月明かりの下で(2)

月明かりの下で(2)

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 ジゼとザンジがどうにかこうにか城の人々に受け入れられて、ほおっと息を吐く頃には、先発隊が出発してからもう一ヶ月が経っていた。
 だが、戦局は一進一退を繰り返し、進展がない。
 伝書鳩を駆使した連絡は、滞ることはない。日に一回、ヴァルツの元に定時連絡が届く。その内容は前の日とほとんど変わり映えが無く、ほっとすると同時に苛立ちも増した。
 まだ帰っては来ない。

 ザーンハルトがケレイスのこの王城まで帰って来るには、全てが終わらなければならない。
 小国ながら奮闘を見せるラスターゼの抵抗は強く、二大大国が攻めても屈したりはしなかった。こうなるとラスターゼが落ちない限りはこの戦は終わらないだろう。
 ケレイスにもマゾルデにも二強を誇る意地がある。
 手を出さない小国達が、この先を見据えて常に様子を窺っているのだ。
 そんな中で、愚かな行為はできない。
 けれど、思うような進展が望めない日々が続いて、どことなく嫌な雰囲気が城内を覆っていた。
 
 そんな中で一日の激務を務めるヴァルツの心労も前より酷い。
 全ての仕事が終わったと同時に、ふらふらと引き寄せられるように窓際に立った。
 かろうじて見えるのは闇の中の黒い影。ほんの僅かな色の違いで判る山並みを眺め、さらに遠い地にいるザーンハルトを思う。月の銀色が、彼の髪を思わせた。
 喉は治ったろうか?
 無事でいるだろうか?
 ジルダなどに押し倒されていないだろうか?
 愛おしい相手に覆い被さる可愛いが憎たらしい弟を想像したが、その弟の心配ももちろんしてはいる。
 けれど、瞬く間にその姿は脳裏から消え失せて、やはり思うのはザーンハルトだけ。
 あの時、ザーンハルトの口から、「違う」という言葉は聞いているが、考えてみれば、何に「違う」のかきちんと聞いていない。そのことに気付いてしまったら、胸の奥からむくりと鎌首をもたげる澱んだ黒い塊を抑えきれなくなっていた。
 息苦しさを逃すように、拳を強く胸に押し当てる。
 ちりちりと身を焦がすこれは、嫉妬だ。
 自由に動け、恋を語らうことを頓着しない弟に対する羨望。
 心の内を晒してくれない恋しい相手に対する焦燥。
 重苦しくわだかまった負の感情を、拳を強く押して胸の奥から押し出す。肺の奥深くから全てを吐き出すように、何度も深い呼吸を繰り返した。
 判ってはいるのに。
 ジルダとて、楽しいだけの人生を過ごしているわけではないことを。
 ザーンハルトが、望みもしない相手とどうにかなる筈がないことも。
 真っ赤に染まったあの時の表情を忘れることなどできないのに。
 初心な娘のような羞恥を浮かべ、震えていたあの時の可愛さは、未だに下半身を刺激するほどのものだ。
 けれど、今はそんな妄想すら、忌々しく感じる。
 実物が無いのに、そんな事を考えるのはあまりにも哀れだ。
 深いため息は、けれどそのまま消えてはくれなかった。
「また、難しい顔して。そんな難しい顔しとるより笑った方が可愛いぜ」
 思いを断ち切ろうとしたため息が、即座に別の意味のそれへと変わる。
 にやけた口調が、神経を逆撫でした。
 先ほどまで微塵も感じられなかった気配。だが、彼らがいつもいきなりなのは、もう慣れた。
 おかげで狂おしい感傷にいつまでも浸る暇がない。
「ジゼ、何故お前がここにいる」
 ぐるぐると喉を鳴らす音が近寄ってくる気配は嬉しいが、もれなく付いてくるジゼはどうにかしたい代物だった。
「またザンジと窓から入ったな」
 窓際で月を背負ったジゼ達が影の中で笑う。
 月明かりに照らされて、髪が白銀に光る。その色合いに、胸がざわめいた。
 けれど。
 柔らかな毛並みが、下ろしていた腕に擦り寄ってきた時に勘違いに気がついた。
 吐息を落として、腰の高さにある頭を撫でる。嬉しそうに甘えるザンジは、今の1/10の大きさなら可愛いと思えたろう。だが、その本性はどう猛な人すら喰らう肉食獣。
 未だに召使い達はザンジがいる時は入っては来ない。
「王子さんが寂しそうやって……ザンジが行きたがってな」
 ザンジにかまけていると背後からふわりと抱き込まれた。
 立ち昇った石けんの香りに、また遊んできたな、とは思ったけれど。それより、かけられた言葉に腹が立った。
「誰が寂しいって?」
 見透かされたいたたまれなさが怒りになって機嫌は一気に下降する。
 不快さに誘われるがままにジゼの手をはね除けるが、構わずその腕がヴァルツの腰を抱き寄せた。
「難しい顔して、んな怒っているフリしても判るって。初恋の君を案じてんだろ?」
 そんな揶揄たっぷりのあだ名を、誰が教えたのか、簡単に想像できる。
 最近暇な時にはお茶に誘われているとは聞いていたが、あまりにも歓迎したくない構図だ。
 何に苛ついているかも判らぬままに、舌打ちして顔を背けた。
 けれど、力強い指が顎を捕らえる。
 走った痛みに顔を顰めて睨み付けても、ジゼは躊躇うことなく唇の端に口付けを落とした。
「やるな、と何度も言っている」
 伴侶の儀式だと後で知ったあの時以来、ジゼは過剰な触れあいを求めてくる。何度も何度も拒絶して、時に剣まで突き付けた。けれど、ジゼにとってそれは遊びでしかない。
 それに相手はジゼだけではない。
「ザンジ、王子さん転ばしてな、あそぼ」
 からかう言葉に、気が付いた時には遅かった。背後から音もなくザンジがやってきて、軽くのしかかられた。それだけでヴァルツの体は床に転がる。
 剣は手から離れて、音を立てて転がっていった。
 もっともザンジ自身はじゃれているつもりらしいが、重い体はどんな拘束よりも確実に体を絡め動けなくする。
「可愛い」
 戯れ言が直接耳朶に吹き込まれ、くすぐったさに身を捩った。けれど、僅かに動いた隙間に、ジゼが手を差し込む。戯れに動く指が肌をくすぐり、唇が落ちてくる。前より深く激しい口付けに喘ぐヴァルツの首筋を、ザンジがざらついた舌で舐めた。
「んっくっ……」
 勝手に零れる喘ぎ声に、羞恥がいっそう込み上げる。
 けれど。
 ぞくりと走った紛れもない快感を意識して。
 はっきりと感じた性欲に、ヴァルツは恐怖した。
 ダメだ!
 嫌だっ!
 そこまでを許すつもりは毛頭無く、叫んで、闇雲に暴れて。
「なんや、厄介やなあ」
 呆れた表情で見下ろされても、ヴァルツはジゼが止めるまで抵抗を止めなかった。
 

 今も悪戯な手が、ヴァルツの体をまさぐっている。
 こうなると助ける『者』はいない。
 ザンジがいる時は、警備兵や召使い達は入って来ない。ヴァルツが呼べば来るだろうが、こんな所を彼らに見られたくはなかった。
 そのせいか、ジゼの行動に遠慮がない。もっとも、誰かいたからと言っても躊躇いやしないだろう。
「離せ」
 ジゼを押し退け、対の行為そっちのけで寛いでいるザンジの背に回る。
 ぎゅっとその背の毛を掴んで、ジゼを睨んだ。口惜しいことに、ジゼの暴挙から身を守るのは、ザンジに縋るのが一番なのだ。
「ザンジ、助けろ」
 甘えるようにその首筋に縋れば、ザンジが心得たようにジゼに牙を向けた。もっとも、これも遊びだ。ザンジが対であるジゼを傷つけるはずもない。それでも。
「ちっ」
 ジゼが舌打ちして、ため息を吐く。
 伴侶にこんなにも懐くのは珍しい。
 最初の頃、貞操の危機に陥って、とにかく逃げてつい縋ったザンジに救われた。その時、ジゼがしみじみと呟いたのだ。普通獣にとって、対が一番。伴侶であっても、対が認めない命令は、獣は従わない。
 なのに。
 ヴァルツの命令ならザンジは聞くのだ。たとえ、ジゼが拒絶させようとしてもだ。
 遊ぼうとじゃれつかれて押し倒される事だけに気をつければ良い。そんな時にジゼがいなければ良い。
 それが判ってから、ヴァルツはザンジを頼るようになっていた。
 ザンジは賢い。
 そんなヴァルツの信頼を敏感に感じ取って、嬉しそうに従う。
「いい子だ」
 ごろごろと鳴る喉を撫でてやる。
 気位の高いこの獣は、王子であるヴァルツの地位を理解しているのだと、ジゼは言った。人間の中でも最高位の地位にいるヴァルツに従うことが、ザンジの自尊心をくすぐるのだと。
「そんなバカな」
「だが、ザンジは悦んでるぜ。あんたに仕えることを」
「そう……なのか?」
 顔を近づければ、ぺろりと顔を舐められた。
 唇に触れる舌が、開けろと促す。
 顔を顰めて、それでも受け入れた。
『ザンジが欲しがる時にはやってぇな』
 それだけは、と真剣な目で乞われて、渋々了承したがさすがにこの行為は苦手だ。
「んっ……」
 結局数秒で堪えきれなくなって、ザンジを押し退けた。荒い息を吐いて、苦しさに涙目となった瞳をジゼに向ける。その顎を取られた。
「可愛いねえ、襲いたくなる」
「んっ」
 落とされる口付けにすぐに抗えない。
 音を立てて触れるだけの口付けはすぐに離れたけれど。
「ばか、やろう……」
「そんな顔されたら、誘ってるしか思えねぇ」
「ザンジっ!」
 伸びてきたジゼの腕が、ザンジの口にカプリと銜えられた。
「ザンジ?」
 対の放った唸り声に涼しい顔を向け、そのままジゼを押し退けてくれる。
「ありがとう、ザンジ」
 黒い毛並みに紅の瞳の獣に感謝して、頬を擦り寄せると、ザンジも嬉しそうだ。この行為が、一番ザンジが悦ぶ。
「しゃぁないなあ」
 だが、その対である男には強い視線をくれてやった。
「でも、元気になったな」
「お前らの相手をしていると、感傷にも浸れぬ」
「いいやろ。落ち込んでる王子さんなんて似合わねえもん。だいたい、そんな冷たい奴より、俺に乗り換えれば良いのにな。優しくするぜ」
「ばかやろう。お前など、たとえザーンハルトがいなくても論外だ」
「ひ、ひどいっ」
「そんな傷ついた顔しても、無駄だ」
 言い捨てた途端に、情けなく歪んだジゼの口元が苦笑へと変わった。
「ほんと、可愛いのに口が悪い」
「お前のせいだろうがっ。だいたい、可愛い、は止めろ」
「はいはい。そんなに怒ると可愛い顔が台無しや」
「だからっ!!」
 何を言っても馬耳東風。聞く耳を持たないジゼに、怒りを持続するのは難しい。がくりと肩を落とし、四肢を投げ出しているザンジの柔らかな体にもたれる。その柔らかさは、どんな寝椅子より心地よくて、疲れた体を癒す。
 最初の時など、血塗られた場所で朝まで熟睡してしまったほどだ。
 さすがに朝起きた時には、己の非常識さに愕然としたけれど。
 それほどまでに寝心地の良いザンジを、今は手放したくない。最近では執務室でそのまま夜を明かすことが増えた。侍従長などは、そんなヴァルツにみっともないと怒るのだが、疲れた体で寝室に戻るよりザンジに添い寝して貰う方がよっぽどくつろげた。
 今だって、すでに深夜といって良い時間だ。
 横になれば、すぐにでも睡魔は襲ってきたが、ヴァルツは閉じかけた目蓋をかろうじてこじ開けて、ジゼを強く睨んだ。
「どうせ暇なら、ザンジの餌でも狩ってこい」
 夜に強い男の大事な仕事が残っている事を示唆する。
「え?、俺一人で?」
「ザンジは寝るのに付き合って貰おう。少し疲れた」
「えぇぇっ!俺は、俺はっ」
 己を指さす男を冷たく見据えて、「行け」と手を振る。
「お前などと一緒に寝たら、体が休まらん」
「……は?い」
 しおらしい声音など無視した。絆されて貞操を失うわけにはいかない。
 自分が欲しいのは、ザーンハルトただ一人だからだ。
「うん……」
 とくとくと肌に伝わるザンジの心音は、どんな子守歌よりも確実にヴァルツを夢の世界に誘う。何よりも強い存在が近くにいることで、最近のヴァルツは平気で深い眠りにつくことができた。今も例外ではない。
 それを知っているジゼも、無理にはザンジを誘わなかった。
「可愛いんだけどなあ」
 ぼそりと零すジゼの声音は、すでに遠い。
「セルシェの姉さんに釘刺されたもんなあ。あの姉さん、怖いし。せっかく居心地の良さそうなとこ見つけたのに、殺されちゃ叶わんしぃ」
 何のことだ?
 夢見心地の問いかけは、むろん答えなど無くて。
「まっ、遊ぶ相手は見つけたから、まあっ良いかっ、そっちも可愛いしぃ。今日は何しようかなあ?。あの気の強いの屈服させるのおもしろうて……ぷぷっ」
 代わりに呟かれた言葉に首を傾げた頭を、とんとんと軽く叩かれる。
「もうお休み、王子さん」
 その言葉には無言で頷いて、ザンジに縋った姿勢のままヴァルツは眠りについた。
 夢の世界で望むのは、ザーンハルト。
 二人して、ザンジの褥で眠りたい、と願ったヴァルツの元に、緊急の知らせが届いたのは次の日の暁の刻だった。
 

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 心地よい眠りは無粋な呼びかけに邪魔された。
「殿下っ、殿下っ!!」
 扉を叩き破らんばかりの音が響く。
「……なんだ……」
 さすがにザンジも起きあがり、それにつられてヴァルツものろのろと立ち上がった。
 窓の外を見やれば、暁もまだ早い時間で、ようやく空が白み始めた頃だ。
「何か?」
 答えれば、聞き覚えのある息せき切った声音が響いた。
「殿下……ラスターゼの前線から……早馬の使者が……」
「早馬?」
 未だ呆けていた頭に冷水を浴びせられたかのように、全身が強張った。
 扉を勢いよく開ければ、文務執政官がたたらを踏んでいる。まだ若い、執政官でも末席にいるファムだ。
「ジ、ジルダ様からですっ」
 その言葉に再び目を見開いた。
 差し出された書簡を受け取る手が震えていた。
 くしゃくしゃになった白い封書に走る弟の字。嫌な予感がした。
 昨夜の定時連絡では何もなかったのだ。昼間しか飛ばない伝書鳩を嫌い、早馬だけで街道を駆けて来た書簡。
 震える手で、封を開けた。
 文字を追う目が止まったのはすぐだ。すうっと目の前が暗くなったような気がした。
「きゅっうぅ……」
 擦り寄るザンジが切なく鳴いていた。その体に支えられていると言っても過言ではない。
「で、殿下……」
 ファムがどうして良いか判らないと、狼狽えているのを見て取って、苛立ちが増した。
「長官どもを呼べっ!」
 倒れている場合ではない。
 苛立ちを露わにしたヴァルツに、ファムと、そして遅れてやってきた召使い達がびくりと硬直した。一瞬後、「はいっ」と威勢の良い返事があったが、その僅かな間すら、腹が立った。
 ザーンハルトなら……。
 ヴァルツが言わなくても全ての準備は整っていた。
 けれど、今はいない。
 何より、ジルダの手紙はそのザーンハルトのことで。
「ちくしょうっ……」
 自分は一体何故こんなところにいるのか?
 ぎりぎりと奥歯が悲鳴を上げているかのように軋んでいた。
「どうした、王子さん?」
 賑やかな城内に気がついたのか、室内にジゼがいた。いつものようにひょうひょうとして、薄ら笑いすら浮かべている彼が、妙に腹立たしくて睨みつけた。
「うるさいっ!」
「どした?」
 腹立たしくて苛ついて。けれど、今まではそんなことがあっても、素直にそれを解放できる相手は誰もいなかった。
 だが、目の前の男を見た途端、胸中を暴れ回る苛立ちを無性にぶつけたくなった。
 この男なら。ジゼならこんな情けない姿を晒しても大丈夫なような気がして。
「どうして、ザーンハルトがさらわれるっ! よりによって、何でザーンがっ!」
 王代としては許されぬ言葉。
 そんな事は判っている。けれど、止まらない。
「何で他の誰でもなくて、ザーンなんだっ!」
 だが、ジゼは堪えた風もなく近寄ってきた。
 ザンジの頭を撫で、立ちつくすヴァルツの手を、ジゼが持ち上げる。
「そんなよぉない手紙やったか? 泣きそうな顔して」
「誰が泣いているっ!」
 怒っている筈なのに。
「泣いてる」
 つんと目の縁を突かれ、思わず目を瞑る。途端に溢れた滴が、頬を流れた。
「あ……」
 気付いていなかった。
 慌てて頬を拭うヴァルツの頭をジゼは子供のように撫で、爪が白くなるほどに強く握った指を解いた。その中にあった書簡を取り出す。
「読んでええか?」
「……読めたらな」
 ケレイスの貴族が用いる書き文字は、独特だ。国民であっても慣れない人間には読みづらく、まして他国の人間であるジゼにはかなり難しい──筈なのに、彼は、難なく読み進んだ。
「なんやぁ……」
 素っ頓狂な声を上げて、まじまじとヴァルツを見やる。
「で、どうすんや?」
 問われて、口籠もった。
 捜したい。
 今すぐにでも馬を駆ってラスターゼに入りたい。自らの手で探したい。
 だが──今のヴァルツは動けない。動くわけにはいかない。
 ザーンハルトを思う心と王代としての立場の板挟みに心が悲鳴を上げていた。
 叫び出したいほどの葛藤に身悶える。
 こんな姿は、決してケレイスの民には見せられない。
 なのに。
「ああ……難しいわな」
 宥めるように言われて、堪えようとした涙がまた溢れた。
 ダメだと言われたような気がして、途端に激しい反発が湧き起こる。
「ザーンがっ!」
 死んでしまう。
「まだ、死んどるわけじやねぇから」
 抱きしめられて、子供のようにあやされた。足下にはザンジ。
 ここ数日で気付いていた。
 ジゼもザンジも甘やかすのが巧い。
 王子として、王代として、毅然とした態度を求められるヴァルツを知ってなお、甘やかす。
 だから、ジゼを手元に置いた。
 ザンジに応えた。
「行方不明ってだけやん。連れ去られたって事は、すぐには殺す意志が相手にないってことやから、な」
「判ってる」
「んなこと言って……。フォングレイザーって、ザンジの種のことやろ? だったら、俺の方が専門やん。こいつらは、殺す方が得意なのに、さらっていったってことは、何か意図があってってことや。だから、まだ生きとるって」
「判ってるっ」
 書簡にもそう書いてあったけれど。
「信じな、な?」
 そう言われても、胸に走る鋭い痛みが苦しくて、ヴァルツはぎりぎりと奥歯を噛みしめていた。
 こんなにも苦しい。
 帰ってきたら、と思っていた。
 今度こそ、と思っていた。
 だからこそ、いない間を堪えていたのだ。
 いないというだけでこんなにも寂しかったのに、もしかするともう……。
「セルシェが……」
 ザンジの腕に抱きすくめられ、その腕に縋りながらぽつりと呟く。
 太い腕。
 力強いその腕は何故か安心感があった。
「ん?」
「セルシェとザーンと私と、三人だけで遊んでいる時」
 ずいぶん昔の話だ。
 もっとも、三人だけとはいえ、周りには兵も召使いもいた。そして、この三人以外と遊んだ記憶は無い。
「言った。いつまでも三人一緒だからねって……」
「……」
「嬉しかった。凄く嬉しかった……」
 幼い頃から、常につきまとう孤独感があったからか。子供の口約束でも嬉しかった。まして相手はセルシェとザーンハルトだ。
「ザーンも頷いてたのに」
 とくんと高鳴る胸の奥に隠れた思いの正体を、ヴァルツはあの時から気がついていた。
「だったら、王子さん、ほっといてどこにもいきやせんよ」
「けど……ザーンは答えてくれない……」
 年を経るにつけ、疎遠になっていく。
 俯くヴァルツにジゼが小さく息を落とした。
「あんな、俺暇やったけぇ、セルシェの姉さんとよく話するんや」
「知ってる」
 最初に紹介してから、やたら意気投合している二人の姿はたまに見る。
 ヴァルツにしてみれば、それでセルシェの退屈が癒されるなら、とは思ってはいたのだ。快活なセルシェを、奥である紅玉殿に押し込めた罪悪感もあった。
「んで、そん時に聞いたんやけど、大丈夫やって。ザーンハルトは、照れてるだけやって。なまじっか頭がええから、動けないんやって」
「え……」
 そんなこと……。
 否定しようとして、けれど、激情に駆られてザーンハルトを襲った時の、あの口付けを思い出す。抗わなかったザーンハルトの真っ赤になった顔。確かにあの時、ザーンハルトは考える間などなかっただろう。そして。
「あんなあ、王子さんも、考えすぎちゃうか? 考えるより先に動いた方が判ることも多いんや、な」
 ジゼがだめ押しをする。
「今だってそうや。王子さん、どうしたい?」
「え?」
 びくりと顔が跳ね上がった。
 間近にある浅黒い端正な顔が、にかりと笑う。
「初恋の君、助けたいんとちゃうか?」
「当たり前だっ」
 助けたい、助けたい。
 この手で、助けたい。
「だったら、動くのも手やんか」
「しかしっ!」
 第一王子──つまりは第一後継者。そんなヴァルツに、自由はない。
「でもなあ、ここで助けにいかんかったら、王子さん、ずっと後悔するぜ。国のために選択したことを後悔して。初恋の君がほんとにいなくなった時、どう思う? 俺やったら後悔する。後悔して、恨む。もう一つの選択肢を取った自分を。取ってしまったもう一つの選択肢──国を」
 笑みが消えた。
 真摯な瞳が、ヴァルツを見つめている。
「ジゼ」
「王子さん、俺、後悔した。部族長の言われるまんま、ついてきたこと。あんな、俺ちっちゃな子、好きなんや。一緒に遊ぶのが楽しいんや。それはなあ、どこの子供でも一緒や。なのに……こん手の中の子供が息絶えた時、めっちゃ、後悔した。部族長の言葉だからって従って、戦なんぞに手を貸したこと後悔した。戦なんか、大人のしたことや。そんなことにあんなちっちゃな子が巻き添えになること無い。なのに……」
「ジゼ……」
「俺はなあ、戦、終わらせたいんや。それで後悔が消えるとは思えんけど、戦が終わったらザンジの仲間達がこれ以上子供殺すことは無いやろ?」
 泣いているかと思った。
 だが、ジゼは笑っていた。それは凄惨な笑みだった。
「まあ、俺の事はどうでも良いけどな。問題は王子さんや。な、どうする?」
「どうするって……」
「な、前にも言ったけど、ラスターゼの内情は酷い。一部の支配者が戦をしたがっているだけで、みな反対しとんや。みなマゾルデやケレイスに期待しとんや。中でもあんたの方が評判は高い。な、俺が何でここに来たと思うん?」
 ジゼの言いたいことがだんだん判ってきた。
「もし王子さんが決意すんなら、俺は付いていく。ザンジもな。俺、この国気に入ってるし、あんたも気に入ってる」
「ジゼ……」
 その誘いは毒だ。
 じわりとヴァルツの胸の奥に染み渡っていく。毒が侵すのは理性だ。王子としてのとるべき道を歪ませて──ヴァルツが信じる理を覆していく。
 これが罠だったら?
 ジゼの誘いが敵地に誘い出して殺す罠だったら?
「どうする?」
 手の中に返される書簡。
 ジルダからの知らせは、日付からして二日前。
「まあ、俺一人だと不安なら、他の誰か手練れを連れて行くか……。誰が良い?」
 ジゼはもうそのつもりだ。
 ザンジの目が光っている。どう猛な炎がその瞳に浮かんでいた。これから起こるであろう血の臭いをすでに嗅ぎ取っているのだろうか?
 一人と一匹を見つめる。
 ジゼは人間だ。嘘も吐く警戒すべき人間。
 けれど。
 ヴァルツを見つめるザンジの瞳が柔らかかった。
 ザンジは獣だ。対のみを信頼する。人とは違う。手を伸ばしてその頭を撫でれば、心地よさそうに擦り寄せてきた。
「ザンジは嘘を吐かないものな」
「どうせ……」
 落ち込むフリをするジゼを無視して、ザンジの首筋を抱きしめる。心地よさそうにぐるぐると鳴る喉の震動を味わう。温かな温もり。この温もりを信じたい。
 ザンジの力を信じたい。だから。
「ザンジ、ザーンを救いたい……」
 小さな声。
 けれど、紛う事なき本心だった。
 安穏と暮らした日々、ザーンハルトは敵の手にあった。
 生きていると信じたい。
 だったら。
「助けたい……」
 ニヤッ。
 ヴァルツの紛うこと無い本音にジゼのみならず、ザンジも笑ったような気がした。
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「どうだ?」
「大丈夫です、まだ気付いてない」
 柱の影でこそこそと囁き合う二つの影に、会議の席に茶を運ぼうとした召使いがぎょっと立ち尽くした。
 厚い扉に閉ざされた会議の様子を窺い、頷くその肩に落ちるのは銀の髪だ。
 そして、その隣にいるのは。
 間違えようもない城の主。
 しぃっと唇に指先を当てているヴァルツに、召使いは内心でため息を零し、それでも平静さを保ったまま部屋に消えていった。
 見ざる言わざる聞かざる。
 召使い達の間では良い意味でも悪い意味でも王子の愚行は黙認されてしまう。
 執政官達の問いかけでも無い限りは、彼らは自ら口を開けることはないだろう。
 銀の髪の持ち主が目立つことこの上ない煌びやかな髪を外套の頭巾に押し込み、ちらりと消えた扉の向こうを窺う。
「とりあえず、私の家に行きましょう。旅支度が必要ですしね」
 テルゼの言葉に頷く。
 本当はもっと早く旅立ちたかった。だが、ジゼに促され、会議には出たのだ。
 会議に出なければ、すぐに所在を確認されてしまう。それを避けるためだった。そして、もう一つ。
 この男を引き入れるため。
 テルゼのザーンハルトと同じ銀の髪はもう見えない。
 それが残念だと思う事はない。
 彼はザーンハルトとは違うからだ。
 心情をはっきりと表し扉を睨む濃緑色の瞳は、ザーンハルトより濃い。
 顔立ちも似ている筈だが、豊かな表情が一緒にはさせない。何より、力強い声音も、筋肉が付いた立派な体格も、彼の人とは全く違う。
 すらりとした長身はヴァルツより高く、外套の下に隠してはいるが、腰に下げた剣は容赦なくどんな敵をもなぎ倒す。だてに第2騎士団副団長の地位には無い。

 あの時。
 ジゼに問われた時、真っ先に浮かんだのが彼──テルゼだった。
 剣技の腕に優れ、戦場において物怖じしない。何よりこんな危険な、無謀とも言える行為に付き合おうという輩はそういない。
 だが、テルゼなら問題なかった。
 親衛隊として城内に勤務するテルゼの素行の悪さを、ザーンハルトは兄としていつも気にしていて、その話題になるとさすがに僅かな動揺が見られることもあった。そんなザーンハルトが可愛くて、つい好んで話題に出してしまうヴァルツにしてみれば、そういう顔をさせてしまうテルゼを妬ましく思うこともあったけれど。
 結局の所互いが互いを思っているその仲の良さは判っていて、愚かな己に苦笑するしかなかった。
 だからこそそんなテルゼが、兄を拉致されて黙っていられるはずがない事もよく知っていた。
「他には、誰が行くんです?」
 朝早く誰もいない廊下を足早に通り抜けながら、ふとテルゼが問うてきた。その問いに躊躇いは有ったが、結局は口にする。
「後はジゼとザンジだけだ」
「……ジゼ、奴と?」
 途端に顔を顰め、嫌そうに吐き捨てる。
 予測できた反応に、口の端を上げて答えた。
 テルゼの思いは騎士全員の総意だ。
 彼らは、他国の── 一度はヴァルツの命を狙ったジゼを信用していない。まして、簡単に寝返った事実もそれに拍車を掛けていた。一度裏切った人間はまた裏切る可能性が高い。それに、ザンジか傷つけた警備兵は第2騎士団の騎士だった。
 そんな事はヴァルツ自身判っているし、ジゼも知っている。それでも、彼は助けに行くか、と言った。
 それに答えたのは、ヴァルツだ。
「ジゼが信用できないならそれで良い。それよりもジゼとザンジの力を利用すると考えろ」
「利用、ですか?」
 胡乱な瞳を向けるテルゼに笑いかける。
 ジゼが裏切るなら、それでも良い。今はどんな手を使ってでもザーンハルトを助けたい。そのためには使えるものは何でも使うし、利用する。裏切ろうとするその時まで、利用すれば良いだけ。
「少なくとも、ジゼの助けはいるだろう? ザンジに敵う者は、我が国の騎士でも少ない。ということは敵国にもそうはいない。ザンジの牙はなまじの剣より破壊力がある」
 いっそ凄惨とも言える笑みに、テルゼが息を飲んだ。目を瞠り、ヴァルツをまじまじと窺った。
 だが。
「……なるほど」
 呆然とした表情がすぐに笑みへと変わった。ヴァルツと同じ笑みだ。
「確かに敵地から来た奴であれば、あちらの内情も知っているでしょう。それに、敵と通じ合っているならば罠を掛けようとする筈ですし……。罠の内容によっては兄の行方も判るかも知れませんね」
「さすがにさっさと私を殺そうとはしないだろう。殺すのであれば、今まであんなにも機会はあったのだからな」
「そう言えば……。しかし殿下を餌に、というところは納得しがたいものがあります。殿下に何かあれば、兄が後悔しますし」
 そんな事を彼の弟の口から言われて、胸がざわめく。
 本当に後悔してくれるのであれば、それはそれでも良いという自虐的な思いが募る。このまま何も進展無く、助け出しても今までと変わらないという、ヴァルツ的最悪な結果になるならば、それでも良いかもと考えてしまう。
 けれど、慌てて首を振ってその考えを追い出した。
「別に死ぬ気はないさ」
「そうしてください。兄のためにもぜひ」
 振り返った顔が、一瞬ザーンハルトのそれと重なった。
 静かな口調が、驚くほど似ていた。
「兄は、殿下のことが誰よりも大切なのです。こんな危険な事に殿下を引き留めずにいたということがバレたら、どんなに怒られることか。最悪殿下が命を落としたら、兄を助けた途端に私が殺されてしまいますよ」
「誰に?」
「兄に」
 くすくすと胸を指でつつく。
 どう足掻いてもザーンハルトにおとなしく殺されるタマではないとは思うが、テルゼが返り討ちをするとも思えない。
「……そうならないようには努力するよ」
 一瞬は死を考えたけれど。
 やはり恋しい人の全てを手に入れたわけでは無い今、心残りが有りすぎる。
「死ぬなら、ザーンハルトを手に入れてからにするさ」
「そうしてください、ぜひ」
 どんな思いが篭もっているのか、テルゼが不意にしみじみと独白した。
「え……?」
 問うても、その返事は無い。
 曖昧に浮かんだ笑みが、唯一の回答だった。
 さっきから通路が酷く質素なものになっていた。
 聞くまでもなく、そこが使用人専用の裏道だと判った。テルゼがどこからか出してきた外套も、仕立ても悪く、材質も悪い。慣れない着心地にちくちくとする襟首を手で撫でながら、それでも足が急く。
 見る者が見れば違和感は否めないのだが、今は指摘するような輩はここにはいなかった。
 それどころか、恭しく頭を下げ、すぐに足早に通り過ぎる。
 会議の場に入っていったあの召使いのようにすれ違ったことに驚きもしない。
「……ずいぶんと慣れているな」
 呆れ交じりで呟けば、喉の奥で笑われ意味ありげな視線が向けられた。
「何だ?」
「殿下の二人の弟君はしょっちゅう使用されていますが? 殿下はほんとに真面目でいらっしゃる」
「……ロッシーニまで?」
 揶揄が多分に含まれた後半部を黙認し、代わりにもう一人の弟の名を口の中で転がした。途端に声を立てて笑われた。
「醜聞を賑わされるようなことはありませんが、そこそこには」
「……知らなかった」
 真面目でおとなしいと思っていたのに。
「ロッシーニ殿下はあれでなかなか気さくな方で、ミシュナなどはとても馴染んでおりますが。ああ、こちらです」
 粗末な木の扉を指さされ、促されるがままに物置のような建物に足を踏み入れた。
 饐えた臭いが鼻に付く。
 お世辞にも綺麗とは言えない室内は、足の踏み場が無いほどだったが、それでも人が住んでいる気配がある。
 どこだ?
 と思う間もなかった。
「テルゼ様ぁ?」
 甲高い声が、甘ったるさ全開で絡みつく。
 視界の端に白い肌が横切った。
 どんな早業を使ったのか。
 人の気配など気付かなった。なのに、気が付けばテルゼの首っ玉に女の腕が絡みついていた。
「ルナ、久しぶりだな」
「最近お見えにならないので、寂しかったわぁ。そんなに外苑のお姫様が良いの? 私よりも?」
 金色の豊かな巻き毛と長いまつげが印象的だった。年はまだ若い。
 甘え、媚びる仕草に慣れたルナという女は、ヴァルツなど見向きもせずにテルゼだけをうっとりと見つめている。その細い腰をテルゼは抱きしめ、額に口付けを落としていた。
「顔の造作はお前の方が綺麗だな。やはり男と女は違うだろう?」
「けれど、全然お越しにならないではありませんか?」
「ここまで来なくても、抱き飽きることなど無い相手が家にいるからな」
「それが外苑のお姫様? けれど、男ではありませんか。私の体より良いって言うの?」
「男と女の体だ。比べられるものではないが……。だが、今の私にはあれの方が良い」
「まあ、悔しい。テルゼ様をそんなに夢中にさせている外苑のお姫様に、ぜひ会ってみたいわ」
「それはダメだ。ルナに苛められている姿は可愛いかも知れないが、今あの子に何かあるといろいろと面倒なんだ。私はまだまだあの子を手放す気はないからな」
「まあ……」
 にこやかに言い切ったテルゼにルナが絶句する。
 どう見ても近すぎる距離で交わす内容ではないだろうが、そんな中でもテルゼの手はルナの体を悪戯していた。
 怒っているのもフリなのか、ルナの瞳が潤み、腰が擦り寄せっている。
 このまま放置すると目の前で始められそうで、ヴァルツは仕方なくテルゼの肩を叩いた。
「行こう」
「あ、はい。──ちょっと急ぎの用でね。馬が必要なんだよ」
 物欲しげな瞳の横に口付けて、テルゼがルナの体を押し退ける。
「あぁん……。そうなの。それじゃあ仕方ないわね……」
 残念そうに熱い吐息を零しながら、それでも最後に口付けを強請っていた。それに躊躇いもなくテルゼが返す。
 ヴァルツにしてみれば、外苑のお姫様に告げ口をしたい気分だ。
 この急く時に、一体何をしているのか?
 何でこんなところに連れてきたのか判らないヴァルツにとって、こんな無駄な時間は過ごしたくなかった。
 けれど。
 ようやく離れたルナが棚から鍵を取りだして。
「できるだけ足の速い奴を」
「了解」
 テルゼが乞うた途端に、ルナの双眸から情欲の炎が消えた。
 きびきびとした態度で、奥の部屋に入り柱の穴に鍵を突き刺す。
 途端に周りにあった荷物が崩れ、真っ暗な空洞が出現した。
「どうぞ」
 にこやかに促すルナと、通路となった空間を交互に見やる。
「ここは、非常時の抜け道の一つですよ」
 人一人通れる道を僅かな灯りを頼りに通り抜ける。
 先から漂う動物の臭いはよく知っていた。
「何のための抜け道だ」
 何頭も並んだ馬たちと、外に見える城の壁を見つめてため息を落とした。近くに商用専用の裏門が見えた。
 こんな道は王族に伝わる避難路には無い。
「息抜きが必要な者用です」
 さらりと言い切ったその理由を使う者が一体何人いるというのか。
 己が真面目だとは思わなかったが、それでもこれでは確かに優等生と言われても仕方ない。
 飼い葉を喰む馬たちが、侵入者に警戒して嘶いた。
 それもヴァルツにだけだ。
 一見して駿馬と判る馬を利用しての息抜きは、確かに気持ちの良いものだろう。
「何故誰も教えてくれなかったんだ?」
 弟たちは知っていたのに。
 零した愚痴は一笑に付された。
「殿下に教えたら兄にバレてしまいます」
「そんなこと……」
 無いとは言えない。
 否定の言葉が言えなくてむすりと唇を尖らせると、くすくすと肩を震わせて笑われた。

?
13
 見た目を裏切らない足の速さを馬は見せつけて、あっと言う間にテルゼの家に辿り着いた。
「テルゼ様っ」
 門を入るなり、金の髪の少年が走り寄ってきた。
 一度紹介されたことがあった。
 第2騎士団に見習いとして入った騎士。
 彼こそが噂の外苑の姫君だ。
 そのミシュナが、二頭の手綱を引き、庭の奥へと連れて行く。
 騎士であり、20歳近いと聞いていたが、相変わらず幼く見える。
「お出かけと聞いて、皆で準備をしているところです」
 けれど、彼が放った言葉に息を飲んだ。
 火急の会議に呼び出された時、テルゼが何も知らなかったのは明白。なのに、と思わずテルゼを見やれば、彼も唖然としてミシュナを見つめている。
 と。
「テルゼ様っ」
「ヴァスか」
「最低限の荷物なら準備ができています。後はミシュナ様のご実家に支援を求められるのがよろしいかと。城の方が騒がしくなっております」
 荷物を抱えた召使い達を引きつれて来たのは、執事。
 その態度に、何の焦りも見られない。
「ミシュナ様は先にご実家に行ってください。こちらに簡単に手紙を書きましたので、お母様にお渡しください」
「え、あっ、はいっ」
 別の、すでに荷物が載せられた馬が引かれてきた。それに慌てて乗ったミシュナの尻が落ち着く前に、ヴァスの手にしたムチがしなった。
 パシッ!
「うわぁぁぁっ」
 馬の尻で鳴った弾ける音に、いきなり馬が走り出す。
 咄嗟に手綱で体を支えたミシュナの絶叫が、遠く掠れた頃、テルゼは難しい顔をヴァスへと向けた。
「何故、知っている?」
 問えば恭しい礼の後に、微笑まれた。
「数刻前に、ジゼ様がお越しになられました」
「ジゼが?」
「はい。ヴァルツ殿下と共に旅に出られると。ザーンハルト様が大変なことになられ、お助けに行かれると……ですので、準備を行いました」
「なるほど、それで準備万端な訳か。良い判断だ、と言いたいところだが、ミシュナを連れて行くつもりはないのだが」
「それではミシュナ様が納得はされませんでしょう」
 静かに言い返されて、心当たりがあるとばかりに苦笑を浮かべている。
 外苑のお姫様は噂とは違って、しっかりとした意志も持っていると言うことか。
 少しだけ見直して、すでに消えてしまった影を探す。
 そんなヴァルツを余所に、主従が二人、荷物を馬に取り付けながら言葉を交わしていた。

 ミシュナのこと、現在の城の状況、下世話な噂からヴァスが知っている全てをテルゼに伝えている。
 さすが有力貴族の執事を務めるとなると、その情報は多岐に渡っていて、聞いているヴァルツを唸らせた。
「……今は雨期に入っていますので、水の対策が必要です。ラスターゼは、雨期の間必ずといって良いほど昼の一、二時間豪雨とも呼べる雨が降ります」
 そういえば、そのための準備が必要だと、その手の書類を読んだ記憶があった。
 だが。
「雨期か……面倒だな」
 はっきり言ってヴァルツは雨が嫌いだった。
 雨避けの外套は重いし視界も利かなくなる。
 不機嫌そうに鼻を鳴らし、忌々しく舌打ちをする。
「雨か……」
 テルゼも呟く。と。
「もっとも、獣は水を嫌いますので、雨の中であれば長時間は活動しないとか。活用しない手は無いとは思います」
「嫌い……?」
「はい。動物も嫌うほどの豪雨ですから。視界も悪く、臭いは消え、獲物の姿を捉えることが難しくなりますし。激しい雨は体を覆う毛も濡らしてしまって、動きを鈍らせてしまうと言うことです。そんな雨を獣は本能的に嫌うとか。ただし、対である人間の命令があれば、それすらも厭わなくなると言いますので、油断大敵には違いないです」
 ふと荷を積む手を止め、ヴァスが今は青空が広がる空を見上げた。
 何かを探るように見えた視線は、すぐにテルゼへと向かう。
「本当にお気を付けて……」
 戻した表情には気遣いが溢れていたけれど。
「詳しいな。誰に聞いた」
 地を這うほどに低く、テルゼが問うた。
「え、あ……」
「そのような情報、兄ですら知らぬ。兄は獣について知りうる限りの情報を残していったからな。だが、その中に雨に対する記述など無かった。ヴァス、お前は何故それを知っている? いや、獣の弱点など、そんな大切なことをどうやって聞き出した?」
 誰が漏らしたのか、では無い。
 テルゼはきっと気付いている。
 ヴァルツですら、誰か、などとは今更思わなかった。
 あの口の軽い調子の良い男。
 彼以外、今この地で獣のことに詳しい男はいない。
「それに奴がお前に出かけることを知らせた、と言ったが……。まず奴が何故私の屋敷を知っている?」
 ちらりと向けられた視線がヴァルツにも真意を問う。だが、返すのは否定。
 まだジゼには誰に助けを乞うのかは言っていなかった。
 ただ、街道近くの祠で落ち合うことしか取り決めていない。
 似合わなく泳いでいたヴァスの視線が、一瞬だけヴァルツに向けられた。動揺しているように見えたけれど、勘違いかと思うほどに出てきた声は落ち着いていて、瞳もテルゼをまっすぐに見つめている。
「ジゼ様とは二週間ほど前にお会いしました。『肉屋はどこだ?』と、いきなり肩を叩かれて人懐っこく聞かれまして。有無を言わさない勢いで肉屋に案内させると、買い占めた肉を運ぶのを手伝わされまして」
 その時の状況を思い出したのか、ヴァスが微かに笑んだ。
 その状況は見ていないヴァルツにも容易く想像でき、人差し指で眉間を強く押さえる。
 あのバカ、とは口に出さなかったが、それでも今度会った時には罵ることを止められそうにはなかった。
 餌を確保しろと言ったが、肉屋で手に入れろとは言っていない。肉屋の肉で良いなら、わざわざ市場などで買う必要はないのだ。第一餌は野生の動物が一番、と言っていたのはジゼの方だ。
 巻き込まれたヴァスにしてみれば良い迷惑だろう。
 だが。
 見つめるヴァスにふと、違和感を覚えた。
 背筋を伸ばし、きっちりとした服装は、どこからどう見ても貴族に仕える執事だ。そんな執事などを務めている者は、気位が高い者が多い。まだ若いとはいえ、ヴァスとて例外ではないだろう。
 なのに、あのどこからどう見ても傍若無人で礼儀知らずのジゼと。
「あんな奴の言動に付き合ったのか?」
 聞きたいことを主であるテルゼが問うた。
 本来あり得ないことだ。
「本当に無礼な男でしたね。嫌だと突っぱねれば無理矢理腕を引かれ、警備兵を呼ぶと言えば、──冗談だとばかりに笑い飛ばされてしまうし」
「……」
 ヴァルツに対して遠慮ということをしない男だ。
 あの態度が他の誰であっても同じなのだと、最初に釘を刺さなかった事を悔いる。
「結局見せ物のようになってしまって、諦めて手伝ったのですが──その時に獣使いだと知ったんです。恐れながら城内に魔獣が現れ居着いているという話は聞き知っておりましたし、となれば、何か有益な情報があるかと思いました。ですので、気に入られたついでにいろいろと話を聞き出しました」
 ああ、なるほど。
 とは思ったその傍らで、テルゼが低い声音で問うた。その口調に滲む苦さに思わず見つめる。
「気に入られた、か……。何度会った? その市から後」
「あ、それは……五回、程でしょうか……」
 凛とした立ち居振る舞いが、僅かに乱れた。宙を彷徨った視線は、回数を思い出しているせいか。
「二週間で五回、ね。最近疲労の色が濃いとは思っていたが……」
 落ちたため息が、二人の間の空気を張り詰めさせた。
 が、テルゼの再度のため息がその空気を払拭する。
「まあ、良い。お前がそれで良いのならな。だが、もう少し自分を大事にしろ。私は自分の手の者が傷つくのは好まない」
 それはどういう意味なのか?
 テルゼの慈愛とも言える視線にヴァスが頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます。それにもう無いです。遊びの時は終わりました」
 きっぱりと言い切る深く頭を下げたヴァスの顔が見たいと思った。
 忘れていた記憶が音となって耳の奥を擽る。
『あの気の強いの屈服させるのおもしろうて……』
 けれど彼は顔を上げなかったし、テルゼがもう終わったとばかりに背を向けてしまった。
「もう行きましょう。時間がありません」
 急いたように促されれば、もうどうしようもなくて。
 荷造りの済んだ馬の背から振り返って、もう一度だけとヴァスを見つめた。
 頭を上げたヴァスは二人を見ていたが、けれどどこか凍り付いたような表情をしていた。
「お気を付けて」
 静かな声音が響く。
 最初と変わらない。
 けれど、震えていると思った。
 それは解放された安堵のせいなのか、それとも。
「……ヴァス……」
「ジゼ様にもよろしくお伝えください」
 言いたいことは、遮られて。代わりに、頼まれた伝言を口の中で転がす。
 社交辞令でしか無い言葉。
『遊ぶ相手』
 それは双方ともだったのだろうか。
 その意味を深読みして、重いため息が馬の背に落ちた。ちらりと隣を見やれば、先だってよりきつい視線を前方に向けて、テルゼが馬を駆っている。
 ジゼの言動は時に理解しがたくて、いつもヴァルツを悩ませた。
 ザンジがいなければ、遊ぶ相手はヴァルツだったのかも知れない。
「あいつの下半身は獣と同様だな」
 呟いた言葉は、馬の駆ける音に消えて誰の耳にも届かなかった。
?
14
 ミシュナが先に向かった地は外苑で、壁を抜けなければならない。
 けれど、この国の王子が供一人で抜けるのは、有る意味難しい。城内の召使い達のように無視はしてくれないだろう。それに城が賑やかになっているというのであれば、警備態勢も強化されていて然るべき。
 どうやって壁を越えればよいのか?
 風に負けないくらいの強い口調で唸るヴァルツを、テルゼの腕が招いた。
「何だっ!」
「こちらへっ」
 手綱を引き、テルゼを追いかける。
 通りから小さな横道に外れ、さらに家々の軒が触れあうほどに狭い路地をくぐり抜けた。
 城に近いほど大きく豪勢だった家々は、壁に近づくほど質素でいっそ極貧と言えるほどの朽ちかけたものに変わっていく。
 馬が駆ける震動だけで、軒下にあったがらくたのような家財が崩れる音がした。
 同時にどんどん大きくなる壁。
 城下を護るこの壁は、その昔偉大な建築家によって造られたという。
 壁を出入りするためには、身分証明書が必要で、しかも門と呼ばれる数カ所しか許されない。
 その配置図はヴァルツの頭の中に入っている。
 だが、テルゼが向かうのはそのどれでも無かった。
 幅にして3メートルほど。
 二頭立ての荷車なら通れるがそれ以上は無理という王城の通用門より小さい門を、テルゼは門番らしき男と世間話をしただけで開けて貰った。後ろに続くヴァルツに対して誰何の声もない。
 粗末な木材を組み合わせただけのそれを見上げ、やる気のなさそうな門番を見やって、眉間のシワを深くする。
 ここは壁だ。
 城下と外苑を遮る壁は、侵入者を阻むためのもの。それは内部から犯罪者や密偵者を逃さない役目をも背負っているはず。
「テルゼ」
 問う声が硬くなる。
「こんな門は他にもあるのか?」
「私を知っているのは後二カ所ありますが?」
 訝しげに返したその答えに違和感を感じた。
「テルゼ、”を”、知っている……?」
「あ、はい。……もしかして殿下はこのような門をご存じないのですか?」
 あからさまな侮蔑はなかったが、それでも見下されたような気がした。テルゼの口の端に浮かぶ笑みが、不快さを煽る。
「知らぬ」
 それでも今更知っているとは言えず、低くなった声音を気にすることなく返した。
 それにテルゼの意味ありげな表情が、言葉にされなくても十分に門の意味を教えてくれる。
「門番が知っていれば通れるという事か? 身分証の確認も何も無く、か?」
「そうです。もしくは、知っている人間が連れている者達。ミシュナも私を介して、この門番に顔を覚えさせました。もっとも、もともと外苑の出身者で騎士であるミシュナは、正規の門であっても通るのは容易いのですが」
 それでも急ぎの時に便利だからと、最近はこの門を使用している、と言う。
「その基準は何だ? 身分証の確認が無いのでは、偽物が通る事もあり得るだろう。もしくは脅されている、とか」
「身分証は偽造が可能ですし、脅しは正規の門であっても起こりうること」
「それは、そうだが……」
「ご安心ください。ああいう門を護る門番は、ああ見えても見る目は確かです。そういう人間が据えられています」
「ここの管理はどこがやっている?」
「外苑です」
 どこかの騎士団だと思って問うた答えは意外なもので、ヴァルツはたっぷり30秒は絶句した。その間も馬は足を進め、両脇にあった壁が街並みのそれと変わらなくなっていた。
「この両脇にあるのは、一見普通の家に見えますが、その実は外苑の有力者の物です。広い敷地には侵入者を防ぐための警備がされており、壁には鉄骨が組み込まれてそう簡単には崩せないようにもなっています。追われてあの門に入ろうとする、もしくは出て行こうとする輩は両側からの警備兵に挟まれ、壁を越えようとするでしょう。しかし、その敷地こそが何よりも恐ろしい場所なのですよ」
「恐ろしい……そうだな」
 テルゼの言葉をヴァルツは否定できなかった。ただ、両側の何の変哲もない壁を見やり、きつく口元を引き締める。
 片側の屋敷の軒下にあった紋章が、テルゼの言う恐ろしさを伝えてきた。
 あれをヴァルツは良く知っていた。

 外苑には二つの顔がある。
 一つは、城下に入るための審査を待つために広がった商業地。入れない輩がどうにかして入ろうと巣くう街。侵入者が最初に通り抜けなければならないもう一つの壁。入り組んだ迷路のような路地は、慣れた人間でなければまっすぐに通り抜けられる物ではない。
「彼らは金も力も持っていますから、盗賊に狙われます。その警備は、王城の比ではないですよ。そして容赦もしない。何しろ外苑のこの壁沿いの屋敷に侵入する奴らは、外苑にとっても敵ですからね」
 そして、もう一つ。
 外苑の有力者の一部は裏組織をも支配している。
 裏組織に属している者であれば、盗賊も外苑の法に従って許されることがある。殺人さえ見逃されるだろう。それが外苑の意志であれば。
 ケレイス城下に属するとはいえ、外苑には外苑の法があるのだ。
 その法を律して、民に従わせ、従わない者を罰するのは外苑の有力者の仕事だ。その法には、王城の大臣や執政官でも口が出せない。
 出せるのは国王のみ。
 最初は無秩序に広がっていた外苑を、取りまとめて一つの街にしたのが誰かは判っていない。
 ただ気が付いた時には、外苑は街だった。
 王家と外苑が影で密接に繋がっていると、口さがない連中は言う。
 それは偽りだと言われてはいるが、実のところ真実でもあった。それを第一王子であるヴァルツは知っている。
「ふぅ……」
 ヴァルツに畏怖を与えた紋章が遠ざかる。
 ようやく息が吐けたヴァルツにテルゼが苦笑を浮かべた。
「まあ、慣れてしまえば通るだけなら問題はありませんが」
 そういうテルゼもヴァルツの緊張の意味が判っているのだろう。王族に近い血筋を持ち、円卓に席を持つテルゼならば知っていて当然だ。
「彼(か)の方は普段は優しいが、時々ぞっとする程に冷たい瞳をされる」
 父王に似た痩身の叔父ジェイス卿は、王よりもはるかに溌剌としており威厳がある。近寄りがたい雰囲気は、笑みを見せることで払拭されるが、それでも拭いきれない鋭利な刃物のような強さをいつでも感じた。
 時たま城にも姿を見せるが、そんな時相手をするのは、ジルダだった。
「ジルダ殿下は、面白いおじさん扱いをしていますよ」
 くつくつと思い出したように笑うテルゼに、その様子を垣間見たことがあるヴァルツも苦笑は浮かべた。もっとも声のない笑みだ。
「私にはできぬ」
 あの叔父に対する底知れぬ恐怖が一体どこから来るのか知りたくなかった。
 外苑の最高実力者だと聞いた時は、さもありなんとも思った。
 叔父でなければ、外苑を支配し、王家の力にはできないだろう。だが、一般の民は、そんな事は知らない。
 知られないままに支配する。
「ジルダにはできるのか、あんな事が」
 王家に仇なした者が、死して見つかる。謀反を企てた者が、無惨な死体となって発見される。知っていたと思われる親族も、容赦は無い。
 見目の良い者は場末の娼館に売られ、死してようやく出られたという者もいる。他国に奴隷のように売られた者もいるらしい。もっとも、当事者以外は先が知られることは滅多になく、気が付いたらいなくなっていたという事が多いのだ。
 その行く末を知っているのは、指示を出した者だけ。
 それでも判る者には判るようになっているから、彼らに追随しようとしていた者は恐怖のうちに囁く。
『王家に逆らえば殺される』
 もっとも今の平穏を望む民達は、何も気付かない。
 ヴァルツにとって、王家に仇なす者が死ぬのは一向に構わない。けれど、穏やかな笑みを浮かべながら、拷問と死を指示することはできない。親族の中でも幼い子は助けた方が良いのでは、と思うけれど。
 それを彼の叔父は酒宴の席で世間話のように指示するのだ。
 笑みと共に、花の茎を指先で潰すよりも簡単に。

 ふと、ジゼの言葉を思い出した。
 獣に無惨に喰われた幼子の死に衝撃を受けていた彼。
 あんな可哀想な事は嫌だと言っていた。
 その思いはヴァルツにも理解できるものだ。けれど、王家という唯一無二の存在を維持するため、同じ意味合いの事は行われているのだ。
 それを知れば、ジゼはケレイス王家を敵と見なすだろうか?
 いずれ代替わりし、同じ事を繰り返すであろうジルダと、そして己を殺すだろうか?
 途端にぞくりと寒気が走った。
「ジルダは……仕方なく継ぐのに……」
 生まれるべき跡継ぎがいなかったから、直系王族のジルダが選ばれただけ。
「ジルダ様は判っておられます。もうすぐ彼の方の御養子となられる話も、悦んで、とまではいかないまでも納得はされています」
 ヴァルツの独白を勘違いして、テルゼが言った言葉もまた真実だ。
「それは知っているが……。ああ、通りに出たか」
 ザーンハルトにかまけてついぞ忘れていた話題は、路地裏を抜けたところで止まった。
 人の姿がある場所でする話ではない。
 目的地である娼館『ホァン』の楼閣は、もうすぐそこに見えていた。

?
15
 どこに行っても天敵というものはいるものだ。
 この場合、相容れないもの──苦手なものという意味で言えば、このときの二人にとってそれは共通の人であった。
 目の前に立ちふさがる金髪の騎士は落ち着き払っていたけれど。
「黙って城を抜け出されるとは……。そのような教育をした覚えはないのですが」
 にっこりと笑むその邪気のない表情が、無性に怖い。
 ぞくりと粟立つ肌をかき抱き、足がそろそろと後ずさる。隣で、テルゼも似たような動きをすることに、笑うより先に連帯感が生まれた。
「テルゼもテルゼです。止めるべき立場ですよ、貴方は。それなのに、一緒になって行動するとは」
 打って変わって咎める口調に、テルゼが苦く笑う。
 二人揃って反論せずにいると、第2騎士団参謀長のラーゼがため息を落とした。
 同情を買う仕草は、けれど芝居なのが見え見えだ。
「どうして、ここにいる?」
 騎士としては先輩で、ヴァルツの教育係の一人でもあったラーゼは、今はヴァルツの警護を担当する親衛隊では長を務める。城をテルゼと抜け出したということは、彼を出し抜いてきたのと同じ意味。
 どこに行くのもつきまとう第2騎士団、すなわち親衛隊を務める彼ら騎士達の立場からすれば、憤懣やるかたないのは判る。
 けれど、ジゼに問われた時、浮かんだ人達の中で真っ先に排除したのはラーゼの顔だった。
「こちらこそ、お聞きしたいですね。ヴァルツ殿下?」
 にこりと小首を傾げて問われて、息を飲んで口を噤んだ。
 こんなラーゼが怒っているのは長年の付き合いから判りきっていた。だからこそヘタなことを言って火に油を注ぐのは避けたい。
 黙ってしまったヴァルツを一瞥し、ラーゼの視線がテルゼへと向かう。
「テルゼ? 先ほどミシュナが旅の支度をしに来ていましたが?」
 判っているだろうに。
 テルゼの口がもごもごと動く。
 言いたいことは、今は言えない。
 ただ。
「済まない」
 呟いた掠れたそれは、確かにラーゼにまでは届いた。
「ったく……」
 それで全てが通じたのか、ラーゼが大きく息をついてテルゼを見つめた。
「二人だけで行くつもりだったのですか? ああ、ミシュナと……あの、ジゼも……」
「……言わなくとも何もかも知っているんだな」
 ため息を落として、ヴァルツは強張った体から無理に力を抜いた。
「幸か不幸か、二人揃って長年の付き合いですからね」
「付き合いだけの問題か……ったく……」
 がしがしと銀の髪を掻きむしり、舌打ちをするテルゼが視線を奥へとやった。つられてヴァルツも見やれば、心配そうな顔が奥まった部屋から覗いていた。
 ラーゼと同じ金の髪だが、もっと若い。
「ミシュナ、用意できたか?」
 テルゼが苦笑を浮かべ彼の名を呼ぶと、ふるふると首を振っていた。
 困惑ぎみだった表情がほんの少し綻んだ。
「もう少しです」
 控えめな、けれどよく通る声に、ラーゼが彼に背を向けたまま苦く笑っていた。
 だがすぐに、笑みは消えた。
「それで。帰るつもりはないんですね」
 ため息が落ちかけたのを飲み込む音がした。
 一瞬伏せられた視線が、強い力を持ってヴァルツへと向けられる。
 意志の強さを測られているようで、ヴァルツは負けまいと見返した。
「行く」
「殿下は第一王子ですよ。しかもすでに王の代理を務めています。殿下が出奔したとなればどんな問題になるかお判りでしょう?」
「判っている」
「それでも、ですか?」
 念押しされて、それだけは変わらないと大きく頷いた。
「もしこんな私の行動が王に相応しくないと言うのであれば、継承権などロッシーニにやる。もともと王位など望んではいないのだ。王族の役目を忘れて恋に狂った男だと後ろ指を差されても構わない。反逆者だとどこかの塔に幽閉されることになっても構わない。このまま城に帰ってザーンハルトを見殺しにしたとしたら……私は、自分のことを棚に上げて皆を呪う──だろう」
 あの時、ジゼに言われた。
 悔いるだろう、と。
 したいことをせずに、ザーンハルトから離れてしまったら。
 帰ってくれば良い。だが、万が一のことがあったなら。
「このまま行かせてくれ。ザーンハルトを失いたくないんだ。私が行って何ができるかは正直言って判らない。だが、こんな後方で、安穏と守られたままいたくはない」
 愚かな考えだとは判っている。
 けれど。
「……知ってましたよ、殿下の彼への思いは……」
 ラーゼの言葉に笑う。
 知らぬ方が不思議だ。
 隠しもしなかったから、いつも近い位置にいたラーゼは、良く知っていただろう。
「何しろ殿下と来たら、ザーンハルトのこととなると凄く熱心で、あの面倒くさがり屋がどこに行ったのかと思うほどでしたから」
 思い出したように微笑まれて、ヴァルツの頬が熱くなる。
 やはり苦手だ、ラーゼは。
 いたたまれなさを隠すように、俯いた。だが続けられた言葉の重さに、落とした視線はすぐに上がった。
「ザーンハルトは、殿下が助けにいかれることなど望まないでしょう」
 息を飲んで、その言葉を噛みしめた。
 そんなこと──。
「……判っている」
 王子であることの重要性をザーンハルトはいつも態度に表していた。
 王子であるから、と、ザーンハルトはヴァルツに対してそれ以上の態度をとらなかった。
 それがどんなに口惜しくて、恋しい相手を家来にしかできない王子としての地位を疎んだことだろう。
 唇を噛みしめて、顔を歪めるヴァルツを見やって、ラーゼが微かに笑んだ。
 小さく、儚げな笑みは、浮かんですぐに消えて。
 痛みがその顔に浮かぶ。
「救出できたとして、その最中に殿下が傷でも負おうものなら、ザーンハルトは自ら死を持って償おうとするでしょう。彼にとってヴァルツ殿下は命より大事な方。自分のために殿下が傷つくことなどあってはならないことなのです」
「そんなこと──っ」
 正直そこまで思われているとは思っていない。
 胡散臭くラーゼを見つめたが、返された瞳のその揺らぎのない強さに、言葉が続かなかった。なんとか、ふるふると首を振って否定はしたけれど。
「ヴァルツ殿下には、城に戻って待って頂いた方が良いのです。ザーンハルトのためにも、他の皆のためにも」
 慈愛に満ちた似合わない口調に、流されそうになる。
 本当にそれほどまでにザーンハルトに思われているとしたら。
 そう考えると、胸の奥から熱い何かが溢れ出してきて、堪らなく嬉しい。けれど、だったらなおのこと、ザーンハルトを助けて、その口から真意を聞きたかった。
 皆が皆、ザーンハルトの思いを良いように伝えてくれるけれど、どんな噂話より本人からのたったひと言が欲しかった。
「行くよ」
 こんな風に過ごしている間にも、ザーンハルトの身に何が起こっているのか……。
「ラーゼ、済まない。だが私はこの手でザーンハルトを救いたい。それがどんなに我が儘で理不尽で論理的でないことかくらい判っている。だが──じっとしていられないんだ。いなくなってからずっとザーンハルトの影を感じていた。何をしていても、何を考えていても、ザーンハルトの痕跡が見つかる。そうなったら、仕事など手に付かなくて……。今はもう……何もできない。その上、あんな知らせを聞いて……今は何も。ザーンハルトを助けること以外は何も考えたくないんだ」
 手の平を見つめ、ぎゅっと握る。
 最後の逢瀬となったあの諍いも、今となっては大事な思い出だ。
 触れた唇と貪った舌の意外な柔らかさと熱がまた欲しい。
 面でも被ったようにいつも同じ表情の、ザーンハルトの違う素顔を見てみたい。
 朱に染まり、込み上げる何かを堪えて戸惑うあの姿を。
「会いたいんだ……」
 本当に今はもう……。
「それだけしか考えられないんだ」
 小刻みに震える目蓋を強く閉じ、心の底から声を絞り出す。
 何もかも捨てて良いと、一度思ったらもう止まらなかった。
「判りました」
 大仰なため息に乗せられた載せられた言葉は、不思議と笑っているように思えた。いや、笑っているのだ。
「しかし、四人だけでは心許ないですね。と言って、大勢で行くといらぬ勘ぐりを受けますし。ですので、私だけは付いていきますので」
「えっ!」
 驚愕するヴァルツに、ラーゼがにこりと返す。
「殿下に付いていきますから」
「え……」
「だいたい、今のラスターゼの状況や自軍の砦の場所、マゾルデの砦の場所──何より、彼が捕まっていそうな場所──と、知るべき事は多々ありますが、ご存じです?」
「え……あ……」
 畳みかけるように問われて口籠もり、返す言葉もなく隣のテルゼを見やる。けれど、テルゼも似たような状況で、頭を掻いていた。
「こんなこともあろうかと、情報は常に収集して参りました。私がいるととても便利ですよ」
 そういえば、と、ラーゼがこの騎士団の参謀長でもあるのをぼんやりと思い出した。
 確かに便利だろう。けれど、今まで何かしようとしてもいろんなところで邪魔されてきたこの堅物の男を連れてくのは、あまりにも息苦しそうだった。だが、そんなヴァルツの心情など見抜いているように、ラーゼが言う。
「もっとも私を連れて行かないのなら、外苑から一歩も出しませんので、お覚悟を」
 偽りでない証拠に、ラーゼ配下の親衛隊達が複雑な表情を浮かべて退路を断っていた。
 親衛隊を務めるだけあって、彼らの腕は確かだ。一人一人ならともかく大勢で来られては、ヴァルツの腕では敵わない。けれど、黙って捕まるわけにはいかなかった。
 伸びた手が剣の柄を掴む。
 連れて行く、と言えば良いのか?
 テルゼを窺い、奥から顔を出しているミシュナを見やって、理不尽さを噛みしめる。
 ラーゼは、静かに笑んでいた。
 剣を突き付けても、同じように笑っていられるのか?
 試してみたい衝動は、すぐに消えた。
 ラーゼを連れて行く不利益は、きっと利益よりは少ない。
「私の命に従うのであれば……」
 結局は逆らうことなどできない自分への口惜しさが滲むヴァルツに、ラーゼが満足だと笑う。
 そんな風に笑われるのはいつものことで、口をへの字に曲げて睨み返した。
「城にいる時のようにはいかないぞ」
「ご随意に」
 頷くラーゼに、ヴァルツの怒りは遠かった。

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16
 ジゼとの待ち合わせ場所は、外苑から遠く離れた街道沿いの祠の一つだった。
 旅する者達が旅の安全を祈り、同時に休息する場所としての役目を負う祠で、ジゼはたまたま居合わせた他の旅人と仲良くお喋りに興じていた。
 そのジゼがやってきたヴァルツ達を見やって、にやりと笑う。
 ヴァルツ達の格好は、流れの騎士そのものだ。いつも身に付けている騎士の装束も、華美な馬具も一切無い。
 それでも。
「なんや、目立つんやけどなあ、あんたら」
 汚れを知らない金と銀の髪。ピンと伸びた背筋に高貴さ全開だとジゼが嗤った。
 思わず四人で互いを見やって、否定できないそれに気付く。けれど笑われると人間腹が立つものだ。
「お前ほどではない」
 テルゼが牙を剥けば、のほほんとジゼが笑い返して。
 ほな、とすっかり意気投合していた人達に別れを告げて、ジゼがヴァルツ達に交じる。
 彼だけ馬はない。
 どうするつもりだと首を傾げたヴァルツだったが、すぐに馬がゆらりと揺らいだ。
 鼻息荒く態勢を整えた馬の手綱を強く引くと同時に、背から伸びてきた手がそれを掴んだ。
「乗せてぇな」
「お前っ!」
 いきり立つ騎士達を一瞥したジゼが、耳元で囁く。
「ザンジはこんな真っ昼間に出せへんから」
「馬を用意するが」
 今にも悪戯されそうな気配に身を捩り、不埒な男を睨み付けた。
「でもや、山に入ったらザンジと移動すんや。馬は必要ない」
 それまでのことや、と軽く言うジゼの手は手組みに馬を操った。
 慌ててテルゼ達が追いかけてくる。
「それに人数増えとるし。いっそのこと、国内では戦場視察に出かけてるご一行とかにしよかぁ?」
 祠の中では奇妙に馴染んでいた茶褐色の肌を持つ異国人の進言は、それはそれで問題だろう。こういう集団では、脳天気な男がやけに目立ってしまう。
「俺、従者ってことで?」
「主に悪戯する従者などおらぬ」
 落としかけたため息を飲み込んだ。
 空気が重い。
 ジゼと再会した途端になんとも言えない張り詰めた空気に息が苦しい。
 判らないでもないけれど。
 親衛隊に属するテルゼとラーゼは、ジゼの存在を快く思っていない。
 裏切った者は次もまた裏切りやすいという猜疑心は容易には消せない。まして、礼儀を見せない態度も問題だ。
 なのに、ジゼの態度はいつもと変わらない。
 剣呑な視線を面白がって、余計にからかう。しかもその餌としてヴァルツを使って。
 もっとも、そのことに気付いた時には、特にテルゼの怒りはすでに爆発寸前になっていた。
「何をしているっ」
 相変わらずの過剰な触れあいをいつものように適当に許していた時だった。
 激しい叱責は、先を進んでいたミシュナの背がびくりと跳ねたのが見て取れたほどだ。慌てて声の主を見やれば、今にも剣を抜きそうなほどの殺気をみなぎらせたテルゼがいた。
 けれど、それを向けられたジゼが、どう見ても判っているのにのほほんと返す。
「何って、王子さんと遊んでるだけやけど?」
 なっ、と小首を傾げて尋ねられ、確かに遊ばれているだけだとため息と共に頷いた。
 けれどテルゼは納得しない。
 何か言いたげに口を開け。
「テルゼ、止めなさい」
 ラーゼに間に入られて、テルゼの顔が歪む。
「ヴァルツ様が許しておられるのに、我らが何かを言う権利は無い」
 そう言いつつも、ラーゼの口元からぎりっという音が聞こえてきそうだ。二人分の瞳から溢れる怒りが強い力を持って、ヴァルツすら圧倒した。だが、矛先であるジゼはずいぶんと楽しそうだ。
「お前な……」
 先より激しくなった悪戯な手が、さわさわと撫でるように胸元をまさぐっていく。
 明らかにテルゼ達を煽るための行動だと、テルゼ自身も気付いたようでその口を固く噤んだ。
 なのに、ジゼは止めない。それどころかさらに大胆に、服の上から胸の突起をつぶすように指先で押さえてきた。
 途端にひくりと喉が上下する。太い神経を一直線に走ったそれは確かに快感で、ヴァルツは堪らずに全身を小刻みに震えさせた。
「くっ」
 うなじを擽る吐息が笑っている。
 さすがにこれ以上の暴挙は許せなくて、ジゼの悪戯な手の甲を抓り上げた。だが、ジゼは構わずヴァルツを抱きしめた。
「なっ!」
「う?ん、良い匂い」
「うるさっ、暑苦しいっ、離れろっ!!」
「なんや王子さん、今日はつれないなあ。せっかくこんなにぴったり引っ付いてんのに、良いことしよ、なっ?」
 笑い声が耳を擽って、思わず体を竦めた。擽ったさだけでない感覚を持てあまし、歯を食い縛って背後のジゼを睨む。
 どうしてこんなに、と思うほどにジゼは的確にヴァルツの感じるところを見つけてはからかう。
 今のも、わざとだ。
 だが、判っていても体の反応は止められない。
「いいな、その潤んだ瞳。もっと見せて?」
 揶揄がこんなことに感じている羞恥を煽る。
 紅潮した顔を怒りの表情に紛れ込ませ、怒鳴ってやろうと勢いよく背後を振り向いた途端。
「っ!」
 唇を掠められ、瞠目した。
 ジゼからの口付けは挨拶みたいなものだと割り切って、慣れてしまった事を悔いることなく受け入れていたけれど。こんな衆目の場でされたのは、最初の時以来。
「お、お前っ!」
 咄嗟に口元を腕で覆った途端に、はっきりと三方から視線を感じた。
「こんなところでふざけるなっ!」
「嫌や……、そんなつれないこといいなや」
 それは、羞恥に駆られて怒鳴った途端だった。
 不意に、ジゼの口調が変わったのだ。
 どこか傷ついたような、弱々しさすら感じる口調に、ヴァルツはうっと続けようとした言葉を飲み込んだ。
「いっつも王子さん、ザンジにばっか擦り寄って……。俺、なかなか引っ付かせてくれんかったし。俺、今王子さんの温もり欠乏症やねん」
「何が──欠乏症だ……」
 引っ付くなと言っても引っ付こうとしていたのはどこのどいつだ、と抗うが、抱きしめられては思うようにはならない。まして、狭い馬の上。動ける範囲も限られる。
「なんでえ? 俺、王子さんの匂い好きやし」
 すりすりとうなじを鼻先で擦られて、くすぐったさに身を捩った。
 そんな風に嬉しそうにされると、ついつい絆されそうにはなる。だが、顔を上げた拍子に何か言いたげなミシュナの視線と絡んだ。しかもその向こうには、険しい表情のラーゼとテルゼの視線があって、やけに怖い。
「ジゼっ! いい加減にしろっ!!」
 焦って口から迸った悲鳴にも似た恫喝は一向に効かなくて、それどころか、ただ辺りの温度を下げただけだった。
 冷たい視線から逃れるように俯き、背後から抱きついたジゼに小声で叱責した。
「……いい加減にしろ。これ以上皆を怒らすな」
「優しいなぁ、王子さん。俺なんか護ろうとしてくれるのがめちゃ嬉しい」
 子供のように甘える仕草に二の句が継げなくなったのはヴァルツだけだ。
「ヴァルツ様」
 さすがに業を煮やしたラーゼの呼びかけには、多分に叱責が含まれているのを感じる。それを無視することはできなくて、ヴァルツは、判っている、と視線で返した。
 性的な接触を許すつもりはない。
 だが、どんなことをされても、ヴァルツ自身ジゼには甘くなっていることは自覚していた。
 ジゼのようにいっそ無邪気に迫ってこられると、どんな対応をして良いのか判らなくなるのだ。
 今まで、こんなふうに子供のように──とは言えないが、ひっついてきた人間はいない。免疫がない行為は、性的な部分が無くなると、なんだかやけにこそばゆく不思議と不快ではなかった。
 甘い、と、皆が視線で責める。
 今は王子の対面を重んじ、面と向かっての叱責は無い。だが後で、ラーゼと二人きりになった時にでも、思いっきり叱られるだろう。
 それは判っているけれど。
「な、王子さん、何もせんから今の内に寝てしまいな? 俺が支えといてやるから」
 こんなふうに甘えさせてくれる存在は、過去いなかった。こういう時だけ、彼は対であるザンジと良く似ている。
 感じる純粋な優しさがヴァルツを包む。
 それが堪らなく心地よく、言われなくても疲れた体を睡魔が襲ってきた。
 だが。
「……寝ない」
 きっぱりと言い切り、首を強く振って睡魔を追い払う。
「先を急ごう」
 ザーンハルトのことを考えれば、悠長に事を進める訳には行かなかった。まずラスターゼに行かないと、何にもならないし、何もできない。
 ジゼの事は好きだ。
 正直になってしまえば、そのひと言に尽きる。
 だが、愛しているのはザーンハルトただ一人。
 その彼が、今この時、一体どんな目に遭っているかと思うといても立ってもいられない。
「そんなに慌てんでも大丈夫や」
「え……?」
「それよりもな、王子さんが、初恋の君が生きているって信じや? 信じる心が強ければ強いほど、そんだけほんとになる確率って高いんや。生きて、また会えるんだ。生きて、ぜえったいにあんな事やこんな事──俺の下であんあん喘がしてやるんやっ、強い念を持って行動すれば、それだけ現実になるんや」
「あんあん──て……」
 少しぼんやりしながら言葉を受け取ってしまったらしい。言われた光景を思わず想像して、息を飲んだ。
 白いふんわりとした寝具の上に広がる銀の髪。
 白い体が紅潮し、あえかな喘ぎが耳に心地よく響く。
 自分の手が動くたびに仰け反る白い喉。それに噛みつかんばかりに吸い付いて……。
「っ!」
 目の前が真っ白に弾けた。びくりと全身が震え、きつく顔を顰める。
「なっ、そんな姿見ずにおられんやろ? そしたらな、全力を尽くせるねん。んで、結構運も良くなるんや」
「……ジゼ……」
 嬉々として語るジゼを、ヴァルツはため息を落としつつ、恨めしげに睨み付けた。
 一瞬にして体内に溢れた情欲は、さすがにこんなところで解放できない。
「その時まで、王子さんは体力温存しとかな。せっかく再会してもな、疲れ切ってぐっすり寝てしもうたら、なんや、男の甲斐性ないで」
「何でいきなりそういう展開に持って行かなければならない?」
「別に絶対にそうしぃて訳じゃないって。ただ、目の前の餌っつうわけじゃねえけど、そう思うたら俄然やる気起きるやろうし」
「……」
 確かに。
 今度こそザーンハルトを、と思うと、絶対に、という気持ちは半端でなく強くなる。
「ま、そのためには、今は休んとき。手綱は俺が持ってやるから」
「……」
 そうは言われても寝るつもりは無かった。
 一刻も早くという思いは変わらないのだから。
 だが、張り詰めた心が、ジゼの言葉でほんの少し和らいでいた。
 それが呼び水となって、体から力が抜けていく。
「ジゼ……」
「なんや?」
「お前は……よく判らん奴だな」
 揶揄する口で、優しい言葉を言う。悪戯する手が、優しく包み込む。
「俺はもともと優しいんや」
 くすくすと笑うその震動も心地よくて、堪らずに目を瞑った。
 他の誰もが解放できなかった張り詰めた心を、ジゼはいとも簡単に解してくれる。

 きっと餓えているのだ。
 優しさに、人の温もりに。
 王子としての立場故にずっと渡されなかったものを、たとえ偽りであってもくれる相手を、だから何をされても許してしまう。
 ザーンハルトからでさえ、未だ貰えていないものを、ジゼだけがくれたから。
『ジゼが信用できないならそれで良い。それよりもジゼとザンジの力を利用すると考えろ』
 そう言ったのは今朝のこと。
 だが、信用していないのなら、こんなふうにその手の中で眠りにはつけないだろう。
 ザンジに包まれる心地よさは、ジゼの腕の中にも存在した。
 その意味を、ヴァルツはもうとっくの昔に理解していたけれど、ただ否定していただけ。
 テルゼの屋敷でヴァスが見せたあの表情。
 ジゼの温もりを感じてしまうと、彼が見せた表情の意味が判ってしまう。
 ぴんと張り詰めた心が、求めるのは癒してくれる存在。
 それがジゼだとしたら、彼があんな表情を見せるのも道理だと、ほんの少しの嫉妬心とともに理解した。

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17
 表通りは、灯火によって煌々と輝くほどに明るい街並みが続いていた。
 歓声と嬌声と、怒声と。
 どこからともなく流れる音楽も明るく、そして騒々しい。
 その中をさすがに馬を降りて進む一行は、今夜の宿へと向かっていた。
 城下にすら滅多に出ないヴァルツにとって、近いとはいえ来たことの無かった街ゼニナの様子は、見る物全てが珍しい。それは隣のミシュナも同様のようで、さっきから何度も子供のような感嘆の声を上げては、テルゼの失笑を貰っていた。
「凄いですね」
 そのミシュナが、唯一共感してくれそうだと思ったのかヴァルツに声をかけてきた。
 一日旅をしている間にミシュナもヴァルツに慣れてきたようで、ぎこちなくはあったが会話をするようにはなっていた。ヴァルツもミシュナと接してみて、ジゼとは別の意味でこの青年を気に入るようになっていたのだ。
 そのミシュナからさじを向けられて、思わず頷く。
 さっきから眺めていた賭け事をする店の前での遣り取りから視線をミシュナへと移す。
「君はホァンの息子だろう? あの辺りも賑やかだと思うが?」
 朝早くに寄ったあの辺りは、まだどこか嵐の前の静けさを保っていた。あの場所も、夜ともなればこんなふうに賑やかになるのではないかと思ったが──。
「いえ、ここまで賑やかにはなりません。確かに城下の市場に比べると夜は賑やかですけど……。なんというか……派手ですね」
 派手──といえば、確かにここはそれに尽きるだろう。
 原色を多用した看板に壁、門構え。
 派手すぎて──いっそ下品にすら見える。
 だが街全体がここまで派手だと、それはそれで味があるように見えるから不思議だ。
 きょろきょろと好奇心丸出しで辺りを見渡すヴァルツとミシュナは、先を行くテルゼ達から少しずつ離れていくのも気が付かない。しかもそんな姿は客引きからすればお上りさんにしか見えなかった。
「兄さん、遊んでいかないかい?」
 一人がめざとく見つけて声をかければ、わらわらと他の客引きまでもが寄ってくる。
「あっ、急いでて……」
「いやいやうちにおいでよ。料理も酒も一級品っ!!」
「えっ、あの?」
 瞬く間に増えた客引きは強引にも腕を取り、呆然としている間にずりずりと引っ張られる。
「ちょっ、ちょっと待てっ! 俺たちは違うっ!」
 先に自分を取り戻したのはミシュナだった。
 ふわりと身をかがませ、ついで勢いよく立ち上がる。振り払う動作に、客引き達の体が揺らいだ。その隙に手を振り払い、ヴァルツの体を背後へと隠す。
「こちらの人も違うっ。その手を離せっ!」
 未だヴァルツから離そうとしない腕をミシュナは渾身の力を込めて捻り上げた。
 睨み付ける瞳に、殺気すらみなぎらせ、男達を圧倒していた。
「ひっ」
 情けない悲鳴が男の口から零れる。
 他の客引きも線の細い少年にしか見えないミシュナの豹変に、顔を引きつらせた。
 しかもミシュナは微笑んでいたのだ。
 そんな表情をすると可愛い。場にそぐわない可愛さだ。だがそれ故に、得体の知れない恐怖を男達に与えた。それに、彼はあまりにも場慣れしていたのだ。
 おのぼりさんの雰囲気は立ち消え、罠にかかった獲物をどう料理しようかとほくそ笑んでいる。
 そうとしか、男達には見えなかった。それはヴァルツも同様で、ミシュナに背後に庇われながらも、一変した雰囲気を息を飲んで見守っていた。
 だから。
「あ、いや……宿が決まっていなかったら、どうかなあって……」
 及び腰でも誘う勇気に、ミシュナが感心したとばかりににこりと笑む。
「無理な客引きは、店の品位を落としますよ。最初からそういう風に接して頂かないと。それに、俺たちは期待されるほどには金は持っていません」
 その言葉に、男達の目が値踏みするように上下する。
 そんなはずは……という疑心が瞳には込められいてたけれど、それを口にする前に互いの間に壁ができた。
「きょろきょろしすぎや、振り返ったらおらんから慌てた。ちゃんと付いてこんと迷子になるで」
 屈み込んでヴァルツに目線を合わせ、ジゼがにっこりと微笑む。
「何か用があるのか?」
 隣でその背に流れる銀の髪が、ふぅわりと風にたなびく。低い声音は、その表情が見えなくても十分に怒りを伝えた。
「ひっ、いやっ、その……」
「いや、お連れさんとは知らんで」
 あっという間だった。
 煩いほどだった賑やかさが一瞬にしてかき消えたかに思えた。
 呆然と見つめた背が動き、顰められた眉の下から緑の瞳が気遣わしげに見つめてくる。
「失礼しました。今度は私が後につきます」
「あ、いや……すまない。それにミシュナにも助けて貰って」
「いえ、私の方も遅れを取ってしまって。あんな奴らにうっかりと捕まってしまって申し訳ありません」
 頭を下げられ、ぶるぶると首を振る。
 『外苑のお姫様』という噂に持っていた印象ががらがらと崩れる。
 いや、気付いて然るべきだったのかも知れない。
 『外苑の』と付いた時点で、城下にいる貴族達の姫君とは意味が違ってくるのだと。まして、今は見習いとはいえ、彼は騎士だ。王族の親衛隊や城下の警備につく第二騎士団の騎士だ。
 見た目が彼の全てではない。
「だが、助かった。ミシュナは強いんだな、凄かった」
 剣を持たせればすばしっこく動くだろうとは思っていたけれど。
 力もたいした物だ。いや、力を巧く逃す術を持っている、と言った方が良いか。
 ミシュナにかけた言葉は、心の底から出た賛辞だった。
「ありがとうございますっ、嬉しいです」
 途端に、ミシュナが満面の笑みを見せた。
 ひどく悦ばれて、言った方が照れてしまう。
「毎日鍛えさせていますから。そう時を置かずに、正式にどなたかのお側にお仕えできることになります」
 自分のことのように誇らしげなテルゼに、ミシュナが笑みを浮かべたまま視線を向けた。その様子が微笑ましくて、知らず笑みが口の端に浮かぶ。
 脳裏に浮かんだ言葉は、自分でも良い案だと思ったからそのまま口にした。
「そうだな。そうなったら、私の元に来て貰おうか」
 口にしたら、ますます良い案だと思った。
 だから、一瞬呆けたような顔をしたミシュナが、すぐに感激したとばかりに笑んだ時には、もうヴァルツの中ではそれは決定事項になっていた。
「……嬉しいですっ。そう言われると、私は……」
 涙が潤む瞳に、可愛いと本気で思う。
「ヴァルツ様付き、ですか……」
 呆然と呟くテルゼは、嫌そうだったけれど。
「そうだな。帰ったらすぐに手配しよう。もう決めたからな」
「しかし……ヴァルツ様付きとなると……セルシェ様が……」
「セルシェも気に入るさ」
 綺麗なものも可愛いものも好きなセルシェ。だが、意外性がもっとも気に入る一つだから、ミシュナは絶対に気に入られる。
 テルゼはザーンハルトを介してセルシェの本性を知っている数少ない一人だから、怖れてはいるのだろうけれど、それでも今更撤回する気はなかった。セルシェがミシュナを気に入るのであれば、なお好都合。
 だから、もう決めたのだと先制して言い放つ。
「どっちにしろ、セルシェは外苑のお姫様を放ってはおかないさ。だったら、私付きだと紹介した方が良いだろう?」
「はあ……」
 テルゼの情けない顔という珍しい表情に、ミシュナも嫌な予感に晒されたように顔を顰めていた。
 思わず、その頭を軽く撫でる。途端に浮かんだ困惑に苦笑を返して、先で待つラーゼを見やって促した。
 判っている。およそ騎士にする態度ではないことも。だが、ミシュナを見ていると何故かそうしたくなったのだ。
「改めてよろしくな、ミシュナ」
「はい」
 困惑する顔もまた可愛い。
 それは親愛の情の──しかも子に対するものに近いのだと、後で嫌な顔をしているテルゼには言わずに置こうと考えていたら、ジゼがヴァルツに浮かぶ笑みに気が付いてくすくすと笑い出した。
「えぇ性格」
「良いじゃないか」
 ミシュナが気に入ったのも事実。セルシェの良い遊び相手になると思ったのも事実。
 きっとみんな気に入るだろうと思うから。
「ああいう子なら、常に側にいても楽しそうだ」
 少なくとも行く先でしかめっ面をして待っている男に比べれば。
「ま、確かに」
 ジゼも、ラーゼを見やって笑っていた。
 

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18
 華美な装飾など何一つ無い裏通りに位置する場末の宿だというのに。
 なのに、ひっきりなしに受付をして中に入る客達。必ずと言って良いほど二人一組で入っていく彼らに、従業員は詳しくは何も求めない。ただ、金だけを貰う。それだけだ。

「さすがに今宵は宿を取る必要がありますね。いろいろとこの先のことも決める必要がありますし。この街にはちょうど良い宿もあります」
 街に入った途端にラーゼが言った。
 心当たりがあるのだと、先に進んだラーゼについて行ってみれば、案内されたのはそんな宿だったけれど。
「宿? っつうて、あれムーサ姉さんとこやないか?」
 良く通る声が、少し離れた位置にいてもはっきりと聞こえた。
 ラーゼとテルゼが視線を惑わせたのに気が付いて。
「……誰だ、それは?」
 問うても、誰も答えてくれなくて、ジゼを睨んだ。
「ジゼ?」
「ん? 気の良い姉さんのところや。何せ部屋だけやのうて、道具の貸し出しもしてくれるとこで、ちょっと変わった遊びすんのにはええところなんや。使い方も教えくれるしな。へぇ、騎士さん達、あそこで遊んだことあるんや。なんや、すみにおけんなあ」
 耳元でくすくすと笑うその不快さに、眉間に深くシワを寄せた。
「それはもしかして──遊ぶ宿か?」
 ゼニナは城下からすれば比較的近い街だ。ちょっと遊びに、と行けない距離ではない。
 ケレイス城下より歓楽街が発展していて、賭場も許されていた。
 まとまった休みの日には騎士達が遊びに行くにはちょうど良い所だと、楽しげに話しているのを聞いたことがあった。
 興味はあった。
 けれど。
「俺には遊ぶな、真面目に、と口酸っぱく言い続けてるくせに」
 一度も許されなかった事を思い出して教育係を睨めば、すました答えが返ってくる。
「王子が遊ばれるところではありません。それに、別に遊ぶためだけの宿ではありません。安いので、普通の泊まり客も泊まりますし。ムーサは口も堅い。揉め事を回避するのも巧いですし、役人とも巧くやっています。こういう時には最適な宿です」
「それを知っているということは……つまりは、お前は遊んできたことがある、ということだな」
 否定するかと思ったけれど、ラーゼは微笑んで返した。
「まあ、そこそこには」
「相手は?」
 まさかこの前貰ったばかりの新妻ではなかろう。
 不審を、ラーゼは軽くいなした。
「ゼニナは歓楽街ですよ」
 罪悪感のない涼しい顔を睨み付けて、新妻に言いつけてやる、と口の中で呟けば、ご随意にと返された。
 何かあれば、いつもそのセリフだ。
 口惜しい。
 ぶつぶつと何か言い返せないかと言葉を探したが、ことラーゼに対しては名案は見つからなかった。
 その体を後からジゼが抱きしめて、耳元で不意に呟く。
「なんや、賑やかだと思ったら何喧嘩してんねん、あいつら」
 ジゼが視線を向ける先を見やれば、テルゼとミシュナが賑やかに言い合っている。
 どうやら、テルゼもさんざんゼニナで遊んだ口らしい。
 ミシュナに問われ、その戦歴をあけすけに披露して──怒りを買ったところだった。
 と行ってもテルゼが謝る様子はなく、にやにやと怒るミシュナをからかっている。
 ラーゼとは別の意味でそう言うことに罪悪感の欠片もないのがテルゼだ。
「不思議やなあ。王子さんって、セルシェ姐さん以外に女知らんやろ? けど、あの二人みたいなんに囲まれて、なんでそこまで清い体でおられたんや?」
「ほっとけ」
 面と言われたくない前半分にはひと言で返したが、後半部に限って言えばそちらは別の意味で腹が立った。
 清い体でいたいと思ったわけではない。
 ただ、そういう経験をする場が無かっただけのこと。
 騎士達の間で遊ぶ話が出た時も、連れて行け、と言ってもダメだとずっと拒絶され続けてきたのだ。
 むすぅっと口を尖らせて返せば、それを耳にしたのかラーゼが喉の奥で笑って。
「ヴァルツ様をお連れしなかったのは、ザーンハルト様から固く止められていたからですよ」
「ザーンハルトに?」
 そんな話は聞いたことがなかった。
「ヴァルツ様は、そういう遊びではお誘いにはならなかったでしょう?」
「それは……当たり前だろう?」
 惚れた相手が女と遊ぶような場所に行くなどと想像すらしたくない。
「それはザーンハルト様も同じですよ」
「……」
 苦笑と共に伝えられた言葉に、息を飲んだ。
「そのような所に行く立場ではないと、言い訳のように口にされていましたが……。実のところは、ヴァルツ様が他人と遊ばれるのが嫌なのだと、何かの折りに伺いました。それを聞くと、私も協力したくなりましたしね」
「……そんな事、ザーンハルトが言う筈がないだろう?」
 本音も誤魔化しも言い訳も、区別できないザーンハルトの物言いにはいつも悩まされ続けてきた。
「本音ですよ。考え無しに、ついぽろりと出る言葉は、どんな嘘偽りよりもはっきりとしています」
「……どうやって」
 ラーゼが聞いたという言葉を、自分も聞きたかった。あの男の本音が引っ張り出せるのであれば、その方法が知りたかった。
「ラーゼの口の巧さには誰も敵わないさ。たとえあの兄であろうとね」
 どうあやしてきたのか、怒るミシュナを放っといて近寄ってきたテルゼが言う。
「人聞きの悪いことは言わないで欲しいですね。まあ、コツとしては考える暇を与えないって事ですね。もっともあのような頭の回転が速い方に考える暇を与えないのは結構たいへんですけど」
「……私にもできるか?」
「考えても結論が出ないような質問とか……。後はまあ……その場の雰囲気と勢いと……、ね」
 ラーゼの意味ありげな視線がテルゼへと向かい、テルゼが嫌そうに、それでも苦笑を浮かべる。
 何故そんな顔をするのか判らないし、ラーゼが言うことも判らない。
「難しい、な」
 ぽつりと呟けば。
「ま、勢いだな、勢い」
「そうや、勢いや」
 テルゼが呟くと、なぜかジゼまで賛同して。ラーゼが苦笑を浮かべながら制する。
「勢いだけでは後の処理が大変ですよ」
「それもまた勢いって事で」
「流されて何もかも巧くいくって事よくあることやし」
 訳が判らぬヴァルツを放っといて、妙に三人が盛り上がっていた。
 

 バカ騒ぎをしている騎士達が受付で一言二言すると、元気な女性が嬉々として出てきた。
 彼女がムーサ姐さんだと話の内容で気が付いたけれど、けたたましく何もかもが決まって、気が付いたら部屋に入ってた。
 その彼女に一番良い部屋だと言われた部屋で、ジゼが長い四肢を放り出して、寝具の柔らかさを堪能していた。
 ラーゼは湯を貰いに行っていて、今はヴァルツとジゼ、二人だけだ。
 二部屋だけ取れた部屋をどう分けるか、最初は揉めたのだが、テルゼがミシュナと別れることは断固として拒み、ラーゼもその二人と一緒になることを拒み──その結果、ヴァルツとジゼとラーゼが同室になった。
「ザンジはどうしているんだ?」
 最近いつも一緒に寝ていた温もりが無いことが、妙に寂しくて対の男に問う。
「ん?、山ん中ちゃうか? あいつ足速いから、馬なんかとじゃ怠くてしゃあないんや。人目にもつくし。だから先行かせた」
「……人を襲ったりはしていないだろうな」
 たぶん大丈夫だとは思ったが、念押しついでに問う。
「大丈夫や。今の時期、山ん中やったら獲物はいっぱいおる。まあ、運の悪い山賊のねぐらでもあたったら、喰うとるかもしれんけど」
「まあ、それくらいは良いか」
 言ってから、毒されていると思ったけれど。
 けれど、山賊などという愚かな行為をする輩に同情などはできない。それに、今回の戦の発端は、海賊。似たようなものだ。
「ま、楽しゅうやっとるよ、ザンジは」
「なんだ、まるで見ているような事を言うんだな」
「ん?、だって判るんや。ザンジもな、今は腹ごしらえが済んで、こうやってのんべんだらりしとるで」
 のびのびと寛ぎながらごろりと転がる様は、まるでザンジがそこにいるようだ。
 飼い犬は飼い主に似るとよく言われるが、ザンジもジゼも良く似ている。
 けれど、判ると言われても、冗談だと思った。
「はは、そんな事まで判るのか、対は」
 だから、そんな風に言い返せば、ジゼははっきりと頷いた。
「判る。だから対なんや」
「え……」
 声音に含まれる真摯さに、声が詰まった。
 じっと見つめる先で、眠そうに目を瞬かせたジゼがくすりと嗤う。
「なんや、気付かんかったか? 対はな、命令してそれに従うだけの存在やない。一人と一匹で一つなんや。だから対なんや」
 何でもないことのように言うジゼの言葉が半分も理解できなかった。
 呆然と見やる先で、ヴァルツの様子に気付いたジゼがよいしょっと体を起こして座り直した。
「俺たち、雰囲気似とるやろ?」
 それにはこくりと頷く。
 両方がいる時には思わなかった。だが、こうして一人だけでいても、そこにザンジの影が見える。
 ジゼの軽薄な雰囲気はそのままに、ヴァルツに対する優しさが倍増されたような、そんな気配はザンジのものだ。
「俺たちが仕事請け負う時はな、実際には獣だけが現場に行くんや。俺は暇にすんの嫌やから一緒に動くけどな。けど、離れている時に何かあったら、どうやって指示できる? 新しい標的を殺すか生かすかは、獣には判断できん」
「そう、だな」
「ヘタしたら、殺しちゃならん相手かも知れない。そんな相手を殺したら、俺たちだって危ないし、依頼を遂行できなければ、ヘタしたら部族全体の危機にすらなる。けど、俺たちはそんなヘマはせん」
 きっぱりと言い切って、ジゼがヴァルツの寝具に座った。
 こんな宿にしては珍しいほどの寝具の柔らかさに、体が揺れる。
「ザンジがな、王子さん、寂しそうやっていつも言っとった。可哀想で、慰めたいと言っとった」
 ジゼの手が伸びて、頬を捕らえる。近づく顔がザンジと重なった。
「あれは本能や。子を持つ親が我が子を可愛がるように、ザンジにとって王子さんは、子供と一緒なんや」
 ぺろりと柔らかな何かが頬を舐めた。
 それはザンジがいつもする仕草。
 子供といわれることに抵抗があったが、だからと言ってザンジに怒りが湧くわけではない。
 むしろ、だから、か、と納得してしまった。
「ザンジに子がいるのか?」
「ザンジはオスやから、一緒に暮らす子はおらん。だが、ザンジは血統が良うて、あれの子はいっぱいおるんや。二年ほど前から、種付け頼まれる事多くってな。やっぱり部族としては良い子が欲しいからな。ザンジだけやのうて、あの種はちょっと似合わないほどに子煩悩なところがあるんやが、そんな事繰り返したら、ザンジの奴いつもどっかに子がおる状態になってしもうてな、もうどれが自分の子ってだけでなく、どの子も好きになってもうて。しかも、人間と一緒に暮らしとるから、その「子」って中には人間の子供も入ってしもうて。だからな、俺が子供殺すの好かんのは、ザンジのせいでもあるんや」
「……ザンジが嫌いだから、ジゼも嫌いになった?」
 心地よい温もり。目を瞑れば隣にいるのはザンジのような気がする。
「もともと俺も子供好きやったし。だから同調しやすかったのかもな」
「同調?」
「そや、同調するんや、俺達は。だから、離れていてもザンジが何をしているのか何を思っているのは良く判る」
「……ザンジ……」
 不意に、目蓋の裏に静まりかえった木々の梢の影が浮かんだ。何本もある深い森は、見上げてもその梢が邪魔をして空が見えない。いや、月すら無い闇夜なのだ。だが、木の影がはっきりと目に映った。
「森の中……にいるみたいだ。うっそうと茂った……これは──ザンジが見ている光景か?」
 見えるがままに呟けば、びくりとジゼの体が強張った。
「何か見えるんか?」
「ん……森だと思う。月もないのに、たくさんの木が判る」
「……そや、俺が見ているのと同じ光景や。なんや王子さんも、素質あるんや無いかな? ああ、そうか。だからザンジが気に入って。俺より言うこと聞くようになって……。そうやな、いくらザンジが子供好きやって言ってもザンジがここまで気に入ったのは部族以外の人間では初めてやし」
 ぶつぶつと、最後になるほど聴き取れなくなった声を耳にしながら、ヴァルツはザンジが見ている光景を追っていた。
 暗いけれど、暖かい。
 知らない景色なのに、何故か懐かしい。
 いつものようにザンジに包まれている感触が伝わってきて、ヴァルツは当然のように睡魔の訪れを感じた。
 穏やかな思考が、眠れと、どんな子守歌よりも優しく囁く。
「ん……ねむ……」
 あまりの心地よさに、ヴァルツはもう何もかも忘れてただ睡魔に身を委ねた。
 すうすうと規則正しい寝息を立てるヴァルツの頭を抱えて、ジゼはくしゃりと顔を顰めた。
「王子さんやったら……良かったのにな。そしたら俺、悦んで従うのにな。俺もザンジも……それこそ、みんな悦ぶ思うんやけど……」
「それはどういう意味でしょうか?」
 入り口のドアを音もなく閉めてそこにいたラーゼの追求を、ジゼは笑んで返した。
「ま、大人の事情って奴で」
「私にわざわざ聞かせたクセに、そんな事を言うのですか? 申し訳ありませんが、その話、詳しく聞きたいんですが」
「良いけど、高いで」
「子供ではないので、承知していますよ」
 静かに笑うラーゼの目は笑っていなかった。
 けれどその優しい手が、ヴァルツの髪を柔らかく梳く。
「なんや、王子さん、すっかり子供扱いや。もう30越えとんやなかったっけ? 知ったら怒るで」
「こういう所を見てしまうとね。何せ幼い頃から知っておりますから……。もっともこんなことをしているなど、皆口が裂けてもバラしません」
「それもそうか、なんや、あんたごっつう怖いわ。あの姉さんといい勝負や」
 むくりと起きあがったジゼが、ひとしきり笑って、不意に笑みを納めた。
 遠い目をして何かを探り、思いついた何かにくすりと声もなく笑う。
 それを見つめるラーゼも困ったように、口の端をゆがめた。
「じゃ、話そうか」
 しばらく続いた沈黙を破ったのはジゼだ。
 仕切り直しとばかりに姿勢を正した二人の視線が絡まる。
 声音も表情も凍てつかせたジゼと、射殺さんばかりの視線を向けたラーゼは、話し終わるまでその表情は変わらなかった。

?
19
 空気が違う。
 昨日まではまだ柔らかかった筈。なのに、ラーゼを取り巻く空気だけがやけにぴりぴりしていて、ヘタに近づくと傷つけられそうな気配があった。
 何でだ?
 宿を出て、寂れた街道を進む一行の中で、ヴァルツは不審そうに首を傾げた。
 ヴァルツ自身とジゼはいつもと変わらない。
 だが、酷く怠そうなミシュナは口数が少ない。そのまま馬の上で突っ伏してしまいそうな様子にハラハラさせられる。
 反対にテルゼはテルゼで妙に上機嫌だ。上機嫌すぎて、ジゼと気安く会話までしていて、なんだかそれはそれで怖い。
 もっとも上機嫌のテルゼは、いつもこんな感じなので、それはそれで良いのだが。
 問題はラーゼだ。
 ずっと眉間にシワを刻んだままなのだ。
 昨夜部屋に入った時に多少の小言は貰ったが、それでも機嫌は悪くなかったはずだ。
 何か怒らせたか?
 考えても心当たりは無い。
 ではジゼか?
 と思わず背後のジゼを見やれば、不思議そうに頭上から見下ろされた。
「何や?」
 相変わらずその腕はヴァルツを抱き込んでいる。いい加減暑苦しいのだが、なんだかんだ言いつつも誰もジゼを引き取ってくれないので、仕方なくそのままだ。
 それだけ密着していれば、ヴァルツの動きなどすぐにバレる。
「いや……」
 それでも、もごもごと言いかけた言葉を飲み込んで、ヴァルツはあらぬ方に視線を逸らした。
 ジゼが絡んでいる事には間違いない。
 ヴァルツが寝入った後に部屋に帰ってきたラーゼ。その時にはジゼはまだ起きていただろう。
 そして朝起きた時、もうラーゼのジゼに向ける視線はきつかった。
 だが、その理由をジゼから聞くのは躊躇われた。
 万が一、良くない話であったなら。
 聞きたくない話であれば、自分はどうするのか?
 騎士達とジゼとの諍いを、ヴァルツはできれば止めたいが、その手段は思いつかない。
 だったら、何も聞かない方が……。
「ん?」
 すりすりと甘える仕草でジゼが言葉を誘う。
 それにため息を落とし、視線を前方の山へと向けた。
 そこで待っている相手を思いだし、やたらに恋しくなる。
「あぁ、そうだ。ザンジは? そろそろ一緒に行けるだろう?」
 ゼニナの街を抜けてしまえば、人通りはぐっと減る。まして、今は国境近くで戦をしている最中だ。平穏な時と違い、この街道を通る旅人はさらに減っていた。
 それにもうすぐ辿り着く山脈を通る行程は、街道からは外れる。険しいが、その方がはるかに近いのだ。
 その山の中にザンジがいると、昨夜はすでに聞いていた。
「ああ、そうや。ザンジな、王子さんとの再会を楽しみにしとるから」
「私も早く会いたい」
 ザンジに触れると心が和む。
「ザンジの背にも乗ってみたいしな」
 前に聞いたザンジの背の乗り心地を試してみたくてうずうずしていた。
 城内では狭すぎるからと、さすがにできなかったが、山の中なら問題ない。
「はははっ、王子さん、振り落とされんようにせんと。結構手の力いるんやで」
 ぎゅっと握る拳の力強さに、自分の手も握ってみる。
「だが、ザンジの背だったら、もっと早く着くのだろう?」
 一頭の馬に大の大人が二人乗れば速度は落ちる。
 だが、同じ乗るにしてもザンジであれば、もっと速くなる。
 そうすれば、こんなちんたらと進むことはなくなる。
「んな焦っても良い結果は生まれん。気をつけな」
 やんわりと指摘され、心の中を見透かされた気がしたけれど、平穏な顔をしてこくりと頷いた。
 街道を外れると、いきなり道は狭くなった。
 馬を並べることはもう無理で、一頭ずつ縦に並ぶ。
 それでも馬は難儀することなく進んだ。が、夕方近くになれば、その道もさらに険しくなった。
 もう獣道に近い。
 幹もどんどん太くなり、梢は高くなっていく。まだ太陽は覗いているはずなのに、見いだすことはできなかった。
「ザンジはどこだ?」
 暗くなれば、ザンジを見つけることは難しい。
「まだ先や。どうせ頑張ったって、今日は野宿や。その時に合流する」
 宥めるように言われて、肩の力ががくりと抜けた。
 会いたいのに。
 本当なら、さっさとこんな山など抜けたいのに。
 慣れない山道は馬に乗っていても疲れる。まして、滅多に遠乗りすらしないヴァルツだ。他の騎士達と比べても体力にはかなりの差があった。
 休むことなく先へ。
 と、気力だけあったはずだ。だが、さっきから自身の体を支えるのも億劫で、ずっとジゼに凭れていた。
 ちらりと窺えば、この中でも一番弱そうな体躯のミシュナでさえ、たいした疲れを感じさせなかった。
 朝方は、一番元気がなさそうだったのに。
 理不尽な思いで見つめていると、気配に気付いたのか急にミシュナが振り返った。困惑交じりの笑みが浮かび、それに曖昧に笑って返した。
 なんだかんだ言っても、彼も騎士なのだ。
 馬上に慣れていない訳ではないから、朝方の疲労感をなんとか癒したのだろう。
 どうやって──と聞きたいとは思ったけれど。
 それより何より、もうちょっと鍛えないと情けない。
 男としてはやはり強い体に憧れる。
 騎士達のように訓練に日々費やす時間は無いが、それでももう少しまめに動かないとダメだ。
 こんな時だからこそ、切に願ったけれど。
「はあ……」
 今更、何を思っても間に合わない。
 諦めを多分に含んだため息を眼下に落とす。
 平地よりやたらに揺れる馬上は、かなりきつい。
「疲れたんか?」
「少しな」
 諦めてしまえば、疲労感を素直に口にできた。
 まして、相手はジゼだ。取り繕う事など必要ない相手だ。
「ん?、どっか痛いか? 痛いとこ言ってみ?」
 認めてしまえば、体に込めていた力も呆気なく抜けた。
 そうなってしまえば精神も疲れを自覚して、矜持を保つ気力など、もう露ほどにもなかった。
 まして、ジゼが甘やかすように優しく言葉を促す。
「腰、痛い……」
 尻と腰と。
 揺らぐ体はいつもジゼに支えられていたが、それでも力の入る太股と腕が引きつりそうだ。
「なあ、みんな、王子さん、かなり疲れとる。そろそろ休もう」
 ジゼが、ヴァルツの口にできない甘えを伝えた。
「そうですね。そろそろ野宿の用意も始めないといけませんし」
 言われて初めて気付いたとばかりに、ラーゼが辺りを見渡して眉根を寄せた。
 そんならしくない様子に、首を傾げることもできない。
 怠さは、自覚するとさらに激しく、ヴァルツを苛んでいた。
「あの辺りなら、良さそうじゃないか?」
 木々に囲まれた空間を、広くはないが、それでも人が休む場所は作れそうだと、テルゼが指さした。
「ああ、良いな。ほんなら、火を熾すから、王子さんもうちょっと待っとき」
 ぽんぽんと背を叩かれ、馬からジゼが降りる。途端に支えを失った体がぐらりと傾いだ。
「こんなに……」
 思わず呟くほど、体に力が入らない。
 今の今までジゼが支えてくれていたから保っていたのだ。
 力の入らない体──特に腰に無理に力を込めると痛い。
「もうちょっとやから、な。降りるとなんかあった時、危険やから、な」
 降りたいと目線で訴えたジゼに諭される。
 急ぎ準備を始めたジゼに願うことはもはやできなくて、重いため息を零した。
 早く、ザンジの褥で眠りたい。
 野宿の場で合流するザンジの温もりが、今もう堪らなく恋しかった。
 彼がいれば、どんな柔らかな寝具より熟睡できることを、心も体も知っているからだ。
 かさかさと落ち葉を踏む音が近づいた。
 視線を下ろせば、金の髪が揺れる。
 ミシュナのものより少し明るい金だ。
「大丈夫ですか?」
 今日初めて聞くラーゼの労りの声だ。
 きついことも多いが、それでも普段はある彼独特の優しさが、今日はなかった。だが、今はなぜかその気配が戻っていた。
 柔らかな笑みに労りが感じられる。
「大丈夫だ。馬の長旅をしたことが無いわけではないのだが、山道は結構きついのだな。驚いている」
「加えて、警備も少ない、しかも戦場に向かう危険な旅ですから、緊張感もありましょうし。疲れて当然ですよ」 
 小首を傾げてヴァルツを窺ったラーゼが、ふと様子を窺うようにジゼを見た。
 途端に、眉間に微かにシワが寄る。
「ラーゼ……?」
 そういえば、と、朝方感じた違和感を思い出した。
「はい?」
 けれど、何でもないように優しい笑顔を向けられて、何を言って良いのか判らなくなった。
「殿下?」
 山の中に入ってから、元のように呼ばれる呼称に、首を振った。
「ヴァルツで良い。山の中とて、誰が聞いてるか判らないし」
 本音は違う。
 名で呼ばれたかったのだ。
 ジゼのからかうような『王子さん』を許すのも、それがヴァルツだから呼ばれる呼称だからだ。ジゼは他の誰も──弟たちをそんなふうに呼ばない。
 けれど、『殿下』はいっぱいいる。今ラーゼが言う『殿下』が、ヴァルツを指しているのだとしても、それでもできれば名で呼ばれたかった。
 何より、望んでも『殿下』としか呼んでくれない男がいるから、ヴァルツはその呼称が嫌いだったのだ。
 そんな思いを隠して、笑って言えば、ラーゼも微笑んで頷いた。
「では、ヴァルツ様。何か?」
「いや……その、な。ラーゼのジゼを見る目がきついのでな……」
 どうやら誤魔化してはくれなかったと、結局疑問を素直に口にした。
「ああ。そうかも知れませんね」
「何故?」
 あっさりと肯定したラーゼに瞠目し、問いかける。
「何故、と言われても。お判りでしょう?」
 苦笑されて、当然の理由も思い当たった。
 だが、その理由であれば、昨日からもそうであったはずだ。
「今日は、さらにきつかった……」
「それは、あまりにあの男が、ヴァルツ様に馴れ馴れしいので」
 それも今更の理由のように思えたけれど。
「ザンジや」
 会話を遮るように、ジゼがヴァルツを呼んだ。
「もう大丈夫や。王子さん、降りてきぃ」
 手招きされて、指さす方を窺った。
 すっかり帳も降りて、暗い梢が時折はらはらと揺れる。
 そこに、爛々と輝く一対の炎があった。
「ザンジっ!」
 堪らず呼びかけ、馬から飛び降りた。
 力などもう残っていない、と思った体が、突き動かされるように動く。
「ザンジっ!」
 ざわっ
 梢が鳴る。
 消えた炎を探し求めるヴァルツに一陣の風がまとわりついた。
「ぎゅるっ」
 聞き慣れた甘え声が、耳に優しく響いた。
 ふわりと漂う臭気は、慣れてしまったザンジ独特のもの。
「ザンジ、久しぶり」
 伸ばした手が柔らかな毛並みに触れる。
 ぎゅっと抱きしめると、ぺろりと長い舌が頬を舐め上げた。
「ひぃっ!」
 悲鳴に近い声が、背後から飛んできたけれど。
「元気そうだな」
 口内に侵入する舌を、いつものように受け入れた。
 背後から伝わる殺気も、ザンジがいれば怖くない。というより、その殺気の正体を知っているからだ。
「ヴァルツ様……」
 恐怖に満ちたミシュナの声音にも。
「すっかり慣れてしまわれて……」
 嘆きが滲んだラーゼの声音にも。
「……こいつが仲間を……」
 テルゼの怒気を含んだ声音にも。
「大丈夫だ。ザンジは良い子なんだ」
 笑って返す。
「な、私の仲間をお前は傷つけないだろう?」
「ぎゅる」
 ザンジが頷いたのが判った。前より、ずっとザンジの心が判る。
 鳴き声が勝手に言葉へと変換されていた。
 それが堪らなく嬉しくて、ますますザンジが愛おしくなる。
「良い子だ」
 ぎゅうっと抱きしめてやれば、ザンジが悦んでいた。ぺろぺろと舐められて、もう顔はザンジの涎だらけだったが、気にならない。
 これほどはっきりと親愛の情を向けられて、どうして怒ることなどできるだろう。
「対の俺には挨拶無しか? ほんとお前王子さんにベタ惚れやん」
 呆れた声音に、ザンジの耳がぴくりと動いて。
「きゅっ」
「ジゼにも挨拶しているじゃないか?」
 微かに振り返って、短く一声。
 人間の言葉で言えば『やあ』だろうか?
 それに、ジゼが苦笑を浮かべた。
「はいはい。俺はどうでも良いわけね。判ったから、感動の抱擁は後にして、先に腹ごしらえしよ。俺は腹減ったんやっ」
「そうだなあ、どうする、ザンジ?」
 腹も減っているが、ザンジの温もりにも餓えていた。
 それを与えられて、体が容易に離れようとしない。
「ああ、もういい加減にし」
 結局、ジゼが呆れたと言わんばかりにザンジを無理に引き剥がした。騎士達は、さすがに手が出せなかったからだ。が。
「ぐっ!」
 引き剥がす行為に、ザンジが怒った。
 殺気未満の気を感じたヴァルツが気が付いた時には、一閃した腕の先を澄ました顔でザンジがぺろりと舐めていた。
 その傍らで、一瞬呆然としたジゼが頬に手をやっていて。
「……てめえっ!! 対に何すんやっ!」
「まあまあ、邪魔するからだろ」
 怒り心頭のジゼがザンジに詰め寄るのをヴァルツは必死で遮った。
 ジゼの頬に浮かぶのは細い赤い筋。
「ううっ……こんなん無しや。対に傷つけられるなんて獣使いとしては最低ランクなんやで……。みんなにバレたら、アホウ呼ばわりや……」
 がくりと落ちた肩に、あまりに可哀想でよしよしと頭を撫でる。
 もっとも、落ち込んだジゼを構う暇すらザンジは与えてくれなくて。
「ああ、判ったよ」
 引っ張られるがままに、食事の用意ができた場所に向かう。
 さっさと食べろ、とザンジに目で言われて、ラーゼに用意された皿を受け取った。その周りに、ラーゼ達が戦々恐々と言った感じで、座り込む。
 敵意は無い事くらいは判るのだろう。
 だが、しょせんは獣だと、その警戒心を崩さない。
 それは城でも見慣れた光景だったので、ヴァルツは無視した。もっとも、城の時よりは皆、ザンジに近い。それだけで今は十分だった。
 ただ、落ち込んだジゼがなかなかやってこないことだけは気になったけれど。
 ザンジの温もりに癒されて、それもすぐに忘れてしまった。
?
20
 山に入ってからすでに三日。
 明日には、国境を越えるその日。
 山中での最後の夜は、平穏に過ぎようとしていた。
「獣のクセに火を怖れないんですね」
 ぽつりと呟いたラーゼに、ザンジの耳がぴくりと反応する。
 どう見ても人の言葉を理解している様子に、ラーゼは苦笑を浮かべて獣を見やった。
 さすがに三日も側で過ごすと、騎士達もザンジに慣れてきた。
 まして、ザンジは魔獣と呼ばれる種族であっても、その性質はきわめて優しい。
 馬から荷が落ちたと進んで拾ってきてくれる様は、よく慣れた犬と変わらなくて、拾って貰ったミシュナも苦笑を浮かべながら、礼を言っていた。
 そのザンジに関わる話は、いつだって盛り上がった。
「獣使いの里では、常に獣と人が一緒に暮らすんや。火を怖れたらそんなん無理や」
 くつくつと喉で笑うジゼが、焚き火に新たな薪をくべた。
 途端にぱちっと爆ぜ、火の粉が宙を舞う。
 それを目で追って、白い灰になって降り注ぐのを振り払った。
 黒いザンジの毛皮が、ところどころ白く汚れているのも同じく払う。
「ぐるぐる」
 気持ちよさそうに喉を鳴らしているザンジにヴァルツは微笑んだ。
「では、獣は野生ではないということですか?」
「厳密に言えばそうやな。たとえばザンジの親は俺の親の対やったし、そいつらはやっぱり部族の誰かの対の子だったろうし。まあ、稀に新しい血を入れるのに、野生の獣を捕獲することもあるけどなあ。そういう時は、子種だけ貰うてさっさと放すしな」
「それは、野生種は扱えないと?」
「いや、時間を掛ければ慣れるんやけど、クソ面倒なんや、そういうの。まあ、頭数は十分いるから、問題ないし」
「では……」

 さっきから、ラーゼはずっとジゼを質問攻めだ。
 獣の扱い方から、育て方、餌からその力まで。
 あれだけ警戒心を露わにしていたというのに、探求欲はそれすらも凌駕したらしい。
 さすが第2騎士団の参謀だと、ヴァルツは呆れながらも二人の会話に耳を傾けていた。
 二人の会話の中には知っているものも多かったが、知らないことも交じっていた。
「獣の子はだいたい二頭から三頭生まれるんやけど、親は一年で子離れする。その後は対が現れるまで調教師の元に引き取られて育てられるんや。その時に、人と一緒に暮らすことも、命令に従うことも、命令以外では人を襲わないことも躾られる」
「……じゃあ、ザンジにも兄弟がいるのか?」
 ふと、気になって口にした問いに、ジゼが僅かに躊躇った。
 言いづらそうなその様子に眉を顰める。
「どうした?」
「ああ、いや。──そうだな、ザンジには同じ時に生まれた兄がいる。これがまたそっくりな奴で……ジュウザと言う」
「ジュウザ?」
「ああ、能力にも長けていて、性格も良くて、ほんと良い奴なんだが……。今は──長の対だ……」
 その言葉を口にした途端、ジゼの口の端が歪んだ。ジュウザの事を言う時には、ザンジを褒めるのと同じようにどこか嬉しそうだと思ったのに。いきなりの変化は、自嘲だと、かろうじて気付けた程度の時間しか見せなかったけれど。
 明らかに、悔しさの滲んだそれは見間違いようもない。
 同時に、手のひらで触れていたザンジがぴくりと強張ったのも間違いなく感じていて。
「ジュウザって?」
「ジュウザも、ラスターゼにいる」
 聞きたいと思ったこととは別の答えがジゼからもたらされた。
「いや、そう……」
「ということは、今回は長自ら出向いているということですか?」
「そうや。長だけでない。なんせ、金に糸目はつけんかったからな、ラスターゼは」
「なるほど……」
 遮られた問いを繰り返す雰囲気ではなかった。
 ラーゼの険しい表情に気後れしたのも事実だし、ジゼが明らかにヴァルツの視線を避けていたのだ。
 それに。
「ザンジ……」
 手のひらから伝わるザンジの心が、やけに哀しみに満ちていた。
 その視線の先にはジゼがいる。
 労るような、慈愛に満ちたその心が一体何を示すのか、ヴァルツにはそこまでは判らなかった。
 ただ、哀しい、と思って、堪らずにザンジの首に両腕を回す。
「ザンジ……」
「ぐるぅ……」
 ザンジの鼻が、首筋に甘えるように埋まる。
 途端に、訳の判らぬままに感情に支配された。
 哀しい。
 悔しい。
 鋭い痛みが胸の奥を傷つける。それはザーンハルトがさらわれた時に感じた痛みと同じ物だ。
 全身を苛みながら、喉の奥を迫り上がってくる。
「殿下?」
 ミシュナが何か驚いている。
「ヴァルツ様?」
 慌てた様子のラーゼに、何か? と顔を上げた途端に、頬に熱い滴が流れ落ちた。
 思わずそれを手で拭って、気付く。
「何で……泣いて……」
 言葉が途絶える。
 ひくりと喉が鳴り、ぼろぼろと涙が溢れては流れ落ちた。
 止まらない。
 両手で顔を覆い、ザンジの体に押しつける。
「ヴァルツ様、一体何で……?」
 ラーゼの手が優しく肩に触れて、訳を問う。
 けれど、答えられない。
 何故こんなに哀しいのか、ヴァルツ自身判らないのだ。
 こんな情けない様は見られたくないのに、ただ、止まらない。
「……ああ、判った。王子さん、ザンジの心に引きずられたんや。ザンジ、ちょっと哀しいこと思い出したんやろな。それでなくても、最近の王子さんとザンジ、べったりやし……」
「それは、どういうことです?」
「王子さん、獣使いの素質があるってことや。心が通じ合うもの同士が対になれるから、な。そういうことだけ言えば、王子さんとザンジもそれに近いってこと」
「……ヴァルツ様が……?」
 ラーゼが顔を顰めているのが視界の端に入っていた。
 ラーゼにしてみれば、ヴァルツが獣使いの力を持っても、歓迎すべき事ではないのかも知れない。
 だが、ヴァルツにとってはそれは嬉しいことだった。
 別にその力を使って何かしたいとは思っていない。ただ、ザンジと心を通わせられればそれで良いのだ。
「ザンジ……大丈夫か?」
 言葉をかければ、反対に慰めるようにぺろりと顔を舐められた。
 優しいザンジ。
 いつだって、気を遣ってくれているのは判っていた。
 それこそ対であるジゼに逆らってでも、ザンジはヴァルツをいつも守ってくれる。
 だからこそ、ザンジが行くならば、と思ったのだ。
「……一緒に、ザーンを助けよう、な」
 そして、会わせたい。
「ザーンハルトは、私の大事な人なんだ」
「ぎゅるるぅ」
 ぺろぺろと舐められ、そのくすぐったさに笑う。
「ああ、お前も会いたいか?」
「ぎゅるぅ」
 肯定されて、嬉しくなる。
 涙もいつの間にか止まって、ヴァルツは楽しく笑い出していた。
「くすぐった……。もう止めろよ」
「ぐるぎゅる……」
 ふざけるようにのしかかられて、テルゼが血相を変えていた。
 そんなテルゼを見上げて、二人で笑う。
 からかわれたのが判ったのか、テルゼががくりと肩を落とした。
 彼の兄によく似た銀の髪がほつれて炎に照らされる。
 会いたい、早く。
「ザンジ、寝よう」
 眠ってしまえば、すぐに明日。
 いつまでも起きていても、疲れるだけで、何の益もない。
 そのままごろごろと転がっていけば、先に寝場所でザンジが横たわった。その前足を枕にし、体に擦り寄るようにして、目を閉じる。
 ザンジが来てから、すっかり慣れた寝方だ。
 上から掛けられた寝具を肩まで被り、誰とも判らぬままに、礼を言った。
「ゆっくりお休みください」
 返された声音から、ラーゼと判る。
「明日には、敵地です」
「ん」
 明日は、国境を越える。
 いよいよ敵陣へと向かうのだ。
 ギリギリまで、味方の陣に向かうか、敵陣へと直接向かうか、迷った、
 だが、結局直接敵陣に向かうことに決まったのだ。
 ケレイスの陣は、どう足掻いても敵の監視の目に晒されていた。
 それは斥候に出たジゼとテルゼが調べてきた。
 いったん、敵の目に見つかってしまえば、動くことは困難になる。それでは、ここまで来た甲斐がなかった。
 だからこそ、敵陣へとそのまま忍び込む。
 その決断を、ラーゼもテルゼも渋ったけれど。
 結局反対するだけの意見は出なかった。
 二人が渋ったのは、危険度が高いからだ。
 敵陣に忍び込むための道は数種あったが、その中で敵陣の護りが一番手薄で、だが危険な場所をヴァルツ達は選択せざるを得なかった。
 それがたとえ、獣達が脱走者を狩る森だったと知っていてもだ。
『運が良ければ、一気に抜けられる。頼まれたんは、ラスターゼからの脱走者狩りやしな。その脱走者も、噂が広まってしもうて、激減やし。油断している可能性はある……』
 それでも甘い期待やで。
 最後は気乗りしなさげに呟いたジゼに笑って頷く。
「判っている」
「王子さんって、大胆なんか、ただ、何も考えてないんか、判らんな」
 苦笑交じりで何を言われても、今更後に引くつもりはなかった。

?
21
 再度山中に戻り、山裾を回ってくだんの森へと向かった。
 南の海に近いその森は、成長の早い熱帯の木々でうっそうとしていた。
「凄いな」
 思わず呟き、伸ばした手で触れた幹を見上げる。
 太い幹は、天にも届こうかという勢いでまっすぐ伸びている、のだが、その幹にヴァルツの腕より太い蔓がぐるぐると巻き付いていた。
 蔓は、幹だけに巻き付いていない。地上を這う時ですら、ぐるぐるとらせんを描き、枝から枝へと宙を渡っている。薄暗い地上から、より太陽に近い明るい方へと生きもののようにその先を伸ばしている。
 そんな木々や蔓があちらこちらにあり、遠目でみると一種異様な景色を作り上げていた。
「ここは、馬で抜けるのは難しいな」
 森に入ったばかりの頃はまだ良かった。
 だが、奥に入り、日差しが枝葉に邪魔されるようになってくると、シダが生い茂り始めた。しかもその根元には地面を這い回る蔓や大木の盛り上がった根が埋もれている。
 四つ足とはいえ重い荷物を載せている馬の足も滑っては大きく揺れ、乗っている者は何度も平衡を崩した。
「歩くか?」
 思った以上の難儀に、テルゼが嫌そうに呟く。
 先はまだ長い。
 足を使うことは、体力を消耗するだろう。
 だが。
「仕方ない。このままでは、直に通れなくなる」
 ヴァルツはため息交じりに呟くと、馬から降りた。
 周りを歩いてみれば、足をつく場所を選べば何とかなる。
「なるほど、警戒が薄いわけだ」
 警備する方も馬では入れないから、こんな奥まではやってこないだろう。
 つまりは、奥まで入ってしまえば、脱走することは可能なのだ。それを、向こうの民は知っていた。
 だが。
「ザンジ、王子さん、乗せたり。先に行って散歩でもしとき」
 人より大きな体がふわりとヴァルツの傍らに寄り添う。
 ぎらりと伸びた爪が跳ねた時に幹を引っ掻いて、近くの大木に跡が残っていた。それを見やって言葉をかける。
「お前、身が軽いもんな」
 喉を撫で上げると嬉しそうに目を細め、見上げる。その頭を軽く叩き、その背をまたいだ。
 馬のように馬具があるわけではなく、その首筋に縋り付く。
 焦がれて乗せて貰った時に教えて貰ったのはこの方法だ。
 本当はジゼのように腰を立たせて、指先だけでザンジを捕らえていたかったのだが、それは無理だと最初に乗った時に身に染みていた。
「ザンジ、良いよ」
「ぐっ?」
「思いっきり、な」
 体の下で、ザンジのしなやかな筋肉が動く。
「荷物、下ろして……」
「馬は、ここに残しますか?」
 ラーゼ達の会話が鋭い風音にかき消えた。
 枝葉が影となって通り過ぎる。
 ザンジの走りは跳躍に近い。
 大地や幹を蹴るたびに筋肉が大きく動く。そのたびに放り出されそうになって、ヴァルツは必死になってしがみつくしかなかった。
 その衝撃は決して大きくないのに。
 うまく平衡が取れないのだ。
 慣れだと、最初に乗った時にジゼには笑われたけれど。
 指先だけで支えるのは、まだ無理だった。
「ザンジっ」
 思いっきり、は、5分ともたなかった。
 悲鳴にも似た制止の呼びかけに、ザンジの体が数歩たたらを踏んで止まる。
「はあ……」
 止まったと気付いた途端に、がくりと体の力が抜けた。
 足と腰、そしてしがみついていた腕の筋肉が強張って、ぎしぎしと悲鳴を上げている。
 後を振り向いて様子を窺うザンジが心配そうにヴァルツの頬を舐めた。
「ああ、……大丈夫だ」
 荒い息の中、にこりと笑い返せば、またぺろりと大きく舐められた。ついで口内を責められ、少しだけ許す。
「大丈夫だよ、ほんとに……楽しかった」
 交わる箇所が深いほどに、ザンジの事が判る
 はっきりと伝わった不安を癒すように、優しく返した。
 嘘ではないから。
 ザンジと風を切るのは楽しい。
 こんな風に、周りに人の気配が無い、というのも過去経験したことがなかった。
 その、爽快さと心地よい程度の孤独感を味わえるのならば、こんな苦痛など何でもない。
 ザンジと二人だけ。
「みんな、いつ頃追いつくかな?」
 くすくすと笑って、ザンジから降りた。
 さっきから変わっているように思えない景色を見渡し、空を見上げる。
 微かに覗く太陽の位置から、昼が近いことを知った。
 歩きでも丸一日あれば抜けられると聞いている。
 ザンジの速度なら、半日もかからない。
「あっちかな、ラスターゼは?」
 一人ごちれば、返すのはザンジだけだ。
 一人と一匹の視線が絡んで、一方に向けられる。
 後少しだ。
 このままザンジの背で駆ければ、思いっきりの速度でなくても、あっという間に通り過ぎるだろう。
 途端に、湧き起こった衝動に顔を顰める。
 行きたい。
 早く、行きたい。
 ザーンハルトの事を思わない時は無い。
 今、彼がどんな難儀に陥っているかと考えると、いても立ってもいられなかった。
「……行きたい……」
 言葉にして──ダメだと首を振る。
 この森に入る前に、皆に言われていた。
 ザンジに乗ることがあっても、一人では絶対に行くな、と。
 口うるさいほどに言い聞かされていたそれに、『行かない』と誓わされた。
「考えること、バレてんだもんな」
 情けなく口元を歪めたら、傍らでザンジが笑っているのが判った。
 ぽんとその頭を押さえて制止し、苦笑を浮かべる。
 今まで向けていた先の反対に視線を向けて、まだ影すら見えない仲間達を探した。
 人の足でこの森を越えなければならない彼らが、ここまで来るのはまだまだ先だ。
「ザンジぃ、お前行ってみんなを連れてきてくれれば早いのにな」
 だが、向けられたのは拒絶。
「……判ってる」
 ザンジもまた言い含められている。
 ヴァルツを決して一人にしないことを。
 ザンジがいるからこそ、彼らがヴァルツが一人で先を行く事を許したのだ。
「……じゃ、寝るか?」
 やることもなく待ち続ける一番の暇つぶしはそれしか思いつかなくて。
 最近そればかりだとザンジが、ちらりとヴァルツを見上げている。
 その炎色の瞳に笑みが浮かんでるのに気がついて、「良いじゃないか」と拗ねて返した。
 それすらも笑われたような気がして、そっぽを向いた途端に、腰がぐいっと押されて体が傾いだ。
「うわっ」
 無意識に伸びた指が掴んだ柔らかな毛を掴まえたのと柔らかな絨毯を体の下に感じたのは同時だ。
 それがザンジの体だと気付いた時には、しなやかな筋肉が跳躍への動きを始めていて。
「ひっ!」
 視界に迫る濃緑色の大きな葉から逃れるように目を瞑った。
「お前、いきなり……」
 ヴァルツは責めかけて口籠もった。
 見下ろすことも躊躇うほどに高い梢に今はいて、恐怖と爽快さが入り交じった思いが口を閉ざさせたのだ。
 少しだけ開けた視界の先に、はるか遠くの山脈が見えた。
 霞む平野部にあるのがラスターゼの辺境の村だろうか?
 だとすれば、あのはるか先の山脈はラスターゼとマゾルデの国境だ。
 マゾルデとケレイスと海に囲まれた小さな三角形の国。
 そよぐ風の心地よさに身を委ね、体を支えるザンジに擦り寄る。
 ザンジが昼寝の場所と連れてきてくれたのだから、文句の言いようもない。
「お前といるとほんととんでもない経験ができるな。気持ちよいし……」
 座り込んでしまえば、枝葉が邪魔をして、はるかな大地は見えない。
 この高さに訪れる他の猛獣はいないし、何よりヴァルツを安心させるザンジがそこにいる。
 子供の頃、セルシェとザーンハルトと思いっきり遊んで、疲れ果てて夢も見ずにもつれ合って眠ったあの頃と同じ安心感がここにはあった。
 もうこの手の中には還らないと思っていた幸せな気分だ。
 満たされた思いで目を瞑り、ザンジに体を預けた。
 その時だった。

 びくんっ。
 ザンジの体が強張った。
 同時に空気も変わった。
 鳥の声も風の音も、音という音全てが消え失せていた。
 神経が激しい警告を知らせ、重かったはずの目蓋が一気に開かれた。
 膜が張ったようなうすぼんやりとした白い世界の中で、一対の小さな炎だけがはっきりとしている。
 それがザンジの瞳だと気付いた時には、彼の視線の先にあるものにも気がついた。
 同じ、赤い炎が、一対。
 明るい日差しの中になぜか浮かんだ闇の中、それは同じ高さに浮いていた。
「ぎゅるるっっ!!」
 ザンジが鋭く威嚇する。
 黒い顔が赤い血の色に裂け、白い牙が鋭く覗く。
 同時に、向こうの闇も同じ色を覗かせた。
「ザンジ……あれは……?」
 恐怖が背筋を這い上がった。
 ザンジとほぼ同じ大きさに見える。
 だが、あの威圧感はザンジからは感じたことが無い──ことは無い……。
 甦ったのは、血まみれの記憶だ。
 血臭が鼻を衝く。
 天井から滴ってきた赤い滴が、頬に垂れた感触に思わず手をやって──。
 何もない感触に、呆然と手のひらを見やる。
 これは記憶だ、現実ではない。
 だが、ヴァルツの体は動かなくなっていた。
 目の前の炎の赤が血の色に変化する。
「あれは……?」
 繰り返された質問に答える者はいない。だが、ヴァルツは聞いた。
『ジュウザ』
 それは誰の声だったのか?
「ジュウザ?」
 どこかで聞いた名を呟いた。
 ジュウザ──。
『ザンジには同じ時に生まれた兄がいる』
『ジュウザと言う』
『能力にも長けていて、性格も良くて、ほんと良い奴なんだが……。今は──長の対だ……』
 記憶の奥底で、繰り返されるジゼの言葉。
 同時にまとわりつくのは、深い哀しみ。
 あれは誰の哀しみだったのか、未だに判らない。
 けれど、確かに感じた。
「ジュウザ……」
 怒りに包まれた赤色が、僅かに哀しみを宿らせていた。

?
22
 ジュウザが、のっそりと動いた。
 前足が僅かに前進する。
「ぎゅるるるっ」
 途端に、ザンジが鋭く威嚇した。
 逆立った毛並みでいつもより大きくなった体が前傾姿勢を取る。
 そんなザンジを見据え、ジュウザが止まる。
 動けば弾ける音がしそうな程に張り詰めた空気の中、ヴァルツにはザンジが焦っているのが判っていた。
 いつでも余裕綽々で、敵を屠ってきたであろうあのザンジがだ。
 実際の戦闘シーンは、初めて会ったあの時にしか見ていない。それでも、ザンジは強いのだと、信じていた。
 いや、強い。
 ただ、ジュウザも強い。
 2匹の力は互角。
 もっとも、ザンジの思いの中に強く感じるのは、ヴァルツを守ること。それを強くジゼに言われているのか、ザンジは決してその考えを消していない。その分、ザンジは不利だ。
「ザンジ」
 呼んだ声は確かに届いている。だが、反応は無い。
 ただ。ヴァルツを庇おうと枝の先へと足を進め始めた。
 ザンジが動くたびに枝が揺れる。先に向かえば、向かうほど揺れが大きくなった。
 堪らずに、幹に縋る。だが、固いごつごつとした木の幹は、どんなに縋っても安心感はなかった。
 ザンジだから、安心できたのだ。そのザンジが離れただけで、不安は倍増していた。
 ジュウザの視線はすでにヴァルツから離れているにも関わらずだ。
 ザンジが動くたびに、ジュウザの視線の向きも変わる。けれど、辺りを支配する威圧感は決して変わらなかった。
 枝が、ザンジの重みに堪えかねて強くしなる。
 少しずつ下がるザンジの位置、変わらないジュウザの位置。
 見上げるザンジが、さらに前傾姿勢を取って──。
 ザッ
 一際大きく、梢が鳴った。
「ザンジっ!」
 視界から消えたザンジを探す。
 けれど、すぐにザンジの方から視界に入ってきた。
 ガッ!
 引っ掻く音に、黒い糸が舞う。
 途端に、ジュウザの姿が消え、ザンジも消えた。
 追えなかった。
 2匹の戦闘速度は人の目で追えるものではなかった。
 ただ、梢の音、牙が鳴る音、爪が掻く音。
 音が、寸前の2匹の居場所を知らせる。もっとも、視線を向けた時には、もう視界の中にはいない。
 きつく握りしめた手のひらがじっとりと汗を掻いていて。
 威嚇以外の何物でもないうなり声が時折風に乗って届く。
 その度に得も言われぬ恐怖に体が震えた。
 あちらこちらから聞こえる声は、もっとたくさんの獣がいるように思えた。音も、四方八方からヴァルツを襲う。
 口の中で何度呟いたことだろう?
 助けを求めるように、「ザンジ」と名を呼ぶ。
 だが、今はそれに応える気配は無い。むろん、応えを貰おうとは思っていない。
 ただ、唯一無二の縋るものであるかのように名を呼ぶ。
 怖かった。
 ザンジがいないことが。
 ザンジが、危険だということが。
「逃げろ、ザンジ」
 逃げなければ、ザンジが傷つく。
 ジュウザの強さが、ザンジを通して伝わってきて、堪らずに自身を掻き抱いた。
「!」
 祈ることしかできないヴァルツが不意に表情を強張らせた。
 微かに枝がしなった音。
 静謐な森林の空気の中、澱んだ空気が流れてきた。
 隠すつもりのない気配は、明らかに殺気を含んでいる人のものだ。
「……誰だ……」
 寒気をもたらす澱みが、ねっとりとヴァルツに絡みつく。
 恨み、ねたみ、愉悦。
 振り返らずとも、そこにいる男の表情を感じた。
 誰何に答えは無い。
 けれど、気配は近づいてきた。
 掻き抱いていた腕を解き、枝に手をつき、右手で剣の柄を握る。
 こんな高い場所で、剣を振り回せるとは思っていない。それでも、抵抗もせずにやられるつもりはなかった。
「気にするな、ザンジ」
 ザンジもこちらの気配に気がついたのが伝わった。
 伝わる動揺に、安心させるように笑いかける。
 他に目を向ける余裕など無いザンジに、これ以上負担をかけるつもりはなかった。
 ついた手に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。
 その頃には、ヴァルツのいる枝の幹とは反対側に殺気の主がいるのが判った。
「ジュウザの対か?」
 こんな所に獣使い以外がいる筈もない。
 ゆっくりと振り返れば、視線の先に茶褐色の肌が見えた。
 黒い髪に白いものが交じった男は、深く刻まれたシワが無ければジゼに良く似ている。
 それを意外には思わない。
 だが、ジゼに感じた好意は、欠片も感じない。口の端を上げて嫌らしげに笑うその表情が不快で堪らなかった。
「お前が獣使いの長か?」
 問えば、笑みが消え、眉間に深いシワが刻まれた。
 肯定を示すその変化にヴァルツも顔を顰め、抜き身の剣を下段に構え、腰を落とす。
 ふわりと男を取り巻く殺気が強くなった。
 信じられないほどの憎悪を感じる。金に雇われただけとはとても思えない程のだ。
 まとわりつく澱みに、堪えきれないように大きく息を吐いた。
 いてもたってもいられないような衝動が胸の内を駆けめぐる。それを必死で押さえつけて、息を整えた。
 動くことはできない。
 太いとはいえ歪な枝は、動き回る方が不利だ。
 そういえば、獣使いの人の方の攻撃方法は聞いたことがなかった、と、今更ながらに気付いた。
 獲物を手に持っていない男の様子からは、どんな攻撃がくるのか判らない。
 と──。
 それまで黙りこくっていた男の口が開いた。
「ザンジがお前についた。ならば、ジゼもか?」
 低くしわがれた上に怒気を含んだ声音とその意味が、ヴァルツを縛る。
「な、に……?」
「裏切ったか?」
 何を、問われたのか?
「いや……お前がここにいるということは、予定通り。ならば、ザンジに気に入られたか?」
 くっと喉の奥で笑う男が、嘲っていることが判った。
 だが、誰に?
 瞠目するヴァルツの前で、一転上機嫌になった男が嗤う。
「ならよけいに好都合というもの。仮初めとはいえ対に裏切られるような男に、次期の資格は無い」
 対に……裏切られる?
 男が何を言おうとしているのか?
 ヴァルツの頭は正確に理解していた。
 ただ、信じたくはなかった。
 それでも。
 先に行って良い、と言ったのはジゼだった。
「ジゼは知っていたのか?」
 知って、先に行け、と?
「ケレイス国の王族を殺す。それが、我らが受けた依頼」
 我らが。
 それは、最初から知っている。
 だが、ここに連れてきたのも?
 今この場で、ヴァルツとこの男が相対しているのも、ジゼは企んでいたというのか?
「……ジゼは何故?」
 信じたくはなかった。だが、ジゼが何かを考えているのは判っていた。
 信じようとして、だが、騎士達には信じ切れると言い切れなかったのは、その事に気がついていたからだ。
 けれど……。
 顔を顰めて男を睨み付けるヴァルツだったが、剣を掴んだ手はだらりと下がっていた。
 その様子に、男がくつくつと嗤う。
 人を陥れて絶望に陥る様を見るのが好きなタイプらしい。
 冷静な部分が、不快感に顔を顰めた。
 それすらも面白いというように笑みを深くされる。
「取り引きだ」
 調子に乗ったのか、男が答えてきた。
「子供を見逃す代わりだ」
「……子供?」
 どこかで聞いた言葉だ。
 子供が殺された。
 ジゼが、辛そうに言っていた言葉。
「たかだか脱走者の子供の命を助けたいと雇い主に言い募ったのよ、奴は」
 吐き捨てられた言葉に、男のジゼに対する憎しみを感じた。
 矜持を傷つけられたとでも感じたのか? 
 雇い主と言うならば、ラスターゼの重鎮、もしくは王そのもの。あのジゼの事だから、直談判したのかも知れない。それこそ、長を差し置いて。
「雇い主は、敵対する王族一人に対して子供3人の命を対価にした。王族の命は本来、金の棒10本が対価ぞっ。それなのに、子供の命などっ!!」
 吐き捨てられた言葉に、激しい吐き気を覚えた。
 人の命を、金にしか換算しない男だ。
 許せない。
 こんな男が統べる部族に、ザンジは返せない。
 いや、こんな男が長でいるなどと、許したくもない。
 下がった腕が上がる。
 柄を握り直し、構えた。
「ほお……」
 呆れたような笑みに、怒りが渦巻く。
「子供の命が助かるなら、私の命などいくらでもくれてやろう。だが、お前に殺されるのはごめんだ」
「……お前もジゼと同類か? だからザンジが付いたか? はははっ、これは良い。だが、お前の命は私が貰おう。せっかくジゼが譲ってくれたのだからな」
 ぎくり、と、体が強張った。
「ジゼが?」
「ケレイスに忍び込んだジゼが連絡を寄越した。お前の命、私が殺せ、とな。ケレイスの王子の中でも次代の王。現在でも代理として国事を執り行うヴァルツ王子の命を奪えば、ケレイスは混乱する。そうなれば、ケレイス国軍は撤退するだろうとな。その功績はラスターゼにとっては大きい。雇い主の覚えも良かろう、とな」
「……そんなこと……」
 たかが、それだけのことで撤退しない、と言いかけて息を飲む。
 とてもではないが、言い切れなかった。
 ジルダは王位継承から外れている。
 次の継承者はロッシーニだ。だが、あの優しい子は、参戦を好んではいなかった。
 まして暗殺されたとなると、政務の混乱は必至だ。
 他国にかまけている暇は無くなる。
「我ら獣使いの名誉は、行った仕事の大きさに因る。王族殺しは、我ら長の家系の仕事よ。だから任せたのに、それすらも逃げよって」
 長の家系……?
 なら。
「……ジゼは?」
「あやつは、前長の息子だが、怠け者でろくに動かぬクセに文句だけは一人前だ。確かに、あんな奴に任せる仕事ではないな。たとえ、対価が情けないものであってもな」
「!」
 言葉に、意識が白く弾けた。
 ぎりっ。
 奥歯が軋む。
 目の前が怒りで赤く染まり、激高が渦となって胸の内を駆け巡っていた。
「う、る、さ、い!」
 許せない。
 許さない。
「お前などに殺されて堪るかっ!」
 何としても生きる。
 命を、金より劣ると言ったこの男が許せない。
 この男だけは、許さない。絶対に我が剣の錆にしてやらないと気が済まない。
 なのに。
 こんな男にヴァルツが殺されるように仕掛けたジゼも許せない。そのせいで、ザンジが危機に陥っているのだ。あいつだけは、徹底的にぶん殴ってやる。そのためにも生きてやる。生きて、自分の目の前で土下座させてやる。
 そして、何より。
 こんな奴らにそんな命令を下したラスターゼが許せない。
「ケレイスを舐めるな。お前如きにどうにかできる我らではない」
 元を質せば、あの国の執政が狂ったことから始まる。
 海賊に助成し、盗みで儲けようとした国。
 そんな国など面倒だと、手を出すのに乗り気でなかったツケがこんな形で巡ってきたとしたならば。
 ならば、その侘びは次代の王として必ずせねばならないだろう。
 今更ながらに、ヴァルツはザーンハルトに感謝した。
 あの時、参戦させるようにし向けてくれたことに。
 何も知らないままにいたら、きっともっと悲惨な事が起きた。
 狂った国は、その病魔を近隣諸国に広げていっただろう。
 命を対価などにする国は放置してはならないのだ。
「覚悟しろ、お前らは私を怒らせた」
 なんとしてでもラスターゼを落とす。
 それまで、死ぬことはできない。
「ほお……」
 呆れ顔の男に、ヴァルツは剣の切っ先を向けた。

?
23
 ひゅっ!
 剣が、大きく弧を描く。
 はらはらと飛び散る枝葉の欠片が、舞いながら遠い地面へと落ちていった。
 息が荒くなる。
 狭い可動範囲で必死で剣を振るう。
 その事が思った以上に、体に負担を掛けていた。
 何より、敵対する男は、ひどく身が軽い。
 ジゼ程ではない、とは思うが、それでもヴァルツよりははるかに素早かった。
 ただ、可動範囲が狭いのは男も一緒だ。
 いくら身が軽いと言っても、別の木々を使ってザンジのように自由自在に飛び回ることできない。
 掴まえられれば危ないが、幸いにして狭い故に捕らえられる事はかろうじて避けられていた。
「ちっ」
 小さく舌打ちが聞こえる。
 男の手にいつの間にか小刀が握られていた。
 鈍く光る刃が、何度もヴァルツの体を掠める。
「やっ!」
 間合いに入った体に振るった剣は、けれど宙を切っただけだ。
「っくしょうっ」
 悪態が口を衝くほどに、男は素早い。
 許せない、と思った。
 許さない、とも思った。
 その思いは変わらない。
 だが、このままでは拙い。
 騎士としても訓練を受けているが、それは平地でのことだ。こんな梢の上での立ち回りなどやったことはない。まして、敵は強かった。
 正確に力を把握していたのは、敵の方だ。
 未だに消えぬ嘲笑が、冷静であれ、と願う神経を苛立たせる。
 それに。
 カッ!
 間近で鋭く刻む音が響いた。
「ザンジっ!」
 隣の梢に黒い影を見た。
 はあはあと乱れた呼吸音を聞くまでもなく、ザンジの疲労がかなりのものだと判った。
 だが、その瞳の強さは失われていない。
 爛々と燃え立たせ、もう一対の炎を見据えている。
「ほお……。対持たずの獣とはいえ、さすがにジュウザの兄弟だけのことがあるな」
 神経を苛立たせる嘲笑に顔を顰めたヴァルツだったが、その聞き慣れない言葉に眉根を寄せた。
「対、持たず……?」
 無意識のうちに舌に乗せて転がせた言葉に、男が反応した。
「ザンジは、『対持たず』よ。生まれて二年以内に見つけるはずの対を、三年経っても見つけることができなかった。そいう獣を『対持たず』という。ザンジはそれよ」
 自分の有利さに満悦の男が、弁舌を振るっていた。
 その間を、ヴァルツは腹立たしく思いつつも、歓迎した。
 荒い息を気付かれないように整えていく。
 汗で滑りそうな柄を、そっと衣で拭った。その間にも、満足げにジュウザを見ながら、男は喋り続けていた。
「対持たずは、仕事には出せぬ。雑用、訓練用にしかならぬ。もっとも、ザンジは血統が良い故に、種としても活用しているがな」
 『ザンジの子供はようけおって』
 それが実は決して良い事ではないのだと、男の口調から感じられた。
「……だが、今はジゼの対だ」
 対がいるのに、と言えば、男はさらに嗤った。
「しょせんは、仮初めの対よ。身の程知らずに、部族一の獣を対にしおったクセに、扱い切れなかった。故に、対を取り上げ、仮初めとしてザンジを従わせておるだけ。それすらも扱い切れぬとは、嘆かわしい奴よ」
「……扱い切れなかった?」
 男の視線が向かう場所を追った。
 そこには、ザンジとジュウザ。先と変わらず睨み合っている2匹の獣。
「ジュウザが?」
「ジュウザは、我が部族一の獣よ。これほど優れた獣は、過去の記録を紐解いてもおらぬ。あのような輩にはもったいないわ」
 ふわりと脳裏に蘇った記憶があった。
 胸の奥に痛みを与え、一言一句違わずに思い出すそれに、ヴァルツは堪らずに顔を顰めた。
 胸の奥から湧きだし、溢れて込み上げる塊が、ひくりと喉を震わせる。
 あれは、ザンジの哀しみだった?
 否、違う。
 あれは、ジゼの哀しみ。
 対は、対。
 本当の対がジュウザだったとしたら、それを奪われたジゼは……。
 睨み合う2匹の獣の体は何カ所も傷を負っていた。
 ザンジの方が傷も深く、多い。
 だが、致命傷は無い。
「ザンジ……」
 対の心が対には判る。
 たとえ仮初めであったとしても、ザンジとジゼは心を通わせていた。
 だったら、ザンジから伝わったあの哀しみは間違いない。そして、今も。
「ザンジ……ジュウザ……。もう止めろ」
 喉の奥から迫り上がる塊が言葉になる。
 こんなのはダメだ。
 ザンジはジゼが好きだ。
 そのジゼが、対であったジュウザに今も思いを寄せているのは知っている。
 そんなザンジが、ジュウザを殺すことなどできようはずがないのだ。あれだけのジゼの哀しみを知っているのだから。
「もう止めろ」
 絞り出した言葉に、ザンジが僅かに視線を寄越す。 
「ぐるぅ……」
 無理だ。
 そう言っているのが判る。
「止めてくれ……」
 ザンジが死んでしまう。
 このままジュウザを倒せないままに戦えば、いつかはザンジが負けてしまうのに。
「ザンジ」
「これは、愚かな」
 嘲笑が頭の上から振ってくる。
「どうやら、命を差し出すつもりになったようで」
「うるさいっ」
 男に下るつもりはなかった。
 ただ、ザンジを助けたいだけだ。
「ジュウザも止めろ。ジゼが来ているんだ。ジゼが」
 刹那、ジュウザがぴくりと反応したような気がした。
「ジゼなら、お前にザンジと戦えなど言わない。今でも、お前のことが好きなんだっ! お前と引き離されて哀しい、と言っているんだっ!!」
 言葉で直接は聞いてはいない。だが、あの哀しみは、尋常ではない。
「ジュウザっ、ジゼが待っているっ! ザンジと対になっても、ジゼの心はお前に向かっていたっ!」 
「無駄なことを。ジュウザの対は私だ。ジゼではないっ!」
 苛立たしげな声音と共に、小刀が振り下ろされる。はらりと散った髪の毛が、目の前を舞う。
 鈍色の切っ先に、赤い滴が流れた。
 鋭く走った痛みに、腕に力が入らない。
 庇った顔には傷一つ無い分、腕の傷は深い。
「お前など、ジュウザの対には相応しくないっ! ジュウザの哀しみを知らないお前なんかっ!」
 今なら判る。
 ジュウザと対面した時に感じた哀しみの正体に。
「愚かな事を言う。獣使いでもないお前が、何を根拠に」
「私はザンジの対だっ! ザンジが認めた。ジゼも知っている。お前も言ったではないかっ! ザンジは私に付いている。それは、ザンジが私の対だからだ。だからっ、判るっ!!」
 認めてしまえば、こんなにしっくり来ることは無かった。
 だから、ザンジがいると安心するのだ。
 ザンジの心が、判る。
 ザンジの見ているものが判る。
 そして。
「対は、他人がどうこうするものではない。だから、他人であるお前が、奪うことなどできない」
 ザンジと対であるからこそ、そんな簡単な事が判ったのだ。
 今更、他のどんな獣を連れてこられても、ヴァルツの心はザンジからは離れない。そして、ザンジもまた二度とジゼの対には戻らない。
 対とはそういうものだ。
 扱いきれなかったからと言って離しても、対であることに変わりはない。
「ジュウザがお前に従うのは、お前がジゼを使う長だからだ」
 その言葉に、ジュウザが反応した。
 静かに揺らぐ炎の瞳が、まっすぐにヴァルツを見据える。
「ジゼとジュウザを引き離す時に、お前はどうした? 脅したのか?」
 対を引き離すために、どんな手を使えば良いのか?
 この男ならば、どんな手を使おうとしたか。
 あまりにも簡単に想像できたそれに、顔を顰めた。
 そして。
 何故ジゼが、ヴァルツをこの男の前に贄のように引き出したかもだ。
「バカな奴だよなあ、ほんとに。こんな手の込んだ事をして」
 今更ながらに気が付いたことに、つい笑い出してしまった。
?
24
 ジゼにはどうすることもできなかったのだろう。
 ジュウザを奪い返したくても、互いが互いの枷になっていた。
 この長の支配を疎んでいたのはジゼ。だが、相手の手の中にはジュウザがいる。
 ジュウザもまた優れているが故に、長の言葉を正確に理解していたとしたら。
 ジゼの命は長の手の内にある。
 たぶん、枷はもっと多い。枷を枷にするための鍵ももっとあるのだろう。
 だから、ジゼはザンジと共にケレイスに来たのだ。
 長であるこの男の功名心をくすぐって、表に出させるようにして。
「ジュウザ、ジゼの元に行け。この男は私が殺す。ジゼにもお前にも火の粉は降りかからぬ。それを望んでいるからの茶番であろう?」
 長が死なない限り、ジュウザはジゼの手元に戻らない。
 たとえ茶番だと言われようとも、こうしなければ恋い焦がれる相手が戻らないとなれば。
「判るんだよ、私にもジゼの思いが。私も恋しい相手を奪われていてね。どんな事をしてでも助けたいんだ。その助けをしてくれると言うのであれば、私はお前の望みを叶えよう。お前にジゼを返してやる」
「ぎゅるるる」
 ジュウザが初めて鳴いた。
 静かに項垂れ、ヴァルツの言葉に応えていた。
「ぎゅるるる」
 ザンジも鳴いていた。
 二匹の声が、遠くに響く。
「ジュウザっ、止めろっ!!」
 偽りの対であった長の言葉など、もうジュウザの耳には届いていなかった。ただ、ひたすら彼の対を呼ぶ。そして、ザンジもまた、仮初めだった対を呼んでいた。
 遠吠えにも似た鳴き声がいつまでも続いて。

「ジュウザっ! ザンジっ!」
 聞き慣れた抑揚の声が聞こえた。
 途端に、視界がぐるりとひっくり返った。
「ヴァルツ様っ!」
 走れぬ、とぼやいていたのは誰だったか?
 馬のいななきと悲鳴にも似た声が聞こえたな、と、ぼんやりと考える。
「どうやって……?」
 はるかな高みに、さっきまで目の前にいた男の姿が見えた。
 それを遮るように、金の髪と銀の髪が覗き込んでいる。
「ザーン……?」
 恋しい相手が現れたのかと手を伸ばせば、「違います」としかめっ面で返されて、正気に戻った。
 しっかりと焦点が合い、二人の輪郭がはっきりする。
「えっ、テルゼ? ラーゼ?」
 覗き込んでいた騎士達の心配に顔を歪ませた様子に、呆然と呟くと、ほっと安堵の吐息を零された。
 まだどこか呆けたヴァルツの頬を、ザンジがぺろぺろと舐めている。
「驚きました。ザンジがいきなりヴァルツ様と共に落ちてきて……。心臓が止まるかと思いました」
「あ、ああ、それで」
 反転した視界までは記憶にある。
 咄嗟に固く目を瞑って、風切り音だけは聞こえていた。
「だが……よく助かったな」
 まっすぐに落ちたのだ、確か。
 だが、ゆっくりと体を起こせば、どこにも痛みはない。いや、腕の切り傷がずきりと痛んだが、それだけだ。
「地に着く寸前ザンジとジュウザが王子さんを背で支えたんや。こいつらは、こんくらいの高さやったら大丈夫やから」
 声に首を巡らす。
 数メートル離れた先に、ジュウザを従えたジゼがいた。その向こうでミシュナが怯える馬たちを必死になって宥めていた。
 みんないる。
 そのことに、ひどく安堵していたら、ジゼがずいぶんと辛そうに顔を歪めているのに気が付いた。
 傍らにいるジュウザを大事そうに引き寄せているのに、不安が消えていないようだった。
 そんなジゼのしおらしい様子がおかしくて、つい笑みが浮かぶ。
「なんだ、来たのか。あのまま放っておかれるかと思ったが?」
「……ちゃんと追いつく予定やったんや。けど、思うた以上に道が悪うて……」
 バツが悪そうな様子に、うっすらと笑い返してから視線をずらした。
「あとで、お前の対を殴りたいんだが、それくらいは許してくれよ」
 ジュウザに話しかければ、途端に、困惑気味の気配が伝わってくる。
 ああ、良い子だ。
 ザンジとよく似た性根の子。
 ジゼにはもったいない。
「そんな、堪忍や」
 言うほどに堪えていなさそうな男を一瞥して、それでも彼らはやはり対なのだと再認識した。
 そんなジゼの傍らにいるジュウザがほんとうに幸せそうなのだ。
 あの瞳に宿っていた哀しみはもう無かった。

「ヴァルツ様、あの男、どうしますか?」
 判っているのだろう。
 優しい気分に水をさすように、ラーゼが笑みをたたえて言う。そんな彼をため息を吐きながら見やって、ヴァルツはきっぱりと言い切った。
「殺せ。罪状は私の命を狙ったこと。ケレイス国王代の私の命をな」
「御意」
「ヴァルツ様、他にもネズミが隠れているようですが?」
 嬉々としたテルゼが、抜刀すると共に辺りに鋭い視線を投げつけていた。
「なるほど。罠は二重にも三重にも張り巡らせてこそ、効果があるというお手本だな」
「……あぁ、ひと言言わせて貰えれば、長、引っ張り出すんにこんな手の込んだ事したのは、あいつが普段は自分で手を汚さんからなんや。ただ、今回の件は自分の手で殺った方が箔が付くってさんざん言っといたし。それに王子さんは一人でここまで来るって言うといたし。本当ならザンジも味方のままだって思うとったから、のこのこと現れたんや。まあ、俺が裏切ってもザンジはジュウザが何とかするだろうってのと、褒め称えられるのが好きな奴やから、出てくるとは思うとったけど。だから、どうしようもない時以外はこいつら出てこんかった、とは思うとったけど」
「では、私の方が優勢で長を殺しかけていたら?」
「そりゃあ、王子さん、今頃死んどった」
「……」
 し?んと静まりかえった場を壊したのは、テルゼだった。
「ヴァルツ様、後で私にも殴らせてください」
 低い声音は、気の弱い者ならその場にへたり込むであろう程の怒りを孕んでいた。
「同意です。私もそこまでは知りませんでしたからね」
 その意味するところに深く眉間にシワを刻む。
 知っていて加担したことへの謝罪はまだ貰っていないというのに。いけしゃあしゃあと言ってのけるラーゼに、けれどヴァルツは何も言えない。何か言おうものなら、後から何倍にも返ってくるのが目に見えていたのだ。
 代わりに。
「許す」
 苦々しくひと言で返せば、「そんな殺生な?」と情けない声が聞こえた。
 もっとも。
「後でな」
 そんな戯れを行う時間はなかった。
 はっきりと伝わる殺気は複数あって、しかも同じだけの獣の息遣いも感じる。ザンジと対だと認識した時から、他の獣の存在も判るようになっているヴァルツには、隠れていても無駄だ。
 だが、どんなに数がいようとも、負けるつもりは毛頭無かったし、負けるとも思わなかった。
 傍らで苦笑しているザンジの首を撫で上げ、「手伝え」と言うと、こくりと頷く。
 ザンジがずっと『対持たず』であったのも、それはきっとヴァルツがそこにいなかっただけのことなのだ。決して彼が劣っている訳ではない。
 すぐ近くでジュウザもまたジゼと何事かを交わしている。
「獣たちは任せる。殺せとは言わないが……その判断はお前達に任せよう」
 敵対するとはいえ、少し前までは仲間であったろう獣同士だ。
 子がたくさんいるザンジにしてみれば、中には本当の子がいるかも知れない。それを思えば、「殺せ」などと気軽に言うことはできなかった。
「王子さん、優しいなあ、だから、ザンジに選ばれたんやな、いやあ、良い対や」
 言葉の意味を悟ってジゼが言うのに、苦笑を浮かべる。
 離れても恋い焦がれて、こんな茶番を起こしたジゼの方がよっぽど良い対だ。
「褒めても、殴るのは止めないからな」
「残念や」
 言葉とは裏腹に、楽しそうに口元を綻ばせたが。
「まあ、できれば、人間の方もあんま殺さんといて欲しいんやけどなあ……」
「だったら、お前が先に選別しろ」
 冷たくテルゼに言い捨てられて。
「それ、無理」
 もう笑っていなかった。
 獣使いの強さは、獣の力に寄るところが大きい。
 ならば、その獣の中でも随一の力を持つジュウザやザンジが相対すれば、それはその力が封じ込められたのも同じ。
 ジュウザとザンジの連携に、他の獣たちは為す術もなく追いやられていった。
 黒い毛並みが血に濡れ、息を荒くし、震える体をそれでもかがませて、戦う意志だけは貫き通そうとする。
 だが。
 ジュウザが跳ね、ザンジが地を駆ける。
 兄弟故なのか、それとも力が拮抗しているせいなのか、阿吽の呼吸でその力は二倍にも三倍にもなっているようだった。
 目に見えて獣たちの敵意が消えていく。
 鋭い物音が走るたびに、びくりと動く耳が、尾が、すでに垂れかけていた。
 圧倒的な力は、どんなことがあっても覆せない。
 先にあれだけ互いの戦闘で疲労しているはずのジュウザもザンジも、その動きに衰えはなかった。
 それに。
 獣を使う人が身の危険に晒されていることに、命令系統も乱れまくっていた。
 テルゼの重い両刃の剣は、一なぎで柔らかな南国の木を打ち倒した。
 その下に挟まれもがく男の傍らにずさりと深く剣が突き刺さる。
 にやりと見下ろす凄惨な笑みに、その男は早々に負けを認め、許しを乞うていた。
「獣を手先に使うってことは、お前達は戦闘の矢面に立つことが少ないって事だな……」
 自らの剣の腕で戦をこなす騎士達にしてみれば、そんな輩など倒せない訳がない。
 こういう実戦は初めてなのだと顔を顰めていたミシュナも、今はそんな片鱗すら見せない。
 テルゼと違い細身の剣を操るミシュナは、その瞬発力と身の軽さが身上だ。ある意味、ザンジ達と同じで、こういう障害物の多い場所では独壇場だった。
 木々を傷つけることなく、敵だけをしとめるミシュナは未だ息すら切らしていない。
 ラーゼもまた似たようなものだ。
 もっとも、彼は巧いこと立ち回り、最後に屠る役目をテルゼに回している。
「ラーゼぇ、少しは自分で戦えっ!」
 重い剣は、小回りが利かない。
 うっかり幹を打ち付けては、無造作に抜き取る。
 無駄な動きが増えるせいか、テルゼの息はミシュナに比べれば荒い。
「私は本来頭脳労働者ですし」
「嘘吐けっ!」
 吐き捨て、次の敵を空いた手の方で地面に叩き伏せた。
 いい加減切り捨ててしまう方が楽なのだが、三人はジゼの願いを守っている。
「まあ、後でたっぷり彼には礼をしてもらいましょう。何せ、高給取りですからね」
 幹を這う蔓の中で柔らかそうなものを切り取ったラーゼが、すでに敵意を喪失したものを微笑みながら縛り付けていた。「高給取り? そうなのか? っと」
「ええ。何せ一月当たりの雇い量が金塊四本です。もちろん、獣の食事代は別ですよ」
「四本っ!」
 バキッと骨が折れる音と共に響き渡った絶叫。だが、それ以上にテルゼの素っ頓狂な声が響いた。
「四本っていやあ、俺たちの給料より多いぞっ!」
「……金の話をするなぞ、伯爵家の息子の言葉とは思えませんが……。まあ、そうですね」
「えっ、えっ、何ですか?」
 いつの間にやら、ミシュナも加わる。
 その頃には、数十人はいたであろう敵はほとんどが戦意を喪失していた。
「だから、あのジゼって野郎が金塊四本も貰っているって話だ」
「え、でも……そんなに貰って何に使うんでしょうか? 部屋も食事も、ヴァルツ様に提供されているって聞いていますけど」
「てことはたっぷり溜め込んでんだな。これは、かなりたかっても大丈夫か」
「ですから……」
 テルゼの意地悪げな笑みに、ラーゼが微笑みながらも突っ込んだ。
「私は、奢って貰いましょう、と言ったんですよ。たかるなどと人聞きの悪い。その言葉、そっくりザーンハルト様にお会いした時に伝えましょうか? それともヴァスが良いですか?」
「……どっちも嫌だ」
 むうっと不愉快そうに顔を顰めるテルゼが最後の敵を倒して。
「……え?と、そのジゼはどこに言ったんでしょうね?」
 その言葉に、結びつけた蔓の端を持ったラーゼ達がはたと辺りを見渡した。
「……ちょっと遊びすぎたようですねえ」
「この中には、悪の張本人はいないようだな」
「……あのお、追いましょうか? それとも、彼らに頼みます……。でもそうすると、あの獣たちが残っちゃうんですよね」
 ヴァルツ達が、長を追っていったのは判る。
 だが、どこに行ったのかは判らないし、判るであろうザンジとジュウザは、他の獣たちを威嚇している。
 それに、騎士の言葉を聞いてくれるかどうかも判らない。
「どっちか一頭だけで威嚇できるようであれば……。どうやら戦意は喪失しているようですし。それでもう一頭が追いかけてくれると、こちらも安心なんですけど」
「そう都合良く命令できるか?」
「……そうですね。そう言えば、ミシュナが頼んでみると良いかもしれませんよ。一番懐いていたでしょう?」
「え、ええっ!」
「ダメだ、ダメだっ!」
 嫌だと首を振るミシュナをさすがにテルゼも庇う。
 だが、ラーゼも困惑を滲ませてため息を落とした。
「でも、ヴァルツ様が」
「うっ」
 それを言われると、ミシュナもテルゼも弱い。
「……え、え?と、ザンジ?」
 よく似た二頭の獣は、どっちがどっちか良く判らない。
 それでも、とりあえず呼びかければ、近い方の獣が顔を上げた。
「あ、ザンジ? そのさ、一頭だけヴァルツ様追っかけてくれないかな? 大丈夫だと思うけど……その、守って欲しいから、ね」
 その言葉が、終わるか終わらないかだった。
 天を仰いで、鼻をぴくぴくと震えさせたザンジが、不意に跳ねた。
 一陣の風がミシュナの横を通り過ぎて。
「行っちゃった。なんだ、言ってみるもんですね」
 巧くいって、嬉しそうに笑うミシュナが振り返ると、テルゼが困惑を滲ませたまま呟いた。
「お前は獣にも好かれるんだな……」
「何せ、あなたのような方に好かれていますからね」
 テルゼとついで発せられたラーゼの言葉に、向けられたミシュナとテルゼそれぞれが揃って顔色を変えた。
「なんだよ、それって俺が節操なしとでも言いたいのかっ!」
「俺が、何だってっ!」
 きつく言われた相手に言い返したものの、テルゼがミシュナに意味ありげな視線を向けた途端、二人の口元がにやりと上がった。
 もっともテルゼのそれは不敵に、ミシュナのそれはどこか引きつっていたけれど。
 そんな二人を放っといて、ラーゼは周りの様子を窺って、思案げに首を捻った。
「まあ、ザンジが行けば大丈夫だとは思いますが……。私たちはどうしましょうかね」
 すぐ近くに戦場があるとは思えないほど、静謐な空間。
 少なくとも、捕虜達を引き取りに来てくれるような者が偶然通るとはとても考えられなかった。

?
25
 ヴァルツとジゼは、長をずっと追っていた。
 だが、男は一向に降りてこない。高い位置で木々を渡り、幹に邪魔されるヴァルツ達を引き離していく。
 年齢を感じさせない動きに舌を巻いていると、ジゼがぽつりと呟いた。
「俺の親が死んだんは、あいつのせいだ」
「あの男が何かしたのか?」
 もうすぐ森が終わろうかという頃で、木々の隙間が開き、男も仕方なく降りてきている。
 追いつく機会ではあるのだが、それは同時に遮蔽物の存在が少なくなったことも示してた。
 この森を抜ければ、もうラスターゼ国内だ。
 狭い国のことだ。馬を一昼夜駆れば王都に楽に着ける。それに、ラスターゼの国境を守る砦は、それこそ歩いてもすぐに辿り着ける場所にあった。
「あれや。あそこがラスターゼの砦や」
 ふと足を止めたヴァルツが、指さした場所。木々の合間から開けた場所が見えた。そこにあったのは、切り立った崖に沿うように設けられた砦だ。
「あそこに」
 意外に近い場所のそれに、胸が高鳴る。
 その瞬間確かに、長の行方も何もかも忘れた。
 足が、ふらり砦の方に向く。
「待てって」
 その肩をジゼが捕らえた。
「俺ら二人だけだと、ヤバイって」
「だが、あそこにザーンがいる」
「その前に、あいつ片付けんと拙い。あの砦には、俺たちの部族も詰めている。ある意味、戦力の大半が獣たちや。しかも、あいつの命令は部族のものにとって絶対。だから、あいつを今砦に戻すのは拙い。あいつが、王子さん殺して来いって言うたら、皆が皆、王子さん狙いよる。そうなったら、俺もザンジもジュウザも防ぎ切れん。だから、何としてもあいつ倒さんといけんのや」
 鋭い視線が、はるか先でようやく大地に降りた長の姿を捕らえていた。
 憎々しげに歪む視線の強さに息を飲み、ジゼの言葉にこくりと頷く。
「あれ死んだら、次の長、一応俺や。もともと俺の親が長で、あいつの卑劣な罠にかかって死んだ時に、まだ俺が小さかったから、親父の兄であるあいつが跡を継いだ。誰もが罠やって証明できんかったから……。その内にジュウザまで取られて……。あんな奴──金に汚い、名誉欲だけが強いあんな男に、部族任せ取ったら滅茶になる。だから、俺は、長の地位を取り返したかったんや」
「兄、と言ったか?」
「そう。親父が成人した頃に長の引き継ぎがあって、そん時に選ばれたんが俺の親父だった。親父の親父は、兄より弟の方が長として優れているって気付いとったんやて。そう聞いたんは、俺がまだちびっこい頃だったけどな。でも忘れん。親父が優れているって聞いて、子供心にどんなに嬉しかったことか。けどな、それが不服だと、あいつは親父を嵌めた。証拠なんかありやせん。けど、やっぱりこんなふうな王族殺しの仕事請け負って、親父達が行って。野宿している山の中で見つかって、矢を射られて死んだ。変だろ?」
 簡単に言い切ったジゼの、その言葉の意味に気付くのはさすがに少し遅れた。
 だが、口の中でジゼの言葉を繰り返して、変だ、と気付く。
「……どうやって、居場所が?」
 ザンジのような獣に気付かれることなく、近づいて。
 野宿している場所を獣に見つからないうちに見つけることなど不可能だ。
 どんな野生動物より、はるかにザンジの感覚は敏感で、だからこそヴァルツは安心してどこででも寝ることができるようになったのだ。ザンジさえいれば──なのに。
「獣の居場所は、獣しか判らん」
 端的な言葉が全て。
「では、あいつが?」
「そうや、そうとしか考えられん」
 それはきっとジゼの憶測にしか過ぎない。
 けれど。
 きっと間違いないと信じる。
 どちらにせよ、あの男は許せない。
 目を瞑り、大きく息を吸った。
 途端に気配を感じて、すぐに目を見開く。
「ザンジっ」
 呼べばふわりと風が舞った。
「行け」
 手が指し示す場所に、黒い影が駆けた。
 しょせんは、人だ。
 獣使いとして獣の習性は良く知っていただろう。
 だが。
 喉を掻き切られ、鮮血を噴き出す男の肌はすでに元の肌からひどく変色していて、死を迎えているのははっきりとしていた。
「なんや、呆気ないな」
 ジゼのつま先が、男の体を突く。
「獣使いが獣に裏切られたら後は死しかないのになあ。そんな事も忘れとったんだろうな」
 力ない者が長になり、その長の重圧といつバレるか判らぬ罪。
 そんな男が欲したのは、もっとも優れた獣と、より自分を強固に守る金。
 それがさらに身を滅ぼす糧となった。
「これで良かったのか?」
「ああ」
 珍しく感情の窺えない表情で、ジゼが頷いた。
「こいつのやり方に反感を抱いている仲間は大勢いる。俺が長になれば、すぐにでも皆従うさ。その程度の段取りは付けといた」
「それは、用意周到なことだ」
「俺はな、負けるのは大嫌いなんや」
 だから、きっちりと用意したと凄惨な顔で嗤う。
「私がここにいる。これもお前にとっては準備の一つだったのか?」
「ああ、さっき言った通りや。王子さんを贄にすれば、こいつは出てくる。出て来ざるを得ない。王族殺しは一族の長の役目で、名誉あることやから。だから、王子さんを連れてきた」
「……私がここに来たのは、ザーンハルトを救うためだった……」
 考えたくはない事実が脳裏に浮かぶ。
 震えた声は、否定を望んだ事だったけれど。
「……今更謝って済むことやないけど……半分は俺の入れ知恵や。ケレイスの参謀を捕まえたら、ケレイス国軍に有効な囮になるってのは……」
 刹那、腕が勝手に動いた。
 拳がめり込む肉と骨の感触がひどく不快だった。それより何より喚きたくて堪らない。それを食い縛って堪え、避けもしなかった男を睨み付ける。
「お前の……せいで……っ」
 それでも堪えきれない衝動のままに食い縛った歯の隙間から、押し殺した声が漏れた。
「ああ、そうやな。俺は、知ってしまったからな。王子さんの弱み……」
 目の前が真っ赤に染まっていた。
 怒りが渦を巻いて、ヴァルツを支配する。
 この男が──判っていてやったのだ。
 ヴァルツを引っ張り出すのに、最高の贄。
 ジゼは、ヴァルツの思いを知っているからこそ、ザーンハルトを選んだ。
 取り乱すヴァルツを誘導して、こんなところまで連れてきて──。
 このまま叩き伏せたいと、剣の柄にすら手がかかった。
 だが。
「きゅるるぅ」
 ザンジが呼んだ。
 腕を軽く銜え、やめろ、と訴える。
 見下ろす先で、炎色の瞳が柔らかく揺らいでいた。
 許して欲しい、と言っていた。
「けど……」
 ぎゅっと触れたザンジの毛を強く掴んだ。
 ヴァルツの心の痛みが指を動かして、ただの八つ当たりでしかない痛みをザンジに与える。だが、強く引っ張られて痛いだろうに、ザンジはされるがままだった。
 それどころか、その痛みを癒すようにヴァルツに擦り寄り、手の甲を舐める。
 大丈夫だよ、と。
 何もかも巧くいくから、と。
 打算も何もない。
 無垢な癒しに宥められて、ヴァルツは自身の怒りがゆっくりと溶けていくのを感じた。
「……ザンジ……は、優しいな……」
 縛めていた手を、ゆっくりと解けば、手の中からぱらぱらと黒い毛が何本も落ちていった。
 それなのに、痛いのはヴァルツの方だと哀しい目で見上げてくる。
「……ほんま、すまん」
 ジゼの声も痛さが伝わってくる。
 判っている。
 どうしようもなくて、それが最善の方法だったのだと。
 それでも割り切れないものは胸の内に残って、逃すこともできないままに唇を噛んだ。
「一応、俺の仲間にそのザーンハルトって人、守るようには言っとる。けど、部族長であるこいつが何か命令したら、従わんといけん。それに、ラスターゼ側が勝手になんかしたら、防ぎ切れん。だから……急いだんはほんとや。それと……」
 ふっと言いにくそうに、ジゼが言葉尻を濁した。
「何だ? まだ何かあるのか?」
 これ以上、何を聞いても取り乱すまいと、何も逃しはしないと、強くジゼを睨み付ける。と──。
「それに、これ……セルシェ姐さんの入れ知恵なんや……」
 申し訳なさそうに紡がれた、その名に、ヴァルツは文字通り頭が真っ白になった。
「セ、ルシェ……が?」
「そや、なんかあって、王子さんにバレてもうて収拾がつかんなったらバラしてもええって言われとったから、言うけど……。ザーンハルト捕まえてしまえって。囮にしてしまえって言ったの、姐さんなんや……」
「う……そだっ、何で、セルシェがそんなっ!」
 ヴァルツにとって妻であり友人であり姉のような存在。ザーンハルトにとってもそれは変わりなく、そしてセルシェにしてみても、そうだと信じていた。
 なのに──。
「みんな立ち止まってしもうとるから……。平穏で退屈でしようがないんだと。だから、ここいらで石っころでも放り込んで波風立たせなあかんって」
 ぎくりと、体が強張る。
 聞いたことがある言葉。
 その言葉を好んで使うよく知った女性の姿が幻影として目の前に現れる。
「王子さんも、ザーンハルトも──二人の弟殿下も、騎士達も、流されるがままに生きとって、何が楽しいんだろうねって……」
 言葉遣いはジゼのものなのに、喋っているのはセルシェだ。
「「そのためには、ヴァルツに変わって貰わないとダメなのよ。日々安穏として暮らすことだけを考えているあの子に活を入れる必要があるの。この国の未来が永劫に変わらないなどとある訳がないのに、己の事だけを考えていては、大事なものすら守れないって事を知って貰わないといけないの」」
「……そんなこと……」
 ちゃんと国のことも民のことも考えていた。
 そう言いたいのに、ジゼの──セルシェに畳みかけられて、言葉が続かなくなる。
「「ヴァルツの頭の中には、ザーンハルトしかいない。私を妻にしたのも、次代のための子を為したのも、全て己の欲を満たすため。それに付き合ってあげているんだから、ちゃんとこの国を未来の王のために残して貰わないと」──やってられんわっつうて……」
 不意にセルシェの影が消えた。
 ジゼ独特の抑揚が戻ってきて、ヴァルツは我に返った。
 今のは何だ?
「え?と、ほんまそう言ったんやで。なんや難しい事いろいろ言われて、とりあえず覚えていることだけ伝えたんやけど……。なんや、王子さん、真っ青や……」
 ジゼの手に触れられた途端、びくりと体が震えた。
 がくがくと続く震えは、怯えでしかない。
「王子さん?」
 訝しげなジゼに、何とか問うた。
「セルシェは……私に何をして欲しいんだ?」
 問うてから気付く。
 この戦は何故始まった?
 何故、ケレイス王国は参戦した?
「だから、未来の事考えて欲しいってことやろ?」
 ジゼがきょとんと首を傾げて言うのに、首を横に振った。
「違う」
 首を振るだけでは物足りず、言葉も舌に乗せた。
「セルシェだったんだ……」
「王子さん?」
「セルシェが発端なんだ。だから、あれだけ言霊を使うことを厭うザーンハルトが、よりによって私に言霊を使って……」
「言霊って……なんや?」
「言霊は言霊だ。ザーンハルトに先祖返りで備わった力。その力で我が国は参戦して……」
「え?と、よく判らんけど、ケレイス王国が参戦したのは、マゾルデと対等であり続ける以上、必要なことやってセルシェ姐さん言っとったような気がするけど」
「……そうだ……。必要なことだった……」
 必要だが、嫌だった。
 戦ともあればいろいろ面倒なことが起きるし、ラスターゼを負かしたとしても、それはそれで後処理がとにかく面倒で。
 けれど、マゾルデの体面上、本当は必要だったのだ。ケレイス王国の参戦は。
 だが、もしあの時、ザーンハルトが何もしなかったら、ケレイス王国としての参戦は無かったろう。
 ヴァルツのみならず、あの円卓に集まった重鎮達はあまり参戦には意欲的ではなかったのだから。
 参戦に意欲的だったのは……。
「叔父上……」
 公の場には滅多に姿を現さぬ叔父──ジェイス卿があの場にいた。いて当然の立場であったから、何も思わなかったけれど。
 穏やかな笑みを崩さず、ヴァルツの一挙一動を見守っていたのもいつものこと。
 いや、あれは……。
「王子さん、どうした?」
「仕組まれていたんだ、最初から……」
 要が誰か推測できたら、複雑に絡み合った糸が、するりと解けた。
 解けてしまえば、太い一本の糸。けれど、多種多様な繊維が織り込まれた、特殊な模様の糸。
 細い一本の糸に、いろんな色の糸がゆっくりと絡まり、さらに太い確かな道を作っていく。その糸の道を歩くのは、ヴァルツだ。知らぬ間に導かれ、決められたままただ歩かされて。
 ラスターゼに対する宣戦布告。
 始まりは、その時──いや、もっと前かも知れない。
 全てが、仕組まれていたのだとしたら……。
「それほどまでに、ケレイス王国の行く末が大事だということか?」
 ザーンハルトとの色恋に狂う前に、やるべき事はしろと言うことか?
 ジゼが伝えたセルシェの言葉を脳裏で反芻し、苦い笑いを浮かべる。
 どうやら、世継ぎをこしらえて、退屈しのぎのからかいを甘んじて受けるだけではダメだということか。
「……くっくっ……くっくっくっくっ」
 堪えきれない忍び笑いが、喉の奥から漏れ、それはいつまでも止まることはなかった。
 
?
26
「ラーゼの妻は外苑の有力者の娘だということは知っているか?」
 ひとしきり嗤った後、不意に問うたヴァルツに、ジゼは一瞬呆気にとられた後、首を横に振った。
「ミシュナの姉だ」
「……そんで?」
 ジゼはどこまで知っていたのだろう?
 きょとんと首を傾げるその様は、とぼけているのならたいそうな役者だ。
 だが、今の様子では、とても全てを知っているようには見えなかった。
 そのことに安堵したことに気づき、苦笑を浮かべる。
 実際複雑に絡んだ事実は、きっと全てを俯瞰できる場所にいない限り、見て取ることはできない。
 ヴァルツの地位であってしても、どこまでが偶然で、どこまでが作為あるものなのか判断できなかった。
 それでも。
「正確には、表の有力者だが、実際には裏を支配する有力者とも密接に繋がっている」
 それは事実だ。
 そして、その有力者達がどんなふうに繋がっているかも知っている。
「お前とセルシェが繋がっていたように、ラーゼと外苑も繋がっているということだ。ラーゼはそういう所には抜け目が無いからな。自分にとって益となることを逃しはしない。そして外苑と叔父は同一のものと考えても問題ない」
 最初はそんなつもりではなかった、と何でもないことのように言っていたのはいつのことだったか。
 その時には、何とも思わなかったけれど。
「ラーゼがその叔父さんって奴と繋がっていて、何か問題あるんか?」
「私たちがミシュナの実家であるホァンに旅支度の助けを求めたのは、ヴァスの提言だった……」
「……えっと、それはその……。旅支度が必要やって思うたから、先回りした時に伝えたんやけど……っあ……。それも……セルシェが……テルゼのとこにいるミシュナに頼めばええって……外苑の『ホァン』まで逃れて準備すれば、大丈夫だって……」
 はたと気が付いて情けなく表情を崩すジゼをちらりと見やって、ため息を吐く。
「セルシェが、な」
「いや、その……俺も壁を越えといた方がええかなって……」
「そうだな、私も壁はさっさと越えた方が良いと思ったよ。だから特におかしな提案ではないと思った……それに」
 ふっと息を飲んだ。
 芋づる式に怪しいところが幾らでも出てくる。
 その中でも、あまりにも怪しいと思われる事実が、ヴァルツの言葉を止めさせたのだ。
「何や?」
 促すジゼを見やり、小さく首を振った。
 違う、と思いたいけれど。
「気になるんなら言葉にした方がええで。整理できるきっかけにもなる」
 再度促されて、ヴァルツは口を開いた。
「前線でケレイスの総司令官を務めているジルダは、もうすぐジェイス卿の養子となり、将来的には彼の全てを引き継ぐことになる。すでにその教育は始まっている。当然、今回の件の情報も全てとは思えないが、知っていておかしくない立場にある」
「え……ほな?」
 まさか、とジゼの声なき言葉が紡がれた。
「全てが準備されていたとしたら、たとえどんなに愚かな輩がきたとしても、ザーンハルトの拉致など容易いことだろう」
「え、でも、ジルダ殿下がそんなことする、のか?」
「前線に出発する前のことだ。ジルダとザーンハルトが親密に話をしていた。あの時には逢い引きには見えたが……」
「違うって?」
「少なくともザーンはそう言っていたな」
 だが。
 ならば何故?
 という疑問はあの後の騒ぎで立ち消えていた。
 声が出せなくなったザーンハルトから聞き出すこともできなくて、二人とも慌ただしく出発してしまった。
「ほな……ザーンハルトって人も知っていたって?」
「……全てかどうかは知らぬ。だが、関わっていたのは事実だ。もっとも、自分が拉致されるなどということは、知らなかったとは思うが」
 そうであって欲しい。
 落としたため息を追って、視線を落とす。
 それがどんなにヴァルツを心配させてしまうか、知らないとは思いたくなかった。
 そこまで鈍感な男ではないと……。
「え?と、ってことは、もしかして俺の些細な野望も、利用されたって事か?」
「どこが些細か……。だが、まあそうだな」
 言われて、途端に酷く不快になった。
 裏では皆情報を共有していて、一人何も知らずに右往左往していたかと思うと、焦っていた己の行為があまりにも愚かしく思えた。
 誰に聞かせるつもりもなく、腹が立つ、と小さく呟く。
 黒幕がジェイス卿だろうが、セルシェだろうが、どっちでも良い。
 誰であっても、人の手によって踊らされていたとなれば、気持ちのよいものではなかった。
「なあ、王子さん、俺はジュウザが手に入れば良かった。ほんとは長の地位なんかどうでもええねん。長っつうのはとにかく責任がやたら多くて、気苦労が多いってのは知っとったし。ジュウザさえさっさと返してくれとったら、長の地位なんかあんな奴がやってくれてもよかったんや。最初はな、そう考えとった」
 砦の壁が大きくなっていく。
 だが、ヴァルツとジゼはこの先どうするかなどは、全く考えていなかった。
 それよりも大きな気がかりが頭の中を占めていて、どう足掻いてもそこから抜け出せないでいるのだ。
 それが拙いことだと判ってはいた。
 けれど。
「けど、この地に来て、脱走者狩りをして──死なんでもええ人見てしもうて……。そんで初めて、人を率いる奴が愚かやったら、みんな不幸なんやって気が付いた。自分だけが幸せになっても、きっとみんなのことが気になる。あんな自分勝手な男の支配下でいい様に操られるしかないみんなに対しての後ろめたさにずっと囚われる。実際、俺たちの部族もバラバラになってたんや。金儲けに走って長に追随する輩と、権力者の暗殺者のような仕事を厭う奴ら、それを傍観して、言われるがままに動く奴らと……。なんかギスギスしてて、ごっつう雰囲気悪かった」
 ジゼの言葉は淀みなく続き、ヴァルツもそれを遮ることはしなかった。
 ジゼが何を言いたいのか、ヴァルツも立場上よく判った。
 それにジゼの言葉と共に、昔の記憶が甦っていた。
『愚かで自分勝手、富むことしか考えていない支配者の元にいる民達こそ、不幸なものはない』
 はるかな昔、ザーンハルトとセルシェと共に、誰かに教わった。
 貧困の果てに奴隷として子供を売る。その真逆のところにいる奴隷を扱う貴族達。
 湯水のように酒を飲み、生りすぎて獣たちすら食べきれなかった木の実が地に落ちるように、食べ物を食い散らかして捨てる貴族や王族。
 その一回の食事があれば、一週間は生きていけるだろう奴隷達。
 そんな関係は、いつか破綻する。
 人の幸せが望めない国は、民の心が離れていく。
──そんな国を作ってはならない。
 あの時、強い言葉が、三人の心を支配した。
 近隣には、そんな国もあるという。
 その言葉に涙した事は覚えている。
 そんな愚かな執政はするものか、と強く返したのはヴァルツ自身。
 けれど、その相手が誰だったかは霞がかかったように思い出せなかった。
「だから、俺決心したんや。ジュウザだけやない。長の権限も奪う。昔のように仲の良かった部族を取り戻す。無駄な殺しなんかしなくても良かったあの頃に……戻るために……。俺は、王子さんの想い、利用した」
「……俺は……何もしていない」
 民が幸せであれとは願っていた。
 だが、その努力など何もしていない。
 ただ、面倒なことが起きなければよいと、ただ安穏と日々を過ごして。
「ラスターゼの事も、無理に動かされなければ何もしなかった」
 容易に想像できた事柄を舌に乗せた途端に、激しい後悔が湧き起こった。
「そうか……セルシェが言いたいのはそれか……」
 ヴァルツの地位であって、何もしないでいることは罪なのだ。
 何かをしなければならない。
 その事に面倒だという言い訳は許されない。
「私は、今まで何をやっていたんだろうな?」
 ただ流れるがままに日々を過ごして、ひたすらザーンハルトの思いを勝ち取ろうとしていた。
 思い出してみても、自ら動いて頑張ったと言えるのは、セルシェを娶った時だけ。
 反対派を蹴り落とすように、己が持てる力を総動員して一気に婚儀まで貫いた。
 だが、それもこれもザーンハルトを手に入れる布石でしなかった。
「……人を恋する自由くらいあっても良いじゃないかって思ってたんだよ」
 免罪符にもなり得ない愚かな言い訳。
 他には何もしていないのに。
「でも、王子さん、評判良いやん。俺、王族殺せって言われた時、真っ先に王子さん、見たいって思うた。王子さん見て、この後どうするか決めよ、思うた」
「……それで?」
 もう壁はすぐ目の前まで来ていた。
 警備兵らしき者達が、ヴァルツ達を見てどうしたものかと思案気に剣を構えている。
 もっとも、傍らにいるザンジにも気が付いているから、皆および腰だ。
「王子さん、評判通りやった。優しゅうて、思いやりもあって。そんなんじゃないとあのザンジは懐かん。対だなど、認めん」
「俺のどこが? 恋にとち狂って政務すら放棄したような男だぞ?」
 自嘲の笑みを口の端に浮かべて返せば、ジゼに「違う」と強く否定された。
「ケレイスの民はみな幸せそうに笑んでいた。王子さんが何にもせんでも、周りのものがちゃんと補佐しとる。その補佐が間違うてないってことや。俺な、それでもええと思うよ。それに王子さん、ただのぼんくらでも、恋狂いの男っつうだけでもないし。そうやって、自分のこと反省できるってのは、良い王子さんの証や。だから──」
「だから?」
「そんな王子さん、辛い目遭わせた償いは全部する。てことで、まずはザーンハルトって人、助けなあかんな」
 大きな扉の前、ジゼがにやりと嗤って、警備兵へと歩を進めた。
「南楼(なんろう)のジゼや。ケレイスの王子、ヴァルツを生け捕りにしたんやけど、入れてくれんか?」
 言葉は下手だが、その態度は尊大で頭の一つも下げるものではなかった。
 何より、生け捕りとは言っても、縄一つ打っている訳ではない。
 どうするつもりだ?
 と、横目でジゼの様子を窺うが、彼はヒョウヒョウとして何ら気にはしていないようだ。そうなれば、ヴァルツも腹をくくるしかない。
 案の定、胡散臭そうにヴァルツを上から下まで見やった警備兵が、信憑性を問うてきた。
「証拠は?」
「証拠って言われてもなあ……。王子さん、なんか持っとるか?」
 いきなり振られても首を振るしか無い。
 だいたい何があっても身元がバレないようにと、装飾の類は全て外してきた。
「ならば、入れるわけにはいかない。だいたい、南楼と言えば、ラズ殿はどうした? 先ほど出かけたきりだぞっ!」
 ラズ?
 誰のことだとジゼの様子を窺って、その彼の視線が微かに森へと動いた。
 そして、警備兵がつけた敬称。
 すぐに、長の名だと気付く。
「お前達の身元は全てラズ殿が確認しないと砦には入れるなと、お達しがあった。よって、ラズ殿が帰られるまでは、入れるわけにはいかぬ」
「そりゃ、困った」
 さすがにジゼも困惑の色を浮かべた。
 そのラズは幾ら待っても帰ってくるはずがない。
「ほんま、王子さんなんやって。なあ?」
 これは埒があかないと、ジゼが空を仰ぎ、ヴァルツもため息を足下に落とした。
 その時だった。
 不意にザンジが動いて。
「ぎゅるっ……」
「う、うわぁぁあっ!!」
 鳴き声が警備兵の悲鳴と重なった。
 
?
27
 ザンジが吼えた。
 何度も何度も、誰かを呼ぶように吼えた。
 それに呼応するかのように、砦の中からも獣の咆吼が響いた。
「ザンジ?」
 ヴァルツの視界にいるザンジが、血塗られた牙を剥き出しにして、天に向かって甲高い咆吼を返した。
『来たれ』
 呼んでいるのだ。
 誰か、ではなく、全てを。
『我を助けよ』
「ザンジ……?」
『我の対を助けよ』
 その言葉に目を見開き、ザンジと砦の双方に視線を走らせた。
「何を?」
「ザンジが……皆に命令してる……?」
 呆然とジゼも呟く。
 その視線の先にいるザンジが、爛々と炎の色の瞳を輝かせ、バラバラと現れた警備兵を鋭く威嚇していた。
 その間も吼えるのは止めない。
 警備兵はその様に戦々恐々としており、近づく気配はない。
「王子さん、今の内や」
 背を押されて歩き出せば、警備兵は視線をザンジに向けたままずるずると後ずさった。
 開けた道は、遮るものなどない。
 ただ、ぴくぴくと震える息絶えたばかりの警備兵が横たわるだけだ。
『来いっ!』
 一際高く、ザンジが吼えた。
 視線がはるか後方、抜けてきた森へと向けられていて。
 応じている微かに響いた咆吼がどんどん大きくなっていく。
「ジュウザ、呼んだんか?」
 ジゼもまた森へと視線を向けていた。
「あれは、ジュウザか?」
「ああ、ジュウザや。こっち来とる」
 砦の門をくぐるその瞬間、ふわりと風が舞った。
 並んだ漆黒の獣が、一対の炎を煌めかせた。
 そして。
「ぐうぅぅぅぅおおぉぉ!」
 ザンジより大きくそして威厳に満ちた咆吼が、砦を揺るがさんばかりに響いた。
 それは王者の咆吼だ。
 それに、ザンジが返す。
 砦の中にいる獣たちが返す。
 吹き荒れた嵐の名残のように舞った風の中、森からやってきた獣たちが応えた。
 それはさっきまで敵対していたはずの獣たち。
 皆が応える。
 ぐぅぅぅおぉぉぉっ!!
 砦が獣たちの咆吼に覆われた。
「ひ、ひぃぃぃっ」
 震える空気に込められた恐怖に、警備兵がバラバラと剣を落とす。
 萎えた腰に力を入れることも叶わず、這いながら少しでも離れようとしていた。
「こんな……事はよくあるのか?」
 魔獣フォングレイザー。
 闇に潜み、万物全てを切り裂く牙と爪を持つ漆黒の魔獣。
 人より賢く、人より優れ、けれど残酷な悪魔の使い魔。
 彼らが牙剥けば、相対する全ての生きものには死しかない。
 ぞくりと背筋が震える恐怖は、さっきからずっとヴァルツを襲っていた。
「聞いたことはある。ジュウザ達の中にも上下関係はあって、その一番が命令したら皆が従うってぇのは。だが、少なくとも部族に飼われた獣で、そんなことがあったことはない。その時点で、一番は人やから。人の命令が絶対になる──筈やのに……」
 ジゼの声が震えていた。
 怯えにも似たその震えを堪えるように、唇を噛みしめている。その端が微かに赤く滲んでいた。
「だが、これは……」
「ああ、今はザンジとジュウザが王だ。俺たち人ではない」
 獣たちに支配された空間。
 けれど、そこにはヴァルツに対する敵意は露ほどにも感じられなかった。
 二頭が並んで道を行く。
「ぎゅるぅ(ついてこい)」
 ザンジに促されて、ヴァルツはその後を追った。
 並んだヴァルツを見上げてきたその瞳は優しく、微かに笑んでいる。血濡れた牙が覗くさまは、可愛いとは言い難い。だが、その点を除けば、いつものザンジだ。
 ほっとして、体に入った力を抜く。
 ガチガチに緊張していた証に、関節がごきっと鳴った。それを解しながら、ジゼにため息交じりに声をかけた。
「いつものザンジだ」
「ああ、ジュウザもだ」
 ジゼの声音にも安堵感が宿る。
「凄いな、みんな」
 きっとザンジは判っているのだろう。
 どうすれば最善の方法か、自分達の力を人がどう捉えているか。
「もうこの砦は俺たちのもんや」
「……別に欲しくはないが……」
 獣たちにぐるりと囲まれ歩けば、先にいる人は皆逃げていく。
 今のこの砦の支配者が誰か、皆よく判っている。
 今はもう砦は完全に掌握できていると言っても過言ではない。
 だが、欲しいのは砦ではない。
「ああ、判っとる」
 ジゼが笑った。
 いつものジゼにふくれっ面をして見せて、吹きだした。
 その時、現れた男がジゼに声を掛けてきた。
「こっちや」
 浅黒い肌。まだ若い青年の言葉は簡潔で、けれど、よく通る声をしていた。
 抑揚もジゼのそれとは少し違う。
「拉致、ケレイスの人、こっちや」
 喋り慣れない言葉に苦労している感じがあったが、それでも彼はその言葉を駆使しようとしているのが判った。
 黒い髪、茶褐色の瞳。
 南の国の若者の傍らにも黒い獣が従っていた。
 ザンジ達より一回り小さいが、それでもその爛々と輝く瞳が他を圧倒している。
「誰だ?」
 視線が若者と獣と双方に向かう。
「ゼン、レイジ」
 指差しながら言うその仕草に、会った時のジゼを思い出した。
「仲間だ、ゼン、こっちが王子さんや。あの人の元に連れて行ってやって」
「了解」
 けれど、ジゼよりは寡黙なゼンは、ほとんど口を利かぬままに踵を返した。代わりのようにレイジがにやりと笑い、ヴァルツも彼に笑い返した。
「よろしく」
 伝えた言葉に、対の双方が頷く。
「あの人、元気か?」
 ジゼの問いに、鼓動が激しくなった。
 こうやって砦を押さえたのに、何故か奇妙な胸騒ぎを感じた。
「生きとる」
 簡潔な答え。安心して然るべきその単語の意味が、何故か空虚に感じた。
 簡潔すぎるから、それで不安になるのかも。
 視線が、先を促してゼンの背を射る。
「ゼン」
 そんなヴァルツの心情に気付いたのはジゼの方で、ひと言で彼を促した。
 途端に、ちらりとゼンが背後を見やる。
 そんな僅かな行為が、妙に不安にさせた。
「ザーンは……無事なのか?」
 ようようにして聞きたいことが声に出せた。
 その問いかけに、ゼンが口を引き結ぶ。
 不安が、どす黒く澱んで喉につかえていた。聞くのが怖い、と心底問うたことを後悔した。
 けれど、聞きたいという欲求もまたあった。
 知りたい。ザーンハルトの事なら全て。
「あの人……ザーン……、生きとる」
 繰り返された言葉。
 なのに安心できないのは、ゼンのさっきよりさらに抑揚のない声音のせいだ。
「ゼン……どういう意味だ?」
 緊張に支配された口が、引きつるように動いた。
 けれど、ゼンはなかなか次の言葉を出さなかった。
 長い廊下の果て。
 階段も下りた。
 窓のないそこは、多分地下だ。
 澱んだ空気に、すえた臭い。
 地下牢ではないらしいが、それでもあまり良い部屋ではなさそうな扉が並んでいた。
「ゼンっ!」
 不安が最高潮に達して、堪らずに呼びかけた。
 ゼンが、ゆっくりと振り返る。
 その茶褐色の瞳に浮かぶのは、哀れみにしか見えない。
「どういうことだ……」
 ジゼの言葉が固い。
 二人に睨まれた先で、ゼンが口を開く。
「彼、薬飲んだ、長に……」
「薬……」
 ひくりと喉が引きつった。
 先の言葉が怖くて出せない。
 『毒』という単語が、頭の中を飛び交う。
「けど、生きとる言うて……」
「生きとる。けど」
 ゼンの手が、古ぼけた扉の取っ手にかかった。
「喉だけ、死んだ……」
 開かれた扉の向こう。
 空虚に響いた言葉の意味より先に、力なく横たわったザーンハルトの姿にヴァルツの頭は真っ白になった。

続く