【現に夢見る君】  (3)

【現に夢見る君】  (3)


【現に夢見る君】  (3)

 何もない……。
 入った途端の第一印象はそれ。
 6畳二間……アーンド台所ってとこ?
 だけど、妙に冷え冷えとした感じがあるのは、ただ室温が低いせいだけではない。
 閑散とした……というのがぴったりくるように、部屋の隅々にテレビやパソコンや……といった電化製品が場所を取っているだけ。
 目の高さに背の高い家具のようなものがないから、だからだろうって思うけれど。
 唯一の高い場所にある電化製品であるエアコンがピッと音を立てる。
「座ってて。コーヒーでも入れるから」
「あ、はい……」
 って……どこに座れば良いんだろう?
 えっと……。
 って考え込むぐらい、部屋に何もなくて。
 指さされるがままに、部屋の中央にぱたんと座り込む。
「ごめん……座布団とかなくて……」
 申し訳なさそうな声に、オレは首を振る。
 だって、なんだかホッとしているんだけど。
 どう見たって常時誰かが来ているようには見えない部屋。
 ガチャガチャと台所で音がして、ボッと小さな音がしてから、高山さんがやってきた。
 オレの横を素通りして、パソコンの前に片膝ついて座り込むとスイッチを押した。
 ブワッと駆動音が静かな部屋に響く。
 オレ、パソコンそんなに詳しくないけれど……いわゆるタワー型のそれは、なんだかスロットがゴチャゴチャとこれでもかって言うくらいついていた。
 ディスプレイも工場で使っている古いパソコンなんかより、おっきい。
 一回りも大きくて、表示されている画像もとっても綺麗で鮮やか。
 起動して表示された壁紙は、ウィンドウズ付属のそれ。
 ……なんだ……。
 ちょっと残念に思う。
 壁紙ってさ、その人の個性が出るって思うから、どんなのかなあって思ったんだ。
 でもまあ……これも高山さんらしいって言えばそうかもしれない。
 いきなり女の子の写真でも出てきたら、オレ、沈没していたかもしれないけれど。
「これでいいよ。いくらでも使っていいから」
 振り返って、小さく笑う。
「はい……」
 小さく頷いて、ずりずりと高山さんの横に膝で移動した。
 ブラウザのホームページはよくある検索サイトで、オレもよく知っているところだった。
「インターネットは……したことある?」
 その場所を除けながら、ふっと高山さんが動きを止めた。
 ほんの少し不安そうな視線がオレに向けられる。
「うん……少しだけなら」
 たぶん、操作方法は知っている。
「判らないことがあったら、聞いて」
 それに頷いて、だけど慌てて首を振った。
「大丈夫って。オレ、適当にしているから高山さんも適当にしてて」
 だって、もう結構遅い時間なんだよなあ。食事して映画見て……。
 なんとなく高山さんの表情に疲れが見えたから。
「……でも」
 何か言いかけた高山さんが、結局口ごもる。
 立ち上がって台所に向かうその背が、どうも寂しそうだって思えたのは気のせいだろうか?
 だけど……高山さんに離れて貰って、実はホッとする。
 だってさ……いったい何を調べようか?
 高山さんがいる傍で、アップルパイの店を調べるのも変だしさ。
 かと言って、今のオレの頭の中は高山さんのことばっかりだし。。
 腕組みして、ディスプレイを見据えて。
「やっぱり……なあ……」
 ついついその場の勢いで、高山さんの誘いを受けちゃったけれど……冷静になって考えたらこんな夜半にお邪魔するのも迷惑な話。
 ちらちらっと台所の高山さんを窺えば、お湯が沸いたのか動きが活発になってきた。
 シンク周りの引き出しから出してきたのはマグカップ。
 微妙にサイズが違うから、同じモノじゃない。
 小降りの冷蔵庫から、コーヒーとミルクらしきものを出してきて……。
 ついつい、その動きを目で追ってしまう。
 お湯を注いで……スプーンで掻き混ぜて……。
 あっ……。
 ばっちりと目があってしまった。
 不意にかああっと顔に熱が集まる。
 硬直した首を、ぎちぎちと動かしてさりげなーくディスプレイに視線を戻したけれど、なんだか痛いくらいに視線を感じる。
 無音になっていた台所から再度音がし出したのはそれから数十秒が経っていた頃。
 その音が近づいてきて、畳から擦過音が響いてきて。
「どうぞ」
 コトンとパソコンの横に置かれたマグカップから暖かそうな湯気が立ち上る。
 褐色の液面がゆらゆらと揺れていた。
「ありがとうございます」
 ぎこちなく礼を言って、それを手にとる。
 さっき目が合ってから、高山さんの顔が見られない。
「ごめん……邪魔したのかな?」
 申し訳なさそうに謝って、離れていく気配。
 オレはそれを止めることなんてできなかった。
 だって、体が硬直したまんま。
 さっき触れそうな距離にいた高山さんの体から立ち上った匂いは、オレにはコーヒーの香りより強烈だったから。
「邪魔なんて……ない」
 呟いた言葉は、オレの口の中で消えていく。
 どうしよう。
 高山さんとともにいると、どんどん高山さんへの思いが募っていく。
 

 背後に高山さんがいる。
 壁にもたれて座り込んで、片膝に本を持った腕を乗せて。
 そんな姿勢をずっと続けているのを、オレは何度もちらりと窺って見ていた。
 何の本を読んでいるんだろう?
 A5版ハードカバーの分厚い本。
 どうみたって、オレが読むような本ではない。
 黄色いカバーに英文字が踊っていて、そのタイトルすら読めない。
 何を読んでいるのだろう?
 まさか……中身まで英語ではないだろうな?
 気がついたら、オレ、インターネットなんかせずにずっと高山さんばかり窺っていた。
 だから。
「何?」
 訝しげに問いかけられ、オレは今更ながらぼおっとしていたことに気がついた。
「あ、いや、何でもない」
 羞恥に頬が染まるのを自覚しながら、オレは再度ディスプレイに視線を移した。
 そこには、とりあえず検索して見つけた、お気に入りの店のサイト。
 県北にあるおいしい和菓子のお店。
 そのまわりの観光地図。
「判らないところある?」
「え、あ……いえ」
 高山さんが背後から覗き込む。
 その目が眠そうなのに。
「高山さん……オレ、もう帰ります」
 ほんとはもっといたいけれど、12時を軽く回っていることに気付いて、オレはため息混じりに進言した。
 いくら何でも……迷惑だろうって……。
「もう?」
 驚いたようなそんな単語に、いくばくかの期待をしてしまう。
 だけど、さ。
「だって、遅いし……高山さんももう休まれるでしょう?」
 ちゃんと向き合えば、高山さんの目の下にクマが見えた。
 いつだって、遅くまで仕事しているから、週末の今日にもなればその蓄積は相当なもの。
「なんだか……ひどく疲れているから」
 オレがいちゃ、邪魔だろう。
「オレは……大丈夫だよ」
 そんな事言われても……。
「里山君がしたいだけすればいいよ。オレのこと何て気にしないで」
 その手がオレの肩を抑える。
 動くなって……その手が言っている。
 離したくないって……言っているような気がした。
「何だったら、泊まっていっていいから。心ゆくまでやれば……いい」
 その目がオレを離さない。
 これって……期待して……いいのかな?
 オレは、ここにまだいていいのかな?
「あの……じゃあ……高山さん、先に横になっててください。だって、ほんと、疲れているように見えるから……休んでいてください」
 熱のこもった瞳から、かろうじて目を離して。
 ちらりと奥の部屋を窺う。
 たぶんいつもそこで寝ているのだろう。
 片隅に積まれた布団は、おざなりに畳まれている形跡。
「あ……ああ」
 今頃自分がオレの肩を掴んでいたのだと気付いたように手を離して、その手を見つめている。
 ぼんやりとした視線がオレを見て、そして布団へと向かう。
 その口から、大仰ともいえるほどのため息が漏れていた。
 すとんと座り込んだ高山さんは、疲れを自覚したのか、ひどく怠そうだ。
「そうだな……そうする……ごめん」
「ううん……」
 首を振るオレに、高山さんは小さく笑って、そして腰を上げた。
 隣の部屋で、布団をしいて……少し首を傾げてから、ふすまをあけてもう一対の布団を取り出した。
「しまいっぱなしだったから……」
 申し訳なさそうにオレに視線をくれるから、オレも笑みを浮かべて応えるっきゃない。
「オレ、どこででも寝られるんですよ」
 嘘だけど……。
 枕が変わったら寝られない、なんてヤワなことは言わないが、少なくとも高山さんの横で寝られるなんて思わない。
 だけど、そう言わないと、高山さんが横になってくれそうになかったから。
 同じふすまの下の段に、プラスチックの衣装ケースが入っていて、そこを開けた高山さんの手には着替えが乗っていた。
「お風呂……入るかい?」
 言われて……。
 慌てて首を振った。
「そっか……じゃ、オレも、明日入ろうかな……」
 それに頷いた。
 だって、ほんと疲れているみたいだったから。
 で、でもさ……。
 シャツに手をかけた高山さんの手がボタンを外して。
 肌触りの良さそうなシャツが腕から抜け落ちる。
 白いランニングの下から覗く日に焼けていない肌。
 って。
 オレは慌てて目をディスプレイに向けた。
 灯りのついていなかった隣の部屋。
 そこで着替える高山さんの肌が、薄闇の中で白く蠢いて、オレの節操のない──ほんと、ここまで節操がないなんて考えて事無かったのに──股間は、見事に反応してしまった。
 油断すると、目がいってしまいそうで、一生懸命にパソコンを操作するふりをする。
 綿の薄い青のパジャマが、ほんと……その白い肌に似合ってた。


「ほんとに……先に……」
 まだ遠慮がちな高山さんに、オレは頷いてみせる。
「オレ、もう少ししたら寝ますから……」
 だってさ……一つ思いついたことがある。
 インターネットの世界で調べたくなったこと。
 それには高山さんが起きていると調べられないだろ。
 だから、先に寝るように促して。
 まあ……この部屋は高山さんの部屋で、客であるオレが起きていると寝られるモノじゃないかもしれないけど、オレはとにかく高山さんを先に寝かしたかった。
 だって、やっぱり高山さんって疲れているし。
「おやすみなさい」
 有無を言わせないように、声をかけると、「おやすみ」と小さな、だけどどこか嬉しそうな声が返ってきた。
 二つの部屋を塞ぐふすまを半分だけと閉じながら、あれっと思ってよくよく見ると、はにかんだような笑みがちらりと見えた。
 すぐに布団の中に隠れてしまったけれど、なんかその笑みがつんと胸にきた。
 愛おしいってのと、可愛いってのと……そして、切ない気持ちがないまぜになった、よく判らない感情。
 これって何なんだろうな?
 そっと胸を押さえながら、パソコンの前に戻っていった。


 微かな息づかいだけが、隣室から響いてくる。
 寝苦しそうな身動ぐ音は、10分も経たないうちに消えた。
 そのあっという間に寝入った高山さんは、本当に疲れていたんだろうなって思わせる。
 そんな高山さんのところにこんな遅くまでおしかけて、なおかつ泊まるハメになっちゃって。
 誘われたからって……やっぱ遠慮すればよかったかなあ……。
 後悔の念は、だけどほんの少し。
 オレは、高山さんが寝てしまったうちに……と、ブラウザを操作した。
 検索サイトを呼び出して、ちょっと考えて。
 こうかな……って打ち込む。
「男と男……セックス……」
 即物的だなあ……とは思うけれど……。
 なんというか……こんなこと誰にも聞けやしない。いや……啓輔なら知っているだろうけど……聞けるもんじゃないじゃん。
 ずらずらっと現れる検索結果。
「はあ……いっぱい……」
 思わず感嘆の声が漏れる。
 そのくらいたくさん合った検索結果。
 その中のそれらしきところを見ようとして……。
「あれ?」
 手が止まった。
 マウスを動かしていた先、リンクがあることを示す青色の文字。それが……すでに一回表示されたことを示す色に変化していたから。
 まだ、クリックしていない。
 少なくとも、オレはまだこのリンク先を見ていない。
 で、これは……高山さんのパソコンで。
 で……ということは。
 オレの手が、のろのろとそこをクリックする。
 時間をかけて表示されたバックは黒。
 赤い文字のタイトル。
 露骨な表現は、かなり過激なサイトだと雰囲気が伝える。
 でも……何で?
 高山さんは……ここを見たんだ……。
 だから、あちらこちらがすでに見た色になっていて。
 でも……。
 何気なくその中の一つをクリックしたコンテンツの先で、仰け反るような写真が表示された。
「う……わ……」
 露骨……なんてもんじゃなくて……。
 微妙に入ったモザイクなんて、意味なしてねーじゃん……。
 二人の男の絡み合うその写真に驚くより何より、オレはこの写真を高山さんが見たって言うことがショックだった。
 何で、こんなところ……。
 そんな事似合いそうになかった高山さんだから、その分ショックは大きい。
 自分だって見ているじゃねーか……ってちらりと思ってみたけれど、それとこれは別物だ。
 なんて妙な納得の仕方をして。
 視線が隣室の布団のふくらみに向けられる。
 ごくりと生唾を飲み込む音がやけに大きく響く。
 ふと、思いついて、お気に入りを開いてみた。
 几帳面に整理されたお気に入りは、順番に並ぶフォルダとサイト名。
 その中に一つだけ、「X」と入っているフォルダ名があった。
 他はわかりやすい名前が付いているのに、それだけが意味不明で、そこに誘われるようにオレはカーソルを持っていっていく。
 開いて……。
 意味不明な名前もあったけど、その中の幾つかははっきりと意味が判る。
 そのあからさまな意味に、オレは絶句して硬直して。
 わざわざこんなふうに整理するってことは、確かにこれは高山さんのお気に入りなんだよな。
 リンクの色が変わるってことは、最近訪れているってこと。
 こんな……ってさ……。
 こんなん調べるって……そういうことに興味あるってことで。
 ぐっと拳を握って。
 じんわりと滲む汗が、手の平に、背中にそしてこめかみに浮かぶ。
 高山さんが何でこんなことを調べたか、なんて……考えたくもなかったけれど。
 だけど、オレと同じ考えで調べたのだとしたら……そうしたら、その対象は……誰?
 浮かぶ疑問は、どこか頭の奥で、そうだと肯定する声が聞こえる。
 その対象は……。
 オレ……なんだろうか?
 そう思った途端、心臓が爆発しそうなほど甲高く鳴り響き始めた。



 気がついたら……外に出ていた。
 月のない夜空は満点の星。天気が良くて澄んだ夜空に星が綺麗に瞬いている。
 身を切るような冷たさが、火照った体に気持ちが良くて、とぼとぼと、足を進めた。
 時折走る車の音以外は、ほとんど音がない。
 頭の中で、最短ルートを探して……20分くらいかな?
 自分の家までの徒歩でかかる時間。
 だって……こんな感情もったままあそこにはいられない。
 高山さんの横でなんて休めない。
 好きだよ。
 高山さんのこと。
 高山さんが何を思ってあんなサイトを見ていたか気になるけれど、だからって嫌だとは思わない。
 むしろ、体は悦んでいる。
 高山さんがそういうことに興味があるっていうことは……互いに好きだって事になったら、それがプラトニックなモノだけで終わらないってことだから。
 それを考えたから、体が熱くなる。
 しんしんと染みてくるような冷気なのに、それが気持ちいいって思ってしまう。
 家まで、ゆっくりと歩いて余分にかかって。
 ついでに途中のコンビニで、ビールを買い込んで。
 胡散臭そうに見られたけれど、免許証見せろなんて言われなかった。
 怠惰なバイトにラッキーだなって思いつつも、その手に受け取る。
 なんていうか……素面でいられない。
 手の平に食い込む袋の持ち手の重みすら、今のオレにとっては意識を現実につなぎ止める大切なこと。
「高山さん……」
 ふっと振り返って、一つため息をつく。
 こんな苦しい恋ってさ……初めてなんだよ。
 今までの誰かを好きになって、ああだこうだって騒いでいたのは、本当の恋じゃなかったんだって思ってしまう。
 よりによって……なんで男の人相手にこんな事になったんだろう?
 もう……自分の気持ちを、勘違いなんて思わない。
 オレは高山さんが好きだ。
 大好きだ。
 あこがれなんてモノじゃなくて。
 ずっと一緒にいたいけれど、その気のない相手と一緒にいるのは辛いって思うくらいに。
 大好きだ。

 オレはその晩、飲んで、飲んで……家にあったビールも買ってきたビールも……全部飲んで。
 酔っぱらって、寝た。
 そうでもしないと眠れそうになくて。
 だけど、夢だけはしっかり見た。
 出演者はオレと高山さんだ。
 二人とも、何も身につけていなかった。
 絡み合う四肢に、上気した肌。
 熱を帯びた二人の肌からは、蒸気となって汗が立ち上る。
 それほど、二人は激しく絡み合っていて、裸なのに寒いとも思わなかった。
 俺のものに絡みつく高山さんの舌は柔らかいくせに芯はしっかりとしている。尖らせて突かれ、広げてねっとりと絡ませる。
 ビチャビチャと濡れた音が幾度も立ち上がり、股間から太股までしっとりと濡れていて、その感触に肌を震わせた。
 お互いの荒い息づかいだけが聞こえる。
 触れあった肌が熱くて吸い付くようで。
 メッチャ色っぽい高山さんとあんなことや、こんなこと、それこそ口で言えないくらいな事をして……。
 高山さんと一緒に達くのってメチャクチャ気持ちよかったんだ……。


 ……。
 快感に浸っまま目覚めてみれば、適度な脱力感にオレは呆気にとられていた。
 目覚めは唐突で、だからこそ夢を忘れる余裕もなかった。
 しかも、何度も何度も、頭の中で勝手にリピートしてくれるから、夢よりももっと鮮明に思い出してしまう。
 こんな夢、どう考えたって忘れることなんてできない。
 あんな色っぽい高山さんなんて……この先逢ったときにオレ、冷静でいられるだろうか?
 こんなの……。
 そして、その夢にはもう一つ忘れられない出来事がひっついていた。
 いろいろと思うところはあるけれど、夢自体は嬉しいものだと思う。
 だけど……とにかく……これって最低に情けない夢でもあるよな。
「サイテー……」
 口から零れるため息混じりの言葉は、ただもう、あまりの情けなさからだ。
 汚れて濡れた下着を朝から洗うハメになるなんて……一体いつ以来なんだろうか……。
 まだまだ元気なそれに盛り上がる下着は、じっとりと染みを作っていて、みっともないことこの上ない。
 風呂入りてー……。
 汚れた股間を濡れたタオルで拭って、汚れた下着とともに洗濯機には放り込んだけど、やっぱり綺麗さっぱりしたいし……。
 だけど風呂の用意をするのが面倒。
 怠いのが、夢のせいだけじゃないってのに気付いて、オレは舌打ちをした。
 これって完璧な二日酔い。
 明るい外を見やれば、視界に入った太陽が黄色い。
 ああもう……くらくらする……。
 見つめた太陽が意外に高い位置にあって、ふっと何時だろうって時計を見たら、もう昼が近かった。
 っていうか……昼過ぎている。
 オレ、一体何時間寝たんだ?
 なけなしの記憶を呼び覚まして、オレはたぶん寝ただろうっていう時間を割り出した。
 そんな考え事をしていたせいか、頭がずきずきとしてくるのを手の平を当てて意識を逸らす。
 寝た時間は、3時を過ぎていたはずだ。
 思い当たって、うげっと唸った。
 でもまあ、そんな時間か……。
 高山さんの家から帰ったのが遅かったし、その時間に飲んだとなれば、まだまだアルコールなんて抜けやしない。
 そう考えている間も、頭の最奥が金属の塊でも詰まったように重く、脳がぞわぞわと鈍い痛みを訴える。
 ついでにちょっと激しく動くと、せり上がるのは吐き気だ。
 これがまた厄介……。
 どんどん気分が落ち込んでくる。
「……オレって……」
 二日酔いには苦しんだのは、ついこの前だったような気がする。
 なのに、また、だ。
 体調不良で気分の暗いところに持ってきて、込み上げる自己嫌悪がそれを加速させる。
 そりゃ昨日は飲まずにはいられなかったけれど……。
 窓の外は絶好のお出かけ日和だっていうのに、オレは洗濯機から戻って転がったベッドから、もう身を起こすのも嫌だった。
 だけど、かろうじて薬だけは飲み込んで。
 少しでも楽になりたかったから。
 ちょっと動いただけで、夢見の良さなんて吹っ飛んでしまいそうな辛さ。
 ああ、もうオレって……学習能力ねーよなあ……。
 そこまで考えて、後はもう眠って治すことにした。
「あれ……」
 眠る直前、何かを忘れているような感じがした。
 申し訳程度の警告が頭の中になる。
 だけど、それが形になる前に、オレはどんよりとした灰色の闇の中に引きずり込まれるように眠ってしまった。


 寝苦しさに何度も意識を取り戻して。
 そしてまた眠る。
 それを何度も繰り返したせいで、目覚めようとしているにもかかわらず、どこか頭がすっきりとしない。
 それでも体が何かを欲求していて、それがある以上、もう頭は寝ようとしなかった。
「腹……減った……」
 十分すぎた睡眠欲を凌駕する食欲は、オレを情け容赦なく責め立てた。
 眠りすぎて怠さと違和感がある瞼を数度瞬かせ、辺りを見渡してみる。
 薄暗さが時刻を教えてくれる。
 よく考えれば、朝からなんにも食べていない。
 気持ち悪いから昼も抜いて、もう24時間近く何も食べていないっていうことだ。
 そりゃ、腹も減るわ……。
 食べることは好きだ。
 こんなにも食べなかったのは、病気でもした時だけだよな。
 試しに動いてみると、薬も効いたのか症状は軽くなっていた。
 とりあえずなんか腹に入れよう。
 買い込んでいたレトルトのおかゆは薄味が物足りなかったけれど、それでも掻き込むようにして食べて、ほっと一息。
 げんきんなもので、それだけで二日酔いまで治ったような気がする。
 ほんとに……二日酔いの辛さは知っていたはずなのに……。
 それでも、昨日は飲まずにはいられなかった。
 高山さんと出かけて、食事をして映画を見るっていう、オレにとってはデートのような行為。それだけでもドキドキモノなのに、その後に、高山さんちにまで行って上がり込んで。そして、あんな高山さんの秘密をしってしまったから。
「あっ……」
 オレ……そう言えば勝手に返ってきてしまった。
 泊まるって言って、先に高山さんに寝て貰ったのに。
 なのにオレってば書き置き一つ残さずに帰ってきて……しかも鍵もかけずに外に出たような……。
 顔から音を立てて血の気がひく。
 万に一つも泥棒とかそういうのは無いと……願うけれど、勝手に帰ってきたのはマズイ。
 朝起きて……高山さん、何て思うだろう?
 お礼も言わず……放って。
 礼儀も知らない不作法者って呆れられるのか?
 それとも……。
「あ……謝らなきゃ……」

 電話番号を知らないから、直接行くしかない。
 慌てて、服に手を通しながら、玄関へと向かうけど、高山さんいてくれるだろうか?
 いきなり出て行って……怒るよな、やっぱり。
 出て行くときに何でそんなことを思いつかなかったのか?
 未だにそれが不思議で。
 逢って謝らなきゃ。
 今はそればっかりが頭の中を駆けめぐっていた。
 ごめん……って……謝れば許してくれるかな?
 でも……理由を聞かれたらなんと答えれば良いんだろう?
 高山さんに欲情したから、逃げてきました……これが正解。
 って言えるわけなーいっ!
 そ、そりゃ、欲情したし……そけを夢まで見たけれど……。
 えっと……急用を思い出して。
 って、あんな夜中に何の急用だ?
 って突っ込まれそうな気がするし……いや、高山さんだから、ぼおっと聞き逃してくれるかな?って……そんな筈無い。
 オレと接するときの高山さんはぼうっとしているけれど、実際はばりばりのエリートだし。
 仕事している時みたいな態度取られたら、絶対オレって誤魔化すこと何てできない。
 車を運転して、覚えてしまった高山さんの家まで走らせる。
 その間もオレは何度もシュミレートしていた。
 どんな言い訳をすれば、ちゃんと誤魔化されてくれるかっていうやつ。
 だって……高山さんに嫌われたくない。
 とにかく謝ろう。
 オレはそれしか考えていなかった。
 だから、躊躇いもなく高山さんの部屋のドアをノックした。
 だって……とにかく謝ることが先決だって思えたから。


 ノックをしても、なかなかドアが開かなかった。
 まだ寝ているんだろうか?
 という疑問は、すでに暗くなってきた空を見上げて否定する。
 通路に面した小窓にうっすらと灯りが零れてきているから、いるだろうとは思うのだけど。
 中から人が出てくる気配はなかった。
 何度もノックして。
「高山さーん」
 とうとう大声で呼びかけて。
 途端に反応があった。
 ドタドタと駆けてくる音。
 勢いよく開いたドアに唖然する。
 まず見えたのは、パジャマのままの体。
 見上げれば、驚いて目を見開いている高山さんの顔。
「さ、とやま……くん?」
 その声が信じられない、と……言っていた。
「あ、のさ……オレ帰っちゃってさ……その……ごめんなさい」
 出てきた高山さんのその慌て振りに驚いて、考えた言葉がちゃんと出てこない。
 ただ謝らなきゃって思って。
 それだけが口を動かす。
「あ、のさ……何もメモも残さなくて……その……」
 途切れ度切れに声を紡ぐ。
 でも高山さんは何も言わなくて、オレはその視線から逃れるように俯いた。
 もしかしたら、オレが思っていた以上に高山さんは怒っていたのかもしれない。
 それこそ、謝って許して貰える程度ではないほど。
 どうしよう……。
 もう何を言っていいのか判らなくなって、オレはその場に立ちすくんでいた。
 だって、口が動かない……。
「……思ってた……」
 微かな声が聞こえてきたのは、その瞬間。
「え?」
 聞き取れなくて訝しげに顔を上げた瞬間、思いっきり引っ張られた。
 いつの間に?
 そう思えるほどに、オレの腕は高山さんにきつく掴まれて、勢いよく引き寄せられた。
 その拍子に体が、玄関の中に倒れ込む。
 引きずり込まれてそのままたたきを越えて上にまで上がったオレは、次の瞬間、ぴしっと体を硬直させた。
 あっ……。
 喉から悲鳴のような声が微かに漏れる。
 だって、オレ……高山さんに抱きしめられていた。
 オレの腕を掴んでいた手はオレの腰に回り、もう一方の手が頭を押さえつけてくる。
 そのせいで、高山さんの胸板に顔が押しつけられて、息がしにくいほど。
 それが苦しいなんて思う間もなかった。
 だって、高山さんの激しい心音が聞こえるほど、オレはきつく抱きしめられていたんだから。
 全身をすっぽり覆う温かな体温を感じる頃、ガチャと背後でドアが閉まる音がする。
 その音がちょっとだけオレの頭を冷やしてくれた。
 だから、今の状況をより鮮明に自覚して、冷えた頭とは裏腹に体はどんどん熱くなる。
 心臓なんて今にも爆発しそうなほどに、激しく鳴り響く。
 頭を抑えている手が、ざわざわと蠢いて、髪を梳いていた。
 その刺激が、気持ちよくて、そのまま流されそうになる。
 でも……。
 一体何がどうなっているんだ?
 冷えている頭が悔しいくらいにな冷静な判断を下すんだ。
 この原因を探れってね。
 だって、昨日までの高山さんなら、どう足掻いたってこんなことしそうにない。
「あ、あの……」
 だけどオレの声は何故か掠れていて、思うように言葉にならない。
 抱きしめ治すためか、僅かに動いた腰の手が押さえた箇所から弱い電流みたいなものが流れてオレは息を飲む。
 何、これ?
 その場所がしっくりと来るのか、高山さんはその場所をしっかりと押さえ込んで。
 や、ヤバいよお……。
 これが性感帯とか言うヤツか?
 押されるだけで感じるなんて――っ!
 少しずつ起きてきた体の変化に慌てふためいていたオレの耳に、高山さんの声がようやく届いてきた。
「……う、来てくれない…かと……」
「え?」
 酷く辛そうな声に、オレはひどく動揺してしまう。
 どうやら怒っている訳じゃなさそうだけど?
「あ、あの……」
「目覚めて……気がついたら君がいなくて……オレ、もう嫌われたかと思って……」
「は?」
 一体何を言っているんだろう?
 そりゃ、勝手に帰ったのは悪かったけれど、何でそんなことまで思いこんで???
「そう思った途端に、酷く辛くて、悲しくて……何もする気が起きなくて……。本当は里山くんのところに行って、理由をしっかり聞いて、納得しようと思ったんだけど……」
 少し落ち着いてきたのか、長い言葉がその口から漏れてくる。
 だが弱々しい声はいつもの高山さんとはとても思えない。
「だけど……それが怖かった。聞いて、嫌われたと知るのがひどく怖かった」
 言葉とともに痛いくらいに抱きしめられる。
 その痛みが、高山さんの心の痛みなんだと、オレ、今気がついた。
 起きて、一緒に泊まっている筈のオレがいないってことに、高山さんはひどく動揺したんだ。
 だから……こんなにも普段の高山さんからは想像もつかない事をしている。
 そして。
 もう一つ気がついたことがあった。
 オレは、驚きでだらりと下げたままだった腕を上げて、そっと高山さんの背に回した。
 途端にびくりとその体が震える。
「ねえ……高山さん?」
 オレは聞きたくて堪らなかった。
「どうしてさ……そんなに怖かった?」
 途端に、がばっとオレの体は引きはがされた。
 背に回した腕が、ずれて高山さんの腰のところで引っかかる。
 ようやく自分が何をしているか判ったらしい高山さんの顔は、耳の後ろまで真っ赤に染まっていた。
 それが答えなんだ。
 掴まれた両腕は痛いくらいだったけれど、それでもオレの口は微笑んでいた。
 だって。
 判ったから。
 だから。
「オレ……高山さんのこと、好きなんだ……だから、教えてくれる?」
 言いたくて言えなかった言葉が、すらすらっと口から出ていた。
 だって、その返事は判っているから。
 オレの言葉を聞いた途端、高山さんはたっぷり数十秒は硬直していて。
 じっとオレを見つめていた。
 オレもその視線から目を逸らさない。
 だって、オレだって離したくないもん。
「オレは……」
 言いかけて口ごもる。
 オレに対しては、いつもそうだったよね。
 だけど、オレ、今だけはそれで許して上げないよ。
 もう聞くことを躊躇わない。
「言ってよ、聞きたいから」
 離された体をもう一度自分から、抱き寄せる。
 自分の大胆さに冷めた頭が嗤っている。今までのオレの態度は何だったんだって。
 でも。
「オレ……里山くんに嫌われたくない……。一緒にいて欲しくて……いつも笑っていて欲しい……。こんなこと今まで、他の誰にも感じたことがなかったのに……。里山くんが離れると思ったら、酷く嫌だった……」
「それって……高山さんもオレのこと好きだって事だよね?」
 返事は、綺麗に染まって眉間を顰めている高山さんの切なげな表情だった。
 堪らない……。
 その顔を見た途端、勝手に体が動いていた。
 腰にあった手を伸ばして、高山さんの両頬を掴む。
 思いっきり背伸びして、掴んだ両手を下に引っ張って。
 抗うことなく下りてきた顔に、そっと口づける。
 かろうじて触れた下顎。
 次に驚いて見開く目を見つめながら、唇に。
 触れただけだったけれど、その柔らかさは十分伝わってきた。
「あっ」
 呆けた表情は、未だ何が起こっているのか判らないといった感じだったけど。
「高山さん……」
 やっと……告白できた。
 欲しくて欲しくて……気がついたら、完全にこの人にまいっていた。
 こんな艶やかな表情を見せられて……我慢なんてできなかった。
 だから、何度も何度も口づけて。
 そうこうしているうちに、高山さんが自分から背をかがめてきた。
 オレのかかとが床につく。
 今度は高山さんの方から口づけてきて。
 お互いの唇がこれでもかっていうくらいに密着する。
 好きだよ……高山さん……。
 オレはもうずっと、こうしたかったんだ……。


 強張った体がすこしだけ柔らかくなった頃、高山さんがそっと顔を離した。
 その照れて顰められた顔が、結構可愛い。
 オレがくくっと喉で笑うと、困ったように高山さんが視線を逸らした。
 きっと……オレと同じ。
 自覚してしまって、戸惑っているんだ。
 そう言う点では、オレの方が先輩かな?
 たった数日だけど、オレの方が早く気がついて……そして散々悩んだんだから。
「高山さん……まだパジャマなんだ?」
 さっきまで自分も寝ていたことを棚に上げて、その服地を突っつく。
 なんつうか……やっぱり沈黙ってのが堪えられない。
 放っとくと高山さんは何にも言いそうにないんだもん。
 とにかく気がついたこと、口に乗せてた。
「あ、あ……そ、うだね……着替えるよ」
 慌てて奥の部屋に引っ込んでいく高山さんの後をゆっくりと付いていった。
 こんなに狼狽えている高山さんを見るのは、オレだけなんだろうなあ。
 橋本さんだって杉山さんだって、二人ともずっとずっと前から高山さんのこと知っているのに──でも二人とも高山さんのこと仕事ができて容赦がなくてって感じの事を言う。
 この二人以外だと、もっとすっごい噂を聞いたことだってある。
 実力はあるけれど、上司にたてつくからリーダーになれないとか。
 失敗すると、高山さんにさんざん指摘されて注意されて……嫌になるくらいその原因を突っ込まれるとか。
 今のチームの影の支配者だとか……。
 だけど、俺の前では、高山さんは……いっつもこんな感じ。
 今日はさすがに動揺が酷そうだけど……。
 でも……。
「何?」
 じっと見つめていたら、困ったように顔を顰めて手を止めた。
「え?別に」
 何を聞かれたのか判らなくて、きょとんと首を傾げていると、高山さんが視線をうろうろと彷徨わせる。
 何でだろう?
 とは思ったけれど、そんな姿もきっと滅多に見られるものじゃないんだって思うと嬉しくて目が離せない。
「あ、あのさ……里山くん?」
「はい?」
 相変わらずそこに突っ立ったまま。
 ますます訳判らなくて、ぼおっとしていたら。
 高山さんが大きく息を吐き出した。
 ため息みたいな……そんな感じ。
 何で?
 もしかして、オレ何かした?
 頭の中にクエスチョンマークが飛び交っている。
「ごめん……」
 意を決したように、高山さんがオレに近づいてきて。
 え?何、何?
 口を一文字に結んで、真剣な瞳でオレを見るもんだから、ちょっと期待して胸がドキドキしてきた。
 けど。
 バンッ
 期待に胸を膨らませる俺の前で無情にもふすまが音を立てて閉まってしまう。
 否。
 高山さんが閉めてしまったんだ。
 な、何?
 一体何が起こったんだろう?
 もしかして、オレなんか高山さんに怒られるようなことしたんだろうか?
 思わずさっきからの一連の出来事を頭の中でトレースして考え込む。
 思い出して、考えて……。
 でも……何にも思いつかない。
 オレ……キス以外……何もしていないよな??
 中でごそごそと人が動く音はするんだけど。
 オレは情けなくもそのままの姿勢でずっとそこに突っ立っていた。


 カラッ
 閉まるときより軽い音を立ててふすまがようやく開くと、高山さんはしっかりと着替えていた。
 細い水色のストライプのシャツにジーパン。
 スリムサイズなんだろうか、高山さんの体躯がいつもより細く見える。
 だけどその表情は、閉まる直前に見たものと同じで、なんだか怒っているみたいだった。
 出てきても口もきかないで、台所に向かう。
 その後ろ姿を呆然と見つめるオレは、ただただ訳が判らなくて。
「高山さん……あの?」
 恐る恐る問いかける。
 途端にはあっと深いため息をつかれてしまった。
 えっと……その……。
 問いかけようとした言葉もそこで止まってしまう。
 無意識のうちにぎゅっと手を握っていた。
 今のいたたまれない気持ちをなんとか逃したかったんだ。
「……ごめん……」
 だけど、弱々しい声がぽつりと漏れてオレは慌てて高山さんの傍に駆け寄った。
「高山さん?」
 シンクの縁に手をかけて深く俯いている高山さんの顔を覗き込む、と……。
「……なんか着替え見られるのが、嫌で……」
 真っ赤に染まって、ちょっと涙目なんだよー。
 潤んだ瞳がそっとオレに向けられて。
「昨日は平気だったのに……今日は……君に見られたくなくて……」
 その言葉に落ち込み気味だった意識がぱあっと明るく閃いた。
 それでかっ!
 それで、高山さんってば奥の部屋に逃げたんだ。
 だから、着替えようと思っても着替えられなかったんだ。
 オレがいたから。
 オレが見ていたから。
 この人って……もしかしなくても……すっごい純情?
「あ、あの……オレのほうこそ……ごめん。なんか、高山さんが好きだって言ってくれて舞い上がってて。だから、もう高山さんから目を離したくてなくて」
 判ってくれるかな?
 覗き込むように見るオレに、高山さんはそれでも視線を逸らして、必死になっておちつこうとしていた。
 小さな吐息が、時折長くなる。
「高山さん……嫌だったら言ってよ」
「嫌なんてことは無いんだが……でも……嫌だった」
 言って、自分でも可笑しいと思ったのか、手の平で口元を覆う。
 途端に羞恥にまた赤くなる。
 駄目だ、これは……ってオレが思うほどにそれは気の毒なくらいで。
 だけど、その姿を見ているとなんだか下腹がじんわりと熱くなってくる。
 ヤバいって……オレは咄嗟に思って、そしてそっと高山さんの傍を離れた。
 その気配に、高山さんが顔を上げ、合わせようとしなかった視線がオレと絡む。
 だからさ……そんな顔向けられると……。
「ごめん……どうもオレ、自分でもどういうふうにしたらいいのか判らないんだ。すごく困っている。どうしたらいいんだろう?どうしたら……ちゃんとできるんだろう?どうしたら…………里山くんに嫌われないだろう……そんな事ばかりが頭に浮かんで離れない。里山くんと一緒にいたいってのは本当だ。だけど、近づくとひどく落ち着かない。緊張して、どうしていいか判らなくなる。今までこんなことなかったの。どんな嫌な客のところにクレーム処理に行くときでも、こんな緊張することはなかった。なのに……」
 辛そうに歪むその顔をオレはしっかりと見つめていた。
 高山さんは必死で自分の事を教えてくれているんだ。
 いつも無口な高山さんなのに、それではオレが不安がると思って、だから言い慣れない言葉を言っている。
「朝……。オレは寝起きはすごく悪い。悪いのに、君がいないと思った瞬間、速攻で目が覚めた。泊まると言っていたから、いない筈がないと思った。だがやっぱり居なくて……用事ができて帰ったんだろうと思った……」
 やっぱりオレの行動が悪かったんだよな。
 ほんとに勝手に帰っちゃって……。
 殊勝な面持ちで顔を伏せる。
 が、高山さんの次の台詞でオレの顔はひくりと引きつった。
「だが、パソコンが動いているのに気付いて、マウスを動かしたら、ブラウザが出て」
 ちよっ、ちょっと待てーっ!!
 一瞬でパニクりだしたオレの頭を、必死で押さえつける。
 お、オレ……あの時、終わらしていないっ?
 あのサイト見て……お気に入りを見て……で?で?で?
「君か、あのサイトを見たことに気付いて……」
 がーんっ
 マジ、ハンマーでぶっ叩かれたくらいの衝撃が脳を襲った。
 お、オレがあれ見たのばれたっ!!
 あ、れ……でも?
 慌てふためくオレとは別に、高山さんはどこか悲痛な声を出していた。
「だから……嫌われたと思った」
「え?」
「だってさ……あんなサイト……見ているなんて……普通だったら嫌だろ?」
 えっと……。
 別に嫌じゃなかったんだけど……びっくりはしたけど……。
 オレの頭の中が少しずつ落ち着いてくる。
 てことは、高山さんはオレが見たってことには別に問題はなくて……自分が見ていたことを知られたことにショックを受けていると言うことで……
「最初は興味だけだったんだ。オレは知りたくなったら、とことん知りたくなるから。いつもそうだった。だから、あれも検索して」
「興味?」
「橋本が、男同士は気持ちいいのかな、なんて言ったのが気になって」
 それは何でもないことのように言ったけれど、今度は言われたオレの方が頭が真っ白になった。



「あ、あのさ……」
 真っ白になった頭をなんとか現実へと引き戻して、とりあえず口を開く。
 だが、開いてみた物の何をいったら良いんだろう?
 何であの橋本さんがそんなことを言いだしたのか判らないけど……杉山さんならまだ判る。
 あの人だよ、押し倒せとか、そんなことを言ったのは。
 だけど、今はっきりと聞こえたのは橋本さんの名前。
 で、しかも興味があったから調べたって……。
 気にしていないって言えばいいのか……でも、その状態で放置して、さっさと帰ったオレがそんなことを言っても信じて貰えそうにない。
 ビックリしたよ、確かに。
 だって……その世界は自分の欲望の世界そのまんまだったんだから。
 高山さんとそうしたい世界だったから……。
 口を噤んでしまったオレの様子に、高山さんの口元が引き締めている。
 一見きりりとしたその表情は、だけど真正面から見るとひどく動揺していることが窺えた。
 高山さんは一体どうしたいのだろう?
 というか、どこまでそういうのを理解したんだろう?
 オレだって……何にも判らないけれど……でも気持ちいいのか?って聞かれたら……たぶん気持ちいいんだろうって答えてしまいそう。
 だってさ……あんな啓輔の声聞かされたから……。
 脳裏に未だ記憶に残っている啓輔の声が甦り、背筋にぞくりと電流のようなものが流れた。
 全身が粟立つような感覚に、身震いすらしてしまう。
「寒い?」
 それに目聡く気付いた高山さんに、無言で首を振って否定する。
 マズイ……。
 オレ、今欲情している。
 さっきのキスで高ぶっていた感覚が、また全身を襲ってくる。
 でもさ……。
 オレは意識的に気分を切り替えた。
 静かに息を大きく吸って。熱くなりかけた体を冷やす。
 いくらなんでも……このまま突き進むのは早いような気がして。
 だって、高山さんじゃないけど……オレだって何にも知らないから。
「里山君……?」
 窺うようにな視線にオレは小さく笑って応えた。
 この人は、曖昧なことだと駄目なんだ。
 はっきりと伝えないと……。
 そう思ったから、きちんと言葉で伝える。
「オレさ……まだあんまり高山さんのこと知らないから……。だけど、だからと言って、これからいろんな高山さんを知っても、嫌いになるなんて事、無いと思う」
 言った途端に、自分の言葉に赤面してしまったオレだけど。
「だってさ……好きだから……」
 それでも振り絞って伝えた言葉は。
「ありがとう」
 本当に嬉しそうな笑顔で返して貰った。
 


「……何でお前ら、一緒の出勤なんだ?」
 にやにやとしたり顔で問いかける杉山さんを高山さんは完璧に無視していた。
 ……タイミングが悪い……。
 内心で大仰すぎるほどの溜息をついて、オレは杉山さんから視線を逸らした。
 ちゃんと別々の車で来たのに、どうしてこんなにも勘ぐるんだ
この人は。
 だが、杉山さんは逃すもんかという勢いでオレに着いてくる。
「たまたま、時間が一緒になっただけです」
「そうか?」
 信じていないその声に、オレはじろっと彼を睨み付けた。
「だいたい杉山さんだって、同じ時間に駐車場に着いたじゃないですか?」
 そうだ。
 駐車場から従業員入口までの50m程の道のりを、一緒に歩いているからって何でこんなに勘ぐられなきゃいけないんだ?
「オレは今日朝一で会議なの。でもさ、高山君はいつもの時間にしては遅いし、里山君はいつもより早いだろ」
「それはたまたまです」
「で、仲良く並んで歩いているし」
「それは先日のお礼も含めた話をしていたんです。一緒に出かけたのは知っているでしょう?」
 いい加減、嫌になって歩く速度も速くなる。
「でもさ、里山君の車が土日ずっと高山の家にあっただろう?」
 げげっ!
 思わず振り返った先で、杉山さんの顔がイヤらしく歪んでいた。
「今日も高山ん家からの出勤じゃないのか?」
 何が言いたいのか、困ったことにその意味がわかりすぎる。
 だけどさ。
「今日はちゃんとオレは自分の家から出勤しました」
 土曜日は……また、なんかうやむやの内に泊まってしまったけれど、さすがに日曜の夜には家に帰った。
 この人に勘ぐられるようなことは何もしていない。
「ふふん。ということは、土曜の晩はやっぱり泊まったわけか?」
 ……ああいえばこういう……。
 何かを聞き出さないと、離れないとばかりに食い付いてくる杉山さんをどうしたものかと考えていた時だった。
「オレの家で一緒にビデオを見て、遅くなったから里山君は泊まったが、それがどうかしたのか?」
 無視を決め込んでいた高山さんがそこでようやく口を開いてくれた。
「ビデオ?ふーん、それだけか?」
「それだけだが?」
 顔色一つ変えない高山さんは、それが本当に真実だからだ。
 あの後、外で食事をして、ついでにビデオを借りて帰って、一緒に夜中まで見て……そのまま寝た。
 文字通りの”寝た”だ。
 怪しい雰囲気にすらならなかったんだから……惜しいことに……。
 ちょっとドキドキしてさ、なかなか寝付けなかったけれど、それでもさあ……ここで自分から押し倒したら杉山さんの言葉に従ってしまうってことだし……。
 実際、欲に流されそうになると邪魔をしたのは、今までいろいろと画策してくれた杉山さんの記憶だった。
「んなあ……そんな筈はないだろう?寝たんだろ?で、何にも無かったなんて信じられるかよ」
「……しつこい……」
 杉山さんのテンションが高くなるにつれて、高山さんの声がどんどん低くなる。
 それが恐い。
 凛とした立ち姿で睨み付けられると、結構高山さんって迫力あるんだ。
 とても昨日の朝の寝起き姿からは想像がつかない。
 あれは……うん……酷かった……。
「おはよー、何してんだ?」
 一触即発の雰囲気は、陽気な声で飛散した。
「おはようございます」
 やっぱり、橋本さんだなあ。いいところに来てくれる。
 嬉しくなって、すりすりと寄ってしまった。
「一体どうしたんだ?」
 橋本さんも高山さんの険悪な雰囲気に気が付いたのか、オレに顔を寄せて聞いてくる。
「それが……その……」
 でも理由を話そうとして、それが言えるもんじゃないってことに気が付いた。
 うわっ……どうしよう……。
 そう思った途端だった。
 ぐいっと強く腕を引っ張られて、体が傾いでバランスを崩した。
「わっ」
 こけると思って足を踏ん張る寸前、柔らかく抱き留められる。
「行こう、里山君」
 高山さんの声が頭の上から降ってきて。
 見上げると、むすっと口元を歪めている高山さんがいた。
「え?」
 何で怒っているんだろ?
 その視線を辿ると、びっくりしたような表情の橋本さんがいて。
 これが杉山さんなら判るんだけど……何で?
 唖然としている間に、抱えられるように引っ張られていく。
 同じく呆然としている橋本さんと、にやけている杉山さんがどんどん遠のいていって……。
「あ、あの……」
 玄関間際になって、オレはようやく問いかけることができた。
 きつく掴まれた腕が痺れている。
 オレの声にまるで我に返ったかのような高山さんがいて、手を離してくれたけれど。
「ごめん……痛かったか?」
 あんまり申し訳なさそうなんで、オレは首を振って高山さんを見上げた。それから、はるか彼方で何かを話している橋本さん達を見やって。
 杉山さんがあることないこと言っているような気がするんだけど?
「行こう」
 なんでか不機嫌そうな高山さんの声がまた降ってきた。
 えっと……何で?
 高山さん、怒ってるのって……もしかしてオレのせい?
 オレがもたもたしているから?
 それとも……何か他にしたっけ?
「あの……高山さん……?」
 なんだか話しかけるのも恐い雰囲気にどぎまぎしていると。
「……橋本は……性格いいからな……オレと違って……」
 悔しそうなそんな声は、今まで聞いたこともないもので──って?
「あ、あの?」
「そういえば、前から仲が良かったよな……」
 呟くように言うその言葉は、決してオレに聞かせようとしたものじゃなかった。
 単なる独り言で、しかもつい零れたような感じだったんだけど。さすがの鈍いオレもその言葉の意味くらいは判る。
 ……あっ……そうなんだ……。
 そっか……オレが橋本さんと仲良くしていたから……。
 そう考えると、高山さんの変化にも理由がつくというもの。
 ああ、なんかこの人って……変。
 どうして、そんなこと考えるんだろう?
 昨日……じゃないや、おとつい「好き」だってこと、確認したばかりなのに。
 やだよ、そんなの。
 まるでオレが節操なしみたいじゃんか。
 嬉しいんだけど、何かちょっとムッとしてしまう。
 だからさ。
「ね、高山さん」
 オレは、周りに誰もいないことを確認して、呼びかけた。
 まだ朝早かった事がオレにとっては幸い。
「え?」
 自分の世界に入っていた高山さんが訝しげにオレに視線を向けた。
 それに向かってにっこりと微笑んで。
「オレさ、今ここでキスしたいくらいに高山さんのこと好きなんだけど?」
 少し意地悪を込めて言ってやる。
 そんなにオレって信用ならない?ってさ。
「……えっ!」
 一瞬間があいた。
 だけど次の瞬間、火を噴いたように高山さんの顔が真っ赤に染まる。
 その変化は見事なもので、言ったオレも呆気にとられてしまった。
「さ、里山君っ!」
 裏返った声も、うろうろと彷徨う視線も、それはそれで面白いくらいに狼狽えているってこと伝えてきて。
 オレはもうそれだけで満足してしまう。
 週明け早々、こんな素敵な高山さんを見られるなんてほんとラッキーだし。
 って、うきうきと昂揚する気分は止められない。
 ああ、そうだ。
 もう一言言っておかないと。
「だからさ、そんな嫉妬しないでね」
 しっかりと念押しすると、高山さんはそのまんま動けなくなったみたい。
 それこそ、ようやく追いついた橋本さん達に声をかけられるまで。
 オレはというと、杉山さんにさらに揶揄られそうなんでさっさと逃げちゃったけどね。
 ごめん……。
 でも高山さんが悪いんだから。
 なんだか言い合っている言葉を背後に聞きながら、オレはぺろっと舌を出していた。

【了】