【心の隙間】

【心の隙間】

優司が手にした写真から、秀也の大学時代の話へ。 雅人との出会い


「この写真……?」
 それは偶然だった。
 滝本優司が出張がてら恋人である笹木秀也の家で泊まって、暇つぶしのようにその辺りの本を物色していた時のこと。
「何?」
 零れた言葉を聞き咎めた秀也が、硬直気味の優司の手元を覗き込む。
「あ……」
 小さな叫びがその口から漏れ、優司の肩に置かれた手がびくりと震えたのを感じた。
「これって……雅人さんと一緒にいた頃?」
 フローリングに白い壁とモノトーンの家具を背景に、座っている秀也の後ろから雅人がその肩にもたれるように顔を出していた。
 どちらも穏やかに笑っている仲睦まじげな写真。
 今よりも雅人の表情はきつく、秀也の顔には幼さすらあった。
「もう……無いと思っていたのに」
 ため息とともに吐き出された悔いが込められた口調。肩に在った秀也の手が伸びてきてその写真を取る。
 だが優司は慌ててその写真を秀也の手から取り上げた。
「破るつもり?」
 にこりと笑い、大事そうに写真を両手に包む。
 優司に見られたことを後悔しているのだと気付いたからだ。
 そういえば、秀也と雅人がつきあっていたことは知っていたけれど、そのころの写真や痕跡になるようなものは見たことが無かったと、今更ながらに気付く。
 きっと秀也がそれらを全て処分してしまったのだろう。
 だが。
「この写真の秀也と雅人さん、楽しそうだよね。この時って幸せだった?」
 秀也が言葉を失って呆然と優司を見返すのに、柔らかく笑いながら優司は言葉を継いだ。
「そりゃあさ、秀也の相手って私が初めてじゃないってのはやっぱり気になるところだけどさ。でも……雅人さんから、秀也は雅人さんのために一緒に暮らしたって聞いたことがあるよ。それで随分癒されたとも聞いていた。そんな頃のこれは……大切な思い出だよね」
「……そうだな。この時は……幸せだって思っていた」
 それは勘違いだったけれどね。
 嘲笑めいた笑みが口元に浮かんだ秀也の瞳が、向けられた写真ではなく、その後ろにある遠いところを見つめていた。
 不意に優司の胸が小さく疼く。
 ちりちりと焼けるような痛みに、優司は堪えきれずに僅かに顔を顰めた。
 気にならないと言えば嘘になる。
 こんな仲睦まじい姿を見たら、胸の奥にどす黒い塊が沸き起こるのは止められない。
 だが、これはもう過去のことなのだ。
 これがただの他人なら破り捨てるのを黙って見ていただろう。だが、相手は雅人なのだから。
 優司は大きく息を吸うと、ふと浮かんだ考えにおかしそうにくすりと笑みを零した。
「何がおかしい?」
 しばし呆然としていた秀也が、優司の笑みに気付いて問いかける。
 その手が優司の手から再び写真を取り上げるのを、優司は答えながら見つめていた。
「この写真、浩二さんに見せたら……どうなる、かな?って」
 その台詞に、秀也が驚いて目を見開いた。
 きっと秀也の頭の中には、あちらの修羅場が浮かんだのだろう。その秀麗な顔が即座に歪められたのだ。
「優司……質が悪いぞ、それは」
「そうかな?」
 今の心の奥底に浮かんだ感情はきっと秀也には知られてしまう。
 穏やかに見せている表層とは裏腹に心の奥に澱む負の感情。
 普段は意識していかなったけれど、今日は秀也の力を試すように動いてしまう。
 判って欲しい。
 こんな写真一枚で、揺らいでしまう自分の心を。
 そして。
 秀也はそんな優司の想いを違えることなど無い。
 秀也の手が伸びて、くしゃりと優司の髪を掴んだ。その手があやすように動く。
 そんな子供扱いは好きではなかったけれど、これは秀也が気付いてくれた証拠なのだと、優司は黙って受け入れていた。


「本当に破らなくて良いのか?」
 その瞳が悩んでいるくらいはさすがに気付くから、だからこれだけはと、はっきりと頷いた。
「思い出だから。今は……私の元にいてくれるし。それに……雅人さんとよりを戻すなんて事があったら、秀也、浩二さんに殺されるかも」
 その修羅場が簡単に想像できて、優司は思わず顔を顰めていた。
「殺されるなんて……」
 秀也も最初は、まさか、と笑い飛ばそうとしていたようだったが、数瞬後むうっと顰められた。
 そんな表情のまま、お互いふっと顔を見合わせた。
「……やっぱ、破くか?」
 どちらからともなく、そんな言葉を呟きあっていた。


 結局破くのはやめて、二人は壁に背を預けて寄り添うようにその写真を眺めていた。
「……雅人との出会いは、大学2年の時だったんだ」
 秀也が懐かしそうに話し始めたのは、優司が聞きたいけれど聞かない方が良いだろうか、という気持ちを持て余していたときだった。
「……バレた?」
 知ってはいても隠していた気持ちを知られることは恥ずかしいと、優司はじとっと上目遣いに窺う。
「バレないって思う方が珍しいって……何回言ったら判るのかなあ、優司は」 
 折り曲げた人差し指の背を口元にあてて笑いを堪える秀也に、優司はぷうっと頬を膨らませた。
 何度も言われていることなのに、どうしても同じ反応をしてしまうのは、よっぽど自分が単純なのだろうか?
 そんなことをはっきり思い知らされるようで、やはり悔しいのだ。
「怒るなって」
 言葉とともに吐息が頬をくすぐる。
「怒っていない」
 くすぐったさに身を捩る優司の肩に回された腕が、きつく優司を捉えていた。
「いつかは話をしなきゃ、と思っていたから……話すいい機会だと思うし」
 ふうっと吐き出された吐息を合図にして、秀也は過去の出来事を優司に話し始めた。



「君さあ、バイトしない?」
 バイト募集の掲示板の前で物色していた秀也はいきなり呼びかけられた。
 そのためにここに立っているのだからバイトしたいのは判りきったことだが、いきなりの馴れ馴れしさに胡散臭げにその男を見つめ返した。
 と。
 一瞬、言葉を失った。
 男、だよな。
 少なくとも話しかけられた声音は男だった。背もひどく高く、決して低くない秀也でも僅かに見上げるようになる。
 だがその顔は、その辺のけばけばしい女達よりも自然な美しさを持っていた。
 いわゆる美人と呼んでもおかしくない風貌は、女と見間違えるものでもない。
 少しきつい雰囲気を与える瞳以外は、柔らかな表情。
「夜の仕事……なんだけど。君ならうまくいくと思うよ」
 しばし呆然と見つめていたが、その言葉に唖然とする。
「夜の?」
 すぐに警戒が露わになり、相手を見つめる瞳が剣呑さを増す。
 それは……秀也が相手を知ろうとする時の表情だった。
 だが、相手がそれを知ろう筈もない。
「ああ。ホストなんだ、女性に夢を売る仕事。君の容姿といい、人当たりの良いところといい、ぴったりだと思うけど。それに先日20歳になったんだよね、笹木秀也くん」
 どうやら適当に声をかけたわけではなさそうで、彼の心に秀也を嘲るような感情は感じられなかった。
 人を騙そうとする人間に共通して現れる嘲笑の感情は、秀也をもっとも不快にさせるものだ。ところが、今の彼にはそんなところは一つもなかった。
 それよりも、困惑の感情が微かに感じられたのだ。
「どうして、オレを知っているんです?」
 容姿についてはかなりの線をいっていると自覚していた。それだけなら、見た目だけで判断できるだろう。
 だが、人当たりがいいという言葉。そして名前。
 どこでそれを聞いたのか?
 だいたい、秀也はその男のことを知らなかった。
「オレは明石雅人。三年で同じ学部なんだけど?」
 知らないと首を振れば、意外そうな顔をされた。
「これでも結構有名人なんだけどなあ。歩けば後ろに女性の列ができるって」
 確かに言われてみればモテそうだとは思う。が、それを自慢げに言う奴も初めてだと、秀也は彼を見据えていた。
 それに、それでは知っているという問いの答えにはなっていない。
「もしかして、オレ睨まれている?」
 睨んでいるのは確かなのだが、堪えていそうにない彼を見ていると、そんなことを追求するのもどうでも良くなってくる。
 秀也は一つため息をつくと、再度雅人を見返した。
「すみませんけど、お断りします。そういうバイトはしたいとは思いませんので」
「そう?君なら、結構人気でそうなのに」
「……人と話をするのは苦手なんです」
 高校の時までは。
 幾分自嘲気味に歪めた口元をすぐさま元に戻して、秀也はそれ以上の会話を断ち切るように頭を下げる。
「失礼します」
 去っていく間も背後にずっと視線を感じていた。
 ……何を困っているのだろう?
 彼が本気で秀也を誘ったのだとは判っているが、そんなバイトをしたいとは思わなかった。やはり夜の仕事というものにはうさんくささを感じる。たとえ、彼にそんな意図はないにしても。
 だが、彼の感情は常に困惑が混じっていた。
 それが、気になった。

 あれ以来、よく雅人を見かけるようになった。
 いや、気付くようになったと言うべきか。
 顔はともかく、それ以外ではごく普通の学生の姿で、いつもたくさんの友人達に囲まれていた。
 そんなとき秀也の方はたいてい一人で行動しているから、ひどく疎外感を味わう。
 自然な笑みに周りの人達もつられているのが判る。
 羨ましい。
 ふと思った。
 秀也は、人とつきあうためには壁を作らなければならなかった。
 コントロールする術をはっきりと持たなかった子供の頃は、他人の感情に引きずられて感情がいつも不安定だったのだ。
 そのせいで、同じ子供や大人に気味悪がれた。精神病だとかおかしいとか、本人を前にして言われたこともある。親すらもそんな秀也を持て余していたくらいで。
 そうだろう。いきなり怒り出したり、泣いたりする子供に愛らしさなどかけらもない。今なら、そう思える。
 だから秀也はいつも孤独だった。だが、それが幸いしたのだ。
 人が離れていれば、自分は保てる。
 まず、それを覚えた。それが小学生の頃。
 ”協調性がない”
 ”団体行動ができない”
 通知票に書かれた文句はいつも同じ。
 それを変えようとも思わなかったのは、本能がそれでいいと言っていたからだ。
 中学もそれで何とか過ごし、そして高校に行き始めた頃。
 秀也は自分の力がコントロールできることに気がついた。
 今まで、他人を拒絶することで壁を作っていたものを、心の中に作ることに成功したのだ。感情を読みたければ、その壁を薄くすればいいということも覚えた。
 そうすれば外見上は普通に接することができるようになったから。
 それは格段の進歩だった。
 だが。
 日増しに明るくなって人付き合いができるようになった秀也ではあったけれど、ずっと人を拒絶してきたから、どこかぎこちなさがあって。
 大学に入っても未だに僅かな友人しかいない。
 何より、一人暮らしを始めた高校半ばからずっと、親とほとんど会っていない。
 だから、今の秀也を知らない。知ろうともしない。用件は電話だけですまし、どこの大学に行くにしてもノータッチだった。
 たぶん親は知っていた。
 常に秀也とともにいたからこそ、知り得たのだろう。
 そして……彼らの戸惑いを判ってしまう秀也だから……会いたくなかったのだ。



 バイトが決まらない秀也は金銭的な関係から、お昼はたいてい学食だった。
 安い上に、ここの学食は結構おいしいからだ。
 ただ今日は、午前中にすることが長引いて、遅い昼食になってしまった。
 閑散としてきた学食の窓際のテーブルを陣取って、ぼんやりと外を見つめる。
 心を楽にして、何も考えないようにして。
 視界に入るのは、風景を切り取ったような写真のような景色。
 そこには人の感情も何もなかった。
 ただ、切り取られた風景。
 と。
「笹木くん。ね、バイト決まった?」
 がたりと音のした隣の椅子に、びくりと体を震わせた。
 その声に聞き覚えのある秀也は慌てて、心の壁を作り直す。まだ常時作り続けることは無理だったから、時折そうやって心を解放していた。
 その隙をつかれた。
「あ、ごめん。迷惑だった?」
 途端に立ち上がろうとする彼を止めたのはなぜだったのだろう?
 掴んだ手から、お互いの狼狽が伝わる。
 彼の困惑ぶりがいっそう酷かったから、か?
 無防備状態だった心にはっきりと伝わったその困惑は、明らかに非常時を示していた。いや……。
「疲れているように見えますけれど」
 目線で空いている席を示す。
「あ、ああ……ありがとう」
 座り込んだ途端に突っ伏した彼は、その整った顔立ち故に目立ってしまう隈さえ作っていたのだから。
「う……ん……。やっぱ……眠いなあ……」
 途切れがちな言葉が弱く聞こえる。
 その弱音もさることながら、そう時が経たない内に彼の肩が規則正しく上下しだしたときにはさすがに驚きを隠せなかった。
 そんなにも疲れていたという事実。こんなほとんど何も知らない他人の傍らで無防備に寝てしまうほどに。
 僅かに動いた頭のせいで長目の髪がさらりと肩から落ちる。
 染めているわけではないだろうに、茶がかった髪が絹糸のように細い。
 キレイだと思ったのは秀也だけではないだろう。
 秀也はしばらくそんな雅人を見続けていた。
 もう授業はないから、放っといて帰っても良いような気はする。だが、今の彼を放っておくこともできないと、言う気もする。
 なんでそんなにも困っているのだろうか?
 やはりホストだというバイトの絡みなのだろうか?
 それともプライベート?
 ふと気がつくとそんなことを考えていることに気付いて、秀也は苦笑を浮かべた。
 もう長いこと他人の事なんかに構っている暇なんてなかったというのに。
 彼のことは気になった。
 彼の性格が穏やかなものであったからだと、結論づけた秀也は結局そのまま雅人をそこに寝かせた。
 帰ったにしてもすることなどないのだから。
 未だにみつからないバイトに、そろそろ本腰を入れなければと思ってはいたのだが、雅人を見ているとそんなことが二の次になるのだ。

「ん……」
 30分ほど経った頃だっただろうか?
 ようやく雅人が目を覚ましたのか微かに声を漏らして身を捩った。
 秀也は読んでいた本をぱたりと閉じて、その様子を窺う。
「んあぁぁ」
 手を天に伸ばしてのびをした雅人が口を開けたまま、はたっと止まった。
 視線がゆるゆると秀也を捕らえる。
「……オレ……寝たのか?」
 呆然と問いかける雅人に秀也はおかしそうに喉を鳴らした。
「座って突っ伏したらいきなり、です。随分と疲れているようですね」
「あ、まあ……すまなかったな。放っておいてくれても良かったのに」
「このまま放っておいて、財布でも抜かれていたらオレの責任になりそうですから」
 心配したとはとても言えなくて、つっけんどんにそんな言い訳をしてしまう。
 これだから……嫌われるんだよな。
 その内容をもうちょっと考えれば良かったといつも後悔する。だが、何せ喋らずに過ごした時間が多すぎて、ボキャブラリが少なすぎるのだ。
 いざという時に言葉がでない。
 だが、雅人は機嫌を悪くするどころが、楽しそうに笑ったのだ。
「やっぱり、笹木くんは優しいんだなあ」
「え?」
 どこが?
 思わず返した視線は、やっぱり笑みで返される。先ほどより少しだけ悪戯っぽい笑みでだ。
「つまり、オレの財布の心配をしてくれたわけだろ。普通だったら、他人が寝てしまったら放っておくだろ?」
「あ、それは……」
 狼狽して、思わずひいた上半身に雅人が迫ってくる。
「誤魔化すのは下手みたいだな。それに話し下手なところがある。人付き合いがいいってのは、見た目だけなのかな?」
「……」
 全てが図星で返す言葉が出ない。
「ほら、そうやって驚くと返事ができなくなるだろう?」
 くつくつと笑う。
 それがまた嫌みのない笑いで、緊張させられているのに秀也の警戒心を解きほぐす。
 だから、つい……言っていた。
「何をそんなに困るようなことがあるんです?」
 途端に雅人の顔が強張って、その目が細められる。
 しまったっ!
 心の中で叫んでももう遅い。
「ぼんやりとしているかと思ったら、結構鋭いところもあるんだ?」
 さすがに読まれているなどとは普通は考えないから、雅人の返答はそんなものであったが、秀也は気を引き締めていた。
 一度が二度になって。
 それが何度も繰り返されると、人は不審がるのだ。
 あまりに聡い秀也に。
「……目の下に隈までつくって、座った途端に寝るとなれば……心配事でもあったのかなっと思っただけで」
 幸いにして今回は外見上の特徴があったから、それをついてみる。
 それに雅人も強張った表情を緩めた。
「あはは……そういやあ、そうだな」
 あまり深くは考えないのかもしれない。
 秀也は内心ほっと安堵のため息をついていた。
「まあ、困っているといえばさ、バイトの件なんだよ。ね、バイトしない?」
「だから……それはしませんって」
 バイトにまつわることだとは気付いていたが、相談に乗るわけでもないし。なにより、バイトとなると二の足を踏む。
「でも、まだ決まっていないんだろ?この時期って、だいたいのバイト先って求人が終わっているだろ?」
 ニヤリと笑うその口元に目を奪われる。
 この人はこんな困ったときでも楽しそうだな、と。
「じゃあさ、1週間だけってのどう?最初は接客無しでいいから。雑用係ってことで」
 嘘ではない。
 だけど……。
 秀也はやはり首を振っていた。
「オレには無理です。じゃ、そろそろ用事があるんで」
 これ以上その話をする気にはならない秀也は、振り切るように立ち上がった。
 引き留められるかと思ったが、雅人は、ああそうか、と立ち去る秀也に手を振っている。
 どうしてこの人は、こうあっけらかんとしているのだろう?
 ちらりと窺うように見つめた先で、その困惑の度合いが前より酷くなっているというのに。


 それからも一日に一回は顔を合わせるのが恒例のようになっていた。もっとも会うのはたいてい学食で、空いていようが空いていまいが雅人は秀也の隣にやってきて、一緒に食事をしたり、あの時のように寝てしまったりする。
 顔だけは、十人並みどころが百人並みだと女性達が流布するだけの二人が揃っているのだから、秀也にしてみれば、女性達から向けられる突き刺さるような視線がいたたまれない。
 ただ、昔なら神経を逆なでするその視線達が、昔ほどきついものではないなと気付いていた。
 その視線の半分が雅人に向けられているもので、しかも子供のように無邪気に寝ている彼に向けられるものはたいてい、”そっと見てみたい”という穏やかなものなのだ。
 それに感化されているのか、秀也に向けられる視線もおしなべて穏やかだ。
 それも雅人のせいだろうと思っていた。
「明石さんに向けられる視線って好意的なものが多いですよね」
 下手な勘ぐりをされないように言葉を選んで問いかければ。
「笹木くんもだろ?最近、オレの人気率が落ちてきているって聞いたよ。まあ、不動の一位は変わらないらしいけれど」
 きっと親しくしている女性からの情報だろうが、そのにやけた視線が気になって、目を眇める。
「何か?」
「笹木くんは2位だって。最近、急激にファンが増えたらしいよ。優しそうで素敵ってのが多いらしい」
「え?」
 秀也はぽかんと口を開いて、雅人を見据えた。
「何だ、気付いていないのか?」
「だって」
 冷たい。
 そう言われ続けてきたオレが優しそう?
 人付き合いはこなしているのだが、上辺だけのつきあいにみな気付いてしまうのか、秀也の印象は冷たいが多かったのだ。
「笹木くん、前より表情が軟らかくなっている」
 そのせいだよ、と笑って言う雅人に、秀也はまさかと反論しかけて口ごもる。
 そのタイミングを計ったかのように降ってきた言葉に、絶句したのだと言った方が正しい。
「笹木くん、今度コンパに来ないか?」
 雅人に向けられたものなら何度でも聞いたその台詞を、自分に向けていう相手がいるなんて。
 一年初期の頃ならこの顔目当てにいろいろと来ていた人達も、そればっかりは、と断り続ける秀也に愛想をつかして来なくなっていたというのに。
 見上げれば、よく見知った同じ学部の男達。
 過去の噂を知らないはずはない。
「相手のメンバーが揃わなくて困っていたけど笹木くんが来てくれたら、きっとみんな集まるからな」
「それってオレは餌?」
 思わずついて出た秀也の言葉に、彼らが笑いながら大きく頷く。
「その代わり、飲み代はタダにするから」
 屈託のない笑顔。
 少なくとも彼らの感情は全て本心だと伝えてくる。
 秀也が餌だとあっけらかんに言う彼らの言葉にうれしくなって、秀也は頷いていた。
「いいよ」
 言ってから、自分が信じられなかった。
 思わず視線を雅人に戻すと、ばっちりと目が合う。
「ほらな」
 どうだと言わんばかりにウインクする雅人に、辺りから嬌声が沸き起こる。
 この人って……いったいどういう人なんだろう?
 興味がさらにわき起こっていた。


 数日後、秀也に金銭的な問題が発生した。
 あろうことか、定期を落としてしまったのだ。
 学生用コーポの安い場所を探したために、一駅分は離れてしまった自宅と大学。
 その定期代を足しても安い家賃にひかれてすでに1年以上住んでいる。
 だが、それも定期があればこそだ。改めて購入するためのお金は出せないほどではなかったけれど、実入りの少ない日切りのバイトで稼いでいる秀也にとっては痛い出費だった。
 だからと言って、親に泣きつくことだけはしたくなかった。
 連絡をほとんど取らないとはいえ、見限られた訳ではない。ただ接した方がどうしてもぎこちなくなるから、親もどうして良いか判らないのだと秀也にははっきりと判ってしまう。
 高校で独立したのも秀也から言い出したことだった。
 両親と妹。
 決して嫌いになれない人達だから、秀也は何も相談したくなかった。
 だが。
「う?。しまった、これの支払いを忘れていた」
 狙ったように届いたクレジットカードの請求書。
 先月買ったビデオデッキの代金が今月払いだったことをしっかりと忘れていた。その今月分がちょうど定期代に消えた分。
 これが引き落とされるとなると、かなりの節制を覚悟しなければならない。
 仕送りがくるまでのたかが2週間ほどのことだが、結構切実だ。
「バイトか……」
 そう呟いた途端に雅人の顔が思い浮かぶ。
 嫌だとは思ったけれど、別に彼が悪いわけではない。
 話して気持ちよいと思える人物はそうそういない。問題はそのバイト先なのだ。
 人と触れることを嫌っていた秀也にとって、ホストなど絶対に無理だと思っていた場所。
 だが。
『じゃあさ、1週間だけってのどう?最初は接客無しでいいから。雑用係ってことで』
 雑用係なら……何とかなるか?
 安易に考えてしまったのは、計算の結果、残り2週間を2千円で過ごすしかないという結論に至ったからだ。
 背に腹は代えられない。
 秀也は大きく吐息をつくと、押しつけられるように受け取っていた雅人の電話番号を引っ張り出していた。


 先日よりさらに疲れた風貌の雅人が明らかに安堵したように笑みを零す。
 だがその笑みもどこか力がない。
「助かったよ。どうしようかと思っていたんだ」
 その声音にも力が無くて、誰がみてもその体調の悪さが窺えた。
 いったいどうしてそこまで疲れているのか?
 前にも感じた困惑に疲労感が被さり、酷く暗い感じがする。
「疲れているようですけれど……いったいどうしたんですか?」
「ああ、ちょっと忙しくて」
 それでバイトが欲しかった。
 そこまでは言葉に出さなかったが、その表情はありありとそれを伝えてくる。
「バイトに入って貰えるんだから……教えるけどね。実は、ライバル店ができてね。そこにごっそりと引き抜かれちまったんだよ……。人が足りない、客もとられる……。最悪な状態で……」
 深いため息に、その悲惨さが伝わってくる。
「でも、どうして明石さんはそっちに移らなかったんです?」
 引き抜かれるって事は条件が良いって事だから、こんな目に遭ってまでどうしてこの人は移らなかったんだろう?
 酷く疲れた様子の明石に、疑問が募る。
「オレ、マスターに恩があるんだ。……質の悪い奴らに絡まれている所を助けて貰ったんだ。最初はその時にスカウトされたままに働いていたんだけど……なんて言うか店の雰囲気も好きになって、つぶしたくないって思ってしまって。店が苦しいときに自分だけ楽な方に行くってのも、嫌だったし」
 小さく笑うその影に苦悩が見えるって言うのに、それが嫌みでない。
 その判断が渋々と下したもではなくて、性格的にそうするしかない、って感じで。
 秀也にしてみれば、そうそうお目にかかれないほど、優しい性格だと思わせる人だった。
「でも、……さすがに人手が足りないってのはオレにもどうしようもなくってさ。それでバイトでもしてくれそうな人、探していたんだ」
「オレ……できるかな?」
 こういう人が働く場所なら……という気がどんどんと大きくは、なる。
 だが、これは賭けだという気もしている。
 雑多な思惑が吹き出すそういう場所で、自分のコントロールがどこまできくのか、という不安があるのだ。
 それでも。
 漏れるため息はせっぱ詰まった現状に、諦めが含まれていた。
「笹木君は、顔はOK。態度もまあまあ。ちょっとおとなしめかなあって思うけれど、それが良いって人もいるし。とにかくやってみてよ」
 それに秀也はこくりと頷いた。



「秀、こっちのテーブル、オレと来て」
 雑用だって言ったじゃないかっ!!
 という、内心の憤懣はともかく、顔だけには笑顔を貼り付ける。
「いらっしゃいませ」
「新人なんだ」
「きゃあ、可愛いっ」
 どう見ても40はいっているような女性が、可愛い声を上げる様は異様だ。
 ひくひくっと引きつりそうになる頬を、落ちてきた前髪を掻き上げるふりをして隠す。
 店についていきなり着替えさせれられて。
 慣れない名前だと反応が鈍るからと、秀という名で呼ばれることになって。
 早速、雅人について接客の練習どころかいきなりの本番だ。
 こういう店で飲むことなど今までなかっから、何がいったいどうすればいいのか、さっぱり判らない。
「大人しいのね、初々しくって良いわあ」
 誰が!
 逃げたいけれど、がっちりと両脇をおばさま方に占められて、身動きもとれない。
「雅人」
 なおかつ、カウンターの方から呼びかけられて雅人は行ってしまう。
「じゃ、秀、頼むね」
 そんな言葉で任せられて、秀也は内心どころか全身に冷や汗が流れた。
 酒に関しては、それほど弱くない。
 だが、人と接することを極力さけてきたせいで、いったいどうしたらいいのか判らない。
「無口なのね」
 ぽつりと言われた瞬間に、しまった、と素直に顔が歪む。
 途端に相手が機嫌を損ねたのが判ってしまった。
 これはまずい、と慌てて、愛想笑いを浮かべる。
 一応、バイトとして入って……とりあえず事情を話して雅人に前借りしている手前、ここで失敗するわけにはいかないのだ。
 秀也は、おそるおそる彼女たちが何を欲しているのか知るために、力の触手を伸ばしてみた。
 今までは、流されないためにがちがちにガードをしていたのだ。
 途端に……何かを欲して止まないほどの飢えを感じた。
 流されそうになって、慌てて心をガードする。
 飢え?
 それが単純な食に対する物ではないと言うくらいは判る。
 秀也は、すうっと息を吸い込むと、何もかもを吹っ切るように、にっこりと微笑んだ。
「なんだかお疲れのようですけれど?」
 さりげなく。
 少しだけ窺うように言葉をかける。
「私でお役に立てることができれば良いんですが」
 その飢えには心当たりがあったから、秀也は迷わずそう言っていた。
 

「すっごいな、お前」
 何もかもが終わってほっと一息つけたのは、24時間営業の食堂でご飯にありつけたときだった。
 何でもない塩鮭定食がこんなにおいしいなんて。
 心が和むというのはこういう時なのだろうか?
 金が足りなくなると判って質素な食生活に陥っていたから、食べられる幸せに浸っていた時だった。
 雅人がしみじみと話しかけてきたのは。
 薄汚れたテーブルに向かい合って、雅人も秀也と同じく塩鮭定食を食べている。
「何がです?」
 もごもごと頬張ったご飯を飲み下しながら、問い返す。
「初めてで、あそこまで客の心をがっちり掴むなんてさ。なんていうか……オレの立場が無かったって言うか」
 そう言って苦笑を浮かべる雅人に、秀也は拙いと顔を顰めた。
 やりすぎたのかもしれない。
 そう思わせるほどに、最後の方は秀也の土壇場だったのだ。
「あ……すみません……」
 もしかしたらプライドを傷つけたのかもしれない。
 店で始めて知った、NO.1としての雅人。
 その彼をも差し置いて、秀はあちらこちらのテーブルからお呼びがかかったのだ。
 それは、ただ、最初の女性客の声高な賛辞の声が店中に響いてしまったからだ。
「あの人ってさ、いつ来ても小難しい顔して、何が面白くないんだが、始終イライラしていたんだよ。まあ、そのストレス解消に来てんだろうけどさ、最近、それも酷くなって手を焼いていたってのが正直なところなのに」
 彼女は飢えていた。
 どこにいても、誰も判ってくれないと、全身で訴えていた。
 彼女は寂しかったのだ。
 上辺だけでしかつきあってくれない友人、同僚……そして、今つきあっているという相手。
 和む筈の場が、なごみの場で無くなったとき、心のストレスは耐え難い物になる。
 それを秀也は突いただけ。
 彼女の話を聞き、彼女が欲しがったときに言葉をかけただけ。
 そのタイミングを知るために彼女の感情を読んだから、彼女にしてみれば、満足するものであっただろう。
 彼女は秀也によって癒された。
 それは事実なのだが。
「まさか、あの人があんなにも言いふらしてくれるとは思いませんでした」
 心が解放された彼女は、秀也の事を凄いと絶賛し、別の店に行っているという友人達にまで電話で連絡を取って呼び寄せたのだ。
 その結果、秀也の関わった売り上げは、新人にしては破格の物。
「久しぶりに売り上げもアップ。マスターの喜ぶ顔も見られたし」
 予想外に雅人は秀也に株を取られたことなど気にしていないようで、ホッとする。
 と、安堵したせいか、すっかりと忘れていた文句が脳裏に甦った。
「そういえば……あれのどこが雑用係なんです?」
「いやあ、忙しくってさ……あはは」
 などと意味不明な言い訳で誤魔化そうとする雅人に、秀也はわざとらしくため息をついて見せた。
「でも、やっぱり笹木君はホストがあうと思うよ。明日からもよろしくな」
「……」
 確信犯。
 今ならはっきりと判る雅人の魂胆が見え隠れして、秀也は今度は大仰とも言えるほどの深いため息をつくしか無かった。
 


 慣れっていうのは恐ろしい。
 気がつけば、バイトを初めて一ヶ月。
 すっかりホストという仕事に慣れてしまい、時間がくればしゃきっと目が覚めてしまっている自分に気がついて、苦笑を浮かべる。
 金の問題はすっかりカタがついて、別にこんなバイトをする必要は無いのだ。
 だが、秀也の心の中には辞めようという気が全く起きなかった。
 気がつけば、雅人と二人で1、2位を争う立場。
 上昇志向の強い人間は他店に引き抜かれて出て行った店だから、新人の秀也がそんな地位にあっても、それほど風辺りは強くない。
 そういう居心地の良さも手伝っていた。
 ただ、夜の仕事をこなすせいで、反動のように眠くなる授業は、かろうじて切り抜けてはいるがそろそろヤバいかな、とも思う。
 今も、眠い目を擦りながら、聞きそびれた授業の資料を友人に返しに来たところだった。
 と。
 渡り廊下を渡ろうとして、その眼下に雅人を見つけた。
 ふわりと風が悪戯のように雅人の髪を嬲っていく。その姿は本当に絵になっている。
 秀也は声をかけようと思ったのだが、すんでの所でその言葉を飲み込んだ。
「あれは……」
 雅人の影に隠れるようになっていたせいで最初は気付かなかったのだが、雅人は誰かと話し込んでいた。
 風ではためくフレアのスカートが似合う女の子。
 何だ……彼女がいるんだ。
 いつも一人でいるか取り巻きが群がっているかしか見ていなかったから、どんな相手だろうと興味が湧いた。
 ぱっと見た感じが、雅人の取り巻き達と比べて幼く感じたからだ。
 だが、じっと見ているとちらりと見えた雅人の顔がひどく険しいように感じた。
 対する彼女の顔も然り。
「喧嘩?」
 どちらかというと穏やかな雰囲気をいつも漂わせている雅人には似合わない攻撃的な感情を遠く離れていても感じてしまう。
 な、んで?
 疑問に思うまもなく、秀也は走り出していた。
 駄目だっ!!
 咄嗟にそう思ったから、一番近い階段を駆け下り、雅人達がいる場所へと躍り出る。
「明石さんっ!」
 その声に、振り上げた手がびくりと止まる。
 驚いたように振り向いた雅人の目が驚愕のままに見開かれた。それを確認しながら、秀也は荒れる息をなんとか整えながら、駆け寄ってその手を押さえた。
「駄目ですって……」
 何が起きたかなんて判らない。
 ただ、雅人の感情がひどく荒ぶっていて、混乱を来していると言うことだけは判ったから。
「君もさ……行って……」
 ちらりと窺う先で、般若のように険しい顔つきをしていた彼女が速攻で踵を返していた。
 荒々しい怒り。
 信じられないと相手を罵倒している心。
 攻撃的な心は、その幼さを持った彼女の外見からは想像できない。
 だけど……。
 秀也はちらりと力を抜いて立ちつくす雅人を見やった。
 あれが彼女なのだ。
 きっと雅人はそれを見抜けていない。雅人の優しさが判らない女なのだ。
 彼女が何を言ったのかまでは聞こえなかったけれど、裏切られたと、触れた所から伝わる雅人の心が訴える。
 とにかく混乱している彼を落ち着かせなければと、秀也はゆっくりと呼びかけた。
「明石さん……」
 ぎりっと音がそうなほどに、その唇が噛みしめられていた。
 色を失った顔が、辛そうに歪む。
 本当なら、荒れて昂ぶった心を鎮めるために行動をさせた方がいいとは判っている。だが、それで傷つくのは雅人なのだ。
 因果応報。
 相手を傷つければ、結局自分に返ってくる。彼女とて、いつかは報いを受けるだろう。
 あんな人のために、これ以上雅人に傷ついて欲しくなかった。
「すまないな……」
 絞り出すように言われた言葉が秀也の胸を打つ。
 誰の心にも隠された鬼の心。
 それに触れてしまったとき、自身も鬼になるか、それとも許容して諦めるか……それは、時と場合によるけれど、雅人は危うく鬼になりかけた。
 それを止められたことにホッとする。
 この人は、いつも穏やかであって欲しいと思うから。
 傍にいてホッとするような
「今日は……仕事もないし……、二人で飲みませんか?」
 何事もなかったように笑いかけると、雅人は僅かに目を見開いて、そして苦笑を浮かべた。


 その後……何が起こるかなんて何も考えていなかった。
 ただ、傷ついたこの人をいやしてやりたいと、ただそれだけを考えていただけ。


 二股をかけられていたんだと言う。
 それを聞いて、雅人ほどの男を二股にかける彼女の方が凄いと思ったが、その言い訳も相当な物だった。
「一緒に歩くには見栄えがいいからつきあっているのに、最近は一緒に歩いてくれなかった」
 って。
 なんだ、それは……。
 さすがに雅人には同情するが、そんな彼女を選んだ雅人も雅人だとは思う。
 秀也にしてみれば、女性とつきあうなんて面倒なことだから。
 隠されていた裏の裏の感情まで見透かしてしまう秀也にとって、どんな女性でもアラが見えてしまう。
 見えてしまうとつきあいきれない。
「でもさ……可愛いって思ったんだよぉ。話し方も優しい感じがしてさあ……」
 酔っぱらいってのは……。
 崩れ落ちるように畳に寝っ転がって、天井を見上げる雅人は、さっきから同じ事を何度も繰り返す。
 飲んでもここまで溺れた事はなかった雅人の初めてみる醜態に、秀也は困っていた。
 秀也が入ってだいぶん楽になったとはいえ、やはりまだまだ雅人は無理していたのだろう。
 肉体的な疲れと精神的なショックが重なって、常以上にアルコールの周りが速い。
「明石さん……、そろそろ寝てくださいよ」
 いい加減愚痴を聞くのも限界だと、雅人を引っ張り上げる。
 背の高い雅人の体を支えるには、秀也の力は足りなかった。
 数歩歩いた途端に、ぐらりとバランスを崩す。
「うわっ」
 慌てて伸ばしてついた手を軸に体がぐるりと反転し、軟体動物とかした雅人に乗っかかれる形になった。
 これが……重い。
「ちょっ、ちょっとっ!」
 変な風にねじってしまったのか、体の下敷きになった右手がじくじくと痛む。
 左手一本でどかすには雅人はちょっと重かった。
「明石さんってば。正気に戻ってっ」
「う、んん」
 数度目の呼びかけで、明石がぼんやりと瞼を開けた。
 どこか虚ろな目が、秀也を捉える。
「明石さ?ん。避けてくださいって」
 よかった、とほっと一息ついたときだった。
「ゆりぃ……」
 そんな言葉が聞こえた途端、がっしりと頭を抱きしめられ、そして。
「んっんんっ!」
 完全に塞がれた唇。その痛いくらいに押し当てられた柔らかな唇の相手を凝視する。
 近すぎて、焦点が合わない。
 じたばたと手足をばたつかせるのに、雅人の体はよりいっそうきつく抱きしめてくる。
 勘違い、しているのかよっ。
 酔っぱらった雅人は、先ほどの呼びかけからして彼女と間違えているのだ。
 だいたい、サイズも顔つきも違うだろうにっ。
 ジタバタと藻掻くにもかかわらず、区別のついていない酔っぱらいは、たいそうな力を持っていた。
 しかも啄むようなキスの後にはさらに深く重ねてくる。
 その絶妙なタイミングには息を飲むほどで、男相手だというのに、ぞくりと背筋に震えが走る。
 ヤバっ!
 頭の中に危険信号が幾度も瞬いた。
 自分が感じてしまっていると気付いているから、焦りが募る。しかも塞がれているせいで呼吸もままならない。
 焦りで藻掻くせいで余計に酸素を欲している体が、苦しいと呻く。
 やっ……だ……。
 うねる波に飲まれそうになって、抗う手足から力が抜けるのだ。
「あ……明石さん……!」
 息苦しさに浮かんだ涙の滴がこめかみへと流れる。
 ようやく解放された口で何度も大きく息を吸い込んだ。だが、抗おうと身動ぐほどに、雅人が抱きしめる力はますますきつくなって、胸を圧迫される。そのせいで息苦しさは行こうに改善されなかった。
「や……め……」
 制止している声が聞こえているはずなのに、雅人の動きは止まらなかった。
 そんなにも……理性を失うほど酔っぱらっているのだろうか?
 ちらりと過ぎった疑問は、それを探るまもなく次の波にさらわれる。
 混乱する意識が、雅人の真意を探るのを邪魔して、余計に秀也を混乱させた。
 判るのは、愛おしいという気持ちだけ。
 それが誰に対するものなのか……。それすらも判らない。
「んっ、ひっ!」
 首筋に顔を埋められたと思った途端、ぞくりと背筋に電流が流れた。
 ちろちろと首筋から鎖骨にかけて生暖かい柔らかな物が探るように蠢く。
 そのたびに走る疼きが性的衝動を煽ってくれて、秀也はその顔を真っ赤に染めていた。
「ちょっ、ちょっと止めっ」
 ヤバいっ!
 信じられないことに、男、しかも酔っぱらって女と間違えているような男に与えられた刺激で、体が反応する。
「い、嫌だっ!」
 悪寒にも似た震えが全身を襲った。
 それが悪寒なら、何の問題は無いと思った。いや、問題はあるけれど、それはいい。だが、今の震えはっ!
 不意に漏れそうになる声を必死で歯を食いしばって堪える。
 だが、これ以上にないというほど密着した肌が、秀也の狼狽と震えを雅人に伝えているようで、秀也が感じてしまった事は全て伝わっているようだった。
 幾度も幾度も、同じ場所が刺激される。
 怖い。
 いつも柔和な感情で包まれた雅人から今伝わってくるのは、獣にも似た征服欲だ。
 ふっと喉から起こされた雅人の顔が秀也の歪んだ顔を真正面に見据える。
 捕らえて離すものかと、強い決意が込められた瞳が雅人の心を現していた。
「いいだろ……」
 女が聞けば、甘い蠱惑的な声音だと思うだろう。
 現に秀也とて一瞬そう思ったくらいだ。
 しかし。
「い、嫌だっ」
 そんな猫なで声で言われても、オレを女と間違えているような奴なんかにっ!
 オレを……あんな女なんかにっ!!
「どうして……。こんなに好きなのに……」
「だからっ、オレは彼女じゃないってっ……ひゃっ」
 不意にあらぬ所を握られて、びくりと背を仰け反らせた。
 な、何でっ!!
 絶対に女には無い器官をしっかりと握って、なおかつやわやわともみほぐす雅人に、秀也は驚きのあまりその手足はびくりとも動かない。
「明石……さん?」
 まさか……。
 その確信的な動き。
 何より、ぴたりと動きの止まった秀也に遠慮は無用とばかりにぐいっと体重を乗せてくる。
 気付いて……る?
 信じられないと、自分の思考を否定しようとしている秀也に、雅人の言葉が情け容赦なく届いた。
「ごめん……」
 先ほどの切羽詰まった感じは消えていて、消え入りそうな力のない声が耳に入ってきた。
 いや、これもせっぱ詰まっているというべきか。
 酔ってはいるのだろう。
 だが、その声には……先ほどまでの呂律の回らない様子は窺えない。
「明石さん……まさか……」
「君さ……優しいよな。オレ、今回の事でほんと……ショックで……。君がいなかったら何やってた判らない。自分がこんなに情けないとは思わなかった……。だけどさ、君がいてくれたから……。優しくて……たまんねーんだよ。君を見ていると……なんか、急にムラムラ来ちまって……抱きたくて……」
 オレを?
 そんな気配は今まで微塵にも感じられなかったというのに。
「気持ち悪いだろ。男が男に、なんて。だけどさ、なんか女なんて……って思ったら……。君の優しさが身に染みて……。気がついたら君は……その辺の女達より綺麗で優しくて……最高なんだよな。オレの好みだって思ったら……そしたら、我慢できなくなって……」
 そんなの理不尽だ。きっと酒の性で雅人の理性が吹っ飛んでいるから、こんな事になっているのだとは思う。
 オレも男で……彼も男で……。
 だけど……この人は人間としては好きな人で……。
 きっと自分の家族よりは心が安らげる場所で……。
 ふっと、今までの自分を思い出した。
 いつも一人で過ごしていた自分が、最近つきまとわれるのも悪くはないと思っていたことに。
 楽しくて、だからバイトの話も無下にはできなかったから……。
 もし自分が嫌だとはね除けたら、今までの関係ももう、終わり?
 終わり……なんて、嫌だっ!
 せっかく手に入れた場所。
 この人の傍なら……せっかくの暖かな場所……。
 今嫌がれば、きっとこの人は離れていってしまう。
 だけど、今は……離したくない、から……。
 離したく…ない……。
 秀也の体から、不意に力が抜けた。
「明石さん……今日だけ……なら……」
 雅人ならいい。
 それで彼が癒されるのなら。
 今は彼を失いたくない。
「ごめん……」
 互いに判っていたのだ。
 心にできた隙間を埋めたくて、利害の一致した互いの肌を求めただけだと。
 それが男同士だったというだけで。
「ごめん……」
「今は……」
 二人の声が重なって……。
 後はもう、互いの荒い息づかいだけが部屋に響いていた。




 ……結局そのまま秀也と雅人は一緒に住むことになった。
 今日だけと言った言葉は、結局なし崩しになってしまった。



「どうして、そんな気になったのか今でもよく判らない」
 秀也が呟くように言った言葉は、優司にははっきりと聞こえた。
 秀也は優しい。
 きつい事を言っていても、それがその人のためだと確信しているから。
 いつだって、人のためになるように考える。
 だからこそ、噂でしか聞いていないホストで一番だったという話も頷ける。
 秀也は雅人を守りたかったのだ。守りたいから……雅人の欲するままに迎え入れてしまったのだと。
 そして、そんな優しさも含めて優司は秀也が好きなのだ。
「いつまで一緒に暮らしたんだ?」
 後悔しているようなそんな声音に、話を逸らしたくなって優司は別の話題を引っ張り出した。
「え、ああ……会社に入るちょっと前。二月に部屋を見つけて、引っ越した。この部屋に」
 懐かしそうに周囲をぐるりと見渡して、くすりと笑みを零す。
「それまで暮らしていた部屋とは段違いに古くて、狭くて……最初は酷く違和感を感じたけれど、今ではそれも懐かしい思い出だな。今は、ここがオレの部屋だ」
「そうだよな。私が泊まりに来たときには、もうこの部屋で……」
 ふっと優司は口を閉ざし、そして思い浮かんだことをそのまま口にした。
「どうして……別居したんだ?」
 二月というその日付に、心当たりがあった。
 それは。
「優司と逢ったからだよ」
 間違いなく、それは入社前の研修があった月。
「えっと……それって?」
 覗き込むように言われて、秀也の秀麗な顔を間近に捉えてどきりと心臓が高鳴る。
「研修に行って、優司と逢って……帰ったら、すぐに雅人に部屋を出る話をしたんだ。その時には、もう雅人は大丈夫だとは判っていたし……。それからすぐに探してね」
「そんなの……雅人さんは何も言わなかったのか?」
 一緒に暮らして……いきなり別れを告げられたりしたら。
 優司は自分がそんな立場になった時を考えて、ぞくりと悪寒に身を震わした。
 そんなの、絶対に堪えられない……。
「雅人は、別に何も言わなかったよ。っていうか、そういう事を続けてしたのは、最初のうちだけで……その……思い出したかのようにしてはいたけれど……ね。そんなに甘いものではなかったから。一緒に暮らすって言うのは楽しかったけれどね」
「どうして……好きだったんじゃないのか?」
「オレ達は……本当の意味で好きあっていたって訳じゃなかったんだよ。お互いに支え合ってはいたけれど、それも二人が落ち着いたら、必要のないレベルの物で。で、まずオレが本当に必要な物を手に入れたから、なし崩し的に続いていた関係も終わったんだ」
「雅人さんにとって必要なモノは、浩二さんだったってこと?」
 きつい印象を与える浩二の表情が、雅人に向けられるときだけ甘くなる。
 反対に、雅人もまた然りだ。
「雅人は……あれで結構甘えたがりのところがあるから……浩二みたいにしっかりした人が傍にいる方がいいんだよ。オレではちょっと役不足」
 くすくすと笑うのは、二人の関係を想像してだろう。
 優司には読めない二人の心の関係を秀也は誰よりも知ることができるのだから。
「……もう……雅人さんと一緒にいたいとは……思わない?」
 ふっと口について出た言葉に、秀也は大きく目を見開いた。
 数秒まじまじと優司を見つめる。
 しまった……と思ってももう遅い。
 覆水盆に返らず、という言葉が一番合うのかなあ?。
 なんて頭が他のことを考えるほど、優司はこの場を逃げたくなって視線をうろうろと彷徨わせた。
「……ごめん……」
 それだけ言う。
 と、不意に唇を塞がれた。
「んっ!」
 見開いた視界いっぱいに秀也の顔があって、焦点が合わない。
「んんっ!!」
 いきなりで呼吸もままならず、じたばたと手足をさせていると、ようやく離してくれた。が、両頬はしっかりと両手で挟まれて逃げようがない。
「どの口がそんなことを言うのかな??」
 楽しそうな声音に、ひくっと息を飲む。
「あ、あのさ……」
「オレがどんなに優司の事を愛しているか判っているのに、そんなことを言う」
 憮然とその声に怒りすら含ませている秀也はそれだけ言うと、再度口づけてきた。
 今度は、もっと深い貪るような口づけ。
「ふっ……あっ……」
 きつく吸い上げられた舌を絡められ、前歯でやんわりと噛みつかれる。
 ぴりりと鋭い痛みとともに、背筋を流れるのは快感の刺激で、優司は抜き取ることもできない状態に、細めた目にうっすらと涙を浮かべていた。
「うっあ……」
 身動きできない舌先が秀也の口内で蹂躙される。
 そのたびに走る疼きに、咄嗟に掴んでいた両腕から少しずつ力が抜けていき、指先で引っかかっている状態にまでなっていた。
 堪らない。
 抱かれることにすっかり慣らされた体は、キスの刺激で堪らなく熱くなっていく。
 嬲られているのは舌先なのに、どんどんと熱が集まるのはもっとずっと下。
 下肢の付け根へずきずきと血が集まるのに気がついてしまう。
 そんな自分の変化を知られるのが恥ずかしくて、優司は身を捩って逃れようとするが、力の入らない手は、どんなに頑張っても秀也を避けることなどできなかった。、
 何よりも秀也は、そんな僅かな変化に優司より速く気付くのだ。
 背に回されていた手が、ゆっくりと背筋を降りていく。
 脇腹を通って、腰から前に回り、そして行き着く先はすでに熱くなってしまった股間。
 その手の動きを、実際に動くより先に想像してしまう。
 触れられるだけで弾けそうな刺激を感じてしまうのだ。
 それなのに、秀也の手は後少しのところで方向を変える。
「んっ……あっ……」
 大きく顔を仰け反らせた途端に、ようやく舌が解放された。
 その口から顎にかけて溢れた唾液がぬらぬらと電灯に照らされて光る。その濡れた顎に、再び秀也が吸い付いた。
「んんっ……」
 いまだ滴のようについている唾液を、丹念に舐めとる舌の動きに、新たな疼きが湧き起こる。
「愛してる」
 喉元から声が聞こえ、優司は潤んだ瞳を下へと向けた。
 見えるのは頭だけなのに、今秀也がどんな顔をしているのか想像ができる。
 かりっと、僅かに力を込められた歯が喉に食い込む。
「ぁぁあっ!」
 それだけのことなのに、どうしてこんなに感じるのだろう?
 優司は、堪らずに秀也の頭を掻き抱いた。
 触って欲しい、と願うほどにそこは熱く猛っている。
 まだキスだけなのに……どうしてこんな……。
 いつもより速いペースで熱くなる自身の体がコントロールできなくて、優司の頭は混乱していた。
 もう……堪らないっ!
 叫びたい。
 だが、なけなしの理性がそれは恥ずかしいと訴える。
「し、秀也……」
 喘ぐように呟くと、秀也がぴたりと動きを止めた。
「優司……愛している。雅人は結局は親友の域を出ない相手だった。だけど優司は違う。もし今優司がいなくなったら、オレは気が狂ってしまう。それだけ、オレは優司を……愛してる」
 耳から犯されてる。
 じっくりと染み渡る言葉は、脳を支配してとろけさせる。ぐちゃぐちゃになって真っ白になった頭から、最初に消え失せたのは理性という文字。
 恥ずかしいという気持ちが消え失せて、ただ、欲しい、と思う。
 秀也に愛されているのだから、それをもっと味わいたいと願う。
 だから。
「秀也……来て、欲しい……。頼む……早く……」
 強請っていた。
 いつもより激しく、欲しいのだと、訴える。
 欲しくて、堪らなくて、昂ぶった腰をすりつけて訴える。
「ゆ、うじ?」
 驚く秀也に向けた視線はもう潤んで先が見えない。
「私……変だから……鎮めてくれ……。秀也に愛されたくて……堪らない私を……。なんとかして……」
 理由なんてどうでも良い。
 秀也が欲しいと体が訴える。
「優司……話を聞いて……煽られたのか?」
 冷静な秀也がもどかしい。
「そう……かもしれないよ。雅人さんと秀也の昔を……想像してしまったから……。今はそうでないと判っていても……体が秀也を取り戻そうとしているみたいだ……」
「可愛いな……優司はいつも……素直な反応で」
 慣れた手つきではだけられた肌に、秀也の手の平が触れる。
 優しく物足りないほどな緩慢な動きに身動ぐと、不意にきりっと爪で軽く引っかけられた。
 途端に走る疼きに、喉の奥からくぐもった声が漏れる。
 ねっとりと絡みつくように胸の突起を舐め上げられ、四肢がびくんと硬直する。
 堪らない……。
 いつも以上に感じる体が、快感だけを脳に伝えて心を覆い尽くす。
「あ、……秀也……あふっ……ふっ……」
 するりと下肢を割った手の平が、焦らすように微かに触れては離れていった。
 もどかしい。
 もっと触れて欲しくて、堪らない。
 気がついたら、すり寄せるように腰を動かしていた。
「落ち着いてよ」
 そんな言葉は、右から左に通り抜ける。
 ただして欲しい。
 そんな優司の切羽詰まった状態は、優司のモノにてきめんに現れていて、秀也がごくりと唾を飲む。
「す、ごい……」
 そんな言葉を漏らすほど、優司のモノは猛りきっていて、先端からは熱い液が溢れ出ていた。
 そのぬめる液体を指で取るために触れただけで、優司のモノはびくりと大きく震えた。優司の手が秀也の背を掻き抱き、爪を立てる。
「っ……」
 小さな叫び声が聞こえて、きつく閉じていた瞼をほんの少し開けた。
 見えるのは微苦笑を浮かべた秀也の顔で、それだけでかあっと体が熱くなる。
 いい加減熱いのに、さらに熱くなる余裕があるというのか……。
 優司の脳は沸騰寸前だった。
 最初に入れられる時はいつも違和感を感じる。
 だが、それも僅かな時間だ。慣れた秀也は、優司の感じるところを確実に見つけて攻める。そうなれば、もう優司には縋り付いて喘ぐことしかできない。
「うっあぁぁ……」
 体の中からポイントを責め立てられれば、限界に達するのは早い。
 堪らず、吐き出した精がシーツを汚す。
「あぁぁぁぁ……っ……」
 快感の波に晒されて幾度も体が震え、そのたびに残っていた液が滲み出た。
 その震える先端に秀也が口づける。
「可愛いよ」
 呟く声に含まれる熱は、快感に震える優司の体にさらに熱を与える。
「……しゅーや……」
 掠れた声が部屋に静かに響き、秀也がそれに答えるかのように体を動かした。
 優司の膝の裏に手を入れて支え、高く掲げさせられた。足の間に体が入る。
「行くよ」
 短い言葉にこくりと頷く。
 途端に衝撃が来た。
 解されていたとはいえ、指より太いモノが入ってくる。
 みしみしと音がしそうなほどに体が拓かれるその痛みは、いつも変わりはない。
 無意識のうちに大きく息を吐いて、そして吸う。
 そのたびにずるずると中に押し入ってくるのは秀也のモノ。
 きつい、苦しい……。
 どうしても間隔が開きやすい二人だから、慣れるということは少ない。
 それでもいつかは奥まで達する。
「入った」
 ぐりっと押し込められるように腰を動かされる。
「あっはぁぁ」
 返事の変わりに喉から艶やかな嬌声が漏れた。
 後はもう判らない。
 一定のリズムで肌が打ち付けられる音がして。
 体が中からとろけていく。
「あっ……はあっ、あっ……んあっ……」
 ちらりと声が響くと思った優司だったが、それも一瞬のうちに消えていく。
 や、やだ……。
 訳もわからず心が叫ぶ。
 今までの自分ががらがらと音を立てて崩れていきそうで、その恐怖に目前のモノに縋り付くしかなかった。
 途端に、極限まで膨れあがった熱が弾ける。
「ん、んんんっ!」
 食いしばった歯の隙間から零れたうめき声がどこか遠くで聞こえた。
「優司……愛している……だから……ずっと一緒に……」
 そして、体の奥深く進入していた塊が弾ける。
「しゅーや……」
 ぽつりと零れた優司の口元は微かな笑みを浮かべていた。



 その日、一枚の封筒が増山家に届いた。
 この増山家の表札の横には明石という名の表札も出ている。
 近所の人には、仲の良い親戚同士で、一人暮らしは何かと物いりだから二人で暮らしているのだということで話を通していた。
 まあ、どこまでそれが信じられているかは不明であるが、近隣の事を気にしない昨今の都会の事情で、特に問題になったことはない。
 その封筒の宛先は、「増山浩二様」となっているので、手にした本人も何気なくその封筒を開いた。何せ、差出人の名前には心当たりがある人からだったのだ。
 開いた途端に、中に入っているやや硬質の紙に気づき、訝しげに引っ張り出し。
 その途端、浩二の手は止まってしまった。


「だ?か?らっ!!昔撮った写真が出てきたから、送ってきただけだろっ!」
 ここに一人声を張り上げている男が一人。
 むすりと眉間にシワを寄せてソファに深く体を埋めている男に向かって熱弁をふるっていた。その割には、相手の男は身じろぎもしない。
「浩二?っ!」
 半ば泣きが入った声で訴えるのは、明石雅人。浩二の同居人だった。
 二人の間にあるテーブルには、一枚の写真が乗っていた。
 昼間届いて浩二が開封した手紙の中に入っていた写真だ。
 フローリングに白い壁とモノトーンの家具を背景に、座っている秀也の後ろから雅人がその肩にもたれるように顔を出しているというもの。
 そう、優司が見つけたあの写真であった。
 何の細工もなく、滝本優司の名で送られてきたその写真には、手紙の一枚もついてない。
 だが、それを見た浩二の機嫌は今最悪状態だ。
 さすがに切れてはいないようだが、雅人にしてみれば戦々恐々の状態であることは間違いない。
 何せ、浩二は切れたら怖い。
 普段沈着冷静なくせに、酷く感情的になると一気にその枷が外れて、ただ感情のままに動くことすらあるのだ。最近、雅人というはけ口が傍にいるせいか、そこまで酷くなることはないが、それでも危険なこときわまりない。
 しかも、浩二は整形外科医という職業柄、たいそう力が強かった。筋肉質なその体躯に押さえ込まれては、背は高いけれど華奢と言った方が良いような雅人には敵うはずもない。
 そんな状況を知っている筈の優司が、こんな写真を浩二宛てに送ってきたのだ。
 それの意図する意味はただ一つ。
 あんのやろーっ!!
 どうしてやろうっ!
 おっとりとしたとぼけた奴だとは思っていた、
 が、さんざんからかわれたツケを今まとめて返してくれたのだとは判る。
 よりによって、こんな手段でだ。
 憤懣やるかたない雅人ではあったが、今は浩二の機嫌を直させる方が先決。
 何せ、この男は、”超”という単語を頭につけて良いほど嫉妬深い。
 雅人にしてみれば、ちょっとしたふざけ合いでも浩二に見つかれば怒りの対象になるのだ。
「なんでわざわざ優司さんが今頃送ってきたんでしょうか?」
 ようやく口を開いた言葉はそんなもの。
「それは、オレの方が知りたいっ!!」
 いい加減叫び疲れて声が掠れている雅人は、それだけ言うとがっくりと膝の高さのテーブルに片手をついた。そのまま上目遣いに浩二を見やる。
「だいたい、その写真は5年以上前の物だ。そんな写真で……頼むから怒らないでくれ……」
 最後には懇願になっていた。
 怒りはセックスの時の激しさとなって表れる。
 それはそれで構わないと、ちらりとは思うのだが、やはり愛されるのなら、こんな怒りにまかせて抱かれたいなどとは思わない。
 だが。
 ふっと雅人はあることに気がついた。
 そういえば、このころの事は浩二にはほとんど話していない。
 話せば今のように嫉妬に狂うから……だから、怖くて話せなかった。
 だが今なら、どうせ怒っているのだから、話してしまえるのではないだろうか?
 雅人はテーブルの上から写真を取り上げると、ぺたりとソファの横に座り込んだ。
「これは……たぶん秀也が大学の4年の秋で……。たぶん二人で最後に撮った写真だよ」
 その頃には別れるなんて思っても見なかった。
 恋人同士と言うほどには甘い関係ではなかったと思う。
 ただ、欲するときには抱き合っていたけれど、どちらかというと家族のように接することの方が多かった。
 二人とも、寂しかったのだと思う。
「オレ……女の子に振られて、秀也に慰められた。そのまま、ずるずると一緒に暮らして……。この写真を撮って、3ヶ月後だよ。秀也が別に暮らす。引っ越すっていってきたのは」
 その言葉に浩二がはっと顔を上げた。
「秀也さんの方から、なんですか?」
 浩二の瞳がゆらりと揺れたように感じた。
 怖い前兆だと、気付いたけれど、いつかは話さなくてははならない。
「……そうだよ。オレは秀也の優しさと包容力って言うか、そういう暖かさが気に入っていたから、別居するなんて思いもしていなかった。だけど秀也は違ったんだ。あいつは……オレとの同居を楽しんではいたけれど、オレほど依存はしていなかった。もともと一人でずっと暮らしていて……。あいつ、親ともほとんど会っていなかったし……」
「……」
 見上げた先で浩二の眉間のシワが少し解れているように感じた。それに力を借りて言葉を続ける。
「なんかさ、理由があるのかと思ってそれは聞かなかった。けど、さっきも言ったように秀也が就職することになってその事前研修とかに2月に行って帰ってきたら、部屋を出るって言い出した……」
 あまりのことに驚いたことは覚えている。
 本音を言うと行って欲しくなかった。
 だけど、秀也の決意は固くてかえようもなかったことは覚えている。
 秀也は、そこで恋人を見つけたのだから。
「気になる相手を見つけてしまった、って言っていた。だから一緒に暮らせないってさ」
「それが優司さん……ですか?」
「らしいね。一目惚れだと言っていたから驚いたものだけど。しかも別に告白したとかそう言うんじゃなくて、ずっと追いたいから一緒に暮らせないとか言うもんだから……オレは呆れた」
 呆れて、羨ましかった。
 そこまで恋い焦がれる相手に出会えた秀也に。
 そんな秀也と比べて、自分はどうなんだろう?
 秀也の優しさに甘えて、ずっとこの場に甘んじてしまっていた自分は……。
「オレ達は結局その程度の仲だったよ。引っ越しの時も寂しくなるとは思ったけれど、悲しくはなかった。別れてからも普通に逢えるくらいには、親しさは続いていたし」
 そう、あの時は平気だった。
 だけど。
「もし……今浩二がオレから離れて行くって知ったら……オレ、あの時みたいには平気ではいられない。泣いて叫んで……浩二を引き留めようとするかもしれない。凄く……みっともないって思うけど……たぶん……オレは……浩二とは離れることなんてできない……」
 やば……。
 雅人は俯いて溢れそうになった涙を堪えようとした。
 そんなシーンを考えるだけで悲しくなってしまった自分が情けないと思ったのだ。
 だが、手が伸びてきた。
 くいっと上向かされた拍子につつっと頬を涙が伝う。
「泣かないでください」
 優しい声音が降ってきた。
「そんな事、絶対に無いですよ。私があなたから離れるなんて。私の方こそ、あなたが離れてしまうなんて考えることもしたくないです。雅人さん……私はあなたを離したくなんかないんです。だから、そんな事を考えて……泣かないでください」
 暖かい手の平が雅人の顔を包み込んだ。
「ああ、もう……何で涙なんか出るんだろ。あははっ……オレ、なんかさ止まんないや……」
 本当に溢れ出した涙は止まらない。
 雅人にとって、今の浩二との暮らしは、秀也と暮らしていた頃とは比べようもないほど嬉しくて幸せなのだ。
 それが壊れる場面を考えるだけで、酷い不安に襲われる。
「雅人さん……本当に泣かないで……」
 浩二の体がソファから降りてきて、雅人の傍らに跪く。
 ゆっくりと近寄ってくる顔に気付いて、雅人はそっと目を伏せた。
 優しく触れあう口づけが、冷たくなっていた心をゆっくりと温めてくれる。
「んくっ……」
 くちゅりと濡れた音が唇の間から漏れる頃、雅人の喉から甘い音が漏れ聞こえた。
 徐々に力が抜けて、全身を浩二に預ける。
「雅人さん……」
 肩を支えられていた雅人は、ゆっくりと顔を上げた。
 至近距離にいる浩二がうっすらと笑みを浮かべていた。
「ベッドに……行きましょうか?」
「……ん……」
 小さく頷いた途端、抱きかかえられていた。
 重たいけが人を担架から運ぶことすらある浩二の腕は、雅人すら簡単に抱き上げることができるのだ。
 いきなりの浮遊感に、目が覚めたように見張った雅人は慌てて浩二の首に縋り付いた。
 心地よい暖かさかが触れあった部分から伝わる。
「雅人さん……」 
 浩二の寝室に向かう途中呼びかけられて、何?と小さく問い返す。
「今日は……激しくしたいんですけれど?」
 その瞳を見た途端、雅人の体はびきっと固まった。
 浩二の問いかけは問いではなく、決定事項の連絡。
 それに受ける側の雅人に拒絶権は無い。
「あ、あのさ……」
 それでも頬を引きつらせながら問いかける、が。
「やっぱり……ああいう仲睦まじい写真というのは……私としては嫌ですので……。あれは丁重に返却しましょうね」
 その口元に浮かぶ笑みと来たらっ!
 雅人は、すっかり忘れていた優司への怒りを思い出した。
「あ、ああっ!送り返してやるっ!!二倍でも三倍でもっ!熨斗つけて返してやるっ!!」
 その叫び声は、防音性の高い二人の部屋からは決して漏れることはなかった。


 一週間後、優司の手もとに帰ってきたその写真は、ジグソーパズルのように粉々になっていた。
「まあ、いいけど……コピーだし……」
 などと優司が呟いたのは、誰も知らない。

【了】