【鬼の子】 (1) 〜888,888キリリク〜 |
それはほんの僅かなものだった。 啓輔自身、自らも香りをまとうようになってからか、他人の香りにも敏感になっていた。 だから、気が付いたのだろう。 純哉の部屋に漂う微かな香りの違和感に。 「……誰か来ていた?」 休みの日に、ふらりと寄った純哉の部屋で、その違和感に気が付いた。 窺う視線の先で昼過ぎまで寝ていたのか、ぼんやりとした純哉は訝しげに返してくる。 「別に? 何かありましたか?」 では、この香りは何なんだろう? 純哉の部屋に今までなかった、ある種の甘みのある香りだ。けれど、それも微かなもので油断すると逃げていってしまう。 啓輔はこの香りは知っていた。つい先日、緑山のところで嗅がせて貰ったものだからだ。 くんくんと鼻を鳴らして香りの源を探っていく。 「これ、新作の香水の匂いに似ているよ」 「そう……ですか?」 純哉のほんの少しの動揺は、すぐに無表情の下に押し隠された。 その僅かな変化は、明らかな異変を教える。 誰も来ていないなら、この香りは一体どこで付いたのだろう? 思わず疑いの目を向ければ、さっきよりはしゃきっとした純哉が明快に答えた。 「昨日香水の売り場を覗きましたから、その時着ていた服に付いたのかも知れませんね」 言われて辿れば、確かに放置されていたジャケットが源のようだった。香りが完全に飛ぶ前に脱いだろう。わずかな残り香がその服に付いていた。 「へえ、純哉が香水売り場?」 「啓輔が最近凝っているでしょう? だから、どんなものかな、と思いまして」 啓輔に近づきながらくんと鼻を鳴らした家城が、笑みを浮かべる。 「今日は啓輔の最近のお気に入りですよね。確かトゥルース……でしたか?」 「うんそう。純哉も判るようになったね」 「啓輔が好きなものは何でも知っておきたいものなんですよ」 くすっと至近距離で笑われて、吐息が頬をくすぐる。 「そんなもの?」 「そんなものですよ」 唇の端に口付けられて、くすぐったく身を竦めたけれど。 下肢にまで響いた甘い疼きに、すぐに互いに求め合う。純哉の忍び込んできた手が肌をまさぐって、心得た愛撫が啓輔の熱を高めていく。 熱くなった吐息を漏らし、手が純哉のシャツにすがる。 あっという間に体は純哉を堪らなく欲しがって、啓輔は欲情に掠れた声で乞うた。 「なあ、今日は……」 「そうですね……」 そう言うくせに。 「ちょ、ちょっと……あ、んん……っ」 全身を走る痺れに、捕らえようとした力が抜けていく。 純哉の感じる場所を探ろうと伸ばした手は堰き止められ、力強く、熱い体が覆い被さってくる。 抗おうとする気力が、敏感になった嗅覚のせいで萎えていく。欲情を煽ってくれる純哉の匂いを敏感に感じてしまうからだ。 それは、主導権を握ろうとするには邪魔になった。 純哉の雄のフェロモンは、啓輔にとっては媚薬に等しい。下腹が熱くたぎり、力が入らなくなる。 「うっ、そこっやだ──」 まして、純哉の指が体内に侵入を果たせば、期待にさらに煽られる。自分の体だというのに制御できない。びくびくと全身が震えて、肌がざわめき、純哉に逆らえなくなって。 「可愛いですよ、相変わらずここは元気で」 「ひっ!」 元気になった雄を握りしめられて、全身が歓喜に打ち震えた。 「あ、ああ──」 背から押さえつけられて、深く挿れられて、喉から嬌声が迸る。 欲しいのは変わらない。 けれど、こうなればもう流されるがままに純哉に翻弄されるしかない。 「あぁ……ふぁ……」 ずんっと熱を持った塊が体内を抉っていく。と思えば、すぐに抜かれて、また打ち付けられる。 小刻みな抽挿も、激しい抽挿も、どちらも熱を高めていった。 「ああ、凄いですよ……絡みついて──熱いっ!」 「あ、あああっ!」 全身が硬直し、そして打ち震えて、意識が弾けて。 今日も負けかあ……。なんか最近ずっと……負け続け……。 脱力する寸前、ふっとそう思った。 久しぶりに歩く街中は賑やかで、見て歩くだけで楽しい。 そう思って楽しく過ごしていたのに。 「……あんた……」 ずるっと知らず後ずさる。 気分は一気に急降下し、今はもう最悪だ。 会いたくない相手というのは誰にでもいるかも知れないが、啓輔にとって、その最たる相手が今目の前にいた。 「久しぶりだね、啓輔君」 にこりと笑う男から、体が知らず逃れようとする。なのにさせてくれない。 二の腕を強く掴まれて、啓輔はその男──槻山を睨み付けた。 「離せよっ」 地下街の店が建ち並ぶ一角で騒ぐ啓輔たちの周りは、ぽっかりと空間が空いている。 他人が頼りにならないのは、前回の一件で自覚していた。 だから。 「なんか用かよっ!」 自分が強くなくてはならないのだ。 そう思って睨み付けたというのに、槻山はくすくすと笑っていて。 「いや、見かけたから声をかけただけだ。暇だったら、一緒に茶でも飲まないか?」 「……」 しかもナンパされてしまった。 笑みを浮かべる槻山は、人の良さそうな顔をしている。かっちりとしたスーツを着込み端正な顔立ちを持っている槻山は、普通に女性に声をかければ幾らでも引っかけられるだろうに。 けれど、この男はこの顔で啓輔たちを苛んだ。その事は忘れようがない。面白ければそれで良いという男の誘いなどに迂闊に乗れば何があるか判らない。 どんなに優しく微笑んでいたとしても、啓輔も槻山の本性を知っているから、逃げることしか考えなかった。 「遊ぼうよ。ほんと暇なんだよ?」 「冗談じゃねえ」 拒絶すればますます掴まれた腕の力は強くなる。どんなに振り解こうとしても、食い込んで痛みが増すだけだ。それでも、啓輔は断固として拒絶した。 なのに槻山は笑うだけだ。 「まあまあそう言わず、何もしないって。私も三時の新幹線に乗らなきゃいけないからね」 三時……。 ちらりと時計を見やれば一時間ほどしかない。その言葉を信用する訳じゃないけれど。 でも……。 「あんたなら、一時間もあれば突っ込みそうだよな」 言ってしまってから、やりそうだと納得してしまう。この男なら、絶対にするだろう。となれば、やっぱり逃げるしかないのだ。 だが、槻山もしつこく、あやす声音がさらに甘くなる。 「あれあれ、信用無いなあ。何にもしないから、ね?」 「信用できるかっ!!」 「ほんと、懐かしくて声かけただけなのになあ。そりゃ、私も時間があればホテルまでご一緒したいのは山々なんだよ」 「一人で行ってろよっ! もう俺を巻き込むなっ!」 「だって、面白くないじゃないか、一人でなんて」 「それだったら……、あっ、タイシはどうしたんだよっ!!あんた、あいつ連れて行ったんじゃないのかっ」 せっかく休み返上で講習してやったのに。 なんでこんな男を野放しにしてんだっ! 理不尽な怒りが湧き起こるけれど、目の前の男は、のほほんと笑う。 「あの子は東京に居残りだよ。宿題できなかったら、連れて行かない約束だったからね。あはは」 嘘吐けっ。 毒突こうとした台詞の代わりに、啓輔はきつく唇を噛みしめた。 昔は何かと策を凝らすタイシであったけれど、この槻山相手だとそれも難しいのだろう。 そんな様子は、この前の講習の際にもよく聞かれた。 今頃タイシも荒れてんじゃないかな。 と、ふと考えたが、今はそれどころでないと啓輔は慌てて槻山に意識を戻した。 「だあからっ、いいから、いい加減離せっ! 痛いっ!!」 「だったら、お茶しよう、ほら、そこのカフェならいいだろ?」 ずるずると目の前のカフェに連れ込もうとするけれど。 確かにそこはガラス張りで人通りも多い場所で、何かするような所では絶対にない。だが、さっきからの押し問答は、中の客達の良い見せ物になっていたのは確実だった。 今も視線が痛い。 「わ、判ったからっ、だから、あっちの方が良いっ! 俺、あっちのケーキの方が好きだからっ!」 「ああ、あっちのか? OK、行こう」 「……」 ぐいっと引き寄せられ、二の腕は解放されたが今度は肩に腕を回された。 ぴったりと密着しているこの格好は堪らなく恥ずかしい。今時の男女のカップルでも、そうそういない。 「離れろよ、逃げねえから」 「いやいや、啓輔君とこうしていると楽しいから」 「俺は、嫌なんだよ」 「嫌われたもんだねえ……」 残念そうには言っているが、声音は酷く楽しそうだ。からかわれているのだとはっきり判る。 と──。 鼻腔に覚えのある香りが届いた。 空調の流れが変わったのか、それともからかうように強く抱き寄せられたせいか。 グリーン系の香りだが、ほんの少し甘さがある。 記憶にある匂いに似ていて、だが少し違うような気もする。 けど──よく似ている? つい先日、純哉のところで嗅いだ香りとだ。 「あんた……香水使ってんのか?」 「香水? ああ、これかい。そういや、あの子が自分に合わないからと言っていたのを付けてみたのだがね。似合うかい?」 くんと袖口を嗅ぐ仕草に、だから香ったのかと気が付いた。 槻山は手首に香水を付けたのだろう。だから、肩を組まれた時にその手首から匂ったのだ。 「タイシが?」 「そうなんだよ。ああ、君にも貰ったのがあるとか言っていて羨ましかったよ。私には何かないのかな?」 「ねえよ」 きっぱり言い切って、そういえば、別れる日に一つ、ミニ香水を渡したなと、思い出した。 「最近新作の香水を幾つか買って試してみたようだけど、これはあまり気に入らなかったようだ。私がこれをつけて近づくと嫌そうな顔をするのが面白くてねえ」 笑う槻山に、そんなはずはないとは言えない。タイシは爽やかな中にも甘い匂いを好んでいたのを知っているからだ。 結構、頑張っているじゃん。 一度は喧嘩別れで決別した友人であったけれど、それでも頑張っていて欲しい。彼が頑張っている限り、この男が野放しにならないと思っていたのに。 「なんて……名前か忘れたけどね」 言われて、また香水の事を思い出す。 そうだ、やっぱり似ている。 香水は、付けた人によっても時間によっても変化するから、はっきりとは判らないけれど。 「あんた、さ……純哉に会った?」 「純哉?」 「うん」 会うはずなどない。けれど、何となくあの香りの持ち主が、槻山のような気がした。それは直感でしかなくて、確たる証拠もなくて、当てずっぽうにしか過ぎなかった。だが、違うと言ってくれるのを期待する啓輔に向かって、槻山ははっきりと頷く。 「ああ、家城君ね。先日会ったよ……おとつい、にね。よく知っていたな」 それでは、やはり。 「残り香……純哉の服に付いていた」 「残り香?」 「その香水。何で純哉と会っていたわけ?」 「知りたいなら、カフェじゃすまないよ」 「……あんた……」 「どうする?」 ニヤリと探りを入れてくる槻山を殴りつけたくなって、啓輔はその衝動を必死で堪えていた。 |