綺麗だとは聞いていた。
綺麗なものは何だって好きだから、見てみたいと思った。思ったら止まらない。
井波隆典にとって、『綺麗』なものを手にすることは何を差しおいても良いほどに大切なことなのだ。
綺麗なものを見ると、その綺麗さを自分の作品にも写したいと切に思う。
備前焼という、土と炎の芸術品。
人の手がどんなに手を尽くそうとも、自然の我が儘が時にとんでもない作品にしてしまう。それでも、それすらも利用して作るその技法に魅入られたのは、子供の頃からだ。
なるべくしてなった陶芸家という肩書きは、隆典にとっては何の意味も無い。
作りたいから作る。
その場が欲しかっただけ。
父親より若くして数々の作品展を開き、賞もたくさん貰った。
それもこれも、作りたい物を作っていたから必然的に手に入れた地位だ。お陰で、日がな一日作り続けるだけの金額は稼げるようになった。
父から受け継いだ釜の中で燃えさかる炎が好きだ。
焼き上がったばかりの備前焼が灰を落とされて肌を露わにする時、期待に胸が膨らむ。灰を水で洗い落とす時、意図したとおりの紋様があれば、鼓動が激しく高鳴った。
中でも、形作る際に創造したとおり、一寸も違わずに浮かび上がった紋様と色、形──全てが望むべき者だった時、その時の衝撃は、まさしく達ってしまいそうな程の快感なのだ。いや、言葉だけでなく、確かに隆典はその時興奮する。
綺麗なものを手に入れて、その感動を心の中に蓄えて、作陶した時ほど、その時の衝撃は激しい。
心臓は高鳴り、下腹部ははち切れんばかりに膨張する。
人がいなければ、そこで達することも厭わない。
いや、人がいて、宥めなければならなくても、そんなことすら忘れて、自分の作品に陶然としてしばらく見入ってしまう。
そんな酔いしれたような瞬間が堪らなく好きで、愛おしくて。
大事にしたくて、もっと味わいたくて。
だから、綺麗なものを探す。
綺麗なら、なんだって良い。
それが自分だけのものだったら、もっと良い。
そんな隆典の目の前に現れた上木俊介は、噂通り、綺麗な肌を持っていた。
いろんな綺麗なものを見てきた隆典に、「手に入れたい」と思わせるほどの。
「なあ、兄さん……。上木さんにつきまとっているって……」
滅多に口を利こうとしない弟が、隆典に声を掛けたのは、ホテルでその肌をまじまじと見ることができた次の日のことだった。
「綺麗だった……」
彼のことを思うだけで、その視線は宙を惑い、うっとりとした口調になる。
それだけで、弟は去っていった。
もっとも、隆典はそんな事には気付いていなった。
脳裏に浮かぶのは、もう二度と忘れることがないだろう美しい臀部。
日に焼けたことのない肌を、俊介は隆典の目に晒してくれた。
あれだけ嫌がっていた俊介が、見るだけならと臀部を晒してくれた意図は、実はよく判っていない。
何も言わずに覆っていたバスタオルを剥がし、ベッドにうつぶせになった隆典がどんな顔をしていたのか、判らない。ただ、その白い肌がほんのりと桃色に染まっていたのは判っていた。僅かに震えていたのも、だ。
白いシーツ。
色付いた肌と、赤いTシャツのコントラスト。
弟の恋人である和宏の肌も綺麗だが、それとは別の綺麗さがあった。
触れたらきっと固い男の体だとは判っていた。けれど、落ち着いた何かに馴染むような淡い色合いは、不思議と柔らかさを感じさせた。肌理の細かい肌質は、良質の粘土を作り上げた時のそれに似ていた。
触れたい。
こねて水と馴染ませて最良の土を作るときのように、撫でて揉みしだきたかった。
手の中で、思う様に形を作り──たとえば、緋色の絡み合う線をあの膨らみに添って描いてみたら……。
緋牡丹のような紋様で飾るとしたら、もっとも膨らんだあの場所に、朱色の濃い色を載せてみたい。
作りたいっ。
自分が思うように、自分が創造した通りの作品に、この綺麗なものを写したい。
気が付けば、耳の奥がどくんどくんと脈動していた。
意識が真っ赤に染まる。
ごくりと息を飲み、渇いた唇を無意識にうちに舐めていた。
触れたい。
触れて、どこまで綺麗なのか確かめたい。
あまりに隆典の目に叶う美しさが、隆典を狂わせる。
こんな綺麗なもの、他の誰にも二度と見せたくなくて、取り込みたい衝動に駆られる。
手が、ふるふると震え、堪えるためにぎゅっと握りしめた。
体の芯を駆けめぐる激しい衝動に気付いて、隆典は驚いた。
それは最高傑作を作り上げるたびに感じていたあの衝動と同じだったのだ。
綺麗なもの。
美しいもの。
それを手に入れても、今までそれだけでこんな衝動を感じたことはなかった。
戯れのように触れて、手に入れたいとは言ってはみたが、それは単純な独占欲に過ぎないかったはず。
なのに、どぎときと心臓は早足で駆け、下肢の付け根はいたいほどにいきり立っている。
手に入れられる距離にある欲して止まないものが、隆典を誘っていた。
この肌に触れて、欲望のままに己を突き立てて。
吸い付いて己の刻印で彩りたい。
欲望は、絶え間なく吹き上げ、意識をさらに赤く染めていく。
実際、限界まで来ていたのだ。
後一声、悪魔の声が囁いていたら、隆典は俊介に襲いかかっていただろう。
だが。
隆典にはできなかった。
綺麗だから、手に入れたいから。
きつく握った拳の中で爪が食い込む。唇に走る痛みが、理性を応援する。
絶対に欲しいものだ。
この綺麗なものを、隆典は絶対に手に入れようとした。だから、今は無理をしない。
全力で崩れかけた理性を立て直し、「もう良い」と言葉を作る。
意識して紳士ぶり、性欲を鎮めた。
手に入れるために、今まで策を弄してきたのだ。
こんなところで、失敗するわけにはいかなかった。
工房でろくろの前に座る。
精神を落ち着かせるように、手をゆっくりと動かした。数度握っては広げる動作を繰り返す。
頭の中にあるのは、俊介の肌と臀部の膨らみ。
拗ねて膨らんだ頬も意識の中にあって、知らず隆典の口元を緩ませる。
可愛い、と、日が経つにつれ優しい思いが膨らんできていた。こんな自分の目に恥ずかしながらも肌を晒してくれた俊介に愛おしさが募る。
欲しい。
その欲求は、今はもう隆典の胸の内ではっきりと高まっていた。
あの時の激しい性衝動は、今は無かった。もっとも、布団に入れば、堪らずに解放したくなるほどではあった。だが、隆典はそれすらも自らに封じこめた。
そうすることで、全ての思いがこの作品に反映されるのだと言うように。そんな我慢を全く意識することなく、隆典はやっていたのだ。
あの綺麗なものをこの土に写したいから。
そして、自分が精魂込めて作り上げる作品を、彼にあげたい。
愛おしい相手を完全に入れるために、贈り物はその第一歩だとは思っていたから、できれば、一つめは自分の最高傑作にしたかったのだ。それも、最新作の。
手の中で作り上げる形は、もう決まってた。
なだらかな形状を有する茶器は、硬質さの中に雰囲気に馴染む柔らかな風合いを持たせたもの。色は淡く、緋色を交じらせる。羞恥でゆっくりと肌が染まるように、色合いもゆっくりと変わるように。
作りながら、炎と窯の中に置く位置と。
隆典の持つ全ての技量をふんだんに利用しながら全てを設計し、思いのたけを封じ込める。
「好きだよ、俊介さん」
誰もいない工房で、今はまだ呼べない名を呟く。
どんなに嫌われていたとしても、いつかはこの手の中に。
何度も何度も練り直し、たった一つの作品を作るために、ろくろを回し続ける。
幾つかできあがった茶碗を見て、父が唸っていたのは知っていた。
作品展がどうのこうの。
そういえば、そんなものもあったような気がする。
けれど、まだ気に入らない。
最高傑作を作るには、ほんの少しでも創造したものと違ったらダメなのだ。
昼も夜もろくろを回し続ける。
「待っててな、俊介さん」
誕生日には間に合わせるからね。
残り一月程のその日付だけしか、今の隆典の頭にはなかった。
【了】