【優司君のお引っ越し騒動記】

【優司君のお引っ越し騒動記】

【優司君のお引っ越し騒動記】  ?

「してよ」「CROSS」「柊と薊」友情出演。30歳になると会社が契約しているコーポを出なければならなかったのに……。

 3月に入ったばかりの暖かい日。
 仕事から帰った滝本優司の元にかかってきた電話。
 東京に住む同じ会社の営業部の恋人 笹木秀也ととりとめもない雑談をしている最中の出来事だった。
『引っ越し、いつするんだ?』
 優司は、電話相手である恋人のその言葉に、ぴしっと固まってしまった。
 それこそ音がするような衝撃に顔面蒼白になる。
『もしもし?』
 電話口で固まって声も出ない優司に、秀也が不審気に呼びかける。
「あ、ああ、ごめん……」
 平静を保とうとして……だが、震える声を抑えられない。
 それでなくても聡い秀也が、その優司の異変に気づかない訳がない。
『優司、まさか決まっていないとか……いや、その慌て様……忘れていたな!』
 呆れを通り越して怒りを含んだ秀也の声が、優司の耳を貫く。
「い、いや……忘れていたなんてことは……」
 しどろもどろで言い訳する優司の頭は、真っ白であった。
 あまりのおおぼけに自分の頭の思考回路までが完璧に吹っ飛んでいた。
『忘れてたんだろ!』
 きっぱり言われ……優司は仕方なく返答する。
「はい、忘れていました……」
 その言葉に電話の向こうで秀也も絶句する。
 岡山と東京の二カ所で、沈黙が漂った。
 優司達の会社は独自の寮や社宅を持たない。
 その代わりに年齢制限を設けて、一般のアパート(寮では2DK程度のコーポ(岡山地区の場合))を会社が契約してそれを貸与する形を取っていた。その寮の年令制限が30歳。
 優司は1ヶ月後の4月1日にその30歳の誕生日を迎えることになっていた。
『優司、自分で言っていたじゃないか。半年ほど前、総務から通告受けたって……』
 最初の驚きが過ぎ去り怒りすら飛び越えて秀也が、心配そうに優司に話しかける。
「うん……そうなんだけど……またまだあると思っていたから……」
『ぼけ』
 言い訳を一刀のもとに切り捨てられ、優司の顔が情けなく歪む。
「ひどいよお、それ」
『ぼけ、じゃなかったら、何だ?自分の住むところだぞ。しかも今の時期って年度末だぞ。優司は平日に休む暇がある訳?営業の俺だって、とてもそんな暇ない!』
 言われて頭の中を3月のスケジュールとやるべき仕事がぐるぐると巡る。
 年度末……一年間の仕事のまとめ。
 来年度計画の立案。
 期末の棚卸し。
 新人研修計画立案……。
 それプラス、通常の開発スケジュール……。
 例え住むところが無くったって、仕事は待ってはくれない。
「……休めない」
『だろ』
 受話器から漏れるため息を優司は唇を噛み締めながら聞いていた。
 本当に忘れていた。
 なんとかして引っ越し先を決めないと、誕生日が来た途端住むところがなくなる。
 今までのコーポは会社名義の契約だから、このまま住むとしたら改めて契約を交わすことになる。どちらにしても引っ越すつもりなのだから、敷金・礼金のことを考えるとどうしてもその期日までには引っ越してしまいたい。
「どうしよー……」
 思わず漏れる言葉は独り言に近かった。
 だが、秀也はそうは取らなかったらしい。
『どうしよーったって、どうしようもないだろ。そっちの工場の人たちにでも聞いて、適当な所当たれよ。手伝ってやりたいけど、こればっかりは俺、つて無いし、そっちに行く暇もない』
「判ってる。何とかするよ」
 なんだか秀也の物言いにむかむかしてきた優司は、不機嫌な声色を収めることなく言い放つ。
 それに秀也もかちんと来たらしい。からかうように言ってきた。
『ああ、何とかしろよ!じゃなかったら、恵くんのところでも転がり込んだらいいんじゃない?そんな事になったら、俺今度からホテルに泊まるからね』
 弟の名前を出され、優司も引っ込みがつかない。
 言える訳ないじゃないか!
 情けなくて……。
「恵の所なんかいかなくても何とかする。4月の開発部計画プレゼン会議に秀也が来る頃には、新しい部屋に泊まってもらえるさ。期待して待ってろよ」
『ああ、楽しみにしているよ』
 その言葉を最後に二人は、分かれの言葉も言わずに電話を切った。
 何だよ、秀也の奴!
 むすっと口を尖らせ、電話を睨む。
 そりゃ、忘れていたのは俺だけど……あんな風に言わなくったっていいじゃないか……。俺だって、気づいてショックだったんだから……。
 こんな大事な事、忘れていたなんて。
 その場に座り込んだ優司は、ぐるりと辺りを見渡した。
 5年間住み続けたその部屋。
 愛着が無いとは言えない。
 だけど……。
 優司は大きく息を吐いた。
 ここは壁がそれほど厚くない。この手のコーポにしては防音性が良い方だろうが……。
 普通に生活している分には何も問題はない。
 だが、今は秀也と付き合っている。
 秀也とつきあい始めて、この部屋で秀也に抱かれるたびに必死で押し殺すはめになる声。堪えきれないその声を秀也が慌てて塞ぐことだってある。
 まして、隣に住んでいるのは同じ会社の同僚の女性なのだ。
 こんな恥ずかしいことはない。
「もう少し防音性が良いところ、探そうと思っていたのに……」
 がっくりと頭を垂れる。
 これもそれも全部秀也のせいなんだから……でなかったら、このまま再契約していた。秀也と付き合っているから、引っ越しを決意しているというのに、あんな言い方しなくても良いじゃないか……。
 ぶつぶつと呟く優司は、それでも自分が悪いのだとは判っていた。だけど、止まらない。
 秀也のせいにでもしてあたらないと、あまりの情けなさに涙が出そうだった。
 こんな大事な事、忘れるなんて……でも、秀也だってあんなに怒らなくたって良いじゃないか……。
 支離滅裂になっている思考に優司はただ流されていた。

 

 次の日、会社で仕事をしようとメールを開いても、その内容がさっぱり頭に入ってこない。
 メールの内容は「開発部来年度計画プレゼン会議日程のお知らせ」。
 昨日電話に出てきたその会議日が決定したというメールを見た途端、昨夜の電話の内容がフラッシュバックしてしまう。
 ふっと優司は机上にあった卓上カレンダーを手に取った。
 そのカード式のカレンダーの3月と4月のカードを机に並べる。
 4月1日は月曜日だった。
 ということは、最悪3月30日の土曜に引っ越しをしたい。31日はどうしても諸々の片づけが入るだろう。それに今のコーポの引き渡しもあるはずだ。
 となると残りの週末は4回。祝日が1回。
 でも、平日にも休みを入れないと……市役所とか行かないといけないよなあ……。
 とんとんとカレンダーをつつきながら唸っていた。
 と。
「どうしたんだ?」
 頭上から振ってきた声に顔を上げると、いつの間にきたのか傍らに同じ開発部の篠山義隆が立っていた。
 彼はこの開発部では先輩であり、同じ第三リーダーでもある。しかも弟の恵の恋人。
 同じ開発部でも、仕事の内容が違うので普段そう話すこともないのだが、リーダーとしていの絡みからつきあいがない訳ではない。どこかいい加減なくせに、てきぱきと仕事をこなしている義隆は、優司にしてみれば、どうしてこんな奴に恵が惚れたのか……という思いと、リーダーとしての格の違いからの羨望にも似た思いが交錯する厄介な相手だった。
 今回もそのリーダー間に回されている回覧物を届けに来たのだ。普段だったらそんな個人的な事を彼に話す気は無かったかも知れない。決して仲が良いわけではないが、それでも困ったときには藁をもすがりたかった。
「その、私、もうすぐ寮を出ないと行けないんですよね」
「あ、ああ、滝本君ももうそういう年なんだ」
 義隆自身数年前に経験した引っ越しを思い出したのか、懐かしそうに表情を和らげた。
「で、どこに行くの?」
 決まっていて当然と言った顔で問い返され、優司は口ごもる。
「で、ですね、まだ決まっていないんですよ。というか、忘れていたというか……」
「へ?」
「どっか、ないですかねえ」
 思わず顔が情けなく緩む。
 義隆が絶句するのが判った。
「誕生日……たしか4月1日だったよな」
「はい」
 一度言えば大抵の人がなぜか忘れない誕生日。
「それで、まだ決めていないのか?」
 心底呆れた、と言った言葉は、そのニュアンスが秀也と似ていて、少なからずショックを受ける。
 やっぱ俺ってボケてるなあ……。
「はい……」
 ついつい優司の声が小さくなる。
 そんな優司をまじまじと見つめていた義隆は、大きくため息をつくと傍らの椅子を引っ張ってきて座り込んだ。
 どうやらあまりの情けなさに同情してくれたらしい。
 同情されるのはあまり嬉しくはなかった。
 が、それでも誰かに相談したかった優司にしてみれば、仕事に戻ってくれとも言い出せない。
「で、そういう考えだと言うことは、今のコーポは出るんだな。で、何か希望があるか?」
 幸いにして第1,2リーダーが出張中でいない。他のメンバーも作業場に行っているのか、事務所に人影はまばらだった。
 二人の会話の邪魔をする人はいない。
「やっぱ、防音性が高いところ……」
 その理由が脳裏に浮かび、つい顔が熱くなる。それを確認した義隆も、口ごもった。
 彼も理由が判るのだろう。
 それが判った途端、余計に顔に血が昇る。
「……いきなり、それかよ」
 呆れた風に言われても、答えようがない。
 黙ってしまった優司に、義隆は息を吐くと気を取り直して声のトーンを上げた。
「場所は、今の辺りがいいよな。車は1台でいいし……笹木君は、どうせ車で来ることないものな」
 言わずもがな……だが、秀也の名にてきめん優司の顔が反応する。
 俺って……。
 義隆にはばれているのがどことなく恥ずかしい。
 やっぱ会社で相談する内容じゃないよなあ。
 どーしよ……。
 とんとんと額を拳でこづく。とにかく冷静になろうと、必死で心を落ち着かせていた。
 そんな優司に、義隆はくすりと笑みを漏らした。
「石中不動産に問い合わせした?」
 その矛先の代わった問いに、優司はホットしながらに首を横に振った。
「まだです」
 石中不動産は、会社が寮を契約するときに使っている不動産屋で、その関係で会社の人たちもよく利用していた。とにかく元気なおばちゃんが取り仕切っているのだ。
「にしても……休み無いよな。平日休めないし……契約とか考えると、今週末にはおおよそ決めないと駄目だぞ。最悪、最後の週に引っ越しとして……他の日には休日出勤ないんだろうな?」
「たぶん」
 二人で顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
 期末の棚卸しがある以上、その前の休みは危ないかも知れない、という思いが二人の頭をよぎる。
 ま、何があるか判らないのが開発部だ。希望的観測として、無いと言うことにして……。
「で、予算は?」
「あんまり高いと困りますよね」
 今のコーポなら5万以内の家賃の筈だ。今は、会社が負担しているその家賃。
「何で?独身貴族だろ、滝本君は」
 不思議そうに首を傾げる義隆に、優司は首を竦めた。
「でも、東京への旅費って結構かかるんですよね」
 ため息混じりのその台詞に、義隆は苦笑いを浮かべた。
「……わかった。でもまあ、この辺りなら、マンションでもそんなに高くないし……寮を出るから住宅手当が出るようになるし……」
「そうですね」
「とにかく一度不動産屋に行かないとなあ」
「そうですね……」
 本当に、することはたくさんある。
 優司は考えていると頭が痛くなってきた。
 もともとこういう面倒な事は苦手なのだ。スケジュールが決まって、その通りに動くと言うことなら、楽なんだけどなあ。
 と、頭の中でいろいろと愚痴っていた。
 その時、ふっと手元が暗くなった。
 背後に人の気配を感じ、振り返る。
 背の高い端正な顔立ちが冷たく優司を見下ろしていた。
 それが誰かを視認した途端、優司の背筋にたらりと冷や汗が流れる。
「家城くん、何?」
 品質部の家城が、冷めた目で二人を見比べている。彼は、優司と同期入社だった。一緒に飲みに行く程度には仲がいい。だが、冷静沈着な仕事ぶりで評判な彼が、実はなかなか厄介な性格をしていると知っている数少ない人間である優司は、彼と二人きりになるのは苦手だった。しかも義隆と同じく優司の相手を知っている。
「二人とも仕事をしている様子には見えませんね。何をしているんです?」
 ちくりと嫌みを込めてぶつけられた台詞に、優司は苦笑いを向けた。
「ちょっとね。ところで何か用?」
 用がないんだったら帰って欲しいなあ……なんて思いながら家城を窺う。
「先日のクレームの件で篠山さんからの報告書をお返しに来たんです。そうしたら、こちらに篠山さんがいらしたものですから……」
 だったら、篠山さんに用事があるんじゃないのか?なのに、何で俺を見るんだ?
 眉間にしわを寄せる。
「篠山さん、はいどうぞ。ところで、本当にどうしたんですか?」
 優司が答えてくれそうにないと判断したのか、優司に向けていた視線を義隆に向け、その口の端を僅かに上げる。
 その伺うような声音に、義隆が何の警戒も抱かずに、答えた。
「滝本君がね、寮を出るのに引っ越し先が決まっていないっていうもんだから……」
 その台詞に、優司は血の気を引くのを感じた。
 だ、駄目だって!
 あはは、と笑っている義隆をつんつんと引っ張る。
「まずいんだって」
 小声で囁くが、義隆は何がまずいのか判っていない。
 不思議そうに優司を見る。
 しかも手遅れ。家城がその顔に笑みを浮かべた。
「相変わらず、ですねえ。滝本さんは……。確か滝本さんの誕生日は4月1日でしょ」
「よく、覚えているね」
「そりゃあ、覚えやすい誕生日ですから」
 家城がにこにこしている。
 普段あまり表情を変えないこの家城が、こんな風に笑うときにはよからぬ事を考えているんだ……。
「そういえば、私のマンション、空き部屋がありましたよ。部屋も家賃もそこそこですし、一度ご覧になると良いですよ」
 げ!
 冗談だろ。家城君と同じマンションなんて……。
「あれ、家城さんはまだ28でしょう?もう寮を出てたんだ?」
 不思議そうに首を傾げる義隆に、家城は頷き返す。
「ええ、前のコーポは周りが煩くて、あまりいい環境では無かったので、3ヶ月ほど前に引っ越しました。今のマンションは、防音に優れてますし、環境はいいですよ」
 何気に「防音」という言葉を強調する。
 うう、こいつは……。
 深くなった眉間のしわに気づいている筈の二人が、優司を無視して会話を続ける。
「へえ、どこ?」
「赤田(あこだ)にあるガーデン・赤田です」
「え?」
 義隆が目を丸くする。その言葉に優司もぴくりと反応した。
 そこって……確か……。
「俺もそこなんだけど……1号棟だけど」
「ああ、そうなんですか?私は2号棟です。確か、1号棟も空き部屋がありましたね」
「そういえば、空いている部屋があったな。そっかあ、家城君もあのマンションだったんだ。あそこいいよね。リーズナブルな家賃の割には、そこら辺のコーポよりいいしさ。人気があるって聞いていたけど、今空いている部屋あるんだよな」
「ちょうど引っ越しシーズンじゃないですか。石中不動産さんが、借り手を捜しているって聞いていたものですから」
 う、わあ……。
 何か、この会話の進み方はまずいような気がする。
 優司がそろりと椅子を動かす。
 逃げよー、と……。
 だが、その判断は遅かった。
 するっと家城の手が優司の肩に置かれる。
 押さえられ、立ち上がることができなくなって、思わず家城を見上げる。
「ちょうどいいや。滝本君、今週末見に行こうよ」
 言い出したのは義隆だった。
「そうですよ。私も案内しますから」
 当然のように家城も頷きながら言う。
「本当にいい物件だと思うよ」
 邪気のない義隆の言葉と、
「ぜひお奨めしますよ」
という、邪気が込められた家城の言葉に、優司はひきつった頬がひくりと動く。
「行きますよね」
 家城の冷たい視線に射すくめられ、優司は頷くしかなかった。
「あ、でも、見るだけだよ。その前に石中不動産、行きたいし!」
 それでも何とか言葉を返す。
「あ、それも付き合う。どうせ暇だし」
 なぜか楽しそうな義隆に、優司はため息をつくしかなかった。
 暇って……暇つぶしか、私の部屋探しは?
「そうですよ。みんなで意見を出せば、いい案件が出てくるかも知れなし」
 その言葉から推測するに、家城も付いてくると言うことだろう。 
 すっかり意気投合している二人に優司が敵うはずもなく……結局土曜日の10時に優司の家に集合となってしまった。

 

「ほら、今のコーポより部屋数多いし、設備もいいだろ。決めちゃえよ」
「そうよお、こんないい物件、今逃したらもうないわよ。今って引っ越しシーズンじゃない?だから空いているんだけど、結構すぐ埋まっちゃうのよ、ここ」
 義隆の言葉に覆い被さるように、元気の良い声が響く。
 すでに初老の域に達している石中不動産のおばちゃんだ。
 石中不動産を訪れた優司達は、既に家城が連絡していたせいもあって満面の笑みを浮かべたこのおばちゃんに出迎えられ、その足でガーデン・赤田の空き部屋へと向かった。
 既に何もかもお膳立てされている様子に、優司は冷や汗を禁じ得ない。
「2号棟も空いているんだけどね、こっちの1号棟の方がお奨めなのよ。ちょっとだけ古いからね、といつても1年ほどしか違わないし。それなのに、家賃がちょっとお安いのよ」
 放っとけば、何時間でもしゃべりそうなおばちゃんに適当に相づちを打ちながら、ひたすら優司は悩んでいた。
 確かに間取りも立地条件も希望通りだ。
 防音性は義隆が保証している。
「俺んとこと、間取りは一緒だな」
 8階に住む義隆がぐるりと見渡して呟いた。それに頷きながら、家城が台所を見ている。
「私の方は、ちょっと部屋の構造が違いますけどね。概ね一緒ですよ。1年しか違わないのなら、少しでも安い方がいいでしょ」
「6階の住人て、一人暮らしが多かったですよね」
 義隆の言葉に、おばちゃんも頷く。
「そうね。でも、みんな身元のしっかりした人たちばかりよ。なんと言っても私が紹介しているんですからね」
 胸を張るおばちゃんに、優司は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
 まずいな……押し切られそうだ……。
 優司はどうもこういう元気のいいおばちゃんが苦手だった。しかも、付いてきた二人もすっかりおばちゃんの言葉を後押ししている。
「もう30になるんでしょ。だったら、この位の部屋に住んでいつでも嫁さんが来られるようにしとかなきゃ。安いって言っても単純な安普請の名ばかりマンションじゃないのよ。ちゃんとしたマンションの形態とっているんだから。その年で賃貸とは言え、マンションに一人暮らしって言ったら、女の子だって寄ってくるんじゃない」
 けらけらと笑いながら背中を叩かれ、優司は苦笑を浮かべた。
 女の子を呼び込むつもりはないんだけど……。
 先日の電話の一件以来、一向に連絡してこない恋人を思い出す。
 怒っているんだよなあ……。
 滅多に喧嘩することはないのだが、忙しさのストレスもあって二人して苛々をふづけてしまったような気がする。後悔はしているのだが、どうもこちらから電話をするのは気がひけていた。
 逢うことができれば、あっという間に仲直りできるのは判っていた。
 そういう力を秀也は持っている。
 だが、この3月はお互いに忙しすぎる……。
 考え込んでいる優司に、おばちゃんは判断に迷っているのだと思ったらしい。
「も、うじうじ悩んでないで決めちゃいなさい。お宅の会社だったら、身元や保証はしっかりしているし、こっちも手数料おまけしちゃうからさ」
 その手にばさりと置かれた封筒。
 中を開けてみると、契約書類1セットだった。
 用意がいい……。
 優司は、秀也への想いを断ち切って、現実問題に対応することにした。
 確かに、このマンションは優司の希望通りなのだ。
 それに関しては、おばちゃんの言うとおりだと思う。 
 ただ、問題があるとすれば、同じ棟に義隆が、隣の棟に家城がいることだ。
 単純に一人で暮らすのならともかく、秀也が泊まりに来る。
 二人とも、そのことは知っているとは言え……知っているからこそ、できれば一番近くに住みたくない二人だった。
 優司は家城が苦手だった。
 初めてあったときから、誰かに似ていると思っていたのだが、最近になってようやく、兄の智史に似ているんだと判ってきた。とにかく油断がならない所がある。落ち着いているときはいいのだが、何かの拍子にむやみやたらに人をからかいたくなるその性癖を持つ相手には、近くにいて欲しくない。それでなくても、優司はその格好のネタになりやすいのだと、自分でも自覚していた。
 それに秀也の方もねどうも義隆を苦手としていた。
 みんなと一緒に集まるときはともかく、決して二人切りになろうとはしなかった。
 秀也が言うには、「義隆の強い意志に引きずられそうになりやすい」と言うのだ。どうも波長が逢いやすいらしいのだがねどうも優司にはその辺りには理解できないところがある。もっとも、引きずられてキスにまでもつれ込んだ二人だから、優司としても二人きりにはさせたくない。
 ……そんなことをおぼろげに思い出しながら……それでも、絶対嫌だとは言えない理由もあった。
 時間がないのだ。
 後3回しか週末がない。
 最後の1回は引っ越し日にあてたい。
 となると、そうそう迷っている暇はないのだ。
 住んでいる二人が奨めるんだから、そう悪いことはないだろう。
 だか、できれば秀也とも相談したかった。
「今度までに印鑑証明なんか揃えといてね」
 何の躊躇いもなく言われたその言葉。
 もう優司が契約するものだと決めてかかられている。
「さてと、今度は引っ越しのスケジュール決めないとな」
「そうですね」
 すっかり意気投合している義隆と家城は、とうの本人をさしおいて、どんどん話を進めていた。
 本当にどうしよう……。
 此の期に及んで、優司はまだ決心がついていなかった。
 結局、他の物件を見る機会はなかった。
 にこにこ顔のおばちゃんが、来週までに書類揃えて置いてね、と別れ際に言う。
 それに優司は頷くしかなった。
 断る理由が、あの二人がいるから、なんて、あの二人の目の前ではとても言えなかった。
 部屋に帰った優司は、しばし電話の前で佇んだ後、大きく息を吐いて、電話番号をプッシュした。
 空で覚えている秀也の電話番号だ。
『はい、笹木です』
「もしもし……優司だけど」
『あ、ああ、どうした?』
 どうした……と言われても……優司は言葉が続かなくて口ごもってしまった。
 どことなく冷たい感じがする秀也の声に、少なからずショックを受けたのも事実。
『優司?』
 返事の返ってこないことへの不審感からか、秀也が苛々と問いかけてくる。
 まだ怒っているんだろうか……。
 ぎりりと唇を噛み締める。
 いつもこうだ。
 かっとなって要らないことを言ってしまって、後で悔やむ。
 何かを言わなければと思うのだが、それが言葉になって出てこなかった。
 暗く冷たい沈黙が双方に漂う。
 と。
『……優司、俺怒っていないからさ……』
 急に電話口から聞こえてくる秀也の声が優しくなった。
「あの……」
『怒っていると思ってんだろ。ちょっと忙しくて電話できなかっただけ。今日も出勤だったんだ』
 優しく言い聞かせるように秀也の声が聞こえてくる。
 それだけで胸の奥が熱くなる。
『優司って、俺が少し機嫌悪い声出すと、すぐ勘ぐるだろ。まあ、確かにこの前の優司のおおぼけには腹がたったけどさ』
「なんだよ、それ……」
 苦笑いを浮かべようとして失敗する。
 溢れた涙が頬を伝った。
『ほら、すぐ泣くんだから。優司の声聞いたら、だいたい今どういう状況か判っちゃうんだよな。ほんと、単純でさ……』
 からかわれているのに、その声がひどく優しげで、優司は溢れる涙を止めることができなかった。
『ほんと、ごめんな。すぐ電話すれば良かったんだけど……たまには、お仕置きしないと、優司のおおぼけ治らないかなあって……だから、泣くなよ』
「何か、ひどくないか、それ……」
 ぐいっと溢れた涙をふき取った。すっかり見破られていることが恥ずかしいから、その声音に不機嫌さを滲ます。
 だが、秀也のどことなく笑いを含んだ声の調子は変わらない。
『じゃ、ぼけてないって証明できる?』
「そんなこと、どうやって証明するんだよ」
 だいたい証明できるくらいなら、こんな暗い気分で電話なんかかけなかった。
 脳裏に浮かんだその考えに、またまた落ち込みそうになる。
『ま、それが優司なんだけどねえ……それで、何かあったのか?わざわざ電話してくるなんてさ』
「用事がないと電話しちゃ駄目なのか」
『喧嘩している時には電話してこないだろ、優司は。たいていメールで謝ってくる癖に』
「……」
 図星だった。
 というより、メールより何より今は声が聞きたかった。
 また、ぼけと言われようとも。
『で、何か言いたいことがあるわけだろ。言って見ろよ』
「うん……あのさあ、部屋決まった……」
 正確にはまだ契約まではしていないが、いまの状況なら決まったと言った方がいいだろう。
『へ、えー、優司にしては早かったなあ。一応、心配はしていたんだからね』
 秀也のほっとしている声に優司もほっとしてくる。だけど、言いたいことはそれだけじゃない。
「でもね、問題が一つあって……」
『何?同居人不可、とか?』
 冗談交じりの声に、苦笑をまじえて答える。
「同じ棟に、篠山さんがいるんだ。で隣の棟に家城くん」
『嘘……』
 秀也が一言言って息を飲んだ。
「そのさあ、今日見に行くときにその二人も一緒に行って、ほとんど押し切られてしまった。あ、でもね、それ以外の条件は良いんだよ、ほんとに」
 黙ってしまった秀也の機嫌を取るように慌てて優司は言い募った。
「ほんとに、条件は良いんだって」
『でも家城くんが居るんだろ。篠山さんは……まあ、いいけど……』
 暗い声が電話口に響く。
「でも、隣の棟だし、ね」
『まったく……まあ、優司がぼけっとしているから、なんだよな、元はと言えば』
「それは自覚しているから、何度も言うなよな」
 電話口でむすっと口をとがらす。
 ほとんど契約寸前までいっている今の状況を覆すには、今以上の物件を探さなければならないが、今の優司ではそれは無理だ。
『やっぱ、行けば良かった。だいたい、優司が家城くんに敵う訳ないもんな。篠山さんも結構強引だし……』
「ごめん……」
『まあ、しょうがないよな。4月に入った途端路頭に迷うわけにも行かないし……で、引っ越しはいつなんだ?俺の荷物もあるだろ』
 優司の神妙な声に秀也が諦めたように喋る。無理に明るいその言葉遣いに申し訳なく想いながらも、優司はそれが嬉しかった。
「うん、3月の最後の土曜日にする」
『そっか、俺もそれまでに一度はそっちに行くから。……て言いたいんだけど……無理かも知れない……』
 申し訳なさそうな声が響く。
「大丈夫だって、秀也の荷物っていっても、そうたいした量じゃないし、こっちで箱詰めしとくから」
『ごめん。頼むよ。今不景気だから、計画かなりシビアに出さなきゃいけないんだ。かといってマイナスじゃあ駄目だし……』
 いずこも同じか……。
 状況が判るだけあって、優司も頷くしかない。
「まあ、そっちがちゃんとした計画立てないと、こっちも計画立てられないからね。がんばってよ。プレゼン会議の時は、新しい部屋に泊まれるようにしておくからさ」
『ああ、楽しみにしているよ』
 それでもその声は、どことなく暗かった。

 

 結局、優司はそのマンションで契約を交わすことになった。
 いろいろと思い悩んでは見ようとしたものの、結局そう思い悩むほどの時間的余裕がない。
 トントン拍子に進んだその契約は、3月30日入居で3月31日に前のコーポの契約解除というぎりぎりの日程で決まってしまった。
 電話・電気・水道・ガス等……必要な手配も1日の休みで一気に済ませ……計画書の提出が遅れ気味だったせいで、とりまとめ役の三宅に思いっきり睨まれたが……なんとか無事引っ越せそうだという所まできた。
 引っ越しには業者を頼むのは止めた。
 というか、頼もうとしても、当日は既に業者の予定が一杯で依頼しようにもできなかったのだ。
 結局、知り合いに頼んで人海戦術で行うことになった。
「俺と、橋本と、緑山が行くからな。恵も行くって行っていたし……ああ、橋本が軽トラ持っていくって」
 義隆が嬉々として優司に報告してくる。
「はあ、ありがとうございます」
 可哀想に……。
 優司は篠山チームのメンバーに同情を禁じ得ない。
 あのチームは、リーダーの我が儘に振り回されることに慣れきっているのか必ずメンバーが出さされる。何かの時には結構迷惑をかけてしまうことになるのだ。
 やっぱ篠山さんに相談したのってまずかったかなあ。
 ひくついた顔で篠山の席の方を窺うと、優司の部下の高山と橋本が何事か話をしていた。
「高山君も行くんだろ」
「ええ」
 そちらの方を気にしながら、義隆の言葉に相づちを打つ。
 何話しているんだろう?
 優司よりもはるかにきちんとチームを率いてくれる高山には絶大な信頼はかけているのだけど、どこか情けない気持ちになるのも否めない。
 また、どうしようもない迷惑かけっぱなしの状態になっているんだろうなあ……。
 気分が滅入ってしまうのを、なんとか堪える。
「うちとこからは、後鈴木君も出てくれるんです。それと、竹井君と安佐君、それに家城君が来てくれます」
「竹井君と安佐君?何で?」
「あ、竹井君は家城君と一緒で同期なんです。その関係で、話したら来てくれるって。安佐君も竹井君から話がいって……」
「ああ、そうなんだ」
 疑問も持たずに頷いてくれてほっとする。
 この辺りの人間関係まで説明したいとは思わないし、するのもまずいだろう。それでなくても、自分たちの関係だって人に本来言えるものではないのだ。
「で、少しは荷造りできたのか?」
「それが、少しだけなんです。最近、早く帰れなくって」
 情けなく笑う。
 それは義隆もそうなので、しょうがないなと首を竦めていた。
 本当に、この時期いろいろと忙しい。
 毎年、自分の誕生日の祝いですら、4月も終わろうかという頃にやっと行える位だ。秀也と付き合う前などは、新入社員が入ってきて、ああそうか、という感じだった。
 今年ほど、誕生日を認識したことはない。
「それじゃあ、まあ、明日がんばろ」
 ぽんと肩を叩かれ、義隆が自席に戻る。
 いつもなら延々これ幸いと無駄話に高じる義隆も、とりあえず来週に迫ったプレゼン会議の準備に仕事をせざるを得ない状況。
 こればっかりは部下達に押し付けるわけにはいかない作業に、連日連夜リーダー達の残業が続いていた。
 ぎりぎりまでかかってやっと昨日の日付の内に完成した資料。
 だから帰り着いたのは、1時を過ぎようとしていた。
 それから少しでも、と片づけを始めたが、襲い来る睡魔に勝てずに結局寝てしまい……。
 最初に訪ねてきた竹井に叩き起こされた始末だった。
 だが。
 一通りの頼んでいた人達が集まってきたとき、その中に見慣れぬ人を見つけた。その彼を恵が紹介する。
「穂波さん、ですか……」
 恵の上司だという。
 一面識もない彼がいる事に戸惑いしかない。だが、気さくな感じでもあるし、何より恵が相手をしてくれるのだろう。
「兄さん、穂波さんね、ぜひ手伝いたいって聞かないんだよ」
 恵が、苦笑いしながら優司に説明する。その横で、何故か義隆が思いっきり渋い顔をしているのは放っとくとして……その横で、穂波と親しそうに話をしているのは、確か緑山君。
 仲良いんだ……。
 優司でもそれが判る位打ち解けている二人。それを恵が苦笑を浮かべながら見ていた。
 もしかして……そういう関係なのかな?
 ふと、そう思ってしまう。
 自分がそういう関係になっているので、最近になってようく人と人との関係が只の親友なのかそうじゃないのかが、なんとなく判るようになってしまった。もちろん秀也ほどではない。秀也にかかったら誰も隠し事なんかできやしないのだから。
 ただ、判りだしてから……自分達もできるだけそういう点では気をつけるようにはしていた。
「橋本のとうちのとで2台あれば便利でしょ」
 何でも万事そつなくこなす高山の配慮で、軽トラが2台、来ていた。
 高山と橋本がただの親友だと言うことは、判っていた。
 ああいう関係でいることが羨ましいと思うこともある。普通だから、他人の目を気にしなくていい。だけど、そういうつきあいではすまなかった自分達。
 みんな、そういう事考えたりはしないんだろうか……。
 男と付き合っている人達にすら聞けなくて、優司はいつも一人でそういう事を考えて、どうしても落ち込むことが避けられない。秀也といるときは楽しくて、そんな事を考えなくてすむのに。
「滝本さん?何をまた考え込んでいるんです?」
 またいつものが始まった。
 高山の顔がそう言っている。優司は曖昧な笑みを浮かべる。
「ごめん、ありがとう……」
 優司は、とりあえず頭の中から暗くなりそうな思考を振り払った。
 今は、とりあえず引っ越しを終わらさないといけないのだから。
「どういたしまして。いつものことですから」
 ちくりと来る嫌みは、まあいつものこと。苦笑を浮かべて聞き流す。
「さて、おーい、橋本ぉ!向こうへの道、判るよな!」
 高山が早速、橋本と打ち合わせに入る。
「OK。じゃあさ、滝本さん、竹井さん、安佐くん、家城さん、篠山さん、こっちの運び出ししてください。俺と緑山くんと穂波さんと弟さん向こうの受け入れ。橋本と鈴木君が軽トラね……これで余っていない?」
 てきぱきと指揮する高山に優司も従うしかない。
 高山も橋本も、ある意味ずっとリーダーらしいのかも知れない。
 彼らがいるから、滝本チームも篠山チームも成果を上げていられるのだ。
「おーい、滝本君、さっさと段ボール詰め、残っているのやろう」
 ぼおっと出発する連中を見送っていると、義隆に部屋に引っ張り込まれた。
「あ、はい」
 だいたいは仕事から帰ってからちまちまやっていたのだが、まだかなりの分量が残っていた。二人で流れ作業的に詰めていく。それを家城が、蓋をして中身を表書きをした。
「今日は笹木君は来れないんですか?」
 家城がペタンとガムテープを貼りながら、優司に視線を向けた。
「うん、月曜からのプレゼン会議用の資料、まだできていないって。明日の最終でこっちに来るって言っていた」
 視線を箱に向けたまま、物を詰め込んでいると義隆の手が止まっているのに気が付いた。
 義隆が訝しげな目で優司と家城を見やる。
「どうしたんです?」
 問いかけると、戸惑うように優司を見、そして小声で問いかける。
「もしかして……知っているのか?」
 それが何を表すかが判って、返事の代わりに苦笑を浮かべる。
「知っていますよ。誰が誰と付き合っているか。うちの会社の人間関係はだいたい把握しています。もちろん、篠山さんのもね」
 家城が手を止めて、にやりと笑った。
 その言葉に義隆の顔から血の気がひいた。
「どうして?」
 その声が微かに震えている。
 優司は、微かにため息をつくとそっぽを向いた。
 それでもまだ義隆達は、家城の犠牲にはなっていない。それがどんなに幸せなことか……。
「何となくね、判るんですよ。その人の性癖っていうか……。私の趣味ですよ。人間観察は。篠山さんなどは比較的判りやすいですし。ああ、他にもそういう関係の方がここにいるようですねえ」
 こともなげに言い放つ言葉に、義隆は絶句する。
 手が止まってしまった義隆の代わりに、優司はひたすら箱に詰め続けた。
「ああ、気になさらないでください。公言するつもりはありませんから」
 それでも義隆の顔色が戻らないのは、本能的に危機を感じているのかも知れない。優司は、ちらりと家城を見ると、その手元に一杯になったダンボールを押し付けた。
「あんまり人を脅かすなよ。犠牲者は私達だけで充分だ」
「そんな、犠牲だなんて……私が何かしましたっけ?」
 白々しいその言葉を竹井達に聞かせてやりたいと、マジで思った。
 最近の犠牲者である竹井と安佐は、今頃一緒の作業でなくてほっとしているだろう。
「篠山さん、家城君と酒だけは飲みに行かない方がいいよ。まあ、会社で逢っている分には問題ないから」
「そう、なのか?」
 不審そうな義隆に、優司はひきつった笑みを向ける。
「今のところはね」
 優司の言葉に義隆はまじまじと家城を見、そしてふっと尋ねる。
「……それで、家城君はそういう相手はいないの?……その男相手ではなくて女でも……」
 家城の評判は義隆達も知っている。
 クールで知的で仕事に厳しく顔もいい。
 その冷たさがいいのよ、という女性社員の人気の的であることは。
 それを指して言っているのだ。
「いませんねえ。誰かと付き合いたいと思ったことはないです。この人は、っていう人は……たいてい相手がおりましたし……。それに、どうしてもその人のアラが見えてしまいますし、そういう所まで含めて付き合ってみようと言う対象がおりませんので」
 さらりと言ってのける家城が、男と女の部分を無視したことに、二人は敏感に感じ取っていた。
 この人もか……。
 優司は今までのつきあいから、そうではないかという気がしていないでもなかった。だが、それを認識するのが怖かったのだ。
 なんだか、知ってしまったことによって今まで以上に引っかき回されそうな気がしてきた。それは、竹井達を見ていると想像ができる。
 ひくりとひきつって顔を見合わせている優司と義隆に、家城が意味ありげに笑みを浮かべた。 それは、本当に楽しそうな笑みだった。
「あのさあ……先に詰めてしまおう。話は後、ということで」
 このままではまずいような気がして、優司はわざと話を逸らす。
 義隆もうんうんと頷くと、前以上にペースを上げた。
 家城も次々梱包を始めた。
 優司は、寝不足も手伝ってどことなく疲れを全身に感じ始めていた。
 それまで、今までにできていた段ボール箱や、空になった家具を運んでいた竹井、安佐、橋本、鈴木の4人がどやどやと部屋に入ってきた。
「だいぶできたようですね。じゃあ、運びますよ」
 橋本の声の元、4人ができあがった荷物をどんどんと運び出していく。
 時折、がしゃがしゃと音が鳴っていたが、皆我関せずと運んでいった。そのアバウトさもあって、こちらからの運び出しは2時間もすれば終わった。

 

「後は、掃除だ……」
 がらんとした部屋を見渡しながら、多少うんざりとした雰囲気の義隆に、優司も苦い顔をして頷く。
 いかんせん、男の一人暮らしだ。
 それほど料理はしていないにせよ、それでもつもり積もった油汚れ。風呂場のカビ……。積もっているほこり。このままでは返せない。
「さて、やるか……」
 義隆がぽつりと呟いたとき、
「優司兄さん」
 玄関から穂波と恵が入ってきた。
「はい?」
「兄さん、あっち行ってよ。俺達で掃除するから」
 その二人の後ろから緑山がぺこりと頭を下げて入ってきた。その手に、バケツと雑巾が握られている。
「兄さんって、掃除道具まであっちに送ってたよ。どうやって掃除するつもりだったの?」
「え、そうだった?」
「ほらほら、行った行った。今度はどこに置くか、で、向こうの指揮してよね。他の人たちにも行って貰ったから……」
「あ、ああ、じゃあ頼む」
 優司は、家城と共に引っ越し先へと向かうことにした。
 自分の車に、残っていた細々とした物を詰め込んで出発する。
 車の中で、家城が面白そうにくすりと笑った。
「何?」
 それに不吉な予感を感じ、嫌そうに問いかける。
「いえ、あの、穂波さんてやっぱり男と付き合う方なんですね」
「げっ」
 あまりの事にハンドル操作を誤りかけた。
 ぐらりとふらつく車を慌てて、制御する。
「どうして?」
 発言のせいか運転のせいか、区別のつかない冷や汗が流れる。
「だって、仲良さそうですよ。彼と」
 その彼という単語に、緑山の顔が浮かぶ。
「やっぱり、そうなんだ……」
 思わずついて出た言葉に、家城が視線を寄越す。
「類は友を呼ぶんですよね。こんなにたくさんの同性愛者がいるというのも珍しいですよね」
「……別に好きで、同性を好きになったわけじゃない」
 そうだ。
 隙になった相手がたまたま同じ男だったというだけだ。
「そうでしょうかね」
 くすりと笑う。
 それがなんだか馬鹿にされているようで、優司はムッとした。
「いいじゃないか。男を好きになったって……」
「別に悪いとは言っていませんよ。ただ……」
 ふと言葉を切る家城を横目で窺う。
「ただ、何?」
「まあ、独身者が多いってことは風辺りが分散するんでこちらとしてはうれしいんですけどね。結婚していない人がたくさんいるから、私はまだまだいいんですって言えるでしょ」
「……」
 確かに、男相手では結婚できない。
 つき合い続ける以上いき送れみたいに言われるのは仕方がないだろう。
 30歳か……。
 優司にしてみても、男親はもういないが、母親がいる。
 何かに付け、見合い話を持ち込もうとしている話は兄たちから聞いていた。優司や恵の相手を知っている兄たちがそれを防いでいるということも知っている。
 信号にひっかかって車を止める。
 それを待っていたかのように家城が口を開いた。
「私もね、いろいろと言われるんですが、さすがに親にカミングアウトする気はないですね。男しか好きになれない、なんて言ったら親が卒倒してしまいますし……」
「え!」
 あまりの事に硬直してしまった優司を家城が面白そうに見やる。
 男しか……って……。
「会社の人にこんな事話したの、滝本さんが初めてなんですよ。誰にも言わないでくださいね」
 やんわりと言ってくれる家城に、優司はただ真正面を見つめてこくこくと頷いた。
 言えるか、そんなこと……。でも秀也には隠していてもばれそうだ……。
「私はね、みなさんと違って、マジでそうなんですよ。今までこれは、と思った人がみんな男性なんですよね。大学時代にも遊びでつき合ったことはありますが、やはり男性でしたよ」
「そう、なんだ……」
「だから、判るんですよ。男を相手にする人って……あの穂波さんって人も、どっちかというと男の方が良いっていう感じだってすぐ判りましたし。まあ、年上にはあまり興味はありませんけど。私の好みは年下で、ちょっとひ弱そうな子かな。からかって面白い反応しそうな人」
 くすくすと笑う家城。「そういう人ってどこかいませんかね。竹井君も年下だったら、結構好みだったんですけどね。でも彼もあっさり男性を好きになってしまうし……」
 滅多に見せない表情で、饒舌になっている家城。
 今まで誰かに話したくて仕方がなかったという雰囲気に、滝本は何も言えなかった。
 家城が竹井に構う理由が判ったような気がした。
「家城君って……ホモだったんだ……」
 ぽつりと呟く。
「そうですよ。でもね、だけど本当に気に入った人ってのはいませんでしたし、誰でもいいとは言いませんよ」
「何で私にそれを言うわけ?」
「滝本さんなら、言いふらしたりはしないでしょ。笹木君だって、言いふらすタイプじゃないし。彼なんか別に秘密めいたとこ持っていません?人なつこそうだけど、どこか引いた感じしますからね。そういう人って、他人の秘密を言いふらしたりはしないでしょ」
 何もかも判っているよ、というような言い方。
 優司は、背筋に冷や汗が流れる。
「言いふらしたりはしないよ。私も秀也も……」
「だから、話したかったんです」
 家城がくすりと笑う。それが怖い。
 せいぜい酒癖が悪いっていうだけ知っているならそれで良かったのに。それに加えてホモ……。
 これは、絶対に秀也にも言って、二人の秘密にしよう。
 でないと、こんなの一人で持っているには重すぎるし、家城の攻撃は受けたくない。知っていると言うことが家城のからかいの種になるのだ。普通逆じゃないのか……とは思うのだが……。
 優司が家城と一緒に新しい部屋に向かった頃。

「さ?て。敬吾、換気扇とるから、その洗剤をかけといてくれ」
「はい」
 穂波の言葉に緑山が腕まくりをして、油汚れ用の洗剤を手に取る。
 その背後に息の合った二人の様子を呆然と見ている義隆の姿があった。
 二人が一緒にいるのは、クリスマスの前日、街中であって以来だった。
 穂波が、これからデートなんだよ、と待ち合わせしていたのが緑山だった。
 デートの行き先がどこなのかは知らない。
 あの後、会社で視線を合わせようとしない緑山に聞きたいことは多々あった。だが、聞ける物じゃなかった。話しかけようとした義隆を見上げた緑山が微かに顔を赤らめたのが判ってしまった。
 聞ける訳がなかった。
 ただ、どうしても信じられなくて、それ以来考えようとしなかったこと。
 それが今目の前で証明されている。
 やっぱり、そういう仲なんだ。
 こうしてみると、仲睦まじさというのが伝わってくる。
 ちらりと緑山が義隆の方に視線を向けた。その顔に困ったような照れたような苦笑が浮かぶ。
「ん?」
 それに穂波が気付いた。緑山の視線の先にいる義隆に気付く。
 二人を交互に見やった穂波が、意地悪げに口の端を上げた。
「篠山さん、何か用?」
「い、いえ……」
 突然話しかけられ、手に持っていた洗剤を落としかける。
 まずい、か……。
 逃げ腰になっている所に穂波に指摘される。
「滝本君が風呂場の方にいったから、手伝ってよ。こっちは二人で十分だから」
「あ、はい。そうですね」
 義隆は慌てて、言われるがままに風呂場に向かおうとした。
 と。
 穂波が傍らの緑山の腰を抱き寄せるのが目に入った。
「ち、ちょっと!」
 慌てる緑山の声が何故か遠くで聞こえた。
 その光景が目に入った途端硬直してしまった義隆の目の前で、穂波が緑山を抱き寄せ、そして濃厚な口付けをして見せた。突然のことに目を見開いてひどく抗う緑山の抵抗をねじ伏せ、深く熱く口付ける穂波。
 見せつけられた義隆は、ぽとりと洗剤を落とした。
 かたんと床に落ちるその音に、はっと我に返る。
 な、何、やってんだ!
 混乱している頭がそれでも急いでここを離れろと警告してくる。
 慌てて洗剤を拾い上げた義隆は脱兎の如く、風呂場へ直行した。
 赤く染まった緑山が恥ずかしそうに目をそらせるのが視界の隅に移るのを振り切るように、ドアを閉めた。
「どしたの、義隆?」
「あ、ああ」
 赤くなって汗すらその額に浮かべている義隆に、恵が訝しげに声をかける。肘までたくし上げられた手で、義隆の頬に触れる。水を使っていたのだろう、その冷たい掌が心地よかった。
「どうしたのさ」
 再度首を傾げながら問いかける恵に、義隆は曖昧な笑みを浮かべる。
「ちょっと……見せつけられた……」
「見せつけられた?」
 要領を得ないとばかりに恵が首を傾げる。
「穂波さんと緑山の二人……」
 はあっとため息をつく義隆に、恵はああ、とばかりに頷いた。
「あの二人ね。穂波さんって休みのたんびに逢ってて、俺にばっかのろけるんだ。まあ、他の人には言えない相手だろうけどね」
「よく判らないカップルだよな……」
「まあ、二人が良いって言うんだから別に外野がとやかく言ったってしようがないよ。それに下手に突っ込むと、こっちにとばっちりが来そうだもん」
「それもそうだ」
 わざと見せつけられたのだとは判っていた。
 本当に、下手なことをするとえらい目に遭いそうだと、心の奥底で警戒信号が明滅する。
「ま、あの二人の事はいいからさ、さっさと終わらせようよ。終わったら向こうで宴会するっていってたじゃん」
「ああ、そうだったな」
 義隆はため息をつくと、洗剤を壁にスプレーする。その背後で、恵が浴槽に入ってそちら側の壁を擦っていた。
 緑山……結構色っぽかったな。
 先ほどのキスシーンが頭の中に浮かんでくる。
 それに煽られるかのように、義隆の胸の内にもやもやとした劣情が沸き起こる。
「恵……」
 押し殺すかのような声が漏れた。
 その声に恵が、何?というように義隆へと振り向く。
「恵」
 義隆の手が恵の躰に伸びた。
 浴槽越しにきつく抱き寄せる。
「よ、義隆!」
 突然の行為に恵が呆然と立ち竦む。驚きに開かれた唇に誘われるかのように、義隆は唇を押しつけた。
 柔らかい愛すべき恋人の唇を、義隆は我を忘れて味わう。
「んんっ」
 恵が義隆から離れようと藻掻く。それをさせまいと義隆は、さらに腕に力を込めた。
 恵の咥内に入った舌で恵の舌を捕らえようとする。逃げを打つその舌を絡め、きつく吸い上げる。
 恵の躰から力が抜けていく。
 恵はキスに弱い……いや、義隆のキスに弱いのだ。
 それを知っていて義隆は、加減をせずに恵の口を貪った。
 完全に煽られたのだとは判っていた。それでも、求める心を押さえつけることはできなかった。それは穂波への対抗意識も合ったのかも知れない。
 義隆が恵を解放したときには、恵は力を失ってふらふらと浴槽の縁に手をついた。
「よ、義隆……何考えてんだよ……」
 抗議の視線を向ける恵の瞳は赤く潤んでいた。
「ごめん……でも欲しかった」
「欲しかったっじゃない!」
 恵の顔が怒りで歪む。
「信じられない!こんな所で!」
 ぐっと睨み付けられ、義隆は言葉を失った。その彼を押しのけるかのように、恵が浴槽から飛び出し、ドアを開けた。
 と。
 その恵がぴたりと止まる。
「ん?」
 恵がゆっくりと後ろに一歩下がる。それで、義隆からも外の光景が目に入った。
 2mばかり先で中の様子を窺うようにしていた穂波と緑山と目が合う。
「義隆の馬鹿!」
 恵が一声叫ぶと、ドアをばたんと閉めた。
 その勢いに、思わず顔をしかめる。
 外から聞こえる穂波の笑い声。それをたしなめる緑山の声。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿!」
 出るに出られなくなった恵が、浴槽に腰掛けひたすら悪態をつく。その顔が羞恥で真っ赤に染まっている。
「ごめん。すまんって、なっ」
 この年下の元気な恋人は一度怒るととても厄介なのだ。
 義隆はまんまと穂波に嵌められたのだとは気付いてはいたが、とりあえず目の前の怒りまくっている恵をなんとかしようとひたすら謝り続けた。
「ごめんって、つい手が出たんだよ」
「どうせ穂波さんに見せつけられて、自分もって思ったんだろ。ったく義隆は単純なんだから!」
「ごめん、て……」
 手を合わせてご機嫌を取ろうとしている義隆の前に、恵がずいっと洗剤とスポンジを差し出した。
「掃除、してね」
 低い声が義隆を縛る。
「はい……」
 逆らえるはずもない義隆は、恵の分まで風呂場掃除に専念することになった。

 

「終わった、終わったぁ」
「カセットコンロ……どこだっけ?」
「篠山さあん、材料と道具、取りに行くんで付いてきてください!」
 引っ越しの作業もなんとか終わり、全員揃ってのご苦労様会を行う時間になった。
 総勢11人が揃うと、片づいていない段ボール箱の山も手伝って、結構狭い。
 一番広いリビングの荷物を押しのけ、空間を作る。
 宴会の材料や飲み物は、義隆の部屋に用意して置いた。それを橋本達が取りに行く。
 優司は、その騒々しい中から外れて、別室で貴重品の入った荷物を発掘していた。
「見つかったんですか?」
「見つかった」
 どこか笑みを含んだ家城の声に、振り向かずに答える。見覚えのあるスポーツバッグをやっとの思いで箱の山の中から引っ張り出す。
「普通、貴重品は自分で手荷物として運ぶ物でしょ」
「一応そのつもりだったんだけど、置いている内に一緒に運ばれちゃったんだよ」
 ムッとして言い返す。だが、振り返る気力はなかった。
 前日までの寝不足が結構応えているのと腹が空ききっているのとで、いい加減体力の限界だった。家城もそれが判っているのか、それ以上突っ込むことはしなかった。その代わりに、優司の手から荷物を軽々と取り上げる。
「さあさ、主賓がこんな所に籠もっていたら、宴会が始められないでしょ。この荷物は、この棚の上に置きますから、これで判らなくなることは無いでしょ」
「ああ、ありがと」
 優司はその荷物の行き先を確認すると、ほおっとため息をついた。
「ご苦労様でした。さ、食べましょう」
 いろいろ性格的には問題のある家城だが、決して嫌いではなかった。仕事に対する姿勢なんかは見習わなくてはならないとすら思う。今だって、いや、引っ越しの件だって面白がってはいたのだろうけど、ずっと手伝ってくれたのだ。
「ありがとう、家城君」
 改めて礼を言うと、家城がふっと口元を引き締めた。
「滝本さんって年上に見えないですよね」
 何気なく零された言葉。だから、優司もまたかと思った。
 それは、いつだってみんなに言われていた言葉だったから。
 だから、家城がぐいっと優司の躰を引き寄せるまで、気が付かなかった。その言葉の本当の意味に。
「い、家城君っ!」
 抱き締められ、すっぽりとその腕の中に入ってしまった優司。あまりの事に、一瞬逆らうことも出来なかった。
 途端脳裏に車の中での家城の言葉が思い起こされる。
??私の好みは年下で、ちょっとひ弱そうな子かな。からかって面白い反応しそうな人??
 年下に見えるって……そういう意味かあ!
 からかって面白い……なんて、いつだって秀也に言われている。雅人さんにだってしょっちゅうからかわれる立場の優司にすれば、それが見事に自分に当てはまる言葉だと言うくらいには認識していた。
 だから。
「ちょっと、待てって、私には秀也がいるんだ!」
 慌ててその腕を振り解こうとする。
「そんなこと知っていますよ。あの時、あなた達の口から聞く以前からずっとね」
「だったら何で?」
 一向に緩まない腕に、優司は焦りを感じ冷や汗が流れる。
「したいと思ったからですよ。それだけです」
 その真剣な口調。冗談ではないのが判ってしまう。だが、優司に何があったかなんて秀也にはすぐばれる。それが優司を思いっきり焦らしていた。
「離せって!」
「じゃあ」
 家城がくくと喉をならした。優司がぴくっと躰を強ばらす。
「キスさせて下さい。そうしたら、離してあげます」
「やっ!」
 やっぱりそう来たか!
 酒にも酔っていないのに……だが、このシチュエーションはいつもの宴会のパターンだ。
「家城君、もう酔ってんの?」
「お酒はまだ飲んでませんけど……でもあの雰囲気には酔っていますよ。みなさんのとっても熱い関係にね」
 じ、冗談!
 優司はその言葉を冗談にしたくて……だがいつもの家城と違う雰囲気に、息を飲む。
「い、家城君……離してよ……」
 だから懇願するしかない。
 まずいんだよお……。
 心の中で泣き声を上げる。
 何年か前に雅人にキスされたときのことが脳裏に宿る。あの時は、ごたごたしていた。秀也自身が原因の一つだったから、秀也は許してくれた。だけど、今は……。
 ぐいっと家城を押しのけようとした手を絡め取られ、その顔が近づいてくる。
 と、かちゃりとドアが開いた。
 その隙間から、竹井が顔を覗かせる。それが、中の光景を目にした途端硬直した。
「何?」
 優司を抱き締めたまま、平然と家城が首を傾げる。
 こ、こいつは?!!
 優司は、真っ赤になって掴んだ腕に思いっきり爪を立てた。
「っつ!」
 家城が痛みに顔をしかめ、一瞬その力が抜ける。その隙に、優司は家城の腕の中から逃げ出した。
「た、竹井君っ」
 再度掴まれそうになった腕をかいくぐり、竹井が突っ立っているドアに体当たりするように突進する。
「わっ!」
 竹井が反射的に後ずさり、優司を通す。運動神経の鈍さだけは誇れると思っていたが、それでもかろうじて家城の手を逃れることが出来た。
 優司が通り過ぎた途端、竹井はドアをバタンと閉じた。
 その勢いに、リビングにいたメンバーが呆然と優司達の方を見つめる。
「どうしたんだ?」
 ちょうど玄関から入ってきた義隆達が呆然と突っ立っている。その手にあるのはビールの入った袋。
「あは、はははっ……ちょっとね……」
 苦笑いを浮かべながら義隆に返事をする。その背筋に冷や汗が流れた。竹井が傍らで真っ赤になって立ち竦んでいた。
「また?」
 竹井のその言葉の真意に気づけるのは、ここには数人しかいない。
 こくりと頷くと、竹井がはあっと大きく息を吐いた。
「ビール、持ってきてくれたんだ?」
 未だ訝しげな義隆から、袋を受け取る。
「ああ」
 義隆はちらりとドアを見るが、それ以上の詮索はなかった。それにほっとする。
 まったく、あいつは……。
 それでなくても疲れている躰が、今の件でどっと疲れがさらに増した。
「まだ飲んでいないのに……」
 竹井の不審気な声に曖昧な笑みを向ける。
 覗かれたのが竹井君でよかった。
 優司はちらりと竹井を見ると俯いた。
 竹井はここにいるメンバーの大半がカップルだとは知らない。家城がそれに煽られたなどと、どうやって説明できよう。
「ま、いろいろとあるみたいだよ。家城君も……」
 はああ、と漏れるため息の意味に、竹井は困ったように苦笑を浮かべる。
 かちゃりと小さな音がして、背後のドアが開いた。
 反射的に身構えた優司と竹井に、出てきた家城が無表情な視線を向ける。
「いきなり閉めないでくださいね」
まるで何事もなかったかのようなその物言いに、二人とも言葉を発することもできない。
「おーい、ビール配ろうよ」
 リビングからの声に優司はほっと一息つくと、気分を無理矢理入れ替えた。
「行こ、竹井君」
「え、ええ、そうですね」
 とにかく、食べよう……それからだ。
 家城にはできるだけ飲まないように暗に釘を刺した。
 くすりと漏らした笑みは肯定ととっていいだろう。確かに、ビール一缶で済ましているようだ。
 それを確認してほっと一息つく。
 引っ越しがこんなに疲れる物だとは思わなかった。
 お金がかかっても業者を頼んだ方が楽だったのかも知れないが、そうなると希望日の引っ越しは無理だったろう。
 疲れたのは、家城のせいだ。
 よりによって……。
 ぐったりと壁にもたれていると、その隣に義隆が座った。
「随分とお疲れのようで」
 義隆が優司にビールの缶を握らせながら、その顔を窺う。
「ちょっと疲れた……」
 ほおっとため息をつく。それに義隆が驚く。肯定されるとは思っても見なかったというような顔だ。
「何?」
「いや、随分と素直だなあ……と」
「何だよ、それ」
「ん?、滝本君は俺に対しては突っ張っている所あるからなあ。ま、お兄さんとしてはしようがないかなあ、と思っていたけどね」
 その言葉にぞくりと悪寒が走る。
「篠山さんにお兄さんなんて呼ばれる筋合いはない」
 むすりとして言うと、義隆がくくっと笑う。
 ふっとその会話が実はまずい会話だと気が付いた。
 慌てて周りを見渡すと、皆それぞれに話し込んでいてこちらの会話に気付いているような連中はいなさそうだ。
「だいたい、何でこっちに来ているんです?恵の所に行っていればいいでしょ」
「それが……さ」
 義隆が口の端を上げて、ちらりと視線を恵に向ける。
 その先で、恵がどうみても不機嫌そうに義隆を睨んでいた。
「喧嘩、ですか?」
「ん?、まあ、そんなところ」
「何でまた?」
 ちょっとした好奇心が沸き起こる。
 確か、優司がこちらのマンションに移動する前はとても仲良さそうだった。それが何で?
「穂波さんに謀られちゃってさ……」
「穂波さんに?」
 その言葉に、緑山や橋本と和んでいる穂波の方に視線を移す。
「あの人って……そうだな、誠二さんと智史さんを足して2で割った感じの人、かな……」
「誠二兄さんと智史兄さんに?」
 その言葉に、さっと血の気が引いた。それが良い意味でないことがなんとなく判る。
「そう。直接的に間接的に、何か悪戯を仕掛けてくるタイプ」
 あ、ああ……やっぱり……。
「で、篠山さんはそれに引っかかったんですか?」
「……情けないことに、な。それより滝本君の方は?あの後、家城君がでてきてたな。彼もなかなか厄介そうだけど、何かされた?」
「はあ……彼は、酔うと智史兄さんに似てますから……今回は酔っていなかったんですけどねえ」
 それでお互い言いたい事が通じ合う。
 二人揃って、ため息をつく。
「どうして、俺達の周りってあんなタイプ多いんだろ……」
「どうしてでしょうねえ」
 類は友を呼ぶ……。
 そう言ったのは家城君だっけ。
 優司は頭をこつんと壁に押し付けると、天井を仰いだ。
「なんかもう、どうとでもなれっていう感じですね。明後日からはプレゼンだし……。あれが終わらないと……何も考えたくない、です」
 優司の言葉に義隆も頷く。
 義隆は手にしていたビールをぐいっと一気に飲み干すと、立ち上がった。
「な、俺、もう帰るから」
「もう、ですか?」
 優司が見上げた先で、義隆が苦笑を浮かべる。時計はまだ7時をさしたばかりだ。
「俺も、昨日は遅かったからな。それに……」
 ちらりと向けた視線の先は、恵……。
 あいつ、怒らせると厄介だもんな……。長年付き合ってきた兄弟だから、恵の性格は把握していた。
「はあ。ご苦労様です」
 引っ越しの件と恵の件と……曖昧な意味合いを持たせた言葉。
 義隆がそれに気づく。
「ああ、がんばるよ」
 くすりと笑いを漏らすと義隆は、橋本達に近づいた。一言二言、言葉をかけると橋本達がそれに頷く。
「じゃ、そろそろ解散しませんか。みんな疲れているし」
 高山の言葉がリビングに響く。
 それを合図に、各自てんでに帰り支度を始めた。
 飲み食いしたゴミを適当に袋に放り込む。全員で一斉にやると素早くて、あっという間に片づいてしまう。
「じゃ、滝本さん、後、がんばってくださいね」
 まず、高山と橋本、鈴木が玄関を出ていく。
「ああ、緑山君、送っていってあげるからね」
 穂波がついでのように緑山に声をかけると、緑山が困ったように眉をひそめた。だが、その頬が僅かだが赤くなっているのが見て取れる。それがアルコールのせいではないことが優司にでも想像できた。
 ほんと、仲いいんだ……。
「あ、穂波さん、俺は?」
「滝本君は送ってくれる人がいるだろ」
「う……」
 恵がちらりと義隆を見る。
「恵君、送っていくからとりあえず家に来ないか?」
「……ん、判った……」
 恵が仕方ないという風に義隆を見る。義隆が安心したかのように微笑んだ。
「じゃあ、兄さんゆっくり休んでね」
 たぶん今日は恵は家には帰らない。というより義隆が帰さないだろう。
 それに関してどうこういうつもりはない。それより、何となく羨ましかった。
 二人にしても、先ほどの穂波達にしてもはいつだって逢いたいときに逢える。
 羨ましい関係。
 今日だって、何だかんだといってもみんな楽しそうだった。
 優司はどうしても暗くなっていく思考が止められなかった。
「じゃあ、滝本さん、帰ります」
「ああ、ご苦労様でした……え?」
 リビングから出てきた竹井と安佐の二人が家城を引っ張るように連れてきているのを見て、目を見張る。
「いいの?」
 酔っぱらった家城を連れて行く。それがどういう意味かよくわかっている筈の二人の行為。
 それに家城君は、竹井君が……。
 もう諦めたのだろうか?気になることは気になる。だけれども、決心がつかない竹井の最後の後押しをいつもするのは家城自身だと言うことも事実……。
 家城の真意が判る筈もない。
「隣の棟まで連れて行くから」
「仕方ないですよね。今日は引き受けますから」
 竹井と安佐が笑いながら言う。
「俺達、滝本さんのように疲れていないから。もうしばらくは家城君の相手できますって、任せてください」
 その表情が屈託がなくて、言いかけた言葉を飲み込む。
「何だ、この犯罪者みたいな扱いは?」
 腕を安佐にがっしりと掴まれ、機嫌悪そうな声を出す家城。だが、その顔は楽しそうだ。
 ……いいんだろうか……。
 不安になって3人を見やると、竹井がくすりと笑う。
「もう、いい加減慣れていますよ。その代わり、今度奢って貰いますから」
「そうそ。今度飲みに行くときは家城さん抜きにしてくださいね」
「それはもう」
 二人だって、今日は楽しい土曜日の筈なのに。家城を押し付けてしまうことが申し訳なく思う。だが、だからと言って、家城を引き受ける気にもなれないのも事実。
「じゃ、家城さん、行きましょーね」
 まるで仲の良い友達同士のように3人連れ添って歩いていく。
 まあ、人それぞれかな。みんな、これから仲良くするんだろうなあ……そんな事を考え、自嘲めいた笑みが口元に浮かぶ。
 秀也、いつ来るんだろ。
 優司はほっと一息つくと玄関を閉めた。
 人がいなくなったリビング。
 先ほどまでの喧噪が嘘のように静まりかえっていた。それが例えようのない寂しさをもたらす。
 小物の入っていない家具やダンボール箱。まだ馴染んでいない部屋。そのせいもあるのだろう。
 優司はリビングから通じる部屋へと入っていった。
 ここが優司の寝室になる。
 すでに運び込まれたベッドの上に布団が袋に詰め込まれたまま載っていた。
 それを解いて、中から布団を引っ張り出すとベッドの上に広げる。
「はあ……」
 ごろんと横になると疲れた躰が開放されたかのように気持ちいい。
 明日はもう少し片付けないといけないな。
「そういえば、秀也はいつから岡山に来るんだろう……」
 プレゼン会議は1週間に渡って行われる。
 いつもなら連絡が有るはずの秀也が岡山に来る日程が、未だに連絡がなかった。
 優司の日程は、火曜日の午前中。
 義隆は、月曜の午後たど言っていた……とすると、秀也は工業材料第1チームの営業担当だから……順番的に言うと、月曜午前か……。
 トップバッターということになる。
 どおりで、ぎりぎりまでかかっていると思った。
 トップバッターは終わってしまえば後は楽なのだが、その分今回の状況というものが判らない。会社のトップが何を求めているか、その細かいところを判断する材料が少なすぎるのだ。
 とにかくやるしかない、という事になる。
 それであんなにも資料を揃えていたのか……。
 工材1チームのリーダー 当麻が走り回っていたのを思い出す。
 こればっかりは他人の事に構っている余裕はなかったので、今更ながらに秀也が大変だったのだと気づく。
「明日の夜かな、来るのは……それまでに部屋を綺麗にしないと……」
 それが無理だろうとは思うのだが、電話で「泊まれるようにする」と言った覚えはあった。
「ま、明日、明日……」
 もう躰を動かすのも億劫だった。
 疲れた躰に満腹になった腹、そして適度なアルコール。
 優司は誘われるままに眠りにつこうとした。
 だが。
 どこかで音がした。それが玄関からの呼び出し音だと気づくのに数十秒かかる。
「まさか……家城君?」
 だるい躰を起こす。
 そんな筈ないよなあ。家城は竹井達が連れて行った筈。
「はい、滝本です」 
 玄関横のインターホンに出る。
『笹木だけど』
 インターホンから飛び出た声に、ぴくりと躰が硬直した。
 聞き慣れた声。でも、まさか……?だが、続けられた声は間違えようもない。
『下にいるんだけど……ここって、部屋から解除しないと入れないんだ?』
「あ、ああ、開けるよ。エレベーターで上がってきて」
 声が上擦る。
 本当に秀也?
 どきどきと胸が高鳴る。眠気が吹っ飛んでいた。慣れない操作に間違えそうになりながらもロックを解除する。
 その足で玄関を出、エレベーターホールに向かった。
 エレベータの現在位置を表す数字が大きくなっていく。6階を表示した途端、微かな音を立てて扉が開いた。
「秀也……」
 1ヶ月以上逢っていなかった相手。思わず飛びつきそうになった。それをぐっと堪える。
 何やってんだよ、私は。
 落ち付けって。
「ごめんな、いきなり来て」
 にっこりと笑う秀也に、言葉が出ない。
 だけど、何も言わなくても秀也は優司の言いたいことをいつも汲んでくれた。今だって、そう。
「部屋、行こう。寒いだろ」
 秀也にとんと背中を押され、部屋へ向かう。
 目の奥が熱くて、今にも涙が溢れ落ちそうになるのを必死で堪えていた。
 どうして……。
 どうして、こんなに胸がいっぱいなんだろう……いつものように秀也が来てくれただけなのに……。
 玄関を開け、中に入る。扉がかちゃり音を立てて閉まった。
 途端に背中越しに秀也に抱きすくめられた。
「泣かないでよ」
 耳元で宥めるように囁かれる。
「泣いてなんか……」
 言葉とは裏腹に涙が溢れ出る。どうしてだろう……胸が熱い……。
「そんなに寂しかった?」
 寂しい?
 そうかも知れない。なんだかとっても寂しかった。
 仲の良さそうなカップル達の中で、一人でいる事の寂しさ。家城君が煽られたと言っていた。それが今なら判る。
 自分だって、しっかりと煽られていた。あそこまで暗い気分になった理由が今やっと判る。あそこには秀也がいなかった。
「気にはなっていたから、終わった途端に飛行機手配かけて……席空いていたから来れた」
「無理するなよ。片づけなんて私一人で十分だったんだから」
 秀也が私のせいで無理をしている。
 それが申し訳なくて、泣いてしまった自分が情けない。もう、これだから年上に見えないってからかわれるんだ。
 しっかりしなきゃ。
 だから優司はぐいっと秀也を押しのけた。
「ああ、もう大丈夫って」
 涙を拭き取って、笑みを浮かべて見せる。
 泣くなんて、そんなの情けないよな……もう30歳なのに。
「優司?」
「ちょっと部屋を片付けないと布団も敷けないや。ちょっとその辺で待っててよ。あっ、食事は?」
「軽く取ってるから大丈夫だ、でも」
 微かに笑っていた顔が、何かに気付いたかのように眉間に皺が入ったのに気が付いた。
 ああ、やっぱりばれたかな、落ち込んでいた原因。
 秀也に隠し事なんて無理なのは判っているから、もういいや。
 さて、どうやって言い訳しようかなあ。
「冷蔵庫に残り物入っているよ。さっきまで、引っ越し手伝ってくれた人と食べていたから。適当に出して食べてて。私は、部屋片付ける」
 隣室を片付ける名目で逃げを打とうとした優司の腕を秀也は掴んでぐいっと引き寄せた。
「顔色が悪い、休めよ。俺は勝手にするからさ」
「でも……」
 見上げる先の秀也の顔も、疲れが色濃く出ている。
「秀也も疲れているって顔だ」
「飛行機の中で寝たからね。大丈夫」
「でもさ」
 なおも言い募ろうとする優司の口を秀也がその唇を押し当て塞いだ。
 1ヶ月半ぶりのキスは少し乱暴なまでに強引だ。ねじ入れられた舌が優司の舌を絡め取る。
「んっ」
 それだけで甘い声が漏れる。
 やっぱ秀也がいい。家城君にされなくて良かった……。
 だが、秀也がふっと唇を離す。
 それが名残惜しくて、ついその口元を見つめていた。それが、僅かに引き締められる。
「秀也?」
「寝てろよ」
 ぐいっと腕を引っ張られ、ベッドへと連れて行かれた。
「でも、秀也の寝る場所……」
「自分でやる」
「でも……」
 そういう訳にもいかない。
 だが、起きようとすると、反対にベッドに押し付けられた。
「もう……」
 むすっとして秀也を見上げると、秀也がふっと視線を逸らした。
「何?」
「どうしよう……襲いたくなった……」
 茶化した言葉とは裏腹に再度視線を合わした秀也の目は真剣だった。 
 どきっと胸が高鳴り、顔が一気に火照った。
「冗談……」
 発する声が掠れている。
「そう思う?」
 秀也が首筋にキスを落としてきた。
 それだけで躰が震えた。声が漏れ、抱き着きたくなる。
 駄目だって……秀也も疲れているのに……休ませてあげないと。
 その思いに支えられて伸ばしかけた腕を降ろした。
「秀也……ねえ、疲れているみたいだしさ、明日にしたら?」
「嫌だ。今、ほとんに襲いたい気分……なんでだろう、凄く自分が焦っているんだ。とにかく抱きたい……」
 真摯な言葉に、かえって不安が沸き起こる。
「何か……あったの?」
「優司こそ……何かあったんだろ。何か隠してる?」
 げ……。
「やっぱ、判るんだ……」
 肩を押さえた秀也の手に力がこもってくるのに、声が震える。
 その言葉の乱暴さに、優司は戸惑いを隠せない。
 どうして……。
「優司、何があった?」
 なんだか秀也の様子が変。
「あ、あのさ……ほら、いつもの家城君だよ。戯れに私にキスしようとしたんだよ。竹井君が来たんで未遂だったから」
「ああ、いつものね」
 ふっと力が緩む。
「それだけだ、と思うけど……あと、家城君に、自分は男がいいんだ、とも言われた。年下で、ひ弱で、からかいたくなるような子が好みだって。家城君って竹井君の事が好きだったみたいなことも言っていた」
「知ってる」
 ぽつりと漏らされた言葉に目を見開く。
「でも、何で家城君がそれを優司に言うわけ?」
「さあ……煽られたって言っていたけど」
「煽られた?何で?」
「あのさ、今日手伝ってくれた人達って、ほとんどカップルだったんだよ。みんな仲が良くて……それで煽られたって……」
「ふーん」
 そこまで聞いて秀也が、にやりと口の端を上げた。
「秀也?」
「それで優司も煽られたんだ。凄くしたくなっているだろ」
「そ、そんなの!」
 顔が一気に紅潮した。思わず顔を横に向ける。だが、秀也からの視線が、そんな優司を窺っていて、それが恥ずかしくてたまらない。
「!」
 途端に股間のモノがぐいっと押さえられた。その刺激に声が漏れそうになるのを必死で堪える。
「しゅっ……やだっ!」
 ぐいぐいと押さえられ、痛みと共にずきんと背筋を走る疼きが全身に飛散する。その刺激に優司のそれはぐぐっと体積を増した。
「ここ、こんなになっているよ。だからだよ、優司が俺に抱かれたがっているから、俺も優司を抱きたくなった」
「何言っているんだよ。あっ、もう、押さえるな!」
 そりゃ、煽られたのは否定できない。
 だけど、それでやるっていうのは別問題で。
 秀也ってば、絶対疲れているのに!
 あ、もう、私がそんな事考えるから、秀也が無理しなきゃならなくなる!
「いい加減にしろよ。別に今日したい訳ではない。明日でもいいだろ。疲れているんだろ?」
「否定するんだ……」
 ぽつりと言われた言葉に優司は目を見張った。
「秀也?」
「いつだって優司はそうだよな……」
「何?」
「優司は……いっつも我慢していないか?」
 ぐぐとっと股間を押さえた秀也の手に力がこもる。
 いい加減、膨張しきったそれを押さえられ、痛みにも似た疼きが走る。
「くうっ、別に、我慢なんかじゃなくて」
 我慢じゃなくて……当然だろうと思うけど。
 いつものこと、なのに秀也の様子がいつもと違う。
「んんっ」
 胸の突起を摘まれ、指の腹で転がされる。優司のいいところを知り尽くしている秀也に、優司が敵うはずもなかった。
 だが、それでも優司はその行為に入り込めない。
 どうしても、先程の秀也の疲れている顔が脳裏に浮かび、それが躰の熱を引かせてしまう。
 やっぱり、止めないと……。
「ねえ、私、風呂入ってないし……それに」
「何だよ」
「だって……コンドームとかゼリー……そういうのってどっかの荷物の中……」
「……」
 その言葉に秀也の動きがぴたりと止まった。
 その目がすうっと細められ、どこか剣呑な表情になる。
「ばか……」
「だって」
 今日来るなんて思わなかったし……だいたい、できるなんて、思わなかった。
「だって、あんなもの人に見られるわけいかないじゃないか……」
 だから最初に詰め込んだ。
 その詰め込んだ荷物は、この部屋の中のダンボールのどれか。だけどそれがどこにあるかなんて判らない。
「ああ、もう!」
 秀也が苛々と優司の横にごろんと転がると前髪を掻き上げた。その口から言葉が忌々しそうに呟やかれる。
「そりゃあ、別にコンドームなんてなくったって俺はいいけど……優司はいやなんだろ」
「ごめん……」
 あ、ああ、良かった……秀也、諦めてくれたんだ。
 それだけはほっとした。
 ほんとは優司だってしたかった。
 だけど、どう見たって疲れが溜まっている秀也に重労働なんかさせたくなかった。
 それに、付き合った年月はそこそこだけど間隔が開きやすいから、受け入れる方としては最初は、ゼリーを使いたいと思うし……。
 したいけど、しない方がいい時ってあるよな……。
「私……風呂用意してくる」
 なんだかいたたまれなくなって、部屋を出る口実を探し出した。だが、その言葉にも秀也は反応しない。ベッドに寝転がったまま不機嫌そうに天井を見つめている。
 仕方なく優司は立ち上がり、部屋を出た。
 怒らせるつもりはなかった。せっかく来てくれたのに……。だけど、あんな疲れた顔見たらねできる訳無いじゃないか。
 あーあ。
 私だって……。
 躰の熱を吐き出すかのように大きく息を吐いた。
 抱かれたかった……。

 

 浴槽にお湯を入れながら、優司は洗面所に詰め込まれていたダンボール箱を開けまくっていた。
「あっ、有った」
 風呂道具一式が見つけだせてほっとする。
 とりあえず、風呂場に石鹸やらシャンプーなどを入れ、バスマット、バスタオルをその辺りに並べる。
「よかった……」
 この辺りは、ある意味家城のお陰だった。
 家城の判る範囲で、ダンボール箱に入れる部屋名を書いておいてくれたのだ。だから、浴室・トイレ・洗面所関係の箱が全て、洗面所に詰め込まれていた。
 ほんとに、あれさえなければなあ。
 家城の細かいところは、優司にしてみれば便利としかいいようがない。
 それに頼りっぱなしっていうのも情けないけど……。
「ああ、も、今は感謝しとこ」
 パワーのある給湯設備のようで、浴槽の湯がその間に十分一杯になっていた。
「秀也?、風呂入った、よ……」
 呼びかけながら洗面所を出ようとしたら、目前に秀也がいた。驚いて立ち止まる。
「入った?」
「秀也、先に入ったら?着替え、発掘しとくから」
 だが、秀也は優司の言葉に持っている物を押し付けた。
「もう、見つけた。優司のもあったから」
「あ、ありがとう」
「一緒に入ろうか」
 途端に顔が火を噴いた。その言葉だけで萎えていたはずの股間のモノが明らかに体積を増す。
「い、いいよ……狭いからさ。秀也、先に入れば」
「いいから」
 楽しそうに秀也が優司の腕を掴んだ。嗤っているその表情に気圧されて、優司は後ずさった。だが、狭い洗面所のため、どんと壁に突き当たる。
 とっきまで、不機嫌だったはずの秀也。
 だが、今はどことなく楽しそうだ。
 優司の頭が状況を把握できない間に、秀也は優司の躰からやすやすと服を脱がしかける。
「しゅ、秀也」
「あんなところで止められると思った?あそこまでいっていたのにさ。だいたい優司だって辛いだろ。ここまで張りつめちゃってさ」
 くくっと喉の奥で嗤われ、耳の後ろまで朱に染まる。
 秀也の手が添えられたそこは、僅かの間に再び完全に立ち上がっていた。
 耳朶に甘い息を吹き込まれ、躰がぞくりと反応する。
 下着の上から激しく股間を揉みしだかれ、そこから昇る疼きに腰ががくっと砕けた。バランスを失って慌てて秀也の腕に縋り付く。
「はふっ……うあっ……やめっ」
 生理的な涙が滲んだ目を秀也に向けると、秀也に唇を掠め取られた。
 一瞬離された唇が再びきつく合わされる。漏れる声にうっすらと開けていた唇から、秀也の舌が入り込んできた。
 どうして……そんなにも……。
 秀也、疲れているんじゃないの、か……。
 歯列をなぞられ、頬の内側の粘膜をなぞられる。
 そこから来る甘い疼きに責めさいなまれ、優司の遮ろうとした手から力が抜ける。
 もう、優司自身、耐えきれないところまで来ていた。
 先程は何とか耐えた。
 だが、二度目は……もう無理……。
 どこかでかちゃりと音がした。
 ドアが開いた、と思う間もなく掬われるように躰を反転させられ服のまま濡れた床の上に転がされた。
 一気に服が水を吸い取り、冷たい感触が背中の熱を奪った。ぞくっと鳥肌が立つ。
「冷たいよっ!」
 慌てて、床に手をつき上半身を起こしながら叫んだ抗議の声は、敢え無く無視された。秀也はくっと笑みを浮かべただけで、優司の上に覆い被さると顔を首筋に埋める。
「あっ」
 首筋のラインを細く尖らされた舌で辿られた途端、失った筈の熱が躰の芯から吹き出す。
「ううっ」
 半身を支えている手がぶるぶると震えていた。力が入らないというのに、秀也の重みすら乗っている。少しでも気を抜くと一気に躰が崩れてしまいそうで、必死で腕に力を込める。だが、それも秀也の手がするりと直に触れるまでの間だった。半端に立ち上がっていたモノを握り込まれ、がくっと腕の力が抜けた。
「やっ」
 倒れそうになる躰に恐怖を覚え、慌てて縋った秀也の手。その手が優司のモノを柔らかく扱く。
「我慢できないんだろ……俺もだ」
 耳元で熱く囁かれ、ずきんと背筋に刺激が走る。
「……し、秀也っ。ああっ……」
 ど、うして……こんなに……躰が自分のモノじゃないみたいだ。
 触れられたところから熱が伝わる。熱くて息苦しくて、それが全身に広がりひどく気怠い。
「全部、脱げよ」
 立ち上る湯気にすっかり浴室内が温もっていた。性急なまでに優司から残っていた服を取り去った秀也が優司の躰に石鹸をつける。その手の動きが乱暴で、優司は不安を感じていた。
 だが、ぬめりを帯びた秀也の手が、遊んでいるかのように優司の躰の敏感な所を掠めていくと、そんな考えも吹っ飛んでしまう。
「やだっ……もう、やめて……くふっ」
「洗ってあげるよ、汗掻いたんだろ、今日は」
「そ、んな……自分で、できるって……あっ」
 抗議の声を上げようとしても、秀也の手がその度に脇腹の敏感な部分をなぞる。むずむずしたその感触に発しようとした言葉が言葉にならない。
「いいから」
 霞んだ視線の先に秀也がいた。脈打つようなきつい疼きに、目尻から熱い涙が溢れ出す。秀也を睨み付けようとして、だがその潤んでしまった瞳では迫力が無くて、それ以上に秀也を煽ってしまったようだ。
 秀也の手がさらに激しく優司の胸の上で戯れる。
 押しのけようとしても、石鹸のついた躰では力を込めても滑ってしまう。
 と、秀也が口の端をあげた。その滅多に見せない嫌な嗤い方を見てしまい優司はひくりとひきつった。
「秀也?」 
 秀也の手が再び石鹸を手に取りる。たっぷりと泡立てられたその指が躰を滑る。
「ゼリーの代わり」
「あっ、や、……んく」
 なめらかなその動きに躰がびくんと反応する。背骨のラインを遊ぶようにゆっくりと降りていき尾てい骨に達する。指の行き着く先を想像してしまい、その期待だけで躰が熱くなり、優司自身のモノがびくりと震えた。
「あんまり大きな声立てないでよ。風呂場の声って響くからさ」
 その言葉にあげかけた声を飲み込んでじろりと秀也を睨んだ。
「くそっ、意地悪だ、今日の秀也は!」
「ひどいこと言うなあ。誰のせいだと思っているんだ?優司がぼけているからだろ。そうでなかったら……」
 言葉と共に、優司の後孔をまさぐっていた指が体内に差し込まれた。
「うっ!」
 久しぶりのその違和感に躰がぶるっと震える。
「久しぶりだから……やっぱきついね」
「しょうがないじゃないか!」
 ずっと我慢していた。
 来て欲しかった。行きたかった。
 だけど、来てくれないし、行くこともできなかった。
 何で。
 何で私なんかがリーダーをやっているんだろ。そうでなかったら、もう少し仕事が少なくてすんだ。リーダーとは名ばかりの雑用係……。
 リーダーじゃなければ、こんなにも秀也に逢わない時期が長くならなくて済むのに。
 ぎりっと噛み締める歯の音が頭に響く。
 逢いたかった。
 だが優司はその言葉を発することなく飲み込んだ。言っても仕方がないことだ、と、もうずいぶん前から割り切っていたことだから。
 なのに、涙が溢れる。
「優司」
 秀也がその涙を舌で舐め取る。僅かに顔をしかめた秀也は、何も言わずに差し込んだ指を大きく抜き差しした。
 その窄まった場所を広げるように指を動かす。
「くっ」
 無理に広げされた痛みに顔をしかめた途端、僅かに開いたその隙間にぐっともう一本差し込まれた。
「いっ!」
 痛いと叫びそうになるのを必死で堪える。
 ぐっと唇を噛み締め、目を固く瞑って、ただ一つの拠り所のように秀也にしがみつく。
 石鹸の滑りを借りても、広げられる痛みが優司を苛む。それでも、繰り返された行為は躰が覚えている。痛みの後に来る何物にも代え難い快感を躰が欲求して、そのもどかしさを訴える。
 3本に増えた指が、さらに優司の躰の奥をついた。
 痛みよりも快楽が勝る場所。
「ん、んんっ……くっ」
 優司の口から熱い息がリズムを持って吐き出される。
「あ、……はあ、ああ……」
「優司……ごめん……」
 秀也の掠れた声がどこか遠くで聞こえる。虚ろな視線を向けると、秀也が顔をしかめて優司を覗き込んでいた。
「あっ、うわっ!」
 いきなりぐいっと突き上げられた。
 引き裂かれる痛みに躰がずり上がる。が、狭い浴室内で逃げることも敵わない。押さえつけられた躰をぐいっと引き寄せられ、あっという間に奥深くまで抉られる。
「痛っ!」
 あまりの痛みに耐えられなくて吐かれた言葉が浴室内に響く。それでも秀也は、一気に躰を押し進めた。激しい痛みにぽろぽろと涙が溢れ落ちた。
 痛みに溢れた涙がこぼれ落ちる。
「ごめん……」
 秀也が再度呟いた。だが、その言葉はどことなく冷たく響く。
「な、んで……」
 かろうじて、指に慣れ始めたばかり。そんな段階で突き上げられ、何とか受け入れることはできたにしても、その痛みと激しい異物感は吐き気すら及ぼすほどひどかった。秀也らしからぬその行為に、優司は下唇を噛み締める。
 ぼろぼろと落ちる涙を秀也がその指で掬い取った。
「我慢できない……優司が、落ち込む事。それを俺に言わない事。何もかも」
 その言葉に含まれる暗い感情に優司の躰が竦む。
 暗くて悲しい……想い。
 秀也が……怒っている?
「何でそんなに落ち込む?俺がいるのに。ここに来ているのに。俺が欲しい癖に、何も言わない。いや、それ以前だよな!逢いたいって何で言ってくれない?確かに俺だって忙しい。優司が忙しいのも判る。それでも……言うだけだったら幾らでもできるだろ。ため込むなよ、そんなこと」
 吐き出された思いと共に秀也にぐっと突き上げられ、その衝撃に息を吐く。
「あ、ああっ」
 痛みに襲われながらも、突き上げられる敏感な場所からの刺激に全身が震える。
「優司、俺はお前がいないと駄目だから……俺の事気遣っているのは判るけど……でももっと俺に甘えて欲しい……もっと、もっと我が儘言えよ。それが優司だろ。今回のことだって、来て欲しいって言って欲しかったんだ、俺は」
 ぎりぎりまで引き抜かれ、激しく突き上げられる。
 その度に喉から吐息と共に音が吐き出される。
「はっ……あああっ……はあっ」
 いきなりとはいえ、幾度も交わった躰だから、その内痛みなどはどこかに消え去った。ただ、躰の奥を突き上げられるたびに激しい快感が全身を襲う。そのせいで、意識が混濁してきた。ぼおっと霞がかかり、考えることができない。
 秀也が怒っている。
 ただ、それだけが頭の中に残っていた。
 ぶつけられる腰。体内を暴れる秀也のモノだけが、はっきりと認識できる。
「しゅーや……あっ!……はあっ……」
 怒らないで……。
 私だって……秀也がいないと……。
 だから……忙しいと判っているのに……そんなこと……言えない……。
 朦朧とした意識の中に、それだけが浮かんだ。
 と、ふっと秀也の動きが止まった。
 暴れまくっていた体内のモノが動きを止めたのを感じて、優司はうっすらと瞼を開けた。
「ごめん、優司……」
 涙で潤んだ視界に秀也の顔が苦しげに歪んでいるのが浮かぶ。
「俺は……判っているのに。優司が俺を気遣っていてくれるって判っているのに。だけど、それでも、言って欲しい事ってあるだろ。……俺が逢いたいって思っていないとでも?来たかったさ。でも優司は何も言わない。いつだって先に諦めているから、俺、行動を起こせなかった。情けないよね、優司だけのせいではないのに……俺、優司に八つ当たりしているって判っているのに……でも、それでも!」
 その言葉を聞いた途端、優司は思わず秀也に抱きついた。ぐっとその胸に顔を押し付ける。
「秀也、もういいから。もう……嫌なことは吐き出しちゃったから……だから、もういいから」
 どうして。
 私たちはこんなにも遠いところに住んでいるのだろう。
 それがこんなにも嫌だと思ったことはなかった。電話でもメールでも伝えられないことだってある。
 傍にいれば、どんなことだって分かり合える。なのに、離れてしまうとそれができない。だからとてつもなく不安になる。
 それって、自分だけだと思っていた。
 でも、秀也もだったんだ。
「私の方こそごめん。逢いたかった。したかった……でも、言えなかった。私は……」
 ぐっと抱き締める。それだけで結合が深くなって、どくんと全身に刺激が走る。
 漏れる嬌声を必死で堪える。
 言えなかったこと。
 いっぱいある。
 いつだって傍にいたい。それが我が儘だって判っているけれど、それでも……秀也は言って欲しいのだろうか。
 こんな我が儘な想い……。
「本当は来て欲しかったんだ……秀也と一緒に部屋を選びたかった。秀也と一緒に引っ越しの準備をしたかった。だけど、それを駄目にしたのは、私自身だと判っていたから……だから、言えなかった」
 それは最後まで残したかったプライドだった。
 30歳にもなるのに、あんな大事なことを忘れてしまうようなおおぼけな事をしてしまって、あまりにも情けなくて……だから、秀也を気遣うことで、年上だからっていうプライドを保ちたかっただけ……。
「優司らしいって言えば、そうなんだろうな……」
 秀也がぽつりと呟いた。
 その顔にゆっくりと微かな笑みが浮かぶ。
「秀也」
「ごめんな」
 秀也の手が濡れた優司の髪を梳きあげる。
 あまりにも優しいその動きに、甘い痺れが走った。思わず躰に力が入る。
「んっ」
 秀也が喉から微かな声を漏らした。締め付けてしまった秀也のモノが体内でどくんと震える。
「んくっ」
 その動きに今度は優司の口から甘い声が漏れた。
「も……動いていいか?……大丈夫?」
 躰を寄せた秀也が優司の耳元で囁く。
 その言葉にカッと躰が熱くなるのを止められない。とっさに秀也にしがみついた手に力を込める。
 秀也の優しいキスが頬に施される。
 それだけで萎えかけていた優司のモノが固く起立する。
「動いて、お願い」
 もう限界だった。
「優司っ!優司っ」
「な、に……」
 眠くて怠い躰を身じろがせる。と。
「ばかっ、いい加減に起きろ。誰か来た!」
「え?」
 その言葉に一気に頭が覚醒した。気が付けば、玄関のインターホンが鳴っている。
「あっ……痛っ」
 慌ててベッドから飛び降りた途端、箱に足をぶつけてしまう。その痛みに躰の奥に感じる痛みは吹っ飛んだ。
「お前、裸……」
 足の小指から伝わるじんじんとした痛みに蹲り涙を浮かべていると、秀也に服を投げつけられた。
 慌てて、下着とズボンだけ身につける。
「急げよ、さっきから鳴りっぱなしだ。よっぽどしつこい……」
 ふっと秀也が口を閉じた。何かを考え込んでいる様子を横目で眺めながら玄関先に急ぐ。
「はいっ」
『遅いっ』
「げっ、家城君!」
『なんですか、それは』
「ご、こめん、何?」
『不動産屋との待ち合わせ時間だけど?』
 どこか冷たい言葉にひくりと顔がひきつる。
「もうそんな時間?」
『……とにかく開けてください』
 呆れたような口調にホールの家城の様子が脳裏に浮かんでしまった優司は、がっくりと項垂れた。
 ああ、また……。
 とりあえずロックを解除する。その背後にきちんと服を着込んだ秀也がやってきた。
「早いね」
「引っ越したばかりのこの家に来る人なんて知れているからな。家城君じゃないかとは思ったんだ。ほら、早く着ないと、その、「昨夜は楽しみました」って躰、見せつけることになるけど」
 言われて慌てて渡されたシャツを着込む。
 その間に秀也が優司の頭にブラシをかけて整えた。
 その感触が気持ちよくて、思わず反応しそうになった躰。慌てて、家城の事を考えて気を逸らす。
 それどころではない。
「出かけるんだろ。時間かかるか?」
「いや、たいした時間はかからないと思う」
「じゃあ、帰ってからだな朝飯は。何か用意しておくよ」
「うん、頼む」
 昨夜の内に引っ張り出した貴重品が入っているスポーツバックから書類を取り出す。
「じゃ、行って来る」
「家城くんも行くの?」
「さあ……」
 そんな事は言っていなかった筈だと思いながら玄関を開けるのと、家城が辿り着くのとが同時だった。
「家城君、私出かけるけど」
「待っています。笹木君来てるでしょ、話があるから」
「え?」
「ほら、早く行かないと。あのおばさん、待たせると機嫌が悪くなります」
「う、うん」
 家城が秀也と何を話するのかが気にはなったけど、確かに不動産屋をまたせるのはまずい。
 優司は、後ろ髪を引かれる思いで、部屋を出ていった。

 
「何?」
 お世辞にも愛想がいいとは言えない口調で秀也は家城に問いかけた。
 家城と優司の会話は、キッチンにいても聞こえてきた。
「随分と機嫌が悪いですね。滝本さんにちょっかいを出したから?」
 その言葉にぴくりと片眉が上がった。
「ばれると判っていて、優司をからかうのは止めて貰いたいな。俺は、あいつにちょっかいを出されて大人しくしていられる程寛容な性格はしていない」
 本当に……。
 優司を奪われるなどと考えたくもなかった。俺も相当独占欲は強い。
「別にからかっただけです。他意はありません」
 家城の口元に冷笑が浮かぶ。
 秀也にしてみれば家城がからかっているだけだとは判り切っていた。
 だが、最近それがあまりにも目に余る。
「遊びすぎだ。最近特にひどい」
 決して性格が破壊的なわけではない。それどころか、躊躇して踏み出せない竹井の恋の後押しすらしてやったのは、家城の優しさだ。だから、手伝った。
 だがあれ以来、家城は荒れている。
「別に、最近だけではないです。ただ、会社では大人しくしていただけです」
「なら、ずっと大人しくしていればいい」
「それもひどいと思いません?結構ストレスがたまっているんですよ。それをちょっと発散させただけだとは思いませんか」
「だからと言って優司を相手にするのは止めて貰う」
「なら、竹井君に相手をしてもらいましょうか」
「いい加減にしろ!」
 秀也はぐいっと家城に詰め寄った。
 家城の言動がおかしい、と感じてはいた。どこか、自暴自棄なその言葉。
「いい加減に……していた。ずっとね。大人しく引っ込んで、仕事一筋で……」
「家城君?」
「ずっと、大人しくしていた。私の性癖をばらすわけにはいかないってね。なのに、お前達は次々とひっついて……どうしてだろう。決してそういう性癖ではないのに……普通に女性を対象にできるくせに!」
 吐き捨てるように言った最後の言葉。
 怒りに満ちたその言葉が表すのが本当の家城。真面目で仕事熱心で、冷たくきつい……なんて作られた物でしかあり得ないと、如実に表す言葉。
「それが本音か」
「……ああ」
 それまで無表情だったその瞳に、怒りが宿っていた。
 秀也にとって、ずっと感じてきた違和感。
 それがこれだ。
 常に怒りを内包している癖に、その表情は笑っている。
「いい加減切れたっていいと思った。特に昨日なんかはね、煽られまくったさ。11人のメンバーのうち、お前ら含めて実に4組もカップルがいるんだぞ。しかも男同士の。だけどほんとうにホモだって思えたのは、あの穂波って人だけだった」
 穂波?
 その名前に覚えが無かったが、家城が言うのだから間違いはないだろう。
 それにしても……優司の交友関係って……。
 ま、兄弟全てがそうなのだから、そうなってしまうのはしょうがなのかも知れないな。
 あの二人の兄さん達カップルが来てたら、家城君、驚いたろうけどな。
「煽られついでに優司にちょっかいを出したのか」
「それもある。たが、滝本さん、元気なかったからな。疲れているだけではないなとは思ったから……ちょっと、からかってみたくなった。結局、秀也以外は駄目だっ惚気られただけだ」
 その言葉に顔が熱くり、思わず笑みが浮かんでしまった口元を慌てて引き締めた。
「私も、結構馬鹿な性格していると自覚はしているんですけどねえ」
 その自嘲めいた口調に、秀也は家城を見つめた。
 彼は、どうしても最後の一歩を踏み出せなかった。
 一見はっきりしているような性格の癖に、それでも相手を思いやることができるために、結局その一歩が踏み出せない。
 だから……。
「竹井君のこと、本当に好きだったんだろ。それなのに、あっさり安佐君に譲ったのは大したもんだとは思ったけどな」
「竹井君は安佐君だから、男相手でも好きになったんです。私は、自分の観察能力があんな形で自分に害をもたらすなんて思いもしなかった。もうずっと前から、竹井君が安佐君を見ていたのは知っていて。その反対も……。だから手が出せなかった。だけど、安佐君が踏み出すなんて思わなかった。それを知ったからと言って、私にはどうしようもなかったのも事実ですけれどね、だって竹井君は私には見向きもしてなかったのだから。それが判るから、安佐君に譲ったんです。その方がこっちもすっきりすると思ったんです」
「それで、今頃苛々していたら意味無いな」
「まったく」
 家城の口元に苦笑が浮かぶ。
「ここまで、自分が惚れていたとは思わなかったですよ……未だに忘れられない」
 苦しそうな感情が、家城の周りを漂っていた。
 秀也は家城に悟られないように、窓際に近寄る。
 負の感情は引きずり込まれやすい。それから少しでも離れるために。
「忘れろよ。忘れて、次の相手を捜せって。今度こそ告白できるような相手」
「簡単に言ってくれますね」
 難しいなんて、判っている。
 秀也はため息をついた。
 女性なら、ちょっと持ちかければ幾らでも近寄って来るであろうその風貌。だが、相手が男でないと駄目となると、そうそう見つかるモノではない。
 だが、見つけて貰わないと、家城の暴走は止まらない。
 その内、他の人間達にもばれてしまうだろう。
「それでも探して貰わないと困る」
「判ってます。それに笹木君に話したら結構すっきりしましたよ。諦めはつけているつもりだったんです。ただ、後一歩が残っていただけ」
「そりゃ良かった」
 人は内にため込みやすい。負の感情は特にそうだ。それが溜まるととんでもないことになりやすい。
 昨夜だって、溜まりに溜まった感情が爆発したようなモノだ。もっと優しくしたかったのに、自分の感情が抑えられなかった。
 一夜明けてみれば、思いっきりすっきりしていた自分に苦笑しか浮かばなかった。
 優司が来てくれって言ったら速攻で行けるようにしていたというのに、優司は最後までそれを口にすることはなかった。結局待ちきれなくて、予定より早く来る羽目になって……それでも優司は、秀也ばかり気遣っていた。それが悔しくて、情けなくて……。
 逢った途端に泣いてしまうほど待ちこがれている癖に、それを口に出さない、訴えてくれない優司に腹がたった。
 本当に……結局、我慢を強いられたのは秀也の方だった。
「俺でよければ幾らでも話せばいいさ。誰にも言わないから。そうすれば、すっきりするよ」
「そう……何でだろう。笹木君なら、話して良いような気がしました。ずっとそう思ってはいたのだけど機会がなかった」
 その言葉にはくすりと笑う。
「俺も忙しいから、なかなかこちらに来られないもんな。家城君と会うときはたいてい4人一緒の時だし。だいたい、家城君がそういうセッティングにしていただろう?」
「……竹井君と飲みたかったから……なのに、幾ら飲んでも竹井君には何もできなかった。情けないでしょ。本当にあの時までは……」
 あの時とは、竹井の告白の時だ。あれを言わせたのは家城だと竹井は思っているだろう。
 だが、実はそれを誘導したのは秀也だった。
 竹井が好きなのに受け入れられなくてひどく混乱していたのが判ってしまったから。それまで落ち込んでいるときは余計なお節介を焼くわけにも、と控えていたのだが、あの時ははっきりと自覚している癖にまだ迷っていた。それに家城が竹井のことを好きだと言うことにも気づいていた。
 だから。
 けりをつけさせたのは秀也。
 竹井に自覚させるために、家城と竹井を煽った。
 家城を諦めさせるために、竹井と安佐を結びつけた。
 家城だって気づいていない。
 諦めさせられた原因が秀也にあることに。
 まっ、後始末をし損ねたのは否めない。
 忙しさにかまけて、最後までフォローできなかったのはまずいとは思ったのだが……まあ、悩んで貰うのもいいかな、とは思った。
 だが、優司にまでその矛先が向くとなると別物だ。
「俺達だって、出会いは偶然だった。みんなそうだと思うよ。家城君だって、いつかはそういう出会いがあるさ。それを逃さないようにするだけだ」
「そうですね」
 それが楽観的な思考だとはお互い判ってはいたけれど、それでも頷きあう。
 いつか出会える人がいるはずだから。
 つき合ってしまえば、根は真面目なんだとは判るけど……それまでがなあ……。
 秀也の心の呟きは、当然ながら家城には伝わらない。
 まったく、厄介な性格。
 携帯の呼び出し音に秀也が気が付いた。
「もしもし?」
『あ、秀也。さっき竹井君から電話があって、これから行くからって。手伝ってくれるんだって』
「って……家城君がいるのに」
『一応、言っておいたけど、行くって……で、入れてあげてくれる?パスワード判るよね』
「ああ」
『じゃ、もう少しかかるから』
 切れたのを確認してから家城に視線を移す。
「大丈夫ですよ。いい加減吹っ切れてはいたんですけどね。ただ、あの二人って、もどかしいんですよ。見ていて苛々してきますから、ついちょっかいを出したくなるんです」
「そっか……」
 それは秀也も思っていたので、頷く。
 本当に、素直じゃない所があるからな、竹井君は。
「笹木君、前から一回聞きたかったんだけど」
「何?」
 家城が真面目な顔で問いかけてくるのに、視線を合わせる。
 ああ、もうだいぶ落ち着いてきている。
 それに安心して、笑みを浮かべる。と。
「何で滝本さんなんですか?笹木君って、女性にも一番人気なんですよ。どっちかっていうと滝本さんより笹木君の方が惚れている感じがするのは……気のせいではないですよね」
 ……。
 その質問に秀也は、すっと顔を赤らめた。
「ずっと、不思議だったんです。笹木君って絶対女性に不自由しそうにない容姿に性格でしょ」
「そんなこと……」
 否定するのも嫌みかな。
 ふっとよぎった考えに、秀也は口ごもった。自分が女性受けするのも性格がいいと言われているのも知っている。
「笹木君?」
「優司は、俺の方が先に好きになった。そして、ずっと待ったんだ。仕掛けていたと言ってもいいかな。優司が俺に向いてくれるのをずっと待っていた。俺は努力はしたよ。出張だと嘘をついて自腹で岡山に来ていたこともあった。だからあの頃は働いても働いても金欠で、禁じられたバイトもした。優司と一緒にいたくて……手に入れるたくてずっと努力してきた」
「その言い方、結構きますね」
 家城が苦笑いを浮かべる。
「2年間かかった。何で優司かなんて、最初からはっきりしていた。俺はあのどうしようもなくすっとぼけて単純なあの性格に惚れたんだ。優司でないと駄目なんだ」
「……笹木君って不思議なところがありますよね。その辺の絡みですか?滝本君の性格がいいって言うのは」
「まあ、ね。あんな人間がいるとは思わなかったな。初めて逢ったときから、どこかほんわかしてて和ませてくれた人。今はもう優司がいなくなるって事考えたくないほど、惚れてる」
 言っててだんだん恥ずかしくなってきた。
 赤くなった秀也に家城は可笑しそうに笑いかける。
「そんな笹木君初めて見ましたね。いつだって冷静で一歩下がった感じ。常にじっと様子を窺っているって感じなのに。滝本さんはそういう事知っているんですか?」
「一目惚れでその性格に惚れたって事は言ったけど……今も覚えているのかどうか」
 そればっかりは確信が持てない。秀也は苦笑いを浮かべ、首を傾げた。
「そうですねえ、感心するくらいのすっとぼけた所ありますよね。今回の事も最初に聞いたときには、こう呆れるのを通り越して怒りすら覚えましたよ。なんでこんな人がリーダーやってるんだろうって」
 家城もくすくすと喉を鳴らす。
「今回の事はみんなに迷惑かけているよね。でもさすがに優司も自覚はしているんだからね」
 自分がリーダーの器ではないと、常に優司を支配している劣等感。
 それは、誰にもどうすることもできない。
 だけども、一つだけははっきりしていることがある。
「判ってますけど……」
「何を言っても、優司の奴は余計落ち込むからね」
「そうでしょうね」
「そうなんだ、困るんだけどね」
 秀也と家城が楽しそうに笑っていると、玄関のインターホンが鳴った。
 確かに優司はリーダーには向かないかも知れない。
 だけど、いつだって優司の周りには優司を助ける人間がいる。
 家城だって、なんやかや言っているけれど優司を放ってはおけないのだ。
 そうさせる雰囲気が優司にはある。文句ばかり言っている優司のチームの高山だってそうだ。
 それが特技なのだと、優司は一生気づかないかも知れない。
 だけど。
「ああ、竹井君、今開けるから」
 ロックを解除しながら、くすくすと笑う。
 それを優司に言うつもりはない。
 しょっちゅう落ち込んでいるのは知っているけど、ただただ助けて貰っているだけだと成長がない。
 それに一杯悩んでいる優司は結構可愛い。
「朝飯、買ってきましたよ」
 開いた玄関から袋をぶら下げて竹井達が入ってきた。
「ありがと。優司ももうすぐ帰ってくると思うから」
「あー、家城さん、今日はキスしてこないでくださいよ。もう昨日はまいったんだから」
 けらけらと笑いながら安佐が家城に文句を言っている。
 キスされたと言っている割には、機嫌がいい。反対に竹井がむすっとしていた。
 それを見た途端、何で怒っているのか判るのが秀也の力。
「家城君、またやったんだ」
 笑いながら話しかけると家城がくすりと笑みを漏らした。
「竹井君がはっきりしないからですよ」
「お陰様で、あの後竹井さん、すっごく積極的になっちゃって。やあ、手伝いに来て良かった。滝本さんのお陰。っ痛!」
 楽しげにぺらぺらと喋っていた安佐の頭を竹井が思いっきりひっぱたいた。
「お前は!」
 その顔が真っ赤に染まっている。
「痛いです。竹井さ?ん」
「知るか」
 ふてる竹井を安佐が必死になって宥め始めた。
 それが笑いを呼び起こす。
「優司のおおぼけもたまにはみんなの役に立ったのかな?」
「少なくとも昨日来ていたカップル達には、いい機会を与えたみたいですよ。お互いに煽られていたですし。私も結局すっきりさせて貰いましたし」
 

「ただいまあ!……何?」
 優司が玄関から部屋に入ると何故かとっても和やかだった。。
 きょとんとしている優司に、何故か笑いが沸き起こる。
「お帰り」
 秀也が出迎える。
「何、みんな笑っているのさ?」
「何となく」
「何、それ?」
 首を傾げる優司を秀也がそっと抱き寄せた。
 え?
 訝しげに思う間もなく、唇を掠め取られる。
 とっさのことで避ける暇もなかった。
「ばっ、馬鹿!」
 真っ赤になって狼狽える優司に、さらに笑いが沸き起こる。
 何なんだよ!
 じろっと秀也を見ると、秀也までがお腹を抱えて笑っていた。
 何?
 一体、何が起こっているんだ?
「秀也?」
「優司のお陰でみんな楽しかったんだって」
「何のこと?」
 一体、何がどうなっているんだろう。
 ただ、優司だけが呆然と突っ立っていた。
【了】