桃の花咲く鬼の城 前編

桃の花咲く鬼の城 前編

1
 湊 桃李(みなと とうり)は、子供の頃から桃太郎の話が嫌いだった。

『桃から生まれた桃太郎は、大きくなって鬼退治をしました』
 勧善懲悪の有名な鬼退治の昔話。
 けれど、桃李が親しんでいた鬼退治の話は、祖父がしてくれたもので、『温羅(うら)伝説』と言われているものだった。しかも、その中でも、世間一般に知られている「桃太郎」の元となった話とは違うもの。祖父が暮らす地区に昔から伝わってきた話なのだ。

 ──。
 朝廷からすれば、鬼退治。
 その鬼は、海を渡ってきた百済の王子。
『海を渡ってきた人じゃったから、容姿はわしらと違うとったけど、ほんに優しい人だったんじゃ』
 けれど、鬼と言われた男からすれば、朝廷こそが攻め寄せる賊。 
 その話を聞く度に、桃李はいつも寂しい思いにとらわれた。
 ──だって、『鬼がかわいそう』だよ。
 そう言うと、祖父はいつも嬉しそうに桃李を抱きしめてくれた。
『そうじゃなあ、かわいそうな鬼さんじゃろ』
 寂しそうに笑って遠い目をして。
 かわいそうな鬼の話を、何度も語ってくれた

 
『あのお山には昔、温羅さんが城を造っていたんじゃ』
 そう始まるお話。
 吉備の国に伝わる、温羅のお話だ。
『その昔、吉備の国を治めていたのは、温羅という赤い髪の鬼だったんじゃ。海を渡ってきて、鉄の知識を持っていて、吉備の地方の技術の発展に尽くしてくれた。だから、民も温羅さんをたいそう慕ってのお、いつしか長として仕えるようになったんじゃ。けどのお、それが朝廷に不満だったらしい。倭の国の統一を目指す朝廷には煙たい存在だったようでのぉ……』
 
 大和の朝廷に献上された物資を略奪していると嫌疑で、朝廷は征伐隊を結成した。
 朝廷から遣わされた将軍は、吉備津彦命(きびつひこのみこと)。
 対峙した吉備津彦命は温羅に向けて矢を射った。だが、対する温羅は岩を投げる。
 矢と岩が宙を舞い、ぶつかりあって何度も地に落ちた。
 なかなか決着がつかなくて、命は一計を案じて、二本の矢を同時に射った。一本は岩に当たって落ちたが、もう一本は温羅の目を貫いた。
 それでも温羅は生きていて。
 血で川を作り、浜を全て赤く染めても生きていて。
 雉に変化して、鯉に変化して逃げる。命も変化して追いかけて、とうとう温羅を捕まえてしまったのだ。
 朝敵として首をはねられた温羅は、首だけになっても唸り声を上げ続けたという。
 どうしても唸り止まない首を犬に喰らわしたが、頭蓋骨だけになっても唸り声は止まらない。
 とうとう神社の釜の下に埋められたが、それでも唸り続けた。 
 結局、13年も唸り続けた唸り声が止んだのは、命が夢のお告げに従ったからだった……。

 話の締めくくりには、祖父はいつも苦笑しながら言っていた。
『祭祀を執り行のうたのは、温羅が愛した妻じゃったという。この地方の民の出の娘に祈られて、ようように安らぎを得たんじゃろうなあ……首の骨だけになって埋められたというのに、愛した妻の出所であるこの地の吉凶を埋められた上に据えられた釜を鳴らすことで伝え続けているんじゃよ』
 吉備の里が平和でありますように、と。
 鬼に同情していた祖父。
 優しい手で桃李の頭を撫でながら、遠い目をして山を見つめていた祖父が想っていたのはずっとその温羅という鬼のことだと思っていたけれど。
 それが鬼などではなかったのだと、判ったのは祖父が亡くなった日のことだった。
 鬼がかわいそうでならなかったのは、祖父がいつも漏らしていたひと言だったけど。
『海を渡ってきた人じゃったから、容姿はわしらと違うとったけど、ほんに優しい人だったんじゃ』

 本当は、鬼のことなんかではなかったのだと、その時初めて気が付いた。
 祖父がいた家は藁葺き屋根の日本家屋で、広い縁側から見えるのは広い庭と、桃の花咲く季節にははるか彼方まで桃色にけぶる風景。
 だが、今桃李がいるのはもっと現代的な白い瀟洒な建物だった。
 綺麗で落ち着いた中にあるのは、静かなさざめき。
 香の匂い。
 沈痛な空気に追われるように、桃李は建物から出て駐車場へと歩いた。
 外は鮮やかな青い空。穏やかな温かさの中、駐車場に植えられた桜は遅咲きの花をつけている。
 微風がそよぐたびにはらはらと散る花びらの中で、桃李はふと足を止めた。
 佇んで、長い煙突を見上げる。見えないはずの煙が何故か立ち上っているのが見えた。
 あれは、祖父の煙だろうか。
『お祖父さんはねえ……。若い頃、初恋の人と引き離されとって……』
 棺に入れられた祖父の傍らで、祖母が苦笑を浮かべて、けれど懐かしそうに繰り返す。
 物言わぬ祖父に語りかけているようで、切ない痛みが桃李の胸に走っていた。
『青い瞳の綺麗な人やった……。お祖父さんはほんとその人の事大事にしとったけど、お国の雰囲気が悪うなってな……。言い出したのはお祖父さんの方じゃったって。ここは危ないから帰れって。ご両親と一緒に帰れって……』
 それは、きっと戦争の頃。
『私とお祖父さんとは、親同士が決めた結婚じゃったけど……。お祖父さんは大事にしてくれてのお。あの人との約束じゃからって……お祖父さんは、跡取り息子じゃから、いつかは結婚せんといけん。そしたら、その人を幸せにするって、約束したからって。ほんに、幸せじゃったよ……』
 はらはらと流れる涙に、誰もが何も言えなかった。
『じゃから……もうええからな。捜しにいっといで……。ほんにお祖父さん、よお我慢したなあ……』

 ──初めて聞いた。
 と誰もが言っていた。
 ただ、幼なじみだったという近所の老人が、黙って手を合わせていた。
 
『海を渡ってきたから』
 
 祖父の声が、頭の中を木霊する。
 遠い目をして語っていたあの表情を、思い出す。

 幼子に語りかけるほどに実は悔いていたのだろうか?
 離れてしまったことに。
 それとも、幸せであってくれと願っていたのだろうか?
 温羅のような結末にならないことを。
 会えたのかな?
 遠い空の果てにいるはずの人に。
 
 はらはらと散る桜のはるか向こうに、濃い桃色が広がっていた。
 今年は、桜は遅く、桃は早く開花を迎えた。
 祖父に見せたいとばかりに、咲き急ぐように。
 祖父が大好きだった桃の花に見送られて、煙は天高く昇っていった。

 

☆正式に伝承されている「温羅伝説」では、温羅は燃えるような赤い髪と獣のように眼光鋭い双眸、妖力と変化の力を持っている悪逆非道な鬼として伝えられています。 ネット上で検索して頂ければ、すぐにヒットします。また、温羅が鬼でない話もヒットした中から見つけることができますが、とっても数は少ないです。
 また、吉備津神社の鳴釜神事は現在も行われています。

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2
 人いきれと喧噪に酔いそうだった。
 それでも、桃李は必死になって出てくる人々からたった一人を捜すのに必死になっていた。
 ここで待ち合わせとしていたけれど、こんなにも人が集中するとは思わなかったのだ。
 だが。
「桃李」
 少し空き始めた広場の片隅で、桃李は安堵の滲んだ聞き間違いようのない声音で呼びかけられた。
「圭人っ!」
 満面の笑みで振り返れば、間違いなく探し求めていた幼なじみ──犬飼圭人の姿があった。
「すっげえ人でさ、もう探したよぉ?」
 桃李より10cm以上低い圭人の細い絹糸のような髪が、風に乱れていた。
 荒い息は、圭人も必死で探してくれたんだろうと思わせる。その事が堪らなく嬉しくて、昔のように思いっきり抱きしめたくなる。けれど、こんな衆目の場で──という自制心がかろうじて働き、桃李はなんとか微笑むだけにすませた。
 それでも、圭人の見慣れぬ濃紺のスーツ姿は間近で見るとよけいに新鮮で、無意識のうちに眩しげに目を細めていた。
 可愛くて、格好良くて。
 大好きなのだ。
 この幼なじみが。
 良いところをあげればキリがないくらいに浮かぶのに、童顔の可愛さに大人のエッセンスが混じり始めた姿は、どう褒めて良いのか難しい。さすがに大学生にもなって可愛いと言えば機嫌を損ねるのは目に見えていて──。
 結局、桃李は曖昧な笑みを浮かべ、月並みな褒め言葉しか口にすることができなかった。
「似合うね、スーツ姿」
「ん?、けどさあ、七五三みたいだって言った奴がいるけどな」
 あ、そうかも。
 とは思ったが、かろうじて声にする前に飲み込む。
「誰だよ、それ?」
「上総(かずさ)のやろうだよ」
「か、上総が? 会ったのか?」
 唇を尖らす姿に吹き出しそうになって、慌てて口元を塞ぎながら問う。顔の筋肉がひくひくと痙攣してしまったが、その出来事を思い出しているのか、圭人は気付かなかった。
「あいつん家の前を通った時、会ったんだよ……。思いっきり吹き出しやがって」
 高校時代の悪友に毒づく、という可愛い容姿に似合わない姿に苦笑して、桃李はそれ以上のコメントを避けた。
 避けついでに、コホンと軽く咳をして、話を故意に逸らす。
 でないと、墓穴を掘りそうだったからだ。
「上手だったよ、挨拶」
 頭の良いこの幼なじみが新入生代表だと知ったのは数日前。
 退屈な来賓の挨拶など全く頭に入っていなかったが、壇上に圭人が上がってから降りてくるまでの姿はしっかりと記憶に残している。
 あれは俺の幼なじみだ。
 俺の一番の──親友なんだ。
 と、声を大にして自慢したいほどの優越感でいっぱいになった上に、壇上の圭人の姿は惚れ直すのに十分なほどで。
 けれど、しょせんは親友。
 そんなことは欠片も口にできなくて。
「やっぱ凄いなあって思った」
 陳腐な褒め言葉しか捧げられない。
「うっ」
 だが、圭人は嫌そうに顔を背けてしまった。
「圭人?」
「むっちゃ……恥ずかしかった……。あんなの、二度としたくねえ……」
「そうか? でもずいぶんと堂々としていたけどなあ」
 緊張した面持ちではあったけれど、最初から最後まで淀みなく挨拶仕切った圭人は、可愛いさとかっこうよさが同居していた。
 だからこその賛辞は陳腐ではあっても嘘偽りなどないのに。
 けれど、圭人はますます不機嫌そうに唇を尖らした。
「止めろって、もう……。もう二度とあんなことしねえぞっ」
 心底嫌そうな圭人に逆らう気などあるわけもなく、桃李は苦笑して口をつぐんだ。
「……今度は、絶対に一番なんかならねえっ」
「……まあ、そうそうあるもんじゃないし」
 言葉だけの慰めを口にして、桃李は無意識のうちに圭人の頭を撫でていた。
 圭人の髪は細くて、するりと指に絡まっては解けていく。上等なムートンでも触っているようなその肌触りがなんとも気持ちよい。しかも、少し長くなるとすぐに毛先が茶色かかっていて、陽光の下では金色に光ってとても綺麗なのだ。
 しかも触りやすい。
 170を越える桃李からすれば、160の圭人の頭はいつも目の前にあるのだから、触って下さいと差し出されているようなもの。
「そのクセ……」
 すっかりクセとなったそれを指摘されても、こればっかりは止める気にならない。
「ったく──桃李は、何度言っても直してくれないからな」
「ごめん……つい」
「いっつもそればっかりだ」
 文句の割には諦めの色が交じった笑み。
 眉間のシワもわざとだと知っている。
「まあ、良いけどさ」
 言いながらも、巧みに避けられて、手が寂しく宙を舞う。ぬくもりが消えた手のひらをぎゅっと握りしめると同時に、ため息を飲み込んだ。
 年をとるにつれて、どんどん触れあうことが少なくなっていく。
 子供のように無邪気に触れあいたいと願うには、二人はもう大人の仲間入りを果たそうとしていて。
 特に、桃李の胸の内にはもっとどろどろとした、邪気にまみれた欲望が渦を巻いていた。
 それを自覚してしまってからは、必要以上に触れられなくなって。圭人も、気が付いていないと思うのだけど、それでも友人としての適度な距離感が二人の間には存在するようになっていた。
 大事な親友──だけど。
 トントンと軽い歩みで桜の木に近寄った圭人が、そっと上を見上げる。
 はらはらと残り僅かな桜の花びらが風にさらわれて舞い落ちていた。
 綺麗だと思ったのか、横顔にふんわりとした笑みが浮かぶ。
 ドキッと一際高く鼓動が鳴る。
 早くなった血流に酸素が十分溶け込まない。息苦しさに拳で胸を押さえた桃李に、不意に圭人が振り返った。
「桃李──ほんとは、今日は一緒に出られないかと思ったよ」
 笑みが消えていた。
 切なそうに震える瞳が、桜の花から桃李に向けられる。
「しょうがないかな、とは思ったんだけどね。来れて良かったって思えたけど──でも……」
 ここにあるのは桜の木で、色も形も花の付き方も何もかも違っていたけれど。
 花が、圭人に連想させたのだろう。
 痛ましさが滲む表情で見つめられて、桃李はすぐに圭人が言いたいことに気が付いた。
「昨日最終便で帰ってきた。親父達はもう一日あっちにいるけどね」
 昨日は祖父の葬式だった。
 一人でとんぼ返りをして、自宅に着いたのは深夜になってからだ。すぐに床についたけれど、体は疲れているのに心が興奮していて、いつまで経っても眠れなかった。
 今でもまだその疲れは取れていない。
「大変だったね」
「まあね。やる事って言ったら無いんだけど……。なんか疲れるね、ああいうのは」
 大往生だから、誰もが泣き喚くわけではない。ただ、祖母が流す涙が皆の胸を痛ませた。
 昨夜も、眠れなかったのは、祖母の言葉を思い出してしまったからだ。知ってしまった祖父の秘密が、心を軋ませ、睡魔を遠ざけた。
「そういうもんだよね、葬式なんて……」
 それを知らなくても、桃李の表情に何かを察したのか、圭人が静かに目を伏せた。
 この幼なじみは、学問だけでなくいろんなことに聡い。
 穏やかな圭人の視線が、桃李から外れ、傍らの桜の木へと向かう。
「桃が大好きなお祖父さんだろ? 昔っから、良く桃李から聞いていたものな。うちにもお裾分けいっつも貰ってて。桃李の名前も……そうだよな」
「そう……」
 桃を持って行くたびに、子供の頃は桃太郎の話をするたびに、桃李は圭人に祖父の話をしていたように思う。
 温羅伝説の話も圭人は知っていて、ネットでいろんな情報を引き出してくれたのも圭人だ。
 だから、もう一つの温羅伝説が、ちゃんと流布されて来たのも判っていた。
 ずっと祖父の思いが向けられていたのは温羅のことだと思っていたのだけど。
 ──たくさんの桃の花。
 桜が霞むほどに自己主張する強い色。
 葬式の日に見たあの色は、まぶたの裏にしっかりと焼き付いている。
 あの濃い桃色の花が散って、大きくなり始めた実が紙の袋に覆われて、いずれ収穫の時を迎えるのだ。日に当たらない肌はどこまでも仄かな淡い色合いで、赤ん坊の光り輝く産毛をまとった瑞々しい白桃として。
 そんな白桃の収穫時期に生まれた桃李を一目見ようと、祖父は忙しいのにもかかわらず着の身着のままの格好で東京の病院にやってきたという。
 病院の白い産着にくるまれた赤ん坊は、白桃の仄かな白に近い桃色と輝く産毛を持っていて。
『お父さん、この子の名前を付けてください』
 父はその父である祖父が大好きだったから。
『ええ、ぜひ』
 母も、仕事ばかりの実父よりも義父が大好きだと言っていた。
『……桃李が良いな』
と、恥ずかしいのか、小さな声で言った祖父の言葉を、父と母は苦笑して受け入れた。
 そんな昔話も、圭人には全部教えていた。
 大切な思い出だから、知って欲しかった。
「桃は早咲きしてたよ。じいさんも逝く前には見たって聞いたよ」
「そっか」
 回りはすごく賑やかで、残っていた桜が最後の祝いだとばかりに花びらを散らしていた。
 そんな中での圭人の労りは、桃李の凝り固まった疲労を消すのに十分な効果があった。

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3
 ふわりと吹いた優しい風が圭人の前髪をたなびかせる。
「そろそろ、帰ろっか? それとも、どっか行く?」
 髪を掻き上げる仕草に束の間見惚れてから、圭人の言葉に頷きかけて。
 けれど、自分たちの服を指差して苦笑する。
「この格好だと遊ぶって言うのもなあ」
 入学式のためにと、二人とも着慣れないスーツ姿だ。
 肩が凝って仕方がないのは圭人も一緒のようで、くすりと肩を竦めて返された。
「そうだな。とりあえず、帰って……。その後、遊ぶ?」
「ああ、圭人ん家行くよ。良いか?」
「僕の? 良いよ」
 先を行く圭人の後姿に、桃李はいつものように付いていって。ふっと眉間にシワを寄せた。
 スーツ姿だけではない違和感があった。
 そういえば、さっき髪を触ったときにもあった違和感だ。
「圭人、背ぇ伸びた?」
「ん? ああ、ちょっとだけ伸びたんだぜ」
 ずいぶんと嬉しそうな物言いに、桃李は顔を顰めた。
 そういえば最近の圭人は、前よりも女性に声を掛けられる機会が多いような気がする。さっきも会場で、女の子が圭人を見て何か言っていたようだった。
 今は、圭人自身あまり興味が無いようだけど。
 いつか──誰かが──。
「っ」
 知らず喉が鳴る。
 ぎゅっと握りしめた手のひらに爪が食い込んだ。
 そんなことになったら、自分はどうするだろう?
 その時は、きっと──。
 何もできない自分が容易に想像できて、桃李は握りしめた指に力を込めた。
 ますます酷くなる痛みに、激しく乱れる意識をすがりつける。
 まだ存在すらない誰かに、こんなにも嫉妬心がかき立てられるほどに圭人が好きなのに。
 圭人の前に出て、圭人を誰からの目にも入らないようにする勇気が無い自分には、何もできない。 
 圭人を失うことなど考えたくもないくせに、嫌われかもしれないと思うと何もできないのだ。
 
 けど……いつまでこうやってついて行けるだろう?

「桃李?」
 気が付けば少し離れていて、駆け寄りながら頭を下げる。
「ごめん。考え事してた」
「……お祖父さんのこと?」
「いや」
 圭人のことだと言うわけにも行かなくて、桃李は視線を逸らした。
「……何して遊ぼうか……って思って」
「ああ──」
 くすくすと笑われる。
 そんな笑顔が眩しいから、よけいに目を合わせられなかった。
「じゃ、早く行こうか」
 そう言って、前を向いた圭人がビタッと足を止めた。
「犬飼圭人?」
 低い声音が、直接鼓膜に響いたようだ。
 一瞬遅れて、前方にやたらに大きな人影があるのに気が付いた。
 圭人の体が震えたのが、端目でも判る。慌てて、圭人を庇うように前に出た桃李の視界に入ったのは、胸板の厚い立派な体格の男。
 ヤクザ──と思うほどの強面が、圭人と桃李を交互に見やる。
「あ、あんたは?」
 容姿に似合わぬしっかりとした性根を持つ圭人が気丈にも問う。
 途端に、相手の双眸がすうっと細められた。まるで面白いものでも見つけたと言わんばかりに、口が弧を描く。
 ぞくっ──。
 背筋に走った悪寒に、桃李はごくりと息を飲んだ。
「近くで見るとますます……可愛いな」
 かけられた言葉に、圭人の指がぎゅうっと桃李の腕に食い込む。桃李の指も圭人のそれに重ねる。
 過去幾度か、他人からかけられたこの言葉を、圭人は嫌った。
 そのたびに、可愛い顔が悔しく歪むのを知っている。それは同時に、桃李に絶望をも教えるのだ。
 嫌悪の表情を向けられる相手の姿がまるで自分のようで。それを見せつける相手を桃李は憎んだ。
 まして相手が男であればなおさらだ。
 ぎりっと音がするほどに奥歯を噛みしめ、常ならば近寄ることもしない体躯の男を見据える。
「圭人に何か?」
 なけなしの勇気は、圭人のためなら奮える。
「何の用だよ?」
 圭人も低くなった声音で問う。ますます力が入った指を桃李も握りしめ、男との間合いを計る。
 と。
 男が目を細め、探るようにまじまじと桃李を見つめた。
 視線が這うたびに、ぞわぞわと悪寒が肌を走り抜けた。全身が総毛立ち、ぶるっと体が震える。
「桃李?」
 圭人が心配そうに見上げてきた。
「とうり……か」
 ぼそっと呟かれる名に、違和感を感じたけれど。
 それが何かと思うまもなく、男がニヤリと唇の端を上げた。
「お前ら、ちょっとそこまで来い」
 これは──もしかして、恐喝か何か?
 まさか入学初日に?
 さあっと音を立てて血の気が引く。ざざっと無意識のうちに後ずさっていて。
「こら、待てっ!」
 男の手が触れる寸前、二人揃って踵を返した。
「待てっ!」
 そんなセリフ、聞ける訳ねぇっ!
 このときばかりは、二人同じ事を思ったに違いない──と思った瞬間。

「うわぁっ!」
 ドスンと鈍い音が響いた。鼻の奥がつうんと焼け付くような痛みが走る。
「い、つぅ……」
「何??」
 痛みにぎゅっと目を瞑り、手のひらで痛む鼻と涙の滲む両目を抑える桃李の耳に、圭人の呆然とした声が聞こえた。けれど、痛みをこらえる桃李は目を開けることなどできなくて。
「す、すみませんっ!」
 焦った圭人の声だけが響く。
 否──。
「いや、こっちこそ、ごめん」
 ずいぶんと優しく、穏やかな──悪く言えばのほほんとした声音。
 何? とさすがに目を開け初めてすぐ、桃李は、思いっきりその両目を開けることになった。
「な、何?」
 視界いっぱいに、見たこともないほどに綺麗な顔があったのだ。
 それこそ、有名モデルの顔の誰かに似ているようで──けれど、そのどれもよりも優しく優雅な顔立ち。
「あ、あ……」
「ん?と、鼻血は出ていないよね? 思いっきり強く打ったみたいだから、ね」
 さらさらの流れる髪を書き上げる仕草は、結構雑だ。
 なのに、不思議とさまになっていて、しかも見惚れてしまう。
「大丈夫?」
 心配そうに問われて、桃李は条件反射のようにコクコクと頷いた。
 それでも何が起きたのか、今ひとつ理解していないままに隣を見やれば、圭人も呆然と相手を見つめていた。
 その圭人の姿はやっぱり可愛い。
 けれど、こっちは綺麗。
「大丈夫みたい?」
 再度問われて、ようようにして、自分が呆けていたことに気が付いた。
「す、すみませんっ、俺?」
 そうだ、ぶつかったのはこっちで。しかも、こんなにのほほんとしている訳にはいかないのだっと気が付いたときにはすでに遅かった。
「君が悪いわけじゃないし」
 にっこりと微笑む美人の傍らに野獣の姿。
 っていうか……。
「──なんだよ、俺が悪いって言いたいのか、蓮は?」
 フンと鼻を鳴らして腰に手を当てて見下ろす野獣に、蓮と呼ばれた彼は呆れたように肩を竦めていた。
 そう、思わず見惚れた美人は、男なのだ。
 声はテノールよりは低い。バリトンくらいの声音。
 ゆったりとしたしゃべりのせいか、やけに優しく響く。
 それに、細い線の体つきは、それでも胸なんかは無い。
「ごめんね。了が無理を言ったみたいで」
「あ、いえ」
 と思わず言ってしまうほどに、蓮の物言いに不快感は無い。というより、逆らおうという気がしないのだ。
 優しい甘い香りと、軽やかな笑い声。
「けっこう、細いね」
 腕を引っ張られて、尻餅をついていたのだと今更ながらに気付いて、顔に血が上る。
「あ、あの……」
「了も悪い。君が凄んだら、誰だって逃げたいって思うし」
「これでも優しくお誘いしたんだがな」
「どこが?」
「全身全霊で」
 自信満々に了の答えに、蓮も、そして桃李達も口を噤んだ。
「……なんだよ、文句があるなら言いな」
 と言っても、言える物ではない。
 それでも、蓮がため息を落として、言葉を紡いだ。
「了に交渉を任せたのが間違いだったんだよね。用心棒としては最適なんだけど」
「オレが悪いのかよ?」
「……だから、二人が逃げようとしたんだろ?」
「……」
 了が天を仰ぎ、呆然としている桃李達に蓮が笑いかけてきた。
 それだけなのに、バックに桜の花が乱舞したように見えた。数度目を瞬かせれば、何のことはない錯覚だったのだけど。
 そのせいで逃げる機会を失したと言っても過言ではない。
「僕は、雉子野 連(きじの れん)と言います。二年です。で、こっちは、了──猿野了(さるの りょう)で、同じく二年。大学生に見えないかもしれないけど、ね」
「連……」
 唸り声が響いた。けれど、それよりも衝撃的な単語を聞いて喉がひくりと上下した。
「二、年?」
 隣で圭人が呟く。
 桃李も、呆然と了を見つめながら、「二年……?」と問うてしまっていた。
 肩幅も骨の太さもたいそうなもので。
 圭人くらいなら全身で包んでしまいそうにな程に大きな体躯。
 強面の顔は、やくざな人相でどう見ても一年しか違わないとは思えない。
「そう、正真正銘この大学の二年生。ヤクザじゃないからね」
「えっと……」
「そう、なんだ……」
 その様子に、了が「どうせ……」と、ふて腐れていた。
「それでね、了が声をかけたのは、ほんとうにお友達になりたいなあって思って捜していたからなんだよ。了の方が君たちを先に見つけちゃったんで、こんな事になったけど」
「えっ?」
「犬飼って名がすっごくぴったりなんだよ。それに、君には興味もあったし」
「え……?」
「説明するから、ちょっとだけ付き合って、ね。お願い」
 蓮に拝むように言われて誰が断れるだろう。
 桃李も圭人も困惑はしていたけれど、蓮に乞われるがままに頷いてしまっていた。

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4
「桃太郎」
 男四人で連れ立って入ったカフェで、蓮が開口一番に言ったのはその言葉だった。
「そうだよ。桃太郎のお話、知っているだろう?」
 知らない方が珍しいその単語は桃李にとっては別の意味も持っている。ひくりと口元を強ばらせる桃李に気が付いたのは圭人だけだ。圭人の気遣う視線に、かろうじて笑みは浮かべられたけれど、蓮を見る目が冷めたものになるのは止められない。
 それでも、ゆっくりと息を吸って、心を落ち着けた。
 普通は、温羅伝説は知られていないのだから。
 それに、誰も祖父の悲恋は知らないのだから。
 ごくりと息を飲んで、話を続ける蓮を見やった。
「だから、俺たちが雉と猿だからね。どうせなら、犬や桃太郎も揃えようよという子供みたいな話なんだけど」
 そう言いながらも、自分の発想がまんざらでもなそうな口ぶりだ。
「でも、犬の名を持つ人って多いけど、誰でも良いって訳じゃなくて」
「蓮がいろいろと煩さいんだよ。言い出しっぺなくせに。顔も良くて頭も良いってのは必須だってよお。そしたら、こいつってば、犬にも桃にも心当たりがあるからって」
「犬飼君が新入生代表で挨拶するって知っていたから、了に一緒に探してくれって言ったんだよ。隣には必ず桃がいることも知っていたからね」
「え?」
 銜えていたストローから口を離し、きょとんと問い返す圭人に、蓮は苦笑した。
 桃李とて呆然と蓮を見つめる。
「と言っても、3年ほど前かな。君達はお父さん達と一緒に家のクリスマスパーティに来ていただろう?」
「パーティ?──3年前って……あっ、もしかしてフェザントの? そういや、あの時はそうだ、桃李も一緒だったんだ」
「え、俺も?」
 圭人のもの問いたげな視線に、不審げに返す。
 3年前のパーティ、しかもクリスマス。フェザントという各種キーワードが頭を駆けめぐった。
「ん、桃李も招待されているって聞いて僕も行く気になったやつだよ。桃李は、僕が行くなら行くって行ってたやつ」
「だって、フェザントのパーティだろ? 高校にもなったんだから、一回くらい顔出せって親父に言われて行ったやつだよな」
「圭人くんの隣にいつも一緒にいたよね。湊さんの息子さんだったよね」
「え、あの……俺、会ってましたっけ?」
 こんな美人、会っていたら忘れないと思うけど。
 って……あれ?
「雉子野って……確か、フェザントの会長一族?」
 頭に浮かんだ単語そのままに呟いて。
 対面の席で微笑んでいる蓮の顔をまじまじと見つめた。
「……もしかして、会長の孫……?」
「そうだよ。あの時は体調が悪くてパーティへの出席はしていなかったんだけど、会場となったホテルにはいたんだよ。どうしても外せない人にだけ挨拶したんだけど……。犬飼交易の社長や、フェザント・FPの社長、とか、ね。君たちは料理の皿をしっかり持って、壁の花になっていたけど」
 ねっ、と悪戯っぽく横目で促されて、桃李も慌てて海馬の底から記憶を引きずり出す。
 犬飼交易は圭人の父親がやっている会社で、フェザントグループの商社とも取引をしている。そして、フェザント・FPは桃李の父──湊 桃士が雇われ社長をしているのだ。
 フェザント・グループは日本屈指の医薬品会社を祖とするグループ会社で、その会長・社長という主だった役員は全て同族が占めている典型的な同族会社。だが、幾つかは同族ではない者が要職に付いていて、その中でも化粧品をメインにするフェザント・FPは確固たる売り上げを誇っている会社だ。
 そのせいで、父は会長の覚えもめでたい。毎年開かれるパーティは、普段は親だけが行っているのだが、あの時は何事も経験だからと強引に連れて行かれた。もっとも後にも先にもそれっきりしか参加していない。高二の時は二人揃っていろいろと企んで逃げ、去年は受験だからとやはり逃げた。
 何せ大人ばかりのフォーマルなパーティは、気を遣うばかりで、料理くらいしか楽しみがないのだ。
「次の年には絶対に話しかけようと思ったんだけど、来てくれなかったしね」
 僅かに含まれた責めに、桃李は口ごもり俯いた。
 普段は茫洋としている父親が、妙に格好良かったのだけは驚きを持って再認識したが、それでもあれは自分が行く場ではないと思う。
「だからさ、君たちが同じ大学に入るって聞いたときにはすっごく嬉しくてさ。だから、どうしても友達になろうって思ったんだよ」
「そういや、トウリって、トウが桃の漢字だろ? じゃあ、リは何だ?」
 それまで黙々とランチをぱくついていた了が、ふっとフォークで桃李を指さす。その不作法さに思わずムッとしたけれど。
 そういう態度も、不愉快なこの男らしくやたらに似合っていて、結局逆らわずに呟いた。
「桃李はモモにスモモって書くんです」
「スモモ——って『李』か……? あれってリって読むのか?」
「読むんです」
 桃の字は好きだ。
 珍しい名前ではあったが、祖父が付けてくれた名を卑下するなんて考えもしていない。
 たがそれは、果物の桃の名を由来としていて、決して桃太郎を想像するものではないというのに。
「つまり、桃太郎と三匹のお供が全員揃った訳だな」
 嫌な理由を説明するのも億劫で、桃李は唇を固く引き結んだ。
「……桃太郎っっていうには、貧弱だな」
 呆れた様子の了を無視し、蓮が手を差し出す。
「どう? とりあえず友達づきあいてことで。年だって一年しか違わないし。と言っても、何か目的がある訳じゃないよ。ただ、こんなふうに一緒に食べに行ったり、出かけたり。気楽な集まりって事で、どう?」
「でも……」
「悪いことはしないよ。ただ、暇な時に集まるだけってこと」
 屈託のない笑みを浮かべる様は、どこか無邪気すら漂わせる。
 伝わる雰囲気からも「悪」という単語は似合わない。けれど、その瞳の光は強くて、のほほんとしているだけでないことが何となく判った。
 フェザントの会長の孫と言えば、父から噂を聞いたことがある。
 経済学の強いこの大学で、入ったばかりでも非常に優秀で注目されているということを。確か、どこかの会社では彼の修行の場として、経営にも参加していると聞いている。
 いずれ、フェザントのトップになるであろう男。
 見た目はたおやかな美女。
 打算だけで考えれば、彼の傍らにいるのは良いことだ。
 けれど。
 ちらりと蓮の隣に座ってタバコを燻らせる了を見やると、ニィッと笑んで返された。
 蓮だけなら、たぶん即答していただろう。
 だが頷けば、了も傍らにいるのを許すことになる。
 圭人に迫ったこの男。先ほども、カフェの従業員が料理を持ってきた時、怯えたような表情で、決して顔を上げなかった。
 こんなやくざな男を、圭人に近づけたくなかった。
「桃李?」
 圭人が目線で「どうする?」と聞いている。指が、テーブルの下で桃李の袖をつっついた。
 困惑の色も濃い圭人は、桃李の出方を待っている。
 だからと言って、桃李も決めようがなかった。
 打算とそれだけではない蓮への興味はあったけれど、何しろ問題はこの了。
 知らずきつい視線を向けていたが、了は何が面白いのかさっきからずっと桃李を見つめていた。
 その様子に蓮が肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「まあ、すぐにってのは無理かな。僕たちの事も良く判らないだろうし。ただ、僕たちの立場っての、女の子達にとってはたいそう魅力的だってこと、忘れないでね」
 苦笑が深くなり、それに了が同調してくつくつと笑う。
「すげえよな、あいつらの情報網ってのは。今頃、新入生代表の犬飼圭人は、例の犬飼交易の御曹司で金蔓だってことは、蔓延しているだろうよ」
「金蔓って」
 さあっと青ざめる圭人の頭に浮かんだのは、高校時代の出来事だ。
 進学校ではあったけれど、それでも学生達に余裕がないわけではない。入った当初などは、その容姿も相まって圭人は格好の餌食だったのだ。可愛くてお金も持っていて、なおかつ一人暮らし。
 入って数ヶ月のマンションを、圭人が無理を言って変わったのはストーカー紛いの人が出たせいだ。
 桃李もそこまではなかったが、何人かにつきまとわれたことがあった。もっとも、誰が来ようとも好きな相手は圭人だけ。つきまとわれるのは鬱陶しいものでしかなかった。しかも、どこに行っても見張られているようで、よけいに圭人と触れあうことができなかったのだ。可愛い圭人と細身ながらも背の高い桃李が一緒にいると、王子さまのお付きの人とよからぬ関係だと噂されたこともある。
 それを圭人がまた嫌って……。
 ムウッと眉間に深いシワを刻んだ桃李と圭人に、了が畳みかける。
「可愛い顔立ちで学年トップ。性格もそこそこで、金持ち。金蔓、もしくは玉の輿って条件揃っているだろ? ちなみにこれも入ってすぐの頃は、合コン、デート、ちょっとしたお誘いがダブルブッキングどころかトリプルブッキング。ちょっとその辺りを歩けば、身動きできないほどだったぜ」
 これ、と指差された蓮が頷く。
「つまり僕たちはみんな同じような立場だよ。それから逃れるには、女の子受けしないこれの傍らにいると良いって思わない?」
 これ、と強調して指し示された了が、がおっと牙を剥く。
 途端に、店内の音が一瞬消えた。
 痛いほどの視線。
 回りを見渡すこともできなくて、桃李は唇の端をひきつらせた。
 確かに、野獣だ、と形容してもおかしくない了が傍らにいれば、誰も近付いてこないだろうけれど。
「普通の友人もできそうにないんだけど」
 圭人の容赦ない一言に、了が目を見開く。
「ひでえな。俺だって、蓮以外にも友人はいるし、女友達だっているぞ?」
「まあ、君たちがちゃんと付き合うような相手になら、了もそんなに悪い奴じゃないって判って貰えるよ」
「……そう、なんですか?」
 あまりにも信じられないけれど。
「だから、しばらく様子見しない? 君たちの期待は裏切らないから、ね」
「あ……はい」
 引き込まれそうな笑顔というものが本当にあるのだと、桃李は乞われるままに頷いていた。
 頷いて、あれっと、思って。
 さらに喜色度の増した蓮に、自分が了承したのだと気付く。
「ああ、良かった。じゃ、しばらく様子見……でも、すぐに仲良くなれるよね」
「あ、あの?」
「女の子に囲まれたら──男でも、だけど、すぐに携帯で知らせくれたら、了が行くからね。そしたら、すぐに逃げれるよ」
 メールアドレスと携帯番号を交換しあったときには、大げさな、とは思っていた。
 この人が一番強引なんじゃないか、とも思った。
 なんとなく腑に落ちないままでいた桃李の耳に、「またまた用心棒係かよ」とぼやく了の声が届いていた。
 けれど。
 蓮の言葉は、大げさでは無かった。
 蓮達と出会ってから数日後、二人がどの科目を受けようかと相談している所にやってきた一個団体。
 言葉巧みに昼食に誘う彼女たちは、どうやら上級生のずいぶんと積極的な女性達。
 高校生とは違う勢いとフェロモンに対抗する術を、二人は持っていなかった。
 どうやら、桃李の素性もしっかりとバレていて、二人揃ってターゲットにされてしまったようだ。しかも、甲高い声で、ぺらぺらと喋りまくるものだから、ようやく親しくなりかけた同級生達にも桃李達の素性がバレてしまう。
『あの……』
 と、意味深な視線を送られるほどに、親たちの会社は大手。向けられた視線に悪意はないけれど、それでも気持ちよいものではない。
 何より、それ目当てで来ている彼女たちの態度はもっと嫌だった。
 けれど、何を言っても無視されて、強引に引っ張られそうになったその時。
「迎えに来たぜ、圭人、桃李」
 了のドスの利いた声音が響いた途端、彼女たちはあっという間に退いていった。
 遠巻きに眺める視線が多少痛かったけれど、ほっと胸を撫で下ろしたのも事実。
「ほんと、助かったぁ。先輩、結構便利なんだぁ」
 了に向けた圭人の言葉を、桃李も心底同意した。

?
5
 残っていた桜の花も完全に散り、山々は若々しい緑に覆われた。
 大学生活にもなんとか慣れて、日々青春を謳歌としようとしていたのだが。新緑に変化していく様は、桃李の記憶には残っていない。
「う?」
 手にした資料をくしゃりと握りつぶし、テーブルに突っ伏す。
「難しそう」
 どこか笑いを堪えた口調で話しかけられ、う?と唸って返した。
 ちらっと眇めた視線を送っても、圭人は悪戯っぽい笑みで笑っているだけ。
 もっとも、桃李の苦悩は自業自得だ。
 蓮からも忠告されていた点を取るのが難しいと聞いていた講義を、自らの意思で取ったのだから。
 だが、それは想像以上の厳しさだった。
「先輩の話によると、最初が一番難しいんだと。その後はそこそこでって言うんだけどさあ……」
「そうなんだ」
 突っ伏した頭をつんつんと面白そうに突かれて、再度唸る。
「同情してくれよ?」
「だって、態度ほど苦しんでないだろ?」
 アッケラカンと事実を言われては苦笑するしかない。
「でも、大変だったのはほんとだぞ」
「ん、知ってる」
「だよな」
 突っつく手は遊んでいるようだが、それでもどこか宥めるような雰囲気が伝わって、桃李は笑みを深くした。
「圭人の方はどう? 巧くやってる?」
「まあね」
「良いなあ、頭の良い奴は」
「あはは」
 突いていた手が、今度は桃李の髪を弄くる。
「相変わらず、細いなあ」
「圭人の方が細いクセに」
 圭人のクセは、桃李のクセのそれと同じだ。やってやり返して、を繰り返しているうちに、圭人の髪に触れるクセという名の戯れが、いつしか圭人にも移ったものだ。
 そうされると嬉しい。
 髪質は圭人の方が絶対に良い。桃李のそれは、細いだけですぐにパサパサになってしまう。けれど、流れる髪を掬い上げては離す動きは愛撫にも似た感覚をもたらして、ぞくぞくと肌が粟立った。
 奥歯をきつく噛みしめたのは、不用意な呻き声を出さないため。
 それでも、至福の時にとろけきった顔を圭人から隠して、桃李はうっとりと目を瞑った。その時──。
「やーらしいなあ、男二人で」
 バスの声音と独特のイントネーション。
 厭らしい言い方は、邪魔をするためだけのもの。
 至福の時は呆気なく破られ、鬱陶しく見上げれば、ここ数ヶ月ですっかりと見慣れた嫌味な笑顔があった。最近染めた赤茶色の髪が乱れ気味なのに、それがまた強面の顔によく似合い、その姿に凄みを与えている。
 その顔で笑われても、桃李にはうっとうしいだけなのだが。
「先輩」
 にっこりと親しく笑う圭人が可愛さ余って憎たらしい。
 圭人はあれから蓮どころかこの了にまですっかり懐いてしまったのだ。
 目の前で、くしゃくしゃと髪を弄ばれても、嫌がるどころか笑顔の圭人に、桃李の胸の内に何とも言えないわだかまりが生まれ、大きくなる。
 確かに、了のこの強面は言い寄る相手を蹴散らすには便利ではあったけれど、その了が圭人にひっついては意味がない。
 桃李はムスッと尖らした口元を隠しもせずに了を見上げた。
「暇そうですね」
 待ち合わせはしていたけれど、それは蓮とであって了ではない。
 もっとも、蓮と了は二人でワンセット。桃李と圭人でワンセットのように、この二人も同じなのだ。
 だからこそ、彼がここに来てもおかしくはないとは、頭では判っているのだが。
 けれど。
「不機嫌な顔だな、おい」
「先輩のせいですよ」
 会いたくないのは事実。正確には、圭人に会わせたくないのだ。
「レポートのせいなんですよ」
 桃李の思いなど気づきもしない圭人が、桃李の手からくしゃくしゃになった資料を取り上げた。止めるまもなく、それが了に渡る。
「これ……か。あれだけ蓮が言ってたのに聞かねえからだ」
 ニヤリと嗤う表情を睨み付け、フンとそっぽを向く。
「別に、判ってたから良いんですよ」
「なら、その落ち込みはわざとか?」
 指摘され、ますます機嫌は下降する。
 傍らで圭人が可笑しそうに笑う。ただ無邪気なだけでない笑みだと、長いつきあいで判っているから、桃李は圭人を威嚇がてらに睨み付けた。だが、その圭人の隣に了が座るものだから、その視線はそのまま了へと向く。
 じゃまっ!
 ぶつくさと口の中での文句は、きっと了には判っている。
「可愛くふくれっ面しても、バレバレだな」
 などと揶揄交じりで浮かべた笑みを睨め付けるしかできない桃李は、仰々しいため息を落として、資料を取り上げようとした。
 提出は済んだが、あの資料はこれから先にも必要なものなのだ。
 なのに、ことさらに圭人といちゃついてくれる了の腕は、桃李から離れるように動く。
「せ?んぱ?いっ」
「了で良いって言ってるだろ? ほら、可愛く言ってごらん。『了、お願いですから返して下さい?』って、こうハートマーク付きでよろしく」
「なっ!」
 ざわ——。
 肌の上にナメクジでも這ったような不快さに、全身が硬直した。
 この男に、ハートマーク付きの台詞?
 しかも、自分が?
 想像することすら嫌悪の対象になるそれに、桃李の顔から見る見るうちに血の気が引いていく。
「あははっ?、了先輩、悪趣味?」
「なんで? 俺は本気だぜ? 似合うと思うんだけどなあ」
 唇の端を歪ませて、細めた目で『本気だ』と言われても。
「ほ?ら、お願いしてごらん、トーリちゃん?」
 揶揄のたっぷり含まれた声音に、固く唇を引き結ぶ。その表情を見つめる了の指が、丸められた資料に食い込んでも、桃李の口は開かない。
 紙のシワが増えていく。
 ニヤニヤと不愉快な笑みは消えず、ずっと桃李の出方を待っている。それは、桃李の口が開いて、求めた言葉を言うまでだ。
 嫌悪と幾ばくかの恐怖。それ以上の怒りがミックスされて、ぐつぐつと音を立てて煮えたぎる。
「……返せ」
 かろうじて口にした言葉は、全く無視された。
 手を伸ばして奪い取ろうとしても、了はその前に破ることだってできるだろう。もともと、まともにやり合って勝てる相手でないことは重々承知している。
 いっそのこと、諦めるか?
 などと、桃李がまじめに検討し始めた時。
「もう、先輩も桃李も何ムキになってのさあ?」
 明るい圭人の呆れた口調が、場の空気を一気に和らげた。
「了先輩も大人げないんだからなあ……。それ、桃李の大事なもんなんだから、ね」
「だから、お願いしてみろって言ってんだよ」
「なんでそんなに可愛く言ってもらうのにし固執すんのさ。桃李困ってるよ」
「なら、おまえが言ってみろよ」
「え?」
 怒りを堪える桃李の反応が遅れた間に、二人の間で話はまとまっていた。
「了?、お願いだから、桃李の資料、返してやってね?」
 猫なで声で、上目遣い。
 わざとらしさがありありだったが、その表情は目が離せなかった。
「……何ていうか……、——堪らんな」
 どこか唖然とした了が、ぱさりと手の中の資料をテーブルに落とす。丸められた癖がついたそれが、ころころと桃李の方へと転がっていた。
 だが、桃李はそれに手を出すことはできなかった。
 何で……。
 今まで、冗談でもそんな態度をとることなど無かったのが圭人だ。可愛いと言われるのを何よりも嫌って、女っぽい仕草を毛嫌いしていたはずなのに。
 なのに、了に向けた表情に嫌悪の色は無く、明るくやりきった圭人。
 堪らない可愛さは眼福ではあったけれど、桃李の胸の内に冷たい空気が吹きすさぶ。
 相手が、了だから……。
 にこにこと楽しそうな圭人。
 堪らない、と呟いて、了が浮かべた苦笑の意味。
 
 確かに、堪らなかった——けれど。

「何だ、いらないのならやっぱり貰うぞ」
 呆然としているうちに、せっかく手元に転がってきた資料は、再び了の手の中に戻っていた。

?
6
 了の手の中に資料はあっさりと戻ってしまった。
 それを見た圭人が、「あ?あ」と苦笑を浮かべる。その時になって、桃李はまた奪われたことに気がついた。
「返せっ」
「だから可愛く言えば、返してやるって。今圭人がお手本見せてくれたろ。ほら言ってみ?」
「誰が! 何であんたなんかに、可愛く言わなきゃいけないんだよっ!」
「お前がそんな風に言ったら、可愛いからだろ?」
「誰が言うかっ!」
 冗談と揶揄。
 了がぶつけてくるそれらは、いつだって桃李を混乱させる。
 圭人の前ではできるだけ落ち着いていようと思うのに。体格や腕っ節はともかくとして、それ以外では了になど負けないほどに、頼りになる存在になりたいのに。
 やばい——。
 どう見ても、こんな乱暴者の了に惹かれている圭人の様子が、桃李を焦らせていた。
「ほらほら」
 その了が、犬の子と遊ぶように、目の前で資料をちらつかせる。言いつのる了に、桃李の心の中で本格的な殺意が生まれた。
 どうしてくれよう……。
 思うだけなら何でもできる。
 と、桃李の頭の中には、打ちのめされ地に這う了の姿が浮かんでいた。
 だが、暴力は決して実行には移せないのも桃李だ。
 そして。
「返して下さい」
 苦渋の末の言葉は、そんな程度。
「先輩、お願いですから返して下さい」
 色っぽさも可愛さも欠片もない低い声音に、了は苦笑を浮かべた。
「可愛くって言ったはずだけどな」
「俺に可愛さを求めても無駄です」
「言えば可愛いと思うぜ? 十分に」
 二人の言い合いをBGMとしか思っていない圭人は、手持ち無沙汰のあまりいつの間にかジュースを頼んで飲んでいた。
「可愛いって、そればっかり」
「ああ、そりゃ可愛いのが好きだからな」
 桃李を見つめてはっきりと言った了を、苦々しく見つめた。
 どうやっても、この男に圭人を渡すものか。
「とにかく、返して下さいって」
「お待たせ。……どうしたんだ?」
 再度の懇願。
 それに被さったのは待望の蓮の声だった。
 桃李一人険悪な雰囲気に訝しげに首を傾げている。そんな蓮に、了が「これこれ」と桃李の資料を手渡した。
「ああっ、見せんなよっ」
「ああ、これ、ね……」
 くすくすと笑んでいる蓮は一瞥しただけで、その正体を知ったようだ。
「提出は済んだんだろう? この資料を使っているってことは、ちゃんと調べられているってことで、良い点をもらえるんじゃないのかな」
 顔だけでなく頭も圭人以上の才がある蓮に言われれば、ホッとはする。けれど、頬も熱い。
「返して、ください」
 視線を合わせぬままに手を伸ばせば、その手のひらにぱさりと資料が落とされた。
 ようやく返された資料にほっと息をついて、奪った了を睨む。だが、どうしたの? と隣の蓮が目線で問うてきて結局曖昧な笑みを浮かべて、何でもないと首を振った。
 穏やかで、相手をたてるのがひどく上手な蓮。けれど人の上に立つ者の気風はすでに十分あって、彼が何か言えば了すら逆らえない。いや、逆らおうなどとは思う間もなく、従っているのだ。
 桃と猿と雉と犬。
 桃太郎の話では、リーダーは桃太郎だ。けれども、桃李達の場合は、リーダーは雉だ。
 普段は粗暴で、唯我独尊を地で行く了も、蓮の言葉に逆らうことはあまり無い。
 桃李とて、後から蓮の言葉に従っていたと気が付いて、何やってんだ、と一人突っ込むけれど、それでもそんな程度。
 尊敬に値する人物で、確かに凄い人だと言うことは判っていた。
 だが、だからこそ、桃李は蓮が少し苦手だった。
 蓮といると、自分がまだまだ子供だと再認識してしまうのだ。圭人のためにも強くしっかりとした男になりたいのに。
 相手の幸せを願ってその人との約束を守り通した祖父のような、強い男になりたいのに。
 今も、蓮は当然のように桃李の隣に座っているのだけど。
 なんだかいつも隣から視線を感じているようで、気になって仕方がない。
 ついでに、圭人も了もこっちを窺っているような気がしてならない。
「それで? 蓮、今日はどっか行くのかよ?」
「見に行きたい映画があるんだ、どう?」
 幸いにも皆好みが似か寄っていたから、蓮の言葉に否を唱えることはほとんど無い。
「良いんじゃねえの」
 了も乗り気ではなさそうな口ぶりではあるけれど、瞳は楽しそうに蓮を見つめている。
「映画何時からだ?」
「えっと……15時からと19時だね」
「オールナイト?」
「でもないけどね」
「だったら、15時からの観て、その後俺んちで遊ばねえ?」
「ええ、猿野先輩家?──っ痛!」
 圭人が引きつった笑みを見せて、了がその頭をこづく。
「俺の家だと文句あるのか?」
「……だって」
 圭人はすっかり了に懐いていて、子供じみたふて腐れた様子を露わにしてつっかかる。けれど、それはただのじゃれ合い程度。
 了も判っているから、ぐりぐりと拳を当てながらも、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「先輩ん家、飲み屋のど真ん中にあるんだよなあ……。この前行った時、綺麗なお姉さんに遊んでいかない?って誘われてさあ」
 からかってのんがもろ判りっつうの……。
 という言葉に、桃李すら吹き出して、睨まれた。
 確かに、歓楽街のど真ん中、地階から四階まで飲み屋系の店が入っているビルのその上の階を居住区にしている了の部屋に行こうと思うのは、躊躇われるものがあった。まして、童顔な圭人は一人歩いていれば確実に補導されるだろう。
「まだ時間が早いから良いだろ?」
「帰りだよ、帰りっ。ちょっと君たち?なんて声かけられるのは僕たちなんだよっ」
 せいぜい高校生にしか見えない圭人にとっては切実な問題だと声高に言い募る、と、了があっさりと言い切った。
「だったら、泊まれば良いんだよ。じゃ、今日はそういうことで」
 反論の余地など無い。
 蓮は仕方ないなあと笑って肩を竦めているだけだし、圭人ももともと一人暮らしで、了の所に泊まっても普段と変わりないと思っている。というより、一人だと寂しいのだろう。前に一度泊めて貰ってから、味を占めているようであった。
 今も、もしかしたら狙ったのかもしれない。
 ずいぶんと嬉しそうな圭人に、桃李の眉間のシワが深くなる。
 今まで圭人とのじゃれ合いをするのは桃李の特権だった。圭人と一緒にいて、圭人と同じ部屋に泊まって。一晩中戯れ言を言い合って。
 たまにはふざけて絡み合って、プロレスの真似ごとまでして、あまりの身近さに慌ててトイレに駆け込んだこともあった。
 四人で連むようになって、二人っきりというのが必然的に減ってしまった上に、了と圭人の仲良さそうな様子に、時折今の関係を作ってしまったことを後悔する。
 けれど。
「桃李は? 乗り気じゃない?」
 不安そうに眉尻を下げた蓮に眉間のシワを突かれて、慌てて首を振る。
「そんな事無いです」
 了は嫌いだ。
 だが、蓮に嫌われたくはない。この人に悲しい顔をさせるのは嫌だった。
「楽しみです」
 それは本音といって間違いない。
 蓮は常ならば近寄ることもなかった人だろう。父親の仕事の関係で、つきあいはあるかもしれないが、それだけだ。
 立ち居振る舞いも優雅で、洗練された衣服と物腰。気にはなっても、桃李とは格差が激しすぎて、こんなこともなければ一緒にいる事なんて考えもしなかった。
「良かった。今まで忙しくて、なかなか一緒に行けなかったものね。今日は大丈夫だろうって思ってたんだよ」
 にっこりと微笑まれて、知らず頬が緩む。心なしか熱くなる体を持てあましながら、桃李も笑みを浮かべた。
 圭人に近寄るやっかいな男も、ボディガードとしては申し分ないのだから。
 その男の、ちらりと窓際に向けた視線が、すうっと細められた。
「なんかうぜえ奴らが来そうだから、さっさと行こうぜ」
 笑みを引っ込めた剣呑さを孕んだ声音に外の通りを見やれば、目をぎらぎらさせた女性陣。
 あれは、蓮を狙っている人達だ。
 長い攻防の末、了が女性には暴力を振るわないとバレているせいで、彼女たちの攻勢は諦めを知らない。
 それでも、了がいなければ今頃この店は、彼女たちでいっぱいになっていた。
 こうなれば。
「逃げるが勝ち。ってことで、俺ん家で合流な」
「了解」
 蓮が微笑みと共に頷いて。
 桃李と圭人も、苦笑いで頷いた。

?
7
「雉と桃と犬は猿に守られて、隠れ家へと向かいました、ってとこかな?」
 待ち合わせ場所の了の部屋に向かいながらぽつりと呟いたセリフは圭人のもの。一度家に帰って泊まる用意をするために、二手に分かれた後のことだ。
 わずかな間の後に、桃李は吹き出した。だが、圭人が笑い出したのが見えたら、その笑みは勝手に消えてしまった。
 これ以上、あの男に守られたくはない。けれど、今の圭人は彼から離れようとはしない。
 どうも了にいたいしてはいろいろな感情が交錯してまう。
 だから、できれば離れたかった。
「でもさあ、先輩って猿って言うか、鬼だよね。ってことは、これからいくとこは鬼ヶ島? でも温羅だったら鬼の城(きのじょう)ってことになるかな」
 けれど、吹き出すように続けた言葉に、ひくりと頬が引きつった。
「何で?」
「ん、容姿も態度も眼光もさ、あんま良くないじゃん。知らない人達はまず間違いなく避けるし、ね。でも、僕たちには優しいじゃない? わざわざ悪役になってくれているもん」
「そりゃ、容姿とか態度はまあ……そうだけど……」
 続く言葉をどうしても口に出せなかった。
 確かに圭人と連には、優しい。邪な輩が現れたときには、了が必ず進んで矢面になってくれていた。
 ボディガードと言えば言葉が良いが、実際のところそのための礼などしたことなどない。
 嫌われ役を進んでやる了は、圭人の言うとおり優しいのだと言えるだろう。桃李とて、そのことについては否定しない。
 けれど。
「桃李は鬼好きだから、了先輩なんて理想なんじゃない?」
「え?」
 ひくりと引きつった顔に気づかない圭人が、言葉を継ぐ。
「だってさ、体格も立派だし強いし、顔も怖いけど、あれって凄んでいる時だもんね。普段は可愛いよお、見ていて飽きないよ。なんつうか、どっか抜けているよ」
 あれが、可愛い?
 とうてい同意できない言葉を、桃李は苦笑して逃した。
「凄いよなあ、先輩って結構優秀らしいよ。この前、工学部の教授が先輩に話しかけてきたもんな。勧誘されてたっぽいよ」
「へえ……」
「それにパソコンとか……先輩ってプログラミングできるんだって。今度教えてもらうんだ」
 彼を褒めたたえる単語が圭人の口から飛び出すたびに、胸の奥の澱みがぐつぐつと煮立っていく。最初は小さな泡立ちが、ぐらぐらと煮こぼれんばかりに激しくなっていくのだ。
「蓮先輩も凄いけど、了先輩もやっぱ凄いよ」
 遠い目をして嬉しそうにその名を口にする。
 そんな圭人の表情は知らない。
 今まで、誰の名を言ってもそんな顔はしなかった。
 まして、桃李の名を呼んでも絶対にそんな顔はしない。
「今日も楽しみだなあ」
 楽しそうな圭人の笑顔に、顔が歪みそうになるのを何とか堪えた。
「……そうだね」
 声音が震えなかったが限界。
 俯いて、ギリッと奥歯を噛みしめる。
 本当は行きたくない。
 けれど、圭人一人を了の元にやるわけには行かなくて。
 了の部屋に向かう電車か事故でも何でもいいから止まれば良いのに。
 順調に動いている電車に八つ当たりはしたものの、そんなことで電車が事故などするわけもなく、定刻通りに最寄り駅に到着したのだった。
 歓楽街にある瀟洒な六階建てのビル。
 そのオーナーが了だ。
 一階と四階まではバーやキャバレー、地階にはホストクラブがあるらしい。その店の入り口横にある狭い階段とエレベーター。どちらかを使って五階まで上がれば、そこが了の部屋だ。
 初めての時は、了に案内されながら周りが気になって仕方がなかった。
 遊びに行って夜更けに寄った時などは、きらびやかな衣装と派手なメイクの女性にウィンクされて、慌てて逃げたこともあった。
 そんな了の住処は、同じビルだというのに他のフロアとは雰囲気が全く違う。
 キーを差し込まないと上の階には辿り着けないエレベーター。階段も四階より上に上がるには厳重なセキュリティがかけられたゲートがあって、専用の鍵か、中から開けてもらわなければならなかった。
 その鍵を了は二人に渡してくれている。
 最新セキュリティで固められた圭人の住むマンションもたいしたものだと思っていたけれど、了の部屋はまた別物。
 メゾネットタイプの部屋は広く、四人で泊まっても狭くはない。
 初めて見たとき特に驚いたのは、寝室や自室に飾られている写真群だった。
 了の趣味が写真だと知って、幾分意外に思ったけれど。
 特に寝室に飾られていた写真には目を瞠った。全てが、著名な写真家が撮ったものだと言う花の写真ばかりだったのだ。
「俺の腕じゃあ、こんなに綺麗には撮れねえからな」
 そう言う了の写真はここにはない。彼らの撮った写真に近いものが撮れれば飾りたいと、了が呟く。
 山一つが梅園の、白梅と紅梅が咲き誇る写真。
 桜並木が続く土手の風景。
 そして、平原に広がる満開の桃。
 桃李の足がその場に止まったのは、ひどく懐かしい風景だったからだ。
 品種が違うのか、桃李が知る色合いとは微妙に違う。それでも、高台から撮った一面の桃畑は、記憶をくすぐる。
 それを見て、圭人が「桃李の桃園だ」と騒いで、桃李の父親の実家が桃栽培を遣っているとバレたのだけど。
「桃のはっきりとした色合いは、桜よりも好きだな」
 桃の花を褒められて、それだけは悪い気がしなかった。

 そんな了は有名な会社の御曹司というわけではない。
 ただこの界隈では名の知れた実業家を親に持っていた。しかも、かなり顔が利くのだと蓮からも聞いた。
「それって、ヤクザ?」
「似たようなものかもな」
 ポカンと口を開けていた圭人の問いに、ふてぶてしく嗤って答えた了が、どこまで真実を言ったのかは判らない。
 それでも、彼の姿を目にした近隣の店主達が、ひどく緊張した姿で深々と頭を下げるのを見ると、嘘ではないのかもしれない。
 だが圭人は、「親が誰だろうと、先輩は先輩じゃん」と気にする様子もなかった。
 確かに、そうなのかもしれない。
 けれど、そんなふうに思えるほどに圭人が了を気に入っているのだと思うと、これはまた問題だった。
「おせえよ」
「うわぁ、先輩格好良い?」
 圭人が感嘆の声を上げる。
 確かに、タバコを口に銜えて不敵に笑う了は、着崩したスーツがやけに似合っていた。
 思わずまじまじと見つめてしまって、ニヤリと笑っている視線と絡んだ。ハッと気が付いて、とっさに視線を逸らす。
 首筋から頬にかけて熱が上がってくる。
 悔しいから──だからだ。
「先輩って、何着ても似合うけど、スーツが似合うね。やっぱり肩幅があるからかなあ?」
「お前だって似合うだろ? 入学式の時は可愛かったぜ?」
「……七五三みたいに、だろ」
 ふくれっ面ではあるが、その口元は笑っていた。
 あの時、友人に言われたと怒っていた時とは、全く雰囲気が違う。楽しそうなその姿を、桃李はムスッと不機嫌さを漂わせて見つめていた。
 こんな奴、場末のキャバレーの用心棒みたいなもんじゃねえか。
 そこまで出かかった言葉をかろうじて飲み込む。
 そんなことを言えば、圭人を不機嫌にさせるから、というそれだけのために。
「おい、いつまでもそんなとこ突っ立ってねえで入れよ」
 気が付けば、圭人はさっさと先に進んでいて、了が苦笑を浮かべて桃李を窺っていた。
「俺に見惚れてぼんやりしてたんか?」
 なおかつそんなことを言われて。
「そんな訳無い」
「嘘付け」
「違いますっ」
「まったく、素直じゃねえなあ。ま、そんな拗ねた様子も可愛いっちゃ、可愛いけどな」
 あからさまな揶揄に、ムッと眉根を寄せて睨み付けた。
「圭人ならともかく、俺なんか可愛い訳ないだろ」
 無性に腹が立って、視線を合わせないままに了の横を通り抜けようとして。
「待てよ」
「っ痛っ!」
 力強い指が腕の肉に食い込む。
 鋭い痛みに顔を顰めて、頭一つ上の顔を睨む。と──。
「えっ」
 あまりにも近い距離に、了の顔があった。
 吐息が触れる距離で、了の口元が笑みを作る。とっさに顔を背けたが、すぐにあごを掴んで引き戻された。
「お前が可愛い、と、俺は言ったんだがな?」
 掠れた声音。
 鼓膜に響く重低音が、体の芯まで響きそうになってぞくりと肌が粟立つ。
「圭人よりもお前の方が可愛いぜ」
 ──何を言っているんだ、こいつは?
 身の内をさざ波のように震えが走っていく。悪寒と大差ないそれが、ぞわぞわと全身に広がっていくのだ。ずくんと、下肢の付け根がに痺れが走った。うまく足が動かないほどに、やけに突っ張る。
 がくがくと震える両足に力が入らなくて、その場から逃げ出すことができなかった。
 了の風貌が怖いのはもう慣れていた。なのに、知らない怖さが、桃李を支配する。
 このままでは、包み込まれて、逃れられなくなる——と、危機感ばかりが募ってきて、激しい焦燥に襲われた。
「離せ……」
 声までも震えて、抑えようとごくりと唾液を飲み込んだ。
「嫌いか、俺が?」
 言葉が耳を素通りする。それよりも、近づく顔が怖かった。
 逃げなければ、と全身で抗うが、片腕とあごを捕まれているだけで、桃李の自由はどこにも無い。
「言ってみろ。お前の本音が聞きてぇんだ」
「あ、……い……」
 怖い。来るな。暑い。
 どくどくと鼓動が息苦しくなるほどに早い。
「桃李」
「い、嫌だ……」
「それがお前の本音か?」
 目の前の男の顔が、険しく歪んでいく。その目が桃李だけを見つめていた。
「嫌だ、嫌だ嫌だ──」
 怖くて、離れたくて。
 了を近づけてはいけない——近づけたら喰われてしまう。
 背筋を這い上がる震えに、桃李は闇雲に頭を振っていた。これ以上は、何かが自分の体の中で変わりそうだった。 だから、譫言のように言葉を繰り返す。 
「嫌だ、離して、嫌だ──」
「ふ、ん」
 呆れたように鼻を鳴らした了の体が離れる。
 途端に、がくりと体が崩れた。
 ずるずると壁を背に崩れ落ちる桃李を了はずっと見つめていた。桃李も視線が外せなかった。
 その顔にはいつも浮かんでいる小馬鹿にしたような笑みがなかった。小刻みに震える桃李だけを見つめて、暗い表情を隠しもせずに、了はその場に佇んでいた。

?
8
 了に見つめられているだけで、どこにも触れられていないのに、まるで縛られたように桃李は動けなかった。
 向けられた視線から逃れたいのに、身じろぎ一つできないどころか、視線を逸らすことすらできないのだ。
 そんな呪縛がいつまでも続くかと思われたのだが。
「どうしたの、二人とも?」
 訝しげな声音に、びくりと桃李の体が震えた。
 視線も動かせて、のろのろと動いた先に、蓮がいた。
「あ……先輩」
 途端に、呪縛が消えた。
 軽くなった心と体。ほっと息を衝く間もなく、立ち上がろうとした桃李の耳に、了のくすくすと笑う音が聞こえてきた。
「こいつ、床で滑って尻餅付いたんだよ。あんまり無様な転けように、俺も唖然としていたわけ」
 嘘八百を平然と言い募った了に、蓮もくすりと笑みを零す。
「ほんと? 大丈夫だった?」
 掛け値無しの労りの言葉に、桃李はがくがくと頷いた。
 ここで、了の嘘をばらす勇気はなかった。動けるようにはなったけれど、体の芯はまだ震えている。
 逃げたい。
 体の芯にまで染み渡った恐怖に、桃李は心底逃げたいと切望していた。なのに、体は動かない。
 それに、体の強ばりは意外なところまで広がっていて、そのことに桃李は別の衝撃を受けていた。
 何で……。
 シャツの裾で、誰の目にも触れてはいなかったが、自身のことだから見なくても判っていた。
 下肢の付け根、いつもは柔らかく収まっているそれがむくりと鎌首を持ち上げて、ジーンズを膨らませているのだ。
 ドクドクと胸の奥で心臓が早鐘のように鳴り響く。
 荒い息をごくりと飲み込んで、必死で整える。
 なんで、了に迫られたくらいで。
 回らない頭で必死に考えた。

「それで、圭人は?」
「ああ、もう上に」
「そう」
 目の前で穏やかに会話する二人を見つめながら、桃李は力の入らない足腰を叱咤激励してのろのろと立ち上がった。
 同時に、昔聞いた話を思い出す。
 戦いの中での激しい昂揚感や身の危険などで男は簡単に勃起してしまうという話。それは子孫を残そうとする雄の本能から来るのだと聞いたけれど。
 だからだ。
 桃李の結論に『違う』——と何かが訴える。けれど、桃李はそれを無視した。
 無視しないと駄目だ、と思った。
「先輩?、桃李、何してんの? あ、蓮先輩も着いたんだ?」
 メゾネットの階段の上から圭人が明るい笑顔を見せる。
「圭人……」
「ああ、すまん。すぐに行く」
 同時に、了の雰囲気もひどく柔らかくなる。それは、いつも自分たちに見せていたボディガード担当の了。
 ならば先ほどの了の姿は何なんだ?
『温羅って鬼みたいだよ』
 違う。
 階段を最後尾で上がりながら、思い出した圭人の言葉を桃李は首を強く振って否定した。
 温羅は民に優しかったはずだ。
 あんな怖い一面なんか見せなかったはずだ。見せたとしたら──それは、敵であった吉備津彦野命……に、だ、け……。
 浮かんだ想像に、ぎくりと体が強ばる。
 残り一段の階段を残して、桃李はその場に立ちつくした。
 吉備津彦野命は、後に桃太郎の元になった人。
 温羅にとって桃太郎は、己を滅ぼした天敵だ。
 だったら、温羅にたとえられた了にとって、桃の名を持つ桃李は憎むべき相手で──。
 だから、あんな怖い顔で桃李を見て、可愛いなんて、からかった。
「まさか……」
 ひくつく頬で笑いながら、そんな馬鹿な考えを否定する。
 しょせんはおとぎ話。伝承の話だ。
 そう思うのに、桃李は何故かひどく切ない気分で俯いた。
 了と仲良くしたいと思わない。嫌われているなら、それで良い──と思っているのに、それは間違いないのに。
 顔を上げた先に、みんなが揃っている部屋が窺えた。圭人の楽しげな笑い声が聞こえるのに、桃李はまだここにいる。
 ずっと一緒にいた圭人は、もう向こうにいて。
 桃李一人ぽつんと取り残されているようで、
 立ち止まった場所からそこまで、後一段の階段がひどく高く感じた。 
 

 挙動不審としか言えない了の行為は、あれから何度も繰り返された。
 圭人や蓮がいれば、単なるじゃれ合いでしかない掴み合い、口喧嘩まで。そこに、あの恐怖はなかった。
 だが、桃李と二人っきりになった途端に、了の顔から楽しそうな笑みが消える。視線は冷ややかなものになり、口元に嘲笑が浮かぶ。
 それは、厄介な輩相手に了が凄んでいるときよりも怖い表情なのだ。
 そんな表情で、了は桃李に近づき口を開く。
「その顔も可愛いな」
「嘘付け」
「本気だ」
「嘘だ」
 その手が怖くて、桃李は逃げる。
 途端に、了の表情は剣呑そのものに歪んで、逃げようとする桃李を縛り付けた。
「そんなに俺が嫌か?」
「……何で、俺にそんなことばっか言うんだよ?」
 どう考えたってからかわれているとしか思えない。
 やたらに体格の良い了からすれば、桃李など線の細い優男にしかならないだろう。けれど、顔などその辺りにいる男どもと対して変わらない。可愛いという言葉は、圭人のような相手にこそふさわしい。
「桃李が可愛いから、だな」
「……」
 埒が明かない。
「うそ、つけ……」
 こんなにも嫌な揶揄をされるほど、桃李は了に嫌われているのだ。
 了のお気に入りは、蓮と圭人。そこに桃李は入れない。
 その証拠に、了の揶揄は二人だけの時にしか無い。
 胸に打たれた楔となって、じわじわと痛みを与える事実。
 桃李は、目を伏せて了の言葉を無視する。そのうちに、圭人達が来て、二人っきりではなくなるから。
 険悪な雰囲気も、圭人か蓮が来ればあっという間に霧散した。
「何、話していたんだい?」
 ふわりとした笑みの蓮の問いに、了は肩を竦めて、平然と嘘八百を口にする。
「こいつが受けている授業の話をな。どんなことがあるのか、とか。予習をな」
「ああ、桃李は勉強熱心だよね」
「そんなことないけど」
 和んだ空気に安堵したのと、蓮に褒められたのとが相まって、知らず頬が熱くなる。
「今きちんとしていると、結局は自分にプラスになるからね」
「良いなあ、僕も先輩たちが受けた奴とれば良かった」
 拗ねた口調の圭人に、蓮がくすりと笑みを零した。
「圭人は、僕たちに聞かなくても大丈夫だよ。この前の試験も良かっただろう?」
「まあ……そりゃ、何とかなったけどなあ。でも、がんばらなきゃって思うし」
「うん、圭人も勉強熱心だよね」
「えへへ。蓮先輩に褒められるとうれしいなあ」
「何かあったら、教えてあげるから遠慮無く言っておいでよ?」
「もちろん、何か無くても聞きに行って良い?」
「もちろん良いよ」
 わあい、と小さい子供のようにはしゃぐ圭人を、蓮も了も愛おしい子を見るように見つめている。その口元に浮かぶ優しい笑みに、桃李の胸がきしっと軋む音を立てる。
 今の桃李には、圭人に教えることなど何もないから。
 了のように守ることはできないから。
 
 あの時から桃李の胸の奥底に芽生えた疎外感は、日に日に大きくなっていく。
 ぎらぎらと照りつける夏の太陽が肌を焦がすほどの暑さを与えているのに、桃李の心はなぜだが「寒い」と凍えていた。
 

続く