【5Sの効果】

【5Sの効果】

『再送:5S活動のお知らせ』
 そんなタイトルのメールが来て、だが来生平(きすぎ たいら)は気にもとめずにすっとばかして、次のメールを開いた。
 それは工場サイドからの連絡で、試作品の仕様に関する詳細な確認のメールだったから、画面を食い入るように見て、確認をする。やらなきゃいけないことは多々あって、それでも懸命に処理をしていると未読で真っ赤に表示されていたメールが少しずつ黒くなっていった。それでも、何件かは未読が残るが、それはタイトルからして単なる連絡事項だと気にも止めなかった。先ほどのお知らせも、その中に含まれている。

 どうせ前見た内容と変わりはないはずだと、そのまましてマウスに置いていた手をはずした。
 今日は、比較的落ち着いた一日だと、ほっと一息吐く。
 いつもなら客先に向かうところだったが、今日は午前中にミーティングがあったこともあって、出るに出られず午後はぽっかりと空いてしまった。
 こんな日が週に一度あれば、もう少し気分的に楽なのだが。
 来生のため息にはそんな想いが込められていて、だが少しでも面倒な仕事が片づいたことに表情もいつにも増して和んでいた。しかも、今日は坂木もまだ隣の席にいる。3時頃から出掛けるとは聞いていたが、今はちょうど空き時間なのだろう。パソコンに向かって一生懸命何かを打ち込んでいた。その横顔を眺めていると、緩んでいた頬がさらに緩んできそうになって慌てて口許を引き締めた。
「さて、報告書……と」
 このまま坂木を見ていたら際限なく気が緩みそうだと、引き締める。が。
「できた」
 嬉しそうな声が聞こえてつい隣を見遣れば、うきうきと坂木がプリントアウトしたものを手にしていた。その様子に報告書でもできたのかと首を傾げる。
「何が?」
「気がかりシートですよ」
「え?」
 かえされた言葉に頭の中に?マークが飛んでいく。ぽかんと坂木を見遣れば、訝しげな視線を返された。
「……メール来てたでしょ。締め切り、今日ですよ?」
「メール?」
 そんなものがあったか?
 視線を向けた先で、未だ開いたままのメーラーの画面に幾つか残る赤い未読の……。
「あ、これです」
 坂木の指がその一つをさした。いつの間に近づいていたのか、来生の上から覗き込むように坂木が身を乗り出していて、頬に坂木が来ている服の布地が擦れる。
 同時に敏感に坂木の僅かな体臭を感じてしまい、ドキッと胸が高鳴る。
 決して不快でない、それどころか心地よいとすら思うその匂いに、一度高鳴った胸は容易には落ち着かない。それが至近距離にいる坂木に聞かれないかと、今度はそれが気になって、どうにも落ち着かず、メールへと無理矢理意識をそらした。
「あ、……これ?」
 それは先ほど故意に無視したメールだった。
『再送:5S活動のお知らせ』
「……見たくない」
 その内容が想像できるのは、一応第一報を読んでいるからだ。
 だが、口の中でもぐもぐと呟いた言葉は、こんなに近くにいるのに坂木には聞こえなかったようで、マウスに乗っていた来生の手の上に坂木は手をのせて動かした。
──勘弁してくれっ!!
 そこから伝わる熱に、来生は心の中で絶叫していた。
 坂木の何気ない行為は、とにかく来生を煽る。
「ほら、気がかりシート、今日提出日ですよ」
 息苦しさすら感じつつも、来生は言われるがままに画面を見つめた。そこには確かに今日の日付があって、しかも見るものに印象づけようとして赤字で大きいフォントを使っていた。
 それでも、来生にとってそんな文字より気にかかるのがこのふれあわんばかりの距離にいる坂木の存在だ。
「あ、ああ……そうだな」
 震えそうになる声を必死で堪えて、平静なふりをするのは難しい。
 だが。
「あの?……どうかしました?」
 さすがに来生の異変はあからさまで、坂木が気付く。
「あ、いやあ、何でもないよ?あはは」
「そうですか?」
「そうだって……それより……その……」
 訝しげに問い返す坂木に、来生は何でもないと何度も首を振った。
ついでに榊の木をそらせようとちょっと疑問に思ったことを口にしようとして、だが、言いかけた途端にそれは情けないだろうと躊躇ってしまう。だが、何か?と首を傾げて言葉を待つ坂木に、結局、止めることもできなくて、モゴモゴと口ごもりつつ問いかけた。
「……気がかりシートって……何だ?」
「……」
 思わず見下ろされた視線が痛い。
「……坂木?」
「……あ、いえ……。来生さんらしいなあ……って思ってしまって……」
「……どうせ……」
 いつもそういう厄介そうなメールは無視してしまう来生を坂木はよく知っている。故の言葉だろうが、坂木に言われるとこれが結構堪える。
「5S活動のために、とりあえず自分の周りにある気がかりな事を指定の用紙に書くんです。それが気がかりシートです」
 気を取り直したように小さく息を吐いて、坂木がさらりと教えてくれたことは、ほんの少ししか判らない。だから。
「……気がかりなこと?」
「え?と、5Sは判りますよね?」
 窺うように言われて、自業自得とはいえ、来生は少しムッとしながら答えた。
「整理・整頓・清潔・清掃・躾……だろ?」
「はい。ですから、それに関わりそうな事を書けば良いんです」
「そうは言われても……」
 ぐるっと机の周りを見渡して。
 来生が今座っている机には、資料が今にも雪崩を起こしそうな程に乱雑に積まれていた。何か書き物をしようとしても、その書けるスペースはA4用紙一枚分すら無い。だが、特にそれに不便を感じたことはなく、来生はどこに何があるかをきちんと把握しているつもりだったから。
「何かあるか?」
「……」
 う?んと腕組みをして悩む来生に、坂木もさすがに何も言えなくて立ちすくんでいた。


「ところで、お前は何を書いたんだ?」
「え……あ、いえっ」
 書くことなどないが、何か一件は出さなければいけないと言われて、悩みに悩んだ末、来生はふと傍らの坂木に問いかけた。だが、突然矛先を向けられた坂木が何故か慌ててその用紙を背に隠す。
「たいしたことじゃないです」
 だがその動揺ぶりを見過ごすほど、来生もボケてはいなかった。きっと来生に関わる何かを書いているのだと思い当たって、それならばぜひとも見ようと手を伸ばす。
「駄目ですっ」
「見せろっ!」
 逃げようとじりじりと後ずさる腕をきつく掴み、その背に隠された用紙を取り上げようとする。
「や、やめてくださいよっ!!」
「何でそんなに嫌がるんだよっ!」
「だから、その?っ!」
「気になるんだよっ!」
 必死になって手を伸ばすが、坂木も巧みに手をよけて来生にそれを掴ませようとしない。
「ちょっ、ちょっとっ!マジやめてくださいってっ!」
 悲鳴にも似た叫びが坂木の口から漏れた。


 室内に悲鳴と甲高い音と鈍い音という多重音が響いた。
 その音に、笑いながら様子を見ていた周りの人間が、驚きとその悲惨な結末に首をすくめる。
「う?……」
 体の下にあったのは、坂木の体でそれを抱きすくめるように来生は床に倒れていた。しかし机の端にかかった手がすんでの所で体を支えて、思ったよりの衝撃はない。
 だが、半分とはいえ、のしかかられた来生の体に、倒れた椅子が体の下敷きになった坂木は、きつく顔をしかめてうずくまっている
 その食いしばられた唇の隙間から、我慢できないうめき声が漏れていた。
 その様子に、来生は慌てて助け起こそうと坂木の腕を掴んだ。
 だが。
 パシッと乾いた音を立てて、その手が叩き払われる。
 思わず痛みの伝わった手を片方の手で押さえながら、その視線を坂木に移した。途端に、痛みに浮かんだのか、どこか潤んだような瞳できつく睨まれる。
「っ!」
 途端にゾクッときた。
 痛みを耐えているせいか、それとも理不尽な行為をした来生への怒りのせいか、その目の縁が赤く、噛みしめられていた唇が濡れて赤い。
 無意識のうちに、ごくりと息を飲んで来生は坂木を見下ろしていた。いや、動くに動けない。
 蛇ににらまれた蛙のようだ、とその強い瞳の力に知らずに喉が上下した。
 こいつが……こんな強さを持っていたのか?
 見知らぬ坂木に違和感を感じて、だが、来生の体は煽られたように疼き続けていた。ヤバイと思うのほどに下手に動くと妙な行動を取ってしまいそうで、だけどここに少なからずいる人々の好奇の視線が来生の次の行動を止めさせていた。
「……ひど……」
 坂木が発した言葉は小さく掠れていて、確かその声はなじっていて。
 だがそれでも節操なく下肢の付け根が疼いていて、それを誤魔化すように苦笑を浮かべつつ頭を下げる。
「あの……すまん……」
 躊躇いがちにそんな言葉を言ってみたけれど、誠意がないのはモロバレのようで、坂木は小さく首を左右に振っていた。しかももう視線を合わせようともしない。
 その怒りは相当なものだと、見慣れぬ坂木の行動に来生はさすがに焦りを感じて、今度こそ心から謝ろうと口を開きかけた。
 だが。
「ああっ、もういいですよっ!」
 謝る言葉が出口を失ってしまうほどに乱暴に机の上にあの気がかりシートが叩き置かれた。
「さか…き……」
「見たければ見ればいいっ!」
 いつも崩されたことの無かった言葉遣いが荒々しく、それは事務所内の空気を張りつめさせた。
 クシャッと坂木の手の下で音を立てて紙がシワを作る。爪が立つほどに坂木の手は、白く強張っていた。
「あ……いや、いいよ……。すまなかった……」
 そんなにも見せたくなかったのか……。
 それを無理に見ようとした、自分を悔いて、そんなことをした自分が情けなくて振り払うかのように首を左右に振る。だが、坂木はむすりと来生を一瞥した。そして。
「どうぞ、ご覧ください」
 その声がどう聞いても嫌々ながらが判って、そう言われては来生も動くことはできない。ただ、その手の下の紙を所在なげに見つめるだけだった。
「どっちにしろ、リーダーである来生さんの印がいるんです。見て、事務局に回してください」
「あ、ああ」
 もうそれを見たいなどは思っていなかったが、そう言われては見ないわけにもいかず、来生は躊躇いがちにその手を伸ばした。
 坂木の手と入れ替わりにそれを手に取ると、しわだらけの紙に「気がかりシート」という文字が踊ってた。だが、そんなものより、腰を押さえている坂木の方が気になって仕方がない。
「坂木、大丈夫か?」
 一瞬その顔がしかめられて、まだ痛みを持っていると伝わってきた。だが、訪ねた言葉は完全に無視されて、実は坂木からの無言の拒絶は初めてという来生は、唇をきつく噛みしめて俯いた。
 ゆらりと視野の隅に僅かに入っていた坂木の姿が消えたのはその時で、ビクリと顔を上げると坂木は事務所を出て行くところだった。
「坂…木……」
 声をかけようとして、だがまた拒絶されたら、とその声が尻下がりに小さくなって、最後には音にすらならなかった。
 バカだ……オレってば……。
 がくりと首を垂れて、自然に入ってきた手の中のシワだらけの紙を見つめる
 右上に坂木の名。そして。
『気がかりなこと:来生さんの机の上。いつも乱雑で、何がどこにあるのか判らない。いつの物か判らないお菓子や出し損ねた領収書などが発掘されることもある』
『対処:書類を分別してファイリングする。お菓子は食べないなら他の人にあげる。領収書はすぐに処理する』
 坂木の書いた気がかりシートはそんな内容で、ご丁寧にデジカメで撮ったらしい来生の机の上の様子まで写真として載っていた。
「あのやろ?」
 先ほどの悔いもそこそこに、来生の顔がさあっと染まった。それは怒りではなく、羞恥からだ。
 自分の机だから、来生は何がどこにあるかは十分に把握していて、別に困ったとは思っていなかったのだが。
 こうやって、写真に撮られて客観的に見ると、これが本当に自分の机なのかと思うほどに、汚く乱雑だ。ただ、周りも似たような状況だし……と思って見回すと、もう少しは皆マシのような気がする。
「……やっぱ、汚いのか……」
 この状況を見慣れているはずの坂木がそう言うのだったら、そうなのかも知れない。
「確かに、領収書が後から出てきて慌てるし……。お菓子は……気が付いたら賞味期限過ぎてたり……したし……」
 ぶづぶつと言葉にしてみたら、確かに坂木の書かれている内容その通りだ。
「でも……書類は……」
 判るはずだと、明日持っていく開発部からの報告書を引っ張り出そうと机の片隅に手をかけた。
「うわっ!」
 目の前で雪崩のようファイルの山が来生めがけて倒れる。
 バタバタと音を立てて、何冊ものファイルが床に落ちて。
「……片づけよう……」
 来生は深くに息を吐いて、床に落ちたファイルを手に取った。


「坂木くん、今日の訪問先、キャンセル入れたそうです。体調不良で……」
 アシスタントの湯沢の声が責めていた。
「そうか……」
 直前のキャンセルなんて、認められたもんじゃない。だが、その原因が自身にあることは明白で、来生はただ頷いてそれを了承するしかなかった。
 それに、そんなことより坂木がいつまでも戻ってこない方が気になって仕方がなかった。
 あれから一時間はたっているというのに。
 キャンセルの知らせも来生に直接こなかったということは、話をするのもイヤだと思われたんだろうか?
 誰かに心当たりを聞こうにも、自業自得なその件に他人を入れたくなくて、結局自分で探しに行くことにした。
 ビル一つ、ゆっくりできるところは限られていて、隠れていなければ見つけられることができる。
 このまま坂木に嫌われたままで一日を終わりたくなく、今日出かける用事がないことをこんなに感謝したことはない。
 各階のトイレや医務室、そして休憩所。
 探しに探して──来生が今向かっているのは屋上だった。


 来生は、屋上に到る階段を上がっていた。
 もしそこに坂木がいなければ、心当たりはすべて無くなってしまう。まさか社外に出ているとは思えなく、そうなるともうここしかない。
 だが、まだ日差しはそれほど強くはないが、コンクリートの屋上は結構暑くなる。そんなところで一体何をしているのか……と、普段と違う坂木の様子を思い出したことも相まって、気になる心が自身を急かせていた。
 屋上は、エレベーターで最上階までいってそれから階段を使うのだが、さすがにそこまで来ると人はいなく、来生は誰にも逢うことなく、屋上へと通じる扉を開けた。
 だけど、出てすぐ見渡したところには坂木の姿は見えない。ただ雲の少ない空とここより高いビルの群れが広がるだけだ。
「坂木?」
 仕方なく躊躇いがちに呼びかけた途端、奥の方でガシャッとフェンスの音がして、視界の端に白いシャツがうつった。
「坂木っ!」
 迷わずそちらに足を向ける。知らずに足早になった先で、坂木が慌てたように腰を上げているところだった。
「お前、大丈夫か?」
 その顔が確かに顰められていて、まだどこか痛いのかと問えば、苦笑混じりに首を振って否定された。
「でも……」
「あの、すみませんでしたっ」
 そんなはずはないと問いかけようとした途端に、坂木の頭が勢いよく下がる。それにあっけにとられて、来生つむじが見えるほどに下げられた頭をただ黙って見下ろした。
「……あの、来生さんにあんなこと言って……。会社なのに、言いたいこといってしまって……。それにっ、今日の訪問先も断る羽目になって……」
 ようやく上がった顔はまだ俯いていて、その表情がよく判らない。
 だが、その声は小さく、いつもはきはきしている坂木とは思えなかった。途端にすさまじい罪悪感がわき起こる。
 こんな目に遭わせたのは来生自身だというのに。坂木は自分が悪いという。そこには、先ほどまでの激情に晒された坂木の姿はなかった。
「いや……俺も悪かったから」
 坂木の言葉に首を振って、坂木から謝られたことに情けなく思いながら、来生の思いを口にした。もとはと言えば、坂木に対するよこしまな執着心があのとき顔を出していなかったとは、決して否定できない。
 あのじゃれ合いは、来生にとって楽しいもので、あんな結末な想像だにしていなかったのだ。なのに、そんな子供じみた行為で、坂木を傷つけてしまった。
「それより怪我は?病院に行かなくていいのか?」
 来生が見つけてから、坂木の手はずっと脇腹のあたりにあって、確かにそこは転んだときに椅子の足があったところなのだ。それに気づいて、来生の眉が潜められた。
「あ、いえ……そんなにひどくないんです」
 視線に気づいたように、坂木の手が外された。そのまま後ろ手に回されて、かすかに金網を掴む音がする。
「そりゃ……あのときは痛かったですけど。でもそんなことより、ただ……ちょっと……。その、最初は結構キテて……。こんな調子で、客先に行ったら、とんでもない失敗をしそうで、それで後日に回せる話だったこともあって断って……。その……それも、本当は来生さんに伺ってからじゃないとダメなことなのに。少ししてからそれに思い当たって、俺ってダメなことばっかりやってるって気づいて……本当にすみませんでした」
 それが本当に申し訳なさそうで、心底悔いていると判っているから、来生は何も言えない。言えないどころか、胸の奥がチリチリと痛む。それはこの場で懺悔したいほどのいたたまれなさからきていた。
 だから。
「あれからずっとここにいたのか?」
 来生自身がその話題から逃れたくて、だがすぐには思いつかないと、適当な事を問いかけた。
「あ?……ああ、はい。最初は、もうムシャクシャして……後は、頭を落ち着かせるために。だから、怪我のせいじゃないんです。そろそろ戻ろうとは思ったんですけど……。ただ、どうやって来生さんに謝ろうかと……いろいろと頭の中でシミュレーションもしていたし」
 結局、話題を逸らすことはできずに、苦笑を浮かべた坂木を情けなく思いながら見つめる。
 いつもなら、何でもなく話せるのに、こんなに落ち込んだ坂木を相手にするのは始めてで、どうしていいか判らない。
 だが、ふと気がつくと、坂木の手がまた脇腹に当てられていた。
 それはきっと無意識の行為なのだろう。痛みに手を当てて緩和しようとしているのだ。
 つまりそれは、そうせざるを得ないほどにその場所が痛むと言うことに他ならず、来生は思わず坂木のシャツの裾をズボンから引っ張り出した。坂木の手が驚いて来生の腕を掴む。
「ちょっとっ!」
 素っ頓狂な声が坂木の口から放たれるが、それにかまわず肌を晒した。
「っ!」
 思わず息を飲むほどに、青く変色した皮膚が、目の中に飛び込んできて。
「……すまん……」
 反射的に口から謝罪の言葉はこぼれる。
 それほどまでにそこは痛々しそうに見えた。
 おずおずと伸ばした手で変色した場所にふれると、坂木の体が小さく震える。ふれた指先から伝わる確かな熱とその震えに、そこがまだ痛んでいるのだと来生に確信させた。
「そんな……。オレこそ変に意地はって……。あの気がかりシート、来生さん見たんでしょ?どうせ見せなきゃいけないのに、見られるのが嫌だって思ったこと自体が変なんですよね」
 オレのせいなのに。
 だが坂木は来生に気にさせまいと、無理に笑う。
「すまん……」
 何かを言おうとして、だが口から出る言葉はそんな簡単な謝罪の言葉だけ。青く染まった肌を見ていると、悔いはいくらでも積み重なっていく。
「そんな……気にしないでくださいよ」
 来生の殊勝な態度に坂木の方が面食らってしまったらしい。
 狼狽えた声音で、何度も首を振る。だがそんなことをされればされるほど、白い肌に浮いた青の痕が痛々しそうだとで、来生の悔いる想いが強くなる。
 そっと触れた指がその痕を辿ると、確かに他の部分より高い熱が伝わってきた。
「き、来生さんっ!」
 他の場所よりもはるかに敏感になっているのか、触れるか触れないかの距離でも、坂木が逃れるように身を捩る。
 少し潤んだ目は、やはり痛みを堪えているせいだろうか?
 ずっと屋上にいたせいか、その額にはじっとりと汗が浮かんでいた。その額に微かにシワがよる。辛そうに細められた目が、来生のすることを不安げに見つめていた。
「!」
 その時だった。来生の欲望の塊が、ズキリと痛いくらいに疼いたのは。
 自分の反応に驚いて、慌てて伏せた顔の前に坂木の露わになった肌があった。痛々しげに変色した肌は、風の動きにも感じて痛そうで……癒したいと、思う。
「じっとしてろ」
 逃れようとする坂木の指を捕まえて、そのままフェンスの金網を掴む。
「えっ」
 その上擦った小さな叫びも、暴走し始めた来生を煽るものでしかなかった。縫いつけた片方の手から逃れよう力が込められるが、逃してたまるかと凶暴な気持ちすら湧いてくる。
 愛おしくて、治してやりたくて……そしてもっと触れていたい……。
 だがそんな甘い誘惑にさらに高まるのは欲望で、そんな思いは結局のところ高まってしまった性欲に対する言い訳だ。
 来生は一瞬だけ、躊躇いはしたけれど。
 だが、そっと唇をその脇腹の痕に押しつけていた。


「き、来生さんっ……っ!!」
 唇で触れて、舌で舐めて。
 一心不乱にその場所に口づける。ガシャガシャと煩いくらいに鳴るフェンスをものともせずに、もう一方の手も捕らえる。
「やっ、やめろっ!!こ、このっ!」
 二進も三進もいかなくなった坂木が、あのときと同じように乱暴になって逆らおうとするが、すでに感情だけのケダモノになってしまった来生はびくりともしなかった。
「っく!」
 しかも来生が舐めている舌をきつく押しつけると、坂木の息がかすかに鳴るのだ。それすらも今は明らかに性欲となった欲望が煽られて、ますますその味にのめり込んで。


「ぐっ!!」
 いきなり激しい衝撃が足を襲った。
 ズギズキと脈打つように痛みがはい上がってきて、来生はその場に蹲った。
 抱えた膝を坂木に蹴られたのだと後から気がついたが、責めようにもその痛みに声が出ない。しかも、言葉にできない訴えを込めて恨めしげに見上げたら。
「何やってんだっ!!」
 きつい怒声が降ってきた。そこには、見えるところ全てが紅潮している坂木のあわくった顔。
「ん……って……」
 何しようって──って……オレは何をしていたっ?
 痛みも来生を正気に戻したが、その坂木の言葉がさらに思考をも正気にする。
「あっ……」
 その時になってようやく我に返ったように、来生は今の今まで坂木にふれていた唇を手で覆った。
 何をしようとした?
 いまだに唇と舌に残っている男にしてはきめ細かな肌の感触に、どう考えても治療の一貫なんて誤魔化せる代物ではなく……。
「あ、あのさ……なんか……その……」
 もう一方の繋ぎ止めていた指を離して、その強張り具合にまた顔を引きつらせる。
 そんなにも力を込めていた意識はまるでなく、その目の前で坂木が顔を引きつらせながら、繋がれていた指を何度も何度も曲げ伸ばししている様子に、もう何を言っていいやら判らない。しかも坂木の眉間に深いシワすら寄っているのを見ると、もう大混乱状態だ。
「あ、あのさ……その、熱もってそうだったから……。いや、その……舐めりゃ治るかなあって……」
 治したいと思ったのは事実で。
 だが、舐めようと思ったのは……美味しそうだ、と思ったから……なんて言えるものではない。
 舐めるどころか噛みつきたいとすら思ったことも。
「……舐めて治るのは傷口ですよね……」
 深い息が吐かれ、坂木が睨むように目を細める。
 縁が少し赤くなっているその目が恐い。
 またしても怒らせたと、来生はビクリと無意識のうちに半歩後ずさっていた。途端に、今度は来生の背後でフェンスが鳴る。
「……痛かったです……」
 目の前に掲げられた手にはくっきりと金網の痕が残っていて、少しすりむけていた。
「すまん……」
 反射的に言えた言葉はさっきから繰り返された言葉だけで、二の句が継げなくて口を噤む。
 治療と言うには、妙な行為だと……自覚はあるだけに、坂木の一挙手一投足が恐くて、萎縮してしまう。考えてみれば、随分気持ち悪いと思わせる行動を取っていて、本日何度目かも判らないほどの後悔が湧き起こった。
 そんな来生に坂木が何も言わないのが、さらに来生の不安と後悔を煽る。
 が。
「でも……なんかズキズキしていたのが治ったような気がするから……これはこれで効いたのかなあ?」
「へ?」
 しばしの沈黙の後、坂木が言ったのはそんな言葉で。
 しかも苦渋に満ちていたと思った表情に浮かんでいるはどうみても苦笑。
「獣は舐めて治すって言うから……やっぱり治るんでしょうかねえ?」
 そういって来生を見て、そしてすりむいた手の甲を顔の前に翳した。その傷を、坂木の赤い舌が舐める。
「っ!」
 ごくりと喉が上下して、逃しきれない何かが来生の疼きまくっていた下半身と脳髄を再びおかし始めた。
 その扇情的な眺めから、どう足掻いても目が離せない。
 だが。
「来生さんって……やっぱり動物的ですよね。考え方も行動も」
「へ?」
 おかしそうに笑っているその姿が信じられないと呆気にとられる来生の前で、坂木が照れたようにがしがしと頭を掻いていた。
「俺も……また、乱暴な言葉使ってしまって……。でも、ほんと今回のはびっくりしたから。それにそんなとこ舐められたら、いくら男同士でも感じちまうし……だからとっさに……。その痛くなかったですか?」
「え、いや……」
 え?とこれは……。
「やっぱりその……感じちまうのって恥ずかしいし……」
 それが当然だろう──というか、それで終わるのか?
 想像していたのとは違う坂木の対応に、来生も何を突っ込んでいいのか判らない。
 本当に治療だと思っているのか?
 『動物的ですね』と言われた言葉は、どうやら前からそう思っていた節が感じられて。だから来生のあんないいわけを信じたというのだろうか?
 それはそれで助かると思いつつ、だが、動物的という言葉は、どうにもほめ言葉には思えない。
「なんだよ、動物的って?」
 やってしまった事があまりにも恥ずかしくて、その動揺を隠すようにぶっきらぼうに言い放つと、坂木が慌てて手で口を覆った。
「あ、やば……」
 そんな声までかすかに聞こえる。
「おいっ」
 睨んだ先で坂木がごまかすように笑っていた。だがそれにほっとしてしまう。
 下手すれば、変態扱いされてもしようがないことをしてしまったのだと、落ち着いた頭が指摘していたからだ。
「いやあ……来生さんって、新しいお客探すときに、よく『俺の勘だとここがとれる』とか……言われていますから……それで、みんながそんなことを……」
「みんな?」
「ええ、みんな」
 さすがにそれには反論したかったが、今は先ほどの行為を気にしないでいてくれるだけが幸いだと、よけいなつっこみはなしにして、ほんの少し不機嫌そうに口元をゆがめた。
「あ、でも、野性的ってわけじゃなくてですねっ」
「ああ、いいよ、もう」
 泡食って一生懸命いいわけを考えている坂木を見ていると、今までのことが全部嘘だったように思える。このまま二人して無かったことにできるのなら、それでいいから。だから、来生は心の中にわだかまる何もかもを押し殺して、いつものように坂木に笑いかけた。
「な、ここって暑いし……事務所に戻ろう?湯沢さんが、お前のケガ気にしているんだよ」
「あ……。すみません、オレ……。飛び出したまんまなんですよね」
「ん、だからさ」
 その背を押して、前を歩かせる。
「それに……その……。問題の気がかりシート、なんかオレのも考えてくれよ。なんも思いつかなくてよお」
 それどころではなかったし。
 愚痴に似た言葉に、坂木が少し目を見開いて、そして吹き出した。
「やっぱ来生さんってそうなんですよねえ」
 何が?という言葉は飲み込んで、とんとんと軽快に降りていくその後ろ姿を見つめる。
 その動きに違和感はないようで、来生は坂木の気づかれないようにそっと安堵の吐息を漏らした。
 と、カンカンと鳴る靴音に、坂木のつぶやきが重なった。
「…こっち……ないで……」
「何か、言ったか?」
 それが苛ただしげに聞こえたものだから気になって問いかけると、
「いえ、なんでもないで?す」
 いつもの明るい声が返ってきた。
 まださっきの余韻をひきずって気にしているのか?と首を傾げる来生の前を、坂木は先ほどよりスピードを上げて勢いをよく降りていっていた。


「うわああっ、凄いっ!!」
 事務所に戻った坂木の、来生の机を見た第一声がそれだった。
「……んな、大げさな……」
 ここは事務所で、周りには人がいるというのに、と、その坂木の言葉に来生の顔が赤く染まる。
「で、でも……綺麗です?っ」
「……だってよ……」
 ボリュームがあったら下げたくなるほどの坂木の声とは反対に、来生の声が小さくなる。
 だって……あんなことお前に書かれたら、綺麗にせざるを得ないじゃないか……。
 あんなに怒らせた原因が自分の行動にあるとは思っていたから、謝るためにも態度で示そうと必死で整理して、ボックスファイルにとりあえず仮ではあったが書類は分類して差し込んで。それがなんとかなったから坂木を呼びに行ったのだった。
 だが。
「これだったら、もう発掘作業しなくていいんですよねっ」
「……発掘……」
 そこまで酷かったと言われると、面映ゆさも手伝ってもう笑うしかない。
「やっぱり書いてよかった?、こんなに効果あるなんて。だったらもっと書いたらもっといろいろしてもらえるんですよねっ」
 ねっ、て……お前……。
 まだあるっていうのかよ……。
 ずいぶんとうれしそうに、そして楽しそうに指折り数えている坂木に、クラッと目眩がしそうだと、力無く椅子に座り込んだ。
 たぶんこの状態を維持するのも結構たいへんだろうと思うのに、これ以上別の場所を指摘したらやっていられない。
 だが、期待に満ちた目で見つめられて、これ以上はやめてくれ、などとはとても言えるものではなかった。

【了】