ABC:活動基準原価計算(activity based costing)の略称。
部門ごとにではなく,製造活動ごとに原価を発生させる要因を識別し,これを基準として製品に配賦して原価を計算する方式。
なんて大層な略語を出していますが、仕込み損ねて、今回に限っては、こちらの意味。
ABC:いろは、基礎、初歩、入門
++++++
忘年会シーズンがやってきた。
と思う間もなく、その開催日が知らされた。
「坂木は?行くのか?」
場所と金額と、そして日付。
現在位置からすれば、『はるか彼方』という言葉がぴったりの場所に、来生平は獣じみた唸り声を喉の奥で鳴らした。
「ちょうど工場で報告会がある日ですよね。前泊とチケット代は会社持ちOKとして、金曜の夜の泊まりって自腹ですか?」
坂木が微かに首を傾げ、来生を見やる。
ふわりとした柔らかな笑みだったのが、悪戯っぽい笑みに変化していた。
「まあな」
「どっか安いところに泊まれるといいですけど。できれば参加したいです。こういう時でないと工場の人達と一緒に飲みに、なんてことできないですから」
「そうだよな」
かさりと微かな音がして、まだ綺麗なシワのない紙が机の上に置かれる。
工場便の封筒を開けると入っていたそれ。
タイトルは、「社外検討会」だ。
──一体、何を検討するつもりやら。
工場の人間の洒落っ気に思わず笑ってしまったけれど。
ただ問題は、坂木も言ったように往復は出張旅費でなんとかなるが宿泊は自腹だと言うことだ。
「まあ、そうあるものじゃないし……。ま、いいか」
呟く言葉は参加の意思の表れで、既に右手が携帯を取っている。ちらりと坂木を見上げて窺うと、彼もこくりと頷いた。
本社から2名参加決定。
「いいなあ」
アシスタントの湯沢が羨望の眼差しを向けてくるけれど、彼女の旅費は会社は出してくれない。
「こっちの忘年会で我慢してくださいね。面白いことがあったら報告しますから」
坂木がにっこりと笑みながら答えると、湯沢も不承不承頷いていた。
「写真でも撮ってくるよ」
「絶対にですよ」
来生も電話が繋がる間に軽く宥めて。
「ああ──あ、もしもし、こんにちは、お疲れ様です。あ、実は「社外検討会」って奴……」
幹事である工場の橋本に参加の意思を伝えた。
もちろん電話をしたのはそれだけではないが、来生の声も自然に明るくなっていた。どんな内容にしろ、楽しいだろう事は間違いない。
もっとも坂木が一緒となるとどんなことも楽しいのだけれど。
「で、社内の本番の会議は?」
「あ……そういえばR社との品質関連の会議だっけ」
電話の傍らで、坂木がぽつりと呟く。
開発品であったそれの本採用が決まりかけてきて、その品質的な内容の詰めをしなければならない。
その話をメインにするのは工場の人間だが、普段直接取引をするのは営業の人間だ。特に品質に関わることは、こちらとしても無視できない。
「ん、先日訪問した時の議事録見て貰った?結構厳しいこと言われているからね」
だが、何度も通った道だから、工場も営業も慣れていると言えば慣れている。
ただ、各メーカーによってISO9001とかFMTAとか、採用している品質規格が違う。
それだけは間違えないようにしないといけないと、来生は傍らのファイルを取り上げた。
「ええと……R社からは……」
来生と橋本との幾つかのやりとり。
その間に坂木がちらりと時計を見た。
「あ、……そろそろ行きます」
小さい声に来生は電話で話ながら頷いた。
R社とは違うが、それでも重要な所を坂木は受け持っている。そこに向かう時間が来ていたのだ。
湯沢や他の人間に挨拶しながら出て行く坂木は、今日も地味なスーツとネクタイなのだが。
来生の目は坂木が部屋から姿が見えなくなるまで追っていた。
──可愛い腰しているよなあ……。
その来生の脳の大半が、仕事そっちのけでそんな妄想を抱いているなどとは、電話の相手である橋本も気付きはしなかった。
工場の忘年会は質より量なのだと来生は初めて知った。
山盛りの料理が次々にテーブルに運ばれてくる。
開発だけでなく、製造や技術の関連する人間も参加しているので20人近くいる。みんなラフな格好をしている中で、営業組の二人だけがスーツにネクタイ姿だ。どことなく違和感がある二人だったが、彼らのように着替えるわけにもいかない。せいぜい上着を脱ぐだけだ。
そんな中で、幹事である橋本が忙しくしていた。
だが、それも余興の1つのように皆の笑いを誘う。
「相変わらず、世話女房とも言うんですかね」
坂木もグラスに口を付けながら小さく笑っていた。
薄暗い照明の中、先に食べた唐揚げのせいか唇が滑るように光っている。
自然に来生の視線はそこに向かっていた。
「橋本さんは、昔からああだからな。一人でもああいう人間がいるとこっちは助かるよ」
「そうですね」
営業の忘年会だと、下っ端の坂木が今の橋本の役をすることになる。
だから、こんなふうにのんびりと飲んでいる坂木と共に、というのは来生にとっては久しぶりだった。
大勢いるのに、二人っきりのような雰囲気に、来生の喉が自然に上下する。
だが。
「来生さあん、何静かにしているんですか?」
と、すかさず珍しい人間の参加に悦んでいるメンバーに引っ張り出される。
「飲む時はこんなもんだよ。なあ、坂木?」
「まだそんなに飲んでいないですからね?、来生さんは」
「え?、飲んでないんですかあ?」
「坂木っ」
荒げた声は、艶やかな笑みで返されて、来生はそのまま見惚れて言葉を失う。
「つぶれてもちゃんと部屋に連れて帰って上げますから」
「あっ、二人ともホテルなんだ。そりゃそうよね」
紅一点の三宅が来生のグラスにビールを注いだ。口許も目も、楽しそうににっこりと笑みを浮かべていて、視線が飲めと強制する。
「夜中に飛行機は飛んでないよ?」
来生の本音は、できればあまり飲みたくない。
簡単につぶれるほど酒に弱いわけではなかったが、思った以上に工場側の人間のペースは速い。
いつもと違う雰囲気に飲まれると、坂木の言葉ではないがつぶれてしまいそうな予感はあった。
だが、それはできれば避けたいのだ。
だから半分ほど飲んで、三宅の意識を逸らす。
「三宅さんは?それ、カクテル?」
「ん……あんまり飲めないのよ。だから口をつけただけなんだけど」
薄いオレンジと桃色が混ざったようなフルーツ系のカクテルは、まだ半分も減っていない。
「へえ」
「なんせ、帰りは電車で。ちょっと遠いのよ」
くすくすと笑う三宅の雰囲気も、そして周りの人達の雰囲気も仕事中とは明らかに違う。
そして、坂木も。
「坂木も飲めよ。お前がつぶれたら俺が連れて帰ってやるからさ」
「へへ。でも来生さんだと送り狼になりそうですよお」
「誰が……」
強い口調で否定しようとしたのに、実際には震える声を押さえつけようとして低いものになった。
鼓動が急に早くなって、体が熱を持ったのは酔っぱらったせいではない。
「お前が女なら考えたかもな」
つぶれた坂木をベッドに寝かせたそのシーンを想像したから。
来生の手が肌に触れてもびくりともしないほどに酔っぱらって寝込んだ坂木の姿を。
だが、坂木にバレるわけにはいかないと、わざと半分否定する。
「やっぱり」
そんな徒労も坂木は笑って聞き流した。
「来生さんって、そういう雰囲気ありそうですね。笑って安心させて飲ませて、でもそのままお持ち帰り?なんてとこ」
「ええっ、そうなのっ?」
「おまっ、んな人聞きの悪いことっ」
三宅の驚きの声と、来生の泡食った否定の声が重なった。
「なんていうか、動物的なところがあるし」
そんな二人に邪気のない笑顔を向けて、少し首を傾げて窺うように喋る。
「動物的って……」
そういえば前にも言われたとは思う。
だが、その時のシチュエーションを思いだしかけ、来生は慌ててビールをあおった。
白い肌、打ち身で色が変わった肌。
外気に晒されているというのに、暖かかった肌。
「お前、それって仕事の時の話だろ」
冷たいものを飲んでも、カッと熱くなった体の芯は鎮まらない。
そりゃ、アルコールだもんな、と一人突っ込んで確かに熱くなった頬を坂木に知られたくなくて俯かせる。
それなのに、坂木が来生の顔を覗き込むようにしてきた。
「仕事だけじゃないと思いますけど」
間近で上気した顔を晒す坂木に、来生は目が離せない。
「いろんな時にする行動がね、動物的なんです。本能に忠実って感じ」
「お前なあ……」
いつの間にか三宅は他のおいしい話に飛びついていなくなっていた。
何人もの人間が座っていた筈のテーブルなのに、微妙な空間が二人の間に空いていて、二人っきりで話している。
「酔ってんのかよ」
「そうかもしれませんね」
ククッと喉で笑う坂木が、ようやく少し離れた。
通りすがりの店員に「××」と聞き慣れない単語を伝えている。
「何、それ?」
「ん?、カクテルで?」
突き出されたメニューによるとグレープフルーツを使っている物らしい。
「何?カクテル好きなのか?」
「いろんな酒飲んでみたいかなあって」
楽しそうに笑う坂木は確かに酔っている。
いつもは周りに遠慮するように、酒も控えめだった。
だが、今日はホテルに泊まるということもあるのかハメを外しているように見える。
「お前、俺が送り狼になるって言っといて」
つい呟いてしまった言葉を坂木が聞き逃さなかった。
「送り狼になりたいんですか?」
意識しているのかしていないのか、いつもと違う艶のある笑みを向けられて、治まりかけていた熱がまた出てくる。
「お前なあ……」
ここで、ああなりたいとも、なんて言ったらどうなるんだろう?
危うい境界線を漂っているという自覚はある。
あの屋上での一件以来、来生の夜のオカズは全て坂木だ。
一度味わった肌の感触は忘れようもない。
その時よりはるかに色っぽい坂木が目の前にいる。
だが、来生はふっと小さく息を吐いて、坂木から無理矢理視線を剥ぎ取った。
「お前がそうして欲しいって言うんなら別だけどな……。別になりたくなんかねーよ」
微妙な言葉遣い。
それが精一杯で、来生は手酌でビールを注いだ。
ところが坂木はそんな来生のグラスに手を置いて持ち上げさせない。
「おい」
訝しげな視線を向けると、ふふっと笑われる。
「来生さんって鋭いのか鈍いのか判んないですよね?」
なおかつそんな意味不明なことを言われて、来生はぽかんと坂木を見つめた。
「ふふ」
離れる手の温もり。
笑みを含んだ坂木の表情。
そして、言葉の意味。
それらが全て来生の頭の中をぐるぐると回って、呆然と坂木を見つめるしかない。
「お前……」
「ほら、どうぞ」
なのに、座り直した坂木はいつものように後輩らしく来生にビール瓶を向けてきた。
結局、その後坂木はそれに触れようとせず、来生も蒸し返すことはできなかった。
「それじゃ」
「はい?、お休みなさい」
くすくすと笑いながら手を振るのは緑山。
その後ろで同じく笑いを堪えているのは橋本で、リーダーである篠山は誰かに電話していた。
そんな彼らに手を振って、肩に捕まる坂木を揺すり上げる。
「坂木、ほら帰るぞ」
「起きている時もどっちかっていうと可愛いって感じですけど、こうなるとほんと子供みたいですね」
つんつんと緑山に突かれても「うん……」と幼子のような返事をするだけ。
夢と現の狭間にいるような坂木は、来生が手を離すとそのまま地べたに崩れ落ちてしまいそうだった。
「手伝いましょうか?」
「いや、いいよ」
緑山の提案にほんの少しだけ心は揺り動かされたが、それでも意識の大半が拒絶する。
これは俺のだ。
「近いからね、じゃ」
ボンと浮かんだ思考に赤面しかけて、言葉で誤魔化した。
直線距離にして50メートル。その距離も、なんとかなると思うのを手伝った。
坂木の片側の手を肩に回し、来生の手がその手と腰を支える。
導けば、自力で歩こうとしてくれるから、辿り着くことはできるだろう。
「送り狼になって欲しいのかよ」
知っている人間から離れた途端に、来生の口の端が歪んだ。と──。
「……狼?」
「え?」
小さな呟くような声が耳のすぐ近くでする。
思わず足が止まって横を向けば、うっすらと開いた坂木の瞳が来生を捕らえていた。
「起きてんのか?」
「ん……来生さん?」
「そうだよ。おい、歩けよ」
「はあい……」
返事はするが、ふらふらと歩く足取りは歩き始めた幼子のようにおぼつかない。
「ああ、待てって」
手を離したものの、やはり、と思い来生は手を差し出した。
「なんか、うまく歩けない……」
差し伸べられた手に縋る坂木がぼんやりとした視線を向けてきた。
目元まで朱に染まった瞳が、まるで誘っているようで来生のなけなしの理性を突き崩そうとする。
可愛いのはいつも思っていた。
自分の気持ちにうっすらながらに気付いたのは1年ほど前の正月明けだった。
そして、決定的になったのは夏の初めに起きた出来事。会社の屋上で、戯れのように過ぎた出来事。
それから気が付けば、もう年が終わる。
忙しさと、どうしようもない事だという諦めが、さすがの来生にも二の足を踏ませてしまうのだ。
「ちゃんと掴まれよ」
縋る坂木の重量と体温、そして息づかい。さのどれもが来生の欲望を煽る。
ごくりと知らずに上下する喉に触れる、坂木の柔らかな髪。
くすぐったく、なのにそれが下半身を直撃して支える来生の足下も崩れかけた。
「ったく、酔っぱらい」
毒づくふりでもしなければ、意識がそちらにばかり向いてしまう。
来生は先に見えるホテルにだけ意識を集中させた。
──送り狼。
坂木の言葉が幾度も頭の中に甦る。
クリスマスのイルミネーションが煌めく通りはまだまだ人が多かったが、今の来生にとってそれらはその場にあるオブジェでしかない。
たった二人の世界。
坂木がふと視線を地面に落とした。
何かがあるのかと来生も見下ろしたが、何もない。だがその耳に意外にしっかりとした坂木の言葉が届いた。
「来生さん……」
「何だ?」
「……送り狼……なるつもりですか?」
「──何で?」
咄嗟に答えていたが、来生の喉が幾度も上下し、鼓動が早く高くなっていた。
酔っている筈の坂木が来生を見る目が真剣みを帯び、子供のような言葉遣いがいつものそれと変わらなくなっている。
「ならないんですか?」
「なって欲しいのか?」
「さあ?」
坂木から返ってきたのそれは肯定でもなく否定でもない。どちらとも取れる言葉は、来生の心を乱れさせる。
だが、これは酔っぱらっている坂木の戯れ言だと心を落ち着かせようとして、悪戯な後輩を睨み付けた。
「お前なあ……人の気も知らないで……」
後半部、口の中でもごもごと呟いた途端に、どこかで聞いた台詞だと思う。
あれはどこだったろう?
「ふふ……」
そんな来生の心理状況など無視するように坂木が笑う。
腕に縋ってふらふらしているのは変わらないのに、だけど掴まる手の力は強くなっていた。
まるで離さないとでも言うように。
「何だよ?」
問いかけても、坂木は微かに首を左右に振っただけ。
まるで誘われているようだと思う。
問いかけるような視線は、前だけを見ている坂木には届かない。
二人が泊まるホテルまで僅かな距離。
その間坂木は何も喋らなくて、来生も喉まで出かかった言葉を何度も飲み込んでいた。
ホテルにチェックインしたのは忘年会が始まる前。
だからフロントでキーを受け取るとさっさと部屋に入れた。だが。
「同じですねえ」
フロントから受け取ったキーを奪うように来生から取り上げた坂木は、さっさと来生の部屋を開けて中に入っていった。
そのまま帰らない。
その姿は普段なら笑ってすませる類のものだったかも知れない。それとも、まだ飲むか?と誘うこともできたかも知れない。
だが。
それでなくても煽られている来生の心は、苛々として落ち着かないものだった。
酔っているのか酔っていないのか判らない坂木は、うっすらと上気した顔をしていてどことなく落ち着かない様子を見せている。時折、ちらりと来生を見る目は、潤んでいるかのように明かりをゆらゆらと映す。
「坂木……いい加減戻れ」
入った途端にサイドテーブルに放り出された二つのルームキー。その一つを取り上げて差し出す。
だが、ちらりとそれを眺めた坂木は受け取ることなく、備え付けの冷蔵庫からビールを取り出す。
「おい、こらっ」
「飲みます?」
飲むんなら自分の部屋でしろ、と続けたかったのに坂木はにこりと笑ってもう一つのビールを差し出してきた。
中空でビール缶とルームキーがぶつかる。
「お前……この酔っぱらい……」
なけなしの理性を総動員させる苦労を考えろってんだ。
はあ?っと頭を抱えてベッドに座り込むと、あろうことか坂木まで隣に座ってきた。
「……戻れ」
ため息混じりで懇願のようになってしまう。実際問題、来生はひどく疲れていた。
これ以上、坂木といたくない。
酔っぱらった坂木の行動はひどく心臓に悪くて、理性を保つのは至難の業なのだ。
なのに。
「ヤです?」
ふざけた物言いにカチンときた。
手の平に額を押しつけたまま、じろっと横目で坂木を睨む。
美味しそうにごくごくとビールを飲み干す坂木の喉が上下に動いていた。しかも飲む勢いがよすぎているのか、顎にビールが垂れている。それがつつっと白い喉に垂れてきて、坂木が手の甲で拭う。
ごくりと喉が鳴った。
触れたいと思う。
手の甲の代わりに舌先で舐め取りたいと思う。
だが。
「戻れ……」
限界だと思った。
だが、来生はそれでも振り絞るように懇願した。
坂木は大事な後輩だ。
好きだけど、それでも彼は男なのだ。
一線を越えてしまえば、坂木とは今までのようにつきあえない。
ぎりっと奥歯がきしむ音が骨を通して頭まで響く。
ほんの僅かのタイムラグ。
「戻りません」
きっぱりと坂木が言う。
くすっと笑った坂木が手の中のビールをごくりと最後の一滴まで飲み干すと、カタンと音を立てて缶を置いた。
その音が合図だった。
「っ!」
見開かれた坂木の目がすぐ目の前にある。
痩せていると思えないが、それでも小柄な体に見合った細い肩が来生の両手の下にある。
その後ろにあるのが白いシーツ。
坂木の体の下から放射線状にシワが広がっている。
「戻れと言った」
それでも戻らなかった坂木が悪いと、来生は暗に責めた。
僅かに開かれた赤い唇が来生を誘う。
そのまま止まることなく唇を奪った。途端に、びくりと手の下の肩が震える。
そんなことにすら煽られて、今度はもっと強く押しつける。触れるだけでも、ビールの香りが漂った。
首から上は自由なはずなのに、坂木は避けようとしない。どうしてなのか、等とは考えもしなかった。柔らかな唇を嬲りたくて、角度を変えて何度でも啄む。
「っ……ふ」
微かに聞こえる吐息が荒れてきた。
応えるように緩む唇にさらにキスは深くなり、欲するがままに舌を差し込んだ。
苦いビールの味が舌先を刺激する。
その瞬間僅かに押し返されるような感触があった。が、すぐに絡めた舌が従順さを見せる。
ふと気が付けば坂木の手が縋るように来生の腕を掴んでいた。
「坂木?」
さすがに変だと気付く。
味わうために閉じていた目をうっすらと開ければ、目元まで赤く染めた坂木の目を瞑った姿があった。そこには拒絶を窺わせる物などどこにもない。
「どうして?」
それどころか、待望のものを受け取れたというような嬉しそうな笑みすら窺える。
来生の問いかけが聞こえたのか、その坂木がうすく目を開いた。
「来生さん……」
掠れた声が心地よく来生の耳に届く。
「坂木、どうして?」
「……鈍いですね」
くすっと吐息が来生の濡れた唇をくすぐった。
その言葉の意味が判らないほどには鈍くはない。だが、坂木の言葉が信じられない。
しばし呆然と坂木を見つめて、ようよう問いかけた。
「いつから?」
「最初からですよ。もうずっと……ですよ」
その言葉に、頭の中が『最初から』を探す。
最初に坂木に会ったのは、入社後配属が決まってからだ。去年入社したのだから、もう二年近く前となる。
「嘘……だろ?」
信じられないと首を横に振れば、腕を掴んでいた坂木の手が来生の両頬を捕らえた。
「僕ね、一目惚れだったんですよ。まあ、もともと女の子よりは男の人に憧れる事が多くて。だけど、好きだって思ったのは来生さんが初めてでした。でも来生さんはどう見ても普通の人だったし」
「お前……ゲイなのか?」
「さあ……そうなのかも知れませんね」
さらりと何でもないことのように流した坂木は、少なくもと普段はそんな様子は見られなかった。
ぱちくりと瞬きを繰り返す来生に、坂木はおかしそうに笑う。
「でも、だからと言って男の人とどうこうしたいってのは思ったことなかったんです。他に興味があってつきあいってのが面倒だったのかも知れないけど。なのに来生さんは違った。好きで、好きで……来生さんならって思ってしまった」
何が『なら』なんだろう?
ドキドキと高鳴る心音が煩くて、考えがまとまらない。
「坂木……その」
「でもそんな思いをぶつけても気味悪がられると思ったから、ずっとバレないようにって振る舞っていた。あの時まで……」
「え?」
呆けたように反応したけど、来生にはその言葉の意味が判っていた。
「あの屋上で来生さんに触れられた時……。きっと来生さんは僕のこと好きなんだって……そう気が付いた。でないと……あんなことしないでしょう?」
くすくすと笑う坂木に、来生は羞恥に焦がれてカアッと全身が熱を持った。
確かに、普通ならおかしな行為だった。だが今なら判る。それに気付かないふりを坂木はしていたのだ。
「意地が悪いな、それで気付いたくせに、今まで黙っていたのかよ」
「違います。待っていたんです」
じっと見つめられる体勢が苦しくなって移動しようとするのだが、坂木が来生を捕らえた手を離さない。
「来生さんが言ってくれるのをずっと……。でも……あれから半年経ったのに未だにダメだったから、僕もキレて……」
「じゃあ、今日は」
「恥ずかしかったけど」
ではあれもこれも確信犯的行為だったのだろう。
来生が煽られて当然だった。
「お前、酔ってなんかないんだろう?」
しっかりとした口調に、そこまでも演技だったのかと伺えば。
「少しは酔っていますよ。素面だったら……恥ずかしすぎてできない……」
ようやく坂木が恥ずかしそうに視線を逸らした。
からかわれたのかと思って醒めかけていた熱が、一気に全身に広がる。
ここまでされて、男だったら躊躇っている場合ではないと思う。欲しい相手が、リボンをつけて体を投げ出しているのだ。それを突き返すのは、相手にとってどんなに失礼なことだろう。
覚えずごくりと唾を飲み込んで、来生はできるだけ冷静に声を出そうとした。
「……俺、動物的なんだよな」
「そう言ってるでしょ」
「何にも知らないけど……始まったら止まんないと思うけど」
「……止められる方が侮辱だって判ってます?」
「本気かよ」
それでも問いかける。
と──。
「本気でなかったら、こんなことできない……」
言葉と共に、坂木が頭を持ち上げる。同時に来生の頬を引き寄せて、その唇にきつく己の物を押しつけた。
触れるだけの拙いキス。
たったそれだけで、耳の後ろまで赤くなって手を離す。
その初な反応に、先ほどの先の言葉が甦った。
「……初めて?」
離れて大きく息を吐き出している坂木をまじまじと見つめると、目尻まで赤く染まった目で睨み上げてきた。
「そう言ってるでしょう?もうそんな恥ずかしい事聞くんなら、部屋に戻りますよ」
怒っている表情が酷く扇情的だと思う。こんな坂木を離すつもりは毛頭なかった。
好きになったのは坂木よりは遅いかも知れない。だが、焦がれていたのは一緒なのだから。
「戻さないさ、キスの仕方なんてこれから俺がいくらでも教えてやるから。全部、全部……何もかも俺が教えてやるから」
来生の言葉に拗ねていた坂木の顔がふわりと緩んだ。
嬉しそうな、だが突けば今にも泣きそうな笑顔。そんな坂木を見つめる来生に彼に対する愛おしさが募ってくる。
「好きだ、坂木。ずっと好きだった」
言いたくて、だけど言えなかった言葉がさらりと口をついて出てきた。
「はい……」
今度こそ互いが求めてキスを交わす。
来生の手が坂木の頭を抱き、坂木の手が来生の背を抱く。
深くなったキスはいつまでも続き、手の中の後輩は大切な恋人へと昇格していた。
ネクタイを緩めて、シャツのボタンを外していく。
先ほどまでの大胆な行為はなんだったのかと思うほどに坂木は羞恥に顔を逸らしていた。
「大胆なことしてた奴とは思えねーな」
露わになった肌に口付けると、ざわりと肌が蠢く。
「……これでも必死だったんですって」
「したくて?」
揶揄する言葉に、坂木が反論しようとする。だが、来生の手が降りて敏感な場所に触れると、クッと喉を詰まらせた。
「ま、キスだけでこんなにも感じているんだもんな」
手の平に感じる膨らみは、かなりの硬度を保っている。それだけで坂木がせっぱ詰まっていたんだと知って、来生は愉しくなった。
「しかも童貞だしな」
「もう……」
唇を尖らして来生を睨む。だけどそんな表情も可愛くて仕方がない。
「いいさ」
童貞とか処女とか、そんな事に拘る自身ではないと思っていた。だが、やはり何にも犯されていない真っ白な大地に一歩を踏み出すような嬉しさは確かにある。しかも、坂木の言葉を信じるなら来生が初恋ということになる。
「じゃあ、最初は優しくしてやるから」
男相手はしたことがない来生だが、女相手なら経験はある。
つつっと唇で肌の上を滑らすと、恥ずかしそうに坂木が身を捩った。
漏れそうになる声を押し殺すように手の甲で強く口許を押さえつけている。
「ばっか、我慢なんかするな。声、出せよ」
ぐいっと手を避けさせれば、嫌々と首を振る。それでも、来生はその手を離さなかった。
「……っ」
「ま、いいけど。でもすぐに我慢なんかできなくさせてやるよ」
愛おしさはさっきよりさらに強くなる。
何もかも初めてである坂木に無茶はさせたくないのだが、だが可愛い彼の痴態をもっと見たいという欲求はさらに強くなっている。
快感に乱れて、必死になった様を見てみたい。
丁寧な言葉遣いなんかしていられないほどに。
シャツのボタンを全て外して前をはだけると、前に屋上で触れた場所まで露わになる。あの時青黒く変色した場所は、もう区別が付かなかった。それでも、何度も夢に見た行為だから、その場所ははっきりと覚えている。
坂木が大きく息を吐くたびに、微かに震えるその肌に口付ける。途端に他の場所に触れた時よりはるかに激しく坂木の体が震えた。
「そ、そこはっ……っ!」
せっぱ詰まったように坂木が来生の頭を押しのけようとする。
たが、来生は踏ん張ってそれをさせなかった。それどころか、何度も何度も吸い付く。
「んっあ……くっ」
そのたびに坂木の肌が震える。
あの時打ち身を作った場所は、坂木にとっての性感帯になっているのだろう。あの時も何度も来生の唇がここを這った。感じてしまうから恥ずかしいと言ったのは坂木だったではないか。
フフッと来生の口元が笑みを形作る。
恋愛には興味がなかったと言っていたが、だが男の体は素直に反応する。坂木が来生への思いに気付いた時から今まで、自慰に到らなかったとは思えない。
だからこそ、せっぱ詰まった坂木が、来生を煽ってまでこういう関係になろうとしたのだから。
つまり来生が坂木のことを思って自慰していたように、坂木も来生のことを思っていた訳で。
一体どんな事を想像としていたのだろうか?
「坂木……他にどこに触れられたい?」
カチャリとベルトを外す音に載せて声をかける。
「ど、どこって……」
「お前さ、したくなったらどういうふうにしてんの?」
ジリッとファスナーが降ろされると中の膨らみがはっきりと露わになる。だが、来生の問いかけにどう答えようと四苦八苦している坂木は気付かない。
「したくなんか……」
「嘘突け、こんなに立派なもん持ってんのにさ。しかも俺とこうしたい、なんて思っていたわけだろ?」
「うっあっ」
気付かれる前にさっさと下着の中に手を突っ込めば、しっとりと温かな塊が手の中で震えた。
「来生さんっ」
「こうやって扱くわけ?どんな事を思って?」
「うっ、やめっ」
ゆるゆると上下に扱くと、堪えきれない呻き声が坂木の口から漏れた。ぐっと押しのけるように肩を押される。必死な様子を上目使いで窺えば、真っ赤になってぎゅっと目を瞑っていた。
好きな相手に扱かれているという快感は、手でするよりはるかに激しいことを来生は知っている。しかもこういう行為は坂木は初めてなのだ。自分の受けている快感に狼狽えているそんな表情をもっともっと見ていたくて、来生はさらに激しく手を動かした。
「うぁっ、来生さんっやだっ」
「任せろ。達けばいいから」
「だ、だってっ」
空いた手でぐっとズボンと下着をズリ降ろす。目の前に飛び出したそれは、小柄な体にしては立派なサイズで、男らしい猛々しさを持っている。
なのに、可愛いと思う。
愛おしいそれに口付けることが厭わしくない。
それどころかもっともっと悦ばせたくて、来生は躊躇うことなく口に含んだ。
「あっ」
びくんと坂木の体が仰け反る。
肩を押さえていた手が外れ、今はもう所在なげにシーツを握り占めていた。
「あっ……来生さんっ、それきついっ」
「ん、きもひいい?」
含んだまま問いかければ、その微弱な振動に坂木がまた喉を鳴らす。
その声が甘く耳から来生の脳をとろけさせる。惚れてしまえばあばたもえくぼというが、今の来生には坂木の何もかもが快感を煽った。
坂木のものを銜えて感じさせているだけなのに、触れてもいない来生のものはズボンの中で窮屈だと喚いている。堪らずにに来生は片手で前を緩めた。
はっきりと自己主張する来生のものが、坂木の足に触れる。
途端に、坂木が驚いたように目を見開いた。
「来生さん……それ……」
「ん、お前が可愛いから俺のもんも育っちまって」
さすがに照れて言い訳をする。だがその拍子に口から零れた坂木のものが来生と唾液で繋がっていた。
その痴態は互いの視界に入って、坂木はイヤだと言わんばかりに小さく首を振っていた。だが、その拍子にそれまでもがゆらゆらと揺れる。それを来生はばくりと口で銜えなおした。
「んくっ」
「ん?」
含んだ途端に、口の中に違和感を感じる。さっきまでとは違う味の変化。
笑みが来生の顔に浮かんだのに坂木は気付かない。
いきなり激しくなった来生の口腔の動きに、ぎゅうっと目を閉じて堪えているからだ。
だが慣れないうえに、手までも総動員されて扱かれては坂木はもたなかった。
「んくうっ」
呆気ないほどに簡単に弾ける。
口の中に広がる独特の味に思わず来生は銜えていたそれを外した。
途端に口の端から白い液がぽたりと糸を引いて落ちていく。
「あ……僕……」
呆然とそれを見つめた坂木が、途端にカアッと全身を真っ赤に染めた。
意図しなかったのだろう。何度も何度も首を横に振っている。
「良かったろ?」
慣れない味に少しだけ顔が歪んだが、それでも可愛い痴態を堪能できて来生にしてみれば悦びの方が大きい。手をついてにじり寄れば、坂木がぐっと持ち上げていた上半身を反らした。
「あ、あの……」
「何だ?」
「その……すみません……」
「何で?」
「何でって……その」
「うまかったぜ」
ぺろりとわざとらしく舌なめずりすれば、びきっと坂木が硬直したのが判った。
手を伸ばして腰から太股にかけてゆっくりとなぞると坂木の肌がぞわりと粟立っていく。
しかも、目の前の男の象徴は、一回達ったくらいでは萎える様子がない。
「さて、まだまだだろ?」
勢いをつけて覆い被されば、坂木が甘いため息を吐いた。
「もう、どうとでも……」
一見投げやりな態度ではあったが、それが恥ずかしさ故の素っ気ない態度だと来生は気付いていた。
なぜなら、手が腰の周りに触れるたびに坂木が何度も喘ぐ。
達ったせいかさっきより敏感になっているのだろう。感じて仕方がないと言った様子に、来生も止めることなどできなかった。
そっと手を後ろに這わせると、固くすぼまった場所に当たる。
途端に坂木が怯えたように震えた。
来生の意図を感じたのだろう。いや、最初からそれを期待していたはずなのだ。
だが、そこで来生の動きはぴたりと止まった。
さすがにそこから先は初めてなのだ。
女のように感じれば濡れてくれるという代物ではない。となると濡らさないといけないことくらいは知っている。
だが……家ならいざ知らず、ホテルにそんなものはあろう筈もなく。
「あ、あの……」
来生がどうしたものかと逡巡している様子を察したのか、坂木が躊躇いがちに声を掛けてきた。
「何だ?」
「僕のバック……ちょっと待っててください」
ぐいっと押しのけられて、来生はそれに従うように体をずらした。するりと坂木の体が来生の下から這いだして、ベッド下に転がっていた自分のバックに手を伸ばす。
「何だ?」
「その……用意してて」
「用意?」
訝しげな来生の問いかけにこくりと唸すぐだけで返した坂木が取り出したのは、まだ新しい潤滑剤とコンドームの箱だった。
「それ……」
「その、痛いのは嫌で……」
差し出された箱を受け取る。
来生はマジマジとそれを見つめ、そして坂木に視線を移した。その不躾な視線の先で、坂木は来生に背を向けたまままだ身につけていたシャツやズボンを潔く脱いでいく。
「言ったでしょう。キレていたから……だから」
「用意していたのか」
そこまで我慢させていたのだろうか?
坂木にこんなものまで準備させるほど。
再度手の中に視線を落とす。
二年近く、来生への思いを抱えていた坂木。
その思いがこの手の中にある。
「すまないな、我慢させて」
思わず謝っていた。いい加減己の鈍さに呆れてきた。少なくとも坂木の事が好きだと気付いた時から、あれだけ坂木の事ばかり見ていたはずなのに、彼の思いには気付かなかったのだ。
「いいんです。ずっと我慢していたから、今はとにかく嬉しい」
全てを脱ぎ去った坂木がその無防備な裸体を来生の目に晒す。
向かい合って手を伸ばし、来生のまだ着たままのシャツをそっと外していく坂木。少し俯き加減の恥じらった姿は、来生の体をさらに昂揚させた。
「坂木……好きだ」
「……僕もです」
はらりと肩からシャツが落とされて、腕から袖が抜かれる。坂木の手がするりとシャツを取り払う。その動きにあわせて来生は彼を抱きしめた。
「だから、お前の体、貰うぞ」
「はい……来生さん」
こくりと小さく頷いた坂木は、じっと来生を見つめて嬉しそうに微笑んだ。
途端に全身が、欲望の元が、熱く疼く。
このまま甘く楽しく最後まで。
来生の胸はそんな期待に膨らんでいた。
『痛いの嫌で……』
だから、坂木のその言葉の意味など、考えもしなかった。
ムード満点だったはずなんだけどな……。
思わず来生がため息を零すほど、いつの間にか恋人達の初めての夜という甘い雰囲気は消え去っていた。
「い、いたっ!痛いって!」
「うるせーよ、少し黙ってろ」
「だ、だってっ!」
ジタバタと暴れる坂木の体をベッドに押しつけて、これでもかというほど潤滑剤を塗りたくった指をぐっと押し込む。
「痛い?っ!」
一本目はまだましだったのだが、二本目、三本目となると坂木は我慢ができない子供のように暴れた。
「暴れるから痛いんだよ」
「だって……マジ、痛いのヤなんだよ?」
泣きが入った坂木の愚痴は可愛いものがあったが、今はそれどころではないのだ。
来生はうんざりしたようになおも暴れようとする坂木の肩を片手で押さえつけた。
「だったら、止めるのか、ん?」
据えた目で睨み付けると、うっと唸って悔しそうに睨み返してくる。
痛くてもしたいのはしたいらしい。
そう思わせるから来生も頑張っているのだが、何せ初めてだからどうしてもこつが掴めない。
「ったく、ムードもへったくれもねーな」
少なくもと坂木を達かせるまでは、最高の雰囲気だったのだが。
可愛い恋人は痛みを味わい出すと激しく抵抗しだしたのだ。なおかつ。
「来生さんが下手なんだよっ」
「誰が下手だっ」
「だって、痛いじゃんか」
聞き慣れた言葉遣いは痛みに翻弄された坂木からものの見事に消え去って、今はもう可愛い泣き言か、もしくは可愛くない罵声ばかり飛び出してくる。
崩れた言葉は聞きたいと思ったが、これは意図したものではない。
「ちったあ、我慢しないと慣れないだろっ」
「でも?痛い?」
無意識だろうが振り回している手で頭を叩かれて、唸る来生はそれでも坂木から指は抜かなかった。だが、痛みを訴える頭があの時の事を思い出させた。
そういや、怪我させた時にもこんな風に怒っていたっけ。
ふざけて転んで腰を強かに打ったあの時。
やっぱりこんな風に坂木はキレていたなあ、とこんな時なのに懐かしく思い出す。
だが、あの時はキレたまま飛び出した坂木を逃してしまったけれど、今は逃すつもりも止めるつもりも毛頭なかった。
「こら、いい加減覚悟しろ」
痛い痛いと喚くわりには、坂木の後孔は来生の指を傷を作ることなくしっかりと銜え込んでいる。
「何、覚悟しろってんだよお」
涙の浮かんだ目が、じろりと睨む。
「そりゃあ、セックスって言ったら突っ込まれるもんだろ?」
「し、しないっ。やっぱ、しないっ」
自分がしたくて誘ったくせに。
マジで痛みに弱い奴だと呆れつつ、だが遠慮するつもりも毛頭なく来生はぐいっと坂木の両足を上げてその間に腰を突き出した。
「ひっ」
しっかりとした硬度を保つ来生の雄が入り口に触れて、びくりと体を震わせる。
「坂木、いつかは越える道だ。女だって、男を受け入れるようにできてんのに、最初は痛いもんなんだぞ。お前も男だったらちったあ我慢しろ」
「で、でも……」
「ああ、もう黙ってろ」
覚悟の決まらない坂木を待つ余裕は来生にはもうなかった。
痛いとは言っていても、それでも押しのけようとする力はそれほど強くない。
坂木だって欲しいのだ。
来生と抱き合いたいのだ。だが、痛みを味わうと暴れてしまうらしい。
だからこそ、来生は坂木の反論を許さないようにぐっと体重を乗せて押し込んだ。
「んくうっ!!」
ギリッときしむ音が坂木の口から漏れる。
勢いよく押し込んだお陰で半ばまで一気に入ってしまった。そのせいで押し広げられた痛みは相当なものだろう。だが、来生は繋がった部分を確認して、ほっと一息ついた。
「安心しろ、切れてない」
「でも……」
苦痛に耐える表情は変わらず。それ以上は言葉も言えないようだった。
「痛いって思いこんでいるから、余計に痛いんだよ。ほら、このままじっとしていてやるから」
「ん……」
半ばまで入った状態で、坂木をぎゅうっと抱きしめる。
暴れたせいで全身に浮かんだ汗が空調に晒されて、すっかり冷えてしまっていた。それを温めるように熱を与える。
もっとも来生にしてみれば、その体勢の方が辛い。
女の時よりははるかにきつい締め付けと、ぴくぴくと絡みついてくる内壁。
全てが入っていないのにも関わらず、その快感は妙なる物として来生を襲う。
もっと挿れたい、という思いは徐々に大きくなって、じっとしていようとしてるのに腰が勝手に動き出すのだ。
「んっ」
「あ、すまん」
坂木が漏らした吐息に、慌てて理性を総動員する。
動かなければ痛みはないようで、坂木の口から安堵のため息が漏れていた。
「……痛くなければ気持ちいいのに……」
あまつさえ、こんな事を言う。
「俺はメチャクチャ気持ちいいんだけどな」
「そりゃ、そうでしょーけど」
恨めしそうに上目遣いで見上げる坂木は壮絶なまでに色っぽい。そんな彼を見て来生が我慢できようはずもなく。
「あっ、い、痛いってっ」
「切れてないからだいじょーぶだっ」
ぐぐっと押し込めば、坂木の中が絡みついてくる。
もうこうなると止まらない。
「うっくうっ!」
「こっちに意識を向けろよ」
快感を求めて動く腰にあわせて、手で坂木の痛みに萎えてしまったものを扱きあげる。
「ううっ」
呻く声に混じって、接合部から濡れた音が鳴り響く。どのくらいの量を使えばいいのか判らなかったのと、坂木が痛がるのでかなりの潤滑剤を使ったのだ。
「んあっ……ヤだっ……んく」
ぎりぎりと腕に坂木の詰めが食い込む。
それでも来生の腰と手は止まらず、快感を追い求めた。
「んっ、たまんねーよ。凄い……」
「だ、だって……我慢してん……から、気持ちよく……っ……くれないと……っ」
「あ、ああ、そうだな」
緩く浅く、深く激しく。
味わう快感にまだ先があるように来生は貪欲に坂木の体を貪った。
「んっ……あっ……くふぅ……」
気が付けば、坂木も来生の首に縋り付いて、ぎゅっと目を瞑っている。痛みに青白かった肌は上気して朱に染まり、口の端から零れる荒れた吐息はどこか甘さを含んでいた。来生の手の中の坂木の雄も、再び屹立して滑りを帯びた液を吐き出している。
「坂木?」
「んくっ……」
ぐいっと抉るように動かせば、堪えきれなかったようにぶるりと肌を震わして喘いでいた。
「お前……感じてんのか?」
その問いかけに返事はない。
ただ、ざわめくような内壁の動きと、震える屹立が来生に答えを教える。
なら遠慮はいらないだろう。
来生は課していた己の枷を取り外し、己自身と坂木とを激しく追い上げた。
「おい、大丈夫か?」
来生が達った後、すぐに坂木も達って、今は二人とも気怠い余韻に四肢を投げ出していた。
「何とか……」
俯せのまま、来生の方を向こうともしない坂木はくぐもった返事をする。
まだ息が整わないのか、肩が大きく揺れていた。
その様子を見ていると、達った瞬間の坂木の表情がまざまざと頭の中に浮かんできた。あれは当分忘れられないだろう。そして、もっともっと見たいと思ってしまう。
それほどまでに、艶っぽい表情だった。
だが、今はこれで満足しておこう。
来生はそう思い、そっと坂木の背に指を伸ばした。
「良かったろ?」
「……はい……」
上気した肌はまだほんのりと朱に染まっていて、ぴくりとも動かなかったが。
「まだ痛いか?もうしたくないか?」
判ってて問いかければ、それに対する返事はなかった。だが後ろを向いたまま隠れるように毛布を頭から被ってしまった。
「おい」
「あんな……暴れて……」
したことが恥ずかしいというより、痛いと暴れたことが恥ずかしいらしい。
その塊を来生は笑みを浮かべながら、抱きしめる。
「痛くないんだろ、もう」
笑いを堪えて、慈しむように優しい言葉をかける。
「もっとしたいだろ?だったら次の機会は暴れるなよ」
こんな状態で、次の機会がはたしてあるのだろうか、と思ったのだけど。
「……すみません……でした」
塊の中から微かな声が漏れ聞こえて、来生は苦笑混じりの笑みを浮かべた。
【了】