11

 久しぶりにくぐった家の玄関は、多分前と何も変わらなかったはずなのに。
 触れた扉の感触も、裸足で踏んだ床も、どこかしっくりこない。
 まるでここが自分のテリトリーでないような落ち着きの無さがあった。一年前からずっと帰りたいと願っていたはずなのに、まるで他所の家に来たような違和感ばかりに襲われていた。
 どうして?
 ぐるりと見回しても、記憶にあるそれとたいして代わりはないのに。
「……どなた?」
 扉が開いた音に気付いて、台所に続く出入り口から覗いた母も、きっと変わってはいない。
 なのに、ぎこちなくにしか言葉が出ない。
「……た、だいま」
 そんな篤彦に、母親は大きく目を見開いた。
「あ、篤彦っ! 一体今までどこにっ!」
「あ、ああ……」
 当然の疑問だろう。
 泣かれるか、怒られるか。
 心配かけただろうから、それは当然だと思っていた。
 どう謝って、どうしてこんな事になったのか、当たり障り無くどう言おうかと考えていたのだけど。
「なんで大学行かなかったのよっ。せっかく、あんなに良い学校に入れて、何が不満だったって言うのっ」
 続いた母の言葉に、篤彦は言葉を失った。
 それは、想定していたどの会話とも違っていたからだ。
「大学、行っていないって。どうしているのかって問い合わせがあって、初めて知ったわよ。あんな良い学校、辞めるのもバカらしいから、とりあえず休学の手続きしたけど。いろいろ聞かれるし、あんたの友達は、しょっちゅう来てなんやかんや勘ぐってうるさいったら。ったくあんな友達なんかいない方がマシよっ。こっちからすっぱり縁を切らして貰ったからね。ったく……こんなに親に迷惑かけて、どういうつもりなのよ」
 うるさい、って……勘ぐるって……。
 むやみやたらに騒ぐ友人達ではない。息の合う、仲の良い友人達だから、大学に来ない篤彦を心配して家まで来たのは容易に想像できた。
 きっと、母親にいろいろと問うたのだろうけれど……。
 それが何故うるさいなどとなるのだろう?
 何故、勝手に縁を切るなどと言うのだろう? 心配してきてくれている友人達を。
 どうして、それが迷惑になるのだろう? 所在が知れない事を心配してくれる友人達を持ったことを。
「ああ、すぐにお父さんに連絡を取って……。もうっ、あんたがこんなに面倒をかけてくれるとは思わなかったわっ」
「面倒……」
 それは想定しなかった訳ではないけれど、なにか違うニュアンスを感じて、思わずポツリと呟いた
 とたんに母の頭上に角が生えたのが判った。
「散々達彦で面倒かけられて、さらにあなたまで? 冗談じゃ無いわっ」
 ——ああ、そうか……。
 母の言葉に感じていた得体の知れぬ不快感が、すとんと理解できた。
 この人は、自分の苦労を惜しんでいるのだ。
 篤彦がいなくなった事により、振り回されてしまった事が一番の問題なのだ。
 それが簡単に理解できて、しかも呆気なく納得してしまうことができる。
 なぜなら、母は──いや、両親は、兄に対してずっとこうだったからだ。
 兄の行動はすべて自分たちにとって、面倒で迷惑なものだ、と、折に触れそれを口にしていた。
 あの頃は自分も、ああはなるまいと思っていたから、何も感じなかったけれど。
 こうして自分がその矛先になると、胸の奥の方が重苦しい痛みに疼く。
 ああ……。
 ずっと、親の言いなりに勉強して、反発する兄を闇雲に落ちこぼれの存在だと決めつけて反面教師にしていたから、気が付かなかった。
 兄は、いつもこんなふうに両親の放つ言葉と態度の刃で切り刻まれていたのだろう。
「……兄さんは?」
 無性に話がしたくなってくる。
 恨んでいないと言えば嘘になる。今更、謝って欲しいとも思っていない。
 けれど。
「達彦のことなんか知らないわよ」
 まるで赤の他人のように邪険にされてきた兄の心情が、今更ながらに判っただけ。
 この両親が篤彦にとって、何の支えにもならないと理解してしまっただけ。
「……判った」
 違和感ばかりの家であっても、それでも向かうべき場所に身体は向かう。
「篤彦?」
「自分の部屋に行くだけ。後は父さんが帰ってきたら話すよ」
 まだ何か言いたそうな素振りを見せた母親だったが、その言葉には納得したようだ。
「あ、ええそうね。お父さんには早く帰ってもらって、怒って貰わないと」
 もっとも、兄が警察沙汰を起こした時でもきっちり仕事を終わらせるまで帰って来なかった父親だ。今日も遅くなるだろう。
 いそいそと母が取ったのは、自分の携帯だ。
 軽快な仕草でメールする姿を視界の端に捕らえながら、篤彦は失笑した。
 父の会社に直接に電話をするのでなく、携帯にメールをしている。仕事中は私用の携帯はロッカーにしまわれて、休憩タイムにしか見られないと聞いたことがあった。そんな、いつ見てもらえるか判らないメールで、一年ぶりの子供の帰宅を知らせる母親の姿が、ひどく情けなくて、哀れで。
 浮かんだ笑みを、消すことなどできなかった。


 埃の匂いがした。
 少し湿った感じは、しっかりと締められたカーテンのせいだろうか?
 持ち主の不在を知らせぬように締め切られた部屋は、一体いつから開いていないのか。
 重い息を吐いて、手で仰いで、澱んだ空気が少しでも軽いモノにならないかと無駄な足掻きをしてみる。
 堪えきれずに音を立てて引いたカーテンの向こうから太陽の光が、強い明るさと暖かさをもたらした。その途端、身体からほっと力が抜けて、どんなに自分の身体が強ばっていたのかを知った。
 最初の頃はどんなにこの場所に帰りたいと願ったことか。
 そんなことも思い出して、小さく笑った。
「卓夫さん、俺、帰れたよ……ありがとう」
 呟いた言葉は、今は一番伝えたい相手に届かない。
 いつか、直接会って言いたい。
 ありがとう、と、本当に嬉しかったのだ、と。
 握った手のひらの中で、固いごつごつと塊が皮膚に食い込んだ。
 自分がまだ原石だと言った卓夫に、磨き上げた自分を見せたい。
 そうしなければきっと卓夫には会えないから……。
 だけど、それは容易い道ではない。幸いにも休学扱いになっていた大学のことには助かったけれど、卓夫と並ぶまではまだひどく遠い。
 それを考えると、少しだけ浮上した気分も重くなりそうだ。
 はあっと重いため息を吐いて、堪らずに胸を押さえる。
 と——。
 かさりと真新しいシャツのポケットの中で、乾いた音がした。
 それに気付いて、指を入れて取り出す。開く紙の中を見つめる篤彦の口元に知らず笑み浮かんだ。
 メモ用紙を畳んだものと、もう一枚は漆黒のカードだ。
 メモ用紙のそれはもう半年近く前に書かれたもので、端がボロボロになっていた。中に書かれているのは携帯の番号だ。
 カードの方は、水晶宮を出てくる時、手続きの説明をしたあの男に貰ったものだ。
 護田と名乗った男は、水晶宮を出ることができる姫はオーナーの名によって守られる存在となるのだ、と言い切って、このカードを渡してきた。
「そこの住所にある店の特別製のVIPカードだ。問題が起きた時——例えば、さっき言った誓約を違反しそうになる、もしくは違反されそうになった時に使うが良い。店に来ても良いし、その番号にかければ、巡り巡って必ず俺の所に届くようになっている。ただ、店はときたま場所を変えるから、その場合は新しいカードを渡してやる」
 硬質のカードは、漆黒の色に金の文字が書かれているだけのシンプルな物だった。
「ついでに言うと、たいていのその筋の者は、このカードの存在と意味を知っている」
 その言葉の意味はよく判らなかった。
 ただ、滅多に見たことのないオーナーがたいそうな権力を持っていることは容易く想像できた。
 いくつもの部屋を備えた水晶宮のインテリアは、あんな遊びの場に使うものとは思えないほどに高級感溢れる物だった。新品のそれがたった一夜の行為で精液と潤滑剤まみれになって運び出されるのを見たこともあった。
 酒もつまみも、名だけは聞いたことがあったが、未だかつて口にしたことのないものばかり。そんな酒を上からも下からも惜しげもなく飲まされて、遊ばれたこともある。
 高級すぎて、劣悪な二日酔いにならないほどだった。
 そのための必要な金を惜しみもせずに出す客達が、一見横柄な態度ではいるけれど、その言葉には必ず従う存在。
 その人が水晶宮のオーナーだ。


 こんなもの……。
 カードを渡された時、いらない、と思ったけれど。
 ぎゅっと力を入れて握ると、曲がることのないカードのエッジが鋭い痛みを与える。
 その硬質な触感と痛みに冷たい風が脳内に吹いて、篤彦はふっと息を吐き出した。
 何かが琴線に触れる。
 この店は、篤彦にとっては必要不可欠な場所になる様な気がして、流れる飾り文字で描かれたCrazy Moon(クレイジームーン)の綴りを、指先でなぞった。
「Crazy Moon……」
 呟き終わった途端に、心が切り替わった。水晶宮で客を相手にする時の、意識の切り替えと同じものだ。
 あの店では、些細なことほど重要なのだと学んだ。客の見せる仕草、自分の言葉遣いに態度、知識。今まで気にもとめなかった事を気にするようになった時、世界が変わった。
 経験することに無駄はない。
 それに、今は目標がある。
 そのためには、なんだって利用してやる。
 その一つめが、これだ。
 カードに書かれていた名前と電話番号を、帰る時に渡された携帯電話に打ち込んだ。一年前に奪われたものとは違う。最新機種のそれは、まだ手に馴染まない。
 続けて、メモ用紙に書かれた携帯番号も打ち込んでいく。
 名前の欄の入力に、少し首を傾げた篤彦は、くすりと微笑んで指を動かした。
 本当の名は知らないから、これしか入れようがないのだけど。
『砂』
 細かな結晶は小さくて固い。
 小さすぎて容易につぶせない強さと、煌めく輝き。
 あの名は、考えてみると彼には本当に相応しい名前だと思う。
 まだこの番号は通じるだろうか?
 出て行く時が来たら必ず電話して、と渡された番号は、宝物のように大事に持っていた。
 彼自身が出て行く時にあまり嬉しくなさそうだったのは、緑姫として残る篤彦を慮ったからだと判っていた。
 微笑みの浮かんだ氷の美姫と連れ添って、幸せな笑みを浮かべた彼を見たことがあるから、今もきっと幸せでいると信じている。
 大事な人と共に生きていくために出て行く彼は、氷の美姫すら溶かすほどの優しさと温もりでもって、篤彦をも助けてくれた。
 篤彦がこうやって出られることになったのも、半分は卓夫の、残り半分は砂姫のお陰なのだ。
 もう戻れない、と思って理不尽に当たり散らしたのはいつだったろうか?
 帰りたいと切望することに疲れて、嬲られて簡単に欲情する身体に絶望して。
「大丈夫だよ。ここは、他のこういう場所に比べたら、ずいぶんとマシなんだって。だから頑張ればきっと出て行けるから」
 そんな根拠のない言葉を信じるつもりなど無かった。
 苛立って、罵倒して。
 それでも、彼は甘んじて受け入れていた。
「緑姫は何でもできるし強いから……。俺、鞭はダメだし、熱いのもダメ。言いつけもちゃんと守れないから……。友貴様のお陰でなんとかなっているだけ。でも緑姫は君自身の力でここまでやってこられたもの。それに、すっごく物覚え良いだろう? それって凄いと思うよ」
 性技の覚えが良いと褒められても、嬉しいとは思えない。
 けれど、砂姫に優しく微笑まれて、荒ぶった心が落ち着いていく。
「大丈夫。緑姫はちゃんと常連さんがいるからね。何人か常連がいるのなら何とかなるかもなって、友貴様も言っていた。大丈夫だよ」
 何度も何度も、繰り返し言われて、そのうちに自分でもそう思うようになっていた。
 ——何とかなるよ、大丈夫。
 視界に入った緑姫を認識できないような状況に陥っても、意識が戻れば、砂姫はそう言って微笑んでくれた。
 その優しさに何度救われたことか。
 感謝しても感謝しきれない。
 こうやって外にでることができたらなおさら強く思う。
 そんな砂姫が無事出て行くことになった時に、渡された電話番号がこれだった。
『いつか必ず電話してきてよ』
 そう言った砂姫の言葉は忘れたことはない。
 水晶宮では電話はできないから。
 だから電話をするためには、自由にならなければならないから。
 それは、砂姫が出て行くことによって少なからず気落ちしていた緑姫に、頑張る力を与えてくれたものだったのだ。


12

 遅くに帰ってきた父親は篤彦を見た途端、罵倒を繰り返した。
 挙げ句、30分もしないうちに言いたいことは言い切ったとばかりに、篤彦に「今の大学をきちんと卒業して就職だけはしろ。留年も家出も許さん」と言って、部屋を出て行かせた。
 どこで何をしていたか、聞きたくもないらしい。
 ため息を零して自室に向かうのに階段を上がる。
 用意していた言い訳など、一言も口にすることなどなく終わったことに安堵してはいるけれど。
 本心では聞いて欲しかったと願っていたことに気付く。
 諦めきれないのか、悔しさからか、キリキリと痛む胸を宥めるように手をやった。それでも痛みはそう簡単には癒えてくれなくて、篤彦は苦笑を浮かべながら冷たいドアノブに手をかけた。
 兄への両親の態度は、虐待ではないと昔思ったのが間違いだったと今なら思う。
 だって、こんなにも痛い。
 それが言葉だけだとしても、いや、言葉だけだからこそ、よけいに胸が痛くて堪らない。
 母の言葉に感じた痛みより強くなったそれが、辛くて息苦しくて。
 ぎゅっと拳を胸に押しつけている時。
 背後から床を擦る音が聞こえた。
 怠い体を持ち上げているようなテンポの遅い音が少しずつ近づいてくる。
 玄関のドアの音が聞こえた覚えはないが、あの罵声の中で聞き逃しただけかも知れない。
「……兄さん」
 踊り場に現れた影に、思わず呟いた。
 薄暗い影に入って表情が見えない。中途半端に色が抜けた髪だけが、照明に照らされていた。
「……帰って……きたんだ」
 その声音に、ほっとしたような響きが入っているように感じたのは気のせいだろうか?
 ゆっくりとした動きで階段を上がりきり、ドアの前で二人向かい合う。
 いつの間にか越していた背を除けば、自分たちは良く似ている。瞳は同じ緑だし、眉や鼻筋のラインなどそっくりだ。だが似ているのに、最近はあまり間違えられることはない。
 それは、達彦が纏う暗い雰囲気のせいだ。
 いつも視線が合わない。
 笑った姿もあまり見たことがなかった。
 目の前に立った達彦が、視線を合わせずに問うてくる。
「どこへ……行ってたんだ? その……大丈夫だったのか?」
 白々しい。
 誰のせいだと思っているんだ。
 返したかった言葉は、けれど口にする前に達彦の言葉に立ち消えた。
「身体……壊したり、しなかったか? 病気とか……?」
 上目遣いの視線が、ちらちらと篤彦を窺う。
「病気は……別に」
 つい答えた途端、「良かった……」と心底安堵したように呟かれた。
 安堵は全身の力さえ抜いたように、肩まで落ちている。
「無事で……良かった……」
 声音が震えている。
 泣いているのか、と思ったけれど、深く俯いているから表情は窺えない。
 判っているのだろうか?
 一年の失踪が、自分のせいだということに。
 いや、判っているに違いない。だからこそのこの言葉だ。
「無事、ってどういう意味?」
 怒りとも悔しさとも違う、けれど訳の判らない衝動が込み上げる。
「病気や怪我をしてなかったら、無事だと思う?」
 くっと喉の奥で失笑して、低い声音で返す。
 左手をそっと腰から背へと回した。
 だいぶ消えたけれど、ここにはまだ鞭の痕が青黒く残っている。最後の卓夫にされた鞭の痕。
 それを見せたら、達彦はどんな表情を見せるだろうか?
 篤彦が男達に『姫』と呼ばれて嬲られたことを知らせたら?
 自虐の笑みへと変わった篤彦を、跳ねるように顔を上げた達彦が怯えた瞳で見つめていた。
「部屋に入れよ」
 立ち尽くす達彦を、自室へと招いた。
 階下の物音はしない。けれど、ここでいつまでも話をすれば、あの両親が様子を窺いに来るだろう。いや、いきなり怒鳴られるかも知れない。それこそ、近所迷惑だ何だと言って、自分たちの方がよっぽど近所迷惑な声をして。
 昔、兄に怒鳴り散らしていた時の事を思い出して、小さく笑い、その表情にまた達彦が肩を震わせる。
 酷く怯えている。
 いつも表情を隠している達彦の感情など、昔の篤彦なら判らなかったし、判ろうともしなかったろう。
 だが、今の篤彦は水晶宮での客とのつきあいによって、人の感情を学ぶことを習ってしまった。自分の身を守るために知らざるを得なかった。
 そんな篤彦の目に映る達彦は、怯えと罪悪感しか感じられない。それも相当の。
 あの借金は達彦がしたものに違いないのだろう。だからこその罪悪感だ。しかも、それをひどく反省しているのが判る。そして、篤彦が帰ってきたことに本当に安堵してくれているのだ。
 一度荒ぶったはずの感情は、それに気付いた途端、すうっと鎮まった。
「とにかく、入れよ」
 この家に戻って、ただ一人心配してくれた。それは、何があったか知っているからこそ、だろうけれど。
 それでも、本当なら両親から欲しかった言葉を貰えたことは、少なからず嬉しかった。
 帰ってきた途端に浴びせられた耳障りで不快な言葉。
 たった一言——心配していたんだ——と優しく言ってくれたら、それで良かったのに。
 ただ、自分たちに苦労をかけた事を責めてきた両親。その苦労が本当は心配からだったのかも知れないが、今の篤彦にはそこまで読む気がしなかった。
 実際、昔からああいう態度を取りやすい人達だったから。
 特にこの兄に対して。
 誘ってもそれでも立ち竦んでいた兄だったが、再度促すと小さな吐息を漏らしてから中に入ってきた。
「その……。どこにいたんだ……今まで。逃げてたのか?」
 呟く言葉は、自分のしたことの告白に違いない。
 それを確信してから、篤彦は口にした。 
「店で毎日男相手に身体を売った。いわゆる高級男娼って奴。人気者だったよ」
 自分で口にするしかない言葉は、言ってみると結構辛い。
 もう済んだことだと思っていたけれど、やはりあの経験は心の奥底に痛みとなって残っている。
「男娼……っ!」
 絶句して瞠目する達彦に俯きかけた表情に無理に笑みを浮かべた。
「しかも男相手。珍しいだろう? まあ、それで借金が返せたんだぜ。だいぶ膨れあがってたけどね」
 その言葉と共に、店で卓夫相手に接客した後の彼の優しい言葉を思い出した。
 自慢できるようなものではないのに、卓夫のことを思うと落ち込んだ気分が浮上した。
 あのすばらしい人に気に入られてたことだけは誇らしい。
 あの人の元にいられるなら、いつまでも緑姫でいたかった。
 帰りたくなんかなかった。
「ある人が、俺を気に入って借金を返済したんだ。凄く優しい人……」 
 輝姫が、彼に拒絶されたら、生きていく意味が無いと言っていた。その意味が判る。
 彼がずっと客でいてくれるなら、あの場でなら会えるなら、店に残りたかった。
「優しい人……?」
「俺の最初の客。俺……あの人の事だけは絶対に忘れない。できるならば、あの人の所に今すぐでも行きたい」
 届かない背の鞭の痕。
 それに切に触れたいと願う。
 触れて抱き締めて、あの人の熱を想い出したい。
「篤彦……それってお前」
 明るい照明の下、卓夫のことを想い出してうっとりとした表情を見せた篤彦に、達彦が恐る恐る問う。
「好き……なのか、その人が」
 問われて、即座に頷いた。
「ああ、好きだ。あの人のことが……俺はずっと好きだったんだ」
 あの人だけに抱かれたいと願った。
 それが証拠だ。
 もう卓夫に会えないと判った時の失望感は、達彦に嵌められたと知った時より酷かった。
「兄さんが、俺の名で借金をしたんだって事はすぐに判った」
 卓夫への思いを胸にして浮かんだ笑みのまま、篤彦は達彦に向かい直った。
 言葉に明らかに動揺する達彦に迫る。
「けどさ、あの店に行かなかったら、卓夫様には会えなかった。だから、今ではそんなに恨んでいない」
 最初は恨みだけで生き延びた。
 けれど、今はそうでもないのだと、と言うと、達彦は信じられないように首を横に振った。
「だ、だって、売られたんだろ? 売春っていうか……身体を、売って……。だって、その人だけじゃなかったんだろう?」
「ああ、いろんな客がいた。俺、サドに気に入られていたから、結構鞭打たれたよ」
「む、鞭っ」
 ひっ、と声無き悲鳴を上げた達彦が一歩後ずさる。
 その痛みを想像したのか、両腕で自分を掻き抱く。
「慣れたら、心地よい時もあるぜ。俺は、そういう質らしくってさ」
「だ、だって、そんな……痛いに決まってるじやないかっ」
「でも、人によっては気持ちよいんだよ、あれも」
 好きな人に鞭打たれるのは、本当に良かった。
 その光景と痛みを想い出すと、こんな時でも陰茎がびくりと疼く。
 もうあの鞭は味わえないのだろうか?
「う、嘘だ……」
 それでも信じられないのだろう。否定する達彦に、篤彦は肩を竦めただけだった。
 自分だって信じられない。
 だけど、真実なのだ。
「……そんな目に……」
 悔いの涙だろうか?
 達彦の頬が濡れていた。
 流れる滴が、ぽたぽたと床にまで落ちていく。
 その涙が、妙に胸の中に染みこんでいった。
 鞭打たれて同情されたのは、今の達彦で三人目だ。
 卓夫と砂姫、そして達彦。
 卓夫は自分でも鞭打つのは好きだが、だからと言って他人に酷く鞭打たれた痕には同情してくれた。なおかつ、自分がお前の性癖を知らせてしまったからだな、と謝ってくれた。
 砂姫は、とにかく優しい人だった。
 そして達彦が今泣いてくれる。
 本当は恨みはもうそれほど強くない。
 それに、本当は一番に心配して欲しかった両親には貰えなかったから。そのせいか、泣いてくれる兄の姿が嬉しく、そして哀れだと感じた。
 どういう経緯で、篤彦に借金を背負わせようと思ったのか知らないが、そんなことはもうどうでも良いと思った。
 もうあの借金は片づいたし、何より、そんなことに構っていられない理由もある。
 今日この家に帰ってきてからずっと考えていたこと。
 いや、水晶宮を出る時から考えていたこと。
 家に戻ったのは、心配かけた両親に顔を見せる必要があると思ったことと、少しでも助けにならないかと思ったからだ。
 何しろ、自分という原石を磨かなければならないのだ。
 あの店でいろいろ学んだけれど、普通の会社で仕事をするということになると、サラリーマンである父親の話も参考になるかも知れないとも思ったからだ。
 けれど。
 篤彦の頭の中では、もう両親に何かを期待するつもりは毛頭無かった。
 それよりも、この家で唯一心配してくれるこの達彦ならば、もっと役立つかも知れない。
 この兄は愚かではあるが、バカではない。
 ただ少し短気気味で、自分に自信が無いだけ。
 子供の頃、達彦の方が成績は良かった。理解するのに少し時間がかかるが、理解してからの応用力も、それに手先の器用さも今の篤彦より優れていると思う。
 子供の頃、その器用さがいつも羨ましかった。
「兄さん……今も、あの大学に行ってるの?」
「え、ああ……なんとかな」
 篤彦が通っていた大学とそう遠くない、私立の工業大学。
 篤彦の大学からすればレベルは落ちるが、それでも両親の望む偏差値持つ大学で、知的財産権など、企業が求める実践的な教育にも力を入れていて就職率は良い方だ。
 高校の時、夜中に繁華街を遊び歩いていた達彦は、不良というレッテルを貼るには中途半端な程度だった。
 両親に怒りをぶつける訳でもなく、外に出ても友人達の言われるがままだったように思う。結局、言いように使われて、警察に世話になり。それが両親の怒りを買っていた。
 それは大学受験の際には落ち着いていただったが、大学の二年の時また連れ回されている姿を見たことがある。
 その時に、単位をいくつか落として留年した達彦は、今は四年の初夏。
 あの時も両親の怒りは凄かった。
 今思えば、あれは言葉の暴力だと判る。
 それを達彦は、甘んじて受けるだけだった。
 そして、この兄は、両親に叱られるたびに萎縮していった。
「就職は?」
「……まだ」
 それに、就職難はまだ続いていた。
 二年の件で大学と家だけを往復する生活を両親に強いられてたから、成績は元に戻って優秀なのだが、いかんせんこの性格が面接で悪影響を与えるのだろう。
 できる人なのに。
 俯いたまま、少し苛だたしげに髪を掻きむしっている。
 ぱさぱさと軽さ感じる髪は、かなり傷んでいて、自分の一年前の髪を思い起こさせる。
 今は、篤彦の髪は艶やかな黒髪となっていて、さらさらと指通りも良い。
 子供の頃は同じように達彦の髪は黒くて……そして、達彦の方がよっぽど溌剌として明るい性格だった。

13

 水晶宮の中しか知らない一年。
 失った一年を取り戻す必要がある。
 これからは、一日でも無駄にはできない。そのためには、篤彦に自分に罪悪感を抱いている達彦を利用しない手は無かった。
「ねえ、ものは相談なんだけど……」
 一年前には無かった、どんなことをしてでも手に入れるのだという貪欲さが、今の篤彦にはあった。
 自分を磨くために。
 けれど、まだ大学生である篤彦には、会社という組織の仲にいる卓夫は遠い。
 だから、自分より先に会社に入る達彦を使うのだ。
 それに、ここはもう……。
 冷たく感じる室内を見渡してから、所在なげに突っ立っている達彦を見つめる。
「何だ?」
「兄さんに会社紹介してあげるからさ。一緒に家、出ないか?」
「え?」
 素っ頓狂な様子の達彦に、篤彦は自信に満ちた笑みを浮かべた。
 護田が言っていた。
 大学に行く気がなかったら、幾らでも会社を紹介すると。もっとも、自分ならそんなツテは使わなくても入って見せる。それに、有る程度の地位を確保するためには、大学卒業の資格も必要だ。なんだかんだ言っても、まだ日本は学歴社会だ。アメリカでも、大学卒と高校卒では会社での地位ははっきり差があって、簡単には交わることは無いと言う。
 だから……。
 先に達彦を関連会社に入れて、卓夫の事を調べさせ、そして篤彦が近づいていることを意識させるのだ。
 達彦の潜在能力は高いと踏んでいる。
 役に立つ人材なら、会社だって取ってくれるだろう。そうさせるだけのことはしてみせる。
「這い出すのは今しかないよ。それとも、いつまでもあいつら怒鳴られ続けて自分の人生台無しにするつもりなら良いけどさ?」
 ちらりと階下に向けた視線に、兄がごくりと息を飲む。
 言葉に潜む嫌悪が、誰に向けられたか判ったのだろう。
「俺もさ、ここを出たい。だから、一緒に出よう」
「お、お前も?」
「……ここでは自由にならない……」
 心配してきてくれる友人達を邪険に扱ったに違いない両親。彼らは決して両親が言うほどうるさく言うようなタイプではない。実際、確認してみないと判らないけれど、それでも篤彦は、両親達がうるさくされることにより噂が広まることを恐れたせいだと確信していた。
 そんな両親がいるこの家では、思ったことができない場合がある。だが、今の兄と出ると言っても、反対されるだけだ。
 就職を、しかもある程度の会社に就職させて、ちゃんとした場所に住まいを備えることが一つめのきっかけとなる。
 篤彦が就職する来年には家を出て、行動範囲を広げる。
 この家は、もう自分が安心できる場所ではないし、今は邪魔なだけ。
 それが今日一日ではっきりと判った。
 自分が今傍らにいて欲しいのは、卓夫だけなのだ。
「お前は……俺を恨んでいないのか?」
 今更何を……。
 不意に掛けられた達彦の言葉に、篤彦は失笑した。
「恨んでる」
 刹那、びくりと震えた肩に両手を置いて、きつく掴む。
 食い込む肉と爪先に当たる骨の硬さ。
 薄い身体は不摂生のせいか。
 毎夜の肉体労働をこなしてきた篤彦の方が今は強いだろう。
「けど、それよりもっとやりたいことがあるんだ。そっちが何よりも優先するからそのために、兄さんだって利用する」
 かがみ込んで上目遣いに見つめる。
 その効果がどのくらいあるか承知の上で。
 ごくりと響く息を飲む音に、擦れた悲鳴が混じる。
 恨みはもうかなり消えているけれど、恨んで欲しいなら恨んで上げよう。けれど、それはまた別問題。
 今は、優先順位は絶対に間違えない。
「兄さん、あの二人——両親の傍にいつまでもいたら、人生台無しになるよ。いい加減判っているんだろう? 兄さんは、いつもあいつらに萎縮していた。もっとできるはずなのに、押しつぶされていた。そろそろ見返してやろうよ。兄さんはできるよ。両親の代わりに俺が傍らにいてやるから、さ」
「篤彦……」
 それでも惑う表情は、達彦が両親の愛情に飢えているせいか。
 でも、もう親離れして良いと思う。
 篤彦が呆気なく親離れしてしまったように、達彦もとっくにその時期は過ぎているのだ。
「それに協力してやるから……。兄さんも俺に協力してくれ」
「え?」
「俺は、あの人に会いに行く。好きだという言葉は欠片も言えないかも知れないけれど、礼は言いたい。そして、あの人が俺にくれた金額分だけ、俺は自分の力であの人に返したい。だから……そのために、手伝って欲しい。一人では無理でも、兄さんが手伝ってくれるなら、確実さがマシそうな気がするんだ。な、頼むよ」
「っ……」
 その言葉に、達彦が明らかに動揺を示した。
 まじまじとその言葉の真意を測るように、篤彦を見つめている。そんな彼に、篤彦は近づいた。
「知っているよ。兄さんは凄いんだって事。だから、一緒に頑張ろう?」
 耳朶に吐息を吹き込むようにくすりと微笑むと、肌を赤く染めた達彦が目を瞠った。



 翌日早々に電話をかければ、すぐに護田とは繋がった。
 昨晩のうちにインターネットと持っているツテで必死になって探し集めた情報は、大量のものになっていた。だが、それでもようやく卓夫の名を見つけた時の喜びに疲れなど吹っ飛んだ。
 あの店は、顔を晒しているので偽名を使わない客も多く、そういう客の方が好感を持てる人も多かったように思う。
 そして、卓夫も本名だと聞いていた。
 高城卓夫(たかしろ たくお)。
 高城グループ会長の弟で、傘下のいくつかの役員に名を連ねていた。メインは高城インダストリーの取締役社長職だ。
 さすがああいう店に来て遊べるだけの財力と権力を持つだけの男だ。その辺りの一般人とは違う。
 さらにそれぞれの会社の詳しい情報を探し出し、篤彦はすぐに護田へと電話を入れた。
 『退職金代わりの依頼ごと』という大切な鍵を篤彦はためらいなく、使った。
 用件を伝えると、押し殺した笑い声と『承知した』という言葉が伝わってくる。その時に指示された書類一式をメールで送ったのがそのさらに次の日。
 たったそれだけの事で、一週間後には篤彦が希望した会社の書類選考に、達彦が合格したとの連絡が入ってきた。
 新規採用の募集は終わっていたが、その辺りは護田が何とかしたのだろう。
 自分がすぐにでも卓夫の会社に入りたいという要望は今は無理だから、達彦を使う。そのための手段として護田を使ってやるのだ。そうしないと、卓夫はどんどん離れていってしまう。
 ——大丈夫、がんばればできるよ。緑姫は凄いから。
 疲れてくると浮かび上がる記憶。
 まだ電話はできていないけれど、それでも落ち着いたら必ず電話しよう、と携帯のアドレス帳を見つめる。
 それだけで、強ばった筋肉までも、ほっと解れるような気分になった。
 いくらコネでそこまでこぎ着けたとはいえ、実力主義の会社であることはすでに調査済みだ。
 学科と面接試験でダメなら無理だという話は、護田からも聞いている。
 それらはさらに二週間後だ。
 卓夫に近づくための第一歩になる会社だから、情報はすでに集めていたけれど、もっとたくさんの情報がいる。篤彦はそれを達彦に任せた。もとより知財戦略の講義の際に情報収集についても受けていた達彦は、そういう術に詳しかった。また大学に行けば、その手の手段は幾らでもあったのだ。
 また篤彦は篤彦で、大学の復帰という大仕事をあって、非常に忙しかった。すでに新学期が始まっているから、何もかもが後手に回っているからだ。
 友人達と再会を悦び、両親の事を詫びる。
 詳しい話を聞くにつれ、あの二人がどんなに友達をないがしろにしてくれたかが判った。ほんの僅かそれでも期待していたのに。
 冷たい態度に、最後には友人達のせいで大学に行かなくなったのだと罵倒すらされた、と聞いて、ひたすら恐縮するとともに、両親への期待は立ち消えた。
 友人達ですら、来なかった一年を心配してくれていたのに。
 さすがに理由は言えなかったけれど、それでも大変だったんだろうと察してくれた。
 労りの言葉は、くすぐったく、そして嬉しかった。



 面接に向けて、達彦の髪を黒く染めて整え、スーツを整え、言葉遣いと態度を治した。
 やることはたくさん有る上に、達彦は時に反抗的になった。
 あれこれ言われるのが我慢ならないだろう事は判っていたが、篤彦とてここで引くわけにはいかなかった。
 褒めて褒めて褒めまくった。
 もとより褒められることの無かった達彦は、篤彦に褒められるとまんざらでもないのか、機嫌も良くなってくる。そこを逃さずうまく誘導した。
 どうしてもダメな時には、罪悪感を突く。篤彦としては、あまり使いたくない手段だが、それはてきめんに効果を現した。
 そのうちにめきめきと面接への対応と度胸を見につけて、今度はそれが達彦の自信に繋がった。
 達彦が受ける会社はスキルアップの制度をうまく使えば親会社に行くことも可能だ。今は卓夫はアメリカらしいが、それでも日本を訪れないわけではない。たとえ行くのが達彦でも、自分と似た顔が会社内にあれば卓夫だって気付くだろう。
 達彦に気付けば、篤彦が動いているのが判る。
 少しでも卓夫に近づこうとしていることが。
 そして、達彦経由で卓夫の情報も少しは入るだろう。社内の情報は、やはり社内の人間が一番手に入れやすい。
 どんな些細なきっかけでも、卓夫に繋がる道があるのなら決して逃すことはできなかった。
「内定が決まった」
 入ってきた達彦が満面の笑みで篤彦を手招いた。
 達彦の部屋で、彼のパソコンを覗き込めば、受けた会社からのメールが入っている。
「さすがだね。おめでとう」
 試験直前の感触は良かったのだが、何しろ面接は面接官次第だ。
 どうだろうか、と思っていたのだが、ようやく第一関門突破ということか。
 にこりと微笑んで祝辞を述べると、達彦が困ったように鼻の頭を掻いていた。
 最近、良くこんな照れたような表情を見せる。
 それに、表情にも穏やかさが見えてきていた。
「篤彦のお陰だな……その。——……がと……」
 小さな声でかろじて聞こえた言葉に、篤彦も微笑みを返す。
 どんな試験対策本よりも、水晶宮で砂姫や輝姫に教わった客との接し方・考え方の全てがこの達彦にはとても役に立った。
 面接官のつもりでいろんな質問を投げかけている中で、篤彦はこの兄が本当に褒められたり、礼を言われることに慣れていないことを知ると同時に、それらを相手に向けて伝えることがうまくできないことも知ったからだ。
 挨拶、礼、相手を立てる態度、受け答えの大事なこと——それらを必ず褒めながら根気よく教えることが、達彦には一番良く効いた。納得したことは達彦はきちんとそれをものにすることができるから、教えがいもあったけれど。
「兄さんの実力さ。兄さんは、いつだってちゃんとできてるからな」
 何より意外なことに、論理的な思考と文章が書けることも初めて知った。
 今までは、落ち着いて考えることもせずに書き殴っていた文章が、ちょっとしたアドバイスで見る見るうちに変わってきたのだ。
 理路整然としたレポートは、篤彦が読んでも判りやすくて唸ったほどだ。
 これでは、もう教えることなんか無いだろう、と思ったけれど。
「でもさあ、ほんと言うとあの面接官殴りつけたかったんだよな。変な質問ばっかしてくるし……。今度会ったら殴ってやりてえよ」
 今は抑えている短気がこうやって出てくるから油断はならない。
「仕事なんだからしょうがないんだって思ってやれば。短気は損気」
「……簡単に言いやがる」
 そう言って苦笑する姿も、最近増えてきた。
「そう? でも俺も何度も思った事あったよ。殴りたいっていうか、客のもん、何度も噛み切ってやろうかと思った。けどそんなことしたらもっと最低の所に回されるんだぜ。それこそ二度と日の目が見られない所に。だったら笑って、『美味しい』なんてうそぶいてやるなんて、結構平気でできたけどね」
「……お前……」
 絶句する達彦に笑いかける。
 あの一年間を、こんなにも簡単に笑い話できるとは思わなかった。
 そんな自分に呆れて、けれど実際我慢し続けたから出られたのも事実。
「最悪のことをちょっと考えれば良いんだよ。兄さん、会社の人殴って辞めさせられて。またあいつらに、これだからってバカにされたいのか?」
「……冗談じゃない……」
 途端に低くなった声音に、篤彦も頷いた。
 達彦の両親への確執は長いだけあって、篤彦が考えるより根深い。それでも、少しずつ達彦は両親から離れようとしていた。いや、もうあの両親に期待するのを諦めたと言った方が正しい。その結果、達彦は今までの陰鬱としていた雰囲気が無くなっていった。
 篤彦自身も、帰ってきてからずっと冷静に両親を見続けて、彼らに対する熱は完全に冷え切っていた。
「だったら、我慢できるだろ?」
「……ああ」
 不承不承頷く達彦に再度笑いかける。
「でも、今までやってきたことって、まだまだ付け焼き刃だから。今度はちゃんとモノにしないとな」
「ああ、判ってるさ」
 すぐに真剣味を帯びた横顔を見やってから、篤彦は傍らの達彦のベッドに腰を下ろした。
 これからしばらくは達彦は慌てることはない。
 残り半年くらいかけて、今まで駆け足でやってきたことをやり直していくだけだ。それが達彦自身の血肉となるほどに。
 それには、まだまだやることがあった。
14

 半年があっという間に過ぎ去った。
 達彦が入社式を迎える頃、篤彦も卓夫が役員をしている別の一社に内定が決まった。
 その報を誰よりも伝えたい相手に、今日は伝えにきて、ついでにお泊まりだ。電話でも何度も話をしたけれど、実際に会うのは、水晶宮で別れた以来だった。
 まるで子供が初めてのお泊まりに緊張しているような篤彦を、砂姫こと竹林理緒は暖かく迎えてくれた。
「おめでとう、で、ささやかだけどお祝いしよう」
 こじんまりした部屋のリビングで、ぺたりと座った篤彦の前に琥珀色の液が入ったグラスが置かれる。
 その横には、幾らでも接げるようにと酒に氷と水。
「これって……」
「へへ、奮発しちゃった。篤彦も久しぶりだろ?」
 あの店ではいつでも飲まされていた高級酒を差し出した理緒が、穏やかな表情に、少しだけ悪戯っぽさを滲ませる。
「でも、これって……めちゃくちゃ高いって……」
 氷の美姫こと友貴は高給取りで、オーナーであった久遠和人の秘書でもあるから、実際のところこんな酒など不自由はしないのだろうけれど。
 理緒は、父親の借金に苦しめられた経緯から、ひどく倹約家だ。
 このマンションの一室も、友貴の立場上セキュリティの効いた高級マンションの類にはなっているが、中の家具は最低限で使い古された物が多い。
「ほんと言うと、和人様の貰い物のお裾分け。飲み過ぎたら有紀に怒られるからって、最近はお酒も結構回ってくるよ」
 縁あって、理緒の妹の有紀は和人の婚約者だ。
 年若い有紀に頭が上がらないオーナーなど、あの店にいる時は想像だにしなかったけれど。
 くすくすと笑って、飲み干したグラスに酒を接いでくれるこの理緒の妹ならば、できるのかも。
 その理緒の幸せそうな口調も表情も、彼の幸せが満遍なく伝わってきて、篤彦はここに来て初めてホッとした。
 今いる実家より、理緒の家の方がよっぽど落ち着くのだ。
「俺も、来春から友貴さんのいる会社に入れることになったんだ。ようやく役に立てる」
 グラスを傾ける理緒がほんとうに嬉しそうに報告する。
「おめでと?。あそこって結構難しいって聞いていたよ。俺のダチも何人か希望の一つに入れていたけど、全滅したし」
「うん、俺もさ、へたに友貴さんに内情聞くわけにはいかないし。とにかく実力で入らないと意味が無いって思って頑張ったから、今は何か気が抜けている状態」
 苦笑して肩を竦める理緒は、篤彦が水晶宮を出た春に大学に戻れたのだ。
 篤彦と違って、完全に退学をしていた筈の理緒だったが、その辺りは和人が手を回していたらしい。
 今は、篤彦とは違う大学ではあるが同学年となっていた。
 ただ、何もかも和人と友貴のお陰だと考えている理緒は、この入社試験だけはなんとしてでも自分の力で——と思っていたらしい。
 もっとも、篤彦にしてみれば、きっと影で友貴が手を回したんだろうなあ……と二人のバカップルぶりを知っているからこそ思うのだけど、嬉しそうな理緒に水を差すのも何なので黙ることにした。何より、そんなことをバラした日には、友貴に何をされるか判らない。
 なんだかんだ言っても、友貴はオーナーである和人のお気に入りなのだ。それに卓夫へと繋がる道の一つでもあるから、友貴の逆鱗に触れるわけにはいかなかった。
 もっとも、そんなことより、入らぬ事を吹き込んだと理緒と絶縁されるのが厭だったこともある。
「そうそ、まだ第一関門突端ってだけなのにさ、俺もちょっと気が抜けてる」
「今度は、上へ向かって頑張らないとなあ……。それの方が難しいって判っているんだけど」
 篤彦も理緒も、目指すはトップの地位にいる人の傍らだ。
 理緒は、会長秘書である友貴の。
 篤彦は、親会社の社長である卓夫の。
 だが、決定的な違いが一つあって。
「卓夫様は、まだ篤彦がその会社に内定したことって知らないんだろう?」
「ん……でも、いつかは認識させるよ。今は兄貴を出世コースに入れることが先決かな。それから今度は俺があの会社で出世コースに乗る。とにかく上司に推薦して貰うのが一番親会社の、しかもアメリカでの研修対象者になりやすいって話だからね」
 達彦はまだ研修段階だが、それでも他と比べると講師達の評判は良いという感触を聞いていた。
 輝姫と砂姫直伝の躾を、徹底的に繰り返したのだ。生来の優れた頭脳と知識も生かせば、そうそうつまずくことは無い。
 達彦はバカではない。ただ進むべき道と方法をその生来の短気という性格のせいで間違えやすいので、彼の自尊心と期待を擽る方法で教えてやる必要があるだけなのだ。
 面倒だが慣れてしまうと、ずいぶんと御しやすい男だった。


 久しぶりの酒は、心地よい酩酊をもたらした。
 理緒もとろんとした目つきで、互いの他愛のない話を繰り返す。その瞳がだんだんと細くなる。
 ずいぶんと眠そうだった。
「ごめんね、昨夜、あんまり寝てなくて……」
 友貴が今日から長期の出張だとは聞いていたから、その理由は聞かなくても判った。
「寝ても良いよ。俺、もうちょっと飲ませて貰うけど」
 友貴が苦手だから今日泊まりに来たのだけど、もう一日二日遅らせた方が良かったかも知れない。
 苦笑しながら、グラスを傾ける。
「でも、もっと話がしたい……」
 そう言う理緒があれもこれもと話題を引っ張り出す。
 本当に話したいことは山のようにあって。その中には、水晶宮の話もあった。
 辛いことも多々あったけれど、今となれば良い思い出だ。あの場所で、理緒も篤彦も離したくない人を見つけたのだ。その人達のために、二人とも二度とこの身体を売ることにはなりたくないと意気投合する。
 理緒は友貴のために。
 篤彦は卓夫のために。
「でも……時々無性に欲しくなるんだ……」
 ぽつりと零した篤彦に、理緒が睡魔に襲われてほとんど開いていない瞳を向ける。
 一年間毎日のように男に抱かれていた身体は、いきなり放り出されて毎夜のように疼いた。理緒のように友貴と暮らせる僥倖は、いつになればやってくるのか判らない。それこそ一生無理かも知れなかった。
 時々、自らしてしまうが、終わってしまえば何とも言えないむなしさばかりが残る。
「卓夫様……アメリカにずっと……ん……行ったきり?」
「ん、入社式には日本にも来るらしいけどね。それ以外の情報はなかなか……。入社式も高城インダストリーにしか行かないだろうから、兄貴とまみえることはないだろうし」
「そっか……だったら、やっぱり——アメリカに行かないとダメ?」
「そうだろうね。どうも高城グループの会長との仲が悪いみたいな記事も散見するしね。どっちがどっちって訳じゃないけど……俺的には卓夫様寄りの記事に賛成してしまうかも」
 会長側は低迷する高城インダストリーのアメリカでの事業を立て直すために、弟である卓夫を送り込んだと言っているし、卓夫よりの記事は、卓夫の才能を妬んだ会長によって日本を追い出されたと書かれていた。
 もっとも卓夫よりの記事はゴシップ誌がメインで、どうしても信憑性が落ちる。
 それでも、その話を信じたくなるのは、卓夫の生の姿を知っているからかも知れない。
 と、不意に理緒の瞳がぱちりと大きく開いた。
「その会長……って人は、水晶宮に来てたかな?」
「え……あ、インターネットで調べた時も卓夫様は判ったけど、会長まで気にしていなかった……そうか、調べる価値はあるかも」
「会長なら、……どっかのサイトに写真くらい載っていそうだね」
「ああ、あるだろうね」
「名前が判って客として来ていたかどうか判れば、その人となり判るかも」
「ああ、判る」
 二人で顔を見合わせて、大きく頷いた。
 何しろあそこでは人の本性が露わになる。
 世間ではどんなに高潔な人物であっても、水晶宮では男を裸に剥いて辱める事が大好きだったりするのだ。
 卓夫も、世間ではやり手の若手ビジネスマンの誉れが高いが、実際水晶宮では衆人環境での晒し者にする行為が大好きだったのだから。
 人は裸になれば、その本性がはっきりとするのだ。
「インターネット……見てみよ」
 眠かった筈の理緒も好奇心には勝てないのか、立ち上がってノートパソコンを持ってきた。
 全般に古いインテリアの中でそれだけは最新鋭の機種だ。起動も早く、あっという間にインターネットに繋がる。理緒が即座に検索サイトからキーワードを入力していった。
「高城グループっと……、会長の写真は……」
「卓夫様って30代だもんな。その兄ってことは、30代後半か40代位かな?」
「かなあ……。40代くらいって客にもそこそこにいたから……どうだろ?」
「あ、これか……」
 映し出された穏やかな笑みの紳士。
「高城清太郎……って」
「清太郎……って客いたっけ?」
「……ん、俺は記憶にない。っていうか、俺の客って限られていただろ? 篤彦は?」
 苦笑する理緒に、確かに、と頷く。
 何しろ瀕死の状態に陥った原因の俊郎に買われることが多かったように、特定の客が多かった姫が砂姫——理緒なのだ。
「清太郎……、そんな名はいなかったけど……」
 穏やかな人の良さそうな笑み。
 40代……というよりは50代に近そうだ。卓夫とはあまり似ていない。
「……あ……、でもこの男、見たことがあるような……」
 言われてディスプレイに近づいてまじまじと見つめる。
 見れば見るほど卓夫と似ていないと思いながら——。
「あれ?」
「思い出した? たぶん……」
 笑みを浮かべて篤彦を見上げる理緒に、こくりと頷き返す。
「「誠一様」」
 偽名を名乗る客は、ああいう場では珍しくないけれど、顔を見せるので意味が無い場合が多い。
 それでも偽名を名乗るのは、現実の自分から逃れようとするからだという説があった。
 それが信じられる。
「高城清太郎って名前だったのか……」
 卓夫以上に緑姫に固執していた男。
 あの場所では、こんな穏やかな笑みなど見たことがない。だからすぐには判らなかった。
 欲情にぎらついた瞳と、厭らしく歪んだ口元。舌なめずりする音が今にも聞こえそうな表情で、篤彦を責め苛んだ。肌が傷付くほどに鞭打って、激しい時には動けるようになるのに2日寝たきりとなった。そういえば、宴の間で卓夫に晒されていた時、ぎらぎらと煮えたぎったような瞳で見つめらた事があった。その翌日に買われた時のことだ、寝込んだのは。
「どこのエロ親父かと思っていたが……卓夫様の兄? 信じられねぇ……」
「あっちが本性だってことは、卓夫様を困らせようっていう記事の方が信憑性が高いね」
「俺、この人に買われるの嫌いだったんだよ。でも……卓夫様がしばらく来られなかった時は、こいつが多くってさ。常連が多いのは良いことだって、前に理緒が言っていたけど、こいつだけは……嫌だったな」
 卓夫は行為の後はいつでも優しかった。
 だが、誠一——清太郎は卓夫よりもっと嗜虐性が強い。あの場所だからあの程度で済んでいたが、本当はもっと残虐性が強いような気がする。それに、明らかに緑姫に執着していた。
 それこそ砂姫にとっての俊郎のような厄介な相手なのだ。
「卓夫様のことだけ考えて、グループの会社に入ったけど……。気をつけた方が良いな、これは……」
 誓約があるから姫でなくなった篤彦に手出しをしてくるとは思えなかったけれど、この男の執着と残虐性がどんな形で暴れ出すかは判らない。それを押さえつけるだけの理性を持っていれば良いのだけど。
 執着は時に暴走してしまうことがある。
 それを良く知っている理緒が、心配そうに篤彦を見やる。
「警戒はした方がいいかも。お兄さんにも言っておいた方が良いと思う」
「あ、ああ……ったく、厄介な」
 よりによって……。
 大きなため息を吐く篤彦の横で、理緒が小首を傾げながら呟いていた。
「卓夫様……もしかして——だけどさ、誠一様が暴走しそうだと思ったのかな。それで、緑姫を……篤彦を逃がそうとしたのかもよ」
「……どうだろう……」
 否定も肯定もできなかった。
 けれど、前に卓夫が傷の残る肌をいたわしそうに見つめ、わざわざ薬を持ってこさせて塗ってくれたことがあった。それがどの客のせいなのかはルール違反だから教えていない。もっとも誰がどんな性癖か、結構みんな知っていたように思う。
 理緒の言うことが本当なら嬉しい。けれど、そう思う反面、気になることがあった。
 卓夫が自分の借金を返済してくれたのは、兄弟の確執のネタを排除しただけなのかも知れない。
 だったら……。
「卓夫様は、篤彦のためにしてくれたんだよ」
 篤彦の内心の動揺に気付いたのか、理緒がまっすぐな視線を向ける。
「俺も一度だけ卓夫様に買われた事があるけど……。あの方は、苛めはするけれどその根底にはちゃんと優しさがあったもの」
「……知ってる」
 それを何度も味わったからこそ、こんなにも卓夫に惹かれているのだ。
 会いたい、あの人にだけ抱かれたい。
 篤彦がそう願うのは、卓夫だけ。
 今の篤彦は、卓夫に会って、仕事の上だけでも傍にいられる事を望んで、突き進んでいるのだから。
「だったらさ、迷うことなんかないだろう?」
「そう……。そうだな、迷うことなんかないな」
 今できることをするために、一度立てた目標を崩すことなんかしない。
 まずは、会社に入って研修対象者になる。そうして親会社である高城インダストリーに出向して。
 そして、いつか……卓夫の傍に……。
 それが、今の篤彦の揺るぎない目標なのだ。
15

 達彦が入社してから一ヶ月後、篤彦は達彦の借りているアパートに移った。
 さすがに両親は難色を示したが、達彦が入った会社も篤彦が内定した会社も一流どころだ。また最近の達彦は、前ほど反抗的ではない。それが上辺のものとは知らず、両親は自分たちの力だと思っている故か、結局は許された。
 もっとも、その次の日に自分たちで段取りして引っ越してしまうとは思わなかったろう。
 母親はいきなりの引っ越し騒ぎに泡食ってさすがに父親に電話をしていたが、結局連絡を取れずじまい。
 それっきり、会ってもいない。
 電話だけは来たが、文句を適当に聞き流して、早々に切ってしまった。
 これからはこのアパートで、達彦と二人だけの生活だ。
 鍵だって二人しか持っていなかった。
 そう思った時の解放感と来たら……。
 今まで何をするにしても警戒していた場所から解放されたのだ。
 篤彦が失踪して以来、隠そうともしない監視の目ははっきりときつくなった。
 掃除だと言って、引き出しから何から全て開けてしまう母親のために、貴重な物は全て身につけて動いた。例のCrazy Moonのカードは財布より大事なもののように常に携行していたほどだ。あんな怪しい雰囲気のカードなど目に入ったら、何を追求されるやらだ。
 パソコンも起動時パスワードをかけていたし、陰茎への刺激だけでは物足りない篤彦の自慰のための道具も、した後の痕跡も何一つ残すことなどしなかった。携帯の履歴すら、消して誤魔化すようにしていたのだ。
 それに深夜にいきなりやってくる父親にも悩まされずに済む。あの父親は、睡眠中に勢いよくドアを開けて子供が飛び起きても、声も掛けずにまた大きな音を立てて出て行くのだ。深夜だというのに気にもせずに、ただ寝ているかどうか確認するためだけに。
 そんな無遠慮な父親をもう気にしなくても良い。
 その夜は、二人して祝杯を挙げた。
 特に達彦は本当に嬉しそうだった。
 あの両親から完全に離れて金銭的にも独り立ちし、自分を認めてくれる相手だけがいるこの場所。前より穏やかさを増した表情が、明るい笑みを浮かべていた。
 そうしてみると、昔良く似ていたと言われる頃と同じで、達彦と篤彦はちょっと見は、とても良く似ていた。
 精神状態がこれほどまでに表情に影響していたのだ。
 そのうちに篤彦が就職すれば、また別の場所に引っ越す計画を立てている。
 その時には、もう親には知らせない。会社名が判っているのだから、捜そうと思えばできるだろう。
「ま、したければすれば良いさ。その内にまた引っ越せば良い。それに、俺たちはいつまでもあの会社にはいない、そうだろう?」
 さっぱりした表情の達彦の建設的な言葉に、篤彦は苦笑しながら頷いた。
 両親からのプレッシャーに呪縛されていた頃は、できていなかった事の一つ。
 ちゃんと子供の性格に目を向けて、それに沿った接し方をしていればこんなにも達彦は優秀な人材に育つのに。
 今でも、自分たちが間違っていたなどと、きっと欠片も思っていないだろう。そして、二人が目指す道が、彼らが望む道とは違うことに気付くのは、たぶん後10年も経たない頃。
 周りの同じ年頃の子供が結婚して、子を成す頃になっても戻ってこない二人の態度に、二人は違和感に気付くだろう。
 その様は、容易に想像できたけれど。
「俺も結婚するつもりはない」
 篤彦の将来を託そうとしている相手が男だと知った達彦は、きっぱりと言い切ったから。
 それは、篤彦への罪悪感のせいだろう。けれど、篤彦はその言葉に、賛成も反対もしなかった。
 何かを言っても、達彦が納得しなければ意味が無いのだ。そして、今は何を言っても納得しないことはよく判っていた。
 恨むどころか就職するための手伝いをしてくれた篤彦に、達彦はずっと感謝している。
 ただ、そのせいで彼の罪悪感は消えていないのだ。
 それを利用するつもりはもうなかった。けれど、否定もしなかった。
 何より、今は達彦がそう言ってくれるのが嬉しかったから。
 ようやく取り戻せた兄弟の絆に縋りたかったのは、篤彦の方だったのかも知れない。
 孤軍奮闘する辛さは、水晶宮で良く知っている。砂姫と友達になるまで、とても苦しかったから。
 だから、味方は一人でも多い方が良いのだ。
「どう、兄さん。勝算はありそう?」
「まあまあかな、まだ。だが、手応えはある。何より、見栄っ張りのあいつのお陰で英会話が完璧なのは役に立つ」
 子供の頃から徹底的に仕込まれたそれは、きっちりとした教えであったことも手伝って、かなり流暢だ。
「シャーリー、元気かなあ」
 ネイティブの発音を習ったイギリス人の女性は二人が中学の頃にイギリスに戻ってしまった。だが、そのころにしっかりと覚えさせられた発音は、今でも忘れていなくて、今更ながらに感謝している。それに何より、シャーリー自身の人柄は、今思い出しても小気味よさがあって好きだった。
 闊達で物怖じせず、二人をえこひいきせずに接してくれた。
 あの英会話の時間は、二人が仲良く並んで学んだ最後の一時だったような気がする。
「俺、シャーリーがいなくなった時、一時期学校行かなくなったろう? あれって、何かあっても慰めてくれていたシャーリーがいなくなったからなんだ」
 ぽつりと零した達彦の言葉は初耳だった。
 解放感とアルコールの酔いが手伝っているのだろう。
「え……そうなのか?」
 そういえば、シャーリーがいなくなったのは、達彦の高校進学直前の三月だった。
「思春期で反抗期の俺を、あいつらは理解できなかったんだよ」
 苦笑いが寂しく浮かぶ。
「そのうちに成績が下がり始めて……そしたら、てきめんにお前と比べるようになって……。毎日毎日小言しか言われないんだぜ。何度か頑張ってテストの点を上げても、前はこうだった、篤彦はこうだって……。決して今を評価してくれないんだ。そのうち、前ってのもあいつらの頭の中のこうあるべきだっていうのに変わっててさあ、それが無茶苦茶理想が高い訳よ」
「……そういえば……」
 テストの結果が出るたびに怒られていた姿を思い出す。
「お前は要領良いからさ、俺が悪い結果を出した後に出すんだよな。そうするとどうしても俺と比較してよけいに良く見えるもんだから……。矛先が全部こっちに向かうんだよ、最低なことに……」
「げ……そうだっけ?」
「まあ、お前は昔からそうだったもんな。んで、もう無理矢理学校に行かされる状態で高校にいったら、札付きの奴らに目をつけられて……。何せ、この容姿で、根暗で。苛めがいがあったんだろうな……。陰湿な苛めって訳じゃなかったけど、絶好の金ヅルではあったろうな、俺は」
 だから、繁華街に連れて行かれて、強制的におごらされた、と零した言葉に、篤彦は手の中のグラスを握りしめた。
 知らなかった……。
 あの頃、確かにそんな感じはあったけれど。
 苛めまでとは思っていなかったのだ。
 息のあった友達が、ああいう輩だったんだろう……と思っていたのだ。
「まあ、そんなこんなで警察に補導されて両親にバレて。んで、その時警察に来た両親が何て言ったと思う? 警察が、脅されていたって連絡したにも関わらず……」
「え……、あの二人は知っていたのか?」
 家に帰ってからも続いた罵声は、二階の篤彦の自室にまで響いていた。
「知っているくせに否定するわけ。聞く耳持たないんだよ、何言っても。だから、お前はバカなんだって一点ばり。さすがに警察官が割って入ってくれたから、あの日は帰れたけどね」
 苦笑が寂しく響く。
「……それからはもう鍵付きの部屋だよ。食事が済むと、ほとんど閉じこめられていた。トイレすら自由に行かせてくれなかった。あの頃は、室内に簡易トイレがあったんだぜ。しかも自分で片づけはさせられるんだ……」
「嘘……」
 隣の部屋だったけれど。
 興味を向けなかったから、何も知らなかった。
 両親にもあの部屋には入るな、と言われた。
「大学に合格して、やっとそれは無くなった。けど、話しかけられることも、話すこともできなかった。金と食事だけ出しときゃ良いんだって感じだよ」
 そして話は落第した年のことになって。
「もう愛想はつきたって何度も思った。そのストレスで、一年の時はなんとかなったけど、二年の時に引きずり込まれたグループで遊び回るのが面白くて。その時のグループの奴らは決して悪い奴らじゃなかったんだ……けど、うっかり計算ミスして、単位落として、落第になって……」
 家が荒れた二度目。
 篤彦は自分の大学が面白くて、帰っても自室でインターネットやメールで遊んでいた。
 だから、知らない。
 そういえば、達彦とはあまり会っていなかった。
「あの日——」
 ため息を吐いて、視線を逸らした達彦は、しばらく視線を中空に彷徨わせた。
 話ながら飲んでいたから、もういい加減酔いが回っても良いはずなのに、篤彦はいつまでも頭の芯が冷めていた。ただ、グラスの波立つ水面を見つめている。
 この先、達彦が何を言おうとしているのか、篤彦はもう気付いていた。
 今更言わなくても良い、と思いつつも、どうしてそんなことをしたのか聞きたいという思いもあって、結局黙ってしまう。
「あの日な、お前が両親と食事に行った時、俺は鬼の居ぬ間に……ってふらふらと外に出て、昔の仲間と飲んでいた。っても、奢ってあげたから一緒に飲んでくれたって状態だったけど。こづかいなんてほとんど無かったから、きつかったんだけど……一人が厭で……。そんな時、一人が言ったんだ。金が無いなら、お前なら絶対に保証人無しで借金できる所があるって……」
 借金という言葉に、さすがに身体が強張った。
「あの時、お前ばっかり認められているのがなんだか無性に悔しくて。苛々してて。その貸し金は、見目の良い若い男女が行くと無条件で金を貸してくれるって。しかも深夜までやってるから今からでもOKだって……。それ聞いた時は、別に行く気はなかった、と思う。でも気が付いたら、その店に行っていて……契約が済んでいた」
「それが……あの借用書。100万円の?」
「そう……」
 こくりと頷く達彦の頬が濡れていた。
「——ろくに契約書なんか見てなかった。金は奢らされて遊んで使い切った。取り立てに追い回されろって、その程度しか考えていなかったっ」
 取り立て——はなかった。
 何もかもがいきなりだった。たぶん、最初からそのための店だったのだろう。
 金にせっぱ詰まった男女を捕まえるための罠。
「ごめん……」
 達彦が深く頭を下げる。
 テーブルに水たまりができるほどに濡れていた。それにぽたりと新しい滴が落ちる。
「……別に……」
 もう過ぎ去ったことだ。それほど激しい悪意ではなかったのだと判っただけで、もう良いと思ってしまう。
 それに、あの両親に言われるままに、この兄を拒絶していたのは自分だ。
 助けてあげればこんなことになはならなかった。それに、今はあの店に行けたことを受け入れているのだから、今更謝られても仕方がない。
「良いよ、もう」
 グラスを取り上げて、ごくりと飲み干して。
「終わったことだし、俺はちゃんと帰ってきたんだからさ」
 くすりと笑って、半分飲んだそれを達彦に突きつけた。
「それ、飲んだら許す」
「……これを?」
 グラスの半分の酒を見やって戸惑う達彦にさらにグラスを押しつける。
「良いんだよ。俺がそれで許すっていってんだから。それに、これから兄さんを巻き込んでやろうとしていることは、本当に自分のためでしかないんだ。俺は、今は卓夫様の所に行きたい。それが叶えられるなら、恨みなんかいらない」
 その言葉に、達彦は濡れた瞳を上げた。
 篤彦と同じ緑の瞳が、安堵したように僅かに弧を描いていた。
「お前のためなら、俺は何でもする。それにその卓夫さんって人、お前のこと大事にしてくれたんだろう? 俺もどうせ働くならそういう人の下で働きたいからな……」
 浮かんだ達彦の笑顔に、篤彦も笑みを返した。
 本当に、今更、恨みなんかどうでも良かった。
 ただ、卓夫の傍らに早く近づきたかった。
16

 理緒の所で知った清太郎という存在を、忘れたつもりなどなかったけれど。とにかく忙しさと、目的への最短ルートを探して進むことだけに意識が完全に向いていた。
 そんな中、達彦は確実にエリートと呼ばれる道を辿っていた。
 新人研修時の成績と態度を考慮され、中央開発室に配属されてまずは簡単な評価用テーマを与えられた。
 指導担当の先輩の指示はあるが、どこまで自分の力でテーマを物にするための開発ができるかどうかの実力を測るものだ。できないならその理由は何か、考え方に理不尽な点は無いか、という弱点を早期に暴き出す物でもある。つまり失敗しても構わないものであったけれど。
 それを達彦は成功させた。しかも先輩の考えた成功へ導く道よりさらに短い道で。
 その時点で、達彦の評価は一気に上がった。  
 入社してから半年で、開発室でも重要とされているテーマを持つプロジェクトに配属されたのが良い例だろう。
 それがもともと大学で専攻していた技術だったのも、達彦に良く働いた。
 朝から晩まで忙しい日々。
 少しでも会社で役立つ知識を身につけようとする篤彦と達彦はいろいろなスキルを身につけるための学習をしていた。各種の語学の講座やビジネス系の講座を、時間が許す限り取っているのだ。
 さすがに達彦は会社勤めが始まっていくつかは整理したけれど、時間の都合が付くオンライン講座を中心にして、その数はそんなに減っていない。ある意味、学校の勉強より熱心なほどだ。より実践に役立つ講座に、二人の知識はさらに増えていく。
 だが、達彦の仕事内容がハードになっていると判断した篤彦は、思い切って達彦が習っている講座をいくつかを辞めさせた。
 身体を健康に保つことも社会人としての重要なことだ。体調を崩して会社に行けなくなっては元も子もないのだ。
 そんな篤彦の言葉に達彦はいつも従う。
 それこそ、自我の無い頃の幼子が母親の言葉に従うように。
 それが決して良い事ではないと思ってはいるが、篤彦が関すること意外ではちゃんと生活できている。だからこそ今の篤彦には治させることはできなかった。
 たぶんそれは篤彦の役目ではないのだ。そう思って誤魔化していた。
 
 
 そんな忙しくても充実した日々が続いたある日。
「残業でかなり遅くなりそう」
 達彦から簡単なメールが入った日は、篤彦も大学の友人と卒業祝いだと飲みに行っていた日だった。
「了解」
 と簡単な返事をして、久しぶりに遊んだ篤彦が部屋に帰ったのはもう日付が変わる頃。
 達彦はいつまで経っても自宅に戻ってこなかった。
 たまに仕事でひどく遅くなり、近い同僚の家に泊まることもあったから、その日は気にしなかったのだけど。
 次の日の朝、トイレに起きた時間が会社が始まる少し前だから、とメールをしたら、それからしばらくしても返事が来なかった。
 少し不思議に思ったけれど。
 忙しいんだろうな、と納得してしまった。
 けれど。
『本日お休みのようなのですが、まだ連絡を頂いておりません』
 会社から聞き知った女性の声で電話がかかってきた。急用ができて連絡を取った時に、応対してくれた女性の人だ。
 その彼女が、達彦がまだ会社に来ていないという。
「あ、あの……」
 行っている筈——と言いかけた舌が、もつれた。ごくりと息を飲む篤彦の頭の中で、最悪のシナリオが浮かぶ。
 今家にいない達彦は未だかつて仕事を放り出した事など無い。
「す、みません、兄は……その、先ほどから熱が上がりだしたようで……」
 しどろもどろの言い訳は、焦っているかのように聞こえたのか、電話口の女性は不審に思わなかったのか、「お大事に」と言って切ってくれた。
 電話を下ろす手が震える。
 すぐに携帯を取り出して、達彦の携帯へと電話をかけた。だが、数コールで空しく女性の声のメッセージと変わってしまった。
『電源が入っていないか、電波の届かない……』
 繰り返される声を数度聞いて、仕方なく電話を切る。
 一体どこへ……。
 一緒に暮らし始めてから——いや、篤彦と共に歩むことを決めた時から、達彦がこんなふうに連絡を絶ったことはない。友人と飲み歩いて泊まる時にも、必ず連絡を入れてきた。その連絡する姿はまるで恋人にしているみたいだと友人達に揶揄されたことがある、と困惑のままに教えられたこともあった。
 それでも、連絡を止めなかった達彦が、何故連絡してこないのか?
 まんじりともせずに、それから一時間くらい待って連絡をいれてみたが、同じメッセージが繰り返される。
 昨夜会社を出てから家に帰るまでに何かあったのか?
 事故か、それても帰ることのできない何かが起きたのか?
 ぞくりと肌が粟立つ。
 立っていられなくて、ぺたんと床に座り込んだ。
 嫌な予感がしてならなかった。

 達彦の電話で呼び出すことを諦めた篤彦が、次に連絡を入れたのが実家だった。
 あの達彦が自ら行くはずもないと思ったが、何かに巻き込まれて警察から実家へと連絡が入った可能性はある。
 だが、電話に出た母は素っ気なく達彦の存在を否定した。
 ならどこに……。
 沈黙する篤彦に、母親が不機嫌に言い放つ。
『また遊び歩いてんのよ、本当にダメな子』
「っ!」
 全身の血液が沸騰した。
 何も知らないくせにっ!
 電話口に向かって叫びかけた。
 だが、喉元まで出た怒りはかろうじて飲み込んで、まだ続いている言葉を断ち切るように電話を切った。
 何も運動していないのに息が荒く、額に汗を掻いていた。
 どうして、この人は——自分たちを不愉快にさせる言動しかできないのか……。
 期待などしていなかった筈なのに、ひどく落胆する。
 それでも親なのか……と思うのは、期待してしまっている証拠だった。そんな自分に呆れて、さらに気分が落ち込んだ篤彦だった。が、すぐに気を取り直してアドレス帳を再度開いた。
 あんな両親にかまけている暇は無いのだ。
 会社の友人達の連絡先は良く知らない。だが、何かあったなら、家にすぐに連絡はしてくれるはずだ。
 大学の友人達は、少しだけは知っているけれど。
 特に親しかった幾人かは都外に出ている。それに、仕事で遅くなると連絡してきただけ。滅多に会わない友人と会う時は、そう連絡してくるはずだ。
 指が……キーの上を彷徨う。
 誰に電話をすれば良いのかが判らない。
 達彦が知っている誰かなら、ここか実家に連絡を入れるはずだ。
 だったら、誰も知らない場所に達彦はいることになる。
 それならどこに連絡を入れれば良いというのか……。
 嫌な予感がさらに増し、どうして良いか判らなくなる。
 惑う指。
 どうして良いか判らなくて、アドレスを一件ずつ選んでいって。
『砂』
 本名を知ってなお、そのままの名前で手が止まった。
「砂姫……」
 ものすごく彼に会いたかった。
 どうしたら良いか教えて欲しかった。
 水晶宮にいた時のように、話を聞いて欲しかった。
 彼との会話は、どうしようもなく閉塞感に追い込まれた思考をいつも外に向けてくれた。
 今もそれに縋りたい。
 助けて欲しい。
 縋るようにそのアドレスをじっと見つめ、気が付いた時には電話のキーを押していた。
「篤彦っ」
 鍵を外していたアパートのドアが勢いよく開かれた。
 飛び込むように入ってきたのは、連絡を取ってすぐに動いてくれた砂姫こと理緒だ。
『友貴様に御願いしてみるよ』
 状況を伝えた後の理緒の動きは早かった。遠慮する間などなく『待ってて』と電話が切れた。
 そのまま待ち続けること一時間後のことだ。理緒と、そして友貴が篤彦がいるアパートにやってきたのは。
 理緒だけかと思った篤彦は、後から続いて入ってきたダークスーツ姿の友貴に目を瞠った。
「友貴様……」
 理緒の恋人である友貴は、店では氷の美姫として客に酒を接ぐ程度の接客をしていたが、本来はオーナーの片腕だ。
 冷たい美貌の友貴が、鋭い視線で床にへたり込んでいる篤彦を睥睨している。彼の理緒以外に見せる冷たさが苦手で、理緒と会う時はいつも友貴がいない時だった。
 だが今は、友貴が来てくれたことに萎えかけていた気力が奮い立つ。
 彼と彼の上司が持つ権力なら、達彦の所在など見つけることはきっと容易い。
 その縋る視線に気が付いたのか、友貴の眉間にシワが寄せられた。
 眇められた視線が、まっすぐに篤彦を見つめて、その薄い唇が開く。
「君の兄——達彦氏は、高城清太郎に拉致された可能性があります」
 顧客と接する時のような丁寧な物言いと冷たい声音に、身体がびくりと強張る。だが、内容を理解した途端、篤彦はびんと背筋を伸ばして瞠目した。
「……清太郎……に?」
 背中がひりりと痛んだのは、過去の記憶が呼び覚まされたせいか。
 疲れた心に、過去の記憶が浮かび上がり支配する。
「あ、……嫌だ……痛い……」
 思わず背を丸め呟いた言葉に、友貴と理緒が顔を顰めた。
 誠一と名乗っていた清太郎に何度も鞭打たれた。他のどの客よりも力任せで鋭い痛みを与えるそれは、記憶に染みついている。マゾだと罵られ、血が飛び散る上からさらに叩くのが好きだった客。そこまでされて快感を感じるほどのマゾではないのに。清太郎は決して容赦はしなかった。
 彼の行為が一番身体が傷ついて……嫌だった。
 背を庇うように、壁によりかかる。
 虚ろに彷徨う瞳に気が付いて、理緒が篤彦に掛けよった。傍らの友貴を見上げる理緒に、友貴が頷いて。
 篤彦の腕を引っ張り上げ、篤彦の部屋のベッドへと連れていった。
 ベッドの端に座って、その前に友貴が片膝を付いて、篤彦の瞳を覗き込む。
「高城氏の行為は重大な誓約違反です。よって、オーナーの名誉にかけて、達彦氏は必ず我々が助けます」
「誓約……?」
「はい。あなたもしたでしょう? 一度水晶宮から出た以上客に接することは禁じられています。同時に、客から元姫に接触することも禁じられている。まあ、偶然、関連会社に入るとか、偶然再会して仲良くなるというのならば、別ですが。今回のように無理矢理連れて行くことは当然重大な違反となります」
「……無理矢理……ほんとに、兄さんは拉致されたんですか?」
 信じたくない思いが縋るような言葉を放つ。けれど、友貴は首を横に振った。
「まだ確証はありませんが、間違いないと考えています。何より今回高城氏の仕業だと断言したのは、彼が何度も我々から警告を受けていたからです。彼はあなたに——緑姫という存在に非常に執着していました。それは今でも薄れていないという状況があるからです」
「えっ」
 新たに知った事柄に、篤彦はまじまじと友貴を見つめた。
「俺に、執着?」
「はい。高城氏は辞めた緑姫を捜すために人を雇っています。それもかなりの金額を投入しています。あなたの借金返済を卓夫氏が行ったことについては知らないはずですが、それすらも勘付いている節があります。なぜならアメリカにも人を派遣していますから」
「そ、そんなに?」
 この身体のために、そんなにも嗅ぎ回っているというのか?
「その事実を護田が掴んで、我々は警告を出したのが数ヶ月前です。そのため、その行為自体は収まったので、我々も安心していたのですが、実はほとぼりが冷めるのを待っていただけのようでした」
 そうやって、ずっと探し続けていた緑姫と良く似た達彦を見つけたのだとしたら。
「最近のあなた方の写真を確認しましたが、確かにとても良く似ています。何よりその特徴である緑の瞳は色も形もそっくりですし。しかも日本では珍しいものです。だから見間違えても仕方がないです」
「それは……」
 確かにそれは自覚している。
 穏やかな表情になった達彦と篤彦は、今はそっくりなのだ。どちらかと言えば、篤彦の方が視線がきつくなったと、両方を知る友人にも言われたくらいだ。
 よく見れば顔形も違うし、背も篤彦の方が高いのだが、印象的な瞳に誤魔化されてしまう。
「噂が……伝わった可能性がありますね。先ほど会社の方に確認したところによりますと、達彦氏はたいへん優秀だと。優秀な人材は昨今ではたいへん貴重です。噂でも優秀というのであれば、その情報は人事を通して確認され、その情報は上へと回されます。客としては問題のある方ではありますが、企業家としては十分才のある方です。そういう情報をグループをまとめる者として把握していたようです清太郎氏は」
「……そう……なんだ」
 兄の達彦を会社に入れる時、噂話でもなんでも良い、優秀な緑の瞳の人間が自分の傘下の会社にいると卓夫の耳に入ってくれれば……。
 その時には、他の客のことなど考えていなかった。それに、最初は達彦は使い捨てでも良いとすら思っていたのだ。
 だが今は、達彦は大事な兄だ。
「俺のせいで……。俺が浅はかな考えで……。あの男の残虐性は危険……なんです。店ではあの程度だったけど、店以外だったらどんな事をするのか……。違う人間だと気付いて、矛先をこちらに向けてくれるなら良いけど……。気付いても似てるっていうだけで、酷い目に遭わされているかも……」
 達彦を危険な目に遭わせたく無い。
 仲の良かった頃の昔に戻った今、恨みはいつの間にか消えていた。
「実際、緑姫が辞めたと聞いて別の姫と遊んだ高城氏はその姫を傷物にしています。二週間で回復はしましたが、店としてはかなりの賠償金を請求しました。その言い分が、緑姫でないから気に入らなかった……と。紛い物には興味が無い筈なのに、その分怒りの矛先に利用される可能性があったため、水晶宮でもしばらく出入り禁止にしています」
「……そんなにっ」
 理緒が驚いたように友貴を見つめた。
「そんなに酷い人だったんだ……」
「前はそうでも無かったんですが、数年前から酷くなったという報告があります。ちょうど緑姫が入った頃から、嗜虐性を高め、それを露わにした、と」
 友貴の言葉は、篤彦をさらに不安にさせるものばかりだった。
17

 友貴の話では、誓約書を交わした際に話をした護田が部下を使って動いているとのことだった。
 淡々と状況を説明した友貴が、ふっと言葉を切って篤彦を見やった。
「Crazy Moonのカードはまだ持っていますね?」
 問われてこくりと頷く。
「持ってます。電話番号は携帯に入れています」
「ならば、もし今後こういうことがあったら、怪しいと思った時点で護田に連絡を入れて下さい。今回はたまたま私が理緒とともに家にいましたが、不在の場合はその方が動きが早い場合があります」
「あ……」
 そういえば、何かあったら連絡を入れろ、と言われていた番号。
 さっき携帯でアドレスを辿った時、最初の方に出てきたはずなのに、関係ないと思いこんでいたそれ。
「あ、の……関係無いって……」
「無くても構いません。そのための連絡先です」
 きっぱりと言う友貴を、理緒がつんつんと突く。
「そんなこと言ったって、慌ててたら思いもしないよ、そんなこと。それに、護田さんって意地悪だからさ、相談しにくいよ」
 理緒の指摘に友貴は鼻白んだように視線を動かし、「そうですか?」と小さく言葉を返す。
「そうだよ。それに俺は篤彦が俺を頼ってきてくれて嬉しいんだ。こんな時だけど、篤彦の役に立てるのが俺は嬉しくて、ほんとありがとう、連絡くれて」
「え、あ……でも、迷惑をかけて……」
「そんな事無いよ。篤彦は俺の命の恩人だから……。だから、何かあったら一番に手助けしたいってずっと思っていたんだ」
「え……」
 命の恩人?
 そんなことがあっただろうか? と首を傾げた篤彦に、友貴がふっとその口元に珍しい笑みを浮かべた。
「例の俊彦氏の件です。あなたが心臓マッサージを繰り返してくれなかったら、病院まで保たなかったろう——。保っても後遺症が残った可能性がある——と医師に言われました」
「あ……あれ? あ、それは……なんか無我夢中で……」
 俊彦という客が持ち込んだ違法な香と媚薬、それに度重なる激しい行為のせいで心臓が痙攣を起こした理緒はぎりぎりのところで助け出された。だが、変な匂いのする部屋から引きずり出された理緒は、あの時確かに心臓が止まっていたのだ。
 いつも沈着冷静な友貴が茫然自失で見下ろしているところで、理緒は血の気を失せた身体を横たえていた。
 あれを見た瞬間、篤彦は突き飛ばすようにして理緒の身体に手を乗せたのだ。
 水泳部を経験したことがあって、その時の顧問がいつか役に立つかも知れないと言って、部員全員に経験させた蘇生法だ。
 胸骨の上に手のひらを置いて、もう一方をその上に置いて。
 リズムはアン○ンマンのマーチ。力は、弾力有る人形相手にやった時の……うろ覚えの強さ。他の細かな所は記憶になかった。ただ、血流を動かして、全身に酸素を行き渡らせる必要があった。
 それだけの記憶を頼りにやったのだから、火事場の馬鹿力みたいなものだった。
 ただ、助かって欲しかった。死なせたくなかった。
 それだけだった。
「ただ、やれることをしただけだから……」
 ふるふると小さく首を横に振った篤彦に、友貴の手が意外なほど優しく触れてきた。
「たいへんな重労働の上に客にたいそう激しく嬲られている最中だったこともあって、あなたはあの後貧血を起こして倒れてしまいました。ですが、そんなになるまで行ってくれたお陰で理緒は今こうして生きています。たいへん感謝していますから、私もオーナーも、あなたの苦境は元姫であるという以上に助けるべき重要な項目に入っているのです。ですから、今回はしっかりと頼って下さい」
「あ……ありがとうございます」
 涙が頬を流れる。
 もうどうして良いか判らなかった時に与えられた助けは、こんなにも心強くて嬉しい。
「気にしないで、ね。和人さんも友貴さんも、こういう時はとっても頼りになるんだから、ね」
 理緒の穏やかな笑みも心に染みてくる。ほっと息を吐いて頷いた途端、心外だとばかりに友貴の声が重なった。
「こういう時だけではありませんよ」
 それがあまりに不服そうな声音だったので、篤彦は思わず吹き出した。
 暗い心が、少しだけ浮上して、明るい日差しが差したかのように感じた。
 日が暮れて、深夜と呼ばれる時間になっても、達彦の行方はようとして判らなかった。
 友貴はしょっちゅう携帯でどこかに連絡を取っているが、その報告はより達彦の置かれた状況を悪い物にするものでしなかった。芳しく無い報告に、三人の心に焦燥ばかりが広がってくる。
 何もできない篤彦の代わりに理緒が食事の支度をし、いざというときのために、と半ば強要されて食べさせられた。
 その間も携帯は片時も離せなかった。
 辛い。
 なんでこんなに辛いのだろう?
 この携帯から連絡が入らないのが辛い。
「……なんか……身体が痛い」
 ひりひりと鋭い痛みが背を襲っている。丸まって届かない手で自身の身体を抱いた。
 昔の記憶だと判ってた。そこにはもう傷など無いのに。それなのに、激しい緊張感のせいか、神経が痛みを訴えていた。
 思い出したくもない記憶。
 でも、もしかしたら達彦も今同じ目にあっているかも知れない。
 代わりたい、代わりたい……。
 罪悪感が込み上げる。
 本来自分が清太郎に捕まるべきだったのだ。
 なのに、もしこのまま達彦が帰ってこなかったら。
 激しい罪悪感に、背から生まれた痛みが胸へと伝染していく。
 そして、やっと判った。
 達彦がなぜあんなにも罪悪感を感じていたのか。何故、あんなにも篤彦に従おうとしていたのか。本当に憎しみしかない相手なら、この事態に悦ぶだろうけれど。篤彦はもう達彦を恨んでいない。達彦とて、篤彦を恨んで借金をした訳ではないのだから。
 自分がした行為が相手に与える最悪の事態を想像して、心が軋みをあげる。
 無事帰ってきてくれたら、何でもしてやりたい。とにかく無事に帰ってきて欲しい。
 達彦は、篤彦にとって何よりも大事な家族なのだ。
「そうだね、痛いよね」
 理緒がそっと背をさすってくれる。
 虚ろな篤彦の言葉を否定しない。
「うん……」
 子供のような返事に理緒が微笑む。
 大丈夫だよ、と何度もさすってくれる。
「みんなが見つけてくれるからね。篤彦のお兄さん、絶対に見つかるからね」
 水晶宮でも何度かそうやって慰めてくれた。
 それを思い出して、篤彦は小さく微笑んだ。
「ありがとう……」
「お互いさま」
 理緒の言葉はいつでも篤彦の心を救ってくれた。いつでも勇気をくれた。
 根拠なんか無いといつも判っていたのに、理緒の言葉ならば、と信じられた。それほどまでに、彼はいつも真摯で、一生懸命だったから。
「……あまりひっつかないで欲しいですね」
 いきなり、冷ややかな言葉が頭の上から降ってきた。
 ぎくりと強張る篤彦の前で、理緒が愛おしい相手を微笑んで見上げる。
「痛い時に手を当てて上げると和らぐんだ。友貴さんもしてあげてよ」
 その言葉に即座に首を振って拒絶した篤彦と、眉間に深いシワを寄せた友貴の双方を、不思議そうに見つめる理緒。
 それに友貴が何か言おうとした時、篤彦の携帯が鳴った。
「え?」
 聞き慣れた着信音は、達彦専用の物。
「兄さん?」
 ぎくりと強張る篤彦の傍らで、友貴も理緒も緊張に顔を強張らせた。
 本人からの連絡なら悦ぶべきなのだけど、逐一の連絡がそれを否定する。
 友貴の確認でも、達彦の携帯は圏外か電源が入っていない状態だったはずなのだ。
「出てください」
 どこかに電話をしながら、友貴が指示をする。
 じっとディスプレイに浮かぶ達彦の名を見つめながらこくりと頷いて、篤彦は震える手でキーを押した。
「もしもし?」
 兄さん、出てくれっ!
 懇願を胸に、じっと耳から聞こえる音に神経を注ぐ。
 けれど、それはすぐに音を出さなかった。
 必死になって耳に押しつける。
 兄さんの声を聞きたいのに。
 なのに。

『……緑姫』

 喉がひくりと動いた。
 手が震える。
『緑姫だね』
 聞こえた声音は、誰か判らない。
 けれど、その名を呼ぶ人間は、今は一人しかいない。
「せ、誠一……様……」
 傍らで、理緒の肩が激しく震えた。
18

『ああ、やっぱりそうなんだね。酷いねぇ、勝手に辞めるなんて。あんなに君の事を可愛がって上げていたのに。挨拶一つ無いなんて』
 返す言葉が出てこない。
 聞き覚えのないと思っていた声音が、記憶と結びついていく。
 良く聞けば、確かに誠一こと清太郎の声だ。電話を介したせいで、すぐには判らなかったけれど、この粘着質な話し方は確かに彼だった。
 痛くないだろう? 気持ちよいだろう?
 問いかけながら、嬉々として鞭を振るっていた時のあの声音。
 背が痛む。
 記憶が痛みを連れてくる。
 卓夫を想う時には決して訪れない痛みに、息が苦しくなる。
 平穏な日々とは無縁の痛みは、こんなにも身体に根付いていた。その痛みをもっとも強く与えた男が、引き金になっていたと、今知った。
「あ、あの……」
『捜したよ、君に会いたくて。君のことが忘れられないんだよ。特に可愛い声で鳴いている時の声は、今でも思い出すよ』
 白々しい言葉に、ぎりっと奥歯を噛みしめた。その時、痛む背に温かい手が触れてきた。理緒の心配そうな表情と無言の言葉に勇気が込み上げる。
 今は怯えている時ではないのだ。
「兄……は? これは兄の携帯ですよね」
『兄? ああ君と同じ緑の瞳の子だね。てっきり緑姫だと思ってここに連れてきたけど。遊んでみたら鳴き声が違うんだよ、すぐに判った。せっかく君だと思ったのに……酷いよねぇ……』
 その言葉に、最悪だと臍を噛む。
 清太郎の遊びがどんなものか、篤彦は身を持って知っている。
 ただ、機嫌が良い時と悪い時の差が激しいから、機嫌さえ良ければ楽だった。だけど、今の声音は不機嫌な時のそれ。
「兄は、無事、なんですかっ」
 背が痛い。顔を顰めて必死に尋ねる篤彦に、下卑た笑い声が返ってくる。
『鳴き声は今一だが、白い肌だったから赤色が良く映えていたなあ。それに、初物はやはり愉しい物がある』
 ひくり、と、喉が震えた。
「あ、兄に何を……」
 聞きたくなかった、けれど。
『ん? 緑姫と遊べると思ったから休みを作ったのに、違ったからね。でもまあ暇だったので相手をして貰ったんだ。今は、太い玩具で遊んでいるよ』
「なっ……」
『でもねえ、やっぱり紛い物は紛い物なんだよ。私は、ぜひ緑姫と遊びたいんだ。どうだね、会いに来てくれないかい?』
 ああ、それが目的なのだ。ぎゅうっと携帯を握りしめる。
 そのために緑姫を捜し、達彦を拉致して連れ去った。今でも、緑姫でないとダメだとこうやって電話するほどに。
 それでも、ずっと見つからなかった達彦の唯一の手がかりが今ここにある。
 傍らで友貴が電話を伸ばせと合図をしていた。そんな彼は、ずっとどこかに電話をしている。
 篤彦は了承したと頷いて、固く目を瞑った。
 ただ、携帯だけに集中すると、周りの音がいっさい消えた。
 携帯を通して聞こえる音に、達彦の気配が無いかと、必死で探る。——と。
 小さな、ほんの小さな擦れた声が聞こえてきた。
 それに精神を集中する。
『……ぃあっ……やっ……。ひぃ……』
 どんなに音を拾っても意味を成さないそれ。
 もとより、言葉ではないのかも知れない。そう気付いた途端、それがどんな時の声か判ってしまった。
「に、兄さんっ!」
 思わず叫んでいた。
「兄さんっ、兄さんっ」
 聞こえてくれと、叫ぶ篤彦に、押し殺した嘲笑が響いた。
『無理だよ。今は達きたくて堪らないらしく、もう無理だっていう誰の言葉も耳を貸さずに遊んでいる。ほんとうに初物だったのかと疑ったくらいだ。今も腰を振りたくって、生身の男に犯されたいって、喘いで誘っているよ。さすがの私も音を上げてね。今はこうやって休憩中だ』
 そんな筈は無い……。
 だが、清太郎の嘲笑の合間に聞こえる喘ぎ声は、達彦が今も快感を貪ってるのが判る。
「兄さんに……何をしたんだ……」
 頬に痛恨の涙が流れた。
 こんな目に遭わせるつもりなどなかったのに。
『何も。元が淫乱なだけだよ。さすがに緑姫の兄さんだね。ああ、そういえば』
 と愉しそうに清太郎が教えてくれる。
『解すのに使った軟膏には痛み止めが入っていた物を使ったが』
「それ……まさか……」
『君も悦んでいたよね、あの軟膏が大好きだったじゃないか』
 その言葉に、口が勝手に小さく動く。
 ——蘭果(らんか)
『ああ、そんな名前だったね』
 その名を耳にした友貴と理緒が、はっと顔を強張らせた。
 蘭果は水晶宮でももっとも強い媚薬の一つだ。確かに痛み止めの効果はある。だが、あれを塗られると、痒くて疼いて熱くて、堪らないほどに達きたくて。
 痛みが無い分それは強い効果をもたらして、快感ばかりに狂わされる。それで戒められたら解放されたいがために自分から足を開いてしまうのだ。
「ひど……」
 それがどんなに抗いがたいものか、三人は身を持って知っていた。
 特に嗜虐性の強い客が好む薬だ。
『ところで、来てくれるのかい? 来てくれるのなら迎えを寄越すよ?」
 返事は決まっていた。
「……行きます」
 今の篤彦はそうするしかなかった。

 
「行くのですか?」
 電話を切った篤彦に背に、友貴の抑揚のない声が被さる。
 それに、こくりと頷いた。
「行って、兄さんを救い出す」
「行かなくても助け出せますよ」
 決意を持った言葉にかぶせられた言葉に、篤彦が驚いて背後を見やると、友貴が自分の携帯を閉じるところだった。
「護田が動きました。1時間とかからずに目的地に到着予定です。どうやら清太郎氏は自分が犯罪をしているという自覚はないらしい。ずいぶんと長電話で、場所の特定は十分に可能でした」
「……本当に?」
「軽井沢近くにある別荘地です。つい数日前に所有者が移管しています。今の所有者は高城家本家の秘書の一人。そこまで用意周到なわりには、間抜けなことをしてくれます」
 痛烈な皮肉の込められた言葉に、篤彦の背に総毛立つほどの震えが走った。
 氷の美姫の怒りは底知れぬ冷たさを内包する。
 彼は、役に立たない姫の判断を任せられた時、容赦なく切り捨てていた。それを目の当たりにした時もあった。
 だが、理緒が宥めるように寄り添った途端に、その冷たさが和らぐ。
 傍らの理緒の髪に指を絡ませて、抱き寄せる友貴の表情に、ごく小さな笑みが浮かんでいた。
 それは味方には慈愛の、けれど敵には般若のそれ。
「水晶宮を出た姫はね……和人様にとって大事な存在なのですよ。その姫達をさないがしろにされるということは、和人様をないがしろにしたのと同じ事。あなたが動かなくても達彦氏は助けますし、清太郎氏はそれ相応の制裁を与えます」
 呟かれた言葉に、理緒が頷いた。
「さっき和人さんからも電話があった。高城グループは、今後清太郎氏がトップでいる限り発展することはないだろうって……それって、企業としては致命的なことなんだって前に聞いたことがある」
「どうして」
 声が震える。
「どうしてそんなに——姫を……大切にするんでるか? あんなに冷たく扱っておいて……、なのに出ることが出来た途端に一転して就職や住居の世話、大学への復帰……、そして今も……」
 それだけの優しさをできれば全ての姫に与えていたら、もっとたくさんの姫が出て行くことができたろう。だが、実際には、出て行くことができた姫は、まだ一桁だと誰かが言っていた。
「和人様は、大人は自分で道を切り開くべきだという持論を徹底させています。ですから、無条件に助けるのはたいてい子供です。ですが、大人でもどん底から自身の力で這い出した者は尊敬すべき者になります。つまり、あの場所は、試しの場所なのですよ。どん底からさらに落ちていくか、這い上がってくるか……。もとより姫として手に入れる時も、その試しを受けるに値しそうな者を護田に選ばせていますから。そして、あの方は、子供と、あのどん底の中から這い出せた尊敬すべき者と認識した相手には、意外な寛容さを見せることも……あるのです」
 くすりと笑う友貴に、理緒も微笑みを返す。
「怖い人だけど……、優しい人だよね」
「それを面と向かって言ったのは、理緒だけですけどね」
 でも……、と篤彦は口籠もった。
「俺は……卓夫様のお陰で……」
「それは篤彦の運だから。運も実力の内っていうじゃない? 俺だって、借金返せたのは俊郎のおかけだからね、同じ事」
「い、いや……それはさすがに……」
 違う、と言いかけた言葉が理緒の指で塞がれた。
「運だよ、運。それで良いじゃない」
 すっかり楽天的になっている理緒の言葉に、篤彦はそれ以上何も言えなかった。
 ただ、判るのは、もう背中が痛まない、ということと、友貴の視線が痛い、ということだった。
19

 助け出された達彦の状況は酷いものだった。
 迎えに来た車の運転手と乗っていた男達を捕らえ、すぐに護田の後を追う。だが、篤彦が辿り着く前には、和人——久遠家の管理下にある病院に護田が搬送をすることになって、慌てて後を追った。
 全身に鞭の痕。裂傷に擦過傷は、身体の前にもあった。肛門は裂傷し、体内に注がれた薬は抜けきるまでに数日を要するほどだった。それだけ多量に注がれたのだ。
 何より衰弱が酷かった。
 一昼夜に及ぶ陵辱は、清太郎一人だけではなかったのだ。
 護田が侵入した時、達彦の周りには三人の屈強な男がいたという。
 あれから二日間、達彦はまだ眠っている。いや、眠らせたと言った方が正しい。薬の効果が抜けるまで、起きない方が良いだろう、と診断されたのだ。
 でなければ、彼は疼く身体に苦しむことになる。解毒薬はかなり効果を現したが、それでも完全ではない。
 蘭果だけではない——と、それを確認した友貴が言っていた。
 清太郎は和人の元に連れて行かれた。
 戻ることは無い、と護田が言っていた。
 だから安心して良いと、嗤った男は後処理に追われてここにはいない。
 友貴も理緒も、今はもう誰もいなくて、ここに残ったのは篤彦だけだった。
 時々理緒が食事の差し入れに来て、食べさせてくれる。そうしないと篤彦が何も食べないからだ。その理緒も先ほど帰ったばかりだった。
 手持ち無沙汰と喉の渇きに売店まで行って飲み物を購入する。病室に戻ると、頬に鞭痕が残る達彦が弱々しい吐息を漏らしながら眠っていた。それは出かける前と何ら変わらない。
 ため息をつきながら、その表情を観察する。
 今日から睡眠薬は止めましょう。
 医師がそう言っていたけれど、まだ達彦は目覚めない。
 本当はもっと寝ていた方が良いんじゃないだろうか? 
 時折顔を歪める達彦が、幸せな夢を見ているとは思えない。
 顔を覗き込んでも、今は見えない緑の瞳。本当は今こそ笑って欲しい。兄弟の証である同じ瞳に自分を映して欲しい。
「ごめん、……兄さん、ごめん……」
 行方不明だった一昼夜の間に何が起きたか、たぶん自分は聞けないだろう。聞く気にもなれない。
 ただ、達彦がこれ以上傷つかないで欲しかった。
 ぽろぽろと落ちる涙が、シーツを濡らす。
 傍らの丸イスに 力なく腰を下ろし、顔を手のひらで覆った。
 ごめん……ごめん……。
 辛くて堪らない。
 いないと判った時よりももっと辛い。
 現実を目の当たりにして、初めて恐怖が襲ってきた。
 ただ目標だけを目指していた自分のしでかした事が、怖かった。
 これが、人を犠牲にした罪悪感?
 達彦も同じような罪悪感を味わってきたのだろうか?
 なんて嫌な気持ちだ。こんな者に自分はつけ込んでいたのだろうか?
「ごめん……兄さん……」
 篤彦の嗚咽だけが響く部屋で、篤彦は涙を流し続けた。
 泣くことしかできなかった。
 
  
 扉をノックする音、すぐに開く音がして、篤彦は慌てて腕で涙を拭った。
「はい」
 と、振り返った篤彦の腰がイスから浮きかけて止まった。
 篤彦と遜色ない長身に纏うスリムなスーツ姿。黒々とした短髪はエリート然とした彼に良く似合う。
「久遠氏から呼び出しを受けてね。ここに行けと言われた」
 静かな言葉と向けられた視線に身体が震える。
 中腰だった腰をのろのろと伸ばして、ふらつく足で何とか卓夫と向き合った。
 変わらない——いや、前より精悍さが増したような気がする。
「兄が、とんでも無いことをしでかしたと聞いた」
 近づいてきた卓夫が、篤彦の数歩前で止まった。
「卓夫様……」
 震える声で呼びかけると卓夫が口角を上げて微笑んだ。輪郭がじわりと滲む。
「様はいらないよ。君はもう姫ではないのだから」
「……いえ、私にとって、卓夫様は卓夫様ですから……」
 卓夫と再会したら、たくさん言いたいことがあった。けれど、その全てが頭から飛んでしまって、何を言って良いのか判らない。
「……元気そうだね。けれど君のお兄さんは……」
 視線が篤彦から離れて、達彦に向かう。
 それが寂しい。
 堪らずに手を伸ばして抱き締めたくなった。けれど、そんなことは姫には許されないことで、あげかけた腕はほとんど動かないままに身体の横に戻っていった。
 それに、篤彦に背を向けた卓夫の全身が、篤彦の接近を拒絶しているようでならなかった。
 水晶宮で鍛えた勘が、それを教える。
 彼は必要以上の接触を拒んでいると。
「容態は聞いている。彼の治療費は私の方で全て負担すると久遠氏に提案し、受け入れられた」
「え……?」
「今回の兄の不始末は、私が責任持って負うことになっている。何かあったら遠慮無く言ってくれたまえ」
「そんな……」
 これは卓夫のせいではないと、ふるふると首を振ると、思いかげず卓夫の手が頬に触れてきた。
 途端に、鼓動が激しくなった。
 触れられた頬から熱いほどの熱が伝わってくる。
 嬉しい——と悦び、躾けられた身体に淫らな熱が生まれた。
 身体は忘れていない。この人に触れられる時、何が起きるのか。どうされてしまうのか。
 狂おしい熱に浮かされて、理性など吹き飛ばす快感を与えられる様を思い出す。時折与えられる苦痛など、その後の快感にとってスパイスにしかならない。
 もっと……もっと触れて欲しい。
 身体が一気に飢えを訴える。
 だが、篤彦の瞳に浮かぶ熱に気付かないはずがない卓夫なのに、彼はその手を呆気なく外してしまった。
 視線が外れ、再び達彦へと向けられる。
 物欲しげに追っても、卓夫は手を伸ばしても届かない場所に移動してしまった。
 近いけれど、とてつもなく遠い。
 それは、どう見ても篤彦への拒絶の態度だった。
「酷い傷だ。兄がここまで残虐の質であったとは、私も思いもつかなかった。費用の件は気にすることはないよ。もともと私と兄の問題に君たちを巻き込んだだけなのだから」
「それは……」
 そんなことを聞きたいわけではない。
 なのに、卓夫は時折向ける視線で、篤彦の言葉を拒絶する。
「もともと私たちは兄弟仲が悪くてね。亡くなった父が私を贔屓にしていたのが原因なのだが……。あの兄はいつの間にか、私が気に入ったモノを奪い、壊すことばかりに執着するようになったんだよ。私が君を気に入っていると気付いた途端、その矛先が君に向かったわけで……。本当に申し訳ないことをした」
 深々と頭を下げられて、慌てて手を振る。
「そんなこと……。それに、私は卓夫様に良くして頂いたから。あ、それにあそこから出るのにお金まで払って頂いて」
「それも、あの兄の執着から逃すためだったんだ。あのままだと何か問題を起こしそうだったし……もっとも、ここまでやるとは思っていなかったよ……」
「それって……」
 何だろう、胸が痛い。
 清太郎が問題を起こす原因だから緑姫を辞めさせた。
 卓夫がそう言っているようにしか理解できなかったのだ。
「問題の姫もいない、私も通わないとなれば、店との誓約もあるし、無茶なことはしないと思ったんだが……」
 問題の姫……。
 その言葉が胸に突き刺さる。
 やはり自分は、卓夫にとってお気に入りの姫、でしかなかったのだ。そして同時に、兄である清太郎氏に問題を起こさせる原因の。
「久遠家に逆らう恐ろしさをあの兄が忘れるとも思っていなかったし。本当に申し訳なかった。君の方は、何か問題がなかったか? 何かあったら、すぐに対応するから」
 何も……無い。
 首を振る。
 篤彦には何も起きていない。全ては達彦が被ってしまった。
 自分の卓夫への想い——ただ傍らに行きたいという願いを叶えるために尽力して、犠牲になってしまった。
 けれど、卓夫にとって篤彦は、清太郎との確執の種——それだけの存在で。
 それを自覚することがこんなにも辛いことだなんて思わなかった。
 それに、と戦慄く唇を噛みしめる。
 ただ、傍にいられれば——という考えがどんなに愚かで甘い考えだったことか。
 この人の姿を見た途端身体が熱くなる淫猥な自分が、ただ傍にいられるだけの生活に堪えられるわけがない。
 抱いて欲しい。
 狂わせて欲しい。
 それを、姫でない今、どうやって乞えば良いのだろう?
「緑姫? あ、いや、今は違ったね……」
 名前を知らなくて呼びかけに困っている。
 ほら、自分はその程度の存在。
「篤彦と言います。林篤彦」
「あ、ああ、申し訳ない。ところでさっき何か言いたそうだったが?」
 小首を傾げて返答を待つ卓夫に、篤彦は逡巡した。
 言ってしまいたい。
 少しだけでも自分の胸の内を。
 だが、こうやって対峙すると、それがどんなにおこがましいことか。
 まだまだ自分は大学を出たばかりで、会社に入社もしていない。
 そんな自分に傍らにいたいと言われて……それでダメだったらどうなるというのか?
「いいえ、何も」
 結局何もないと首を振った。
「兄のこともどうかお気になさらないで下さい。兄の治療費は久遠様の話で片がついたのであれば、それで御願いします。けれど、それ以外では特に困っていませんので……、どうかお気になさらずに」
 熱くなった体に、もう諦めろ、と説得する。
 傍らにいられるだけでも……と思ったけれど、こんな感情を持て余したまま傍らにいるのは辛すぎる。
 一目見ただけでこんなにも熱く飢えを現す身体。
 自分はきっと堪えられない。
「今日はお忙しいところわざわざ寄って頂いて……ありがとうございました」
 頭を下げて目を瞑る。
 ぐっと舌を噛んで涙を堪えて、震える拳を身体に押しつけた。
 優しい人。
 けれど、向けられない瞳は、今の自分には辛すぎた。
20

 目が赤いのは、卓夫が来る前から泣いていたからしょうがない。
 けれどこれ以上みっともない姿を晒すことはできないと、震える声音は意思の力で押さえつける。
 にこやかな笑みで内面を取り繕うことなど、昔は良くやっていたこと。
「借金の返済も、それにあの店でもたくさんの優しさを頂いて、あの日にお礼をお伝えしたかったのですが、できなかったのが心残りでした。本当に、ありがとうございました」
 もう一度礼を言って、卓夫に深々と頭を下げる。
 もっとじっくりと見ていたいけど、見ていると涙が滲んできそうでできなかった。
 どうか、このまま早く帰って欲しい。自分が矜恃を保っている間に。
 そんなふうに願う心とは裏腹に、内心では帰って欲しくないと子供のように喚く篤彦がいた。
「返済の事は気にしなくて良い。私がしたくてしたんだからね。君にはあんなところで働く以外の才能があるのだから」
「原石も頂きました。磨いて宝石になれるよう精進するつもりです」
 そう、自分はまだ宝石になっていない。卓夫の傍らにいる資格など、まだ無い。
 それに、卓夫に触れて貰えないのがこんなに辛いのに、今は傍らに行くことなどできない。
「そう、がんばってね」
「はい、ありがとうございます」
 にこりと巧く笑えただろうか?
 だんだん顔が強張ってくる。それでも、なんとか堪える。
 卓夫は忙しい人だから、その内に出て行ってくれる。その後に泣きたいだけ泣けばいいのだから……。
「本当に気にしなくていいからね。遠慮無く言ってきなさい。……ああ、そろそろ……」
 時計を見た卓夫が、急いたように視線を泳がせた。
「もっとゆっくりできれば良かったんだけど、申し訳ない」
「いいえ、卓夫様は前からとても忙しい方でしたから」
 朝まで一緒にいられた時は、とても幸せな気分になれた。
 出も今は、願っても無理な事柄だ。後、数歩、卓夫がドアを開けたら、次はいつ会えるか判らない。
「……卓夫、様……?」
 背後から小さな声が響いた。
 擦れた、けれど確かに響く声音に、篤彦も卓夫も同時に振り返った。
「兄さん……目が」
 一対の緑の瞳が、眩しそうに篤彦と卓夫を交互に見やる。
 どこか焦点が合っていなさそうだった瞳が、すぐにはっきりと力を取り戻し始めた。動こうとして、点滴と包帯や湿布——そして痛みに遮られている。
 諦めたように息を吐き、再度篤彦の後ろを見つめて声をかけた。
「……卓夫様、ですね?」
 数日眠り続けていたはず他が、その声は意外にしっかりとしていた。
「はい、そうです。達彦さんですね。このたびは兄がとんでもないことを……」
 帰る寸前だったが、一番の犠牲者である達彦の目覚めに、卓夫も踵を返した。ベッドに近寄りろくに動けない達彦の瞳を覗き込む。
「本当に申し訳ありませんでした」
 繰り返される謝罪の言葉。
 なんだかもう聞いていたくない。
「卓夫様、お忙しいのですから、どうぞお帰り下さい」
 冷たいくらいの声音で帰りを促してしまった。それに自己嫌悪に陥る篤彦を尻目に、達彦が止める。
「待って……」
 点滴のついた痣だらけの腕が伸びて、卓夫の裾を掴んだ。
 どこか必死の形相に、もとより動くつもりなどない卓夫が腰をかがめた。
「何か?」
「篤彦を……」
 時々痛むのか途切れ途切れになる言葉を、それでも達彦が必死に紡ぐ。
 目覚めたばかりだというのに、達彦の視線は強いほどに卓夫を捕らえていた。
「篤彦を……連れて、行って…」
「兄さん?」
 何を? と問いかける篤彦の身体を、卓夫の手が制した。
「連れて行け、と?」
 不審そうで——どこか不愉快に寄せられた眉根に気付いて、ぎくりと顔がひきつる。
 やはり自分のことなどもうダメなのだ。
 そう思って、哀しくなる。
 やはりもう帰って貰おう。
 そう思って目配せしたのに、達彦は卓夫だけを見ていた。
 諦めて、差し障りのない言葉を探す。
 だがそれが探せる前に、続けられた達彦の言葉に篤彦は息を飲んだ。
「篤彦は、毎晩、あなたの名を呼んでいるから……」
「兄さんっ」
「こっちがいたたまれなくなるほど……切なく呼んでいるから……。聞いてる、と、寝られないんです……」
「な、何を言ってっ。違うっ、違いますからね、それはっ」
 防音が効いて聞こえないはずなのに。ちゃんと声は押し殺して聞こえないようにしていたのに。
 なんで知っているのかっ。
 いや、今はそれはどうでも良くて——。
 確かに篤彦は火照って眠れない時には、身体を慰めるために自らしていた。その時に呼ぶ名は、いつも卓夫のものだった。
 だがそれも、誰にも聞かれないと思うからこそ出ていた言葉だったのに。
 とんでもない夜の秘め事を明かされて、篤彦は真っ赤になって達彦に駆け寄ろうとした。だが、卓夫の腕がそれをさせない。
「最近、特に……。毎晩のあれは……独り身には、毒、だから……」
 達彦が笑っているように見えた。
 いや痛みに顔を顰める中に、確かに悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
 それに卓夫も気付いたのだろう。
「毒、ね。そんなにも?」
 どうしてそんなにも愉しい声音を出すのか?
「だって……あなたは知って……でしょう? こいつの、あの時……声」
「ああ、良く知っているよ」
 かあっと全身が火を噴いた。
「い、一体何言ってんだよっ、兄さんっ」
 まだ何か言おうとしている達彦の口を塞ぎたい。けれど、暴れる身体は羽交い締めまでされてしまった。
「だから、とりあえず、欲求不満……解消させて……欲しいな」
「そんなに困っているのなら……解消するのもやぶさかではないが……。どうだ?」
 至近距離で甘い声が響く。
 一体どういうことなんだ、これは?
 判らないままに首を横に振る。
「何だいらないのか?」
「ひっ」
 吐息が耳に触れる。
 羽交い締めにした手が降りて、さわさわと腰から下へと向かっていく。
 そのどれもが、飢えた体に呆気なく火を点ける。
「や、あっ……んっ」
「言ってごらん。君の口から」
 さっきまでの冷たい物言いが消えていた。
 甘いけれどそれが一番毒になる声音だ。鼓膜から浸透し、じわじわと身体の自由を奪うものだ。
「卓夫、さ、ま……」
「それとも私は他の客達と同じどうでも良い相手?」
「え、あ、ちが……」
「そのわりには、私と会っても強請る言葉一つ言ってくれなかったね」
「え……」
 それはどういう……。
「もう、私は欲しくないかい?」
 蠱惑的な笑み。戒めていた手が、身体の線を辿る。
「あ……」
 慣れた手の動きは簡単に篤彦の息を荒くさせた。
「さようなら……って言えば嬉しい?」
「い、いやっ……」
 腕が離れそうになって、咄嗟に縋り付いた。
 嫌だ、嫌だ。
 行かないで欲しい。もっと触れていて欲しい。
「なら、言ってごらん。私はいつも言っていたはずだよね。欲しいなら、自分の口で御願いしなさい、と。なのに、君はお兄さんの助けを借りないと、お強請り一つできないのかい?」
「あ……」
 ぞくりと走った寒気に、いきなり脳がクリアになる。
 さっきの達彦の言葉に不愉快そうな表情を浮かべた卓夫が思い出させた。そしてそれ以前の素っ気ない態度。
 判っているはずなのに視線を逸らし、篤彦の願いを無視した。
「まさか……」
「どうやら、たった二年で教えたことは全て忘れてしまったのかな?」
 首筋を辿る指先が、悪戯にひっかく。
 その痛みにさえ反応する身体が小さく震えた。
「忘れて……ません。ごめん、なさっ……ぁ」
「なら、言いなさい。欲望には素直になりなさい、と言っていた筈だよ」
 自分がどうして欲しいのか、淫らに伝える言葉を教え込まれた。その言葉でお強請りしない限り、解放は許されなかった。
「あ、卓夫……様……っ」
「緑の瞳が、綺麗に潤んでいるね。ほんとうに涙が似合う、愛おしい瞳だ」
 理性を吹き飛ばすような甘い言葉に、篤彦は抗えるはずもなかった。
 会いたくて、そのためにがんばってきたのだ。
 会えて、傍らにいられて、なおかつ卓夫の熱に穿たれるというのなら、どうして拒むことなどできるだろう。
 最後の一つが貰えないなら——とその辛さに諦めかけた夢は、それが貰えるなら躊躇うことはない。
「欲しいっ——欲しいですっ、卓夫様が、欲しいっ。連れて行って、くださいっ」
 涙を零して、身体を擦りつけた。
 熱かった体が、さらに熱に包まれて狂おしいほどに発火する。
 貪られるという形容が相応しいほどの貪欲なキス。舌が千切られそうなほどに吸い付かれていた。
「緑……」
 甘い声音でそう呼ばれるだけで、疼く腰が揺らめく。
 腕を延ばし、首筋に縋り付く。
 何度も何度も口づけて、唾液を流し込んで貰う。
 まるでマーキングされたかのような行為に、心がとろけ、身体から力が抜けていく。
 この先の甘い地獄を知っているのに、それでも歓喜してしまう淫猥な身体。だが、今はもっともっと狂わせて欲しかった。
 ずっとずっと、そうして欲しかったのだから。
 だが。
 うっとりと卓夫の匂いに酔いしれて、熱を貪る篤彦に、声がかかった。
「あのさ……今の俺には、それはとっても毒なんだよ、な……」
 比喩ではなく顔を顰めて苦痛を堪える達彦の声に、はっと我に返る。
 抜け掛けた麻薬混じりの媚薬の効果がまだ残っていたのか。
 慌てて離れようとした篤彦を卓夫は許さなかった。
「ああ、申し訳ない。すまないが、しばらく彼を借りる」
「どうぞ」
 まるで物のように簡単に貸し借りの話がまとまって、篤彦が否という間など無かった。
「ちょ、ちょっと待って。目覚めたこと、医師に……」
「自分で言える」
 それすらも、達彦に拒絶されて。
 なんだか判らないうちに、篤彦は病室どころか病院の建物から連れ出されてしまった。

続く