【熱海】 秀也と雅人の過去話
賑やかで明るくて元気な女性だった。
40歳代だろうか?
女性に年を聞くなど野暮ったいことはしないから、それは推測でしかない。
ただ、開店と同時に若い女性を伴って現れては、閉店まで居座る。
頼む酒もサービスも、要求する全てが最高の物ばかり。
何より、金に飽かせて彼女はいつもこの店のNO.1とNO.2をはべらせていた。
それが雅人と秀也で、一週間完全に拘束されたといっても過言ではないだろう。
その結果彼女が店に落とした金は軽く三桁を越えていた。
「遊ぶのは今日で終わり」
くすりと浮かべた笑みは、イタズラを思いついた子供のようで、雅人は思わず目を見開いた。
もうそろそろ閉店で、いつものようにためらいもなくカードを差し出して精算をして帰るのだと思っていたのだ。
だが、カードを差し出しながら、彼女は言ってのけた。
「一週間たっぷり遊んだわ。だから、もう終わり」
「一週間?」
その期間は一体どこから出てくるのだろうか?
雅人が訝しげに問い返せば、彼女は華やかな笑みを浮かべて返した。
「一度ホスト遊びというものをやってみたかったのよね。でも、のめり込むつもりはないわ。だから、一週間だけ。でもその分思いっきり遊んだわ」
その言葉に、雅人は彼女のあの遊びっぷりの見事さの意味を知った。
両目が驚きに見開かれたが、すぐに顔をほころばせる。
「堪能できましたか?」
「ええ、たっぷり。こんなすてきな殿方をはべらせての女王様気分は、確かに期限を切らないと溺れてしまいそうだったわ」
それは嘘だろう。
胸の奥で呟く。
苦笑を浮かべる雅人の脳裏には、威風堂々とした女王様っぷりが板に付いていた彼女の姿があった。
そんな彼女に最初の内は戸惑いもあったが、今日で来店は最後かと思うと名残惜しさが生まれてくる。
上客だったのだ。
それに彼女と共にいるのが楽しかった。
「高塚様がもうご来店されないとなると……寂しいです」
社交辞令でなく本音がぽろりと口をついて出た。
「あら、私もよ。あなたと秀と──とても気に入っていたのだけど」
「ありがとうございます」
こんな時の彼女の言葉には裏がない。
それは、一週間の間に気がついたこと。だからこそ、気が楽で楽しくて。
「だからね、これ」
そんな彼女が差し出した封筒を受け取って、何? と視線で問う。
「あなた達がとっても気に入ったから、最後のプレゼントよ。あなた達ってあんまり物は受け取ってくれないようなので、これでもいろいろ考えたのよ」
「そんな……プレゼントなんて……」
手の中の封筒の中身は、紙のように思える。だが、お金にしては少し重い。
「楽しかった──。この一週間、いろんな事を楽しんだけれど、一番気に入ったのはあなた達。ホストとしてでなく、雅と秀の二人を私は人間として気に入ったのよ。これはそのお礼。だから遠慮無く受け取りなさい」
雅人を見上げ、艶やかに笑う。
その屈託のない笑みに、雅人はつられるように口元を緩めた。
そして。
「ありがとうございます」
にっこりと笑んで頭を下げた。
「ふ?ん、俺たちに?」
閉店後の片づけを終えて二人で住む部屋に帰ってから、雅人は秀也に封筒を手渡した。
「そ、ぜひって言われて。楽しくて気に入ったから、そのお礼だって」
「珍しいね、雅人さんが受け取っちゃうのって」
キリがないから、と、よっぽどでないと受け取らない事を公言している雅人に、プレゼントを持ってくる女性は少ない。無理に持って行って、そんなことで機嫌を損ねられるより──と常連客達が考えるようになっているからだ。
「今日で最後って言われたらねえ」
「残念だね。彼女のお陰で、俺たち不動の一位だったのにね」
くすくすと秀也が笑う。
「来週から、また頑張らないとね」
もっとも、秀也の目に浮かぶ一抹の寂しさに気付いているから、雅人も笑みを浮かべるだけだ。
「なんつうか……元気なお母さんって感じで、楽しかったな」
「そうだね……。きっと、すてきなお母さん、なんだろうね」
懐かしそうで寂しそうで。
秀也の笑みは胸に切なく響く。
ああいう少し年のいったタイプを、秀也は好む。
他の客達と同じように相手をしているのだろうけど、ほんの少しひいきにしている感じはあった。
彼女たちに優しくされると、ひどく悦んで──そんな秀也を彼女達はさらに可愛がる。
バイトで、と始めた当初は戸惑いがちだった秀也も、今では慣れてどんな客相手でも余裕をもってあしらっているようだ。
だが、そこに常に上位にいる傲慢さは感じられない。それどころかその頃より優しくなっているくらいだ。できた余裕が、さらなる心配りを可能にしたのだろう。
秀也の周りにはいつも穏やかな雰囲気が漂っていた。
「で、これ何?」
秀也が手の中の封筒を開けようとして、その前に雅人に視線を向けて尋ねてきた。
「ん?、温泉、だって」
「え……?」
「温泉宿に招待── 一泊分だって。二人でゆっくり楽しんでおいでって」
「へ、えぇ……」
途端に、秀也の笑みが固く強張っていく。
上目遣いで窺う視線に、言いたいことが込められていて雅人は首を竦めた。
「別にばれちゃいないと思うけどな。ただ、俺たちが仲がいいっていうのは判ったみたいだし。それで、二人で、だと思うけど」
言いながらも、やっぱりバレたかな? とも思う。
店でもそんなそぶりなど見せたことはないが、ああいう店で1位、2位を争いながら、仲はすこぶるつきで良い。
互いに助け合うから、店の雰囲気も良く、そういうところが良いという常連客もいた。中には、怪しい雰囲気があると勘ぐられたこともある。
もっとも、そういう時には慌てずにこりと笑って、「そんなことありませんよ。仲はいいですけどね」と返していたけれど。
「あの人、勘が鋭いと思うよ」
いまだ雅人の言葉を疑っている秀也こそがよっぽど鋭いと思う。
そう考えながら雅人は小さく舌を出して、その手の中の封筒を取り上げた。
「まあ、どっちにしろもう来ないって言うし」
取り出したのは、旅館のパンフレット。
そして、手紙だ。
その手紙を秀也に渡す。
「要約すると、世話になったお礼として、熱海の石庭荘に予約を入れていますってところ」
「って……これって日にちが決まっているみたいだけど?」
「うん……そうなんだよね。で、俺たちその日は店はお休み」
「え?」
秀也の素っ頓狂な声音に、雅人も苦笑を返した。
「驚くことに、彼女は店と交渉して俺たちの休暇をもぎ取っていた。これだけ儲けさせたんだから、ボーナスだと思えって……。強いよ、あの人は」
「……」
手紙と雅人を交互に見やっている秀也は、唖然と口を開けてはいるけれどものも言えないようだ。
「で……なんか、行くしかないんだよね。そこまでお膳立てされたらさ。それにキャンセルになんてしたら、その方が迷惑かもしれない」
何しろ、指定の期日はもうあさってなのだ。
今からキャンセルしたら、キャンセル料が請求されるだろう。しかも、彼女の方にだ。
「まさか……行ったら、彼女もいる、なんてことは?」
恐る恐る問いかける秀也に、雅人は苦笑しながら首を振って否定した。
「う?ん、別にかまやしないと思ったけど、心づもりもあるから聞いてみた。そしたら、彼女明日からアメリカに行くんだそうだ。だから……」
「アメリカ……」
全てのことに驚かせてくれる人だった。
「俺たちと一緒ってのは、またの機会にってさ」
明るくて、陽気で。
人生を楽しく生きている感じで。
けれど、限度も知っていて。
お金と人生の上手な使い方を知っている人だ。
「あさって──。俺、熱海って行ったことないんだけど、どのくらいかかるのかなあ……」
そう言って、秀也が首を傾げている。
渡されたパンフレットには、最寄り駅からの時間だけは書いてあった。
「熱海なら……そうかかんないだろ」
「ふ?ん」
心なしか秀也の横顔が嬉しそうで、雅人も行くのが楽しみになってきた。
東京から熱海へ。
JRを使って移動する間、秀也はずっと楽しそうだった。
窓の外から見える風景を笑みを浮かべながら見ている。
そんな秀也を見ながら、雅人もほんわかとした柔らかな感情に包まれていた。
ともに暮らすようになってから数ヶ月。
一緒に旅に出かけたのは初めてだ。
こんなふうに悦ぶのなら、もっと早くに出かけてみれば良かった。
視線を秀也から外へと移せば、海の青と山の緑が視界を流れていく。海の波が日の光に照らされて、きらきらと光り輝いて、まぶしさに目を細めた。
「俺ね、初めてなんだ」
「ん?」
穏やかな光の中、秀也が笑みを向ける。
「こんなふうに誰かと旅行するのが」
あまりに穏やかで、つい聞き流しそうになった。だが。
「初めて?」
その言葉の意味するところに気がついて、目を見開いた。
「ええ、初めて」
視線が泳ぎ、窓の外へと向けられる。その横顔に浮かぶのは相変わらず笑みなのに。
「学校の……修学旅行とか、あるだろ?」
二人っきりだと無いのだろう。
そう思ったけれど。
「いえ、俺、行ってないんで──遠足も……」
「遠足も?」
「……行けなかったから……」
刹那秀也の横顔に浮かんだ表情は、雅人の胸に痛みを覚えさせた。
ただ無性に哀しくなって、秀也を抱きしめたくなる。
そのせいで、ぴくりと指先が震えて──だが。
秀也が向けた眼差しが動こうとした雅人を制止した。
「その時は、それで良かったんだ」
悲しむことなど無いのだと、教えてくれる。
「……それに、知らなかったから今がとっても楽しい」
そう言って穏やかに笑う秀也が眩しくて、雅人は思わず目を細めた。
「凄い……こんな……」
門を入ってから、何度同じ言葉を呟いただろう。
雅人は仲居に案内されて入った座敷で、思わず立ちつくした。
その部屋は離れになっていて、座敷から見えるのは趣のある日本庭園ばかり。だが、雅人が驚いたのはそのせいだけではない。
座敷から庭へと視線を向ければ、否応なく入ってきた露天風呂の存在。縁は檜で作られていて、今もなみなみと温泉が湧いてきている。
数寄屋風の壁と奥行きのある日本庭園のせいで、他の客達からは全く見えないだろう。
だが露天風呂の縁から外を見れば、うまく植え付けられている木々が絶妙な空間を作り出している。そのお陰で熱海の街並みが綺麗に見通せた。
夜になれば、綺麗な夜景が拝めることは想像に難くない。
「凄いね……」
旅をしていないという秀也だったが、それでもこの座敷の豪華さは判るのだろう。それっきり口を閉ざす。
仲居が去った後も、二人はしばし呆然としていた。
「……高塚さまって……ほんと何者なんだろうね」
しばらくして秀也がぽつりと呟いた。
「さあ……でも、この部屋って、すっごく高いんだろうなあって思うし、あの遊びっぷりからして金も持っているんだろうなあって事は判るけど」
「そんなこと判っているよ……そうじゃなくて」
秀也が言いたいことは判っていた。
けれど、明確な答えを二人は持っていない。
ただ。
「豪放、快活、明朗、闊達……さて、どれが正解かな?」
「全部」
間髪を容れず答えた秀也に、雅人は「俺もそれしか判んないな」と返す。
しばらくの間二人で笑い合って、ふっと言葉を切った。
どちらともなく出されていた茶を口に含み、茶菓子を味わう。
そんな二人の動作から出た物音しか聞こえない静かな座敷で、秀也がぽつんと呟いた。
「なんか……すごくリラックスできる……」
その言葉に視線を巡らせれば、秀也はじっと庭を見つめていた。
乗り物の中で見せたあの穏やかな笑みが口元に浮かんでいる。と──。
不意に、あの時感じた切なさが雅人の胸の内に込み上げてきた。
「秀也?」
堪らずに呼びかけて、向けられた視線に絡める。伸ばした手が秀也の指先に触れ、彼の体を引き寄せた。
「俺……大丈夫だけど?」
雅人が寄せた眉根の意味を知ってか、おかしそうに秀也が笑んでいる。なのに、それすらも辛そうだと思うのはなぜだろう?
腕の中に抱きしめて、秀也の唇を奪う。
頂いた茶菓子の甘い味を舌先に馴染ませながら、奥深くを探った。
「……んくっ……」
口蓋を探れば、鳴らして喘いでいる。
縋り付く秀也の腕が、時折押し返そうとするのだが、雅人の腕の方が強かった。
日常とかけ離れた空間で、雅人の想いが暴走する。
畳に押し倒した体にのしかかり、至近距離で秀也を見つめれば、うっすらと朱に染まった頬がひどく扇情的で、雅人の下腹部を熱くたぎらせる。
「秀也……」
「雅人さん……ダメですって」
零れた呼びかけに、それでも秀也は首を振った。
「俺──初めてなんです、旅って。だから、こんな家でもできることで時間を潰したくないな」
熱い吐息を漏らしているくせに、そんな拒絶の言葉を雅人に向ける。なおかつ、くすくすと楽しそうに笑い始めた。
「その、さ……まだ、時間はあるんだし──。熱海の街って見てみたいんだけど? ダメ、かな?」
「それは──ダメじゃないけど……」
確かに口付けに感じていた証拠に、秀也の瞳は潤んでいるのに、欲情の欠片も感じさせないで乞うてくる。
そんなことを言われて、雅人が否だと言える訳もなく。
「ね、行きましょうよ?」
肩を押される手のひらに力が込められて、雅人は渋々体を離した。
我慢するのは難しいのに。
出かける用意をしながら思ったことは、街中に出た途端に吹っ飛んだ。
もともと雅人も出歩くのが好きな方だ。
旅先での街の中で、土産物をのぞくだけでも好きだ。
そんな雅人に連れ添って、秀也も楽しそうに見て回る。
普段の生活とは違う、旅先ならではの様子に傍にいるのが楽しくて仕方がないのだ。
ガイドブックを片手に二人で歩いていると、同じような観光客──特に若い女性達から声を掛けられる。
母親とそう変わらない妙齢の女性達もその中にはいた。そして、得てしてそんな彼女たちの方が元気で強引だ。
「シャッターを押して」
という言葉に頷いたが最後、離して貰えない。
『お宮の松』の前でツアー客でもないのに団体写真を一緒に撮って、これも何かの縁だとばかり熱海観光を一緒にすることになってしまったのだ。
そんな中、後半はさすがに雅人の笑顔は引きつり気味だったが、秀也はにこにこと愛想良く相手をし続けていた。そうなればますます離しては貰えなくなって。
だが、団体ツアーには集合時間はつきものだ。
彼女たちもさすがに時間には勝てない。
バスに乗り込む寸前、「残念だわ?」とハンカチでわざとらしくまなじりを拭いていた女性達だったが。
「ねっ、家の娘と見合いしてよ?」
誰かの鶴の一声に、場は一気に騒然となった。
「まあ、抜け駆けは無しっ! 家の娘は料理が得意なのよっ!」
「あらあ、私、今独り身なのよぉ?」
等々。
バスガイドと添乗員が呆然とする程の騒ぎだが、取り囲まんばかりの勢いの女性達に秀也は寂しそうな表情を見せて言う。
「こんな素敵で楽しい皆さんと一緒にできてとっても楽しかったです。僕も母に会いたくなりました……。でも、今はもう会えなくて……。だから、こんな素敵な方々を親に持たれたお子様がとっても羨ましいです。そんな大事なお子様の所に無事帰られますよう、旅の無事を祈っていますね、それでは失礼いたします」
そのバスが定刻通りに発車できたかどうかは、すぐにその場を離れた雅人達には判らなかった。
二人で選んだ土産物を抱えて旅館に帰ったのは食事の時間の寸前だった。
しかも、その頃にはあの時の堪えきれないほどの劣情は完全に消え去っていて、今度は食欲を満たさんとばかりに、出される食事に舌鼓を打つ。
部屋を見た時の賞賛は、食事時でも何度も口をついて出た。
まして秀也も見たことのない料理の数々に、材料や製法について何度も雅人に問うてくる。それに雅人が答えられるはずもなく、困惑する雅人に仲居が微笑みながら教えてくれた。
気がつけば、すっかり仲居に気に入られている秀也に、「こんな所でもマダムキラー健在」と呟いた事は内緒だ。
懐石料理の一品一品には物足りなさはあったが、終わってしまえば完全に食欲は満たされていた。
その頃には外はもう完全に陽が落ちて、ところどころ設置されている行灯風の灯りが柔らかく庭を照らしていた。
料理が片づけられて仲居が辞してしまうと、もう後に残るのは二人っきりだ。
露天風呂があるから大浴場に行く気もあまり起きない。
そうなれば、寝るまでこの離れでゆっくりと過ごすしかないだろう。だが、この居心地の良さのせいか、据えられているテレビすら点ける気にならなかった。
ただ、ぼんやりと庭の灯りを見つめる。
静寂という言葉が似合う中で聞こえるのは、露天風呂から流れる水音だけ。
「なんか……贅沢……」
ぽつりと秀也が言う。
「ああ、贅沢だな」
お金──の問題ではない。この時間の過ごし方がだ。
何もせずにただぼんやりと過ごす。そんな贅沢な時間の使い方を今までしたことがなかった。
ずっと何かに追われて生活してきたような気がする。
「うん……気持ちいい……」
ぱたんと仰向けに寝っ転がって背を伸ばした。
「いいなあ、ずっとここにいたい」
「それは、俺も。──でもね、そのうちこんな生活に飽きて、あの忙しさが懐かしいって思うようになるかもね」
「あ、それはそうだな」
確かに理想的な生活ではあったが、自分達には馴染めないだろう。
あくせく働きたいとは思わない。
だが、何もしないでいるのも嫌だった。
「さて、露天風呂にでも入るか?」
精神的なゆとりは堪能したから今度は疲れた体の方を癒したいと、雅人は温泉に入りたくなって体を起こした。
「で、一緒に入るか?」
ちらりと乞うように視線を向ければ、秀也が僅かに視線を泳がせた。
昼間に迫ったこともあるから、この先に何が待っているかは簡単に想像がついたのだろう。
僅かに紅潮した頬にそっと指先で触れた。
「夜景、見たいだろ?」
本心とは別の言葉で誘う。
なのに、秀也はまるで本心に気がついたかのようにさらに頬を赤らめて、雅人を押しのけた。
「えぇっ、入らないのか?」
「入りますよっ! でも先に入っててくださいっ」
可愛い苛立ちにほくそ笑む。
二人で暮らしていると言っても、そんなにいつも体を合わせるわけでないから、秀也の態度はいつも新鮮そのものだ。
始まってしまえばちゃんと反応して応えてくれるが、その前の甘いムードが漂う時はいつも恥ずかって嫌がる。
それがまた可愛くて。
「家じゃ、二人で──なんて入りにくいもんな。今日は足を伸ばしてゆったりと入れる」
途端に浮かんだ妄想に、口の端が緩む。
秀也の日に焼けていない部分の肌は白くてきめ細かだ。
子供の頃から家にこもりがちだったとは聞いたことがあったが、そのせいで肌が傷んでいないのだろう。
その肌を穏やかな灯りの下で見たら、どんなに綺麗に映えることか。
そんな妄想に笑みは深くなって。
「いやらしいよな、雅人さんは……」
その言葉に我に返った雅人は、秀也のきつい視線に気がついて慌てて部屋を出て行った。
「あいつ、時々無性に鋭いよな?」
そんなに緩んだ顔をしたつもりはなかったが、あんなにもはっきり言い切られたのだから、相当緩んでいたのだろう。
肩まで湯に浸かりながら頬をぺしぺしと叩く。
秋の夜の気温は裸でいるには寒いが、こうやって湯の中にいれば心地よいものでしかなかった。
濡れた方が気化熱で冷えて、ぼんやりとしそうな頭をはっきりさせてくれる。
機嫌が悪くなった秀也は入ってくるだろうか?
そんなことを思って、何度も座敷との境を窺った。
外にあるせいか、気温差のせいか、湯の温度が少し熱いように感じる。
このまま肩まで浸かっていたら簡単にのぼせてしまいそうで、雅人は上半身を湯から出し、俯せに縁に体を預けた。そうすれば今度は檜の芳香が鼻腔をくすぐる。
何もかもが、癒しのためにあるような空間だ。
そのままの姿勢でいると浮力が下肢を浮かせようとする。それに逆らわないままに、ただなんとなく足をばたつかせて水飛沫を上げた、と──。
すっと境のドアが開いた。
「何しているんだ?」
呆れたような声音に、「別に」と返す。
そんな雅人の目線の先に、一対の足が近づいてきた。
綺麗だな……。
男の足ならたいてい子供の頃の怪我の後が残っているだろうに、秀也にはそれがない。
綺麗な顔つきの奴は、何もかもが綺麗にできているんだろうか?
たとえば、怪我は跡形もなく治ってしまうのか、とか。
そんな事を考えてぼうっと見つめていると。
「何?」
すぐ傍らに小さな飛沫が上がった。
驚いてその拍子に目を瞑って。
「あんまり見つめられると恥ずかしいっ」
近くで聞こえた叱責に慌てて目を開けると、すぐ横に秀也が浸かっていた。
「しかも、なんか良からぬ事を考えてない?」
ぶつぶつと文句を言い続ける秀也は入ったばかりだというのに、頬が赤い。
本当にこいつは勘が良い。
綺麗な体に朱色の印が付けたいと思ったことなど、表情にも出していないはずなのに。
「聞いてる?」
「聞いてる。それより、秀也はまだ見ていないだろう、あれ」
矛先を変えるためだけに指さした。
だが、その効果は十分で、そちらを向いた秀也が大きく目を見開く。
「すご……」
苛立ちなどどこかに飛んでいってしまったように、魅入られている。
「綺麗だろ、熱海の街だ」
夜の闇に浮かぶいろんな光が、いつまでも続く。その灯りがいきなり途切れるところが海だ。
その海にも灯りが映っている場所がある。
「ここ、明日の朝も入ってみようぜ。きっとさ、夜と朝と昼と……絶対に雰囲気が違うよ」
清楚な朝の風景、輝く昼の風景、そして静かなのに鮮やかな夜の風景。
「はい……」
応える秀也の声音が微かに震えていた。
切なく感動に打ち震えるその様子は、雅人を煽る。
「秀也……」
熱のこもった呼びかけに、秀也びくりと震えてが逃れようと身動いだ。だがすんでのところで腕の中に閉じこめる。
「今更、逃げるか?」
「……ゆっくり入りたいんだけど」
「今日は諦めろよ」
耳朶を甘噛みしながら囁くと、深いため息を零した。
秀也はこういう行為を好んでいないことは知っている。雅人も、無理にしようとは思わないから、一緒に住んでいても回数的には少なかった。
だが、この雰囲気に飲まれてしまって体が欲しいと疼いている。
秀也の肌がいつもより色づいているのは、決して温泉の熱だけではないだろう。
吸い寄せられるようにうなじへと口付ける。
「……っ」
小さく息を飲む音が頭上で響いた。秀也の抗いが大きくなって湯面が波立つ。
行灯の暖かな灯りの中、濡れた肌が欲情を誘った。
「やめ……て……っ」
それなのに、秀也は拒絶しようとする。
ここに入ってきた時点でこうなることは判っていただろうに。
そういうことには特に勘の良い秀也が気付かないはずがない。
この期に及んで──と恨めしげに見上げれば、きつく唇を噛みしめて眉間にしわを寄せている秀也と目があった。
細めた目尻に涙が浮かんでいて、辛そうに見つめてくる。
「ダメなのかよ?」
そこまで拒絶されてしまうと、無理強いまでして抱こうという気は雅人にはない。低く暗い声で問いかけると、震える唇が応えた。
「……ここでは……」
「え?」
「ここは……声が……」
俯く秀也が掠れた声で言う。
「外だから、聞こえたら……」
その言葉の意味に気付かないほど、雅人も鈍感ではなかった。気がつけば、透明な湯の中で、秀也のモノは大きくその存在を露わにしている。
「中なら良いんだ?」
からかいながら腕を掴んで湯から引っ張り上げれば、怒ったようにふくれっ面をして視線を逸らされた。
けれど、もう抗おうとしない。
音を立てて露天風呂から出て行って。
「もう少し入りたかったのに」
真正面を見据えぽつりと呟いてため息を零す。
「……後から入ればいいだろう? 幾らでも入れるさ」
「邪魔されなきゃね」
ちらりと雅人を不機嫌そうに見つめて中へと向かう。その裸体から飛び散る滴が、檜の床に痕をつくっていた。
その姿をしばらく唖然と見つめた雅人だった。が──。
「可愛いねえ」
面と向かって言えば親父臭いと文句を言われる台詞を、思わず呟く。
本音を言えば、露天風呂でしてみたかったが、本気で嫌がられてはそれこそ何もさせて貰えなくなるだろう。
ちらりと熱海の夜景を見つめてほんの少し悔しさに口元を歪めた雅人だったが、その胸はこの先の期待で高鳴り、下腹部は熱を篭もらせていた。
その悔しさを吐き出すように中に入ってすぐに、柔らかな布団の上に秀也を組み伏せた。
その乱暴な動きに目を見張った秀也だったが、逃れようとしたのは一瞬だった。それすらも、条件反射だったのか、今はもう逆らうこともなく肌をさらけ出している。
だが、その肌に口付けても声を必死に我慢している。
外は声が漏れるから嫌だと言うから、中に入ってきたっていうのに。
「ん……くっ……」
下唇を噛みしめて堪えているのだ。
「秀也?」
色を変えている唇に指先で触れて開けるように促しても、嫌だとその瞳に睨まれた。
そんな目をされると意地でも声を出させたくて、執拗に攻め立てる。
肌に舌を這わせ、指先でまさぐる。
「んっ──くぅっ…んんっ」
それでも声は出さなくて、縋り付く指の力ばかりが強くなっていった。
温泉で温もっていた秀也の体は、あっという間にさらに熱を上げ、吹き出した汗が全身を伝う。抱きしめれば、しっとりと肌が馴染んで一体化していた。
「秀也……声、出せよ」
意外に強情なのは知っているが、それでも乞う。
しっかりと歯形のついた唇を舌先で舐め、突く。
感じていない訳ではないのだろう。甘い吐息が僅かな隙間から零れ、喉が幾度も震えていた。
それなのに声を出さない。そのうちに唇を噛み切ってしまいそうで、雅人は無理矢理指先を唇の間に押し込んだ。
「濡らして」
鋭い歯先に指が痛む。けれど、笑みを浮かべながら乞うた。
秀也の瞳が戸惑い気味に雅人を映す。
「舌で唾液を絡めて?」
つんつんと突く先の柔らかな感触が、言葉と共に絡みつく。
途端にぞくりと背筋が震えた。
思わず漏れそうになった声を我慢して、細めた目で秀也を見つめる。秀也は、雅人の変化に気がつかないのか、目を瞑りおずおずと指先を舐めているだけだ。
だが、その間も指先からじわじわと快感が広がっていく。
何気なく乞うた行為は意外にも淫猥で、その光景に欲情はどんどんと高まった。互いの間にある雅人のモノが張り詰めていて、体が暴走しそうになる。
指先を舐められただけなのに、この快感は一体どういうことなのだろうか?
雅人が快感を味わうために動きを止めたため、秀也は今は一心不乱に指先を舐めていた。
「もう……いい……」
吐息と共に囁いて指を抜けば、灯りに照らされて輝く線が伝っている。片方は雅人の指先に、そしてもう片方は──秀也の赤い舌だ。
いきなり抜いたせいで所在なげに舌が蠢いている。
その舌がぺろりと口の端の唾液を掬い取った。
堪らないっ。
下腹部を激しい衝撃が襲い、体が突き動かされる。
濡らして貰った指先を秀也の後孔に一気に深く埋めた途端──。
「んあっ!」
甲高い嬌声が、秀也の喉から迸った。
固く目を瞑った表情を覗き込めば、痛みを堪えているとは思えなかった。そのことに安堵し、奥深くをめざして準備を行う。
ゆっくりと増やす指の本数分だけ、声が大きくなってきた。
「やっ……あっ……んあっ」
叫んだことで堪えることができなくなったようだった。痛いほどに込められた指の力は変わらない。
「あっ……やぁ、雅人、さっ! やだ……」
いつもは凛としたイメージの秀也も、このときばかりは可愛さが前面に出る。
雅人に翻弄されて、制御できないほどに体が蠢くのだろう。
その動きを必死になって押さえようと、秀也がますます縋り付いてきた。
「……さっ……雅人っん……っ!」
名だけを呼び続ける秀也のモノも、先走りの透明の液を滲ませていた。
ぴちゃり、と濡れた音がするほどにローションを垂らす。
ゴムを付けた先端をその部分に押しつければ、秀也の体が強く震えた。
「いいか?」
見下ろして、問う。
その問いかけに、ゆっくりと開いた瞳が雅人を捉え、僅かに開いた唇の間から熱い吐息が漏れた。
「いい……よ──っああっ!」
にっこりと笑おうとしたのだろうが、笑みは中途半端に消えた。
喉から今まで一番大きな声が迸る。
一気に深く突き刺さった雅人のモノに、秀也がきつく雅人を抱きしめて堪えていた。
狭いのは判っていた。
回数が少ないから、慣らすのに時間がかかることも判ってた。
だが。
今夜の秀也は堪らなく可愛くて、我慢できなかった。
柔らかく熱い体内に包まれて、雅人のモノはさらに熱くたぎる。
馴染むまで我慢する──という想いは、いつだって雅人の中にある。雅人にとって、秀也は愛おしい相手であって、性欲を解消する相手ではないのだ。
だが、今日に限って我慢できない。
馴染む間もなく、雅人の腰が動く。
狭い通路を押し入る間隔は、強く擦られるのと同じで快感が大きい。
「やっああっ……雅人さっ……まさとっ……んっっ!」
背に鋭い痛みが走る。
眼下でぎりっと噛みしめる音がしていた。
痛いのか、それとも声を我慢しようとしているのか、どちらか判らない。
「ごめんな……でも……欲しくて──なっ……秀也……」
言い訳がましく囁いて、それでも止めることなんか考えなかった。
抱きしめて、「秀也」と名を呼んで。
びくりと互いが震えて硬直する。
熱い体が弛緩していく。
その体をきつく抱きしめて、型の残った唇を愛おしげに舌でなぞる。途端に震えて、秀也が顔を顰めた。
「痛いか?」
「……いえ」
掠れた声音が力なく答える。
庭の薄暗い行灯の灯りがそんな秀也の顔を照らしている。
気怠げに庭を見つめるその表情に、どこか安堵の色が生まれているのを雅人は気付いていた。
感じてはいてくれる。
抱かせてはくれる。
けれど。
自分達が恋人同士だと言えるほど甘い関係でないのも判っている。
一緒に暮らしていても、こんなふうに体を重ねても、秀也の心は完全には雅人の方には向いていない。
時折見せる寂しそうな表情の訳も、家に閉じこもりがちだった訳も、旅行に行かなかった理由も──そして、親に会えない訳も、何も知らない。
それでも、この手の中に彼がいるという真実が、雅人にとって何より幸いだった。
【了】