兄弟間の確執、鬼畜攻×健気受、道具責め、売春

【緑姫】

 林 篤彦(はやし あつひこ)。
 最後にそう呼ばれたのはいつだったろう。
 そんなことを考えて、けれど。考えるまでも無く、はっきりと記憶に残るそれに自嘲する。
 忘れるはずも無い。
 忘れるわけも無い。
 最後にその名を呼ばれたあの日、緑姫(りょくひめ)という名前とともに、元の名前を名乗ることは許されなくなったのだから。
 緑の姫。
 音は美しい、けれど、その姫が持つ意味を知れば、穢らわしいものでしかない。
 名前の由来は篤彦が持つ、今は亡き祖母譲りの透き通る新緑色の瞳からだ。
 小さい頃は理不尽に苛められる事はあったけれど、持ち前の楽天的で明るい性格でそれもすぐに立ち消えた。
 だから、嫌いだなんて思ったこともなかった。
 けれど、今はその瞳が恨めしい。
『綺麗な色だ。エメラルドの和名は翠玉だったか……。だが、翠は綺麗すぎるな。どうせ、この透き通った瞳がいずれ薄汚く濁る。犯されまくり、穢され、遊ばれて。いずれ自ら尻を振るのを覚え、男に泣いて縋って、地面に頭を擦りつけて願って、達かせて貰うようになる。そん時は、翠なんて綺麗な色にはならねえだろう。瞳が淫らに曇る様を好む輩は多い。お前が、いつまでその透明度を保っていられるか楽しみだ』
 翠玉ではなく野山にある緑。
 いつか生気を失い枯れ果てる前の最後の輝きの色。
『だから、緑でいい』
 そう言われて『緑姫』と呼ばれた時、篤彦こと緑姫は、自分の瞳が嫌いになった。
 

 あの日。
 篤彦を連れてきた男は、どこかの貸金業者の取り立て人だと言っていた。
 向けられる男達の好色な視線から逃れるように、身を縮めようとするけれど、衣服を奪われた身体はそのすべてを隠すことはできない。
 両腕は縛られて、足首にかけられた紐のせいで閉じることすら許されないのだ。
 そんな身体を、男達の視線が、舐めるように辿る。
 祖母からの隔世遺伝は緑の瞳だけではなかった。
 東西の良いとこ取りをした整った顔立ちも、薄茶の髪も、肌の白さも、細身だけど均整の取れた身体も。子供の頃は可愛い、長じて綺麗だと言われてきた篤彦の身体に男達の視線が絡みつく。
 伸びた無骨な指により顎を掴み上げられて、緑の瞳を覗き込む暗い好色な視線に背筋に悪寒が走った。
 寒いだけでなく震える身体を抱き締めたくても許されず、篤彦は不自由な足を動かして尻を擦らせながら後ずさった。剥き出しの尻たぶに、コンクリの上の細かな砂利が痛みを与えても、気にする余裕など欠片も無い。
 男達が持つライトのみが唯一の灯りであるこのビルがどこなのかも判らず。
 何より、か弱い動物をいたぶるようによってたかって引き剥がされた衣服はボロ切れと化していて、身を纏う物が無い状態。
 嫌がれば嫌がるほどに、嗤いながら両足首の紐が両脇に引っ張られる。
 萎えた陰茎どころか、奥の奥まで晒されて、全身を羞恥に染め、俯いて唇を噛みしめ、堪えること視できなかった。


『よう、遅れてすまん』
 ただじろじろと視線を向けられるだけの時間に終止符を打ったのは、一人の男の声だった。
 今までいた男達より、長身で大柄な威圧感のある男だ。
『ひっ』
 それより何より、その男が近づいただけで、本能が激しい警告を鳴らし、酷い悪寒に震える。
 危険だ、と、近づくなと、勘が訴え、全身が総毛立つけれど、自由にならない身体では縮こまることしかできない。
 視線だけで人を射殺す事ができる男——という言葉を、小説か何かで読んだことがある。けれど、それは単なる比喩だと思っていた。
 だが。
 ここにいた。
『身体は綺麗だな』
 男の言葉は、他の男達と同様の内容なのに、より恐怖が増す。
 低く響く声音に混じる嘲笑のせいだけではなかった。
 がちがちと歯を鳴らして怯える篤彦を一瞥し、愉しそうに口角を歪めた男は、促すように篤彦を連れてきた男に視線を向ける。
『返済期限がかなり過ぎていますので、元金プラス利子でこれだけ。それに手数料を加えて、この値からどうです?』
 篤彦を連れてきた男が、集まったメンバーに金額を提示する。それは、篤彦が最初に聞いた元金の実に10倍近くになっていた。
『う、嘘だっ、そんなっ』
『黙れっ!!』
 抗議の声は一瞬にして、立ち消えた。
 一声だけで反抗心は消え、思わず上げた顔すら動かすことができない。
『黙って自分の競りの金額でも聞いてろ。高く買って貰えれば、それだけたっぷり精液を貰えるぜ……』
 とんでもないことを言ったあの男が、不意に腰をかがめて篤彦の顔をのぞき込んだ。
『こいつぁ……ほぉ、緑か』
 ニヤリと揶揄しながら、その手が篤彦の顎にかかる。
『面白い。だが、他はまあ普通か……。処女か?』
 他者から肯定の言葉が投げられて、男の笑みが深くなり、瞳が細くなった。
 捕食者の表情に逆らえない恐怖を感じてぞくりと震えた身体に、男が舐めるように視線を動かす。
「まあ、処女は処女で最初だけは高く売れるからなあ。がんばりゃ、早く返せるぜ」
 それは、篤彦の耳元だけで囁かれた言葉だ。
 けれど、信じられないとガクガクと震えながら首を振った篤彦に、男はくすりと笑みを零して。
 男が立ちあがると同時に、野菜でも扱うかのような競りが始まった。


 飛び交う数字を、耳を塞ぐこともできないままに聞いて、篤彦は鼻の奥が熱くなるのを止められなかった。
 何で俺が……。
 理不尽な状況に悔しさが込み上げ、唇をきつく噛みしめる。それでも止められない涙が頬を伝い、剥き出しの肌に落ちた。
 借金のカタというけれど、篤彦には覚えが無い物なのだ。
 連帯保証人ではなく、借用者としてのところにあったのは、確かに篤彦の名前と実印だった。
 金額は100万円ほどで、蓄えも多少はあったから、がんばればなんとかなる金額であった。
 けれど、返すどころか、借金をしたという記憶も無い篤彦に、いきなり目の前に期限切れの借用書を突き出されて、拉致されて。
 記憶を無くしたとか、うっかりしていたとか——そんなことで誤魔化すつもりはなど毛頭無く、まったく知らない物を出されて、頭が働く暇もなかった。
 しかも、今まで連絡も取り立ても何もなく、非常に短い返済期限はとっくに過ぎてから初めて篤彦の前に現れたものだった。
 借金の有無はともかく、明らかに違法な取り立て。
 どう考えても、金よりも別の何かが目的のそれ。
 名を語り契約した者も、それを受けた者も、督促をしなかった者達も、ここで競りをしている者達も。
 そのどれにも悪質な意図しか感じない。
 だから悔しくて。
 泣くことすら悔しいけれど、けれど、ポロポロと落ちる涙は止められない。
 いくら我慢しても喉の奥で鳴る音に、最後に現れた男が気付いて、ニヤリと笑みを浮かべる。
 その視線から逃れるように篤彦は深く俯いて。
 ……兄さん……。
 ただ一人の兄を思い浮かべて、ぎりりっと奥歯を噛みしめる。
 借用書を見せられた時。
 その日付を確認した時。
 そして、その筆跡を見た時。
 気付かないでままでいるには、その筆跡に心当たりが有りすぎて。
 それを見てしまえば、容易く推測できるほどに、篤彦の頭は回転が良かった。
 ——兄さん……。
 篤彦の筆跡と良く似たサインだが、一つ上の兄である達彦のそれは、いつも最後が擦れていた。篤彦より少しだけ筆圧が落ちるのが早くて、少し跳ね気味のそれ。
 親も気付かないけれど、二人の中でははっきりと区別がついていたそのサイン。
 何よりその借金した日付は、篤彦は20才の誕生日に両親からお祝いだとホテルのレストランに連れて行って貰った日で、そしてあの日、兄だけは同席しなかった。
 遅くなって帰宅した時、あの日もいつものように兄は自宅にいなかったことは覚えている。
 あの日もいつものように両親がブツブツと文句を言い合って、それが厭で帰ってすぐに自室に引きこもったことを覚えていたから。
 あの当時の兄——いや、今の達彦でも、彼は、篤彦を疎ましく思っているのは知っていた。
 高校の頃、教師が頭を抱えた成績優秀な問題児。それが兄で、両親も蛇蝎のように嫌っていた。
 篤彦自身は両親ほどでは無かったが、それでも、関わり合いになるとこっちに両親の嫌みな小言が振ってくるので、関わり合いにならないようにしていて。
 時折、じとっとにらまれていることがあったのは知っている。
 兄は、大学こそは有名どころで、両親も少しは安堵していたようだけど、進学しても夜中に繁華街を遊び歩き、ろくに学校に行っていない友人をたくさん持っていた。そのことが、何より高学歴、有名大学、有名企業大好きな両親には相容れることができなかったのだと知っている。
 いつしかそんな達彦と話をすることすら両親に厭われて、篤彦も素直にそれに従った。
 もうちょっと要領よやれば良いのに——と肩を竦めて、怒鳴られる兄を見やったこともあった。
 だからお祝いの席とはいえ、兄が呼ばれるはずもなく。
 篤彦だけが子供のように、あの日もさんざん両親に褒められて過ごした。
 明るい性格に、良い友達がたくさんいて。
 成績優秀で国立大学に現役合格した篤彦は、親の自慢の種だと褒められた。
 けれど。
 そんな褒めまくる両親の傍らで、篤彦自身も判っていたのだ。
 本当は兄も同じ場にいたかったことを。
 兄だって、最大限に努力して、成績を保とうとしていたことを。
 隣同士の部屋だから、隣室の様子はなんとなくは分かっていて。
 遅くまで起きて勉強する姿も、何度も見かけていて。
 ただ、両親から達彦に掛けられたプレッシャーは激しく、あのごくたまの夜遊びはストレス解消だっただけなのだ。
 それでも自ら火の粉を被るのが厭で、篤彦はそんな達彦と両親の間を放っておいた。
 仲を取り持つのも面倒だったから。
 どうでも良かったから。
 ——それでも……。
 これは……、こんな復讐は……ない……。



 そろそろ価格が決まりかけたのか、高額になった金額に、男達の沈思黙考の状態が続くようになってきた。
 互いに視線を交わし、互いの腹を探ろうとしているようで。
 そんな輪の中にいて、篤彦は眼下のコンクリの上の細かな砂を見つめて、ぎりりと泣き喚きそうになる己を必死で押さえつけていた。
 自分の競りの金額など聞きたくなくて、他に意識をやれば、兄のことばかりを考えてしまう。
 兄は、達彦自身が高校に入る前までは優しかったのだ。
 困っていることがあったらさりげなく助けてくれたし、面倒も見てくれた。
 けれど、長じて……気がつけば二人の間には距離ができていて。
 両親の対応がさらにそれに拍車をかけていて。
 けれど、それが原因だからといって、なんでこんなことをされなければならないのか。
 悔しい……。
 両親と不仲と言っても、もう大学生。
 しかも、学費も、食事もちゃんと出して貰っているのに。
 虐待されているわけでもなく……と、篤彦の頭の中に、「あの程度で」という言葉ばかりが繰り返される。
 ぐす。
 熱くなった鼻の奥から流れ出そうとするそれを啜り上げる。
 どうしてよりによって、こんな男達に借金してくれたのだろう?
 借金だって、あの金額なら、親に頼めばすぐに用意してくれるはずだ。
 両親は自己中心的なところがあると篤彦でも思うけれど、それでも、金の工面はしてくれる筈だ。
 だから、必死で親と連絡を——と願ったのに、それは聞き入れられることはなく、必然のように始まった競り。
 せめて足を閉じたくて、そろりと動かそうとして。
「逃げられねえよ」
「ぐっ」
 それ以上開かれたくなくて力を入れた足首に、紐が食い込み、痛みが走る。
 両脇の男が、手持ち無沙汰にくいくいと紐を引っ張るのだけど、すでに股関節が痛みを訴えるほどに開かれている。
 痛みと苦しさに潤んだ視界で男達を睨み付けたとたん、あの最後にきた男と視線があって。
 不意にその男が、指を右を一本、左を五本立てた。
 それっきり、しん、と場が鎮まり、ついで、ごくりと息を飲む音が響いた。
 終わった?
 思わず見上げた先で、篤彦が連れてきた男が、頬を引きつらせながら信じられない言葉を呟いた。
「……1億……5千?」
 ……おく?
 聞き慣れない単位に目を剥く。
 どうして?
 たとえ10倍になったといっても、それでも1000万程の金額だったはずなのに。
 億の単位からすると、やけに小さな金額に感じるそれを口の中で転がす。
「1000万だって……最初は100万で……。けど、1000万になってて……」
 それが1億——以上?
「文句はねぇだろ? この兄さん程度だったら十分だろうし? あんたらは、それで元も取れるだろう?」
 凍り付いた場に、ただ一人余裕綽々のその男が呟いた一言は、誰一人返す者はいなかった。

2

 1億5千万という大学生の篤彦にはまったく現実味の無い数字。
 いつの間にか課せられていた借金は、今では億の単位を持つまでになり、その返済方法として提示されたのは、男相手の売春行為だった。
 そういう行為が現実にあることは知っていたし、そういうのが好きな人も知っている。けれど、篤彦自身、そんなことが自分には決して起こりうるはずがないと思っていた。
 だが今、篤彦は名を奪われ、自由を奪われ、選択肢の無い仕事に就かされていた。
 凛としたインテリジェンスな若い男を責め苛みたい客が多いという。そのために、着込んだスーツ姿で客に接する。
 けれど、スーツ姿の男を、姫と呼ぶアンバランスさに、今はもう笑うしかない。
 だが、一見ビジネスマン風の高級なブラックスーツと革靴を剥ぎ取れば、肌着すら許されない淫らな裸体でしかない。
 スラックスだけ脱がされて下半身を露出させ、自慰を強要するのを好む客も多い。
 あるいはストリッパーよろしく自分で脱がされ情けを乞うか、薬を注がれて射精できぬままに衆目の前で踊らされるか。
 何をされるかは客次第で、客の言葉は絶対の、姫を閉じ込めた牢獄であるのが、この水晶宮という名の店だった。
 スーツに疎い篤彦でも高級だと判る肌触りの良い制服のスーツより、さらに高級ブランドのスーツを身に纏っている客ばかりの店。
 客の服を汚せば、借金のカタになるはずの一日分の稼ぎ以上が飛ぶ。
 そう脅されている姫達は、彼らの対応には十二分に気を遣っているのだが、ストレスのはけ口としてやってくる彼らは、ひどく加虐心が強い者が多かった。
 だからこそ、裏の店としてこんなところが作られたのだろうけれど。
 酷い客になると、姫が堪えられない状況まで追いつめて、わざと汚させて。それをネタに、さらに辱め、嬲り、犯し、姫が堪えきれずおかした失態を種に、さらに責め立てるのだ。
 そうなると、必死だ。
 許してください、と涙しながら縋り付く。
 命ぜられるままに、淫猥な自分を見せつける。
 犯して、と自ら強請り、客の加虐心を満足させ、許して貰えるまで、その身体を犠牲にする。
 ただの一日でも稼ぎが消えるのは痛いから、抗う心を自らねじ伏せて、客達に身を投げ出すのだ。
 たとえ、それで心にひびが入って血の涙が流れても、受け入れるしかない行為。
 篤彦も、数日でそれを知り、数週間で自我を抑えることを学び、快楽に身を任せることを知った。
 特に篤彦を好む客は加虐心が強い者が多いから、快感を拒絶していれば、痛みばかりが勝ってしまう。中途半端に反応する身体は、客達にしてみれば、良い玩具だ。子供がお気に入れの玩具を悪戯するように身体を遊び倒されては、身も心も保たなくなるとすぐに悟った。
 それを避けるために、まず身体が快感を素直に受け入れることを覚えた。そして心が追随する。
 だが、心の奥底はいつも荒れていた。
 こんな所で死んで堪るか。
 絶対に復讐してやる、と。
 恨みという強い感情は、疲れ果てて心が壊れそうになるたびに奥底から這い上がってきて篤彦の正気を繋ぎ止めた。
 きつい眼差しに、挑むような視線。
 客を見ているようで見ていない瞳は、捕らわれた野生動物のように逃げることだけを考えているのが、周りにもバレていた。
 面白がる客が、さらに手ひどい遊びに興じるばかりになってしまうほどに。
 それに気付かないほど、篤彦はただ恨むことだけを考えていて。
 一時、篤彦は確かに恨むことで壊れることを逃れていたけれど、それは、常ならば、姫としての危機でしかないものだった。


 けれど、緑姫は生き残っていた。
 恨みを忘れたわけでは無いけれど、この店で出会ったある姫のおかげで、篤彦は姫として生きるために必要なことを知ったから。
 だから、姫としてはもう保たないだろう、と言われていた時期を乗り切って、今も緑姫は、この店に存在していた。


 一日一日はいつも長いと感じている。
 だが、すでに一年が経つのだと、窓から見える景色に気付いた。
 春から初夏への彩りを零す新緑に、同じ色の瞳を伏せる。幸いにそれは、まだ綺麗だと言われるだけの色を保っているらしい。
 自分ではよく判らないけれど、客達がみなそういうから、そうなのだろう。
 物憂げに眉根を寄せる姿もまた格別、と好事家達の人気は高いから、普段はできるだけ表情を押し殺している。
 けれど今はまだ開店前で、誰も見ていない安堵感からか、篤彦は堪らずに嘆息を零した。
 水晶宮という名の高級会員制クラブ。
 セレブと呼ばれる選ばれた客が癒しと愉しみを求めてやってくる場所だが、篤彦に言わせれば高級娼館——やることはそこらのソープなど目では無い。
 なんで、ここまでやって警察が手を入れないのかと思うけれど、裏は篤彦の想像以上に根深く、この国の暗部に巣くっているようで。
 テレビや雑誌どこかで見たことのあるような、そんな国の中枢にいるような人物が、ここに来るのはステータスだとばかりに得意満面でやってくるのだから。
 そのステータスが上がるというこの店で供されるのは人だけど、実際には姫と呼ばれるモノと変わらない。
 逆らうことも、嫌がることも、許されず、ただ、望まれるままに男達の性欲のはけ口となるだけの存在であるモノ。
 ここでは客の精液は、姫にとり、金——ある意味金塊と一緒だ。
 この身に精液を受ければ受けるほどに、それだけ稼ぎは増え、借金が返せる。
 返す期限は無いけれど、客が付かなくなったり、稼げなくなれば、姫としての寿命がきたことになって。
 そんなふうにこの店から出された元姫の行き先は、二度とそこから這い上がれないと言われるほどの最深部——樽見の店に供されると、聞かされいた。
 実際に見たわけでは無い。
 けれど、一般向け会員制SMクラブだという樽見の店は、格安で提供されているが故に、稼ぎは少ない。
 ここでは一人あたり、一晩いくらの一日単位の歩合制で、その一晩が高い。多忙な客が数時間もかからずに帰ることも多く、客が帰れば休むことができるのだ。
 だが、樽見の店は、一人当たりは同じだが、一時間いくらという格安の歩合制。時間が過ぎれば次の客は来るし、一晩中働いてもこの水晶宮の一晩の価格よりも少ないのだ。
 それに、マナーも悪い客達が、何をしても店側は無視。
 そんな話を繰り返し聞かされて、恐怖に覚えない者はいない。
 しかも、いつも決まって締めくくられる言葉は。
『あの店は、こことは比較にならないほど劣悪で、すでに何人も死んでいる。あそこで這い上がるには、人の心は役に立たない。客を喜ばせるかだけの身体があれば良い。だが、あの店から這い上がれたものの話も、この店で戻ってきた話も聞いたことがない』
 と。
 だから、姫として生きることに必死になる。
 この水晶宮で生き残るためだけに。


 一時期、恨みを糧にしていた篤彦の荒んだ姿は、今は無い。
 それは、ここに来てから二ヶ月を過ぎる頃からで、今の篤彦は前とは変わっていった。
 姫がこの店に馴染むかどうかの判断がされる三ヶ月目、篤彦は姫として金払いの良い良質の常連客を得るほどになっていた。
 もともとが良い姿形の持ち主だ。それに教養と礼節が加われば、物腰の柔らかい青年ができあがる。
 まして、感度が良く、軽い鞭やロウソクも受け入れられる淫猥な身体とくれば、客達の覚えもめでたい。
 そんな篤彦が、癒しの間に現れれば、すぐに客が付いた。
 そのどの客に対しても、緑姫となった時の篤彦は手を抜かない。
 客が満足するのが早ければ、それだけ自身も楽だと悟ってからは、客に合わせて自分の反応を変える術すら手に入れていた。
 もとより、頭の回転は速いし、記憶力も良い。
 そのうちにどの客が何を欲してきているのか、雰囲気だけで悟ることすらできるようになって、ますます篤彦はランクの高い姫となった。
 だが、そんな篤彦は、最近店に出る時にいつも思うことがある。
 ——今日は来てくれるだろうか?
 最近訪れない客の姿が脳裏に浮かんで、口元が寂しげに歪んだ。
 できれば、一人にだけ買われたい。あの人にだけ、買われたい。
 そう思い始めたのはいつからだったろう。
 気が付けば、彼がいるか毎回ロビー兼客の待合になっている癒やしの間を探すように見渡すようになっていた。
 見つけたら、口元に笑みが浮かぶことが止められない。そんな自分に気が付いて、慌てて頬を引き締めることもよくあった。
 彼相手なら、打算も何もなくて悦んで貰いたいと思ってしまうくらいに。
 けれど、忙しい彼が毎夜来ることはあり得ない。
 ——他の客なんかどうでも良いのに……。
 客は緑姫を見つけたら我先にと指名を取り付けようとする。
 緑姫は、どんな遊びでも楽しませてくれると評判だからだ。
 その痛みを快感に変えてしまう因果な体質は、初めて店に出た時に広くお披露目してしまったから、隠しようもないことは諦めている。だいたい、こんな身体だからこそ、彼が気に入ってくれているのなら、儲けものだとすら思ってしまう。
 その初めての客が彼だったのだ。
 ——もう一年前……になるのか。
 光の当たる世界が懐かしいと感じるほどに、ずいぶんと過去のような気がする。
 この店に連れてこられて、新しい名前と役目を与えられて。
 拒否して暴れる篤彦に、店長だという若いくせに妙に威圧感のある男が条件を出したあの日。
『癒しの間で今日一日上手に接待をこなせたら、癒しの間専属にして上げよう』
 癒やしの間は、遊びに来た客が姫を選んだり、待ったり、歓談するなどしてくつろぐ場所で、ここでは通常酒やつまみを提供するだけだ。
 姫のお披露目があるときだけ、淫猥な遊戯が行われることもあるけれど、普段は和やかな場で。
 癒やしの間の担当であれば、客に身体を拓く必要は無いのだと聞かされて。
 その意味を理解して即座に頷いた緑姫に、店長は嗤っていた。
 その嘲笑の意味が判ったのは、すぐのことだ。
 王侯貴族が集う城のサロンを摸した上流階級の紳士を迎えるそこでは、いわゆる庶民でしかない篤彦の所作など通用するはずもなくて。
 もともと接客業など経験が無いから、どうやって求められる酒を出せば良いのかすら判らない。
 そのうち店に現れたやけに冷気を漂わせる美しい男に睨まれて、それが雲上人であるオーナーの右腕だと言われて。
 店長とともに、この癒やしの間の専属になっている氷の美姫と呼ばれた彼ににらまれれば終わりだと、よけいな緊張感は体を硬くし、指先は震えるばかり。
『あのお客様がお呼びです。お相手をしなさい』
 言われてソファに座っていた男に近づく時には、手足がぎくしゃくとしか動かない。
 その客は、他の客よりはまだ若く見えた。
 けれど、緑姫をとらえた瞳に隠された牙を感じて、身体が震える。
 薄い唇が、僅かに弧を描く。
 そりだけで、ぞくりと、得も言われぬ悪寒に全身が小刻みに震えて、動けない。
「とりあえず……」
 示された名前が何か判らない。
 頭も働かないから、機転も利かない。
 指さされて、慌てて伸ばした指先が、彼の飲みさしのグラスに触れた。
 響く硬質な音と、流れ落ちる音が、どこか遠くに聞こえて。
 褐色の透明な液体が、客の白いシャツの袖口を汚していく。
「なっていないね」
 睨みと凄みにびくりと震えて怯えを見せた篤彦に、「緑姫、ね」と彼は名の由来となった瞳を覗き込んできた。
「緑色は好きだよ。爽やかで、優しい感じがする」
 優しい声音だった。けれど、その瞳の威圧されるほどの強さに、身を竦み、謝罪の言葉一つ出てこない。
「でもね」
 頬に触れる指先が、まつげに触れる。
「爽やかすぎる色は、汚したくなるんだよね。——輝姫(てるひめ)、この子にお仕置きをしても良いかい?」
 付き添っていた姫の監視役である輝姫(てるひめ)に薄く嗤いかけた。
 輝姫がその言葉に逆らうはずもない。
 背筋に悪寒が走って、膝が嗤う。
 震える体は呆気なく引っ張られて、遊び場所である宴の間と呼ばれる大広間の中の螺旋階段の下に繋がれて、スーツをむしりとられた。
 僅か一時間しか身に纏うことの無かったそれが、足下で無様に広がって、無様な裸体を晒して。
「初めてなんだってね。ラッキーだなあ、私は、初物が大好きなんだよ」
「ひ、いあっ!」
 初めてだった体は指一本すら受け入れる事を拒否した。
 強ばり、解れることのない身体は、けれど、執拗に弄られて徐々に拓いていく。
「受け入れなさい。でないと、後が辛いよ」
 言葉は優しい。
 だが、その剛直が体を割った時に感じたのは目の前が赤く染まるほどの痛みだけだった。
 常ならば、初めての姫は癒やしの間で、客にお披露目してから、自慰を見せて覚えて貰うという手順を踏むらしいけれど。
 イレギュラーなお披露目をした緑姫に、そんな生やさしい行為はどこかに飛んでいって。
 いきなりの剛直に、その身体が征服される。
 激しい痛みに喉が枯れるほどに嫌だと叫び、涙を散らしても、止めてなどくれない。
 口を塞がれ、言葉を失い、獣のような唸り声が室内に響く。その頃には、悲鳴を聞きつけてやってきた他の客達の視線に晒されながら、初めての行為を観察されていて。
 視線がまとわりつく。
 意識を逸らしたのに、耳に囁かれる卑猥な言葉に、よけいに意識してしまう。
 垂れた陰茎がブラブラと揺れ、乳首を摘ままれ、卑猥に尻を揺すられて。
 音が、言葉が、触れる身体の熱さが。
「あ、やっ、ぁぁっ!! っ?」
 不意に。
 狂いそうな痛みの中に、ぽつりと炎が灯った。
 体内奥深くからちろちろと炎の舌を伸ばす疼く熱塊が生まれていた。
 痛いのに。
 皆が嗤うほどに、淫らに腰が揺れていた。
「良い子だ。ほら、今の君はとても綺麗だよ。緑が揺いで萌えている」
 綺麗だよ、と耳元で囁きながら、身体のあちこちに鋭い痛みを施されて。
 けれど、それは針の先で突かれているようなもどかしさをももたらして、篤彦は知らず歓喜の声とともに、その緑の双眸から涙を流していた。
 苦しくて。
 痛くて。
 なのに、もっと欲しくて。
 痛みに混じる快感が意識を混濁させ、気が付かぬ間に許しを乞い、強請る。
 初めて受け入れた場所で感じて、貫かれるままに精液を先端から吐き出してしまい、それを嗤われて。
 耳元で揶揄されるその意味すら判らないままに、また、強請った。
 もう壊れた、と他の客は皆思ったらしい。
 けれど、篤彦の心は壊れてはいなかった。
 自分の精液を肌に塗りつけられ、その淫猥な色に見物客も競うように自分たちのモノも浴びせる様子を、はるかな高みで見下ろしていた。
 これが自分。
 あの淫乱な身体が自分のもの。
 けれど、何も感じなくなった瞬間、消えず残っていた小さな塊が理性という圧力を失って息を吹き返す。
 兄が憎い。
 自分をここに放り込んだ兄が。
 あの兄に同じ思いをさせるまでは……。
 それは、その初めての時に限らず、この後もずっと壊れかける寸前で自覚する強い感情だった。
 澱んだ緑の瞳の奥で、ちろちろと揺れる黒い炎。
 それが浮かぶ瞳を覗き込んで、篤彦をいたぶっていた客が嗤った。
「良い色だ。気に入ったよ」
 流れる白濁を身に纏う篤彦を鎖に絡めたまま、彼は傍らのソファにその身体を投げ出した。
 愉しそうに、朦朧としている篤彦を観賞して。
「流れる滴が浜辺で纏わりつく白波のようだね」
 白波(しらなみ)の緑姫。
 その時には聞こえなかった二つ名は、その卓夫という客に受け入れられた証拠だということを、篤彦は後から教えられた。


3

 最初の客であった卓夫は、緊縛と鞭と、衆人環境で晒して辱めることを特に好んだ。
「ここでは、皆がそのために来ているから、あんまりその点では愉しくないんだよね」
 きっぱりと言い切られて、何のことかと思ったけれど。
 続いた言葉に、絶句した。
「太いバイブを抜けないように埋め込んで、人の多い街中を引きずり回したいね。服はそう……タンクトップに、ジーンズかな。長い鎖を首からかけて、シャツの中に垂らして……その先は乳首のピアスに繋いで……。ああ、そのまま電車にも乗せて……」
 想像するだけでも遠慮したい程の羞恥心を煽る責め苦に、肌は赤くなり、ついで青くなった。
 卓夫なら本気でやりそうだったから、この時ばかりは、自分がここから出られないことに安堵した。
 だがそれ以外は、それほど卓夫は酷くない。
 そんなことを、他の客を経験して知ることになった。
 特に卓夫が与える鞭は、叩かれると音と痛みは激しいが、肌に酷い痕は残らない。
 他の客の鞭は、何度も叩かれると肌に傷が入るほどなのだ。
 その痛みは、快感すら凌駕することがある。もっともそんな鞭でも勃起してしまう身体は、結局は嬲られて達ってしまうのだ。だから、客は止めてくれない。
 卓夫も同じだ。
 けれど、卓夫のそれは、他の客よりも快感に結びつきやすい。
 鞭打たれるたびに走るのは確かに痛みなのに、その悲鳴は甘く、揺らぐ肢体は知らず男を誘うように動く。
 痛くて、辛いのに、もっと激しい痛みが欲しくて堪らなくなる。
「卓夫さまぁ」
 焦れったいと鞭を強請るほどに、巧みに快感を引き出され、背を赤い筋だらけにしてしまう。
 他の客に与えられた紫に染まった肌に、食い込む線。
 他の場所よりひどく痛むそこに鞭打たれ、啼きながら達ったこともあった。
 それに、行為が終われば、憑きものが落ちたかのように優しくなるのも、卓夫だった。
 同じ触れられ方をしても、卓夫の方がより身体が熱くなる。
 良い子だ——と、揶揄される事が、嬉しいと感じてしまう。
 客に抱く感情とは別物を、卓夫相手にはいつも感じていた。
 その頃篤彦は同時期に入った砂姫(すなひめ)という青年と仲良くなっていた。
 仕事が終わるといつも激しい怠さを感じて、ふらふらしながら自室に帰る途中に良く会ったのだ。
 もとより部屋が近かったせいもある。
 他の姫達ともたまに会うが、皆あまり互いに話をしたりしない。
 ここでは、良い客をどれだれたくさん得るかが勝負なのだ。だからどうしても警戒し合い、一線を引いたようになる。その中で、何人かが仲良くなって話をしている、程度だ。
 砂姫は、そんな中でもよく話をしている方だった。
 具合の悪そうな姫に薬を出したり、他愛も無い話をしていたり。時々、性技の術などを真剣な顔で話をしていたりする。
 そんな人懐こさを現す砂姫に、最初は警戒していた姫達も徐々に心を開いていった。
 篤彦がちょうど恨みだけで生きながらえている頃だ。
 だから、話しかけられても、最初は邪険に扱っていたのだけど。
 何をしても、丁寧に対応する砂姫に、生来の質が悪いものではない篤彦の方が折れたのが事実。
 そのうちに、彼が話してくれるいろいろな術がとても役に立つのだと気が付いて。いつしか、同じ頃に入ったということもあって、一緒に食事をする仲になった。
 彼は、何でも知っていた。
 ここの姫には珍しく、最初に調教係がつきっきりで教育した賜のようだ。
 それを、彼は惜しげもなく判りやすく説明してくれた。 
 そして、客に対する礼儀作法も。
 プライドが高い理不尽な相手は、丁寧に頭を下げることが大切なのだと、実地で教えてくれた。
 砂姫自身、彼に課せられた躾によって本当のところはふらふらだったはずなのに。
 彼を救えるたった一人の人を、いつも待っていたのに。
 乞われると惜しげもなくその力を貸してくれた砂姫。
 そんな彼は、半年前命の危機に瀕し、それから数ヶ月後、ここから出て行った。
 契約違反を犯して砂姫の命を危機に晒した客の賠償金が、彼の借金に充てられたのだ。
 一体いくらの賠償金だったのか、今でも憶測が飛んでいる。
 けれど、この店のオーナーの片腕である友貴が砂姫の恋人だったから、ものすごく高く吹っかけたのだろう事は容易に想像できた。
 砂姫は優しかった。
 だから、不運でさえも幸運になったのだと、そう思った。


 自分の解放はいつになるのだろう……。
 最初の借金の金額ならとっくの昔に払い終えていたはずだ。だが、あの男に買われた時から、金銭の感覚がつかめない。自分が一体一晩いくら稼いでいるのか、後どのくらいなのか。五年は最低かかるか……と言われたことが真実なのかどうかも判らない。
 後どのくらい、と最初はいつも考えていたことも、今では計算しなくなっていた。こんなふうにふと思い出すことはあるが、それよりも気になるのは、卓夫がいつ来てくれるか、ということだ。
 前に卓夫様だったのは、いつだったろう……。
 記憶力の良い篤彦だったが、ここでは日時の感覚が曖昧だ。まして、過ぎる日々を数えるのは男に犯された回数を数えるのと同じ事。だから、気にしないようにしていた。
 そんな曖昧な日々を、それでも篤彦は一日ずつ辿っていった。
 一ヶ月……。
 数えて、辿り着いた期間に、眉根が寄る。
 もう、飽きたのかな……。
 ここに来る客は皆多忙で、時間が合わないことも多い。
 それに、姫は一晩同じ客に買われるから、高額の予約金を払わない限り最初に望まれた客のものになる。そうなれば、もう卓夫とは会うことは無かった。
 だから、卓夫が来ていたのか、それとも来なかったのか、篤彦には判らない。
 どこかの財閥系の直系で、いくつか会社を任されていると言っていた。
 海外出張も多いらしく、英語も堪能。
 忙しくて——と苦笑しながら情事の後も英字新聞を読んでいたのは、珍しく朝までここに過ごしていた時だ。その姿は確かに若くても風格があって、なんだか眩しく感じながら見つめてしまう。
 その視線を感じたのか卓夫が顔を上げた。
「何?」
 と問われるその優しい声音に、何故か顔が熱くなって、慌てて首を振った。
「えっと……、あ、その新聞、経済関係のですよね?」
 その言葉に卓夫が目を瞠った。
 手にした英字新聞と篤彦を交互に見やる。
「英語、読めるのかい?」
「はい」
 同僚の砂姫のお陰で言葉遣いを学び、所作も直したから、不興を買うようなお喋りはしないし、必要最低限しか話さない。今も意識して言葉少なく頷く——と。
「じゃあ、訳してみて」
 そのまま渡された記事の一つを指さされた。
 それを目で追って、日本語に訳す。
 どこかの経営者のコメント、新製品情報に、株価の動き。
 示されるままに訳して読み上げると、「へえ……」と考え込まれてしまった。
 子供の頃に亡くなった祖母がイギリス人だったせいか母が英語に堪能だったせいで、篤彦は英話は得意だった。それに加えて、母の友人のネイティブの女性のお陰で、発音も綺麗だとお墨付きを貰ったこともある。
 それでも、ここにいる間英語に触れることなど無かったので、一抹の不安はあった。
 だが、不安げに見つめる先で卓夫の口元が綻んだ。
「凄いね。訳も時間も正確さも、それに発音も綺麗だ。今まで日本語以外は聞いたことがなかったから、びっくりしたよ。血は混じっているのだろうけれど、育ちは生粋の日本人だろうって思っていたけど」
「あ、ありがとうございます……」
 褒められたら必ず礼を。
 それも砂姫に教えて貰った。
 最初はなかなか慣れなかったそれも、不承不承でも口にするようになっていたら、本当に嬉しい時にはするりと口をついて出てくるようになった。
 ここに来る前は、何かして貰って有り難いとは思っても、礼など簡単にしか口にしなかった。してくれて、当たり前、だと思っていた。
 だけど、ここでは違う。
 嬉しいと思えるようなことをして貰える方が珍しい。褒められるのだって、性的なことで揶揄混じりのことが多い。
 だから、こんなふうに自分のことで褒められると嬉しい。嬉しくて、慣れた口調ですらりと出た言葉は、本心からのものだ。
 頬が緩み、目を細めて。
 嬉しさを滲ませた礼の言葉に、卓夫は僅かに目を瞠る。
 その瞳がすぐに優しく笑みを浮かべ、そっと身体を抱き締められた。
 背に打たれた鞭の痕が痛い。
 だが、触れられる優しさに、心が体内から快感を呼び起こす。
「卓夫様……」
 優しい愛撫だった。
 ひとしきりいたぶった後のせいだろうか。
 満足していた卓夫は、ただひたすら篤彦を可愛がった。
 それは、達きすぎて辛いほどの行為ではあったけれど。
 決して止めたいとは思わなかった。
 その日から、卓夫に求められることが嫌いではなくなったと思っている。
 それに、その日から卓夫が毎回何かの本を持ってきてくれるようになった。
 本は、取り寄せれば手に入ったけれど、男に嬲られる毎日では、読む気など起きなかった。
 卓夫の持ってきた本は、経済や社会、経営の類の半分以上が英語で書かれた物だった。大学で経営学を学んでいたが、それでも難しい。だが、次に来た時に感想を聞くよ、と言われては読まない訳にはいかない。
 卓夫の期待を裏切りたくなかった。
 褒められたいし、質問にはきちんと答えたい。
 向学心ではなく、ただ卓夫への思いだけで何度も読み返す。
 隅から隅まで、理解できるようになるまで何度も読んだ。
 いつ来るか判らない卓夫に呆れられないために、と忘れる事も許されない。
 そのうち、どの大学で何という教授の下で学んでいたかを卓夫に話したせいか、さらに持ってくる本の専門色が濃くなった。
 難しいけれど、判らなければ教えて貰えた。
 それに、基礎ができている篤彦は、理解するきっかけがあれば、真綿のようにそれを吸収した。
 その事を褒めてくれる。
 鞭打たれた肌に塗り込まれる薬の気持ちよさに浸りながら、新しく持ってきてくれた本を開く。
 ふっと立場が逆だと慌てて起きあがろうとしたら、笑って肩を押された。
 ほんとうにこんな店に来ることが不思議なほどに優しい人で。
 そんな穏やかな会話の中で、ふとしたことから、篤彦がここに来る原因となった借金の話になった。
 それは、キャッシュフローの話の流れから、なんとなく、という感じだったけれど。
「そんなに嫌いなのに、なんで借金なんかしたんだい?」
「私がした訳ではないんです……」
 問われるままにここに来た経緯を寝物語のように語る。
「兄が許せない。でも……その前にここから出なければ何も始まらないんですよね」
 自嘲して、口を閉ざした篤彦に、卓夫は何も言わなかった。
 ただ、傍らにあった本を手にとって、しばらくそれをじっと見つめる。
「卓夫様?」
 何も言われない不安が滲んだ声音だった。
 それに気付いて慌てて口を閉じたのと、卓夫がくすりと笑ったのが同時だ。
 そのまま始まった第二ラウンドは、いつも以上にしつこい愛撫に翻弄され、意識も何もかもとろとろに融けさせられた。

4

 あれから数度は来訪があった。
 だが、現場の力を生かす経営……の英文で書かれた本を受け取って以来、卓夫は来ていない。
 いつ来てくれるのだろうか?
 それとも自分に飽きて、他の姫を選んでいるのだろうか?
 本来卓夫は初物好きだ。もう一年も相手にしている篤彦を飽きてきても不思議ではない。
 今向かっている癒しの間に卓夫がいなければ、すぐに他の客に目を付けられてしまうだろう。拒否権のない姫に、それを逃れる術は無い。
 そうなれば、また会えない……。
 今まで卓夫はわざわざ予約など入れたことが無かったから、本当に扉を開けて指名がかかるその瞬間までしか待てないのだ。
 ——卓夫様。
 来ていないかも、と思うと向かう歩みが遅くなる。
 はああっと、知らずため息をつま先に落とした時だった。
「ああ、緑姫」
 突然掛けられた抑揚の少ない呼びかけに、篤彦はびくりと足を止め、顔を上げて振り返った。
 その動きに、絹糸のように細い茶色の髪がふわりとたなびく。ここに来た時からしっかりと手入れされた髪は、染めていた頃より髪質が良くなり、地の色が綺麗に輝いた。
 その手入れの仕方を教えてくれたのが、今篤彦を呼び止めた輝姫だった。
 きつい、冷たい、厳しい監視役。
 最初緑姫に冷たく自己紹介した輝姫は、確かに怖い存在だった。何かミスをして客から訴えられると、輝姫は決して誤魔化すことなく店にそれを伝える。
 それは、すぐに姫の借金に跳ね返ってきた。
 一晩働くより増えるほどの違約金を、自分たちは何よりも恐れたから、輝姫が怖くて堪らなかった。
 だがこの人の厳しい言葉は、誰よりも姫のためになるのだと、砂姫に教えて貰ってから見る目が違ってきた。
 実際、身を纏う物、客への媚び方、拒絶の仕方。
 その丁寧な仕草を見ている内に、篤彦自身も自分が鍛え上げられるのを感じた。
 それに問えば、無表情ながらも親切に教えてくれる。
 それでも、緊張するのは否めない。自分より頭一つ低い顔に瞳を向けながら、ごくりと息を飲む。
 返された視線からは感情が読めない。だから、怖い。
「何でしょうか?」
 苦手だった言葉遣いも板に付き、立ち居振る舞いも客に褒められるほどにまでなってきた。粗相をすることなどまず無い。輝姫に指摘されるような事は思いつかなく、けれど、些細なあれやこれやが頭を過ぎり、緊張に背筋はピンと伸びる。
「本日、卓夫様がお見えになるまで、緑晶(りょくしょう)の間にいなさい」
「え……? それって予約? ……じゃ、卓夫様違いってことかよ、ちっ」
 未だかつて予約を入れたことのない卓夫だから、卓夫違いないのだと、頭が勝手に理解して。
 なんだかムシャクシャして、悪態混じりの言葉を呟く。
 途端に、輝姫の視線がきつくなる。
 ぞくりと粟立つ背筋は、客を怒らせた時とは別のものだ。
「あ……申し訳、ありません」
 慌てて頭を下げる。
 そんな緑姫に、輝姫がふうっと嘆息を漏らす。だが、すぐにその表情に珍しい笑みが浮かんだ。
 思わず目を瞠るほど、珍しいそれ。
「あなたを予約する卓夫様は一人しかいません」
「え?」
「もとより、この店に来る卓夫様は一人きりです」
 くすりと吐息で笑い、そんなことを言う輝姫は何故か愉しそうだ。
 そんな輝姫を見ることなど始めてて、緑姫は唖然と目を瞠った。
「何? 何かずいぶんと愉しそうなんだけどさ」
「……あなたが変なことを言うからですよ」
「だってさ……」
 いつもと違う輝姫に、緑姫も呆気にとられて言葉遣いが簡単に崩れてしまう。けれど、輝姫は今度はそれを咎めなかった。
 代わりに、今度は苦笑を浮かべて、緑姫を見上げてくる。
「それがあなたの地なのにね。ずいぶんとがんばっていますね」
 なおかつ褒められて。
「あ、ありがとうございます……」
 礼の言葉は半ば無意識のうちに出ていた。
「砂姫のお陰ですね。砂姫がいなければ、あなたは早々にここから出ていたでしょうから」
 ここから出て——それは良くない意味での言葉だ。その自覚はあったから、緑姫は頷くことしかできなかった。
「あ、それは……俺……、いや、私もそう思います」
 優しい人だった。
 四ヶ月前、借金が返済されてここから出て行った砂姫。
 緑姫よりさらに厳しい目にあったけれど、その甲斐あって早々にここからでていくことができた時には、なんだか自分のことのように嬉しかった。
 あの人はこんなところにいるような人ではないのだ。
 自分とたいして違わない年なのに父親の会社を手伝ったせいか、人付き合いの大切さを良く知っていて、いろんな事を教えて貰った。何しろここに来るのはそれ相応の権力者だ。礼節を重んじない人間は嫌われるだけなのて、その知識は重要だった。
「砂姫は幸せかなあ……」
 疑問系で呟いて、けれど、幸せなのは間違いないと信じている。
「まあさ、あの氷の美姫が砂姫を見てた時だけは全然違う目をするから、大丈夫だとは思ってんだけどね。あんなふうに愛されてるのって、砂姫には向いていると思うよ」
 怖さにかけては、輝姫を上回る氷の美姫。
 けれど、砂姫が入院した後からは、砂姫といる時だけは、怖いと言うより可愛いとすら思えた。
「ま、羨ましいって気持ちも無くは無いけどな」
 好きでも無い行為を強要される場所から、先に出て行けたことに。
 借金から解放されたことに。
 もっとも、砂姫だからまあいいか、と思えたのも事実だけど。
 それだけの物を、緑姫は彼からは貰っていた。
「砂姫のお陰だし。俺がここに居残れたのは」
 それだけで十分だ。
 あと幾ら借金が残っているか良く判らないけど。
「俺も、頑張るよ。ここから落ちる事なく、出て行くことが今の夢だからさ」
 できれば、その間ずっと卓夫にだけ買って貰えたら……。
 それは無理かと、胸の中で呟いて、視線を落とす。
「自分を……失わなければ、それは叶う夢ですよ」
 床を虚ろに彷徨う視線を、その言葉が引き上げた。
 優しさを瞳に浮かべた輝姫は、穏やかな表情がとてもよく似合った。普段から、そんな表情をすれば、きっと他の姫達にももっと好かれるだろうに。
「あんたは……失わなかったわけ?」
 返済しきった後も、ここに居残る輝姫。それは彼が望んだ夢だったのだろうか?
「ええ」
 浮かんだ疑問は、きっぱりとした頷きで返された。
「私の夢は、あの方と共にいること。そのために、今の立場が最適な場なのです。だからここから出て行くことはありません」
 はっきりと言い切り、ふわりと微笑む
 その笑みは、氷の美姫に連れられて出て行った砂姫と同じ物。
「あの方は、私とはここ以外では会うことはできません。私がここを出て行くことは自由だと言われていますが、そうなるとあの方と一生別れることになります。だから、私はここを出て行きません。私がここを出て行く時は、あの方に完全に飽きられた時だけです。もっとも、そんなことになったら、私にはもう生きていく価値などないんです」
「え……」
 どこか悲壮な──けれど固い決意を感じる言葉に、篤彦は息を飲んだ。
 同時に、卓夫に飽きられて、冷たくされる自身の姿が脳裏に浮かんで、胸の奥に鋭い痛みが生まれる。
 卓夫様に飽きられてしまったら……。
 なぜかそう思ってしまったことが凄く辛かった。
 兄に嵌められた時よりももっと辛かった。
「なんて顔をしているんです?」
 気付けば床に落ちて、つま先しか入っていなかった視界に、細い指先が入ってきた。
 相手を傷つけないようにきれいに手入れされた爪は、肌に触れても痛くない。
 導かれるままに顎を上げれば、輝姫のいつもと変わらぬ表情が見えた。
「夢は人それぞれですよ。その夢を叶えることで自分が幸せになるものであれば特にね。そういう時には、他人の幸せよりも、自分の幸せがなんであるか、間違えないようにすることが一番大事です。そして自分が決めたことには決していつまでも悔やまないことも大事ですね。悔やむばかりでは、新しい道は見いだせませんから」
 それは酷く重みを持って篤彦の脳に届いた。
 自分の夢は、ここから出ること。
 けれど、それが幸せかと言えば、違うかも知れない。
 今の自分が外の世界に出て、何をするというのだろう? 大学はもう一年も行っていない。家族はどうしているのか? 何より、自分をここに放り込んだ兄は、戻ってきた篤彦を見て、どうするだろう?
 最近兄の事を思い出すと、何故か昔の優しかった頃の兄の姿を思い出す。
 あれだけ恨んでいたのに、会いたいとすら思う優しい兄。
 今は会って、ただ聞きたい。どうして篤彦の名で借金なんかしたのか、その真意だけが知りたい。
 だが、そうなれば卓夫と会う機会が無くなる、と考えた途端に、胸が軋んだ。
 この店を出れば、全く接点が無くなる。
 ここを出ることは喜びだけど、卓夫様とは会えなくなるんだ……。
「そろそろ、開店ですね」
 不意に輝姫の言葉が、暗い思考を断ち切った。
 視線が動いた輝姫のそれを追いかけて、古風な時計が、廊下の片隅で時刻を知らせるのを見つめる。
 もう控えていた姫達も順次癒しの間に出ていく時間で、常ならば篤彦も緑姫として行かなければならない。
 けれど、今日は緑晶の間で待機だ。
 控えの間へと急ぐ輝姫に軽く頭を下げて、篤彦は踵を返した。


5

 卓夫が緑姫と一緒に予約を入れた部屋は、水晶宮でもごく普通の部屋だった。
 スイートルームのような感じだが、品の良い調度は緑姫が見ても判るほどに高級な物で、落ち着いた雰囲気を保っていた。
 けれど、緑姫は落ち着かなく辺りを見渡す。
 いつもはもっと、激しいプレイに適した部屋だった。
 天井や壁に鎖を掛けるフックがあったり、床が汚れを流しやすいようにタイルであったり。
 ビニールシートでないソファのカバーの手触りの良さにすら、落ち着かない。
 それに予約をいれてもらったのも初めてで。
 何かが違うと感じながら、その何かが判らないことに焦れる。
 それに、卓夫が何時にここに来るのかは輝姫も知らなくて、いつまで待てばいいのか判らない。
 手持ち無沙汰に立ち上がり、調度を一つ一つ確かめて。
 浴室を除いて、壁の一枚にあった鏡に気付く。ごく普通の鏡だ。
 だが、卓夫ならば浴室であろうとやることは一緒。
「あっ……」
 思わず顔の下半分を手のひらで覆い、逃げるように浴室から出た。
 ふらりとよろけて、ベッドに腰を落とした緑姫の肌は、今や柔らかな朱色に染まっている。
 卓夫とともにいる時は、篤彦は衣服を纏うことは許されず、全てを晒す必要がある。そして、望まれるままに身を拓く。
 だが、今は先に部屋に入っている状態だ。
 こういう場合、どうすれば良いのだろう?
 先ほどの浴室の鏡に映った自分は、スーツを身に纏ったままだった。
 それを卓夫の手が剥がしていくのが常だった。
 けれど、まだ卓夫はいない。
 こういう場合、やはり裸になって待つべきなのか? それとも着たままでよいのか?
 卓夫が自分で脱がしたいタイプなら脱いでいれば怒られるだろう。
 鏡の前で、一枚一枚、身体をまさぐられながら剥がされていく時も有れば、じっと見られながら自分で脱いでいくこともある。
 今日はどちらだろう?
 どちらの行為も、脳内にその情景を思い浮かべた途端に、身体が熱くなり、下腹部に甘い疼きが湧き起こった。
 その疼きに顔を顰め、頭を振る。
 何、やってんだか……。
 他の客を待つ時には、こんな思いにはならない。
 初めてであれば、指示が有るまで待つだけのこと。
 なのに、今篤彦は卓夫に怒られたくなかった。褒めて貰いたかった。
 気に入られたくて、望まれるようにしたくて。
 どうして良いままに、疼く身体を持てあまして服の上から身体を掻き抱く。
 それだけで、肌の熱はさらに増していく。
「はあああ」
 深いため息を零して、落ち着かない体を持て余しながらベッドの端に腰を落とした。
 と同時だった。
 軽快な音と共に扉が開く。
 跳ねるように腰を上げた篤彦の瞳に、卓夫の姿が入った途端、たとえようもない程の安堵感に襲われた。
 がくりと力が抜けて、へたり込みそうになったのを必死になって堪える。
 会えて嬉しいけれど、無様な姿を晒したくない、というなけなしのプライドのおかげだ。
 それなのに、安堵感が勝手に口を動かした。
「た、くお様……」
「久しぶりだな」
 ネクタイにスーツ姿の卓夫はベッド横の篤彦に目もくれず、ささやかな応接セットに脱いだ上着を放り投げた。
 その軽い音に、卓夫がソファに腰を降ろす重い音が重なる。
 息苦しいとばかりに、首を締めているネクタイに指をかけて引っ張っていた。
 疲れているのだろうか。
 いつものスマートな動きな中にかいま見える物憂げな動きに、篤彦の眉間に小さなしわが寄る。
「ブランデーを」
 言い付ける卓夫の伏せた瞳が篤彦を見ることはない。
 それが寂しい。
 いつもなら篤彦の一挙手一投足を見て、小さな失敗を見つけてはお仕置きのネタにするのに。
 それが嫌だったのはいつまでだったろう。今はそうやって見て貰えることが嬉しかったのに、その視線が無い。
 ──俺を見て。
 手を動かしながらそっと卓夫を窺うが、何かを考えているのか物憂げに空を見つめていた。
 その視界に入りたい。
 疼く胸に込み上げる衝動を必死に押さえ付けながら、篤彦は用意したブランデーを卓夫の横から差し出した。
「どうぞ」
 ことりと置かれたグラスに、卓夫の視線が動く。
「ああ」
 手が伸びて、グラスに卓夫の指が絡まる。
 癒しの間であればごく普通の動きだ。
 けれどここは宴の間の一室。その紳士然とした姿をかなぐり捨てて、獣になる場所だ。
 常ならば、もうベッドに押し倒されいるか、淫猥な遊戯が始まっているか、のはずなのに。
 傍らに片膝をついて控える篤彦が視界に入っていない様子だった。
 ──卓夫様……。
 声をかけたい。
 声をかけて欲しい。
 けれど……。
 今、卓夫は何か考えている。それを、邪魔することはできなかった。
 
 
「おいで」
 どのくらいの時間が経った時だろう。
 不意に声をかけられて、すぐには動けなかった。
「緑(りょく)?」
 名を呼ばれ、身体がびくりと反応して。
「はいっ」
 ようやく口が動いた。
「おいで」
 手が伸びて、腕を引かれる。逆らうことなくその腕の中に身体を預けると同時に、アルコールの味のする口付けをされた。
「ん……」
 舌が唇を突き、促されるままに門戸を広げる。すぐに縦横無尽に暴れ回られ、熱く疼く身体はそれだけで火が点いた。回した腕に力を込め、離されないようにと縋り付く。
 甘えすぎは良くない、と思うのだが、暫くぶりの卓夫の匂いに理性が惑わされた。
「緑、今日はたっぷり可愛がって上げるよ」
 鼻で嗤う愉しそうな表情に、ぞくりと全身の肌が総毛だった。
 知らず怯えが浮かんだ視線に、愉しそうな笑みが返される。
「怖いか? だが、怖いのも好きだろう? ほら、こんなにも」
「んくっ」
 服の上から撫で上げられて、いきり立った逸物を嗤われる。
「痛みと快楽。今日はどっちが良い?」
 できれば快楽だけが欲しい。けれど、卓夫はその答えを望んでいないと知っていた。望まない答えは、我が儘だと揶揄されながら過ぎるほどに与えられて、とても辛い物になる。だからと言って、痛みとは答えたくない。痛みと答えれば、ほんとうに痛みしかくれないから。たとえそれがいずれ快楽に繋がるとしても、本当は欲しくないのだから。
 惑うしかない問いかけに篤彦は逡巡し、結局小さな声でぽつりと答えた。、
「……両方を……」
「おやまあ強欲だね」
 きっと想像はしていたのだろう。
 嬉しそうな笑みに、間違っていなかったことを知る。
 卓夫の腕が篤彦を起こし、逃れることのできない力で引っ張った。
「では、まず身体を綺麗にしようか。隅々まで洗って上げるよ」
「あ……いや、その……」
 躊躇う足は、結局引っ張られて歩かされた。
 鏡のある浴室に放り込まれ、服を脱ぐように促される。
 隅々まで……。
 その言葉が頭の中で繰り返し甦り、衣服が擦れる肌が敏感に疼いていた。


6

「あ、はぁ……やぁ……」
 たっぷりと泡だったボディソープが、卓夫の手のひらで伸ばされていく。
 脇の下を撫でられくすぐったさに身を捩れば、今度は尻の狭間に指を入れられた。
 つるりと簡単に入った指に、内壁をゆっくりと擦られる。
 隅々まで——と言った言葉に違わず、卓夫は篤彦のありとあらゆる場所を洗っていった。しかも、執拗に。
「ひ、ぃぃっ、ひあぁぁ、あ、んっ——卓夫、様……もう……」
 また陰茎に手を這わされ、指先でこりこりと先端を嬲られる。
 そこはもうすでに、何度も何度も洗われたというのに。
 広い浴室とは言え、洗い場に二人もいれば逃げるところは無い。壁に背を預け、洗っているだけだ——と、悪戯を仕掛ける手は執拗にそこを弄ぶ。その手首を捕まえようとしても、今度はそれが泡で滑って、捕まえられなかった。
「た、卓夫様……もう……」
「だってさ、洗っても洗っても、ここはほら。ソープでない液で汚れるんだよ。見ただけじゃ判らないだろうけど、こうやって触るとよく判る」
 きゅっと指先で鈴口を撫で上げられ、ひくりと広げられた内股が震えた。
 そこだけ滑る感触が違うのだと、唇の片端を上げて弄くられる。
「なんだろうね、これ。私は洗っているだけなのにね」
 問われて、ぎゅっと口を噤んだまま、ふるふると首を横に振る。
 判ってはいるけれど、その答えを望んでいる訳ではないことは経験上知っている。
 卓夫は判っているのだから。
「あと少しで綺麗になるからね。我慢するんだよ」
「っ、くっ、は、はいっ」
 耳の中まで舌先で拭われて、走る悪寒ともつかない疼きに歯を食いしばる。
 もう……出るな……。
 快感の証の先走りを、意思の力で止めることなど不可能だと知っている。
 ぎゅっと手のひらに爪を食い込ませ、拳をタイルに強く押しつけても、無駄だということは知っている。
 けれど、そこが止まらないと、卓夫は止めてくれない。
 ソープの滑りが与える肌への甘い刺激を無くしてはくれない。
「あ、あぁ、んっ、卓夫さ……もう……、十分、綺麗に……」
 肩を揺らして、熱い息を吐き出す。
 我慢、できない。
 これ以上刺激されると、先走り以上の物が出てしまう。
「だってさあ、汚れてるよ」
 ひくひくと震える下腹部。
 また吐き出された液が、指が出入りする後孔まで、泡を流してしまう程に流れている。
「だ、ダメです、もう、——もうっ」
 狭い口を通るたった一本の指と、固くなったくせに柔らかな先端を嬲る五指。
 舌先が耳朶を嬲り、触れる肌が意図を持って篤彦の弱い部分を嬲る。
 篤彦の弱いところなど知り尽くしている卓夫に、敵うはずもないと判っているけれど。
「あ、——あっ」
「どうしたの? 洗っているだけだよ」
「ひっ、や、あぁぁっ」
 目の前が白く弾ける。
 びくびくと震える陰茎が、卓夫の手のひらへと白く濁った液を吐き出した。
「ひ、ぃっ、っ」
 吐き出そうとした瞬間、ぎゅうっと手のひらで先端を掴まれていた。
 出せなかった訳ではなかったけれど。
 狭められた出口に、勢いよく出なかった。
 だらだらと流れ落ちて、指の間から滲み出る。
 いつまでもお漏らしをしているような感触があった。気持ちよかったはずなのに、解放感がない。
 それに、達って良いとは言われていなかった。
「ひ、んっ」
 ぽろりと流れる涙を舌先が拭う。震えた身体は優しく抱き締められたけれど。
「洗っていただけなんだけどね」
 優しい言葉の裏に隠される揶揄がはっきりと伝わった。
「も、申し訳ありません……」
「まったく、また汚してしまったね」
 泡と紛れた質感の違う液に濡れた手のひらを目の前にかざされる。
 羞恥に顔を赤らめ、申し訳なさに頭を下げた。
 わざと苛まれたと判るのに、卓夫相手だと他の客より罪悪感が強い。
 こんなことも我慢できない淫乱な自分が悪いのだとしか思えないのだ。
「せっかく綺麗にしたのにねえ」
「申し訳ありません……」
 繰り返し謝罪する声音が震えていた。
 どうしよう?
 このまま謝り続ければ良いのか、それとも何かした方がよいのか?
 客によっては媚びる方が良い時もあるけれど。
 今日の卓夫が何を望んでいるのか、まだ篤彦は理解していなかった。
 惑う瞳が、卓夫を上目遣いに窺う。
 それに怠い体はまだ熱を持っていて、吐き出したにもかかわらずまだ陰茎は屹立していた。
 と、卓夫がふっと小さく微笑んだ。
「ひっ」
 先をピンと爪弾かれて、鋭い痛みと同時に走った甘い疼きに眉間を寄せる。
「まあ、元気だから良しとするか。これなら、まだいっぱい遊べるか」
「あ、あっ」
 ぎゅっぎゅっと強く握られて、激しく扱かれる。
 多少の柔らかさなど、そのせいであっという間に消え失せた。
 宙に突き刺さるほどに反り返ったそれを泡まみれの手が扱く。
「あ、ああぁぁ?」
「ダメだよ、達ったら」
 扱きながら言う台詞じゃないっ。
 毒づきながら、それでも身体は勝手にこくこくと頷いて了承していた。けれど、堪えられるものではない。
 歯を食い縛って我慢したけれど、結局卓夫の背を抱き縋り付いて、啼きむせんだ。
「あ、あ、やあっ、卓夫さま?、もうっ、御願いっ、御願いしますっ」
 痛みが無い分、敏感な身体が素直に反応してしまう。
 まだ後孔には指一本しか入っていないのだ。
 卓夫がそれだけで済ませるとは思えない。まだ夜の時間は長いのに、この後一体どんな責め苦に遭うのだろう。
 はあはあと肩で喘ぎながら卓夫の手が与える快感から意識を逸らそうとするけれど。
「あ、あんっ、卓夫さ——あぅっ」
「ダメだよ、まだ、ね」
「ひっ」
 くすりと笑むその吐息がうなじを擽った。
 背後から犯される時にいつも刺激を受けるそこは、弱い。
「あ、っあぁぁ」
 遮られることのない射精の快感は先ほど我慢させられた分凄まじく、がむしゃらに卓夫に縋り付いた。そうしないと、粉みじんに弾けてしまいそうだった。
「ああ、たっぷり出たね」
 愉しそうな揶揄の声に、ぶるりと身体が反応する。
 ひくひくと震える身体に染み入る声が気持ちよくて、けれどその言葉の持つ意味を理解するより早く身体の方が気が付いて。
「まだ達って良いとは言っていないから」
「ひっ」
 卓夫の胸に押しつけていた顔を、無理矢理上向かれて覗き込まれた。
 その瞳に浮かぶ嗜虐の色に、朦朧とした意識が覚醒する。
「も、申し訳……」
「お仕置き、何が良いかい? 鞭? それとも、きついほど縛って吊ってあげようかな?」
 問いかけながら、濡れた髪を掻き上げられる。
 頭からかぶせられるシャワーに咳き込み、逃れたいと頭を振るのに許されない。
「聞いているんだよ、何が良いんだ?」
 問いかけはさらに続く。
 ——ろうそく? あっちこっちバイブで嬲って上げようか? それとも身動きできないほど縛り上げて、媚薬をここに入れて上げようか?
 ここ——と後孔にすると入った指が、奥深くをまさぐられた。
「あ、ああっ」
 それだけで、身体の火が勢いを増していく。
 卓夫の言葉に反応して、頭が勝手に想像してしまうのだ。
 天井から吊らされて鞭打たれる姿を。
 芋虫のように全身を縛られて、体内奥深くにバイブを入れられて放置されている時の感覚を。
 媚薬で敏感になった肌に落とされる熱いロウソクの滴り——その痛みに混じる快楽を。
「あれ、また悦んでいるんだ……。ふ?ん、俺の言葉を想像したね」
 隠そうとかがみ込む暇などなかった。
 いや、見なくても判っていただろう。
 くすくすと肩が震える程に嗤う卓夫は、そんな篤彦の淫らな身体を知り尽くしているのだ。
「良いよ、今日の俺は優しい気分なんだ」
 微笑む卓夫に見つめられて、悪寒と快感に同時に襲われる。
「た……くお……さま……」
「緑姫、君はどんなお仕置きも全てが好きだったよね。お仕置きにならないくらいに」
 ずいぶんと愉しそうな笑みが、言葉を裏切る。それは、本能で感じただけだったけれど。
「今夜は長い。時間の許す限り全部やってあげよう」
 卓夫の言葉は、期待と恐怖を一欠片も裏切りはしなかった。
 

7

 水が滴る身体に赤い紐が絡まる。
 首に付けられた輪にも紐がかけられて、奴隷のように追い立てられた。
 その手に持つのは、極太のディルド。
 自分で選ぶように言われて、最初は細身の物を取ったけれど、卓夫の視線に結局一番太い物を選んだ。
「好きだね、太いのが」
「……は、い……」
 ほんとはこんな太いのは辛い。
 けれど、お仕置きだから、辛くないとダメなのだ。
 そうやって選ばされた物を持たされて、篤彦は部屋の外に出さされた。
 人前で嬲られるのもいつものプレイの一つだ。
 すっかり慣れたそれに、考えるより先に身体が動く。
 時間的に、まだこれから遊ぶ人達はたくさんいて、外には数人がこれからを期待しているのか愉しそうに姫を連れていた。
 そんな彼らの視線が篤彦に集中する。
 ニヤニヤと嫌らしい視線が、全裸で縛られた篤彦の全てを舐めるように見ていた。
 そんな宴の間の広間である階段下の飾り棚に、卓夫が持っていた引き紐が結わえ付けられる
「さあ、挿れなさい」
「は……いっ……」
 慣れたとはいえ、羞恥心が無くなるわけではない。
 陽に当たらない身体に映えていた紐の緋色が滲んだように、肌が朱に染まる。
 縛られた身体は思うように動かなくて、ぎこちなく跪いた。その拍子にあらかじめ入れられていたローションが内股を伝い滴り落ちる。
 ぬるりと肌を這うそれに、ぞくりと全身を震わせた。
「可愛いねえ」
 誰かの声が耳まで届く。
 嫌だ……。
 ほろりと頬に涙が流れる。
 卓夫だけに見て貰いたい。
 他人の誰にも見られたくない。
 けれど、これは卓夫が大好きな行為で。
「ほら、早くしないと流れてしまうよ」
 促されて、慌ててディルドの先端を後孔に押しつける。
 乾いたそれで流れ落ちるローションを掬い上げ、内股で全体を濡らしていった。
「もっと出さないと、辛いよ」
「なるほど、ローションの容れ物になっているんだね」
 野太い声に、卓夫が「ええ」と賛同していた。
「余分な物を持ち歩きたくはありませんからね」
 綺麗に何度も洗われた後孔にたっぷりと注がれたローションは、その滑らかな粘性のせいで、幾らでも垂れ落ちる。油断すると足下まで流れ落ちて、慌ててディルドにそれを受けた。
 握りしめる指まで滴り落ちるほどにローションがかかる。
 そして。
 その滑りを使って、ゆっくりと挿れた。
「んっくっ——っ」
 一際大きな先端は、異物を入れ慣れている後孔でもきつい。
 それでも、綺麗にする時にさんざん解されたから、きついながらも入っていく。
「あ、あっ、あぁっ」
 息苦しさに堪えていた息を吐き出すと、もう口が閉じれなかった。喉が鳴り、堪えきれない甘い悲鳴が響く。
 きついのに、空洞をディルドに満たされる充足感。
 ただ願わくば、固いそれがもっと柔らければ良いのに。卓夫のモノであれば、もっと良いのに。
 一番太い部分が入ってしまえば、後は簡単に入っていった。
 意識しなくても、前立腺を通り過ぎながら刺激するほどに太い。
「あ、ああぁ」
 ため息に混じる嬌声に、厭らしい身体だ、と揶揄が浴びせられた。
 その言葉を追いかけて、篤彦はにこやかな笑みを浮かべた卓夫を見つけた。
 その表情は満足げで、途端に篤彦の身体はふわりと上気した。
 羞恥の色とは違う、ほのかな桜色に全身を染めて、篤彦は微笑んだ。
「おぉ?」
 どこか遠くで聞こえるどよめきの中、卓夫の声だけははっきりと聞こえる。
「動かしなさい」
「は……い」
 頷いたものの滑るディルドは掴みにくい。あまりの太さのせいで自然身体が必要以上に締め付けて、指が滑って引っ張り出せなかった。
「んっ……」
 身体が前のめりに倒れる。
 尻が高く上がったそこに、尾のようにディルドが生えていた。それを掴もうとしたけれど、姿勢が悪くて掴めなかった。
「早くしなさい」
 苛つきは感じられない、けれどはっきりとした命令に、篤彦は焦った。
 身体を横にして丸めれば届く。
 けれど。
「それでは皆さんに見えない」
 冷たい言葉に、篤彦は逆らうことなどできなかった。
 仰向けに転がり、足を上げる。
 ひっくり返ったカエルのように、股間を晒して身体を丸めて。
「んっくっ」
 かろうじて届いたディルドをずるりと少しだけ引っ張り出した。
 その途端、喪失感にぶるりと身体が震える。
 慌てて、今度は押し込んで。
 片手なら、もっと動かせるのに、と、後ろ手について身体を起こす。なのに、片手だけだと今度はディルドを巧く動かせない。
 とにかく手が滑るのだ。しかも、持ってきたディルドは取っ手になる部分が短く、体内に入れてしまうとひどく掴みにくい。
「や、やぁ……だせな……」
 知らず涙が流れて、必死になって爪で引っ張り出す。
 けれど、出せない。
 ならば、と両手を伸ばせば身体が倒れる。
 どこかに背を預けたいが、紐のせいで届く場所にはそういうモノがなかった。
「あ、んっ……」
 結局出す時にはいきむようにして、出れば押しこんで。
 けれど、そんな動きでは焦れったいだけだった。しかも、卓夫の機嫌が目に見えて悪くなるので判る。
「あ、もう、し、け……ありま——ん」
 卓夫に叱られるのは嫌だった。
 必死になって動く篤彦は、よがって腰を振って誘っているように見えるのだが、そんな事は判らない。
 ただ、卓夫の言いつけに従いたい、と、それだけを思って手も身体も動かして。
「どうした? お前はそれが好きだろう? 今度は達って良いんだよ?」
「は、い、ありがと……ござい……」
 今度は達きなさい、と言われて。
 熱い身体は、さらに熱く燃え盛る。
 けれど、決定的な刺激を思うように与えられないから、今度は巧く達くことができないのだ。
「あ、あっ、くうっ」
 前立腺を刺激するように動かしてみるが、それも巧くいかない。
 とうとう篤彦は動くのを止めて身体を起こし、ぼろぼろと涙を流して卓夫を見つめた。
 これ以上無駄な足掻きをすれば、よけいに卓夫を怒らせるのだと、今までの経験から悟っていた。
「卓夫さま……、すみ…ませっ、俺……」
 四つん這いになって頭を下げる。部屋を出る時から卓夫の手に握られていたモノが目に入る。ふるっと震えた視界からそれを外しそうになったけれど、篤彦は意識して涙に潤んだ緑の瞳でそれを見つめた。
「ご命令通りにできない俺に、お仕置きを」
 そのまま床に着くほどに頭を下げて、白い背と尻を晒す。その狭間には太いディルドが深々と突き刺さったままだ。
「ったく、達って良いと言っているのに、お前は本当に言うことが聞けない子だね」
 びしっ乾いた音がする。
 怖かった。
 卓夫のそれは音が響く。痛みもそこそこにある。
 ただ、切り裂くような傷がつきにくいというだけだ。その分、長い間叩いていられるのだ。
「ほらっ」
「ひっ」
 鋭い痛みに耳を貫く音。
 ひりひりと痛む肌に、第二波、第三派が来る。
 そのたびに仰け反り悲鳴を上げる篤彦に、卓夫は容赦なく鞭を振り下ろした。
 痛みが走るたびに、篤彦の身体は強ばり、同時に深く埋め込まれたディルドをきつく締め付ける。そのせいで、痛みの中でも妙なる快感が陰茎を震わせる。
 後孔がひくりと蠢いてほんの少しディルドがローションと共に出てくる。
 その出たところを卓夫の鞭が軽く叩いた。
「ひっい——っ」
 振動がもろに内壁を叩く。
 その中にある敏感な前立腺をダイレクトに刺激し、弾けそうな快感を生み出していく。
 途端に、萎えるどころか張りつめた先端が震えて、びくびくと白い滴が飛び散った。
 内股を伝い降りた滴はローションなのか、それとも精液なのか。
 ひくひくと太股を痙攣させながら崩れ落ちた篤彦は、周りで揶揄している客達にも気付いていなかった。
「相変わらず、淫乱だねえ。鞭で達ったよ」
「今日は私があの子と遊びたかったよ。あそこまで淫乱だと食傷気味になるかと思っていたが、なかなかどうして。結構やみつきになるね」
「あの瞳がいいねえ。名にふさわしい生気を感じる綺麗な緑が快楽に溺れて濁って……まるで枯れ果てる寸前のくすんだ緑になる。できれば、あれをとことん濁らせたいと思っているんだが……」
「濁ってはいるんだよ、ここまでやるとね。けどね、この子はすぐに元に戻るだろう? いくら辱めても、次に会う時はまた芽吹いた若葉のような瞳をしている。ちょっと呆気に取られるくらいね。この意外性がいい」
 好き勝手にざわめく客達に卓夫が微笑み頭を下げる。
 その悠然とした態度と床に伏して時折痙攣する淫らな篤彦の姿に、客達は満足な見せ物だとばかりに盛んに拍手を送っていた。


8

 意識を取り戻してすぐに、追い立てられるように部屋へと連れ戻された。
 ああ、今度は二人きりだ。
 すぐに、そのままベッドに押しつけられる。
「ひっ」
 勢いよくディルドを抜かれ、閉じる間もなく卓夫に貫かれる。
「ほんとうに愉しませてくれるよ、おまえは。もっといろいろ遊んでから、と思ったが、我慢できなくなった」
「ひっ、いっ、——っ、んあっ」
 ずんずんと勢いよく抽挿を繰り返され、言葉を出すこともできない。
 深く抉られるたびに息を吐き出して同時に嬌声となる。
 篤彦の身体を人形か何かのように抱えて、ただひたすら快感を貪るそれは痛みすらある。なのに、ひどく嬉しい。
 朦朧とした頭に一筋の光が差し込み、心がひどく温かいものに満たされている感じだ。
「あ、んあっ、あっ——、た、たくお、さまっあ」
 さっきのディルドよりは細い。
 なのに、ディルドよりよっぽど気持ち良くて感じる。
 前立腺を抉る刺激も、卓夫の方がよっぽどきつくて激しかった。
「た、たくお様っ」
 手を伸ばし、その背を掻き抱く。
 ひやりとした肌は汗が冷えたせいか。けれどすぐさま触れたところから燃え上がり上気となって汗が乾く。
「あ、あぁっ——いい、そこっ、もっと——っ」
 強請って縋り付いて。
「なんだ、あれだけ、達って——まだ欲しいのかい?」
 荒い吐息に感じてくれているのが判る。
 揶揄されても嬉しいと感じた。
 この人であれば何をされても感じる。感じてもおかしいとは思わない。とにかく何をされても嬉しい。
 人に見られて、痛みを与えられても感じる淫らな身体。
 けれど、卓夫とだけいる時が一番感じる。
「卓夫様……、ください、もっと」
 欲しくて堪らない。
 もっと激しくしてくれ。深く貫いてくれ。
 いっそのこと、卓夫のモノでヤリ殺してくれ。
 血液全てが白い卓夫の精液に入れ替わるほどに満たして——。
「全部、全部っ、卓夫、さまで……卓夫様でいっぱいにっ!!」
「強欲な……」
 鼻で嗤い、刹那、激しく穿たれた。
「ああっ」
 身体の中を脳天まで一本の杭が貫いた。意識すら弾け飛ぶ衝撃と快感。
 だらりと吐き出される力無い射精は、それでも今までで一番激しい快感をもたらした。
「あ、ああっ……た、たくお……さま……たくお、さ、ま……」
 朦朧とした意識は何度目か。
 心許なさにぎゅうっと卓夫を抱き締める。熱い肌に額を擦り寄せ、喘ぎながらその肌に唇を寄せた。
 痕を。痕を残したい。
 自分のモノだという痕を。
 せめてこの時だけ、卓夫を自分のモノにしたいから。
「卓夫さま……」
「悪い子だ」
 きつく吸い上げると同じかそれよりもっときつく吸い付かれた。
 肌に残る濃い朱の痕。
 点々と残るそれがいつもより多いような気がして、嬉しかった。
 それに。
「ったく、お仕置きにならないな。何をしてもそんなに悦ぶんだから」
 呆れた口調で離れた手が、またすぐに戻ってくる。
 何もないと思っていた部屋は、遊ぶ道具だけはたっぷりと入っていた収納庫を持っていた。
 そこから出されたのは、いくつもピンポン玉大の珠が繋がった紐。
 垂れるコードの先には、他にもいろいろな物体が付いている。
 そして、高さ5cmほどの容器。
「今度はこの薬を使ってみようかな」
 薄い手袋をした卓夫によって、珠一つ一つ、道具一つ一つに丹念に塗られる粘性の高い白い薬が、灯りに照らされる。
「そ、それ……蘭果?」
 その薬の正体に気が付いて、さすがに血の気が失せた。
「たっぷりとお前の体内に入れて上げるよ、愉しいだろうね」
「あ、い、嫌……」
 ふるふると力なく首を振る。
 だって、それは。
「これはお仕置きだよ。緑姫が嫌がるものでないと意味がないだろう?」
 珠がすっかり白く覆われたそれを、目の前で揺らされた。
 篤彦はそれを知っていた。
 卓夫のお気に入りのバイブレーター。
 その珠は、自由に動く紐で繋がれていて、体内で好き勝手に暴れてくれる。
 しかも、塗られた薬は容易に体内にそれを送り込むだけでなく、粘膜に吸収されるとむず痒さをもたらすのだ。しかも、肌を敏感にし性欲を高める媚薬の効果も抜群だ。
 たぶん、この店で一番強い効果を持つ薬の一つ。
「あ、あっ……」
 じりっと後ずさる身体は、さっきから何度も達かされて思うように動かない。
 伸びてきた手を逃れる事もできなかった。
「さあ、尻を出しなさい」
 巧みに転がされて、柔らかく綻んだ後孔を晒される。
「や、やめてくださっ——それは……お願いしますっ」
 体内で生じるむず痒さは、もうじっとしていられなくなる。しかも入れられた珠は暴れて、幾らでも内壁を刺激する。そのせいで、一時的に痒みは薄れるのだけど。刺激された内壁はさらに敏感になって、薬の吸収を助けるのだ。
 しかも敏感になるのは肌も同じだ。
 シーツが触れることすら快感になる。まして普通に触れても熱く感じる卓夫に触れられたら、意識など吹っ飛びそうな快感に襲われる。
 それこそ、身悶えるだけで、内も外も快感を感じてしまう。ほとんど達きっ放しになるほどだ。
 だが。
 悪戯を思いついた子供のような笑みを見せる卓夫は、いつもこれとセットに篤彦に施すものがあった。
「上手に飲み込むね」
 いくつも連なった珠を全部体内に押し込んで、今度は篤彦の身体をひっくり返す。
 その動きに、体内でごろりと動く珠に、ぞくぞくと肌が粟立った。
「あ、あっ……」
 粘膜の吸収はてきめんだ。
 零れる吐息は熱く、視界に霞がかかってくる。
「た、卓夫……さまぁ……」
「じゃあ、これを」
「んっ」
 陰茎に触られるだけで、射精衝動を感じる。
 だけど。
「っ痛っぅ!」
 きつい程に陰茎の根元を縛られた。
 きりきりと捻られて、皮膚に食い込んでいく緋色の紐が涙で滲んだ視界に入ってきた。
「た、くお……様……」
 きりっと下唇を噛みしめる。
「あれだけ達ったから、もう良いだろう?」
 濡れた頬に落ちる優しいキス。
 けれど、その手は残酷に胸の粒を摘み上げる。
「ん、んんっ」
「ここも綺麗に膨れているね。付けやすいよ」
「ひ、いっ」
 ぱちんと挟まれる衝撃に腰が揺れた。
 十分堪えられる鋭い痛みは、直後に快感へと変化する。
 ふるふると激しく動いた頭で濡れた髪が滴を飛ばした。
「こっちも」
 今度はちくちくとした刺激を永続的にもたらす飾り。
 右は深紅のチョウ。左は紺碧のカマキリ。
 刺激しているのはカマキリのカマだ。そのカマのギザギザの面がクリップで挟まれた乳首を挟むようにして当たっていた。チョウの方は胴体の部分がクリップになっていて、付けられた時の痛みに慣れれば後は痛くはない。
 けれど、それだけでは無いことを、篤彦は知っていた。
「あ、あ……」
「ほら」
「あぁぁっ」
 チョウが羽ばたいた。
 二枚の大きな羽がぱたぱたと動く。その度に強く胸板を押すのだ。そうなれば、摘まれた乳首は伸ばされる。ぐいぐいと力強く伸ばされて、なおかつ細かな振動も伝わっていた。その隣では、カマキリがぎりぎりとそのカマを横に動かす。小さな甘い刃先ののこぎりを緩く動かされているようものだ。
 そのどちらの乳首も触れる肌も薬のせいでひどく敏感になっている。
「やあっあ、ぁあっ、あっ」
 身悶え、堪らずに手でそれを外そうとした。
 だが、呆気なくその手は捕らえられ、手錠に繋がれる。それぞれがベッド下の足に繋がれて、あっという間に四肢を投げ出した状態で固定されてしまった。
 ひくりと喉が震える。
 胸からじんじんと伝わる快感はまだ小さい。
 けれど、こんなモノでないことを知っている。
 それに、まだ肝心のものが動いていないのだ。
「あ、ごめんな、なさいっ、申し訳ありませんっ。許して——っ。御願いっ」
 卓夫の手がスイッチに伸びる。
 そこに浮かぶ深い笑みに、縋るように謝罪の言葉を繰り返した。
 けれど、卓夫の手は止まらない。
「やめて良いの? だけど、緑姫。お前はこれが大好きじゃないか。薬がたっぷり付いた連珠とチョウとカマキリの飾り。それから……もっとつけて上げようか? 大好きだよね、達きっ放しになって、よがり狂うのが。止めて上げようとしたら、止めるなって怒るくらいに——ね?」
「あ……」
「何? 俺が嘘を言っているとでも?」
「ちが……」
 首を振る。
 嫌だからでなく、卓夫の言葉が嘘でない言うことを知っているから。
 前にも同じ事をされて、その時は記憶がなくなっていたけれど。身悶える様を取られたビデオを見せられた時、篤彦は卓夫が言ったように叫んでいた。
 ——止めないで、もっとしてっ——。
 傍らで、淫らに悶えた自分を、卓夫は優しくあやしていた。
 今日も同じように篤彦の髪を梳きながら、目の前にスイッチを持ってくる。
 胸で羽ばたくチョウとカマを動かすカマキリ。そして体内奥深くに埋め込まれた連珠のバイブ。その三つから伸びたコードが、一つになったスイッチだ。
 すでにチョウとカマキリのスイッチは入っているが、その目盛りは小さい。
「欲しいだけあげるよ、今日は」
「あ、ああっんっ」
 まだ入っていなかったスイッチが入った。
 同時に、いくつもの珠がごろりと振動しながら動いた。
 薬で常以上に敏感になった内壁が抉られ、嬲られる。 
 身体が勝手に跳ねて、荒い息で体内の熱を吐き出した。けれど、そんなことでは足りない。
 もっと吐き出したい。もっと、身悶えたい。
 四肢を引っ張るとぎしぎしとベッドが鳴った。
 もっと動きたい。全身を擦りつけたいのに。
「良い子だ。欲しいだろ?」
 カチリとダイヤルが動く。
 全身が突っ張った。
 瞠った目尻から涙が滴り落ちる。
「は、ああぁぁっ」
 意識が濁る。
 達きたい、出したい。
 なのに、出せない。
 痛みが増して戒めの存在が大きくなる。これがお仕置きだと自覚させるそれ。
「あ、ごめんなさっ……外して、外してくださっ」
 懇願は当然のように無視されて。
「大好きな玩具だからねえ、MAXにして上げるよ。たっぷりと味わいなさい」
「やっ——あ、あああああ——っ」
 涙に煌めく緑の瞳が大きく見開かれ、擦れた絶叫が室内を激しく震わせた。


9

 ひどく怠い身体を鋭い痛みが走る。
 その痛みが、まだ寝ていたいという訴える頭を強制的に覚醒させた。
 背に走る痛みは鞭の痕。
 痛いけれど、何故かぞくりと身体の芯を疼かせる。それに加えて、胸は布地が擦れるだけでむず痒く、後孔はまだ何かを銜え込んでいるようだ。
 寝返りを打つだけで、誰かから愛撫を受けているようで、篤彦の口から甘い吐息すら漏れた。
 そんな状況で寝ていられるわけもなく、頭も徐々に状況を理解していく。
「んくっ」
 ぎこちなく動く腕をうまく開かない瞼にのせて、大きくため息を吐き出す。だが、すぐに違和感に気が付いた。
 ——何で?
 はっと目を見開く。視界を覆っていた腕を動かして明るくなると、腕が柔らかな布地に覆われていることに気付く。慌てて後ろ手をついて上半身を起こした同時に、みしりと腰が音を立てた。
 堪らず顔を顰めて、人の気配がしない辺りを見渡す。
 昨夜から卓夫に犯され続けた部屋だ。
 心地よいシーツに覆われたベッドの上だけでなく、バスルームでも床の上でも、狭いソファの上でも、ありとあらゆる所でいろんな責め苦を受けた。
 どこか朦朧とした記憶は全てを覚えていない。なのに、視界にその場所が入るだけで、そこで受けた責め苦で感じた場所が疼くのだ。
 何度犯されただろう?
 一体何度達ったことだろう? 少なくとも、卓夫よりは多く達ったはずだ。
 ずるい……。
 穏やかな笑みを向けながら、さんざん篤彦の痴態を見つめていた。静かな、けれど燃えるような瞳。それだけで、篤彦はさらに感じてしまったのだ。
 動くたび、もっとも激しく責め立てられた背が痛む。
 ずいぶんと肌に心地よい布地でも傷むのだから、後で冷やした方が良いかも知れない。
 と、見えない背に首を捻って視線をよこす。
 だが、それよりも先に、見覚えのない衣服が目に入った。
「え……」
 思わず胸元に手をやって、そのさわり心地に目を瞠った。
 心地よい綿の肌触りのそれは、自室用の部屋着として供されるスウェットだ。だが、自分のモノではない。
 濃紺の毛羽立ちも何もないそれは、どう見てもまだ新しいものだ。
「え、何で……」
 自分の部屋でもないのに、どうしてこんなものを着ているのだろう?
 姫は、仕事中はスーツで、客の許可無く汚れを落とすこともできなければ、脱いだ服を身に纏うこともできないのだ。
 なのに、肌は清潔で汗でべたつく感じもしない。
「え?、え……?」
 疑問符を繰り返し、辺りを見渡せば、やはり昨夜のままだ。
「た、卓夫様?」
 ならば卓夫は、と声をかけても返事は無い。
 そろそろと四つん這いになってベッドの端に近づいて、きょろきょろと辺りを見渡すが、気配一つしなかった。
「卓夫さ、ま……」
 もう帰ったのだろうか?
 時計を見上げれば、もう明け方と言って良い時間だった。
 ならばもう帰ったのだろうけれど。
 自分でした記憶が無いのだから、身体を拭いてくれたのも卓夫でしかあり得ないのだけど。
 いつもは激しい行為に朦朧と伏した篤彦を無理に起こしてでも、労りの言葉とシャワーの許可を与えて帰って行くのに。
「あ……もう帰られたんだ……」
 いないと判ると、胸の奥がひんやりと冷えて、激しい喪失感に襲われた。
 ほとんど記憶が無いことも多いけれど、それでも最後の優しい言葉は胸の奥に暖かみを残してくれる。それが大好きだったのに。
 今日は貰えなかった事が残念でならない。
「はああ?」
 肺から全ての空気を吐き出すほどのため息を吐いて、篤彦はよろよろとベッドから降りた。
 もう部屋に帰らなくては。
 客がいないのに、いつまでも部屋を占領している訳にはいかなかった。
 何より、篤彦自身がここにはいたくなかったのだ。
 卓夫の気配が残るここに一人でいるのは寂しくて。
 次はいつ来てくれるのだろう、と詮無いことばかり考えてしまうのだから。
 脱いだスーツがどこにも無いのでスウェットのまま、力の入らない足腰でよろよろと通路を歩く。
 中途半端な時間のせいか、外には誰もいなかった。帰る客は夜半に帰ってしまうし、朝までいる客達は今は夢の中だ。静かな通路は宴の時間が終わっていることを示していた。
 だから気にせずにぼんやりと歩いていたのだけど。
「緑姫」
 不意に背後から呼びかけられて、ぎくりと背筋が凍った。
「話があります」
 輝姫だと気付く声音に、ぎくしゃくと振り返る。
 ぴしっと折り目正しいスーツ姿の彼は、寝ていない筈なのに昨夜と同じで乱れたところは一つも無かった。
 客と寝ないだけで、営業している間はずっと接客しているはずなのに。
 乱れの無い姿は、いつも凄いと思う。
 その姿と同じく、疲れの見せない表情が篤彦を呼ぶ。
「付いてきなさい」
「……はい、あ、あの服……」
「卓夫様より頂き物です。受け取っておくように」
 着替えた方が良いかと言いかけたが、その前に返された。
 そのまま踵を返されて、続く言葉を飲み込む。何より言われた言葉に、熱い物が込み上げて思わず来ている衣服を掴んだ。
 卓夫様が……。
 嬉しくて、疲れも何もかも吹っ飛んでしまう。 
 卓夫から何か貰えるといつも嬉しかった。
 優しい言葉だけでも嬉しいが、手の中に残る何かはもっと嬉しい。
「早く」
「あ、すみません」
 あれほど怠かった足腰が気にならないほど、気分が上昇していた。

 
 足早に歩く輝姫について行くと、彼は居住棟から逸れてさらに奥まった通路へと進み、知らない部屋へ入っていった。
 調度からして応接室に見える。
 ここまで来たのも初めてなら、この部屋の存在を知ったのも初めてだ。
 篤彦は緊張感に包まれながら、促されるままに室内へと進む。と、ソファの影からむくりと立ち上がった影があった。
「よお、やっと起きたか」
 野太い声にぎくりと身体が強ばる。
 革張りの豪勢なソファから立ち上がった背の高い男が、篤彦を見てにやりと笑いかけてきた。
「まさかこの部屋で会えるとはな」
「あ、あなたは……」
 足が知らず一歩下がった。けれど、それ以上動けない。
「忘れてなかったか。けっこうけっこう」
 機嫌よさげに笑う男を、篤彦は忘れるはずもなかった。
「もう一年になるか? さっさと出されるかと思っていたが……。なんのどうして、頑張ったじゃねえか」
 薄暗い廃屋で裸に向かれた時の寒さを思い出す。
 あの時の男だ。
 篤彦を買って、ここに連れてきた男。
 コンクリの床に転がされてじろじろと全てを見られたことも、強引に引っ張られた痛みも、冷たく嗤いながら付けられた名前の由来を教えられた事も、どんなに忘れたいと思っても、繰り返し夢に見て、忘れることなどできなかった。
「な、何で……」
 彼は、人買いだ。この店で働く男達を物色して買い漁り、連れてくる。そして、この店に相応しくないと判断されたモノを、格下の店に連れて行く役目をも負っていた。
 まさか……。
 ここに来たすぐならいざ知らず、今は「樽見の店」のことなど誰も篤彦にはほのめかしたりしなかったのに。
 さんざん刷り込まれた恐怖が、歯の根を合わせない。
 いやいやと首を振り背後に下がろうとするけれど、足は一つも動かなかった。
 幸せな気分など吹っ飛んだ。
 恐慌状態寸前の篤彦の肩を優しく支える手がなければ、叫んでいたかも知れない。
「大丈夫です。安心しなさい」
 優しく触れる感触と穏やかな言葉。
 いつの間にか近づいてきた輝姫が、篤彦の肩を抱くようにして前へと押し出した。
「彼は護田(もりた)と言います。あなたを他の店に連れて行くために来たのではありません」
 きっぱりと言われて、篤彦は慌てて振り返った。
「じゃ……何で?」
 人を買って、連れて行く役目。それがこの男だったはずなのに。
「今日は、お前を外に連れ出すために来たんだよ」
「あなたの借金は返済されました。今日より自由です」
 二人の言葉が重なった。だが、内容ははっきりと聞こえた。
「え……」
 なのに、頭が信じられない言葉を否定する。理解できないと、思わず聞き返す。
 そんな篤彦に、男がいかつい相貌を崩して、持ち上げた一枚の書類を勢いよく引き裂いた。
 ひらひらと舞い落ちるそれが、篤彦の足下に転がった。
 見覚えのある書式に踊る黒い文字と朱肉。
「お前がここに連れてこられた時にあった借金、そのほか全て返済しきったんで、これは不要になったからな」
「え、……けど……」
 そんな筈はなかった。
 幾ら頑張っても一年で返せる金額ではなかったはずだ。
 自分の単価がどのくらいで、後何年かかるかなんて、計算できる根拠は何もなくて、ただ、5年ほどかかるか、と言われた言葉に、泣きたくなりながら縋っていた。
 それなのに。
 信じて良いのか判らない言葉。だが縋りたい気持ちで護田と、輝姫を見やる。
 その視線に、答えてくれたのは輝姫だった。
「卓夫様が残り全て返済して下さったのです。昨夜は、そのためにここに来られて、最後だからとあなたと遊ばれたのです」
 びくりと全身が強張った。
 信じられない内容と、けれど、卓夫の名前に信じてしまいそうになる。
 そんな事が有るはず無いと思いながら、期待に胸が高鳴る。
「……卓夫、様が……」
「この一年、とても愉しく過ごせたから、その礼だと言われいました」
「そ、そんな……」
 卓夫様が借金を……。
 愕然とする篤彦に、輝姫が間違いないとばかりに大きく頷いた。


10

 借金は卓夫の手によって返されていた。
 愉しく過ごせたって?
 その礼だって?
 嬉しい、と思う反面、どうしてそこまで、と思考がぐるぐると巡る。
 確かに気に入られていたかも知れないが、他の姫と比べてどうか、と思うと判らない。
 篤彦にとって卓夫は特別ではあったけれど。
「俺……あんなので……良かったのかな……」
 卓夫にとっても、緑姫という存在は特別だっと思って良いのだろうか?
「気に入られていたのは間違い有りません。ここ数ヶ月は、卓夫様はあなたしか相手にしていません」
「俺だけ?」
「はい」
 きっぱりと言われて、少しずつ現実味が増してくる。
 足下に落ちた破れた借用書を震える手で取り上げて、その文字一つ一つを追っていった。
 それが本物だという証拠の直筆と朱肉の色。コピーでないとはっきりと判る痕が残るそれ。
 強ばっていた頬が緩んでいき、その口元には小さな笑みが浮かんできた。
「そっか……」
 嬉しい。
 嬉しくて堪らない。
 卓夫にそこまでしてもらえたことが嬉しくて。もう他の男に抱かれなくても良いのだと言うことも嬉しくて。
 ほおっと安堵の息を吐く篤彦に、「ほらよ」と別の朱肉も鮮やかな紙が二枚手渡され。
「そいつは、ここから出て行く姫に課せられる誓約書だ。店からのと、姫が記入して返すのと二部。それで契約は終わりだ」
「誓約書?」
 また何か——と緊張に強張る篤彦は、手渡されたそれを見逃すことの内容に一字一句きっちりと目を通した。
 それは、篤彦の解放を確かに教える文面ではあったけれど。
 読み進める内に指に強く力が入り、くしゃりと掴んだ端にシワが寄った。
 視界の端で輝姫が僅かに顔を伏せる事の意味が、篤彦にも判ってしまった瞬間だ。
「まあ、要約すれば、正当な手続きを踏んでの雇用契約の解消と店で経験した全てのことに関する守秘義務の契約だ。それに違反したら、相応の違約金が課せられる。それこそ、今度こそこの店から出ることは敵わないほどの金額が要求されるんだ。それにサインしない限り、借金を返したとしてもここから出られないんだけどな」
「雇用契約って……」
 くっと強ばった頬が笑みを作る。たいした雇用契約だ。
 けれど、そんなことどうでも良かった。
 問題はもう少し先の文章。 
「給料は前払いされていたってことだし、それに守秘義務は当然だろう? まあ、客層が客層だからな。当然、会った客に姫の名を出して接触することは禁じられるし、それをネタにすることも許されない。もちろん客側からの接触も禁じられている。客側は最初の来店時に誓約を行うからな。つまり外で会っても、それをネタに脅されることも強要されることも無い。そんなことになったら、ここのオーナーが黙っちゃいない。それを客は良く知っているからな。身を滅ぼすような真似をした客は今まで無い」
「客も……」
 そうだ、それでさっき手が震え始めたのだ。
 客に会えない、客からも接触しない。
 その一文が心に突き刺さった。
 それはすなわち——。
「外で会ったとしても互いに他人でしかない。当然のトラブル防止策だ。もしお前が、こんな客が男相手に遊んでましたって訴えても全てが揉み消される。その上で、今度は決して日の目を見る事のない世界に追い落とされる。それだけの力をここのオーナーは持っている」
 篤彦は、力なく首を横に振った。
 そんなことはするつもりなど毛頭無かった。
「ただし、その誓約書が遵守できる姫は、退職金として普通の会社じゃあ考えられないほどの好待遇を得られる。だから、その待遇をわざわざ不意にする奴もいないっていうのが事実だな」
「もっとも、正当な退職金を受けられた姫は、この店が始まってからも数えるほどしかいませんが?」
 それまで黙って聞いていた輝姫が、嫌みのように護田へと言葉を放つ。
「お前の前は、砂姫。輝姫と……ああ、陽姫(ようひめ)だったな野崎の奴は。それから……海姫に如月姫か?……まあ、まだこの店は5年ほどだからな。こんなもんじゃねえか? 今だって、20人もいねえし」
「それ以上の姫が、落とされましたからね」
 少し寂しそうに視線を落とした輝姫に、護田は肩を竦め、「しゃあねえだろ」と返した。
「ここは好待遇なだけに、続けるには条件が厳しい。俺も姫候補を捜すのは至難の業なんだぜ」
「それは……そうですけどね」
 ため息と共に頷いた輝姫が、首を振って視線を篤彦に戻した。
 その瞳は、すでに迷いなど何もないように、まっすぐに篤彦を見ていた。
「与えられる待遇は、あなたの希望を叶えるというものです。三ヶ月以内に何を希望するかこの護田に連絡を入れて下さい。入りたい会社があれば、実力が伴うのであれば入ることができますし、そのためのフォローもします。大学に戻りたければ、それを手伝います。住居に関しても一年間は面倒見て貰えます」
 どうやらただ単に放り出される訳ではないらしいけれど、それに安心するより先に、篤彦は呟いていた。
「もう……会えないんだ……」
 その言葉に輝姫が視線を逸らす。
 それは肯定されたのと一緒だ。
 外に出たら会えない。向こうから会いに来ることもない。
 だから……。
 くしゃりと、手の中で乾いた音がする。
「お、おいっ」
 強い力で手首を掴まれた。
 視界の中で誓約書がしわくちゃになっていた。
「俺はもう……卓夫様に……会えないんですか?」
 言葉が縋っていた。違う、と言って欲しいと縋っていた。
 けれど、輝姫は大きく頷いた。
「会うことはできません。今朝、卓夫様はきっぱりと、もうあなたには会わないと言われましたから」
 目の前が暗くなる。
「おいっ」
 腕が引っ張られて痛い。
 けれど、それよりも胸の奥が痛い。
 嫌だった。
 卓夫と会えなくなるのは。そう思ったからこそ、輝姫が今の立場を選んだ理由が良く理解できた。
「……だったら俺……」
 輝姫と同じように——。
「ダメですっ」
 頬に鋭い痛みが走った。
「え……」
 床に力なくへたり込んだ篤彦は片腕は男に掴まれたままだった。その涙で濡れた頬を輝姫に強く叩かれたのだ。
「たとえあなたがここに残っても、卓夫様は来られません。もし来たとしても、あなたを選ぶことはありません。それは必ず伝えるように、と言われています」
 半ば怒鳴るように伝えられた言葉に、目を瞠る。
「もう……来ないっ——て?
「卓夫様は仕事の拠点を海外に移されます。住居もアメリカになるそうです。ですので、ここにはもう来られないとのことです」
「う、嘘……」
 もうここに来ない?
 アメリカ?
 そんな……。
「嘘ではありません。実際、他のお客様達にもそう挨拶をされていしました」
 輝姫が嘘を言うはずもないことは判っていた。
 ならばその言葉は真実なのだ。
 だったら……。
「俺は……もう会えない?」
 礼も言っていない。たくさんの本とこの服を貰った。そして、返して貰ったたくさんのお金。それが一体幾らなのか、判らない。
 けれどそんなこと以上に、卓夫が好きだった。
 あの人になら、何をされても構わないと思っていた。
 その言葉も伝えていない。
 なのに、もう会えない。
「あなたはここを出て行くのです。それが卓夫様の希望です」
 握られたままの手首を取られ、広げられた手のひらの上に、輝姫はポケットから取り出した物を転がした。
「卓夫様から、あなたにプレゼントだと」
「卓夫様が……?」
「卓夫様はあなたが気に入っておられましたから」
 それは借金返済を肩代わりしたことからも判るでしょう?
 諭すように言われた言葉と、目の前に転がる緑の石に篤彦は言葉を失った。
「小汚え石だな。磨きが入っていねえのか」
 護田が覗き込む。
 確かに、表面が粗いせいか、どこか濁っている。けれどずしりと重い。
「エメラルドの原石です」
「これが?」
 うさんくさそうな護田が、それでも納得したのか「ああ」と呟いた。
「確かに、色はそれらしいな。だが、何で原石なんだ?」
「これはあなただそうです」
 手のひらの上を握らせながら、輝姫はまっすぐ篤彦を見つめた。
「俺?」
「緑姫はまだ原石だから、相応しい磨かれ方をすればもっと良く輝くだろう。姫としてはもう十分だ。だが、彼には本来辿るべき別の道がある筈だ。その道で、これから先は十分に磨きをかけると良い、と」
 卓夫の言葉遣いを真似た輝姫がくすりと笑い、その手を離した。
「私もそう思います」
「俺が……原石? 他で磨け……って?」
 それはどういう意味なのか?
 不審げに輝姫を見上げた時、護田が惜しそうに首を捻った。
「姫としてはしっかりと完成されているけどなあ」
 その言葉に、篤彦はまじまじと男を見つめ、そして手の中の石を再度見つめた。
 俺が原石……。
 姫としてではない別の道で、磨かなければならないのだ。そうしなければ、自分はいつまでも原石のまま。
「卓夫様は俺がまだ原石だと……」 
「原石は磨かなければ宝石にはなりません。けれど宝石になれば、それに似合う方の持ち物になることは可能です」
「宝石なら……その人の持ち物になれる?」
 意味ありげな言葉を、篤彦は反芻した。
 あの人の……持ち物に……なれるのだろうか? 磨きをかければ。
 手のひらの上に転がる石は、エメラルドの片鱗は窺えるけれど、それでも綺麗とは言えない。これでは、パワーストーンに興味がある相手ぐらいしか、欲しがらないだろう。
 これでは卓夫には似合わない。
 あの人は、磨き抜かれた最上級の宝石が似合う人。どこの誰かは噂程度しか知らないが、それでも彼の身につけていたもので窺い知れる。
「はは?ん……なるほどねえ。相応しくねぇものはいらねぇってことか?」
 護田が意味ありげに誤魔化した言葉が、やけに頭の中ですとんと入ってきた。
「綺麗に磨き上げるには難しいことが多いらしいですけれどね」
 囁くように添えられた輝姫の言葉を、篤彦は原石を見つめながらこくりと頷いた。

続き