21

 タクシーに押し込められ連れて来られたのは、都心の高級ホテルだった。
 ロビーで呆然と受付で話をしている卓夫の様子を見つめる。スーツ姿の卓夫はまだしも、カジュアルな格好の篤彦はあまりにも場違いだ。
 戻ってきた卓夫が持っているカードキーに渡される。同時に告げられた高層階の部屋番号と、そして言葉。
「先に部屋に入って用意をしていなさい。30分ほどしたら戻るから」
 用意、という言葉に、心臓が飛び跳ねる。
「あ……」  
 その用意という言葉の意味など、知りすぎるほど知っていた。
「ああ、何も身に纏ってはダメだからね」
 しかも、小さく耳に落とされた言葉に、篤彦はその場に立ち尽くした。
 カードキーを握った手が震える。
 卓夫の声音は冷静そのもので、淡々としたものだった。なのに、聞かされる篤彦には怖くて堪らないものばかり。何か一言言われるたびに、恐怖心が勝り、ものすごく逃げたくて堪らなかった。
 なのに、去る卓夫の背を見送った篤彦の足はエレベーターーと向かう。
 ふらふらとまるで雲の上でも歩いているように、身体が揺れる。
 気が付けば教えられた部屋の前にいて、カードキー差し込んでいた。
 

 コーナーのビジネススィート。
 三つの部屋を持つ広々とした空間は、今は主客がいないせいでひどく静かでいたたまれなかった。
 水晶宮でもこういう部屋はあることはあったが、ここまで緊張したことは無い。
 その一つの寝室に置かれたキングサイズのベッドの端に、篤彦は火照った身体を持て余しながら座っていた。
 言われたとおり、その身には何も纏っていない。
 だから、出入り口に一番近い部屋にいるのも躊躇われて、一番奥まった寝室で待っていたのだ。
 準備を念入りに行った身体は、そのせいで鈍く疼いて篤彦を困らせていた。
 なのに、30分を過ぎても卓夫は帰ってこない。
 焦燥と不安が、篤彦の胸を焦がす。
 このまま放置されたらどうしよう……。
 帰ってこない可能性だってあるのだ。
 不安は最悪の想像ばかりを助長する。
 卓夫がそこまで意地が悪いとは思ってはいない。だが、あの店から外に出た客達が、本当は何をしたかったのかまでは判らないのだ。現に清太郎は、緑姫を監禁し性奴として飼おうと企んでいたらしい。店で買うだけでは満足しなかった遊びをするために。
 卓夫はそんなことは無いと思うけれど。
 病室で繰り広げられた会話が、全て卓夫の思い通りだったようなのだ。
 篤彦の態度から判ったであろう思いを無視して、言葉で言うまで無視した。達彦が訴えなければ、きっとそのまま帰ってしまっただろう。その後、どうするつもりだったか知らないが、あの時確かに篤彦の心には絶望が吹き荒れていた。
「愉しめたよ」
 タクシーの中、耳打ちされた言葉に真相を知って青ざめた篤彦の背に回された卓夫の手が悪戯に動く。
 そのせいで、恨み言も何もかも一気に消えた。
 適確な刺激に喘いでしまいそうだったが、タクシーの運転手という他人がいる前でそれはできなくて。
 必死で声を押し殺す篤彦に、卓夫の手はさらに大胆に動いていた。
 そのせいと準備で触れた後孔が、今も疼いて仕方がなかった。

「緑っ」
 その名で呼ばれるたびに、身体が熱く、そして心が冷める。
 今でもあの人の心の中では、自分は姫でしかないのだろうか?
「緑っ、さっさとおいで」
 苛々とした声音に、帰ってきたことに気付いて慌てて立ち上がる。
 部屋を横切り声を辿ると、もっともドアに近い部屋で卓夫は腕組みをして待っていた。
 その途端、不安も何もかもかき消えた。
 鼓動が速くなり、湧き起こった熱で、頭の中が沸騰してしまうのだ。
「おいで」
 篤彦を見やった卓夫が手招きする。
「さあ、四つん這いになって」
 言われるがままに床に手をつく。視界の片端で、びりびりに破られた包装紙が舞い落ちた。
「今は、これだけだが、後でゆっくりと似合う物を選びに行こう」
 首筋に冷たい物が擦れた。
 視線を落とすと、首から長い銀の鎖が垂れて揺れている。
「私の許可無く外すことは許さない」
 立てば胸からさらに下で弧を描く程度の長さ。何の飾りをついていない。 
「返事は?」
「は、はい」
 俯くと、首筋に触れて揺れるそれが、はっきりと見える。
 これはもしかして……。
『——長い鎖を首からかけて、シャツの中に垂らして……その先は乳首のピアスに繋いで……。ああ、そのまま電車にも乗せて……』
 してみたいなあ、と子供のように無邪気に話してくれた。
 思い出した途端に、身体が熱を帯びた。
 本当にそうされている光景が脳裏に浮かぶ。
「嬉しいかい?」
 にこりと微笑む卓夫が上半身を起こすように促した。
 膝立ちになった篤彦のその鎖を身体に押しつけながら辿っていく。
 鎖が、乳首に押しつけられる。
「どんな飾りが欲しい?」
 爪の先でくにくにと弄くられる。
「んっ」
 そのたびにじわじわと虫が這うような疼きが神経を駆け回る。
「外れないように、溶接してしまいたいねぇ」
 何が——と問わなくても、身体がびくりと反応した。
 触れられてもいないのに、自分の陰茎がたらりと涎を垂らしたのが判る。
 くすりと笑われて、何もかもが気付かれているのが判った。
 浅ましく飢えた身体は、持ち主の意に反して今にも腰を揺らしてしまうそうだ。それを必死で押し止める。
 そんな篤彦の身体を、卓夫が舐めるように見ているのが判った。
 視線が、針の先のように肌をいたずらに刺激する。
 堪えられない。
 喘ぐ喉元に、卓夫の指先が触れた。
 それだけで、意識が白く弾ける。

「緑……今のうちだよ」
 卓夫がふっと声を鎮めた。
 真摯な表情で、熱に浮かされた篤彦を見つめている。
「た、くお……様?」
「今なら、私から逃げられるよ?」
 何を?
 ぱくぱくと喘ぐ口から言葉が出なかった。だが、卓夫はすぐに判ったのだろう。苦笑を浮かべて、宥めるように篤彦の髪を梳いた。
「今なら、私は君を手放せる。けれど、これ以上進んだら、もう二度と君を手放すことはないだろう。そうなってから君が逃げようとしたならば、過酷な責めすら与えて、君をどこかに監禁してしまうかもしれないよ。だが今なら……」
「逃げたりなんか……」
 そんな筈は無い。こんなにも会えて歓喜している相手から、どうして逃げようと思うだろう。
「前にも言ったことがあるね。君に恥ずかしい格好をさせて外に連れ出して、衆人の場で辱めたい——そんなことを考える男だよ、私は。君の身体に傷を付けて、ピアスで飾って、二度と人前で裸にできないようにして。なのに、そういう奴隷を連れて行く卑猥なパーティに君を連れ出すかもしれない。太いバイブを銜えさせたまま、会議に出させるかも知れない。さっきも、君のお兄さんの前で裸に剥いて、自慰させたい——とすら思ったくらいだよ。他にも、もっと……君を貶める行為をしてしまうだろう。それが嫌なら、今すぐにここから逃げなさい」
 言葉一つ一つ、理解するたびに身体が怯え、震えて。
 けれど、どうして自分はこんなにもうっとりと卓夫の言葉に酔いしれているのだろう。
 言葉の中に、卓夫の心配が判るから。
 逃がさない——という言葉に隠された執着心が判るから。
「逃げません……だって、あなたのいない世界は、私は必要ないから」
 さっき、卓夫にもう振り返って貰えないと思った時の絶望感。
 夢が無くなった途端に、迷子のように心細くなった。
「私の夢は、卓夫様の右腕として働くこと」
 うっとりと見上げて言葉を紡ぐ。
 まだまだ未熟な自分を自覚しているから、さっきはどうしても言葉にできなかった夢。
 けれど 欲しいのなら、言葉にしないと伝わらない。それに、篤彦の夢はそれだけではない。
「けれど、卓夫様と再会して私は気付きました。私の本当の夢は、一生卓夫様に抱かれ続けること。そのためなら、どんなことだって受け入れます」
 そう、ずっと思っていた夢に隠された本意。
 叶えられないと諦めていたくせに、それができないなら全てを諦めようとしたほどの、思い。
「ですから、私は逃げません。どこまでもあなたの元に。私から御願いします。私を、捨てないで下さい」
 卓夫の足下に擦り寄り、そのつま先に口づける。
「どうか、私を一生、あなたのもとに」
「物好きだな」
 振ってきた声が泣いているように聞こえたのは、気のせいではないだろう。
「私は……」
「俺でいいよ、私の前では。その方が君らしい気がする」
 震える手で抱き締められた。
 篤彦の腕も、卓夫の背に回る。
「緑——いや、篤彦。愛しているよ」
 貰えた言葉に、篤彦は、自分も、と繰り返しながら滂沱した。
22

 きつい、と文句を言いながら、深く抉った卓夫は満足そうだった。
 飢えた体を慰めるにも自身の指か玩具しか使えなかったそこは、生身の陰茎の侵入に涙するほどに悦んだ。ひくひくとぱくつき、拓かれる痛みすら官能の波へと変化する。
 たっぷりと容れられたローションが肌を伝う。
 淫猥な音が、腰の動きに合わせて耳を犯した。
 上へ、下へ、いろいろな体位で貫かれ、そのたびに篤彦は快感の渦に叩き込まれた。
「や、ああっ」
 今は背後から獣の姿勢で穿たれて、意識など白く弾けっ放しだ。
 玩具では決して得られなかった太い芯のある表面だけが柔らいそれが壁に絡みつき、熱がじわりと肉壁をとろけさす。今なら、どんなものでも銜えられるほどに中がとろとろにとろけていた。
 自分がする時には決してあり得ない意図しない動きに翻弄させられ、あえかな悲鳴はひっきりなしに喉から迸った。
 ずっと欲しかったモノを与えられた身体は持ち主の意に反して貪欲にそれを飲み込み、離さないとばかりに締め付ける。
「綺麗な肌だ。鞭の痕も何も残っていないね」
 肌をまさぐる手は優しい。
 けれど一度その手が鞭を握れば、鋭い痛みに翻弄されてしまう。なのに、それも欲しい。
 鞭の代わりに施される爪痕。
 背を縦横無尽に走る赤いみみず腫れを、丹念に舐められた。
「あっ、ああんっ——ひっ、もっ……もっとぉ」
「少し背が伸びた? 4月から新入社員だって?」
「は、はいっ——いっ」
「どこの会社?」
「あっ……、た、高城——メディ……ルッ」
「え……」
 卓夫の動きがぴたりと止まった。高められた身体は貪欲に快感を欲していて、刺激が無くなることが堪えられない。
「や、あぁぁ……」
 もどかしく腰が動いてしまう。
 その誘いに気が付いた卓夫が、喉を鳴らしてまた抽挿を開始した。
「驚いたよ。私が執行役員に名を連ねている会社だから」
「だ、だから……選んで……んんっ」
「へえ」
「だって、がんばったら……あ、親会社に……っぃぃ、あ、アメリカにっ」
「ああ、そういうシステムがあったね。そういえば、篤彦のお兄さんも系列の会社だったか……。優秀すぎて兄の耳にまで入ってしまったんだろう?」
「は、はいっ……んんっ」
「確か、一年目……だよね」
 ふむ、と首を傾げた卓夫が、ぎりぎりまで引き抜いた陰茎を一際強く突き上げた。
「んあぁ——っ」
 ぼたぼたと白濁がシーツに染みを作る。
 シーツのあちらこちらに作られた染みのほとんどが篤彦のものだ。最初の頃はその都度舐めさせられたが、今は垂れ流しの状態だ。それにもう何回達かせされたか判らない。
 その濡れた陰茎を撫で上げた卓夫が、汚れた指をぺろりと舐める。
「可愛いねえ、やることが」
 意地悪な声音だが、その顔に嬉しそうな表情が隠しきれずに浮かんでいる。
「そんなに私の元に来たかった?」
「い、行きたいっ、行きたっ」
 それだけを目指して二年間頑張ってきた。
 達彦すら犠牲にして、あんな目に遭わせて。
 諦めようとしたそれは、もとより諦めることなど不可能なことだったのだ。
 離れたくない、傍にいたい。
「卓夫様ぁ……どうか……連れて、行ってくださっ——あっあんっ」
「良い子だ」
 ぐんと体内のそれがまた大きくなったような気がした。
 爪が食い込む腰の肌には、隙間もないほどに朱の印が散らばっている。
 そこに爪痕が加わって、淫らな花畑の絵画を作り上げる。
「やっ、あっ、もうっ——、やぁ」
 休む間もなく突き上げられて、篤彦の四肢は完全に力が入らなくなっていた。その腰を卓夫が強制的に上げさせて、何度も何度も抽挿を繰り返した。
 ぐちゅぐちゅと泡だった白い液が、ローションと一緒に流れ落ちる。
 淡い茂みは体液にまみれ、内股は触れた卓夫の爪が付けた朱の印がまた増えた。流れる体液を掬い上げた指が、篤彦の涙の濡れた頬に当てられる。
 混ざる涙と白い体液。
 口元に触れたそれを舌先を出して、ぺろぺろと舐める。
 言われなくても従順さを見せた篤彦に、卓夫の瞳に昏い闇の炎が燃え上がる。口元に浮かぶのは、狡猾さを見せる笑みだ。それに気付く様子もなく、篤彦が今度は赤ん坊のように卓夫の指を吸っていた。
 背に触れるのは、たくましいほどの卓夫の胸。
 その胸に抱き込まれたいと何度願ったことだろう。
 それを意識するだけで、開きっぱなしの口角からたらりと流れた唾液が、糸を引く。
 汚されて淫猥な化粧を施された篤彦の、その綺麗なはずの緑の瞳は、今はもう朦朧として焦点が合っていなかった。
 だが、卓夫は容赦なく、二年間の空白を埋めようとするかのように篤彦を責め立てる。
 過ぎた快楽は辛いのに、そこまで欲しがってくれる事が嬉しくて。獣のように吠えながら、随喜の涙は止まらない。
 初めて知った男の味に、絶望感に苛まれたのはたった三年前のことだったのに。
 今は、与えられる熱い塊が嬉しくて堪らない。
「ねえ、篤彦」
 休まることのない快楽の渦にいる篤彦に、卓夫がいたずらに愛撫を施しながら話しかけた。
「あ、——あぁぁっ」
「私とともにアメリカに行くかい? と言っても一年ほどだけどね。その後は日本に戻る」
「ひっ、あぁぁ——いやぁ……」
 突き上げは止まない。
 道具も何も無くても卓夫は篤彦を狂わせる。篤彦だけを何度も達かせて、卓夫には未だに余裕があった。
 現に喘ぎ続ける篤彦にかける声音はとても冷静なものだ。
「君のお兄さんにも頼まれたからね。ちゃんと連れて行こう。そこで、君は私の秘書見習いだ」
 卓夫の剛直が前立腺を突き上げる。
 そのたびにマグマのように吹き上げる熱に翻弄されている篤彦には、卓夫の言葉の半分も理解できていなかった。
「兄は名誉会長になる。何の権力もない名だけの地位だ。その後任は私になることはもう決まっている。そうしないと久遠家につぶされるとなると、誰も反対する者はいないよ。だが、いきなりは無理なのでその準備期間に一年を貰った。その間は会長代理で、兄は病気療養中ということにしてもらう。君はその間に私の元でたっぷり修行して貰おう」
「あ、あんっ、んくふっ——」
 背後から伸びた手が、篤彦の顎を上げさせた。無理に振り向かされた痛みに、ほんの少し意識がクリアになった。だが、すぐにその口内を舌で存分に犯される。
 酸素不足に陥った篤彦の瞳が濁るのを、卓夫が至近距離で見つめていた。
「……何もかもつきっきりで教えて上げよう。頭の良い篤彦なら、すぐに覚えて日本に戻る頃には立派な会長秘書だ。仕事のみならず私の性欲解消まで、何かも君に任せることができるほどの、優秀な男になりなさい。私の傍らにいることが普通であるように。いなければならない存在であるように」
 うっとりと囁き、篤彦の汗ばんだ背に濃い朱の刻印を残す。その痛みが愛撫と変わらない篤彦が、大きく仰け反らせた。
「ん、くぅっ」
 苦しげに呻き、快楽の滴を放つ。
 もう……力が、入らない……。
 ひくひくと震える身体と、苦悶の表情を浮かべていた顔が、ゆっくりと弛緩する。
「この程度でダウンしていては、私の恋人としては保たないよ。前より衰えているんじゃないかい? こちらもこれから毎晩のように鍛え直して上げないとね」
 陰茎をぎゅっと握りしめられて、身体が反射的にびくびくと震えた。
「た……くお……さま……」
 聞こえている声に反応して、小さく呟く。
 瞬いた視界に覗き込んできた卓夫が入ってきた。
「君を連れて行くよ。もう私から離れることは許さない。君のお兄さんも連れて行こうか……。彼は彼で役立ちそうだ」
「え……あ……」
 何を言われたか判らなかった。
 けれど、頷いた。
「はい、卓夫様……」
 連れて行くよ、という言葉だけが頭に残っていた。
 後から再度それを教えられた篤彦はさすがに動揺した。
 篤彦と良く似た達彦の存在が、初めて嫉妬の対象となった瞬間だった。
 どうして——と困惑する篤彦に、卓人はあっさりと「優秀なら、たとえ新人だろうが選んで当然だろう?」と言う。
 それでも、信じ切れるものではない。
 まして、「愉しそうだ」などと言われては。
 暗い表情で、けれど、嫌だと言えない篤彦を、卓夫が見つめているのも判る。
「ふ?ん、君は私を信用しないわけだね」
「い、いえ、そんなことは……」
「君は私を満足させる自信がないのかい?」
 ならば……、と続きそうな気配に、慌てて首を振った。
「何でも……何でもします。何でもできます。卓夫様が望むことは全て」
「だったら、心配することなどないだろう?」
 くつくつと嗤われて、やっとからかわれているだけだと気が付いた。
「卓夫様?」
「ったく、いつになったら望みをちゃんと口にするのかね。ほら、言ってごらん」
 言われて、かあっと顔が熱くなった。
 いつも言われている事。
 けれど、いざとなるとどうしても恥ずかしい。
「篤彦?」
「あ、あの……」
「恥じらう姿は可愛いけどね、ほら、言ってごらん」
 促されて、ようようにして口を開いた。
「私だけを……愛して下さい、いつまでも」
「ならば、キスして欲しいね」
 開かれた腕の中に、おずおずと包まれる。
 顔を上げて目を閉じて。
 ゆっくりと触れる唇の感触に、こんな感触は初めてだ、と気が付いた。
 いつもいつも貪るような、それだけでもセックスと呼べるようなキスしかしてこなかった。こんな触れるだけの優しいキスなんて、滅多になかった。
「あっ……」
 小さな声を上げて瞬く篤彦に、卓夫が狡猾な笑みを浮かべて返す。
「恋人同士のキス。これからは、君だけにしか与えない」
「恋人同士のキス……」
「そうだ……」
 優しい啄むようなキスが再度与えられ、篤彦はにこりと微笑んだ。
23

 広い、屋敷と言って良い高城のアメリカの家の廊下を、バタバタと勢いの良い足音が響く。
 書斎の中でドアの前にいた篤彦が、薄く開いて廊下の様子を窺えば、目の前を勢いよく影が通り過ぎていった。
「待てよ、こらっ」
 続いてまだ若い元気な声を出した影が、通り過ぎていく。
 背の高い長いストライドを持つその影の方がどう見ても速い。あっという間に階段に辿り着き、手すりを使って滑り落ちるように降りていく。そんな真似はできない前の影は、きっとあっという間に追いつかれるだろう。
 達彦は頭は良いが、運動神経は今ひとつだ。
 その後の様子がまざまざと頭の中に浮かぶ。
 捕まえられて深いキスで身動きできないほどにメロメロにされている姿を見るのはしょっちゅうだ。なのに、いつもこの追いかけっこは行われている。
「また、達彦と健吾か?」
「はい」
 ドアを閉めて振り返り頷くと、問うた卓夫が苦笑しながら手元の書類へと視線を落とした。
 アメリカに来る際に初めて知ったのは、卓夫には日本なら中学二年になる息子がいるということだった。妻で、健吾という名のその息子の母親は離婚して、今はつきあいは全くないらしい。勢いで決めた学生結婚で早々に子供ができたが、もともと奔放な性格で高城の家に馴染まなかったのだと教えて貰った。
 性格と体格、そして考え方まで良く似た親子。
 まるで相似形だと思ったくらいだ。
 そんな健吾が目をつけたのが達彦だったのだ。

「俺さあ、こいつ貰う」
 二人が高城の家に居候することになったため、その顔合わせの食事会の夜。
 和やかに進んだ食事会の終わり頃に、いきなり健吾がそう言い放った。
 初めて会った時、彼は年齢以上の才を持つせいか、やけに冷めた大人のような雰囲気を持っていた。しかも、きっちりとネクタイまでしたスーツ姿。年齢を知らなければ若く見える大学生だと言われても判らなかったくらいだ。
 そんな彼が、何故か達彦を気に入った。
 卓夫によれば、健吾が興味を持つ分野を達彦が専攻していたこと。それに達彦はアメリカの卓夫の会社で、やはりその分野の研究開発を担当することになっていて、興味があったからだろう、というけれど。
 きっと、この親子は造形の好みまで一緒に違いないと、後で達彦と話をしたことがある。
 それはさもかく、あの時、いきなり健吾は達彦を指指して、それはまさしく「宣言」をしたのだった。
 誰の意見も聞いていなかった。誰の意見も聞く耳を持っていなかった。
 卓夫がちらりと達彦を伺う。
 達彦は完全に硬直して、ただ健吾を見つめていた。
 卓夫にアメリカに行くことを了承した時に見せた、威風堂々とした姿はどこにも無い。
『私の目的は、篤彦とともにあなたのところで働くことです』
 それは忠誠心でも何でも無い。篤彦を捨てるなら、自分も卓夫の元で働く意味は無い、と言い切った達彦だが、今は、どうして良いか判らない——のか、それとも、健吾の言葉の意味が理解できていなかったのか。
 硬直しているうちに、健吾の手が達彦に伸びる。
 いきなり施された濃厚な口付けに、ますます達彦は硬直して。
「う、うああっ」
 しばらくしてから悲鳴を上げた達彦がテーブルの下に身を隠すまで、篤彦も呆然とそれを見ていることしかできなかった。
 結局、その健吾の言葉は曖昧に放置されている。卓夫も本人同士のことだから、と関与しようとしない。
 ただ、達彦は例の事件でのトラウマがあるらしく、触れあうことに酷く敏感なのだ。酷い時には怯えすら見せる。その事だけは健吾に伝えて、無理はしないようにと言ってはいるのだけど。
 ズルズルと引きずられる音と、嫌だ、と抗う声。
 ドアを介してさえ聞こえるその物音を聞きながら、「ごめん」と小さく呟いたのは、ほんの少し安心しているからだ。
 卓夫が止めないと言うことは達彦に興味が無いのと一緒だから。
「今日も達彦の負けだな。トラウマもだいぶ落ち着いてきているようだから、案外そう遠くないうちに治るかもしれないな」
 苦笑混じりで卓夫が言う。
 それに頷く。
 健吾は決して悪い子ではない。さっきだって疲れて帰ってくる達彦のために、夜食を手ずから用意してたのを知っていた。それに、夜中にうなされることもある達彦を、我が事のように心配する姿も知っていて。
「まあ……兄さんも本気で逃げようとは思っていないみたいなんですよね……」
 達彦が、健吾に構われることを決して厭うていないと知っているから。
 ただ、プライドが邪魔しているだけ。
「落ちるのももうすぐだな」
 決して面白がっているわけではないのだけど。
 結構良い関係になるかも——と思うから、邪魔する事が躊躇われるのも事実だった。
 

 外は星が光る闇夜。
 そろそろ卓夫の仕事も一段落がつきそうだ、と篤彦は室内にあるバーカウンターに近づいた。
 明日は久しぶりの休みだ。
 卓夫の秘書としての仕事は、まだまだ大したことはしていない。それ以前の段階で、今はひたすら研修という名の元に、いろんな事を勉強させられていた。
 だから、会社ではなかなか卓夫の傍らにはいられない。
 それに、帰ってからも双方にいろいろと忙しくて、久しく肌を触れあわせていなかった。
 そのせいで、慣らされた篤彦の身体が、ここ数日夜になると疼いて仕方がなかった。
 だが、自慰は禁じられているのだ。篤彦が達くことができるのは、卓夫によってのみ。それを破れば、激しいお仕置きが待っている。
 苛められることに快感を覚えるとはいえ、快感だって過ぎれば辛くて苦しいものになる。だから、卓夫がその気になってくれるまで、篤彦は我慢するしかない。
 ブランデーの瓶を出そうと手を上げると、シャツの下で体温に馴染んだ鎖がしゃらりと小さな音を立てた。
 外すことを禁じられたそれが、胸のピアスを刺激する。
 アメリカに来てすぐに左の乳首に付けられたピアスには、細身のプラチナのリングがついていた。
 同じ物が今、卓夫の薬指で光っている。
 同じリングは幸せの象徴だ。
 ピアスホールを穿たれながら泣いたのは、痛みのせいではなくて、ただ幸せだったから。
 そのリングの中を、腕を動かすたびにネックレスの鎖が移動する。そんな細かな振動すら、篤彦の身体を疼かせるのだ。
「ああ、終わった……」
 背後でため息とともに零れた低い声音にびくりと肩が震える。
 その言葉に期待してしまう自分が恥ずかしいけれど。
「美味そうだ」
 直後、耳朶に触れる吐息と、うなじから伝わる湿った感触に身動きすらままならなくなった。
 抱き寄せられ、腕の中で身悶える。
 勝手に零れる熱い吐息を奪われて、すぐに軽く啄まれた。
 恋人同士のキス。
 優しく思いやりが伝わるキスが、篤彦は大好きだ。
 店では絶対にされることの無かったキスをたくさんしてもらうことが大好きだ。
「酒も良いが、先に篤彦が欲しい」
 何度も何度も口づけられながら、引きずられるように隣室を介して繋がっている寝室へと運ばれる。
「今日は何をしようか?」
 ん、と聞かれて、首を振った。
 手はすでに肌をまさぐっている。脳裏に浮かぶのは、今まで経験した数々のプレイだ。
 そのどれもが、篤彦を官能の渦に叩き落とすものばかり。一度入ってしまえば、溺れて、自分が自分でなくなっても、まだ出ることはできない。救い出されるのは、卓夫が満足しきった後のこと。
 胸の上で、鎖が澄んだ音を立てる。
 篤彦の手では首から外されることのないそれが、卓夫の指に絡まるのを見つめる。
「今日は、これで遊ぼうか。まずは……」
 卓夫の手にかかれば呆気なく外れた鎖が肌の上を擦りながら、下肢へと移動する。
「これに厭らしい液をたっぷりつけてあげようね。でも、その前に少し我慢を覚えよう」
「あっ、んくっ」
 陰茎に走る痛みに身を震わせる。
 けれど身体が熱い。
「ほら、もうこんなに涎を出して……。食いしん坊だね」
 くすりと嗤われて抱き締められる。
 ふっと時計を見上げれば、まだ日も変わっていない。
 これから明日の晩まで、まだたくさんの時間がある。
 その間、どんなふうに愛されるのか。
 鎖の音が下肢の間から聞こえ戒められた陰茎が鈍い痛みを訴え続ける。
 けれど篤彦には、その痛みすら幸せの象徴だった。
 
 
【了】