砂姫 後編

砂姫 後編

Suna-hime2

 じゃ、これを頼むよ。
 そんな言葉と共に渡された有紀が持つのと同じ携帯を、どうしたものかと見つめていた。
 溜まりに溜まった仕事は一日では終わらなくて、二日かかってようやく終わらせることができた。その直後、なんとか店に来ることは出来たが、理緒は砂姫として初めての仕事に出ている。
 最初の相手は俊郎だと聞いている。
 明け方まではさんざん啼かされるが、その程度で済むだろう。
 それまでは暇だと、友貴は理緒の部屋に来ていた。
 姫に供与されている部屋は、四畳半も無い。シングルのベッドと洗面所、そして簡単なガスコンロと水道だけがある。それで部屋はいっぱいだ。
 何度かぼろぼろに疲れ果てた理緒を連れてきたことがあるが、いつ来ても部屋の中はきちんと片づいていた。
 食事は弁当が支給されるが、残り物が散乱していることはない。
 そのせいか、あまり嫌悪感を抱くことなく友貴はいつもここを訪れていた。
 今日もそのベッドに横たわりつつ、理緒用の携帯のアドレス帳を確認する。
 中にあるのは、友貴の番号と有紀の番号だけだ。
 さすがにこっちには和人の番号は無い。
 これを渡せと言われたから、渡すつもりだけど。
 一体和人は何を狙っているのだろう。
 何故かひどく有紀を気に入っているようで、有紀のためなら何でもしてやろうという気配がありありなのだ。
 そんなふうに誰かに執着する和人も珍しい。
 確かに可愛らしい子ではあったけれど。
 あんなふうに優しい笑みを向けられる有紀のことを思い出すと、妙に心中が落ち着かなかった。
 彼女がまだ子供だから……だとは思う。
 けれど。
 ずいぶんと気に入られている。
 それに、なんというか、彼女は似ているのだ。
 和人が今まで付き合ってきた女性達に。
 彼女達は久遠家に相応しい女性ではないと判断されたのと、もともと和人も本気ではなかったから別れるのもさっぱりしたものだった。
 そんな和人の好みに、有紀もまた似たところを持っている。
 少し話をしただけだが、性根もしっかりしているし、立ち居振る舞いも綺麗だった。
 成績も優秀なのだと言うことはすでに知っている。
 後で和人に問い正した時に「足長おじさんごっこ」と言い切っていたけれど。
 足長おじさんは、最後になってから正体を現した筈ですが、と言うと、笑って逃げられてしまった。
 理緒のことも……。
 有紀のためとは言え、姫にこんな携帯を渡すなどとは前代未聞だ。
 今は二カ所のみの番号だが、その気になればどこへでもかけられるのだ、この携帯は。
 なんだかおかしい……。
 和人は理緒を潰すためにここに入れたのだと思っていた。
 有紀は子供だから、助けたのだと思っていた。
 けれど。
 有紀に優しさを見せる和人の行動は、友貴の理解とは違う所を指しているような気がしてならない。
 カチッと携帯を閉じると、するりと手のひらから落ちて、ベッドに転がった。
「……まだか……」
 時刻を確認すると、姫達が解放されるのはまだ先だった。
 はあっと一つあくびを零すと、さらに睡魔が襲ってくる。
 眠い時には考えても無駄なことが多い。
 そう思って、睡魔に誘われるがままに目を閉じた。
 カタン、と小さな振動が伝わってきた。
 その音に、友貴の意識が現実へと戻ってくる。
 細く開けた瞳が薄暗い部屋の中に誰かいるのを見いだした。
「……誰……」
 自分の部屋に誰か入ってきたのかと緊張したが、すぐにここは理緒の部屋だと思い出した。
「すみません……」
 それと同時に、理緒の掠れた声が返ってきた。
「起こすつもりはなかったんです。あの……寝てて下さい……」
 相変わらず、人のことばかり気にする理緒に、友貴は眉間にシワを寄せて起きあがった。
 理緒の声が酷い。
 かろうじて出している感じだ。
 それに、理緒の顔が低い位置にある。
「どうした?」
 床に座り込んでいるのと深く俯いているせいで、理緒の顔が見えない。
 それに、今度は何一つ返してこない。そのことに、苛立ちが強くなってくる。
「顔をあげろ」
 強い口調で命令すれば、ようようにして理緒が顔を上げた。
 その途端、きしっと胸が痛いほどに軋む。
「お前……」
 理緒が泣いていた。
 きっちり整えて出かけた筈の髪はかき乱れ、口の周りと頬に白濁した汚れが付いている。顎には唾液が滴った痕までついていた。
 そんなぐしゃぐしゃの頬に、新しい涙が幾筋も流れ落ちている。
「何を……」
「お、俺……我慢できなくて……」
 何を——と言いかけて、はた、と言葉を飲み込んだ。
「す、すみません……俺……。あんなに、教えて貰ったのに……、すみません……」
 ベッドの端に頭をつけて、グズグスと鼻を啜る。
 手の届くところにある頭に、思わず手をやりそうになって、ぎゅっと拳を握った。
 何を……自分は……。
 可哀想だ、と思ってしまった。
 哀れだ、と思ってしまった。
「こんなんだから……お客様にもさんざん怒られて、笑われて……。なっていないって……。でも、我慢できなくて……」
 繰り返す懺悔の言葉が耳に痛い。
 それを聞いていられなくて、そんな自分が愚かしいものでしかないように思えて。
 まるで逃れるように友貴の口が勝手に動いた。
「何度も達ったのか?」
 低くドスの利いた声音に、理緒がびくりと肩を震わせる。
 理緒は姫だ。友貴の言うことのみを聞くように、という和人の命令に従って育て上げる姫だ。
 そんな相手に情けは無用なのだ。
 ルールはルール。それを破った物には罰を与える。
 そうしなければならないのだ。
 可哀想、なんて思う方が間違いなのだから。
 だから。
 硬直した理緒の頭に手をかけて、その髪を引っ張って。
「砂姫、言え。何度達った?」
 重ねて問えば、理緒の噛み痕も痛々しい唇がゆっくりと動いた。
「……さ、三回、です……」
 その言葉に、ベッドから足を下ろして、理緒の股間を踏みつける。
 スーツの上からでも簡単に踏めるほどに張りつめたそれ。
「いっ!」
 身悶える友貴を冷ややかに見下ろして、口角を上げた。
「三回も達ってなお、元気だな」
「あ、あくっ……」
 足の裏に感じる塊が嬲られた刺激に固くなっていく。
 理緒の喉から零れる声音がひどく甘い。
 これは……。
「俊郎様だったな、お前の相手は」
「——あっ、は、はい、んっ」
「なるほど……、あの方は、ご自分で挿入されるより玩具を使われる方が多い。たっぷりとゼリーを塗りたくられた玩具をたくさん使われたろう?」
「んくっ、——は、いっ……いっん」
「それに、甘い香りが部屋に漂っていなかったか? あの方は、最中に香を焚かれることもある」
「あ、はんっ……は、はい……気持ちよくなる、っく、香りが、するのだと、言われて……」
 少し強いくらいの足の裏での刺激でも、理緒の体はどんどんと熱を持っていく。とても三回達った後とは思えないほどに呆気ない昂ぶりだ。
 それに、ここ一週間の躾では、理緒の体は痛みにはあまり反応しなかった。
 なら、この反応は、たっぷりと使われた媚薬のせいだろう。まして、砂姫のルールは、達ってはならないこと、だ。
 初めての接客である砂姫の体を翻弄し、ルールを破らせるためには、最適な道具だ。
 しかも、それはまだ理緒を蝕んでいる。
 けれどそれを理緒に教える義理は無い。
「ルール違反は、罰金……だが、今日は初日だからな、躾直しを先に行おう。その成果次第では、罰金は勘弁してやる」
 その言葉に、弾かれたように理緒が顔を上げた。
 涙でぐちゃぐちゃの顔が、ふわりと笑む。
「は、はい、がんばります。あ、ありがとうございます」
 その言葉は、本当に自然にでたとしか思えないほど、普通にかけられた。
「お、お前は……バカか」
 まさか、礼を言われるとは思わなかった。だが理緒は確かにこういう奴なのだ。
 どうして、こいつは……。
 確かに、借金返済を目的とする姫にとって、罰金ほど避けたい物はないだろうけれど。
 どうして、礼が言えるのだろうか?
 有紀の時にも感じた感情が、理緒にも甦る。
 この店で、ついぞ感じることのない、罪悪感という感情に押し流されそうになる。
 それは、ここでは許されないことなのに。
「どこまで我慢できるか、見物だな」
 必死にならないと抑えきれない感情を無理に押し隠して、友貴は氷の美姫たる所以の無表情をその顔に作った。
「三回も達った後なら十分だろう。今度は絶対に達くな」
 理緒の精液臭い体をベッドに引っ張り上げる。
 姫は行為が終わった後、客の許しが無い限りは、自室に戻るまで汚れを落とすことは禁じられている。
「服を脱いで、そんな厭らしい体を見せろ。生臭い臭いがぷんぷんしているぞ」
 そんな汚れた体がどんなに淫らで恥ずかしいモノか、友貴はさんざん罵倒しながら理緒自身の手で衣服を脱がせた。
12

 仰向けに寝かした理緒の性感帯である場所は、たくさんの赤い印が残っている。
 それは友貴がつけたモノもあるが、大半が俊郎がつけたものだ。
 しつこいくらいに残るその痕と、下肢に残ったゼリーの匂いに、くすりと嗤う。
「ずいぶんと可愛がって貰ったようだ。お前が良いところを教えたのか?」
 太股の付け根の敏感な部分に爪を立てる。
 びくりと震えるそこは、特に理緒が弱いところだが、キスマークやら噛み痕やらたくさんの痕が付いている。
「い、いえ……別に……」
「そうか? だが、こうやると……」
 刺激してやるとびくびくとてきめんに震える体は、どんな言葉よりも雄弁だろう。
「ほら、お前の体が教えている」
「ん、くっ」
 びくりと硬直した瞬間、後孔が音を立てて太股にとろけたゼリーが流れ落ちてきた。
 そこに仄かに残る香りは、特に媚薬効果の高いゼリーのモノだ。
 優しい顔つきで、なかなかに趣味の悪い薬を使ってくれる。
 これで達くなという方が無理なのだ。
 しかも、この薬がまだ香り立っているということは、まだまだ効果は持続している証拠だ。
「あ、あんくっ——あっ」
 肌の産毛が逆立つように撫でるだけで、面白いように体が跳ねた。
 理性を保っていたように見えた瞳も、あっという間に焦点が合わなくなってる。
 ズボンから勢いよく飛び出てきた陰茎は、下肢や下腹も含めて乾ききっていないゼリーやら精液やらでぬらぬらと光っていた。
 そこに、陰茎から新しい涎がたらりと落ちる。
 媚薬はまだまだ効果を発揮していて、体が熟れきっているのが、良く判る。
 いつもより熱い体はしっとりと汗ばんで、淫らな踊りを続けていた。
「どうして欲しい……」
「あ、あ……んっ」
 朦朧とした瞳の理緒が手を伸ばしてくる。
 抱き締めて欲しいとその瞳が訴えてくる。
 いつもの縋るような視線だ。友貴だけを見て、友貴だけが助けてくれる人だというように、縋り付こうとする。
 それに気付いた途端、友貴の瞳がすうっと細められたのは、自分が思わず優しい言葉をかけたくなったからだ。
 だが、友貴はすんでの所でそんな感情を押し殺して、冷たくその手を払い、涙で濡れた瞳を覗き込む。
「何をして欲しい?」
 今は、奉仕をしてやるつもりはない。
 これは仕置きだ。
 冷たく、激しくしないと、ダメなのだから。
 心の奥底で制止する何かに蓋をして、友貴は全ての思考を「仕置き」という言葉に集約した。
 どうすれば効果的で、どうすれば理緒に効くのか。
 今はそれだけを考えるのだ。
「あ、あ……」
 涎が流れる顎に口づける。
 手のひらで、理緒が感じる場所にゆっくりと触れていく。
 彼の小さな胸の突起も痛々しい赤い色を見せていた。それを爪弾くと、その度に理緒が何度も悲鳴を上げた。
「や……めっ!」
 制止の言葉を言いかけた理緒がはっと我に返る。
 くっと唇を結ぶが、それも長くは続かない。
 快楽と理性の狭間をいったり来たりして、何度もびくびくと体を震わせるのは、理緒の体力をどんどん消耗する。
 そのうち、快楽のみに襲われて、ルールも何もかも知識など吹っ飛んでしまうのだ。
 そうなれば、姫が落ちるのは早い。
 制止されていた言葉も、禁止されていたことも、コントロールできない体の前では、無いに等しい。
「あ、ああ——っ!」
 びくんと大きく震えた陰茎から、だらだらと精液が流れ落ちる。
 ぽろりと焦点の合わない瞳から、涙が一筋流れ落ちた。
「達くな、と言ったはずだが。しかも、まだ何もしていない」
「あ……」
 友貴の揶揄に、数度瞬きした理緒の瞳の理性が戻ってきた。
 うろうろと視線が彷徨い、頭が遅れて友貴の言葉を理解して。
「あ……す、すみません……お、俺……」
 自分の体が何をしでかしたのか気が付いて、狼狽え、謝罪の言葉を紡ぐ。
「仕置きにならないね、こんなに我慢が効かないのなら」
 その低い感情の無い声音に、理緒の表情が恐怖に強ばった。
 さらに目の前に差し出されたものに、ぎくりと目を見開く。
「これをつけて上げよう。お前みたいに我慢のきかない姫にはね、最適なものだよ」
 

「あ、あっ、ひぃ——」
 ぱんぱんと勢いよく打ち付けるたびに、大きく広げた股の間で、理緒の陰茎が震える。
 三本のベルトが食い込むほどに締めつけられて、さらに袋まで二つに絞り出されて。
 射精感を長引かせるのにうってつけのそれは、今のきつさではその射精すら叶わないようになっている。
 それをつけた理緒を、友貴は思うがままに犯していた。
 もとより、一度理緒の中に挿れてしまえば、遠慮や配慮などみじんもなくなるのだ。
 ただ、この体を貪りたくて仕方が無くなる。
 今日は媚薬の影響を避けるためにゴムを使用しているが、その薄いゴムが鬱陶しい。
 剥ぎ取って生で味わいたくて堪らない。
 たった一日、理緒の体を味わっていなかっただけなのに。抽挿の度に後孔がぐちゃぐちゃと濡れた音を立てる。何度ゴムを交換してもまだ満足できない。
 すでに一晩俊郎に嬲られた体は、そんな友貴の陵辱に悲鳴を上げているのだろう。
 口角から涎を垂らした理緒は、嬌声すら上げる元気もないようで、体にも力が入っていない。
 時折、譫言のように繰り返して。
「もう、……もう、友貴、さま……ゆるし……んっ……」
 しがみついてキスを強請る。
 キスをしないと、御願いは聞いて貰えない。それだけは頭に残っているようで、何度も何度もキスを仕掛けてくるが、それを交わしてさせなかった。
 絶望的な表情を浮かべた理緒の顔を覗き込み、厭らしい体だと、冷笑を浮かべてみせる。
「何を言っている。お前のこれはまだまだ元気だぞ」
 友貴の言葉と共にいきり立ったそれを爪弾くと、ゆるみ始めている後孔がぎゅぅっと締まる。
「あ、あはっぁぁっ」
「ほら、もっと楽しめ、砂姫、気持ちいいんだろう?」
 相性の良い体を貪る事は堪らなく愉しくて、もっと欲しくなった。
 子供の頃、気に入りの玩具は良く遊んだ。だから壊れやすい。壊れてもまだ遊んで、遊んで、遊んで。
「うっ、あっ、あっ、はっ!」
 ぼろぼろになってももっと遊びたかった。
 その点、砂は壊れない。
 綺麗な砂は、布の上で何度でもさらさらと風になびいて綺麗な模様を作った。
 だから砂姫と名付けた。
 小さくてどんな形にも馴染んで変化する。そして壊れない。
「あ、ひっぃ!」
「良いぞ、もっと腰を使え、締め付けろ……」
 目も眩むほどの快感は、今は理緒でしか味わえない。
「和人……」
 その名を呼んで貪り尽くす事ができるこの理緒だけ。
 熱い迸りを体内奥深くに受けた理緒が、びくびくと震えるのを抱き締める。
 腹に当たる熱い塊を煽るように腹で擦って足を絡めて、囁く。
「お前は私のモノ。私に従えば、お前は楽になれるんだ。これからは、ずっとこれを着けて接客しろ。そうすれば達って罰金を払うこともなくなる。達く時は私がこれを外してやる、こうやって」
 指先に感じるベルトを外す感触と共に。
「ひ、ああぁぁっ」
 限界を超えた射精に打ち震える体を強く強く抱き締めて、譫言のように彼の名を繰り返す。
「和人……いいな、お前は私に従えば、いつだって楽になれるんだ」
 震える体の中で、友貴のモノがまた大きくなる。
 動き始める腰に理緒が苦痛に顔を歪めて、けれど、悲しそうにぼつりと呟いた。
「……俺は……和人じゃない……」
 けれど、その言葉は行為に熱中している友貴の耳に入らないほどに、小さかった。
13

 ぐったりとベッドに埋もれている理緒は、友貴がその体を拭いても身動ぎ一つする気配が無かった。
 全身に体液を纏ったまま、気を失ったように眠っている理緒を、そのまま放って帰ろうかと思ったけれど。
 和人から頼まれた携帯を渡すのを忘れていたことを思い出して踵を返した。
 そうしたら、とにかくその体を綺麗にしたくなったのだ。
 ぷんと臭う青臭ささに、堪えられなかったのも理由の一つだったけれど。
 青ざめた体がとても寒そうで、何かしたくて堪らなくなっていた。
「理緒……」
 一枚目のタオルの色が変わっても、それでも目を覚まさない。
 下肢を汚したゼリーを洗うように湯が滴るタオルで拭いていく。
 シーツが濡れてしまったが、どうせそれも変えなくてはダメだろう。
 だが、それはさすがに理緒が寝たままでは出来なくて。
「理緒……動け。シーツを替えるから」
 耳元で少し大きな声を出すと、そのまぶたがうっすらと開いた。
「……友貴様?」
「濡れているから、替える」
「あ……はい……」
 のろのとろ四肢が動く。焦れったいほど緩慢な動きに、友貴は理緒の腕を掴んで引き寄せた。
 脇の下に手を添えて、ずるりとベッドから引きずり下ろす。
「そこにいろ」
 ぺたりと床に座り込んだ理緒に、パジャマを放り投げ、さっさとシーツを替えていった。
「友貴様……」
 そんな友貴の背に、理緒の声がかけられた。
「何だ?」
 ちらりと振り向くと、理緒が微笑みながら言葉を継いだ。
「あ、りがとう……ございます……」
「え……」
 思わず手が止まった。
 何のことだ、と訝しげに細められた瞳を見上げて理緒が指さしていく。
「達かせて貰いました……それにこれ……」
 すっかり萎えた陰茎には、友貴が嵌め直したペニスリングがあった。
 萎えた状態では特に問題ないが、勃起した時は痛いほどに理緒のそれを締め付けて射精を阻害する。
「これで、射精しなくてすみます」
「……お前は……バカか」
 なんでそんなことでこの男は礼を言うのだ。
 それは、あのルール以上に理緒を苦しめるはずなのに。
 ついさっき、それを経験したばかりだろうに。
「そんなものつけられて礼を言う奴など見たことがない」
「けど、俺、射精したら罰金だから……。そうしたら、借金返済延びてしまうから……。だから、礼を言うのは、当然です」
「……バカか……」
 どうして、それが当然なのか判らない。
 だが、理緒の謝辞の言葉はいつもじんわりと胸に染みこんでくる。
 照れのようないたたまれない感情が、友貴を支配して、思わず顔を背けた。
 顔が熱くなって堪らない。
「ったく……それから、これだ。これはオーナーからだ」
 照れくささもあって、放り投げるように携帯を理緒に渡した。
「え……携帯?」
「有紀ちゃんにも持たせている。電話番号も入っている」
 手短に必要事項を伝えると、疲れ切って暗さの残っていた理緒の顔がぱあっと輝いた。
 おたおたとフラップを開き、アドレス帳を開く。
「これ……有紀の……」
「ただし、向こうは寮生活でいろいろ制限があるから、まずはメールからだ。向こうにはもう渡っているから、こっちが連絡してくるのを待っているはずだ」
「は、はい……」
 慣れない機種なのか、もたつきながらメールを打っている。
 送信ボタンを押した時には、まるで祈るように両手で握って胸の前に当てていた。

「あ……」
 送信してから一分も経っていなかった。
 胸で感じた振動に、もたつく手が慌てて携帯を操作し耳に持って行く。
「……有紀……有紀……」
 何を言われているのか、理緒の目から滂沱のように涙が流れ落ちている。
「大丈夫……俺は……。良かった……良かった……」
 一体どんなふうにこの二人を引き離したのだろう?
 有紀の方は手荒などころか、ものすごく紳士的に和人自らが対応したらしいのが、先日の様子で判ったけれど。
「ん……そうだね。メールなら、遅れても絶対返すよ。ん、俺……夜の仕事が多いから……あぁ……」
 見ていると、二人の会話はずっと続きそうだった。
 せっかく悦んでいるのに、途中で邪魔をする気にもなれず、かと言ってこのままここにいても暇なだけ。
 そんな時間を過ごすくらいなら、と、友貴は座っていたベッドから腰を上げた。
 上着を羽織るその様子に、理緒がはっと我に返る。
「あ、あの……」
 慌てて電話を切ろうとするのを手で遮った。
「私は忙しい。後は勝手にしていろ」
「え……」
 冷たく言い捨てて、外に出るドアを開けようとした。
 と。
「ありがとうございます」
 ふらふらの下肢でかろうじて立ち上がった理緒が、深々と頭を下げてきた。
 それだけでぐらついて壁に手を突くほどに弱っているのに。
「ほんとうにありがとうございます……。友貴様のお陰で……俺……」
 感極まって涙すら流す理緒に、友貴は鼻白んでぐっと歯を噛みしめた。
「礼など言わなくて良い」
 何なんだ……。
「ちゃんと働いてくれれば良いんだ」
 砂姫として、客の受けが良ければ、それだけ友貴の成果を和人は悦んでくれるだろうから。
「はい、俺、がんばります」
 嬉しそうに頭を何度も下げて。
 なんだかいたたまれなくて、友貴はさっさと扉を閉めた。
 何なんだ、あいつは……。
 繰り返される自問の答えは、どう足掻いても出てこない。
 あれは、和人から託された姫の一人にしか過ぎないのに。
 ただ、とても気になった。
 仕事をしていても、気になって仕方がなかった。
 そんな自分が信じられなくて、けれど、理緒に会うと何故かそんな不可解な感情が大きくなる。
 そのせいか、理緒の元に訪れるのも、早くて二日、せいぜい三日から四日置きが通常になっていった。
 砂姫のお披露目から二ヶ月が経った。 今はもう誰も理緒とは呼ばない。
 友貴ですら、理緒たっての懇願で、理緒という名を口にすることはなくなった。
 砂姫——もしくは、水晶宮一の妖艶姫(ようえんき)。
 妖しく艶やかな夜の姫。
 それが、今の理緒の名だった。
 しかも、砂姫のルールは過酷なまでに理緒を縛る。
 どんなに達きたくても、達けないもどかしさ。
 時折ドライオーガズムを繰り返し、それはそれで理緒の体に負担をかける。
 そうやって身悶える砂姫は面白いと、客はあの手この手で嬲り続け、客が帰る時には熟れた体で放り出された。
 そんな時には、輝姫がその砂姫の手を引いて連れて帰る。
 ふらふらと自室へ帰る砂姫は、艶めかしい遊女のようだと他の姫達が噂している程だった。
 それなのに、友貴は毎日は来ない。
 行かない日は、砂姫の体は弾けそうなほどの熱を蓄えたまま解放できないのだ。
 体内に充満しきった熱は砂姫の精神すら焼き尽くすほどにたぎっている。もう十分だと思うほどの量なのに、解放されないから物足りなさがいつまでも残る。ずっと体内で燻り続ける。
 欲しい——と欲情した体を持てあましながら、砂姫はいつも店に出た。
 そうすれば新しい熱が与えられ、どんどん蓄積されていく。
 浅ましく乱れる事はしてはならない。
 客に媚びてはならない。
 友貴の躾はいつまでも砂姫を縛り、そのせいでよけいに砂姫はますます妖艶に輝く。
 我慢しきれない熱に深いため息を零し、潤んで焦点の定まらない瞳で接客する砂姫は、客達の嗜虐心をよけいに煽った。
 しかも、砂姫の人気は高い。
 そんな人気の高さが、砂姫の拘束時間を長くする。
 来店してすぐに宴の間の個室に連れ込まれ、客が帰るまで嬲られて、喘がされて。
 長い時には8時間にも及ぶことがあったから、喉などすっかり枯れ果てる。
 喉の薬を毎日服用しないと言葉を発するのが難しくなるほどだった。
 そんな砂姫が解放されるのは、友貴が来た時だけだ。
 夜半遅く、砂姫の接客中に現れて、砂姫の自室にて一眠りをしているかどうか。
 明け方ふらふらになって帰ってきた砂姫が、友貴に会えるか否かは、扉を開けた時に判る。
 砂姫にとって、今その扉は天国と地獄を分かつ扉となっていた。
 寝ている友貴がいれば、起きて抱いてくれるのを待つ。
 起こせ、と言っておいても、砂姫は友貴を起こさずにずっと待っている。結局、言っても無駄だと友貴も砂姫の好きなようにさせるのが常だった。
 そして、ようようにして目覚めた友貴に、砂姫は口付けを繰り返す。
 何よりもその瞳がどうして欲しいか雄弁に物語り、いつも友貴の嗜虐心に火を点けた。

 

14

『兄の様子が変です。病気ですか?』
 苛つきを必死で抑えている様子だった。
 不安に苛まれているせいだろうか? 
 その日、朝一番にかかってきた電話はまず和人宛だった。その和人から、友貴に転送された有紀からの電話で、友貴はすぐに言葉が返せなかった。
『……いえ、病気とは聞いていません』
『そうですか。けど、先ほど電話したら、兄の声ではないような声で。しかも、会話が成り立たないんです。挙げ句の果てに、いきなり切れてしまって』
『私も今は忙しくて現場の方には行っていないのですよ。何かあったら電話するように言ってはいるのですが、それもありませんから——大丈夫ではないかと』
 そう言いながらも、もう一週間も理緒の様子を見に行っていないことを思い出した。
 その途端、嫌な予感に襲われる。
『そうですか。では、一度急いで確認して頂けませんでしょうか? お忙しいとは判っていますが』
『え、はい』
 何故だが意志の強そうな声音に逆らえないままに、了承してしまった。
 本当なら、とても今は行ける状態ではないのだが。
『ありがとうごさいますっ、御願いしますっ、あ、お忙しいんですよね、失礼しました』
 先手を打ったように礼を言われて、口籠もる。しかも、何かを言う前に電話はさっさと切れた。
 しばらくして、和人の電話が再度鳴って、子細を直接有紀に聞いたのか、和人の眉間にシワが深く刻まれた。
「今日は様子を見てこい」
「え、でも……まだ仕事が」
「有紀ちゃんが怒っている。お前は了承したはずだな」
 何故か仕事よりも有紀の言葉が最優先になっている和人の言葉に、けれど友貴は逆らえない。
「はい」
 と了承して、できるだけ多くの仕事を片付けた。
 それでも残る書類の山を、理緒の仕事が終わるまでに、と残業して片付ける。
 今は決算期ということもあって、やたらに忙しいのだ。
 本当なら、理緒の様子など見に入れる状態ではない。
 何かあれば、電話をしてこいと言っているのだ。それが無いのだから、何も無い筈だ。
 そう思っていたのだけど。
 会社が静かになり、外が宵闇に包まれてくると、疲れ切った頭がふっと理緒の姿を脳裏に映し出した。
 それは前回会った時の理緒の姿だ。
 その時も間が少し空いたから、リングを外した衝撃だけで達ってしまうほど、ひどく欲情していて。
 熟れきった体をからかい、弄んで愉しい一時を過ごしただけだ。
 けれども……。
 そういえば、帰ろうとした時の砂姫が震える声で、次はいつ来られるのか……と聞かれた。
 その時には、てきとうに三日後くらいか……と言ったことを思い出した。

 仕事をなんとかこなして、ようやく店に着いた途端、野崎に捕まった。
「砂姫が壊れます」
「壊れる……って……?」
「もう限界です、砂姫は。友貴様にも連絡するように言ったですが、それだけは、と頑に連絡を取ることを拒むのです」
 そういえば、砂姫の携帯には友貴の連絡先も入っているはずなのに、未だ一度もそれは使われたことがなかった。
「もうこれ以上の接客は無理だと、そう何度も言ったのですが、友貴様はお忙しい方だからお呼びしたら申し訳ないと。それに、働くためにここにいるのだから……と休むことも拒絶して……」
 友貴以上に感情を浮かばせないはずの野崎の言葉には、怒りが含まれていた。
 この店では体調不良での休暇は認めていた。
 客に病気をうつしても拙いし、そんな体では十分な接客ができないからだ。ただ、休めば手当は出ないから、それだけ返済は遅れていく。そのために無理する姫もいることはいる。
 だが、そこまでせっぱ詰まる必要は無いと、砂姫には言ってあるはずなのに。
「砂姫は良い子です。あのルールは彼には過酷過ぎます」
 そう言ったのは輝姫だ。
 他の姫達を冷たく監視する立場の彼は、いつも他の姫達とは一線を画していたのに。
「あのルールを課すのであれば、もっと友貴様には頻繁に来て頂きたいのです」
 自らが苦痛を感じているように顔を歪める輝姫から尋常ではない憤りを感じる。
「何故……お前達がそんな……」
 言われる筋合いが無いと怒りすら感じたのに、出てきた声音は弱かった。
 そんな友貴に野崎が頭を下げる。
「差し出がましいとは思います。ただ、自分より友貴様の身ばかりを案じています。体が辛いのに、他の姫達に知っている事を全て教えて上げています。与えられた薬も惜しげもなく渡してくれます。見ているとこちらがいたたまれなくなるほどに」
「自分自身が苦しくなるんです。砂姫を見ていると……。あんな姿は見たくない……」
 輝姫が顔を覆う。
 何なんだ、これは……。
 疑問符が飛び交う友貴の足が速くなる。
 そんな友貴を、宴の間で、螺旋階段下で晒し者になっていた緑姫が呼び止めた。
「頼む、御願いだから……砂姫を助けて……あいつ、もう限界だよ、壊れてしまう……」 
 太く長いディルドに体内深く犯されて放置されているのに、それでも、懇願の瞳を向ける。
「あいつ……少しでも楽になるから……って、俺に薬をくれた。自分の……友貴様に貰った薬だから良く効くって……。潤滑剤も……くれた……。俺が壊れそうになるたびに繋ぎ止めてくれた……」
 欲情して上気した顔に泣き笑いの表情を浮かべて、緑姫が懇願する。
 そういえば、早々に壊れて樽見の店行きになると思っていた緑姫なのに。
 彼はまだこの店でそこそこにやっている。
「頼みます……砂姫は友貴様が好きなんです。っ……あなただけがあいつを助けられるんです。御願いします……助けて、やって……ください……」
 一体何が……。
 急いた気持ちで砂姫の部屋に向かう。
 扉の中、誰もいない部屋のベッドに腰掛けて、砂姫を待った。
 それからさほど経たないうちに、砂姫が帰ってきた。
「と、もき……様?」
 砂姫が室内に友貴の姿を見つけ途端、その場に立ち尽くす。蒼白な顔色に驚く間もなく、その頬に幾筋もの涙が流れ出す。
 その姿に、友貴は腰掛けていたベッドから思わず腰を浮かせた。
 その耳に、掠れて音のない声が響いた。
「と、友貴、様、お……願い……」
 瞳に浮かんだ涙が、ふるりと揺れて落ちていく。
 いつも帰ってきた時には、意識も朦朧とした感じではあったけれど。
 今日は特に酷い。
 ふわふわと左右に大きく揺れる体を見なくても、力が入っていないのが判る。
 何を見ているか判らない瞳は、今はただ友貴だけを写している。
 そして。
 泣きながら微笑みを浮かべて、両手を差し出してきて。
 頬は上気しているのに、生気が感じられない。
「砂姫……」
 呆然と呟いた唇に、砂姫が口付けてくる。
「おね、が、い……友貴様……」
 熱く熟れきった体内の熱を吐き出すそれはとても熱いのに、触れてきた手はとても冷たかった。
 尋常でない砂姫の様子に、有紀の不安が的中したことを知った。
 壊れかけている。
「お前……ほんとうに達ってないのか……」
 どうしても堪えられなくなったら電話しろ、と言っておいたのに。
「お、願い……します……」
 熱い口付けの合間に囁かれる。否、囁くことしかできないのだ。
「何で、電話してこなかったっ」
「……おね……が……」
 友貴の言葉も耳に入っていないようで、ただ闇雲に口付けてくる。
 砂姫が媚びるのは友貴を相手にする時だけ。けれど、それも滅多なことではしなかった。
 なのに。
 今はもうそんなことすら忘れているようだ。
 どろりと厭な塊が喉のすぐ底まで上がってきている。
 これは、誰だ……?
 胸の奥が痛い。
 和人にそっくりな理緒を、躾けていたはずなのに。
 なのに、今では砂姫という名より妖艶姫という名で呼ぶモノが多いのだと聞かされた。
 それが判る。けれど……。
 これは、誰だ……。
 理緒を理緒で無くしてしまってると今気が付いた。
 その結果、強い自責の念に襲われる。
「砂姫……」
「あ、はあっっ」
 あっという間に肌を露わにして腰を振る砂姫に、友貴は義務のように突っ込んだ。
 穿たれて、厭らしく腰を振って。
 ただ達きたいと友貴を求める砂姫からは、最初の頃のような強い瞳が見いだせない。
「砂姫……」
 その名でだけ呼んで欲しいと、砂姫が言ったのはいつからか。
 どんなに激しく犯しても、体はどんどん冷えていく。
 込み上げる熱い感情が、友貴自身を責め苛む。
「あ、ああっ、友貴……さまっ、……友貴——」
 懇願の声を聞きたくなくて、すぐにリングのロックを外した。
 途端に、持って行かれそうな程の収縮が陰茎を包み込む。
「あ、はぁぁぁぁっ——っ」
 悲鳴と変わらない嬌声が、室内に響いた。
 断末魔のようにガクガクと全身を震わせて、何度も何度も放出して。
 全身が歯の根も合わないほどに震えていた。
「す、砂姫っ」
 抱き締めて震えを力任せに押さえ込む。
「しっかりしろっ」
 それでもがくんがくんと体が揺れる。
「あっ……あっ……」
 開ききった瞳孔に、呆けたように開いた口から涎がだらだらと流れ落ちる。
 そこには、和人に似た知性有る表情はどこにもなかった。
「砂姫……り、理緒っ」
 ぺしぺしと頬を叩く。
 力の抜けた体がずるりと落ちた。
 その腹からシーツに、ひどく粘性の高い白い塊が落ちていく。
 リングを外された陰茎にはくっきりとその痕すら残っていた。
「……理緒、理緒っ」
「あ……」
 何度も使わなくなった名を呼んだ。
 そうでないと聞いて貰えそうになかったから。
「理緒っ」
「あ……と、も、き……様……」
 開いていた口が閉じられて、今度はゆっくりと友貴の名を呼んだ。
 開いていた瞳孔が閉じられ、数度の瞬きの後、焦点を結ぶ。
「判るか、理緒」
「友貴様……俺は……あ、そうか……」
 ぼんやりと周りを見渡して、怠そうに腕を上げる。
 伸ばした指先でそっと友貴の頬に触れて、ふっと微笑んだ。
「友貴様……ありがとうございます……」
 いつもの言葉に、胸の奥が熱くなる。
「バカか、お前は。何礼なんか言ってんだよ」
「でも、来て頂けた……」
 痛んだ喉にえづきながら、それでも答えてくれる。
「お前、どうして私に連絡を入れなかった? 辛かったら、言え、と言って置いたはずだ」
 電話がかかってくれば、それをネタに言葉責めでもしながら達かせるつもりだった。
 それすらも仕事にかまけて忘れていたけれど。
 それでも電話があれば思い出していただろう。
「でも、俺は大丈夫だから……、友貴様の方が大変だって聞いていたから……」
 野崎の言葉と同じ事を言う。
 どうして、こいつは……。
「お前は…バカか……」
「友貴様には良くして貰っているから……。これ以上ご迷惑はかけられない……」
 繰り返される言葉。
 理緒は、いつもだ。何にでも感謝する。
 こちらが困るくらいに感謝してくる。
「本当に有紀ちゃんがおかしいと言って電話をしてこなかったら、まだ来ていなかったところだ……」
「え……有紀が? 何故?」
 友貴の言葉に不思議そうに首を傾げる理緒に、電話の件を教えてやる。
 けれど、理緒は「知らない」と言った。
 覚えていない、と。
 だが、理緒が取り出した携帯にはちゃんと着信が残っているし、送ったメールの内容も残っていた。
「あれ……え、この日付……今日? これ……」
 呆然と呟く理緒に、友貴の背筋に悪寒が走った。
 過ぎた日の記憶すら残っていないのだ。
 それこそ、こんな状態で放置していたら、理緒は後数日で壊れていただろう。
 現に今までそんな姫を見たことがあるのだ。
「理緒……お前は……何で自分のことより、他の者のことを心配するんだ……」
 このままでは危ない。
 壊れない筈の砂でも、何度も何度も潰されれば壊れることだってあるのだから。
 それなのに、理緒はふっと思い出したように、呟いた。
「俺は……砂姫です。砂姫と呼んで下さい……」
「え……」
「すみません。俺、理緒の名で返事してました……。すみません……俺は、砂姫なのに……」
「理緒……」
「俺は砂姫です……」
 ぽつりと呟いて、御願いします、と口付けてきた。
15

 砂姫の名に拘る理緒に、友貴は埒が明かないとため息を吐いた。
 別に名などどうでも良いと思うのだが……。
「ならば砂姫聞きたいが、何故お前はそんなに礼ばかり言うんだ? そして何故、そんなにも自分を犠牲にする?」
「え、いえ……別にそんなことは……。それに、これは性分です……」
「そうか……?」
「はい、そうです」
「そうは思えない。それに喩えそれが性分だとしても、その原因になる何かが有るはずだ」
「……それは……」
 畳みかけるような問いかけに、理緒が次第にしどろもどろになってくる。
 指摘が的を射ている事の証拠だ。
「このままでは、お前は壊れる。自己犠牲の精神は感心するが、それで死んだらバカだ」
「は……いや、死ぬつもりは……」
「死なないと思うか?」
 くすりと嘲笑を浮かべ、理緒の顔を覗き込む。
「記憶がないお前は、厭らしいほどの媚びと淫猥さで私に迫ってきた。あんな姿を客に晒すようでは、ここに置くことはできない……。そうなれば……どうなるだろうな」
「あ……」
 さあっと青ざめた理緒が、ふるふると首を振る。
 最初にさんざん脅しておいた事柄を思い出した理緒が縋るように友貴を見上げる。
 その濡れた瞳がどんなに男を狂わせるか、さすがの友貴すらくらりと目眩すら感じたというのに。
「俺、別に普通に……その……、ほんとですか? 俺、そんなに厭らしかったんですか?」
「ああ、皆がお前を欲している。人気があるのは良いが、今は、高級な場所に潜り込んだ場末の娼婦の淫猥さを珍しく思っているだけだな。そんな態度はここではそぐわない」
「そ、そんな……俺……」
 責めるようにきつく言い放つと、理緒が呆然と呟いた。
 全くの無自覚だったようで、友貴の言葉を噛みしめるように繰り返し、顔を顰める。
 そんな理緒が歯がゆくて、友貴は苛々と言葉を継いだ。
 今の状況では、友貴を労ってる暇など無いはずなのだ。
「ならば、もっと他人を犠牲にしろ」
 けれど、友貴の命令にそれだけは、とばかりに理緒が強く首を振って拒絶した。
「砂姫……私の言葉は絶対だ。お前が生きたいと思うなら、私に逆らうことは許さない」
 もうこんな言葉で強要したいとは思っていなかった。
 けれど、このままではいずれ理緒が壊れる。
 そんな想いが友貴を突き動かした。
 どうしても、理由を聞きたかった。
「砂姫っ!」
 顔を覆って逃れようとする理緒の両手首を肩の上で押さえ込んで、至近距離でその瞳を覗き込む。
 強い視線に晒されて、理緒の体がひくりと震えた。
「あ、……お、俺は……バカだから……」
 その掠れた声が小さく響く。
「こんなことしかできないから……」
 言うつもりはなかったのだろうが、理緒は友貴の鋭い視線に逆らえない。
「お礼をしたかったんです……」
 そうするのが必要だから……。
 呟いて、くっとその表情を歪ませて。
「ヤクザに捕まった時、もう無理だと思って、死のうかと思ったけれど。俺たちは今こうして命があるから。有紀を助けてくれたから。だから、助けてくれたお礼がしたかったんです」
 そう続けた理緒が、視線を友貴に動かして、小さく笑った。
「俺……バカだから……」
 はらはらとまなじりから溢れる涙を腕で覆う。
「親父の会社がそんなに酷い状況だって知らなかったんです……人の良い親父でした。経営が苦しいからってさっさと辞める人間に退職金上乗せしてんですから。ずっと会社のためにやってきてくれたからって。でも、すぐに辞められる人は、たいてい要の人なんです。そんな人ばっかりが辞めた後に残るのは、どうにも能力が足りなくて行き先が無い人達ばかり。だからクレームは増えて、それで弁償金とか、オーダーが減るとか、悪循環。親父、ほんとに人が良すぎて、バカで……。でも俺の方がもっとバカだった」
 何かおかしいと思って実家に返ったら、すでにもうひどい状況だったという。
「昔はいつも暖かい家でした。なのに、すごく寒かったんです。妹なんて成長期だけど新しい制服のお金がもったいないってつんつるてん。普段着もお下がりの服来てて……俺なんか買ったばかりの服来てて」
 有紀はそれでも笑っていた。
 お帰りなさい、帰ってきてくれてありがとう、と笑顔で迎えてくれた。
「あいつ、家族以外にはけっこうきつい性格なんだけど頭の回転も良いし姉御肌みたいにみんなに好かれているんですよね。それを生かして割の良いバイトとか、店でいろいろとまけてもらったりとかして家計を助けていたんです。しかも、俺のために、って、学費なんか忘れないように振り込んでくれていたのも有紀だったって聞いて……」
 理緒の瞳からポタポタと落ちていく滴に見入ってしまう。
 震える声が友貴の感情をひどく揺さぶって、堪らなく苦しくなる。辛い思い出を思い出しながら辿々しく言葉を紡ぐ理緒を慰めたくて友貴は手を上げかけた。
 けれど、その手が止まる。
 その辛さを作ったのが和人だと言うことを思い出したからだ。
 和人の取ったことは正しい。
 けれど、ひどく申し訳なくて、苦しい。
 そんな友貴の葛藤にも気付かす、理緒はくっと口角を上げて、意を決したように言葉を継いだ。
「俺、なんとかしようと思いました。もう自分のバカさ加減に呆れて、だからその時誓ったんです。もう今からでも親父と妹のために頑張ろうって。会社に入って、現場に入って。懸命に働いていたら、みんなもやる気になってくれて、少しだけ上向いてきたんです業績も——なのにっ……心臓発作で……、俺が帰って二ヶ月も経っていなかった」
 その言葉に目を瞠る。
「え……お前の父親は病死なのか?」
 こくりと頷いた理緒が、自嘲気味に笑っていた。
 笑わずにはいられないといった笑顔に、胸の奥が軋む。
 必死になって会社と子供のために働きずくめで働いて、いつの間にか心臓が弱り切っていたということか。
 てっきり自殺なのかと思っていた。
 借金苦の自殺なのだと。
「それでも、俺のがんばりを見て、みんな助けてくれたけれど……俺じゃあ、信用が無くて……」
 取引先の銀行からも融資は貰えなくて、とうとう手形が焦げ付いた。
 ははっと小さく笑った理緒が、くしゃりと顔を歪めた。
「銀行側はどうにかなったけど、問題は闇金の方。せめて、妹だけは先に逃がしたかったけれど……未成年の有紀を行かせる所はどこにもなかったんです……」
「それで、お前達は和人さんに捕まったのか?」
 てっきり父親の死も和人が企てたのかと思ったけれど、さすがに和人も病気までは操れない。
 だが、理緒は友貴の言葉に首を振って否定した。
「違います……捕まったのは、あの町の金融ローンの何とか……って。ヤクザみたいな奴らです。俺を殴って、妹ごと車で連れて行こうとしたんです」
 いや、それが和人さんの……と言いかけた言葉を飲み込んだ。
 金融ローンのヤクザ……?
「何という名だ? その会社」
「えっと……幸せとかハッピーだったかそんな感じの名前の……」
「幸せ……ハッピー……ハッピーローン……か?」
 その名に覚えがあった。
 理緒がここに来る何週間か前、確か和人が電話でその会社名を誰かと話をしていたのだ。
 何を企んでいるのか? と聞いたら、内緒、と嗤って答えてくれなかった。
 ただ判ることは、それは和人の傘下ではない。
 傘下でないからあの時気になった。
「倉庫みたいな所に閉じこめられて、もうダメだって思ったんです。その時、有紀と……ほんとに死ぬ話までしていて……」
「……」
「でも、有紀が言うんです。お兄ちゃん、ありがとうって。もうどうにもならないかもって思ったけど、帰ってきてくれたからここまでがんばれたって。今の状況はお兄ちゃんのせいじゃないよ。何もかも闇金って奴が悪いんだから、ねって。……けど、なんかそれを言われると俺、もう有紀のためなら何でもしたいって。どうしても有紀だけでも助けたいって。それがこんなふがいない兄の役目だって思ったんです。そうしたら、オーナーが……和人様が助けてくれました。有紀はちゃんとした中学に通えて……。俺には借金返済の期限を延ばしてくれて……」
 流れた涙を拭って理緒がふんわりと微笑む。
 和人に良く似た理緒だが、笑い方は全く違う。
 いや、何もかも和人とは違う。
 今後どんな教育を施しても、理緒は理緒であり続けるだろう。和人が和人であるように、理緒は理緒でしかない。
「言いたいんです、ずっと。オーナーに直接会ったことないけど、ありがとうございますって」
 大きく息を吐いて、微笑む。
「でも言えないから、その分友貴様に感謝しないと、って思ってます。友貴様には……いろいろ教えて貰えて、俺、他の人達よりずいぶん待遇が良いのだと知ってます。友貴様が決めたルールで、俺はとっても高給取りなんだということも知っています。だから、友貴様にはこれ以上迷惑をかけたくなかったんです。前に俺のせいで熱まで出されていたから……仕事が忙しいのは知っていたので……」
「熱……って、あれは……」
 ただ、その前の仕事の疲れが出ただけの事なのに。
「他の姫達を助けたいって思ったのは、姫達が楽になってもっと客達と上手にあしらえるようになったら、店のためにもなるでしよう? それは未だお礼を言えないオーナーのためになるのだから……」
 お礼を言うのは、有紀の真似なんですけどね、と続けた理緒に、友貴はきつく唇を噛みしめた。
 そんなお礼を言われる筋合いでは無い。
 和人にはお礼を言っても良いかも知れないけれど。
 実際に、和人は確かに彼らを助けたのだ。
 もっと早くから助けられたのでは——という気もしないでもないけれど、それでも和人は最悪の事態から彼らを救っている。
 その理由は……きっとあの有紀という子なのだろう。
 珍しく和人が気に入っているあの子。
 だから、和人へのお礼は判る。
 けれど、友貴へのお礼は……見当違いも甚だしい。
 ルールも、別に理緒の手当を上げるためにしたのではないのだ。
 ただ、その方が面白いから。
 快感に翻弄されて理緒が友貴の言うことだけを聞けば良いと思ったから。
「俺はまだ、我慢できます。大丈夫です」
 起きあがることもできないくせにそんなことを言う。
「バカか、お前は……」
 なんだって、こいつはこうも人の罪悪感を刺激するのだろう。
 しかも悪意無しにだ。
 それに。
『砂姫は友貴様の事が好きなんです』
 そんなことを緑姫が言っていたことを思い出す。
 ちらりと理緒を見下ろすと、ふわりと嬉しそうに微笑んで返された。
 何なんだ、これは……。
 頬が熱くなる。
 心臓がやけに激しく鳴り響く。
 ああ、もうっ——。
「……くそっ、判った。これからは、毎日俺に電話しろ」
「え……?」
「仕事が終わって私が来ていなかったら、すぐに電話しろ。どうせその時間には俺は起きている」
「け、けど……」
「お前が自分で連絡しないって言うなら、私がする。またこんなことになって有紀ちゃんに不審がられたら、私が和人さんに怒られるからな」
「あ、いや、そんなこと……」
 慌てて体を起こそうとする理緒の肩を押さえつけて、乗り上げて。
「私の言うことに、拒否権は無いんだよ、お前は」
 氷の美姫にこんなにも恥ずかしい感情を抱かせておいて、理緒自身はそんな自覚は無いだろう。
 そう思うと、友貴は内心むかついてきていた。
「だから、良いか。必ず電話しろよ。判ったなっ」
 怒りすら含んだ声音に、理緒がたじろいで頷く。
「は、はいっ」
 そんな理緒の髪を掴んで、ぶつかるようなキスを落とした。
 何でこんなに……。
 こいつが欲しいんだろう。
 疲れ切って寝かしてやりたいと思うのに、理緒の体内で達きたいとも思う。
 体液にまみれた肌は、よく見れば艶も何もかも無くなっている。けれど、それが美しいと思う。
「砂姫……」
 名を呼んで、彼の体をベッドに押しつける。
 高く掲げさせた後孔に、自らのいきり立ったそれを突き刺した。
「あ、ああっ」
 無理に貫いて犯しているというのに、理緒が微笑みながら泣いている。
「友貴様……友貴様……」
 嬉しそうに微笑んでいる。
 こんなにも、理緒は友貴を中心にして動いている。
 和人の命令である理緒の全てを支配しろ。
 それはもう、こんなに簡単に達成できていたのだ。
 バカな理緒。
 こんな私に盲目的に従うバカ。
 それは、友貴もまた和人には盲目的に従っているのだ。しかし、和人はそんな友貴を陥れても罪悪感など持ってくれないだろう。
 けれど、友貴は今、理緒に対してこんなにも罪悪感を持っている。
 理緒を助けられない自分が悔しくて堪らない。
 バカな理緒……。
 いつか私に壊されるかも知れないのに。
 ここから助けてやることもできないのに。
 けれど。
「砂姫……バカだよ、お前は……」
 耳朶を喰みながら囁けば、さらに嬉しそうに笑われて。
「友貴様……」
 掠れた声音で呼ばれた名に、友貴は一気に高みへと駆け上ってしまった。
16

 次の日、友貴は理緒に休みを取らせることにした。
 友貴が来ない間に心身共に過大なストレスがかかっていたのだろう。今の友貴に必要なのは休息だと感じたからだ。
 それを野崎に伝えると、彼は黙って頭を下げて了承の意を示した。
 輝姫も頷き、すぐにその手配に走る。
 その動きを見ていると、ふと、姫達の間にあったギスギスとしたライバル心のような物が薄れているような気がした。
 それは、ほんの僅かな変化ではあったけれど、前よりこの空間が居心地の良い物になっているような気がする。
 癒しの間に漂うリラックスした雰囲気に、友貴は知らず微笑みが浮かんだほどだった。

「いらっしゃいませ」
 指示を出している最中に、最初の客が到着したことを知らされた。
 振り返り、視認できた相手に一礼する。
「いらっしゃいませ、俊郎様」
「やあ、友貴くんか。早く来た甲斐があったね」
 にこやかな笑みで手をさしのべるそれに口付ける。
「もしかして、氷の美姫に相手を頼めるのかな?」
 その言葉に、友貴は薄く微笑んだ。
「申し訳ありません。私はこれから社に戻らなければなりませんので」
「おやおや、忙しいねえ。君にはぜひここの専属になって欲しいのだが」
「ありがとうございます」
 口からすらすらと出た謝辞が、なぜか虚ろに響く。
 それに比べて理緒の謝辞はいつも心に優しく響いていた。
 つまりは、あれが心からの……という物なのだろう。
「しょうがないね。今日は砂姫にしようか?」
 ほんの僅か、ぼんやりと意識を飛ばしていた友貴だが、砂姫の名にはっと我に返る。
「砂姫は……申し訳ありませんが、本日お休みを頂いております」
「休み……かね?」
 胡乱な瞳が友貴を射る。
「だが、私は砂姫と遊びたい。休みの取り消しを依頼する」
「——っ」
 言葉遊びは不要。
 鋭い視線がイエスかノーかどちらを要求している。
 光でも闇でも、俊郎は和人に取って大切なお得意様だ。彼を怒らせることは、和人に不利益になる。和人が一番の友貴にとって、返事は逡巡する間もなく決まっていた。
 それでも。
「しかし……砂姫は体調が……」
 たいていの客は、それで諦めてくれるのに。
 俊郎は意にも介してくれなかった。
「構わないよ。別に苛めるわけではない。一晩一緒にいて貰うだけだ。昨夜のあの妖艶さはもう無いかも知れないが……君に遊ばれた後の砂姫もまた一興なんだよ」
 咄嗟にそれ以上の嘘はつけなかった。俊郎がそんな程度で済ませるとは思えなかった。
 けれど、ウイルス性の病気だと言っても、では医者の診察で確認しよう——とでも言い出しかねないのがこの俊郎だ。
 この古狸……。
 きっと、俊郎はどんな事をしてでも遊ぼうとするだろう。
「わかり、ました……」
 くっと奥歯を噛みしめて頭を下げる友貴を、俊郎は厭らしく嗤って見下ろしていた。

 
 俊郎を迎えた直後、友貴は手早く理緒に状況を説明して、終わるまでには必ず行くと伝えて、会社に戻った。
 すでに退社時間は過ぎていたが、幸いにして和人を捕まえることが出来て、友貴は事の顛末を全て報告した。
 理緒の限界、それを作り出す彼の心情、そして休みを取らせようとしたが、俊郎に邪魔されたこと。
「本当に甘ちゃんだね。そんなことでこの世知辛い世の中を渡っていけると思うのかねえ……」
 くつくつと喉の奥で嗤う和人の姿は想像できていた。
 だが、続いた言葉は、予測不可能なものだった。
「よっぽど有紀ちゃんの方がしっかりしているな。あの子は、俺に感謝しつつも、必要なことはきちんと要求してくる」
「え……和人さんに、ですか?」
「遠慮がないぞ。毎日のようにメールが来る。猫っかぶりもあそこまでいくと完璧だね。お前、完璧にだまされたもんな、あの子の涙に」
「だまされたって……」
 愉しそうな和人に、友貴は再度有紀のことを思い浮かべてみたけれど。
 会った時にも、先日の電話の時にも、兄のことを心配している様子は本物だったはず。
「有紀ちゃんは、大学卒業までの資金援助と現時点で残っている借金のうち半分の凍結を、俺に契約させた」
「援助と……凍結?」
 だが、和人の言葉は、友貴ですら驚愕する内容だった。
「最初は兄貴に危害を加えないというのも条件に入っていたが、それは借金返済の件があるから譲歩して貰った。ただし、殺したり、どこかに売り飛ばすことはしないのは条件に入っている」
「そ、それって……まさか、彼女は理緒が何をしているのか知っているということですか?」
 体を売る事を、何よりも知られたくないと動揺していた理緒を思い出す。
「具体的には知らないだろうが……、まっ、想像はしているだろう。夜の仕事で、高給取りというのは普通に考えてそうないだろう? それにあの兄貴が今更土木作業が出来る訳がないと言い切っていたからな」
「そ、そんな……それで、自分は学校生活を送っているのですか? 兄がどんな目に遭っているか知っててなお……」
 可愛い子だった。優しそうな子だった。兄と連絡が取れると嬉しさに零す涙は本物だった。
 それなのに。
「だから、借金半分凍結だ。つまりその残った半分は自分で返すからってことだよ」
 自分で……返す?
 呆然と口の中で繰り返す友貴に、和人は肩を竦めて返した。
「凄いだろ。俺に言い切ったぜあの子は。まあ、その気の強さも俺が惚れたところだけどね」
 さらりと惚気て、友貴を意味ありげに見上げる。
「もっとも、有紀ちゃんに理緒がしているような事をさせるつもりはない。あの子には、俺の傍にいて貰うから」
 くつくつと喉の奥で嗤って、ほんの少し勝ち誇ったような笑みを見せた。
「あの子は、それすらも判っているみたいだったけどねえ……。なんというか、実の父親より、久遠家の血をよっぽど色濃く引いているよ。理緒のことを知った時に、たまたま彼女を見かけたんだ。何て言うか、一目惚れに近かったね、あれは。商売に駆けては百戦錬磨の魚屋の主人相手にああも見事な啖呵を切った挙げ句に、値切りまくった姿は、ちょっと祖母様を思いだしたよ」
 そういえば、この人はお祖母さん子だった……。
 それを思い出すと、今までつきあいの合った女性達の共通点がもう一つ見えてくる。
 それら皆、件の祖母に似ているのだ。容姿も性格も……。
 口元に手をやり、はあっとため息を吐きながら、そんなことを思い出していた友貴だったが、次の言葉にはひっと情けなく喉を鳴らしてしまった。
「だから、俺の結婚相手としては十分だって思ったよ。後五年……高校卒業を機に俺と有紀は結婚するつもりだ」
 口元に当てていた手が硬直して、いつまでも降りない。
 久遠家の血。結婚相手。
 久遠家の当主である和人が、いつか誰かと結婚するとは思っていたけれど。
 それを目の当たりにして、友貴は身動ぎ一つ出来ないほど動揺していた。
 頭が真っ白になって何も言えない。
「あ……え……」
「まあ、俺もそろそろ身を固めないといろいろとうるさい訳だからね。その点、あの子は最適だよ。血筋も、性格も容姿も……。変な後ろ盾も無いしね。何しろ、最愛のお兄さんは、友貴にぞっこんだから」
 青ざめた立ち尽くした友貴を、和人が見ていた。
 友貴の大好きな笑みを浮かべて、混乱している友貴が判るようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……もう判るだろう? 俺がお前に理緒を託した理由が。……お前が俺のことを絶対に裏切らないということが判っているからだ」
「は、い……」
 それは間違いない。
 友貴は、和人を裏切らない。裏切ることなど出来ない。何よりも、和人が好きだから。愛しているから。
「だが、俺は……お前の好意をこれからもこうやって踏みにじっていく。俺のために、好きでもない仕事をして、好きでもない奴らに体を拓いていくのを見ても何も言わない。そして、お前の目の前で女と結婚して見せる」
「そ、それは……それは……仕方がないことです。和人さんは、久遠家の当主だから……」
「ああ、結婚は女としかできない。そして俺は女しか愛せない。だから、お前を抱いて慰めてやることもできない……」
「そ、そんなこと、端から望んでいませんっ」
 判っていた。
 和人は、ああいう店を開いてはいても性的嗜好は至ってノーマルで、女性しか抱かない。
 だから、そんなこと期待すらしていなかった。
「そうだな。そんなことをしてやろうと思う方がお前にとっては侮辱だよな。お情けなどお前は受けないだろう?」
「当たり前ですっ。私は、十分な報酬を頂いていますから、それで十分ですっ」
「そして、俺が結婚してもお前はずっと俺の傍らにいるだろう?」
「もちろんですっ」
 それだけははっきり言えた。
「だから、お前に理緒を預けた」
 お前だけが信用できるから。
 苦笑いを浮かべる和人に友貴は深く俯いた。
 信用して貰えて嬉しい、と思う反面、改めて伝えられた言葉が重くのしかかる。
 この想いは、どう足掻いても和人には受け入れて貰えない。
 そして、これから先、ずっと和人は友貴の想いを利用していくだろう。
 でも……。
 友貴がゆっくりと顔を上げて、まっすぐ和人を見つめた。
「理緒は完全に私の支配下に置きますので、ご安心を」
 強い決意を秘めたそれに、言外の全てを知って和人が微笑んでくれるのが嬉しい。
 和人だけに忠誠を誓い、和人のために働くことを選んだあの時から、自分にはもう和人しかいない。
 それを今更変更することはできない。
 それに、和人に仕えると言うことは、いつまでも理緒がこの手の中にあると言うことなのだ。
 和人に良く似た——けれど和人より優しく穏やかな理緒。
 今も俊郎相手にその媚態を晒しているであろう理緒を助けて上げられるのは、後にも先にも友貴だけなのだ。
 そこに生まれた感情は、今や和人を想う時と同じくらいに強い。
「鹿野山俊郎の件は俺が何とかしよう。あのご老体もそろそろ隠居して貰った方が良いようだ。野崎達よりも連絡を受けている。最近特に姫の遊び方が鼻につきだしたとな」
「よろしく御願い致します」
 頭を下げる友貴の凛とした様子に、和人が満足げに頷いた。
17

 有紀は毎日和人にメールをしてくると言っていた。
 先日理緒のメールを見た時も、有紀から毎日来るメールに理緒は必ず返信している。
 だが、友貴の携帯には理緒からの着信は一つも無い。
 溜まった仕事を片付ける友貴のデスクの上に置かれた携帯は、びくりとも動かない。
 まだ接客中だ……。
 だからだ。
 それでも、連絡が来ないことが気になってしまう。
 後一時間、そろそろここを出ないと終わるまでには戻れない。
 だが……。
 このままここで理緒が部屋に戻る時間を迎えていたら、理緒は友貴に電話してくるだろうか?
 それを試したいという欲求もまたあった。
 なんだか和人が羨ましくなったのも事実だし、あれだけ強く命令したのだから、理緒からかけて欲しいという想いもあったのだ。
 だが、終わり次第達かせてあげて早く休ませたいという欲求もまたあって。
 二つの欲求が、仕事をしなければならない頭の中を駆けめぐる。
 その姿は、とても和人に見せられないほど落ち着かないものだった。
 それにしても。
 何故姫ごときにこんな気分になってしまったのだろう?
 確かに、理緒は和人に似ていて、あんな風に慕われたら、邪険にするのが忍びなくなったのは事実だ。
 だが、今友貴の胸中にあるのは、それだけではないとも想う。
 結局、残り時間30分を切って、友貴は堪えきれないようにがたっと席を立った。
 バッグの中に急ぎの書類を放り入れ、脱いでいたスーツの上着を羽織る。
 足早に部屋を出て、愛車に乗り込んで。
 気が付いたら、30分ほどかかる距離を20分足らずで到着していた。
 俊郎によって蜜蝋の間に連れ込まれた砂姫は、開店直後から今まで、全身を拘束され、高濃度の媚薬の香をえんえん嗅がされ続けてきた。その上、後孔にはこの店でもっともきつい媚薬とともに、やはりもっとも太いディルドが埋め込まれていた。それがずっと砂姫の後孔深くを抉り続けている。
「あ、ぁ……はぁ……」
 喘ぎ悶える砂姫の裸体にはあちらこちらに俊郎が放った精が化粧のように塗り広げられている。
 胸の突起は赤く膨らみ、友貴の手によるリング以外幾重にも縛られた陰茎は歪に歪みながらもたらたらと涎を流していた。
 今砂姫の瞳の焦点は合っていない。
「そろそろ、また生身のこれが欲しくなったろう?」
 俊郎の声音は優しい。
 限界近くまで広げられたディルドを容赦なく引き抜かれ、悲鳴を上げる事も出来ない砂姫に、勢いよく己を突き立てる。
 その陰茎には、勃起を助けるリングが幾重にも取り付けられており、必要以上に砂姫の内壁を抉るようにできていた。
「あ、あっ、あっ……」
 衝撃と痛みに目を見開き、意味不明の声を上げる砂姫をうっとりと眺め、激しく腰を使い犯していく。
「なんて良い体だ……、和人くん。私はずっと前から君をこうしたかったんだよ……」
 俊郎はいつも砂姫の事を和人と呼ぶ。
「なんて淫らな体をしているんだろうね。これはまだ欲しいって涎を垂らしているし」
「ひあっ」
 ピンと指先で弾いて、力の失った砂姫の締め付けを強くさせる。
「ほら、もっと腰を動かしなさい。それでは私はいつまで経っても達けやしない」
 もう動く気力もないほどに疲れ切った砂姫への命令を、冷たく下した。
「君がちゃんと働かないなら、あの氷の美姫にも来て貰おうかね。彼をたっぷり犯して悶えさすのも私の夢なんだよ」
 その言葉に、朦朧としていた砂姫の瞳に焦点が合った。
 それまでぴくりとも動かなかった腰が、ゆっくりではあるが、動き始める。
「んっ、はっ……」
 荒い息はさらに乱れ、全身の力を振り絞って、俊郎を締め付け、達かせようとしていた。
「ふふ、氷の美姫の名はてきめんだね」
 俊郎は、そうやれば確実に砂姫が意識を取り戻す事を知ってから、疲れ切って動けなくなると名を出して、砂姫にずっと奉仕を強要し続けてきたのだ。
 とても敏感な体を持ちながら自分では決して達くことのできない砂姫を媚薬まみれにして、解放できない熱を体内にさんざん溜め込ませてなお、砂姫を辱める。
 先の一週間、通常の客であれば、あれほど砂姫の状態は悪化しなかった。だが、七日間の内、実に三日間を俊郎が買っていたのだ。他のどの客よりもしつこく濃厚な時間を過ごす俊郎に。
 他の姫ではそれほどまでに嗜虐性が高い兆候を見せない。
 砂姫だけは俊郎には特別なのだ。
「足りないだろう……私のはもう力がないからねえ」
 一度取り出したそれは、確かに通常時の半分程度しか勃起していない。もう何度も砂姫の体で達っているのだ。
 体内で出してそこから溢れた体液は、全て砂姫の体に塗り込めて、さらに犯す。
 それでもさすがに年の関係もあって、俊郎の陰茎はそろそろ限界に来ていた。
 だから、と俊郎が取り出したのは、体内埋め込み式のローターだ。
 だが、ありとあらゆる道具を備えている蜜蝋の間であっても、それはここには無いものだった。
 通常、許可無く玩具の持ち込みは禁止されているのだが、俊郎はいくつも自作の玩具を持ち込んで姫達に使っているのだ。自分の力を誇示し、やりたい放題をしているのがこの男だった。
 それでも前まではここにある玩具より少しだけ強いあるいは大きい程度のモノだったそれが、砂姫と遊ぶようになってから、限度を超えたモノを持ち込むようになっていた。
「これも挿れてあげるよ。君はこれが大好きだよね、和人くん」
「ひ、ぃぃ」
 入り口近くに入れたそれのスイッチを最大にする。
 激しく振動するそれに体を跳ねさせる砂姫を押さえつけ、俊郎は淫猥な笑みを浮かべながら、滑ったままの自身をぐいっと押し込んだ。
「あ、ひゃああぁぁぁっ」
 長い悲鳴が室内を満たす。
 俊郎の陰茎によってあり得ないほどに奥まで入れられたそれが、腸壁を抉るように暴れている。
 痛みすら覚えるそれに泣きじゃくり、止まらない悲鳴を上げて。
 けれど、欲情した体は、萎えることなくたらたらと涎を垂らす。
 そこにたっぷりと媚薬入りクリームを垂らして、思いっきり扱き上げられた。
「あ、あぁぁっ、やあぁぁっ——っ」
 激しく振り回される髪から涙と汗が辺り一面に飛ぶ。
 喉は張り裂けるほど開いて、口の端から流れる唾液は傷ついた喉の出血によって赤く染まっていた。
「いいよ、なんてすてきな悲鳴なんだ……和人、お前は最高だよ……」
 そんな揶揄の言葉などすでに砂姫の耳には入っていない。
 体は与えられる刺激に勝手に動き、前立腺の絶え間ない刺激により、終わりのない絶頂が途切れることなく襲っていた。
 激しすぎる快感は砂姫に痛みだけをもたらし、けれど体は刺激に反応してしまう。
 もう何度も何度も繰り返されたそれは、砂姫の体に多大な負担を強いていた。
 全速力で走った時のような速度で動いている心臓も、その例外ではない。
「あ、あっ、あっ……」
 びくびくと痙攣する体を抱き締める俊郎はそのことには気づきもしない。
 ただ、欲望の赴くままに犯していく。
「ああ、いいよ……いいよ……」
 俊郎の瞳は欲情にまみれて虚ろな輝きしかない。今はもう目の前の獲物をどう犯すかしかないのだ。
 強すぎる香が、俊郎の脳すら蝕んでいた。
 その体が、びくんと震える。
 同時に、砂姫の体も震える。
 途端に音もなく体が硬直した。
「砂姫っ!!」
 蹴破られたドアから飛び込んできた友貴が見たのは、砂姫を貫いたまま白目を剥いていた俊郎と、その体の下でびくびくと小刻みな痙攣を続ける砂姫の姿だった。
18

 白い病室で、白い寝具に包まれた理緒が、ゆっくりとまぶたを開けた。
 その瞳が焦点を合わせて、こちらを見つめるのをじっと待つ。
 その瞳に自分が映ることがこんなにも嬉しい。
 知らず浮かんだ笑みに、理緒の表情も僅かに緩んだ。
「目が覚めたか?」
 問いかければ、こくんと頷く。
 痛めた喉の保護のために、言葉を出すことを禁じられているためだ。
 友貴はそんな理緒の腕から延びた点滴の袋を見上げ、まだ十分に残ってる事を確かめた。
「明日には退院できる。声も明日くらいから徐々に出して行こうと言われているよ。もっとも、しばらくは私のマンションで療養だ」
 その言葉にこくりと頷いた理緒。
 嬉しそうに微笑んでくれるのを見ると泣きたくなる程に嬉しい。
 
 今はもう確かに生気を感じる理緒は、あの日飛び込んだ友貴の目にも、もう助からないかもしれない、とすら思えた。
 俊郎に与えられた陵辱は理緒の心身を蝕み、俊郎の脳を狂わせたほどの強い薬はその体を確実に冒していた。それこそまだ若い体の心臓が、その働きを止めてしまおうとするほどに。
 あの時のこと思い出すと、今でも友貴は目の前が真っ暗になりそうになる。
 この手の中にある筈のものが失われてしまう焦燥は、立っていることすら不可能なほどに全身から力を奪った。
 力なく横たわる理緒の全身は蒼白だった。
 瑞々しかった肌は生気が全くなく、だらりと口から出た舌はぴくりとも動いていなかった。
 時折びくびくと震える様子は、断末魔の苦しみでしかなかった。
 野崎がどこかに電話をして。
 輝姫が人を呼んで理緒を運び出し、衣服を纏わぬ男が、理緒の胸に両腕をかけ大きく体を上下する。
 何度も何度も、いつまでも。
 程なくやってきた白衣の男達に理緒が運ばれるまで続けられたそれ。
 引きずられて、気が付けば理緒と共に乗せられた車の中で、友貴は呆然と理緒を見つめることしかできなかった。
 小さなパネルの中で、規則正しく動く波。
 だが、時々それがひどく乱れる。
 音すら消えそうなほどに弱く、波の山が無くなってしまうこともよくあった。
「理緒……理緒……」
 何も出来なくて、ただ呟く友貴は、傍らの人に促されてその手を掴んだ。
 冷たく、けれど仄かに残る温もりに言葉を失い涙が滲む。
 まだ生きていると思う嬉しさと、こんな目に遭わせた後悔と、そして、失うかも知れない恐怖。
 ない交ぜになったそれらに、友貴はきつく唇を噛みしめた。
 そんな状態から理緒が生き延びたのは、まだ若い体と本人の生きようとする意志の強さだと、後から教えられた。
 そして、最初の適切な処置があったからだ——と。
 後で貧血を起こして倒れるほどに全力で心臓マッサージをしたのは緑姫だったと、後から思い出した。
 それより先に、ドアを蹴破ることに躊躇うことなく協力してくれた野崎にも輝姫にも。
 皆に心配されて、誰もが諦めることなどできなくて、結果、理緒は助かったのだ。
 俊郎もまた一命を取り留めたが、今はもう自分が誰かも判っていない。それを聞いた時、全身から音を立てて血の気が退いた。まかり間違えば、それは理緒の姿でもあったはずなのだ。
 実際、心臓はまた元気よく鼓動し始めた理緒ではあったが、体はあちこちにガタが起きていた。
 今は和人の管理下にある病院で、それらを治しているところだ。
 そうやって回復していく理緒とは裏腹らに、友貴の後悔はますます強くなっていく。
 理緒が気にするな、と伝えてくるほどに、それは心の奥底で強くなっていくのだ。
 もっと早く自分が飛び込んでいれば……。
 後始末に入った野崎や輝姫、そして友貴が絶句するほどの部屋に残された品々に、激しい後悔ばかりが三人の胸中に走った。
 だから、あんなにも理緒は疲れ切っていたのだ。
 まして、運び出される理緒が譫言のように呟いてた言葉は、今でも友貴の記憶に鮮明に残っている。
「友貴様……」
 繰り返される自分の名に、友貴は傷が付くほど強く唇を噛んで、今でもそれが残っている。
 もっと早く来れば良かった。
 いや、最初から俊郎の要請など断ってしまえば良かったのだ。
 決して戻せない時間を、今こそ戻して欲しいと願ったことはなかった。
「砂姫……」
 その名を呼べば、穏やかに微笑む。
 それが辛いと感じたのは、医者も看護師も誰もが理緒と呼ぶのに、友貴が呼ぶのは厭われたからだ。
 懇願の印の口付けまでされて嫌がられては、どうしても呼ぶことはできない。
 今の理緒をこれ以上苛みたくなかったからだ。
 けれど、どうしてそんなに嫌がるのかが判らない。
 明日からはマンションに戻るのに。
 声が出せるようになったら、いつか教えて貰おうとは思うけれど。
 意外なところで頑固さを見せる理緒が素直に教えてくれるとは思えない。
 知らず零れそうになったため息。
 だが、それはドアがノックされる音で出損ねた。
「お兄ちゃんっ」
 有紀の明るい声と姿が、色の無かった病室が一気に華やいだようだった。
「こんにちは、有紀ちゃん」
 椅子から腰を上げて、迎えた友貴を軽く無視して、有紀は理緒の傍らで腰をかがめた。
「ん、だいぶ顔色も良くなったよね。良かったね」
 にこりと微笑むそれは、無邪気そのものの笑顔なのに。
 傍らに立った友貴の事は綺麗に無視してくれる。
 実のところ、理緒が入院してからずっと、有紀は見舞いの度にこの調子なのだ。
 どう見ても怒っている様子に、友貴も必要以上話しかけられない。
 ベッドの上で理緒が困ったように視線をうろうろさせている。
 それに気付いた有紀が、にっこりと微笑んだ。
「あ、そうだ。私、これから友貴さんにお話があるから、ちょっと借りるわね」
 途端に、理緒の顔色がさあっと変わった。
 ダメだとばかりに首を振る理緒は、有紀の性格を良く知っているからだ。
 見舞いに来るたびに冷戦状態の有紀。そんな有紀に困っていた友貴に筆談で理緒が語ってくれたところによると、可憐な外観とは裏腹に、母亡き後竹林家の支配者と言って良いほど全てを取り仕切っていたらしい。
 けれどそんなふうに強い態度を取る有紀であっても、礼だけはきっちりと言うのだ。そうされると、皆つい許して従ってしまうのだという。
『俺よりよっぽど役に立っていた』
 という言葉は、思わず頷きそうになったけれど。
『でも……こんな俺でも懐いてくれて、いろいろしてくれる優しい妹なんです』
 という言葉には、うっと言葉に詰まってしまった。
 あの和人をもすら、惚れた弱みにつけ込んで翻弄されている姿をかいま見ているから、優しいという言葉がどうにも結びつかない。
 けれど、確かに兄に向ける瞳は優しい。
「お前は休んでいろ。ちょっと行ってくる」
 その有紀の話がどんなものか想像も付かないが、わざわざこうやって連れ出そうとするのだから、断ることはできそうになかった。
「お兄ちゃんは心配すること無いからね。そろそろ友貴さんに言いたいことがまとまったから、これから吐き出してくるわ。だから、ちょっと借りるわね」
 理緒が心配そうに友貴を見上げ、有紀を見る。
「大丈夫、お兄ちゃんの悪いようにはしないから。それに、すぐに戻ってくるって。さ、行こう、友貴さんっ」
 嫌と言うことも出来ない理緒を残して、有紀は友貴を力強く引っ張った。
 

 連れて行かれたのは、洗濯物がはためく屋上だ。
 すでに洗濯のピークが過ぎたのか、屋上には人がいない。
 その片隅で、有紀が友貴をぴしっと指さした。
「だからっ、あんたなら絶対大丈夫だからって和人さんが言ったから任せたのよっ。なのに、あ?んな変態親父に好きなようにさせて、あやうく死んじゃうところだったじゃないのっ、この落とし前どうつけてくれるってのっ!!」
 威勢の良い啖呵に、口を挟む間も返す言葉も無い。
 ただ圧倒されて呆然と立ち竦む友貴は、氷の美姫の異名を取る冷たく鋭利な表情はどこにも持ち合わせていなかった。
 そんな友貴を前にして、有紀はドスの利いた声音で畳みかける。
「だからね和人さんとも交渉したのよ。で、お兄ちゃんが借金返す間、あんたの給料の半分を慰謝料として貰うから。判ったわねっ」
「……え?」
 寝耳に水の話だった。
 何がどうなってそんな話になったのかが判らない。
「あ、あのさ、有紀ちゃん?」
「あんたに、有紀ちゃんなんてなれなれしく呼んで欲しくないっ、お兄ちゃんをあんな目に遭わせといてっ!」
「え、あ、ごめん……」
 意識せずとも謝らなくてはいけない状態に陥れられる。
 それほど有紀の勢いは激しいし、友貴の罪悪感はそれほどまでに大きかった。
「あんたの給料だったら半分になったって、何とかやっていけるでしょ。だから、それお兄ちゃんに回すからね」
「……半分……」
 思わず頭の中に数字が飛び交う。
 確かに半分無くてもそこらへんの同じ年の人達よりは多い。
 けれど、そうなると今のマンションでは厳しい。
「ちなみに、慰謝料は次回給料日から天引きしてもらうように手配は済んでいるわ」
「……」
 何もかも、決まってしまった話なのだ。
 たぶん、今更友貴の意見など聞く耳など持たないだろう。
「判ったよ……。でも、マンション引っ越さないとダメになるけど」
「衣食住で切りつめられるところを切りつめるのは節約の基本よ。特にマンションなんて一人暮らしでもったいないっ」
 節約道すら唱えられ、友貴がそれに反論できる筈が無かった。
 がくりと肩を落した友貴は、降参だとばかりに両手を上げて、背後のフェンスにもたれかかった。
「そうだよな。それくらいしてやっても罰は当たらないかもな」
 友貴を慕って、友貴の作ったルールを頑なに守ろうとした理緒。
 だが、そのせいで彼は命を落としかけたのだ。
 その時になってようやく友貴は、理緒に対する自分の想いが和人のそれよりもっと深いものだと気が付いた。
 そんな程度で償えるなら、給料全額だしても惜しくはない。
「もっとも、お兄ちゃんがこのことを知ったら、ダメだって言い張るかも知れないから、内緒だけどね」
 友貴が素直に了承したことで、有紀の激高も収まってきたのか、友貴の隣で空を見上げる。
「お兄ちゃん、友貴さんの事好きだから」
「……みんなそういうんだよな。どうしてそう思うんだろう?」
 緑姫も言っていた。
 そう教えられて嬉しいと思う反面、本当にそうだろうかと思う。
 理緒は何でも友貴の言うことは聞くけれど、それは友貴の命令に従わないとダメだからだ。
 あの狭い自由など一つも無い世界で、理緒は友貴に従うことでしか生きていけなかった。そんな世界にいたから、友貴に縋っているだけのような気がしてならない。
「無人島に漂流した男女が命の極限状態で縋るように恋に落ちて、助けられたら一瞬で冷めてしまうという。それと同じじゃないかな」
 呟きを足下に落とした友貴の目の前に、有紀が携帯を差し出した。
 和人が有紀に、と渡したあの携帯だ。
 その受信メールボックスを開いて、友貴に見せる。
「たとえそういう極限状態が始まりの恋でも、続かないということは無いわ。まして、お兄ちゃん、まだ解放されるわけではないから」
「これ……」
「こんな惚気を妹に送って、どうするっていうのよね」
 並ぶ文字列を魅せられたように読み進める友貴に、有紀は微笑む。
『友貴さんってとても綺麗で、俺、最初見た時見惚れたんだ。こんな綺麗な人がいるんだって思って』
『友貴さんが忙しいのに様子を見に来てくれた。友貴さんが見てくれると思うと、どんなに辛い仕事もがんばれるよ』
『今日、友貴さんが褒めてくれたよ。筋が良いって』
 何もかも、全て和人のためだと仕事をしていただけなのに。
 胸の奥に痛いほどの切なさが込み上げてきて、友貴は顔を顰めた。
 そんな友貴に、有紀はさらに別の携帯を手渡してきた。
「これは?」
「お兄ちゃんのよ、見て」
 開かれたのは未送信フォルダだ。
『友貴様、忙しいなら無理しないで下さい……』
『今日も無理みたいですね。きっととても忙しいんだろうから、気をつけて下さい……』
『友貴様……会いたい』
 友貴宛の、けれど送られていないメールが、時には一日に何通もある。
「これ……は……」
 特に多い日は友貴が行くことが出来なかった日だ。
「今時中学生でもこんなことしないわよ」
 呆れたように、だが、愛おしそうに有紀が優しく呟く。
「送りたくて送れないメールを溜め込むなんて、ね」
「理緒が……私に……」
 辛いなら連絡しろ、と詰った。
 あの日も、来ないかなと待っていた。
 その日のメールもちゃんと保管されている。
『俺は大丈夫ですから。がんばります。だって今日来てくれたから』
 俊郎が砂姫を呼んだその直前のメール。
「送ってくれれば良かったのに」
 友貴を慕い、友貴を待つメール。
 こんなメールを見たら、何はさておいても行かずにいられなかったろう。
「だって、お兄ちゃん。友貴さんの負担になること恐れていたもの。友貴さんってとっても忙しい人だって和人さんも言ってたし。だから遠慮しちゃったんだろうなあ。ね、好きな人には無理を言えない人なのよ、お兄ちゃんは。友貴さんはどうなの?」
 問われて、ぽつりと勝手に答えが口を吐いて出た。
「私は、どっちかって言うと嫌がられてもずっと傍にいたい」
 鬱陶しがられてもその人の傍にいたい。
 だからこそ和人の傍にずっといた。
「じゃ、今は? 今は誰の傍にいたいの?」
「え……」
 問われてぱっと脳裏に浮かんだのは、和人の顔。
 けれど、それはとても優しい笑みを浮かべる顔で……。
「私、療養中だけでも和人さんにお兄ちゃん預かって貰おうかなっ思ってるけど、どう?」
 にっこりと至近距離で笑いかける有紀に、思わず後ずさる。
 がしゃんと背後でフェンスが音を立てた。
 それなのに、さらに有紀が迫ってくる。
「和人さん、いいよって言ってくれると思うのよね?」
 和人の元に理緒が。
 途端に全身がさあっと血の気を失った。
 嫌だ。
 嫌だ、嫌だ……。
「そ、んなこと……」
「どうしたの?」
「ダメ……だ」
 和人の元に理緒が行く。
 そんなことは……絶対に……。
「どうして?」
 有紀が嗤う。
「友貴さん忙しいんでしょう? 友貴さん、忙しいからってお兄ちゃん放置するから」
「もう……放置なんてしないし、するつもりはない。理緒は私のモノだ。もっともっと理緒には教えることがある。私の傍から離れることは許さないっ」
 今より狭い部屋になっても、理緒の仕事が始まっても。いずれ借金全て返したとしても。
 今の友貴には理緒を手放すつもりはなかった。
 全身を支配する欲求を、堪らずに口にする。
「理緒は離さない。たとえ和人さんにでも……」
 きっぱりと言った言葉が自身の耳に入ってきて、全身が真っ赤に染まる。
 その途端に、有紀がしてやったりとばかりに微笑んだ。
 その様を目の当たりにして、さらに顔が熱くてなって、思わず手のひらで覆おうとしたけれど。
「ほら、氷の美姫も溶けてしまえば可愛いもんだろ」
 すぐ近くでした声にはっと振り返ると、そこには和人が意地悪げな笑みを浮かべて立っていた。そして。
「お兄ちゃん、聞いた?」
 にっこりと笑いかける有紀と硬直した友貴の視線の先で、理緒が幸せそうに微笑んでいた。

19

 元が若くて体力もあったから、適度な療養によって、理緒はめきめきと回復した。
 友貴の家で過ごした、甘い蜜月などあっという間だ。
 水晶宮に戻れば、理緒には辛い現実が待っている。
 それでも回復した理緒は、砂姫としての復帰を望んだ。
 それを止めさせたい、と望まなかったといえば嘘になる。けれど、たとえ友貴の給料を全部差し出しても、理緒が解放されるだけの金額はまだまだ先だ。
 いつか有紀が成人したら、当然払って貰うと言い切る和人は、その辺りはとてもシビアなのだ。
 それに友貴が逆らえるはずもなかった。
 いつものように熟れ切って限界の体を持てあましながら帰ってきた理緒を、友貴はベッドに押し倒した。
 肌着を許されない体に、脱がされていく衣服が擦れる。
 それだけで甘い吐息を零し、切なげに潤ませた瞳を惑わせる。
 ちゅっと音を立てて額に口付け。至近距離で瞳を覗き込みながら囁いた。
「疲れているなら、止めようか?」
 嘘をつけない距離で、理緒の眉根が切なげに寄せられる。
 わざと唇を外した口付けに、理緒が困惑の色も露わに見上げてきた。
 それに嗤いかけて。
 延ばしてきた首を支えて、唇を合わせてやる。
「ん、ん……」
 堪えきれない嬌声が口内でくぐもった。
 それを吸い込むように、舌を差し込み絡めて吸い上げる。
 だらしなく流れる唾液を啜り上げ、今度は自分のそれを流し込んだ。
 ごくりと動く喉を晒して喘ぐ理緒に、褒美だとばかり今度は胸を甘噛みしながら両手で敏感な肌をまさぐり、喘がせる。
「……と、友貴様ぁ……」
 理緒が苦しげに名を呼んでくる。
 その艶めいていて、それでいて遠慮がちな声音は友貴のお気に入りだ。
 その声につられるように、張りつめた陰茎を下腹で押さえつけて擦ってやった。
 途端に全身を仰け反らせて、無意識のうちに腰を擦り寄せてくる。
 ぬるりと濡れる互いの下腹の間で、だらだらと理緒の精が白く混じった液が溢れ流れた。
 勢いのないそれは、陰毛の根元で戒められているせいだ。
そんな理緒は、出したくて堪らなくて友貴に体を押しつけてくる。
 そのせいで浮いた腰の下に手をやって、引き締まった双丘の狭間に指を這わせた。
「ひっ……あっ……」
 さんざん嬲られた体は、差し入れた友貴の三本の指を呆気なく飲み込む。 
 ぐちゃ、っと濡れた音を立てるそこから、たらりと理緒のモノでない体液が流れ落ちてきた。
「今日もたくさん貰ったようだな。美味しかったか?」
「あ、——んっ、やっ」
「こら返事は?」
 流れた体液で濡れた指で頬を軽く叩く。
「す、すみま……せん……」
「美味しかったのか?」
「……は、はい……」
 否定の言葉を許されない理緒は、悲しそうに頷いた。
 けれど、その瞳はさらに欲情に濡れて、びくびくと下腹で彼の陰茎が物欲しげに揺れている。
「強欲だな。まだ欲しいのか?」
 ここに、と指を一本入れて、すぐに抜いて。
 腰が淫らに悶えて追いかけようとするのを押しとどめて。
「欲しいのか?」
 問いかけに、理緒は甘い吐息と共に答えた。
「は……い……。友貴様の……欲しいです」
「なら、自分でしろ」
 その言葉に、理緒は数度瞬きを繰り返し、膝立ちの友貴の股間へと視線を向ける。
 ごくりとその喉が鳴っている。
 ゆっくりと近づく顔。
 ちろりと覗いた赤い舌が、濡れた唇をさらに舐め、友貴の先端に触れる。
 ぞくん、と全身を貫く快感に、もっととさらなる欲望が湧き起こり、理緒の髪を掴んで引き寄せた。
 その理緒が上目遣いで友貴を見つめている。
「飲ませてやるよ」
 伝えれば、潤んだ瞳が惑い、けれど頬がさらに上気して理緒の期待を知らせた。
 銜えたままの唇が微かに動く。
 音のないそれが何を紡いだのか、友貴は聞かずとも判っていた。

 どんなに男を淫らに受け入れても、理緒の体内はいつも心地よく友貴のそれを締め付けてくる。
「あ、あぁ——んっ、……もっと……あ、くぅっ」
 流れる汗が額から落ちるのを邪魔だとばかりに拭って、強く激しく理緒を犯す。 
「どうした? 達きたいのか?」
 快感に持って行かれそうになる意識を引き留めて、平静な声で理緒を嬲る。
「厭らしい体だな、そんなにもこれが欲しいのか?」
 くちゅっと音を立てて吸い込む場所に突き立てる。耳朶を喰みながら、囁いてやる。
「理緒」
「ああ、あぁ——ぁっ」
 名を呼ばれるとてきめんに反応する理緒を抱き締めて、髪に口付ける。
 名前に拘った理由も知ってしまえば、理緒を嬲る絶好の要因となる。
『砂姫という名だけで呼んで貰えたら、友貴様が和人様を呼ぶのを聞かなくて済むから』
 一つめの理由に、愕然として、そんなことはもうしないと言い切った友貴に、それでもダメだと言った理緒のもう一つの理由は。
「友貴様に、理緒と、呼ばれるともう訳が判らないほど感じてしまうんです……そうなったら、言いつけ通りに我慢できないから……』
 だったら、もう絶対に他の名前を呼ぶものか、と思ってしまった。
「理緒、今日もたっぷり犯されたんだろう? 私が欲しくて堪らなかったろう?」
「あ、あぁっ…………っぁぁぁ——」
 迸る嬌声は掠れきって、ただの音のようだ。
「い、達く、もう……達きた……ぁ」
 晒した喉に吸い付いて、両手で胸の突起を愛撫する。
 客に嬲られて敏感になった体は、それだけで戒められたままの先端からだらだらと涎を垂らした。
「そんなに達きたい? 理緒」
 問えば、こくこくと頷いて、快楽に潤んだ瞳を友貴に向ける。
 接客中の理緒は相変わらず達けない苦しみを味わっている。
 後孔を犯され、陰茎を扱かれても、その先から射精することは許されない。だから、きつくペニスリングを締めて接客するのだ。
 それは前とは変わらない。
 だが、前と違うことは、その時間が短くなっていることだ。
 砂姫としての理緒の宴の間での接客は、一晩に3時間まで。
 それ以外は、癒しの間で接客する。
 特別なイベントでも無い時は、癒しの間で施される愛撫も服の上からだけだから、負担はかなり少なくなっている。
 それに文句を言う客もいることはいるが、俊郎の件で理緒が死にかけた事も知っているから、結局は承諾した。
 それでも、敏感な理緒には辛い時間だ。
 だからこそ、待ちかまえた友貴に抱かれる時、理緒は気が狂いそうな快感に襲われる。
「あぁぁぁぁっ!」
 待ちに待った解放に、歓喜の声を上げる。
 友貴に縋り付き腰に強く足を回して、目を見開いて、口も大きく開いて。
 びくびくと体の振動がはっきりと伝わってくる。
「理緒……」
 たった一回のそれで放心状態になった理緒を横たえて、その忘我の表情を見下ろした。
 荒い息が少しずつ治まり、ぼんやりとした瞳が少しずつ力を取り戻していく。
 ようようにして焦点が合った瞳を覗き込むと、ぱちくりと瞬きをして、理緒が微笑んできた。
「理緒……」
「……ともき、さま……」
 前と同じように名を呼んで、ただ一言「ありがとうございます」と呟く。
「バカか、お前は」
 前と同じ悪態を吐いてやる友貴の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。

 

「和人さんって、ほんと意地悪なんだから」
 すでに日課となった携帯でのやりとりで、有紀はその可愛らしい唇を尖らして抗議する。けれど、それに返ってくるのは、押し殺した笑い声だけだ。
 抜け目のない和人は、理緒を殺しかけた俊郎に賠償金を出させたのだ。
 正確には、俊郎の後を継いだ鹿野山家の現当主に。
 醜聞を公開されたくなければ——という脅しに、世間体を重んじる旧家は否応なく言い値で払ってきた。
 それを均等に二人の借金に充てた結果、有紀達の借金は残り僅かとなっていた。
 今の理緒の稼ぎであれば、有紀に科せられた金額を足しても返済には半年もかからない。
 だが、和人は理緒にも友貴にもそれを知らせていないのだ。
 そして、有紀には固く口止めをしている。
 それが守れるならば、借金を減額するという条件で。
「でも、ほんと……私としては、お兄ちゃんが犠牲になったんだから、全部お兄ちゃんの借金に当てて欲しかったんだけどな」
「それでは理緒が納得しまい。有紀ちゃんに借金が残っていると知ったら、あれはまた働くというだろう。ようやく得た自由をまた奪うことになるぞ?」
 最初から判っていたことなのだろう。
 澱みなく告げられた言葉に、有紀は返すことはできなかった。
 友貴が傍にいるとはいえ、恋人以外に体を開くということは、どんなに辛いことだろう。
 くっと唇を噛みしめ、携帯を握りしめる有紀の耳に、和人の静かな声が響いた。
「大丈夫だ、大事な友貴を託した相手だ。私とてできる限りのことはするよ」
 伝えられたのは、賠償金の一部を使った資産運用の方法。
 一流のディーラーを使える立場にある和人にとって、それはとても容易い方法だった。
 それに、和人がどんなに友貴を大切に思っているかも知っている。
 和人は電話の度に友貴がどんなに優秀か、自分のためだけに動いてくれるか、そして——どんなに大切か……伝えるのだ。それこそ、婚約者だと言い切る有紀にだ。
 それを知ってる有紀にしてみれば、確かに和人が理緒に危害を加えるとは思えない。
「……和人さんも大概素直じゃないんだからね……」
 ため息を零せば、押し殺した苦笑が伝わる。
「……こんな私は嫌いかい?」
 しかも、そんな言葉を伝えてくる和人に、有紀は再びため息を吐いて。
「嫌いな訳ないじゃない、ば?か」
 子供っぽい悪態を吐くその口元は、愉しそうに微笑んでいた。
 
【了】