なぜか嫌な予感がした。
課内直通電話が鳴った途端、滝本誠二の全身に総毛立つような不快なざわめきが湧き起こったのだ。
このままそっと事務所を抜け出そうか……などという考えは、狙い定めたようになり始めた電話に呆気なく蹴り飛ばされた。
それでも出ることができないのは、先ほどの不快感のせいか。
普段そんなに勘のいい方だとは思わないのだが。今回は信じた方が良いような気がした。
それでなくても朝から、カラスの大群に啼き喚かれるわ、家を出た途端あやうく黒猫を轢きそうになるわ、会社の駐車場で何もないというのに転けそうになるわ、と、今日一日ロクな事がない。
「滝本さんっ!電話っ!」
苛つきを含んだ声が甲高く響く。
「は?い」
尻つぼみになる返事と共に、受話器を取る。
ふうと吐く息は諦めるための儀式。
「はい?」
『役場の矢崎さんから、外線です』
おい……。
「……。はい、繋いでください」
飛び込んできた恋人の名に一瞬躊躇した誠二だった。だが、会社にかけてくるということは、少なくともプライベートではないのだ。
その辺りは、矢崎はきっちりとしていた。
「もしもし、滝本です」
『あ、矢崎ですけど……』
聞き慣れた声が電話口から漏れる。脳髄を通して甘い感傷が湧き起こるの無理に蹴り飛ばして埋めた。
緊迫している、と感じたのは、その背後の騒々しさからだ。
「どうした?火事か?」
『ええ、やっぱ判ります?』
半ば当てずっぽうで言ってみたその言葉は、見事なまでに肯定されてしまった。
よりによって……。
ちらりと腕時計に視線を走らせてみれば、十五時半を過ぎたばかり。
後二時間もがんばれば退社時間と萎え駆けていた勤労意欲を奮い立たせたばかりだというのに……。
まあ、早く帰れるというのだけは不幸中の幸い?
などと不謹慎なことを考えつつ、問いかける。
「どこ?」
『大垣地区の茶筅山(ちゃせんやま)ですよ。火の勢いが強いし民家も近いんで急いだ方がいいです』
「茶筅山っ!」
確実に跳ね上がった声色が事務所内に響く。
ってことは山火事かよ……。
『はい……山火事です』
心を読んだような反応に、誠二はため息で返した。
第八分団第一部。
それが誠二の所属する消防団だった。
別に消防団活動が嫌なわけではないが、山火事となると話は別となる。その労働量は、民家火災の比ではない。
はっきり言って、山火事の後は1日くらい休みたい……という状況に陥る。
誰だよ、火ぃ出した奴は……。
だが、ここで文句を言ってもしようがない。既に出火しているのだから、それはけさなければならない。
誠二は腹をくくるしかないのだ。
『それで近隣地区も含めて全団招集がかかりました。誠二さんは大丈夫ですか?』
「あ、ああ、しょうがないだろう。行くよ」
頭の中に今日の仕事の段取りがよぎる。
まあ……なんとかなるだろう。
『機庫集合です』
「わかった」
それのみで切れる。
これから矢崎が全分団員に電話していくのだろう。だから、用件のみの味も素っ気もない電話は仕方がないこととはいえ……。
これが同じ時間に携帯だったら、飲みに行こうっていう誘いなんだろうけどなあ。
最近、矢崎としていないから、そろそろ誘いがかかるかなと、実は思っていた誠二だから、少なからず落胆した気分に陥ってしまう。
今誠二の表情を作っているのは、重労働とも言える山火事を発生させた原因への憤りではなく、矢崎の素っ気ない電話への憤りだったのだ。
また……おれは何を考えてんだか……。
「火事だって?」
自分の考えがバカなことだと判っているから思わず浮かぶ苦笑に浸っている誠二。と、背後からいきなり声がかかった。途端にびくりと背筋が伸びる。
「あ、ああ、深山さん」
振り返ると同僚兼兄の恋人である深山裕太が眉間にシワを寄せてこちらを窺っていた。
深山も違う分団とは言え、消防団員だ。
どうしても火事という言葉に反応してしまうのは、誠二も同じだからこくりと頷き返す。
「茶筅山だそうで」
「……山火事?」
「はい」
深山の眉間のシワが一気に深くなった。
きっと誠二と同じ事を考えているのだろう。思わず天井を仰いでいるその思いは、誠二にだってある。
「課長っ!早退しますっ!」
「火事だってね」
仕方がないと頷く課長には、先程の会話が聞こえていたのか説明は必要なかった。
そうこうしている内に深山宛に外線が入る。
受け答えの内容は、誠二のそれと変わりはない。
それを横目に誠二はさっさと帰り支度を始めた。山火事となると終業時間までに戻ってこれることはない。
「それではお先に」
近場にいる同僚達に声をかけると、好奇心に満ちた視線が帰ってくる。
気になるんだろうな。
対岸の火事は、好奇心を刺激する。
それを振り切り、誠二は足早に事務所を出た。その後ろから、ぱたぱたと駆けてくる音がする。
「結構火勢が強いようで、一気に広がったらしい」
深山が受けた情報を教えてくれる。
「それは……そういえば最近降ってないから」
もう1週間以上も降っていない雨。きっと山の木々はカラカラに乾いているだろう。
乾いた木はよく燃える。
駐車上から何台も急いで出ていく車を眺めながら、誠二はもう何度目になるか判らないため息をついた。
途中で数台の消防団の赤車(あかしゃ)とすれ違った。勢いよくサイレンを鳴らしていくそれをちらりと視線を送ると、内心焦りを感じてくる。
急がなければ……と、アクセルを踏み込みたくなる気持ちをかろうじて抑えていた。
家が近づき、駐車スペースでもある庭に突っ込もうとして、その端に見慣れた車が止まっているのに気がついた。
来てるのか。
その車が出るのに邪魔にならないように、庭深くに車をつっこみ玄関先に駆け込む。
と。
「誠二さんっ!急いでください」
玄関口から手を振っている男にこくりと頷く。
玄関のたたきから引っ張り上げる手は力強い。男らしく引き締まった顔が真剣な表情を浮かべていた。
いつもは柔らかな表情の矢崎がそんな顔をするのは、たいていあの時だ。
誠二を求める時に酷似しているその表情に自然顔が熱くなるのに気付いて、誠二は気付かれないように視線を逸らした。なおかつ、つっけんどんな物言いで矢崎を突き放す。
「お前、機庫集合だろうが?こんなところでうだうだしていないで、さっさと行って準備していたらどうだ?」
「誠二さん、送ろうと思って。機庫まで歩くの面倒でしょ。それに」
嫌みはにっこりとかわされた。しかも、判っているというふうにくしゃりと髪を掴まれる。
すうっと近づいた耳元で「一緒にいたいし」と囁く。
「!」
かああっと熱くなる顔を俯かせながら、誠二は頭にある矢崎の手を邪険に振り払った。
「いい加減にしろっ!」
低いうなり声は、矢崎の笑顔の前では飛散する。
「さあさ、早く準備してくださいね。そのうち分団長から呼び出しがかかっちゃいますって」
なら、お前だけでも先に行っていろ。
そう言いたいのだが、結局誠二はむすっと口元を歪めるしかなかった。
結局は、矢崎がいるのが嬉しいのだから……。
「お帰りなさい。火事だって?」
二人の会話が奥まで聞こえたのか、誠二の妻の幸(さち)がぱたぱたと駆けてきた。
心配そうに眉をひそめる幸に頷き返すと、誠二は玄関脇の部屋に入った。
「装備、それだけでいいかしら?」
「ああ」
全団招集だから遅れるわけにはいかないと、手早くスーツを脱ぐと消防団の制服を取り上げる。
「で、茶筅山の様子はどうだ?」
「よく燃えていますよ。今日は消すのが難しいかも」
「……徹夜かよ……」
「可能性はありますね」
最悪のシナリオはあつさりと矢崎に肯定された。
「矢崎さん、足りないモノないわよね」
「あ、大丈夫です」
「誠二、矢崎さんにばっかやってもらっていないで、その位自分でしなさいよ?」
矢崎が装備品を一つ一つ誠二に手渡すのを見て言っているらしいが、誠二は途端にむすっと目を細めた。
「俺が自分でしようとしても、矢崎が手を出すんだよ」
「誠二がそれに甘えてるからでしょ。もう、矢崎さんも誠二をそんなに甘やかしていたら、それでなくても我が儘な奥様がベッドの上でもっと我が儘になって手に負え無くなっちゃうわよ」
その途端、誠二の眉間にこれ以上はないというくらい、シワが深く刻まれた。頬が熱く火照っているのは気温が高いせいだと叫びたい。
その横で、制服の上着を抱えたまま、矢崎の体がぴたりと硬直していた。
「幸っ!」
怒りの攻撃は、するりと廊下に逃げた幸には届かなかったらしい。
向こうの方でくすくすと笑い声が響いてくる。
「お、奥様……って、誠二さん…が…」
「ばっ、馬鹿っ!お前まで言うなっ!」
何が奥様だっ!
誰がベッドの上で我が儘になるってっ!
ベッドの上では俺の立場なんてすっげー弱いんだぞっ!
そこまで考えた途端、すっかり幸の言葉を肯定している自分に愕然とする。
かああっと一気に上がった熱は、そう簡単には引きそうにない。
「は、はい……上……」
ぎこちなく動く矢崎に差し出された上着を、これまた誠二がぎこちなく受け取って着込む。
「幸の言うことなんか、気にするなよっ!」
念のためにと矢崎に念押しすると、少しは落ち着いたのか、ほっと一息ついていた。
「相変わらず、幸さんは強いですね」
感心するかの物言いに、誠二もそれには黙って頷くしかできなかった。
幸は……確かに強い。
幸は誠二の幼なじみなのだが、結婚するにあたってのプロポーズは幸の方からだ。
誠二の性癖と兄に対する執着、そして誠二自身気付いていない心の奥の感情を全て知った上で、結婚しようと言い出した幸。
『私と結婚すれば、あなたは思うように動くことができるのよ』
にっこりと笑って言ったその言葉通り、確かに幸は誠二のしたいようにさせてくれる。
兄智史を巡る誠二の手助けもするし、浮気の相手が矢崎と判っていて、矢崎を家に招き入れたり、一人暮らしの矢崎のために食事に招待したり、持っていったりと、まるで家族同然のように相対していた。
しかもさっきのように臆面もなく二人の関係を揶揄したり……。
その真意が長い間はかりきれなかった誠二だったが、最近になって、それが幸の性格上のコンプレックスが根底にあるのだとようやく気が付いた。
幸は自分のことを他人に興味がない人間だと言う。感情が欠落しているのだと。
確かに映画やドラマの感動シーンでは泣くくせに、誰か身近な人間が死んだとか、もう逢えないであろう別れであっても涙を見せることはない。それどころかその後、落ち込んだ様子も何も見せないのだ。
だが、そんな事は関係ないとさえ思う。
少なくとも誠二を含め、家族にはとても優しく頼りがいのある幸なのだから。
そして、だからこそ何よりも誠二の事を考えてくれるのだ。
『私にはあなたを慰めることはできない。落ちこんでいるあなたを助けることはできない』
そう言って一時危機的状態だった二人の仲を取り持つために誠二を送り出すことに躊躇いを見せなかった。
幸にしてみれば幼い頃から兄弟のように一緒に育ったから、誠二以上に誠二のことを把握している。
だからこそ判るのだろう。
誠二自身は否定したいのだが、幸に言わせれば、誠二は誰よりも甘えん坊で人恋しい性格らしい。自分だけを見てくれる相手をずっと欲していたのだと言う。
そして、幸は言う。
『誠二は矢崎さんの元が一番癒されるけど、それでもここへ戻ってきてくれるでしょう。だから、私はあなたを矢崎さんに預けるの』
確かにそうだ。
誠二はなにがあっても……いくら矢崎を愛していても、ここに戻ってくる。
家族のために矢崎を捨てることも、矢崎のために家族を捨てることもどちらかを選ぶなんて事はできない。
時折、自分はとても卑怯なことをしているのではないかと思ってしまうのだが、幸も矢崎もそれでいい、と言ってくれることに甘えてしまう。
「矢崎さん、お願い」
戻ってきた幸がその手にタオルを持ってきた。
「はい。誠二さん、帽子はこっちですね」
「靴は、どうするの?」
「支給ので行きましょうよ。あれ登山靴でしょ。今日みたいなのにはちょうどいい」
地下足袋が定番の消防団の正装だったが、最近の若い団員には受けが悪い。
それで分団で一括購入したその靴は、登山靴タイプで今日みたいな山火事には最適だった。
「ああ、後、軍手がいる」
「あ……ナタ、どうします?俺は車にもう積んでいますけれど」
「ナタか……」
装備品の一つであるナタを脳裏に思い浮かべ、誠二は矢崎に振り向いた。
「一応持っていこう。山火事だし」
「そうですね」
最後に重たい法被を羽織りながら、誠二は矢崎について家を出た。
矢崎の車で機庫につくと早速赤車にホース類を積んでいく。
消防用小型ポンプ可搬車……略称を赤車と呼ばれるのにふさわしく真っ赤な車だ。このポンプ付きを持っているところは全分団中でも7割程度。だからこそ、その辺りの水場やため池からの送水を可能にするのだ。これがなかったら消火栓を求めて走り回らなければならない。
そうやって準備をしていると分団長と一番年若い谷部(やべ)がやってきた。
「おい、滝本さんは?」
この場合の滝本は、兄 智史の方で、分団長は、誠二のことは誠二と呼び捨てにする。
他の団員達に至っては呼び方は様々で、いつもその場その場の雰囲気で二人はどちらが呼ばれたか判断していた。
「智史さんは、役場から出向して本部詰めです」
その言葉に分団長が頷く。
「お前は?いいのか?」
誠二の言葉に矢崎が屈託のない笑顔が浮かべて応えた。
「俺まで、本部詰めになったらこっち人数足りないでしょう?」
くすっと口元だけで笑うその笑顔が誠二に向けられる。
口ではそう言っているが、その目の奥に矢崎の本音が見え隠れする。
誠二と一緒にいたい、と、その目が誠二を捕らえて熱く語りかけてくる。
それに反応してしまう体を持て余しながら誠二はそれに気付かないふりをして、視線を逸らした。そして、軽く言い放つと、とんとその背を叩く。
「じゃあ、しっかり働いてもらうぞ」
「もちろんです」
再び浮かべられた笑顔はどこか意味ありげだと、誠二は気付いた。
ばれたか……。
熱くなった頬がさらに熱く燃えるように感じて、誠二は慌てて矢崎を運転席へ押し込めた。
火事現場の茶筅山は車を飛ばせば15分程度の距離だった。
だが、山際を走る市道が通行止めになったせいで、普段は少ない車が必要以上に多い。
それを矢崎が縫うようにして走る。
サイレンと赤色回転灯をつけスピードも出したままの運転に、さすがの矢崎も真剣そのものだ。その目がずっと前方を凝視している。
分団長と谷部が狭い後ろに乗り込み、二人でなにやら会話をしている。
サイレンの音がうるさくて聞き取りにくく、何を言っているのかよく判らなかったが、きっと山火事のことでも話をしているのだろう。
窓から見えるその茶筅山の頂上付近は激しい煙と時折炎すら見える。
誠二はその山火事の様子を眺め、そしてちらりと矢崎の横顔を盗み見た。
自分達兄弟とは違う男らしさを含んだその横顔に見惚れ、視線が固定されてしまう。
滝本家は兄弟が4人とも男という男系家族なのだが、父の代からみんな小柄だ。それほど大きくない上背に骨太でない体。どこか弱々しげな体格に少なからずコンプレックスのある誠二にとって、高い背に骨太のがっしりとした矢崎の体格は羨望の的だった。
まして、その横顔も太い眉毛と見ようによってはきつい目元がすごく男らしいと思う。
だがそんな顔も普段は柔らかな笑顔で、人懐っこさを振りまいている。
だからこそ智史の部下として紹介されたとき、気に入ってしまったのかもしれない。
普通の性癖しか知らない矢崎を誘うのは大変だったけれど、どうしても矢崎が欲しいと思ったのだ。
最初は恐る恐るだった矢崎がいつからか誠二をも翻弄するようになったのはいつからだったろう。
今のように真剣な顔で誠二を求めてくるから、こんな時にでもその顔を見てしまうと心臓が高鳴る。
と、誠二の視線に気付いたかのように矢崎が目線だけをこちらに向けた。びっくりして慌てて逸らした視界の隅で、矢崎が再び前方を見据えたのが判る。
気付かれたと思ったのは気のせいだったのかもしれない。
たまたま誠二側の外に何か気になることがあったのかもしれない。
だが、誠二は早くなった鼓動をなかなか止めることができなかった。
そういや……最近していないなあ……。
赤くなった頬を隠すように手で覆いながら、窓の外を眺める。
その先では、茶筅山の煙と炎がかなり大きく見えていた。
今度……誘わせてみようかな……。
でも、どうやって?
徐々にあがっていく体の中の熱は、火を見て興奮しているのだということにしよう……。
本部が設置してある現場脇に到着する。
すでに消防用のヘリコプターが空を飛び回り、煩いことこの上ない。
「かなりひどいなっ!」
すでに見える範囲全てが黒色に変化し、放水によって山肌を流れ落ちた水が炭を含んで黒く染まっている。
あっという間に、ズボンの裾が水に濡れた。
「天気予報は明日が雨だって言っていますっ!」
話す言葉も叫び声に近い。
ヘリコプターは貯水池からバケットで水を運び散水する。
頂上付近では効果的なのだが、なんせそのローターから起こる風で火を煽るという欠点がある。ヘリコプターの出動の効果も時によりけりなのだ。
本部から少し離れたところでは本職の工作車が夜に備えて投光器を準備していた。
他にもたくさんの本職の消防車が来ている。
県下を5つに分けた中でこの茶筅山を有する北東地区全ての消防関連車両が来ているようだった。
その近くに一際小ぶりな消防団の赤車が止まっては、本部の指示を仰いで次々と担当の場所へと向かっていた。
誠二達もいったん赤車を下り、装備を整え直す。
軍手を嵌め、ヘルメットを被り、法被のひもをきちんと締める。その間に分団長が本部で指示を仰いでいた。
なんとか人数分を確保したトランシーバーを、誠二が全員に手渡した。
「周波数は、2にセットな」
頷き、落ちないようにとポケット深くにしまい込む団員達。
と、ほどなく分団長が戻ってきた。
「第8分団は東の獣道から頂上に向かって移動。順次ホースを延長して、消火活動を行うっ!」
「了解」
軽快な声とは裏腹にその指示に全員の表情が歪む。
山登りかよ……。
ため息混じりの吐息が全員の口から漏れた。
たった4人でホースを延長しつつ山登り……こんな大変なことはない。
もう少し時間的余裕があれば、後2人くらいは参加できるはずなのだが、平日のため、後の二人は会社から帰ってくるのにもう少し時間がかかるのだ。
だが、指令を受けた以上すぐさま実行に移さなければならない。
誠二達は、矢崎が運転する赤車の荷台側に登ると、矢崎に合図を送った。
それに矢崎が答え、赤車を発進させる。
つけっぱなしの赤色点滅灯が辺りを照らしながら移動を始めた。
赤車の荷台で手すりを掴みながら周りを窺うと、その視線の先に第6分団の赤車が見え、その横に深山が立っている。
「深山さんっ!にいさんは本部詰めですっ!」
すれ違いざまに声をかけると、深山が手を挙げて答えた。
そこに安堵の表情がある。
本部詰めなら危険はない。
たぶんそう思ったのだろう。
ふと見上げる先で黒煙を上げて燃える火が見える。
炙るように伝わる熱は、これだけ離れていても熱い。
危険がないわけではない。
出動手当はでるけれど、それは分団に出るのだ。個々に危険手当が出るわけでもない。怪我でもすれば手当は出るが、まず怪我などしたくはない。
消防団に参加するのはボランティアに近い。
夏冬の繰法大会(ホースの延長・収納を含む一連の操作を審査する大会)の訓練はそれぞれ1ヶ月以上も夜遅くまで続く。夜警、山火事・民家火災の出動、水災害時の土嚢積み……消火活動だけではない多くの肉体労働がある。まして、田舎のこの地区では、大きなイベントがあると駐車場係や誘導係まで引き受けるのだ。
それでも誠二は消防団が好きだった。
実際の活動の場以外で時折行われる集い。そんな数少ないふれあいが好きなのだ。そして何より、矢崎と堂々と一緒に行動できる。
だから、率先していつも参加していた。
茶筅山をぐるりと周り東のはずれにある獣道の入り口に到着する。この辺りは矢崎が役場勤めのせいかよく地形を把握していた。
赤車が止まり、全員が担当の装備を抱えて持ち場につく。
「よし」
分団長の指示に全員が分散する。
まず川に吸水口を沈めた。人が少ないから、ここに人を残すわけには行かない。確実に水面下に固定されるよう、幾重にも重しをつけ沈める。
それだけで、それを担当した誠二と谷部の下肢は跳ねた水を浴びている。
「長靴の方が良かったですかね」
谷部の言葉に誠二は首を振った。
「長靴で山登りはきついぜ」
ちらりと見上げる山の道。それも獣道。
「さて、行くか」
「はい」
誠二は谷部と川からあがると、脱兎の如く駆けだした。すでに先発隊は山へと入っている。その後をホースを担いで追いかける。
麓付近のホースの面倒を谷部に頼むと、一気に駆け上がった。いい加減息が上がり、足がもつれ始めた頃、ようやく前にいた分団長に追いつく。
そのかなり先に矢崎の後ろ姿が見えた。
「吸水口は?」
「OKです」
口は動かしながらも手も動かす。
次々にジョイントされた象牙色のホースが泥で汚れながら、人一人の幅もない獣道を這っていた。
「谷部っ!」
分団長がトランシーバー越しに叫ぶ。
すでに通話の合図は送っていたのだろう。すぐさま返事が入った。
「今どこだ?」
『入り口入ったところです。こちら側の接続完了しました。いつでも放水OKですっ』
「よし、放水開始っ!谷部、上がってこいっ!」
この言葉を合図に、谷部が送水ポンプのスイッチを入れたのか、持っていたホースにかすかな振動が伝わってきた。
ふと、眼下を見下ろすと、谷部が若いだけあって軽快に山道を駆け上がってくる。
「谷部っ!矢崎の前に出て道を確保しろっ。ナタは持っているなっ!」
「はいっ」
「誠二は矢崎をサポートしろっ」
「はい」
分団長の指示に従い、谷部が矢崎の前へ出て道無き道に生い茂る雑木をナタで伐採していく。切り落とした枝を邪魔にならないところに放り投げては先へと道を造る。
普段使うことのないタの使用は結構無駄に腕力を使い疲れやすいのだが、谷部は若さにまかせてばっさばっさと雑木を切り捨てていっている。
辿れる道だけを辿っていては、消火ポイントには辿りつけないのだ。 誠二は矢崎の背後につき、ホースの向きを矢崎の動きに合わせて動かした。
矢崎が持つ金属製の筒先から若干の放物線を描いて水が火元に浴びせられる。
筒先のジョイント部分から、ぼたぼたと水がこぼれて、誠二達が辿ってきた山道を流れていっていた。
それでなくても歩きにくい枯葉の積もった山道が、あっという間に滑りやすいぬかるみ状態になってひどく足場が悪い。
その中を矢崎が腕力と握力に物をいわせて、ともすれば暴れたがる筒先を火元に向けて固定していた。
それを手伝いたいと思うが、今の誠二にはその後ろのホースをコントロールするだけで精一杯だ。
水圧でぱんぱんになったホースは、直径が10cm足らず位に膨れあがってその中を水がたっぷりと流れている。
重いし固いいため、扱いづらいことこの上ない。
それでも誠二は矢崎の負担が少しでも軽くなるようにと、必死でそれを操っていた。
続く