薊の刺と鬼の涙 5

薊の刺と鬼の涙 5


 力が入らない体に槻山が手を触れる。
「やめろ……」
 力無い言葉とその手をはね除ける気配に目を向ければ、敬吾が啓輔を守るようにその体を割り込ませてきていた。
「俺が……相手をする……から……彼には手を出すな」

 怠そうに緩慢な動きしかしない敬吾の疲労はそうとうなものだと見ていて判るのに、敬吾は決して弱音を吐かなかった。それどころか、その濡れた瞳がますます強く感じる。
「なら……相手をしてもらおうか」
 ニヤリと嗤う槻山とて、敬吾が限界だと気付いているだろう。
「俺は……」
 みかねて啓輔が割り込もうとすると、あろうことか敬吾にきつく睨まれる。情欲に晒されて潤んだ瞳で見つめられてごくりと息を飲んでいると、そのまま首を横に振られた。
「俺が受けるから」
 そして笑う。
 少し引きつってはいたけれどいつもの綺麗な笑顔で、そうなると啓輔はもう何も言えない。
 こんなふうにずっと敬吾は啓輔を気遣ってくれて、優しくしてくれるというのに、啓輔は簡単に薬に負けて敬吾を抱いてしまった。
 敬吾の中で達って、理性が戻った啓輔にとってそれは愕然とする程に、衝撃的なことだった。
 確かに、ずっと望んでいた。
 初めて出会ってからずっと、敬吾を抱きたいと、手の中で喘がせたいと望んでいたことは否定しない。それは、家城という恋人を得てからも変わっていない。しかしだからといって、それを実行に移そうなどとは夢にも思っていなかった。
 それは、夢であって──叶わない願望であって──それ以上のものではなかった。
 なのに。
 薬の力か、敬吾の体を抱きしめた途端、全ての理性が吹っ飛んだ。
 抱きたいと、我慢ができなくなって。
 そこから先は、きっと忘れることなどできないだろう。
 望んでいた敬吾がそこにいて。
 内壁に包まれた熱さも快感も、家城のそれとは全く違っていた。いや、比べるものではないだろう。家城と敬吾とでは、何もかもが違うのだから。
 だけど……これは。
 決して叶ってはいけない夢だった。
 達ってしまうと薬の効果も薄れてきたのか理性が戻ってきて、途端に激しい後悔に責め苛まれる。
 何て事を……。
 あの時以来、二度としてはいけないことだと思っていたのに。
 また敬吾を泣かしては駄目だと思っていたのに。
 だけど。
 目の前で、啓輔を守るために敬吾が槻山に抱かれていた。
 上気した頬も、潤んだ瞳も、快感に流されかけているのに、それが辛そうにしか見えない。
 なすがままに揺さぶられて、だけど時折思い出したように、槻山を煽っている。それは、槻山の意識が啓輔に向かないようにしているのだと、啓輔にははっきりと判るもので、それが胸を締め付ける。
 一体いつになったら槻山が自分たちに飽きるのか?
 このままずっと敬吾は槻山が飽きるまで相手をし続けるつもりなのだろう。
 しかし、それでは駄目だと、啓輔はくっと唇を噛みしめた。
 色が変わるほどにきつく食い込む歯が、唇に小さな傷をつける。それをぺろりと舌で舐めた。
 もうイイと、槻山に言わせないと駄目だ。
 でないと、いつまでも槻山は啓輔達を求めるだろう。そうなれば、敬吾は気力の続く限り、啓輔を守ろうとしてその体を投げ出す。
 だったら、さっさと槻山を満足させないと。もうイイと思わせないと……。
「ん?」
 敬吾を組み敷いて足を掲げさせて挿れていた槻山が、びくりと体を硬直させた。
「手伝う……」
 誰に言ったわけでもない。それは啓輔の決意だった。
 その啓輔の手が槻山の背後からふたりの繋がっている場所に触れる。そのまま顔を寄せて、ぺろりと舌を出して突いた。
「んあっ」
「くっ」
 ふたりの吐息が荒く漏れる。
 啓輔はそれを無視して接合点の、そして重点的に槻山の方を舐め続けた。
 抜き差しされる槻山の雄に舌を這わせる。手を伸ばして、後ろの袋とそしてその後ろを揉みしだいた。
 張りつめたそこが、意外に快感を感じるのだと経験で知っているから──外からできる知っている限りの技巧を凝らす。
「んっ」
 確かに感じた手応えに何度も何度も繰り返して。
 槻山を高みへと昇らせる。
 そのために、何をためらうことなどあるだろうか?それが敬吾を助けるのだから。
 啓輔の顎から喉が溢れた唾液でしとどに濡れてしまった頃、槻山の体が一瞬硬直した。途端に敬吾も小さく身を震わせる。その動向に槻山が達ったのだと知って、啓輔はようやくふたりから離れた。
 無理な姿勢でいたせいで、肩も首も──そして下顎も痛い。
 ため息のように大きく息を吐き出して、ぐたりとベッドに体を投げ出した。
「……ったく。見事な連係プレイだよ。道具無しでこれだけ楽しめるなんて以外だな」
 苦笑混じりの声が上から降ってきて、微かに身動いで槻山を視界に入れる。
 たくましい体だと思う。
 プールなどでみれば、羨ましいと思えるくらいだった。だが、今はその体躯がもたらす体力が恨めしい。しかもまだまだ余裕がありそうなその表情に、内心舌を巻く。
 もっとも、家城とて一晩に3回くらいはこなすことがあるから、この男なら大丈夫かも知れない。
 そして、普通ならそれにつきあえるだけの体力を持っているはずの啓輔だったのだが、なぜだか一回一回の快感が激しくて、消耗が酷かった。
 それは敬吾も同じようで、達った回数が多いのと連続だということで、どうみても動くのも辛そうな程に荒く胸を上下させていた。
 たぶんもう無理だ。
 そう思うのだけど、敬吾の目は、槻山の様子をじっと追っている。
 もし槻山が啓輔に手を出そうとすれば、また無理をして起きあがるだろう。
 そして、啓輔にはそれを止める手立てがないのだ。敬吾の意志を拒絶することができない。
 それが悔しくて、情けなくて、ぎりっと奥歯がきしむ音が頭骨を介して脳にまで伝わる。
「ふふ、君は元気そうだから……」
 きっと槻山は気付いている。
 横目で敬吾の様子を窺いながら、それでも啓輔に手を伸ばそうとして。
「……やめろ……」
 気怠げな動作でそれでも腕に力を込めて起きあがる敬吾に、楽しそうに笑いかける。
 ああ……。
 寝ていて欲しい。
 起きないで欲しい。
 だけど。
「緑山さん……もう……」
「俺は大丈夫。まだまだいけるよ」
 何でもないと笑みを浮かべられると、二の句が継げなくなる。
「君がバテるのが早いか、こっちがバテるのが早いか……楽しみだ」
 最初からその気だったくせに。
 啓輔の声なき指摘に、槻山が嗤って、頼むよと片目を瞑って合図する。
 それにムッとしたけれど、敬吾の負担を軽くするためにはなんでもしようと決意しているのには変わりない。
 だから敬吾に猛然とのしかかる槻山に、啓輔は感情を押し込めて愛撫する手を差し出した。


 槻山は何回達ったのだろう。
 自分たちは何回されたのだろう。
 啓輔は結局敬吾に守り通された。
 だけど、彼は……。
 広いベッドに三人が死んだように眠っていて、最初に寝ぼけ眼とはいえ目覚めたのは啓輔だった。あの槻山とて、完全に熟睡している。このまま隣の部屋に行けば紐も電話もある。槻山を捕らえることなど造作もないことだった。が、そのための活力が今の啓輔にはなかった。
 体が酷く怠い。まだまだ寝たりない体が睡眠を欲していて、そこから抜け出せないせいもあるのだろうが、とにかく体が動かないのだ。しかも無理に動くと頭の奥に鈍い痛みが走って同時に吐き気すら催してしまう。動かなければ大丈夫なので、結局啓輔は動くのを諦めた。
 せっかくの逃げるチャンスだったかも知れないけれど、啓輔は無理に動いたとしても、敬吾はどう考えても無理だろう。
 遮光カーテンなのか、外の光はカーテン越しには入ってこなくて、今が夜か昼かも判らなかった。ただ、眠いから夜なのかとも思うが、一晩中抱かれたのだとしたら、昼間でもおかしくない。
 だけど、それももうどうでもいい。
 少なくとも、狂乱の夜は終わった。
 それだけで、もう啓輔の頭は考えることを拒絶してしまった。


「約束は守るよ。もっとも君たちがここにいたいというのであれば、無理に帰れとは言わないが?」
 動けない敬吾に、タクシーの手配をしながら槻山は言った。
「君たちが気に入ったから、いつでも連絡してくれよ」
 なおかつ敬吾のシャツの胸ポケットに四角い紙切れを滑り込ませる。
「誰がっ」
 毒づく敬吾の顔は蒼白に近いほどで、立つこともできずにソファに身を沈めていた。
 その傍らに啓輔が所在なげに寄り添っていた。
 目覚めてすぐに、帰る、と伝えると槻山は黙って頷いた。
 もとより速攻でここを出て行くつもりだったのだが、何回抱かれたのか記憶にないほどの行為は、敬吾の足腰から力を奪い去っていた。
 それでも時間が経つにつれて少しはマシになったのだが、5分と歩くことはできない。
 そんな敬吾達に槻山はタクシーで帰れと言ったのだ。
 その待ち時間の間だった。
「……どうして……こんな無理矢理に……」
 考えてみれば、無理矢理に連れてこられて、薬まで使われたことを除けば、そんな無茶はされなかった。道具も最初だけで、後は体だけで敬吾を何度も昇天させた。もっともそれを可能にする精力絶倫とも言える体があったからだろう。
 それだけ落ち着いて相手を抱くことができるならば、こんなふうに無理に相手を抱かなくても相手は見つかるだろうと思う。
「無理矢理ってのが好きだから」
 くくっと喉で嗤って槻山が敬吾に近づいた。その間に啓輔が立ちはだかる。
 きつい横顔が目に入って、敬吾は小さく息を吐いた。
 こんな目をさせたくないと思って体を張ったけれど、それはまた啓輔に罪悪感を植え付けたのかもしれないと気付いたからだ。今の表情は何をおいても敬吾を守ろうと、必死になっているものだ。
「……君も面白いね。初めて男を抱くのかと思えば、結構慣れていたし。だけど、君はネコっぽいしね。もしかして、今の恋人との関係はリバなのかい?」
「うるさいっ!」
 細められた目が、きつく槻山に向けられる。だが、槻山は意にも介さない様子で、ただ楽しそうに笑っていた。
「まあ、特定の相手が今いないってのが原因の一つなんだけどね。いろいろと心当たりを当たってはみたんだが、どうも好みに今ひとつ合わなくて……。それで知り合ったタイシって子にそれらしい子がいないか聞いてみたんだよ。男相手がOKな子はいないか?ってね。そうしたら、君達を連れてきたって訳で。……まあ、承諾を得るように、と伝えなかったのは私のミスかもしれないね」
 ……確信犯。
 不意に浮かんだ言葉に、敬吾は顔を顰めた。
 それから逃れるように槻山が窓際により、眼下に目を向ける。
「ああ、タクシーが来たようだ」
 その言葉とともに、クラクションの音が響いて敬吾は慌ててソファから立ちあがった。
 だが、すうっと視野が狭くなって慌ててどさりと腰を下ろす。
「緑山さんっ!」
 啓輔の悲痛な声に、大丈夫だと制止するが、酷い立ちくらみなのかなかなか視野が戻らない。
「貧血かな……。食べずにしたし」
 かつかつと槻山の足音が響いたと思った途端に、ふわりっと浮遊感が体を襲った。
「うわっ」
「おいっ!」
 敬吾の悲鳴と、啓輔の怒りに満ちた声が同時に響く。だが、槻山は落ち着き払っていた。
「このままではいつまでたっても下に下りられないだろう」
 その言葉が嘘でない証拠に、敬吾を抱き上げたまま階下へと向かう。
 結局啓輔も手出しができないのと、その言葉を否定することもできずに後ろから付いてきていた。
 そのまま運ばれてタクシーの後部座席に下ろされる。
「じゃ、よろしく」
 なおかつ、タクシー代を先払いだと運転手に金まで渡していた。
 本当は、拒否したかった。
 槻山の手で手配された何もかもが本音はイヤだった。
 だけど……そんなことよりも今は、一個も早くここから離れたかった。
 

 だから。


 ばたんとドアが閉まってタクシーが走り出した時、敬吾と啓輔は二人揃って安堵のため息を吐き出していた。


 敬吾のアパートの前で二人揃ってタクシーから降りた。
 まだ足下のおぼつかない敬吾の体を啓輔が支えて部屋へと向かう。
 部屋の鍵を取り出しながら、ふと空を見上げれば、太陽の傾きからしてもう昼は過ぎていた。ということは、ほぼ一昼夜、拘束されていたということになる。
 昨日啓輔と一緒に取った昼以来何も食べていないというのに、敬吾には食欲がまったくなかった。
 ただあるのは疲れた体を横にしたい。休みたいという睡眠欲だけだった。
 それは啓輔も同じなのか、青い顔にうっすらとクマが浮かんで、その目はどこか虚ろだった。だが、それでも必死になって敬吾を支えてくれる。
「大丈夫?」
「うん……ありがとう」
「……礼なんて……」
 何かを言いかけて止めた啓輔の言葉の先は想像できたのだが、あえて聞こえなかったふりをした。
 後で、何もかも話し合って、そして対処方法を決めよう。
 だけど今は、休みたい。
 そればっかりが頭にあって、だからふたりとも、肝心なことを忘れていた。
 それを思い出したのは、力を入れていないのにいきなり開いたドアの向こうを見た時だ。
「え、開いて……」
 簡単に開いてしまったドアに驚いて、だが次の瞬間、中にいた男達を認めて、言葉すら出ないほどに驚いた。
 途端に、しまった、とそのことに思いあたらなかった事に激しい悔いが生まれる。
「ゆ、幸人……」
 震える唇が無意識のうちに愛おしくて、だが今一番あいたくなかった恋人の名を発する。体はもう硬直して動かない。そんな敬吾の腕を、啓輔がぎゅっと握りしめていた。その視線が、仁王立ちになっている穂波の後ろに注がれているのは見なくても判った。
 きっと啓輔の方が驚きは強いだろう。
 彼がここにいる、そのことが理解できない。
 そんな啓輔の体が怯えたように小刻みに震えているのは判っても、それを慰めることは今はできなかった。そんな事をすれば、穂波の怒りに油を注ぐようなものだ。
「入れ」
 怒りを含んでいるのにそれを無理に押さえようとして、結果地を這う声が響く。
「……ゆき…と……」
 イヤだ……。
 その瞬間、確かに拒絶しようとして、それなのに体が動かない。
 どうして考えなかったのだろう?
 今の時間。
 昨日の朝の約束。
 穂波が連絡の取れない敬吾を捜したのは想像に難くない。
 寝不足に白目を赤くした穂波の腕が身動きが取れない敬吾の腕を荒々しく引っ張った。それに足がついて行かなくて、穂波の体の中に倒れ込む。いつも嗅いだ穂波の匂いが敬吾を包む。
 だが、それはいつもの優しい抱擁ではなかった。
「ま、待てっ!」
 無理に引っ張られて、体がきしむ。
「ちょ、ちょっと待ってよっ!」
 我に返ったように啓輔が穂波を止めようと手を伸ばす。
 だが、彼の腕はその傍らにいた家城によって掴まれていた。
「啓輔……あなたに話があるのは私の方ですよ」
 感情の窺えない声に、部屋の温度が一気に低くなったように感じて、敬吾達はぶるりと身を震わせた。
 何か……何かを言わないと……。
 このまま詰め寄られて、昨夜からの事を喋らされるのはイヤだった。
 たとえそれが無理矢理だったとしても、どうして彼らに言えるだろう。
 特に啓輔は……。
 ちらりと窺う先で、蒼白な顔をした啓輔が敬吾を見つめていた。
 彼は……。
 だが、どうしたらいいんだ?
 何も考えずに迂闊にも戻ってきたことを後悔することになるとは……。
 頭の中で幾多の言い訳が浮かんでは消えていく。
 それはどれも決定的な言い訳にはならなくて、敬吾の頭の中は混乱の極みだ。しかも、無理な動きをしたせいか、きしむ体が座り込みたくなっているというのに、穂波に腕を掴まれてそれもままならない。
 本当に。
 こんな目にあったのも全て槻山とあのタイシって奴のせいだ。
 混乱した頭がまるで逃避のように怒りのはけ口を捜す。
「敬吾っ!今までどこに行っていたんだっ!」
 何も言わずに俯いたままの敬吾に穂波が苛々と詰問する。
 だけど、答えられない。
 答えられるモノではない。
 ただ言えることは……。
「……気持ち悪い……んだ……」
 ただ、今の現状だけで。
 そう呟いたのは嘘ではなく、しかも言った途端にずるずるとその場に崩れ落ちる。胸元に込み上げる嘔吐感は、言葉にしたせいかさらに酷くなっていた。
 それは、目覚めた時から敬吾につきまとっていたものではあったけれど。
 それが酷くなっていた。
「お、おいっ」
「緑山さんっ!」
 口と胸を押さえ、冷や汗を浮かべる敬吾に、さすがの穂波も慌てて傍らに俯く。それに啓輔も家城の手を振り払って跪いた。
「あ、あのっ……俺達、飲み過ぎてっ!だから……っ!」
 それは啓輔の咄嗟の詭弁だった。
 それだけ言って、次の言葉が続かない。だが、敬吾は少し霞んだ頭で、それに乗っていた。
「……昨日調子に乗って……ちょっとだけっ……思った……だけど……。でも飲み過ぎて……」
「二日酔い……か?」
 胡散臭そうな穂波の言葉に、負けてはいられなかった。
「俺がバテて……なんか気が付いたらふたりでホテルに寝てた……。はは……情けないけど……」
「そ、そうだよっ。ふたりで寝てて、気が付いたら朝になっててっ……。で、で……」
「言っとくけど、何も無かったからな」
 それだけははっきりさせないと、穂波が何を言い出すか判らない。
 というより、こんな情けない言い訳をはっきりいって聡いふたりが納得するとも思えなかったけとれど。
 それでも敬吾達は必死だった。
「つまり……。昨夜早く帰ってくるといった割には、飲みに行って、酔った拍子にふたりでホテルに入って、何もせずに今まで寝ていたということか?しかも携帯がいくら鳴っても出なかったほどに熟睡していた……と、こう言いたいらしいな」
 そんなことが信じられるか、という顔つきの穂波に、だが、今のふたりはこくりと頷くしかない。
 一度つきだした嘘はもう止まらない。
 だが、本当の事をいう勇気は今はなかった。
 たとえ無理矢理だったとしても、他人に抱かれて何回も達ったなんて。
 それにそれを話せば、啓輔に抱かれたことまで言わなくてはならないだろう。
 それは、敬吾にとって以上に、啓輔には酷なことで、言えるものではなかった。
 抱かれるのは無理矢理だったと言える。だが、抱くのは……。
「啓輔……本当ですか?」
 無表情なのに、辛そうだと思える瞳を家城が見せていた。それは初めて見るもので、啓輔もごくりと喉を上下させる。けれど。
「……そうだよ……」
 結局彼も嘘を付くしかなくて、その瞬間、家城と穂波が互いに顔を見合わせたのが敬吾にも判った。


 それでも、そんな嘘が通用するなんて思わなかった。だが、もう他に手立てがなく、祈るような思いでその嘘に縋り付く。
 それに気持ちが悪いのは嘘ではない。
 頭の奥の方がずきずきと痛んで、それが吐き気を誘発していた。
 そして。
 敬吾の体が限界なのはそこにいる誰の目にも明らかで、その調子の悪さにまず穂波が折れた。
 大きなため息がその口から漏れ、結局何も言わずに敬吾を抱き上げるとベッドまで運ぶ。
「幸人……」
 信じてくれた?
 だが、人の心の動きを巧みに見切って仕事をする穂波ともあろうモノが、敬吾達の拙い嘘を見抜けないはずがない。なのに、穂波は敬吾の呼びかけに、微かに笑みを浮かべた。
「疲れたんだろ……もう寝ろ」
 その声に優しさすら宿る。
「でも……」
 信用したというのだろうか?
 だがそんな筈はないと信じられなくて、窺うように穂波を見つめる。
「いいから……寝るんだ」
 今度は少しきつい言葉が降ってきて、敬吾は仕方なく目を閉じた。
「おやすみ。ゆっくり寝て疲れを取れよ」
 それは信じられないほどに優しい言葉で、思わず胸の奥からどうしようもないほど熱い感情が溢れそうになる。それを必死で堪える。
 そうすると今度は辛くなって、敬吾は堪らずに頭まで布団を被った。
 それはどう見ても変だと思うだろうと、覚悟を決めたのに、それでも穂波は何も言わなかった。
 しかし。
「それじゃあ、私たちも帰りましょう」
「で、でも……」
 家城が啓輔を引っ張って出て行く音がする。
「ああ。今はとにかく休ませろ。そっちも酷い顔をしている」
「そうですね。啓輔……心配しなくていいですから、あなたも帰って休みましょう」
 穂波の労りの声に家城が答える。
 どうして?
 きっと啓輔も思っている疑問を、当の本人達に聞くわけにもいかない。
 ただ、嘘を付くしかない自分たちがイヤでイヤで堪らなかった。
 責めてくれれば良かったのに。
 そうすれば何もかもバレる。
 バレるのはイヤだったけれど、こうやって嘘を吐いて、なおかつ、労られるのが堪えられない。
 堪らずにぎゅっと目を瞑れば、その目尻から溢れだした涙が止まらなくなった。
 その耳に、微かにドアが閉まる音が響いて、そして畳を歩く足音がした。


「敬吾……」
 手が布団の上から優しく背を撫でる。
 そんなことをされたら……。
 口走ってしまいそうになる。
 自分たちが何をしてきたか、何をされたか、その何もかもを。
 だけどそれはできないと、嗚咽を堪えながら、敬吾は必死で口を噤んだ。
「寝なさい……。私は……一緒にいたいが……今日のところは帰るよ……。とにかく、休みなさい」
「帰る……?」
 思わず問い返していた。
 それでも涙で濡れた情けない顔を見せたくなくて、振り向くことはできない。
「一緒にいると、一晩放置された俺としては、お前を無理に抱いてしまいそうでな」
 苦笑が漏れ聞こえて、だが、その言葉に、敬吾はさあっと青ざめた。
 今抱かれたら……。
 何も言わなくてもバレるだろう。
 何より、体がもたない。
「だから、帰るよ」
 少し寂しそうだと感じたけれど。
 今は引き留めるわけにもいかなかった。
 本当は傍らにいて欲しかった。
 ずっと傍らについていて欲しかった。
 だけど……。
「俺は……大丈夫……だから。幸人は……寝てないんだろ?ごめん……俺のせいで……。だから……帰って……休んで……」
 嗚咽が混じらないように、必死でそれだけを伝えて。
「ああ、そうだな……。お互い元気になったら、今日の分のお仕置きをするからな」
 冗談めかした言葉に答えられない。
 ぎゅっと握りしめた布団は、きつくシワが寄っていた。
「じゃあな、おやすみ」
「……ん……」
 いつもの言葉。
 いつもの声。
 だが、どこか変だと思っているのも事実。
 それでも、流されるしかなかった。吐いた嘘は、限りなく大きくなって、胸にシコリを作り続ける。
 もしいつかバレたら……今度は嘘を吐いたことも責められるのに。
 だけど、今はもうどうしようもなくて。
 ドアが閉まる音がした途端、敬吾は今まで堪えていた分を吐き出すように、布団の中で咽び泣いた。
 


 敬吾の様子に啓輔は後ろ髪を引かれる想いではあったが、しっかりと腕を掴んだ家城には逆らえなかった。いや、もうその場で何を言われても逆らえないだろう。
 優しい言葉をかけられると、胸にある重たい秘密が幾つも刺をつきだして、心臓に突き刺さる。
 痛くて苦しくて、だけど解放されない。
「……純哉……」
 黙って車を運転する家城に、堪らずに呼びかけていた。
「はい?」
 ちらりと視線が啓輔に向けられて、また前方へと移った。
 視線が外れたのが寂しいと思って、だけどほっと安堵する。
 しかし、返事をされて気が付いた。一体自分は何を言おうとしたのか?
 苦しさから解放されようと、自分は何を言ってしまいかけたのか?
 駄目だ……。
 脳裏に甦るのは、敬吾の苦痛に満ちた表情だ。啓輔を守るために身を投げ出して、槻山に蹂躙された敬吾が守りたいであろう秘密を、啓輔が言うわけにはいかなかった。
 だが。
 沈黙が続く車内で、相変わらず刺は啓輔を苦しめていて、疲れた体を責め苛む。
 あれだけ恋しい相手である家城のそばにいることが酷く苦痛だった。
 もっと離れたくて堪らない。一人になりたくて堪らない。込み上げる悔いと叫び出したいほどの悲しみは、家城がそばにいる限り外に出すわけにはいかなくて、内へ内へとこもり続けて啓輔を苦しめる。 
 ふと俯いていた視線を前方に移せば、車は家城のマンションへと向かう道を走っていた。
 あと5分もかからない。
 そう気が付いた途端に、啓輔は縋るように家城を見つめて請うていた。
「純哉……俺……家に帰りたい……」
「え?」
 ぐらりと、確かに車が揺れた。
 確かにその瞳に走った動揺を啓輔は確かに見て取った。
 程なくして家城が車を道ばたに止めて、啓輔へと視線を向けた。それは、本当に優しいものであったけれど、どこかひどく寂しそうだとも感じて、啓輔の胸を傷つける。
「家……ですか?」
 問い返す声も心なしか震えていて、家城が何かを気付いていると思わせたけれど。
 それが何かは恐くて聞けなかった。
 だけど。
「ごめん……今日は帰りたい……。その心配ばっかかけてんのに……だけどさ……」
 いつだって啓輔の事を思ってくれる家城が、無断外泊した啓輔をどんなに心配したか想像に難くないというのに、それでも、今は。
「疲れて……家で寝たい……」
 言い切って、啓輔は俯いた。視線の先にある指が、所在なげに組み合わされる。
 どんなに我が儘なことを言っているか、判っているが。
「私の……ところでも……。今日はしないから……」
 躊躇いがちな家城の言葉に思わず首を振る。
「……ごめん……そうじゃなくて……」
 抱かれることを恐れている訳じゃない。
 ただ、一人になりたい。このまま家城のそばにいると、その優しさが酷く苦しくなってくる。堪らずに何もかも話してしまいそうなる。
 だけど……それは絶対にできないことだから。
「な…んか……疲れて……」
 結局そういう理由しか言えない啓輔に、家城はしばらくその横顔を見つめていたようだった。
 そして。
「判りました」
 短い言葉に何の感情も乗っていなくて、それが酷く冷たいと感じた啓輔はびくりと体を震わせた。
「あ……」
「家まで送りますから……寝ていていいですよ。顔色……悪いですし」
 啓輔の動揺に気が付いたのか家城が小さく笑って啓輔の頬に触れる。だが、啓輔には家城の押し殺した感情が判ってしまった。
 触れられた手が、震えているような気がしたけれど、それを受けとめられない。
 ただ、情けなくて、申し訳なくて。
「……ごめん……」
 呟いて。
「謝ることはないですよ。どちらにせよ明日は会社ですし、バイク……家ですしね」
「うん……」
 言い訳が成り立って、ふたりの間に奇妙な沈黙が漂う。
 気付いているのかいないのか?
 判らない空気が車内を重くよどんだものにしていた。
 啓輔は何度も心の中で「ごめん」と呟く。昔の自分がとっていた行動が、今になって啓輔を追いつめた。それは自業自得であって、啓輔も仕方がないものと思っている。ただ、それだけなら、家城に何もかも話してしまったかも知れない。だが、今回それに巻き込まれた敬吾に罪はない。彼をこれ以上苦しめるわけにはいかない。
 だから。
 この秘密は絶対に話すことはできない。
 啓輔は何もかもその中に閉じこめるように、ぎゅっと拳を握りしめた。
 今日のことは、絶対に自分でケリをつけなければならない。
 もう……他の誰も巻き込ませない。
 その固い決意とともに。

続く