【悠人攻略日誌】

【悠人攻略日誌】

 増山健一郎、33歳。
 千代田不動産株式会社、営業1課 係長。
 三ヶ月前に抜群の営業成績を収めて、本社に栄転になった。
 そして、始めてその男に逢った。 
 移動の手続きの書類を持って庶務課の部屋を覗いた時、こちらを見たその男に健一郎は一目惚れした。

 切れ長の目元。少し大きな漆黒の瞳。すっきりと鼻筋に小さめの口。
 さらりと流れる髪は柔らかそうで、その口元に浮かぶ笑みは、天使の微笑み……。
 そのまま抱き付いてキスしたくなるのを必死で堪える。
 健一郎は愛らしいと思うものに、無条件に抱き付いてキスしたくなるとという困った性癖を持っていた。といっても、本人はそれが困った……とは思っていない。だが、さすがに会社では自重していた。
 だが、目の前の男は……男だというのははっきりと分かるのに、そのスーツ姿ですらとてつもなく愛らしく……。
 健一郎はごくりと息を飲みこんだ。
 だが。
「何だよっ、これ。肝心なとこ間違ってるっ!こんなん受け取れる分けないだろ、書き直しっ!」
 口から出た言葉は強烈だった。
 面白い。
 その瞬間、健一郎に目標ができた。
 こいつを落とす。
 にたりと笑う健一郎に、その男は明らかにたじろいだ。

 まず、その男の事を調べる。
 その男は結構有名人で、調べ出すのは簡単だった。
 しかも、健一郎はそこそこに整った顔立ちが男らしくて、女性の人気の的だった。ちょっと声をかければ幾らでも社内の噂を引き出せた。
 それによると。
 男の名前は、明石悠人(あかし ゆうと) 31歳。総務部庶務課の係長。
 社内でも一番パワフルな庶務課の女性を唯一完璧にまとめることができている係長。
 女性には優しくとても気がつくが、男相手には凄く厳しい。
 だが、社内の評判はそれほど悪くない。口は悪いがさっぱりした性格なので、意外に人気は悪くない。
 黙っていれば、天使、しゃべれば、悪魔。
 独身。つきあっている女性なし。当然、男もいない……。
 趣味は、テニス。
 酒は何でもOK。結構飲むが、酔っぱらってしまうとひたすら絡むので、あまり飲みに誘われない。
 実は、甘いものが好きで、ケーキが好き。
 等々。

 営業部の自分の席で、パソコンに打ち込んだ悠人のデータを見ながら、健一郎はにやにやと笑みを浮かべて、悠人を落とす計画をたてていた。
 たまたま同じ部屋にいた同僚達が、気味悪そうに遠巻きにして窺っているのに健一郎は気が付かない。


 1ヶ月。
 健一郎が明石悠人を落とすと決意したあの日から一ヶ月がたった。
 健一郎はその間にじっくりと自分の足場を整備した。
 転勤したばかりの新任チーフともなれば、まずは部下の信頼、上司の信任、そして周りの女性方の人気を取り付けなければ、仕事もままならない。
 急いては事をし損じる、とはよく言ったものだ。
 だが、ただ手をこまねいていたわけではない。
 仲良くなった女性を通じて、庶務課の様子を常に窺っている。
 庶務課の悠人のチームは、38歳のお局 北沢良子が取り仕切っているといっても過言ではない。そして、悠人は彼女のお気に入りということだ。
 ならば、悠人に近づくためには、まずこの北沢を落とさねばならない。
 北沢の好みを、まず把握した。
 駅前のケーキ屋「アンジェリカ」のシュークリームがお気に入りだという。
 早速、外に出たついでに「アンジェリカ」による。
 そこで人数分のシュークリームを買う——当然、悠人の分も入っている。彼が、甘いものが好きなのは、既に調査済みだ。ついでに、自分のチームの女性達にも買っておく。この辺りの出費など必要経費でしか過ぎない。全く惜しむつもりはなかった。
「こんにちはー」
 にこやかに庶務課の部屋に入る。
 一斉に視線が集まる。
 その中に悠人もいたが、冷たい視線を投げかけたかと思うと、すぐさま手元に視線を落とした。
 別にいい。
 今日の目的は、北沢良子なのだから。
 まっすぐに彼女の席に向かう。
 一目で区別がつく。少しきつめの顔、年齢も少し高いのが分かる。
 だが。
「お土産なんですけど、みなさんでどうぞ。アンジェリカのシュークリームなんですけど、気に入るかどうか……」
「あら、まあ!」
 不審気な表情が一転して、にこやかになる。
 リサーチはばっちりだ。
「あなた、先月こられた営業の方よね」
「はい、営業一課の増山健一郎です。みなさんとお近づきになりたいと思いまして、よろしくお願いしますね」
 にっこりと笑みを浮かべる。
 もちろん、この顔が女受けするのは十分承知している。
 一斉に庶務課の女性の目がハートになる。
「他のチームの方の分もあると思いますよ、どうぞ」
 といっても、庶務課は悠人の1係とは別に2係しかない。女性の数は、総勢で7人。2係の係長は女性。つまり、これで悠人以外の全ての庶務課のメンバーを落としたことになる。
「明石係長の分もありますので、どうぞ」
 いきなり振られた悠人は躊躇うが、それでも
「ありがとう」
と、はっきりと言った。
 いいねー。
 礼儀はきちんとしている。
 ますます興味をそそられる。
「しかし、君は仕事中だ。さっさと営業に戻りなさい」
 きっぱりと言い放たれた。
 そこにあるのは拒絶。
 下心を気付かれたか?
 まあいい。
 今日はこの辺で退散しよう……。
 引き留める女性陣に笑顔を振りまきながら、ここでは素直に従った。



 数回の貢ぎ物ですっかり庶務課の女性達と仲良くなった。
 当然、その際には北沢をたてている。
 最近では健一郎が何も持って行かなくてもおやつのお裾分けがあり、書類を持っていっても抜群に処理が速い。
 今日、健一郎は外回りで少し遠出をしたので、和菓子屋の老舗「湊屋」の栗ようかんを手みやげにして庶務課を訪問した。
 残念ながら悠人はいない。
 が、これも健一郎にとっては、計算のうちだった。
 悠人がいないことで、ゆっくりと女性達と茶飲み話が出来るからだ。
 どうも悠人は、健一郎が来ると部屋から追い出しにかかる。さすがに、ケーキやお菓子では釣られてくれない。嫌われているとは思わないが、避けたがっているのはありありと判った。
 仕事中だと言われればそれまでなのだが、女性達がお茶をしている時間でもそう言うのだから、追い出したがっているのは明白だ。
 女性には甘く男には厳しいっていうのは本当なのは確かなのだが、それがなぜかは判らない。
 今日は、この辺りのことを追求してみようと思っていた。
 まずさりげなく。
「今日は明石係長はどこへ?」
 当然この場合北沢に向かって問いかける。
「今は、総務部の会議があって、いっているわ。残念ね」
 意味ありげな視線を投げかけられた。
 ?
「何が残念なんですか?いない方がゆっくり出来るから私は嬉しいんですが」
 すると女性達がお互い顔を見合わせくすくすと笑っている。
「あのー」
 訝しげに笑っている人に声をかけようとしたら、先手を打たれた。
「増山さんって、男でも女でもOKなんですって?」
 興味津々の視線が一斉に集まる。
「え?」
 心底驚いた表情を作る、が、これは手の内の一つであった。
 まあ、本当の事であるので、いつかは広がるのは判っていた。だから、人為的に噂として流したのだ。
 健一郎が両方OKというのは、前の勤務先では公然のことであった。それで査定が下がるかといえば、仕事は人一倍できるので、そうはならなかった。しかもこの度の栄転である。
 最初は本社も何を考えているんだか、健一郎は思ったが、どうやらもともと営業には顔と愛想がいい奴を入れろということで、健一郎はその眼鏡にかなったらしい。もちろん実績もある。
 男とつき合おうが、会社に影響を与えるようなことは決してしなかったので、見て見ぬ振りがまかり通っているらしい。ちなみに、他にもいるという噂を聞いたことがある。
「とぼけたって駄目。たまに明石係長の方、見ているじゃない。楽しそうなのよね、その顔が」
 と、北沢良子。
 さすがにお局様であった。



 否定も肯定もしない健一郎を庶務課の人たちは勝手に解釈したようだ。
 てんでに悠人について話し始めた。
「明石係長、顔はいいのよねえ」
「でも、口の悪さが……男の人たちがかわいそー」
「うんうん、男相手だと書類の一点のミスも許さないのに、女性には甘くって……」
「増山さんも前途多難よねえ」
 前途多難——いいではないか。それこそ攻略に燃えがいがあるというものだ。
「明石係長って、何でそんなに男の人には厳しいんですか?」
 一つ目の疑問。
「昔気質の人間みたいよ。男は何でもできないと駄目。女性には優しく、って感じで」
「でも、昔の親父みたいに仕事以外何にもできない、っていうわけじゃないのよね。一人暮らしなんだけど、掃除洗濯・料理もOKって言ってたわよね」
 それは新しい情報だ。
 健一郎は早速頭の中にインプットする。
「でもそれだけかしらね。なんだか、トラウマでもあるんじゃないかしらって思うこともあるわよ。特にこちらの増山さんみたいな噂のある人って嫌悪していない?」
 北沢の言葉に、他の幾人かが賛同した。
 ……。
 過去に何かあったのか?
 あれだけ整った顔をしていれば、そういう毒牙にかかったこともあるのかも知れない。といっても、かわいそうなどとは思わなかった。それどころか余計に張り切ろうと言うものだ。
「でも、女性には優しいんでしょう?だったら、どなたかつき合っている方がいるのではないですか?」
「それがねー」
 北沢がため息つく。
「みんなに一律に優しいでしょ。だから、女の子達がね友達以上のつきあいにならないのよ。誰だって自分が一番相手にされたいって思うじゃない」
 周りの人たちがうんうんと頷いている。
 なるほど、それも一理ある。
 健一郎も頷いた。
 どうも女性の噂がないと思っていたが、この軍団に気付かれていないとなると、本当にいないのだろう。
 健一郎は、今日の成果に満足して営業部の部屋へ帰っていった。
 ほどなく、悠人の耳にも噂が入るだろう。
 健一郎が狙っているということも入るかも知れない。
 それはそれで楽しめるというモノだ。


 それは全くの偶然だった。
 健一郎は会議を終え、窓際にもたれるようにして自販機で買ったコーヒーを飲んでいた。
 通路の一角にある休憩所。
 会議室の奥にあるここはあまり人も来なく穴場的存在だった。
 そこで疲れた頭と凝った躰をほぐしながら、リラックスしている所に誰かが歩いてきた。
 何気なくそちらに視線を向けた健一郎は、にんまりと笑みを浮かべるとゆっくりと缶コーヒーを傍らの机に置いた。
 悠人だった。
 これから会議なのか、手元の書類をめくりながら歩いてくる彼は、健一郎に気付いていない。
 一番奥の会議室の入口は健一郎のすぐ傍らにあった。
 こちらに何のためらいもなく歩いてくるところを見ると、この会議室を使うのだろう。
「ふむ」
 さてどうしよう。
 このおいしいシュチエーションを利用しない手はない。
 一人ほくそ笑む健一郎は、歩いてくる悠人とのタイミングを計った。
 隙あらば抱きついてやろうと身構える。
 うーん、キス位までは……。
 が。
 悠人がふと立ち止まった。
 手元を凝視していた視線が、何かに気づいたように前方へと向けられた。
 その表情が見る間に険しいものになった。
 気付いたか……。
 苦笑いを浮かべ、悠人を見る。
 悠人の眉間に深いシワが刻まれる。
「こんにちは」
 表情を崩し、健一郎はさりげなく声をかけた。
「……こんにちは」
 露骨に嫌そうな表情ではあったが律儀に返答する悠人に、健一郎は触手でもあればそれを伸ばしたい、と切に思った。
 嫌われているのがはっきりと判る。
 健一郎が悠人を狙っているということが、噂として悠人の耳に入っているのだろう。
 激しい警戒と嫌悪が伝わる視線だった。
 だが、それでも普通に接すれば決して邪険には扱えない性格がそそられる。
 確かに顔も好みで良いとは思っていた。
 だが、知れば知るほど無理にでも苛めたくなる。
 激しく拒絶されればされるほど健一郎は燃えるタイプだった。
 しかも、嫌そうにしかめられた口元など今すぐにでも口付けたい程健一郎の好みにはまっている。
 健一郎の頭の中はピンク一色だった。
 ここが会社でなかったら、文句無く押し倒していただろう。
 だが、ここで暴挙に出れば今後決して悠人は健一郎に近づいてこないであろう事は容易に想像できた。
 それは避けなければならないと思う分別はまだかろうじて残っていた。



「これから会議ですか?」
 にこりと笑みを向けると悠人は硬い表情を崩さずに小さく頷くと、これ以上話すことがない、とばかりくるりとドアに向かいドアノブに手をかける。
 と、健一郎がとっさに悠人の腕を掴んで引き寄せた。
 悠人の手から音を立てて書類が落ちた。
「何するっ!」
 怒りの声を無視して、健一郎は悠人を抱き締める。
 背の高い健一郎からすると悠人の顔がちょうど肩に当たる位置に来た。
「離せっ!」
 腕の中で暴れる悠人は以外に力強く、あっと思う間もなく悠人はその腕を振り解き身を翻した。
「へー、結構素早い。何かやってた?」
 怒りに顔を紅潮させている悠人に健一郎は悠然と笑いかけた。
「うるさいっ!この変態っ!」
 怒声が辺り構わず響く。
 さらりと聞き流す健一郎が煽るように嗤う。
「いいじゃないか。減るもんじゃないだろ」
「減るっ!」
 間髪入れず返された。その反応も面白く健一郎を楽しませる。
 先ほどの抱き心地があまりに良くて、欲情しそうになるのを止められない。
 ほのかに香った匂いがよく似合う。
 このまま先に進みたい。
 振り解く力は強かったが、あれが本気だとしたら本気の健一郎にかかれば逃れることは出来ない。
 紅潮している悠人を見ながら、別の状態で紅潮させたいと本気で思っていた。
「いいね、悠人は。本当に思ったとおりだ。だから、付き合いませんか?」
「え?」
 あまりの言葉に、悠人はのろのろと後ずさった。
 壁にどんと突き当たる。
「お、俺は男なんかと付き合う趣味はない……」
 狼狽えてはいたが、その視線はきつく逸らされることはなかった。
 だからこそ健一郎は悠人を手に入れたいと思う。
「どうして?結構俺達っていい関係になると思うけど。なあ、悠人」
「呼び捨てにすんな!お前にそんな風に言われる筋合いはないっ!」
 健一郎の馴れ馴れしさが悠人の怒りにさらに火をつける。
「いいじゃないか。俺と悠人の仲だろ」
「うるさいっ!誰がそんな仲だ。俺はホモ野郎と仲良くなる気はないっ!そんなに男がいいんならゲイバーでもどこへでも行けっ!」
 一気に叫び、肩で息をする悠人。
 怒りで紅く染まった目元が扇情的で、それが健一郎をそそっているのにも気づいていない。
 だが、この痴話喧嘩──悠人は決してそうは思わないだろうが──は、健一郎が悠人のはるか後方で様子を窺っている集団に気づいたことで終わった。
「ギャラリーが増えたから、また今度ゆっくり話ましょうね」
 悠人はいきなり言葉遣いを変えた健一郎に戸惑う。だが、一瞬後その内容を理解して慌てて振り向いた。
「!」
 声にならない言葉がうめき声として悠人の口から漏れた。
 怒りが羞恥に変わり、きつく健一郎を一睨みすると激しい音を立てて会議室へ入っていった。
「あ、みなさんお騒がせしました。どうぞ……」
 脳天気にも聞こえる健一郎の言葉だったが集団の面々は引きつった表情を張り付かせて顔を見合わせる。
 その中にいた女性が健一郎を睨む。
 庶務課2係長松野だった。
「会議前に明石さんを怒らせないでよ。この後が大変なんだから」
 今の会話の中身より、悠人を起こらせてしまったことを指摘されて健一郎は苦笑するしかなかった。
「すみません……」
「まあ、いいけど。でも前途多難ねえ。明石さん、なかなか落ちそうにないじゃない」
 楽しそうな松野に、健一郎は自信満々に返す。
「必ず落としますって」



 社内メールに一通の連絡が入った。
 差出人は「YOKO MATSUNO」。今まで来たことのない名前に健一郎は首を傾げた。
 誰だっけ?
 大抵の女性の名前は把握している。
 だが……しばらく考え込み、そして思い出す。
「庶務課の松野さんか」
 先日会議室前で逢った女性だ。庶務課に行ったときしょっちゅう顔は合わせていたが、松野という名前が印象に残っていてフルネーム、しかもローマ字だとピンとこなかった。
 メールを開いて読んでいく。
 健一郎の顔に苦笑が浮かんだ。
 その内容は、先日の会議がさんざんであったことの愚痴が連ねてあり、最後に会議前には絶対に明石係長──すなわち悠人を怒らせるな、という、読みようによっては命令とも思える文章だった。
 その最後に、添付ファイルがついていた。
 ダブルクリックしてそれを開くと……。
「ほお」
 健一郎は一人満足げにほくそ笑んだ。
 それは、悠人の週間及び月間スケジュールだった。
 松野は健一郎にそれを確認して、会議前にはちょっかい出すなと言いたいのだろう。
 しかし健一郎は。
「つまりこれを見て、悠人を落とせ、と言いたい訳だな」
と、善い様に解釈してしまう。
 なぜなら、それには会議スケジュール以外の細かなスケジュールまでびっちりと掲載されているのだから。
 作ったの悠人本人であると推測できる。
 その細かなスケジューリングは、それこそ、必ず一人で作業するであろう人事査定の時間と場所……そして、プライベートのことまで載っていた。
 例えば「雅人 19:00」など。
 これは誰かに逢う時間だ。時間からして退社後。
 その名前のみ書かれた親しげな様子がちょっと気になったが、それよりも気になることがある。
「松野さんは一体これをどうやって?」
 プライベートのスケジュールが載っていると言うことは、PDAなどの電子手帳のデータから引っ張り出してきたに違いない。
 その取得方法に健一郎はいたく興味を曳かれた。
 早速メールの返信を打つ。
『このたびは大変結構なものを頂きました。この件で是非ともお礼をしたいと思いますが、今夜のご都合はいかがですか?ぜひともお聞きしたいこともありますので、夕食でもご一緒いたしましょう』
 簡潔に用件のみを送信する。
 プライベートなメールはルール上禁止されているので、件名は『スケジューリングのお礼とお願い』にした。
 そうして、ゆっくりとそのスケジュールを確認する。
 そうしてみると、必ず庶務課の部屋にいない時間、そして必ず一人になるであろう時間などがだいたい把握できる。
 健一郎はそう言ったポイントを全て自分のスケジュールに書き込んでいった。
 既に自分の気持ちは伝えている。
 後は、押して押して押しまくるだけだ。
 ふふふふふ。
 漏れる笑いを止められない。
 そんな健一郎に営業の部屋にいた同僚達は気味悪げに遠巻きにして窺っていた。



 松野から速攻でOKの連絡を貰うと、すぐにしゃれたレストランを予約しておいた。
 それに松野はひどく気に入り、健一郎の問いにいろいろと教えてくれる。
「あのデータね。彼が自分のデータを会社の端末にも確認用に入れているものよ。それをいない時に取り出したの。別にパスワードなんかかけていないし、誰でも見られるのよ」
 ワインを飲んでに少し上気した顔でくすくすと笑う。
「しかし、そういう個人データを勝手に持ち出すのは……」
 なるほどとは思ったが、形だけでもたしなめる。と、松野は目を細めて健一郎を睨んだ。
「あら、増山さんが所構わず彼にちょっかい出すと、こっちの会議はまとまるものもまとまらないわ。決して理不尽な事をいう人ではないけど、頑固な所があるのよ。こうと思いこんだらなかなか折れないし、他の課長達には毒舌吐いてくれるから場が最悪になっちゃうし……。私なんか、同じ庶務課の一員として針のむしろ状態なのよ」
「申し訳ありません」
 それに関してはこちらに非があるのは理解しているので、素直に謝る。
「でね、それを庶務課に戻ってから北沢さんに愚痴っていたら、そのデータを出してくれたのよ」
 なるほど。
 北沢さんなら、悠人の行動を把握しておく必要があるために、その手のデータがどこにあるか判っているという訳か。
 それにしても……。
「ところで、皆さんは男が男を追いかけると言うことに対して、ずいぶんと寛大ですが?」
 一度聞いてみたいと思っていた。
 健一郎自身、そういう所は一切気にならないのだが、そうでもない人の方が多いことも重々承知している。
「うーん。そうねえ、確かにあんないい男と、こんないい男がひっついちゃうってのは、女性にとっては損失なんだけどねえ」
 いい男と言われて苦笑いをするしかない。まあ、その辺の男どもより絵になるとは思ってはいるが。
「でも、どうせ私たちの手に入らないのであれば、楽しく見ている方が面白いじゃない」
「はあ。……でも、手に入らないと思いこむのは早計ではないのですか?私は女性も好きですよ。例えば、松野さんなど結構好みのタイプですし」
 少し目を細め、その顔を見つめる。
 だが、松野はくすくすと笑っている。
「駄目ですか?」
「そうねえ……どう言ったらいいかしら?」
 首を傾げ言葉を探す。
「女性には分け隔てなく優しいのが問題。そういうのって女って嫌なの。誰かのものになる位なら自分のものにって思ったりするけど、二人ともそうじゃない。誰か一人のものになっても、自分と同じような態度を他の人に取るだろうから結局嫉妬に狂ってしまう……それが目に見えるから、最初から手に入れたいと思わない」
 にっこりと微笑む松野の目はどこか冷たく健一郎を見据えていた。
「始めから明石さんしか見ていない人と、男にも女にもなじもうとしない人。二人とも手に入れるのは相当な困難があって、しかも手にいれたとしても割にあわないわ。だから見て楽しむのよ。女を舐めているあなた達は、その位楽しませて貰っても良いと思うわ」
 ぞくりと寒気が走った。
 何もかも見透かされている、と思う。
 健一郎はバイだ。女性と付き合うのはそれはそれで楽しいとは思う。だがやはり男の方がいい。
 それを松野達は見透かしているのだ。
 だから、女を舐めている、と。
「では、私はあなた方がたっぷりと楽しめるようにがんばりましょうか……」
 そう言うしかなかった。
 この場は健一郎の完敗だった。



 手に入れたデータ。
 どう生かそうか。
 先日来、ずっと考えている。
 押して押して押し倒すという手もある。
 しかし、それでは躰を手に入れることが出来ても、決して心までは手に入れることはできないだろう。
 悠人をずっと今まで見てきた。だから漠然とはしているが、そんな気がした。
 彼は、流されることはない。
 もし押し倒したとしても、それは強姦でしかあり得ない。
 だから、最後までいくとしても、それは合意の上でしかあり得ない。
 ……。
 ま、とりあえず、あの頑ななまでの拒絶をなんとかしないといけない。
……男にも女にもなじもうとしない。
 先日松野が言っていた台詞が妙に心に残る。
 ノーマルであれば、多少なりとも好みの女に心ときめいたりするものであろう。しかし、そういうシーンを見ることはない。
 もしかして、奥手なのだろうか……?
 と言っても女とつき合いのが苦手な訳ではない。
 女ばかりの庶務課をまとめている。その事実は、彼が女性の扱いに長けている事が分かる。
「ふう……」
 煮詰まってきた頭からその熱を逃そうとばかり、大きく息を吐く。
 とりあえず、ちょっと逢ってみようか。
 スケジュールをチェックし、仕事の終わる時間を算出する。プライベートらしい時間が記入してあるから、これ以上帰るのが遅くなることはないだろう。
 この時間なら健一郎もちょうど本社に帰ってきている時間だ。


 本社玄関の柱の影で、時計を何度か見ながら悠人を待つ。
「お疲れ」
「お疲れさん」
 時折声をかけてくる同僚と軽く挨拶を交わしていると、悠人がエレベーターから出てきた。まっすぐ、こっちに向かっている。
「こんばんわ」
 にっこりと笑みを浮かべながら、悠人の前に立ちはだかる。
 その顔が、見る見るうちに強ばった。
 眉間に深いしわが寄り、細められた目は健一郎を射るようだ。
「……こんばんわ。失礼します」
 それでも丁寧な挨拶を交わす。だが、それ以上何も言うことはないとばかり、するりと健一郎の傍らを抜けようとした。
 その腕を掴む。
 スーツ越しに掴んだその腕は細く、健一郎はその感触を楽しむ。
「ちょっと話をしないか。時間はまだあるだろう?」
 どこで待ち合わせをしているのか判らないが、ある程度の余裕を持って行動するタイプなのは判っている。
「待ち合わせをしてますから、時間がないのです」
 周りに人がいるのを気にして丁寧な言葉を交わしているが、その頬が怒りのせいかぴくぴくとしている。
「ふん。じゃあ、駅まで話ながら行こう。そんな暇がないとは言わせない」
「それは……迷惑です」
 さすがにはっきりと断言した。
「そんな事は判っている」
 にやりと嗤うと健一郎は手を離した。
 少し強く掴んでいたその腕を痛そうにさすりながら悠人は健一郎を睨み付けると、さっさと駅の方に向かって歩き出した。
 拒絶を背中に漂わしている悠人に健一郎は苦笑いをしかながら後を追いかけていった。
 



 先を歩いていく悠人は全く健一郎を無視している。
「待てよ。話がしたいって言っているだろう」
 声をかけても無視される。
 全く、頑固な奴。
 だが、このまま大人しく後ろを歩いていくのも性に合わない。
 健一郎はすっと駆け寄ると悠人の腕を掴んだ。
「せっかくなんだから、一緒に歩こうぜ」
「離せ!」
 掴まれた腕を振り払おうと大きく腕を振る。だが、その程度で腕を放すつもりのない健一郎は悠人の耳元で囁いた。
「離しても良いよ。だけどキスしてくれたらね」
 にやりと笑みを見せた健一郎に悠人の動きが止まった。
 その目に浮かぶのは嫌悪と警戒。
「貴様……」
「憎まれ口も良いけどさ、もう少し普通に話してみないか?」
「貴様と話をする口なんざ持ってねえっ!」
 怒りに顔を染めて、ぎろりと睨んでくる悠人は、健一郎をそそる。
 悠人が健一郎を拒絶しようとすればするほど、それは健一郎を奮い立たせる。
 開いている方の手で悠人の顎を捕らえて。暴言を吐くその唇に指を這わせると、悠人がびくりと震えた。
 その振動が掴んだ腕から伝わる。
 これはこれは……。
 その震えが何から来るか、経験豊富な健一郎にはピンときた。
 悠人の表情に戸惑いの色が浮かんだ。
 へえ?。
「駄目だなあ、年上に対する口の利き方がなっていない。それでも総務の係長さんか?」
 あえてからかうと、悠人はくっと唇を噛み締めた。
 健一郎はそんな悠人にくすりと笑みを浮かべると、掴んだ腕を引っ張って歩き始めた。
「ど、どこへ」
「どこへって駅に行くんだろう?」
「……」
 狼狽える悠人も可愛い、と健一郎は横目でちらちらと窺う。
 連行されているような悠人は、決して健一郎の方を見ようとはしなかった。
「なあ、悠人は何で男が嫌いなわけ?」
「……」
「つきあっている人いるか?」
「……」
「今日は何の用事?」
「……」
 だが、悠人は健一郎の問いに何も答えようとはしない。
 ったく、この頑固野郎。
 さすがに健一郎も業を煮やした。
 ぐいっとひっぱり駅とは違う方向に歩き出す。
「離せっ!このっ!」
 悠人が気付き、手を振り払おうともがく。それをぐいぐいと引っ張っていった。
 会社から駅までの一直線の道。
 だが、そこの路地裏を一歩入れば、雰囲気ががらりと変わった。
 小さな飲み屋が軒を連ねている。
 健一郎はそこを通り抜けると、もっとも奥にある店へと悠人を連れ込んだ。
 狭い店だった。僅かなカウンター席と2カ所程度の奥まったボックス席。
 健一郎はマスターに軽く手を上げ挨拶をするとさっさと一番奥の席に向かう。
「おいっ!俺は用事があるんだっ!」
 悠人の言葉が静かな店内に響く。
「キャンセルしろよ」
「冗談!貴様なんかに指図されるいわれはないね!」
 ああ、もう、こいつは!
 うるさい!
 健一郎は逃れようとする悠人の躰を抱えると、ソファに乱暴に落とした。
「つっ!」
 背もたれに後頭部を激しく打ち付け、悠人が呻く。
 その視線は警戒しているのか健一郎から離れない。
「静かにしろよ。迷惑だろ」
 低い声で言いながら、睨み付ける。
 さすがに悠人も、黙ってしまった。不思議なことに、悠人は乱暴な言葉遣いで相手を攻撃するときでも、世間一般並の礼儀を遂行しようとする。だから、会社の中やこういった店内では健一郎への反撃が甘くなるようだった。



 目前に出されたウィスキーのグラスを悠人は一向に手に取ろうとしなかった。
「いい加減諦めろって」
 健一郎も呆れて進言するが、悠人はむっつりと黙り込んでじっとグラスを見つめている。
 その視線で、グラスの中の氷が溶けていきそうだ。
 健一郎がそう思った途端、カランとグラスの中で氷がずれた。
 偶然とはいえ、もう苦笑を浮かべるしかない。
「俺とじゃあ酒は飲めないのか?」
 反応のない相手と酒を飲むのも気疲れしてしようがない。
 さて、どうしてくれよう。
 健一郎は勢いで悠人を店に連れ込んだものの、この先の事を実は考えていなかった。この店は、健一郎の行きつけの店で寡黙なマスターも気に入っている。
 マスター一人がやっている店で、うるさい女の子もいない。だから、ここに来るのは常連ばかりだった。
 それにここが人で一杯になるのは、もっと深夜に近づいてからだ。だから、会社帰りのこの時間には客は健一郎達だけ。
 そう思って連れてきたのはいいが……酒が飲めない訳ではない筈だ。
 しきりに時計を見ているのは約束の時間を気にしているせいとは判っている。
 しかし。
「そんなに約束が気になるなら、それを飲めよ。そして俺の質問を一つだけ答えろ。そうしたら解放してやる」
 その言葉に悠人が始めて顔を上げた。
 薄暗い店内に、日に焼けてない悠人の顔が白く浮かぶ。整った眉。細められた切れ長の目が健一郎を窺っていた。
「本当か」
 小さめの唇が言葉を紡ぐ。
「ああ」
 不本意だがしようがない。
 約束が俺のせいで守れなかったとなると、もっとこいつは意固地になるだろう。
 悠人は意を決したようにグラスを手に取ると、ぐいっと半分ほど一息で飲んだ。
 その見事な飲みっぷりに思わず見惚れる。
 だが、悠人はふと手を止め、そして健一郎に視線を向けた。
「濃いな?」
「ジャスト・ウォーターだ。1対1の割合の奴。俺はこれが一番好きなんだが、悠人には濃いかったか?」
 しれっと言う健一郎に、悠人はムッとしたように一睨みすると、結局最後まで飲み干した。
「で、質問は?」
 熱くなった息をはあっと吐く悠人。
「そうだな。一つずっと聞きたかったんだが、どうしてそんなに男を毛嫌いする?女には優しいくせに」
 テーブルに肘をつき組んだ指の上に顎を置いて、悠人を窺う。
 質問の答えに窮しているのか、それとも言葉を探しているのか、しばらく躊躇っているような間が空いた。
「毛嫌いしている訳ではない」
 ぽつりと漏らした言葉に、力が無かった。
「ただ、うまくつき合えないだけだ」
 その意味が判らなかった。
 女とうまくつき合えないのは判る。
 だが、男とうまくつき合えないって言うのは、何だ?
 健一郎はきょとんと悠人を見つめた。



 健一郎の視線の先でのろのろと悠人の手がウイスキーのボトルに伸びた。
 自分でグラスに注ぎ、水を入れ氷を放り込む。
 それは健一郎が作ったものよりウィスキーの割合が多かった。
 その割合を見て取った健一郎が眉をひそめる。
「まだ飲むのか?」
「別にいいだろ、貴様の奢りだからな」
「それはいいんだが」
 悠人の心境の変化が掴めなくて、健一郎は悠人が再び飲み干すのを黙って見ていた。
 一杯飲んで質問に一つ答えるといい、とは言った。
 もしかすると、飲まないと答えられない質問だったのだろうか?
「大丈夫か?」
 考えてみれば会社を退社したばかりで空きっ腹だ。それなのに悠人は高いアルコール度数でぐいぐいと飲み干してしまった。健一郎でさえ、一杯目がまだ半分以上残っている。
「貴様に心配されるいわれはない!」
 どんと置かれたグラスは空で、悠人は健一郎を睨み付けていた。「貴様を相手にするんだ。酔っぱらっても構わないだろ」
 確か、こいつ酒には強い方だったが……。健一郎は悠人のデータを思い起こす。確か、絡むからあまりつき合いがないとか……。
 うだうだ考えている間に悠人は三杯目を飲み始めていた。
 これは、おいしい状況なのか、それともまずいと考えた方がいいだろうか?
 悠人の行動が読めない。
「約束はどうした?」
「約束?ああ、断るからいい。貴様、この詫びに今日は俺につき合え」
 すっかり攻守が逆転してしまった。
 健一郎は苦笑を浮かべながら、悠人がどこかに電話を入れるのを眺めていた。
 断りの電話は簡潔で、悠人が一方的に言い放って電話を切ったという感じだった。
「本当にいいのか?」
「お前が飲ませたんだ……何を今更」
 悠人の言葉が微妙に柔らかくなっている。
 酒のせいなのか?
 健一郎には判らない。
「お前はいいな。誰とでも上手くつき合える」
「え?」
 うっすらと朱に染まった悠人が健一郎を見ていた。


「どうした?何を不思議そうにしている?お前の質問に答えているんだ」
「あ、ああ。だが、俺とて誰とでも、という訳にはいかないぞ」
 現にお前とはうまくつき合えていないが……。
「そうか?営業の成績がいいんだろ。俺は、人付き合いができなくて、営業を降ろされたからな。昔から……そうだった……」
 自嘲気味の言葉が漏れる。
 これは上手くすると悠人の本音が聞けるかも知れない。
「昔から?」
「中学の頃から女顔をからかわれては喧嘩するようになった。喧嘩して仲間外れ。いつの間にかいつも一人だ」
「ふーん」
「気にしなければ良かったんだが、どうも可愛いとか、女の子みたいとか言われるのが凄く嫌でな。可愛いとか言うような奴らと友達付き合いなんかできなかった。融通が利かなくて。だけどそうやって喧嘩して、結構強い奴なんかものしていたら、俺と話をしようという奴がいなくなった」
「それって?」
「高校も地元だったから、大学に行くまでほとんど男とは話をせずに過ごしたよ。そんなことで不登校になるのも嫌だったし。で、そういう時に構ってくれたのが女の子達でね、つき合って欲しいというのもあったんだが、だが、それはそれで面倒だったし……別に特別に好きって言うのもいなかったし……」
 男と話をせずにすごした少年期。
 だけど、女性とつき合うのも面倒……。
 で、この悠人ができあがった?
「大学に行ってからも、何か余計俺に言い寄ってくる奴らが男も女も増えて……その頃は男が男に惚れるってこと理解できなかった。俺をそんな目で見る奴がいるって事が嫌だった。その内そういう奴らを追い返す技だけが身に付いてしまった」
 苦笑を浮かべる悠人。
 でも。
「その頃は理解できなかったって?今は?」
 健一郎の問にふと悠人は健一郎に視線を向けたが、再びグラスに視線を落とした。
「ちょっとそれを理解しなければならない必要性が出てきてな。だから、今は別に男が男を好きになるって事、全く理解できないわけではない……だが、それが自分に当てはまるかというと、それとこれとは別だ」
 最後の言葉に強い拒絶をにじませて、健一郎を上目遣いに睨む。
「お前は、最初から俺のことをそういう目で見ていた。あの頃のあいつらと一緒の目だ。俺は女ではない。お前のような目で俺を見る奴と、つき合うつもりは毛頭ないし、妥協してやるつもりもない」
 なるほど……少年期の苦い思い出が今の悠人を作っているという訳か、それはそれで根が深い。たが。
 きっぱりと言い切る悠人に健一郎は笑みを向ける。
「それでも俺はお前が気に入っている。諦めるつもりはない」
「しつこい!」
「それに考え違いをしている」
 健一郎の言葉に悠人がふっと眉をひそめた。
「考え違い?」
「そうだ。俺はお前を女だと思ったことなどない。俺は、お前、明石悠人という男だから気に入った。もしお前が女だったら見向きもしなかったろうよ」
 真剣な表情を向ける。
 ここで勘違いされては困る。
 俺は、明石悠人だから、手に入れたいと思ったのだから。
 すると悠人は困ったように口を噤んでしまった。
 言葉を探しているのか、視線が横にずれ、彷徨っている。
「お前は……変な奴だな」
 しばらくして、悠人はぽつりとそう呟いた。


 結局、空きっ腹にアルコールを摂取した悠人は、そう時間が経たない内にダウンした。絡むどころではなかったようだ。
 健一郎は仕方なく真っ青な顔の悠人を抱えるようにして、タクシーに乗った。
「ほら、家はどこだ?」
 朦朧とした悠人がぼそぼそと呟いた住所を聞き取って、運転手に伝える。
 その住所は、会社から二駅ほど離れた場所で、健一郎の住居からあまり離れていなかった。
 このまま、送り狼になるのもいいが……さて、どうしよう。
 健一郎は走り続けるタクシーの中でずっと悩んでいた。
 この状態の悠人を、降りた途端に「はい、さようなら」と別れても無事、家の中に入っていくとは限らない。かといって、室内まで送っていくとなると、襲いたくなる気持ちを抑えられるだろうか?
 タクシーの中で悠人は力無く健一郎の肩にもたれていた。
 触れている半身が熱い。
 ふと顔を悠人の方に向けると、さらりとした髪が頬をくすぐり、悠人の匂いがした。
「!」
 思わず顔をしかめた。
 悠人の匂いを嗅いだ途端、下半身に向かって何ても言えない疼きが走ったのだ。
 まずいなあ。
 内心苦笑を隠せない。
 店に入る前に、悠人の唇に触れたときのことを思い出す。
 意外に敏感な反応を示した悠人は、自分の身に起きた反応が信じられないようだった。
 あの顔をもっとさせたいと思った。
 可愛いと言われることが嫌だと言っていた。
 だが、あんな顔で、あんな反応を返されて……可愛いと思わない方が無理だ。
「さて、どうしようかな……」

 結局、健一郎はタクシーに待って貰うことにした。
 悠人を部屋まで送り届ける。
 小さなマンションとコーポの中間のような建物の3階の一室が悠人の部屋だった。玄関先から覗いた感じでは、結構小綺麗に片づいている印象だった。
 ふらふらと家に入っていった悠人は、健一郎が見守っていることにも気付いていないようだ。
 まあ、あの程度なら二日酔いになる程度だろう。
「おい、鍵かけとけよ」
 声をかけるが、聞いてはいない。
 まったく……。
 健一郎は、悠人が放りだした鍵を手に取ると、外から鍵をかけた。
 その鍵をしばらく手の中で転がすと、結局郵便ポストから中に放り込んだ。
 中で金属が転がる音がする。
 まったく、俺としたことが……。
 健一郎は自嘲めいた笑みを浮かべると、そこから離れた。
 階下で待っているタクシーに向かう。
 このまま襲う事だってできた。既成事実を作ってしまうという手もある。だが、それはできない。
 悠人に関しては、正攻法でゆっくりと攻めないと行けない。
 健一郎は、再度悠人の部屋を見上げると、タクシーに乗り込んだ。 


「昨日はすまなかったな」
 開口一番で悠人は健一郎に言った。
 相変わらずこういうところは律儀なのか、こいつは。
「鍵は判ったのか?」
「ああ」
 顔色が悪い悠人は、朝一番にわざわざ営業の部屋まで健一郎を訪ねてきた。
 送り届けた事への礼なのだろうが、それにしても礼を言われたよな気分にはなれないのは、相変わらず睨み付けるようなその視線のせいだろう。
「二日酔いか?顔色が悪い」
 その青ざめた頬に指で触れる。
 ぴくりと後ずさりかけた悠人がそれでも踏みとどまった。睨む視線はきついままで、上がってきた手がそっと健一郎の手を除けた。
 今までにない反応に、健一郎の片眉がぴくっと上がる。
 それに触れた頬が熱かった。
「少しな……」
 はあっと吐き出された吐息に乗せられた言葉が力無い。
「それじゃ」
言いたいことはいったとばかりに去っていこうとする悠人を捕まえる。
「お前は……すぐ腕を掴む。昨日の痣になっていたぞ」
 言われて慌てて手を離した。
 自分の握力が強いのは知っていたが、そこまで力を込めていたとは思わなかった。
「すまない。ちょっと話があるんだが……」
「仕事中だ」
 一刀のもとに切り捨てられた。
 そのまま去っていこうとする悠人を、健一郎は追いかける。
「待てよ」
 その肩を掴んで無理矢理振り向かせた。
「何だ!」
 眉間に深い皺を寄せた悠人が叫んだ途端、ぐらりとふらついた。それを慌てて抱き留める。
 健一郎の右腕に支えられぐったりともたれている悠人は先ほどより青白く、思ったより体調が悪そうだ。肩で息をしている。
 しかも熱い。
「今日は帰れ、熱があるんじゃないのか?」
「いい、放って置いてくれ」
 もたれていた腕から躰を起こそうとする悠人を健一郎はもう片方の手で抱え込んだ。
「ああ、やっぱり熱い。とりあえず医務室で寝ておけ」
 すっぽりと健一郎の腕に絡め取れられた悠人は気怠げに身動ぐが、どんどん力が抜けているようで、結局ぐったりと健一郎にもたれかかってしまった。
「ああ、もう暴れるな。医務室に連れて行くだけだ」
「すまん……」
「一体どうしたんだ?二日酔いってだけじゃないようだな。風邪でもひいたのか?」
 医務室に運びながら問いかけるが、悠人はくっと唇を噛み締めて話そうとはしなかった。
 ベッドに腰掛けた悠人をよく見ると、血の気が無くなった頬の中で唇だけが妙に赤かった。
 それがまるで誘っているみたいで健一郎は慌てて目を反らした。
「横になれよ……ああ、体温計あった」
 悠人に体温計を差し出す。
「もういいから、仕事に戻ってくれ」
 どうみてもかなり無理しているはずなのに、それでも睨み付けてくる。だが、やはりその力は弱い。それによく見ると潤んでいる。
 それがまた色っぽいとは思うのだが……。
 健一郎は必死で理性の壁を厚くしようと努力していた。昨夜、無理強いはない方がいいと思い、そのまま帰った。その努力が一瞬の内に崩壊しそうになる今の状況ははっきり言ってつらい。
「一体どうしたんだよ。昨日はあれだけ元気良かったのに」
 問いかけるが、それに関しては一切言わないとばかり、顔をしかめている。
 一体、何があったんだか……。
 まさか、俺のせいか?


 いつまでも寝そうにない悠人に業をにやし、健一郎は悠人のネクタイに手をかけた。
「何を!」
 慌てて身を捩って逃げようとする悠人にくくっと嗤いかける。
「何焦ってんだよ。苦しいだろうから緩めるだけだ。とにかく寝ろ。こんな所で襲いやしない」
 その言葉に悠人が顔を朱に染める。それでも寝っ転がろうとしない悠人に、健一郎は呆れたように言った。
「自分で寝られないなら、俺が押し倒してやろうか?もちろん熱いキス付きで」
 その言葉にぎくりと大きく躰を震わした悠人が、嫌そうに健一郎を見上げ、結局大人しく自分から横になった。
「それから、熱くらい測れ。それとも俺にやって欲しいのか?」
 全く、素直じゃない奴。
 しかし、悠人自ら体温計を脇に入れたときに覗いたシャツの下の肌は、日に焼いたことのないように白い。
 思わず気付かれないように生唾を飲みこんだ。
「それと……やっぱり聞きたい。昨夜、俺が送った後、何をやっていた?あのまま寝たんじゃないのか?」
「……」
 だが、悠人は口を硬く結んだままだった。
「ったく、強情な奴……」
 思わず漏れた言葉に悠人が睨んできた。
「強情なのはお互い様だろう。お前はさっさと仕事に戻れ。仕事中だろうが」
「恋しい相手がぶっ倒れているのに仕事どころではないだろうが」
 さらりと言った健一郎の言葉に、悠人の血の気が去っていた顔が赤くなる。
「冗談、いい加減にしろ。お前といると熱が上がる……」
 体内の熱を吐き出すように、はあっと熱い息を吐く。
「教えろよ、何があった?あの時はそんな熱が出そうな気配なんかなかったぞ?」
 しつこいとばかりに睨む悠人であったが、健一郎はそんな視線を跳ね返すほどの強い視線で睨み返す。
 通常であれば、その程度で負ける悠人ではなかったが、体調の悪い今、健一郎に敵うはず無かった。
「……起きたら……熱かったから、シャワーを浴びただけだ……」
「シャワー?」
 昨夜はそんなに暑かっただろうか?
 いや、9月半ばというこの季節にしては冷えた。暑いから浴びたって……もしかして、水を?
 健一郎が首を傾げた途端、ピピッと体温計が鳴った。
「どれどれ」
 取り出そうとした悠人の手より早く、健一郎の手が悠人のシャツの中に潜り込んだ。
「!」
 ビクリと悠人が反応した。硬く目を瞑って何かに耐えているような表情に、健一郎は苦笑を浮かべながら襲い来る劣情から堪えた。
 ったく、襲ってくれと言わんばかりの表情は止めて欲しいよな……。
 するりと取り出した体温計を見る。
「39.3度……よく会社に来たな……」
 ったく感心する。真面目な仕事人間……。
「朝はそんなに高くなかった……」
 吐き出す息は何を示すのか。
 先ほどより潤んだ瞳が健一郎に向けられた。
「……お前は……あれだけ俺につきまとって……抱き付いたりしながら、こういう時は随分と紳士なんだな……」
 その言葉に健一郎はまじまじと悠人を見つめる。
 一体何が言いたいのか……。弱気になっているのは何となく判る。
「いつもそうだったらこっちは助かるんだがな」
 僅かに口の端を歪め、そして目を閉じた。
 何を考えているのか……健一郎には判らなかった。
 だが、それでも一つだけ判ることがある。
 悠人の心が解れてかけていることだけは……。
 だから……。
 健一郎の心の中にある考えが浮かんだ。
 もしかすると、一歩前進できるかも知れない……と。


「なあ、悠人」
 健一郎は悠人が寝ているベッドに腰掛けた。ぎしりときしむベッドに悠人が目を開く。
「賭をしないか?」
「賭?」
 吐き出される言葉も弱々しい。
 熱の上がりかけ。今が一番苦しいのだろうが、それに構わず健一郎は言葉を継いだ。
「そう、賭。もしお前が勝ったら、少なくともそういう感情を持ってお前につきまとうのは止める。ただの同僚として、つきあう程度のつきあいにする」
 その言葉に悠人が大きく目を見開いた。
「本気か?」
 ったく……。
 そこは喜ぶ所だろうが……何をびっくりしているのか?
 健一郎の内心のため息など気が付いていない悠人。
 昨夜の会話で健一郎は気が付いた。
 悠人は一番肝心な時期に、人とのつき合い方に失敗してしまった。だから、友達が作れない。いつだって一人で過ごしてきて、それが当然だと思っている。悠人が拒絶すれば人は近づかなくなる。そして、余計に悠人は人とのつき合い方が下手になる。喧嘩腰でこられれば、人は近づかない。
 ……これは憶測にすぎない。だが、妙な確信があった。
 悠人は、健一郎のように拒絶しても近づいてくる人間に始めて逢ったのだ。そして、始めて……拒絶以外の感情が心の中に芽生えつつある。
 それに悠人はまだ気付いていない。
 昨夜のようにアルコールに呑まれてしまったとき、今のように気弱になっている時にだけ、それが表に垣間見える。
 だが。
 それに気付いたからこそ、健一郎は悠人に無理強いが出来なくなった。その性格を差し引いたとしても……。健一郎がどう足掻いても悠人自身がそれに気付かなければどうにもならない。
 だからこそ、賭に出た。
 これは、賭だ。文字通りの。
 悠人が自分の感情に気付くかどうか……。
 賭。
「そうだ。簡単な賭だ。ただし俺が勝ったら、お前が俺にキスしろってのはどうだ?」
「キス……何でお前に?」
「して欲しいから」
 悠人の眉間に深く皺が寄る。
 しばらくそのままの悠人に健一郎は戸惑いを覚えた。
 一体何を考えているのか……。
「賭の内容は?」
 目を閉じた悠人がぽつりと言った。
「俺が担当しているマンションの一室を、お前が売ることが出来るかどうか?売ることができればお前の勝ち」
「マンション?」
「そうだ。グリーンパレス・千代田。悠人だってどんな物件か位は知っているだろう?」
 我が千代田不動産が総力を挙げて売り出した物件だ。
「知っている。俺が売ることができればいいのか?」
「ああ、そうだ。どうする?」
 ふっと悠人が目を開いた。
 健一郎を見上げる。
「判った。それでいい。賭の期限はいつだ?」
 マジか?
 本気なのか?
 あの物件は物もいいが、その分値段もいい。結構売るのが厄介な代物なのだ。それを営業でもない、つても持っていない筈の悠人が売ろうというのか?
 引き受けてくれるような予感は何となくあった。だが、こうも簡単に引き受けるとは……。
「賭の期限は?」
 黙ってしまった健一郎に悠人が再度問いかける。
「9月30日15時にしよう」
 残り15日間。
「判った」
 悠人はただ、一言返答する。
 賭は成立した。


 悠人が身を捩った。上を向いていた躰を横向きにする。躰を丸めるようにして掛け布団に顔を埋めた悠人に、健一郎は顔をしかめた。
 相当、苦しそうだ……。
 しばらく寝かして置いた方がいいだろう。
 医務室を出た健一郎は、自販機で牛乳を買う。
 あの調子だとろくに朝食も食べていないだろう。何か腹に入れないと、薬も飲めない。そう思ったからだ。ついでにスポーツ飲料も買い、給湯室で水を汲んで医務室に戻る。
 出たときと全く動いたように様子にない悠人の枕元に、備え付けの薬箱から熱冷ましと風邪薬を取り出し置いた。
「とりあえず牛乳でも飲んで、それから薬を飲むんだな。飲めるか?」
 その問いに僅かに悠人の頭が動いた。
 それでも顔を出そうとしない悠人に、健一郎はため息をつくと医務室を出ようとし、ふと話しかけた。
「庶務課には連絡しておく。ゆっくりと休むといい」
「ありがとう」
 返事が返ってくるとは思わなかったので、ドアに手をかけようとしていた所で思わず立ち止まった。
 全く、律儀な奴。
 だが、そうやって俺のせっかくの理性を崩壊させてどうするつもりだ?
 健一郎は再びため息をつくと振り返り、再度ベッドサイドに近寄る。
 僅かに覗いた目を瞑ったままの悠人は扇情的で……思わず抱きしめたくなる。
「そう思うなら、お礼……貰いたいな」
 健一郎は悠人が顔を埋めている脇に跪いた。真正面から覗き込むようにする。
 そっと上げた布団の動きに気付かないはずはないのに、悠人は動かなかった。
 閉じられたままの目。
 ただ、僅かにその顔が引きつっているのだけは判る。
 引き締められた唇。強ばった躰。
 それを見て取ると健一郎はくすりと笑みを漏らした。
「キスは後のお楽しみにとっておくから……」
 そう言うと、健一郎は悠人の額に軽く口付けた。
 微かな震えが唇を通して伝わってきた。
 熱い吐息が健一郎の首筋をくすぐる。それは、健一郎の下半身に熱を持たせるのに十分だった。
 が、健一郎はすうっと息を吸うと、悠人から離れた。
 ベッドサイドに立つと同時に悠人の目が開かれた。どこか焦点の合わない目が健一郎を捕らえる。
「じゃあな、30日を楽しみにしているよ」
 ぼおっと開かれた悠人の目に映るように笑いかけると、健一郎は医務室を出ていった。
 ったく、危ねー奴。
 あれだけ拒絶している癖に……無意識の内に誘ってるんだから、な。
 もしかすると、ずっと昔からあんな状態だったのかな。可哀想と言えば可哀想だけど……。性格がねえ……。
 健一郎は庶務課によって悠人が医務室に寝ていることを伝えると、営業の部屋に戻った。
 例のマンションの資料を整える。悠人に渡す分だ。
 賭は始まった。
 悠人が売ることができるかどうかは……悠人自身が決めることだ。


 だが、悠人がその資料を取りに健一郎の元に来ることは無かった。
 何度か食事に誘い、飲みに誘ったりもした。だが、相変わらずの態度で悠人は健一郎を拒絶する。
 あの医務室での雰囲気はどこにもなかった。
 お互い賭の事は一切口にしなかった。それに触れられることを悠人が頑ななまでに拒否するからだ。だから、悠人がどういう行動をとっているのかは健一郎には判らなかった。
 だが、未だに一件も取れていないのだけは判った。
 客を連れ、足繁くそのマンションに通っている健一郎は、一度も悠人の姿をそこで見かけたことはない。もともと内勤の悠人が、勤務時間内にそのマンションに来ることはできないのは当たり前なのだが、それでも一回も説明を受けようとしないのも問題ではないかと思う。
 残り一週間を切ったところで、健一郎は我慢できなくなり悠人を捕まえて尋ねた。
「まだか?」
「ああ」
 それだけで、強く睨まれた。
 その事には触れるなと言う拒絶の視線。だから、健一郎もそれ以上は言えなかった。
 そして、明日が最後の日。
 健一郎はその日、弟と会う約束があった。例のマンションについての説明を受けたいと言う。
 久しぶり逢った弟は、随分と雰囲気が柔らかくなっていた。医者をしている筈なのに、無口で無愛想な奴だったが、どことなく前と雰囲気が違っている。それに親愛の情を込めてキスしてっているのに、随分と嫌がられる。
「どうした?彼女でも出来たのか?」
 冗談のつもりでからかうと、うっすらと赤くなりやがった。それは他人なら気付かない程度であろうが、生まれてこの方常に観察していたこの面白い弟の変化に気付かないはずがない。
 健一郎は思わず息を飲む。
 この朴念仁に相手が出来るなどと思ったこともなかった。
「どんな彼女なんだ?」
 ま、こんなんでも相手が出来たら少しは柔らかくなってちょうど良いかな?
 なんて思っていた健一郎は、弟の次の台詞に少なからず絶句した。
「男、なんです、相手。彼と一緒に住もうと思って……」
 そう言いながら、僅かに赤くなった以外は表情が変化しない。
 その弟の顔をまじまじと数分間見つめてしまう。
「男、なのか?」
「はい」
 そりゃ、別に男だからと言って偏見がある訳ではない。
 健一郎にしてみれば、自身がどちらでも良いのだから。だが、まさか弟までもそうだとは思わなかった。
 となると親のことを思うと、どうしても健一郎が子を作らざるをえないではないか?
 あわよくば、その役目を弟に押しつけようとしていた健一郎だったが、男が恋人だと言い切るこいつが、相手一筋にしかなりえないのは兄である自分が一番よく分かっていた。
「そうか……」
 ぽつりと呟く。
 長男の責務……か。
 今更ながら、ずしりと肩に乗ってくる。
 親にカミングアウトする気はさらさらなかった。
 となると、男とつき合っていてもそれを理解できる女性を捜し出さなければならない。だが、それをすると今度は悠人が許してくれないだろう。
 いっそ、子種が無いみたいだという所で、親に言ってしまうという手があるが……。そうすると、この弟に親の期待が行ってしまうのだろうな……。
 考え込んでいる健一郎を窺うように見つめている弟に、健一郎は笑いかける。
「じゃ、その相手って言うのに今度逢ってみたいな。お前みたいな厄介な性格の奴でも良いって言ってくれるような奴にぜひとも、ご挨拶しないとな」


 彼に会いたいという健一郎の言葉に、弟──浩二は僅かに口の端を上げた。
「明日、行きませんか?私は夜勤ですし。3時頃なら」
「明日?昼間でも良いのか?」
「彼も夜の仕事なんです」
「ふーん」
 3時は賭で設定した時間だ。まあいきなり会社で捕まえても可哀想か。
 健一郎は軽く頷いて了承した。
 さて。たとえ弟と言えど売れる物は売らなければならない。健一郎は弟をバルコニーに手招きした。
 無駄に広いように見えるこのバルコニーも、きちんとした設備がある。
「お前らにガーデニングの趣味があるかどうかは判らないが、それが十分出来るようになっている。簡易温室だっておけるしな。それに騒がない、臭くしないという条件付きでペットも可だ。躾られた犬ならOKっていう所か……」
「はい」
 うーん、あまり興味がなさそうだ。
 周りの景色を眺めている弟を放ってふと下を見た。
「おっ、好み……」
 思わず小さな声で呟く。
 眼下の木陰に健一郎の好みに合致した青年が立っていた。表情までは判らなかったが、そのスタイルが何故か琴線に触れた。
 その彼がこちらを窺っているように見える。
 その途端、ピンと来た。
 もしかして、こいつのか?
 ちらりと浩二を見る。だが周りを見ている浩二は気が付いていない。
 と、浩二の携帯がメールの着信を知らせた。慌てて取り出す浩二を横目で見つつ、視線を眼下に移す。木陰に隠れるようにしているその男が、手に何かを握りしめていた。顔が相変わらずこちらを向いている。
 ビンゴッ!
 携帯のメッセージを確認している浩二に、笑いかける。
「急ぎの用事か?」
「いえ」
 どうしようかと携帯の画面を見ている浩二。
 健一郎の心に悪戯心がむらむらと沸き起こる。
「このマンションの利点というのだが、そのセキュリティーシステムだろ……」
 返信したがっているのは判っていたが、それをさせないように説明を再開した。
 最初に今日はあまり時間がないと言っておいたので、浩二も健一郎には逆らえない。携帯のキーを操作すると胸ポケットにそれをしまった。
「ここは4階だからそういうことはあまりないだろうが……不法侵入等の輩からの防護策として……」
 説明をしながら弟の肩を抱き寄せる。兄より背が高い弟。その頭に手を回し、そっと引き寄せた。押しつけた唇を、浩二は逆らわずに受け止める。
 産まれた時から常に一緒にいた兄弟だから、浩二は健一郎がキスしてくることには馴れていた。しかも、逆らえばより長い時間してくることも知っている。だからよっぽどのことが無い限り逆らわない。
 健一郎は浩二にキスしながら、それでもその目線は眼下の男に注いでいた。
「兄さん……そろそろどこででもキスするのは止めてください」
 浩二の忠告も健一郎にとっては馬耳東風。右から左へと通り過ぎていく。
「良いじゃないか。それより中に入ろうか」
 外の男を浩二に見せないようにすばやく中に誘う。
 先に浩二を室内に入れ、再度眼下を窺うと男の姿は既になかった。
 にやりとその顔に笑みが浮かぶ。
「お前さ、その彼氏と今日会うのか?」
「え、ええ」
 いきなりの質問に躊躇いながらも答える浩二に健一郎は再度笑いかける。
「そりゃあ……楽しみだ」
 最後の言葉は相手に聞かれないように口の中に留めた。
「兄さん?」
 言葉を濁す健一郎に、浩二は不審そうな視線を向ける。それを無視した健一郎は、再び説明を再開した。

 庶務課を訪れると悠人は休みだった。
「有休?」
「突発。最近元気がなかったから、体調が悪そうなのよ」
 悠人が不在の時は、北沢がこのチームを仕切っている。その彼女が心配そうにその視線を悠人の席に向ける。
「元気、無かったですか?」
 健一郎の記憶の中の悠人は、そんな様子は微塵も感じられなかった。
「ここ一週間ばかり特にね。二日酔いの時もあったし。お酒に強い方なのにあんなになるまで飲むなんて、何かあったのか心配していたところなの」
 その北沢の目が、健一郎を睨む。
「もしかして、増山さん、心当たりがあるんじゃ無いでしょうね」
 健一郎はその視線を笑ってかわす。
「そんなことありませんよ。彼は私のこと嫌っていますから……ここの所ろくに話もしていませんよ」
 それは事実。
 あの賭が始まって以来、ほとんど話をしていない。
「そう……一体どうしたのかしらね」
 このままそこにいるとえんえん愚痴られそうだったので、早々に退散する。
 悠人がどうしたいのか?
 健一郎には判らない。賭が始まってから、悠人は前にも増して健一郎を拒絶する。
 賭が終われば、悠人の心が判るかも知れないと思った。
 悠人が、なんとしてでも賭に勝とうとするならば、それはそれで良いとさえ思った。所詮敵わぬ恋かも知れない。だったら、別の手段を取るだけだ。
 だが、悠人の行動は健一郎にも理解できない物だった。
 彼は……健一郎が把握している限り……何もしていなかった。
 彼は負けたいのか……。
 健一郎のことを憎からず想い出したのか……。医務室での逢瀬……健一郎はそう思っている……では、そんな雰囲気すらあった。だが、それ以降の前より激しい頑なまでの拒絶。
 悠人がどうしたいのか……何を考えているのか?
 もしかすると、この賭は悠人を余計に混乱させただけかも知れない。
 混乱し、理解できない自分の感情に支配され、それがあの拒絶になったのかも知れない。
 今日はもう逢えないだろう……だが、明日にはそれが判るかも知れない。黙って消え去ることはあいつはしないだろう。何らかの決着を付けようとするだろう。もしかすると、今だって最後の足掻きで走り回っているのかも知れない。実はすでに契約寸前にまで言っているのかも知れない。
 後、5時間。
 賭は終わる。

 浩二に指定されたマンション。
 彼氏が住んでいるというそのマンションで、健一郎はポストのその名前を見つけた。
「明石雅人……」
 まさか?
 昨日、浩二から聞いたときには、ああそうか、という程度にしか思わなかった。だが、漢字でその名を見て、始めて実感した。
 この字、雅人と言う字面には覚えがある。
 そして、名字も一緒だ。
 ふっと上を見上げる。グリーンパレス・千代田とはランクが下がるが、そこそこのマンションだ。値もそこそこにする。それが判るのは、このマンションも千代田不動産の物件であるからだ。
「明石悠人に明石雅人か……」
 兄弟である確率が高いその名前。
 もしかするとここにいるのかも……。
 健一郎の胸が期待に高まった。


 これは……面白いかも……。にやりと嗤う健一郎の目前で、エレベーターが開いた。
「悠人……」
「げっ!」
 慌てていた悠人が健一郎の姿を見た途端固まった。
「奇遇だな」
 健一郎の方が立ち直るのは早かった。逃げようとするその腕を掴み、引き戻す。
「賭は終わったよ」
 なおも逆う悠人の耳元で囁くとぎくりとその強ばった顔を逸らした。
「その様子では駄目だったようだな」
 悠人がきつく唇を噛み締める。だが、首筋まで赤く染まっているのは怒りのせいなのか?
「明石雅人って、弟?」
 その言葉に悠人は、観念したかのように黙って頷いた。
 エレベーターが目的の階を告げる。
 悠人を引きずるようにしてドアの前に立ち、インターホンを押す。悠人に視線を移すと、そっぽを向いて大人しく立っていた。
 可愛い。
 その姿に健一郎はずきりと甘い疼きが全身に走る。
 思わず肩を抱き寄せた。
「悠人、愛している」
 耳元で囁いてから躰を離した。その言葉に悠人がびくりと躰を震わし、健一郎きつく睨む。だがその目ですら健一郎にとっては心地よいものでしかなかった。


 悠人の弟は、やはり先日見た彼だった。
 喧嘩しているかと思いきや、雰囲気は和んでいる。
 ちっ、仲直りの早い奴ら。
 多少なりとも修羅場を楽しみにしていたので、ちょっとがっかりする。ま、それだけ仲が良いってことだから、まあいいことだ。
 掴んだままの悠人を、隣に座らせ、早速マンションの説明を一通りする。どことなく和やかな中にも緊張が走っているのは、たぶん賭の事を知っているからだろう。
 説明し終わり、出された珈琲を飲みながら、健一郎は雅人の方を向いた。
「それにしても、弟の相手の方が明石君の弟さんだとは奇遇ですね」
 雅人が曖昧な笑みを返してくる。
 こうして並んでみると、確かによく似ている。ただ、弟の方が背が高い。浩二も低い方ではないのだが、雅人に比べると低くなる。
「ところで、雅人くんは私とお兄さんの関係を知っているのですか?」
「関係って……そのつきまとわれて……取引しているってとこは」
 なるほど、そこまで知っているなら話は早い。
「そうですか」
 にっこりと笑いかける。
「でしたら、申し訳ありませんが、二人だけにして貰えると助かるのですが」
 兄弟二人の顔から血の気が失せる。
 その様子を窺っていた浩二がため息をもらした。
「お兄さん。ここは雅人さんの家なのですから無茶は言わないでください」
「何言っているんだ。ここを逃したら、こいつのことだから逃げ回るぞ。さっきだって逃げるのを捕まえてきたんだから」
 健一郎が不服そうに浩二に言う。
「しかし」
「契約は実行され、明石はそれに負けたんだ。その負債は払わなければならない。ならば、一刻も早く俺としても頂きたいし。まあ、俺は弟達の前で頂いても別に問題はないんだが」
 言われて悠人が真っ赤になる。
 雅人が悠人を睨み付けていたが、悠人は唇を噛み締めていた。
「雅人君、君はどう思う?」
「あ、俺は……」
 雅人は、いきなり振られて言いよどんだ。
「兄さん。私は雅人さんが大切です。よって当然そのお兄さんである悠人さんが困っているならば助けたいと思いますが……」
 言った浩二のきつい視線を健一郎はまともに受けた。
「それでも俺が勝つ。分かっているだろうが、お前の腕では俺には勝てない」
 二人が睨み合うと、本当に空中に火花が散っているように見えた。と、それを悠人が制止した。
「もういい。取引したのは俺だから、俺がその代償を払う。雅人、向こうの部屋借りるぞ」
 指さされた部屋をちらりと眺め健一郎は微かに笑みを浮かべた。
「わかった。でも俺達今日は二人とも夕方から仕事だから……」
「ええ、分かっています」
 健一郎は極上の笑みを浮かべると、悠人の腕を掴んで連れて行った。

初めてのキス

 部屋に入った明石悠人は、後ろについてきた増山健一郎と視線をあわせようとはしなかった。
 口元を引き締め、硬い表情であらぬ方向を見つめている。
 パタンと閉じられたドアの音すらも聞こえているのかいないのか。
 部屋の中央に佇む悠人は、その整った顔のせいもあって白い大理石で作られた彫像のようだ。
「悠人……」
 目の前にいるのは手に入れたいと切に思った人。
 どんなにアタックしても、決して心を向けようとはしなかった人。
 だから、絶対に勝てると判っていた賭に出た。


 健一郎が売っている物件──分譲マンションの一室を一つでも悠人が売ることができれば、二度と手を出さない。だが、それが無理なら、キスさせろ……と
 健一郎が担当しているマンションは、セキュリティや機能面に付加価値が高く、簡単に売れるものではなかった。一時期営業にいたことがあるとは言え、口が悪く接客に向かないという理由で総務に回されている悠人には、よっぽどのコネが無い限り売ることができる物件ではない。
 だが、例えどういう悪条件でであろうとも、悠人はその条件を呑んだのだ。
 そして、今日がその期限の日だった。
 この日、悠人は会社を休んだ。
 庶務課の部屋を訪れた健一郎は、その事実を知り、悠人が最後の足掻きに走り回っているのだろうと思っていた。
 だが、健一郎の弟が恋人(男だという)と共に住みたいから彼に説明してくれと、そのマンションの資料を持って、その相手の部屋を訪れた時だった。
 弟の恋人の名前が、「明石雅人」だと聞いたとき、妙な予感に襲われた。
 名前が似ていた。
 悠人の名は、「明石悠人」
 たった一字違い。
 だから、そのマンションから悠人が飛び出して来たとき、それは確信に変わった。
 弟の恋人は、この悠人と兄弟なのだと。
 きっと、健一郎がここに来ること知って、慌てて逃げ出したのだろうが、健一郎は素早く悠人の腕を掴んだ。
 そのまま、その部屋に行くと確かに悠人は、彼の兄だった。
 その偶然に感謝する。
 弟たちの前で、賭に負けた約束の履行を強いる。
 気の強い悠人が弟の前で約束を違えるようなことはできない事は充分承知していた。
 そして悠人は、それを受けた。
 ただ、弟たちの目前では嫌だと、部屋を借りた。それがベッドルームだったのは、偶然。
「悠人……」
 立ちすくむ悠人の腕を取る。
 ぴくりと視線をこちらに向け、悠人は下唇を噛み締めると再び俯いた。
 やっと、手に入れることができる。
 その喜びに心が躍る。
 しかし、悠人は完全にノーマルだった。
 整っている顔立ちに女性のみに優しい性格にもかかわらず、女性ともろくに付き合ったことのない悠人。女性に対しては皆平等に優しいから、特定の人ができにくい。かといって、男性がいい訳ではない。
 たぶん、誰か特定の人と付き合うということが苦手な人間なのだ。
 例え賭とは言え、無理に奪うつもりはなかった。
 まず、キスが気持ちいいのだと教えなければならない。
 それの相手が、例え男であろうとも……。
 掴んでいた腕を一度離し、健一郎は悠人と向き直った。
 やや低い悠人を見下ろす形になる。
 女性でないのだから……優しい言葉をかけることは悠人のプライドを傷つける事くらい承知していた。
 足を進め、悠人に近づく。
 それに気づいた悠人が一歩後ずさる。
 それは無意識だったのだろう。悠人がはっと我に返り、ぐいっと手を握りしめるのが判った。
 動いてしまったことすら、プライドを傷つけている。
 これ以上時間をかけるのは悠人を傷つけるだけだと、健一郎は踏んだ。
 だから、すっと悠人の躰に手を回し、ぐいっと悠人を抱き締める。
 思ったより細い躰が健一郎の腕の中に包み込まれた。だが、悠人の全身が拒絶するように硬く、決して心から望んでいないことを伝えてくる。
 健一郎は苦笑し、頭に回した手で悠人の顔を肩に押し付けた。
 その耳元で健一郎は優しく囁いた。
「愛している」
 ぎくりと悠人が顔を上げた。
 至近距離で見合われたその瞳に浮かんでいるのは怯え……そして……。
 その瞳が健一郎を煽る。心の中で必死で理性がを保った。
 悠人のひきつった顔が、悠人の心の中の葛藤を伝える。
 気づいているのだろうか?
 押し付けられた胸から伝わる悠人の心臓は、早鐘のように鳴り響いていた。
 観念したかのように瞼を閉じるのに誘われ、健一郎はその頬に軽くキスをする。
 触れただけで離れたそれに、それでも悠人はびくりと反応する。
 しかめられた顔は嫌悪のせいか。
 それでもその瞼は閉じられたままで、降ろされた両手は動くことはなかった。
 ただ、必要以上に強ばった躰だけが悠人の心境を物語っている。
 しかし、その全てが健一郎を煽っていた。
 愛らしい人だと思う。
 手に入れたかった。
 初めてみたときから何かが心の琴線に触れ、決して手に入らないと思えるほどの頑ななその態度ですら健一郎を縛った。
 そう、縛られたのは健一郎の方だった。
 それから開放されるために、健一郎はあがいていたに過ぎない。
「愛している」
 再度言葉に乗せ……そして、その引き締められた唇に自分のものをそっと合わせた。
 乾いてざらついた感触ではあったが、確かに悠人のものだという喜びが健一郎の全身に飛散する。
 引き締められているその唇をそっと舌でつつく。頭を押さえていた手を下ろし、耳の下から首筋をなぞるように指を這わした。
「く」
 悠人の喉が僅かに振動した。
 その場所を健一郎は執拗に指先で嬲る。
 間近にあるその瞼がびくびくと震える。躰の強ばりも僅かにほぐれているように感じた。抱いている感触に柔らかさが増す。
 少しだけ唇を離し、舌で悠人の唇をぺろりと舐めた。
「んっ」
 思わず漏れた声に、悠人自身が驚いたように目を開いた。その時僅かに開かれた口元を狙って舌をこじ入れる。
「んん」
 慌てて顔を背けようとするのを押さえつけ、喰い縛られた歯列を一つ一つなぞるようにまんべんなくつつき、探っていった。
 離すつもりなど無かった。
 悠人とのキスは思った以上に甘美で健一郎を燃えさせる。
 もし、悠人が率先してキスに答えてくれたら……その思いが、健一郎を奮い立たせる。
 必ず、心までをも手に入れる、と。
「ふぁっ……」
 息苦しそうに悠人の口が空気を求めてさらに開かれた。その瞬間、健一郎の舌が悠人の咥内に侵入を果たす。
「んんっ!」
 激しいキスに、悠人は逃れようと始めて手を突っ張った。
 しかし、弟と共に拳法を嗜んでいて鍛えられている健一郎から逃れる力はなかった。逃れようとすればするほど深く、激しく健一郎の舌が悠人の舌に絡まり、翻弄する。
 徐々に逆らう腕の力が弱くなるのを健一郎は嬉しさを押さえきれない。
 悠人が感じているのがはっきりと判った。
 時折小刻みに震える躰。
 耳まで朱に染まっているであろう、その色っぽさ。
 押しのけようとしていた手が、力無く健一郎のスーツを掴む。
 抱き締めていた躰から力が抜けている。今健一郎が手を離せば、悠人はその場に崩れ落ちるだろう。
 それでも健一郎は、その手を緩めることはしなかった。
 そして。
 傍らのベッドに悠人を押し倒した。
 背に触れた感触で始めて気がついたのか、悠人の目が驚いて見開かれた。
 その躰の上に体重をかけ、自由を奪う。
「やっ」
 開放された口が拒絶の言葉を吐く前に再度塞ぐ。
「うー」
 それでも悠人は根限りの力で健一郎から逃れようとした。
 だが、健一郎の足が悠人の足を絡め取り、その手はベッドに縫いつけられたように動かない。
 ようやく、その唇が開放された時には、完全にベッドに押さえつけられていた。
 健一郎から大きく顔を背け、開放された口で喘ぐように悠人は呼吸を繰り返した。
 その目は涙で潤んでいた。
 その涙に愛おしそうにキスすると、ぎろっと悠人に睨まれる。
「離せ……」
 押し殺した声が悠人の怒りを伝えるが、今の健一郎にはそれすらも甘美なものでしかあり得なかった。
 くすりと笑う健一郎に悠人はぎりっと唇を噛み締める。
 それは噛み切ってしまいそうで……健一郎は手っ取り早く止めさせるために、目の前にある白い喉にそっと舌を這わせた。
「あっ」
 びくんと仰け反る喉に、さらに舌を上下させる。
「はあっ……や、め……んく……」
 堪えきれない刺激が悠人を責めさいなむ。
 拒絶できなくて、感じてしまっている悔しさが涙となってこぼれ落ちた。
 緩められていたシャツから健一郎の舌が中に入り込もうとしている。
「や、めろっ」
 最後の賭とばかりに懇親の力を込めて、躰を捩った。
 その拍子にやっと左手が自由になる。見上げたベッドヘッド部に置かれた時計が目に入った途端、それを掴んで振り回した。
 ガシャッ!!
 それが健一郎の顔の横を掠めて、背後の棚にぶちあたり、部品を散乱させた。
 肩で大きく息をしている悠人が、眉間に深いしわを寄せて健一郎を睨み付けていた。
「キスだけだと言った筈だ」
 唸るような声音に、健一郎は苦笑する。
 やりすぎた。
 という意識はあった。
 だが、止められなかった。
 それほど悠人は健一郎の官能を煽ってくれた。
 本人は決してそんな自覚はないにせよ。
「乱暴だな、相変わらず」
 戻ってきた理性に従い、健一郎は悠人の躰の上から降りる。
 これ以上やったら、二度と手に入らなくなる。
「とても素敵だから、止められなかったよ」
「けだものが!」
 返ってきた言葉には苦笑するしかない。
 乱れたシャツから覗く首筋にキスマークがついていることを言ったら、やっぱり怒るんだろうな。
 いつ気づくだろうか?
 その時の様子の悠人を想像しくすくすと笑いがこぼれる。
 満面の笑みを湛えている健一郎を悠人は睨み付けると、服をざっと整え部屋を出ていった。
 いつか必ず……。
 健一郎は再度誓う。
 いつか必ずものにしてみせると。


 部屋を出た途端、弟たちが視線を向ける。
 それに悠人が一言二言怒鳴るように叫ぶと、さっさと外へと飛び出していった。そのあまりの素早さに、置いて行かれそうになった健一郎は、かろうじて悠人をエレベーター前のホールで捕まえる。
 そのまま放って置いても良かったのだが、その乱れた服装が気になった。
「ちゃんと自分の格好確認しろよ」
 どさくさに紛れて外したボタンを指さす。
 悠人はそこに視線を落とした途端、その眉間に深い皺を寄せた。
 健一郎を睨み付けるその目元が赤い。
 慌ててボタンを合わせようとするが、その指が微かに震えていて要領を得ない。
「やるよ」
 その仕草に健一郎は悠人の手から襟元を奪い取る、が。
「離せ!」
 何故か先ほどより赤く染まった悠人がぐいっと健一郎を押しのけた。その力に、ボタンが保たなかった。
 健一郎の手の中でぶつっという感触が響き、弾けたボタンが床に転がった。
 それを健一郎は目で追っていたが、悠人はくっと口元を引き締めてそれを見つめていた。
 第二ボタンのそれは、外れたままにするには外聞が悪い。しかも、その間から未だ悠人は気づいていないが、ほんのり赤く染まったキスマークが見え隠れするのだ。スーツでも着ていれば良かったのだが、この季節柄、悠人は上着を持っていなかった。
「どうする?戻ってつけるか?」
 健一郎がボタンを拾って悠人に手渡すと、悠人は首を振った。
「帰る」
 それはまずいんだが……。
 健一郎の苦笑の意味に気づかない悠人が、エレベータに乗ろうとする。
 それを追いかけ、同じく乗り込んだ。
 健一郎は、キスマークの事を言おうか言わまいか迷った。だが、迷うほどもなくエレベーターが一階に着いてしまう。
「車なのか?」
「いや、タクシーで来た」
 悠人は歩いて表通りに出てタクシーを拾うつもりらしい。
 確かにそこまで行けばタクシーは捕まるだろうが、それ以上にあの道は人通りが多い。
「車だから送っていく」
「はん、冗談」
 見向きもせずに断りさっさと歩いていこうとする悠人を、健一郎は捕まえた。
「ああ、もう!いい加減にしろよ!用事は済んだろーがっ!」
「お前、キスマーク覗いてるんだよ」
 その言葉に悠人がまじまじと健一郎を見つめた。と、次の瞬間、思い当たったのかさっと襟元をあわせる。
「!」
 首筋まで真っ赤になった悠人の口元がわなわなと震えて何かを言おうとするのだが、それが言葉にならない。
「だから送っていくって」
 ため息混じりの言葉は、飛んできた拳によって遮られた。顔の寸前で危うくそれを掴んだ健一郎がむっとして悠人を睨む。
「危ないな」
「避けるな!貴様、どうしてくれる!」
「だから、送っていってやるって」
「遠慮する!貴様なんぞに送られたら、何されるかわかったもんじゃない!」
「じゃ、その襟元から覗くキスマークを衆目に曝すというのか?結構色っぽいぞ、それ」
 その言葉に悠人はぐっと奥歯を噛み締めた。
 眉間の皺がぐっと深くなり、細められた目が健一郎を睨み付ける。
「とにかく、俺に送られるのが嫌だと言うのなら、弟の部屋に行ってそれを直してから帰れ。と言っても、あの二人の事だから今何しているか判らんがな」
 最後の一言は憶測にしか過ぎなかったが、悠人はちらりとマンションを見上げると僅かな逡巡の後、ため息をついた。
「仕方ない……貴様、送れ」
「はいはい」
 健一郎は苦笑を浮かべると、悠人を車へと案内した。


 車の助手席に乗り込んだ悠人は頬杖をついて窓の外に視線を向けていた。
 僅かに朱に染まった横顔に先程のキスを思い出し、つい手が出そうになる。
 だが、運転中である、というそのことだけが健一郎の劣情を押さえ込んでいた。
「帰らなくて良いのか?」
 ぽつりと悠人が呟いたのは、車を走らせ始めてから10分ほど経った時だった。
 先程までの怒りを感じさせないその静かな物言いに、思わず脇見をしてしまう。
「何が?」
「営業中だろ」
 言われて、自分が仕事中だったことを思い出した。
 仕事のことを忘れていた。
 思わず漏れた苦笑を悠人がじろりと横目で睨む。
「何を笑っている?」
「別に。ああ、今日は直帰するよう連絡をしているから、帰らなくて良いんだ」
「そうか……」
 再び視線を外に移した悠人に健一郎はふとある事を思い出して尋ねた。
「最近、元気がないらしいな。体調でも悪いんじゃないかと、北沢さんが心配していたが」
「別に、どうもない」
 ぽつりと漏らされた言葉が、どことなく気怠げに聞こえた。
 その憂いの含んだ横顔が、健一郎の胸を一際高く鳴らす。
 なんて、色っぽい……。
「悠人……」
 思わず呼びかけていた。誘われたといっても過言ではない。
「何だ?」
 その問いかけに悠人がふっと顔を向けた。
 返事が返ってくるとは思ってみなかった。何気なく呼びかけたから、別に用が有るわけではない。
 問いかけられて困ったのは健一郎の方だった。
「いや、何でもない」
「何だ、呼びかけておいて変な奴だな」
 抑揚のない声が車内に響く。どこか感情のない声。
 一体悠人は今何を考えているのだろうか?
 車内にある妙に緊迫したムード。
 それに健一郎は僅かに顔をしかめる。
 何を俺はやっているんだ?まるで初なガキのようじゃないか。話すらできないなんて。
 くっと口元を引き締める。
 男でも女でも一応の経験が有るんだ。こんな所で足踏みしている場合ではないだろう、俺は。
 と。
「増山さん……」
 いきなり呼びかけられ、びくりと躰が震えた。そのせいで車が僅かに蛇行する。
「な、何?」
 声が上擦り、冷や汗が流れた。
 呼びかけられたことに本当に驚いたが、その自分の反応にも驚いた。
 ほんと、俺って何やっているんだ?
「……」
 悠人が健一郎を見ていた。健一郎の反応に驚いて目を見開いている。
「何?」
 息を整えて、ちらりと悠人を見る。
 と、悠人がくすっと笑った。
 うっ、可愛い。
 思わず躰が熱くなるのを感じた。沸き起こる劣情を押さえるために視線を前方に移して運転に集中する。
「何?」
「始めてみたな。増山さんの驚いている所」
「そうか?」
 あははと笑うが、それ以上悠人は何も言わなかった。先ほど見せた僅かな笑いも引っ込んでいるようだ。
 これは……どうしたものか?
 このままこんなムードのままで送り届けて、それで終わりなんだろうか。
 いつもと勝手が違うこの状況。何よりも自分が何もできないということが信じられない。
 何を考えても、これがいいという案が思いつかない。
 ああ、もう!
「なあ、どこか食べに行かないか?」
 あたって砕けろ。
 そんな思いで言葉を吐いた。
 だが、悠人はちらりと視線を向けただけで、何も言わなかった。
 やっぱ駄目か……。
 もう、今日は仕方がないか。
 キスできただけでも儲けモノだ。欲張りすぎるとろくな事にならない。
 それにどうも本調子じゃないし。
 健一郎は内心ため息をつくと、悠人に関して考えることを止めた。
 今日は送り届けるだけにしよう。それが……いい。
 どこか諦めきれない想いを無理矢理心の奥底へ押し込んだ。
 後もう少しだ。
 車の進行方向に悠人のマンションが見え始めた。


 マンションの狭い駐車場に車を入れる。平日の早い時間のせいか止まっている車は少なくて、幸いにも数少ない客用駐車場が空いていた。
「着いたな」
 ぽつりと呟いた言葉は、思わず出たものだった。
 だが、その言葉にぴくりと悠人が反応した。健一郎に視線を向け、何か言いたげに口を開きかける。
 だが、結局それは閉じられた。
 何を言いたいんだろう?
 気にはなった。
 だが、閉ざされた口を開く手段は、今の健一郎にはない。
 今日はキスできた。それが健一郎に満足を与えていた。
 その後の攻防も楽しくて、つい車に乗せてはみたものの、結局こうやって素直に送ってきて……ま、情けないったらないな。
 夕暮れに近い時間。残暑の厳しい太陽の光も和らいでいる。
 悠人が車のドアを開け、外に降り立った。
 普通なら、無理にでも付いていって部屋まで送る健一郎だったが、何となくそんな気になれなかった。
 再度抱き締めてキスでもできるので有れば、それもいいかも知れない。だが、それは絶対にできないだろう。
 怒った悠人も良いとは思うのだが、それはもう少し親しくなってからの方が楽だしな。今の状況で必要以上に怒らせるのは得策ではないような気がした。
 もう、今日はいい。
 ふっとため息をつくと、悠人を見ずに声をかけた。見たら、襲いたくなる。
「今日は堪能できて良かったよ。じゃあな」
 無理に茶化した言葉を紡ぐ。だが、それに対する返事はなかった。
 全く、なかなか難しいな、こいつは。
 明日からどういう風に攻めようかな?
 健一郎はそんな事を考えながら、車を動かそうとした。
「ん?」
 助手席のドアが開いたままな事に気づく。
 ふと見ると、車の傍らに悠人が立ったままだった。
「おい、閉めてくれよ」
 ぐっと助手席に手をつき躰を伸ばし、外の悠人を見上げる。と、息を呑んだ。
「悠人……」
 悠人が睨んでいた。
 だが、それはいつもの怒りに満ちた物ではない。
「悠人?」
「貴様は、さんざん俺の心を弄ぶ。なぜ放っとかない?俺はずっと一人だった。それでいいと思っていた。なのに……」
 悠人の心に留まっていた物が堰を切ったように溢れ出している状態。
 呆然と見上げた視線の先で、悠人がくっと顔をしかめた。
 泣く!
 そう思った瞬間、悠人がすっと後ずさったかと思うと、ドアが勢いよく閉められた。その風圧に、思わず目を閉じる。
 一瞬の後、開けたその視界にマンションへと駆けていく悠人の後ろ姿が移った。
「これは……」
 呆然と呟く。
 それでなくてもうまく働いていなかった頭が、一向に今の状況を理解しようとしない。
 それでも、躰がようやく動き出すと、健一郎は慌てて車を飛び出した。
「悠人」
 ふと上を見上げる。人影が見えたような気がした。
 畜生!
 自分を罵る。
 気が付かなかった。
 悠人の心が溶け始めていたことに。
 何がきっかけだったかは判らないが、あの悠人にあそこまで言わせてしまったのは自分だ。
 だいたいそうなるように仕掛けていたのは自分なのに。
 油断していた。
 キスの後のあの怒り方も含めて、まだまだだと思っていた。
 こんなに一気に事が進むなんて……。
 健一郎は、マンションの階段を一気に駆け上がり始めた。
 悠人!
 今を逃したら駄目なのだと、頭の奥底でが警告音が鳴り響いていた。


「悠人!」
 ぜいぜいと肩で息を切らしながらその階の通路に出ると、悠人が呆然と突っ立っていた。
「悠人……」
 呼びかけるのも苦しくて、壁と膝に手をついて息を整える。
 悠人がゆっくりと健一郎を振り返った。
「何だ?」
 不機嫌丸出しの冷たい声が健一郎に浴びせられる。
「さっきの言葉の意味、教えて貰いたいから追ってきたんだ」
「あれか……忘れろよ」
 たぶん、悠人自身意図していなかったであろうあの言葉。
 とっさに出てしまった言葉に悠人が答えを出せるとは思ってはいない。
 だが、無かったことにするには意味深な言葉だった。
「悠人」
 その腕を掴む。
 やや俯き加減のその表情には先程までの泣きそうな表情は見受けられなかった。唇を噛み締め、忌々しげにドアを見つめている。
「悠人、部屋に入れてくれるか。話がしたい」
 真剣だった。
 ここを逃すなという警告は、今までの経験からだ。
 だが、その言葉に悠人は拒絶するどころか、ムッとしたまま何も言わない。
「どうした?」
 予期しなかった反応に、不安になる。
 悠人の顔が僅かに変化した。当惑しているように見えるそれに健一郎は戸惑う。
 一体、どうしたんだ?
 そんな事を考えた途端、悠人がぽつりと呟いた。
「鍵」
 その単語に目を見張る。
「鍵って……もしかして、忘れたのか?」
「ああ」
 ひどく不機嫌な様子に、思わず掴んでいた手を離す。
「どこで?」
「たぶん、雅人の所だ」
「って、もしかしてあの部屋か?」
「畜生、貴様のせいだ!」
 ぎりりと音がしそうな程噛み締められていると判る口元。
 何てこった。
 あの押し倒したりしたドタバタで鍵を落としてしまったのか……。
「取りに行こう。送っていく」
 ぐいっと悠人を引っ張るが、悠人はただ首を振って動こうとしなかった。
「雅人の出勤時間だ。今行っても誰もおらん」
「そ、うなのか……」
 何てこった。
 これでは着替えどころではない。悠人は今日は家には入れない。
「どうする」
 ふうっと一息ついてから悠人に尋ねた。
 ここでいつまでも突っ立っている訳にはいかない。男二人、こんな所で呆然としていては、奇異の目で見られるしかないだろう。
「どこか安ホテルでも泊まる」
「その格好でか?」
「着替えはなんとかするさ」
 ふんと鼻を鳴らした悠人と視線が合う。そこには、先程の泣きそうな気配など微塵も感じられなかった。むしろ、ひどくきつい光を宿す瞳で健一郎を見つめる。
「もう俺の事は放っとけ」
 うう……何て立ち直りの早い奴……。
 さっきからころころ変わる悠人の態度に、疲れが出てきた。
 何なんだ、こいつは……。
 しかし。
 何故か唐突に怒りがこみ上げてきた。
 それは半分は自分に対して。
 畜生!タイミングを逃した。
 ふるふると握りしめた拳が震える。
 ああ、もう!
 そして、残り半分は……。
 健一郎は悠人を掴んでいた手に力を込めた。
「来い!」
 ぐいっと引っ張る。
 こいつは、どうしてこうも素直じゃない!
 俺の事が気になっているんじゃないのか!
 先ほどの台詞はそういうことじゃないのか!
「おい、痛い!離せ!」
「いいから、さっさと来い」
 立ち止まろうとする悠人を引っ張って、駐車場まで降りる。
「貴様!どうするつもりだ」
「どうもしない。乗れよ」
 ぎろっと力を込めて睨みつける。
 それに悠人がたじろいだ。
「乗れよ」
 その有無を言わせぬ言葉に、悠人は息を呑むと渋々と乗り込んだ。


 健一郎は怒っていた。
 それは自分に対してでもあり、悠人に対してでもあった。
 むすっとしたまま運転に集中する健一郎。悠人も理不尽な行為に最初は怒りを露わにしていたが、いつまでたっても何も言ってこない健一郎に次第に困惑の度を深めていた。それが判ってはいたが完全に無視する。
 あの泣きそうな顔は何だったんだ?
 あの台詞は?
 聞きたいことは山のようにあった。
 いや、聞かなくても判っていた。そして、それに気付くのが遅かった自分に腹が立つ。
 千載一遇のチャンスはあの車の中にあったのだ。
 それを逃した。
 あの妙な雰囲気はそういう事だったのだと今更ながらに気付く。
 だが、それもたった一つの忘れ物のせいで……。それのせいで悠人は落ち着きを取り戻してしまった。訳の分からない感情より現実問題に目を向けてしまった。
 それが悔しい。
「おい、どこに行くつもりだ」
 何も言わない健一郎に業を煮やした悠人が、健一郎の左腕を掴む。
「運転の邪魔だ。離れろ」
 それに冷たく言い放つと、悠人は怯んだように手を離した。
 そうだろう。
 今まで悠人に対して、冷たくあしらったことはなかった。
 いつだって大事に扱った。
 それなのに……。
 それをふいにしてしまった。それが悔しい。
 はっきりいって自分が何をしようとしているのか健一郎自身皆目検討がついていなかった。
 ただ、車を走らせていた。
 気がつくと高速に乗っていた。
 今車を止めてしまうと、勢いに任せて悠人に乱暴な事をしてしまいそうだった。それほど感情が高ぶっている。
「降ろせ!」
「嫌だ」
 悠人の言葉を一言で切り捨てる。
 頼むから大人しくしていてくれ。俺の理性を保つために。

 秋が近づいてきているせいか、日暮れが早くなっていた。
 薄闇が近づいてきている。見にくくなった視界に気付き、車のライトをつける。
 ふと時計を見ると、走り初めてから1時間が経っていた。
 先ほどから悠人は何も言わなかった。
 ずっと外の景色を見つめている。
 ずっと走り続けて運転に集中していたせいか、健一郎の興奮していた神経が落ち着いてきた。
 最初の頃よりかなり冷静になっていた。
 何てこった。
 健一郎はくっと苦笑いを浮かべた。
 ここまで混乱したのは初めてだ。たかが恋愛ざたではないか。悠人が思い通りに動かないからといって何を苛ついているんだ俺は。ゆっくりと攻略しようと算段をしていたのに。何を今更焦ってしまったのか。
 ちらりと悠人を窺うと、悠人がこちらを見ていた。視線が合った。
「!」
 慌てたのは悠人の方だった。
 顔をしかめて、視線を逸らす。車外に向けられた顔が、外の光ではない色に染まっていた。
 ……。
 もしかすると、さっきと同じ状況なのか?
 車の中で何をするでもない、問題の相手と二人切りというこの状態が、悠人の心理をそちらに向けてしまうのかも知れない。
 案内板にサービスエリアのマークが出ていた。
 タイミングはいいかも……。


「悠人」
 前方を凝視したまま、呼びかける。
 もう、失敗するつもりはなかった。そして、逃すつもりも。
 返事がないのを無視して、続ける。
「俺はお前の心を弄んだつもりはない。ただ、待っているだけだ。お前の心が俺に向くのを」
 助手席の悠人が身動いだのが判った。
 返事は無いが、それでも悠人の心の動きが何となく判る。
「何故、あの時泣いたんだ?何故?」
「泣いてなんか!」
 腹の底から吐き出された言葉が車内に響いた。
 だが、次の瞬間、それは急にトーンを落とす。
「泣くつもりなんか……」
 横目で窺う先で、悠人の目元が光っていた。歪められた顔が下を向き、膝の上に水滴が落ちた。
「何で……」
 自分が泣いているのが信じられないという感じで、目元を拭う悠人。
「あの時は俺と別れるのが辛いから。そして今は俺が怒っているから、だろ」
「……」
 言葉はなかった。ただ息を呑む音がした。
「悠人……」
「俺は……いつだって一人で……なのに、気がついたら俺は貴様といるのが楽しいと……そしたら、一人でいることに苦しくなってきた……。これはやばいと思った……なのに、貴様は俺に何をした?俺を抱き締めて……なのに……酔わせても何もせずに帰っていって……。あんな熱だしたの貴様のせいだ、貴様が夢にまで出てきて、俺を翻弄した。だから……。頭を冷やして……。どうして……がついたら、いつも貴様を捜している……こんなの、変だ。これって……一体、何だ?」
 吐き出され始めた悠人の心。
 あの時と同じ、いや、それ以上の思いの丈が吐き出される。
「負けてはならん賭だった……なのに、何をしようとする気も起きない。それが判って、だがどうしようもない。貴様にキスされるっていうのに。俺は……何もしなかった。本当に……本当にまずいって……思ったのに……俺は……」
 ぽとぽと落ちる涙が光に反射して煌めく。
  
 ちょうど辿り着いたサービスエリアに入り、駐車場に入れる。
 ぽつんと一台離れたところに停まった事に悠人は気付いていない。
「悠人……俺はお前が好きだ。お前を苦しめるつもりはなかった。ただ一緒にいたいと思ったから……ただお前があまりにも頑なだから、つい無理をさせてしまったのかも知れないな」
「俺は……判らない。自分が判らない……」
 少し落ち着いてきた悠人の右手を取る。
 その右手を両手でしっかりと包み込む。
「いいさ。無理に考えようとしなくても。その内判るから」
 伝わるだろうか、俺の熱。
 悠人を思って躰の熱がこんなにも熱くなっている。
「増山さん……」
 悠人と視線を合わせる。
 困惑している悠人の顔は泣き濡れていた。
 まるで子供だ。
 子供のように混乱して、自分の状況が判っていない。
 ただ、思いの丈を吐き出すことしかできない。
 子供の頃、誰でも通った道。人とのつき合い方。人を愛すること。その戸惑い。それを今悠人は初めて経験している。
「悠人」
 そっとその濡れた頬に手を当てた。
 びくりと震えた躰。だが、悠人は逃げなかった。合わせようとしない視線が悠人の心の葛藤を表している。
 悠人はまだはっきりと自覚していない。ただ混乱してどうしていいか判らなくなっている幼い子供の状態。なのに、それにつけ込んでこのまま突き進もうとしているのは単に俺のエゴでしかない。それが悠人にとって何をもたらすか……。
 添えた手が導くままに悠人の顔が近づいてきた。
「愛している」
 寸前で囁き、そのまま口付けた。
 こんなにも早く再びキスできるとは思っていなかった。
 悠人がどう受け止めていようとも……健一郎は、悠人を離すつもりはなかった。


 どこかぎこちない悠人。逃げようとするその躰をきつく抱き寄せて、その唇を貪る。
 今がチャンスだと。だが、それも僅かな時間だった。
 我に返ったかのように悠人の手がいきなり動いて、健一郎の胸を強く押す。その力強さに、健一郎は躰を離さずにはいられなかった。
「どうして……」
 荒い息を吐きながら、悠人は俯いたまま健一郎に尋ねる。その腕は近寄られないようにと、強く健一郎の胸を押したままだ。
「なぜ……友達では駄目なんだ?なんでキスするんだ?なんで……抱きつくんだ?」
 どうして?
 そんなのは判り切っている。
 健一郎は、突っ張っている悠人の両の手首を掴んだ。それほど力を込めなかったが、それでも外すことはできた。
「友達か……お前の俺に対する望みはそれか?友達として仲良くしたいと」
 黙って俯いている悠人の頭が僅かに動いたような気がした。
「だが、俺は……お前とキスしたい。抱き締めたい。……お前を抱きたい」
「だからどうしてそうなる!俺達は男同士だ!」
「男同士だからそういう関係になれない、というのは俺の中にはない。だいたい、俺達の弟達がそういう関係だろう。お前はそれを否定するのか?」
 びくりと震えたのが握った手首を通して伝わってくる。
「雅人は……そういう奴だ。結局、そうなるしかなかった。俺が何を言える?雅人の人生は雅人の物だ。だが、だからと言って俺がどうして同じ道を取らなければならない?」
「そんなの関係ないだろ。それぞれ辿った道がたまたま同じだったというだけだ。だいたい、悠人は俺とキスして何も感じないのか?俺は感じるぞ。このままお前を押し倒したい位、興奮している」
 その言葉に悠人が、びくんと顔を上げた。
 感じなかったなんて言わせない。
 その朱に染まった顔。悠人は狼狽えるように健一郎から視線を逸らした。
 その姿が健一郎の欲望に火をつけた。
 ずっと言えなかった言葉を投げつける。
「こんな状態なのに、そういう相手を友達としてなんか見れない。お前もいい加減俺の事を好きになっているのを認めろよ。俺と別れるのが辛かったんだろ!俺のキスに感じて、俺に抱き締められて嬉しくて、少しでも抱かれたいと思ったんだろうが!俺のことが好きなくせに!」
 畳みかけるように浴びせた健一郎の言葉に悠人の赤く染まっていた目がすうっと細められた。
 あ、やば。
 表情の変化から言い過ぎたと悟った途端、悠人の拳が健一郎の鳩尾に入った。
「ぐっ」
「馬鹿か貴様は!」
 唸って腹を抱える健一郎に、悠人が怒鳴る。
「誰が抱かれたいと思ったって!俺は、そんな節操無しじゃない!ああ、確かに感じたよ。情けなくも貴様と別れるのが寂しいなんて思ったよ、それは事実だ!だけどな、それで即、お前に抱いて貰おうなんて思わん!貴様こそ、どこまで性欲魔人なんだ!いい加減にしろ」
「うう……」
 誰が性欲魔人だ……俺はお前と違って自分に正直なだけだ。
 だが反論しようにも、声が出せない。
 こみ上げる苦しさに目尻に涙が浮かびしかめられた顔を悠人に向ける。
「自業自得だ!」
 ふんとばかりに健一郎から視線を外すと、悠人は腕組みをして前を見据えた。
 しまった……攻め方を間違えた。
 健一郎の脳裏に後悔の念が沸き起こる。
 悠人は、真綿でくるんで氷を溶かすように、じっくりと攻めなければ行けないと、肝に命じていたというのに……不用意にぶつけてしまった言葉で怒らせてしまった。
 こいつに、あんな事言ったら、反撃してくるのは判っていたはずなのに……。
 あの時といい、今とといい……俺は一体何をやっているんだろう。
 綺麗に急所に入った拳は、鍛えた腹筋によって多少はダメージを軽減しているとは言え、結構効いた。それ以上に、精神に与えたダメージが大きい。
 健一郎はどうにか苦しさが消えた腹をさすりながら背もたれに躰を預け、大きく息を吐き出した。
 俺、いつからこんな恋愛初心者に成り果てたんだ?


「すまなかった」
 一つため息をついて素直に謝る。こればっかりは不本意だが悠人を立てる方が良いような気がした。
 こんな考え方をしてしまうあたり、オレは完璧に悠人に参っているのだろう。最初は落としてやろうと、そればかり考えて……冷静に対応していたつもりだったのに、一体いつからこんなことになってしまったのか?
 悠人は、健一郎の言葉に反応を返さなかった。じっと外を見ている。その横顔が窓に写っている。それを窺っていると、一度は押さえ込んだ欲望がムクムクと沸いてくる。
 性欲魔人か……。
 別に性欲だけでは無いのだとは思うのだが、こうやって悠人を前にすると欲しくて堪らなくなることがある。ずっと我慢してきたものが、あの泣き顔に吹っ飛んでしまったのかも知れない。
 はああ。
 躰の熱を逃すかのように大きくため息をつく。と。
「もういい、鬱陶しい」
 悠人のうんざりとした声が健一郎に届いた。
「え?」
「それより腹減ったんだが、どうするつもりなんだ?」
 こちらに向けられたその表情が怒っていない。むしろ微かな苦笑すらその口元に浮かんでいる。
「悠人……」
「そんな貴様を見ると俺が悪いことをしているみたいじゃないか。そんな筈はないのに、な」
 静かな口調は、先程までとは打って変わっていた。
 こいつは、感情の起伏が激しいんだろうな。熱しやすく冷めやすいタイプ。
 ふと、そんな事を考える。その悠人が言葉を続けていた。
「俺も自分の気持ちが分からないほど、そこまで馬鹿ではない。ただ、かっとなると自分が自分の感情がコントロールできなくなる。貴様のことを考えているとそれが顕著に出てしまう。ま、泣いてしまったのは我ながら情けないが……あれも、俺の本音なんだろな。確かに、貴様とのキスは不快ではないんだ。だけど、それを自ら受け入れることに、どうしても我慢できないところがある。なんだか、貴様に言い様に流されてしまっているようで嫌だ。俺は……」
 ふっと悠人が言葉を切った。
 健一郎に向けていた視線が反対の窓に向く。
「今までいろんな奴が俺に言い寄ったが、こんな気持ちになったことはなかった。男にキスされたのに、それがいい、なんて……思うなんて……」
 これは……もしかして告白、なのだろうか。
 ムードもへったくれも無いし、お世辞にも色艶があるとは言えないが……これは……。
「悠人……」
「さっきから、そればかりだな。だが、もう俺の意志を無視するな」
 こちらに向けられた顔がくすりと苦笑を浮かべる。
 その顔を見た途端、ずきんと下半身が反応した。
 それは、健一郎の欲望に火をつけるのに充分なほど魅惑的な笑み。
「悠人……キスしたい」
 思わず付いて出た言葉は、本音。
 誤魔化しようがないほどの……。
 悠人は呆れたように目を見開いたが、ふっとその口元に笑みを浮かべた。
「全く、性欲しかないのか、貴様は……」
 その言葉に否定しようもない。
「悪かったな、これが俺だ」
「肯定されても困るな」
 悠人の苦笑に健一郎も口の端を上げて答える。
 健一郎の手が伸びて悠人の額の髪を梳き上げた。悠人は黙ってされるがままになっていた。
「なあ、駄目か?」
「さっき、しただろう」
 いい加減にしろと睨まれるが、それすらも心地よい。悠人とて、健一郎がその頬を辿らせる指を止めようとはしなかった。
「こういうことはしてもいいのか?」
「それは……時と場合による」
 吐き出された言葉に熱が含んでいると思うのは気のせいだろうか。
「今は、その時じゃないのか?」
 その言葉に悠人は困ったように目を細めた。その視線が泳ぐ。
 しばらく逡巡した後、口を開いた。
「じゃあ、賭をしよう」
「え?」
「俺が満足できる食事をさせてくれたら、キスだけならしていいっていうのはどうだ。ああ、もちろん酒付き。言っとくがこの前みたいな前後不覚になどはならん。襲おうなどと姑息なことは考えるな」
「それ……本気か?」
「ふん、この前のお返しだ。今度は貴様が苦労しろ。だが、その辺のファミレスでは満足せんぞ。かといってこの格好では良いところは入れてくれないし、どうするつもりだ?」
 試しているのだとその目が伝えてくる。
「……この俺を泣かせるまでしたんだ、その代償は高くつくと思え。覚悟しろよ」
 高飛車に命令しながら、健一郎にそれでもこんな俺がいいのか、と……。
 だから。
 健一郎はふっと微笑んだ。
「いいだろう。幾らでもお前の望み叶えてやるさ。いつだって勝つのは俺だ」
「期待している」
「その賭、後悔するなよ」
 悠人がその言葉に可笑しそうに笑う。
 健一郎は、くくっと笑うと車を発進させた。
 どこに行くかは決まっていないけれど……



 明石悠人。
 手に入れようと画策していた相手。
 だが、こいつはそう簡単には突き進めてくれそうにもない。
 増山健一郎は、車の助手席で気怠げに窓の外を見ている悠人を窺いながら、さてどうしようかと思いめぐらしていた。
 実に始めて逢ってから3ヶ月を費やしていた。
 最初に逢った時からぜひ手に入れようと画策し続けて、ようやく手に入れることができた悠人は、我が儘でひどく感情的なくせに、無意識でも意識的にでも相手を翻弄せずにはいられない奴だっだ。
 もっとも、感情的になるのは仕方ないとは思う。
 賭をして、その負けの代償であるキスをした後、当惑したままの頭を冷やす間もなかったのだから。自分がコントロールできなくなった悠人に翻弄させられ、なぜか高速をひた走り、こんな所のサービスエリアまで健一郎は来てしまった。だが、この車の中という密室に二人きりという状況が、意外にも悠人の心を結論付けたようだ。
 結局、色気が感じられないとは言え、告白らしきものを受けたのは成果といえよう。
 だが、健一郎がキスしよう、というとおいしい食事をさせてくれたら、等という。
 どこか楽しそうなその台詞の裏に隠れているのは、やはりどこか不安げな心の内。
 楽しそうにしていた時間は10分も保たなかったのではないか?
 気がつけば、何を話しても心ここにあらず、と言ったような気配。
 その内、健一郎も話し掛けるのを止めてしまった。
 どうも、こいつは車に乗るといろいろと考え込んでしまうようだった。
 それにしても、一体何を考えているのだろうか?
 また、泣くんじゃないんだろうな……。
 ほんとに、感情的になると爆発したようになるんだから、こっちの対応も遅れをとってしまう。
 もう少し。
 できれば、もう少しこいつを掴まないと、なかなかコントロールが難しい。
 まあ、とりあえずはこいつが仕掛けた賭をクリアしないとその先にも進めないと言うことだ。
 健一郎は、とりあえず食事の問題をどうするか考えていた。
 何せ、悠人の食事の好みはあまり把握していない。
 まあ、酒は洋酒が好きなのだから、それに合う食事となるとやはり洋食だ。といっても……。
 悠人は、抗った時にシャツの第二ボタンを外している。それでなくても、いろいろ仕掛けたものだから、皺が寄ってしまっている。
 そこそこの店だと入れてくれないだろうし、それに悠人も今の状況では店には入りたくないのだろう。
 となれば……。
 健一郎の頭の中には、着々と賭への対策案が煮詰まってきていた。
 この時間なら、なんとかなるかな……。
 時間を確認し、ほくそ笑む。
 それに。
 と、ちらりと悠人を横目で見る。
 この賭、負けるわけにはいかない。
 悠人は俺を試しているのだ。俺がどこまで本気なのか。
「どこに行くつもりだ」
 どうにか地元まで帰り着き、見慣れた道を走っているのに気がついたのか悠人がようやく口を開いた。
 ふと時計を見ると、8時を過ぎている。
「お前を満足させる方法を思いついた。服のことも解消出来るし……」
「そうか?それは楽しみだ」
 どこかふてぶてしさを感じさせる笑みが悠人の口元に浮かぶ。
 まだまだ、クリアすべき課題は多い。
 それを一つずつ詰めるか、一足飛びに進めてしまうか……。
 できれば前者の方が良いのだろうが、こいつがどこまで逆らってくるか次第ということた。

 それにしても料理といってもいろんな種類があるんだよな。
「おい、好みくらいは聞いていいんだろう?」
「好み?……ああ、何でもいいよ。大抵のものは食べるし」
「それ……好みじゃないぞ」
 誤魔化しているのかと思ってちらりと窺うと、そうでもなさそうだ。眉をひそめて考え込んでいる。
「まあ、いい。じゃあ、何でもいいな」
 そう言いながら、健一郎はスーパーの駐車場に車を入れた。
「ここは?」
 訝しげに問う悠人に、健一郎はにやりと嗤い返した。
「今日の晩飯は、俺の手料理だ」
 そう言うと、悠人が目を見開いた。
「貴様が?作れるのか?」
「失礼な。これでも家族と同居している頃は俺が食事をしょっちゅう作っていたんだぞ。俺の母親は働いていたからな。待っている暇があったら、俺が作った方が早かった。浩二は、道場に入り浸っていたから帰るの遅かったし、妹は味音痴だったし。俺が作るのが一番旨いって評判だったんだからな」
「へえ……意外だな」
 マジで言われて、結構傷ついた。
 きっと俺が料理している姿など思いもつかなかったのだろう。だがまあ、確かに俺も悠人が料理をしている姿は想像がつかない。
「悠人は作らないのか?」
「簡単なものなら作れるが……それだけだ」
「では楽しみにしていてくれ。急いで材料を買ってくる」
「時間がかかるのは嫌だぞ。マジで腹減った」
「判っている」
 そう言い返し、健一郎は車を降りた。
 といっても、健一郎も凝った料理が作れるわけではない。
 子供の頃から作り続けた、いわゆる家庭料理だ。しかも、どうしても自分の好みになる。
 煮込む料理は時間がない……。
 家にある調味料や材料を思い浮かべながら、いろいろと考えたが、結局これしかないな……と、健一郎は材料を籠に放り込んでいった。
 この際、スープはインスタント、と。
 負けられない賭だが、時間をかければそれだけ悠人の機嫌も悪くなろうというもの。健一郎は、適当に妥協して、買い物をしていた。
 ついでに酒のつまみになりそうなものも選ぶ。
 慌ただしくレジを済ませたものを袋に入れ、車まで走って戻ると悠人が退屈そうにしているのが見えた。
「すまないな」
「腹減った」
 健一郎の顔を見た途端、悠人がむすっと不機嫌な顔になる。
「とりあえず、これでも食べてろ」
 その手にクラッカーの箱を渡す。
「……これで腹一杯になったらどうする?」
 悠人がまじまじとその箱を見ながら言った。
 それに苦笑を返す。
「できれば、少しだけにしてくれ」
「判っている」
 くすりと笑みを浮かべた悠人は、箱を開けると一枚手に取るとばりっと囓り取った。
 それを横目で見、健一郎は車を発進とさせた。
「後、10分くらいだから、その後かかっても1時間だからな」
「判った」
 がさごさと音を立てながら箱の中身を取り出していた悠人が、ふっと手を止めた。
「増山さんも食べるか?」
 言いながら、箱を差し出す。
「食べたいが……」
 箱に手を入れていられるほど、スムーズな道ではなかった。少し混んでいるのか車の動きも不規則だ。
「ああ、そうか」
 悠人もそれに気づいたのか、箱を引っ込めた。
 と、箱から1枚取り出すと、ひょいっと健一郎に差し出す。
「食べろ」
「ああ、サンキュ」
 受け取って口の中に放り込んだ。さすがに腹が減っていたのは健一郎も同じなので、ひどくおいしく感じられた。
 健一郎が食べきったのを見て取った悠人が、再び差し出してくる。
 それを見た途端、健一郎の中に悪戯心がむくむくと沸いてきた。
 その手首を掴み、ぐいっとそれを顔の高さまで持ってくる。
「えっ」
 驚く悠人を後目に手に持っていたクラッカーをぱくりと食べると急いで口の中のものを咀嚼した。そして、引き寄せたままの悠人の指をぺろりと舐める。
 塩の味が口の中に広がった。
「ばっ!」
 悠人が慌てて手を引っ込めた。
「おいしかった」
 笑いかけると、悠人が真っ赤になっているのが見て取れた。
「馬鹿が……」
 ぎゅっとその手が握りしめられ、微かに震えている。
「殴らないのか?」
「殴って欲しいのか?」
「まさか」
 わざと大げさに顔をしかめると、悠人はふうっとため息をついた。
「ったく……運転中くらい大人しくできないのか?」
「運転中じゃなかったら、いいのか」
 笑いかけると、悠人が困ったように俯いてしまう。
 その姿に気づいて健一郎は目を細めた。躰の一点がうずうずと疼いている。
 気づいていないのか、こいつは。
 そんなそぶり一つが俺を煽ると言うことを。
 
「随分と片づいているんだな」
 健一郎の部屋に入ってきた悠人が開口一番に言った言葉がこれだった。
「散らかさないようにしているだけだ」
 ただそれだけ。
 掃除自体、休みの日くらいしかできないから、できるだけ広げないようにしている。広げる必要もなかった。
 家で料理をするのだからどうしてもキッチンは汚れるが、それもこまめに拭き取っている。食器は食器洗浄機のお世話になっている。
「それにしても綺麗だ……もしかして増山さんって几帳面なのか?」
「さあ……言われたことはない、と思うが」
 随分と意外そうに言われる。
 もしかしなくても、こいつの俺の印象というものは最悪なんじゃないだろうか?
 この前、玄関先から見た悠人の部屋もそんなに散らかっているようには見えなかった。
 どちらかというと、悠人の方が几帳面に思えるのだが、その悠人が綺麗だと言い張るのだから、まあ綺麗なのだろう。目に付いた綿埃を足で部屋の隅に隠す。
「とりあえず、そっちで座っててくれ」
 うろうろと見学する悠人に苦笑を浮かべながら、座布団を差し出した。
 一人暮らしだからと、ダイニングテーブルのようなものは置いていない。
 なんせ弟より薄給の健一郎としては、この狭い部屋が限界なのだ。少しでも広く使うために余計なものは置いていない。
 収納場所も少ないから、夏も冬もこたつが座卓代わりになっている。
 そこに悠人を座らせた。
 その手にクラッカーの箱を持たせる。
「あんまり食べ過ぎないでくれよ」
「判ってるって」
 テレビをつけてリモコンを渡すと、健一郎はキッチンへと戻った。
 着替えもせずにエプロンをつける。
 材料は、挽肉にタマネギ、食パンに牛乳に……。
 要はハンバーグの材料。
 子供の頃からのスタンダードメニューだ。そこそこに成長してからはソースには凝るようになったが。
 これが嫌いな人もそういないだろう。
 健一郎は手際よく、タマネギをみじん切りにしていった。
 手際よく具を混ぜ合わせ、形を作る。
 小判型の固まりが出来たら、フライパンで焼く。強火で表面を焼き、そして弱火にする。
 そのまま待っている間に、もう片方のコンロで、キノコ類を材料に和風風味のソースを作った。
 最近のお気に入りメニューだ。
 スープカップにインスタントのコーンスープの粉末を入れる。
「手伝おうか?」
「うわっ」
 いきなり背後から声をかけられ、カップを落としそうになった。
 振り返ると、悠人がくすくすと腹を抱えて笑っていた。
「いきなり声をかけるなよ。包丁じゃなくて良かった」
「すまない、そんなに驚くとは思わなかった」
 軽く咳払いをしようやく笑いを収めた悠人が近づいてくる。
「待っていればいいのに」
「いい匂いがしたからね」
 肩越しに手元を覗き込まれる。
 間近に迫った悠人に健一郎の心臓がどきりと高鳴る。
 こいつ、作為的?
 それはそれで嬉しいのだが、今の健一郎にとっては心臓に悪い。
 手を出したくてうずうずしているのに手を出せない相手が、無造作に近寄ってくるのだ。
「お湯は?沸かすのか?」
「あ、いや。そこのポットに沸かしてあるから」
 棚に置いてあるポットを指さす。
「ああ。ところで飯は?こんな時間で炊けるのか?」
「それは、タイマーで炊けるようにしていたからな。まさか、お前を誘うとは思わなかったが」
「それは用意がいいことだ」
 口調は呆れているのだが、随分と楽しそうに手伝う悠人が珍しくて、健一郎はついつい見惚れてしまっていた。
「おい、いいのか?」
「え?」
 健一郎が見つめているのに気が付いたのか悠人が苦笑混じりにフライパンを指さす。
「あ、やべ」
 慌ててひっくり返すと、焦げる寸前だった。
「お前、オレに焦げた物食べさすつもりか?」
 悠人が肩を竦める。
「んな筈ないだろうが」
 火加減を調節しながら、言葉を返す。
 漏れるため息は誰のせいだと責めたくなる。
 おかしい……。
 ここにいるのは一体誰だ?増山健一郎だろ。
 妙に緊張している自分を叱咤する。
 しっかりしないと、悠人を手に入れることはできない。なのに、その悠人に翻弄されているとしか思えない自分が情けない。
「まだか?」
 立ちこめる匂いに首を傾げてフライパンを見つめる悠人。
 それが健一郎を煽る。
 ずっと悠人を覆っていた冷たい壁がとれた代わりに包んでいる穏やかな雰囲気が一層健一郎を虜にする。
 お、おまえは……。
 誘ってんのか、お前は!
 そんな筈はないと思いつつも、そう思わせる雰囲気があった。
「おいしそうな匂いだよな」
 期待に満ちたその言葉。
 ごくりと健一郎の喉が鳴った。
 おまえ、忘れているのか?
 おいしかったら、俺とキスするんだぞ。
 だが、目前の悠人はそんな事完璧に忘れているようで、ただ食べるのを楽しみにしているようだった。
「悠人?」
「なんだ?」
「俺がお前の課に貢いだ食べ物、お前食べてたのか?」
 かなりの量のケーキや菓子を足繁く持っていった。そのお陰であそこの女性達とは親しくなれたが。
「あ、ああ、食べた、うまかったな」
 けろりと言う。
「その割には、冷たい態度だったが」
 そう言うと、悠人はじろっと健一郎を睨んできた。
「下心のある奴にいい態度なんかとれるか」
「だが食べたんだろう?」
「そのつもりで持ってきたんだろう?俺の分もあったし」
「ふーん。どんな奴が持っていってもお前は食べるのか……甘い物好きなんだな」
 ぽつりと漏らしたその言葉を聞いた途端に悠人がふいっと視線を逸らした。
「別に、好きというわけではない」
 なぜか不機嫌になった悠人が乱暴にお湯を注いだスープをかき混ぜる。
「そうなのか?でも食べたんだろう?」
「食べた」
 そのありありと判る不機嫌さに、健一郎は訝しげに眉間に皺を寄せた。
 ったく、どうしてこう機嫌がころころと変わるんだこいつは。
 さっきまで楽しそうにしていたのに、なんで不機嫌になるのか?
 俺が何かしたのか?
 そう思って先程までの会話を思い起こすが、特に逆鱗に触れるようなことは言っていない筈。
「悠人、そこの皿を取ってくれ」
 しっかりと火が通った証拠の透明な肉汁を確認した健一郎は、悠人の目の前に出してあった皿を
取ってくれるように頼む。それを無言で悠人は差し出した。
 そのぴりぴりとした気配に顔をしかめるが、かといって何も思いつかない健一郎はため息しか出なかった。
 気が滅入ってきた……。
 今日一日、一体こいつは何回機嫌が変わった?
 数えるのも大変なほど変わったことだけは判る。
 その大半が怒っていたとは言え……。
 皿を持って座卓に並べている間も、悠人の機嫌は変わらなかった。
 これはまずい……。
 マジでそう思う。
 このままでは絶対においしいなどと言いそうになかった。
「悠人?」
 料理を並べ終わった所ですでに座っていた悠人に話し掛ける。
「何だ?」
「何か俺、気に障ること言ったか?」
 窺う自分が情けないとは思うのだが、機嫌の悪い悠人には逆らえない。もう少し強く出てもいいような気がしなくもないのだが、それはまだ先のステップだという気がする。
「俺は……」
 言い淀んでいる悠人の言葉を気長に待つ。
「俺は……誰のでも良いという訳ではないし、甘い物だから食べたわけではない」
 え……。
 思わず持っていた箸がぽとりと落ちた。
 健一郎の視線の先で頬を赤らめハンバーグを睨み付けている悠人。
「もしかして、俺が持っていったから食べたのか?」
「食べろってみんなが煩いんだよ。まあ……食い物に罪は無いし」
 食べ物には罪はない。
 まあ、確かにそうだ。
 だが本当に悠人はそれだけのために食べたのだろうか?
 黙々とハンバーグを口に運ぶ悠人の頬はどことなく赤い。
 二人とも何も言わないから気まずい雰囲気が漂っていた。
 あれは、食事前の会話でなかった。悠人に変に意識させてしまった。
 悠人は、たぶん自分の意識が俺に傾くのを信じられなくて、それで賭ということで意識を逸らしているのだ。
 かちゃかちゃと食器の音が時折響く。
 おいしいかと聞きたい。
 だが、悠人はただ食事にだけ目を向け、決して視線を会わせようとしない。
「……ごちそうさま」
 ぽつりと呟かれた言葉に気付くと、悠人は食べ終わっていた。
 皿の上は綺麗に片づいている。
 そのまま皿を凝視している悠人。健一郎はとにかく急いで自分の物を食べ終えた。
 食器を片付ける間、悠人は手伝うのだが無言のままだった。
 賭をしない方が良かったかも知れない。
 ふと健一郎はそう思った。
 あまりにも緊張を強いられているこの状況。はっきり言ってつらい。
「悠人……」
 声をかけると、びくっと躰を震わした。
 作っている間の和やかな雰囲気などない。
「座れよ、テレビでも見るか?」
 その緊張を少しでも解したくて笑顔で話しかけるが、悠人は黙ったまますとんと差し出されたクッションの上に座った。
 つけたテレビがバラエティ番組を移す。
 意味不明なお笑いに会場の笑い声がテレビから漏れるが、それすら悠人を解すことはできない。
 怒っているんだろうか……。
 そう思わせるぐらいひどく眉間に皺がよっている。
 さて、どうしたものか……。
 味の評価を聞きたい。
 だが、それを聞くのも怖いような気がする。
 だいたい悠人が正直に答えられるのか?
 味には自信があった。自分で食べてもおいしいとは思った。
 だが、味は食べる人間の主観によるものが大きい。悠人がキスしたくないと思ったら、おいしくないと言えば良いだけの話だ。
 さて……。
「悠人、どうだった?」
 意を決して聞いてみた。
「おいしかった」
 ぽつりと言われたその言葉を「ああ、そうか」と思わず返しそうになって、息を飲んだ。
 おいしかった……って……?
「本当に?」
 目を見開き、まじまじと悠人を見る。
 テレビを凝視している悠人の横顔は、頬杖をついているせいで半端以上隠れている。
 だが。
「おいしくなかったとでも言って欲しいのか?」
 むすっと言われて、慌てて首を振る。
「良かった……。味には自信があったからな」
「ああ、そうみたいだな」
 途端にテレビから音が消えた。悠人がリモコンでテレビを切ったのだ。
「面白くない……」
「テレビがか?」
「何もかもだ」
 それはどういう意味だ……。
 悠人が苛々と髪を掻き上げた。さらりとした髪が上げられたと同時にまた額にかかる。
「どうして、お前の思うとおりにならなければならないんだ?それに腹がたつ」
 ……。
 思わずため息をつきたくなる。
 素直じゃない。
 これは……ずっとこいつについてまわるのだろう。
「で、賭は俺の勝ちだな」
 ちょこっと暗くなる思考をとりあえず今の期待に振り返る。
「ああ……」
 意外に簡単に肯定されて拍子抜けした。
「じゃあ、いいのか?」
「ああ……」
 ぼそりと言われた悠人は、その僅かに見える横顔が真っ赤だ。
 その頬に手をあてる。
「悠人……」
 引き寄せるように手に力を加える。
 それほど逆らうこともなく、悠人が健一郎の胸の中に倒れてきた。
 意識して力を抜いているのだろう。閉じられた瞼がぴくぴくと震えている。
 その躰を抱き締め、頭を抱えて顔を仰向かせるとそっと唇を重ねた。
 今日はなんて日だ。
 初めてキスをした。
 そして悠人の本心を聞き、今度はある意味悠人の方からOKが出たキス。
 その唇をゆっくりと味わう。
 抱き留めた躰がひどく熱く感じる。合わせられた胸から伝わる心臓の脈打つ響きがひどく早い。
 つんと唇を舌でつつくと、悠人がおずおずと自ら隙間を開けた。
 その拙い動きにすら煽られる。こじ開けるように舌を差し入れ、奥まった所に隠れている舌を絡め取る。
 ざらりとその舌をくすぐると、悠人の喉が音を微かな立てた。
 躰の向きを変えさせ、投げ出した足の間に躰を入れる。腰に回した腕に力を入れると躰がしなりなおもきつく口付け合うことになった。
「ん……んんっ……ふっ……」
 溢れた唾液が悠人の顎を伝う。
 キスだけ……。
 ふっと浮かんだ言葉。
 それが溜まらなく惜しい。
 できればもっと進みたい。
 誰にも触れさせた事のないこの躰を全て味わいたいとさえ思う。
 だが、それは……。
 時折漏れる声。
 震える躰が健一郎を誘う。
 欲しい……。
 頭に血が昇り、何も考えられなくなる。
「くっ!」
 気がついたら押し倒していた。
 離された口から飛び出る制止の声に我に返る。
「いい、加減にしろっ!」
 抱き締めたままの躰を離そうとしない健一郎の躰の下で悠人が暴れる。
「我慢……できないっ」
 欲情をたっぷりと含んだ掠れた声が健一郎から発せられると、悠人はぴたりと動きを止め、まじまじと健一郎を見据えた。
「俺は……嫌だ……」
 僅かの間の沈黙を遮るように悠人がぽつりと言った。
 くっと唇を噛み締めている。
 ああ……やっぱり駄目か……。
 突き進もうと思えば進むことが出来ただろう。
 だが、それは悠人との今の関係すら壊すことになる……。
 健一郎は大きく息を吐くと、悠人の上から躰を避けた。
 慌てて、悠人が這うようにしてそこから逃げ出す。
「すまん……」
 ぽつりと漏らされた言葉に悠人は意外にも苦笑を浮かべて返してきた。
「貴様が性欲魔人だということを忘れていた」
「どういう意味だ?」
「やりだしたら止まらない……ってことかな」
 う……。
 言ってくれる……。
「しょうがないな、どうやらお前相手だと自分のコントロールが効かなくなる」
「効かせて貰わないと困る。俺はお前と……セックスするつもりはない」
 はっきりと宣言され、少なからず落ち込む。
 まあ、確かにこいつなら言いそうな気がしたが……。それでもこうしてキスするだけで、我を忘れそうな今の状況でそんな事言われても結構辛いモノがある。
 だが、健一郎はふとある事に気がついた。
 ふっとその口元に笑みが浮かぶ。
「そうは言うけどな」
 どこか楽しげな口調になった健一郎に悠人が不審そうな表情を向けた。
「何だ?」
「これっ。お前だって」
 ぐっとその腰を抱き、その下半身に手を当てた。
 はっきりと伝わるその昂ぶりに、健一郎はほくそ笑む。
「や、止めろっ!」
 慌てて逃げようとする悠人を、しっかりと抱き締める。その手はスラックスの上からそれを押さえ力を込めて撫で上げていた。
「あっ!」
 布地越しでも明らかに判る変化が伝わる。
「俺とのキスだけでこんなになっているのに……」
「う、煩い…っくう!」
 こればっかりは、俺も悠人も、いや、男なら誰でも変わらないだろう。よっぽどの聖人君子以外は。ぐいぐいとその先端の辺りを押さえると、逃げようとする悠人の躰から力が抜ける。
「や…め……んっ」
 押しのけようとした両手が健一郎の両肩をぎゅっと掴む。
 はっきりとした形を創り上げた悠人のモノは、僅かな愛撫に驚くほどはっきりと変化した。
「辛いだろ。達けばいいんだ」
 腰砕けになって健一郎の肩に顔を埋めている悠人。
 そおっとベルトを外す。
 意外に簡単に外れたそこに手を差し入れると、悠人がびくりと顔を起こした。驚いたように見つめてくる悠人に口付けると、侵入させた手を直に握り込む。
「んあっ!」
 仰け反る躰を抱き締め、離された唇を首筋に持っていく。
「やめ…ろ…」
 苦痛に耐えているかのように歯を喰い縛っている悠人がその隙間から声を漏らす。
「このまんま止めても辛いだけだぞ」
 手の中のモノの形を楽しむように、上下に扱く。
 押しのけようとしているのだろう。悠人の手が、健一郎の肩に添えられた。だが、その手に力が入らなく、それはただそこにあるだけだった。
「ん…はあ……あぁぁ……」
 健一郎の手が動くたびに、悠人の口から掠れたような息づかいと甘い声が漏れる。堪えられないとばかりに肩に額を押しあてて、左右に何度も振っていた。
 悠人の手が健一郎のシャツをぐっと握りしめていた。 
 必死で何かを堪えようとしているその仕草が、健一郎を昂ぶらせる。
 触れられた部分から熱い熱が伝わり、それが下半身の一点に集中する。
 健一郎自身、理性の限界が来ていた。
 このまま押し倒したい。
 それを必死で堪える。
 自分の我慢の限界を試されいるようなモノだ゜。
 赤く上気し、苦しげに顔を歪めている悠人は、必要以上に健一郎を煽り立てる。
「や…めて…くれっ」
 食いしばられた口から漏れる掠れた声ですら、健一郎の劣情を呼び覚ます。
「いいから……我慢するなよ」
 耳元に囁きかける声が掠れている。
 自分の欲情が溢れ出しているのを自覚する。
「悠人……」
 耳朶を噛むように口付ける。
「い…や……だっ!」
 力の抜けていた悠人が、それでも必死になって健一郎を押しのけた。
 その必死になった力は意外に強く、悠人は崩れるように床に手をついて健一郎から離れた。
「や、めろと、……言った……」
 それだけ言うと、くっと下唇を噛み締める。
 外に出されていた自分のモノをシャツを引っ張って隠そうとしていた。
「悠人……苦しいだろうが……」
 あの様子ではほとんど達く寸前だったろう。健一郎の掌は悠人から出た液で滑りを帯びていた。
 なのに、それでも拒絶する。
 だが、それはそれで辛い状況だろう。
「ちくしょうっ!」
 ぐっと押さえ込まれたそこは、容易な事では収まりそうにない。
 随分と辛そうに悠人は顔を歪めていた。
 だが、それを拒んだのは悠人自身だ。
 健一郎はそんな悠人にため息をつくしかなかった。
 真っ赤になっている悠人を見ているとぞくぞくと得も言われぬ疼きが下半身に集中する。
 頑固で我が儘だと思う。
 今まで付き合った誰よりも、その性格は付き合いにくい。
 それなのに、決して手放したくないと思う。
 踞ったまま、きつく唇を噛み締めている悠人。
 だが、実は健一郎もゆっくとり悠人を見ているわけにはいかなかった。
 実は人ごとではない状況。つまり、はっきり言って、暴発寸前。
 悠人をからかうどころではない。
「悠人、シャワーでも浴びてこいよ」
 苦肉の策が口から漏れる。
 びくりと顔を上げた悠人の目が細められ、疑いの色がその瞳に浮かんでいた。
「心配なら、鍵でもかけてろよ。もう、今日は何もしやしない……」
 さっさと行けよ。
 俺が言っている意味が判るだろうが……男なら……。
 健一郎は幾分情けない気持ちで悠人を見遣った。
 悠人が口元を歪める。
「本当だろうな」
「ああ……」
 早く行けって。
 きついくらいに昂ぶっている自分のものから気を逸らし、かろうじて笑顔を向ける。
 それでも疑いの目を向ける悠人が、意を決したように立ち上がった。
 ちらりと健一郎を見ると、僅かに首を振り、そして、やっと浴室へと向かう。
 悠人が目前から完全にいなくなった途端、健一郎は自分のモノをスラックスから取り出した。
 暴発寸前のそこは、今までにない昂ぶりかただ。
 それを掌で包み込む。
 それだけで、ぞくぞくと背筋を走る刺激。
 劣情に煽られ、健一郎はすでに溢れていた滑りを借りて、掌を上下に扱く。
 脳裏に浮かぶのは、必死で自らの劣情の塊から気を逸らしている悠人の表情だった。
 堪えられるモノではなかった。
 今まで抱いた誰よりも悠人の表情が健一郎を駆り立てる。
 ほとんど寸前まで届き書けているというのに、最後の所で手が出せない。
 寸前で拒否され、それはさらに健一郎を昂ぶらせる。
 本当に……これは、もう我慢の限界がどこか試されているとしか思えない。
 シャワーの音が漏れ聞こえ始めた。
「ん…ゆう…とっ!」
 自分の家の浴室で悠人がシャワーを浴びている。
 いや、そのふりをしているだけだろう。
 あそこまで昂ぶったモノを宥める一番簡単な手段を悠人が取っている姿を想像する。
「くうっ!」
 吐き出された思いの長を手の中に受けとめる。
 溢れ出すほどの勢い。
 それが健一郎の想いだった。
 浴室から出てきた悠人は、その躰からほんわりと湯気を立ち上らせながら健一郎に近づいてきた。
「ありがと」
 ぽつりとつぶやいた悠人は、健一郎が脱衣所に用意したスウェットの上下を着ていた。
 シャワーを頭から被ったのか、濡れた髪が額や頬に張り付いている。
 わずかに上気した顔の思わぬ色っぽさに、健一郎は声をかけようとしたまま硬直した。
「どうした?」
 悠人が訝しげに首を傾げる。
「いや……」
 なんてこった……。
 悠人から視線を無理矢理外した健一郎はふうっと息を吐き出した。
「何だよ?」
 そんな健一郎に悠人は、さらに言い募ってきた。それどころか覗き込むように健一郎の顔に自分の顔を近づけてきた。
「!」
 そのとたんに心臓の鼓動が一際高く鳴り響き、出したばかりだというのに自分のそこは熱く、徐々に形を成してくる。
「……悠人」
 はき出された言葉が掠れているのに悠人が気がついた。驚いたように健一郎を見つめ、慌てて躰を離した。
「どうして……そんなに」
 悠人が戸惑いを浮かべながら、ぽつりと漏らした。
 どうして、と言われても……。
 言いたいことは判る。
 だが、俺とて信じられない。
 とにかく悠人を見ていることが辛くなるほど、健一郎は悠人に欲情してしまったのだ。
 今までこんなことはなかった。ここまで参ったことはなかった。
 本当に欲しいと思う。
 ここまで、そう思えたのは悠人が初めてだった。
 さっき自分で処理したばかりだというのに……こんな事にならないようにとしたばかりなのに……なのに、10代のガキのように性欲に縛られている自分がいる。
 愛おしいと思う。
 この我が儘ですぐ感情的になる、しかも男。
 捕まえていないと逃げていきそうだ。
 だからだろうか?
 捕らえて手の中に置いておきたいから……やっぱり……我慢できない……。
「悠人……すまない……」
 ぼそっと呟いた言葉は、悠人の耳に届いたのだろう。
 悠人がひくりと頬をひくつかせた。その顔に泣き笑いのような表情が浮かぶ。
「増山さん……どうしても……なのか?」
 ふるふると首を振る悠人の手首を掴む。それだけで悠人の躰がびくりと震えた。
「欲しいんだ……お前が。俺はやっぱり我慢できないようだ」
「俺は嫌だ」
「それでも……欲しい」
 さっきは譲れたのに、今はどうしても無理だった。
 健一郎は自分が制御できなかった。
 さっき見たイク寸前の顔が脳裏に浮かぶ。怒ったように健一郎を睨む顔も、泣いている顔も。戸惑いを浮かべた顔も、何もかも。
 今日一日で初めて見た沢山の顔が、浮かぶ。
 その表情が一つプラスする毎に、悠人に恋い焦がれる自分がいる。
 拒否されるのも快感だと思える。
 我慢できなかった。
 もっと大事にしないと駄目だという気持ちはまだ心の片隅にある。だが、ここまで知ってしまった悠人の表情をもっともっと知りたいと願っている心の方が強い。
 ぐいっと掴んだ手首を引っ張ると、僅かな力で悠人ががくりと膝をついた。
「悠人……」
「強引だ。俺は嫌なのに」
 くっと下唇を噛み締め悠人が、健一郎を睨む。
「じゃあ、逃げてみろ」
 くすりと笑って膝立ちの悠人を見上げると、その眉間に深い皺が入った。
「逃がさないくせに」
「え?」
 予想外の言葉にまじまじと悠人を見つめる。
「貴様は……逃がすつもりなんかないんだ、結局は。俺が欲しいんだろ」
 頬を染めた悠人が健一郎を睨み付ける。
「悠人」
「結論はそうなんだ!俺の躰だけが目的なんだろうが!」
 掴んだ悠人の手首が僅かに震えている。
 健一郎は呆然とそんな悠人を見つめた。
 視線の先にある悠人の朱に染まった頬の上に両の瞳が涙に潤んでいた。 
「貴様は……結局……」
 その頬を伝う一筋の涙を見たとたん、健一郎は悠人を強く引っ張りその腕の中に抱きしめた。
「違う!躰が目的なんかじゃない!」
 違う!
 好きだから、愛しているから欲しいんだ。
 その頭をかき抱き、悠人の髪に指を絡める。
「悠人、愛している。だから、欲しい」
 ぎくりと躰を強ばらせる悠人に健一郎は囁きかける。
「欲しい……」

「貴様も俺の躰だけが目的なんだ。今まで俺に近づいてきた奴らと一緒だ」
 その声がひどく苦しそうにはき出される。
「違う。絶対に違う!」
「違わない!貴様なんか!」
 あきらかに怒りを含んでいる声音なのに、震える躰が悠人が泣いていることを伝えてくる。
 その躰をきつく抱きしめ、頭に頬を擦りつける。
「愛しているから。絶対に手放したくないから、だから一緒になりたいんだ。こんな気持ちにさせたのは悠人が初めてだ。悠人だから、一緒になりたい。こんなにも欲しいと思う」「でも……」
「信じてくれ。俺だって信じられない。告白するとな、悠人が浴室にいる間に堪えられなくて一回出したんだ。なのに、悠人を見たとたんまた勃ってしまったんだ。こんなことって初めてだ。こんなにも欲しいと思う相手なんだ、お前は」
 とたんに悠人の僅かに見えていた横顔があっという間に朱に染まった。
 押しのけるように健一郎の胸に当てられていた手がおずおずとシャツを掴む。
「躰が目当てじゃないというのなら、どうしてだ?。俺は男だぞ」
「同性だろうが好きになってしまう事ってあるんだよ。好きが高じて欲しい、抱きたいって思うもんなんだ。だいたいな、人間って言うのは三大欲で支配されて生きているんだぞ」
「三大欲?」
「そうだ、食欲と睡眠欲と性欲だ。相手を好きになったら当然その欲がでてくるんだ。この場合は性欲だがな」
「……性欲魔神……」
 俯いたままの悠人が健一郎の胸に言葉を吐きつける。
 その言葉に、健一郎は苦笑を浮かべるしかなかった。
「そうだよ。俺は性欲魔神なんだよ。だかな、これでも我慢したんだ。我慢して、我慢して……自分で処理までしたのに……だが、それを嘲笑うように俺を煽ってくれるのは、紛れもないお前なんだ」
 シャワーから出てきた上気して色っぽくなった表情を無造作に近づけたのはお前なんだからな。
「俺のせいだというのか?」
 幾分むっとしたような声音の悠人が、ようやく顔を上げた。涙で潤んだ瞳が健一郎を見据える。
 ほら、まただ。
これだけ俺を煽っているというのに、そのことに悠人は気づかないのだ。
「そういう表情が俺を煽るんだよ」
誘われるようにうっすらと開いた唇に口付ける。
 すうっと細められた目を伺いながら、健一郎はそっと顔を離した。
「そんなつもりはない」
「判らないか……そのうち判ってくるさ」
 再び唇を押しつけると、悠人は僅かに躰を強ばらせた。だが、逃げようとはしなかった。 きつく吸い付くと、悠人の手がさらにきつくシャツを握りしめてきたのが判った。その目が閉じられ、幾分震えている。
 服の下に潜り込ませた手が素肌を探ると、強ばった気配が掌に伝わってきた。
 逃げないのか……。
 声を出して聞きたかった。だが、たぶんそんな事を言っても、怒るだけだろう。
 逃げるつもりなら、とっくの昔にそういうリアクションをとっているだろうから。
 諦めているのか……それとも……受け入れてくれるつもりなのか……。
 ふと、自分自身震えているのに気がついた。
 怖い。
 悠人に触れ、そしてこのまま突き進むのが。
 こんな事をして本当に悠人は良いのだろうかと、不安が恐れを呼び起こさせる。
「悠人……」
 思わず口に出した言葉に悠人が目を開いた。
「震えているんだ、貴様が……」
 握りしめていた手がほどかれ、健一郎の頬におずおずと添えられる。
「何で?」
「さあな、何でだろうな」
 健一郎の口元が歪んだ。
 全くだ。なんでこの俺がこんなことで震えなければならないんだ?
 今までいろんな人間としてきた行為なのに……悠人の前だと怖くて堪らない。なのに、自身のあそこはもっと突き進めと悲鳴を上げている。
 これは一体何なんだ?
 自問自答するその答えは、本当のところは分かり切っていた。
「お前が欲しい。欲しくて欲しくて堪らない……だが、これ以上先に進むのが怖い。こんな事をして、悠人が俺から離れていくのではないかと思うことが……怖い」
 それが理由。
 震えるほど怖いくせに、止められない。したくて堪らないのに震えるほど怖い。
「……もう……いい」
 眼下の悠人が、その口元をへの字に曲げたまま言い放った。
「貴様の家にきたのが間違いだったんだ。今度から何があっても絶対に貴様の家には来ない」
「ひどい言われようだ」
 その躰をラグマット上にそっと押し倒すのに悠人は逆らわなかった。
 首筋に顔を埋めるとかすかに石けんの匂いがした。
舌を這わせると僅かな震えが伝わってくる。
 まだ強ばった躰が悠人の緊張を伝えていた。
「…ふ……っ」
 悠人の口から吐き出された甘さを含んだ吐息に煽られる。
 腰から服の下に入れた手が直に肌に触れると、火照った躰の熱を伝えてきた。
 余分な脂肪のついていない躰は、健一郎の好みそのままだった。
 悠人の緊張をほぐすように、ゆっくりと手を進める。
「愛している」
 耳元で何度も囁く。
 今まで我慢してきたのが馬鹿らしくなってきた。
 もっとこんな風に早く押し倒していたらという気になる。
 だが、その考えを振り払った。
 白い肌にある胸の突起に舌を這わせると、悠人がびくりと躰を震わせた。
 その躰を両腕で包み込む。安心させるように反った背筋に手を這わせた。
「敏感だな」
 さっきの時もその気配はあったが、こうやって素肌を逢わせると悠人の反応がよく伝わってくる。
「煩い」
 怒ったような言葉とは裏腹に睨んできた目元は赤く潤んでいる。
 時折漏らす欲情の含んだ吐息が健一郎の肌をくすぐり、それに煽られる。
 こういう行為に全くなれていない悠人は、与えられる刺激にひどく素直に反応した。
「……んんっ……ん……」
 苦しみに堪えているかのようなその表情をもっと見たくて、さらに責め苛む。
 時折健一郎を押しのけるような仕草が加わるが、それも僅かのことでその手が次なる愛撫にぱたりと下に落ちた。
「うあっ……はあ……」
 大きく息を吐いた時を見計らって、健一郎はすっと悠人の後へと指を入れた。
「んくっ」
 そこはひどくきつく指一本ですら入りそうになかった。
「嫌だっ!」
 健一郎の意志を感じ取ったのであろう、悠人がぐっと手を突っ張った。
 その手に指を絡ませ、床に押しつける。 
 残った手がそれでも押しのけようとするが、それは無視する。
 初めてなのだから痛いのは判っている。
 健一郎は、真っ赤になって固く目を閉じている悠人を一瞥すると、ふっと立ち上がった。 ほどいた指を追いかけるように悠人の手が持ち上がる。
「あっ……」
 自分がとった仕草に悠人自身驚いたようにその手を見つめる。
 健一郎はくすりと笑みを浮かべると、悠人に優しく話しかけた。
「すぐ戻るから、ちょっと待っていてくれ」
 健一郎は隣室へと行くと、積み上げていた布団とタンスの中からチューブをとりだして悠人の元へと戻った。
「背中、痛いだろ」
 邪魔なものを足で押しのけて布団を広げると、悠人の躰を起こした。
 持ち上げようとしたら、悠人が自分で移動した。
「恥ずかしいだろーが」
 きっぱりと言われたら、健一郎も苦笑を浮かべるしかない。
 気怠げな動きの悠人は、熱っぽい瞳を健一郎に向けていた。その視線の向かう先に気づき、健一郎は笑みを浮かべながら悠人を再び押し倒した。
 冷たい布団に素肌で触れた悠人が身震いをする。
「寒い?」
「いや……っ」
 言葉を継ごうとした悠人は、再び与えられた愛撫に言葉を失う。
 健一郎は先ほど持ってきたチューブの蓋を片手で器用に外すと、中身を掌にたっぷりと取り出した。その手を、先ほど拒まれた場所へと持っていく。
「…あっ!」
その冷たい感触に悠人が震える。
 たっぷりと濡れそぼった指を差し込むと、そのぬめりを借りて指はするりと入っていった。
「ん…あぁ……」
 何が起きたか気づいたのか、悠人が健一郎を見つめる。
 だが、中で指を動かしたとたん、その瞼が閉じられた。眉をひそめて苦痛に堪えるように歯を食いしばっていた。
 少しずつ指を動かし、その場所を解していく。
 差し込んだ指をくの字に曲げ、感じるところを探しだすと悠人がびくりと反応した。
「あ……っ」
 信じられないように何度も首を振っている悠人を片手で抱きしめる。
 それでは足りないとばかりに悠人が健一郎の首に腕を回してきた。きつく抱きしめられる。
 ふるふると震える躰が愛おしくて、健一郎の我慢も限界がきていた。
 足を折り曲げさせ、躰を近づける。
 音を立てて指を引き抜いた場所に健一郎自身を押しつけた。
「や、め…っ!」
 拒絶の言葉を聞く余裕は健一郎にはなかった。
 力を込めるとひどくきついがそれでも中へと侵入を果たしていく。
 そこはひどく熱く狭かった。


 ぐぐっと力を込めて突き進むと悠人は苦痛に堪えるように顔をしかめていた。
 健一郎が動くのを止めるとほっとしたように悠人の表情が緩む。躰から僅かに強張りが解れたような気がした。
「はあっ」
 その口から熱を持った息が吐き出された。
 奥まで入り込んだそこは健一郎を完全に包み込み、ぐいぐいと締め付けてきた。躰を動かそうとすると再び痛みが湧き起こるのか、顔をしかめて首をふるふると振る。初めて開かれたそこだから、どうしても痛みは続くのだろう。だが、そのためのゼリーは十分役目を果たしているようで、必要以上の痛みは避けることはできたようだ。
 ゼリーのぬめりはその滑らかさを持って健一郎自身も包み込み、初めてのそこの締め付けを緩和してくれる。それがひどく心地よい。
「悠人」
 耳朶を噛むように口付けるとその目がかすかに開き健一郎を見据えた。
 生理的な涙で潤み、欲情に苛まれて充血した目元に、背筋から腰にかけてずきりと鋭い疼きが走る。
 動いてもいないのに自分のモノがあきらかに硬度を増していた。
 性欲に支配された本能が動けと命令する。それに従うかのように抱き寄せる腕に力を込め、ぐいと腰を打ち付けた。
「んっ」
 とたんに漏れた悠人の吐息は、痛み以上に甘いものが混じっている。白かった肌が朱に染まり、健一郎が残した跡が点々と散っていた。
 あれほど健一郎を拒んだ悠人のその姿に、健一郎はそれだけでイッてしまいそうになる。
 奥を突くように動くと、悠人の腕に力が入った。
 健一郎も悠人の頭をかき抱き引き寄せる。喘ぎ声が漏れるその口に吸い付くと、悠人の中がびくりと震えた。
「うあ……あっ……」
 健一郎が巧みに感じるところを突くと、快楽を受ける事に慣れていない悠人は、どうしていいか判らないとばかりに健一郎にしがみついてくる。
 その仕草に煽られるように動いた。一気に限界まで高ぶっていく。
「ああ……はあ……っ」
「うっ、悠人、ゆ…うと……」
 今までした誰よりも悠人の中は健一郎を高めてくれる。
「悠人……もう……」
 苦しげに吐き出した言葉に悠人が首に回していた指先に力を入れることで答えてきた。
「うふあっ……ああ…………くうっ」
「んっ」
 躰がびくりと震えた。全身を襲う開放感に、身を委ねる。
 一気に抜けた力に健一郎はゆっくりと悠人の躰の上に身を預けた。
「悠人……」
「ん……」
 呼びかけるとうつろな視線が健一郎に向けられた。
 その口が何か言いたげに開かれる。
「何?」
「……本当に……オレのこと……」
「何だ?」
 うまく聞き取れなくて悠人の顔を覗き込む。
 だが、悠人は結局口を閉ざした。
 何が言いたかったのだろう。
 健一郎は首を傾げたが、ふと腰に当たる悠人の高ぶりに気がついた。
 イカせてやらないとな。
 それに手を添える。
 数度柔らかく扱いていると張りつめんばかりになってきた。
 限界が近いのだろう、悠人の手が健一郎を抱きしめる。
「やっ…もう……」
 悠人の口から熱い吐息が漏れたとたん、熱いモノが健一郎の手の中に吐き出された。


 あれから、悠人は相変わらずだった。
 会社で話しかけてもいつものように無視するか、怒っている。
 あの怒濤の一夜は何だったのだろうかと思えるくらいだ。
 だが。
「悠人」
 時間を見計らって帰りかけていた悠人に声をかける。
「何か?」
 冷たく返された言葉を無視してその腕をとり、引っ張って歩き出した。
 訝しげに眉間に皺を寄せている悠人は、それでも逆らわずに付いてくる。
 あれからたまにこうやって一緒に帰るようになった。もっとも、内勤である悠人と営業で外に出ていることの多い健一郎だからなかなか一緒に帰ることはない。
 こうやって時間があった時だけ一緒に食事をして帰る。その後、最寄りの駅まで二人で歩く。
 それが健一郎達にとってのデートだった。
「明日は休みだし、俺の部屋に来るか?」
 歩道を歩きながら悠人に声をかけると、悠人は首を振った。それはいつものことで健一郎もただ苦笑を浮かべるだけだ。
「じゃあ、お前の部屋にでも行くか?」
「嫌だ」
 これもお決まりの台詞。
 あれ以来、頑ななまでに健一郎と二人っきりになるのを嫌がる悠人には健一郎もお手上げ状態だった。
「何もしやしない」
「信用できない」
 何を言っても悠人は健一郎を冷たくあしらう。だが、それでも前のように逃げることも怒ることもなかった。
「ったく頑固なやつ」
「……」
 呆れたように言うと、悠人の足がぴたりと止まった。それに気づかずしばらく歩いてしまう。
「悠人?」
 振り返り、手を差し出すとそれに気づいた悠人が慌てて近寄ってきた。
「どうした?」
「いや……」
 いや……か。
 攻略できたとは思ったが……どうもこの調子では完全に攻略できたとはいえない。
「じゃあホテルにでも行くか?」
 耳元に口を近づけて囁きかけると、とたんに鳩尾に拳が飛んできた。それをすんでの所で避ける。
「貴様!」
 怒りに震える声に、健一郎は余裕の笑みすら浮かべて返す。
「じゃあ、悠人の部屋にでも行こう。俺はもうちょっと飲みたいし」
「え?」
 驚く悠人の顔を覗き込む。
「今日は、とことん飲もうぜ、家だったらつぶれたって大丈夫だろ」
「とことん?」
「そうさ、それとも俺より先につぶれるつもりか?結構な量を飲むという噂は聞いているが。噂は噂だったのか?」
「残念ながら事実だ。俺を酔いつぶそうとしても無駄だぞ。この前みたいな空きっ腹でもないしな」
 よっぽどの自信があるのか、健一郎の言葉に悠人が乗ってきた。内心、ほくそ笑みながら、その腕をとる。
「じゃあ、行こうか」
 ふふん……。
 今日の賭も俺の勝ちで修めさせてもらうからな。


【了】