【DO-JYO-JI】(6) 我欲の章

【DO-JYO-JI】(6) 我欲の章

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【DO-JYO-JI】 我欲の章

 卓真は不機嫌だった。
 そんな単語一つで言い表せば、さらにその機嫌は地を這うであろう。
 触れれば切れるむき身の剣の恐ろしさは、弥栄組の者であれば誰でも知っている。
 だからこそ、さっきから入る報告や伝達は、いつも行う重鎮ではなく、名も知らぬ下っ端ばかりが持ってきた。しかも、彼らは一様に弥栄ではなく、同室に控える新居浜に渡してそそくさに去っていく。
 しっかりと言い含められているのだろう。
 どちらにせよ、仕事などする気にもならない卓真にしてみれば、不愉快ではあるが楽ではよい。
 それでも何をどうしたのか、直接卓真に手渡された報告書があった。
 まだ若い男。
 ぎこちなく渡された報告書を一瞥し、とりあえず黒字なのと前期より伸びていることを確認して、放り投げる。
 ふわりと舞ったそれが、机上に投げ出された脚の傍らに落ちていった。
 びくりと震える身体が、それでも背を伸ばしている。
 下っ端も下っ端ではあるが、珍しく名を知っている男だ。
 1ヶ月前まで、ホストクラブにいた男だ。
 確かそこではヒサシと名乗っていた。
 年増受けする面で、そこそこの収益を上げていた。が、気が付いたらこの組に入り込んでいた。
 あれは、古葉の配下の店だからな……。
 そこから古葉が拾い上げた理由など明白過ぎて、笑う気にもなれなかった。
 目元と……口元……か。
 中井に似ている所は。
 中井よりは年を喰っている。
 背も高い。
 ピンと伸びた背筋と長い足が印象的な男。
 だが、中井が与えてくれる、のほほんとした気が抜けるような雰囲気は無い。
「ふうん」
 じっと視線を外さないでいると、ヒサシが当惑したように視線を彷徨わせる。
 新居浜に向けられた視線が所在なげには、戻ってくる。
 取り入れ、とでも言われているのか。
 だが、来ては見たものの、いたたまれない雰囲気にどうして良いのか判らないようだ。
 ああ、こういうところも中井とは違う。
 中井と初めてあった時、彼は卓真に向かって首を傾げて微笑んだのだ。
 媚びを売るそれではなく、格好良いなあ、と呟きながら向けられた笑み。
 だから、声をかけていた。
『やらねぇか?』
 今思いだしても笑えるほどに素っ頓狂な顔をした中井は、今でもさらに面白い奴として認識されて卓真の大のお気に入りだ。
 その中井に変わる奴などいやしない。
 古葉もろくでもないことを考える。
 再度視線を向けると、ヒサシがびくりと身体を震わせた。
 緊張しているのか、視線が落ち着かない。
 うつむき加減の強張った表情に、ふっと卓真は興味をそそられた。
 ……へぇ……。
 中井とは似ていないが、これはこれで楽しめそうだ。
 もともと気は強い方なのだろう。
 時折、自身を奮い立たせているのか、挑むような視線が向けられることがある。もっともそれが長続きしない。そんな中途半端な強がりは、生意気さを強調する。
 となれば、それを挫いてしまいたいのが心情だ。
 ちろっと熾火のように火が点いた嗜虐心が、ヒサシの態度で燃えあがり始める。
 もとより、身体の中にはずっと澱みのような熱塊が残っている。
 簡単には消すに消せないそれは、非常に可燃性が高い。
 まして、ここしばらく中井がいないせいで、その塊は最大限にまで大きくなっていた。
「古葉はなんと言っていた?」
 問えば、びくりと身体が震える。
 向けられた視線に隠れた恐怖は、ヒサシ自身がここに来た理由を知っているからだろう。
「あ、その……暇ならばお相手……しろ……と」
 ごくりと唾液を飲み込みながら呟く言葉。
 やはりな……。
 こいつは贄だ。
 中井の代わりになるように古葉が差し出した生け贄。
 園田が中井を連れてきたのは、卓真に寄り取り入るため、と勘違いしている輩が多いのは知っていた。
 それを、園田も卓真もわざわざ否定しない。
 だから、こんな勘違いが増えている。
 それはそれで楽しいから、放っているのだ。
 もっともその程度の頭しかない連中は、この先飼うつもりなどない。
 いずれ淘汰される運命に気付きもせずに、足掻けるだけ足掻けば良いのだ。
 卓真にとって園田は同志だ。
 卓真が目指す道と、園田が目指す道は同じなのだ。
 二人とも生まれた時からこの世界に浸かってきた。骨の髄まで浸った世界から抜け出せるとは思っていない。
 それでも抜け出したいと思う心は止められなかった。
 高校に入ってすぐに出会った二人は、深く語る間もなく、互いの真意を悟った。
 それだけ聡い二人だからこそ、今のままの組織ではいられないことも悟っていた。
 だからこそ、手を組んだ。
 だからこそ、力をつけていった。
 闇の世界を牛耳るのは力と知恵だ。
 その双方を兼ね備えなければ、何もできない。
 誰からも認められない。
 それを生まれつき兼ね備えていた二人は、入念な計画を立てて一つずつ実行していった。
 その中間地点にあったのが、園田の組の吸収解散だった。
 二人は、組を解散したかったのだ。
 しょせん闇から離れることはできないにしても、堂々と暮らすことは難しい。
 もっともっと闇に潜むか、光の当たる所に出て行くか。
 そのどちらを選ぶにしても、世間に名の知れた組織は邪魔だったのだ。
 だが、弥栄組に手をつけようとして、今二人は手間取っていた。
 園田のところよりははるかに強大なこの弥栄組は、内部も一枚岩ではない。
 複数の若頭は皆己の組を抱えている。
 それぞれが、その組だけでもやっていけるほどの人数を抱えているのだ。
 そんな連中すべてを納得させるのは難しい。
 今更光の当たる道に出られない連中も多い。
 そんな連中が間違っても事件など起こさないようにしなければ、解散した後も苦しくなるのは判り切っていた。
 特に古葉は、表面上は従っているがあわよくば自分が次期組長にと狙っているような輩だ。昔気質と言えば聞こえは良いが、しょせんは力だけを信奉しているような男だ。
 穏健に世間に紛れようとしている卓真の動きは生温くて仕方がないようだった。
 そんな古葉や、その信奉者の動きは、卓真達にストレスを溜めていく。
 一つ一つは小さな物であるが、溜まってしまえば相当な量だ。
 そのストレスは、園田を寡黙にした。
 彼の息抜きは知らない。けれど、時折わずかな時間ではあるけれど行方不明になるのは、そのストレスを解消しに行っているためだと踏んでいた。
 ……ああ、身体があちぃ……。
 困ったことに卓真のストレスは性欲へと変化した。 
 しかも込み上げる熱は、簡単には身体から出ていかない。
 深く息を吐き出しても、奥底の熱は出ていかなかった。
 それは、全て下腹の奥底に溜まっているのだ。それが出て行く場所は、ただ一つ。
 それを思いっきり激しく出したい。
 勢いよく、噴き出したい。
 ぐつぐつと滾る熱に、何もしないのに勃起しそうで、卓真は顔を顰めた。
 そろそろ限界だった。
 なのに、それを一番てっとり早く解消する相手が今いないのだ。
 だったら、もう目の前の男でも良いような気がしてきた。
 穴さえあればなんでええ……。
 どうせ、どんな穴でも代用品でしかないのだ。
 中井でも代用品だった。ただ、あいつとの会話は、吐き出す以外に解消できない筈のストレスを少しだけ鎮めてくれた。
 ガキのように遊ぶ楽しさを知ったのも、中井を相手にしてからだ。
 ゲームなんて、中井相手にしたのが初めだ。
 何かできるか、と聞いたら、ゲームが得意と言ったから、用意させた。
 そうしたら、卓真も嵌ってしまったのだ。
 けれど、一人ですると面白くなかった。中井とすることに意味があるのだ、と気が付いてからは、中井と遊ぶのがよけいに楽しくなった。
 だから中井以外は穴しか使わない。
 本当に欲しいモノは未だに手に入らないから。
 本当に相手をしたいのは、いつも仏頂面で逃げてしまう新居浜だけなのに。
 だが、どんなに誘いをかけても、新居浜は乗ってこなかった。
 今も、欲情している卓真を、何を考えているか判らない表情で見つめている。
 その視線はまるで射るようで、その視線だけで達ってしまいそうなほど堪らないのに。
 はあ……。
 押し殺したため息はさらに身体の熱を高める。
 だてに付き合いが長い訳ではない。
 武闘派とはいわれているが闇雲に力を誇示するのではない新居浜の持ち味は、効率よく手持ちを使えるその頭脳にある。使い方が違うだけで、新居浜は園田以上に思慮深く、そして聡い。
 そんな新居浜だからこそ、卓真の想いに気付いているはずだし、新居浜とて卓真を気にしている節がある。
 なのに、新居浜は逃げる。
 いつもは何をするにもスマートな男が、卓真が迫るとおかしな態度を取るのだから、卓真とて気付く。
 なのに逃げられてはどうしようもなくて、こちらから押し倒すこともできなくて。
 結局中井と遊んでいたのだが、その中井も先日来顔を見ていなかった。
 しかもこの先、戻ってこない可能性もある。
 そのきっかけを作ったのが、新居浜だと気が付いている。
 それにまんまと乗ってしまった中井が腹立たしいとは思うけれど。
 実際、今の卓真の胸中にある苛立ちの大半は、お気に入りの玩具を取り上げられたせい——というものであった。
 はるかな昔、そんな思いをした覚えはちっとも無いが、子供が駄々を捏ねるのが判るような気がした。
 これは大人でも──いや、大人だからこそ余計に腹立たしい。
 だが、子供でないから我慢するしかないのも判っていた。

 

 もう戻ってこない玩具の代用品がいる。
 それがヒサシだとは思っていない。
 けれど、このままでは穴さえあれば突っ込んでしまいそうだった。だったら、少しはマシな奴に突っ込みたい。
 そう思ってまだ部屋にいるヒサシを見据える。
 据え膳食わぬは男の恥というもの。
 ただ、古葉の息がかかっている以上、後腐れ無いようにする必要があるが、それは気に入らなかったと言えば良い事。
 結局は代用品で、本物とは比べようも無いのだから。
 さて、どうやって苛めて犯してやろうか……。
 たぶん何も知らないだろうヒサシをどうしようかと、押し倒す手順を考えよう──とした時だった。
 いきなり視界が見慣れた布地で遮られた。
 スーツの中からほのかに立ち上る男の香り。
 目前を遮る厚い胸板の上から低い痺れるような声が降ってくる。
「よろしいでしょうか?」
 見上げれば視線が合う。音も無く移動していた新居浜の瞳は、変わらず感情が伺えない。
 ただ。
「ちっ……。ああ、問題ねえよ」
 あからさまな牽制に、逆らう気力は潰えていた。
 わざとらしい舌打ちが室内にやけに大きく響いたが、新居浜は動じる事なくヒサシを部屋から追い出した。
 知らず視線が去って行く男の背を追う。
 若い身体は、背後から見ても弛んだところは無い。
 あの尻にたっぷりぶちまけてぇ……。
 込み上げる衝動とそれを解放させてくれない怒りとをかろうじて飲み込み、眇めた視線を新居浜に向けた。
 たとえ遊びでも熱を解放したかったのに。
「構わねぇだろうが……」
 見上げる己の瞳に熱が籠もっているのが判る。
 どうすれば、この唐変木を絡め取れるだろうか?
 卓真が出す触手で雁字搦めにして、逃げることなど叶わぬように。
 燃えるように熱い視線に、新居浜が僅かに視線を外す。
 表情だけは変えないけれど、そこに見える逃げが卓真を苛立たせる。
「玩具が無くなっちまったんだ。新しいのが欲しいんだよ」
「あれは古葉の息がかかっています」
「んなこたぁ判ってる。どうせ一回限りだ」
「一度で終わらない場合が有ります」
 きっぱりと言われて、反論できない。
 飲み込んだ言葉を苦く味わいながら、過去を振り返ってしまった。
 確かに一度だけ、と思いつつ、意外に具合が良くて数度使った事があった。
 特に何も知らないノンケの男を快楽に落とす様は楽しいから、ついやり過ぎてしまう。
「あぁあ、中井が便利で良かったのに。くそっ」
 この手の中に戻ってこないからこそ、そのありがたみが判る。
 愚かさと聡さが交ざりあった中井は、園田の命令を何とかしようとして愚かにも画策し、その聡さによって件の弁護士に目をつけた。一人乗り込んだ中井の身に何があったのかは知らないが、どうやら大層気に入られて、中井の件を契約に入れただけであっさりとこちらに来ることになったという。
 そうしてみると、新居浜が園田を介して施した策は、意外な結末を生んだという事だろうが……。
 あれは、俺が貰おうと思っていたのに。
 手に入れられなかったからこそ惜しくて堪らない。
 相変わらず微妙に視線を外したままの男を睨め付ける。
 園田は何も言わないが、中井を警備会社に入れようとした直接の原因はこの新居浜だと、卓真は確信していた。
 だとすれば、中井を失ったのはこいつのせいだ。
 さっきから、ふつふつとたぎっていた熱は、今はもう大きな音を発している。
 怒りがスパイスされた欲情は、止まることを知らない。
「な、新居浜」
「はい」
「園田が相手なら、問題なかろう?」
 にやりと笑いかける。
 こんなことを園田に言えば呆れ果てて沈黙するだろう。だが、今の状況がどんなに辛いか園田はよく知っているから、文句は言いつつも手くらいは貸してくれる。もっともそれも嫌々だろうけれど。
 だからこそ、園田は中井を与えてくれていたのに。
 だが園田も限界だと感じて、中井を安全圏にやろうとしたのだ。新居浜の怒りが中井に及ぶのを恐れて。
 新居浜……お前は安全弁を自ら外したんだよ。
 俺の本気を止めていたそれを。
「園田を呼べ」
 立ち上がり、新居浜に背を向けてスーツの上着を取り上げる。
「園田は……出掛けています」
 変わらない声音。
 けれど、生じたわずかな間は消せない。
「かまわん。今日22時までに俺の部屋にくるよう携帯に伝言を入れろ。──もうもたねぇ──って言やあ、あいつは判る」
 園田とは長く付き合っているが、新居浜はもっと長い。
 もとは、組長に仕えていた新居浜が、卓真の教育係となった時からの付き合いだ。あれは高校に入った日の事だった。
 それから、園田にも出会った。
 その時にはもう、卓真にとって新居浜は教育係というだけの存在ではなくなっていた。
 それを園田は知っている。
 新居浜は卓真のことは良く知っているだろう。だが、園田はそれ以上に卓真のことを知っていた。卓真が新居浜に向けているのが、愛情という綺麗な名では言い表せないものだということも知っている。
 それは、園田自身も持っているからだ。
 中学時代の片思いを諦め切れず、他の誰にも心を移す事なく。
 淡い恋心など最初から皆無だったと、零した声音に含まれる昏い情欲。最初から欲しくて堪らなかったからこそ、離れることしかできなかったと言う。
 けれど、卓真に言わせれば、それは笑いたいほどに綺麗な純愛でしかない。それだけ相手を思いやれるのなら十分だ。
 何しろ卓真は、相手が嫌がっても離れることなどできない。
 逃がすこともできない。今は我慢してやっているが、いつかは己のものにする。
 逃げようとするならば、拘束して閉じ込めてやることくらい平気だ。それでも逃げようとするならば、四肢すら切り取ってやる。何をするにしても、卓真の手が必要なように。
 それは、何と甘美な夢だろう。
 ぞくりと泡立つ肌に服越しに触れる。
 幾ら他人を抱いてもこんな快感は訪れない。
 新居浜を組み伏せる想像をするだけで、達ってしまいそうなほど欲情できる。
 けれど。
 空しい……。
 夢物語でしかないそれを幾ら感じても、一時の快楽でしかなかった。残るのは、いつも燻り残る熱塊ばかりだ。
「さて、俺はもう帰る。後は頼む」
 このままここにいても、熱は冷めない。
 想像だけで疲れるのもばからしい——と、卓真は時計を見上げた。
 帰って、園田を待つ。
 いや……、園田ではなく、お前を……。
 新居浜は卓真の真意が判らない男ではない。
 ちらりと窺う先で、新居浜が硬直しているように見えた。
 他人ならば何も変化は判らないだろうけれど。
 ──自業自得だ。
 中井さえいれば、タイムリミットはもう少し延ばせただろうに。
 卓真自身、本気を出すのは組の片がついてから、と思っていたのだ。
 だが、もう待てない。
 新居浜のすべてを手に入れる。
 この忠誠心ばかりの唐変木を、卓真という名の檻に繋ぎ、快楽という甘い毒で全身が侵されるまで飼ってやる。
 その檻から解放されるには、卓真の全てを受け入れるしかない。
 それは新居浜にとって、たった一つの枷を外すだけの簡単なこと。だが、新居浜自身にとっては、それが非常に難しいことなのだということは卓真にも判っていたけれど。
 卓真自身にも限界が来ていた。
「お前かよ……」
 押さえようとしても押さえ切れなかった怒りが、声に出てしまう。
 そんな地を這う卓真の声音に、園田は表情も変えずに肩を竦めた。
 それがまた腹が立つ。
 広々としたマンションの卓真の部屋には、余分な物はほとんど無い。父でもある組長が住む本宅には今でも卓真の部屋があり、子供のころからの品々がそのまま置いてあるが、ここにはそういう物を一切持ってこなかった。
 客を入れるつもりは無いから、応接セットなども無い。
 誰か来たら、フローリングの上にある座布団に座ってもらう。
 入ってきた園田も、慣れた様子で部屋の片隅にあった座布団を持ってきて、その上で胡座をかいた。
 ここに来る者はほとんどの場合、家の主人のほうが立場が上だ。訪問者側が動かないと、茶の一杯も出ない。もっとも、たいていの訪問者にとって、茶を飲む暇があればさっさと退散したいだろう。ここを訪れなければならない理由は、たいていの場合なんらかのトラブルなのだ。
 そうでない時に来るのは、世話係の舎弟か、園田や新居浜くらい。
「新居浜はどうした?」
 園田を呼ぶように言った真意など判っているだろうに。
 言葉通りに園田が来ていて、なおかつ新居浜の姿が見えないことに、卓真の機嫌はさっきから地を這っていた。
 苛々と尋ねた卓真に、園田は幾分呆れたように口元を歪ませる。
「電話で卓真さんの言葉を伝えて来た後のことは、判りません」
「なんて伝えたって? あの野郎はっ」
 その問に返された言葉は、あの時卓真が言ったそのままだった。
「あ──のやろ────っ」
 あの程度の謎掛けくらい簡単に読み解く頭脳を持っているくせに。
「逃げやがったなっ」
 恨めしく唸ると、園田がわざとらしく嘆息した。
「まあ、新居浜さんも──掘られたくは無いでしょう?」
「……」
 言われた言葉に沈黙し、否応無くその姿を想像してしてしまった。それは、卓真にしてみれば下腹の奥が熱くなる代物だが、掘られる本人にしてみれば拒絶したいこと。
 そんなことは判っている。
 じとっと園田を見つめると、男らしい口元に小さく笑みが乗る。
「逆だったら、もっと簡単なんでしょうが」
「……俺がネコになれって? それこそ冗談でも笑えねぇ……」
 反論は最後の辺りで口の中に消えていく。
 これではいつまでも並行線なのだということは判っているのだが、譲れない線でもあるのだ。
「私もごめんこうむります」
 きっぱりと言い切ろうとした園田の言葉も、最後にはため息と交じる。
 園田はバリバリのタチだ。男でも女でも相手にするが、決してネコにはならない。
「だが来てるじゃねぇか?」
「卓真さんの命令を無視することなどできませんからね。まあ、手くらいは貸しますよ」
 目の前で無骨な──新居浜に似た指が屈伸する。
 この手ならば、遊んでも良いかと思ったけれど。
「もういいっ」
 多少その気はあって園田の名前を出したはずだが、実際の場となるとなんだか萎えた。
 手元に有った別の座布団を引っ掴んで折り曲げ、枕代わりに寝転ぶ。
 くすぶる熱が消えない体に、フローリングの冷たさが気持ち良い。
 園田がそうであるように、卓真も掘られるネコ側になるなど考えたことも無い。それは、たぶん新居浜もだろう。そして、新居浜は卓真がタチだという事を良く知っていて……。
「くそっ。俺のもんになったら、目一杯奉仕してやるのに」
 男のプライドなど霧散してしまうほど、気持ち良くさせてやるのに。
 心も体も、卓真無しにはいられないほどに。
 だが……。
「いっそのこと押し倒した方が早いでしょうね」
「お前、できるって言うのか?」
「できませんね」
 新居浜と同じような体型の園田も、あっさりと否定する。
 格闘技に秀でている新居浜相手にそんなことをしようものなら、反対に投げ飛ばされる。
「だったら俺なんかもっと無理だ」
 卓真も並の相手なら遜色無い程のワザを持つが、相手が新居浜となると二の足を踏む。だからこそ、今までこっちから思い切った行動ができなかったのだ。
「やっぱ、新居浜の奴、犯らせるつもりは無いって事だよな」
 ずっと前から判っていたことだ。
 それさえ乗り切ってくれれば、新居浜をものにできると判ってはいたけれど、新居浜を自身が自らネコになってくれるとはとうてい思えない。
「くそぉ、せめて中井がいたらなぁ」
 弱気な愚痴が零せるのは、相手が園田だからこそ。
 中井がなぜここにいないのか、何をしているのか報告は受けている。それに卓真も事後とはいえ、了承した。
 その時も、ひどく惜しい気はしたのだ。だが、今となると後悔すら沸いて来る。
「千里、他の奴は駄目なのか?」
 すでに確認していることが口を衝いて出て来る。
「中井でないと駄目だと……」
 前の時と同じ言葉が同じ声で返って来た。
「すごい気に入られようだな」
「そうですね」
 ふっと園田の口元が奇妙に歪んだのに気づいた。
 思い出し笑いだけでない何か。
「何だ?」
「いえ」
 すぐに消えたそれが気にはなった。だが、視線を向けても園田はそのことには何も言わなくて。
「ああ、中井なら明日こちらに戻って来ます」
 さらりと言われたそれを理解したとたん、卓真の表情が喜色に染まった。
「明日、そうか明日」
「はい、千里氏はこれから今の事務所の後処理に入るとの事です。その間を借りて、中井にもこちらの準備をしてもらおうかと」
 千里には、卓真や園田が関わる全ての仕事に関与してもらう。
 その多岐にわたる仕事は、すでに二人だけでは追いつかなくなっていたのだ。そのためにも、千里には卓真達に近いところに住んでもらう必要があった。
「幸いに、私の隣の部屋が確保できています。それに、中井の新しい仕事場もそこに用意できるし、あそこなら管理人用の部屋を貸与できます。文句はないでしょう」
「ああ、確かに。だが、同じ部屋でなくて良いのか?」
それだけお気に入りなら片時も離れたくはないだろうに。
「部屋を用意するだけです。世間体ってやつですよ」
 自嘲気味な笑みが浮かんで消える。
 それに、卓真も同じ種の笑みを浮かべた。
「ま、弁護士先生だからな。ま、それなら誰からも文句は出ねえな」
 おもむろに立ち上がった卓真が窓際による。
 広い窓ははめ殺しで、特注の防弾ガラスだ。
 もとよりこの辺りでここより高いビルは無い。その最も近くのマンション群の最上階の一つが園田の住む部屋だ。
 卓真が今見下ろしている先にある部屋は、ここから見ても中の様子が窺えない。外から中の様子が判りにくい特殊なガラスを、ここも含めて最上階の部屋にはすべて施している。表立った仕様書には載せていない特別仕様。だからこそ、ある種の人間には人気が有る。
 そこに園田。隣には千里。最上階は4部屋あるが、一つのエレベーターで辿り付けるのはその二つの部屋だけだ。
 そして、そのマンションの一階に中井は住む。
「中井は喜ぶな、お前と一つ屋根の下に住めるんだから」
「……マンションですからね」
 呆れたように見返してきた園田に口角を上げて返した。
「何だって言いのさ、あいつは。お前の傍に居られれば」
「すぐに千里氏に懐きますよ。彼は私のように放置はしない。中井の欲しがる物をふんだんに与えてくれる。あの寂しがり屋にはちょうど良い」
 その声音に滲む苦笑に、卓真は言おうとした言葉を飲み込んだ。
 園田がそれをわざと与えなかったことに気付いてしまったのだ。
 園田は中井の想いには応えられない。忘れられない相手を、その胸に持っているからだ。
 何でも手にいられるだけの才覚を持った男だからこそ、自ら諦めて。故に忘れられない想い。
「……お前さ、知ってんだろ、そいつがどこで、何をしているのか」
「卓真さん……」
「一度会って、きっぱり嫌われてこいよ。でないと、いつまでも引きずるぜ」
 女にも、そしてその気のある男にも引く手あまたの男。
 フロント企業経由からも、裏の世界からもたくさん見合い話が持ち込まれているのは有名な話だ。それを頑ななまでに断り続けていることも。
 いずれそれも無理になる。
 園田はピラミッドの一番上にいる訳ではないのだから。
「……その点に関して言えば、自分の女々しさに嫌気がしているところです」
 自嘲する園田に、なぜか卓真も口内に苦い味が満ちてきた。
「それに、彼は私のことなぞ思い出しもしないでしょう」
 卓真自身、幼い頃の学友は名前も思い出せない。少しでも興味を持った相手は、卓真の素性を知ったとたんに呆気なく離れていったから、極力自分を隠した。長じるにつれ最初から興味を持たなくなった。
 園田も極力目立たないようにしていたという。
 だから、園田が出会った相手は、園田のことを思い出しなどしないだろう。そんな相手がいきなり出てきても躊躇い、そして素性を知れば恐れる。
 それは、最悪の別れを起こす。
「本当に、きっぱり諦めるつもりなんですが」
 結局諦め切れないまま、一人でいる園田。
 それは、他人事ではない。
「諦め切れねーことって、マジあるもんだな」
 諦めて過ごしてきた中で、だからこそ捨てられないそれがどんなに大切な物か判る。
「あいつが絶対にネコにならねぇって言いきっても──俺は、あいつを諦めねえだろうな。せめてあいつが俺の傍らにずっといられるようにする」
 きらびやかな、夜こそ鮮やかさを持つ街並みを見下ろして、卓真を拳を窓に押し当てた。
「そのために頂点を取る」
 誰の横槍も入らない地位へ。そして、それを維持するためにも、眼下の夜の街をすべてこの手へ。
 そのために必要なことは、決して間違えない。失敗も許されない。
 こつと打ち付けた拳に、わずかな痛みが走る。
 硬質なガラスから伝わる冷気で、体を冷やす。
「そういえば古葉んところがな」
 売上も利益も順調な数字が乗った昼間の報告書を、園田に差し出す。
「問題ねえけどよ」
「問題無さ過ぎ──ですか?」
 卓真の声音に乗った嫌みを、園田は気付いたようだ。間髪を容れない返答に、卓真の口元に笑みが浮かぶ。
 何もかも手に容れて、それからだ。
 卓真が頂点に立つのを恐れる古葉の画策すら潰せないならば、新居浜は傍らに居てくれない。古葉か、もしくはあれの息のかかった輩が頂点に立てば、すぐさまに引き離される。敵対する勢力を削ぐのは、兵法でも基本中の基本。
 それでも今までは慎重に事を進めてきた。
 警戒されては駄目だからと慎重さゆえになかなか先へと、進めなかった。
 だが今は千里が手に入ったし、現組長である父親も跡目を継がせる気になってきている。
 若いころは我が道を行く極道らしい男であり、死ぬまでこの地位に居続けると豪語していたが、寄る年波に加えて病を発祥して以来、幾分弱気になってきているようだ。
 それに最近ますます強くなってきた暴対法のこともある。
「奴の収入源を潰して行く」
 警察をバカにして、薬にすら手を出そうとする古葉は危険だ。
「ほら、最近サツに新米刑事が増えたろ? あいつを使おう」
「ああ、あの?」
 着任早々卓真に会いにきて、にこにこと挨拶して帰ったまだ若い男。
 警察と馴れ合うつもりはないが、利用価値があるものをみすみす放置するつもりはない。
「適当な情報を流せ。ああ、千里にも頑張ってもらおうか。あいつ、会計にも詳しいらしいな」
「帳簿検査でもさせますか?」
「なんでもやらせろ。ただし、異常を見つけたことを、悟られないようにさせろ」
 弁護士としての資格に隠れて、実は多様な資格を持っている千里ならば、警察や税務署が好みそうな証なぞ幾らでも見つけるはずだ。
 毒マムシに噛み付かれて生き延びるのが難しことは、彼の経歴を見れば容易に想像できた。だからこそ、千里を欲したのだ。
「……働かせ過ぎだと文句が出そうです」
「ふん。中井をやったんだ。そのくらいしてもらわんと割があわん」
「中井が聞いたら泣いて喜びそうな台詞です」
 苦笑を浮かべた園田が、肩を竦めた。
「……こればっかりは本気だ。くそっ、それなりの働きをしねえと取り返す」
 やっぱりどうしても諦め切れない。それは、新居浜とは別次元で、こんなことになるとは最初は思いもしなかった。
 ただ、たとえ愛してやれなくても、欲しいものを与えることはできなくても、手放したとなると惜しくて堪らない気がするのは、諦められない証拠だ。
「まあ、いないとなると……寂しい気はしましたね、確かに」
 園田もまたそう感じていたのだと、零す。
「なんていうか……つい、構いたくなる奴です」
「ああ、程度の良いバカさ加減も、妙なところで優しいのも程良くてなあ……で、ときどきやたらエロい顔をして、煽ってくれて。気持ち良いとすぐ流されるから、つい楽しませてやったんだよ……」
「だからこそ千里も気に入ったのかも知れませんね」
「ん? ああ、そうかもな」
 つい手を出して嵌まってしまう。そのきっかけを中井は無意識のうちに作ってしまうのだ。あの顔が、態度が、表情が。
 そして時に、むしょうに守ってやりたいと思わせた。
 そんな気にさせる男だった。

【了】