あざみ AI歌

あざみ AI歌

「え、休み?」
 東京の本社を訪れた開発部工業材料2チームの緑山敬吾は茫然と目前の笹木秀也を見つめた。
「そうなんだ、さっき電話があってインフルエンザらしいよ。さすがに動けないって……」
 苦笑を浮かべ肩を竦める笹木。工場では担当が違うこともあって、そんなに話すことはない。だがこうやって面と向かって話をしていると、確かに女性達の噂に違わず人を惹きつけるものがある。

 綺麗な人だな……。
 そんなことをふと思う。
 男に対して綺麗というのは変だとは思うのだが、思ってしまったものはしょうがない。それに、容姿が綺麗と言うより、その動作が綺麗なのだ。
 緑山がじっと見入っているのに気がついたのか、ふと首を傾げる。
 自然な仕草なのに、なぜこんなにも目がいってしまうのだろう?
 それに……。
「緑山君?」
 訝しげな笹木に、緑山ははっと我に返った。
 そうだ、それどころではないんだ。
 慌てて現実問題に意識を戻す。
「あ、すみません。それでは今日は来られないんですね」
 立っている緑山からすると見下ろす位置にある笹木の頭が上下に動く。
 それを見てとった緑山は小さくため息をついた。
 困った……これは。
 休みだと言われたのは、来生平(きすぎ たいら)。
 緑山達、工業材料2チームの担当の営業マンだった。
 今日、来生と緑山は一日打ち合わせをこの本社でして、明日一緒に顧客の元に行く予定を立てていたのだが、その彼がいきなり休みとなると、緑山にとって今日一日すっぽりと時間が空いてしまう。それどころか、明日の出張にすら支障をきたす。
 開発関係の話だけなら緑山一人相手先に行けばいいのだが、今回のメインは営業絡みの話だった。来生が行けないのなら、延期をしたほうがいい。
 緑山はそう判断すると、客先に電話をかけることにした。
 さて、電話は?
 と、きょろきょろ辺りを見渡すと、笹木がそれに気づいて微笑みながら声をかけてきた。
「来生くんの席は、その向かいのだから使ってていいよ」
 指さされた席に視線を移すと、確かに空席だった。
「ありがとうございます」
 礼を言って席につく。
「最近、インフルエンザがはやってて、こっちも大変なんだけど、工場の方はどう?緑山君は?」
「ええ私は。でも工場でもいつも誰かが休んでいますよ」
 そう言いながら、緑山は辺りを見渡した。
 事務所の中は人が少ないはずなのに妙な喧噪さがあった。
 アシスタントの女性が、ばたばたとあちこちに電話をしている。
 時折謝る声がするのは不在を断っているのだろうか。
 緑山の相手をしてくれている笹木ですら、端末に視線を送りながら書類を整えて、時折アシスタントに指示を出す。
 それでも、時間を作っては緑山の相手をしてくれる。
 申し訳ないとは思いつつ、慣れていない営業の事務所では、とてもありがたかった。
「まあ、しょうがないよ。今日はこっちのTOPも出かけてるし、君がぼうっとしていても、気にするような人はいないから、ゆっくりしてたら」
 くすくすと笑う笹木につられるように、緑山もその口元に笑みを浮かべた。
「はい、そうします」
 来生の席は持ち主不在の筈なのに、今まで作業をしていました、というような状態だった。あちこちに書類の山が積まれておりうっかりすると雪崩が起きそうだ、それをそっと脇に避ける。
 いずこも同じ……だよなあ。
 ついつい笑みがこぼれるのは、その机の有様が直属の上司である篠山の席と似ているからだろう。彼の席も埋もれた書類を探すのに一苦労する場所だった。
 だからか、彼を反面教師としているもう一人の上司、橋本の席はいつも綺麗に整頓されている。
 そんな二人が並んでいるから、余計にその落差が激しく見えるのが事務所の一風景だった。
 そんな事を思い出しながら、起動した端末にメールのIDファイルを入れ、自分のメールデータベースを呼び出す。
 並んだ未読の中から重要そうなメールを開いてはチェックしていった。
 しかし、そんな仕事も一時間と持ちやしない。
 顧客に向けて持っていくデータは既に揃えている。だが、先程電話した感じでは、やはり延期になりそうだった。
 何のためにここまで来たのか?
 もうしようがないとは思いつつ、それでもため息が漏れる。
 これが工場にいるのなら、やりたい仕事は山のようにある。
 だが、ここは遙か離れた東京だ。することもない。
 う?。
 何もすることがなく、仕方なく適当な書類のフォーマットをつついて直す。
 なんだかいたたまれない。
 別に仕事熱心なタイプとは思っていないが、どうもこうやってすることもないというのは気がひける。
 まいったな……。
 だたい今日一日時間をとった理由には、年度始めのいろいろな詰めをしてくるようにとの上司の勅命もあったのだが。だが、当の本人がいないとどうしようもない。彼と共に仕事をしている他のメンバーも今日は出払っているか休んでいる。
 ほんと、どうしよう……。
 緑山はマジで途方に暮れていた。


 ぶらりと本社の中を歩いてみても、滅多に来ることのない本社だから、何がどこにあるのか今ひとつ判らない。それに忙しそうにしている人達の中で、ただふらふらとするのはやはり落ち着かない。
 結局そうそうに事務所に帰ってきた。
 ちらりと向けた視線の先にいたアシスタントの女性がそれに気付いて顔を上げた。
「暇、そうですね」
 嫌みでなくくすりと笑われ、「まあ……」と苦笑を浮かべる。
「ゆっくりすればいいんですよ。仕方のないことですものね。帰ろうにも飛行機の予約がとれなかったんでしょう?」
「ええ」
 あいにく、飛行機は満席。
 それになんだか、来てすぐ帰るのももったいないと思ってしまうから、あちこちの顧客先に電話も掛けてみたのだが、どうもスケジュールが合わなかった。
 結局、明日橋本が行くはずだった講演会を緑山が替わりに行く話をつけたところで、ほっと一息はつけた。だが、それにしても暇なことには変わりない。
 確かにゆっくりするしかないのだろう。
 ため息をつきつつも彼女に頷いた途端だった。
「誰かいないかっ!出られる奴!」
 いきなり大声で叫びながら入ってきた人がいた。
 すでに初老の域に達しているその男は、緑山でも知っている。緑山を含め全員が何事かとその人を見つめる。
 医療材料の営業部TOPの高瀬は、どかどかと事務所の人がいるところ。すなわち、先のところにやってきた。
「どうしたんです?」
 笹木が驚いて声をかけると、彼がその机に片手をついて、笹木を覗き込んだ。
「笹木くん、君ちょっと出られないか?運んで欲しいモノがあるんだ、都内だが」
「残念ながら」
 視線を合わせないように伏し目がちに首を振っている。
「私は午後から客の所行きますので、その準備があります」
 申し訳なさそうに肩を竦める笹木に、高瀬はため息をついた。
「そうか……」
「どうかしたんですか?」
「急に納品しなくてはいけなくなったモノがあってな、それを持っていって貰いたいんだ。うちの若い連中は、休んでいるか出払っているかで皆、居ないんだよ」
「ああ、医材は全滅に近いって言っていましたね」
 笹木がちらりアシスタントの女性に視線を送った。その先で彼女が、苦笑いを浮かべながら、頷いている。どうやら、そう言った情報は彼女がいち早く笹木の耳に入れていたらしい。
 道理でよどみなく言い訳をしていると思った。
 さすが営業成績トップを誇るだけあるなあと感心してしまう。
 緑山は肩を竦めると、高瀬が自分に興味を曳かないようにと端末の操作をした。といっても特にすることはないので、適当に使っているだけだ。
「ったく、来年は強制的に予防接種をうたせる事にする」
 ひどく残念そうに肩を落として去っていこうとする高瀬の視線がふっとそんな緑山を捕らえた。
「あれ、君は工場の?」
 その言葉に気づかれたかと、内心苦笑しつつも顔を上げる。
 工場に来たときに幾度か話をしたことがあったのだ。
 彼は緑山に関心があるようで、逢うたびに話をする。どうやら息子が緑山と同じくらいらしい。背格好も似ているというので、何かと気になるらしかった。
 この高瀬も含めてだが、どうも緑山はよく話し掛けられる。
 なぜか人の気を惹いてしまうらしいということは、最近になってようやく自覚した。というか自覚させられた。
 恋人が口うるさく言い続けるので、ちょっと注意していたら、確かに初めての人でもなぜか言葉をかけてくる割合が多い。
 いいこともあるが……悪いことだってある……。一度最悪のパターンを経験しているから、それからすればなんだって受け入れられることなのだが、それでも嫌な物は嫌だ。
 今回の場合、どう取ればいいのだろう。
 緑山は、半ば諦めて挨拶を返した。
「ご無沙汰しています」
 工場で逢う分には、専門も違うし仕事絡みではないので気さくに話が出きるが、今の状況ではあまり話をしたいとは思わなかった。
 それでなくても、今は居心地が悪い。
 さっさと行ってくれないかな?
 祈るような気持ちになる。
 が、そんな緑山の期待を裏切るように、笹木が高瀬に話し掛けた。
「ああ、緑山君に行って貰えば良いですよ、高瀬さん。今日来生が急に休んだんで、彼、今暇なんですよ」
 えっ!
「そりゃあいい。君、頼むよ。なあに、持っていって書類にサインを貰ってくれればいい。緊急だから正式な納品手続きは後からでいいんだ」
「あっ……だけど私は都内は不案内で……」
 冷や汗たらたらで首を振ったが、高瀬はもう聞いてはいなかった。
「すぐ品物を持ってくるからね。どうしても11時までには納品しないと行けないんだ。いやあ、良かった良かった」
 来たとき同様大きな声で 良かったと言いながら部屋を出ていく高瀬を緑山は呆然と見送った。

 高瀬が部屋から出ていったのを見て取った緑山は、その目に避難の色を込めて笹木を見遣った。
「笹木さん……何てことを……」
 恨みがましく言う募ると、笹木がくすりと笑って肩を竦めた。
 絶対確信犯だ、とその笑みから読みとってしまう。
 眉間の皺深く睨み付ける緑山に笹木は気にする風もなく、言葉を返した。
「ほんとうに暇そうだったからね。ちょうどいいよ。出かけていって納品したら、どこかで時間を潰していたら?今日は君を見張る人もいないしさ、ね」
 最後の言葉はアシスタントに向けられた物だった。
 彼女も笑って頷く。
「そうですよ。今日は天気もいいし、せっかくだから観光でもしたらどうですか?工場から電話があったら携帯にでも連絡入れますし、誤魔化してあげますよ」
「はあ……」
 もしかしてしなくても、さぼってこいって言っているんだろうか?
 でも、いいんだろうか……。
 確かに忙しそうな人たちの前でぼーっとしているのは気が引ける。だからといって実際問題やることもない。
 そのつもりで笹木達が企んだのだとしたら、それならば乗っかるしかない。
 ここにいても迷惑なだけだろう。
 そう思わせるのは、嫌だった。
「それじゃあ……そうしようかな」
 緑山がぽつりと呟くと笹木が満面の笑みを浮かべて頷き返してきた。
「そうしなって、篠山さんからかかってきたらきちんと誤魔化してあげるよ」
 笹木のその言葉が終わるか終わらないかのうちに、高瀬が戻ってきた。
 その手に幅10cm、長さが30cm、そして厚みが5cm程の白い箱。
 英字で書かれた表書きに、シュリンクされたパッケージ。
 それには見覚えがあった。
「それって、人工血管ですか?」
「そうだよ。何でも緊急の手術に必要ならしいんだ。だから11時までに届けて欲しい旨依頼があってね。それでこれが書類。サインでいいから受け取りを貰ってきてね」
 はいっと渡されたその箱と書類一式を受け取る。
「納品先は北川病院の外科部長 近藤さんだ」
「え?北川病院」
 笹木の手が止まり、訝しげに高瀬を見つめる。
「知っているのか?」
 高瀬の問いに笹木が頷いた。
「ええ。北側病院でしたら、友人が医者をしていますので」
 ふーん。
 その時は、気乗りのしない仕事をもらったせいで、特にきにもかけなかった。

 高瀬に渡された箱は小さいとはいえ、商品名丸出しのむき出しだったので、笹木が紙袋を手配してくれた。
 アシスタントの女性が取ってきてくれたそれに、封筒に入れた書類と共に箱を大事に入れる。
 緑山の会社にとっては商品だが、これが患者の命を救うことになる大切な材料なのだから。
 高瀬が、緑山の動作を見て満足げに頷く。が、すぐにその表情を曇らせた。
「ったく、あれだけ病院巡りをしている奴らだから、きちんと予防接種をさせておくんだったよ」
 大きなため息がその口から漏れる。
「今年は特に酷いようですからね。おかげさまで、こっちまで飛び火していますから、大変です」
 ちらりと嫌みを含んだ笹木の言葉に、高瀬が苦笑を浮かべた。
「まあ、うちが発生源らしいのは重々承知しているよ。にしても、笹木君は平気なのかい?」
「私は、早い段階で予防接種を受けましたので……インフルエンザには昔かかって懲りましたから」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
 高瀬の言葉に頷き返しながら、笹木は手を動かしていた。赤い水性ボールペンを使って、地図に赤い線を引いていく。
「はい、地図」
 その紙が緑山に向かって差し出された。最寄りの駅からの道筋が、赤い線で記されている。
「ありがとうございます」
 礼を言って受け取ると、笹木がくすりとその口元を綻ばせた。
「逢うことはないと思うけど、そこの医者の増山って整形外科医が友達なんだけどね。年は一緒くらいなんだけど、そこで整形外科の部長やっているんだ」
「そうなんですか」
 医者で部長というのがどの程度のものかは知らないから、返事のしようがなかった。それに、そんな事より、笹木の友人、というものに興味が湧いてきた。
 この人の友達ってどんな人なんだろう。
 緑山から見ても笹木は、何でもそつなくこなしている、と言った印象を受けた。だからこそ営業の成績も文句無しなのだろう。紙袋の手配も地図の手配も、忙しい筈なのにそんな気配を滲ませることなく、いつの間にか行っている人。
 それはある意味、羨ましい存在でもあった。
 そんな笹木の友人という相手に興味をそそられる。
 彼のように、その人も優秀なんだろうな。
 笹木がその人の話をするとき、僅かながら嬉しそうな笑みを浮かべたのに気付いたから。
 緑山の付き合っている相手も優秀と言われる営業マンだ。そのせいだろうか?
 笹木が優秀と言われる由縁を知りたいとふと思った。
 その友人に会えば、彼の人となりをもっと知ることができるだろうか?
 どことなく優雅な動きを見せる立ち居振る舞い。
 柔らかな印象を与える笑み。持って生まれたその顔かたちも相まって、彼の顔に嫌悪を浮かべる人もいないだろう。
 あるとすれば、笹木がもてる事への同性の持つやっかみではないだろうか?
 とりあえず今の相手に満足している緑山にとって、笹木はやっかむ対象でない。やっかむほどの余裕もないというのが事実かも知れない。
 その笹木が、ふっと緑山の顔に視線を移した。
 一瞬、互いの視線が絡む。
 あ、れ……?
 ふっと、心の内から見透かされそうな気がした。
 お互いに僅かな間が漂う。
 だが、笹木の表情には変化はなく、いつもと変わらぬ僅かな笑みを浮かべて緑山に話しかけてきた。
「緑山君、夕方には一度戻ってきてよ。書類を処理しなければならないし」
 気のせいだったのだろうか?
「はい」
 訝しく思いつつも、緑山は笹木の言葉に頷き返した。


 北川病院への道筋は、地図の助けを借りて迷うことなくたどり着けた。
 近くまで行くと白亜の背の高い建物がよく目立つ。それを目指していけば良いのだから、迷うことは無かった。
 バックと共に手にした紙袋に入っている商品を再度確かめる。
「外科部長の近藤さん……だったな」
 口の中でその名を呟くと、緑山はその建物の入り口を探した。
 本来、納品に来たのだから表から入ることはしない方が良いのだろうが、何せ普段こういう所に来ないから勝手が掴めない。
 仕方がないので、外来に来ている人たちでごった返している正面玄関へと向かった。
 と、二重になった玄関の内側に、白衣を着た男性が二人互いに言葉を交わしあっているのが見て取れた。
 額が後退してしまっている男とまだ若そうな真面目そうな雰囲気の男。
 ……何だろう?
 その二人の前を通る人たちは皆一様に会釈をして通る。
 その周りの人の反応や、本人達の態度を見ている限り、彼らが医者で、しかも、結構な地位の人たちのような気がした。
 そんな人達が難しい顔をして話し込んでいるのを見て取った人たちが、通り過ぎた後も窺うようにしている。
 そこに立っているだけで人の興味をそそる人達だから、そんな彼らがこんなところにいるという事だけで、何事か起きたのかと思ってしまう。
 と。
 その中の一人がこちらに顔を向けた。
 見られている?
 視線を痛いほどに感じて、緑山はふと立ち止まった。
 誰かを捜しているんだ……。
 そう思うと同時に、初老の額が広い方の男が何かに気付いたようだった。
 途端に駆けてくる。
 え!
 堂々としていていそうな人が外聞もなく駆けてくる様子に、緑山は呆気に取られて視線でその姿を追いかけてしまった。
 その姿が視界の中でどんどんと大きくなり、気がついたらすぐ目前で立ち止まっていた。
「ジャパングローバルの人だろう?」
 いきなりだった。
「あっ、はい」
「私が頼んだ物は持ってきてくれたのかね」
 有無を言わせぬ口調に、緑山は頷くと紙袋から商品を取り出した。
 それを受け取った男……が、近藤なのだろう。
 緑山は彼が商品のラベルを確認している間に、ようやくネームプートを確認する余裕を取り戻した。
 確かに、近藤と書かれている。
「こちらが書類ですが……」
「ああ。確かに、これでいい。じゃ、貰っていくよ」
 差し出す書類に見向きもせずに、近藤は商品だけを持って病院内へと走っていってしまった。
「あ、あの!」
 サインだけでも貰わないと!
「ああ、待ってください」
 焦って追いかけようとする緑山を、もう一人の男が制止した。
 きっと近藤の対応が想像できたのだろう。慌てる様子もなく、緑山に話し掛けてくる。
「私が処理しましょう。近藤さんもまだ検査やらしなければならないようで、かなり焦っているようでしたので。申し訳ありませんね」
 彼が悪いわけではないのにそんなふうに謝られ、どうしていいか判らない。
 仕方なく、緑山も頭を下げた。
「あ、いえ……私も慣れていませんで、どうしたら良いものか判りませんで……」
「ああ、そうですか。では、こちらにどうぞ」
 言い訳がましく言った言葉に納得してくれたらしい。
 彼が先導してくれて、緑山はようやく病院の中に入っていくことができた。
 増山浩二……。
 ネームプレートには確かにそう書かれていたのを、すれ違いざまに緑山は見て取っていた。

 増山が病院内を歩くと、目前の人々が尊敬の眼差しを込めて道を開けるのがそこかしこで見受けられた。
 忙しいはずの看護婦達がちらちらと彼に視線を向ける。
 それに慣れているのか、彼の表情には変化がなかった。
 それは、最初に逢ったときからだった。
 どこか冷たい。
 それが最初の印象。
「こちらで手続きを」
「はい、ありがとうございます」
 担当の職員を介して、納品手続きを行った。
 何せ、ろくに説明も受けずに来ているものだから、どこをどうして良いのか判らない。
 逆に向こうから教えられる始末で、赤面しまくりだった。
 手続きが全て終わり、事務所を出るとほっと一息つく。
 余裕が出来ると、高瀬に対する怒りが湧いてきた。
 ……サインだけで良いって言ったじゃないかあ!
 頭の中に医療材料トップの喰わせない顔を浮かび上がらせると、怒鳴りつける。
 ついつい顔に苦渋の色が浮かんでいたのだろうか。
 それまで無表情だった増山がくすりと僅かな笑みを漏らした。
 あ、まず。
 慌てて表情を整える。
「初めてなんですか?納品は」
 静かな声音なのに胸の奥まで染みこむように感じた。
 ふとそちらに視線を向けると、視線が絡む。
 静かな夜色のその瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいるようだった。
 なんか、凄い……。
 緑山は慌てて視線を逸らした。
 そのせいか、その口から漏れた言葉はひどく言い訳めいたものだった。
「私は、本来工場の人間なんです。情けないことに、営業の人間がインフルエンザで倒れてしまいまして、それで急遽借り出されたというか……ほんとうに」
 最後の一言はため息とともに漏れてしまった。慌てて、口を噤む。
 ああもう、情けない。こんな愚痴ばっかさっきから吐いてる。
「インフルエンザですか……そういえば、そちらの営業には私の友人がいるのですが、彼は大丈夫でしょうか?予防接種は打ったと聞いてはいるのですが」
「あ、笹木ですね。出て来る前に聞いてきました。彼は、元気です」
「そうですか。それは良かった」
 安心したかように微笑むその仕草に見惚れてしまう。
 普段表情を変えない人のように見えるが、笑うとそれまでの冷たさが和らいで酷く優しげな表情になる。
 顔の作りが変わるわけではないのに、ここまで雰囲気が変わる人も珍しいだろう。
 きっと患者達も看護婦も彼のこんな表情を、いつも見ているのだろう。
 自信に裏打ちされた言葉共にその笑顔をもたらされたら、それは相手を安心させる。それは医者としては必要不可欠な事と思える。
「せっかくこんな所まで来られたのですから、お昼をご一緒しませんか?と言っても院内のレストランなんですけど、ここは改装してからとてもおいしくなったと評判なんです」
「え?」
 どきりと胸が高鳴った。
 いやいや、ちょっと待て。
 訳の分からぬ感情に動かされつつも、慌てて気を引き締める。
 いくら暇とはいえ、それはまずいだろう、と思うのだが……。
 断ろうといろいろと頭の中で考えるのだが、言葉が浮かんでこない。それより、断りたくないっていう気持ちの方が大きい。
「あ、それともこの後、お忙しいのですか?」
「い、いえ」
 こ、これは……。
 緑山は高鳴る胸に信じられない思いだった。
 どうしてこんな……ナンパされたような気になってしまったんだろう。
 緑山は内心の動揺を隠して、それでも頷いていた。
 断りたくはなかった。
 ちょっと疲れたし……休憩がてら、でもいいよな。
 そんな言い訳を自分にしていた。

 広々とした食堂は、中庭に面していて大きな窓からそこにある緑が楽しめる形式になっていた。
 そこに入って初めてこの病院の一階だと思っていたところが、実は二階だったと気がついた。
 一階にあるのが売店や食堂などで、玄関から直接入っていける外来の受付などがあるところは二階だったのだ。
 その食堂も、食堂と呼ぶよりはレストランと呼んだ方がいいように洒落た感じだった。
「凄いですね」
 思わず漏れた感嘆の声に、増山は小さく頷いた。
 食券方式で、入った場所でまず好みのモノを選ぶ。それだけが食堂ぽく見えたが、メニューはその辺のレストランに匹敵する品揃えであった。
「奢りますから」
 遠慮する緑山の声を振り切って、増山がネームプレートから取り出したカードを差し込んだ。
 希望するメニューのボタンとともに余所から見えない位置にあるキーボードで幾つかのキーを押す。
「これで決済できるんです。給料天引きなんですよ」
 ネームプレートと兼用のそのカードが販売機から弾き出される。
「落としたら大変ですね」
「まあ、ここでしか使えませんから」
 それに、と言葉を継いだ増山がカードを緑山に見せた。
「ICカードですから、暗証番号を入れないと使えませんしね」
 先程の操作がそうだったのかと、ちらりと食券の販売機を見る。
 全面改装したばかりだという病院は、全てにおいて先進的なシステムを組み込んでいた。 
 結局渋る緑山の分まで食券を買った増山は、一番奥の窓際の席へと緑山を案内する。
 増山にとってはひどく自然な振る舞いのようだが、それが緑山にしてみればひどく恥ずかしい。
 増山は若くして整形外科部長までなったという話を笹木から聞いていた。だから、病院内でも有名なのだろう。見舞客らしい客達が、増山の動きを目で追っているのが判る。
 そんな彼が自ら案内して席に導いている様は、緑山が大事な相手として見えるものだろう。
 尊敬と憧れと、そしてどこかやっかみの視線。
 営業トップの実力を持つ恋人に、人の見方、対応の仕方をたたき込まれている緑山にしてみれば、それが否応なしに伝わってきた。
 緊張して、手足の動きが不自然になりそうにすらなる。
「どうぞ」
 勧められた席は、奥側の席で……上座であった。
 どうしよう……。
 一介の平社員で、今日は単なる代理だというのに……。
 笹木さんの同僚だから……の対応なのだろうか、これは。
 その席で躊躇している緑山を後目に、増山がその相対する席に座る。
 緑山も仕方なく示された席に座った。
「ありがとうございます。何から何まで。」
 とりあえず礼を言う。
 ぺこりとお辞儀して顔を上げると、増山が僅かに口の端を上げていた。
「そんなに恐縮なさらないで下さい。そこまで恐縮されるとこちらの方が申し訳なく思ってしまいます」
「しかし……」
 そんなこと言われてもなあ……。
 相手は、上得意様。自分は、一介の営業の代理。
 本来、誘われた時点で断るべきだったのかも知れない。
 いや、営業の人間としたらそうするべきだったのだ。
 どうしよう。
 内心の動揺を悟られたくなくて、中庭に視線を向ける。
 緑山の戸惑いに気付いたのか、増山は困ったように眉間に皺を寄せた。

 ぎこちない緑山を前に増山が何かを逡巡している気配がしたが、緑山とて、どうしようと思い悩んでいたから、対応のしようがない。
「そうですね……緑山さんは、工場の方と言っておられましたね」
「え、はい」
「私は、あちらにも知り合いがいるのです。笹木さんの友人の方で、滝本さんと篠山さんと言われる方なんですけど」
「え?」
 何があっても忘れることのない名前を言われて、緑山はたっぷり10秒間は増山を見つめていた。
 増山の口元に苦笑が浮かんで初めて、自分がアホ面していたのではないかと気付く。
 マズッ……。
 慌てて顔を引き締める。
 この場に恋人でもいたら、速攻で背後から思いっきりつねられていただろう。
「あ、あの……篠山は私の上司になります。ご存知と聞いて、ちょっと驚きました」
 ちょっとどころではなかった。
 思いっきりびっくりした。
 滝本さんの名前はまだ想像がついた。
 が……。
「たまたまなんですけどね。笹木さん達と一緒に旅行に言ったときに一緒になりまして。それで、です。優秀な方と聞いていますけれど」
「は、あ……そうだったんですか?」
 何て意外な結びつきだ。
 そんな知り合いだったなんて……。
 茫然としていた緑山の前に、料理が運ばれてきた。
「え……」
 先ほど仕方なく頼んだのは普通のカレーライスセットだった。が、今運ばれてきたのは、カレーだけではない。しっかりとハンバーグまで添えられていた。
「あ、あの……」
「気にしないでください。カレーだけでは足りないでしょう?」
 確かに増山の言う通りだった。やせの大食いと言われるほど、緑山の食事量は多い。初めて見た人が呆気に取られるくらいだ。
 そういえば食券を買うときに、ちらちらとメニューのこれに視線をやっていた。もしかして、気付かれていたのか? 
 見透かされていると気付いた途端に顔が熱くなる。
 さっきから……驚かされてばかりだ。
 でも、こんなのって……なんかやだな。
 緑山の心の中に羞恥に晒されている自分がいる。だが、それ以上のスピードで大きくなる感情があった。
「申し訳ありません。何から何まで」
 呼吸を整え、にっこりと微笑む。
 好意は有り難く頂こう。
 ここまで来て、遠慮することは相手にとっても迷惑なことだ。
 だから。
 彼は確かに上得意様。だが……今ここで自分と対応してくれているのは、友人の知り合いだからだ。それは間違いないだろう。この人がどんな人かはまだ把握できない。だけど。
 緑山は、意識を切り替えた。
 確かに取引先の方には違いないだろう。だが、今回の好意はそのせいではない。
「増山様とうちの篠山が出会ったというお話を聞いてみたいですね」
 そう言って意識して極上の笑みをその顔に浮かべた。
 ここまで何もかも手玉を取られてしまうのは癪だった。
 だから、自分を取り戻す。
 負けない……。
 その強い意志をその瞳にみなぎらせて。
 それに気付いたのだろうか?
 増山がその表情から笑みを消した。
 その挑発的であろう視線をまともに受けているのに、堂々としている。
 彼は慣れているのだろうか?
 他人から挑発的な視線を受けることに?
「私と篠山さんがお逢いしたのは、秋に旅行したときなんです」
 変わりのない口調で先ほどの会話を続ける。
 あまりにも落ち着いたその姿勢に、緑山は意識を和らげた。
 少しだけ、気力が続かない。それは度重なる緊張のせいなのだろうか?
 それとも、相手の増山の雰囲気のせいなのだろうか?
「その時にお逢いしたのがご縁です。でもその後はお逢いする機会がなくて……」
 秋に旅行……滝本さんも一緒と言うことは……。
 緑山の脳裏に、その情報と合致する篠山の休暇が一つだけ浮かび上がった。
 その旅行の間、いない篠山に代わって納品処理をした。
 その時、再会した穂波に口説かれたのが始まりだったのだから。
 忘れるはずもない。
 あの人は……。
 あの人に言わせると、自分は敢えなく手の中に落ちた、らしい。
 冗談じゃないとは思うが、結局彼と付き合いようになったことは否定できない事実だ。
 そして、この恋人は、一筋縄ではいかない程、強引な策士だった。
 先日も緑山が出張だと聞いた途端。
『しばしの別れだからな。私の事を忘れないようにしておかないと』
 などとほざいて……腰が立たないほど責め苛まれたのだから。
 あの人ってば、絶対サドっ気があるよな。俺を苛めて楽しんでいるようなんだから。
 無意識の内に、首筋に手がいっていた。襟に隠れたすぐ下に、その時に付けられたキスマークがある。
『私の印だよ』
 耳元で囁かれた言葉まで甦り、ぞくりと、躰がその時のことを思い出してしまう。
 と。
「どうかされましたか?」
 増山の問いかけに、緑山がはっと我に返った。
 自分の手の位置に気付き、自分が何を思い出しているのかを自覚した。途端にふあっと顔が紅潮する。
 まずいっ!
 こんな時に何を。
「え、いえ。何でもないんです。ちょっと思い出したことがあって……」
 狼狽える緑山に増山が微かに笑みを浮かべた。
「そう言えば、私も思いだしたことがあるんです」
「え、は?」
「あの時、篠山さんと滝本さんが、喧嘩していたんですけど……いつもあの調子なんですか?」
「え、いえ……でも、まあ仲は普通ではないかと……たぶん」
 間の抜けた返事をしながら、緑山はふっと気付いた。
 もしかして、助けてくれた?
 狼狽える緑山の様子から、触れられたくない話題だと気付いたのだろうか?
 緑山は、それに素直に甘えることにした。
 気にしないでくれようとするのなら、そうしてもらうに越したことはないのだから。
「あの時篠山さんとはそれほどお話しする機会がなくて……。彼は連れのご友人といつも一緒でしたし」
 くすりと笑うその様子に、ふと、この人は何かに気付いているのかと勘ぐってしまう。
 友人というのは、一緒に行ったという滝本恵のことだろう。
 滝本恵……電気化学2チームの若きリーダー滝本の弟で、穂波の部下。そして篠山の恋人……。
 二人がつきあい始めたとき、ある意味滝本恵は緑山にとって恋敵だった。
 篠山に想いがばれて、自分がとった行動を責められて……はっきりと拒絶されるまで……。
 その二人が行った旅行に、この人も同席したと言うことは……。
 まさか、笹木さんとこの人って付き合っている……ってことはないよな。
 でも、なんだかただの友人ではないような気がする。
「増山様は、その時はお一人で?」
「いえ、私も友人と一緒に行っていたんです。あ、ああ、その友人が今日ここに来るんですよ。治療にね。紹介しますから」
「友人?」
「ええ、笹木さんとも共通の。面白い人ですから、緑山さんとも気が合うかも知れませんよ」
 ……。 
 緑山は、その笹木と増山共通の友人という人に無性に逢いたいと思ってしまった。

 笹木と増山、二人のイメージはあまりにも違う。
 笹木の気さくさは、増山にはない。酷く丁寧なのだが、どこか冷たい感じがする。その笑顔が本心なのか掴めない。
 笹木が陽なら、増山は陰。
 でも陽と陰だから、仲がいいのかも知れない。
 だが、その二人の共通の友人となるとどんな人なのだろう?
 緑山は、優雅にコーヒーを口元に運ぶ増山の仕草をじっと目で追っていた。
 何が琴線に触れる。
 気になって仕方がない。
 この人たちのことが?
 何故だろう?
「緑山さんは、随分と落ち着いていますね。まだお若いですよね?」
「あ、……25です。そんなに落ち着いてはいません」
 首を振ると、増山の口の端に僅かに上がった。
 あ……なんか変な事、言ったっけ?
 でも、彼の方がよっぽど落ち着いている。
 そういう雰囲気に慣れていないから、どうも落ち着かない。
 それにどうも先ほどから体調が良くないような気がする。
 どことなく怠い。
 でも、何だろう……これ?
 緊張しすぎたのだろうか?
「あ、すみません」
 いきなり、増山が胸ポケットから携帯を取り出した。
 あれ?携帯禁止なんじゃ?
「院内用携帯なんです。特別仕様の」
 緑山の不審気な視線に気がついた増山が簡単に説明し、電話に出る。
 ああ、そうなんだ。
 視線の先で増山が一言二言話してから電話を切った。
「すみません、呼び出しなんです。あ、ここで待っていて貰えますか?そんなに時間がかかる用事ではないので」
「あ、はい。もしここにいなければ、その中庭でもうろうろしていますので」
「すみません」
 幾度も頭を下げ、増山が慌てて去っていった。
 飲みかけのコーヒーが湯気をたてたまま、まだ半分以上残っている。
 忙しいんだろうな。
 何かあれば食事中だって呼び出されるのだろう。
 そんな忙しい人の時間を割いて貰っているのだと、申し訳なく思ってしまう。
 何せ自分ときたら、今日一日ぽっかり空いてしまった予定をどうやって潰そうかと思案しながらここに来たのだ。
 彼の誘い……断った方が良かったのかも知れない。
 かと言って、もう待っていると言ってしまった後で、さっさと帰るわけにもいかない。
 ただそれは建前で、ただ好奇心旺盛なだけかも知れないな。
 自然に口元に苦笑いが浮かぶ。
 笹木にしろ増山にしろ、どこか年相応から外れているほどの落ち着き。
 少しでも、知りたいと思ったのは事実。
 彼らがなぜあそこまで落ち着いているのか?
 それを知れば、あの傍若無人の恋人に冷静に対応できるかも……ふと、そんな事を考えていた時だった。
「ここ、いいですか?」
 声をかけられ、はっとその人物を見上げる。
 その視線の先ににっこりと微笑んでいるのはちらりと見ただけでも背が高いと判る男がいた。
 20代?30はいっていないか?……大学生……じゃなさそうだし……。
 ほっそりとした体躯に当世流行りの長い茶髪。Tシャツにジーンズでゴールドのアクセサリ、一見アンバランスのようでひどく似合っていると思わせる。
 だが、緑山はその髪型に、ぞくりと背筋に悪寒が走った。
 その長い髪を無造作に一つにくくっている髪型といい、その色といい、過去の傷を思い起こさせる。それは、何度忘れようとしても、忘れることのできない記憶だった。
 だが。
「どうぞ」
 そんな台詞が口からついて出た。
 それは、その男の柔らかな笑みと全身から滲み出る人なつっこさのせいだったのかも知れない。
「ありがとう」
 彼は再びにっこりと微笑んで、先ほどまで増山がいた席についた。


柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊
柊と薊
?あざみ AI歌 2?

柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊


 目の前に座る姿を何とはなく眺め、はたと気付く。
 回りを見れば、相席などしなくても席は空いていた。
 目前に座った男は、食券をウェイトレスに渡すと、頬杖をついて緑山の方に視線を移す。それが緑山の一挙一動を窺っているようで、どこか居心地が悪い。
 見知った顔ではない。
 ぱっと見た目の雰囲気は、ちゃらちゃらした感じがする。だが、決して不快な感じはなかった。それは彼の表情や立ち居振る舞いのせいだろうか?
 僅かに浮かんだ口元の笑みが全体に柔らかな印象を与える。
 整った顔立ちは、テレビでよく見かける誰かと似ていた。
 もてるんだろうなあ……病院には似合わない人だ。
 緑山はコーヒーを一口飲むと、いつまでも彼を見つめているわけにもいかず、ふっと視線を中庭へ向けた。
 眩しいばかりの光が植えられたばかりの立ち木の緑に反射していて、ちらちらと目を射る。それに僅かに目を細めた。
 この季節の緑は好きだった。明るい気分になれる。見ていて気持ちよくなる。
 気怠げな躰のせいか、眠たくなってきた。
 頬杖をついて、ぼおっと外を見ている、と。
「ね、増山先生と知り合い?」
 唐突に相席した男が声をかけてきた。
「え?」
「さっき親しそうに話をしていたからさ、どうなのかなって思ったんだけど」
 にこにこと話しかけられ、なんと答えて良い物か迷ってしまう。
「あの先生って無口だからさ、こんなふうに人と一緒の所見るのって珍しくてさ。それで気になって……いやあ、迷惑かなって思ったんだけど……つい、ね」
「あ、私、今日営業の代理でここに納品に来ただけなんですけど、同僚が先生の友人とかで、それでこちらで食事を一緒にすることになりまして……」
 なんでこんな事喋ってるんだろう、俺は。
 ふと浮かんだ疑問に、思わず口を噤んでしまう。
 まるで誘われるように喋ってしまった。これって営業失格だって穂波さんに怒られてしまう……。
 そこまで考えて、緑山は内心苦笑を浮かべた。
 なんか、俺の思考って、穂波さんに怒られるか、そうでないかに偏っていないか?
 うう、結構あの人に毒されているなあ……。
 黙り込んでしまった緑山に、相手が困ったようにぽりぽりと頭を掻いていた。
「珍しいこともあるなあって思って……あ、気を悪くしたらゴメンね。俺、あの先生の知り合いなんだけど、ほんと、珍しいんだ。あの人が、他人と一緒にいるところを見るのってさ」
 あっけらかんと言われて、緑山も苦笑するしかない。
 と、その頭に持っていっていた手首に湿布が貼られているのに気付いた。
 その白い湿布薬が、増山の言葉を思い出させる。
『友人がね、治療しに来るんです』
 治療って……整形外科の先生だよな、あの人は……。それにこの人、さっき何て言った?
『あの先生の知り合いなんだけど……』
 って……。
「あ、あの……増山先生のご友人が今日治療に来られるって聞いてるんですけど……もしかして?」
 伺うように訪ねると、彼は驚いたように目を見張り、そしてくすくすと笑いだした。
「何だ、聞いてたんだ?あいつってそんな事まで話してるなんて珍しいな……」
 笑っているのに、その視線の強さが気になった。
 気付かれないように、それでも密かにこちらの様子を窺っているように見える。
「あ、名前まだだったね。俺、明石雅人。増山浩二の……友人」
 手を差し出され、緑山は慌ててそれを受けた。
「私は、ジャパングローバルの緑山敬吾と申します」
 そう言うと、明石は何に驚いたのかその目を見開いて緑山を見つめていた。 「ジャパングローバルって……じゃあ、君の同僚って、秀也のこと?」
「笹木のことですね。正確には同僚というか、同じ会社の先輩って言う感じですね。私は工場の人間なので直接の仕事のつき合いはないのですが、今日はちょっとこちらで手が空いてしまいまして、その結果彼のお陰でここに来ているんです」
 というか、来さされた、というか……。
「え、じゃあ、優司と一緒なんだ?」
「優司……って?」
 誰のことを言われたのか判らなかった。
 どうしたんだろう……知っている名前なのに、出てこない。
 少しぼーとした頭を軽く振る。
「あ、ごめん。滝本優司。工場にいるだろ?」
「あ、はい。滝本ですね。すみません、名前だとピンと来なくて……チームは違いますけど同じ開発部です」
「そっかあ、それで浩二が親しくしていたんだね」
 ほっとしたようなその仕草が気になった。
 俺が増山さんと親しくすると気になるなんて、それって……ねえ。
 ちらりと窺うと、なんだかとても嬉しそうにしている。
 これって……こういう感情の表し方って心当たりがあるんだけど。
 緑山は気づかれないように視線をコーヒーに移して、内心の苦笑を押さえる。
 この人達って……そういう関係なんだ。
 さっき、自分のことを友人と言うときに、ちょっとした間があった。
 それもそのせいだと思えば理解できる。
 そっか……。
 それでさっきから気になっていたんだ。
 増山さんと笹木さんじゃなくて、増山さんとこの明石さんっていうのが正解?
 で、この人は、俺と増山さんが親しくしているのを見かけた物だから、思わず話し掛けてきたってことか。
 すうっと息を飲み込む。
 知ってしまうと、なんだか親しみが湧いてきた。
 それでなくても男同士って言う関係を理解して貰える相手はそういない。
 自分からばらす気は無いが、それでもそういう相手と親しくしたいと思ってしまうのは、どうしようもない。
 あと少し普通に話をして、それで……帰ろうかな。
 増山さんも忙しそうだし、この人に断りを入れておけばいいだろう。
 それに。
 さっきから躰が怠いとは思っていたけど……なんとなく本調子でないような気がする。
 食欲は大丈夫だったけど……なんだか、怠いのは気のせいではないな。
 額に手をあてると、手の冷たさが気持ちいいと思ってしまう。
 風邪……でもひいたかな?
「どうかした?」
「え?」
 ふと気が付くと、明石が心配そうに緑山を覗き込んでいた。
「なんだか、顔色悪くない?それもだんだん悪くなっているような気がする」
「いえ、そんなことは……」
 顔色、悪いんだろうか……。
 ここに鏡がないから、自分ではそんなことは判らない。
 でも、彼が嘘を付く理由もないから、本当なのだろうけど。
 少なくとも病院に来る前までは、そんな事無かった。
 だけど、確かにさっきから躰が怠い。食事をとってこの状態というのは、どうしたものだろう。
 疲れるほど仕事はしていないが、寝ころびたいって思うのは、そのせいだろうか?
 明石が随分と心配そうに見ている。
「少し青白い。それにね、君の目がぼんやりとしてきている」
「目?」
「ああ、なんていうのか、緑山さんの第一印象って目だったんだよね。さっきね、偶然視線が合ったときにね、凄く気になった。俺ってそんなに惚れやすい方ではないと……思うんだけど。凄く気になった。だから、話し掛けたのかも知れない」
 ……。
 この人も……。
 なんでだろう。自分としては何もしていないのになぜか皆、目が良いという。
 しかも、そう言ってくるのはなぜか、女性ではなく男ばっかりだったりする。
 ……だから穂波さんが心配するんだよな。
 はあっと息を吐くと、なんだか躰の熱を吐き出したようでちょっとだけ気持ちよかった。
 あれ?
 これって……熱が出たときと同じ……。
「ね、ほんと、大丈夫?」
「……」
 まずいかも知れない。
 これってやっぱり微熱が出たときの症状だ。
 こんな急に熱が出るなんて……。
「あ、の……もしかすると微熱がでているのかも知れません。何か自覚したら急に怠さが増してきて……だから、帰ります。増山先生には、断りを入れて貰えませんか?後でここに来られるそうなので」
「あ、ちょっと待って」
 かけられた言葉に訝しげな視線を送ると、明石が対面から手を伸ばして緑山の額にその掌を押しあてた。
「う?ん。やっぱ少し熱いような気がする」
 驚いて身を竦める間もなく、その手は離れていった。
「帰れる?ついでにここで診て貰ったら?浩二、整形外科だけど、風邪ぐらいだったら診察してくれるよ。酷いようだったら、内科にまわしてくれるし」
「え、いえ……保険証とか持っていないし」
 そんなもの、家に置いてきている。
 そう言って、首を振ろうとしたその頭をそっと押さえられた。
「え?」
「大丈夫ですよ。熱ですか?」
 随分としっかりとした手が額に押しあてられる。
 先程の明石の細い指をした手とは違う。鍛えられた人の手。
「浩二!」
 明石が驚いたように声をかける。明石側からだと背にしているから気づかなかったのは判るが、緑山自身、掌をあてられるまで全く気づかなかった。
 そんなにもぼーとしているのだろうか?
「あ、あの」
「あるようですね。診ますから、診察室に来られると良いですよ。保険証は後日からでもいいですから」
 その有無を言わせぬ口調には頷くしかない。
「雅人さんは案内してくださいね。先に行って用意しますから」
「ああ。行こう、緑山さん」
 促されて立ち上がると、ふうっと視野が狭くなった。
 あっ、やば。
 僅かにぐらついたところを明石の腕で支えられる。
「なんだか酷そうだよ」
「すみません……」
 立ちくらみ……かよ。
 緑山はくっと唇を噛み締めた。
 こんなにもきているなんて……。
 立ち上がってしまえば、怠さはあるが歩けないほどは悪くなっていない。
 だが、明石がぴったりと寄り添って、心配そうに支えてくれる。
 これって……。
 穂波さんがここにいなくて良かった。
 思わず苦笑を浮かべてしまう。
 でも、まあ、まだこんな事を考えられてるんだから、まだ大丈夫かな。


 体温計を見て驚いた。
「38.4℃……」
 微熱どころじゃない。
「もしかして、熱に強いタイプ?」
 明石がそれを覗き込んで、ぼそりと呟いた。
 そうかも知れない。
 多少の微熱で、寝込むということはなかった。
 躰が怠いことはあっても、気力で乗り切っていたような気がする。
 だが、さすがに38℃を越えると、気力では無理なようだ。
 それに節々もひどく怠い。
「熱の上がりが早いですね。念のため、インフルエンザの検査をしましょうか?」
「すみません……」
 まだ外来受付時間より早い。
 それなのに……。
「どうせ雅人さんを診る予定でしたからいいんですよ。午前中に来るように行っていたの
に、どうしても昼過ぎでないと来れない人ですから」
 恐縮している緑山に、増山は安心させるかのように言った。
「それにあと30分もすれば、外来始まりますしね。その程度の融通は利くんです」
「はあ……」
 促され、診察室の椅子に座る。
 喉の粘膜を擦り取られ、それを検査にまわすために看護婦がぱたぱたと出ていく。
「じゃあ、胸出して」
 胸、ね……。
 何気なく前を広げようとして……はたと手が止まる。
 まずいっ!!
 顔から血の気が音を立てて引いていく。
 見せられない……。
「どうしました?」
 ボタンにかけた手を止めて、俯いて動かない緑山に増山が心配そうに問いかけた。
「いえ……あの……」
 こんな場合、どうすればいいのだろう。
 たとえ医者であっても見られたくなかった。
 その肌には、穂波がつけた痕がまだくっきりと残っているのだから。
「どうしたんだ?気分悪いのか?」
 後から覗き込むようにして明石が声をかける。
 それにも答えられないほど、頭が混乱していた。
 だから、つけるなって言ったのに!
 今ここにいない穂波を罵る。
 程度って物がある。
 あの人は、面白がってつけるんだから!
 あまりのことに、躰の怠さすら吹っ飛んだ気がする。
 だが。
「ね、どうしたのさ……っ!」
 頭の後から覗き込んでいた明石が、はっと気づいたように息を飲んだ。
 あっ……。
 慌てて首筋に手を当てる。
 普通にしてみれば見えないだろう。だが、俯いていた緑山に上から覗き込むようにしていた明石の位置関係だと、それははっきりと見えたのだ。
「もしかして、緑山さんってすっごい情熱的な恋人がいるんだ?」
 感心したかのような声音に、かあっと躰が熱くなる。
「ん、まあ、もてそうだし……俺、外出てるから、終わったら呼んでね」
 背後で、かちゃりとドアが閉まる音がした。
 遠慮してくれたんだ……。
 それにほっとする。
 頭がぼおっとするのは熱のせいだけではないような気がする。
 緑山は大きく息を吐いた。
「気にしないでくださいね、胸の音を聞かせてください」
 静かな声でそう言われて、諦めにも似た心境でワイシャツのボタンを外し始めた。
 日に焼けていない白い肌は熱のせいかさらに白く青ざめていた。だからか、あちこちに広がる濃い朱色の痕がよりいっそう目立つ。それが何であるかは経験のある人ならすぐに判るだろう。
 ましてや医者である相手には、もろバレだ。
 躰は熱から来る寒気に総毛立っているといのに、羞恥から来る熱が顔を火照らす。
 相手の顔を見ていられなくて、緑山はずっと下を向いていた。
 だが、こんな相手には慣れているのか、もともと動じない性格なのか、増山の態度は何ら変わるものではなかった。
 されに幾分ほっとはするが、恥ずかしい事には変わりない。
 どこかぼおっとしている頭の中で、それでも穂波に対しどんな文句を言ってやろうとずっと考えていた。
 つまり現実逃避をしていたのだが、その間に増山が聴診器で緑山の胸の音を聞いていた。
 心臓がどくどくと早鐘のように鳴り響いている。
 それが羞恥のせなのか熱のせいなのかもう訳が判らない状況だ。
 落ち着こうと思うのだが、こればっかりは意志の力でどうにかなるものではない。
 酷い緊張と熱から来る怠さ。
 急激な熱の上昇は、体力を余計に消耗する。
「いいですよ」
 増山の言葉をかけられてもすぐに反応できなかった。
 ワンテンポ遅れて言葉が理解できる。
 のろのろと動かした手に、増山の手が重なった。
「え?」
 訝しげに顔を上げると、目前に増山の顔が来ていた。
「しますよ」
 言葉より先に手が動いていた。
 はだけられたワイシャツの前が合わされ、上から順にボタンをかけるその手の動きをぼうっと見つめる。
「緑山さんは、今日はどうされるんですか?出張中ですよね」
 一番下を止められているときに増山がふっと顔を上げた。同時にかけ終えたボタンから手が離れ、躰を起こして緑山を見遣る。
「今日は泊まり、でしたから……ホテル、取ってます……」
 この熱で……ホテルか……嫌だな。
 酷く心細さを感じた。
 一人暮らしの家で高熱が出ると、やはり酷く心細くなった覚えがある。だからだろうか、少々の熱でも会社に出てしまうのは。
 家でぼーっとするより人のいる会社でぼーっとする方がマシだと思えていたから。
 だが、出張先のホテルと自分の部屋と比べると、やっぱり自分の部屋がいい。
 はああ
 思わずついたため息は躰の熱をほんの少し取り除いてくれるが、不安までもはぬぐい取ってくれなかった。
 いつもなら、こんなな事は思わない……と思いたい。
 だが、気力が萎えてしまうと、どうしても悪い方ばかり頭が向かっているようだ。
「……誰かついてくれる人はいないのでしょうか?」
「え?」
 何を言われたか判らなくて、緑山は熱に潤んだ瞳を増山に向けた。
 途端に、ふっと増山が躰を後に逸らした。
 それはほんの僅かだったけれど、緑山は気づいて訝しげに増山を見返す。
「あの……」
 何か?
 言葉を継ごうとした途端、増山がふっと僅かな笑みを漏らした。
 そして数度頭を振る。
「あなたは……あまり人を見つめない方がいいですね。特にこうやって弱っているときは……」
「は?」
 似たようなことをよく言われているにも関わらず、何を言われたのかよく判らない。
 自嘲めいたその笑みはすでに消えていたけれど、その分酷く真剣な瞳が緑山を捕らえた。
「気づいていないですか?でも、誘われたように感じましたよ。熱で潤んで焦点が合わない瞳のせいか……ひどくね。だから、熱が出ているときは、あなたの恋人以外にはそんな視線を向けない方がいいです」
「あ……」
 それは、たぶん穂波がいつも緑山に言い聞かせている言葉と同意語なのだ。そして、さっき明石にも言われたことと。
「どうして……」
 ふっと口について出た。
「俺は、何にもしてないのに……どうして……」
「何もしなくても人の興味をそそる人っていますよね。それもいろいろありますし、程度の差というものもありますよね。ただ、決して悪い印象ではないと思います。私もそういう精神面の専門でないので、こうだ、とは言い切れませんけど。ただ私にしてみても、最初に緑山さんを見た時、手助けをしたいと思いましたから、ね。」
「う?ん」
 判ったようで判らない。
 それでなくても熱でぼけた頭で考えられるのではない。
「それでですね。ホテルのチェックインはまだもうちょっと時間あるでしょう。ですから、ここで寝ていてください。この診察室は午後は使いませんし。時間が来たら、雅人さんにホテルに連れて行って貰ってください。彼は、夕方までは暇ですから」
 当然のように言われた言葉を反芻し、慌てて首を振った。
「そんな、迷惑でしょうから」
「今のあなたでしたら、とても一人ではホテルまでたどり着けませんよ」
「でもタクシーで」
「いいですから……そんな熱に潤んだ目でその辺りをうろうろされる方が心配です。こちらはあなたが住んでいる街に比べて、その手の方がずっと多いんですよ」
 し、心配って……。
 子供扱いされているようで、唖然と増山を見遣る緑山に彼はうっすらと微笑んだ。
 しかし、その手の方って……。ようするに、あの時の隅埜君みたいな連中がうろうろといるって言いたい訳なのか?
 ……それはマジでやばいかも。
 増山の言葉どおりだとすると、今の自分は無意識の内に男を誘うような感じらしい。
 今のこの体力と気力でそういう場面になったとしたら、いくら穂波さんに鍛えて貰っていたとしても敵いそうにない。
 緑山は、小さくその熱い吐息を漏らすと、首を上下させた。
「でも、明石さんはいいんですか?用事は?」
「雅人さんは夕方から出勤ですからね。それに暇だとすぐうろうろするんで、ついでに捕まえて置いてくださいね。あれであの人もよく声をかけられるのに、すぐ彷徨くから……」
 その言葉が前半は酷く悪戯っぽく、そして後半はぼやくように聞こえて、目を見張る。
 確かに、あの人ならそういう相手に声をかけられやすそうだ。無造作に纏めている髪を
きちんと整えて、きっちりした格好をすれば、どこぞの有名なタレントとひけを取らない
ように見える。
「ですから、遠慮なく世話させてくださいね」
 にっこりと笑みを浮かべるその顔は、患者を心配する医者の表情で、酷くリラックスするものだった。
 しかし……。
「でも……あのその……ほんとにいいんですか?明石さんに俺なんか世話させて?」
「はい?」
「だって明石さんって……」
 そこまで言いかけて、はっと口を閉じる。
 やっぱり相当熱が高い。今やばいことを言いかけたような気がする。
 明石さんって、先生の恋人でしょう?
 って……。
 緑山は慌てて頭を振って、曖昧な笑みをその口元に浮かべた。
「すみません……俺……頭ぼーっとしていて」
 その言い訳を、増山はふっと首を横に振って制止した。
「構いませんよ。そうですね、雅人さんと私は恋人です」
 その何でもないような言いように、緑山の方が面食らう。
「でもあなただって恋人がいるんでしょう。あなたが雅人さんにちょっかいを出すようには見えませんし」
「そんな、ちょっかいなんて、俺、今の相手で十分ですから!」
 あ!
 声にならない悲鳴とともに、語尾をごくりと飲みこむ。
 あ、ああ!
 駄目だ、歯止めが利かない。
 恐る恐る増山を上目遣いに見ると、小さな笑みがその口元から零れていた。
「ですから、心配なんかしていませんよ。雅人さんだって、あなたにちょっかいを出そうとは思わないでしょうに。あの人もいい加減惚れっぽいところはありますが、ちゃんと言い聞かせておきますので」
 その自信ありげで、しかもどこか何かを企んでいるような悪戯っぽい表情は、誰かを彷彿させる。増山の方が表情の変化ははるかに少ない。
 なのに似ていると思ってしまった。
 そう……今頃、事務所でふんぞり返って、緑山の上司の恋人を嫌みのようにこき使っている穂波さんと。
 出張前に彼は緑山に言ったのだ。
 退屈だから、滝本でもからかってこき使ってやろう、と。
 自分が恋人と逢えないからと、人の恋路を平気で邪魔するような人なのだ。
 それを聞いた途端、そちらの滝本には幾ばくかの同情は湧いたが、上司たる篠山には自
業自得という言葉が浮かんだのは今でも覚えている。
 この出張、本来篠山が行くべきものだったのだ。
 それを体よく緑山に押しつけたあげく、金曜日のデートコースにどこかいい所はないか?っと嬉々とした表情で言ったモノだった。
 別にその件を穂波にばらした訳ではないが、穂波を止める気もなかった。
 その穂波とこの増山は一見どこも似ていない。
 性格だって全く違うだろう。
 なのに何故、似ていると思ってしまったのか?
「さあ、ベッドで休んでいてください。少し眠ると楽になりますよ」
 増山に促されるまま、診療用のベッドに横たわる。
 掛けられた毛布が少しでも寒気をしのいでくれそうでそれを肩まで引っ張った。


「……緑山さん」
 躰を揺すられ、目を開けた緑山はそのぼんやりとした目で声をかけた相手を捜した。 
 暗い。
 薄闇に包まれた部屋は無機質で、人のいない冷たさがあった。
「緑山さん、気付いた?」
 再度した声が頭の上からだとようやく気付いた緑山は頭を上げ視線を廻らした。
「……明石、さん?」
 僅かな逡巡の後、緑山はようやく口を開いた。
 どこかぼんやりとした頭は、彼の顔と名前を結びつけさせるのに時間がかかったのだ。
「起きた?そろそろホテルに行かない?」
 その手がそっと緑山の額にかかった前髪を掻き上げた。
 その言葉に緑山はようやく眠る前の出来事を思い出した。
 そっか、明石さんが送ってくれるっていう話になったんだっけ……。
 他にも何か話をしたような気がする。
 だが、まだ熱が高いのか、今ひとつ意識がはっきりしない。
「起きられる?玄関前にタクシー乗り場があるから、そこから行こう。あ、秀也に連絡を取ったから、荷物は会社が終わったら持ってきてくれるって」
 荷物?
 回らない頭は、簡単な単語ですら認識するのに時間がかかった。
 訳も判らないままに頷く。
「……増山さんは?」
「病棟の方に行くって言ってた。浩二も今日は早く帰れるから、後で見に行くって言っていたし……。あ、薬預かってるからね」
「すみません……」
 何だか迷惑かけっぱなし……。
 緑山は手をついて、躰を起こそうとした。
 途端に、ふうっと視野が狭くなる。
 ぐらりとした躰は倒れる寸前で明石によって支えられた。
「大丈夫?さ、俺に掴まって」
 迷惑をかけているとは思うが、何せ躰も頭もまともに動かない。
 節々が痛み、動くのも酷く億劫だった。
 支えられ、のろのろと歩く緑山にあわせて、明石もゆっくりと歩いてくれる。
 その明石の肩の所に緑山の頭があった。
 背、高いんだな……それにすらりとして、凄い均等が取れている……なんか、うらやましいな。
 そんな事を思っていると、人が多くなったのに気がついた。
 外来受付は、済んだ人やこれからの人、薬局への申請者等でごった返していた。その中を縫うように歩いていく。
 と、時折、すれ違う若い女性が振り返るのに気がついた。
 はっと目を見開き、それからまじまじとこちらを見つめる。
 それに気付いて、ぼんやりとした目で辺りを窺うと、どうも女性達の視線を浴びているような気がする。
 原因は彼なんだろう。
 心配そうに、緑山の顔を覗き込む彼は、とても優しげで、そんな顔を女性に向ければ一発で悩殺できるだろう。
 こそこそとこちらに視線を向けながら内緒話をしている女性達もいる。
 病人だろうが……。
 思わずそんな事を言いそうになるほど、彼女らは元気で、微かに黄色い悲鳴すら聞こえた。
「何なんだ……」
 雅人に対する視線とは言え、すぐ隣でひっついているから自分にも視線が来ているような気がして妙に恥ずかしくいたたまれない。
「参ったな……」
 ぼそりと呟く声に顔を上げると、雅人が苦虫を噛み潰したように口元を歪めていた。その眉間に皺が寄っている。
 どうしたんだろう?
「明石さん?」
 訝しげな緑山の声に、はっとしたように雅人がその表情を崩した。
「いや、何でもないんだ。行こう」
 僅かにその足が速くなる。
 緑山もいたたまれなさも手伝って、怠い足を無理に動かしてついていった。


 ほっと一息をつけたのは、タクシーに乗ってからだった。
 タクシーの運転手に明石が行き先を告げる。
 ホテル名を言った覚えはないな?
 と、思いつつ、それでもぼうっとしていると、その視線に気がついたのか明石がくすりと笑う。
「秀也と連絡取ったとき、ホテルとかその辺りの事情、だいたい聞いたから。明日もなんかお客さんから連絡があってキャンセルになったから心おきなくゆっくりとしてくれって、これ秀也からの伝言だよ」
「あ、ああ、そうですか」
 忘れていた。
 明日のお客さんにもう一回電話する予定だったんだ……。
 まずいとは思ったが、だからと言って今の状況で電話をしても要領の得ない物でしかないだろう。それにそういう伝言があったと言うことは、すでに決着がついている筈で、その内容を知らない以上、うかつに電話すると、つじつまが合わなくなる。
 タクシーが大きな道には行った途端、渋滞にかかって動きが遅くなる。
 ゆっくりと動く周りの景色をぼうっと見ていると、明石が声をかけてきた。
「それにしてもさっきは困ったね」
 微かな吐息とともにもたらされた明石の言葉は、苦笑を伴っている。
「何?」
「最近の女の子達って、男同士って言うのに妙な興味があるらしくってさ。さっき俺達そういう目で見られたんだよ。気付いていなかった?」
 へ……。
 そうだったのか?
 あれって明石さんを見ていたんじゃないのか?
「あ、あの……それって」
「そ、俺と緑山さん。俺ってどうも男の人といるとそう思われちゃうんだよね」
「そう、なんですか?」
「それをさ、浩二の奴、俺が惚れっぽいって怒るんだから、たまったもんじゃないよ。俺はそんなつもりないって言うのにさ」
「そういえば、増山さんがそう言って……」
 ぽつりと呟いた言葉は、口に出して言うはずはなかったもの。
 慌てて口を閉じたが、それは十分明石にも伝わったようだ。
「やっぱり言ったか。さっきそんな事言われたんだよなあ。俺ってそんなに信用ないんだろうか……」
 はあっとため息をついた明石が、ふっとその視線を緑山に向けた。
「まあ、こうして見ていても緑山さんってなんだか色っぽいよね。熱のせいか目が潤んでいるし、凄い色気があるんだよな。可愛いし」
 くすくすと笑いながら言う。
 それって……口説き文句みたいだ。
 緑山はふっと明石から視線を外した。
 惚れっぽいって言われるの判るような気がする。さっき逢ったばかりの相手にそんな事言うのか、この人は……。
 他意は無いのかも知れない。
 だが、もし元気な時にそんな事を言われたら……それこそナンパとしか思えない。 肩にまわされた腕に力を込められ、ぐいっと明石の方に引き寄せられた。
 ふらつく躰を支えられただけだとは思うのだが、その温もりにどきっとした。
 それでなくても熱い躰がさらに熱が上がったような気がする。
 怠い躰のせいで半身を明石に預けるようにシートに座っている。
 それがひどく心地よい。
 車の振動と明石から伝わる温もりが、頭をぼうっとさせてきた。
「眠そうだね、着いたら起こすから寝てていいよ」
 耳に入るその声も優しいから余計に眠りを誘う。
 眠い……。
 肩にまわされた手が頭にまわされ、肩に押し付ける。
 それは幼い子供にするような感じだったから、はっと躰を起こそうとした。
「いいからさ、この方が楽だろ」
 が、そう言った明石の柔らかな笑みが目にはいると、緑山の躰から自然に力が抜けた。
 確かに、躰を起こしてきちんと座ることすらすでに苦痛だったから、躰がそれを求めて
いたのだ。
「すみません……」
 小さな声で呟くと、明石の手が安心させるようにとんとんと軽く肩を叩く。
 その一定のリズムに誘われるように、すうっと意識が遠のいた。


 がくんと躰が揺れた。
 そのショックでふっと現実世界に引き戻された。
「あ、起きた?」
 その声が誰かと認識すると同時に、慌てて躰を起こした。
 明石の肩に頭を預けて眠り込んでいたのだ。
「すみません……」
「いいって。それよりもう着くよ」
 指さされた所に、見慣れたホテルの外壁があった。
 東京に来るときはよく利用しているホテルだ。
 旅先での病気で心細さはあるものの、とりあえず横になって寝られる。

 ホテルでの手続きは全て明石がしてくれた。
 部屋のキーを受け取り、部屋に入ると、着替える気力もなくベッドに倒れ込む。
「ほら、服脱がないと皺になるよ」
「すみません……」
 声だけは申し訳なさそうに出るのだが、いかんせん躰が動かない。
 横になった途端、筋肉が動くのを放置したようだ。
 それでも、なんとか明石の助けを借りて起きあがると、緑山はスーツを脱いだ。
 熱が下がれば速攻で帰りたいから、皺にするわけにはいかなかった。
 スーツの上下にワイシャツまで一気に脱ぐ。と、あれだけ緑山自身が隠したがっていたキスマークがその白い肌と共に露わになる。
 だが緑山自身は、その瞬間はそんなことを完全に忘れていたのだ。
 困ったように明石が視線を逸らしたのに気付いた。
 何……しまった!
 はっと気付いた緑山は、慌てて差し出された浴衣を羽織った。
 それこそ太股の内側までついているその朱色は、部屋の灯りでも十分目につくものだ。
 ああ……もう……。
 一気に残っていた体力が減っていく。
 だが、まだやることは残っていた。
「ありがとうございます。今日は大変お世話になって……」
 いつまでも彼の世話になり続けるわけにはいかない。
 もう引き取って貰わないと……。
「別にいいって、それより寝てて。なんか食べるもの買ってくるから」
 その言葉にはっと顔を上げる。
 まだ、世話をしてくれるというのか?
 それはあまりにも申し訳ない。
「いえ、後は自分でなんとかしますので、明石さんは今夜仕事があるって言われてましたよね。ほら、支度とか……」
 だが、明石はくすりと笑うと、緑山の腕を引っ張ってベッドへと向かわせた。
 力の入らない躰はなすがままで、すとんとベッドに腰掛けてしまう。
 見上げた先で、明石が緑山の顔を覗き込んでいた。
「そんな状態だと買い物なんかいけないだろ。ここまで付き合ったんだから最後まできちんとやるよ。それにこんな状態の緑山さんをほっといた、なんて浩二にばれたら怒られてしまう……浩二は怒ると恐いんだ……」
 苦笑を浮かべ肩を竦める明石にそこまで言われると、緑山は返す言葉を失ってしまう。
「でも……」
「仕事の事は大丈夫。こっからだとそんなに遠くないし……店で準備するからこの格好のままでもOKなの」
「店?」
 問いかけた言葉はなぜかするりとかわされた。だが、それを気にする間もなく、明石が、これが肝心、とばかりに語気を強める。
「それにさ、何か食べないと薬も飲めないだろ」
「はあ」
 気のない返事は、食欲のなさからきたものだった。
 何も食べたくない……。
 だが、確かに何かを胃に入れないと薬は飲めない。空きっ腹に薬を飲むような冒険はしたくなかった。
 仕方なく、緑山は明石に向かって頷いた。
 

 明石がかいがいしく世話をしてくれる。それがとても申し訳なくて、緑山は何度も帰って貰うよう促すのだが、明石は約束だからといつまでも帰ろうとしない。
 窓の外は、完全に日が落ちている。なのに、明石はまだここにいる。
「明石さん……仕事は?」
「う?ん、今日はもう休もうかなあ……」
 なんて言うものだから、気になってしようがない。
 だが、それを緑山自身もありがたいと思っている。
 節々が痛くて、怠くて、動くのも億劫なこの躰。熱のせいか妙に気弱だとは自覚はしている。だからといって、それが変だとは思わない。
 それでも……やっぱり。
 ふうっと熱い息を吐くと、緑山は明石を見上げた。
「そんな、俺のせいでなんて……困ります」
 顔を歪ませ見つめると、明石が困ったように自分の前髪に手を入れて掻き上げた。
「だから、そんな顔しないでよ」
 苦笑混じりにそう言われてしまい、緑山も困ったように力無く笑みを浮かべた。
 と。
「ほんと……放っとけない……。君の恋人って大変なんだろうな。俺が緑山さんの恋人だったら、閉じこめておきたいな。だって、すっごく心配になるよ。……ひどく、色っぽい……」
 明石の頭にあった手が、降りてきて緑山の頬に触れた。
 あ……。
 触れられた部分から甘い疼きが全身へと広がる。
 思わず布団の縁を握りしめた。
 何……これ?
 ぼおっとした頭でも、自分が感じてしまったことくらい気付いていた。
 だが信じられない。
 そんな筈はなかった。
 そういう意図を持って触られることを……緑山にとってそれは過去の出来事を思い出させ、その結果穂波以外に触れられることは嫌悪でしかないはずなのに。
 頬に触れられたままの明石の手が、すすっとそのラインを辿り、顎に触れた。
「あ、明石さん……」
 なんでだろう……躰が動かない……。
 されるがままで、じっと明石を見つめるしかない。ただ、ぎゅっと握りしめた拳がわず
かに震えていた。
 明石の目がすうっと細められた。
 と。
「……ごめん……」
 苦しげに囁かれた言葉が耳に入った途端、無理矢理のように引き剥がされた手が離れていくのを、緑山はその視線で追いかけていた。
「やば……」
 そんな言葉が漏れ聞こえた。
 な……に……?
 ベッドについた腕に力を込め、半身を持ち上げる。
 その視線の先にいる明石を捕らえる。
「な、んで……?」
「緑山さんこそ……」
 窓際に立ち窓の外の夜景を眺める明石の表情は判らない。
 自分が何をされそうになったかくらい、緑山には判っていた。
 そして、それに逆らおうとしなかったことも……。
「……これだから、浩司に怒られるんだよな……」
 苦笑混じりのその言葉は、緑山に向かってというより自分自身に言っているようだった。
 それを聞いた緑山はただ黙って俯くだけだ。
 あれだけいろいろ言われていた。
 自分がそういう相手を誘いやすいのだと……今日逢ったばかりのこの二人にも言われて
いたのに……。
 だけど、どうして逃げなかったのか?
 あの手が、そういう意図を持っているというくらい、いくら熱でぼおっとしていも判っていたというのに……。
 それより何より、どうして抗う気になれなかったのか?
「……もうしないよ」
 明石がくすりと吐息と共に漏らし、言う。
「こんなこと言える立場じゃないけどさ……内緒にしといてくれると嬉しいな」
「……ええ」
 別に頼まれなくても、自分から言いふらすなんてできない。
 こんな事、穂波さんにばれたら……。幾ら未遂とはいえ……油断していたのには違いない。ましてや、逆らわなかったなんてばれた日には……。
 ぞくりと走る寒気は、熱のせいだけではない。
「よかった……」
 明石も心底ほっとしたため息をつく。
「浩司……に、こんなことばれたら……」
 よっぽど恐いのだろうか?
 明石がこつんとその額を窓に当てて考え込んでいる。
「明石さん、帰っていいですよ」
 ここにいればいるほど迷惑をかけるような気がする。自分で誘っているつもりはなくて
も、そういうふうにとられるのが自分なんだ。
 だからそう言ったのだが、明石はふっと顔をこちらに向けると苦笑しつつも首を振った。
「秀也が来るまではいるよ。それが浩司との約束だから……もう何もしないから、安心して寝てて」
 どう足掻いても帰るつもりはないようだ。
 笹木が来るまでとはいうが、いつくるのか?それでなくても欠勤者の多い営業部。そう簡単に帰れる物ではないし……。
 それに……なんだか自分が判らない。
 なんで逆らわなかったんだろう……。
 あの時以来……穂波さん以外に触れられることは嫌悪でしかないのに……
 あんな風に触れられて……感じるなんて……。
 ああ、もうっ!
 絶対熱のせいだよな、これ。
 きっと……きっと、そうだ……。
 緑山は、ぐいっと掛けを引っ張り上げ、顔を隠した。
 きっと青ざめていた顔が赤くなっているだろうから、隠したくて……。

柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊
柊と薊
?あざみ AI歌 3?

柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊


◇◇◇ちょっとだけ時間をさかのぼり……しかも舞台がかわります?◇◇◇

 なんとなく苛々して仕事が手に付かない。
 穂波幸人はとんとんと指で机を叩きながら、差し出された決裁書類に目を通していた。
 その目に入ってくるはずの数値を、頭が数値と認識しない。
 単なる数字という文字でしかないそれを理解するのに一苦労を要する。そのせいで、決済一つをとってもひたすら処理に時間がかかっていた。
 一体どうしたんだ?
 自分自身今の状態が信じられないとともに、何がこんなにもひっかかるのかが気になってしようがない。
「う?ん」
 ぱさりと書類を机の上に放りだし腕組みをて唸ると、部下達が一様にびくりと反応する。
 それがいつもなら面白いとおもうのだが、今日はそれすらもうっとおしくてしようがない。
 やっぱり、敬吾が出張にいっているせいか?
 逢えないというのはいつものことだったが、逢える距離にいないというのがこんなにも心を乱すことなのだろうか?
 明日には帰って来るというのに……。
 明後日には休みだから、この想いをたっぷりと伝えるのも手だな。
 あの生意気で可愛い恋人は、この前ちょっと無茶をしたら、ムッとしてろくに挨拶もせずに帰っていってしまった。
 まあ、随分と辛そうに帰ったから、こちらとしてもやりすぎたなと後悔はしたのだが、だからと言って、ここ数日メールにも返事をしないとはどういうことだ?
 負けん気が強いせいか、なかなか折れようとしないのも厄介なんだが……まあ、それも可愛くて苛めたくなるんだよな。
 俺がこんな想いをして待っているのだから、今度逢ったときは苛めてもいいよなあ。
 緑山が聞いたら理不尽だと怒り出しそうだったが、穂波はそれが自分の当然の権利だと思っている。
 それが、緑山を怒らすのだが、穂波にはその自覚はまったくない。
「穂波さん……」
 いっこうに仕事をしてくれない穂波に、とうとう部下達を代表して滝本が進言しに来た。
 これもいつものことなので、穂波はわざとらしくため息をつくと書類を手に取る。
「何があったんですか?」
 最近では、穂波に進言できる唯一の人間と噂とされる滝本。その彼が、それでもお伺いをたてるように聞いてくる。
「別に何もないぞ」
 こいつが下手に出るときはなんか含むところがあるからな。
 にっこりと笑いつつも、警戒は怠らない。
 それに……穂波が何を気にしているか知っている可能性はある。
 滝本は、この会社では唯一穂波の性癖と相手を知っている。そして、穂波も滝本の恋人が男であることは知っている。そして何より問題は、その滝本の恋人が敬吾の上司であることだ。
 滝本があちらに様子を窺えば、向こうは敬吾が出張だとすぐにでも知らせるだろう。
 そんなことで仕事が手に付かないなどと思われることは絶対に避けなければならない。
 少なくとも、この滝本には。
「それにしては、一向に書類が返ってこないんですけど」
 いい加減困っているのだろうとは思うが、なかなか手がつけられないのは事実なので、軽く肩を竦めると素直に謝る。
「すまないな。この数値がちょっと気になって、考えていたらどつぼにはまってしまった」
 ……数値が頭に入らないから、考えていたら嫌になってきた……
 などとはとうてい言えない。
「どこがですか?」
「ここだ。この割引率はちょっと無理じゃないのか?」
 実を言うと、どうしてこういう割引金額になったのかくらいは知っているのだが、この際誤魔化しに使わせて貰おう。
 穂波が指さすところを滝本が覗き込む。
「ああ、それはですね……」
 指さし、数値を順に追いながら滝本が説明するのを聞き流しながら、穂波は書類の他の部分を再度確認していった。
「……なんですけど」
「あ、そうだったのか。判った」
 さも説明を受けて判ったような振りをしながら、決済印を押す。
 滝本がほっとしたようにその書類を受け取り、席へ帰っていった。
 さてと。
 また滝本に突っ込まれる前に、さっさと書類を処理してしまおう。
 こんなのらない気分で残業なんかしたくない。
 今日はどこかに飲みにでも行こうか……。
 そんなことをつれづれに考えながら、適当に決済をしていく。
 厄介な書類は滝本のだけだったからそう考えなくても問題はない。
 穂波の手が軽快に動き始めたのを見て取った部下達がほっとするのはしゃくに障るが、まあ今日の所は放っておこう。

未決済書類トレーが空になり決済済トレーが書類で満載になった頃。
 ほっと一息ついた穂波の視界のスミで滝本が携帯に着信したらしいメールを確認しているのが見えた。
 また、ラブレターか?
 滝本の顔に苦笑が浮かんだのを見て取ったから、それに気付く。
 仕事熱心な滝本だから、恋人からのメールは嬉しいのだが仕事中は勘弁願いたいというのが本音なのだろうが……。
 あいかわらず暇な奴だ。
 何度かあったことのある滝本の恋人の顔を思い起こす。
 敬吾の話だと仕事はできるらしいのだが、どこかずぼらで厄介な人だと評されていた。
 そうなんだろうな、とは思う。
 ったく、仕事中にメール交換なんかするな。
 とは言いたいのだが、穂波とてしているのであまりきついことは言えない。言えばてきめん同じ言葉が返ってくるだろう。
 敬吾にしてみれば、そういう相手が上司なのだ。
 しかし……。
 ほんとに敬吾はあれからメール一つよこしやしない。
 頑固なのも程がある。
 原因をさておいてムッとしてきた穂波は、やっぱり滝本に文句の一つでも言ってやろうかと画策していた。
 と。
 その滝本が携帯を持ったままやってくる。
「穂波さん、ちょっとお話が……」
「あ、ああ」
 ちらりと滝本の視線が部屋の外へと向けられたのを見て取った穂波は、席を立った。
 二人して事務所を出る。
「何だ?」
「篠山さんからのメールなんですけど」
 そう言って差し出す。
 ん?ラブレターじゃないのか?
 いつも見せろと言っては拒否されるメールを見せてくれることに訝しく思いながら携帯を受け取り画面に見入った。
 すでに内容表示されてるそこに文字が並んでいる。
 それは確かに滝本宛のメールなのだが、最初に「穂波さんに伝えてくれ」という文字が入っていた。
 何だ?
 篠山が穂波に何かを伝えようとすることは今まで皆無だった。知らない仲とは言え、今までに仕掛けた数々の悪戯のせいでひどく警戒されているのだ。
 その彼がご指名とは?
 だが読み進むうちにそんな疑念など、あっという間に吹っ飛んだ。
「敬吾が出張先で病気?」
 あの病気なんかと縁がなさそうな……?
 まあ、食べる割には細いから体力は一見なさそうだが、ある程度は鍛えて少しは丈夫になったはずだし? 
 しかし、このメールだけではなんのことやら判らない。
 気になる。
「おい。携帯借りるぞ」
 返事を待たずに操作する。
 案の定、アドレス帳に登録してあったそれに電話をかける。
 言っても無駄だと思っているのか、見当がついていたのか、滝本はため息をついて何も言わない。
「もしもし」
 相手が出た途端呼びかけると電話口に沈黙が漂った。
 判っているのだろう。
「おい、どういうことだ?詳しく教えろ」
『人にものを聞く態度じゃないですね』
 やんわりと言い換えされるがそんなこと知ったこっちゃない。
「俺は忙しい」
 言ってから仮にも客先に使うにしては一人称が違うことに気がついたが、まあいいかと割り切る。
『インフルエンザって話です。こっちも営業から聞いたんではっきりとは判りませんが、今日はもともと予約していたホテルに泊まって様子を見るようです。営業の人の友人に医者がいてその人に診て貰ったから大丈夫じゃないかってことですよ』
 インフルエンザ?
 そう言えばはやっていると言っていたな。
 軟弱な奴らだな、と笑った覚えがある。
 だが、よりによって敬吾が……しかも出張先でかかるとなると話は別だ。
「ホテルはどこだ?」
『東京の新宿にある……で、部屋は352号室だそうです』
 その名前をしっかりと脳裏に刻み込む。
『いくんですか?』
「行かないでどうする」
 言われるまでもなく、もう頭の中はどういう経路で行くか算段を始めている。
 ため息がむこうから聞こえて、そしてぽつりと言った。
『その営業の人間……笹木っていうんですけど、面倒見てくれていますから問題起こさないでくださいよ』
 何を言っている?
 俺がそんなにトラブルメーカーか?
 突っ込みたかったが聞きたいことは聞いた。
「ありがとな。お礼は滝本に貰ってくれ」
 それだけいうと切った携帯を滝本に返す。
「じゃ、私は早退するから後のことは頼む」
 すでに想像ついていたのか、滝本はため息をつくと言った。
「ついでに明日の休みの申請も出しておいてくださいね」
 よくわかっている。
 さすがに俺の秘蔵っ子だ。
 ぽんとその頭を叩くと、穂波はかばんをとりに部屋へと戻っていった。

 それこそ飛行機で飛んでいきたい気分だったので、すぐさまチケットの予約をインターネットですると、幸いにして空席があった。
 空港までの道は、警察がいなくて良かったと言うくらいに飛ばして搭乗手続き締め切り時間にかろうじて間に合う。
 乗ってしまえば1時間ほどで東京には着けるのだが、空港から新宿となるとどうしても1時間はかかる。リムジンバスを使うと便利なのだが、ちょうど渋滞にかかる時間でも合った。
 どうやって行こう……。
 新宿までの最短ルートを探りつつも、ふっと緑山の事が穂波の頭に浮かんだ。
 いつだって元気な緑山。
 ショックを受けてぼろぼろになったあの時以来、いつも逢う緑山はいつだって元気だった。
 あの敬吾が病気か……。
 ふうっと息を漏らすと窓の外を眺める。
 かなり薄暗くなった外のせいで、窓に穂波の顔が写る。
 その顔がどこか暗さを漂わせているのに気付き、穂波は苦笑を浮かべた。
 自分が誰か他人のためにここまでするとは思ったこともなかった。
 これは、敬吾だから……なんだろうな……。
 そう考えると自嘲めいた笑みすら浮かぶ。
 そこまで敬吾に入れ込んでいる自分が可笑しいと思う。
 今までこんなことはなかった。付き合っている相手に何があってもこんなに動じたことはなかったのだ。
 そうだ……自分は動じている。
 敬吾が苦しんでいると思うと、いてもたってもいられなかった。
 人が付き合っている相手のことで悩んでいるのを見ても、何をやってるんだかと鼻で笑っていたような自分なのに……。
 昔の穂波を知っている人間が見たら驚くことだろう。
 だが、そんな自分が今は幸せだと思える。
 敬吾のことを思うことが嬉しい。こんな風に自然に心配できると言うことが、嬉しいし、ほっとする。
 自分が敬吾を愛しているのだと……実感できる。
 俺にも、こんな感情を持つことができるのだな。
 そう思えることがひどく嬉しい。


 空港に着いてから携帯をチェックすると、メールが入っていた。
 それを開く。
 見慣れぬメールアドレスに首をひねるが、すぐに誰からか判った。
 篠山からだった。
 念のためにと、ホテル名と部屋のナンバーに付き添っているという笹木の携帯番号。そして、笹木に穂波が行く旨の連絡を入れたことが記されていた。
 それを見た穂波は速攻で、その笹木宛に携帯をかける。
「もしもし、穂波と申しますが」
『あ、はい、聞いています』
 いきなりの電話に慌てた風もなく、静かな声が携帯から聞こえる。
 落ち着いた対応は好感がもてるな、と穂波は内心ごちると緑山の様態を尋ねた。
『私も仕事中で直接はあってはいないのですが、今付き添ってくれている友人の話によると、39度近くの熱と躰の怠さが主な症状で、今は寝ているそうです。薬が効いてきたのか少し熱が下がり始めたそうですが』
「友人……と言われますと、医者だという?」
『いえ、その友人の所で私のもう一人の友人に会いまして、今は彼が付き添っていてくれます。医者の方も仕事が終われば様子を見にいってくれるという連絡が入っています。私も、仕事が終わり次第、向かう予定なんですが……ちょっと、今すぐには……どたばたしていまして』
 どこか押し殺した声音に、随分と忙しいのだとピンときた。
「今羽田にいますから後1時間もかからないとは思いますが、できるだけ早く向かいますので」
『わかりました。私も緑山さんの荷物を持って伺う予定ですので、そのときに……』
 荷物?
 ああ、預けていたのか。
 敬吾の奴、いろんな人に迷惑をかけているんじゃないのか?
 自分の考え方が保護者のそれになっているのに気付いて穂波は苦笑を浮かべる。
 穂波は笹木に礼を言うと、携帯を切った。
 
 篠山が言っていたホテルは昔穂波も利用したことがあったから、場所はすぐにわかった。
 表通りから少し中に入った場所にあるホテル。駅から歩いてそこまで辿り着いた穂波は、そのホテルの玄関を見つけてほっと一息ついた。
 ふっとそのホテルを見上げる。
 大丈夫なんだろうか?
 ふっと過ぎった考えに苦笑が浮かぶ。
 やっぱり、俺にとって敬吾は特別だ。
 改めてそう思う。

 そのホテルは受付のカウンタのすぐ横にエレベーターがあった。
 部屋は判っているので、すぐさまそれに乗ろうとして、先客がいるのに気付く。
 どことなく冷たさを漂わせるその横顔をちらりと眺めながら、その斜め横に立った。
 並んでみると、穂波より少し低いくらい。
 その躰はコートに隠れているが、覗く首筋が力強い。決して弱々しい感じのないその体躯に穂波は興味をそそられた。見た目も好みだ。
 この整った顔が苦痛に歪む様など見てみたいよなあ……。
 こういうタイプは、無理矢理組み伏せてみるってのもおつなものかもしれん。お堅い相手ってのを快楽に溺れさせるのも結構好きなんだが。
 あらぬ妄想に襲われ、穂波は微かに苦笑いを浮かべた。
 さっき敬吾が特別だと思ったばかりなのに、自分の妄想の節操のなさには呆れる。
 でもまあ、思うくらいはいいよなあ。
 別に実行に移すわけでもないし……。
 そうは思いつつも昔取った杵柄。男をその気にさせる手腕のあれこれが脳裏に浮かんでくる。
 と、ふっと何かに気付いたようにその男がこちらに視線を向けた。
 おや……見られることに敏感なタイプか?
 穂波は視線のあった彼に穏やかに笑みを返した。自覚するまでもなく、そういう趣味を持った相手には判るであろう秋波がたぶんに含まれいてる視線とともに。
 相手はそれに僅かに反応したが、特に慌てるふうなく自然に視線を外していた。
 そういう視線を浴びるのに馴れているのか?
 まあ、これくらい整った顔にバランスの取れていそうな体躯だ。こんな都会でそういう目で見られたことがないということはないだろう。それに十二分に自分の姿形を自覚しているようだった。
 ちょうどその時エレベーターが開いたこともあって、穂波達は何事もなかったようにそれに乗り込んだ。

 古めかしいエレベーターの動きはとろい。
 ドアのボタン際に立ったその男から少し離れて穂波はエレベーターの奥に立つ。
 その彼がふっと穂波の方を振り向いた。
「何階ですか?」
「ああ、三階です」
 乗る前に見た館内図を頭に浮かべつつ教える。
「はい」
 短めな言葉にふと気がつくと、どうやら彼も同じ階らしい。
 どういう人なんだろう?
 穂波はじろじろと遠慮なくその男を上から下まで眺めていた。
 荷物は手荷物とも言える小さなバックだけだ。
 ネクタイはしているが、サラリーマンという雰囲気から少し外れているような気がする。
 だが、その不躾な視線は当然彼の知るところになったようで、やや鋭い視線がその冷たい風貌から発せられる。
「何か?」
 若干咎めの色合いは持っていたが、それでもその口調はその外観と同じく冷静そのものだ。
 穂波はそれにすら興味をそそられた。
 ぜひとも落としたいタイプ……。
 もうそれにつきる。
「失礼とは思いましたが……とても素敵な方だなあっとついつい見惚れていました」
 見惚れついでにいろいろ攻略法も考えているんだけどね。
「……」
 だが、ストレートに帰ってくるとは思わなかったのか、彼が鼻白んだようだった。
 眉間にシワが刻まれ、ふいっと視線を外す。
 う?ん、いいなあ。
「こちらへは出張で?」
「いえ」
 言葉少なだが、きちんと返答してくれるのもツボにはまる。
 嫌がる彼の手首を掴んで、壁に押しつけて無理矢理唇を奪う。
 そんなシチュエーションを頭に思い浮かべ、自然に顔がほころびそうになるのを慌てて止めた。
 しかし……どうも隙がないような気がするのも気のせいではないよな。
 こちらに背中を見せているのに、どう近づいても逃れられそうだ。
 うう、キスくらい頂きたい……。
 って、ちょって待て。
 実行に移すのはやばいよな。
 とりあえず敬吾の見舞いに来たんだし……。
 だけど、惜しいよなあ……こんな上物、都会じゃないとお目にかかれないし……。
 小さな吐息を吐き出すと同時に、エレベーターが三階についた。
 その扉がのろのろと開く。
 ある意味穂波は、それに救われた……と思った。


 3階には10室ほどがあった。
 エレベーターを下りて左に行く、その3室ほど先が351号室だった。
 と、どうやら例の彼も、穂波の前を歩いていく。
 ん?
 なんだか嫌な予感がするぞ……。
 唐突に、空港で聞いた笹木の電話の内容が思い起こされた。
 彼はなんと言っていた?
 『医者の友人も仕事が終われば向かいます……』
 とかなんとか……。
 そこまで思い出した途端に、背筋に冷や汗が流れる。
 そして。
 彼が351号室の扉の前で止まった。
 ビンゴっ!
 あははははははは?
 思わず頭の中で馬鹿笑いをしてみる。
 穂波幸人……一生の不覚っ!!
 彼の背後で穂波も止まったことで、彼が訝しげな視線を投げつける。
 仕方なく、穂波は口を開いた。
「もしかして、敬吾を見ていただいたお医者様ですか?」
 その問いに、彼は目を見開き、そして問い返す。
「あなたは?」
 その否定しない問いかけに、穂波は苦笑いを浮かべると言葉を継いだ。
「私は、穂波幸人ともうします。緑山敬吾の友人です」
 その言葉に、彼は今度こそはっきりと驚きの表情を浮かべた。
「あなたが……」
 何か問いただしげな視線が向けられる。
 まさか俺達の関係を知っているのだろうか?
 それとも聞いているのか?
 まさか敬吾がばらすわけないし、だいたい男と付き合っているなんてあいつが言うはずもない。
 となると、自分の行動がよほど不信感を抱かせたということか?
 まあ、まさか知り合いとは思わなかったし……なんせ、結構好みだったし……。
 露骨にそういう態度をとってしまったのだから、弁解のしようもない。
 この人は、敬吾にそれをバラすだろうか?
 ……。
 別に実行に移したわけではないから罪悪感というものは穂波にはない。
 だが、しかし面倒だなとはくらいは思う。
 だいたい、あいつはしつこい。
 ちょっとヤリ過ぎたくらいで、携帯のメールすら返信してくれないなんて言語道断な頑固さだ。
 せっかくこっちが折れてやろうと思っていたのに、なしのつぶてでは謝ってやる気も起きない。
 と、そういえば……。
 目前にいる男が、ずっと穂波の様子を窺っていることに気が付いた。
 とりあえず醜態を曝したのはおいといて、ここは真剣に対応しないとな。
 意識を現在に戻すと、穂波はその顔に営業用スマイルを浮かべ、いつまでもこうしていてはラチがあかないとばかりにその視線と相対した。
「ああ、失礼しました。私は増山浩司といいます。緑山さんの会社と取り引きしている病院に勤務していまして、今日はその関係でお逢いしていました」
 その動じない性格も好み……
 なんて、俺もいい加減懲りないな。
 内心浮かぶ苦笑など微塵も感じさせないよう、あくまでも表面は愛想のいい男を演じる。
「そうでしたか。私も、敬吾の会社と取り引きしている業者のもので、それで彼と出会いまして……まあ、意気投合したというか」
 あの強気な瞳に一目惚れしたというか。
 付き合ってしまうと、相性のいい躰にベタ惚れだとか……は、まあいいとして。
「ああ、そうですか」
 それだけの関係ではないだろうと、その冷めた目の奥で言われているような気がするのは気のせいではあるまい。
 う?ん、やっぱり何か知られているような気がする。
「今日は、では岡山からわざわざ?」
「はあ……彼の上司から連絡を頂きまして、私が特に親しくしているのを知っているものですから」
 そんなことを言いつつ、こんな理由で誤魔化しきれるものではないな、とは思う。
 だいたい、普通の友人が出張先で倒れたからと見舞いに来るものでもないし……。
 まあ、いいか。
 ばれてもともととも言うし。
「上司と言われますと……篠山さん、ですか?」
「あ、はい。ご存じですか?」
 彼まで知っているのか?それとも敬吾が話したのか?
「ええ」
 微かに頷いた彼の視線がふっとドアへと向けられ、そして再び穂波の方に向けられた。
「こんな所で立ち話もなんですから、入りましょうか?」
「そうですね」
 二人は、表面上はひどく和やかに笑顔をかわしながら、ドアへと視線を向けた。
「浩二っ!」
 ドアが開いた途端、場違いなほど嬉しそうな声が響く。
 穂波は増山と名乗った医者に嬉しそうに笑いかけるその男をまじまじと見つめていた。
 男……だよな。
 いや、考えなくても男だと判る。
 穂波より背の高い女なんてそうはいやしない。女のモノではないその躰のライン然り。
 だが灯りを落とした室内でオレンジの淡い光の中にいるその男は、穂波が知っているどの女性よりも美しく見えた。
「雅人さん、お客さんですから」
 苦笑を浮かべた増山の言葉に、驚くように視線を廻らした彼が照れたような笑いを見せた。それもなかなか目を惹くモノがある。
「すみません、浩二だけかと思ったもので……穂波さんですよね」
「あ、はい」
 茶色の癖のなさそうな髪が少し長めで肩の上で遊んでいるようだ。前髪は半分以上を手櫛で梳いたように上げられ整髪料で固めているようだった。程良く形の良い額が出ていて、ひどく優しげに見えるその瞳が笑っている。
 落ちかけてきた前髪を整え直す指は長く細い。
 と、彼がすうっと目を細めた。
 伏せ気味の瞳が上目遣いに穂波を見る。
 これは……。
 ごくりと唾を飲みこむ。
 なんて艶やかな……。思わず手を出したくなる艶というものがこの男にはある。
 彼は、人の気を惹く術を知っている。
 そう感じた。
「明石雅人と言います。笹木秀也の友人で、穂波さんのことは先ほど電話を受けて聞いています」
 耳に心地よい声が何故か耳をくすぐるように響く。
 まるでベッドの上で耳元で直接囁かれる睦言のように聞こえるのは何故だ?
 だが、穂波も負けて入られない。気を取り直して笑顔を浮かべる。
「こちらこそ。このたびはお世話になりました」
「いいえ。元気な緑山さんと少しだけ話ができたのですが、とても楽しかったんです。私も一目で気に入って……ですから、その看護くらいなんでもありません」
 何故だろう、その表情はひどく優しく相手に好印象を与えるとても良い笑顔を浮かべているというのに……。
 穂波はその瞳の奥に悪戯っぽい色を感じた。
 この男……見かけどおりじゃないのか?
 ほんの少しの疑いに、穂波は再度相手を窺った。
 そう言う目で見ると、何となく違和感を感じる。
 完璧なまでに見られることに慣れた動き。だが、だからこそ違和感がある。
 接待業に身をおいているのだろうか?
「雅人さん、何故灯りを?」
 まるで穂波と明石の間に割ってはいるようにそれまで黙っていた増山が動いた。
 途端に明石が、首を竦めた。
 悪戯がばれたように小さく舌を一瞬だけ出している。
「緑山さんが寝ているからね。暗い方がいいかなと思って」
 あ、しまった……。
 その明石の言葉に気を取られてここにきた肝心の理由を忘れていた。あまりに印象的で興味をそそる相手に気を取られてしまったせいだ。
 穂波は慌ててベッドサイドに近づいた。
 横を向いて寝ているのか、枕に半ば埋まるように敬吾の横顔が伺える。
 淡いオレンジの光に照らされているせいで、はっきりとは判らなかったが、あまり焼けていない肌がさらに白いような気がした。
 微かに聞こえる寝息が荒い。
「敬吾……」
 そっと額に触れると、かなり熱い。
 途端に胸が締め付けられるような感じがした。
 敬吾の苦しさが自分にまで移ってきたような、そんな苦しさに顔が歪む。
 助けたい……。
 本当にそう思った。
 緑山は、そんな周りの状態にも気付かず、深く眠り込んでいた。
 その様子をずっと窺う。
 喧嘩別れした後の出会いとしては、今ひとつだな。
 本当に、連絡一つ寄越さないまま出張に入ってしまった事への文句は、山ほどこの頭の中に詰まっている。
 だが、これでは、恋人の不義理を責めるわけにもできやしない。
 本当に……。
 いろいろ考えていたんだからな。
 だから早く元気になれよ。
 手を伸ばし、頭に触れると汗でしっとりと湿った髪の毛が指に絡まる。じんわりと手のひらに伝わる高い体温。
 熱が下がるのか?
 よく見ると、額にもじっとりと汗が浮かんでいた。
 と、こんな姿の緑山を覗き込んでいたような記憶がふっと浮かんできた。あの時もこうやって汗にまみれて……。
 そうだ……やった後の時だ。
 この前も、緑山は穂波の性欲のおもむくままに何度も突き上げられて、最後には動くことも叶わないほどに疲れ切ってベッドに四肢を投げ出していた。
 あの時もこんな風に髪を汗で濡らしていた。
 で、さすがにやりすぎたかと思ってその頭に手で触れたら、ぎろっときつい視線で睨まれたんだっけ。
 穂波はくすりとその口元に笑みをたたえると、布団を少しだけはいでやった。
「着替えさせたいな……」
 今緑山の躰を纏っている浴衣も、触れてみるとどことなく湿っぽい。
 だが、着替えなどここにはなかった。
 持ってくれば良かったのだが、そんなことまで頭が回らなかったと言うのも事実。
 買ってくるか……。
 ふとそんな事を思った穂波の耳に、増山達の会話が飛び込んできた。
「どうして、そんな髪型をしているんです?」
「えっ?いや……ちょっと……」
 かなり声を落としているが、他に物音一つしない室内のこと、どうしても聞こえてしまう。しかも、今まで気にならなかったのに、そういう会話にはどうしても意識がいってしまうのだ。
 喧嘩か?
 ついつい耳をそばだたせる。
「昼に逢ったときは前髪、上げていませんでしたよね。ここにきてからわざわざセットされたんですか?」
「……緑山さんが食べられそうなもの買いに行って、その時ついでにムース買ってきて、ね」
 増山の熱を感じない冷淡とも言える声色は、穂波ですら薄ら寒いものを感じる。
 それに完全に圧倒されている明石が口ごもっている。
 それにしても、どうもこの喧嘩、なんとなく……。
 ふと浮かんだ考えに、穂波は余計熱心に背後の様子を窺っていた。
「わざわざ?どうしてです?」
「あ、あの……ごめん……その、ちょっとからかおうかなあって……ほんと、それだけなんだ。浩司が気にするようなことはちっとも思っていなかったからさ」
 ……どう見ても甘えてるぞ、その言い方。って、何をからかったって?
「あなたがそういう髪型をしてこういう薄暗い部屋にいると、相手がどう思うか……」
「あ、だから……他意はないって……。浩司がこんなに早く来れるなんて思わなかったから、その」
「では私がいないときはいつもしているんですか?さっきみたいに?」
「や、やだなあ、浩司。一体どうしたんだよ。たまーにしてみたりするのは、浩司だって知ってるのに、何で今日に限って……」
……まるで浮気がばれた現場のようだな、これは……。
「今日はね、ちょっと不愉快なことがありまして」
「不愉快?」
「男に言い寄られまして……」
「え……」
 う……。
 背中に痛いくらいきつい視線が突き刺さっているような気がする。
 俺のせいか……。
 苦笑を浮かべて、ふっと視線を緑山に移した。
「え……」
 驚きに目を見開く。
 そこには、きつく睨み付けている緑山の目があった。
 驚きは、それでも一瞬のうちに心の隅に押し込む。
 僅かに目を見開いたその様は、緑山が起きていることに驚いた、程度だったろう。
 それを自覚しているから、穂波は緑山に向かってそっと微笑みかけた。
「ごめん、煩かったか?」
 敬吾が何を持って睨んでくるのか?
 穂波自身、それを把握できない。だが、いつから起きていたにせよ、それほどまずい場面ではなかったような気がする。
「……どうしてここに?」
 探るような瞳が穂波を捕らえて離さない。しかし、久しぶりに聞いたその声は、掠れて弱々しかった。
「篠山さんから聞いたからね、すぐに来たんだ」
「篠山さん?」
 その瞳が何かを思案するかのように動く。
 熱のある頭だと、すぐさま状況が把握できないのだろう。
「まだ熱があるんだから、寝ていなさい」
 穂波がややたしなめるように言うと、緑山は小さく首を振った。
 そして、意外に強い力を持って穂波を見据える。
「穂波さん……もしかしてちょっかい出したの穂波さん?」
 どくん
 単刀直入のその言葉にさすがの穂波の心臓も冷静ではいられない。
 だがまだ、大丈夫。敬吾の言葉はまだ疑っているという段階なのだ。
 その確信が穂波を落ち着かせる。
「ちょっかいって?」
「さっき聞こえた。増山さんが男に言い寄られたっての。増山さん、穂波さんを見ていた」
 こいつは……。
 一体いつから起きていたのだろう?
 布団を少し剥いだときにはまだ寝ていたはずだ。
「気のせいだろう?別にそんなことは……」
 だが、緑山のきつい視線は変わらない。
「穂波さん……苦笑いしてたよね。ちょうど増山さんが男に言い寄られたって言ったとき」
 う?ん、疑り深い奴……というかそういうふうに躾たのは俺か……。
 参ったな。
 まさか起きているとは思わなかったのと、背後の会話に気を取られていたので油断していたのかも知れない。
 しかし、こいつは熱があって、俺がここにいるのを把握するのには時間がかかったくせに、そういう事を疑う元気はあるわけだ。
 そういえば、最初に見た時より少しは落ち着いてるのか?
「それで……敬吾は何が言いたいんだ?」
 幾分諦めにも似たため息を吐き出して、穂波はうっすらと口元に笑みを浮かべた。
 それは緑山の持った疑惑を確信させるものであった。
「やっぱりな。増山さんって穂波さんのもろ好み。そうだと思った」
 冷たく言い放ち、ごろりと体を転がして穂波とは反対側を向く。
「おい、敬吾」
 完全に拒絶の体勢の緑山は穂波の呼びかけに返事すらしない。
 ……。
 今のは嫉妬か?
 確かに俺の好みは増山さんのようなタイプで、敬吾は少し違う。
 もしかして、それを気にしていたのか?
 拗ねたように枕に半ば顔を埋めている緑山の横顔を窺うと、顔を背けられた。
 その耳元でそっと囁いてみる。
「確かに俺の好みは彼のようなタイプだが、抱いてみたいと思うのは今は敬吾だけなんだ。敬吾さえいれば、どんなに好みのタイプが他の奴らなんかめじゃないさ」
 そう言った途端、ぎろりと先程よりきつい目で睨まれた。
「ばか……」
 弱々しいながらも吐き捨てるように罵しられ、穂波はひくりと頬を引きつらせた。だが、すぐに敬吾が怒った原因に気付いた。
 なんとなれば、穂波のすぐ後に増山達がいるではないか。
「聞こえました?」
 首を捻って問いかけると、二人揃っての苦笑が返ってくる。
 再度緑山に視線を戻すと、青白かった頬にうっすらと朱がさしている。 
 こいつ、結構羞恥心強いし……ベッドの上ではそれで結構楽しめるんだが……こういう場合は、やっぱマズイよな。
 あ?あ。怒らすと長いんだよな、こいつは……。
 熱で寝込んでいるのでなければ、無理矢理にでも抱いてなし崩し的に流してしまうこともできるが……しかし、この二人でそんなことするわけにもいかないし。
 さて……どうしたものか。
 
 穂波が今後の対処法を一心不乱に考えていた時だった。
 コンコン
「あ……秀也かも」
 ドアがノックされる音に明石が反応した。
 ぱたぱたと走る音がして、しばらくするとその音が戻ってくる。
「穂波さん、こいつが笹木秀也。緑山さんの会社の人」
「はじめまして」
 差し出された手を握り返すために立ち上がった穂波に、彼はにこりと微笑んだ。
「営業の笹木秀也です」
 穂波の手が僅かに止まった。
 ……これまた、めっちゃ美人じゃねーか……


 当たり障りのない挨拶をし、笹木が緑山に視線を向けた。
 穂波はそれに気づき、ベッドサイドを開けた。
「緑山くん、どう?」
 その気遣わしげな言葉に、緑山は手をついて上半身を起こした。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「いや、もうみんなだからね。別に緑山くんだけが特別って訳じゃないし……」
 くすりと浮かべる笑みに嫌みはなく、聞いている人を安心させるかのように優しい声音だった。
「それと、荷物ね。……あと、お見舞い」
 はい、と差し出されたそれを緑山が受け取る。
 大きめの紙袋に入れられたそれを訝しげに開いた緑山が目を見張った。
「これ?」
「体調悪いときにホテルの浴衣って着にくいだろ。だから、ね」
「あ、でも……こんなの」
 おろおろと緑山が笹木と袋の中を交互に見遣る。
 どうしようかと悩んでいるようだった。
「何です、それ?」
 敬吾に聞いても無視されそうだと、穂波が笹木に問いかけた。
「Tシャツとスウェットの上下、後適当に」
 あっ……。
 それは穂波が買いに行こうかと思っていたものと同じ物だった。
 顔良し、性格良し、電話の対応からして仕事もできる……か?
「でも、こんな……あのお金払います」
「いいよ、勝手にしたんだから。う?ん、でも気を遣ってしまうっていうんなら、後で篠山さんにでも何かを貰うからいいよ」
 何かを思いついたのか悪戯っぽくくすくすと笑う。
「篠山さんに?」
「そ、彼にね」
 どうやら含む所があるようで、緑山もそれに呆気に取られたのか、しばし呆然としていた。
「それに君の役目は、そんなことで気に病むより、はやく元気になることだよ」
「あ、はい」
 こくりと頷く緑山が、その口元に微かな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
 ようやく言った言葉に、笹木も満足げな笑みを浮かべて頷いた。
 それを見た穂波もまた、ふっと顔がほころぶ。
 ようやく見れた緑山の笑顔もさることながら、笹木の笑顔も鑑賞に値する代物だ。
 と。
「穂波さん、いやらしいこと考えてない?」
 突然の緑山の言葉に、穂波はうっと息を飲んだ。
 だが、それも一瞬で取り繕う。
「何を言うんだ、お前は」
 心外だと顔をしかめる穂波に、緑山の視線はきつい。先程の笑顔など、どこかにいってしまっている。
 だてに穂波と付き合っている訳じゃないと、その視線が言っていた。
「いやらしい事じゃなかったら、邪なこと……かな?」
「おい……」
 なんだそれは。言うに事欠いて、邪とはなんだ、邪とは……。
 ちょっと目の保養、なんて思っただけなのに、敬吾の言い分はあんまりだった。
「も、穂波さんって顔が良かったら、男でも女でも見境無しだもんね。みなさんも気をつけた方がいいですよ」
 棘を含んだ緑山の言葉に、室内の空気が一気に重くなる。
「敬吾、いい加減にしろっ!」
 荒くなる声は、穂波自身を揶揄されたからではない。
 ここにいる他の人達を不快にさせたであろう敬吾の言葉への怒りのせいだ。
 だが、緑山は明らかに冷静さを欠いていた。
 最低な体調と気分、それに穂波の態度が余計に緑山の精神を苛立たせ、不安定にさせている。それが判らないわけではないが、ついつい荒く責める口調になってしまう。
「穂波さんなんか……こなくて良かったんだ……」
 ふっと緑山の顔がくしゃりと歪んだ。
 泣きそうだ、と思った瞬間、がばっと布団の中に潜り込んでしまう。
「敬吾っ!」
 これは……まるで俺が泣かせたみたいじゃないかっ!
 というか、こんなことで泣くなっ!
 どう考えても普段の敬吾とは違う対応に、穂波もさすがに慌てていた。

柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊
柊と薊
?あざみ AI歌 4?

柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊




「……なんかあったみたいだね?」
 ため息混じりの声が背後に聞こえる。
「ちょっとね」
 同じく明石の声が被さり、そして増山がしょうがないとばかりに笹木に説明している。
「要は、穂波さんがエレベーターで一緒になった私に言い寄ったというのを、緑山さんが聞いていたわけで……」
「はあ……」
 笹木の幾分呆れたという声に、黙って聞いていた穂波も振り返る。
「まあ、ちょっとだけ……ですけどね」
 穂波の言葉に増山も頷く。
「緑山さん……確かに私に言い寄ったのは穂波さんですが、エレベータの中で会話をしただけですよ。言い寄ったというのは、少し大げさですしね……。それ以外は何もありませんでしたから……」
 増山が緑山を窺うように、そっと語りかける。
 それに緑山が少しだけ視線を寄越した。
 熱ばかりではない潤んだ瞳がその場にいる男達を捕らえる。
 明石がごくりと息を飲んだ。 
「どうして……増山さんが庇うんです?」
 その場に漂った雰囲気には気付かない緑山が増山に問いかける。
「神経を高ぶらせると治るものも治らなくなりますからね」
 私は医者ですから……。
 あくまで冷静を保っている増山のその言葉には説得力があった。
「それに穂波さんはわざわざあなたのためにここまで来てくれたんでしょう。それなのに、そういう態度はよくないですよ」
 おお、良い事を言う。
 確かにここまで来た熱意くらいは汲んで欲しい。
「……この人のことだから……どうせ仕事をさぼれるって思って来たんですよ」
「おい……」
 さすがにムッときたぞ、今の台詞は。
 穂波の眉間に深くシワが刻まれる。
「今頃、滝本さん辺りがそのフォローで走り回ってるんだ……明日デートだから今日中に何とかしようと思ってさ」
「……」
 ぽつりと漏らされた言葉に、増山と明石が絶句する。
「滝本って……どっちの?」
 判っているはずなのに思わず呟いてしまった笹木は、天を仰いでいた。
 どうして、そういう所は頭が回るんだ、こいつは!
 穂波は、こめかみの辺りがきりきりと痛むような気がして、指をあてていた。
「まあ、そういう理由もあるみたいだけど……」
 気を取り直したように言った笹木の言葉はフォローするものではなくて、穂波も何も言えない。
 どうやら、彼は滝本という言葉にいたく反応したらしい……とは判るのだが、何かどことなく冷たい口調になっているような気がする。
「それでも心配もしているのも事実だからね。まあ、彼がそういうタイプだって言うのは君の方がよく知っているようだから、何も言わないけど、それでも付き合っているんだろ?だったら、もう諦めて君が手綱を取るしかないんだ。浩二も言っている通り、落ち着いて治す方が先決だよ。でないと、君の彼はすぐ暴走しそうなタイプ
だし」
 ……。
 性格良い、というのは撤回させて貰うぞ。
 ここで怒鳴るのは大人げないとは思いつつ、それでも背に隠した拳はふるふると震えていた。
「緑山くん?」
 ふっと笹木が訝しげに首を傾けると、緑山の顔を覆っていた布団をそっと剥いだ。
「あ、あのっ……」
 狼狽え、慌てて顔を枕に埋めようとする緑山の頬は、薄暗い部屋の中でもはっきりと判るほど、朱に染まっていた。
「敬吾?」
 ひどく恥ずかしがっている緑山に先程までの怒りに包まれた所はない。
「どうしたの?」
 笹木がそっと問いかけると、緑山はおずおずと視線だけをこちらに向けた。
「お、おれ……もしかして、変な事喋った?」
「変なこと?」
 笹木の問いは、みんなからの問いだった。
「あ、あの……俺の付き合っている相手、もしかして自分でばらした?」
 その途端、その場にいた4人がぴきっと硬直した。
 このバカ……。
 思わず毒づいた穂波は忌々しげに緑山を見つめる。
「敬吾、今更何を言っている」
 あれだけあからさまに嫉妬して、何がばらした、だ!
「……緑山さん、なんか混乱しているみたいだから、もう少し寝ていないさいね。一晩ぐっすり寝たらさ、少しは気分が良くなるし、穂波さんとのことも考えられるでしょ?」
 笹木の言葉に明石達も頷く。
「俺達、もう帰るから。ほんと、ゆっくり休みなよ。後のことは熱が下がってから考えるべきことだし」
「あ、あの!」
「大丈夫、穂波さんは怒っていないよ。それに強いのは君の方だから自信を持って」
 そうして笹木が浮かべた笑みは、それは鮮やかなもので、穂波のみならず緑山まで魅了しているのが判った。

……なんでか敬吾視点に……
  
 ドアの音と穂波が挨拶する声が聞こえる。
 ぱたりと閉まる音の後、静寂が部屋の中に広がった。それは多分に緊張の色を滲ませるもので、緑山は緊張のあまりぎゅっと手を握りしめた。
 こんな状態で穂波さんと二人っきり?
 どきどきと早い鼓動は決して熱のせいではない。
 自分でも、熱が下がったことが判るくらいに意識がはっきりしている。
 気まずい……。
 すっきりとしてきた頭が、自分の言動を思い起こさせる。
 もぞもぞと布団の中に潜り込み、ほとんど俯せに近い状態で横向きになる。
 握りしめた手のひらがしっとりと汗ばんでいた。
 軽い足音がベッドサイドに近づいてくる。
 そのリズムに合わせてどきどきと高鳴る心臓。
 息苦しさすら覚えてどうにかなりそうだった。
 どうしよう……。
 穂波の言動は……ほとんど推測ではあったけれど、間違いなく増山にちょっかいを出したと思えるもの。しかもそれだけではない。
 明石に対しても、笹木に対しても……彼は、絶対心の中では傾いていたに違いないのだ。
 クリスマスからつきあい始めて、まだ僅か4ヶ月にもならない。
 だがその中で、穂波幸人という男がいかに節操がないか、自分自身が引っかけられた状態を見ても、十分想像できる。
 あの人は、いい男、好みの男を見つけると落としたくてしょうがなくなる人なのだ。
 だから、目覚めたときに漏れ聞こえた会話で、敬吾は気付いてしまったのだ。
 またか……と。
「お前……ばかか……」
 至近距離でしたその言葉に、ちらりと視線だけを寄越す。ため息が漏れ聞こえ、穂波の手が緑山の額にあてられた。
 冷たい手が気持ちいい。
 しばらくして離れたその手に思わず縋り付きたくなって、それを必死で押さえた。
 ここで甘えたら、さっきまでの事が有耶無耶になる。
 多少は下がったとはいえまだ怠い体が、緊張を強いられて余計に怠さを醸し出す。
「……穂波さんだって」
「こら、幸人だろ」
 こつんと叩かれた頭に手をやる。
「で、何が俺もだって?」
 頭のすぐ近くで聞こえるそれに首を竦める。
 怒ってはいないのだろうが、不快さはあるのだろう。どうもその声音がいつもより低い。
「浮気者……」
 それでも言葉にしてしまう。
 いつもならこんな事を言おうものなら、動けないほどにヤられてしまうのだが、さすがに今日は大丈夫かな、という打算もある。
 だが、聞こえた返答には、がばりと布団を跳ね避けた。
「そんなこと、分かり切っているだろうが」
 いけしゃあしゃあとそんなことを言われて、開いた口が塞がらない。
 発することのできない言葉の変わりに、目を細めてきつく睨むと、そこにいるのは悠然と笑みを浮かべている穂波。
「……そんなこと、自慢げに言わないでください」
 敵わない。
 それでなくても気力の萎えている今は、自信満々にそんなことを言ってのけられるこの人に敵うはずもない。
 今が好機とも言えるその時。
 だが。
 緑山は、力の抜けた視線を自分の手元に落とした。
 横たわったままの緑山の額に穂波の手のひらが再度触れる。
 びくりと怯えが体に走り、固く目を瞑った。
「熱、下がっているようだな。ようやく薬が効いたのか?」
 額から離される手。がさがさと紙の音がして、緑山はそちらに視線を向けた。
 骨太の手が薬の袋を持っている。逆光でその表情は窺えなかった。
「解熱剤も使ったとか言っていたな」
 その薬袋がぱさりと軽い音を立ててサイドテーブル上に戻された。
「さて……」
 近くにあった椅子を引っ張った穂波がそれに座り込むと緑山を覗き込んだ。
 その顔に浮かぶ笑みに、緑山はふいっと視線を背ける。
 こっちの方が怒って良いはずなのに、何故その怒りは萎えてしまう。
 浮気って……何があっても正当化できるものじゃないはずだよな。
 などと思っては見るのだが、何故かこの穂波幸人という男を前にするとそれが主張できなくなる。
「敬吾……熱に浮かされていたとはいえ、ずいぶんな言いぐさだったな」
 揶揄の含んだその声にびくりと体を震わしてしまうのは、この人が穂波幸人だからだ。
 こうして敬吾を責めるとき、お仕置きだと嗤いながら言うその時に、敬吾に課せられる運命はいつだって変わりはない。
 穂波とつきあうことは、決して甘いだけですまされないところがある。
 何せ……精力絶倫……なのだから……。
 怠い体に緊張が走る。
 どきどきと高鳴る心臓が吐き出す血流が、指の先まで脈打つほどに強く感じる。
 いや……そんな、まさか……。
 熱のある緑山にそこまでは要求はしてこない、と思うが……それでも……と疑ってしまう。
 窺うような視線に気付いたのか、穂波がくすりと笑みを口元に浮かべた。
「こら、何とか言ったらどうなんだ?」
 その声音は低いけれど優しい。
 なのに……ぞくりと走る背筋の悪寒。
「怖いのか……」
 その指が頬に触れた途端、びくりと一際大きく体が震えた。
 くつくつとこぼれる笑いを止めようとしない穂波を、緑山は恨めしげに睨んだ。
 何でこんなに恐れるのか?
 幾らなんでも……今は……。
 とは思うのだが……。
 腹の底から大きく息を吐き出し、意識的に気分を落ち着かせる。
 どこか気怠い体がそれを邪魔するのを、無理矢理無視した。
「で、お前は嫉妬に狂って自分から俺が相手だとばらした訳だが……どうだ、その気分は」
 最悪……。
 思い出したくもないことをわざわざ思い出させるこの無神経さ。いや、判ってやるからタチが悪い。
 苛つく心がざわざわと不快な感情をその瞳に込める。
 さすがにそれにはマズイと思ったのか、首を竦めてみせる。
 あの時は。
 周りが見えなかった。
 その原因を作ったのは、この目の前にいる男。
 何の因果か、自分が恋人と呼べる男。
 ああ、腹が立つ。
 せっかく収まっていた怒りを思い起こさせた穂波に、緑山はきつい視線を送った。
 いつだっていい男を見ると見境なく口説き落としにかかる穂波を知っているから、自分が熱を出して苦しんでいるのにまたそんなことをしたのかと思うと……悔しかった。
 来てくれたのは驚いたけど……それ以上に……悔しくて……情けなくて……。
 気がついたら、言っていた。
「帰れば良いんだ」
「おい」
「こんな所まで来て浮気する幸人さんなんか嫌いだ」
 握りしめる手がふるふると震える。
 食いしばった口元が僅かに震え、紡ぎ出す言葉か出てこない。
「幸人さんが……悪いから……あんなことになったんだっ!」
 がばっと手を突っ張って上半身を跳ね上げた。
 が、くらりと視界が暗くなる。
「あ……」
 ふわっと手の力が抜けて体が崩れ落ちた。それをすんでの所で穂波の腕が支えた。
 すうっと戻る視界に虚ろな頭をはっきりさせたくて首を振る。
「ばか。下がったとはいえ熱はまだあるんだ。無理するな」
「誰のせいだよ」
 吐き出した言葉がやけに弱々しいことに気づき、口を噤む。
 ほんとうに……誰のせいだと……。
 目の奥が熱かった。

 そっとベッドに下ろされついでに上向かされる。
 視線の先に穂波がいた。
 目を閉じればその拍子に涙があふれ出そうな気配に、緑山は薄目を開けて中空を見据えていた。
 その視界の中に穂波の顔が入ってくる。
 合わせないように顔を逸らす緑山の頬にその両手が添えられて固定された。
 動かせないから目だけを動かす。
「敬吾……。まあ今回は俺もマズイとは思ったんだがな……何せ、ああもいい男達は、あっちでは拝めないからさ。ついな……」
 ……。
 思わず動かした視線が絡む。
 苦笑を浮かべる穂波の顔に反省の色は伺えない。
「じゃあ、俺は何なのさ?」
 いい男にふらっとなるくらいなら、来て欲しくなんかなかった。
「敬吾は俺の恋人さ」
 さらりと言われても、信じられるものではない。
「浮気者……」
 たぶん何度繰り返してもこの男には効かない言葉。
 それでも言ってしまう。
「それでも敬吾がいつだって一番なんだ」
 頬に触れた手が、つつっと下りる。
 首筋をなぞられ、浴衣の襟にかかった指がそこを広げた。
「敬吾……どんなに好みの男がいたとしても……それでもお前が一番だ」
 吐息が肌をくすぐるまもなく、柔らかな触感が鎖骨の付け根にあった。
「……んっ……」
 とたんにそこを起点に広がる疼きに、四肢がこわばる。
 閉じることのできなかったまぶたがきつく合わせられ、ぽとりと涙が溢れ落ちた。
「お前は……俺のものだ……お前でなければこんな所にまではこなかった……」
 普段よりはるかに低い声音が肌の上から直接響く。
 穂波の両手がいつの間にか緑山の両の手首を掴んで肩のところでベッドに押しつけていた。
 きつく吸い上げられ、白い肌が花びらの形で朱色に染まる。
「信じろよ」
 信じろ……。
 信じたい……。
 誰よりも……穂波自身よりもその言葉を信じたいのは緑山自身。
 判ってはいた。
 きっと、最初っから「もうしない」なんて謝られても、緑山は信じることなどとうていできなかっただろう。
 穂波が浮気しないという言葉を信じることは……ひどく難しい。
 だが……それでも一つだけ信じられることはある。
 それを確かめたい。
 穂波の口から直接、確かめたいと願う。
「本当に……俺が…一番?」
 今だけでも……俺が一番であるのなら、俺はそれを失わない努力をするだろう。
 緑山は、もう穂波を失うことは考えたくないのだ。
 浮気をしても帰ってきてくれるなら……。
 それなら、ずっと一番で居続ける。
 そんな緑山の決意に気づいているのかいないのか、穂波は啄むようにキスを施し、そして時折きつく吸いついた。
 抱き続けて緑山の感じる場所を知り尽くした穂波が与えるキスは、緑山をあっという間に快楽の海に引きずり込む。
 熱があって、その反応はどうしても鈍いものではあったが、それをものともしない穂波の愛撫。
「一番は変わりようがないんだ。俺にとって、何よりも大切な一番は、常に一人だ。そして、それが敬吾なんだ……お前が倒れたと聞いたら、もういても立ってもいられなかった。今までこんな気分になったことなどなかった。敬吾だから……俺は来た」
 酔いしれるような台詞に煽られ、全身が一気に紅潮した。
 朱に染まった肌に舌が這う。
 這う舌が与えるぞくりとした疼きに、緑山は何度も首を振った。
 穂波の頭を避けさせようと手を動かすが、それは数センチも浮かばないうちに、再びシーツに縫い止められる。
「あ……っ!」
 どくんと下肢の付け根が反応する。
「敬吾……信じてくれ……」
 せり上がるようにあがってきた穂波の口が甘く囁く。
 触れるだけの口づけに、うっすらと目を開けて緑山は穂波を窺った。
 真剣な瞳を……信じられるものだと……思うから。
「……判った……」
 同時に吐き出される熱の籠もった息は、穂波の口内に消えていった。

 じっとりと汗ばんだ体が、波打つように震える。
 穂波の手がすっぽりと熱いそこを握りしめると、幾度も緑山の体は若鮎のように跳ねた。
「ここにある……太い血管を冷やすと熱が下がりやすいんだ。頭を冷やすよりも効果的だぞ」
 優しげなその言葉のわりに、触れる手は焦らすようにその付け根あたりをまさぐる。
「こんなこと…してたら……余計に…上がってしまう……」
 もう逆らう気力もなくて、与えられる快楽を享受するしかない。
 だが、やはり熱で本調子でないのか、いつもなら達ってしまっている時になっても、限界にまで辿り着けていなかった。
 それが余計に苦しい。
 はあはあと大きく肩で息をする緑山に、さすがに穂波もマズイと思ったのか、その手を止めた。
「今日はやはり無理だろう……」
 優しいキスが額に触れる。
 だが……ここで止められては熱の籠もったこの体がどうにかなってしまいそうだ……。
 のろのろとのばした手が穂波のシャツを掴んだ。
「駄目……」
 虚ろで潤んでしまった視線を穂波によこす。
 欲情に満ちたその視線に、それでなくても緑山の瞳に弱い穂波が敵うはずもなかった。
「ばか……」
 苦笑混じりにキスを落とされ、そして再び愛撫が始まった。
「……」
 穂波には見えないところで、緑山の口元が笑みを形作る。
「…ふあっ……はあっ……」
 与えられる快感に流されながらも、ぺろりと悪戯っぽく笑っている。
 ……瞳か……。
「ひやっ!」
 さすがに本気になった穂波に追い上げられ、それ以上の思考はストップする。
 仰け反り、四肢を硬直させる緑山が、弱々しくも放出すると穂波が体を起こした。
「苦しかったろ……すまないな」
 いつもと違う元気のなさに、穂波とてよい状態ではないと踏んだのだろう。
 緑山だけをイカせるとそれで満足したのか、緑山の浴衣を整えて、そして見つめる。
 その表情がどこか痛ましげで穂波らしくない。
「幸人…さん……変……」
 くすりとこぼす笑いが混じった台詞に、穂波は苦笑を返した。
「ま、俺も病人相手に最後までいくような鬼畜じゃないからな」
 大きな手がとんとんと緑山の頭を叩く。
「さあ、ほどよく疲れたろ。明日のことは明日決めればいい。だから寝ろ」
 とんとんとリズムが体に刻み込まれる。
 確かに……疲れた。
 体の怠さと、叩かれるリズムの心地よさに、急に眠気がわき起こってきた。
「幸人さん……」
 最後の力を振り絞るように、声をかける。
「何だ?」
「好きです。だから……俺をずっと一番にしてて……」
 一瞬、穂波の手が止まった。
 だが、すぐさま再開される。
「ば?か。何度言ったら判るんだ。俺、穂波幸人の一番は緑山敬吾、お前だよ」
 それは何よりもうれしくて心地よく緑山をリラックスさせてくれた。
 本当に何よりも優れた睡眠導入剤だった。

 ふと気がつくと、明るい日差しに部屋の中の物がくっきりと浮かび上がっていた。
 カーテン越しでも強い光が差している。
 ここはどこだろう……。
 しばらくぼんやりとそれを見つめ続け、はたと気がついた。
「あ……」
 思わず身動ぎ、周りに視線を巡らす。
 どこか生活感のない部屋に、この場所がホテルだと思い出す。
 ああ、そうだ。
 一気に頭が覚醒して、今の状況を思い出した。
 インフルエンザで熱を出して、皆に手伝ってもらってここまできて……そして……穂波さんが……。
 そうだ……結局一回イカされて……そのまま寝てしまった筈。
 ふと自分の体に視線を移すと、浴衣を着て寝ていたはずなのに見慣れぬ服を着ていた。
 ……確か笹木さんが……。
 昨夜遅くにやってきた笹木が持ってきた着替え。
 だが、いつの間に?
「目が覚めたか?」
 その声にはっと振り返ると、ベッド脇のイスに穂波が座っていた。
 その目が赤い。
 どこか疲れた表情の穂波がそれでも緑山と目が合うと、微笑みを浮かべた。
「あの……」
 寝ていないのか?
 問いかけようとする前に、穂波の手が伸びて緑山の額に触れる。
 ひんやりとした手はひどく優しげで、逆らう気は全く起きなかった。
「下がったようだな。あの増山っていう医者が診断が早くて薬を飲むのも早かったから、治るのも早いはずだと言っていた。良かったな、病院で気がついて」
 こんな優しい穂波の声は聞いたことがない。
 そう思えるほど、静かに胸の中に響いてくる。
 そうだ……この人は本来は優しいのだから……。
「服を……?」
 窺うように問いかけると、穂波が微かに首を傾げた。
「あ、ああ。俺が着替えさせた。汗をひどくかいていたからな」
 では、寝てしまった後に?
 着替えされられたことも知らない程熟睡していた自分を、着替えさせるのはたいへんだったろうに……。
「あ、りがとう……」
 今なら素直に言える。
「なんだ、改まって」
 微笑みが苦笑に変わり、その端正な顔をよけいに際だたせる。
「だって……きてくれた」
 その礼を言っていなかった。
「礼なら昨日貰ったぞ」
 きょとんと首を傾げる緑山に穂波が耳打ちする。
 ……お前のイイ顔を堪能させて貰ったから……。
 途端に昨夜の醜態を思い出す。
 熱があるというのに、快楽に溺れてしまった事への羞恥が今更ながらにわき起こり、かあっと頬を赤く染める。
 あれが礼だというのか?
 くつくつと笑いを零す穂波を睨み付けるが、ふっと緑山はその口元を綻ばせた。
 この人だから……。
 しょうがない……。
「言葉にはしていなかったから……だから、ありがとう」
「これはまた、どういう風の吹き回しだ?」
 腕を組み、首をかしげる穂波のわざとらしさときたら。
 だが、どこかすっきりと落ち着いた気分が緑山をくすくすと笑わせた。
「よその人にちょっかい出さずに来てくれていたら、きっと、もっと早く礼を言っていたんだけどね」
「……まだ言うか」
 立ち上がった穂波がぐっと両肩に体重を乗せて、緑山をベッドに縫いつけた。
 痛みに顔をしかめながら、ため息を漏らす。
 あくまで自分の非を認めない穂波。
 この傍若無人なこの人が、実はほんとに好きになっているんだから……そんな自分が信じられない。
 だけど……。
 この人は自分が一番だと……言ってくれたのだ。
 確かに、昨日は本当にショックだった。
 来てくれたのは嬉しかったけど、なのに、増山達にちょっかいを出したことは……。
 この人をつなぎ止めておくのはどうしたらいいんだろう。
 今更この穂波幸人という、この男の節操無しの性格が変わるとは思えない。
 だいたい、この人が自分に興味を持ったのだって、その節操無しの性格からだからと言うことは気付いている。
 しかも、自分の外見が実は穂波の好みから少し外れているのだから。
 昨日あった人たちは、穂波の好みに合っていたのだ。
 あんな風になれたなら、ずっとこの人は自分だけを見てくれるのか?
 いつだって自分だけを見ていてくれるようになるのだろうか?
「何を考えている?」
 徐々に降りてきた顔が言葉を紡ぐ。
 それに笑って応える。
「幸人さんのことだよ」
 嘘ではない。
 その言葉に幾分目を丸くした穂波がくすりと吐息で笑うと、そっと緑山に口づけた。
 触れただけで離れた口が笑みのままに言葉を紡ぐ。
「やっと、敬吾らしくなったな」
 安堵の色が込められたその言葉に、緑山はそっと手を伸ばして穂波の首に絡めた。
「幸人さんは、相変わらずだっだけれどね」
 ほんとに……相変わらずの惚れっぽさ。
 なんとかしたい。
 自分が一番である内に。
「これが俺だ。諦めろ」
 その言葉に僅かに眉をひそめる。
 諦められると思うのか、この人は。
 もともと嫌がっていた俺を無理矢理その手に絡め取ったくせに。
 ため息が漏れる口を捕らえられる。
 乾いた唇をぺろりと舐められ、まだ緑山はどこか気怠げな瞳で穂波を見据えた。
 見つめる先で穂波の瞳がゆらりと揺らぐ。
 ……幸人さんが自分を欲している。
 それに気付くと、どきんと心臓が高鳴った。
 穂波の手が上がり、そっと緑山の頬に触れる。
 くすぐったいような僅かな触れ方は、次の行動の前触れ。
 だから、それを制するように言葉を放つ。
「喉、乾いた……」
 びくりと動きが止まり、穂波の口元に僅かに苦笑が浮かんだ。
「待ってろ」
 ついっと離れた穂波が冷蔵庫から持ってきたのはミネラルウォーターで、それを見た緑山が体を起こそうとするのを、制止する。
「?」
 訝しげに眉をひそめる緑山を見遣った穂波が、くすりと嗤うとキャップを開けたペットボトルに口をつけた。
 見開かれた緑山の目の先で、一口含むとその口がそっと緑山に合わせられる。
「う……」
 その意図を察知して、目を細める敬吾の口内と外に水が流れ込んだ。
 頬に伝う水を、穂波の手が拭い取る。
 ごくりと……緑山の喉が動いた。
「お前の目……見ているとこういうことをしたくなるんだよ……」
 その声に含まれる熱を感じ取って、緑山の体がふわりと熱を持ってくる。
 冷たい水が入ったはずなのに、はあッと吐き出す息が熱い。
 いつも言われるその言葉。だが、緑山自身にはそういう自覚はない。
 いや、周りの人達の対応からそうかもしれないとは思っているのだが……信じられないのも事実。
 だが昨夜といい、今といい……穂波の行動を見ている内に、それがそうなのだと確信に至る。
 穂波は、間違うことなく緑山の瞳に欲情している。
「なんでだろう……」
 ぽつりと呟くその台詞に穂波が苦笑を浮かべて返した。
「自覚して欲しいぞ、いい加減に」
 自覚か……。
 もし、自覚したとしら……そうしたらいつだって穂波さんを……幸人さんを捕らえることができるのだろうか?
 自覚して……明石さんのように自分の見せ方を知っていたら……。
「どうした?」
 内に籠もってしまった緑山の頬を穂波がぺちぺち叩く。
「……痛いっ」
「何を企んでいるんだ?」
 ニヤリと嗤うその視線から目をそらす。
 本当にこの人は聡い。
 ため息混じりの吐息を吐き出し、再度まっすぐ視線を向ける。
「どうしたら、幸人さんを懲らしめることができるのか?」
「……お前は」
 穂波が眉間にシワを寄せて、大きく息を吐き出した。
「もう少し色っぽい台詞が吐けないのか、この口は」
 指が緑山の唇をつつっと伝う。
 先程より湿った唇に微かに触れるその感触に、ぞくりと体が反応した。
「幸人さん……俺、シャワー浴びたいんだけど……っ」
 伝う指から逃れるように身を捩らせる。
 逸らした視線の先で、その手が独自の生き物のように首筋を這い胸に降りてきた。
「俺が入れてやる」
 その声に含まれる欲望に、気付かない訳がない。
「俺……病み上がりで本調子じゃないんだけど……」
 言ってはみるものの、聞く耳を持たない穂波のこと。
 いきなり抱き上げられ、その不安定さに慌てて穂波の首に縋り付く。
「軽いな……どうしてあれだけ食べて肉にならないのか不思議だ」
 呆れたふうにいわれても、返答のしようがない。

 連れて行かれた浴室は、最低限の機能しかもたない狭いところ。
 湯のはっていないバスタブに緑山を降ろした穂波は、さっさと緑山の服を全て取り去った。
 今更逆らう気力もないし、その必要もない。
 嫌だと言っても穂波はその手を止めないだろう。
 全裸の緑山が所在なげに座っているバスタブに、穂波は湯を入れ始めた。数度温度を確認して、ちょうどいいと思ったのだろう。蛇口を全開にする。
 勢いよく流れ出す湯が跳ね返り、緑山はじりっとその反対側へと身を寄せた。
 浴室の中はほどよい室温で、全裸でいても寒くはない。
「大丈夫か?」
 それにこくりと頷くと、穂波が自分の着ていた服も一気に脱ぎ去った。
 仕事中のままのスーツはどこかくたびれた様子で脱衣所に放り出される。
「幸人さん……元気……」
 その中心でそびえているその元気なモノから視線を逸らし、思わずため息を漏らしてしまう。
「当たり前だ……昨夜からずっと我慢しているんだぞ」
 がばりと背後から羽交い締めにされ、腰にその硬いモノがぐりぐりと押し付けられる。
「あ、洗ってくれるんでしょうがっ!」
 決してするためにここに入ったわけではないだろうと、穂波をたしなめてみるが、何のことだと言わんばかりに、緑山の首筋に噛みつくようなキスを落としてくる。
 はあぁ……。
 力無く穂波に体重を預ける緑山の脳裏が諦めに染まる。
 想像はできたこと……。
 今しなくても、後で必ず求められるのはわかっていた。
 だったら……もう、されるがままになっておこう。
 まだ本調子でない体はどこか怠い。
 大人しくしていれば、穂波も優しくしてくれる。
 それに……。
「……あ…んっ……」
 背筋のくぼみに舌を這わされ、胸の突起をつまみ上げられれば、逆らう気力など湧きようもなかった。

 ぴちゃ……
 身動ぐ緑山の動きに合わせて、水面が揺れてできた波がバスタブの壁で音を立てる。
「ん……はあ……」
 泡立てられたボディシャンプーのぬめりを借りて、穂波の手が肌の上を自在に動く。
 崩れ落ちそうな上半身を支えるために必死でバスタブの縁に縋り付こうとするが、つるりと滑って掴めない。
 ばしゃっ
 湯の中に手をついて、跳ね返るしぶきを頭から浴びる。
 顔に突いた水滴は汗と混じって、滴り落ちていた。
「ん……んんっ……!」
 いつもよりスムーズに入り込んだ指が、体内でバラバラに動く。
 時折ぐいっと内壁を押さえされるたびに上半身が大きく仰け反った。その曝された喉に穂波の手がかかり、ぐっと引き寄せる。
「敬吾……おいで……」
 耳元でする掠れた声に、閉じていた瞼をうっすらと開けた。
 涙で潤んだ瞳がゆらゆらと動き、背後の穂波に向ける。
 どこに……。
 微かに開いた口が言葉を発する前に、腰を掴まれぐいっと引き寄せられた。
「んっああっ!」
 思わず上げた嬌声が浴室内に響いて別の声のように緑山の耳に戻ってくる。
 それに恥ずかしいと思ったのは一瞬で、ぐぐっと押し入る感触に意識がそちらに向いてしまう。
 きつい……。
 ぬめりによって入ってくるそれは、体の中を広げながら押し入ってくる。
 広げられる痛みはどうしても相容れないもの。
 だが、その先にある快感を体が求めているから、必死でその痛みに堪える。
「ふっ……はあっ……はっ……」
 意識的に呼吸をして、痛みを逃す。
「敬吾……」
 切なげな声音が耳朶を打つ。
 それにぞくりと震えが走った。
 ぞわぞわと総毛立つような疼きに敬吾は自らの腕を強く掴む。
「ふわっ」
 ぐいっと残った部分が一気に押し込まれた。
 胸の中の空気が一気に押し出される。
「熱い……いいよ、敬吾……」
 背後から抱きしめられ、ようやくこわばっていた体から力が抜けた。
 張りつめんばかりに押し入られたそこはぎちぎちで身動きすることもままならない。それでも、少しずつ体に馴染んでくる。
 敬吾はただそれを待っていた。
 満たされた体の奥が次の快感を求めるようになるのを……。
「あ…ん……」
 穂波の手が敬吾の体をまさぐるように動く。
 敏感な脇腹をなぞられて思わず声が出た。
 その艶めかしさにはっと気づき、思わず口を噤む。
 すでに熱くなっていた顔がさらにかあっと熱を持つ。
「聞かせろよ、声……」
 耳朶を噛まれ、甘く囁かれれば、理性など飛んでいってしまう。
 穂波の手が敬吾のモノをしっかりと包み込み、指を一本ずつ動かしていく。その扱くような刺激に、柔らかくなっていたそれがむくむくと元気になってきた。
「んっ……ふっ……あぁ……」
 閉じていた口が開かれる。
 同時に、穂波の腰が動き始め、それが徐々に激しくなる。
「うあっ!……やあっ……」
 内壁に絡みつくように抜かれ、ぐっと押し入れられる。
 ずくんと突き上げられたそこから身震いするほどの快感が押し寄せてくる。
「ふあっ……そこっ……イイっ!」
 口元から唾液があふれ出し、顎を伝っていった。
 抱えられていなければ、倒れてしまいそうなほど体が言うことをきかない。
 がくがくと揺れる体は、穂波の抽挿に操られるままだ。
「あ、ああ……やあっ……ふあぁ……」
「敬吾……いい顔だ」
 熱の籠もった声が聞こえる。
 穂波が自分に欲情している。
 それが余計に緑山を煽っていた。煽られた体がよりいっそう快楽に敏感になる。
 もっとして欲しい……。
 もっと……欲しい……。
 もうそれだけしか考えられない。
 ぼおっとしていた頭がぱああっと白く膨張する。
 ぐんっと、大きく突き上げられた。
「はあっ!!」
 一声大きく叫ぶと、緑山は一気に弾けた。 
 

 気がつくと、ベッドの柔らかな寝具の上にいた。
 開いた目の先に穂波の頭がある。
 胸のあたりからぞわぞわとした刺激が痛いくらいに伝わってくる。
「あ、……あ…ゆ、きと……さ…」
 力の入らない手を何とか動かして、胸の上で動く穂波の髪を掴むと、その頭が動いた。
「気づいたのか?」
 揶揄の含んだ嗤いに、緑山は顔をしかめた。
「そんなに良かったのか?一発で意識を失うとは……」
 とたんに走る下肢からの刺激にぴくっと下肢を突っ張らせる。
 やわやわと揉みほぐされては抗議の言葉を発することもできずに、歯を食いしばって堪えるしかない。
 穂波の言うとおりなら、一度吐き出して気を失ってしまったらしい。
 いつの間にか、運ばれたベッドで穂波の第二弾が始まったのは簡単に想像できた。
 解放されたばかりの体がさらなる愛撫で、一気に高ぶっていく。
「も……もたない……」
「ここがか?」
 ぎゅっと握りしめられたそこからの刺激と嗤いの含んだ声に、緑山は首を振った。
「……怠い……んだ……」
 病み上がりと風呂でしたことへの影響が、緑山の体を責めさいなんでいた。
 それなのに、性欲に忠実なそこはいきり立っている。
「ふむ……そうか……」
 ふっと穂波の手が止まる。
 覗き込むように緑山の顔を見ていた穂波が、はたと気づいたように小さく頷いた。
「そういえば、まだ食べてもいないしな。大食漢のお前は空腹になると元気がなくなるし……」
 ……違う……。
 否定したいが、もうどうでもいい、という気分にもなっている。
 まあ、確かに空腹感もある。
「じゃ、さっさと終わらそうか」
 あくまで一回は終わらせないと気が済まないらしい穂波に緑山は苦笑を浮かべる。
「……さっさとお願いします、ね……」
 組み伏せられたままぽつりと呟くと、ぎゅっと握りしめられて痛みに顔をしかめる。
「色気がないぞ。もうちょっと誘うような艶のある言葉を言えよ」
 とんでもない言葉には眉根を寄せるしかない。
「艶……ったって……」
 はあはあと喘ぐように言葉にする。
 ぎゅぎゅっと躍動を持って握られて、ずくずくと脳髄にまで刺激が走ってくる。
「ほら……いってみろよ」
 悪戯っぽいその顔に、緑山は仕方なく口を開いた。
 もたない……。
 その言葉に違いはない。
 だから、逆らえない。
「お、願い……き、て……欲しい……」
 息も絶え絶えにお願いする。
 穂波の背に回した腕に力を込める。
「欲しい……んだ……来て……」
 縋り付くように穂波の顔にすり寄る。
「判った……ここまで誘われては俺も応えなければならないな」
「……もう……」
 はああっと吐き出した息は、ぐんと突き上げられ「ひっ」と小さな叫びをあげて止まってしまう。
 いきなり押し込まれたそれは、スムーズには入ったけれど、相変わらずきついくらいに太い。
「締め付けるなよ、そんなに」
 そうは言われても体が言うことをきかない。
「あっ……そ…んな……」
 ぐっぐっと突き上げられ、言葉はもう意味をなさなかった。
「ああ、やあ……はあ…………ああっ!」
 欲しい……。
 もっとっ!
 本能だけの固まりのようになって、ただ快楽を求めて穂波に縋り付く。
 熱い体が汗を介してまとわりつく。
 二人の匂いが部屋に充満し、それが余計に緑山を酔わせる。
「あ、ああ……もう……」
「イイか?」
「あ、イイ、もっと……そこっ!」
 誘われるがままに言葉にする。
 限界が近づいていた。
 出したい。
 もっと、もっと……。
「もう……イかせてっ!幸人っ、イかせてっ!!」
 とたんに、扱かれるスピードが速くなった。
 揉みくちゃにされるような刺激が、限界を超えさせる。
「うっ」
 穂波の堪えるようなうめき声とともに、体内で穂波が弾けた。
 ほぼ同時に、緑山も欲望の固まりを吐き出していた。


 ひどく怠い……。
 ぴくりと動かした指先ですら、もう二度と動かしたくないと思うほどだ。
「敬吾、大丈夫か?」
 するっと髪に穂波の指が通っていく。
「大丈夫じゃない……」
 口を開くのもおっくうだ。
 この異様な怠さには覚えがある。
 決してセックスの後だからではない。
 もちろんその行為との相乗効果で余計に激しく怠さが増しているのだが……。
「敬吾……?」
 呼びかけられるのと同時にした腹の鳴く音が穂波に理由を訴える。
 恥ずかしさに頬を赤らめる緑山に、くつくつと笑い声が降ってくる。
「まあ、元気になった証拠か?」
 堪えきれない嗤いを隠そうともしない穂波に、緑山はため息をつくしかない。
「判った。何か買ってきてやる。どうせ、動けないんだろ?」
「誰のせいです?」
 少なくとも、一回で終わらせてくれればもう少し動けるような気がする。
「まあ、いいじゃないか?久しぶりに乱れた敬吾も堪能できたし、俺は嬉しいぞ」
 にこやかな穂波と対照的に、顔をしかめる緑山。
 もう……好きにしてくれ……。
 諦めの混じった吐息が漏れる。
「あ、ああそれと、飛行機の四便で帰るように手配した。この部屋もぎりぎりまでいさせてもらえるようにしている。今はゆっくり休んでおけ」
 ぽんと頭を叩かれ、それにつられて顔を上げる。
「四便……というとここを3時前に出ればいいんですよね」
 ちらりと時計を見ると、10時を過ぎたばかり。
 それだけあれば、何とか回復できるかもしれない。少なくとも動けるようになるまでは……。
「そうだ……。じゃあ、行ってくる」
 軽く手をあげて部屋を出て行く穂波を見送る。
 かちゃりとドアが閉まる音がしたとたん、じんわりと胸の中に熱いものがこみ上げてきた。
 目の奥までが熱くなる。
 これは……なんだ?
 胸を押さえる手にどきどきと心臓の音が響く。
 目尻から溢れた涙が、ぽろりと眉間を伝ってシーツにシミを作った。
「幸人、さん……」
 ひどく恋しい。
 ようやく堪えきれないほどの嬉しさがこみ上げてきた。
 来てくれたことへの嬉しさ。
 だから、姿が見えなくなったとたん、こんなにも恋しくなったのだ。
 嬉しくて切なくて……それでもこんなにも幸せ、だと……。
 あんなやっかいな人なのに……。
 伸ばした手が、今ここにいない穂波の姿を探ろうとする。
「幸人さん……」
 はやく帰ってきて欲しい。
 あの傍若無人の性欲魔神……彼をこんなにも恋しいと思ったのは初めてだった。

「どうした?」
 大きな袋いっぱいに詰め込まれたものを持って帰ってきた穂波が、緑山の顔を見たとたん不審そうに問いかけてきた。
「…なんでもない」
 帰ってきたとたんにひどく嬉しいと思えたことを見透かされたのだ気づいて羞恥に煽られる。
「なんでもないっていう面か?」
 どさりと重々しい音が響くと、穂波が大股でベッドによってきた。
 ぐっと腰掛けた重みでベッドマットがしなる。
「違う……」
 そっぽを向いてもその顔を追いかけられて覗き込まれてしまい、ますます恥ずかしさにかられてしまった。
「ふ?ん」
 何か含むような声音が気になった緑山だったが、穂波の真意を問いかけるとやぶ蛇になりそうで、それすらもできない。
「何を買ってきたんです?」
 気になってはいたものの問いかけそびれていた質問を、これ幸いと口に出す。
 このまま黙ってしまうのは、まずいような気がしたのだ。
「食料だが?」
 何を今頃、といった感じで穂波は一言発すると、どさどさと袋の中身をテーブルの上にひっくり返した。
 音を立てて、山積みになったおにぎりやらサンドイッチ、パン、飲み物……弁当。
 あまりの量の多さに呆然とそれを見つめる。
「……こんなに?」
 思わず呟くと、不思議そうに返された。
「お前、いつもこのくらいは食べているだろう?」
「……それはまあ……でもそれでも多いような……」
 ここまで、とは言わないが、確かに結構食べる。
 だが、この量は半端ではない。
 しかも元気な時でも多いくらいのこの量を、病み上がりの今、それだけ食べろと言うのか?
 じっとその山を見つめていると、穂波もさすがに多かったかと苦笑を浮かべる。
「まあ……朝食だから……昼もそれ食べるか?」
「そうですね」
 まあ買ってきた物は仕方がない。
 緑山は手近にあったおにぎりを手に取った。
「弁当は?」
 差し出すのは、トンカツ弁当。
 さすがにそこまで脂ぎったものを食べる気力はまだなかった。
「それ、幸人さんどうぞ」
 にっこりと押し返すと、苦笑混じりに肩をすくめた穂波がそれをテーブルに戻した。
 穂波とて、朝っぱらから……という感じだろう。
 無言のうちに昼食用に回されたそれは追いやられて、手近なサンドイッチを手に取っていた。

 食べ始めてしまえば、結構食べられるものだ。
 体がそれだけエネルギーを欲していたのかしれない。
「よく食べるな?」
 何度聞いたか判らない賛辞を、今日もまた聞いてしまう。
 気がついたら、優に5つのおにぎりの包みが転がっていた。
「なんか……欲しくって……」
「ほんとにどうして太らないのかな。それだけ食って。俺なんか、お前に誘われるように食ってしまって、つきあいだしてから太ってしまったんだぞ」
 確かに、ベルトの余裕が減ってしまったことを気にしていることを知っている。
「それでも幸人さんの方が見た目も格好いいです。俺なんか、ひょろっとしているだけですからね」
 力も体格も、完全に負けれていると思う。
 年の差なんか感じさせない若さがこの人にはある。
「ま、ここ数ヶ月で筋肉はついてきたから、体格的にはもやしみたいなイメージは減ったよな。抱き心地も結構いいし」
 とたんに、顔が熱くなる。
 目を細めて穂波を見遣ると、揶揄するように口の端が上がっていた。
「さて……敬吾は、まだ食べるのか?」
 完全に手が止まった穂波と違い、敬吾の手にはまだサラダのケースが乗っている。
「あ、これで最後に。食べ過ぎると胃に来そう……」
 何気なく言った言葉は、思いっきり笑われた。
「それだけ食べて大丈夫なら、大丈夫だろ!」
 突っ伏すように肩をふるわしている穂波に、敬吾はため息を漏らす。
 まあ、確かにそうなんだけど……。
 そんなに笑わなくったっていいじゃないか……。
 頬を朱に染めて俯く緑山を前にして、穂波はまだ笑っていた。


「すまん……」
 ようやく笑いを抑えることに成功した穂波に、緑山は冷たい視線を向ける。
 そこまで笑わなくても。
 苦しそうに腹をなでている穂波に、同情する気分にもなれない。
 むっしたままの緑山に、穂波は苦笑を浮かべると緑山の横に移動した。
 すっと手を伸ばして、その肩を抱く。
 びくりと震え、驚いて顔を向けた緑山の唇を奪い取った。
 慌てたのは緑山の方。
 まさか……という思いで呼びかける。
「ゆ…きと…さんっ」
 抗議の声をふさぐように再度口づけられた。
 あらがう手は、体と一緒に抱き込まれてしまう。
 何より、エネルギー補給を完了して満足した体が、ずくずくと明け方の情事の余韻を呼び覚ましてくれた。
「…んんっ……」
 それでも、今日は帰らなければ……という思いで必死で押しのける。
 はあ……
 ようやく離れた唇の間から漏れた吐息が、ひどく熱くなっていた。
「…かえれなく……なる……」
 今だって、だるい体にこれ以上ダメージを与えるわけにはいかない。
 この人が欲するだけ抱かれては、いつも動けなくなってしまうのだ。
 朝の二回程度では、穂波が満足し切れていないことはしってはいるが……。
「そうだな」
 そっと離れた体にほっとする。
 どくどくと早くなった鼓動を呼吸を整えることで沈めようとした。
「相変わらず、感じやすい体だな」
 わざわざ耳元に近づいて囁くのは、もうわざとだろう。
「幸人さん?」
 身を捩って逃げようとすると、捕まえられた。
 駄目だ……。
 この人はその気なんだ……。
 だけど……。
「あの……帰ったら、したらいいから……だから今は……」
 必死で訴える。
 絶対に嫌だ。
 帰り着くまで、怠くて怠くて仕方がない体を動かさなければいけなくなることは。
 あらぬところが痛くて、座るのも苦痛になることだってやり方によってはあり得るんだから。
 嫌だ。
 それの苦痛を耐えているせいで機内で顔色の悪さを指摘されて、それに言い訳するなんて……絶対に嫌だ。
「お願いですから、今は、ね」
「そうだな……帰れなくなるのも困るしな」
 さすがに必死の願いは効いたのか、穂波がようやく体を離してくれた。
 ああ、もう……。
 それだけで力尽きたかのようにがっくりと肩を落とす。
 幸人さんって……それしか考えられないのか……。
 ふっと、たまには浮気も許した方がいいかもしれない……と思ってしまう。
 その方が、自分の体のためかもしれない。
 だが、実際にそんなことになったら、やっぱり嫌だろう。
 ……。
 結局、体力をつけて、彼を翻弄させるほどの技能を身につけるまでは……こうやって翻弄されるのを黙って受け入れるしかないのだろうか。
「まあ……それに俺も少し眠いし……」
 ごろんと横になるベッドは、いい加減乱れに乱れていたけれど、それでも穂波は気にしていない。
「汚れる……」
 ぽつりと呟くと、ちらりと視線を向けた。
「大丈夫だ。ちゃんと受け止めてやったろ」
 にやりと笑われ、赤面してそっぽを向く。
 ああ、もう黙っていよう。
 何を言ってもからかわれそうだ。


 幸いにして……と言うべきなのか。
 薬も効いているのか、タクシーと飛行機……そして車で穂波の自宅に連れてこられるまでの3時間。
 負担にはなったけれど、辛くて堪らないというとはなかった。
 それでも穂波の部屋のベッドに倒れ込むと、どーんと四肢を投げだした。
 最初に見たとき、やるために用意したのか、と思えるほどただっぴろいベッドはそれでも単なるダブルベッドだと言い張っていたが。
 何で、一人暮らしでダブルベッドなんだ?という疑問は無視された。
 だが、今はその広さが心地よい。
 存分に手足を伸ばすことができる。
 自分で思ったより疲れていたのか、手足が怠くて堪らない。
「敬吾……避けろ」
 頭の上から降ってきた言葉に、何気なくごろりと転がってベッドの端によると、穂波がごろりと転がってきた。
「まずいな……」
 ぽつりと吐き出された声音が妙に弱々しくて、緑山は不審げに眉根を寄せた。
 穂波の顔色が入ったとたん、その眉間にさらに深いシワが寄る。
「穂波さん?」
 おそるおそる手を額に当てると、少し熱いような気がする。
「いつから?」
 問うと閉じられていた目蓋がうっすらと開いた。
「う?ん……市内に入った頃かな?寒気がしたのは」
 気がつかなかった。
 慌てて起きあがる。
「体温計は?」
「そこのサイドボードの引き出し」
 適当にひっくり返すと、奥深くから出てきた。
 電池があるのを確認して穂波に差し出す。
「うつったんじゃないの?」
 眉間のシワそのままに、穂波に問いかけると、「たぶん」と苦笑いで返された。
 はあっとため息が漏れる。
「だから、言ったのに……」
 ピピッ
 小さい電子音に取り出された体温計には、38度1分。
 インフルエンザなんだろう。
 ホテルにいる頃は、これでもかという位に元気だった。
「もう遅いけど……病院行く?」
 ちらりと見た時計は、7時を回っている。
 救急病院なら開いているだろう。
「ああ……知り合いの医者がいるから、そこなら……診てくれる。携帯とってくれ」
 どうやら連絡を取ってみるのだと気がついたので、脱ぎ捨てられたスーツの上着からそれを取り出して穂波に渡した。
 女子学生顔負けの軽快な操作はいつものことだったが、それを見つめる表情に力がない。
 いつも人を喰ったような笑みが掻き消えていた。
「もしもし」
 繋がった携帯を耳に当てている穂波を見て、緑山は台所へと向かった。
 自分と同じ症状だとすると、いろいろと用意しておいた方がいいだろう。
 冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターがあるのを確認する。
 米は……あるか。
 意外に料理好きなところもある穂波だから、食材もそこそこに揃っている。
 しかもレトルトも完備していて、簡単なものなら苦もなく並べられそうだった。
 それだけを確認して部屋に戻ると、話が終わったのか穂波がぽつりと言っていた。
「判った、待ってる」
 それで携帯を切っている穂波に話しかける。
「待ってるって?」
「ああ、症状とお前の病状とを話したらここまで来てくれるって言っていた」
 あ、往診か……。
「親切ですね。友達ですか?」
 何気なく言った単語は、なぜか穂波に苦笑いを浮かべて言い返された。
「ただの友達だ、ゴルフ仲間だよ。それにあっちはもう白髪交じりのご老体だ……あ、これは内緒な」
 言い訳じみたそれに、緑山は穂波が何を心配したのか勘づいた。
 まあ、一応疑われやすいという自覚はあるんだ。
「別に幸人さんの友人関係を全部疑うわけはないから」
 その職業柄か、はたまた性格からか、穂波の交際範囲は広い。
 前に緑山に乱暴した隅埜達を脅した文句は嘘ではないのだ。
「それより、いつ頃来られるんですか、その医者は?」
「ああ……すぐ来るって言っていたから……30分くらいかな、かかっても」
 ほおっと吐く息は安堵のものか、体を冷やそうとしているのか。
 再度、穂波の額に手を置く。
「何かいるものある?」
 そっと覗き込んで問いかけると、穂波の手が伸びてきて頬に触れた。
「敬吾……」
「!」
 目が点になった。
 くすりと嗤う穂波は、顔色の悪さを見ているにもかかわらず、ずいぶんと元気そうに感じる。
「冗談言えるくらい元気なら、俺、もう帰りますね」
 だいたい、こっちだって病み上がり。
 ベッドで寝たいのはこっちの方だ。
 と、頭の中で毒づく。
 そして、必要以上の疲れは誰のせいだ?
「なんだ、敬吾は冷たいな……」
 わざとらしくため息をつかれては、立ち上がりかけた体を再びベッドサイドに降ろす。
「自業自得……ですって。俺、本当に疲れているんです……」
「ああ、そうか……すまないな。でもできれば今日はここで休んで欲しいんだが……。そこを開けたら布団があるから……それ敷けばいい」
 素直に非を認め肩を落とす穂波も、訴えるように見つめてくる穂波も、緑山には馴染みのないものでひどく狼狽えてしまう。
「幸人さん……」
 ため息混じりの呼びかけに、何だ?と視線をよこしてくる。
 それに仕方なく微笑んだ。
「とりあえず、その医者に見てもらうまではいますから……」
「そっか」
 ぽつりと呟き、目を閉じる穂波の顔色はひどく悪く、そして微かに震えているようだった。
「寒い?」
 呼びかけると、目を開き敬吾を見る。
「少しな……」
「毛布……か、何か……」
 首を巡らして指し示された扉を見る。
 だが立ち上がろうとした緑山の腕を穂波が捕らえた。
「敬吾がいい……」
 またか、と思った。
 だが、真摯なその瞳に捕らわれてしまう。
 しばらく逡巡した後、緑山はふうっと小さく息を吐くと、軽く頷いた。
「医者が来るまでですよ」
 手早く着たままだった上着を脱ぎ、穂波の横に滑り込む。
「敬吾」
 腕を背に回されて抱き込まれながら聞こえた呼びかけはずいぶんと嬉しそうだった。
「変な真似はしないでよ」
「する気力もないさ」
 弱々しい声なのに、嬉々として聞こえるのはなぜだろう。
 だが、もうこうなっては仕方がない。
 緑山は諦めて穂波の背に手を回して、体をすり寄せた。
 首筋に穂波の吐息が触れる。
 一瞬ぞくりと震えてしまった体を慌てて落ち着かせる。
 温めているだけだ。
 なのに。
 穂波の手が緑山の背をさする。
 それは宥めるかのように優しく弱いものではあったが、朝の情事の余韻が完全に消え失せていない緑山には甘い責め苦だ。
「幸人さん……」
 呼びかける声が微かに震える。
「ん?」
 大儀そうに返事をする穂波に、緑山は一瞬言葉に詰まった。
 だが、さわさわと動く手を感じると仕方なく訴える。
「手、動かすの止めてくださいってば」
「ん?」
 どこかぼんやりとした穂波の目が緑山を見る。
「俺、動かしていたか?」
「……ええ」
 どうやら無意識らしい穂波に緑山は微かに息を吐くと、こくりと頷いた。
「温めてあげますから、おとなしくしていてくださいよ。でないと帰ります」
「ああ、すまん……」
 あまりにも素直な穂波に、ぞくりと寒気が走ったが、熱があるのだから当たり前かと気を取り直す。
 緑山とてつい先日体験したばかりだ。
 とにかく熱の上がり際はひどく体が怠く、何を考えるにしても億劫だ。
「寝てて……医者が来たら対応しますから」
 とんとんと軽く背中を叩く。
「ああ……」
 温もりが穂波の眠気を誘ったのか。
 そう間をおくことなく、穂波の呼吸音が一定になる。
 そういえば、あまり寝ていないんだっけ?
 ほとんど徹夜で緑山の様子を見ていたらしい。
 ホテルで僅かに睡眠を取ったが、それでもまだ足りなかったのだろう。
 時折、緑山に回された手が動く。
 さわさわと愛撫するかのように動くその手がもたらす甘い刺激に堪えながら、緑山はそれでも穂波から手を離さなかった。

 呼び出し音に、緑山は慌てて穂波の腕から脱出した。
 乱れた服装を急いで整えて、玄関へと向かう。
「はい?」
 再度鳴らされた呼び鈴に、返事をすると、数秒の間をおいて返事が返ってきた。
 覗き窓から見えるのは白髪混じりの強面の男。老人と呼ぶには失礼だが、貫禄はあった。
「佐伯といいますが、穂波さんより連絡を受けたんだが」
「あ、お医者さまですか?」
「そうだ」
 それだけを確認すると急いで玄関を開けた。
「こんばんは、わざわざすみません」
 ぺこりとお辞儀をすると訝しげな視線が緑山に寄せられる。
「私は穂波さんの……」
 さすがに恋人とは言えなくて、うっと詰まった。
 だが、すっと意識を切り替える。
「穂波さんの友人なんです。穂波さんは今は寝ていますから、どうぞ」
 スリッパを並べながら説明すると、佐伯は合点がいったとばかりに頷くとさっさと寝室へと向かった。
 その慣れた様子から、しょっちゅうここに来ているのだなと気づく。
「熱は?」
 ふと振り返って問いかけられ、緑山は微かに首をかしげた。
「30分ほど前に測ったときは38度1分でした。その後寒気を訴えていたので、今はもうちょっと上がっているかも……」
「ふむ」
 緑山の回答に満足したのか、小さく頷くと寝室へと足を踏み入れる佐伯。
「よく寝てる」
 じっと見下ろしていたが、おもむろに診察鞄を開けた。
「こら起きろっ!」
 と思ったらぱこんと穂波の頭をこづいた。
 それを見ていた緑山は驚きのあまり目を丸くしていた。
「おいっ!」
 二回もはたかれれば、穂波も鬱陶しそうに目を開けた。
「……なんだ、もう来たのか?」
「人を呼びつけて、もう来たのかとは何だ?ちょっと喉を見せてみろ」
 あーんと開けた口を覗き込む。
「風邪……と言いたいところだが、インフルエンザの患者を看病したと言っていたな。予防接種はしているのか?」
「いや……」
「ではインフルエンザだ。諦めろ」
 にべもなく言い放つ。
「……冷たい医者だ」
 ぽつりと漏らした愚痴に、剣呑な光が佐伯の目に宿る。
「予防措置も取らずに看病なんかするからだ。それでなくても年を取ると免疫効果は落ちるって言うのに。年甲斐もなく看病などと珍しいことをするから、そうなる」
「言ってくれるな……」
 熱のせいだけではないだろう。
 あの穂波が負けている。
 緑山は呆然とそのやりとりを見つめていた。
「で……お前にインフルエンザをうつした奴はどうした?」
「あ、あの私です」
 穂波が口を開く前に緑山は返事をしていた。
 どうやら穂波が一方的に責められているような気がした。
 そんなことはない。
 そう思っていたから、ここで説明しなければ……そう思った。
「君か……」
 気づいていたのか、こくりと頷く。
「私が倒れて、穂波さんは親切にも迎えに来てくださったんです。それなのに移してしまって……」
「いや、君が悪いわけではない。そんなことはこいつとて百も承知のはずだ。それより君の方こそ大丈夫なのか?詳しい話は知らないが、この状態を見ると君も病み上がりなのだろう?ひどく疲れた表情をしている」
「大丈夫です」
 本音を言うと、早く寝っ転がりたいほど疲れている。
「医者に嘘を言ってどうする」
 佐伯は性格はともかく医者としては優れているのだろう。
 緑山の顔色から、状態を察したのだ。
「そんなところで突っ立っていないで……」
 ふと思い出したかのように穂波の側から移動する。
 がらりと開けたそこは、押入だった。
 慣れた手つきで布団を引っ張り出してその場に敷いてしまう。
「そこに寝ていなさい」
 広げた敷き布団の上をぽんぽんと叩いて緑山に視線を送る。
 緑山は驚いて佐伯を見、そして布団を見つめた。
「早く。またぶりかえしたらどうするつもりかい?」
 その言葉には逆らえなかった。
 言葉に絶対の自信を持っている。
 だから有無を言う隙はどこにもなかった。
 おとなしく横になった緑山に佐伯は掛け布団をかける。
「名前は?」
 先ほどとは打ってかわって優しくなった言葉に、つい誘われるように口を開いた。
「緑山敬吾……」
「では緑山さん……君はもう寝なさい。穂波のことは私に任せればいい」
「でも……大丈夫ですか?穂波さんは……」
 ちらりとベッドの方を窺う。
 床に寝かされていると、ベッド上の穂波の姿は窺えない。
「こいつがインフルエンザでくたばるようなたまか?たとえ、肺炎を起こしても自力で復活するさ。だいたいこいつがそういう憂き目にあうとしたら、それは性病によって体がぼろぼろになるからだ、と思っているんだがね」
 その言葉に反論できない。思わず頷きかけて、緑山は呆然と佐伯を見つめた。
 この人はそこまで幸人さんを知っているのか?
 不審は顔に出てしまったらしい。
「こいつとは結構つきあい長いからな。それにそういうことを隠すような奴ではないし」
「……おい……変なことを敬吾に吹き込むな」
 苦虫をかみつぶした……という比喩がこれ以上はないというくらいにしっくりくる声音がベッドの上から聞こえてくる。
「変なこととは心外な。すべて事実しか私は伝えておらんが」
「この……やぶ医者が」
 毒々しげに呟かれた声が聞こえたとたん、ぱこんと軽快な音が鳴り響いた。
「う?」
 地の底から聞こえるような唸り声が漏れている。
「患者はおとなしく医者に従え」
 その高飛車な言い方といい、どちらかというと乱暴な態度。
 それは先日会ったばかりの増山とは全く違うタイプで、だからこそ余計に彼と比較してしまう。
 だが、穂波には彼のような医者でないとなかなか言うことをきかないだろう。
 まして……少なくとも顔は好みではないはずだし……。
「あんたを呼んだのが間違いだった……」
「よく言う。他にここまで来てやるような医者なんかこの辺にはいないぞ」
 何を言っても返される。
 結局穂波は押し黙ってしまった。
「薬は用意してきた。これでも飲んでさっさと寝ていろ。それが一番だ。だがな、緑山さんに甘えるんじゃない。彼だって今が一番大切なときだ。ゆっくり体を休めておかないと、今は免疫力が落ちているはずだからな。治りかけっていうのは肝心なんだ」
 それを言われて穂波は反論すらできない。
 すでに散々病み上がりの緑山を責めさいなんでいるのだ。
 まあ、今更……とは思っているかもしれないが。
 その言葉……できれば東京で聞かせて欲しかった……。
 緑山とて、布団の中でこっそりとため息をつく。
「しかし……そうなると食事やらなにやら困るんだが?」
 思った以上に体が怠い穂波から、珍しく弱きの発言が出る。
 だが、佐伯はそれを一蹴した。
「ああ、替わりをよこしてやる。それで我慢しろ?」
「替わり?看護婦か?」
「冗談。お前一人のために誰が大事な看護婦をよこしてやるものか。だいたいそんなことをしたらお前に喰われてしまう」
「……そんな人を無節操な人間みたいに言うな……」
「お前……看護婦好きだろ」
 じろりと向けられた佐伯の視線は、情けない声で返される。
「それとこれとは……」
 好きなんだ……。
 反論すらできない穂波には呆れてものも言えない。
「まあ、ちゃんと世話してくれるような奴にしてやるから」
「佐伯さん……」
「だから、これ飲んだら寝てろ」
 差し出された薬を穂波がおとなしく飲んだらしい。
 佐伯が満足げに頷くと、今度は緑山の傍にやってきた。
「君はとにかく寝なさい。ひどく疲れているようだから。彼が何を言ってきても無視すればいいからね」
「……ありがとうございます」
 どう対処していいか判らないタイプ。
 緑山は、とりあえず礼を言った。
「それと、鍵は借りていくから。世話をする奴に渡しておく」
「……はあ」
 いいんだろうか……。
 ちらりとベッドの方に窺うと、ベッドの端まで移動してきた穂波がじっと様子を窺っている。
 それがあまりにも情けなくてくすりと笑みがこぼれる。
「それじゃ」
 ぽんと緑山の頭を軽く叩く。
 それはひどく優しげで緑山を安心させるものだった。
「あっ……」
 立ち上がりかけた佐伯が何かを思い出したかのように再び緑山の横にしゃがみこんだ。
 体をかがめ、耳元で囁きかけられる。
「あいつは性欲に関しては無節操だが、たいてい本気ではなかった。だから相手が病気になっても看病なんてするような奴じゃなかった。それなのに君だけは看病したらしいな。しかもうつったからといって後悔はしていないようだし……君はあいつにとって特別なんだな」
「あの……」
 慌てて反論しようとした緑山に佐伯はにっこりと笑いかけた。
「だが、相変わらずのようでもあるし、困ったことがあるならいつでも相談しなさい。私はこれでも彼の弱点をいろいろと知っているんだよ」
 ぎゅっと握りしめられた手の中に、何かが滑り込んでいる。
 その手を、布団の中に押し込んでから佐伯は立ち上がった。
「とりあえず、今日は寝てること。明日になったら世話役寄越すからな」
「いらんっ!」
「お前のためじゃない。お前のせいで無理をしそうな緑山さんのためだよ」
「ぐっ……」
 反論できなくて悶え苦しんでいる穂波を一瞥した佐伯は、緑山には笑いかけて部屋を出て行った。
「くそっ」
 ぱたりと転がっていったのか、穂波の姿が視界から消える。
 それを確認してから手の中の物を見てみた。
 それは、佐伯の名刺だった。
 電話番号どころが携帯番号、さてはEメールアドレスまで入っている。
 肝心の病院名などは裏に入っていた。
 プライベート用なのだろう。
 それを渡してくれた魂胆はどこにあるのだろう……。
 それは……判らないけれど、緑山は穂波に気づかれないように、トイレに行くついでにそれをそっと隠し込んだ。

 
 次の日。
 やってきた世話人は、開口一番に穂波に言った。
「ま、楽しくやろうじゃないか」
「加古川……さん……」
 苦々しそうに漏らした言葉は、穂波の心情を完璧に表していた。
 どうやら来て欲しくない相手らしい。
 その彼が緑山を見てにこりと微笑む。
「佐伯さんから話は聞いているからね」
「はい。あのあなたは?」
「私は加古川竜一。穂波さんは私の会社と取引している人でね。昔から接待ゴルフでは世話になっているんだ。佐伯さんとは共通の知り合い。大事なゴルフ仲間が倒れたとあっては看病しないわけにはいかないだろう?」
「うつりますよ……」
 穂波の言葉が丁寧だ。
 私の会社……ということは社長か何か?
 背筋がぴんと伸びて威風堂々としている彼は、年も40代?50代位に見える。
 しかも接待をしなくてはならない相手……?
 そんな相手を一夜の相手にはしないだろう。ある意味、穂波の攻撃範囲から外れている男。
 ある意味、緑山はほっとして彼を迎え入れていた。
「私は病気で倒れるほど暇ではないので、インフルエンザの予防くらいしている。君も迂闊だったね」
 完璧……。
 手玉に取られている穂波は、熱のせいで対処のしようもないのだろう。
「さて……これでも簡単な物くらい作れるぞ。まずはおかゆだな」
 腕まくりしながら台所に向かう加古川の後を慌てて追いかける。
「手伝います」
「いや、君は働かすなと言われているんだが」
「でもじっとしていると退屈なんです。だから動いている方が気が紛れますから」
「そうか……なら」
 そうして、食事ができるまで加古川は佐伯と穂波の極秘話をいろいろと聞かせてくれたのだった。

 さらに次の日、すっかり元気になった穂波が丁寧な礼とともに加古川を追い出すと、会社帰りに様子を見に来た緑山に向かって言い放った。
「いいか、あの二人の言うことになんかに耳を貸すな」
 貸すなと言われても……。
 とりあえず頷きながらそれでも心の中では笑っている。
 今まで穂波が相手にとった態度とか。
 すっかり疎遠になったとぼやいている過去の相手達のうわさ話とか。
 穂波が二人につい零してしまったのろけ話とか……。
 それらをすべて否定するには、緑山も心当たりがあったりして……。
「でも、良くなったのは彼らのお陰ですよ」
「ふん、この位すぐ治っていたさ」
 まだ少し顔色が悪い穂波だったが、その態度といい言動といいまずは復活しているらしい。
「……まあ、とにかく今日一晩休んで明日は会社でしょ。それじゃ、俺は帰りますね」
 ……素っ気なくされるとあいつは結構落ち込んだりするんだぞ。乱暴な行為は、それを必死で隠しているのさ。
「おい、このまま帰れるなんて思わないだろ」
 ぐいっと引っ張られ、その腕の中に抱き込まれる。
「滝本さんが……」
 ぽつりとなんでもないように緑山が零した言葉に、穂波の動きがぴたりと止まる。
 この場合の滝本は、穂波の部下の滝本恵の方だ。
「今日メールをくれまして……」
「何だ?」
 訝しげに寄せられた眉と目元を見上げながら、くっと喉を鳴らす。
「明日はとても大事なお客様と約束があるようで、必ず会社に出てくるように、と伝えて欲しい……と」
 それには穂波の顔色が変わった。
 緑山から手を離し、慌ててビジネスバックから手帳を取り出す。
 それをぱらぱらとめくっていた手がぴたっと止まった。
「……明日は、加古川電子?」
 唸るように絞り出された名前は、緑山の名刺入れに新しく入ったばかりの名刺に書かれた会社名。
「あの加古川さんの?」
 渡された名刺を見れば、明らかにあの人は社長だった。
「あのヤローーッ!接待込みの会議じゃねーか。こっちの事情判ってんならキャンセルしろよっ!」
 ……無理だ。
 昨日一日一緒にいて感じたのは、何かにつけ面白いことを探し出そうとするスタンス。
 その彼が、幸人さんの接待をキャンセルするはずがない。
 反論も逆らうこともできない穂波を、じっくりと心おきなくいじめることができる場を。
「ということで、今晩ゆっくり休んで鋭気をやしなっておかないと……対抗できないと思いますが?」
 平静を保っていったはずだった。
「何を笑っている?」
 不機嫌そのものの穂波の声色に緑山の目がすうっと細められた。
 笑ったつもりはなかったんだが……。
 だが気がつけば、口元が綻んでいる。
 慌てて引き締めた口元は今更ながらで、穂波の瞳に宿った剣呑な光に緑山はじりっと後ずさった。
「人の不幸を面白がる奴はそれ相応の報いを受けるとは思わんか?」
 口調に静かな怒りを感じ、慌てて首を振る。
「そうか?だが、俺としてはこのままおとなしくお前を帰す気は毛頭ないぞ」
 じりじりと後ずさる緑山の肩をがしりと捕まえて、にっこりと微笑んでいる。
 ぞくりと走る悪寒に、緑山の体は小さく震えた。
 それが余計に穂波の嗜虐心を煽ったようで、ますます楽しそうにその手に力を込めてくる。
「……痛い……」
 振り払おうにもそれをさせない雰囲気がある。
 下手に逆らえばどうなることか……。
 上目遣いに窺えば、ばっちりと穂波と視線が合った。
「まあ……敬吾の言うことにも一理ある」
 ぽつりと言った言葉の内容は歓迎できるのであったが、その口調から不安は消せない。
「だが、俺も言いかげん欲求不満だ。だから一発はやらせろ」
 言葉とともにぐいっと引き寄せられた。
 噛みつくように激しいキスは、ぶつかったとたんに歯が当たって音を立てる。
 それを痛いと思うまもなく、舌が入ってきた。
 ぐっと引き寄せられた腰が穂波にすり寄せられるようになり、相手の塊をまともに感じてしまう。
 すでに猛っているそれは、穂波の欲情を表していて……。
 もう逃れる術はなかった。
「あ…ゆきとさん」
 僅かに離された瞬間に訴えるように呼びかける。
 だが、それは上ずっていて、穂波の欲情をさらに煽る。
「一回だけだ」
 小さく囁くその声に、緑山は「そんなこと、できるのか?」と、問いかけたかったが……。
「ん……」
 喉から漏れたのは、甘い喘ぎ声だった。


 結局一回で終わろうはずがなく。
 緑山は黄色く見える朝の太陽を恨めしげに見つめながら、昨日よりはるかに病み上がりに見えるその体で会社に行くはめになってしまった。

【了】