【優司君の隠し事】  

【優司君の隠し事】  

【優司君の隠し事】  ?

極日常的な朝に届いたメールは真実? 秀也の不安が募る。

「え?」
 そのメールについていた添付ファイル。
 いつものように起動する。
 いつもの手順は、だがその小さな叫び声でぴたりと止まった。
 自分の声が他人の気を惹かなかったか?
 それが気になって辺りを窺うが、喧噪さを漂わせる朝一の営業部。他人を気にしている余裕はなさそうだった。
 ほっと一息つくと、再びその文章に目を通す。
 メール自体はごく普通の内容で、簡単な連絡事項。差出人は工場の開発部の三宅で、彼女からはこういう形式のメールがよく来る。
 実際にはそのメールの本文より、パスワードを入れないと開けることのできないその添付ファイルの方が秀也にとっては重要なのだ。
 三宅は、秀也の恋人である滝本優司と席も近く、仕事上サポートすることもあって、優司の動向をよく把握していた。
 優司自身がきちんと把握していないスケジュールや、ちょっとした出来事を、秀也に「親展」として連絡してくれる。
 本当なら、それを直接優司自身から聞きたいとは思うのだが、本人が忘れているのだからどうしようもない。
 こういう連絡を取り合っている事は優司も知っているくせに、何も言わない。それどころか、それに便乗しているようなところもあった。
 だがその内容を直接読んだら、絶対怒り出すに決まっているから、その本文を見せたことはなかった。
 何せその内容の大半は、思わず失笑を買うような優司のおとぼけぶりが多かったから……。

 だが今日の内容は、笑うどころではなかった。
『滝本君に迫っている女の子がいるのよねえ(ハート)』
 ……
 もう一度見直しても確かに見間違いでない。フォントを変えてまで表示させたハートマークは、ピンク色に染まっている。
 楽しんでるな……。
 脳裏に三宅の満面の笑みを浮かべた顔が思い浮かび、秀也は眉間にシワを寄せていた。
 直接ばらした訳ではないが、どう見ても勘づいている彼女のことだ。これを知った秀也がどういう行動を出るか興味津々なのだろう。
 ──別に優司に迫る相手がいてもおかしくないけどな。
 最初のショックはどこへやら。
 いたって冷静な感想が頭に浮かぶ。
 秀也の脳裏に浮かぶ優司は、確かに男としては今ひとつたよりない外見ではあると思う。どちらかというと小柄で、少し丸めの童顔系の顔立ち。それに根がおっとりしているせいか、何につけ優しい所がある。
 母性本能をくすぐるタイプで、それはそれで女性達の関心を惹くのは十分のはずだ。
 『可愛い』というととたんに不機嫌になる優司の姿を思い出し、口元に笑みが浮かぶ。
 なんど怒られようとも、ついつい『可愛い』と口走ってしまうタイプが優司だった。
 だから、優司に女性の影が見えたとしても不思議ではないし、今までそういう話がなかった方が不思議だと思っていた。
 だが、その内容を読み進める内に、秀也の眉間のシワは深くなる。
『今年入った娘で、高卒18歳。池田真澄っていう製造の娘なんだけど、すっごい積極的。開発部に入った子達から、いろんな情報収集して果敢にアタックしているわよ。さすがに滝本君もたじたじって感じで。先週末も一緒に食事をしたらしいわ』
 先週末?
 そういえば、電話をしても出なかった時間帯があったな……。結構遅い時間になってようやく優司からかかっきて……仕事してたって、言っていたはずだが。
 すうっと細められた目が、剣呑な光を宿す。
 嘘、ついたって訳、この俺に。
 直接逢っていないから誤魔化せるとでも思っているのか、あいつは?
 それとも……誤魔化さなきゃいけないようなことでもあったというのか?
 優司に限ってそんなことはない……と思う。
 だが、困ったことに優司は断るのが苦手なのだ。
 面と向かって頼まれると断れない質だから、それで割の合わない仕事を上司から押し付けられて困っている姿をしょっちゅう見かける。
 もし女性の方から強引に迫られたら、断り切れずにたじたじしている姿が容易に浮かんでしまう。
 ──もしかして……マジにつきまとわれているのかな……。
 だが、そんな相談は一つもない。
 三宅のメールを見るまで、そんなことがあったとは知らなかった。
 もしかして……。
 嫌な想像が頭に浮かんでしまう。
 強引なタイプに弱そうだから……。
 想像に過ぎない女の子と優司が仲良く並ぶ姿に、秀也は知らず知らずに舌打ちをしていた。
 強引に迫られてるなら迫られてるって、一言言ってくれれば良いんだ。
 『困ってる』
 って、一言。
 そうすれば、こんなに気になることなんて……。
 それとも……困っていないのだろうか?
 途端に、心臓がとくとくと早鐘のように鳴り響き始めた。
 思わず顔をしかめるのは、きりっと小さく痛んだ胸のせい。
 湧き起こった小さなわだかまりは、他の感情を巻き込んで少しずつ大きくなる。
 ──優司に限って……。
 そう思っている心を覆い隠すように、わだかまりが大きくなる。
 途端にひどく不安になった心は、秀也の精神を不安定にさせた。
 マズイ……。
 そう思ったと同時に、くらりと視界が歪み、周りから飛び込む音が不快な音に変化して秀也を責め苛んだ。
 目眩に近いその感触に、秀也はさあっと青ざめた。
 コントロールが……効かない……。
 ヤバッ!
 焦って立ち上がる。
 がたっ
 立ち上がった拍子に、イスが大きな音を立てて倒れた。その音に周りに残っていた同僚達が驚いて振り返る。
「どうした?」
「い、や……」
 同僚がかけてくれる声に、平気だと取り繕って応える秀也の顔色は真っ青だ。
 いくら表情を変えても、さすがに異常は伝わってしまう。
 とたんに流れ込む、驚き、動揺、不安、そして……巧みに隠された勘ぐりと揶揄。
「顔色……悪いぞ……」
 顔を押さえて俯く秀也を覗き込むようにする彼から逃れたかった。、
 知りたくない感情がまともに伝わってくるのを避けたくて。
「いや、ちょっと貧血かな……あはは、だーいじょーぶだって……」
 感情のこもっていない不自然な笑いに、ますます同僚が不審がる。
 マズイ……。
 そうは思うのだが、彼と自分と周りの人たちと……雑多な感情の波がせめぎ合って自分自身を作れない。
 秀也は慌ててできるだけ落ち着いて見えるように動いてイスを戻すと、もう一度にっこりと笑って返した。
「ちょっとだけ、外の空気に当たってくるよ。そしたら治るからさ」
 必死の取り繕いは効をそうしたようで、彼が頷くのが見えた。
 それを確認する前に、携帯だけ持って部屋を出る。
 何か用事があれば、連絡してくるだろう。
 自分を取り戻すまで、秀也はここに戻れない。
 それだけは判っていた。

 外に出るとしたら屋上しかなかった。
 かなりの暴走状態に、廊下や階段で人とすれ違ってもその人の現在の感情が事細かに判ってしまう。
 最悪だったのは、上司を憎んで憎んで憎んで……何か理由を付けてでも追い落としてやりたい……という強い願いを抱えていた女性事務員とすれ違った時だった。何か、やり合った後なのだろう。強い感情は、それだけ強く秀也の心を揺さぶる。
 ──憎いんだ……。
 ふっとそれに流されそうになって、慌てて自分の名を呟いて意識を取り返す。
「……しっかりしろ」
 呟く言葉は自分自身にかけた。
 まだ幼い頃、バスや電車に乗ると泣きわめいていたと言う。
 当然だ。
 無防備な心に飛び込む大人達の負の感情は、堪えきれないほど痛いものだ。
 それでも徐々についた耐性は、秀也の心を強くしていった。
 少しずつ手に入れたコントロールする術は、今では何の意識もせずに秀也の心を守り続けている……はずだった。

 屋上のフェンスに指を絡め、かしゃりと額を押し当てる。
 じっとりと汗ばんだ体が風に晒されて、空気に触れているところばかりが冷えていく。そんな額に触れるフェンスの暑さが心地よい。
 熱い日差しと仕事がはじまったばかりのこの時間に、屋上には人影はない。
 ただ、秀也の呻く声が響く。
 どうして……。
 呼吸をするようにいつでも制御してきた力のコントロールがいきなり外れてしまったのだ。
 幼かった頃のように無遠慮に飛び込んできた感情は、油断していたせいもあって秀也の心を責め苛んだ。抉るように傷つけられた心の傷はやっかいなことになかなか消えていかない。
 先ほどの憎い感情を振りまきまくっていた彼女は、普段はしっとりとした大人らしい落ち着きを持った女性だった。だが、その決して人には見せないのであろう内面は相当にきつい。
 人を見た目で判断することができない秀也だから、そういうことには慣れていたのだが、それでもそれを目の当たりにするとショックはそこそこに押し寄せる。
 結局、今までその人の内面を知って、ほっとすることができたのは、優司だけなのだ。優司だけが、秀也を苛立たせない。
 
「なんで……こんなことに」
 荒れていた呼吸が落ち着き、大きく数度深呼吸した秀也はほっと一息つくとコンクリの床に座り込んだ。
 白っぽい粉で汚れるのも気にしない。
 片膝を折り曲げ、腕を乗せた秀也は、虚ろな瞳を下に向けた。
 かしゃんとフェンスの鳴る音がする。
 押しつけた背中から太陽に照らされて熱を持った金属が、熱さを伝えてきた。
 何で……。
 繰り返される問いの答えは、秀也には何となく判っているような気がしていた。
 あの寸前、秀也の心をかき乱した存在。
 それが原因だ。
 そして、そうさせる唯一の相手。
「だから……俺を誤魔化さないでくれって……」
 優司本人に自覚がないのだ。
 秀也がそういうことを判ってしまうという。
 知っているくせに誤魔化そうとする。普段は、それすらも優司らしいと笑ってすませる事柄なのに……。
 ため息が洩れる。
 今回ばかりは……内容がまずい……。
 信じ切ることのできない自分が信じられなくて、優司の言った言葉も信じられなくて……さりとて、三宅のメールの内容も信じ切れているわけではない。
 一体何を信じていいのか……。
 判っているばすの事柄だというのに。
 その混乱が、秀也のコントロールする力は一時的にでも壊したのだ。
「逢いたい……逢って、直接優司と話がしたいな……」
 もういつから逢っていないだろう。
 お互い忙しいから、ずっとメールでの会話が多かった。
 どんなに熱が籠もった文章でも、生身の声にはかなわない。
 どんなに熱く囁き逢った会話で電話していても触れあう肌にはかなわない。
 だが、今逢うことはできない。
 『仕事』という名の束縛に二人今週末も会うことはできないのだ。
「はい……そのデータはこちらに。ご満足頂けるデータではないかと」
 重要な顧客との応対。
 とりまとめた資料は完璧で、きっと満足して貰える。
 その自負はあった。
 だが……。
 不安定な心が、顧客への反応を遅らせてしまう。
 暴走する力への恐怖が、顧客の感情の変化を読みとることを鈍らせたのだ。
 相対する相手が、勝負に出ようとしたその瞬間を見過ごした。そのせいで秀也の対応が後手に回る。
「確かに性能は満足できますが、しかし、もう少しこの値の安い物が欲しいのだが……」
 しまった……。
 相手に気取られない程度に、眉間のシワがよる。
 値下げ要求が来るのは想像できていた。
 だが、今回は性能アップを餌にして、それを誤魔化すつもりだったのだ。
 今の現状では、単価の値下げはできないから。
 それが判っていて、一瞬の秀也の対応の遅れをつかれた。
「これ、ですか?」
 ──落ち着け。
 乱れた心を落ち着かせ、相手を納得させるための言葉をいくつもシュミレートする。その中から最前の方法を選択する。
 ──負けてはいけない。
 こんな相手に……。
 ふわっと体の内側に熱がわき上がり、渦を巻いてわだかまる。
「先日、お話ししたときは、この価格で了承頂いたはずですが?」
 こうなれば何の役にも立たない過去の数値。
 だが、これは限界なのだ。
「あの後、事情が変わってね」
 ニヤリと嗤うその男から、秀也を試しているのがまじまじと判る。
 大人しく言うことを聞くか、それともすごすごとしっぽを巻いて逃げ帰るか……。
 だが、今はそのどちらを選択するわけにはいかない。
 うちは、外注屋じゃない。
 自分達の技術力でそれ相応の物を作り上げ、売っていく。
 絶対に顧客の言いなりにはならない。
 それがジャパン・グローバル社の営業の指針だった。
 営業戦略でならともかく、客の言いなりのまま価格を下げることはできない。
「その価格をクリアするとなりますと、それ相応の設計の変更が必要となります。そうなると、こちらの性能に支障を来すことなりますが」
 それが下がることは、客にとっても重大な問題なはず。
「それは、困る。なんとかしろ」
 当然の反応に笑みを浮かべる。
 だが、表面とは裏腹に腹の内に宿る不快さを増した感情が、秀也の荒れた神経を逆撫でする。
 渦を巻くスピードが激しさを増し、爆発しそうになっていた。
 それを必死で押さえ込む。
 心の荒波を決して相手に見せないように取り繕って。
 理不尽なことで試されていると判っているのに、それに乗ってしまうのは愚の骨頂だ。
 秀也はにっこりと微笑むと、穏やかに言葉を紡いだ。
「まことに申し訳ありませんがその性能をクリアするために必要な材料はこちらから提供を頂いているものでございます。そして今回提示させていただいている単価の約5割がこの材料代になっております。この単価を削って頂ければ、こちらとしても対応の使用があるのですが?」
 その材料を使用しろと言ったのはあんただ。
 心の中で毒づく。
 普段なら、もう少し心中も穏やかにできるのだが、今日はそれができない。
 わだかまって暴発しそうな感情を抑えるだけで必死なのだ。
 自分を取り繕って他人と接するのがこんなに苦痛になったのは久しぶりだった。
 

 なんとか無事に終え、秀也は相手の会社を出たところでほっと息をついた。
 息苦しさを感じてネクタイを緩める。
 苛々する。
 営業していれば、いつだってこんな場面に出くわす。
 わざと理不尽な要求をふっかけてくる客。
 それを難なく処理してきたからこそ、成績が常に上位にある秀也がいるのだ。
 なのに……。
 いつも作ってきた自分が、どうしても作れない。
 どんな対応をされても受けのよい笑顔で相対する自信は常にあった。
 なのに……。
 危うく爆発しそうになった感情は、かろうじて封じ込めることはできたけれど、まだまだ秀也の中で暗い熱を含んでいる。
 ──今日は直帰できるんだよな……。
 ほんとうは会社に寄って今日の議事録まで仕上げた方がいい。だが、擦り切れそうなほど神経が疲労していた。
 また……制御が効かなくなりそうな……それだけは避けたかった。

 帰り着いた途端、ばたりと畳の上に転がり込む。
「疲れた……」
 運動量としては、たいしたことはない。
 もっと多くの会社を渡り歩いたことだってあるのだ。
 なのに、たった一件の対応で精も根も尽き果てた秀也がそこにいた。
「まずいな……」
 目の前に手をかざす。
 ぼおっとそれを眺め、深いため息をついた。
 原因はただ一つ。
 あのメールがこれほどまでに自分にダメージを与えるなんて……。
 はっきりと優司に聞いた方が早いかも知れない。
 優司に言わせて、何で言わなかったって怒って……そしたら……すっきりするだろうか?
 寝っ転がったままごそごそと携帯を取り出す。
 数度のキー操作で呼び出し音が鳴り出した。
 こうすれば良かったんだ。
 さっさと呼び出せば。
 どうせ優司のことだから、俺にばれているなんて思っていないだろうから……からかってその言い訳を聞くのもいいかも知れない。
 だが。
 呼び出し音は、呆気なく留守番電話サービスに切り替わってしまう。
 聞き慣れた女性の声のメッセージに、秀也はぶちりと携帯を切った。
「はあ……」
 一気に疲れがぶり返した。
 なんか…ここまであいつに振り回されるのも癪だよな……。
 優司に逢う前は、他人に振り回されることなんてなかったのに。
 だいたい優司も優司だ。
 相対すれば、隠し事していることくらいはすぐ判るって言うのに、それなのに隠そうとする。
 その度に秀也がどんなにやきもきしているか、判っていない。
 それが嫌で力を使わなければ、それはそれで、妙な方向にすれ違ってしまうし……。
 どうして……あいつは……。
 勝手に自分だけで封じ込めようとするんだ。
 判ってはいることが頭の中でぐるぐると駆けめぐる。
 もう……自分を取り繕う自信すらなくなりそうだった。
 チャイムが鳴った。
 暗闇でもがくような薄気味の悪い夢の中にいた秀也はその音に助けられたように意識を取り戻した。じっとりと汗ばんだ体が気持ち悪い。
 半身を起こして、片膝を立て肘を置き、額をのせる。
 頭が重い。
 真綿が詰まったように、脳が一向に働かないのだ。
 薄闇に包まれた部屋の中、秀也の呼吸だけがやたらに響いていた。
 ピンポーンっ
 再び鳴った音にびくりと体を震わせ、その発生源を見遣る。
 何気なく覗いた携帯の液晶画面を見ると、もう10時を過ぎていた。
「誰だ?」
 こんな時間に?
 窺うように玄関を見つめていると、さらに二度・三度チャイムが鳴り響いた。
 出なければ……と思う反面、面倒くさいと思う心が葛藤する。
 こんな疲れた頭でセールスなんかに逢いたくはなかった。
 だが……。
 もう一度時間を確認する。
 最終便で来たら……この時間だよな、確か……。
 まさか……?
 だが、そんな予定は聞いていない。
 逢いたいと思う心が、そんな期待を作り出すのだろうか。
 秀也は数度頭を振っていた。
 ここにいるはずがない……。
 もう一度チャイムが鳴った。
 そして、静寂が訪れる。
 ──帰ったか?
 ほっと一息ついたとたんに、静かな室内に今度はカギをまわす音が響いた。
 とたんに淡い期待は直面する現実へと替わる。
 ほんとうに?
 ガチャリ、と、ドアノブが回る様子を、じっと秀也は見つめていた。
「あれ……いるんだ?」
 緊張感の欠片のない声。
 僅かに目を見開いた顔が、秀也を見つめて笑顔に変わる。
「いくら鳴らしてもでないから、どこかに出かけているのかと思った」
 滅多に見ることのないスーツ姿。
 屈託のない笑顔が間近に迫る。
 秀也はそれを呆然と見つめていた。
 いつまでたっても何も言わない秀也に、優司が訝しげに眉間にシワを寄せた。
 どさりと重そうなバックが畳の上に置かれる。
「どうした?何か顔色悪いし……調子悪い?」
 すっと秀也の傍らに跪いた優司が、その手を秀也の額に当ててきた。
 純粋ないたわりの心。
 何も誤魔化しなど伝わってこない。
 触れた手のひらがひどく暖かく、そのほっとする暖かさが、心を支配していたわだかまりを溶かしていく。
「どうしてここに?」
 微かに口を動かして問いかけると、優司が口元を歪ませた。
「クレーム……。明日朝一で茨城の方にいかなきゃいけないから、今日は東京泊まり。それで泊まらせてもらおうと思ったんだけど、出かける間際までばたばたしていたし、すぐ飛行機に乗ったりしたから……連絡できなくて。それにたまにはいきなり行って驚かすのもいいかなあ……っておもったんだけど……」
 窺うような視線に、秀也はこくりと頷いた。
 どうしてだろう?
 ここに優司がいるというのに……なんだか夢の中みたいだ。
 その視線は優司から離れない。
「なんか……変。大丈夫?」
 見つめる先から伝わるのは、掛け値なしの心配だ。
 優司の感情は、いつだって秀也を落ち着かせる。
 たとえ怒っていても、その怒りは優司にとって正当な物だから受け入れられる。笑っている時に伝わる心は本当に楽しそうで……。
 裏の少ない感情は、秀也の心を解放する。
 ああ、やっぱりここにいる。
 本当に優司がここにいる。
 秀也は手を伸ばして優司のネクタイを掴んだ。
「秀也?」
 驚く優司を後目にそれをぐいっと引っ張ると、跪いていた優司はバランスを崩して倒れ込んできた。
 それを受け止め抱き締める。
「ちょ、ちょっと!」
 真っ赤になって抗う優司の首筋に唇を押し当てると、その体がぶるっと震えた。
「優司……しよう……」
 耳朶に舌を這わせ、吐息とともに言葉を吹き込む。
 したい……。優司を感じたい。
「ちょっと、やっぱ秀也、変っ!どうしたんだよ」
 ああ……俺って変かも……。
 だけど、止まらないんだ……。
 ここにいる優司が現実のものだと感じたいから……だから抱きたい。
 身動きが取れないように覆い被さり、優司のベルトを外す。
 かしゃりとその音が届いた優司が真っ赤になって秀也を睨んでいた。
「何考えてんだよ。私、汗だくで……それに明日は早いんだよ!」
「だってさ、我慢できないんだ……抱かせてくれないと……もう気が狂いそうだ……」
「気が狂うって……」
 絶句して動きが止まった優司の前を開け放ち、下着の中に手を入れる。
 まだまだ柔らかなそれをぎゅっと握りしめると優司の体がびくりと震える。
「あっ……ちょっと……」
 もう優司の声は耳に入らなかった。
「あ……はあっ……あぁぁっ……」
 優司を畳に押しつけ、背筋に舌を這わせる。
 その動きに顕著に反応する優司を上目遣いで確認しながら、徐々にその舌先をずらしていった。
 優司の感じる所など、もう知りすぎるくらい知っている。
「んっあっ……も、秀也ってば……焦らしすぎ……」
 息も絶え絶えの様子で優司が、振り返って秀也に手を伸ばす。
「ん、でも無理すると優司も辛いだろ?」
「で、も……こんなのって、もっと辛い……」
 指で解されたそこは、3本の指が自在に動くのを妨げようとはしなかった。奥の一点をつけば、その背が仰け反り、悲鳴に近い嬌声が洩れる。
 腰の下の優司のモノが完全に勃って、先走りの液を垂れ流しているのは知っていた。
 だけど、傷つけたくない。
 性急に欲しくて堪らなかった優司なのに、いざ事が始まると、ゆっくりと確実に優司を追いつめたいと思う。
 痛みをいっさい与えないように、優司を楽しめたいと思う。
 愛おしい。
 離したくない。
 だから、繋がる時間を少しでも長く持ちたいと思ってしまう。
「ああっもう……ほんと……んんっ……今日の秀也……変だよ……くっ」
 とぎれがちな言葉に、秀也は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「そうかも……」
 いや、変だとは判っている。
 力のコントロールが一時的にでも外れるほどの混乱を味わってしまった後遺症はそうそう簡単に収まるものではない。
「あ……そうだ」
 突然優司がぱっと手をついて上半身を起こした。
「っつ!」
 その背筋に口づけようとした秀也の鼻先と優司の背がぶつかり、鼻からつうんと鋭い痛みが走った。
「な、何だよ」
 思わず鼻を押さえる秀也から無理矢理脱出した優司は、秀也と向き直るとひどく真剣な表情で口を開いた。
「三宅さんのメール読んだ?」
「え?」
 それこそ、真っ最中。
 そろそろ秀也も……と思っていた矢先。
 その途中の台詞か、それが?
 一体なんなんだよ……。
 秀也は頭を抱えた。だが……。
 ──メール?
「なあ、読んだろ。朝一の奴は」
 その言葉に、秀也はこくっと頷く。
「ああ、……やっぱり」
 がっくりと視線を落としはあっと大きく息を吐いた優司は思い直したかのように、再度秀也に視線を向けた。
「じゃあ、昼過ぎにやっぱり三宅さんが送ったメールは?あれ、どうなのさ」
 昼過ぎのメール?
 昼過ぎからは……。
「俺は昼過ぎからは得意先回りで……出かけてたし……。それに帰ったら妙に疲れていたからまだ読んでいない」
 とたんに、やっぱり……とばかりに優司が肩を落とした。
 ぶつぶつと口の中で呟く優司の感情が、顕著に秀也に伝わる。
 誰かに対する怒りとそれを越える諦めと、そして……嗤っていた。
「優司?」
 呼びかけると、優司がようやく顔を上げた。
 やはりその口元に浮かぶのは嘲笑だ。
「秀也が変なの……三宅さんのメールのせいだろ?」
「え……」
 それは確かに事実なのだが、言葉にして肯定するのははばかられた。
 信じてないのか?
 そう言われそうな気配がする。
 だが、じっと見つめてくる純粋なまでの優司の瞳に捕らわれると、誤魔化すことなどできなかった。
「ああ……そうかもな」
 本当はそうだ、とはっきり言いたい気分もあった。
「……やっぱりぃ……。気づいたのが遅くって……あのメール、私にもBCCで来てたんだ。でも朝からクレームの情報が飛び込んでいて、確認するのが遅れて……昼過ぎに気づいて、速攻で三宅さんに訂正のメール送らしたんだけど……やっぱ、見てないんだ」
「訂正?」
 どういうことだ?
 窺う先で、優司が嗤って返す。
「一通目の件は……そういうことはあったけれど、たぶん秀也が想像したこととは違うんだよ。だからさ」
「え?……あ、どういうことだ?」
 驚いて──だがその反応はメールの内容に想像したことを顕著に現しているようで慌てて言葉を継ぐ。
「そういうふうに信じたんだろ?だから、そんなに変なんだよ」
 じっと見つめられては、誤魔化しようがなかった。
 だいたい普段はあんなにも鈍いところがあるくせに、どうして今日に限ってこんなに鋭いのか……。
「迫られているって言うのは、恋愛とかの対象じゃなくて……その子が今度パソコン買うんでどんなのがいいかつきあって選んでくれって……そういう内容で迫られているっていうこと」
「え……」
「金曜日に食事に行ったというのは、お互いそれぞれで残業になって、たまたま食堂に行くときに一緒になって、同じテーブルで残業弁当食べたって事。だいたいその席には三宅さんも、高山君もいたんだからね」
「……」
 確かに一緒に食事はしているな……。
 しかも優司が言っていた仕事ってのも間違いはない。
 ……。
 ということは……なんだ?
 秀也は眉間のシワを深くして指で押さえた。
 なんだか思いっきり勘違いしていたような気がする。
 というか、そうさせる内容のメールだったぞ、あれは……。
「だから……三宅さんの悪戯だよ。最近、彼女忙しすぎて煮詰まってて……で、その半分は私のチームのせいでもあるから……その嫌がらせみたいな感じでさ……その悪気はあんまり無かったみたいなんだけど……」
 秀也の表情に剣呑なモノを感じたのか、優司が一生懸命言い訳をしている。
 だから……。
 それが余計に秀也の眉間のシワを深くすると言うのに。
「お前って……ほっんとお人好し」
 ため息混じりでぶつければ、帰ってくるのはきょとんとした視線だ。
「どう足掻いても三宅さんのせいで危ないところまで来ていたのに、なんでお前がそんなに三宅さんを庇うんだよ」
 ぐいっと髪を掴んで引き寄せる。
「い、いたっ!……引っ張るなよ……でもさ、彼女も私の悩みを知っていて……っ!」
 しまったとばかりに口を噤んだ優司。
 だが、その言葉尻を秀也は聞き逃さなかった。
「悩み?それがこのメールの原因の一つだってことか?」
「あ、いや……たいした事じゃないんだけど。ちょっと愚痴ったのを三宅さんが覚えていたみたいで……」
 しどろもどろの優司にぐいっと顔を近づけ、唇が触れ合う距離で囁くように問いかける。
「教えろよ。何を言ったら、三宅さんがこんなメールを送るんだ?」
 嘘だと判ったら、ひどく心が落ち着いた。
 それこそ、今日のあの衝撃がなんだったのかと言うくらいに。
 笑いたいくらいに呆気なく。それに優司が仕掛けた訳ではないそのメールに、優司に怒ってもしようがない。
 だから、怒っている訳ではない。
 しかし、優司の悩みというのはぜひとも聞いてみたいと思った。
 それが今回の騒動の発端だというのなら、それはもう是非にもだ。
 秀也に詰め寄られて、優司が誤魔化しきれる訳はなかった。
「その……」
 すうっと赤くなった優司が必死で視線だけを逸らしていた。
「秀也……って、すっごい人気あるから……。大丈夫かな……って……今頃、実はつきあっている彼女がいるのかな……って…感じの愚痴を言ってしまった……」
「……」
 それを聞いたとたん、絶句してまじまじと優司を見つめてしまう。
 そんなはずは絶対にない。
 優司が女性とつき合う可能性より、それはない。
 だから、優司の心配が信じられなかった。
「どうして、俺が優司以外の奴とつき合わなきゃいけなんだ?」
「だけどさ……」
 口ごもる優司は、絶対に自分の魅力に気づいていない。
 秀也の方が先に優司に惚れたという事実を忘れているに違いない。
 顔のいい女性も、性格のいい女性も……結局は秀也にとっては、優司以下だというのに。たとえどんな素敵な女性がきたとしても誰も優司にはかなわないはずなのに……。
「だって、そういう噂……工場まで聞こえてくる……。誰がアタックしたとか……、街中で逆ナンされてたとか……」
「それは……」
 誰だ……そんな噂を工場まで流すヤツは……。
 噂好きな輩の顔が脳裏に二三浮かぶ。
 しかも否定できない。
 女性受けするという自覚はあるから、そんなはずはないとまでは言えない。
「だけどさ、俺が好きなのは優司だけ。優司以外につきあおうなんて思わないから、そんな心配なんか二度とするな」
 とたんに優司がかあっと顔を朱に染めた。
 それは、秀也にとってくらっとくるくらいに艶めいて見えた。
「優司……」
 どっちにしろ途中までしていたから、体の熱が上がるのは早い。
 そっと抱きしめると、優司もびくりと小さく肌を震わしていた。
「なあ……だけど優司はどうなんだ?白状するけどさ、俺あのメール見た途端、結構ショック受けたんだ。こんな話信じられないって思っていたのに、だけど優司が離れていくような感覚があって……正直……怖かった」
 そう……自分が自分をコントロールできなくなるほど。
「そ…んな……。それこそ、そんなことあり得ない」
 熱い息を吐きながら、優司が言い募る。
 苦痛に堪えるかのような表情が、ずきんと秀也の下腹を刺激する。
「信じたいのに……信じることのできない時って……本当にあるんだな……」
「あ……で、でも……信じてよ。お昼過ぎのメール読んでくれたら……それが冗談だって判ったのに……っ!」
 さわっと胸から下に向かってなで下ろした手を、優司の下腹に忍ばせる。
 つつっとその先端を指先で刺激すると、優司がくっと喉を鳴らしてしがみついてきた。
「あ、の……さ……。頼むからっ……」
 優司が、固く目を瞑ったまま、必死の様子で言葉を紡ぐ。
「何?」
 行為に没頭しかけていた秀也は、ふっとその手を止めて優司を見遣った。
 その額に汗がつうっと一筋流れる。
「お手柔らかに……頼むって……。明日マジでイヤなクレーム対応、なんだから……」
 その言葉に秀也は苦笑を浮かべながら、優司の耳朶にキスを落とした。
「判ってる」
 判ってはいるけれど……歯止めが利くかどうか……。
 だってさ……久しぶりなんだぞ。

 打ち据えるような音が部屋に響く。
 肌と肌が触れ合うと言うよりは激しく接触するたびに優司の声が喉から漏れる。
必死に我慢しているのに、それでも漏れてしまう声は、余計に掠れて艶めいていて、秀也を高ぶらせる。
「んふっ……くっ……」
 ぐっと抉るように貫けば、手で口を塞いでいるにもかかわらず、堪えきれない声が漏れていた。
 その声をもっとききたくて、優司が必死だと判っているのにさらに強く抉ってしまいそうになる。
 響く、というのに……。
 欲する心は止められない。
 薄闇の中で優司の白い肢体が蠢き、堪えきれなくて嫌々と首を振る優司の髪から汗の滴が飛び散る。
「…優司……」
「ん、あ……何?」
「誰よりも……愛してる……だから信じてくれ。……俺は優司以外は何もいらない……」
 ぞわぞわと襲い来る快感が支配する中で、それだけは……とばかりに舌に乗せる。
 途端に優司の中がきゅっと締まった。
「んくっ」
 その刺激に堪えられなくて、ドクンッと全身が震える。
 弾け飛んだ瞬間、確かに耳に届いた言葉がよけいに愉悦を増加させた。
 何度も小刻みに震える体を優司の上に投げ出しながら、秀也は聞こえた言葉を反芻する。
『……私も……秀也だけがいい……』
 堪らずに優司の唇を塞ぐ直前、虚ろな瞳が秀也だけを写していたのが見て取れた。
「うう?」
 茨城に行くのなら……と、時間を想定してさらにそれよりはるかに余裕のある時間に優司を起こすと、いきなり唸りながら優司は突っ伏してしまった。
「だ?か?ら──っ」
 目線だけが秀也に向けられる。
「あははは……」
 笑って誤魔化すには優司の容態は良くないようで、深いため息がその口から漏れていた。
「ま……時間までにはもう少し楽になるだろ?薬……飲んでおくか?」
 返事はなかったが、頭が動いていた。
 薬を飲む前に腹に何か入れないとな。
 台所に立って簡単な食事を用意しながら、秀也の口元は綻んでいた。
 ひどく爽快な気分。
 昨日のもやもやは一体なんだったのだろうか……と思える状態だ。
 にしても……。
 ちらっと背後の優司を窺う。
 その視線の先で、ようやく優司が座り込むのに成功したようで、きつく眉根を寄せて顰めた顔が時計を睨んでいる。
「今日は、一人で行くのか?」
 何気なく尋ねた先で、優司が首を横に振る。
「いや……家城君と」
「え……」
 とたんに秀也の手の動きが止まった。頭だけが、動いてはっきりと優司を視界に入れる。
 家城という名は、会社では品質保証部の家城でしかあり得ない。
 瞬間、脳裏に彼の冷たい顔が浮かぶ。同期とは言え、なかなかあなどれない性格の彼と、今日一緒に行動するという。
「彼と……?」
 大儀そうに頷く優司は事の重大さを判っていないようで、腰を拳で叩いている。
 たいして、秀也は眉間のシワが深くなる。
 ……。
 家城君……聡いからな……。
 自身も男を恋人にしている家城なら、優司の体調の悪さに気づくだろう。
 まして、東京泊をすれば何があったか明白で……。
「優司……今日は失敗すんなよ」
 老婆心……とは思うが忠告すると、
「……それって、いっつも私が失敗しているように聞こえるけど」
 むうっと唸る優司は、秀也の心配など気づいていない。
「別にそういうわけじゃないけどさ」
 苦笑いを浮かべて返す。
 まあ……なるようにしかならないか……。
 

 痛み止めを飲んで出張に出かけた優司。
 だが、やはり秀也の予感は正しくて……。
 家城に『大事な仕事の前日に何をやってきているんですか?』と嫌みたっぷりに言われた、と秀也宛に泣きの電話が入ったのはその日の夜のこと。
「秀也のせいだ?。これで当分からかわれる?」
と、ひどく立腹していた優司を、まず言葉で宥めて。
 それでも完全にへそを曲げた状態の優司に秀也はご機嫌取りを敢行した。
 普段は敷居が高くていけない店でのディナーの後、ホテルで一泊。欲しがっていたデジカメ付き。
 ホテルはひどく恥ずかしがっていたが、デジカメにはひどく悦んでいた。
 ボーナス前の散財は痛かったけれど、それだけで簡単に機嫌が直った優司。
 これだから……。
 子供のようにはしゃぐ優司の単純さ。
 それこそが秀也の精神安定剤なのだ。

【了】