうのから興味自体なくなっていて。気がついたら経験ないままにこの年が来てて……」
 なるほど。
 モテすぎて、それをうまくあしらえるほどでもないから、特定の人と深い仲になることがなかったんだ。
 でも恥ずかしい様子なのに、妙に饒舌なジーニちゃん。
 言っている内容も驚くことなんだけど、俺は触れあった胸から伝わる鼓動の激しさに、ジーニちゃんの本音に気付いてしまう。
「ねえ……怖い?」
 途端にびくりと震えた体を抱きしめる。
 女の子ともしたことのないセックス。
 俺だってしたことないけど、だからこそ不安がつきまとう。
 これでも男を抱くって事のレクチャーは経験者にしっかりすっかり聞いてきたから。男同士でも感じることが出来るって。やり方によっては痛みもそうないんだって聞いていたから、その不安も軽減しているとは思う。
 でもさ、ジーニちゃんはほんとそういう知識もない。
 だから……心臓が破裂しそうなくらいにドキドキいうほどに不安なんだろうけど、でも26って年齢がそれを俺に伝えさせない。
 まっ、これも受け売り。
 たとえ受け入れようって決意してもそれでも最初はひどく不安だったと、決して目を合わせることなくいろいろと教えてくれたマスターには感謝してる。
 だから、こんなジーニちゃんを前にしても、俺落ち着いていられる。
「大丈夫だよ。ゆっくりするから……。俺、ジーニアスが大好きだから……だからムチャはしないから……任せて」
 抱きしめて、額や目蓋、そして唇にキスの雨を降らせる。
 安心させるように、時折ぎゅっと抱きしめて。
 さっきちょっとだけ見つけていた性感帯を手のひらでやさしくなで上げる。
「んっ……はっ……」
 吐息とともに漏れる微かな喘ぎ声が、少しずつ大きくなるように。
 俺は──この俺としては、辛抱強くジーニちゃんの強張った体を解していったんだ。
 少し冷めた体がまた熱を持ってピンクに染まり、湿った肌に口づけるたびに体が仰け反る様が大きくなる。
「あっ……はぁ……ああ……」
 一度吐き出したそこが溢れ出す液でしとどに濡れそぼった頃。
「ひあっ!」
 潤滑剤をたっぷり塗った指をゆっくりと後孔に沈めていった。
 今までは快感に堪えてきつく瞑られていた目蓋が、今は違和感に震えている。
 柔らかく解れていた体が、途端に彫像のように硬くなる。
 それでも俺は止めなかった。
 もう、俺だって限界。
 ここで止めてやり直す、なんてこと俺の下半身は言うこときいてくれそうにねーよ。
「大丈夫だから……力抜いて。力抜けば、楽になるから」
 指一本でも締めつけるそこ。
 ほんと俺のモン入るんだろうか?
 不安が焦りを生む。
 どうしよう?
 大丈夫なんだろうか?
 不安に捕らわれていた俺だったけど、呼びかけが耳に入ったのかほんの少し締め付けが緩んできた。
 相変わらず苦しげに歪められた顔。
 だけど、ジーニちゃんも俺を受け入れようとしてくれる。
「ありがと……」
 そっと目の前の肌に口づけて。
「んっ……」
 返事なのか感じた声なのか判らない音が頭の上で響く。
 我慢させてごめん。
 だから俺、ジーニちゃんを気持ちよくさせたい。
 だいたいこの辺り……。
 聞いた知識をフル動員して、俺は一点を目指していた。
 ゆっくりと指をもう一本増やしてさらに奥を探る。
 とにかく痛みだけじゃないんだって思って貰うことが一番重要だと思うし。
 痛みを堪えているってわかるほどジーニちゃんの体は強張っていたけれど、だけど中の一点に触れたとたんその体がびくんと大きく震えた。
「んっ……」
 思わず漏れたその声が俺に教えてくれる。
 何度も何度もその部分を柔らかく押すと、きつく締め付けていた部分がかなり解れてきた。
 その代わりのように俺の腕に指が食い込んでくる。
「うっ……あぁっ……」
「くっ」
 思わず歯を噛みしめるほどの痛みが走る。
 ちらりと腕をみると、爪が食い込んでいた。
「ジーニアス……痛い……」
 さすがに指の動きを止めて訴えると、中からの刺激に翻弄されていたジーニちゃんがそっと薄目をあけた。
「……な……に?」
 虚ろな瞳。焦点の合わない視線が俺を見る。
 それは下半身にズシンと衝撃を与えるくらい色っぽくて、腕の痛みがなかったらそのまんま突っ込んでいたかも。
 だけど、今は痛みの方がちょっとだけ勝っていた。
「指……ちょっと緩めて」
 苦笑を浮かべながら訴える。
 俺の言ったことが何のことか判らないと……しばらく逡巡していたジーニちゃんなんだけど、はっと目を見開いた。
 とたんに指が離れていく。
 ひりひりと鋭い痛みを訴える傷口からじわりと赤い血が滲んできた。
 全く自覚はなかったのだろう。
 ジーニちゃんが痛ましげに顔をしかめた。
「ご、ごめん……」
 一度離れた指がもう一度その傷を探るように触れる。
「傷つけた……」
「いいよ。ジーニアスがくれた刻印だもん」
 ジーニちゃんが俺にしがみついた証拠だもんね。
 俺を縋ってくれた証拠。
 笑う俺に、ジーニちゃんは恥ずかしそうに目を伏せた。
 爪の形に傷ついたそこよりちょっとずれた場所を掴んでいる。
 今度は爪を立てないような握り方。
 そうやって握られるだけでも気持ちいい。
「あっ」
 そろそろ愛撫を再会しようとしたとたん、ピリリっと腕に痛みが走った。
 落ち着いていたはずの痛みに俺は視線を移して……驚いた。
 視界に入ったのは、俺の腕に口づけているジーニちゃんの姿。
 柔らかな舌が傷口からでた血を丁寧に舐めとっている。
 その映像はひどくエロティックで……。
 だって……赤い唇に血がついて……さらに赤くて……。
 口の端についたジャムでも舐めるように蠢く舌を見てしまったら……。
 あっ……もう駄目っ!
 完璧に理性は崩壊。
 修復不可能っ!!
 有無を言わせず高く掲げた足の間に腰を進める。
 もう、とにもかくにも突っ込みたくてぐいっと押しつけていた。
 これでもかってくらい素早くゴムと潤滑剤をつけることができたのは……実は練習済みなんだよお……。って、言えやしない。
 結局、俺って欲望の塊なんだよな……。
 だって、いざってときにもたもたすんのは恥ずかしいことだって……サンちゃんが……。
「くっ!……ああぁっ!」
 潤滑剤の力を借りて先端だけは入るには入ったけれど、とたんにひどく締め付けられる。
 結構痛い。
 けど、ここで引き返すことなんてできなくって。
「ね、息して。止めないでよ」
 俺より必死なはずのジーニちゃんに無理を言ってしまう。
 たったそれだけのことで、目尻に涙を浮かべて堪えているっていうのに。
 だけど俺はそれすらも欲望の対象。
 そっと目尻に触れて……。
 ぺろりと舐める。
 しょっぱい味すら、体の芯を疼かせた。
「ん……」
 だけど舐めたとたんに漏れた声は、ずんと欲望に直結モノ。
 やっぱりすっげー敏感。
 痛いはずなのに、ちょっと他に触れるだけで甘い声が喉から漏れていた。
 それと同時に締め付けがちょっとだけ緩む。
 俺はそのタイミングで腰を進めて。
「んっ……」
 少しずつ、少しずつ……。
 崩壊しきっていたはずの理性。
 欲望のまま突き進みそうになっていた俺の体は、だけど……「そのときになったら無茶はするなっ!」って敬愛する上官の厳命を聞いてくれて。
 ほんと……こんなことジーニちゃんには絶対言えないや……。
 でもそのお陰で、拷問のような時間を何とか乗り切ることに成功した。
「入ったよ」
 それすらも聞こえていないよう。
 きつく噛みしめられた唇。
 閉じられた目蓋に寄せられた眉根。
 肌に触れる愛撫だけでは取り戻せなかった熱。
 すっかり力を無くしていたモノがなんだか可哀想で、俺は片手で柔らかく包み込んだ。
 ぐりっと中指だけに力を込めて、やわやわと揉み扱く。
「あっ……シュリ?」
 そのランダムに伝わる刺激に驚いたように目を見開いた彼に、俺はにこりと笑いかけた。
「入ったから」
 言ったとたんに、ジーニちゃんの青ざめていた顔がかああっと真っ赤になった。
 とたんにむくむくっと大きく堅く手の中で存在を訴える。
 先から溢れる液を使って上下に扱けば、堪えきれない喘ぎ声が仰け反らした喉を震わせていた。
 声を押し殺そうと押し当てた拳と唇の隙間から、熱い息とともに甘い声が漏れている。
「あっ……やっ……」
 無意識なんだろうけど、のびてきた手に指を絡ませてシーツに縫いけた俺はジーニちゃんの耳朶を甘噛みしながら直接耳の中に言葉を吹き込んだ。
「もう……最後まで止まんないから」
 最後の宣告。
 そのとたんに震える体は、怯えのせいかも。だけど……返事を待つ余裕なんてなかった。
 さっき見つけたいい所。ぐいっとそこを抉る。
「あっああっ!」
 きつい刺激に声を抑えることもできないジーニちゃんがびくんと仰け反ってしまう。その体を押さえつけるように抱きしめた。
 中の肉壁が俺のものを擦るたびにぞくぞくとする刺激が背筋をはい上がる。
 もうそれだけでも達ってしまいそう。
「くっ……はぁ……はっ……」
 突き上げるたびに漏れている声。
 でも痛いだけじゃないんだろうって思わせてくれる声は、俺を耳からも犯す。
 その声をもっともっと聞きたくて、俺は腰をさらに激しく打ち付けるとともに激しくジーニちゃんのモノを上下に扱きあげていた。
「あっ……やめっ……シュリっ!」
 せっぱ詰まった声が部屋に響く。
 そのせいでさらに俺のモノはますます元気になって、ジーニちゃんを貫き続けていた。
 だけど……。
「あっ!!」
 何かの拍子にぎゅっと締め付けられたとたんに、俺ってばあっけなく放出?。
「んんんっ」
 ぶるりとひときわ大きく震えると、俺はぱったりとジーニちゃんの上に倒れ伏してしまった。
 すっごい脱力感。
 全身自分のモノじゃないようなそんな感じ。 
 触れあっている肌の部分から、甘く焦れったい疼きが襲ってくる。
 ジーニちゃんも肩で大きく息をしていて、ぐったりと四肢を投げ出していた。
 って?
 ……なんだかお互いの接している下腹部あたりがぬめっている。
 何で?
 って不振に思った俺は、するりと二人の間に指を入れてそのぬめりの原因を取り出して……。
「あっ……」
 それは白濁した見覚えのあるもの。
 えっと……俺はジーニちゃんの中で達ったから……。
 あっ、じゃあこれってジーニちゃんの?
「ジーニちゃん……」
 お、俺……自分が一生懸命で気がつかなかったけど……。じゃあ、あの締め付けってジーニちゃんが達った時のなんだ。
 えへへへ。
 俺ってば、俺の手でジーニちゃんが達ってくれたことがすっごく嬉しくって、イヤらしく笑っちゃってた。
「……ジーニアスって言えって」
 ムッとしたジーニちゃんに耳をきつく引っ張られるまで。
 でも……駄目。
 そうやってむくれている顔も可愛いんだもん。
 俺、当分ジーニちゃんとしか呼べないかも。
「……シュリ……」
 幸せ気分満載でにこにこしていた俺にジーニちゃんは呼びかける。
「何?」
 問い返せば、途端にその口からため息が漏れていた。
「シュリ……って……元気だよな……」
 ちらりと動いた視線を俺も追いかけて……あははは……。
 俺って……。
 確かに元気かも?。
 困ったように眉根を寄せて、ジーニちゃんの視線が俺の股間から外れていった。
 

【了】