月明かり番外【ひとでなしの恋2】

月明かり番外【ひとでなしの恋2】

ザーンハルト付き執政官見習い ファム


  初めて見た獣に、ファムは恐怖した。だがそれ以上に、それはファムの心に人知れぬ感情を呼び起こした。
 血の臭いが扉の外にまで漂っていた。
 ようやく辿り着いて、人の垣根の隙間から覗き込んだと同時だった。
 白い壁が一瞬にして血の色に染まったのは。
 声にならない悲鳴が空間を震わせる。
 がくがくと知らず震える自分の体をファムは思わず両手で抱きしめた。
 ──血……あんないっぱい……。
「ひっ……」
 悲鳴が上がって、傍らで何かが崩れ落ちた。
 視界の片隅で、ファムと同じ頃に辿り着いた近衛兵の一人ががくがくと震えて、尻で後ずさっていた。
「フォン……フォン……」
 その口が、同じ言葉を繰り返す。
 小さな掠れた声音。けれど、しんと静まりかえった場に、それは十分伝わって。
「……フォン、グレイザー……」
「そうだ……フォングレイザーだ……」
「魔獣だ……」
 ざわざわと伝わる恐怖の名。
 まさか、と思った。
 幼い頃、乳母に読み聞かせて貰った童話の中で、勇敢な騎士に倒された魔獣の名。
『暗闇の中に紛れるほどの真っ黒な毛並み……』
 漆黒の毛……。
『その瞳は、燃えさかる炎よりも赤く……』
 深紅の宝玉よりも赤い……瞳。
『その牙と爪は全てのものを切り裂くほどで……』
 たった一閃しただけで、殿下を助けようとした兵の腕は、切り落とされた。
 挿絵を見た時は、怖いけれどずいぶんと綺麗だなと思った。
 実際、目の前のそれも、想像したよりは太めではあったけれど、漆黒の毛並みはずいぶんと綺麗だった。
「嘘……」
 けれど、呟く否定の言葉。
 ファムにとって、あれはお話の中の想像の産物。
 実際にいる筈もない魔獣。
 頭は必死で否定しようとしていたけれど。
「ひっ……ぎぃっ!」
 目の前には残酷な現実が広がっていた。
 のたうち回る兵の体には、腕が足りない。
 引きちぎられた肩口から、噴き出す血が辺りを染め抜く。
 誰もが動けなかった。
 と。
「さ……がれっ、……下がれっ、い、医者をっ!」
 部屋の主の悲痛な叫び声。
 それが響き渡った途端、凍り付いていた皆の意識を現実に引き戻した。
「お、おいっ」 
「暴れさせるなっ!」
 慌てて最前列の男達が、のたうち苦しむ男の体を引きずり出す。
「そや、はよ手当てしたら死なんで済むし」
 聞き取りにくい抑揚。
 殿下と共に部屋の中にいる男の肌は茶褐色だった。
 その肌は、南方の民に多い。
 それにあの抑揚。
 ケレイスの言葉ではあるが、独特の抑揚で話す男の正体に気が付いて、ファムは蒼白の唇を震わせた。
「まさか……南楼(なんろう)……」
『獣使いが参戦しています』
 尊敬すべき上司であるザーンハルトにその名を聞いたのは、彼が出陣する前日。
 南楼というのは、獣使いを有する部族の名だ。
 黒い獣を手足のように使う殺人集団。
 喉を痛めたというザーンハルトからは直接詳しい話を聞くことはできなかったけれど、代わりに一冊の本を渡された。
 動物の生態系を描いた本で、その中の一ページだけ、南楼の獣を紹介したところがあったのだ。
 けれど、記述は簡単で挿絵すらなくて。
 結局判ったのは人より大きな黒い体格で、俊敏、反射神経は人の数十倍。弱点は招猫香という名の木。
 確かに黒くて大きくて、殿下が持っていた招猫香を嬉しそうに囓っている様は、そのままで。
 何ですぐに……。
 見た瞬間気付いて然るべきだった事柄を、今頃気付いた己に、悔しくて臍を噛む。
 けれど同時に湧くのは激しい探求心だ。
 もっと近くで見たい。
 驚愕に押し隠されていた探求心がむくむくとせり出して、ファムを支配しようとする。
 だが、血の臭いに侵された体は一向に動かなかった。
「ファングレイザー……」
 呟いて、垣根となった兵達を押し退けることもできない歯がゆさに身悶える。
 兵達も殿下を人質に取られているせいで身動きできない。そんな彼らを押し退ける勇気まではなかった。
 緊迫した雰囲気の中、殿下と男の会話だけが響く。
 ただ。
「このまま帰ったら、金貰えんし……最悪、裏切りもんや、なんや言われるし」
「裏切り者か。ならば、実際裏切ったらどうだ?」
 そんな殿下の言葉に驚いた。
「私を殺す対価は幾らか?」
「金塊三本もろうた」
「一国の王子の命が金塊三本か。ずいぶん安く見られたものだな」
「いやあ、他にもいろいろ貰うてんけど。それは部族に入るんや。俺の小遣いになるんが、こんだけ」
「小遣いか……。では私は月に四本出すと言ったら、どうする?」
「気前良いやん」
 何故か室内の雰囲気が和やかに思えるのは、男のヒョウヒョウとした態度のせいだろうか?
 ふぁぁぁあ
 と、いきなり大きなあくびが聞こえた。見やれば、獣が退屈そうに顔をごしごしと前足で擦っていた。
 それは体格を無視すれば、黒猫が眠そうにしている仕草によく似ていて。
 ちょっと可愛いかも……。
 などと思ってしまって、慌てて、その考えを頭から振り払う。
 あまりにもそれは不謹慎だろう?
 と、己を叱咤したけれど。
 ごろごろと喉を鳴らし、招猫香で遊んでいる様は、はっきり言って猫だ。
 しかも。
「でもなあ、依頼主裏切ったら、俺まで殺されるんや」
「お前は簡単に殺されるつもりか?」
「まさかっ、俺とザンジは強いしぃ」
「なら、問題なかろう?」
「ん?でも、部族の裏切りもんにもなっちまう」
 殿下と男の会話も、内容はともかく口調は和やかなのだ。そのせいか、ついつい意識が削がれてしまっていた。
 そんな中、ザンジと呼ばれた獣は、ごろごろと寛いでいる。
 やっぱり、猫と種を同じくするのか……?
 じっくりと観察していると、ますます可愛らしさばかりが目に入ってくる。
 いつの間にか、緊迫した雰囲気の中で、ファムの口元には僅かな笑みすら浮かんでいて。
 可愛い……。
 だらんと伸びて、前足をぺろぺろと舐めている姿に、思わず見とれてしまっていた。
 けれど。
「殿下ぁっ!」
「うあぁぁ!」
 形容しがたい悲鳴が兵の中から湧き起こり、はっと我に返ったファムの視界に、男が殿下を襲っていた。
「え……?」
 一体どういう展開でこんなことになったかの?
 獣に見とれていたファムには判らない。
「んっ……うっんっ……」
 苦しそうなのに。
 肌が紅潮していくのが目に見えて判る。
「んあっ……」
 主の漏らした鼻のかかった声に、ぞくりと背筋が粟だった。
「これって……」
 知らず呟いて、奥歯を噛みしめる。
 口内にじんわりと広がる唾液をごくりと飲み込んだ。
 これは変だ、と、あまり経験したことのない感覚に戸惑い、慌てて目を逸らした。
 けれど、耳を塞ぐことまではできなくて。
「んあっ」
 響いたその声に、つい目を開けた途端に目に入ったのは、麗しく頬を紅潮させた主である殿下の表情。
 怒りに目を眇めて、男を睨み付けているのに。
 なんて……。
 どくどくと鼓動が早くなる。
 しかも、男が獣に殿下の唾液を与えていた。
 たらりと二人の口から溢れた滴が光り輝く。
 だが、それ以上に、それを見つめる殿下の艶めいた表情に魅入られた。
 白い肌はほのかにピンクに染まり、目元はもっと赤く染まっているのだ。
「なんや、興奮しとんか?」
 男の言葉に、殿下の頬がさらに染まっていく。
「なんか……殿下が……」
「ああ」
 回りでこそこそっと囁かれる言葉に、思わず頷いてしまう。
「ばかっ。不謹慎だぞ」
 と、縛める声もあったけれど、何とも言えない淫靡な雰囲気に動揺は消せない。
「あ、おいっ!」
 いきなり上がった小さな悲鳴に、全員の視線が室内に集まった。
 と。
 全員が全員、その姿勢でぴたっと硬直した。
 何とかしなくてはいけないのだろうけど。
 皆の脳裏に浮かんだのは、そのひと言。
 ファムとて例外ではなかった。
 だが、動けない。
「やっ、あっ……」
「我慢しい、すぐ慣れる」
 苦しそうなのに。
 獣に口内を貪られている殿下の姿は、あまりにも淫猥で。
「んっ、くっ」
 零れる声音が下腹部を直撃する。
「なんや、可愛いよ、あんた。だからさ、舐めさせてやってえな。な、すぐ終わるけぇ」
 男が困惑を滲ませながら言う言葉に、誰かがこくりと頷いたのが視界に入った。
 それはファムも同様で。
 ……これって……。
 思わず、下肢の付け根を強く押さえてしまったファムだった。
 

 殿下の鶴の一声で、皆が一斉に退去させられた後。
 ファムは自室の寝具であえかな声を出して、自らの陰茎を扱いていた。
 脳裏に浮かぶのは、恐れ多くも主たる殿下の姿。
 そして。
「ん、んんっ」
 獣の長い舌が器用に殿下の口内に忍び込む。
 あれは、気持ちいいのだろうか?
 ふっと浮かんだその考えに捕らわれる。
 いつもは凛とした殿下が、あんなにも艶めいた表情を見せたのだから、きっと気持ち良いんだ。
「あっ……うふっ」
 ぞろりと口内の粘膜をざらざらした舌が擦って。
 途端に、背筋にぞくぞくと快感が這い上がる。
 勉学と執務に明け暮れて、女性と付き合う暇もなかったファムが、こんなふうに自慰をしたのは実は生まれて初めてで、戸惑いも無かったわけではない。
 けれど、下腹部にたぎる熱を解放する手だては他にはなくて。
 触れてしまえば、想像してしまうのは女性ではなく、ザンジと殿下の睦み合い。
 拙い手捌きでも、慣れない刺激にそれはあっという間に限界を超えた。
「んあぁ……」
 ひくひくと震える体を弛緩させ、うっとりと天井を仰ぐ。
「あぁ……」
 されて……みたい……。
 精悍な黒い獣のあの舌で。
 

 ファムは、自分がどんなに妖しい事に捕らわれたのだとは、自覚していなかった。
 あの時のあの殿下の姿に煽られたのだと、主たる殿下に欲情してしまったのだと思っていた。
 だから、あれは封印すべき事柄なのだと想いを固く封じ込めた。
 あれは、一夜限りの誰にも暴かれてはならぬ欲望なのだと。

「ザンジ、殿下とザーンハルト様を知らないか?」
 気持ちよさそうに寝そべっているザンジに問いかける。
「ふぁぁ……」
 大きなあくびで喉の奥まで晒すその様子に、くすりと笑みを零して。
「知ってんだろ? ……どこにいるんだよ?」
 溜まりに溜まった書類の山。
 早くしないと、今日の分は終わりそうにないのに。
「ぐぅ……」
 その瞳が悪戯っぽく歪んでいるのに、そっとため息を吐く。
 まあ、ザンジがここにいるのなら、二人に害は無いのだろうけど。
 窓の外から外を眺めれば、城の裏に広がる森にある一際大きな木がここからは良く見えた。
 さわさわと吹く心地よい風に、目を瞑る。
「帰ってきたら、たっぷり仕事してもらえば良いもんな」
「ぐるぅ」
 それまでは。
 ちょこんとザンジの傍らに座り込み、その体にすりすりと擦り寄る。
 気持ちよいこの手触りが、ファムの最近のお気に入り。
「帰って来る前に起こしてくれよな」
 うっとりと呟いて、目を瞑る。
 自覚はしていなかったが。
 それはファムにとって、至福の時だった。
 
【了】