薊の刺と鬼の涙 7

薊の刺と鬼の涙 7

 腕の中で震える敬吾が、哀れで堪らない。
 が、同時に穂波の胸に込み上げるのは怒りだ。
 こんなことになるとは思わずに、あの時はただ本当に帰ってきてくれた安堵の方が強かった。
 だからこそ、穂波は敬吾に問わなかったのだ。
 気付いていたのだから。

 敬吾がどんな目に遭ったかなんて、敬吾の全てを目にしてきた穂波だから判っていたのだ。その華奢な首筋に見えた朱の印に湧いた激しい怒りをかろうじて飲み込んで、平静でいるのにどんなに苦労をしたことか。
 何もかも、傍らで敬吾を気遣う啓輔にすら拳を振り上げそうになったことも記憶に新しい。
 それが啓輔がもたらしたものであれば、彼が二度と自分の足で立てなくなるほどの報復を与えていたかも知れない。
 だが。
 あの時、そんな穂波をかろうじて留めたのは、啓輔を気遣う家城の存在だった。
 いつ会ってもほとんど感情を変化させない家城が、啓輔の不在に狼狽え、穂波を頼ってきたのだから。
 そして、啓輔の目に浮かんでいたのは、昔敬吾が見せた怯えの色に近かった。
 怯えと──そして後悔。
 何があったかは判らないが、それでも必死で守ろうしているのが判る。
 啓輔が最初についた嘘も、まるで敬吾を庇うようだったと、だからこそ騙されたくなったのかも知れない。
 何より、啓輔を見るまでもなく、庇いたくなるほどにその身を震わせ、何かに怯えるのを必死で堪えている敬吾を、誰が責められようか。何より、責めれば意外に脆弱なところがある敬吾の精神が、あの時のように崩壊しても困ると思ったのだ。
 敬吾は後からダメージを喰らうタイプだ。
 強いのに。
 普段はこれでもかと苛めても強いところを見せる敬吾の精神が、固い故に脆いことを、穂波はよく知っている。
 だから、帰ってこなかった時、何があったとしても責めることはできないと思っていた。が、それも今の事態を考えれると間違っていたのかも知れない。
 中途半端なケリは、後からまた敬吾に災厄をもたらしてしまう。
 それは、嗚咽に震える敬吾が吐き出した言葉からも明らかで、穂波は苦い思いで幾度も噛みしめていた。
『俺がまた……あいつに……捕まったから……』
 聞き間違えようもない。
 敬吾は、”また”と言った。
 ”また……あいつに……”
 そのあいつが誰を指すのか、穂波の頭に浮かぶのはただふたり。
 その内の一人はもう知りすぎるほどに誰か知っていて、そして、そんな筈はないと思わせる、この場にいない一人だ。だが、彼に捕まったなどと敬吾は言わないだろう。
 ここにいない「隅埜啓輔」になら、敬吾は”騙された”というであろうし、こんな事態を起こす前に穂波は気が付いていただろう。 
 となると、残りはもう一人。
 あの時、啓輔といたもう一人。
「家城さん……あなたは、隅埜君の交友関係を知っていますか?」
 震える敬吾を強く抱きしめて、目の前で顔色を無くしている家城に問いかける。
「……いえ……。彼は、会社と近所の方以外ではあまりつきあいはありませんでした。学生時代のことは……言いたくないようで……。それに……あのころは荒れていたと聞いていますし。今はつきあいはないのだと……。しかし……」
 家城は知っている。
 敬吾が啓輔に襲われたことを。
 あの時、仲裁に入ったのは、誰あろう家城なのだ。
 だから隠すことはない穂波は判断して、言葉を継ぐ。
「あの時、敬吾を襲った輩はもう一人いた。そうだな……敬吾」
 途端にびくりと敬吾の体が震え、僅かな躊躇いをのせて、それでも頭が頷くように動く。
「……タイシ……って呼ばれてた。……俺達は……彼に会ってしまった……」
 少し落ち着いたのか敬吾が少しはっきりと状況を教える。
 タイシ。
 名前など覚えてはいない。だが、はっきりと浮かぶその顔は、二度と思い出す気もなかった面。
「それは……土曜日のことか?」
「そう……もう買い物も済んで……そんな時に。遭った途端に捕まえられて──俺、幸人に鍛えらていたと思った。だけど……あいつを見たら、体が竦んだ。竦んで……逃げられなくて……ちくしょ……っ!……あいつ……俺を捜していたみたいで……。それに隅埜君と一緒にいたものだから……あいつ……隅埜君まで捕まえた……」
「じゃあ……あの日帰ってこられなかったのは?」
 最悪のシーンを想像して、歯噛みする思いで穂波は敬吾に問いかけた。だが、敬吾は顔を上げないままに首を横に振っていた。
 違うのか、と呆気にとられ、思わず顔を上げれば家城が一言も聞き逃すまいと敬吾を見つめている。
「そいつじゃない。そいつは……雇われて俺達を捕まえて連れて行って……。俺達はそこで……」
 ぎゅっとその手が穂波のシャツを握りしめていた。ずっと俯いたまま、顔を胸に押し当てて、吐き出す声の振動が直接胸に響く。それがベッドの上の甘い睦言であれば良かったろうに、今こんな状態で穂波を支配するのは目も眩むばかりの怒りだ。
 敬吾が結局言えなかった単語が、頭の中で飛び交う。
 傍らで家城が、歯を食いしばる音が聞こえた。──いや、聞こえたような気がした。
「誰です……それは?」
 地を這うのは家城の言葉だ。家城が口にしなくても、穂波が言っていただろう。
「……槻山……って言っていた。そいつは男が好きで……そういうのを受け入れそうな奴をつれてこいって……タイシに頼んだって。俺達はそのまま奴に売られた……。それで」
 だが、敬吾が紡ぐ言葉の後半を、穂波は聞いていなかった。
 明らかに震える手がきつく敬吾の背を抱きしめる。それは無意識のうちで、痛みに身動ぐ敬吾の存在に気付いていない。
 その目が何かを捜すように中空を見据え、そして、自身の驚きの原因に気付いた。
「槻山……!」
 まさかっ、とばかりに穂波は改めて驚きに見舞われる。
 苦い思い出とともに知っている名前。
 槻山という名に、憤りしか覚えない、そんな相手の存在が、まざまざと脳裏に浮かぶ。
 そして。
「槻山……?」
 家城がふと考え込むように首を傾げたのも視界に入ったのも、どこか別世界のように見つめて、そしてその名を発した敬吾に問いかける。
「あの槻山か?」
「えっ?」
 穂波のきつい声音に敬吾が跳ねるように顔を上げた。その泣き濡れた頬を掴み、食い入るようにその目を見つめる。
「槻山……確か憲弘とか言っていたな。間違いないか?」
 にやけた槻山の嗤いが浮かんで、激しいむかつきを覚えた。
 同族嫌悪だ、とあの時はそう説明づけるほどにまだ若いあの男が嫌いだった。穂波を揶揄するように穂波が目をつけた相手を横からかっさらっていく。
 しかも飽きたら簡単に捨てるそのやり口が穂波は特に気に入らなくて、とにかくそいつがいけすかなかった。
 だがそんな苦い思い出も、それを知らない恋人の目からすれば疑心の虜となる。
「幸人どうして……?」
 疑う瞳に苦笑を返して、穂波はその感情を吐露した。
「あいつは……俺と同じような好みでな。ふんっ、若造のくせに人の相手にすぐちょっかいを出して……」
 毒づいていると、敬吾の瞳がさらに疑惑を深めて冷たくなっていく。きっと穂波の過去の相手にあらぬ嫉妬を浮かべたのだろう。それに気付いて慌てて、それ以上は口を閉ざした。だが、こんな時だというのに、敬吾の瞳は誤魔化されないとばかりに穂波を睨んでいる。
 だが。
「槻山憲弘……口説かれたことがあります」
 家城の爆弾発言に、敬吾どころか穂波ですら、今の事態を忘れた。
「あいつがお前を?」
 このどう見てもタチにしか見えないこの男まで?
 言われてみれば年の頃は槻山と同じくらいの家城は、冷たさを持つが故かその手の男からすればおとしがいがあるのだろう。しかし、と穂波はあらためて家城を見つめた。
 遊ぶ、という言葉が似合わない家城と、槻山がいつ出会ったというのだろうか?
「まだ啓輔と付き合う前ですけど、一人で飲んでいたら、近寄ってきて。確かに槻山と言っていました。一晩付き合わないか、と言われたんですけどね。……随分と軽薄な感じがした男です」
 少し遠い目をして思い出そうとする家城の言葉には嘘はないだろう。
 しかし。
「それで?」
 つい聞いてしまったのは好奇心で、だが途端に家城が首を横に振った。
「断りました。軽薄な男は好みではないので」
 ……タチ同士だから、じゃないんだな?
 思わず断りの文句につっこみそうになって、だが、と穂波は思い直す。僅かに家城の顔色が変わったことに、穂波は気付いてしまったのだ。
 だが、それも一瞬のことで、元に戻る。それに、今はそれどころではないのだから。
「つまり、敬吾達はその槻山の元に一晩いたわけか?」
「あ……うん……」
 その指す意味は深くは考えないようにした。
 敬吾が羞恥に頬を染めたのは腹立たしく思ったが。
「そこへ連れて行け」
 そっとしておこうと思った。敬吾がそれでいいなら、関わらないようにしようと思った。
 だが、知ってしまった以上、槻山を許すわけにはいかなかった。
「隅埜君、槻山のところにいるんだろうか……そんな筈はないのに」
 いやいやするように、その考えを否定する敬吾の頭を押さえ。
「どうして……」
 戸惑いと疑惑に捕らわれて、力無く俯く家城にきつい視線を送る。
「彼が自分の意志で行くはずはないだろう」
 彼を信じろ、と、穂波とて憶測にしかすぎない言葉をかけるしかない。
 今はそれどころではないのだ。
 何より、過去のみならず現在にいたってさえ、自分の邪魔をしようとする槻山を責めることの方が今穂波の第一の問題だった。


 槻山憲弘。
 家城が彼と出会ったのは、会社でのストレスを癒しに一人飲んでいた時だったと記憶している。
 たった一度会っただけの男。
 なのに、名前を聞かれてまざまざと思い出した。
 そのころの家城はその性格からかいつも一人でいて、だが一人でいるのは嫌いだった。
 気になる相手はいたが、彼はノーマルだったし、そんな彼を自分の世界に引きずり込むことはできないというジレンマに襲われる日々。そんな時、家城はたまにふらりと一人街に出た。
 だが、そんな時でも家城はいつも一人で飲んで、そして時間が来ると家に帰るという事を繰り返していた。その結果、余計に孤独感に苛まれる。
 素直に出せない感情が整った顔立ちを冷たいものにさせ、人が近寄りがたくなっているのだという自覚はあったが、だからといって、それは自身の力で直せるものではなかった。
 独りでも平気なようにしか見えない自分が嫌いだった。
 なのに。
「……一人?」
 明らかに自分と同じ匂いを感じる相手が横に座った時、家城が覚えたのは戸惑いだった。今までそれでもこんな家城に興味を持って遊んだ人とは明らかに違うそれ。
 しかも、かけられる言葉も態度も、微かにからかわれていると感じる。
「寂しそうだね」
 自分に似合わぬと判っている言葉を言われて、家城は躊躇いながらも男を見上げた。
 同年齢……と思ったが、ブランドもののスーツや時計を、嫌味なく着こなしている。表情も仕草も、人を惹きつける何かを持っていて、そんな己に自信があって。遊び慣れた様子は、その仕草一つ取ってみてもはっきりしていた。
 その彼の言葉は間違いはなかったが、それを大人しく受け入れられないのが家城で、僅かに目を眇めて言葉を返す。
「寂しい?」
「ああ、そう見えたね」
 悪ぶれる様子もなく、家城の隣で当たり前のように酒を注文する仕草に、家城に言い寄ってきた男達とはどこか違うところを感じる。
 だが、それが何かまでは判らなく、だからこそ家城は戸惑いをかくせなかった。
 だから、拒絶の言葉を吐き損ねる。
 その様子に、相手はくすりと笑みを零した。
 からかわれている。
 それに慣れていない家城は知らずに見返す視線がきつくなっていた。なのに、男は動揺すらしない。それどころかわざと体をすり寄せてきたのだ。
 堪らずに離れると、また嗤われて。
 すうっと眉間にシワがよって、家城は憤りを隠せないままに言い放った。
「あいにくだが、私はあなたに合うとも思えないが?」
 意にそぐわぬ相手とベッドをともにすることはできない。遊びと割り切っていても、それでもやるなら楽しみたい。その点でいうと、この男は論外だった。
「判ってる」
 何が判っているのか?
 もっともらしく頷きながらも、相手の手が家城の腰に回され、添えられる。そこに感じる微妙な指先の圧力が、確実に性感帯を刺激していた。
 ぞくりと肌が粟立つ感触に、家城は身を捩る。なのにその手は離れることなく、悪戯を仕掛けてきた。
「な、何を……」
 やはりそうだ、と身震いする。
 この男は、家城より優位な立場になろうとしている。
「狼狽える君も可愛いね?」
 恐い、と初めて家城は男相手に思った。
 今まで誰も家城をそういう対象として見ていなかった。
 全く興味がないとは言えないが、それでも受け入れるのは抵抗があったし、挿れる方が性にあっていると思っていた。
 だが、この男の目は、肉食獣のそれだ。
 弱みを見せることなく、相手を押し倒して喰らってしまう。そこに一片の憐れみすらなく、いいように貪られる自分の姿が脳裏に浮かんだ。
 ──駄目だっ。
 湧き起こる、かつてない恐怖に家城はびくりと大きく体を震わせて、堪らずに立ちあがっていた。
 ガタリと大きな音を立てた椅子が、膝裏に激しく当たり、鈍い痛みをもたらす。
「ふふ、怯えているのか?何故?」
 問われても判らない。
 ただ、恐い、としか感じられない。
 さっさとここから逃げ出したいと思うのに、いつの間にか掴まれた手首にかかる力は、簡単にふりほどけそうにないほど強い。
「俺は槻山憲弘。君は?」
「あ……」
 反射的に名前をいいかけて、慌てて口を噤んだ。名前を言うと逃れられなくなる。ただ、その思いが、いいなりになりそうな己を叱咤する。
「どうしたんだ?俺は君が寂しそうだから、一晩一緒にいてあげようと思っただけだよ」
 神妙な物言いなのに、だがその口許は嗤っていた。
 そのバカにしたような笑み。
「!」
 それがいきなりの展開に圧倒され、消えかけていた家城のプライドをくすぐった。
 確かに恐怖心は消えない。だが、まるで女子どものように怯えたまま逃げるのも癪に障ると思った。
 だから。
「結構だ」
 震えそうになる声に力を込め、強張った顔に冷徹だといわれる笑みを浮かべる。
 もとより顔をつくることは慣れていた。
 本当の心を隠すために、いつの間にか身に付いてしまった表情は、家城にとって鎧だ。
 と。
 不意に槻山が喉の奥で笑い出した。
 俯いて腹を抱えて本当におかしそうに。
 途端に外れたその視線に、つきまとうような拘束感も消えた。掴まれた腕も離れて、解放される。
「……可愛いね。好みだよ」
 甘い声をその背に受けて、家城は振り切るように店を飛び出した。
 それ以来、しばらくは一人で飲みに行けなかった。
 こんなにも自分は弱いのかと、痛切に感じたが、それでも槻山に合うかもしれないという意識から逃れることはできなかった。


 それがあの日の真相で、それは啓輔にも誰にも話したことはない。
 何より、あの日初めて相手が恐いと思い、そして自分が一瞬でも惹かれそうになったことは否定できない。
 今なら判る。
 あの男は、家城の気付いていない内面を看破していたのだ、と。
 啓輔に抱かれるまで気付かなかったあの温もりと悦びを、家城が既に欲していたということを。 

「やれやれ。せっかく愛おしい君から連絡を貰ったというのに、ごつい男をふたりも連れて。一人は君の恋人の──穂波幸人だね」
「なんでそれを」
「私を恋人と間違えて、あんなにも艶やかに誘ってくれたじゃないか。ゆきと、と呼びながらね。そして私は、彼を知っているし」
「あ、あれは」
 目の前にあらわれて艶のある流し目を敬吾に送る槻山を、家城は苦渋を噛みしめるようにして見つめていた。
 変わらない。
 あの時と顔も態度も、そして何を考えているのか窺わせない笑顔も。
「それにこちらは……見たことがあるね。どこかで会ったかな?」
 睨み殺しそうな穂波の視線を笑いながら無視して、槻山が家城の前に立つ。
 背の高さは啓輔と変わらないだろう。
 だが、横幅が広いせいか目の前にたたれると圧迫感は大きい。
「啓輔はどこだ?」
 それでもここに来た目的はそれで、家城は何もかも押さえつけて声を発した。そしてそれは、押さえつけた感情のせいか、ひどく低くなる。
「ケースケ君……ふ?ん、君が彼の恋人ね。けど、彼は私の元にはきていないよ」
 ライターの小さな音とともに、紫煙が上がる。
 吸わない家城にとって煙いだけのそれが、槻山の姿を飾るアイテムになっていた。
「血相を変えていると思ったら、つまりケースケ君がいなくなった訳だ。過保護だね、彼だって遊びたい時があるだろうに」
 くつくつと嗤われ、目の前が怒りで赤く染まる。
「啓輔は勝手に遊び歩いたりしないっ!勝手にいなくなったのは、お前に捕まっていたあの日だけだっ」
 掴んだ襟をどんなに引っ張っても槻山はびくりともしない。それでも家城は、渾身の力を込めてシャツを引っ張った。
「貴様のせいであんなにも疲れ果てていた啓輔が。それでも月曜から真面目に仕事をしていたんだっ!なのに、水曜にはもう出てこなかった。何も言わずになっ!そんなこと、啓輔が自分の意志でするわけがないんだっ!」
 家族を失って──いや、それより前から啓輔は自分で働いて、自分の力で生きていくことを切望していた。それが家族を失うことで、より現実的に受け入れなければならない事態になって、だからこそ啓輔は本当に真面目に仕事をしていたのだ。
 体調だって、よっぽど悪くないと休むことはない。
 そんな彼をついやりすぎてしまう自分が恥ずかしくなってしまうほどで。
 それなのに、無断欠勤などと考えられないことを啓輔がしたことを、家城は絶対に彼の意志でないと気付いていた。
「お前は、何か知ってるんだろっ!!」
 知らないわけがない。
 あの日、激しい焦燥感に襲われて、一睡もできずに啓輔からの連絡を待っていた日──あの日啓輔はこの槻山に捕らわれて、帰ってこられなかったのだ。
 そう思うだけで、押さえつけようとしていたはずの感情が制御できない。
 人との掛け合いで、より感情的になったほうが負けだということを家城は判りすぎるほど判っていたのに、それなのに押さえられない。
 しかし、ぎりぎりと締め上げる家城の手に、息苦しいだろう槻山は顔色一つ変えなかった。それどころか、その口の端が笑みを形作っている。そして、くすくすと笑い声とともに、言った。
「男の嫉妬は見苦しいね?。それに私はケースケ君を抱いていないよ」
「え?」
 前半の台詞にカッと沸騰しかけた血は、だが後半の台詞で一気に冷えた。
「抱いていないと言ったんだよ。私が抱いたのは緑山君だけで……」
「やめろっ!!」
 槻山の言葉だけでは信じられない台詞は、だが、敬吾の必死の制止の声のせいで、かえって真実みを増していた。
「やだなあ、緑山君。私だけを悪者にするのかい?あの時、確かに三人とも裸だったけど、私が抱いたのは君だけだったよね」
「敬吾……落ち着け」
 槻山の言葉に蒼白になる敬吾を穂波が抱きしめる。そして、槻山の言葉の意味をはかることのできない家城に、槻山が笑いかけた。
「私がケースケ君を抱こうとすると、緑山君が邪魔をしてね。だから、私は彼しか抱いていない」
「あ……」
 思わず敬吾を見つめ、そして穂波を見つめる。
「敬吾?」
 穂波が腕の中の敬吾を促すように問いかけると、彼は諦めたように息を吐き出した。
「……うん……彼は抱かれていない」
 敬吾の掠れた小さな声を家城は聞き逃さなかった。同時に敬吾に対する感謝と、そして安堵を感じて──なのに、言いしれぬ不安も押し寄せる。
 あの日の啓輔は、何かひどく辛そうだった。
 ひどい罪悪感に今にも泣きそうで、今にも壊れそうだと感じた。
 だが、槻山に抱かれていないのならあそこまで辛そうになる原因がわからない。
「だからまあ、確かに今度ケースケ君を呼び寄せてゆっくりと味わってみたいと思ったけどねえ」
 その言葉にはつい握りしめる拳に力が入ったが。
「彼はリバらしいしねえ。緑山君を犯す姿は堂に入っていたし。ということは君もネコだったりするんだ?」
 途端に腕から力が抜けた。
「犯す……」
「敬吾を……」
 呟きが二つ重なり、力の無かった視線が一つ閉ざされる。
「……薬のせいだよ……薬の……」
「ケースケ君は私には抱かれなかった。彼は、そこにいる緑山君を抱いたんだよ」
 敬吾の呟きは確かにそれを肯定していて、槻山の嬉々とした言葉が胸に突き刺さる。
 

 不意に目の前が真っ白に弾けた。
 ──啓輔が……彼を……抱いた?
 その言葉だけが頭の中を駆けめぐり、頭が現実を否定する。
 だが。
 そんな家城を現実に引っ張り戻したのは、槻山の言葉だった。


「それで、そのケースケ君を捜しているってわけかい?」
「何か……知らないか?」
 音が耳に入って、言葉へと変化する。
 そのタイムラグを味わって、家城は遅れて反応を示した。
 いまだ穂波から離れようとしない敬吾が、気丈にも槻山を見つめて問いかけている。その姿を目にした途端、激しい焦燥感を感じた。
 こんなことでショックを受けている場合ではない。
 啓輔が誰を抱こうと、それでもここで彼を捜すのを止めるわけではない。
 取り戻して、この手の中に抱きしめて、槻山の言葉を確かめるのはそれからでも十分だ。
「啓輔はどこです?」
 家城は己を取り戻すように息を吸って、新鮮な空気を全身に行き渡らせる。肺からゆっくり吐き出す時に言葉をのせた。
「何でも良いんです。判ることを教えてください」
 感情的になった方が負けなのだ。
 相手との駆け引き。
 あくまで冷静に、相手の行動の先を読む。
「……う?ん。確かケースケ君はタイシって子と知り合いだったっけ?」
 槻山が僅かに逡巡して、そして視線を宙に彷徨わせながら、呟いた。
「そう、ですが?」
「……彼の居場所なら知っているよ。携帯の連絡先も」
「教えてくださいっ!」
 手詰まりだった探し先。
 少なくとも、家城が知っている場所にはいなかったから、新しい探し先であるそれは貴重な情報源だ。
「どうしようかなあ?」
 それでも槻山はそれを素直に話しそうでなくて、家城はぎりっと奥歯を噛みしめた。


「君が相手をしてくれたら、教えて上げよう」
 睨み付ける先で、臆することなく槻山がい言った言葉に、その場にいた三人がその体を硬直させた。
「相手?」
 問いかけてみたものの、家城はその意味を十分わかっていた。
「ん……君のこと、思い出したんだけどね。あの時は振られたから、今日こそはって思うんだけど」
「あの時、あなたを断った理由も忘れましたか?」
 家城もあの時のことを思い出して、その口の端を歪める。
「忘れた」
 嘘だ。
 確信的な笑みがあの時と変わらないと、知らずに一歩後ずさる。
 あの時恐いと思った、その想いも甦るが、家城はそれを払うように大きく首を振った。
 恐いけれど、しなければならないことは判っている。
 今は啓輔と会いたい。
「今は……時間がないです。啓輔がどんなことになっているのか、今の私には不安で堪らない。嫌な予感がしてしようがないのです。だから啓輔がみつかるのであれば、私はあなたの望むようにしたい。あなたがそれを望むのなら、私はあなたの相手をしても構わない。しかし……」
 こうしている間も焦りがじりじりと身を焦がす。
「こうしている間にも啓輔の身に何か起きているのではないかと思うと、私はあなたと事をなしている余裕はないです」
 たぶん、抱かれても反応することはない。
 もとよりこの体を抱こうとしたのは啓輔だけで、他人がどんなふうに抱こうとするのか判らない。だいたい、どんなに遊んでいても、家城を抱こうとするなんて啓輔以外にいなかったのだから。
「ふむ……。確かにそれも判らないではないが……」
 タバコを灰皿に置き、腕を組んで家城を見つめる目は、あの時と同じ肉食獣のそれだ。
 睨み付けられ、ぶるりと背筋に悪寒が走っても、家城は決してその視線を離さなかった。目を逸らした方が負けだと本能的に感じて、その槻山が近づいてくる姿に、逃れなければと思っても動けない。
「貸しにしておこう」
 素早く動いた手に顎を掴まれ、唇を塞がれる。
 触れた感触も、軽く吸い付かれて音がするのも聞こえたが、家城は動かなかった。
 すぐに離れたそれを睨むように見つめて呟く。
「いいですよ」
 吐息が互いをくすぐって、槻山が了承したとばかりに笑みを浮かべているのを、家城は内心の動揺をひた隠して見つめていた。


 煌々と部屋の灯りはついているけれど、締め切られた分厚いカーテンのせいで外の明かりは入ってこない。そんな中で啓輔は何度も体内の奥深くを抉られていた。
「んあぁぁっ!!」
 喉から振り絞るように吐き出される悲鳴は、もう掠れかけている。
 深く手加減なく抉られて、啓輔は激しい嘔吐感に必死で歯を食いしばって堪えた。
 快感なんてすぐに飛んでしまう。
 ただ、痛みと嫌悪感と、そして悔しさが全身を襲う。だからこそ感じてもそこに悦びはない。
 きりきりと食い込む指が肌に赤黒い痕を残して、苦しさに床を掻いた爪に血が滲む。それでも、責める動きは止まらなかった。
 力が入らなくて沈んだ体を無理に引っ張り上げられて、突き上げられる。
 もう嫌だ。
 何度訴えても、止まるどころかより激しくなる。
 だから、もう何も言葉にすることなどできなかった。
 呼び出された時、覚悟はできていたつもりだった。
 こんなことになることも、うすうす気が付いていてそれでも堪えられると思った啓輔だったが、この状態は思っていた以上に精神を傷つけた。いっそのこと快感だけを追い求めて、自ら体を開けばもっと楽になるだろう。
 なのに、啓輔はそれをすることができなかった。
 それは家城への裏切りになる。出会った時は、最低だと思っていたけれど、それでも彼がいたから啓輔は今この時を歩むことができたのだ。彼がいなければ、今の会社にいることも、敬吾と仲良くすることも決して叶わなかっただろう。
「×××」
 耳の中に飛び込む音が、ひどく耳障りで啓輔は顔をしかめる。
 流れた涙が頬を伝い、汗と混じって滴り落ちていた。
 喉はもう枯れ果てて、ただ意味のなさない音しかでない。
 そこに何人の男達がいたのか、それすらももう判らない。
 ただ、啓輔は薄れそうになる意識と夢の狭間で、必死に手を伸ばしていた。
 ──ごめん……。
 伸ばすたびにぼんやりと浮かんでいた人影がはっきりしてくる。
 それがふわりと複数になり、だけどはっきりするうちにふたりになって、そして一人になる。
 少し背が高くて、細身で──きっとこんな汚れてしまった啓輔を見つめる視線は、ひどくきつい筈。だけど、今の啓輔に見えるのは、ひどく優しい眼差しだった。いつも啓輔を見つめるその優しい瞳は、紛うことなく彼の本心だから。
 それに気が付いた時、嬉しいと感じたのは覚えている。
 誰よりも愛おしくて、甘えたくて。
 その腕の中にいたくて、だけど抱きしめたくて。
 それが誰かも判らないままに、啓輔は必死で手を伸ばし、謝罪の言葉を口にしていた。
 ──ごめんなさい……。
 いつも、いつも……守られていた。
 悲しみも辛さも、気が付いたら癒されていた。
 会社にいけば……誰かがいた。
 目の前の彼も、そしてみんなが。
 だから……そこから離れたくなかった。
 だから。
 ──帰りたい……。
 切なる思いを胸に秘めたまま、啓輔は何もかもを拒絶するように意識を失った。



 ──今、何時だろう?
 ふとそんなことを思って、頭を巡らした。
 ぼんやりとした頭が次第にはっきりしてきて、見慣れない部屋に顔をしかめる。だが、すぐにここがどこか思い当たった。
 何より、あちこちの関節が鈍い痛みを訴え、転がされて下敷きになっていたらしい腕が痺れている。
 そのせいで意識が戻ったのだと気が付いて、啓輔は楽になれるよう体を動かした。
 安物のカーペットが赤く擦れた肌をちくちくと刺激していて、それも嫌だと身動ぐ要因になる。だが、それでも体を起こすまでには到らなかった。
 ──怠い。
 見覚えのある痛みと、ひきつれる肌の感触。
 それは確かにあって、意識すればするほど心を暗く染めていく。だけど、それ以上に何もする気にならないほど体が怠くて動きようがなかった。
 それに全裸であることをさっ引いても少し寒い。
 もう遅い時間で気温が下がっているのだろうか?
 一晩中責められて、気が付いたら人の気配が減っていた。
 皆が疲れたように啓輔の体から離れていったのは覚えている。だが、それがいつだったのか、ひどく記憶が曖昧で、だから今の時間が知りたかった。
 時間が経つにつれ意識ははっきりしてくるのに、体の怠さもどんどん酷くなってきた。
 そういえば、何も食べていないと思うのだが、しかし食欲は全くなく、余計に時間の感覚を啓輔から奪っていた。
 それこそあれから、二日たっているのか……それとももっと経っているのか?
 ただ、ここにきたのは火曜日の夜で、会社から帰った後だった。
 ぴくりと体が震える。
 ──ああ、会社に休みの連絡をしていない……。
 そんなどうしようもないことに気が付いて、だが酷く気になった。
 一日くらいならなんとか誤魔化してもらえるかも知れない。
 互いの事情を知っているから、上司である服部は啓輔がいきなり休んでも、しようがないね、と対処してくれるのだ。
 だが。
 それも二日続けばどうなるだろう?
 そして三日、四日ともなれば……。
 無断欠勤が続くと会社を辞めさせられる。
 そうしたら──家城とも服部とも敬吾とも……みんなから離れなければならなくなる。
 みんな、あの会社で出会った。
 あの会社にいたから、救われた。
「じゅ……や……」
 その中でももっとも愛おしい相手の名を呟くと、啓輔の蒼白だった顔に、僅かに血の気が戻った。
 知らずに口の端が笑みを形作る。それは儚いほどに小さな笑みだった。
 逢いたい、と。
 本当に願った。


「気が付いたか?」
 怠い体に起きあがる術もなく、横たわっていたままの啓輔に、揶揄が混じった言葉が降ってきた。聞き慣れた声音に、啓輔はあえて視線を上げず、その視線の先に、素足の爪先が入ってくるのをじっと見つめる。
「お前、色っぽいのな。すっげーそそられた」
 先ほどから人の気配が一人しかないことには気が付いていた。きっと家主であるこのタイシしかいないのだろう。だが、昔の友達であったはずの男の言葉は答えられるものではなく、啓輔はむき出しの体を隠すように身を竦めた。
「隠しても無駄無駄。俺、お前の体でもう知らないとこなんかないぞ。……こことか」
 爪先が視界から消えて、脇腹を軽くつつかれる。
「ん……」
 嬲られ続けて敏感になった肌が鈍く疼く。堪える気力もなくなっていて、あえなく喉が震えた。
「ここも……」
 回された爪先が、今度は熟れたように赤くなっているはずの後孔周りを押した。
 ぶるりと震えたのは、怯えだけではない。
「男ってのは初体験だったけどさあ、マジ良かったよ。きつくって、お前の顔見ているとなんかゾクゾクするしな」
 ぐりぐりと後孔に食い込む爪先を動かされて、啓輔は苦痛に顔を顰める。タイシはそれを見ながら楽しそうに喉を鳴らしていた。
「ふふん、痛い?それとも感じて声も出ないってか?」
 揶揄する声に反論する余裕はもうどこにもない啓輔にとって、ただ無様な呻き声を上げないようにと唇を噛みしめる。それだけしか、できない。
 本当に情けなくて。
 無様で。
 決してこんな姿を家城にも、そして先に必死で守ってくれた敬吾にも、見せたくなかった。
 と。
「ん?」
 軽快なメロディが響き、タイシが携帯を取り出すのが見えた。
 携帯……。
 自分の携帯はどこにあるのだろう?
 そんなことを思い出して、目が辺りを探っていた時、タイシの声にふと我に返る。
「はいっ、あっ、槻山さんっ」
 ──槻山?
 驚いたようなタイシの声と知った名前に、啓輔は床に伏せていた瞳を動かした。
「え、来るって……何で?」
 槻山が何を言っているのか判らないが、タイシが激しく動揺してその声が上擦っている。
 それが何故かは判らない。なのに啓輔はそれに期待している自分に気が付いた。
 もしかすると、と思う。
 そういえば、とタイシが啓輔をこの部屋に連れ込んだ時の言葉が脳裏に鮮明に浮かんで、狼狽えるタイシを見つめていた。
 槻山は敵が多い。
 だから、お気に入りだと思われた啓輔を、敵に売ったのだ。
 そこには、啓輔を悦ばせようと言う意志は全くなかった。壊れて当たり前、いや、壊れてしまえと、そんな抱き方をされて、放置されて。
 その体にこびりついているのは、誰のとも判らない精液と自らの出したもの。おざなりに使われたジェルに傷ついた肌から出た赤黒い血の塊。
 汚い体だと再認識して、堪らずにぎゅっと目を瞑れば、男達の嘲っている様子が甦る。
 そんな記憶からすれば、その前の槻山との行為は、されなかったこともあって、甘いの一言につきた。それは目の前で敬吾を犯されたことを思えば許せるものではないはずなのに。
 少なくともあの男は、こんなふうに敬吾達を放置はしなかったから。
 びくりと指先が動いて、爪が床をひっかいた。
 それだけで、血の滲んだ指先が痛む。
 だけど、痛みは意識をはっきりさせるために必要だった。
 槻山が来るというのであれば、もしかするとその時が逃げる唯一のチャンスかも知れない。
「ちょっと待ってください。俺が行きますからっ」
 焦るタイシの声に、啓輔はにやりと口許を歪めた。
 寝返って、啓輔を槻山の敵に売ったのだ。
 それがバレれば、タイシとて無事では済まないだろう。
 だったら、もっと焦ればいい。焦ってスキを作って──そうすれば逃げるチャンスはいくらでも広がる。
 啓輔の顔に暗い笑みが浮かんだ。
 だけど──服だけはどうにかしないと……。
 そんな事に考えが到った時だった。
「えっ、ちょっと待ってくださいっ、そのっ……」
 その声が終わらぬ前だった。
 ドアが激しく叩かれたのは。


 タイシが携帯を手にしたままびくりと一歩後ずさった。
「なんで……もう」
 その狼狽えように啓輔はドアの外にいるのが槻山だと悟った。
 何故彼がここに来たのか?なんて疑問は、助かるかも、という期待に打ち消される。
 タイシの動揺は、彼を歓迎されざるものとはっきりと表している。
「槻山さん……」
 思わず呟いた途端、タイシがぎりっと奥歯を噛みしめながら啓輔を見下ろした。途端にぞくりと激しい悪寒が背筋を走る。
「ケースケ、助かると思った?でもただじゃ、渡さない」
 その手が、啓輔の力の入らない腕を掴み上げていた。 

続く