薊の刺と鬼の涙 6

薊の刺と鬼の涙 6

『体は……大丈夫?』
 どこで電話をしているのか?
 毎朝恒例のラジオ体操の音楽をBGMに、啓輔の低い押し殺した声が携帯を通して耳に響く。
「ああ、大丈夫。ただ……ちょっと疲れが取れてなくて……ね。それでもう休むことにしただけだからさ。だから心配しなくていいよ。──それより、そっちは?」

『俺のことなんか……』
 電話の向こうで啓輔が顔を顰めて泣きそうにしている様子が否応なく浮かんでしまう。
「このくらい、平気だって。それより……家城さん……今日の様子は?」
 昨夜、家に戻ったと連絡を受けた時は、本当に啓輔の声が泣いていた。
 何も聞かれなかったと、彼が優しかったと泣いていた。
 その言葉に、敬吾自身も胸が詰まって、言葉にならなかったのだ。慰める言葉はもう出なくて、ただ、「お休み」と言って携帯を切るしかできなかった。
 優しい恋人達が何を思っているのか?
 敬吾達の拙い言い訳を信じていないのは明白で、だが彼らは決してふたりを責めなかった。
 それが辛い。
『今日も……朝逢ったけどいつもと変わらなかった。いつものように……。だけどやっぱさ……変だよな、これって』
「そう……だね」
 ふたりとも自分たちの恋人の事はよく知っている。
 優しさは確かにあるけれど、相応に苛烈さも持っている。
 そんな彼らがどんな思いで、ふたりの言葉を信じようとしているのか?
 信じようとして、平静を取り繕って。
『だけどさあ……もう普通にするしかないもんな……』
「……ああ……」
 それがどんなに辛いことか。
 嘘は嘘を呼んで、いつ破裂するか判らない。それこそふくらみ続ける風船のように大きくなっていく。
 それでも、もう賽は投げられたのだから。
『あ……服部さんが帰ってきたから……じゃあ』
「ん」
 短い挨拶を返す間もなく、携帯が切れる音が小さく響いた。
 途端に敬吾の周りを静寂が包む。賑やかなはずの朝は、澱んだ空気のせいか音を伝えない。
「はあ……」
 敬吾は大きく息を吐くと、ぱたりと寝具の上で再び横たわった。
 胸が苦しかった。
 気怠い体のせいだと、思いたかったけれど、頭はそれをはっきりと否定している。
「ごめん……」
 思わず口から漏れた言葉に思わず手の平で口を覆った。その唇が震えて、両頬を涙が流れ落ちる。
「……ごめ……なさっ…………」
 ただ、胸の中にわだかまる全てを吐き出したくて、言葉にした。それが謝罪の言葉だった。
 誰に対してのものなのかも、はっきりしないまま、敬吾は何度も呟く。
「ごめん……もっ……」
 いくらでも流れる涙に、シーツがしっとりと湿っていく。それでも涙は止まらずに、敬吾は思わず両腕で顔を強く押さえ込んでいた。
 それでも涙は止まらない。
 胸の苦しさも治らないどころかどんどん大きくなって、嵐のように荒れ狂う感情が、敬吾の全てを支配した時。
「ごめんっ……ごめんなさいっ──幸人っ!」
 ずっと胸にひっかかって出て行かなかった言葉を、敬吾はやっとの思いで吐き出していた。


「敬吾、大丈夫か?」
「……えっ……」
 寝ぼけた頭が状況を理解できなくて、敬吾はぼんやりと目の前の穂波を見上げた。
 ゆるゆると頭を動かして自分が寝ていたことを思い出す。明るい窓とそこから伝わる暑さを感じて、再度穂波を見上げた。
「おい……寝ぼけてんのか?」
 くすっと喉の奥で笑う穂波に、敬吾はようやく我に返った。
「あ……何で?」
 時計を見上げれば、12時を過ぎたところ。
 穂波がここにいていい時間ではない。驚きと若干の責めが入った視線を向けると、穂波が口の端を上げて苦笑を返した。
「出先から帰る途中だから心配すんな。様子を見に来たんだよ。ついでにここで昼でも食べようかと思ってな。お前の分も買ってきたが……食べられるか?」
 どさりと重そうな袋が、敬吾の腹の上に乗ってきて、うっと息を詰めた。
「食べられるかどうか判らなかったが……とりあえずいつもの量を買ってきたが……」
 空きっ腹に堪える重さの荷物を手で持ち上げながら、首を傾げて穂波を見つめる。
 それは、いつもと変わらぬ態度のように思えた。
「……いつものように……って……は、無理かもしんないけどさ……」
 だからいつもと変わらないように答えようと思って、口許に笑みをのせる。
「でも、お腹は空いている。ありがと」
 コンビニの袋から取り出したおにぎりを手に持った瞬間、現金なお腹が音を立てるくらいには、敬吾はずっと食べていなかった。
 手に持った触感と、視覚が、敬吾の食欲を増進させたようで、早く食べたいと思ってしまう。
 だが、そんな敬吾から穂波はおにぎりを取り上げた。
「お前、ずっと食べてないんだろ。まずは……これだ」
 がさっと音を立てて袋の中を探った穂波が取り出したのはレトルトのお粥だった。
「え?……そんなの腹が膨らまない……」
 病人じゃあるまいし。
 食べられないと判ると、ますますお腹が空腹を訴えてくる。だが、手を伸ばして取り上げようとした袋は、あっさりと穂波の手の中だ。
「まずはこれを食べろ。それからだ」
 くしゃりと髪を掴まれて、ぐりぐりとかき回された。
 確かに穂波の言い分はもっともだと判る、が。
「……意地悪ー……」
 ぼそっと呟いた言葉に、穂波が剣呑な視線を返したことに気が付いて、慌てて布団を被った。
 やばっ……。
 ぺろっと舌を出して苦笑する。
 その耳に、穂波が台所で鍋を出している音が聞こえてきた。
 いつもと変わらぬ風景。変わらぬ応酬──中身はともかくとして……。
 だけど、それがいつもと変わらないからこそ、嬉しくて。
 なのに、胸の奥の方で相変わらずちりちりと疼くようにしている塊はあったけれど、敬吾はそれを無視することにした。
 穂波がいつもと同じようにしてくれようとしているのなら、それに甘えるのもいいだろう。いや、甘えたいと切に願う。
 今はもう、ただそれに縋りたかった。
 


 落ちていなかった食欲のお陰が、一日で回復した体力は、火曜には会社に行くには十分なほどだった。
 ──こういうところは丈夫にできてんだな?。
 と、自分のタフさにいい加減呆れつつも、会社へと向かう。だが、そのタフさも外面だけだという自覚はあった。
 過去の啓輔達とのことも、啓輔が相手だったと知った途端に、パニックを起こしたことは、今思い出しても赤面モノだ。しかも、先日とてあっという間に体が竦んでしまったのだ。
 それを思うにつれ、自分のタフさが外見だけと知る。
 もう少し精神的に強くならなければ、と思うのだが、さすがに体のようにジムで鍛えてどう、というものではないから、気を確かに持つしかないと言うことだろう。
 もっとも、会社に着いた駐車場の端にある駐輪場で啓輔を見かけた途端、悪戯心がむくむくと湧いてきたのには、自ら呆れてしまった。が、それはかろうじて押さえる。
 さすがに、先だってのこともあるから、彼を煽るわけにはいかなかった。
 今の彼にそういう感情を持たせれば、否応なくそのことを思い出してしまう事は目に見えているからだ。
「おはよう」
 だからさりげなく声をかけてみたが、啓輔は驚いたように目を見開いていた。が、すぐさまその顔が泣き出す寸前のように歪んだ。
「あ、あの……」
 途端にマズいっと思って言い訳を考えようとしたが、その前に啓輔が口を開いていた。
「緑山さん……、もう……」
「大丈夫だって……それより……」
 今にも泣き出しそうな啓輔に、敬吾は苦笑を浮かべてその肩をあやすように叩いた。
 こんなに泣き虫だったろうか?
 ひどく幼く見える啓輔に、敬吾は驚きを隠せない。
「ご、ごめん……なんか、ほっとして……」
「うんうん、俺は大丈夫、とにかく丈夫なんだからさあ。だから……もう……忘れよーよ」
 慌てたように目元を擦る啓輔に微笑みかけて、敬吾は言葉を継いだ。
 忘れることか一番なのだ。
 何もかもを。
「ん……そうだね」
 だが、そんな啓輔の表情は晴れない。返事をしたのも、どこか上の空のようで何かを考えているように視線を地に這わしていた。
「何?」
 問いかけてると、なんでもないと首を振る。
 その様子が気にはなったのだが。
「おはよう?」
「あ、おはようございます」
 同僚達と出くわして、それを追求している暇はなくなってしまった。
 挨拶を交わして、従業員入り口から工場内に入る。靴を脱いでいる間にも、狭いそこは次から次へと出勤の人間で一杯になって。
 それでも。
「緑山さん……ほんとに、忘れてよ……もうあんなことはないから」
 空耳かと紛うほどに小さな声に、敬吾は慌てて振り返ったけれど、その時には啓輔の姿は階段の方に消えるところだった。
「何?」
 思わず呟いたが、それでも忘れろと言ったのは敬吾の方だったから、それに返してきたのだろうと思ってそれ以上は気にもとめなかった。
 実際、会社に行けば追われるほどの仕事量で、息をつく暇もない。それは余計な考えを敬吾にもたらさないから、啓輔のことも忘れていたと言った方が正しいだろう。
 

 だが。
 次の日──水曜の夜。
『啓輔が無断欠勤した上に行方不明なんです』
 と、家城が酷く慌てた様子で電話をかけてきた時、咄嗟に脳裏に浮かんだのは、火曜の朝の、思い悩んだ啓輔の様子だった。

 そのメールが啓輔の携帯に入ったのは火曜の朝だった。
 休んだ敬吾が今日はこれるのかということも心配だったけれど、少なくとも昨夜かけた電話では元気そうで、ほっと安堵したものだった。
 忘れた方が良いのだと思いつつも、啓輔の頭の中からは、敬吾の痴態はなかなかおさまるものではない。
 それでもそれを思い出すことは敬吾にとっても家城にとっても冒とくのような気がして、啓輔は強く頭を振って追い出そうとしていた。
 メールの着信音がしたのは、そんな時だった。
 聞き慣れたメロディに、何気なく携帯を手にとって、画面を切り替える。
「!」
 声にならない悲鳴が喉から漏れ、強張った手から携帯が滑り落ちて、乾いた音を立てて床に転がった。
「何で……」
 震える喉が、言葉をも震わせて、啓輔は床にある携帯を恐ろしいものでも見るように見つめた。
 強張った手をぎゅっと握りしめる。
 と。
 床の上で携帯が踊り始めた。
 2回震えて、また大人しくなる。それはメールが着信したことを知らせていた。
 ごくりと啓輔の喉が鳴って、手がゆっくりとそれへと伸びる。
 最初に見たタイトルに、TAISHIと綴られていたその文字に啓輔は反応したのだ。そして二件目のそれもやはり同じ文字が並んでいた。
 その綴りが示す人物を啓輔は一人しか知らない。タイシ──その名しか知らない、かつての仲間で、今は顔も見たくない忌むべき男。
 震える指が携帯のボタンを押す。
『この前はゆっくり話ができなかったから、会って話がしたいよ』
 そんなメッセージに、ぎりっと奥歯が音を立てる。
 一体どんな考えでこんなメールを送ってきたのか?
 再会した時の、タイシから受けた冷たい仕打ちを忘れてはいない。憎々しげなあの視線を忘れてはいない。
 あの時。
 クリスマスイブの前夜に敬吾を襲った後、穂波にぼろくそにされて、啓輔は今までの行為から足を洗うことにした。それは決して穂波が恐いと思ったわけではない。
 確かに訴えられて、せっかくつかみかけた一人で生きる将来を失うわけにはいかなかったという打算もあったことは否めない。だが、ようようにして家に帰った啓輔は、その日痛みのせいだけでなく眠ることができなかった。
 浮かぶのは敬吾の涙の浮かんだ表情。辛そうに歪められた顔。
 その時は高揚感しか与えなかったそれが、啓輔の心を酷く責め苛んだからだ。
 憎まれて当然のことをしたという自覚は、それ故に心を切り裂いた。同時に自分がしたことがひどく恐くなったのだ。
 一人襲うことの怖さ。それをしてしまった自分の行為と精神状態。
 何もかもが恐いと思った。そして、こんなことを続けていれば、いつかきっとハメを外してしまう。いや、既に外しているのだから。
 だから。
 あれ以来きっぱりとタイシからの誘いは断っていた。
 そのうちに何度もかかるメールや電話にうざくなって、番号自体を変えた。
 それはタイシにとっては拒絶でしかないだろう。だから再会した時のタイシは怒っていた。
 そして、啓輔はタイシの性格を知っていた。
 彼は決して諦めない。
 二つ目のメールには、場所と時間がかいてあって、絶対に来いというメッセージ付きだ。しかも。
『緑山敬吾って、彼のことだろう?』
 そして電話番号が。
 ぎりっと手の中で音がしたように感じた。
 それだけきつく携帯を握りしめてしまう。ふたりの携帯が奪われたあの時、タイシはその中から携帯の番号とアドレスを調べていたに違いない。
 あの時の様子を見れば、啓輔が敬吾の事を大事にしているのは判ることだから、脅しの材料にはぴったりだと思ったのだろう。
 そして、それは当たっていて、啓輔はタイシに対する激しい怒りと敬吾に対する後悔という二つの感情に囚われてしまっていた。
 もう、敬吾を巻き込むことはできなかった。
 あの槻山という男は、やることは理不尽でむちゃくちゃだったが、大人しく従えばそれ以上の強制はしなかった。手に入れたオモチャを壊すことなく最大限に楽しむことを好む。だが、タイシは違う。
 タイシは、きっと最後には壊れてしまっても自分の好きなようにすることを望む。それを啓輔はよく知っていた。


 約束は夜だった。
 本当は会社に行く気分ではなかったが、敬吾の無事な姿だけは見たかったのだ。
 それも朝一で叶って、しかも元気そうな、いつも通りの敬吾にひどく安堵する。そして家城にも会って、話をしたかった。
 だけどメールの件を啓輔は家城に言うつもりはなかった。
 何かあればもっとも悲しむのは家城だと判ってはいたからだ。だから、あんな目に遭ったことは言うわけには行かなくて、そしてだからこそ、その延長線上にあるメールの件も言うことはできなくて。
 だけど。
「家城さん、出張?」
「そうなんだ。ちょっとトラブルがあって」
 家城が関わる品質保証部は滅多に出張なんてないかわりに、それが入るのはいつもいきなりだ。
 たいていがトラブル絡みなので、迅速な対応が必要になる。そのせいなのだが、啓輔はよりによって、とがくりと肩を落とした。
 言うつもりはなかったけれど。
 それでも何か話をしたかった。
 

「タイシ……」
 待ち合わせの場所に、来なくていいと願った相手は気色悪い笑みを浮かべて立っていた。
 途端に啓輔の足が竦んで動けなくなる。
「よう」
 向けられた笑みも、言葉も、前と変わらない。
 だが、啓輔はびくりと全身を強張らせた。襲ってくるのは明らかに友好的でない感情だ。
「何のようだ?」
「つれないね。昔の仲間だろ」
 だから。
 だから遭いたくなかった。
「よく言う。俺をあんな奴に売ったくせに」
「ふふ。お前まで売るつもりはなかったんだけどな。あの人にぜひって言われると俺達は断れないのさ」
 立ちすくむ啓輔は腕を掴まれてそこからぞくりと悪寒が走った。
「気持ちいいことされたんだろ?どうだった?」
 からかい混じりの言葉にかっとなって腕を振り払おうとするが、それを押さえつけてタイシは小さく笑っていた。だが、むき出しの肌に触れる小さな突起物が肌をきつく刺激する。
 それが何かは、この前見て知っていた。
「まあ、とりあえず……ついてこいよ。話があるんだ」
 その声は静かな怒りを孕んでいて、ぎゅっと握られた腕のせいもあって啓輔に逆らえるものではなかった。
 

 無言の啓輔を連れタイシが連れて行った場所は、古ぼけたマンションの一室だった。
 市街から少し離れた場所で、周りに他に大きな建物はない。
「ここは?」
 返事を期待せずに呟いた言葉に、タイシがニヤリと嗤って答えた。
「俺んち」
 そのまま引っ張られて、エレベーターに乗せられる。
 逆らうつもりはなかった。
 とにかくタイシに敬吾だけでも諦めさせないと、このトラブルは終わらない。
 タイシが何を望んでいるのかは判らないし、その望みがどんなに受け入れられないものでも、それでも啓輔はタイシの関心を敬吾から外したかった。
「ここだよ」
 セキュリテイも何もない。
 辿り着いた場所のドアをタイシが数度蹴っ飛ばした。
「?」
 タイシの家だと思っていた啓輔の訝しげな視線に、タイシが嗤う。
「客がいるんだ」
「客?」
 不審気な問いかけに返事の代わりにドアが開いたと思う間もなく、背を突き飛ばされた。
「えっ」
 こける、ときつく目を瞑ったが衝撃は無く、代わりに体が柔らかく受け止められる。途端にきついタバコの匂いが鼻についた。
「こいつか、タイシ?」
「そうだよ、あの槻山のお気に入りの一人」
 頭の上から降ってきた野太い声もさることながら、啓輔は背後からの侮蔑の色にびくりと体を震わせた。
 そこには、槻山に対する侮蔑すら込められているように思えたからだ。
 慌てて振り向けば、逆光でタイシの表情がよく見えない。
「何で……お前、あの男の仲間じゃ……」
「男って、槻山のことか?あの人、金払いはいいんだけど、自分の道しか興味がない人でさ。敵も多いわけ。だもんで、あの人を陥れたいって人は多いんだ。そのためなら、いくらでも金を払ってくれそうな」
 くすりとおかしそうに笑うタイシに、啓輔はマズいっと慌てて身を捩った。
 これは話し合いどころではない。もとより啓輔を捕まえている男が槻山を陥れようとしているなら、お門違いも甚だしい。
「俺は、あいつのお気に入りなんかじゃねーっ!!」
 それは売ったタイシが一番知っている筈だった。
 が。
「何言ってんだよ。槻山が次の日言ってたぜ。楽しかったってな」
「なっ!」
「いい加減大人しくした方が身のためだよ。あの日、どうやって槻山を悦ばせたのかしんねーけど、この人達も同じように悦ばせたら、かわいがってくれるかもよ。な、ケースケ」
「何をっ、この離せっ!!」
 従えるものではない。
 あの日、何のために敬吾が身を挺してまでして守ってくれたというのか。
 何とかしてこの場から逃れようと渾身の力をこめて掴まれた腕を振り払う。目の前にいたタイシに体当たりして、ドアへと向かって。
「ぐっ!」
 きつい一撃が背に叩きつけられた。
 掴もうとしたノブから手がすり抜け、上半身がドアへと叩きつけられる。その衝撃に、目から火花が散った。
 脳が頭骨の中で揺れている。
「逃げられるわけないだろ?」
 卑下した嗤いが背後からするのを、啓輔は朦朧とした頭で聞いていた。



「だけど……」
 電話の後、どうやって家城の部屋にまでやってきたかが記憶にない。気が付いたら、目の前に蒼白な顔をしている、見たこともない家城の姿があった。
「だけど……昨日はいつものように……」
 そこまで言って何か大きなものが喉につまったように言葉が出なくなる。
 結局朝しか逢えなかったから、その後の様子は知らないけれど、それでも、朝見た啓輔の顔が浮かんできた。何か……どこか変だったとは今なら判る。
 けれど。
「何で……」
 どうしてそんな顔をしていたのかなんて判らない。
 いつものようだったと言えば、そうだと思えるけれど、目の前の家城がこんな悲痛な顔をしているということは、本当にどこにも啓輔はいないのだ。
「朝……連絡がないと服部君から聞いて、携帯に連絡したけれど電源が切れていると……。それが気になって彼の家の隣の方に連絡をとって家にも入って貰ったんですけど、いないようだと……」
 隣の家……。
 あまりのことにぼんやりとした頭に浮かぶのは、一度だけ訪れた啓輔の家の周り。
 田舎らしく十分な間隔のある家並みに、青々とした緑に包まれた庭。そんなのどかな景色と世話好きな近所の人達。
「……あまり詳しいことは言えなくて、心配するおばさんを遅刻してきたからと誤魔化したんですけど……」
 昼を過ぎても啓輔は来なかった──と家城は言葉を噛みしめるようにして敬吾に伝えた。
 同じ言葉を電話でも聞いた。
 その瞬間思い出したのは、つい先日、自分たちの身に起こったことだ。
 そして……、好色そうに『気にいった』と言った槻山の顔。
 ──違う。
 ぶるりと震える体を掻き抱きそうになって、敬吾は慌てて手を握りしめることでそれを堪えた。
 ──違うはず……。
 根拠のない否定を何度も頭の中で繰り返す敬吾は、自分を呼び出した家城を見下ろしていた。
 家城は、敬吾を迎え入れてからずっとソファに腰を下ろして、なかば頭を抱えるようにしている。いつもは無表情で冷たさすら窺える家城は、心労のせいか感情が露わになっていた。
 きっと会社が終わって自由になった途端、心当たりを探し回ったのだろう。
 そして。
 見つからなくて、敬吾に電話をしてきた。
 その理由は……。
「俺には……判らない……けど……」
 家城が何を期待して自分に連絡してきたのか、敬吾は痛いほど判っていた。
 つい数日前、同じように連絡が取れなくなった時、その時啓輔は敬吾とともにいた。だから、今回もそうであって欲しいと思ったのだろう。たとえ、会社で敬吾には逢っていたとはいえ。
 ──だけど……違う。
 何故自分がそう思うのか、敬吾には判らなかった。
 ただ、槻山のところに啓輔がいる筈はないと、そう信じたかった。
 もし啓輔が槻山の元にいて帰ってこないというのなら、あの時、自分がした行為は何だったのかと……。ふとそんな考えに晒されて、そんなバカなと歯ぎしりをする。
 ──そんな筈はない……だから違う。
 それは願いであった。
 と。
 敬吾は、ふと胸ポケット当たりに振動を感じて、そこに手を当てた。止まらない振動にそれを手の中に出して開いてみると、見覚えのある名前が浮かぶ。
 だが、今はそれは期待する名前ではなかった。
 じっと見つめる先で、いつまでも振動する携帯。
 こんなふうにあの時も何度も鳴った筈の履歴が携帯に残っていた。
 あの時と同じ。
 だけど、今はあの時と違う。
 もしこの事態を穂波が知ったならば、彼はどんなふうにするだろう?
 携帯をみつめている目を、ふと家城に向けると、彼が請うようにして敬吾を見つめていた。
 それが何もかも見透かしているような、そんな目の色にたじろいで、いたたまれなくて敬吾は再び携帯に視線を落として。
 そして、永遠になり続けそうなそれのボタンを押した。


「もしもし」
『敬吾っ!』
 焦ったような声に、そんな時ではないと思いつつも、くすりと笑みがこぼれる。それでも、次の瞬間には顔が歪みそうになった。心配かけていると思う。家城の蒼白な顔を見るほどに、あの時のこのふたりの様子がまざまざと目に浮かんできた。
 きっとあの時もこんな風にふたりに心配をかけたのだろう。
 ひどく申し訳なくて、だけど、それが嬉しい。そんなにも思われている事実が嬉しい。だけど。
 それでも……今はそれどころではなかった。
「ごめん……今ちょっと」
 ほんの僅かの間に家城の表情が大きく変化したのを見て取っていた敬吾は、未だつかない覚悟をそれでもほんの少しだけつけて、穂波と相対する。
 きっともう……誤魔化すことはできない。
 そして、穂波に今の事態を誤魔化すこともできない。
『家にはいないし、どこに行ってるんだ?』
「家って……来たんだ」
『それよりどこにいるっ?』
「どうだって……」。
 あの時、こんなふうに糾弾していてくれたら。
 そんな考えが頭に浮かんで、お門違いもいいところだと、敬吾は自嘲めいた笑みを口の端に浮かべた。これは、何もかも自分たちの責任で、そして、今の事態があれに付随することなら、それは自分たちが隠そうとしたことが原因なのだから。
 認めたくはないと──ずっと違う、と否定し続けていても、敬吾は啓輔がいない理由に、先日の事が結びついてならなかった。
 そして、それは家城もそうだろう。
 そして──この事態を知った穂波がそう思うことも明白で。
 だから言いたくはなかった。
 だけど。
「今こっちは……大変なんだから」
『何がっ?』
「隅埜君が……いなくなった……」
『!』
 携帯の向こうで穂波が大きく息を飲む気配が伝わってきた。


「すみません……またご迷惑を……」
 ぱっと見た目は、家城はいつもと変わらない。だが、抑揚のないその言葉に穂波が再度息を飲むのが敬吾にも伝わった。
「だいたいは敬吾から聞いたが……。まるでこの前と同じだな?」
 その言葉に、敬吾はびくりと体を震わせた。彷徨う視線が落ち着かなく何度も足下を往復する。
 心の中でもう何かが張りつめきっていて、悲鳴を上げそうで、だがそれを敬吾は必死で堪えていた。
「……そうなんです。しかし今回は緑山君はこうやってここにいます」
 その言葉に、家城がふたり一緒だったらと期待していたのだと敬吾に再確認させた。だけど、違ったのだ。
 それは穂波も同様で、そのどこか眇めた視線が敬吾を見つめる。
「……敬吾……」
「……何?」
 穂波の低い声に震える体を必死で押さえつけて言葉を返す。
 穂波が何故敬吾に声をかけたのか、頭は理解していた。だけど、それは違うと、もう一方で否定する。
 険しい顔つきの穂波が、何かを決意したかのように敬吾を見据えているのを、敬吾はその目を見なくても判ってしまっていた。
「彼は……どこにいる?」
 単刀直入な台詞。
 だけど。
「知らない……」
 知っている筈はなかった。
 なのに、ふたりの目が自分が知っていると言っている。
 いやいやするように敬吾は首をふり、その手をぎゅっと握りしめていた。
「ほんとに……俺は知らない……」
 もしかすると、とはずっと思っていたけれど。
「敬吾、では質問を変えよう」
 穂波の声がさらに低くなって、手が敬吾の腕を痛いほどに掴む。
 恐い、と、本気で敬吾は思ったが、それを振り払うことはできなかった。
「あの日、どこにいた?」
 掴まれる手が痛い。
 ぎりぎりと食い込む指の力は、あの日のように許してくれそうになかった。
「敬吾……」
 低くて地を這うような言葉が、だが、その顔は辛そうに歪んでいた。
「ゆきと……俺は……」
 開きかけた口が強張って、それ以上動かない。
 あの日、あの時、何があったか?
 それは今のこの事態と関係ないと思いたくて、だけど、確かに啓輔はいない。家城達にとって、あの日と同じように啓輔はいなくなったのだ。
 だから、言わないといけない……。
 戸惑い震える敬吾は、それでもあの日の事を言うことに躊躇いがあった。
 あの日、自分たちに起こったことを言うのは、敬吾はイヤだった。
 だが。
「……穂波さんは、あなた達が無事帰ってきて、それでも何も言わないのなら、追求しないでおこう、と言われたんです。あなた達が隠したいのなら、それに従おうと」
 家城が、静かに呟くように言った言葉に、大きく目を開く。
 一気に膨れあがった罪悪感のようなものが、破裂しかけた気がした。その拍子に溢れかけていた涙が頬を伝って流れ落ちていく。
「何も言わない……って……」
 だから、あの時何も追求されなかった。
 ただ、優しく、癒そうとしてくれた穂波と家城の姿が脳裏に浮かぶ。
 バレるはずだったのに、バレなかったのは、ふたりが聞こうとしなかったから。
「……お前達が言いたくないのなら……聞かないでおこうと思っただけだ。何があったとしても、それはお前達の意志ではない。お前達は、それぞれに俺達を捨てるつもりなんかなかったろう?」
 それは疑問であったけれど、確信だ。
「捨てる……って?」
 聞きたくない言葉だと、敬吾が目の前の穂波を見上げた。
 その言葉が唇の震えとともに震えて響く。
「お前はあの日、帰ってくるといったから……。隅埜君も言っていたらしいな。お前もあの子も、ふたりとも帰ってくると言ったから。だから、少なくとも帰れないのはお前達の意志ではないと……判っていた。心当たりは捜して、それでも見つからなくて、でもいつかは見つけてやろうと……。お前達が帰ってきたあの日、言いたいことは一杯あったが……それでも、帰ってきてくれたことだけが俺達には、一番だった。たとえ何があろうとも──俺達はお前達が帰ってきてくれれば良かった。そうだろう?お前達は……あの時、俺達を失うつもりなんかなかったろう?」
 それは懇願で、そして穂波の本音だ。
 呆然と見つめる先で、穂波の瞳が敬吾を捕らえていた。
「敬吾……?」
「そんなこと……」
 敬吾の口から震える言葉が零れていく。
 あの日、心配をかけて、だけど誤魔化すことだけしかできなかった自分たち。
 だけど、ふたりはこんなにも自分たちのことを思っていてくれて、そして、守ろうとしてくれた。
 心の内に膨れあがるのは確かにこんなふたりを騙してしまったという罪悪感で、それがどうしようもなく制御できなくなっていく。
 何より。
「失うなんて……」
 考えなかった。
 ただ、戻りたいと願って。
 どんなに疲れて動けなくなっていても、帰りたくて堪らなかった。
 帰りたくて、日常に。
 だってそこには穂波たちがいたから。
 そう思った途端、滴で流れていた涙が、激しく溢れだした。ぽたぽたと落ちた先で染みを作る。
 辛かった。
 黙っていることが。
 誤魔化すことが。
 そして、こんなにも信じようとしてくれたふたりを騙したことが。
 ピシッ
 どこかで弾ける音がした。


「ご、ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」
 溢れる感情が口を動かして、最初に言いたかった言葉が、出てくる。
 俯いて掴まれた腕に縋るように手を添えて、敬吾は謝罪の言葉を繰り返していた。
 もう何を話しているのか、自分でも判らないほどに、ただ、口をついて出る言葉を後から理解してしまうほどに。
「い、イヤだった……黙ってること……だけど……だけどっ……」
「敬吾……」
「どうしても言えなかっ……。言ったら、隅埜君が壊れそうで……。隅埜君もきっと俺のことを思って……。だからっ……だけど、それでもイヤだった……」
 温もりが体を覆っていた。
 締め付ける苦しさも、それが敬吾の胸にあった言えなかった言葉を吐き出させる。
「失うなんてイヤだった……。、だけど騙すこともイヤだった……。俺は、俺は……だって……だって、幸人が……幸人のことだけ……。だけど、隅埜……君が、酷い目にあうの……イヤで……。だけど、どんなに体が流されたって、幸人しかイヤだった。幸人だけしか知りたくなかったっ!!隅埜君だってっ──薬なんか使われなかったら、俺をっ!!」
 ひっく、と喉が詰まって言葉を塞ぐ。
 言いたいことはたくさんあった。
 だけど、嗚咽が先に出て、詰まる喉がうまく言葉を吐き出さない。
「だけど……そんなことになったのも……俺……のせい……で……っ。俺があいつらに捕まって……」
 だから、隅埜君が……。
「もういいっ、もういいっ、今はもうそんなことは良いんだ」
 穂波が腕の力を強める中で、敬吾は何度も何度も音にならない言葉を繰り返す。が。
「俺がまた……あいつに……捕まったから……」
 それでもなんとか吐き出した言葉に、穂波がぎりっと歯ぎしりしていたのも耳に入っていなかった。
 
続く