ONI番外編 【御味噌汁】  (1)

ONI番外編 【御味噌汁】  (1)

啓輔の従兄弟 晃一の話


 社長業というのも大変だ。
 もうとっくの昔に覚悟できていたはずの事を、最近改めて痛感する。
 萩原産業の若き取締役社長、萩原晃一は、疲れ果てた体を革張りのイスに沈ませてため息を零した。
「14時から新卒面接だ。服を整えろ」
 傍らで、副社長でいとこの谷口静樹が非情な宣告をする。
 14時まで、残り5分。
 今さっきまで重たいテーマの会議をやっていて、ようやく休憩できたと思ったところだったのに。
「ちょっと遅らせないかなあ……」
 ちらりと窺えば、冷たい一瞥が降ってきた。首を竦めてそれをやり過ごす。
 半年ほど前に、静樹の晃一に対する態度の方向転換に駄々を捏ねて脱走した。それ以来、静樹のスパルタ度はさらに増したのだ。
 今まで静樹がやってくれていた事を、晃一は自分で考え、実行しなければならない。それは大人として当然のことで、晃一もそんな静樹に文句は言えない。
 だが、あれから半年走り続けたせいかどうやら息が上がってきたようで、なんだか最近疲労の度合いが濃い。
 体ではなく心が悲鳴を上げているような気がしていた。
 しかも今日はそれでなくても神経を使う面接だ。
 気が重い……。
 その面接も、昨年までは静樹がメインで、晃一は傍らで観察しているだけで良かったのに。
 今年は質問も進行も、全て晃一がメインで行うように言われていた。
「今日は、五名だからね。要領よく行うように」
 あっさりと言われて、ますます疲れが増してきた。
 たかが30分。されど30分。
 今日はそれが五人。休憩や採点の時間も入れるから、半日はつぶれしまう。
「いつまで面接続くんだ……」
「良い人が採れるまで」
「つうか、うちのハードル高くないか? 今まで何十人って面接したのに、まだ三人ほどだろう?」
 うちみたいな中小企業……。
 と、ぼやくと、じろりと冷たい一瞥が。
「中小だからこそ、少しでも良い人を採りたいんだ。しゃきっとしろ」
 と言われても。
 やっぱり大企業のようにはレベル高い人はなかなか来ない。
 これは、と思っても、社会人になれるのか……というような性格の人。
 性格は良さそうでも、あまりにも学力が低い人。少なくとも基礎学力は高くないと、後の成長度もしれていると静樹が言うから採れない。
 萩原産業の採用基準は静樹が決めているから、たとえ社長のお眼鏡にかかっても即採用とはいかないのだ。
 だから。
「はいはい」
 と頷くしかない。
「では、これを」
 その言葉共にどんと机の上に出されたのは、厚みが1cm近くになったクリアファイル五冊。
「何で、今頃?」
 今日の面接の資料だと一目でわかるほどに見慣れた資料。
 だが、残り五分でどこまで見れるというのか?
「とりあえず一人目の方のものは熟読をお願いします」
 丁寧な物言いに変化した静樹は、すでに副社長モード。
 そんな彼には、たとえ社長といえども文句は言えない。まして駄々を捏ねるなど不可能で……。
「はい……」
 はあっと重いため息を吐いて、晃一はNO.22とナンバーリングされた資料を取り上げた。


 クリアファイルに押印されたNO.22からNO.27。
 半日かけて面接した人間は、「ダメですね」という静樹の一言で全員不合格。
 この半日の苦行は何だったんだ、と目線で訴えても、静樹が堪えるはずもなかった。
「明日も五名。午後までに、資料に目を通しておいてくれ」
 明日は会議が無いから時間があるだろう?
 そんな事を言う静樹に、晃一は苦情を飲み込んで黙って頷く。
 晃一はこれで上がりだが、静樹はもっと遅くまで仕事をするのだ。彼の机の書類の山は、昼からいくらも減っていなかった。
「静樹もいい加減早めに帰らないと、可愛い子が泣くぞ?」
 本当は、帰れ、と言いたいのを、そんな揶揄の言葉で誤魔化す。
 途端に静樹が、耳朶を僅かに赤くして。
「遅くなるのは言っていますから」
 ふわりと。
 その一瞬だけ、彼の人を思い出したのか、静樹の口元が綻んだ。
 昔から滅多に見られない笑顔だったが、最近は少しだけ前増えてきた。大事な人を思い出したその時、自然に浮かぶ笑顔。
 けれど、いつだってその笑顔は瞬く間に消えてしまって、晃一はため息を飲み込んで残念がるしかなかった。
 きっと静樹の笑顔は、恋人専用になってしまっているのだ。
 従兄弟で友達で何でもしてくれる兄貴分だった。
 ずっと傍らにいてくれるものと思っていた。
 けれど、伸ばされていた手を掴まえようとしなかったのは晃一自身だ。
 大切な従兄弟で、有能な副社長。
 ふと気が付けば、静樹はそんな存在でしかなくなっていた。
 恋人ができたからと言って、晃一と会社をないがしろにするような静樹ではない。そんなことになっていたら、今頃会社はつぶれていただろう。
 決して、社長として無能なつもりは無い。けれど、副社長がいないと会社が成り立たないのも事実だ。 
 客寄せパンダのように笑っていれば良いのだと、陰口を叩く重役もいる。晃一も自身がその程度の人間だということを知っていた。
 だからこそ、静樹のスパルタにも堪えようと思っていたのだけど。
 

 帰宅する途中、公園の桜があんまり綺麗だなと思ったから、ふらふらと人混みの中を彷徨い歩く。
 もうほとんど散ってしまった最後の桜。
 風が吹く度にどんどん散っていく。
 晃一の手の中にあるのは、出店で買ったビールの缶だけ。
 割合に強い方だと思っていた晃一だが、空きっ腹に飲んだアルコールは周りが早かった。ここのところの激務と睡眠不足のせいもあるかもしれない。
 だが、いくら飲んでも飢えが癒されない。
 熱くなるかと思って飲んでいるのに、体の芯が冷え切って寒くて堪らない。
 ずいぶんと賑やかな人混みの中にいるのに、激しい寂寥感が晃一を襲っていた。
 一人は嫌だ……。
 人一倍甘えん坊の自覚は昔からあったのに、未だに誰も自分の傍らにはいない。
 あの静樹ですら見つけた相手を、どうして自分は見つけられないのだろう?
 どうして、静樹への想いを友のそれだと勘違いしていたのだろう……。
 悔やんでも悔やみきれない事柄が、なぜか今日に限って晃一を責め苛み続ける。けれど、そんな愚痴すら誰にも零すことはできない。
 社長が誰かに弱みを見せれば、それは会社の存続を危うくする。
 それだけは、昔から静樹にきっちりと教え込まれていた。だからこそ、そんな愚痴を零せる相手を早く見つけたかったのに、そんな晃一の泣き癖・甘え癖を知った人はみんな離れていってしまう。
 結局、そんなところから漏れたのだろう。
 あそこの社長は頼りない、
 そんな噂を重役の誰から聞いたのは午前中のこと。
 その時には、苦笑して応えたけれど。
 アルコールのせいなのか、疲れのせいなのか。
 ぺたりと座り込むと、もう立ち上がる気力はなかった。
 心が。
 疲れ切ってた。



 ふわりと見上げれば、花びらなどほとんど見られない枝が、月明かりを遮っている。
「誰か……いないかなあ……」
 甘えさせてくれる人。
 愚痴を聞いてくれる人。
 何でもやってくれる人。
 考えれば考えるほど、浮かぶのは静樹の姿。
 今だって、持っているものといえば、財布くらい。
 重要な書類を、晃一は持って帰らない。必要であれば、静樹が運ぶ。パソコンも、最低限の情報しか入っていない。
 その管理も静樹だ。
 忘れても落としても大丈夫なように、何もかもお膳立てされている。
 そんなことが当たり前だと、何の疑問も思わずに行ってきたけれど。
 静樹が晃一を独り立ちさせようというスタンスになってから、そんなことも全て一人で考えるようになって。
 晃一も判ってはいるのだ。それではダメだったのだと。
 だから努力はしている。けれど、少し休みたい。
「どっかに静樹がいないかなあ……」
 押し隠そうとしていた甘え癖が顔を出してくる。
 そんな己の情けなさを喉の奥で笑って、晃一は缶の底に残っていたビールを飲み干した。


 どのくらいそんな風に座り込んでいただろう。
「あの?」
 気が付けば、眉間にシワを寄せた男が晃一の顔を覗き込んでいた。
「何?」
 見上げれば、まじまじと見つめられて。
「だから、何?」
 イライラと尖った声音を出せば、しまったというように顔が顰められた。
「あ、あの、すみません。その……知り合いに似てて……」
「ふ?ん……。こんな顔、そうそういないだろ」
 そう言って見つめれば、相手はどこにでもいそうな顔をしていた。
 人の良さそうな、どこかひ弱な優しげな感じ。
 けれど、見知った顔ではなさそうだ。
「あ、そうなんですけど……、その、どこかで……」
 純和製のはずなのに、父親似のエキゾチックな顔は、時に外国人に間違われるほどにほりが深い。
 たぶん、そんな外国人の誰かに似ているのだろう。
 まだ若い、大学生らしい男を見上げて、フンと鼻を鳴らす。
「俺は知らないね」
 尖った感情が、そのまま口調に出てしまう。
 それを止められないのは、しっかりと回ったアルコールのせい。
「で、それだけ? それだけなら、あっち行きな」
「え、あ、……すみません。でも……」
 なのに、男は立ち去らない。
「裕真——っ、何やってんだよ」
「あっ、ごめん……」
 向こうで呼んでいる声に、振り返って返事して、また晃一を覗き込んできた。
「あの、背広……汚れてます」
「背広? ああ」
 指さされるところを見下ろせば、数日前の雨のせいか、じっとりと泥水が染みこんでいる。
「別にかまやしない」
 どうでも良い。
 汚れていたら、静樹が別のスーツを着せかけて、クリーニングに出してくれて。
『ネクタイくらいちゃんと締めろよ』
 そう言って、寝ぼけてぼおっしていても、いつだって静樹が何とかしてくれた。
 けれど、静樹の優しさは今や恋人に向けられていて、晃一に向けられるのは厳しさだけ。その厳しさも晃一のためだからと無理をしているのは判ってはいるのだけど。
 こんなふうに疲れてくると、その厳しさが辛い。
「クリーニング出せば良いんだろ?」
 そのくらいなら晃一自身もできる。
「でも……泥水だし……。それに……」
 言いづらそうに口ごもる。けれど、心配そうに覗き込んでくる視線が逸らされることはない。
「ずいぶん酔っているみたいです……。お一人ですか? 誰か連れが」
 ああ、鬱陶しい。
 なんだよ、この鬱陶しい男は——。って、ああ、まるで静樹がいるみたいだ。
 昔の静樹のように、俺にあれこれ指摘して。
「あっ、こんなところで寝てしまったら、風邪引きますよ。大丈夫ですか?」
 他人にあれこれ言われるのって、こんなにも鬱陶しいものだったんだ。静樹だから、言うこと聞く気になってたんだ。
「うるさいよ。俺だって、いい大人なんだから——、一人だってちゃんとやれるよ」
 静樹がいなくても大丈夫って、胸張って言ってやる。
「だったら、起きてください。ああ、腕も汚れて……あっ、ネクタイ、ビール零れてます」
 いろいろ言われて、晃一は再度男を見上げた。
 けれど、いつの間にか、男が何人にも増えている。
 同じ顔、同じ服。
 地味な服着た男が何人も。
 なんかぶれてて、良く見えない。
「ああ、もううるさいなあ。大丈夫だって、俺はできるって……」
「あ、あの?」
 手っ取り早く掴んだ腕を引き寄せて、凄みを利かせる。
「もう静樹がいなくたって、大丈夫だよ。俺はね、これでも一人でちゃんとできるんだ」
「え……静樹……って……」
「できますよおっ、萩原晃一、ちゃんと一人でやっていきますっ」
「こう……いち……さん?」
 呆然とする男の前で、晃一は胸を張って宣言した。
 それが、その夜の最後の記憶だった。


 やけに眩しい日差しが顔にかかる。
 心地よい睡眠を邪魔され、晃一は不快げに身を捩った。けれど、明るい日差しは、いっこうにかげることがない。
「んっ……」
 小さく唸り、手をかざして眩しい原因を指の隙間越しに睨み付けて。
 はたっ、と気づく。
 ここは……どこだ?
 ずいぶんと近い距離にある窓。
 染みの浮かんだ天井も近い。
 何より、寝ている寝具が固いし、薄い。
 えっと……。
 見開いた瞳のままで、周りを見渡す。
 枕元に自分の鞄。携帯と、財布などのポケットに入れていたもの。
 そこから上に視線を動かすと、部屋の中に台所があるのに気が付いて。
「あ、起きました?」
 まだ若い男が、振り返った。
 手に持っているのは、包丁。傍らで鍋がぐつぐつ言っている。
「あ、の……ここは?」
 起きあがろうとするとこめかみがずきんと痛み、そのまま枕に顔を埋めた。途端に、吐き気も込み上げる。
「うう……」
 唸って、胸を拳で押さえ、堪える。
 幸いにして、吐いてしまうほど酷くはなさそうだが、完璧な二日酔いの症状に、晃一は昨夜の記憶を辿った。
 その間に、男がぱたぱたと数歩で駆け寄って、男が晃一を覗き込んでくる。
「大丈夫ですか?」
 心配そうな声音。
 断片的な記憶を辿っても、なぜ自分がここにいるのかが思い出せない。何より、ズキズキと脈打つような痛みが、思考を邪魔する。
「頭痛、ですか?」
「う……」
「あの……他はどこかおかしいところ、あります?」
「ちょっと……気持ち、わる……」
「あ……もしかして、二日酔い?」
 問われて、こくりと声もなく頷いた。途端に走る痛みに、また唸る。
「えっと、薬……と水。ちょっと待っててくださいっ」
 バタバタと——けれど、どこか控えめな足音が離れていって、引き出しを探る音、冷蔵庫の音、水道の音が聞こえて、また足音が戻ってきた。
「水——……あの、水道の水ですけど……、良いですか?」
「ん?、何でも」
 持った途端にひんやりとした冷たさが手のひらに伝わり、ほっと息を吐く。
「こっち、薬です」
「ん」
 差し出された小さな錠剤が視界に入る。それは、前に二日酔いだったときに静樹が用意してくれたものと同じものだった。だから。
「え?」
 男の瞳が見開かれた。
 なんで、そんなに驚くんだろう?
 今ひとつはっきりしない頭で考えていると、男の表情が苦笑に変わった。
「あ、ああ……どうぞ」
 同時に開けていた口の中に指で摘んだ錠剤が差し込まれる。
「ん」
 指が抜ける前に、零れないように唇を閉じる。唇に触れた指が急いで逃げていくのを、水と共に飲み込みながら見つめて。
「げっ」
 素っ頓狂な悲鳴を上げたのは、晃一だった。
「お、俺っ」
 かあっと熱を吹き出す顔を腕で覆い隠す。
 なんで、あ?ん、なんて——っ!
 静樹の時は平気だったが、今目の前にいるのは赤の他人。しかも、自分よりはかなり若そうな男。
「す、すまんっ、俺——」
「あ、いえ……。こちらこそ」
 なのに、彼はすまなそうに頭を下げる。
「弱っているときは甘えたくなりますものね」
 からかうどころか優しく労れて、それはそれで自分の情けなさに羞恥が増す。
 ずっと静樹に甘やかされていたツケが、まさかこんなところに来るなんて。
 と、今までの愚行を、激しく猛省する晃一だった。
 今回ばかりは心底真面目に反省したと言っても過言ではない。
「それより、頭痛大丈夫ですか? 気分の方は?」
「あ……大丈夫……です」
 さりげなく話題を変えてくれた事には気が付いた。
 けれど、優しいと言って良いのだろうか? それとも、呆れているのを巧みに隠しているのだろうか?
 見ず知らずの人間にあ?んとされて、そのまま中に入れてくれた男を晃一はちらりと横目で窺う。
「よかったです。あ……今、おかゆ作っているんです。食べれたら良いんだけど?」
 どうやら本当に気にしていないらしい。
 それもなんだかな、とは思ったけれど、それより先に気になっていたことを問う。
「それより……あなたは?」
 少しだけすっきりしたせいか、目の前の男が飲んだくれていたときに声をかけてきたのだと思い出してきていた。
 あの時もこんなふうに優しくされたような気がする。
 声をかけられて、何か話をして。
 なんだかふわふわと体が揺れて気持ちよかったことだけは、朧気ながら記憶があった。
 けれど、今ひとつ前後関係が判らない断片的な記憶のせいで、昨夜何が起きたのかはっきりと思い出せない。
 しかも、彼はどう見たって赤の他人。
 少なくともここ最近、面接も含めて会った人間ではない。
「えっと……初めて……ですよね?」
 それでも自信が無くて、上目遣いで窺った。
 と、晃一の意に反して、男ははっきりと首を横に振った。
 しかも。
「覚えてませんか? 俺のこと?」
 と、言うではないか。
 思わず見開いた瞳で、彼の顔をまじまじと見つめる。
「どこかで……会ってます、か?」
「はい、晃一さんでしょう? 萩原晃一さん。俺もあの桜の下で見たときは、はっきりとしなかったんですけど、静樹さんの名と、それに晃一さんの名前と聞いたら、そうだったんだってはっきりと判って。お久しぶりです。でも、俺の顔、やっぱ覚えていませんか?」
 昨日もそんな感じだったし。
 と静かに笑う顔は、やっぱり見覚えが無い。
「静樹も……知ってる?」
「はい。昔、遊んで貰ったことがあるんです。と言っても……中学生の頃までだったかなあ……」
「はあ……?」
「もうすぐ10年くらい経つんですね。あの時から、晃一さんって、大人って感じで。静樹さんも格好良かったですよね」
「……10年……って?」
「あ、ごめんなさい。判んないですよね。あのとき、俺はまだ子供だったから……。俺、佐山裕真です」
「佐山裕真……?」
 そう言われても、すぐには思い出せなかった。
 少なくとも近しい人ではない。だが、10年ほど前で、遊んであげた? と記憶を辿っていってる時。
「啓輔くんと一緒によく遊んで貰って。毎年楽しみにしていたんです。俺ら田舎の人間だから晃一さん達って、すっごい格好良かったし」
 なんてはにかんだ笑みを見せられて、思い出した。
「まさか……啓輔んちの隣の?」
 休みに遊びに行ったとき、啓輔と一緒に幼なじみだという隣の子も一緒に遊んでやった。
 細くてちっちゃくてひ弱な感じで、けれど優しそうな男の子。
 その記憶の子を成長させてみる。
 細いままに背だけは高くして。目の前のその顔を子供の顔からもっとシャープにして。
「ほんとに……あの裕真?」
「はい、思い出してくれましたか?」
 頷きながらにっこりと笑うその表情は、確かに幼い彼を成長させた姿と見事に重なった。


 偶然、というのは本当に有るんだ。
 何しろこの東京で、しかもあんな人混みの花見のさなかに出会えるなんて、砂漠の中の一粒を見つけるのと同じくらいだろう。
「俺、春休みに実家に帰ってて、啓輔くんにも会ってて。その時に、俺の住んでいるところと、晃一さんの会社が近いんだって聞いて。もしかするとどこかで会えるかな?って思ってたんです。そうしたら、会えたでしょう? だから嬉しくて。でも、晃一さんの家までは判らなくて、家に連れて来ちゃって……すみません」
 そこで、ぺこりと頭を下げられても。
 戸惑うのは晃一の方だ。
「とんでも無いっ、こっちこそ助かったから……」
「あの、頭痛の方は大丈夫ですか?」
「あ、ああ、薬効いてきたみたいだ」
 良かったと微笑む裕真に、晃一は曖昧な笑みを返す。
 酔っぱらって正体不明という醜態を晒した姿は、知り合いだからこそよけいに恥ずかしい。
 まして、さっきのあ?んだ。
 絶対に甘え癖を治すんだ、っとさらに深く反省していると、
「あ、お粥、食べます? 今日、平日だから、お仕事あるんですよね?」
「えっ」
 言われて、慌てて時計を探した。
「あ、あそこです、時計。晃一さんの会社って9時始業ですよね? ここからなら、30分くらいで行けると思います」
 指し示された時計はまだ8時。
 30分あれば、用意はできるだろうけど。
「あ、でもスーツが……」
 そういえば、昨日クリーニングがどうとか……。
 思い出したくもない記憶は、その辺りはきっちりと残っていた。
「スーツ……クリーニング出せなくて。ズボンの泥はなんとか落としたんですけど。やっぱり染みがあって。ネクタイもビールの染みが」
 申し訳なさそうにお粥をよそっていた裕真が言う。
「あ、いや、君のせいじゃないし。となるといったん自宅に戻って……それだと遅刻かあ……」
 朝っぱらからの静樹の嫌み攻撃を予想して、げんなりと顔を顰める。
「えっと、俺のスーツ……一着しか無くて安物だけど……、入りませんか?」
 ことんと湯気を立てたお粥と梅干しの皿を起きながら、言われてまじまじと裕真の体格を見つめた。
 これは……たぶん。
「背は……同じくらいだけど……」
「あ?、たぶん着れるとは思うけど」
 かなりきつそうではあるけれど、入ることは入るだろ。だが、一着しかないスーツを借りるのが忍びなくて首を振って断る。
「でも」
「ズボンの染み、目立つのか?」
 最悪、それでもしょうがないだろう。会社まで行けば、スーツ一式家から持ってきて貰うことも可能なのだ。、
「こんなものですけど。あ、食べてください。時間ないので」
「あ、ありがと」
 勧められるがままにお粥を食べる。
「あ、旨い」
 思わず呟いていた。絶妙な塩加減が食欲を湧かせ、適度な柔らかさが弱った胃腸にひどく優しい。
 美味しいものを食べていると幸せな気分になる。
 知らず口元が綻ぶ晃一の前に、問題のズボンが差し出されてきた。
 綺麗に折り目がついているズボンの、ここ、と指し示された部分の染みは、思ったより目立たない。というより、言われなければ判らない。
「これだったら」
 ダークグレイのスーツでここまで目立たないのなら、染みとは言わないだろう。
「十分だよ、ありがとう」
 泥に汚れたと思っていたけれど、きっと大したこと無かったのだろうと一安心する。
「良かったです。お茶も、どうぞ。あ、みそ汁も有るんですけど、いかがですか?」
「え、君が作ったの?」
「はい、自炊派なんですよ。何しろ実家から山のように野菜が送られて来るものですから」
「へえ、凄いや」
 未だかつて料理などインスタントラーメンくらいしか作ったことのない晃一にとっては、ここまで料理ができるというだけで凄いと思ってしまう。
「そんなこと無いですよ。で、こっちワイシャツとネクタイ……。こちらも大丈夫ですか?」
 きっちりアイロンがかけられたワイシャツは綺麗な白。
 ネクタイも、たいした染みではない。これも上着に隠れる程度だ。
「十分十分——って、ワイシャツもいつクリーニングに?」
「近くにコインランドリーがあるんです。こちらはあまり汚れてなかったんです」
「ありがとうっ、助かったよ」
 ずっと一人暮らしなのか、裕真は晃一が驚くほどに、なんでも一人でできるようだった。
 それこそ、布団の上での食事が終わった後も、何の不自由なく裕真が世話してくれて、晃一の出勤が整ったのは、十分始業に間に合う時間だった。
 
 
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【御味噌汁】  (3)



 静樹の視線が冷たかった。
「朝帰りか?」
 晃一の顔を見た途端の第一声がそれだ。
「別に良いだろう?」
 放任主義に方向転換した静樹には関係ないことだ、と言い返しかけたその時。
「ああ、間に合えば良いけどな」
 返された声音に動揺が感じられて、晃一は続けて言おうとした言葉を飲み込んだ。
 そっと逸らされた静樹の視線はやはり不自然で、晃一の胸の奥が軋む。
 判っているのだ。
 静樹がそれでも晃一のことを心配してくれていることは。
 晃一を独り立ちさせようと、必死になっていることも。
 何しろ晃一の甘え癖が静樹の過干渉から来ているのは、彼も自覚している。
 その静樹が持つ罪悪感が伝わってきて、晃一の心を痛ませる。静樹だけではないという晃一自身の自覚もあるからだ。
「昔馴染みに会ってたんだ。静樹も知ってる奴」
 結局今回もまたちくちくとした罪悪感が晃一を責め苛んで、静樹に答えを教えてしまった。
「昔馴染み?」
「そ。啓輔ん家の隣の啓輔と同じくらいの子供いただろう? 佐山さん家の」
「佐山……? 確か一つか二つ、啓輔より上の?」
「ん、その裕真に昨日偶然会ってさ。そのまま話し込んで」
「どこで彼と?」
「今年最後の花見を興じようと公園行ったら、いた」
 さすがに酔いつぶれたとは言えなくて、その辺りは誤魔化す。
「ものすごい偶然だな」
「そうだろ? あ、でも向こうは啓輔に聞いてて、俺たちの会社がここにあるのは知っていたみたいだ。こっちの大学に来ているんだと」
「ああ、そうか。確か……今は四年になるのか? 順当であれば」
「そうなのかな? でまあ、話し込んで……そのままそいつのアパート行って」
「……知り合いとは言え、押しかけたのか?」
 晃一の席の傍らで、静樹が眉間にシワを寄せて見下ろしてくる。
 そういえば、軽率な真似はするな——と、さんざん言われていた事を思い出す。
「いや、その、裕真だったし。あのころと全然変わってなかったし」
 思い出すのは、懐かしい子供時代。と言っても、裕真達と遊んだ頃には、晃一達はもう精神だけは大人の仲間入りしていたのだから、遊んでやったという意識の方が強い。
「酔っぱらった状態でそんな判断ができるとは思えないが? ずいぶんと酒臭い」
「あ?、さすがに飲み過ぎたかなあ。薬貰ったから少しはましだと。なんかあいつ結構甲斐甲斐しく世話してくれるんだよ、しかも、朝からちゃんとご飯つくってくれて」
 目覚めたときにはパニクったが、用意ができる頃にはずいぶんとリラックスできていた。
 何しろ、あれは?と名前を出すと、ちゃんと手元までそれが出てくるのだ。
 あの心地よさは、ずいぶんと久しぶりなような気がした。
 そんな記憶にうっとりと浸っていると、静樹の眉間のシワがますます深くなった。が、晃一はそれに気づかない。
「二日酔い? 珍しいな……。晃一は結構強かったと思うが?」
 含みを持たせた声音にも晃一は気づかず、「ん?」と首を傾げた。
「あ?、まあ無茶な飲み方したんだろうなあ? はっきり覚えてないから、どの程度飲んだか判らないけどな」
「判らない? 覚えていない? 晃一、まさか?」
「え?」
 ぞくりと背筋に走った悪寒より早く頭が跳ね上がる。
「あ、静樹、その」
 そこには、こめかみに青筋を立てた滅多に見られぬ静樹の姿が。
「公園で酔っぱらって前後不覚に陥って、たまたま裕真君に見つけて貰って今まで彼のアパートで世話して貰ったとか……言うんじゃないんだろうな?」
「え……あ、いや……」
 あまりに適確な指摘に、晃一は思わず口ごもった。だが、それは静樹の指摘を肯定したのも同じだった。
「晃一、お前はこの萩原産業の社長であるという自覚が足りないっ!」
「自覚は……あるんだけど」
「だったら、なぜそんな醜態を晒す羽目をするっ。見つけて貰ったのが、たまたま裕真君で良かったが、そうじゃなかったら今頃……」
「今頃って……」
 静樹がさすがに口にしなかったその言葉の先が、頭の中で駆けめぐる。
 それでなくても情けない社長というレッテルが流れている昨今、酔いつぶれた姿を知っている人間が見たら、もっと悲惨なことになるだろう。たとえば取引先、銀行の融資担当者、会社の従業員とて同じ事。彼らの士気が落ち込めば、それは業績にも響いてしまう。
「あ……すまん……」
 なんて事をしたんだろう……。
 静樹の指摘はいつも的確で、責められれば後悔ばかりが生まれてくる。結局は、いつもこうなのだ。
 静樹はいつだって正しくて、晃一は静樹に従うしかなくなる。
 けれど、自分でも何が正しくて、何をしなければならなかったというのに。
 背を丸め海の底より深く反省をしている姿に、静樹も荒げた声音を落ち着かせるように深く息を吐きだした。
「反省、して貰えば良い」
 いつだって、結局は甘やかせて貰っている事実。
 静樹が晃一を突き放していない事実。
 労る雰囲気に、晃一はホッとする。
 そんな自分が情けない。
 何しろ、静樹が本当に心から労る相手は、もう晃一ではないのだから。
「すまん、ほんとに……」
「とにかく、その裕真君には後で礼を言った方がいいな。クリーニングもして貰ったんだろう?」
「ああ。でも、クリーニングは出していないって言ってたぞ。ワイシャツはコインランドリーで洗ったとか……」
「出していない?」
 強い口調で返されて、晃一は口ごもった。脳裏に浮かぶ朝の会話を思い起こし、うんと頷く。
「出していないと言ってた。泥の染みができてて、落としてくれたらしいんだけど残ってるの凄い気にしていたな。俺から見たら、たいしたこと無いんで、そのまま着てきたけど」
「泥……一体どんな酔っぱらい方を……。ああ、ちょっと見せてみろ」
 静樹に言われて晃一は立ち上がった。
「この辺りか?」
「そ。後、ネクタイも染みがあるとか」
「これか?」
 ぐいっとネクタイを引かれる。至近距離にある静樹の顔に、晃一は知らず顔が熱くなってきた。
 最近はネクタイもなかなか直してくれなくなって、こんな至近距離は珍しい。
 静樹は、眼鏡が彼の整った顔をさらに際だたせていて、男から見ても十分良い男だった。
 その静樹を逃してしまった自分が、晃一は悔しい。
「とれているな」
 ネクタイとズボンの染みを再度見分していた静樹が感嘆したような口調で呟いて離れていく。
 離れた熱が寂しくて、ぶるりと身震いした晃一は、静樹が自分を見ていることに気が付いて慌てて笑みを浮かべた。
「だろ。俺だったら気にしないって言ったんだが。裕真の奴、凄く気にしていたから」
「凄いな。泥とは言っても染みは取りにくいんだ。それに、ワイシャツもきちんとアイロンと、のりまでかかっている。いや、ズボンもだな。きちんとプレスされている」
「はあ、そうなんだ?」
「ずいぶんと尽くされた感じだが?」
「ん?、なんかずいぶんとまめまめしく世話焼いてくれた。何しろ、朝からみそ汁が出てきたんだぞ。俺にはお粥をつくってくれたし。薬もちゃんと常備してたみたいだし。あ?、そういや、部屋も綺麗だったなあ……。台所もちゃんと洗い物してたよ、食べ終わった時」
「それはまた……」
 力説して裕真の凄かったことを伝えようとする晃一だが、静樹の反応は今ひとつだった。どこか思案下に、晃一の言葉に頷いている。
 まあ、それも道理だろう。
 静樹にしてみればその程度できて当然なんだろう。
 その静樹にいつも綺麗にしろ、自分で片付けろ、と言い続けられている晃一にはあんな真似はとうていできない。
 朝食がご飯にインスタントでないみそ汁という、その事実だけでも驚嘆する。
「佐山裕真……だったな。あの、裕真君か……」
「そういや、あの頃から下級生の面倒よく見ていたよな。あれって、佐山のおばさん譲りかね? 今だって、啓輔もずいぶん世話になっているみたいだし」
「ああ、そうだな……。啓輔が転んだときも、我が事のように痛がって手当をしていた。結構器用だったことは覚えている」
「そうそう、啓輔やよその子にも勉強教えてたりしたろ? 頭も良かったんだろうな。宿題やってて頼まれてずいぶんと困っていた。なんていうか、頼まれたら断れないタイプみたいだったけど」
 静樹と話している間に、さらにいろいろと思い出してきた晃一は、ぺらぺらと浮かんだそのままにそれを口にしていた。
 思い出せば思い出すほどに、彼はいつも啓輔の世話をしていた。
「高校はどっか、寮に入ったんじゃなかったかな? そのまま大学に行ったって、前に啓輔に聞いたような気がしてたけど、まさかこっちに来ていたとはなあ」
 もし寮に入っていなかったら。
 啓輔の唯一無二の相談相手になっていただろう。
 あの啓輔が悪夢と言った時間は、きっともっと和らいでいたに違いない。
 そんな詮無いことを思い、つかの間しんみりとした気分に陥る。
 けれど、それもまたすぐに消え去って、あのほんわかとした雰囲気にまた触れたいという気持ちが強くなってきた。
「また、今度ゆっくり話したいな。世話になったし……それにあいつのみそ汁、結構旨かったし」
 二日酔いなのに、気持ち悪いとは思わなかった。
 五臓六腑に染み渡ると言うと言い過ぎかもしれないけど。
 あのみそ汁は、本当においしかったのだ。
「ずいぶんと裕真君が気に入ったようだな。というか、餌付けされたっていう方が良いか?」
 その含む言葉に、ムッとして言い返す。
「何が餌付けだ。マジ旨かったって言ってるんだ。それに、あいつの傍らは心地よかったしな。なんつうか、ほっとするんだよ。俺に対するときは、本心で心配しているのが判ったし……」
 言葉にすることで、頭が整理できる事はよくある。今の晃一がその状態だ。
 ああ、そうだ。裕真の傍らはとても心地よくて、もっといたくて堪らなかった。
 休みだったら良かったのに——と出かける時には思ったものだった。
 啓輔のいる田舎が好きだった。その雰囲気そのままの裕真が気に入らないわけがなかった。
 何より、ああいう世話焼きタイプは、晃一にはひどく心地よい存在であることは否定しない。
 だから、思わず呟いてしまったのは、晃一の紛う事なき本音だ。
「ああいうのが、俺の世話してくれたらなあ。とりあえず仕事のことだけに専念できるように。そうしたら、もうちょいがんばれるかも」
 静樹はもう人のもの。
 いつかはっきりと諦めることはできるだろう。
 けれど、今までしていなかった身の回りのあれこれ。スケジューリングや雑務。そんなものはやっぱり苦手な晃一には、静樹が離れることがとても辛い。
 だからこそ、昨夜は落ち込んでしまったのだ。
 もう静樹はやってくれない。
 甘えだと判っていても、誰かに頼りたいと思ってしまうのは、晃一の性だ。
「そう、か……」
 静樹が辛そうに、言葉を濁したのが判っても、今更引っ込める気にはなれなかった。

続く