桃の花咲く鬼の城 後編

桃の花咲く鬼の城 後編

9
 夏休みに入り、圭人や蓮たちと出会う機会はかなり減った。
 高校の時の友人と会うこともあるが、ほとんどはバイトかバイトが無ければ家でごろごろしているか。
 その日も朝寝をしていて、カーテン越しでも弱まらない日差しに炙られて、汗だくで目を覚ましたくらいだ。
 滝のような、と言っても過言でないほどの汗をシャワーで流し、ほっと一息衝いた桃李の鼻孔に、甘い匂いが漂ってきた。
 これって。
 匂いの元を想像し、桃李の顔に満面の笑みが浮かんだ。
 バタバタと匂いの元を辿っていく。
「桃、来たんだ?」
 そこでは、ガラスの器に盛られた白い果肉が芳香を漂わせていた。
「ええ。今年はとても良い出来だそうで。お中元の手配の時に、一緒に贈ってくれたの。でも、これでも規格外で商品にならない桃なんですってね」
 白桃の化粧箱には入っているそれ。
 確かに店で見かける桃に比べれば、歪で小さい。
「あ、美味しい」
 ぱくりと頬張れば、瑞々しい果汁が口いっぱいに広がった。
「ほんと、もったいないよなあ。売り物と変わらないのにね」
 父の実家から届けられる白桃は家族全員の好物だ。この桃を食べると、他所では食べる気はしない。それほどまでに、瑞々しくて甘い。
「屑でもこれだけ美味しく作れる兄貴の桃なら、贈っても安心だな」
 幼い頃から食べ親しんでいる桃を食べる時、いつもは厳つい父親も、子供っぽい表情を浮かべる。
 それにくすりと笑んで、まだたくさん箱に入っている桃を指差した。
「ちょっと持ってって良い? 圭人んとこ」
「ええ、もちろん。だったら、あっちの綺麗なの持って行きなさいよ」
 お裾分け用も貰っているの。
 と微笑んで、母が袋を用意してくれた。
「はい、これね」
 ずしりと重い袋を受け取って、覗き込んだら、大きな桃が5つ。
 圭人も、この桃が好きなのだ。
 持って行ったら、課題の一つもやってくれるかも知れない。
「ありがと」
 打算にほくそ笑み、母に礼を言って家を出る。
 子供の頃からよく知っていて、しかも秀才かつ優等生の圭人は親の印象も良くて、遅くなっても文句は言われない。もっとも、他の誰とも遅くまで遊ぼうなどとは思わない。
 圭人だから、一緒にいたい。
 会えると思うと、自転車を漕ぐ足にも力が入った。


 自転車で向かってもそう遠く離れていない圭人の家。
 桃李が住む一軒家とは違い、圭人はセキュリティが効いたマンションの一室に住んでいる。実家はそう遠くない場所にあるのだが、年の大半を海外で住む両親の持ち家たる家は一人で住むには広すぎて、勝手が悪すぎるのだと言っていた。そのために用意されたマンションは、了のところよりは狭いが、それでも大学生が一人暮らしするには広いということは知っていた。
 もっとも、セキュリティが万全と言っても、桃李は圭人から鍵も暗証番号も聞いていた。
 だから、いつものように玄関のドアを開けて。
 そのままずかずかと上がり込んで。
「圭人?」
 リビングに誰もいないなら、こっちの部屋か、とドアの前で声を掛けたのと、ドアノブを捻ったのは同時だった。

 ひっ、と、喉が無様な悲鳴を上げた。
 真っ白になった頭が、すべての思考を拒絶する。体は、完全に硬直して、桃李の手はドアノブを握ったままだった。
 ただ、左手の指から力が抜けて、ごとりと鈍い音がした。
 ああ、桃が落ちた。
 と、頭は理解しているが、それだけ。
「と、とうり……」
 逸らせない視野の中で、圭人が震える声で名を呼ぶ。
 薄いブルーのシーツから覗く健康的な肌の色。筋肉のあまりついていない肩まで、手がシーツを持ち上げていた。その鎖骨のくぼみに浮かぶ、やたらに目立つ朱色の染み。
「何だ、桃李だったんだ」
 柔らかな物言い。耳に優しく染みこむ声が笑っている。
「びっくりしたよ。誰もいないと思っていたのに、急に開くから」
 むくりと起きあがった白い後ろ姿。
 きれいな形の肩胛骨が、くりっと動く。流れ落ちたシーツから覗くのは、髪を除けば肌の色だけだった。
「でも、ノックぐらいはちゃんとしようね」
 振り返った顔が優しく笑う。
 日の光に照らされた髪が金色に光り、濡れた唇が妖しく弧を描く。
「あ、……何で……」
 なぜ、蓮がここにいるのか?
 しかも圭人のベッドの上で?
「ふう……良いとこだったのにね」
 ちゅっと音を立てて圭人の頬にキスを落とす。
「れ、蓮っ」
 真っ赤になってますます深くシーツに隠れようとする圭人を、「ごめんごめん」と明るく腕で包み込んでいく。
「ほんと可愛いよ、圭人は」
 動いた拍子に、連の体からさらにシーツがずり落ちた。
 腰から下。
 臀部の双丘がかろうじて覗くほどに。
 蓮は、下着すら身につけていなかった。


 気がついたときには、どこかの公園のベンチに座っていた。
 熱い日差しに人影は少ない。
 桃李が座っていたのは、その中でもなんとか木陰に入っているベンチだった。
「う、そ……だろ……」
 呆然と呟いて、頭を抱えた。
 ようやく正気に戻ってきた頭が、先ほどの出来事を繰り返して桃李に見せつける。
 嫌だと思おうにも、記憶は容赦なく桃李に現実を知らしめた。
「け、いと……」 
 音に気付いて隠そうとしたのだろうけど、隠しきれなかった白い肌。
「くそっ」
 鋭く走る胸の奥の痛みは、どんなに毒づいても消えることなどない。
「なんで……?」
 呟く桃李の脳裏に浮かぶのは、いつもの圭人。
 可愛くて、頭が良くて、元気で明るくて。微笑まれると、堪らなくホッとして。
 なのに、今日の圭人はそのどれもと違っていて。
「圭人……」
 驚愕の中でも、今まで見たこともないほどの艶を浮かべた圭人。
 無理矢理だったんだ、と思いこもうとしても、それは徒労でしかないことも十分判るほどに、圭人は蓮に縋っていた。
 しかも。
 桃李を目にした蓮が瞳で言っていた。
 ──貰ったから。
 優越感に満ちた視線が、頭から離れない。
 了は危険だと思っていた。だからこそ、絶対に圭人一人を了に会わせることなんかしなかったのに。
 だが、蓮は——。
 できるだけ一緒にいようとはいたしたけれど、了ほど警戒はしていなかった。
 大丈夫だ、と。
 ——信じていた、のに。
「圭人……」
 ずっとこの手の中にあるのだと。
 不安が無かったとは言えない。けれど、それは今すぐのことではない。と、闇雲に信じ込もうとしていた。
 圭人から離れることなど無いのだと、信じていたのだ。
 それがとんでもない幻想だったことに、桃李は今初めて気が付いた。

 いつまでも手の中にあるとは思ってはいなかった。
 そんなことは判っていた。
 けれどこんな結末なんて考えもしなかった。
 同じ大学に入れて、合格を二人で喜んだことがつい昨日のことのように思い出される。
 入学式の圭人の晴れ舞台。
 可愛いスーツ姿。
 いつまでもいつまでも手の中に閉じこめておきたいと思った日。
 だが、その日有った出会いが、こんな結末を迎えさせるとは、夢にも思っていなかった。


 どうやって家に帰ってきたのか判らない。
 炎天下にいたせいか、頭痛が酷く冷蔵庫にあったスポーツ飲料を一気に飲み干した。薬をなかば噛み砕くように飲み込み、自室のベッドに倒れ込む。
 その拍子に目の前に転がった携帯電話を取り上げて、フラップを開けた。
 もうずいぶん前に、着信があったことは知っている。
 けれど、まだそれを桃李は見ていなかった。 
 見なくても、相手が誰かが判っていた。
『ごめん』
 短いタイトル。
『話がしたい』
 二つめのタイトル。
『桃李、連絡して』
 繰り返されるタイトルのアドレスはすべて同じ。、
 受信一覧の中のそれらを、桃李はじっと見つめていた。
 省電力モードのせいで、しばらくすると画面は暗くなった。すぐに指が動かして画面を明るくした。
 だが、それ以上のことはしない。
 いつまでもいつまでも同じことを繰り返して、ただ、タイトルだけを見つめる。
 怖くて、内容を確認する勇気が湧いてこない。
 想像できるそれが、きっとそのまま表示される。
 圭人と蓮がいつの間にかできていたこと。
 桃李がかけらも気づかなかったそれが、事実であること。
 決して無理矢理には見えなかった二人の様子が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
「あはは……」
 暗い部屋に、笑い声が響く。
 震える喉に、自分が笑っていることに気が付いた。気が付いて——止めようとは思わなかった。
「あはははっ……ははっ……」
 目尻から頬を伝う滴がくすぐったい。
 文字がぼやけてなんと書いてあるか読めなくなる。
 携帯の画面がふっと消えて、何も映さなくなって。
「あはっ……ははははっ…くっ……はははっ……ひっ……」
 こみ上げる嗚咽を堪えるように、肩を掻き抱く。
 ベッドの上で全身を小さく折り曲げて、嗚咽と笑い声を漏らして。
「け……いとっ……、……ひっくぅ……、圭人っ……くそっ」
 失恋なんかで泣くなんて、と情けなくて。
 いつまでも手を出さないでいるから、と悔しくて。
 何で気づかなかったんだろう——と、自分がバカでしょうがなくて。
 ごっちゃまぜになった感情はもう我慢なんかできそうになかった。けれど、必死になって声を抑える。
「ちく——しょっ…………」
 食い縛った奥歯の隙間から、我慢しきれなかった言葉がこぼれた。

 桜の花の下。
 小さい圭人や大きな圭人。
 いろんな圭人が消えていく。
 桃李がずっと見つめて、大事にしてきた圭人との記憶。
 ふわりふわりと笑顔で消えていく。
 大事な——相手。
 それを桃李はじっと見つめていた。
 見つめることしかできなかった。


10
 玄関のチャイムが鳴っていた。
 朝から体調が悪いと言い切って、ベッドに潜り込んでいた桃李の耳にもそれは届く。
 階下の人間は誰もいないと知っていた。だが、鍵がかかっているそれを開けに行く気力などどこにもなくて、桃李は居留守を決め込んだ。
 けれど、それはいつまでも鳴り響く。
 間隔を置いて、反応がないことを確認するとまた鳴って。
 5分ほどは鳴り続けたろうか。
「うるさい……」
 桃李は相手が誰かだけでも確かめようとのろのろと立ち上がった。
 頭の中がどんよりとして重い。
 ポテポテと廊下を歩き、玄関のインターホンへと向かった。
 腫れぼったい両目をごしごしと腕で擦って、カメラが写すそれを見やって。
「うそ……」
 ガタンと背後にあった棚の置物が音を立てた。
 知らぬうちに後ずさっていた桃李の口が開いたまま震える。呼びかけられても両手で口を覆ったまま動くことなどできない。
『桃李、いるんだろ?』
 まるで中から音が聞こえたとでも言うような、ふてぶてしい笑みが見える。
『開けろよ。開けるまで鳴らし続けるぞ』
 命令に思わず首を横に振る。向こうからはこちらは見えない、音も漏れるはずがない、と頭では理解しているのだが、了の態度が自信を喪失させるのだ。
 何か言われるたびに反応しそうになって、慌てて自制する始末。
 よりによってこんな時に。
 桃李は、顔をきつく顰め、よれたパジャマの裾をぎゅっと握りしめた。
 開けるつもりどころか、反応するつもりなど毛頭無かったけれど。
『何だったら、玄関を蹴り破っても良いぜ?』
 物騒な言葉を吐いて、画面から了の姿が消えた途端、桃李は叫んでいた。
「待てっ!」
 了ならやりかねない。
 だが、そんなことをすれば、契約しているセキュリティシステムが作動して、警備会社に通報される。
 蹴破られたドアは、了が犯罪者としての証拠になるだろう。
 そのあまりにも似合いすぎる光景は容易に想像できた。そのとき、咄嗟に体が動いたのは、無性に込み上げてきた焦燥のせい。
「開けるっ!」
 ガチャ
 桃李一人息せき切った様子で佇む玄関口。開いた扉の向こうで、仁王立ちをした了がニヤリと口角を上げて、そんな桃李を見つめていた。


 良いとも言わないうちに、了はズカズカと入ってきた。勝手に階段を上がり、前にも訪れたことのある桃李の部屋に入っていく。
 と同時に、くんと鼻を鳴らした。
「甘い匂いがするな」
 首を傾げ、ちらりと桃李を見やる。
 けれど、桃李は反応せず、じっと床を見つめていた。
 どうやったら帰るだろう?
 了の笑みを見た途端に、開けたことへの後悔が押し寄せた。できることなら過去に遡って、自室のベッドから一歩も出ないように自分に言い聞かせたかった。
 けれど、了はもうここにいて。
「おい」
 黙りこくったままの桃李の視界に不意に了の顔が入ってきた。
「泣いていたのか?」
 眉間のしわがいつもより深い。それでなくても迫力のある顔を険しくさせ、桃李に詰め寄る。腫れぼったい顔は、ごまかしなどできようはずもなかったが、桃李は首を振って否定した。
「何で俺が泣いてなきゃいけないんだよ」
「そりゃあ、振られたからだろ?」
 嘲笑にしか見えない笑みを浮かべて、指先でからかうように眉間のしわを小突かれた。疲労の残った体は、簡単にふらつく。だが、そんなことより。
「な、何で……?」
 昨日の今日で、どうやって知ったというのか?
 血の気が音を立てて失せ、呆然と見つめる桃李に、了が呆れたように肩を竦めた。
「蓮と圭人がとっくにできてんの、知らなかったのはお前だけだからな」
「え……」
 了の言葉が脳を直接刺激する。言葉が刃となって、心を切り裂いていく。そんな桃李に、了は冷たく言葉を続けた。
「お前が圭人を好きなのもみな知っていた。圭人もな、気づいていたしな」
「う……そ……」
 愕然と了を見つめた桃李の血流がどんどんと早くなっていた。意識しなくても、脈の音が耳に響き、ひどく気に障る。
「まっ、バレバレだよな。お前の目は圭人しか見ていないし、俺がちょっかいを出したらてきめんに反応していたし」
 聞きたくない。
「圭人もどうしたものかと悩んでいて、その相談を蓮が受けて……」
「相談……?」
 けれど、聞きたい。
 二つの心がそれぞれに叫声を上げて、体を動かそうとする。
「……梅雨、その頃か……」
 けれど体は一つしかない。相反する動きに体よりも心が悲鳴を上げていた。
「その課程で、急接近したらしい。まっ、相手が蓮ならば、な」
 苦笑が浮かんだ了の顔がゆらゆらと揺れる。
「気が付いていたか? 俺たちの中で蓮が一番腹黒いってことを」
 聞きたい、聞きたくない。
 聞かせて、聞かせないでっ!
「蓮は、圭人を……」
「……やだ……」
 ぽつりと出た言葉は無意識のもの。
 ぐわんぐわんと鳴り響く頭を、桃李は両手で抱え込んでいた。
 痛い。
 耳の奥がうるさい。
 何かを了が言っている。
 音にならない何か。聞きたくない何か。心を傷つける何か。
「桃李?」
 何?
「……さい」
「桃李?」
「うるさい……うるさいっ……うるさいっ!!」
 響く騒音に叫ぶ。
 首を振って、音の源から逃れようと足掻く。
「桃李っ!」
「やめろっ! 嫌だっ!!」
 圭人が、蓮と。
 蓮が——圭人をっ!
「桃李っ」
「だって、圭人はっ、圭人を好きなのは……」
「ああ、お前だったな。だが、お前は何もしなかったから」
「だって、だって!」
「蓮は、狙った獲物は逃さない」
 両の手が頭を抱える桃李の両の手首を掴んだ。
 ぐいっと痛みを持って引き寄せられ、桃李の見開かれた視線が了へと向かう。
 桃李を見つめる了の細められた瞳が、ひどく強い光を帯びていた。逸らすことを許されなかった。
「蓮は、そのつもりでお前たちに近づいた。あいつは、圭人が気に入っていた。あのパーティの日からずっと、圭人を手に入れたいと願っていた」
「パーティ……?」
「3年前のクリスマスパーティだ。入学式の日に言っていただろ?」
「あの時……から?」
 圭人を知った日だと、言ってたあのパーティの日。
「なかなか見物だったぞ。あの蓮が一人の子供に魅入られていたんだから」
「蓮は微熱でね。大事をとって短時間ですぐに別室に退いたのだが、そこから映像でパーティの出席者をチェックしていたんだ。そのときに、圭人とお前の楽しそうな様子に気が付いて——」
 あの時から、圭人を狙っていたというならば、だったら。
「——行かなきゃ良かった……」
 心底悔いながら、呟いた。
「あんなパーティ、面白くもなかったのに——。親父たちが行けって……、けど……」
 過去に遡れたら。
 蓮に会わなかったら。
 パーティに行かないようにしたら。
 別の未来を思って、気が狂いそうになるほどに切望する。
 決して手に入れられないと判ってしまった未来を、だ。
 なのに——。
 目の前にいる男が、そんな桃李を現実に引き戻す。
「圭人も蓮に惹かれていた。この大学に入ったってことは、最初のきっかけはともかく、二人は否応なく出会う運命だったって訳さ。つまり——こうなるのは必然だった」
 何がどう足掻いても桃李には勝ち目がなかった、と指摘され、桃李はぶるぶると体を震わせていた。
「だ、だって……」
「お前は、圭人には手が出せなかっただろうしな」
「だって……」
 大切な圭人。
 傷つけたくもなかったし、何より、嫌われて自分が傷つきたくはなかった。
「本気の蓮には誰も敵わねえよ」
「そんなの」
 見る見るうちに顔が歪む桃李を、了も眉根をきつく寄せて見つめていた。
 だが、放つ言葉は桃李をひどく苛むものでしかなかった。
「もう、遅えよ」
「そ、んな——のっ」
 ひくり——と喉が震える。
 ぎゅっと握りしめた拳を腰まで上げて、固く目を瞑って。
「遅くなんか……」
 絞り出すように声を出す。
「そんなの、遅くなんか——圭人は、俺の……、俺が大好きな——」
「圭人は蓮のものだ」
「違うっ!! 圭人は、圭人は——っ」
「もう時は戻らねえよ。諦めろ」
 きっぱりと言い切られて、桃李の頭の奥の方でブチッと鋭い音がした。
 目の前が真っ白になる。
 胸の奥底でどろどろにわだかまっていた固まりが、むくりと鎌首を持ち上げた。
 手を突き出し、了の喉元を掴み上げる。見上げた瞳は、あふれる涙で完全に覆われていた。そのせいで、視界はすべてがぼんやりとしていた。その中で、了だけははっきりと見えた。
 その了目掛けて、すべてを吐き出す。
「それでも、それでも——っ、戻りたいっ!! あの時にまで戻って、戻ってやり直したいよおっ!!!」
 わああああああっ——。
 叫び、溢れる感情。
 もう自分が何をしているか、桃李の頭にはなかった。ただ濁流に放り出され、自分で自分を制御できない状態のままに押し流される。
「やだぁぁぁぁっ! わああぁぁぁぁっ!!」
 響き渡る桃李の慟哭に、了の顔が歪んだ。痛みを覚えたかのように歪み、くっと下唇に歯が食い込んで。奥歯をぎりっと鈍く鳴らして、顔を伏せた。
「ばかやろう……」
 零されたのは、本当に小さなつぶやきだった。
 桃李の慟哭に消されたそれは、誰の耳にも届いていなかった。ただ、一人了の瞳に決意の色が宿る。
 小さくうなずいて、手を伸ばす了。
 桃李は気づかず、なすがままになっていた。


11
 激情に身体の制御が効かない。
 がくがくと震える体を桃李自身の腕できつく抱き締める。その上から了の腕が回された。
 気が付いたのは、ぎゅうっときつく締め付けられたからだ。それでなくても、泣き叫んで呼吸が乱れていた。なのに、締め付けられてはその呼吸すらままならない。
 しかも、濡れた頬がざらりとした布地の触感を伝えていた。
 ぎゅっと後頭部を押さえられて、布地が頬に食い込む。流れていた涙がどんどん染みこんでいって、広がる。
「過去を思ったってどうしようもねえんだよ」
 低い声音が脳まで響く。
「どんなに悔いたって消えやしねえ」
 見開かれた瞳は、暗かった。ぼんやりとした視界は何かに包まれたように薄暗く、はっきりとしない。ただ、頭の上から了の声だけが響いていた。いつもより優しい声音。それ以上に、とくとくと耳に伝わる少し早い音が桃李の心に染みこむように広がっていく。
 荒ぶっていた波が、規則正しい音につられて、静かに凪いでいく。
「先輩?」
 息苦しさもあって、もぞもぞと顔を上げた。
「えっ?」
 近かった。
 まつげの一本一本までもがはっきりと見える距離。
 細められた瞳が、強く桃李を縛る。
 吐息がかかる距離で、肉厚の唇が動く。
「俺は、圭人のように明るくない。優しくもない」
 低くて静かだ。なのに、はっきりと響く。
 それでも、何を言おうとしているのか判らなくて、桃李はぱちくりと目を瞬かせた。
「けどな、蓮のように腹黒くもない」
 言いづらそうに、ひくひくと片頬がひくついていた。
 まるで怯えているように、瞳が揺らぐ。
「何、言って……」
 抱きしめられているせいか、ひどく熱くなってきて、桃李は身を捩った。途端に、腕の力が強まる。
 えっ、と再び了を見つめて——ひくっと全身が硬直した。
 既視感。
 過去にもあったこんな状況を思い出したと同時に、全身が震え出す。
 それに気づいたのか、了がくっと顔を顰めた。
「けど、お前のことは可愛いくて」
 ああ、まただ。
 怒りを孕んだ了の声音に、あの時と一緒だ、と思う。記憶が恐怖を助長し、体ががくがくと震える。けれど、それはまた了の思うつぼだと勇気を振るって震える体に活を入れて、逃げようと身じろいだ。
 暴れ出した体に、チッと了の舌打ちが鳴った。
「痛っ!」
 抱きしめられた体が軋むような音を立てた。鈍く広がる痛みに顰めた顔に、荒い息がかかる。
「……こんな時になんだけどな」
 その言葉の意味を理解する間はなかった。
 叫びに開けた口が、了のそれに覆われていると気づいたのは数秒後。
 悲鳴は了に吸い込まれた。
「あぅっ」
 仰け反った体は、さらにきつく締め付けられ、ますます強く唇を塞がれた。舌が奥深くに進入してきて、惑う桃李のそれを捕らえる。
 ざらりとした肉厚の舌が器用に口内に触れる。
 ざわざわと肌が総毛立つような感触が、桃李を襲っていた。舌がうごめくたびに弾け、より深いところで強くなって生まれる疼き。
「んっ……くっ——」
 舌先から全身へ、さらに下腹部へと集まっていく疼きが、性感を刺激していると気づいたのはすぐだ。かあっと全身が熱を持ち、驚愕に思わず見開いた瞳に、欲望に彩られた了の双眼が映った。
 血の一滴までも貪ろうとする獣の瞳だ。炎のような揺らめきが奥深くに見えて、吸い込まれそうになる。
「あっ、あっ——」
 喉が震えて、力無い悲鳴だけが零れる。息苦しさだけでない滴がまなじりから流れ出し、頬を伝った。
「泣くな」
 離れたと思った刹那、すぐにまた塞がれて。
 言葉の優しさが、妙に心に響いた。心を占めていた恐怖心はすうっと消えていき、ふわりと込み上げるのは、何ともいえず甘酸っぱい官能だけになる。
 そんな自分がおかしいと惑うのだが、繰り返される深い口づけに、それもまた考えられなくなっていき。
 無意識のうちに幾度か瞬きしているうちに、了の唇が離れた。濡れた音がして、二人の間に銀色の糸が引かれて消えた。
「りょ……お……んぱい……」
 わななく唇が、名を紡ぐ。
 呆然と見上げると、口角を上げて桃李を見つめる視線と絡んだ。その、どこか自嘲めいた笑みが了には珍しくて桃李は目が離せない。
 了もまた、桃李をじっと見つめ返していたけれど。
 ふと、視線を彷徨わせ、耳を澄ませるようにしてから、問いかけてきた。
「今日は、家族はどうした?」
「家族……は、出かけて……」
「帰ってくるのか?」
「そりゃ……」
「なら来い」
「えっ、うわっ」
 力が入らないままに支えられていた桃李を、了は難なく肩へと担ぎ上げた。
「先輩っ」
「暴れたら落とす」
 冷ややかに言われて、ぎくりと体が強ばる。
 何より安定感のない体勢に、言われなくても了の背に縋り付くしかなかった。


 表に停めていた了の車に乗せられて、何を問うまも無く連れて行かれたのは、了の住まいだった。
 駐車場から部屋に入るまで、さすがに担ぎ上げられることはなかったけれど。
 車の中でパジャマ姿だと気が付いた桃李は、人影のないわずかな距離でも周りが気になって、不本意ながらも足早に進んだ。その間、了は何一つ口を利かない。
 了の部屋に入ったときに吐いたため息は、とりあえずの安堵。けれど、すぐに新たな緊張が全身を支配した。
 忘れるにはあまりにも鮮明な記憶。恐怖と甘い官能が入り交じり、桃李を惑わせる。
 だが、室内に入ってからの、いやそれ以前から続く了の動きはためらいが無く、勢いがあった。
 それは、了の部屋のベッドに連れて行かれるまで続いていて。桃李が我に返ったときには、ベッドの上だった。
 途端に視界をたくさんの写真が飛び込んできた。春先の匂いすら漂うほどの鮮明な桃の花。前に来たときより増えていると、そんな場合ではないのに、気が付いてしまう。
 だが、それもわずかな間だった。
「何だよっ、これっ!!」
 顔の横で両手首を押さえ込まれ、腰に了がまたぐように乗っている。腕力も体重も負けている桃李は了をはね除ける力は無かった。
「圭人から奪う」
「何をっ?」
「お前を」
 きっぱりと言い切る了の口元にはあの笑みが浮かんでいない。
 本気だと知るには十分なその表情。信じられないと瞠目する桃李を見つめ、ようやく笑みを見せたけれど。
「キスまでしたのに、気づかないのか?」
 苦笑としか見えないそれに、かあっと頬が熱くなった。
「だ、だって——俺なんか」
「お前が可愛い。圭人よりも可愛い」
「だって、それって」
 あれからいつも聞いていた言葉。圭人と桃李を比べて揶揄している言葉。
 不愉快だとしか思えない言葉を、了はこの期に及んで繰り返す。
 けれど。
「口説き文句は苦手なんだよ」
 そっぽを向いて、チッと舌打ちしながら嫌そうに言う、明らかに照れが見えるその姿に、桃李は目を剥いた。
「それって……」
「入学式の時、見つけたお前は桜ん中にいて、花が似合ってた。花に負けないくらいはっきりとした色で、そこにいて、目に止まった。その隣に圭人がいただけだ」
「え?」
「可愛かった。女じゃないって判ってんのに。ガタイだってでかくて、華奢だと思えないのに。何でか、可愛いって思ってな」
「何、それ?」
 信じられない言葉だった。
 およそ、桃李自身に向けられる言葉ではない。なのに、了の目はまっすぐに桃李を見つめていていた。その頬がひくひく引きつっているのは気のせいではない。
 それでも、了は桃李だけを見て、言葉を紡ぐ。
「圭人よりも可愛い。お前が可愛い」
 繰り返される言葉。
 ずっとずっと、言われ続けてきた言葉だ。
 桃李はその言葉を信じてはいなかった。
 だが、今まっすぐ了を見つめて。
 圭人がらみでなく何のフィルターもかかっていない状況で了を見つめて。
 まさか——と驚愕するほどの結論に達した。
 その驚きが顔に出るのと、了が意を決したように言葉を吐き出したのだ同時だった。
「俺は、花の中で桃が一番好きなんだ。果物も桃が一番なんだ」


 驚愕に襲われていた桃李の頭が、恐竜並みの思考速度でゆっくりと働く。
 もしかして——これは、告白なのだろうか?
 唇に当たる柔らかな肉。
 ぬるりと入ってきた滑りのある固まりに、ぞくりと悪寒が走る。ぎゅっと固く目を瞑って耐えている間に、悪寒は甘酸っぱい官能に変わっていった。ぞくぞくとした疼きが激しく背筋を駆け上がる。
「んふっ……はぁっ」
 思わず零れた吐息が熱い。
 手首を掴んでいた手がずれて、指が絡まる。それをぎゅうっと握りしめて、震える体を堪えようとした。
 チュッと吸い付かれて、離れて。
 ぼんやりとした瞳が、離れる了を追う。
 離れても桃李に向けられた視線は、外れない。
「名前知った時——ふさわしい名だ——と思った」
 告げられた言葉が桃李の心を貫く。
 まなじりから溢れた涙が、シーツに染みを作った。

 了の言葉がひどく嬉しかった。


12
 了は敵だ。
 圭人を狙っている男だから、敵だ。
 いつでも桃李の行動は圭人が中心だったから、了は敵でしかなかった。
 だが、その圭人は——もういない。
 蓮に組み伏せられていた圭人。その表情に嫌悪が無かったことは、最初の段階で気づいていた。だからこそ、桃李は逃げることしかできなかったのだ。
 そうなれば、了は敵ではない。
 そんな『敵』というフィルターが外れた了は、驚くほどに桃李の心を鷲づかみにした。
 粗暴で、けど優しくて。
 乱暴な言葉遣いばかりで、けど声音は優しくて。
 今まで見えていなかった了が、目の前でその姿を露わにしている。
「桃が好き?」
 心を心地よくくすぐる言葉を聞きたくて、問いかける。それに、了は真剣な瞳で一言だけ返してくれた。
「すぐに食べたい」
 言葉通りにむしゃぶりついているのは、桃李の胸先。
「……桃って——俺?」
 じわりと溢れ弾ける疼きに戸惑う桃李に、了の返事は無い。
 舌先を覗かせた唇が、桃李の首筋を這い、無骨な手がパジャマの裾から侵入してくる。
 悔しいほどに手慣れた様子で、パジャマの上のみならず下肢まで明かりの下に晒された。それこそ、あっという間で、気が付いたときには了も裸体を晒している始末だ。
「や、やめろって」
 肌が直接接触している感触がこそばゆく、羞恥だけでなく染まった体を押しのけようとする。
 だが、赤茶色の頭を力一杯押しても、離れない。
「んな、あぁ」
 胸に走るちりちりした痛みが、下腹部を刺激する。
 生まれた快感が神経を走り回り、下腹部の奥深くに集中していくのだ。
 熱が集まった場所がむくりと鎌首を持ち上げ始めているのが、自分でも判る。
「だ——駄目だってっ……。離れ——っうくぁ」
 吸い上げられ、甘く噛まれて。
 堪えきれずに仰け反った背に両腕を回されて、ますます強く抱きしめられた。
「んっ、あっ……やめっ——も……」
 脈打ち暴れ回る快感。
 今の様子を知りたくて胸元を窺えば、肉食獣のような白い牙とざらつく舌が桃李の色づいた尖りを喰んでいる。
「ひっ」
 視界が赤く染まるほどの羞恥に、全身が沸騰する。
 乱れた赤茶けた髪も桃李の肌を刺激する。圭人とは違う。硬い毛質は、肌に突き刺さるようだ。だが、そのちくちくした感触に、桃李の性感が敏感に反応した。
「んぅ……くっ」
 鼻にかかった声はひどく甘い。
 そんな声を出したくないと、手の甲で口をふさぐ。けれど、その手首を掴んで下ろされて。代わりのように与えられたのは、了の唇だった。
「聞かせろ」
 命令。
 反論を許さない低い声音に、ひくりと体が強ばる。
 だけど。
「りょ……う……あっ?」
 喉が震えて、声を出してしまった。
 掠れた囁くような声音は、零した喘ぎ声よりさらに甘くて。驚いて瞬いた視界の中で、了が満足そうに笑んでいた。
「良いな、それ」
 ずいぶんと嬉しそうに笑みに、胸の奥が頷いた。
 こんな男、嫌いだと思っていたのに。
「あっ……んっ、了っ」
 柔らかく包み込まれた男根が、ふるりと震えた。歓喜の滴が了の手を濡らしているのが、滑る感触に判る。
 こんなにも体が悦んでいる。
「了っ、了っ」
 扱かれて、括れを弄られて、びくびくと震えるそれに与えられる快感は、今までに感じたことの無いほどに激しいものだった。
 了の大きな手が、自身のそれと桃李のものをまとめて扱き上げる。
 互いの鈴口から溢れ出す滑りが潤滑剤となって、ぐちゃぐちゃと音を立てた。
 きつい力は、互いが互いを高めて、妙なる刺激を与える。
「ああっ、いやぁっ、んあっ」
「んっくぅっ」
 互いの荒い息と堪えきれない喘ぎ声、濡れた音がこだまする。
 これでもかと硬く張りつめた男根の、そこだけは柔らかな先端が強く擦れあう。びくびくと震える動きすらさらなる快感を生み、弾けた。
「もう、駄目っ! やめっ!」
 こんな早さで達くのは情けない。そう思っても、体は我慢なんかしてくれなかった。
「んああっ!」
 喉から甲高い悲鳴が迸る。
 限界からの解放は、その衝撃も想像以上だった。
 痛みすら覚える快感なんて知らない。
 ぜいぜいと喘ぐ動きにあわせて、白く汚れた了の手に新たな滴が垂れ落ちる。そして、桃李の腹に落ちた熱い滴は、了のもの。
「あっ……こんなの……」
 熱さにぶるりと震える肌のざわめきもまた快感で、それは桃李をいつまでも翻弄した。
 ぐたりとベッドに沈み込み、喘ぐ体に、了の重みがのしかかる。熱いほどの温もりが、敏感になった肌を刺激する。
 目だけでその動きを追う桃李を、了が覗き込んできた。
 紅潮した顔。乱れた赤茶色の頭髪。白目が赤く染まっているのは、興奮しているからか。開いた口に白く鋭い歯が覗く。
 そして。
「桃李……俺が嫌いか?」
 血の色をした舌先が、肉色の中でうごめくのに見惚れてしまう。
 だから、すぐに反応ができなかった。


 しばらく桃李の様子を窺っていた了だったが、返事がないと判ると突然むくりと起きあがった。
「はあっ」
と、大きなため息を吐く。乱れた前髪を乱雑に掻き上げて、ベッドの上にあぐらをかいた。無意識の行為なのか、タバコを引き寄せて、銜える。火をつけようとして気が付いたのか、忌々しげに左の手の中でタバコの箱をつぶした。
 その姿に息を飲む。
 なんてこった……。
 視線を逸らして、赤くなった頬を隠す。
 何度か見たことのあった了の裸体。
 筋肉は隆々としており、無駄な贅肉は無い。年よりも上に見られる顔立ちも、こうしているとバランスが酷く良い。こんな時には乱れた髪すら似合っていると思ってしまった。
 かあっと顔が熱くなる。ついでに体も熱くなっていく。
 あろうことか桃李自身の男根まで絶好調になっている。どくどくと血流がいくらでもそこに集まっていく。
 嘘……だろ?
 呆然と口の中で言葉を転がした。
 温羅だ……。俺の好きな、温羅だ。
 子供の頃から想像していた温羅という鬼の姿。
 知識と力に溢れた武人。人を引きつける姿を持つそれは、桃李にとって理想だった。
 その想像の姿と了が重なる。
 まして、桃李にとって温羅は特別な意味を持っている。
 そして了の力強さと性格は、未だかつてないほどに温羅に似ていて。

『優しいけど、鬼みたいだ』
 そう言ったのは、圭人だった。
 赤茶色の髪をして眼光は炎のごとく鋭い。
 その色に了が髪を染めたのは、桃李と会ってからだった。会ったときは、黒々とした地毛の色のままだった。
 ずっと圭人だけを見ていたから、その意味なんか考えたこともなかったけれど。
「なんで、こんな色……」
 傍らに座りこんでいる了の髪を伸ばした手でいじくれば、視線だけで窺われて、ふいっとそっぽを向かれた。けれど、その耳が赤く色づいている。
 日焼けした肌も、いつもより赤みが差していた。
「なあ、何で?」
「……鬼の色だから……」
 唸り声とともに落とされた言葉。
「——それって……」
 了の耳朶がますます濃く染まっていく。


 ——んっ
 激しい衝動が身の内で弾けた。
 達く時と似た衝撃に、息を飲んで声を堪える。
「桃李……どうした?」
 ベッドの上ではわずかな振動も伝わってしまう。了が不審そうに眉根を寄せて桃李を覗き込んできた。
「え、あっ……」
 険しい顔立ちに胸がときめく。
 嘘だろ?
 信じられないままに見開いた瞳を、覗き込まれてごくりと息を飲んだ。
 ——欲しい。
 生まれた欲求は見る間に大きくなっていく。
 欲しい、欲しい。
 了が欲しい。
 あの体に包まれたい。
『桃李は鬼好きだから、了先輩なんて理想なんじゃない?』
 圭人に言われたときには否定した言葉が、今は否定できない。
 欲求は確実に強くなり、理性すら吹っ飛ばしそうな勢いで暴れ出している。それを耐える苦しさに桃李は喉の奥で唸った。
 こんなのは、圭人の時ですら無かった。圭人の時はそんなに苦労しなくても我慢できた。
 なのに。
 はあっと大きく吐き出したため息が熱い。
 なのに、ちっとも熱は消えなくて、それどころかますます大きくなっていった。

「桃李……」
 不意に了の声音が変わった。
 せっぱ詰まっているそれに、ぞくりと全身がざわめく。
 気づかれたのだ。
 焦りと、それを上回る期待が桃李を支配する。
 ちらりと見上げた了の瞳が、爛々と燃えているようだった。熱い視線が桃李の肌をなぶっていく。
 見つめられていると、心臓がどんどんと駆け足どころか全力疾走状態になっていった。
 視線を、了の顔どころか体にも向けられない。彷徨う視線は、ベッドに落ち、桃の写真を辿り、天井へと向けられる。けれど、了の指が桃李を誘うように動いた。顔の輪郭を辿り、あごへとたどり着いたと同時にくいっと動かされる。
 視線が合ってしまう。
 強い視線は一度絡むと外せない。
 背筋を這い上がる疼きに顔を顰め、じわりと溢れ出る唾液を慌てて飲み込んだ。
 近づいた唇に条件反射のように目を閉じる。
 触れた熱い吐息。湿った肉。ざらりと唇をなめられる。
 たったそれだけのこと。
 なのに、桃李の男根はさらに大きく硬く勃起した。互いに裸の二人だから、それは隠しようもない。了のそれもまた、むくむくと勃ち上がる。体に当たって、その大きさに桃李の喉が鳴った。
 たくましい腕に包まれて、熱い吐息を零す。
 包まれる安心感に、全身が弛緩した。ことんと了の胸に頭を押しつける。
「良いか?」
 この期に及んで問う了に、桃李は笑った。小さく喉の奥で。
 そして。
「俺の……鬼」
 赤茶けた髪の頭を抱き寄せて、耳元で囁いた。



13
「あっ、んあっ」
 声が止められない。
 深くえぐられて、突き上げられ。
 腰を掴んで揺さぶられ続けているその体勢は辛い。
 了の太い陰茎をくわえ込んだ場所も、ひりひりと腫れたように疼いている。いや、腫れているのだ。けれど、その痛み以上の快感が、突き上げられるたびに爆発した。
「あっぁぁ、やめっ……やぁっ」
 掠れた悲鳴に、ほんの少しだけ突き上げが緩む。
 けれど。
「あ、……りょ……」
 潤んでよく見えない視界で了を探す。赤く染まった瞳が背後の了へと向けられた途端に、どくんと中のそれが震えた。
「あ、んっ」
「すまねえ」
 詫びの言葉は、けれどそれだけ。
「あ、ああっ、んあっ——ああっ」
 より激しくなった突き上げに、桃李の意識は真っ白に弾けた。
「あ、了っ、りょ——りょうっ」
「桃李、とーり、桃李っ」
 名を呼び合う、その行為すらも無意識で、シーツをきつく握りしめて喘ぐ。
 快感を追うだけの獣。
 了の突き上げがずれれば、自ら腰を動かした。
「はあっ、あはぁっ! あぁ、もう、達きそっ、」
 弾ける快感は、どんどん大きくなっていく。
 解放したくて、それだけを追う。
 そのきっかけをくれるのは了だけだ。
 了だけが、今の桃李にとっての全て。了のくれる熱が、桃李を救うのだから。
 だから、乞うた。
「達きたっ——もう、達く、達くっ!!」
「ああ、判ってる。判ってるよ、桃李」
 耳元で囁かれた腹に響くようなバスの声音。
 優しい響きのそれは、けれど鋭い針となって膨らみきった熱を貫いた。
 激しく、鋭く、一瞬に。
「あ、あぁぁっ!」
 どくっ。
 全身が震えた。
 どくどく。
 震えが止まらない。
 溢れた白濁が、シーツを汚す。その吹き出す刺激が、次の快感を誘った。
「や、あっ……止まんないっ、止まんないよおっ……」
「桃李、桃李、俺の花——可愛い花……」
「んあぁ……やぁ」
 囁かれるたびに、熱が弾ける。
 吹き出す熱以上に、芯からまた熱が溢れ出した。
「達けよ、いくらでも。いくらでも達かせてやる」
「あぁ……」
 甘い声になぶられて、吐息を震えさせた。
 力の入らない体を抱きかかえられ、背後から口づけられる。
「俺も、お前を喰らい尽くしてぇんだよ」
 その言葉に、桃李は粟立った肌を了にすり寄せた。
 了になら喰われたい。
 桃李の全てを喰らい尽くして、了とともにいたいから。
 だから。
「ん……俺も、喰われ尽くされたい、よ……」
 うっとりと微笑みながら返していた。

 

「体調はどうだ?」
「別に」
 本当はだるい。
 むちゃくちゃだるい。
 何とか微笑んでいる桃李の顔色が、言葉とは裏腹に真っ青なことに本人は気づいていない。
 ただ了だけが後悔の滲んだ表情をした。
「すまねぇ」
 了にそんなことを言われると、桃李もどうして良いか判らない。
 頬に触れられると、敏感なままの肌がざわめいた。
 もっと触れて欲しくて、目を閉じて頬を手のひらに押しつける。しっとりと汗ばんだそれが肌になじむ。
 ああ、この人の手は優しい。
 先刻までは気づいていなかった事実。
 力強くて、大きくて。
 安心できる。
「良いんだ……。俺も、望んだから」
 求めたことを思い出して、桃李は頬を染めた。視線を外し、壁の写真を見つめる。
 広大な桃畑。
 枝いっぱいに咲き誇る桃の花。
 懐かしい風景は、今は幾ばくかの別れの痛みを桃李に思い起こさせた。同時に、もう一つの別れの痛みも思い出す。
 圭人に対する喪失感は、胸が張り裂けるかと思ったけれど。了に触れられていると、その痛みは瞬く間に消えていった。
「ほんとは、お前を助けたいと思って行ったんだけどなあ……」
 頭を、頬を撫でながら、苦笑を落とす。
「お前があんなにも泣くから、なんつうか……悔しくて、枷が外れちまって……その……」
 苦笑が消えて口ごもる了の視線は所在なげに彷徨っていた。
 言えない言葉が、口の中に消えている感じは、桃李にも判った。
「その?」
 だから聞き返す。
 途端に、了が恨めしげな視線を向けた。
「判れよ」
「……判らない」
「だからさ」
 望んでも言いそうにない了に、桃李も意固地になった。
「枷が外れて? それで?」
 何度も乞うて、視線を合わす。
 想像できている言葉に、桃李の頬も赤く染まる。疲労と痛みに白くなった頬が染まった姿に、了がごくりと喉を晒した。
 ぎらりと光る瞳に、桃李の喉も鳴った。
 やたらはっきりと響いたそれに、互いが気づく。
「あ、いや」
「えっ……と」
 視線を逸らして、口ごもって。

 二人そろってため息を吐いた。
「まあ、その……、お前があんまり甘い匂いをさせたから、喰いたくなったっていうか」
「……ほんとに桃が好きなんだね」
「そうなんだよな」
「そんなに好きなら、今度持ってくるよ。伯父さん自慢の一品をさ」
「そりゃ、堪んねえな」
 そう言いながらも気まずい視線を交わして、けれど目があった途端に笑い出していた。


 心地よいベッドの上。
 疲れた体を癒すようにと横たわった桃李は、了とともに桃の写真を眺めながら、ふと口を開いた。
「……鬼の城があるんだ」
「ん?」
「祖父さんが言ってた。桃畑の向こうの山にはその昔鬼の城があって」
「鬼の伝説を教えてくれた祖父さんだろう?」
 桃李はこくりと頷くと、桃の写真から視線を外すことなく言葉を継いだ。
「かわいそうなんだよ、温羅は」
「らしいな」
「ん、でも、その話が好きな祖父さんはもっとかわいそうだったみたいで」
 了の髪に指をくぐらせて、梳いていく。
 鬼に似せたという赤茶色の髪。見た目はごわごわだが、肌に馴染む柔らかさもあった。
 きらめくそれに口づけたい。
 そう思うほどに、気持ちよかった。
 圭人とは違う。当たり前のことが、なぜか嬉しかった。
「祖父さんさあ、戦争で好きな相手に国に帰るように言ったんだってさ。んで、親が決めた許嫁と結婚したんだ」
 通夜の日に聞いた祖父の話をなぜだか無性に話したかった。
 圭人にも話していない話だ。
 その話を了は黙って聞いていた。
 聞き終えて、ぽつりと呟く。
「それで、お前は祖父さんみたいにはならないつもりか?」
 その問いかけの意味は、すぐに判った。
 答えを乞うているのだろう。
 了の立場は、祖母の側。
「俺は……」
 圭人のことが好きなのは変わらない。ただ、その温度は、きっと了に向けたものとは違っていたのだろう。
 大切であることは変わりないけれど。
 大切だからこそ、傷つけたくはなかった。
 ——。
 ああ……そうか。
 不意に気づく。
 もしかすると祖父もまたこんな感情だったのかもしれない。
 いつまでも一緒に生きたい、ではなく、その人が幸せであれば良い、という願う相手。
 桃李にとって、圭人は後者。
 もっとも、圭人を了に腹黒いと評されている蓮に渡すのは一抹の不安はある。けれど、誰を選ぶかは圭人の人生だ。今までも、あの時も、何もできなかった桃李にはどうすることもできない。
 それに、自分の奥深くにあった本当の想いに気づいてしまったから。
「俺は、ほんと鬼が好きなんだよな」
 言葉をくれない意趣返しのつもりで、ほくそ笑みながら囁いた。
「桃李……」
 その時の了の情けない表情は、未だかつて見たことがないもの。
 桃李はずっと忘れないように、その表情を記憶に刻み込んだ。



 圭人が、笑う。
 屈託のない笑顔に、そこはかとない色気が醸し出されるのが前とは違うけれど。
 だけど、やはり圭人は圭人だ。変わらない。
「ごめんね、桃李。それと、おめでとう」
 何もかも知っていると、ちらりと了にも視線を向けた圭人に、桃李も苦笑を返すしかなかった。
「桃李の想いは知ってたけど、僕では桃李に応える無理だと思ってたからね」
「そう?」
「だって、僕じゃ桃李の理想にはほど遠いもん」
「理想?」
「温羅」
 にっこりと笑みを深くして了を見やる。
「まあ、それが無くても了先輩の方が桃李にはふさわしいしね……。ちなみに、あの日了先輩が桃李ん家に行ったのは、蓮が連絡したからだよ。桃李に連絡が付かなくて僕が慌ててたら、蓮が了先輩に行かせれば良いって。きっと良いことになるからって。それは確かだって、僕も思ったから、さあ」
 呟くその瞳に、悔しさが滲んでいると思うのは気のせいだろうか?
 桃李は、口元を引き締めて圭人を見やった。だが、圭人は続けた明るい声音で、そのわずかな名残すら消し去った。
「蓮とのこと、黙っててごめんな。そのうち、ちゃんと言おうと思ってたんだけどなあ。まさか、現場に踏み込まれるとは思わなかったから……あはは」
 そのシーンを思い出したのか、うっすらと頬を染める圭人は前と変わらずに可愛い。
 それでも、前のように見惚れてしまうことは無くなった。
「圭人、いつから先輩と?」
「結構前からだよ。六月、かな?」
「ああ、そうだね。梅雨の時期だったね」
 圭人の傍らでにっこりと微笑む蓮も相変わらず綺麗だったけれど。今はその腹黒さをさんざん了から聞き出しから、見惚れることはない。
「圭人が気になっていたから、どうしても手に入れたかったんだよね。もともと狙って接触したんだし」
「狙われているってのは判ってたんだけどさあ、ほら、蓮って結構腹黒いじゃない?」
「やだなあ、ちょっとだけだよ」
 謙遜するそれが真っ赤な嘘だと、桃李はすでに了から聞いて知っている。
 何しろ、過去彼に悪意を持って接触しようとした相手をことごとく陥れているのだから。しかも、蓮の手は汚れてなどいないのだと言う。
 それは表沙汰になっていないという意味では無く、だ。
「だから、まあ、いろいろと様子見していたんだけど。一応真剣みたいだったし」
「もちろん、私は真剣だよ。それに、いい加減圭人に向けられる他の熱い視線がうっとうしくなっていたしね。私としたことが、我慢の限界が来ていたというか……」
「あっ、こら、桃李に悪さしたら許さないよ」
「嫌だなあ。圭人が嫌がることはしないからね」
 あの蓮が甘ったるく圭人に囁く。
 それにくすりと笑って返す圭人は、そうされることが当然のような態度だ。続けた言葉も平然としていて、可愛さだけでないものを圭人に感じた。
「まあ、蓮とは結構気持ちよかったから、さ。それに、先輩って、金も権力もいろいろ持っているし、退屈しそうにないなあって」
「ああ、圭人を退屈させるつもりはないよ」
 声音は甘いのに、背筋に悪寒が走る恋人達の睦言が目の前で交わされている。
 その姿を桃李は呆然と見つめるしかできかなった。


 じりじりと強い日差しが照りつける夏。
 桃が大好きな鬼の住処は、さらに桃の写真が増えていて、桃一色になっていった。
 特に今は、嗅いだだけでも唾液が口内に溢れるほどの白桃がいつだって部屋に置いてある。
 その住処には、いつも四人の大学生がたむろしていた。
 誰よりも鬼の性格を持つ見惚れるほど綺麗な顔の蓮。
 無邪気な笑みに可愛い容姿、けれど蓮と渡り合えるだけの力を持つ圭人。
 容姿は鬼のようだけれど、優しい性格の了。
 そんな中では取り柄のない桃李だけれど。
 了も圭人も、桃李が大好きだから桃李が一番。
 蓮は圭人が好きだから、圭人の言には従う。
 だから、桃李の言動が一番強いのだけど、当の本人だけはそれに気づいていなかった。

【了】