月明かりの下で(3)

月明かりの下で(3)

28
「ザーン……」
 のろのろとおぼつかない足取りでヴァルツはベッドへと近づいた。
 病的な白さの顔色、力なく閉じられた目蓋。
 横たわった姿に、弱っていることは明白だ。
「ザーンっ!」
 薄い掛布に浮かぶ腕に縋る。
 名を呼んだ拍子に、ザーンハルトの目蓋がぴくりと動いた。
「ザーンっ、私だっ、ヴァルツだっ!」

 銀の髪がほつれて頬や額にかかっているのをそっと除けてやると、目蓋が数度動いて。
「……っ」
 吐息の音が微かに響いた。
 震える唇が言葉を紡ごうと開かれる。大きく見開かれた緑の瞳に、ヴァルツの姿が映っていた。
「ザーン、判るか? 助けに来たんだ、ザーンっ」
「あ……ま……」
 手が、触れる。
 絡んだ指を双方が力を込めて、しっかりと握りしめた。
 忘れるはずもない、ザーンハルトの温もり。
 その瞬間、何もかも忘れた。
 セルシェやジェイス卿の謀も何もかも。
 ただ、手の中に取り戻した愛おしい相手を抱きしめる。
「会えた……、会えたんだ……」
 腕の中にいる愛おしい相手。
 出発前日、この腕で感じた体はさらに細くなっていて、痛々しい。
「……ぁ……」
 掠れた声音が、耳を打つ。
 力の無かった腕が上がってきた。絡んだ指が無理に解き、離れて、ヴァルツの腕を押す。
 離したくない温もりが彼の力によって離れていく。
 弱々しかった姿に似合わぬその力に目を瞠って、ヴァルツは眼下の彼を見つめた。
 するりとその腕すら離れていくのを慌てて掴んで引き寄せる。
「何故?」
 せっかく会えたのに。
 嬉しくて、ただ、この手の中に抱きしめたいと思っただけなのに。
 なのに、ザーンハルトの瞳は強くヴァルツを責めていた。
 伸ばした手が、かろうじて布地にひっかかる。
 かりっと微かな音が、しんと静まりかえった室内に響いた。
「な……ぜ……?」
 掠れた、声とも言えない音がザーンハルトの口から零れる。
 それでもザーンハルトの口の動きで、何を言いたいのか判った。
 何故?
 彼は責めていた。
「ど……て?」
 こんなところに来たヴァルツを。
 王代の地位にある身が、こんなところにいて良いはずはない。
 その瞳が、態度が、ヴァルツを責めていた。
「だって……ザーンが……」
 ヴァルツもまた眉根を寄せて俯く。
 判っていたはずなのに。
 こんなところにのこのことヴァルツが現れば、ザーンハルトの怒りを買うことくらい。
 それでも。
 どうしてこんな所まで来たか。その原因を思い至った途端に、かっと怒りが湧いてきた。
「ザーンが捕まるからっ!」
 八つ当たりだということは自身でよく判っていた。。
 奸計によってさらわれたザーンハルトに言うべきではないと判っていたのに。
「ザーンが捕まって、私がじっとしていられると思うか? 私が……ザーンを見捨てることができると思うか?」
 何があっても、どんなことがあっても。
 王位より何より、大事だと思った。
 セルシェが、怒るのも無理はない。
 ザーンハルトが怒るのも無理はない。
 けれど、ヴァルツはここに来たかった。
「お前を離したくないから、お前を離すと私を止めるものがいなくなるから。──だから、迎えに来たんだ。私が王代の仕事をするには、ザーンが必要なんだ。お前がいないのなら、国務なんかしない。王位なんか、セルシェにでもジェイス卿でも、誰にでもくれてやるっ!」
「で……っ」
 きつくよせられた眉根。
 必死になって何か言おうとしているが、それは言葉にならなかった。
 代わりに出たのは、ずいぶん辛そうな咳で、ザーンハルトは苦しそうに片手で喉を押さえた。
「ダメ……」
 酷くえづくザーンハルトに、ゼンが急いて駆け寄った。
 優しい声音で、ザーンハルトに諭すように語りかける。ついで、ヴァルツに視線を寄越して、睨んで首を振った。
「あんま、喋らす、ダメ」
 庇うその姿に、胸の奥底が焼け付く。
 けれど。
「喉、ダメ……」
 ゼンが、ザーンハルトと同じように喉に手を当てて、首を振った。
 その手の位置が、琴線に触れた。
 ざあっと血の気が音を立てて失せる。
「……喉……?」
 あの場所をザーンハルトは前にもああやって癒そうとしていた。
 掠れた声。
 思うようにならない言葉。
「ザ……ン?」
 そういえば、この部屋にはいる時、ゼンが何か言っていた。
『喉……死んだ』
 死。
 その意味するところが、じわじわとヴァルツを支配する。
「どういうことだっ?」
 ゼンを押し避け、ザーンに迫る。
 少し疲れて、白くなった肌以外は、変わりないように見えた。
 けれど。
 背後で、ジゼが判らぬ言葉でゼンに語りかけ、それにゼンが同じ言葉で返すのに、視線を寄越す。
 見る見るうちにジゼの表情が強張るのを、ヴァルツは悲壮な面持ちで眺めていたが。
「……王子さん……、その人な、喉を焼く薬飲まされよってん……」
「喉……を焼く?」
 信じられないとばかりに見開かれた瞳に、ジゼの頷く様子が映った。
「そうや。だから喉が──声が死んどるんやと。この人、ザーンな、言葉出せん。今のところ、治るかどうかも判らんのやって」
 声が死んだ。
 慌てて振り返った先で、ザーンが僅かに顔を強張らせていた。
「嘘……だろ?」
 けれど、ザーンハルトは俯いて視線を合わそうとしない。
 さっきまでは、あれだけ強くヴァルツを責めていたというのに。
「顔青白いんは化粧のせいや。これ以上、何もされんようにゼンが一計を講じたんや。けど、喉を焼いた時から食事がまともに取れんようになって、そんで体力は落ちとる。今はもうかなり食べられるようになってるから、これでも元気になったほうやって」
 伝えられた言葉は、回復を表しているのだが、それでも純粋に喜べるものでなかった。
「ザーン……」
 震える言葉に、ザーンハルトが微かに笑んで首を振った。
 そこにさっきまでの責める様子はない。
 どこか気まずそうに、ただ笑んで。けれど、縋ろうとするヴァルツを拒絶した。
 ゆっくりと体をずらして、ベッドから足を下ろす。
 白い寝具が体から落ちて、床にシワを作った。
 僅かにふらつく体を、咄嗟に支える。
 痛々しさに胸を突かれた。
 こんなに弱っているのに、それでもヴァルツを拒絶しようとするその姿に胸が痛い。
 けれど。
「ザーン、私に掴まれ」
 離れようとする体を強い口調で制し、続けた言葉は意識していなかったが多分に自嘲を含んでものだった。
「こんなところに来ている私は、王子でも何でもない。ただのヴァルツだ。子供の頃、お前と一緒にくたくたになるまで遊んで、一緒に眠ったあのころの幼なじみだ。そう思え」
 途端に、ザーンハルトの体がびくりと震えた。
 上がった瞳が、束の間ヴァルツを捕らえる。
「……か?」
 微かな吐息に、聞き取れない言葉が乗っていた。
 それでもザーンハルトの瞳を見れば、呼ばれたのだと判った。
 濃緑色の瞳の奥で、何かが落ち着かぬ様子でふわふわと揺らめいていた。
「ザーン?」
 見つめ合う瞳が離れない。
 のろのろと伸ばした指先に頬が触れる。指先に付いた白い粉に、再度指先で拭った。
 現れた肌の色は、記憶にあるザーンのものより濃い。この南国の地で日に晒された肌は、本来ならばもっと健康的な色になのだろう。
 強く擦れば、その肌色が露わになる。
 少しだけ違和感の残る肌は、けれどやはりザーンハルトのもので、愛おしかった。
 銀色の髪が支えた腕に絡み、濃緑色の瞳が見上げてくる。
 そういえば、子供の頃からこんなふうにザーンハルトの髪はいつも絡んでいた。
 鬱陶しいと思ったこともよくあったけれど、ザーンハルトは決してその長さを変えようとしなかった。
「……」
 するりと腕から髪の毛が解ける。
 さらさらの髪は、頭を少し振るだけでいつも離れていってしまった。今もまた、そこが定位置だと長く腰に垂れる。
 そんな姿も記憶を揺さぶる。
 愛おしいと気が付いたのはいつだったか。
 また離れていこうとするザーンハルトを、ヴァルツは離せなかった。
 しっかりと腕を握り、胸の中に抱きしめた。
「っ!」
 抗う体を、どんなに拒絶されても、離したくはなかった。
 ますます力を込め、苦しそうに喘ぐ声に「じっとしてろ」と懇願する。
 それでも、バタバタと暴れていたザーンハルトだったが、何をしても離れないと気付いたのか、諦めたようにため息を落とした。腕に感じる吐息とともに、体から力が抜ける。
 ほんの少しの饐えた臭いと共に、立ち上ったのは忘れ得ぬ匂い。
 意識した途端に激しく望郷の念が湧き起こった。
 ザーンハルトとともに過ごしたあの世界は、狭い所だった。
 けれど、また戻りたい。
 城の中庭、城から続く、誰も入らないように囲われた小高い山。
 それでも、子供三人だけでどこかに出かける事は決して叶わなかった狭い遊び場。
 それがあそこにはある。 
「ザーン……帰ろう。帰って、精の付く食べ物いっぱい食べてさっさと元気になれ。元気になって、また元のように私を叱ってくれ。もうこの国のことは気にしなくて良い。お前が頑張らなくても、私がする。私の責任でもって、この戦はさっさと片をつける。だから……帰ろう。帰って、私を助けてくれ。私を……」
 零れ落ちる涙が頬をくすぐる。
 ひくつく喉に、言葉が途切れる。
 それでも。
 言いたかった。
「私は……お前にいて欲しいんだ。誰であっても代わりはない。セルシェも代わりにはならない。私にはお前だけなんだ。ザーン……お前だけ、私は欲しい。他の何も欲しがらないから……頼むから、私のたった一つの希望を叶えてくれ」
 ずっと恋していた。
 いつも傍らにいて、困った時には手を差し伸べてくれたこの男を。
 進む道が違うのだと、王子としての立場をこんこんと諭された時にも、それでも、ザーンハルトは離れないのだと思っていた。
 なのに。
「……お前に離れられると、私はダメだ。今度のことでよく判った。お前のことばかり思って、何もかもどうでも良くなっていた。ただ、言われるがままに仕事をして、促されるがままに花押を押して……。自分が一体何を決済したのか、何も覚えていやしない……」
 そんな事に今更ながらに気付いた自分に呆れ果てる。
 くつくつと震える体をザーンハルトに押し当てて、ただ抱く腕に力を込めた。
「こんなバカな王子にはさ、最高の補佐官が必要だろう? それをお前がなれ。国務の間も私的な時間の間も、いつだってお前が付いていろ。でないと、またこんなふうに職務放棄してやるぞ」
 もうどうなっても良かった。
 セルシェが画策したことも、ジェイス卿が企んだそれも、今のザーンハルトにとってどうでもよくなっていた。
 ただ、この男が欲しい。
 みっともなく縋り付いて、泣き喚いて。
 できるならば、子供のように欲したかった。
 けれど、ヴァルツは涙を浮かべながら笑っていた。
 あまりの情けなさを自覚して、笑っていた。
 
?
29
 すぐ近くで、掠れた吐息が聞こえた。
 ため息のようなそれが、俯いて押しつけたヴァルツの髪を揺らす。
 ことんと肩に重みが加わった。
 何事かとそっと窺えば。
「うわっ」
 至近距離にザーンハルトの横顔があった。
 俯いて、肩に額を押しつけて、僅かに覗く耳朶と目元はほんのりと赤い。
「ヴ……ツ……ま」
 肩が吐息で服越しにくすぐられる。
 名を呼ばれていた。
 音にならない声が、何度も呼ぶ。
 それは、一体いつからザーンハルトに呼ばれていなかった名だろうか。
 温かな吐息が布地越しに肌をくすぐり、腕の中の温もりが胸の奥底まで滲んでいく。
「ザーン……」
「ヴァ……ま……」
 繰り返され、譫言のような、声にならない声で呼ばれた名が、こんなにも嬉しい。
 ますます強く抱きしめて、その体を味わう。
 それは甘い記憶を呼び覚まし、堪えきれないほどの衝動を目覚めさせた。
「……ザーン」
 吐息が荒くなる。
 意識して抑えようとしても、さらに激しくなるそれは、ザーンハルトにも気付かれた。
「……?」
 縁が朱に染まった瞳がちらりと横目で窺ってきた。
 途端に、視界が幾度も瞬く。
 白い世界に銀の星だ。
 くらりと目眩がしそうなほど頭に血が上った。
 そして。
 ぐいと顎を掴んで引き上げる。
 驚きに見開かれた瞳に微かに笑んで、その唇を塞いだ。
 柔らかく甘い吐息を封じ込め、微かに開いていた唇を舌でこじ開ける。
 先を、奥を。
 柔らかな粘膜の中がどんなに気持ちよいものか知っていた。
 だからこそ、欲しい。
「ふっ……んっ……」
 鼻から漏れる甘い吐息に、体はますます熱くなり、欲求は高まっていく。
 逃れようとする体を抱きしめて、さらに奥深くを探る。
 くちゅ
 音が耳から脳を欲望に染める。
 びくびくと感じる証拠の震えが感じると、ますます一生懸命にそこを辿った。
 縋るように腕を掴む手。
 痛みすら覚えるその力は、ザーンハルトが我を忘れている証拠。
 抗う力はもうなく、その体は弛緩していた。
「……目の毒……や」
 意識などもうどこにも向いていないと思ったのに。
 快楽に溺れていたザーンハルトがぴくりと跳ねた。
 至近距離で見開かれた瞳が、激しく動揺してきょろきょろと動く。
 その瞳が、ジゼ達を捕らえた途端、ザーンハルトが激しく抗った。
 耳朶まで真っ赤に染まっている姿は可愛いが、暴れられては興冷めだ。
 むうっと眉間に深くシワを刻み、余計な茶々を入れた男を睨み付ける。
 くそっ!
 口の中で悪態を吐いた時、ふと良いことに気が付いた。
 消えていないザンジの気配。
 それに向かって、軽く手を振る。
 それを見て取った賢いザンジは、何も言わなくても対の要求に的確に応えた。
「げぇっ!」
 カプリと腕に噛み付かれたジゼの素っ頓狂な悲鳴が響く。
 何事かと離れたザーンハルトには口惜しいが、けれど、情けないジゼには溜飲が下がった。
「王子さ?ん、何やらすんやっ!」
 ザンジから逃れ、血すら出ていない腕を押さえるジゼの眉は力なく垂れ下がっている。
 その姿をひとしきり笑い、きっぱりと言い放つ。
「出歯亀などしているからだ、さっと去れ」
「なんやねんっ! 目の前でいきなりやり出したのは、王子さんの方やんかっ!」
「見ぬふりをするのが礼儀と思うが?」
「……我が儘やあっ、もう、とりあえず、こんな辛気くさい部屋でやらんでもええやんかっ!」
 喚くジゼの言葉もまた道理だ。
 こんな饐えた空間に、これ以上ザーンハルトを置いておきたくはなかった。
 触れあうのは、これから先、幾らでもできる。
 ヴァルツは、一人頷いて、ザーンハルトの体を抱え直した。
 恥ずかしいのか、真っ赤に染まった首筋を晒して俯いている。
 その姿がまた扇情的で、すぐにでも隠したい気分になったが、促そうと背を押すと、その体が大きく傾いだ。
 慌てて支えて、力の入っていない足腰に苦笑して。
 笑った拍子にザーンハルトが恨めしそうに睨んできた。
 ふと。
 違和感に、気が付いた。
 いつもなら、心配など無用、誰のせいですっ、と言い捨てて、にこりともしないのがザーンハルトだ。
 だが、言葉が出ない分、態度や表情がはっきりと本音を知らせてくる。
 怒っていてもそそられる。
 そういえば羞恥に染まるザーンハルトなど、あの旅立ち前の苦い経験くらいしか記憶にない。
 あの時も、言葉が出なくなっていた……。
「ザーン?」
 呼べば、返事の代わりにため息を落とした。
 けれど、俯いた顔は上がらない。
 困惑が浮かんでいると思うのは気のせいではないだろう。
 隠そうとしている動揺が今ははっきりと判る。
 羞恥は顔色を赤く染め、その表情は、どんな言葉よりも雄弁で判りやすい。
 そんな感情は、今までは言葉で誤魔化してきたものだった。
 いや。
 らしからぬザーンハルトの豊かな表情に、ヴァルツはあることに気が付いた。
 まじまじとザーンハルトを見つめ、それは確信に至る。
「お前……言霊を自分に掛けていたな……」
 それはきっと間違いない事実。
 言葉の力でもって、感情を表に出さぬよう自分を言霊で支配していた。
 途端に、先よりさらに真っ赤になったザーンハルトのその動揺は肯定と相違ない。
 言葉を失うと同時に使えなくなった言霊の力は、それに頼っていたザーンハルトをこんなにも感情豊にした。
 それは、何よりもザーンハルトの本意を明確にヴァルツに伝えてきた。
 判ってしまえば、あまりにも恨めしく、そして安堵する。
 あの冷たさは作られたものだったのだ。
 やはりザーンハルトは昔から変わっていない。
 さっきから見せてくれる可愛い反応に、ますます強くザーンハルトを抱きしめ、手の中に収まった銀の髪を梳いてやる。
「帰ろう、私達の国へ。もっとも、やることはたくさんあるが──それよりまずは休みたいな」
 森に残したラーゼ達を回収して、ケレイスの前線にいるジルダに伝令を出して。
 南の傭兵が寝返ったというのであれば、こんな国など落とすに容易い──と前線にいる双方の大国は思うであろう。だが、そんな事はジルダに任せればよい。
 ヴァルツがやることは、もっと大局の部分だ。
 マゾルデとの交渉、ラスターゼとの交渉。
 そして、ケレイスの内政。
 ──外苑との絡み。
「お前が失った声、無駄にはせぬよ」
「……」
 何かを紡ごうとするザーンハルトの唇を、ヴァルツはそっと塞いだ。
 今度は優しく、啄むように。
 言葉を紡ごうとする唇を塞ぐだけ。
 もう喋ることはない。
 今は喉を癒し、ただ自分の思いだけを受け止めてくれれば。
 その願いを込めて。
「ザンジに乗っていくと良い」
 ずっと寝ていたらしいザーンハルトの足腰は、やはり少しおぼつかない。
 ここに降りてくるのに長い階段があったと思い出して、ヴァルツはザーンを招いた。
 だが、その言葉に、ザーンハルトがひくりと全身を引きつらせた。
「ザーン? ああ……」
 その理由はすぐに思い当たった。
 ザーンハルトは、ザンジの優しさを知らない。
 ヴァルツの対になったことを知らない。
 どんな男であっても、ザンジ達獣の恐怖を知っているものならば、乗れと言われても頷けるものではない。
 それでも、ヴァルツは苦笑しながらザンジを呼び寄せた。
「大丈夫だ。な、ザンジ、この男が私の大事な人だよ。ザーンハルトだ」
 ザーンハルトにも受け入れて貰いたいのだ。
 己にできた大切な対。
 ザーンハルトと同じように、大事な対なのだから。
 招き寄せたザンジが、ザーンハルトをじっと見やって。
「きゅるる」
 優しい声音でヴァルツに呼びかける。
『儀式』
 簡単な単語の意味はすぐに判る。
 にやりと笑ってジゼを見やれば、バツが悪そうにそっぽを向いていた。
 今なら判る。ザンジと心が通わせるようになった今なら、何もかも判っていた。
 ザンジが教えてくれたのだ。あれは、単なる戯れだったと。
 ジゼの悪戯だったと知っている。
 けれど、ザンジがたいそう気に入ってしまって、今も、それをしたいと言うのだから。
 こんな場所でなくても──という思いは、一瞬にして掻き消えた。
「ああ、そうだな」
 これはもしかしなくても僥倖だ。
「なあ、ザーン。ザンジにお前を覚えさせるよ。ザンジがお前を護る対象にするように」
 本当なら願えばいいのだ。
 対に対して「護って欲しい」と願えば、対はそれを護る。それが人と関わり、人と暮らす中で獣が知った対が持つもう一つの大事な──家族という存在。それを教えて願うだけ。
 けれど、悪戯心が芽生えていた。
 ヴァルツのためとはいえ、騙してくれたその事実。
 この位の報復は構わないだろう。 
 それに──見たかった。
「?」
 訝しさと不審さが露わになった顔に微笑んで、ザーンハルトをベッドに座らせる。そのままきょとんとしている唇を塞いで、舌を奥深くに進めた。
「んっ……んんっ」
 驚きに緩んでいた口唇内に侵入するのは容易かった。
 熱く、柔らかにうごめくその心地よさを、我を忘れて貪る。
 上顎を歯の付け根に添って探れば、びくびくとザーンハルトの体が震えた。それを押さえ込むようにしっかりと抱きしめて、その口内を貪り尽くす。
 それこそ、目的を忘れてしまうほどに、深く深く侵入を果たす。
「んっんんっ」
 息苦しさに喘ぐ体も愛おしい。
 抗う手を封じ込め強く抱きしめる。
「ぐるっ」
 いい加減にしろ、とザンジに言われなければ、いつまでもそうしていただろう。
 欲していた者が手の中にある。
 何度味わっても酔いしれるその味に、肝心のことを忘れてしまうところだった。
 じゅるっ
 濡れた音を立てて吸い取った唾液を口の中に蓄えて、息も絶え絶えのザーンハルトを名残惜しげに離した。
「……」
 苦しそうに喘ぎ、赤く縁取られた瞳は責めるようにヴァルツを見つめている。
 そんな仕草は確実にヴァルツの欲情を高めた。
 ぞくりと昂ぶる下半身は、確実に硬さを増している。
 けれど、さすがに人目のあるここで押し倒すことは叶わず、それにザンジが期待に満ちた様子で待っている。
 それに内心苦笑し、口の中に含んだそれへと意識を向けた。
 ちらりとザンジを視線で促して、腰を屈める。同じ高さにあるザンジの口元にそっと近づければ、その器用な赤い舌が漆黒の中ちろりと蠢いた。
「……王子さんも人んこといえん……」
 ため息交じりのジゼの言葉など、こうなると煽るものでしかない。
 見ていろ、とそんな気分で、ザンジと口付けた。
「ひっ……」
 この中で、そんな悲鳴を上げるのはザーンハルトだけだ。
 口内を貪られ、含んだ唾液を吸い取る漆黒の魔獣。
 その唾液が誰の物かは、判っているだろう。
 ザーンハルトが何を思っているか、ヴァルツには想像できた。
 あの時、ヴァルツも感じたあの思い。あの感情。
 もっともこれから行う行為を、ザーンハルトが受け入れられるかどうかは判らない。
 けれど。
 受け入れて欲しい。
「ザーン、受け入れろ。ザンジもお前を欲している」
 ベッドの上、化粧だけでなく青ざめた顔が顰められ、子供のように首が振られる。そんなザーンハルトは、いつもの凛とした姿などどこにもなかった。
 ざわり。
 心の奥底、薄暗い最下層で何かか蠢く。
 苛めたい。
 壊したい。
 そんな負の感情が湧き起こっていくる。
 己にそんな感情があるとは思ってもみなかったが、だが、確かに願っていた。
 もっと──もっと、いろんな表情を見たい。
 その感情を露わにして、身悶えさせ、一生、手の中に閉じこめてしまいたい、と。
 どくどくと、激しい鼓動が、頭の中まで響く。
 欲しい。
 狂わせたい。
 快感の虜にして、離れないと言わせたい。
「やっ……ぁ」
 微かな悲鳴。
 はっと我に返ったヴァルツの目の前で、ザーンハルトが逃れようとしていた。
 慌てて、その体を背後から抱え、ザンジに向かせる。
 負の感情に狂っているのは己の方だ。
 嫌がるザーンハルト、なんて珍しい姿に煽られていた。
 そういえば、子供の時にもこんな嫌がらせをしたような気がする。
 それを受け入れてくれたのもザーンハルトで、お返しを喰らわせてくれたのも唯一ザーンハルトだけだった。
「ザーン……私の対となったザンジは良い子だ。お前にも受け入れて欲しいんだ」
 今度はどんなお返しをしてくれるだろうか?
 ずいぶん長い間、何をしても黙っているザーンハルトだったけれど。
 さすがに、何かしてくれるかも。
 期待が、悪戯心の後押しをする。
「おいで、ザンジ」
 足音すら立てず、ザンジが近寄ってくる。
 気が付けば、その背後にいたはずのジゼもゼンも、そしてレイジも、誰ももうその場にはいなかった。 
 
?
30
 びくびくと支えた体が震えるのが、密着した肌から伝わってきた。
 背後から動けないように押さえ込んだザーンハルトの口腔は、今ザンジに侵されている。
 時々えづくように震えるザーンハルトは本当に嫌そうに顔を顰めていた。
 けれど、それだけではないだろう。
 ヴァルツ自身経験があるから判るが、ザンジは巧い。
 しかもザンジと来たら、面白がっている。
 器用な舌は口腔を余すことなく嬲り、人では決して与えられない快感を教えてくれる。まして、すっかり恒例行事となったヴァルツ相手で、絶対にザンジは腕を上げていた。
「ん……っ……ふっ……」
 抱きしめた体が熱くなっている。肌は上気して、うっすらと汗をかいていた。
 立ち上るザンジの体臭と、ザーンハルトの匂い。微妙な匂いの混ざり合いにずくんと何度も芯が疼いた。
「っ……うっ……」
 ぞろっと長い舌が抜き出される。
 けほけほっ
 苦しそうにザーンハルトが咳き込んだ。彼の物だけでないだろう唾液が、顎から首筋にまで伝っていた。それをザンジが舐め上げる。
「っ……」
 顔を顰めて、堪えるのは快感だろう。
 確実に感じていたザーンハルトの体はもう完全に弛緩しきっていた。
 文句の一つも出しようがないようで、こんなにおとなしい姿は、珍しい。
 そんな中で、涙に潤んだ瞳が、ヴァルツを見つめる。
 ぞくぞくと甘い疼きが背筋を這い上がっていた。
 込み上げる欲求のままに、しっかりとザーンハルトを抱きしめて、その首筋に顔を埋めた。
 流れた唾液をぺろりと舐めた途端に、その体がびくりと震える。
 欲しい。
 堪らなく欲しい。
 扇情的なザーンハルトの姿は、ヴァルツの理性を簡単に崩壊させた。
 こんな場所で、とは思ったけれど。
 けれど、ここには誰もいない。
『その場の雰囲気と勢いと』
 同時に浮かんだ言葉は、誰が言ったものか。
 なるほど勢いは大事だと、ヴァルツは苦笑しながら、抱きしめていたザーンハルトの体を寝具の上に押しつけた。
「あっ……」
 見下ろす濃緑色の瞳に怯えが走る。
「欲しい」
 囁けば、その頬が真っ赤に染まった。
 ああ、あの時と同じだ。
 初めて抱きしめた。初めて口付けた。あの時と同じ反応。
「好きだ、愛している」
 言葉が出ないザーンハルトに誤魔化されることはもうないと判ってはいても、それでも固い決意で繰り返した練習によって、そんな端的な言葉しか出ない。
「だから、欲しい」
 宣言して、咄嗟に何か言おうと開きかけた唇を塞いだ。
 さっきまでザンジに侵された口内を、再びヴァルツが侵す。
 かさっ
 物音に体を起こして視線をやれば、ザンジが満足したように部屋から出て行くところだった。
 その視線と絡み合う。
 ニヤリ、と笑われたような気がした。
 思わず目を剥くと、尻尾を揺らして悠々と出て行く。
 無視されたようで、それには怒りはあるが、けれどヴァルツは苦笑した。
 気を利かしてくれたのだと判る行為に、本当にザンジは良い子だと思う。もっとも、一抹の不安はあるけれど。
 ザーンハルトの上気して荒い呼吸を繰り返す様を見下ろして。
 ちらりと視線を下肢へと移す。
「ザンジの口付けに感じたか?」
 当たる腰の確かな存在感。
 途端に顔を強張らせたザーンハルトが勢いよく首を振ったけれど、白い肌全てを朱に染めた姿をみれば、嘘だと判る。
 くっくっと喉を鳴らして笑うと、恨めしく見上げられた。
 けれど、怖くない。
 ザーンハルトの言葉が聞けないと知って、ひどく哀しかった。けれど、言葉はいらなかったのだと思う。
 特にこのザーンハルトのように、言葉を巧みに操るものを相手にする時は、いっそ言葉などない方が良い。
 言葉で誤魔化せない分、その態度が、表情が全てを赤裸々に教えてくれる。
「ああ、責めているわけではない。ザンジは巧いから仕方がない。何せ、私とさんざんやっていたからな。ジゼに仕込まれたのか、あいつは元から巧かったが……。ジゼの奴も確かに巧かったし。だが、今ではザンジの方が巧いような気がする」
「……っ」
「え……?」
 何気なく言った言葉だった。
 だが、ザーンハルトの表情が激しく変化した。きつくきつく眉根を寄せ、悔しそうに睨まれて。
 その珍しい表情に、呆然となる。
「どうした──えっ?」
 手が伸ばされた。
 今まで為すがままになっていたザーンハルトの手がいきなり動いて、ヴァルツの後頭部に手を回して。
「んっ……」
 甘い吐息が鼻から漏れた。
 押しつけられた唇は、ひたすら甘く熱い。
 いきなりの行為に目を見開いて硬直していたヴァルツだったが、すぐにその僥倖に身を委ねた。
 そっと彼の背に手を回し、柔らかく体を抱きしめる。
 くちゅっ。
 零れた音が、二人の体をさらに熱くした。
 堪らなくなって、ヴァルツの足がザーンハルトのそれに絡んでいく。
 欲求は留まることを知らない。
 もっと密接に感じたくて、ザーンハルトの体を覆っていた寝間着を剥いだ。
 紐だけで合わせられたそれは、すぐにはらりと全てが落ちる。
 白さの増した肌は、よく見れば衣服から覗くところは日に焼けていた。
 囚われの身の間に落ちた筋肉があれば、前より逞しく感じたかも知れない。
 けれど、今のザーンハルトがちょうど良い。強くなって貰っては困る。
「んっ……愛している、もう離さない」
 もっともっと。
 熱は理性を崩壊させ、欲情のみを昂ぶらせる。
 もっと触れあいたいと、今度は性急に己の服を剥いだ。
 いつの間にかしっとりと汗ばんだ肌が、ザーンハルトのものと密着する。
 ぐいぐいと腰が勝手に動いて、昂ぶった二本が摺り合わされた。
 ぬるっとした感触に、妙なる快感が全身を貫く。
「んっ……はっ……」
 深い口付けを繰り返し、抱きしめた肌を手で上から下へとまさぐった。
 細い腰に平たい尻。
 前を探れば、いきり立ったそれが迎えてくれた。
 自分と同じもの。
 同じ性。
 けれど、こんなにも興奮する。
「っ、あっ……」
 握った途端に、掠れた吐息のような悲鳴と共に目の前の喉が仰け反った。すかさず吸い付いて、朱色の刻印を残す。
 強く首が振られるたびに、銀の髪がふわりと舞ってヴァルツの体に絡む。
 邪魔なそれが、けれど手に取れば愛おしいものになって思わず口付けた。
 さらさらの長い髪。
 こうやって触れたいと何度思ったことだろう。
 積極的とは言えないが、それでもヴァルツを受け入れようと体を動かすザーンハルトの思いは、今は聞き出すことはできない。だが、彼の思いが、ヴァルツにとって決して悪いものでないのは明白だ。
「好きだ、ザーン。ずっとこうしたかった」
 ただ一人、強く欲した相手だ。
 抱きしめて、組み伏せて。
 艶やかな表情をもっと見たい。
 だからこそ、もっと先を欲した。
 己のモノより少し細い。手の中の男根をやわやわと握れば、その体が跳ねた。
「はっ、……はぁ」
 大きく息を吐いて、衝動を逃そうとしているのに気付き、その口を塞いだ。
 唾液を流しこみ、己のモノと同時に扱いた。
 もうずっと使っていなかったのか、ザーンハルトのそれはすぐにひくつき、限界を訴える。
「あっ……もっ……。もっ……」
 掠れた悲鳴にも似た欲求が、ヴァルツの耳元で響く。
 聞き取りにくいそれは、けれど、何を求めているのか、はっきりと判った。
 なんて艶やかな……。
 快感に顔を歪め、堪えきれない衝動にそれでも堪えようと必死に縋り付く様が。
 欲していた相手であっても、こんなにも艶やかで色っぽいなどと思わなかった。
 灯りに光り輝く銀の髪。
 汗に濡れて輝く白い肌。
 快感に潤み、奥底に欲情を揺らめかす濃緑色の瞳。
 この艶やかさは、ほとんど犯罪だ。
 吸い続けて赤く湿った唇が、声なき嬌声を上げる。
 声が出ないせいか、ひどくもどかしそうに縋ってきていた。荒い息が、ヴァルツの肌をくすぐる。そんなことすら、ヴァルツへの愛撫となった。
「お……い……。ねが……い……」
 肩から鋭い痛みが走った。
 縋り付くザーンハルトの爪が食い込んだのだ。だが、その痛みすら愛おしく、もっとと、願ってしまう。
 けれど。
 艶やかに潤んだ瞳を向けられて懇願されては、ヴァルツも保ちそうになかった。
 まして、最近すっかりご無沙汰だ。一人遊びすらする余裕が無かった己のそれは、今にも弾けそうで。
「ああ、達こう。達ってしまえ」
 ひくつく先端を指で強く嬲る。
 途端に。
「はぁっ……っ!!」
 熱い迸りが下腹部を汚した。
 指にまみれたそれが、ヴァルツの手の動きをさらに速くして。
「んっくっ、達くっ!」
 どくんっ!
 快感が弾けた。
 真っ白になった視界の中で、最初に濃緑色が見えた。
 その色が優しく笑んでいた。
 嬉しそうに、懐かしそうに。そして心配そうに。
 手が、汗で張り付いた額の髪を払い、腕に巻かれた包帯をそっとなぞる。
 思い出したように痛んだそれが、ザーンハルトに撫でられるたびに癒される。
 その仕草を知っている。
 その表情を知っている。
「ああ、そうだな」
 知らず呟く。呟いてから、何を自分が言おうとしているのか気が付いた。
「こんなふうに並んで寝たのは子供の時以来だな」
 懐かしい思い出。
 子供の頃はよくこうやって眠った。遊び疲れて、横になると同時に寝入った。今では考えられないほどに寝付きが良かったのは、隣にザーンハルトの体温があったからだ。
 ああ、そうか。
 不意に気付いた事実に、ヴァルツは笑んだ。
 ザンジの傍らであんなにも安心できたのは、ザンジが強いだけだからでない。
 あの体温が、懐かしい記憶を呼び覚ますのだ。
 ザンジとザーンハルトの体温と優しい気配は良く似ている。
 だからだ。
 だから、ザンジと寝たかった。
 けれど本当は、ザーンハルトと寝たかったのだ。
 子供の頃から隣にいるだけで安心できた相手。
 他の誰も一緒には寝てくれなかったから、その温もりが唯一覚えている他人の温もりだった。
 取り戻したかった思い出。
 こんなふうにザーンハルトとはいつも一緒にいたかった。
 その願いが、ようやく叶った。
 ようやく──。
 取り戻した。

 
?
31
弛緩していた体がぴくりと震えた。
 ゆっくりと銀色が広がり、濃緑色が数度の瞬きの後に向けられる。
「……っ」
 微かな吐息。
 視界にヴァルツが入った途端、見る見るうちにその頬が朱に染まる。 
 そんな自分を恥じ入るようにきつく顰めた眉根と揺れる瞳に、くすりと笑みがこぼれたけれど。
「……く……」
 逸らされた横顔で唇が言葉を紡ごうとしていた。
「ん?」
「……や……く……」
 掠れた言葉を必死で紡ぎながら、ザーンハルトが体を起こした。
 乱れた着衣を整え、流れる髪を掻き上げる。それでも視線だけは器用にずらして、長い指が扉へと向けられた。
「……指示……」
「指示?」
 ようやく聴き取れた言葉とその指し示す意味。そして微妙な険を含んだその瞳の色に、幸せに惚けていた頭も動く。
「ああ、指示をしなければな」
 この砦が落ちたことをまず知らせること。
 同時にザーンハルトを取り戻したこと。ザンジ達が仲間になったこと。
 自軍が聞けば、悦びそうな事ばかりだが、厄介なことは確かだ。
「う……」
 指さす向きが、天井へと向かう。
 今度は、上へ行けということか。
 何を言われるにしても、解釈をしなければならないことに重いため息が零れた。
 言葉が出ない方が良いとは思ったけれど。
 前言撤回。やっぱり、言葉は必要だ。
 それがどんなに少ない言葉であったとしても、0と1では雲泥の差だった。
 そんなヴァルツのため息に、ザーンハルトの眉間のシワがますます深くなる。
 悔いの滲むその瞳に気が付いて、慌てて落ち込んだ気分を引き上げた。
「ま、そのうち、慣れるさ」
 確か、読唇術なんて技術を持つものもいると聞いたことがあった。
 どこかにそういう技術を持ったもののツテはないだろうか?
 それをヴァルツ自身と、もう一人秘書官に覚えさせよう。その秘書官を常時ザーンハルトにつけさせて……。
 この後のことを考えながら、立ち上がろうとするザーンハルトに手を貸した。
 覚束ない足取りの彼は、そんな自分にも戸惑っているようで、足下に視線を彷徨わせている。
 大きく揺らぐ腰を支えれば、間近に来た首筋が扇情的に染まっていく。
 そこにあるのは、壮絶な色気で、思わずむしゃぶりつきそうになった。
 もっとも、今そんなことをしたら、絶対に拒絶される。今だけでなく、この後も。
 さすがに、暴走しそうな性欲を押さえつけて、にっこりと笑いかける。
「気にするな。ずっと監禁生活だったんだから」
「……」
 曖昧な頷きの意味など気にせずに、部屋の外へと導いた。その扉の傍らに、黒い塊が退屈そうに蹲っていることには、最初から気が付いていた。
「ザンジ」
 呼べば、瞳が開いた。漆黒の中に、深紅の瞳が煌めいて、ついでに白い牙も覗く。
 笑っているザンジに、びくりとザーンハルトの体が震えた。
 まあ、確かに不気味だろうけど──慣れてくれよな?
 零れかけた愚痴を飲み込んで、強張る体をザンジへと導いた。
「ザンジに乗せて貰え。普通に歩く分には、背の毛を掴んでいれば良い」
 言えば、帰ってきたのは恨めしそうな視線だった。
 やはり獣は怖いのだろう、とは思ったが、なんだかそれだけではなさそうな視線だった。もっとも、その理由が判るものではなく、ザーンハルトの体を押しやる。
 相変わらず力の入らない体は簡単に、横座りの格好で背に乗った。
「ザンジ、ジゼの場所は判るか?」
 応えはない。
 代わりにザンジの体が動いて、その四肢が伸びた。
「ひっ」
 掠れた吐息は悲鳴だった。
 縋り付く姿に、笑いを堪えて、その傍らに付く。
「大丈夫だ、ザンジは優しいから」
「……」
 宥めるように背に触れた途端に、向けられた瞳に、息を飲んだ。
 意識しているのかいないのか、何故こうもこの男はすることなすこと全てが扇情的なのか?
 幼い頃からずっと一緒にいたというのに、ここまで色気を露わにされたことはない。
 潤んだ瞳から今にもこぼれ落ちそうな滴。
 恐怖なのか、そんな自分を羞恥しているのか。
 薄くなった顔色が、一瞬にして朱に染まる。
「……か……」
 掠れた声音で呼ばれる名が、あの嫌だったはずの呼び名なのに、それすらもヴァルツを興奮させるのだ。
 ずきずきと熱を持つ股間が張り詰めてくる。
 見つめる瞳に、ザーンハルトが困惑の色を浮かべ、俯いた。
 赤味を増した様子から、ヴァルツの欲情がバレたのは明白だ。ちらちらと向ける視線が、責めているのは判る。
 だがたとえ、機嫌悪くにらみ返されたとしても、それはそれでヴァルツの欲情を煽るものでしかない。
 聡いザーンハルトがヴァルツのそんな感情など判らないはずもなくて。
 声よりはっきりと音が出たため息は、かなり諦めを含んでいた。
 欲する思いに逆らわず、伸ばしたヴァルツの手は、だが、宙を切った。
 ザンジのすまし顔と、ザーンハルトの驚いた顔が数メートル先を行っている。
 呆然と、対象物を失った手のひらと、先を行く二人の姿を交互に見やって、ヴァルツは何が起きたか気付いた。
「ザーンっ、こら、待てっ!!」
 良くできた聡い対は、護る対象をちゃんと認識したのだ。
 呼べば、「ぐるっ」と笑い声で返された。
「そいつは、私のだぞっ!」
「ぐるぐっ(護る)」
「誰からっ!」
「ぐぅるぅ……(嫌がってる)」
 明らかな揶揄に腹が立つ。
 強く睨み付けても、ザンジは澄ました顔で取り合わない。
「…で…か……」
 獣と対等に喧嘩するヴァルツに、呆れたようなザーンハルトの視線が向けられた。それでも邪魔された怒りは収まらない。
「ザーンハルトは私のものだからなっ」
 言い切った途端に、ザーンハルトとザンジと呆れたような視線が投げつけられて、ますます機嫌は下降していた。
 砦の最上階に上がりきる頃には、ザーンハルトはずいぶんとザンジに慣れていた。
 最初にザンジに護られたその行為もたいそう気に入ったらしい。
 旺盛な好奇心が薄くなった恐怖心に取って代わるのは早かった。悔しいことに、ザンジの背に体の動きを合わせるのもヴァルツよりは早かった。
 しかもヴァルツとの意思疎通はまだたどたどしいというのに、ザンジとのそれはあっという間に慣れたようだ。さすがに対ではないから、完全に意思疎通できるわけではないようだが、ちょっとした仕草に見て取って判り合っているらしい。
 悔しいが、そういう行為はもともとザーンハルトは得意だった。
 人の表情、態度からその人の考えることを見抜く。
 知識はもちろんのこと、そんな事にも長けていたからこそ、軍務執政副官筆頭の地位を揺るぎないものにしていたのだから。
 そんな事は判っていたけれど、面白くはない。
 ザーンハルトが取られるのも嫌だし、ザンジが取られるのも嫌だ。
 互いが仲良くなって欲しいとは思ってはいたけれど、それは自分が中にいてこそ。
「ああ、ようやく来よったな」
 最上階の見晴らしの良い部屋で、ジゼ達は机を囲んでいて、笑って迎えてくれた。
「もうちぃっと時間かかるかと思ったけど?」
 にやにや笑いを睨みつける。
「悪かったな。私がいない方がいろいろと悪だくみできて良かったろうが」
「何や、機嫌悪いな。せっかく結ばれて、幸せたっぷりとちゃうんか?」
 ジゼの揶揄に、ザーンハルトが真っ赤に染まった。
「こりゃ……」
 笑っていたジゼの顔が、ひくりと強張る。
 ジゼだけではない。
 あのゼンという若者もだ。
 浅黒い肌が目に判るほど、赤く染まっている。
 その表情に浮かぶ淡い恋心のようなものに気付かないほど、今のヴァルツは鈍感ではなかった。
 じろっと睨み付ければ、慌てて視線を逸らされたが、ヴァルツの頭の中には危険人物としてしっかりと入力される。もちろん、ザーンハルトに近寄り不躾な視線を送るジゼも同様だ。
「あのテルゼのお兄さんかって聞いてたから、どんな奴かと思ったけど。確かに王子さんが惚れるだけのことはあるな。ずいぶんと可愛いやんか」
「見るなっ!」
 慌てて背で庇えば、にやりと間近な視線が笑った。
「なんや、ケチケチせんとっても。俺と王子さんは、口付けまでした仲やろ?」
 何をっ、と思う間もなかった。
 気が付けば、ジゼの力強い腕に後頭部を抱かれて、しっかりと唇を合わされて、なおかつ舌まで入ってきていた。
「う?ん?っ」
 悔しいが力では叶わない。
 だが、今この時にすることでもないだろうっ、と暴れるが、ジゼの手は少しも離れなかった。
「おま……何をっ!」
 ようやく離された時には、さんざん口内を貪られて、吸い尽くされてもまだ溢れた唾液が顎を伝っていた。荒い息に怒りの言葉すら出ない。
 肩で喘ぐ体が、実は感じてしまっていたことは隠したかったが、膝はがくがくと震えて、傍らのザンジに縋っていなければ、立っていられない。
「だってな、そんな色っぽいザーン兄さん見とったら、なんや欲しゅうなったんやけど……」
「誰がやるかっ!」
 さすがに、その言葉には反応して目を剥いた。けれど、ジゼは変わらず、のほほんと言ってのけたのだ。
「だから、王子さんの貰うた。けどなあ、相変わらず可愛い反応するから、俺の息子ますます元気になってしもうたわ。どうしようか、な、ザーン兄さん?」
「な、何をっ!」
 ジゼの視線が、ヴァルツの背後に向かっていた。
「もっと味わって、ええか?」
「は、バカを言うなっ!!」
 迫るジゼを押し避けて、背後のザーンを振り返って。
 途端に、ぎくりと全身が硬直した。
「……ザーン?」
 言葉が震えた。
 ザンジの背に乗ったザーンハルトの視線があまりにもきつかったからだ。
 成人し、王族としての仕事を始めてから、今まで、こんな視線をザーンハルトから受けたことはない。いや、それ以前からずっと。
「ザーン、その……何で、そんな怒って?」
 ザーンハルトから立ち上る憤怒の気が、室内の温度を一気に数度は下げたようだ。
 ぞくぞくと粟立つ肌を擦りながら、おろおろと問いかければ、ぷいっとそっぽを向かれた。
 その首筋までが朱に染まっているのに、けれど、怒りは相変わらずだ。
「ザーン?」
 訳が判らない。
 もともと感情豊でないザーンハルトだし、こんな風に面と向かって露わにすることはなかった。
 けれど。
 一体これは、誰だ?
 こんな姿も可愛いと思いつつも、けれど、どうして良いのか判らない。
「ザーン……」
 呼びかけても無視されて。
「あ?あ」
 ジゼが笑みを含んだため息を零した。
「敵わんな?、これじゃ、手が出せんわ」
「何? 何なんだ?」
 何もかも判っているような口ぶりに、先ほどの怒りも忘れてつい答えを乞う。
 そんなヴァルツに、今度は別の意味のため息を吐いて、それでもジゼは答えてくれた。
「可愛すぎるんや。あんなに可愛く嫉妬されたら、可愛すぎて、苛めるのもためろうてしまうんや。判らんのか、王子さんは?」
「は……嫉妬?」
 誰が誰に?
 ずいぶんと呆けた顔をしている自覚はあった。
 けれど、それより頭の中が真っ白になって考えがまとまらない。
「そや、気付かへんの?」
 と言われても。
 けれど、ジゼの言葉に、思わず頬を覆い隠したザーンハルトの様子から、それが事実なのははっきりと判った。
「ほんま……可愛いわ……」
 ジゼの自嘲気味の言葉が、呆けて見つめるヴァルツの耳にも入ってきてはいた。だが、返す余裕はなかった。
 肌全てを朱に染めて、羞恥に堪えるようにザンジの黒い毛を固く掴んで。
 俯いた目元で長いまつげが震えていた。
 そんな姿が、また扇情的としか言い様が無くて。
「ザーン……」
 堪らずに抱きしめようとした途端に、ザーンハルトが勢いよく手を振り払った。
「ちょっ!」
 きつい視線がヴァルツの動きを止める。伸ばした腕から逃れ、ザンジから飛び降りたザーンハルトが向かったのは、机だ。その机の上には地図が広げてあって、ザーンハルトはそれをトントンと叩いて注意を促した。ちらりと見やった視線のの先にあるのは、きっとケレイスの砦。
「え?と?」
「ああ、そうやな、そろそろ仕事に戻ろうか。そういや騎士さん達どないしたんやろ?」
 そう言えば、とばかりに窓の外の森を見やるジゼの言葉など、全く頭に入ってこなかった。
 ただ、可愛い姿が立ち消えてしまったことがひどく残念で堪らない。
「んでな、こっちにもう一個砦があって……」
 ジゼの言葉に頷くザーンハルト。
 仕事に集中しているその行為が、照れ隠しだと、ジゼも判っているだろうに。
 けれど、ジゼは笑いながらヴァルツに座るように促していた。
 仕方なく席に着いたヴァルツだったが、手の中と同じく、どこか空虚な思いが胸中に湧き起こる。
 ザーンハルトは前より確かに表情豊かにはなっていた。
 それは、言霊の力を失したことに関係はしているのだろう。それは幸いで、いろんな表情は見ているだけで確かに楽しいし、愛らしい。
 けれど、次の瞬間あっという間にそれは立ち消える。
 どうやら、自制する力は長い間ザーンハルトの中で鍛えられてるもので、動揺してもすぐにその力は発揮されるようだ。
 それは、ヴァルツの反射神経をはるかに凌駕していて、ついて行けるものではなかった。
「可愛かったのに……」
 怒りに戸惑い気付かなかったが、確かに、あの姿は可愛かった。
 もっと見たいとは思ったが、隣で笑うジゼの厭らしい笑いに、視線を逸らした。
 零れそうなため息を飲み込んで、地図を見やる。
 確かに今はそんな事を言っている場合ではなかった。──けれど。
 思いを交わした後の余韻を、できればもっと楽しみたかったな。
 そして、いつかは……。
 望みは、叶えられればいくらでも大きくなっていく。
 今はもうこちらに目を向けないザーンハルトを見つめつつ、次の望みを叶えるための算段を、こっそりとヴァルツは思案していた。

 
?
32
 砦が落ちただけだ。
 獣使いが部族内の反乱により寝返っただけだ。
 けれど。
「呆気ないものだな」
 すでに支配者が孤立していた国は、呆気なく滅んだ。
 ケレイス側の支配下に置かれた獣使いが、獣たちを使って軍の司令官を倒す。
 その瞬間、ケレイス側の勝利は決まったようなものだ。指揮系統が乱れた軍は、ケレイスの攻勢にただ逃げることしかしなかった。
『もともと王からは人心が離れていたようです』
 すらすらと流れる字が、薄茶の紙に記される。
 ザーンハルトと話をするために用意した紙は、彼の意思もあってできるだけ安いものだ。その紙に、ぎっしりと書き込まれた文字は、一日の会話の量を物語る。
 けれど、その中身は政務に関わる固いことばかり。
 甘い言葉の一つもないその紙を見やって、ヴァルツはふっと苦い笑いを零した。
 困ったことに全てが性急に進みすぎて、私的な時間が取れなくなっていた。
 それこそ、ザーンハルトともっと睦み合いたいと願うのに、一日が終われば、疲れ切った体は睡眠を欲する。
 城にいた頃は、暇を見つけてはザンジと共に昼寝を貪っていたから、夜遅くなっても大丈夫だったが、ここではそれも叶わなかった。
 あの時、確かにザーンハルトとは想いを交わしたのだと思う。
 けれど、ザーンハルトの頑なな態度は何ら変わることがない。
 あの日のあの時間、見せてくれた可愛い姿などなかなか望めるものでなかった。
 いっそのこと、あの場で体まで繋げていれば、何か変わっていただろうか?
 悔いが口元を歪ませた。
 けれど、窓の外の穏やかな風景に視線を移せば、その笑顔は穏やかなものに変わる。
 結局、ラスターゼの攻略はヴァルツが彼の国に入って、一週間で終わった。
 長いとも短いとも、どちらとも言い切れない。
 被害を受けた者にとっては長く、遠く離れた場所にいた者にとっては短い期間。
 けれど、ラスターゼという国は、確かに一度滅んだのだ。
 もっとも滅んだといっても、単に支配者が変わっただけだ。ラスターゼという国は変わらず地図には残っている。ただ、彼らの行動は全てケレイスとマゾルデの二大国の監視の下にある。
 違うと言えばただそれだけで、そんなことなど下々の民には関係ないことだろう。
 新たに支配権を与えられたのは、自害した前王の息子であった。
 白っぽい銀の髪に知的な紺碧の瞳を持った柔らかな面差しのまだ20になったばかりの末の王子だ。
 彼の存在は、ジゼが教えてくれた。
「牢獄にな、末の王子さんが監禁されとるらしいわ」
 王宮を支配下に収め、召使いの一人がジュウザ達に食事を届ける係になった。その召使いと親しくなったジゼが、彼の本当の主人を知ったのはすぐのことだった。
 助けて欲しいと懇願され、ヴァルツを頼ったと言う。
 海賊行為を批判し、王直々に訴え、けれど聞き入られることなく呆気なく投獄されていた王子。
 彼は、たった一度前王の気まぐれで寵愛を受けた女性を母としていた。奴隷にも近い身分故に、後宮に入ることすら許されず、子供だけが城に引き取られたのだという。
 後宮の隅で乳母と少数の召使いだけにかしずかれていた子。成人しても、公の場に出てくることを許されなかった王子は、それでも正義感と民を想う心は全うに持っていた。
 日の差さない牢獄の中、助け出された時には歩けないほどに弱っていた彼の名は、レジン。
 レジン・フォオ・レスタン。
 ラスターゼという王家の名すら許されなかった名ばかりの王子。
 けれど、彼はヴァルツの前に引き出された時、自分の命より何より民の救済を望んだ。
「民をお助けください。彼らに罪はありません」
 紺碧の海のような瞳だった。
 流れる滴に絆されたわけではない。
 ただ、心情を吐露するその瞳を見続ける内に、彼ならば、と思ったのだ。
 彼ならば、王として相応しいのではないかと。
 だからこそ、マゾルデとの交渉に彼の王位相続を持ちかけた。
 後よりの参戦だったが、マゾルデより優勢であったケレイス国軍。砦を落としたのも、王宮を落としたのも、ケレイス側だった。
 マゾルデの王は剛毅ではあったが、今回は分が悪いと苦笑しながらも承諾してくれた。
 そうなれば、話は早かった。
「彼の王はお元気か?」
 窓の外、王の部屋より豪勢な客室で、執務室の方を見やる。
『はい。もともと優秀な方のようですので、すぐに良い王になられるでしょう。それに、良き家来がおります』
 同じく囚われていた大臣や将軍達。
 人を思いやる心を持つが故に投獄された事が判った者は、元の地位に戻した。
 いずれ、若き王を助けてラスターゼを栄えさせるだろう。
 今はケレイスの属国としての立場。
 それで良いと言った若き王。
 民が幸せであれば、権威など何も望まない、と。
「いずれ、あんな約束事など破棄しても構わないと思うが?」
 敗戦国としての立場。
 税金。
 関税。
 呟いて、目線で窺えば、ザーンハルトは一瞬きつく顔を顰めた。
『減額することは可能です』
 短い一文に苦笑する。
 やはり自分は甘いのだと、自覚はしているけれど。
「あまり長く支配しすぎると、いずれ反乱が起きる」
 それはまだ遠い未来ではあるだろう。
 今回の戦を知っている世代よりまだ後。
 何故支配されているか判らない輩が支配者になった時のことだ。
 もっとも、そんな先の事を憂いていても、確かに何も進まない。
「まあ、ゆっくりで良い。少なくとも彼の王の代に反乱は起きまいよ」
 頭を下げた拍子に輝く銀の髪を見つめ、頑なな態度を崩さない恋しい相手にこっそりとため息を落とした。
 この微妙な距離。
 伸ばした手が触れるか触れないか。
 軽い触れあいすら拒絶しているザーンハルトを、ヴァルツは正直持てあましていた。
『ジェイス卿がお見えです』
 扉が叩かれ、誰何の声もそこそこに入ってきたミシュナが、妙に焦っているなとは思った。
 彼は騎士らしく、不穏な空気を察しそれに対処する技能は十分持っていた。だからこそ、警備兵代わりにいて貰っていたのだけど。
 外苑育ちの彼は、ジェイスにも同じ空気を感じたのかも知れない。どこか困惑の色が濃い彼は、ひどく落ち着きがなかった。
 だが、それよりもヴァルツはその名に反応した。
 唸り声を上げて眉間に深くシワを刻み、ザーンハルトを見やった。
 その彼も負けず劣らず顔を顰め、なおかつその体が硬直している。
 そう言えば忙しすぎて、事の次第はまだ誰にも聞き出せていないのだ。
 ただ、ザーンハルトがヴァルツに不利益なことをするとは考えられなかった。
 けれど今はザーンハルトに対して少しでもその話題に触れようものなら、確かに強張る表情に、二の句が継げなくなっているのも事実。
 だからこそ、今はもう触れることが嫌になってきていたのだ。
 できれば、帰ってから全てを知っているはずのセルシェからでも聞き出そうと思っていたところだ。
 なのに、その──多分張本人が現れるという。
「少し、待って……どこか部屋を」
 思考がまとまらず、とりあえず少し時間を置いて落ち着いてから会おうと、ヴァルツはミシュナに伝えようと顔を上げた。と──。
「お、叔父上っ」
 さっきまでいた金の髪の若者の姿はもう無くて、代わりに黒い髪の父王に似た壮年の男が立っていた。ミシュナはというと、閉まりかける寸前の扉の向こうにその影が見える。
 きっと外で騎士三人足す幾人かが聞き耳を立てるだろう、とは思ったが、それよりも、と目の前の彼を見上げた。
「久しいな。城の皆が嘆いていたぞ。いなくなったと思ったらこんな所から連絡が来たと」
 静かに笑むジェイスは、呆然自失しているヴァルツを尻目に、優雅に傍らの座椅子に腰を降ろした。
「……それは……申し訳ありませんでした。軽率であったとは心得ております」
 ごくりと息を飲み、静かな視線を向ける彼を見据える。
 父王とさして変わらぬ年齢だというのに、どうしてこうも若々しいのか。
 静かな視線は、けれどどんな隠し事も許さないとばかりに鋭く突き刺さる。
「お前がこうも無謀なことをするとは、ずいぶんと差し迫った用事があったと見えるな」
「はい……」
「どんな用だ? 次代の王たるお前が、政務を全て放りださずにはいられぬ用とは? ぜひ聞きたいものだ」
 ゆったりとした仕草で、ヴァルツに座るように命ずる。
 彼の前では、たとえ王とて腰を折るだろう。
 そんな威厳がひしひしと伝わってきた。
 それは、ヴァルツが今まで感じてき、そして彼を苦手としてきた原因に他ならない。
 ジェイスは、ある意味真の支配者なのだ。
 それでも。
「私が何故ここにいるのか、叔父上の方がよっぽど良くご存じではないかと」
 逸らしそうになる視線を意志の力で固定して、まっすぐに言葉を返した。
「私が? 何故?」
 けれど、そんな反論も予想内だったのか、ジェイスには動揺の欠片すら見られない。
「それこそ、叔父上こそ何故こんな地にまで? ケレイスの城にすら、そうそうお姿をお見せになりませんのに?」
 ここがケレイスの王城であれば、彼の出現は予想の範疇だ。
 いずれこうやって対決しなければならないとは思っていた。
 けれど。
 ここはラスターゼだ。
 彼の赴く場所では無い。
「ああ、我が国に刃向かった輩を見たいと思ってね。だが、時すでに遅しで、もう屍すら残っていなかった。とても残念だよ」
 くすりと可笑しそうに笑うその表情に、ヴァルツは全身が震えるほどの悪寒を感じた。
「前王が自害した後、彼の忠臣が火をかけて……見るも無惨な姿になりましたので、早急に処分させました」
 痛んだ死体は、病魔を呼ぶ。
 処分とは言ったけれど、一応墓は建てさせた。
 もっとも、庶民のそれと大差ないものだったが、ヴァルツはわざとそのことを口にはしなかった。
「処分……ね」
 意味ありげな笑みは、墓の事も何もかも知っているそれで、ヴァルツは引きつる笑みをかろうじて口元にたたえた。
 ジェイスは、王家に刃向かう者の墓など許さない。
 彼の手にかかった者の死体は、野に晒され、野生の動物に喰わせるのが常だ。
「ああも焼けこげては、獣すら食しませぬ」
「……それもそうだな」
 もしかると、もう墓の下には何もないかも知れなかった。
 掘り出され、どこかの峡谷にでも放り出されているのかもしれない。
 それに。
「それにしても、実子に後を就かせるとはお前も思いきったことをするものだ」
 指摘されるであろうと、気がかりであったそれを出され、さすがに顔が強張るのを止められなかった。
「彼に跡を取って貰うのが一番良いと思いましたので」
「先と同じ轍を踏むのではないか?」
「同じ血を引くから、同じ思考をするものでもないでしょう。もともとこの国は、商売で儲けていた国。それを略奪という簡単にして愚かな行為に手を出したのは、前王のみ。賛同した愚か者はすでに粛正が済んでおります。ならば問題ないでしょう」
「血ね」
 くすりと、ジェイスが口の端を歪めた。
 引きつった頬が震えるのを、かろうじて押さえつけ、気付かれないように息を飲む。
 淀みなく出た言葉に込めた皮肉を、彼は気が付いてるのだ。
 反逆者は、家族全て──それこそ一族郎党根絶やしにするジェイスとは全く逆の考え。
「彼の王は、民を思いやり、自制心に長けております。なまじ、我々がこの国を支配するよりは、効果的です」
「そう思うか?」
「思います」
 風習の違う民を支配するのは、同じ風習で育った者に任せる方が良い。
 そうすれば、ケレイスはその支配者だけを制御すれば良いのだ。
「この国が次に我らに刃向かう時には、徹底的に潰すことになるでしょう。しかし、そんな事は──少なくともこの世代ではないでしょう」
 戦が終わったことにあれだけ悦んでいた民達。
 商魂たくましく、焼け残った商品を道ばたで売りさばいている者達もいた。
 彼らがおとなしくしていたのは、僅か数日だ。
 今も窓の外、塀の向こうから賑やかな音楽が聞こえる。
 終戦の祝いが開かれていると、誰が言っていたか。
「ここは……」
 その音につられるように窓の外を見やったジェイスが、ふと呟いた。
「はい?」
「賑やかだな。賑やかで、生きる力に満ちておる。確かに愚かな支配者に追随する輩は少なそうだ。全く愚かで自分勝手、富むことしか考えていない支配者など、民にとっては確かに不幸でしかないからな。それに比べれば、今の彼らはずいぶんと楽しそうだ」
 ふわりと浮かんだ笑みがひどく柔らかい。
 その滅多に見ない心からの笑みと、その言葉に、ヴァルツは戸惑った。
 どこかで……。
 記憶にない笑みなのに、けれどどこかで見た覚えがあった。
 それはいつのことだったのか?
 ちりっ
 脳の片隅で、何かが引っかかっていた。

?
33
 奥深くに埋もれた記憶を呼び起こそうと、ヴァルツが眉根を寄せて考えている最中だった。
「ああ、そういえば、声を無くしたと聞いた。喉の方は大丈夫なのか?」
 ジェイスの視線の先で、ザーンハルトは小さく頭を下げた。
 それは、礼を尽くしたようにも肯定の意を表したようにも取れる、曖昧な表現だったが、ジェイスは満足げに頷いき、彼を呼び寄せた。
 傍らに立ったザーンハルトの手を引き跪かせ、その喉に手を当てる。
「その喉、城に戻ってからうちの薬師と相談するが良い。喉を潰したのはこれで三度目だから、前のように完全に治るとは言えぬが……。それでもお前の喉についてはここの医者よりは詳しい。多少は声が出せるようになるかも知れん」
 癒すような優しい言葉であった。
 けれど。
「三度……目? 三度目って……どういうことですっ」
 途端に、ザーンハルトが困惑も露わに視線を外した。
 すくっと立ち上がるその腕を掴まえる。
「どういうことだ? 今回の時より前に、喉を潰したことがあるというのか?」
 少なくとも、ヴァルツが知っているのは、二回。
 今回と、自らの手が潰した時と。
「二回目は知っているだろう? 何をしたかは知らぬが、あの程度で済んだのは幸いだったのだぞ。最初のことがあるから、ザーンハルトの喉は弱いのだ」
 そんな事は知らない。
 何も知らない。
「だから、最初ってっ!」
 ダメだ、と言わんばかりに、ザーンハルトの腕が、ジェイスの腕に縋る。
 だが、彼はそっとその腕を取って。
「いつまでも黙ってはいられまい? また前回のように喉を締められたら今度は完全に喉が潰れるぞ? それは拙いだろう」
「……か……」
 途端に抗う力が弱くなったザーンハルトの視線がヴァルツに向けられる。
「……二度とあんな事はしないっ」
「どうだか。なにしろ、ザーンハルトの事になるとお前は自制心というものがどこかにいくらしいからな」
「……っ」
 反論できない悔しさに、ぎりりと奥の歯を噛みしめる。
「まだ成人の儀を迎える前だったな。あの時、ザーンハルトは自ら喉を焼く薬を飲んだのだ。この私の目の前でな」
 ジェイスの物言いは、世間話でもしているようだった。
 傍らで、ジェイスにしっかりと腕を掴まれたザーンハルトの唇が物言いたげに震えていた。 
「あれは、言霊の力が備わっていることが判った時だったな。あのころは自覚無しに使っていて、まだ巧く制御できなかった時だった」
「成人の儀の前……そういえば、その頃、ザーンハルトが酷い風邪を引いて──しばらく会えなかった時が……」
 大人になったら、今度は将来に向けての教育が本格的になって、なかなか会えなくなる。
 その貴重な時間が潰えたことを残念がったことは昨日のように覚えていた。
「私が、その力を使うのであればヴァルツの傍らにいることできない。そう言ったら、この子はどこでどう調達して来たのか薬を持ってきて──『話す力を失えば、傍らにいることを許して貰えるか?』と──返事をする間もなく服薬しおった」
「……そんな……」
 俯くザーンハルトはその時、14歳だったはずだ。
 成人の儀がある15の時まで、一年足らず。けれど、心はまだまだ子供で、好奇心旺盛で。
「そのまま一ヶ月 私のところで静養させた。ずいぶんと手間取ったが、喉も元のようにはなった」
「気付かなかった……」
 それよりも一ヶ月も会えなくなったことに、思いっきり文句を言った覚えだけはある。
 前よりもずっと物静かになったザーンハルトの変化は、風邪のせいだと思いこんで。
 けれど、あれからずっとザーンハルトは必要なこと以外は喋らなくなった。
 見つめる先で、ザーンハルトの首筋がほんのりと朱に染まっていた。
 淡く色付いたその肌の上を銀の髪が風に吹かれて流れる。
 そこに他よりは色付いた名残があるのに気づき、かあっと体が熱く疼いた。
「……ザーンは……」
「ったく……ここまで互いを求められては、私とて引き剥がすことにひどく罪悪感などを感じてしまった。珍しいことなのだよ」
 苦笑まじりの声音があまりにも優しく響いた。だが。
「ただな……」
「ただ?」
 一転して険しくなった声音に、びくりと肩に力が入った。
 隣で、ザーンハルトも硬直しているのが見えた。その顔が悲壮に満ちていると思うのは間違いないだろう。
 そんな二人の表情を交互に見つめ、ジェイスはゆっくりと言葉を継いだ。
「セルシェが可哀想だとは思わぬのか?」
「それは……。けれど、セルシェは何もかも知っていて」
 それでも、ヴァルツの求婚を受け入れてくれたのだ。
 代わりに、奥では自由にさせているけれど。彼女のそんな境遇を思えば、ヴァルツだって気にはなる。
 普段は考えないようにしてきたそのことは、セルシェと対面している時すら忘れていることだ。
「王子二人……世継ぎ作りを責務のようにこなしたら、もう彼女はお役ご免か? まだまだ現役の彼女が、浮気したらどうする?」
「それは……それでも……」
 今のヴァルツに彼女を責める権利は無い。
 自分の方が浮気しているようなものだ。奥に入れることも叶わぬ相手と。
 いや、セルシェは奥に入れろとは言ってはいる。もっとも、言い様に遊ばれることを考えれば、とてもそんな事はできない。
「許すというのか? ならば、彼女がその浮気相手と子を為したらどうする? お前の子を差し置き、その子を王にしようとしたならば……」
 ジェイスの言葉に、ヴァルツは大きく目を瞠った。
 そんな事はあり得ない。と思うけれど……。
 ──人の心はいつまでも同じとは限らない。
 何度も教えられてきた言葉。あれは、この叔父の言葉だ。
 幼い頃から、いろんな話を聞いていた。ザーンハルトやセルシェもその場にいた。まだずっと幼い頃からだ。
 月に一度だけだったけれど、成人するまでずっと受け続けてきた講義。
 あの時も、いろんな事例を出されて、『お前達ならどうする?』と考えさせられた。
 今、このときの決断が、先にどんな事象を発生させるか?
 どうすれば、危険な未来への道を辿らぬようにできるか?
 いつまでも穏やかな時を過ごすために、先を予測しろ、とを正しい
 本当に、いろんな事を──想像させられた。
「将来、何が起きるかは人の身では予測できぬ。だが、考えられる負の要因は除くべきだと思わぬか? 少なくともあの娘の性根はかなり怖いものがあるからね。今度のことで私にもよく判ったよ。あの猫かぶりの娘を、このままお前の元にいさせる不安はかなり大きい」
 除く。
 それも教えられた。
 けれど、考えられる負の要因は限りなく多くあって、その全てを排除できるものではない。
 ましてそれが人の生き死にに関わるようなことであれば。
 それなのに、ジェイスが呈した問いかけは、どう足掻いてもそれが関与していて、ヴァルツは理解したくないと首を振りながらも、震える舌を動かした。
「あなたは……私に、何をさせたいのです?」
 セルシェか、ザーンハルトか。
 それともそのどちらもか……。
「どうすれば良いのか、考えるのはお前だよ?」
 くすくすとからかうように笑い、細めた視線を向けてくる。
 戯れ言のようではあったけれど、それでも笑って誤魔化せるものではない。
「ヴァルツ、お前はどうするつもりだ?」
 ザーンハルトと共に人生を歩みたい。
 叶えたいのはそのたった一つ。
 けれど、そのせいでセルシェがないがしろになるのは嫌だ。
 ザーンハルトとはまた違うけれど、それでも愛しているのは違いない。
 あの歯に衣着せぬ物言いが嫌だと思うことはあるけれど、それでもセルシェと話すとすっきりする。
 セルシェとザーンハルトと。
 本音で語り合える仲間達。
「……何も……」
 この先何が起きるか判らない。
 けれど。
「何もしません。セルシェには今まで通り奥にいて貰います。そして、ザーンハルトにも私の傍らに」
 今まで同じく──いや、今まで以上にもっと身近に。
「ほお?」
 びくりと片眉が上がり、口元を歪めたジェイスに、ヴァルツはきっぱりと言い切った。
「私はもう誰に何を言われようと、ザーンハルトを手放すつもりはありません。もし、この先ザーンハルトを奪われたとしたら……私はこの命など惜しくはありません」
「王位を剥奪されてもか?」
「そんなもの……」
 くすりと笑ったのは無意識だった。
 けれど、本当にザーンハルトと比べれば、それは”そんなもの”でしかなかった。
「それに、ザーンハルトと共に国務ができるのであれば、ケレイスはもっと栄えますよ。ザーンハルトはヘタな大臣達よりよっぽど優れている。しかも、私にやる気を起こさせる唯一の存在ですからね」
「……なるほど」
 むうっと唸るジェイスも納得したように頷いた。
「それとセルシェですが、彼女が裏切るなどとは、今は考えられません。確かに彼女は怖い。けれど、その怖さは今のところ私を鍛えるためだと考えられます。もっともこの先何があるかは確かに判りませんから、彼女が裏切る恐れが全く無いとも言い切れません。けれど、だからと言って、そんな些細な確率でしかない事のために、今彼女をどうこうしようとは思いません」
 失いたくない。
 姉のように慕ってきたセルシェ。
 彼女だからこそ、ヴァルツがしなければならない責務の一つの相手に選んだのだ。
 どうしても相手がいるからこそ、彼女以外に考えられなかった。
 そして、彼女だからこそそんな事を受け入れてくれたのだと言うこともよく判っている。
「もし、彼女が裏切るようであれば、私は自分の手で彼女を罰します」
 両方の手のひらを広げ、じっと見つめる。
 いつまでも、清いままではいられない。いつか、この手が真っ赤に染まることがあるだろう。
『王の言葉一つで、人は生きもし、死ぬこともある。王とはそういう立場なのだ』
 ああ、思い出した。
 これもそれも、全てこの叔父から教わった。
 人を支配することの心構え。
 あの、『愚かな支配者が民を不幸にする』というのも、この叔父の──ジェイスの言葉だ。
「そうか」
 小さく頷いたジェイスが、ふっと思い出したように言葉を継いだ。
「私が邪魔になれば、私を殺すか?」
 笑みを含んだ声音。けれど、冗談では済まない言葉に、だが、ヴァルツは迷うことなく頷いた。
「もちろんです。私の手で、貴方を殺します」
 民を幸せにするためには、自分の手を汚すことも大事。
 たとえば反逆者には容赦が無く残酷な王と言われても、民が幸せであるならば良いのだから。

 
?
34
 セルシェが裏切れば罰すると、決意したヴァルツをジェイスは穏やかに見つめるだけだった。
 だが、その僅かな沈黙の後、ふっと彼は何でもないことのように問うてきた。
「お前の想い人を窮地に追いやり、お前の命すら危険に晒したこの私を、お前はどう罰する?」
 あっさりとした問いかけだった。
 だが、すぐに今日の本題だと判った。
 判った時からずっと、どうしたら良いだろうと悩んできたことだ。
 最初にあった怒りは、もう薄れていた。
 企んだのは、周りの全て。それもこれも自分が愚かであったせい。
「……ザーンハルトが望んで行った行為でしょう? ならば私にはどうすることもできません。貴方も、ザーンも、セルシェも、皆が私のため、国のために動いたのは判っています」
 そう。国のため、だと思えば、ヴァルツには何もできない。
 できよう筈もない。
 今回のことで、ヴァルツも判ったことがある。ケレイスにいたならば、絶対に気付かなかったことだ。
 愚かな王が招いた民の不幸がどんなものか判ったから。
 金に目が眩んだ支配者の愚かで惨めで──情けないかが判ったから。
 ただ、ザーンハルトが傷ついた、そのことは解消できずにわだかまる。けれど、それで誰かを責めれば、きっとザーンハルトが悔いる。
 喉を焼かれたのは自分の責だと、きっと彼なら言うだろう。
 そんな他人のために、彼が悔いる姿など見たくはなかった。
「私は、ラスターゼの所行は薄々勘づいてはいた。裏の情報はやはり裏の方が早いからね。ついですぐにでもマゾルデが参戦することも、連絡が来ることもね。だが、お前が参戦を渋ることは目に見えていた。だからこそ、ザーンハルトに命令したのだ。ヴァルツに参戦を宣言させろ、と。もちろん、彼は最初は嫌がったが、それがお前のためになるのだと諭したのだよ。それはもジルダも同様でね……」
 普通に考えても、指揮官はジルダがなるのが自然だった。
 そうなれば、ジェイス側もいろいろと企みやすくはなる。
「そのうちに、お前自身も実は前線に向かわせる予定だったんだが……」
 予定が変わったのは、ジゼが現れたせいだった。
「あの男がお前の前に現れた時すぐに調べた。命を狙いに来てのほほんと居座っている男が怪しいと思うのは当然だろう? だが、ジルダもザーンハルトも城にはいない。しようがないので、私は別の手足を使うことにしたのだよ」
 それがラーゼだったという。
「……ラーゼはどこまで知って?」
「たいした説明はしていないよ。ただ、ジゼが講じるであろう罠を利用することを頼んだ。あの部族もまた愚かな支配者に支配されていたから、お前の目を覚まさせるにはちょうど良い教材であったろう? もっとも、お前の身に危険が及ばないように見張ることも必要不可欠ではあったから、ラーゼの地位はちょうど良かったよ。さすがにこんなところで死んで貰うのは困る。なにしろ第二王位継承者は第三王子のロッシーニだが、あの子は賢すぎて扱いづらくてね。王には向かぬ」
「私は賢くありませんか?」
 苦笑に苦笑が返される。
「賢すぎる王は、臣下の意見を聞き入れるか聞き入れないか、どちらかだからね。あの子は前者だとは思うが、ただ私は嫌われているからねえ」
「なるほど……」
「今回のことも、お前がいなくなってからすぐに私の所に来たよ。何を企んでいるのか、と。煩くて仕方がなかった」
「そこまで?」
 何も知らされていないはずのロッシーニ。
 城でもほとんど会っていなかったはずで、情報からは一番疎いところにいただろうに。
「あの子はお前が心配する必要はないくらいに強いよ」
「知りませんでした」
「知らなくても良い。だが、お前はこれも周りに恵まれている。それだけは忘れないことだ。良い臣下に恵まれた王は、たとえどんなに愚鈍な王であっても、賢王となり得る」
「それは……私は何をしてても良いということですか?」
「そうだ。民のことを忘れないでいるならばね。もっともあまりにも怠惰でハメを外そうものなら、その優れた臣下達が、即座にお灸をすえてくれるだろうよ。なあ、ザーンハルト?」
 途端に頷くザーンハルトに、ヴァルツの顔が歪んだ。けれども、結局は苦笑にしかならない。
「その中には叔父上も入っておられのでしょう? 叔父上には、まだまだ国のために働いて貰わなければなりませんから」
「ああ、ジルダにはまだまだ教えなければならないことがあるからね。と、そう言えばそのジルダはここにはいなかったようだが……。今何をしている?」
 今思い出したかのような声音には、けれど滲むのは愛おしさだ。
 子供のできなかった彼は、ジルダを我が子のように思っている噂はあった。それは誰かの戯言だと思っていたけれど、こうしてみるとその話も本当だったのだと判る。
「この国の兵士達を集めて何かしようとしているようですが」
「なんだ、女漁りまではまだ手が回っていないのかい?」
「私も意外に思っています」
 途端に二人同時に吹きだした。
「あの子は、その気になれば、ちゃんとやれる子だよ。自分の役目が何であるかきちんと把握している」
 誇らしげに笑むその姿は、我が子の働きに一喜一憂するその辺りにいる父親となんら変わることはなかった。
 その姿に、ふと思い出したことがあった。
 ──光と影。
 ──太陽と月。
 ──王家を継ぐ血筋と外苑を継ぐ血筋はそんな関係にある。
 それは、今は一日中寝室にいる父王から教わった言葉だ。
 それはまだ元気だった頃の会話だったろうか?
 穏やかな父王の言葉を思い出し、目の前の叔父を見つめる。
 よく似た風貌は、その穏やかさも内包しているのだと気が付いた。
 どうして、そんな事に気が付かなかったか。
 目の前の彼は、そういえば、いつでも優しかった。恐ろしい話題を平気で語って見せてはいたが、それでも必ず怯えた三人を優しく慰めてくれた。
 誰よりも彼は、王家の三人の子と、そしてセルシェとザーンハルトを可愛がってくれていた。
 そんな事を、ヴァルツは改めて実感していた。
 いや、ただ忘れていたのだ。
 彼は今も昔も変わらない。
 それこそ、月の明かりのように。
 ただ優しいだけではない、凛とした冷たさ。けれど、気をつけなければ判らぬ静かな優しさで闇に惑う子の行く道を照らしてくれるのだ。
 本当に。
 ずっと怠惰でいたいと過ごしてきたせいか、いろんな事が記憶からぽろぽろと抜け落ちていた。
 そんな中にたくさんの大事な事もあった。けれど、抜け落ちてはいたけれど、こうやって思い出すことはできた。
 それらをもっと大事にしよう。
 今度は決して忘れないように。
「叔父上、これからもよろしくお願いします」
 それは、ヴァルツの心の底からの言葉だった。
「外の連中は連れて行くから、今日はもう休むが良い」
 意味ありげな言葉を残してジェイスは、扉から出て行った。
 静かに閉じたその扉をしばらく見やってから、ゆっくりと振り返る。
 一歩下がった場所にはザーンハルトが佇んでいて、感情の窺えない表情で、扉を見つめていた。
 何故か声をかけるのを躊躇ってしまう。
 だが、どうしても有耶無耶にはできないことがあった。
「……ザーン……」
 途端に、眉間のシワが深くなる。
 けれど、それだけの反応しか彼はしなかった。
「お前は、最初からこの計画の事を知っていたんだな」
「……」
 言葉にはせずに小さく頷いた拍子に、その長い髪が横顔を覆った。
 憂いに満ちた表情は、ヴァルツの欲を疼かせるという自覚など無いのだろう。
 本当に……狂わせてくれる……。
 思わず浮かんだ苦笑など知らずに、覚悟を決めたように神妙な面持ちをしているザーンハルトを見据えた。
 ヴァルツにとっては、今更騙されたことなどどうでもよかった。
 ただ。
「だが、黙っていたのはそれだけじゃなかったんだな」
 ジェイスが語ったもう一つの事実。
「その喉」
 指差すと、ザーンハルトの手がそっと喉を覆った。
 出立の時のようなアザはない。
 けれど、喉の奥は未だに赤くただれていて、見るからに辛そうだった。
 食事も未だに柔らかい物だけだ。
 ひきつった器官はいずれは元のようにはなるだろう。けれど、前と同じように声を出すのは難しいと、従軍医もラスターゼの国の医者も言ってはいた。
「三度目か……」
 ヴァルツの自嘲を含んだ声音に、ザーンハルトは、首を振った。
 ヴァルツのせいではないと言いたいのだろうが、そうは思えない。
「一度目は、私のためにお前は喉を潰したのだな。私と離れることを厭うたと考えれば良いのだろう?」
 ジェイスの言葉を思い出しながら問えば、ザーンハルトは視線を惑わせ、けれど諦めたようにため息を落としながら頷いた。
「言霊の力があるって知った時、羨ましいって思ったが」
 単純に、子供の思考でザーンハルトを羨んだ。
 他人を自由に動かすことができれば、いろんな事をしてみたいと思ったのだ。
 胸の奥深くで鋭い痛みが走る。
 いつまでも一緒にいられると無邪気に信じていたヴァルツの知らないところで、ザーンハルトは一人苦しんでいたのだ。だが、そんな苦痛を知らずにいた己を責める心と同時に、湧き起こる悦びもまたあった。
 嬉しい、と言って良いのかどうか……。
 当時、貴重だと言われた力よりもヴァルツを選んでくれたことも。
 声を無くすことも顧みず、傍らにいたいと願ってくれたことも。
 それらに全てがたまらなく嬉しい。
 そして、申し訳なかった。
「お前が必要以上の言葉を使わなくなったのは、私のせいだったんだな」
「っ」
 違うっ、と勢いよく首を左右に振られた。
 だが、思い起こせば、心当たりはたくさんあった。
 何より、ザーンハルトが頑ななまでに寡黙になった頃とジェイスが言った時期がぴったりと合うのだ。
 そして、その頃から、前より優秀だった頭脳はさらに磨きがかかり、いろんな知識を貪欲に欲していった。
 けれど同時に、ザーンハルトはヴァルツを名前では呼ばなくなった。
「名前を呼べば、言霊に縛られるからか?」
「……い……え……」
 微かに零れた音を塞ぐようにその唇を指で押さえた。
 びくりと震えて逃げる体を捕まえて、抱きしめる。
「いい、喋るな。それより教えてくれ。首を動かすだけで良い……。では、名前を呼ばないのは……隠しておきたい事柄が漏れてしまうからか?」
 先ほどより色付いた肌に顔を寄せ、耳元で囁けばザーンハルトは深く俯いてしまった。
 それは紛れもない肯定だ。
 くすりと思わず零れた笑みに、ザーンハルトが羞恥にさらに肌を染める。
 その意味は、もう間違えようもない。
「お前は……強いな」
 好いた相手に迫られて、それでも我慢し続けてきたのだから。
 我慢に我慢を重ねれば、どれだけ辛いかヴァルツでも判っている。
 けれど、ザーンハルトの我慢はもっと激しいものだったろう。
 ザーンハルトは、相思相愛だと判っていて、けれどヴァルツの立場をおもんばかっていたのだから。
 もし手を出せば、想いを吐露してしまったら、離れなくてはならないと、頑なに信じていたのだろう。
 それでもザーンハルトはヴァルツから離れなかった。
 そんな辛さを微塵にも出さず、ヴァルツからの求愛をなんでもないように交わして。
「だが、悔しい」
 そんな辛さを課してしまった己の鈍感さが。
 気付いていれば、こんなふうに喉を痛めることなど……無かったろう。
 名を呼んで貰えないと、欲しい言葉が貰えないと、拗ねていた自分がなんだか恥ずかしかった。
「お前に比べれば、私は本当に子供だ」
 三十路にもなっているというのに、けれどこんなにも自分の取った行動は恥ずかしいものでしかない。
「……な……い」
 首を左右に振るザーンハルトの行為は慰めにはならない。
「良いんだ。たまにはちゃんと反省させろ。こんなことも珍しいんだからな」
 しおらしく呟けば、ザーンハルトも押し黙った。
 相変わらず俯いて視線を合わせてはくれない。
 けれど、ほんの少しだけ体重を掛けてくれているのが嬉しかった。
 前はこんなふうに抱きついても、逃げようとするばかり。その体の重みを感じることなどなかったのだから。
 布地越しに伝わる心地よい温もりが心地よくて、抱きしめた腕に力を込める。
「好きだ」
 腕の中のこの可愛い男が。
 幼い頃からいつだって一緒だった。
「愛している」
 仲の良い兄弟のような関係。
 それが、いつからか恋い焦がれる相手となっていた。
「だから……お前を私のものだけにしたい」
 きつくきつく抱きしめて、途端に震え出した体を押さえつける。
 聡いザーンハルトは、間違えることなくヴァルツの言葉を理解していた。
 その証拠に、銀の合間に見える首筋が、さっきよりさらに朱に染まっている。しかも、上気したせいか、香る匂いもさっきより強くなっていた。
 

 
?
35
 躊躇いがちなザーンハルトを引っ張るようにして、部屋から続く奥の部屋に入った。
 そこからさらに奥に入れば寝室で、いつでも休めるように寝具が整えられていた。
 厚い布が、まだ明るい日差しを遮って、そこだけ夕闇が押し寄せてきているような穏やかな空間になっている。
 どこか静謐な空間だ。けれど愛おしい相手と二人きりだと思えば、途端にその空間がどこか淫猥さを帯びて押し寄せてくる。
「もう仕事は終わりだ」
 緊張からか、硬直している体を引き寄せ、耳元で囁く。
「っ……」
 跳ねる体が逃れようとして腕の中で抗う。二の腕を強く掴んでいた指を、必死になって引き剥がそうとしていた。けれど、もう、逃すつもりはない。
「逃がさない」
 ヴァルツ自身でも驚くほどに、声音に熱が隠っていた。
「あっ……め……」
 ザーンハルトの荒い吐息に音が混じる。
 真っ赤になって抗って、言葉以上に雄弁に物語る瞳で訴える。
 けれど。
 そんなふうに抗われると、俄然やる気が起きてくると言うものだ。
「私が嫌いか? こんなふうに、お前に欲情してしまう私が。ならば……私から離れてジルダの元にでも行くか?」
 羞恥心の勝っている心に、悪戯心で冷風を吹き込んでやる。
 戯れでしか無い言葉に、けれど、ザーンハルトは如実に反応した。
 驚愕に瞠られた瞳が、決して合わせようとしなかったヴァルツのそれと合う。
 その中にある焦りに、ヴァルツは気付かれないようにほくそ笑んで、硬直までした体を一気に押し倒した。
「ひっ!」
 掠れた悲鳴をそのまま強く口付けて飲み込んで。
「冗談だ」
 堪えようとした笑みは結局隠し通せなくて、ザーンハルトが悔しそうに睨み付けてきた。
 もっとも、こんな状態ではそんな表情も可愛いものでしかない。
 濡れた唇が震えて、何かを言おうとしているのだが、それは結局言葉にすらならなかったようで、諦めたように瞳と共に閉じられた。
「ザーンハルト、私を見ろ」
 指先で柔らかな頬を辿る。
 ゆっくりと上から下へ辿り、耳朶へと触れた。
 飾りの一つものない耳朶は形が良く、濃緑色の飾りがひどく似合いそうだ。
「ああ、今度ここに飾りをつけさせておくれ?」
 気が付いた時には乞うていて、訝しげに開けられた瞳が向けられる。
 この瞳の色と同じ色。
 いや、、それよりももう少し濃い色が良いか?
 それとも淡い──翡翠のような……。
「そういえば先日実に美しい色合いの翡翠が手に入った。あれを加工して貰おう」
「……なっ」
 いらないっと叫ぼうとしている体を押さえつける。
 拒絶など聞きたくはない。
 この手の中に閉じこめている間は、もっと優位でいたいのだ。
 ザーンハルトにとって絶対的な立場でありたい。
 同等なんて生ぬるいことは望まない。
 公私全てにおいて、ザーンハルトに相応しい立場でいることをヴァルツは望んでいた。特に怖れるのは、この男からの軽蔑だ。
 それは、こんな時でも然り。
 ヴァルツにとって、男相手はこのザーンハルトが初めてなのだ。
 こっそりとその手の知識だけは手に入れているが、実戦するのは初めて。
 この前のように、余裕無く進むことだけは避けたかった。まして、笑われるなんてことがあったら、それこそ立ち直ることすらできなくなりそうだ。
 寝具に押しつけたザーンハルトの体を抱きしめ、かりっと犬歯の先で耳朶を噛んだ。
 途端、あえかな喘ぎが肌をくすぐった。身を捩り、力のない指がヴァルツの腕を掴んでくる。
「今日は何があっても最後までするからな」
 助け出した時に、遠慮せずに最後までやっとけば良かった、と何度後悔したことか。
 たとえ恋人にでも容易には許してくれそうにない相手に、遠慮は無用だとつくづくと悟っていた。
 その言葉にザーンハルトの肌は上気し、全身に力が入る。
 強張った腕の筋肉を指先でそっと辿れば、息を飲む音が響いた。
「っ……っ」
 端正な顔が顰められる。
 うっすらと上気した頬よりも目の縁が赤い。薄く開けられた唇から零れるのは、体温よりも熱い吐息だった。
 その表情も、繰り返される吐息の間隔も、掠れた悲鳴も。
 全てがあの時の吐息、匂いと同じもの。
「……ぁ……はっ……」
 さらけ出した肌に強く吸い付く。
 白い肌に残る朱印は、前よりもさらに濃く、はっきりとザーンハルトの体を彩った。
「あっ……も……」
 言葉にならない音。
 空気の擦過音のような音が、絶え間なく耳に届く。
 胸の小さな粒を口に含んで甘噛みをすれば、肌が激しく震えた。
「敏感だな」
 嬉しくて、つい笑みを含んだ言葉を放てば、恨めしそうな瞳が揺いだ。それもまた扇情的だというのに、ザーンハルトの上がった腕が顔を覆い隠してしまう。
「隠すなよ」
 腕を掴んで引き下げようとしたが、その力は今までのどんなときよりも強くて、動かない。
「ザーン?」
 胸元を弄んでいた口元を持ち上げて、両の指に隠された目元を覗き込もうとする。
 けれど、それすらも叶わないほどにしっかりと覆い隠されていて──けれど。
「ザーン……お前?」
 僅かに見える肌がひどく朱い。
 よく見れば、全身全てが朱に染まり、四肢を曲げて小さく縮こまろうとしていた。もっとも、ヴァルツの体があるせいで、完全には曲げることができない。
 それは、まるでヴァルツの視界から少しでも逃れようとしているようで……。
「お前、まさか……恥ずかしくて堪らないのか?」
 幼子が粗相でもしたように、人の目に晒されることを怖れているかのように。
 思わず傍らにあった掛け布をそっと床へと落としてから、その両手首をもう一度捉えた。
「やっ……」
 渾身の力を込めれば、さすがに羞恥に染まった顔が現れる。
 嫌々と駄々をこねるように首を振って、それでも逃れようとするザーンハルトから、ヴァルツは一時も視線を晒すことなどできなかった。
 可愛い、なんて陳腐な形容では表しきれない。
 出立前の無理矢理の口付けの時も。
 助け出した時の初めて触れあった時も。
 確かにこんなふうにザーンハルトは終始真っ赤に染まっていて。
 普段と違う姿に、ヴァルツは常以上に欲情したのも事実。
 だが、今のこれは、それよりもはるかに激しく、ヴァルツの性欲を刺激する。
 いや、このまま見ているだけで暴発してしまいそうなほどだ。
「おま……え……」
 ごくりと己の生唾を飲み込む音がやけに大きく響く。
 銀の髪が、淡い朱を縁取る。
 もともと端正な顔が羞恥に歪み、切なげに震えるまつげには滴が溜まっているのだ。それが震えて、つつっと流れ落ちる。薄く開いた瞳は溢れた涙で深い森のように不思議な色合いを醸し出していた。
 そんな姿を晒したザーンハルトの上に陣取ったまま、ヴァルツは動けない。
 魅入られて、動けないのだ。
「……さ…ま…」
「っ!」
 掠れた声ならぬ声。
 なのに、下半身を直撃する。
「お前……は……、こんなにも……」
 震える唇で、ようようにして言葉を紡ぐ。
「私を……狂わせる……」
 欲しい。
 こんなにも欲しいと思うのは、絶対にこの男ただ一人だけ。
 どんな高価な宝玉や珍しい宝を積まれても、世界一の美姫を連れてこられても、いや、国一つが代価だと言われても、決して手放すことなどできない。
 それは、ジェイスやセルシェがもっとも危惧する思考だと、欲情の影に押し込められた理性が囁く。
 けれど。
「絶対に……お前を離さない」
 今のヴァルツにとって、欲しいのはザーンハルトただ一人。
「わた……は……」
「それほどまでに、お前を愛しているんだ……」
 我慢などできなかった。
 今すぐにでも、ザーンハルトの中に入りたかった。
 けれど、衝動のままに動こうとする体をぐっと意志の力で押さえつけ、歯噛みしながら訴えた。
「だから……愛したい。お前の体に私の熱い思いを刻みたい──だから……受け入れてくれ。無理矢理ではなく、ザーン、お前から受け入れてくれ」
 こんなにも硬直して、押さえつけていないと駄目な状態では、いつかザーンハルトを傷つけそうだった。
 手に入れたいとは願っていても、無理矢理したいわけではない。
 愛し合いたいのだ。
「な……恥ずかしいだろうが……、私にさせておくれ」
 強く乞うて、恐る恐る押さえつけていた両手首を離した。
 また顔を覆うのではないかと、最後の指先がいつまでも離れようとしないのを、なんとか引き剥がして。
 ぎゅっと手を固く握りしめてから、視線を戻した。
「あ……」
 ザーンハルトと視線が絡んだ。
「ザーン……」
 上気した顔の色は変わらない。
 困惑をたたえた瞳。それに怯えにも似た震えが、ザーンハルトの全身には残っている。
 けれど、両手は押さえつけた時のままに顔の横にあって、動いてはいなかった。
「う゛ぁ…るつ…さま……」
 小さな声。
 けれど確かに名を呼んで、ザーンハルトは頷いた。
 そして、そっとその目を閉じる。
 微かに開いた唇から、熱い吐息が小さくこぼれ落ちていた。
 
?
36
 汗ばんだ肌が滑りをもたらし、より深い交合をもたらす。
「んっ、はあっ……」
 受け入れる事が初めての体は、どんなに解してもなかなかヴァルツを受け入れようとはしなかった。
 困ったことに、ザーンハルトもうまく力を抜くことができないのだ。
 性交自体に慣れていないのだと思わせる緊張した体を解すのに、ヴァルツは長い時間をかけた。
 全身を愛撫し、くまなく口付けて、感じるところを探し出した。
 顕著な反応を示す場所を見つけては執拗なまでに責め立てる。
 頑なな理性を崩し、思考の全てを快感にとろけさせるために。
「んあぁぁ」
 はっきりとした音が無くても、あえかな嬌声が室内に響く。
 声が我慢できなくなるまで、責め立てた結果だ。
 そこまで弛緩して快感に捕らわれた体だったけれど。
「あっあぁぁっ──っ!」
 痛みなど与えたくはなかった。
 けれど、それでも最初はザーンハルトにかなりの痛みを与えたようだった。
 ようやく解れた体はまた硬直しきっていて、その顔も苦痛に歪んでいた。けれど、逃げようとはしない。懸命に、ヴァルツを受け入れようとしてくれている。
 そんな姿に、ヴァルツの胸の内がじんわりと熱いもので埋め尽くされていった。
 こんなにも愛おしい。
 奥深くに入り込んだヴァルツのものは、熱く柔らかな肉壁にきつく締め付けられていた。
 恋い焦がれた相手の中に潜り込んだそれは、今すぐにでも暴発しそうだった。それをかろうじて堪える。
 ずるりと半ばまで抜き出し、ゆっくりと押し込めば、その背がびくりと仰け反った。
 汗ばんだ肌に吸い付いて、その味に酔う。
 まるで一つの生きもののように馴染んだ肌。
 結合部が濡れた音を立て、四本の足が複雑に絡み合う。
「あぁっ──」
 下腹部に触れるザーンハルトの逸物が確かな硬度をもち始めたのはすぐだった。
 痛みではない感覚を追うように、彼の体が動く。
「良い子だ」
 揺らぐ腰を好きなようにさせ、誘われる場所を穿つ。
 途端に艶やかな嬌声が零れた。
 そこが良いところなのだと、ヴァルツもしっかりと覚え込む。
 賢い相手は体の覚えも良くて、すぐにヴァルツのそれに馴染んだようだ。
 萎えていたはずの逸物ははっきりと形を成し、密着した下腹を先走りの液で滑らした。
「あっ……あん……んっ……んんっ……」
 音がないから声というより喘ぎに近いのだが、それでもヴァルツには声にしか聞こえなかった。しかも、信じられないほどに甘い『声』となっているそれ。
 それが耳に入るたびに、もっと、と言われているような気になって、ヴァルツは性欲の赴くままに腰を動かした。

 布地越しに漏れていた日の光が消えていた。
 すっかりと夜の帳も降りているのだが、室内の二人は気づきもしない。
 うっすらと白い光が布地越しに僅かに漏れ、薄闇の中、ザーンハルトの白い体が一匹の軟体動物のように蠢めいていた。
「んっ、はっ……はっ」
 腕がヴァルツの首に絡みついて、引き寄せられる。
 顰めた顔に薄く開いた瞳。
 どこか朦朧とした表情は、淡く色付いて、体内で弾ける快楽を享受している様を映していた。
 ヴァルツ自身も限界が近づいていた。
 ザーンハルトの中は熱く、狭い。
 絡みつく肉壁は、未だかつて経験したことのない快楽を与え、貪欲に欲を引き出そうとする。
 それは先だって手でやった時よりもさらに激しく、ヴァルツから理性そのものを崩させようとするのだ。
 ただ、欲しい、と貪るように腰を動かす。
 すでに自身のそれは脈打ち、解放を訴えている。
 それでも──と、ヴァルツは歯を食い縛り、解放を欲するそれを意志の力で縛めていた。
 もっと。
 あの、何物にも代え難い快感を伴う解放感は欲しい。
 けれど、もっと、見たい。
「んあっ……はぁっ……はあっ……」
 銀の髪を振り乱し、快感に身悶えるこの男を。
「あぁぁっ」
 ヴァルツの首に縋り付き、僅かな隙間すら作らないと言いたげに腰を淫らに擦り寄せる姿を。
 普段が真面目で、性欲の欠片すら見せないからこそ、その隔たりはあまりにも大きく、ヴァルツを魅了する。
 今このザーンハルトの姿を見れば、どんな不能な男でも勃起するのではないか?
 まして、健全な男なら誰でもだろう。
「誰にも……やらない……」
 絶頂感をやり過ごし、ほっと息を吐きながら淫らに悶えるザーンハルトを見下ろして、ヴァルツはぽつりと漏らした。
 その間も、止まってしまったことを責めるように、ザーンハルトの体が蠢く。
 ぎゅっと引き絞られた肉壁に、危うく解放しそうになって、ヴァルツは苦い笑みを浮かべた。
「まあ、待て」
 宥めるようにその体をきつく抱きしめる。
 荒く熱い吐息が肌をくすぐる。
 たったそれだけの行為でも、暴発しそうになった。
「あっ……もっ……」
 欲求が言葉にならないもどかしさに、ザーンハルトの腕がきつくなる。肩口に擦り寄せた額を強く押しつけ、噛み付くような口付けを鎖骨の当たりに落としてきた。
「っ」
 鋭い痛みに苦笑して、その顎を上げさせ、深く口付ける。
 微かに感じた血の味は、一体どちらのものなのか。
 その味が、ヴァルツの最後の理性を突き崩す。
 途端に激しくなった腰の動きを止める理性はもう無い。
 獣同士の性交よりも激しく、体内奥深くを抉らんばかりに腰を打ち付けた。
「あっぁぁぁっ!」
 ザーンハルトの口から吐き出される悲鳴にも似た嬌声。
 肉壁がきゅうっと強く絞られて、ヴァルツのそれにねじられるような痛みが走る。
 けれど。
「うっんんんっ!」
 痛みを勝る快感に、全身が瘧のような震えた。
 熱い肉壁の奥深くに、溜まっていた全てを吐き出すようにびくびくと震える。
「あっ……っ……ぃ……」
 ザーンハルトが喘ぎ、四肢が強く絡んできた。
 その腰が、足が、びくびくと震えている。
 密着した下腹部に流れる熱い滑りに、彼も達ったのだと気が付く。途端に、胸の奥から奔流のごとく熱い塊が込み上げた。
「ザーン……ザーン……」
 ひくりと肩が震えた。
 堰を切ったように、涙が両頬を流れ落ちる。
 それは、ボタボタと音がしそうな程の勢いでザーンハルトの肌をも濡らした。
「……つ……、う゛ぁ……つ……」
 ザーンハルトの目蓋がひくりと動き、濃緑色の瞳が覗く。
 指がそっとヴァルツの目尻に触れて、流れる涙をぬぐい取った。けれど、涙はそらに溢れて、ザーンハルトの指から腕へと伝う。
「嬉しいんだよ」
 心配げに顔を歪めるザーンハルトに笑みを向けたつもりだったが、それは泣き笑いにしかならなかった。
 けれど、哀しい訳ではないのだ、と言い募る。
「お前をこの手に抱けて。こんなふうに繋がることができて。堪らなく嬉しいんだ」
 泣いてしまうほどの──しかも号泣と言って良いほどの激しい感情は理性ではどうしようもなかった。
 嬉しいのに、ただ涙が溢れて止まらない。
「こんなにも愛おしい。こんなにも離れがたい。こんなにも……」
 達ったばかりなのに、ヴァルツのそれは萎えてはいない。
 無意識なのだろうが、肉壁がざわりと蠢いてヴァルツのそれを迎え入れる。
 途端に、動かしたくなる。
「なあ……欲しい。もっと欲しいんだ……」
 堪えきれない性欲を訴える。
「……」
 困ったように顔を顰めて見上げるザーンハルトだったが、けれど、首に回されたもう一つの手は外れなかった。
「ごめんな、けど止まらないんだ」
 そう言いながら、すでに腰は動き始めていた。
 それに応えるように、ザーンハルトの肉壁も反応する。
 小さく零れたのは諦めのため息か、それとも了承の返事か。
 そのどちらでも同じ事だと、ヴァルツはザーンハルトを抱く手を強めた。
「離さない。どこにもやらない。お前は一生私に仕えろ。そのためなら、なんだってやる」
 快感に煽られた脳が、心地よさを甘受したまま言葉を紡ぐ。
「……なん……って?」
 欲しいから、その欲求がずっと叶うようにと、ヴァルツは夢心地の中にいた。
「ああ、何だって、お前の望むことはなんだって叶えてやる」
 ああ、なんて恋にとち狂っているんだ──自分は。
 それでも、止まらない。
 甘く優しく、相手の関心を引くように、睦言を呟く。
 こんなにも恋しい相手の望むことならねなんだって叶えたい。
 離したくないから、相手の望むことは何だってしたい。
「愛しているザーン。お前が私に仕えるように、私はお前に仕えよう。だから一生私の傍らにいてくれ」
 甘い訴えに、返事はなかった。
 けれど、どこからも拒絶は伝わってこなかった。
 ただ。
 途切れることの無い濡れた音と荒い呼吸、意味をなさない嬌声が室内にいつまでも響いていた。

?
37
 ──ああ、何だって、お前の望むことはなんだって叶えてやる。
 ──愛しているザーン。お前が私に仕えるように、私はお前に仕えよう。だから一生私の傍らにいてくれ。

 たいていの事を叶えることのできる地位にいる男のお強請りは、違えることなく叶えられることになった。
 もちろん、そのための約束は果たさなければならないとは判っている。
 判ってはいるのだ──だが……。
「なあ、王子さん、遊ぼうや。俺、明日には帰っちまうっていうのに」
 むすっと浅黒い肌の男が不機嫌そうに訴える。
 ぐるっ
 その隣でジュウザがのびのびと転がっていて、ヴァルツの傍らで寝っ転がっているザンジとじゃれ合っていた。
 眺めていると和やかな気分になれる彼らの睦み合いも今日で最後だ。
 そんな事は、とっくの昔に判っている。
 けれど。
「いったん帰ったら、次いつ来れるか判んのに」
 部族の長の地位を継いだ男は、仲間を連れて故郷に帰ることになっていた。
 それが明日だ。
 もっともヴァルツの対となったザンジだけは残る。
 対を引き剥がすことできない、とその悲惨さに経験のあるジゼが言ったからだ。
 それにはずいぶんと安堵した。
 ザンジも明らかにほっとしたように、ここ数日は悠々と中庭やここで惰眠を貪っている。穏やかなザンジに、城の者もかなり慣れた。
 ザンジの世話係を統率することになった執政官の一人ファムと二人で、忙しい合間を縫って獣の世話の仕方から何から全てを学ぶのは疲れたけれど、それでもザンジのためだと思えば、やる気が潰えることはなかった。
 そのザンジと心地よい昼寝を貪りたいのに。
 ジゼなどと遊ぶよりはできればザンジと遊びたい。
 ザンジの背に乗って、草原でもひた走れば、どんなに心地よいだろう。
「ぎゅるぅ」
 傍らでザンジが呼ぶ。
 ──行こう。
 と誘ってくれるのだけれど。
「なあ、王子さんっ」
「うるさいっ!!」
 脳天気な男の言葉に、溢れた感情を取り繕う暇もなく、切れた。
 どんっと強く机上を殴れば、ガチャガチャとインクの瓶が跳ねて、黒いシミを散らした。
「そんなに遊びたいなら、これを手伝えっ!」
「ええっ! いやや、そんなん王子さんの仕事やんけ」
 指差す書類の山を一瞥したジゼが心底嫌そうに首を振る。
「そうです。それは殿下のお仕事です。はい、次はこれです」
 ファムから差し出された書類の山が加わる。
 喉を痛めたザーンハルトは、午前中は仕事を行い、午後は治療と休養に専念している。
 ファムは、言葉の出ないザーンハルトについて代弁している。そして午後は不在のザーンハルトに代わって、ヴァルツの補佐をしているのだ。
「……まだあるのか?」
 それでなくても机上からこぼれ落ちんばかりの書類の山があったというのに。
「はい。しかし、今日の仕事はこれだけです」
 すでに日が傾き始めた頃。
 だが、片付けた以上の書類の山がまだ残っていて、ヴァルツのは眉間のシワを深くした。
 確かに、政務を放り出して勝手に飛び出したツケがあるのは判る。
 けれど、城に帰ってから毎日がこの調子だ。
 ラスターゼにいた頃どころか、あの戦が始まる前の比ではない分量が毎日のように押し寄せ、さすがに疲労困憊。
 かなり嫌気が差してきていて、きっかけさえあれば逃げ出したいと考えるようになっていた。
 が。
「この中には急ぎでないのもあるだろうが?」
 期待を込めた問いかけは、あっさりと否定される。
「ザーンハルト様が選別されています。すべて今日中の書類です」
「……」
 今日中に処理できるかどうかの量は、いつにも増して多いような気がする。
「これでは日が変わっても終わらぬ」
「それでもして頂かないと、明日はもっと増えますし、政務も滞ります。これを今日中にして頂きたいというのが、ザーンハルト様の”望み”ですので」
 言われた言葉に、ヴァルツはファムを恨めしげに見つめた。
 茶褐色の髪を短くした小柄の男が、何故かザーンハルトの姿と被る。
「お前……」
「よろしくお願いします」
 と言われても。
「それがザーンハルト様のお望みのことですから」
 けれど、伝家の宝刀よろしくその言葉を出されては、たとえここにザーンハルトがいなくても、ヴァルツには不利だ。
「王子さんも、厄介な弱み握られてしもうて」
「煩いっ!」
 そんな事は自分でもよく判っている。
 けれど、まさかこんなふうに返ってくるとは、あの甘い夜には、夢にも思っていなかったのだ。
 深いため息を落として、ペンを握る。
 いい加減指も腕も痛い。
 いつになったら、この山のような書類片づけが終わるのか、それが判るのはザーンハルトのみ。
 先の見えない仕事ほど、気の重い仕事は無い。
 ひらりと舞う書類の束を慌てて拾い集めるファムに、彼をからかうジゼ。
 二匹揃って退屈そうに転がっているジュウザとザンジ。
 ずいぶんと和やかだというのに、ヴァルツの周りだけどんよりと重い空気が漂っていて、ザンジが仕方がないとばかりに大きなあくびを零していた。

 

『暇なのよ』
 たったひと言ではあったが、確かに伝えられたのは、ジゼが帰った次の日だった。
 ──落ち着いたらまた来るからな。
 脳天気にも言い放った男の言葉を聞いた時、何故だが嬉しかった。このまま今生の別れになるかも、と思っていたからだ。
 だから、間際まで賑やかだったせいもあるけれど、別れも寂しくはなかった。
 ただ。
 ジゼがセルシェの退屈しのぎの相手になっていたのだということをすっかり忘れていた。
 彼が帰れば、こんなふうに呼び出される事も十分考えられたのに。
 今はそんなことに気を取られる暇も無い程に忙しくて、すっかり失念していた。
「お久しぶり」
 忙しい合間の昼の時間をなんとかやり繰りして、ヴァルツが紅玉殿のセルシェを尋ねれば、彼女は箱庭で優雅にお茶をしていた。
 だが、微妙な空気があって、前のように気軽に話させない。
「そうだな」
 固い口調のままに返して、傍らの椅子に座る。
 そんなヴァルツに、セルシェはくすりと微笑んだ。
「これでも、一応無事に帰ってくるよう祈ってはいたのよ。私にとって、あなたもザーンハルトもとても大事な弟たちですもの」
 静かに微笑む彼女の、それはきっと本心だろう、とヴァルツには判っていた。
 けれど。
「それでも他に方法があったろう?」
 ザーンハルトの喉はまだ声を発することはできない。
 掠れて、慣れていない者には単なる音にしかならない声。
 さらわれなければこんなことにはならなかった。
「あなたの一番大事な者──それがザーンハルトだったから……。あなたを動かすのに、もっとも適した贄ではあったのよね」
「……贄、か?」
「そうよ。ぐうたらな夫に活を入れるための贄。あなたは、私の夫であり、次代を担う子供達の父親であり、そしてこの国の次期の王である。そんなあなたには、もっともっとこの国を栄えさせる義務があるのよ。なのに、あなたはすっかり現状に甘んじて、マゾルデの独断専行を容認してしまいそうな気配があったから、だから……ね」
 かちゃ。
 彼女の手の中で陶器同士がぶつかり合った。
 同じ陶器に入った淡い緑の飲み物から、ほっとさせる芳香が漂っているというのに、ヴァルツは固い表情を崩すことはできかった。
「私は自分が選んだこの人生を後悔などしていない。あなたが私よりもザーンハルトを愛していることなど知っていて、あなたと結婚したのだから。だけどね、この待遇を甘んじて受け入れている訳でもないのよ。私は、私のやりたいことをする。その一つが、私の子供をあなたの次の王にすることなの。しかも、さらにこの国を繁栄させることのできる優秀な王様を作るのが私の望み。幸いにして、シルツもテイジェも賢くて飲み込みが早い。自分達にとって何が大切かとてもよく判っている──良い王になる器を持っているの。だから──」
「子供達のために、私が良き王にならないと行けない──か。そのために、ザーンハルトの存在を敵に教えた、と」
 途端にセルシェが可笑しそうに噴き出した。
「彼は、敵──だったかしら?──お気に入りだったくせに」
 すっかり見透かされていたそのことに、ヴァルツは反論する言葉を失う。
 そんなヴァルツを見やって、セルシェの口元に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
 ざわり、と、背筋に悪寒が走る。
 知らず強張った頬の筋肉が緩む間もなく、セルシェの言葉がさらにヴァルツの頬を引きつらせた。
「甘いったらありやしない。自分の命を奪いに来た彼を傍らに置いて。信用していなかった、なんて言葉は、そっちの方が信用できないわよ。幸いにしてジゼは、こちらの利となる子だったけれど──本当にあなたってば甘いんだからね」
 責め立てられているその全てが事実で、面目次第も無い。
 が。
「しかも、ザーンハルトに一途なんだとあれだけ言っておきながら、彼と何度も抱き合っちゃって」
 続けられた言葉に、絶句する。
「抱き合ってなんか……」
 ようようにして返した言葉は、嘲笑に遮られた。
「あら、あつっい?口付けを何度も交わしたんでしょう? ジゼがあなたの唇は美味しいって、自慢げに言いまくっていたもの。しかも、回を重ねるごとに、どんどん上手になって、巧みに応えるようになったとか? ね、そんなに上手になったの?」
 きらきらと目が輝いていると思うのは気のせいではないだろう。
 ぐぐっと身を乗り出して、ヴァルツに問うその表情は、好奇心でいっぱいだ。
「あら、ヴァルツってば、真っ赤になっちゃって。思い出しちゃって興奮してるの? そんなに素敵だったのかしら?」
「ち、ちがっ」
「そう言えば、最近ずいぶんと色気が増したって思っていたけれど、きっと、ジゼのお陰なのね」
 色気……。
 くらりと、目の前が暗くなって、体から力が抜ける。
 がくりと机に肘をついて頭を抱えたヴァルツに、セルシェがさらに追い打ちを掛けた。
「って話を、ジゼがザーンハルトとしていたわよ。しかもザーンってば、真面目な顔してその時の事と次第を全て聞き出そうとしていて……」
「え……?」
「終わった時には、この私も近付き難いほどに怒りの気配が漂っていて」
「……」
「なんて言うのかしら。喋らない分、その迫力はすさまじいものがあるのよね。なんか前より、感情が露わになったようだし──ほんと怖いわね」
 しみじみとセルシェが言うからには、よっぽどのことなんだろうけれど。
 そう言えば、ここ数日仕事の話はしても、個人的な会話──睦言などは全くしていない。
 今日など朝からジェイスの元に行っていて帰ってきていないから、まだ会っていなかった。
 もっとも、それだからここに来ることができたのだけど。
「もしかして……ずっと怒っている?」
 考えてみれば、ジゼの話をすると不機嫌になることはあった。
 つまりは嫉妬だということなのだろうが……けれど彼を怒らせるのは拙い。
 非常に、拙い。
「さあ?、どうかしらねえ……」
 ニヤリと口の端を歪めるセルシェの口調は、的を射ていると言わんばかり。
「そういえば、昔あの子と喧嘩して、結局機嫌を直して貰うのにとっても時間がかかったわよね、覚えてる?」
 ああ、覚えているとも。
 まだまだ幼かったあの頃の、困り果てた思い出だ。
「もう、あの子ったら頑固だから、ほんと……」
 苦笑まじりのセリフはまさに事実で、半ば放心状態のヴァルツに重くのしかかっていた。

 
「まだ戻ってこられないのかなあ……」
「ぐうっ……」
 主のいない部屋で、若い執政官のぼやきが落とされる。
 それに返すのは、彼よりは立派な体躯の漆黒の獣。
 牙を剥けば、誰もが腰を抜かすほどのどう猛な獣と怖れられるそれにもたれかかり、彼──ファムはぼんやりと机の上の多量の書類を眺めていた。
 そろそろ彼の上司であるザーンハルトが帰ってくる。
 それなのにちっとも片づいていないこの様子に気が付いたら──。
「怒るのになあ、ほんと。最近機嫌が悪いのに、もっと怒らせちゃうんじゃないかなあ……」
「ぐうっ」
 こくこくと頷く獣──ザンジと頷き合い、揃ってため息を零す。
 一人と一匹は、昨日部屋の主が嬉々として宝石商から受け取った小箱を引き出しにしまっているのを知っている。
 翡翠を加工した耳飾りは、つければ目立たない大きさではあったが、灯火の下で綺麗な輝きを放っていた。
 それを受け取ってからは、仕事の合間に何度も何度も嬉しそうに眺めて──あまりの締まりのない顔に、注意する気力も萎えたほどだった。
「こんなんじゃ、渡せないよね」
「ぐうう」
 それが誰の物かはよく判っている。
 銀の髪、濃緑色の瞳を持つ、優秀で最高の上司。
 ファムの目から見ても、その耳飾りは似合うだろう、けれど。
 当分、それが飾られることはないだろうと、ファムもザンジも判っていた。
 窓から入っていくる風に、ふわりとたなびくザンジの体毛は心地よい。
 床に座り込んだザンジの体を背もたれにして、ことんと頭を埋める。
 対と遊べないザンジが許してくれるから、最近すっかりお気に入りの体勢は、一人と一匹だけの内緒事。
 ヴァルツがどんなにザンジの傍らでのお昼寝を気に入っているかは知っているけれど。
 それを奪ってしまっているという罪悪感はあるけれど。
 仕事をさぼる殿下が悪いのだ──ザーンハルト様を怒らせている殿下が悪いのだ──と、ファムは心の中で言い訳をする。
 第一、ヴァルツがお気に入りになるのが判るほどに、ザンジの体毛は心地よい。
「ふぁあああ」
 たとえ眠っても、誰よりも先に人が近付いたのが判るザンジが起こしてくれる。
 と、経験上よく判っているファムは、鬼の居ぬ間にと、うっとりと体の力を抜いていった。

【了】