「え、休み?」 東京の本社を訪れた開発部工業材料2チームの緑山敬吾は茫然と目前の笹木秀也を見つめた。 「そうなんだ、さっき電話があってインフルエンザらしいよ。さすがに動けないって……」 苦笑を浮かべ肩を竦める笹木。工場では担当が違うこともあって、そんなに話すことはない。だがこうやって面と向かって話をしていると、確かに女性達の噂に違わず人を惹きつけるものがある。 綺麗な人だな……。 そんなことをふと思う。 男に対して綺麗というのは変だとは思うのだが、思ってしまったものはしょうがない。それに、容姿が綺麗と言うより、その動作が綺麗なのだ。 緑山がじっと見入っているのに気がついたのか、ふと首を傾げる。 自然な仕草なのに、なぜこんなにも目がいってしまうのだろう? それに……。 「緑山君?」 訝しげな笹木に、緑山ははっと我に返った。 そうだ、それどころではないんだ。 慌てて現実問題に意識を戻す。 「あ、すみません。それでは今日は来られないんですね」 立っている緑山からすると見下ろす位置にある笹木の頭が上下に動く。 それを見てとった緑山は小さくため息をついた。 困った……これは。 休みだと言われたのは、来生平(きすぎ たいら)。 緑山達、工業材料2チームの担当の営業マンだった。 今日、来生と緑山は一日打ち合わせをこの本社でして、明日一緒に顧客の元に行く予定を立てていたのだが、その彼がいきなり休みとなると、緑山にとって今日一日すっぽりと時間が空いてしまう。それどころか、明日の出張にすら支障をきたす。 開発関係の話だけなら緑山一人相手先に行けばいいのだが、今回のメインは営業絡みの話だった。来生が行けないのなら、延期をしたほうがいい。 緑山はそう判断すると、客先に電話をかけることにした。 さて、電話は? と、きょろきょろ辺りを見渡すと、笹木がそれに気づいて微笑みながら声をかけてきた。 「来生くんの席は、その向かいのだから使ってていいよ」 指さされた席に視線を移すと、確かに空席だった。 「ありがとうございます」 礼を言って席につく。 「最近、インフルエンザがはやってて、こっちも大変なんだけど、工場の方はどう?緑山君は?」 「ええ私は。でも工場でもいつも誰かが休んでいますよ」 そう言いながら、緑山は辺りを見渡した。 事務所の中は人が少ないはずなのに妙な喧噪さがあった。 アシスタントの女性が、ばたばたとあちこちに電話をしている。 時折謝る声がするのは不在を断っているのだろうか。 緑山の相手をしてくれている笹木ですら、端末に視線を送りながら書類を整えて、時折アシスタントに指示を出す。 それでも、時間を作っては緑山の相手をしてくれる。 申し訳ないとは思いつつ、慣れていない営業の事務所では、とてもありがたかった。 「まあ、しょうがないよ。今日はこっちのTOPも出かけてるし、君がぼうっとしていても、気にするような人はいないから、ゆっくりしてたら」 くすくすと笑う笹木につられるように、緑山もその口元に笑みを浮かべた。 「はい、そうします」 来生の席は持ち主不在の筈なのに、今まで作業をしていました、というような状態だった。あちこちに書類の山が積まれておりうっかりすると雪崩が起きそうだ、それをそっと脇に避ける。 いずこも同じ……だよなあ。 ついつい笑みがこぼれるのは、その机の有様が直属の上司である篠山の席と似ているからだろう。彼の席も埋もれた書類を探すのに一苦労する場所だった。 だからか、彼を反面教師としているもう一人の上司、橋本の席はいつも綺麗に整頓されている。 そんな二人が並んでいるから、余計にその落差が激しく見えるのが事務所の一風景だった。 そんな事を思い出しながら、起動した端末にメールのIDファイルを入れ、自分のメールデータベースを呼び出す。 並んだ未読の中から重要そうなメールを開いてはチェックしていった。 しかし、そんな仕事も一時間と持ちやしない。 顧客に向けて持っていくデータは既に揃えている。だが、先程電話した感じでは、やはり延期になりそうだった。 何のためにここまで来たのか? もうしようがないとは思いつつ、それでもため息が漏れる。 これが工場にいるのなら、やりたい仕事は山のようにある。 だが、ここは遙か離れた東京だ。することもない。 う〜。 何もすることがなく、仕方なく適当な書類のフォーマットをつついて直す。 なんだかいたたまれない。 別に仕事熱心なタイプとは思っていないが、どうもこうやってすることもないというのは気がひける。 まいったな……。 だたい今日一日時間をとった理由には、年度始めのいろいろな詰めをしてくるようにとの上司の勅命もあったのだが。だが、当の本人がいないとどうしようもない。彼と共に仕事をしている他のメンバーも今日は出払っているか休んでいる。 ほんと、どうしよう……。 緑山はマジで途方に暮れていた。 ぶらりと本社の中を歩いてみても、滅多に来ることのない本社だから、何がどこにあるのか今ひとつ判らない。それに忙しそうにしている人達の中で、ただふらふらとするのはやはり落ち着かない。 結局そうそうに事務所に帰ってきた。 ちらりと向けた視線の先にいたアシスタントの女性がそれに気付いて顔を上げた。 「暇、そうですね」 嫌みでなくくすりと笑われ、「まあ……」と苦笑を浮かべる。 「ゆっくりすればいいんですよ。仕方のないことですものね。帰ろうにも飛行機の予約がとれなかったんでしょう?」 「ええ」 あいにく、飛行機は満席。 それになんだか、来てすぐ帰るのももったいないと思ってしまうから、あちこちの顧客先に電話も掛けてみたのだが、どうもスケジュールが合わなかった。 結局、明日橋本が行くはずだった講演会を緑山が替わりに行く話をつけたところで、ほっと一息はつけた。だが、それにしても暇なことには変わりない。 確かにゆっくりするしかないのだろう。 ため息をつきつつも彼女に頷いた途端だった。 「誰かいないかっ!出られる奴!」 いきなり大声で叫びながら入ってきた人がいた。 すでに初老の域に達しているその男は、緑山でも知っている。緑山を含め全員が何事かとその人を見つめる。 医療材料の営業部TOPの高瀬は、どかどかと事務所の人がいるところ。すなわち、先のところにやってきた。 「どうしたんです?」 笹木が驚いて声をかけると、彼がその机に片手をついて、笹木を覗き込んだ。 「笹木くん、君ちょっと出られないか?運んで欲しいモノがあるんだ、都内だが」 「残念ながら」 視線を合わせないように伏し目がちに首を振っている。 「私は午後から客の所行きますので、その準備があります」 申し訳なさそうに肩を竦める笹木に、高瀬はため息をついた。 「そうか……」 「どうかしたんですか?」 「急に納品しなくてはいけなくなったモノがあってな、それを持っていって貰いたいんだ。うちの若い連中は、休んでいるか出払っているかで皆、居ないんだよ」 「ああ、医材は全滅に近いって言っていましたね」 笹木がちらりアシスタントの女性に視線を送った。その先で彼女が、苦笑いを浮かべながら、頷いている。どうやら、そう言った情報は彼女がいち早く笹木の耳に入れていたらしい。 道理でよどみなく言い訳をしていると思った。 さすが営業成績トップを誇るだけあるなあと感心してしまう。 緑山は肩を竦めると、高瀬が自分に興味を曳かないようにと端末の操作をした。といっても特にすることはないので、適当に使っているだけだ。 「ったく、来年は強制的に予防接種をうたせる事にする」 ひどく残念そうに肩を落として去っていこうとする高瀬の視線がふっとそんな緑山を捕らえた。 「あれ、君は工場の?」 その言葉に気づかれたかと、内心苦笑しつつも顔を上げる。 工場に来たときに幾度か話をしたことがあったのだ。 彼は緑山に関心があるようで、逢うたびに話をする。どうやら息子が緑山と同じくらいらしい。背格好も似ているというので、何かと気になるらしかった。 この高瀬も含めてだが、どうも緑山はよく話し掛けられる。 なぜか人の気を惹いてしまうらしいということは、最近になってようやく自覚した。というか自覚させられた。 恋人が口うるさく言い続けるので、ちょっと注意していたら、確かに初めての人でもなぜか言葉をかけてくる割合が多い。 いいこともあるが……悪いことだってある……。一度最悪のパターンを経験しているから、それからすればなんだって受け入れられることなのだが、それでも嫌な物は嫌だ。 今回の場合、どう取ればいいのだろう。 緑山は、半ば諦めて挨拶を返した。 「ご無沙汰しています」 工場で逢う分には、専門も違うし仕事絡みではないので気さくに話が出きるが、今の状況ではあまり話をしたいとは思わなかった。 それでなくても、今は居心地が悪い。 さっさと行ってくれないかな? 祈るような気持ちになる。 が、そんな緑山の期待を裏切るように、笹木が高瀬に話し掛けた。 「ああ、緑山君に行って貰えば良いですよ、高瀬さん。今日来生が急に休んだんで、彼、今暇なんですよ」 えっ! 「そりゃあいい。君、頼むよ。なあに、持っていって書類にサインを貰ってくれればいい。緊急だから正式な納品手続きは後からでいいんだ」 「あっ……だけど私は都内は不案内で……」 冷や汗たらたらで首を振ったが、高瀬はもう聞いてはいなかった。 「すぐ品物を持ってくるからね。どうしても11時までには納品しないと行けないんだ。いやあ、良かった良かった」 来たとき同様大きな声で 良かったと言いながら部屋を出ていく高瀬を緑山は呆然と見送った。 高瀬が部屋から出ていったのを見て取った緑山は、その目に避難の色を込めて笹木を見遣った。 「笹木さん……何てことを……」 恨みがましく言う募ると、笹木がくすりと笑って肩を竦めた。 絶対確信犯だ、とその笑みから読みとってしまう。 眉間の皺深く睨み付ける緑山に笹木は気にする風もなく、言葉を返した。 「ほんとうに暇そうだったからね。ちょうどいいよ。出かけていって納品したら、どこかで時間を潰していたら?今日は君を見張る人もいないしさ、ね」 最後の言葉はアシスタントに向けられた物だった。 彼女も笑って頷く。 「そうですよ。今日は天気もいいし、せっかくだから観光でもしたらどうですか?工場から電話があったら携帯にでも連絡入れますし、誤魔化してあげますよ」 「はあ……」 もしかしてしなくても、さぼってこいって言っているんだろうか? でも、いいんだろうか……。 確かに忙しそうな人たちの前でぼーっとしているのは気が引ける。だからといって実際問題やることもない。 そのつもりで笹木達が企んだのだとしたら、それならば乗っかるしかない。 ここにいても迷惑なだけだろう。 そう思わせるのは、嫌だった。 「それじゃあ……そうしようかな」 緑山がぽつりと呟くと笹木が満面の笑みを浮かべて頷き返してきた。 「そうしなって、篠山さんからかかってきたらきちんと誤魔化してあげるよ」 笹木のその言葉が終わるか終わらないかのうちに、高瀬が戻ってきた。 その手に幅10cm、長さが30cm、そして厚みが5cm程の白い箱。 英字で書かれた表書きに、シュリンクされたパッケージ。 それには見覚えがあった。 「それって、人工血管ですか?」 「そうだよ。何でも緊急の手術に必要ならしいんだ。だから11時までに届けて欲しい旨依頼があってね。それでこれが書類。サインでいいから受け取りを貰ってきてね」 はいっと渡されたその箱と書類一式を受け取る。 「納品先は北川病院の外科部長 近藤さんだ」 「え?北川病院」 笹木の手が止まり、訝しげに高瀬を見つめる。 「知っているのか?」 高瀬の問いに笹木が頷いた。 「ええ。北側病院でしたら、友人が医者をしていますので」 ふーん。 その時は、気乗りのしない仕事をもらったせいで、特にきにもかけなかった。 高瀬に渡された箱は小さいとはいえ、商品名丸出しのむき出しだったので、笹木が紙袋を手配してくれた。 アシスタントの女性が取ってきてくれたそれに、封筒に入れた書類と共に箱を大事に入れる。 緑山の会社にとっては商品だが、これが患者の命を救うことになる大切な材料なのだから。 高瀬が、緑山の動作を見て満足げに頷く。が、すぐにその表情を曇らせた。 「ったく、あれだけ病院巡りをしている奴らだから、きちんと予防接種をさせておくんだったよ」 大きなため息がその口から漏れる。 「今年は特に酷いようですからね。おかげさまで、こっちまで飛び火していますから、大変です」 ちらりと嫌みを含んだ笹木の言葉に、高瀬が苦笑を浮かべた。 「まあ、うちが発生源らしいのは重々承知しているよ。にしても、笹木君は平気なのかい?」 「私は、早い段階で予防接種を受けましたので……インフルエンザには昔かかって懲りましたから」 「ああ、やっぱりそうなんだ」 高瀬の言葉に頷き返しながら、笹木は手を動かしていた。赤い水性ボールペンを使って、地図に赤い線を引いていく。 「はい、地図」 その紙が緑山に向かって差し出された。最寄りの駅からの道筋が、赤い線で記されている。 「ありがとうございます」 礼を言って受け取ると、笹木がくすりとその口元を綻ばせた。 「逢うことはないと思うけど、そこの医者の増山って整形外科医が友達なんだけどね。年は一緒くらいなんだけど、そこで整形外科の部長やっているんだ」 「そうなんですか」 医者で部長というのがどの程度のものかは知らないから、返事のしようがなかった。それに、そんな事より、笹木の友人、というものに興味が湧いてきた。 この人の友達ってどんな人なんだろう。 緑山から見ても笹木は、何でもそつなくこなしている、と言った印象を受けた。だからこそ営業の成績も文句無しなのだろう。紙袋の手配も地図の手配も、忙しい筈なのにそんな気配を滲ませることなく、いつの間にか行っている人。 それはある意味、羨ましい存在でもあった。 そんな笹木の友人という相手に興味をそそられる。 彼のように、その人も優秀なんだろうな。 笹木がその人の話をするとき、僅かながら嬉しそうな笑みを浮かべたのに気付いたから。 緑山の付き合っている相手も優秀と言われる営業マンだ。そのせいだろうか? 笹木が優秀と言われる由縁を知りたいとふと思った。 その友人に会えば、彼の人となりをもっと知ることができるだろうか? どことなく優雅な動きを見せる立ち居振る舞い。 柔らかな印象を与える笑み。持って生まれたその顔かたちも相まって、彼の顔に嫌悪を浮かべる人もいないだろう。 あるとすれば、笹木がもてる事への同性の持つやっかみではないだろうか? とりあえず今の相手に満足している緑山にとって、笹木はやっかむ対象でない。やっかむほどの余裕もないというのが事実かも知れない。 その笹木が、ふっと緑山の顔に視線を移した。 一瞬、互いの視線が絡む。 あ、れ……? ふっと、心の内から見透かされそうな気がした。 お互いに僅かな間が漂う。 だが、笹木の表情には変化はなく、いつもと変わらぬ僅かな笑みを浮かべて緑山に話しかけてきた。 「緑山君、夕方には一度戻ってきてよ。書類を処理しなければならないし」 気のせいだったのだろうか? 「はい」 訝しく思いつつも、緑山は笹木の言葉に頷き返した。 北川病院への道筋は、地図の助けを借りて迷うことなくたどり着けた。 近くまで行くと白亜の背の高い建物がよく目立つ。それを目指していけば良いのだから、迷うことは無かった。 バックと共に手にした紙袋に入っている商品を再度確かめる。 「外科部長の近藤さん……だったな」 口の中でその名を呟くと、緑山はその建物の入り口を探した。 本来、納品に来たのだから表から入ることはしない方が良いのだろうが、何せ普段こういう所に来ないから勝手が掴めない。 仕方がないので、外来に来ている人たちでごった返している正面玄関へと向かった。 と、二重になった玄関の内側に、白衣を着た男性が二人互いに言葉を交わしあっているのが見て取れた。 額が後退してしまっている男とまだ若そうな真面目そうな雰囲気の男。 ……何だろう? その二人の前を通る人たちは皆一様に会釈をして通る。 その周りの人の反応や、本人達の態度を見ている限り、彼らが医者で、しかも、結構な地位の人たちのような気がした。 そんな人達が難しい顔をして話し込んでいるのを見て取った人たちが、通り過ぎた後も窺うようにしている。 そこに立っているだけで人の興味をそそる人達だから、そんな彼らがこんなところにいるという事だけで、何事か起きたのかと思ってしまう。 と。 その中の一人がこちらに顔を向けた。 見られている? 視線を痛いほどに感じて、緑山はふと立ち止まった。 誰かを捜しているんだ……。 そう思うと同時に、初老の額が広い方の男が何かに気付いたようだった。 途端に駆けてくる。 え! 堂々としていていそうな人が外聞もなく駆けてくる様子に、緑山は呆気に取られて視線でその姿を追いかけてしまった。 その姿が視界の中でどんどんと大きくなり、気がついたらすぐ目前で立ち止まっていた。 「ジャパングローバルの人だろう?」 いきなりだった。 「あっ、はい」 「私が頼んだ物は持ってきてくれたのかね」 有無を言わせぬ口調に、緑山は頷くと紙袋から商品を取り出した。 それを受け取った男……が、近藤なのだろう。 緑山は彼が商品のラベルを確認している間に、ようやくネームプートを確認する余裕を取り戻した。 確かに、近藤と書かれている。 「こちらが書類ですが……」 「ああ。確かに、これでいい。じゃ、貰っていくよ」 差し出す書類に見向きもせずに、近藤は商品だけを持って病院内へと走っていってしまった。 「あ、あの!」 サインだけでも貰わないと! 「ああ、待ってください」 焦って追いかけようとする緑山を、もう一人の男が制止した。 きっと近藤の対応が想像できたのだろう。慌てる様子もなく、緑山に話し掛けてくる。 「私が処理しましょう。近藤さんもまだ検査やらしなければならないようで、かなり焦っているようでしたので。申し訳ありませんね」 彼が悪いわけではないのにそんなふうに謝られ、どうしていいか判らない。 仕方なく、緑山も頭を下げた。 「あ、いえ……私も慣れていませんで、どうしたら良いものか判りませんで……」 「ああ、そうですか。では、こちらにどうぞ」 言い訳がましく言った言葉に納得してくれたらしい。 彼が先導してくれて、緑山はようやく病院の中に入っていくことができた。 増山浩二……。 ネームプレートには確かにそう書かれていたのを、すれ違いざまに緑山は見て取っていた。 増山が病院内を歩くと、目前の人々が尊敬の眼差しを込めて道を開けるのがそこかしこで見受けられた。 忙しいはずの看護婦達がちらちらと彼に視線を向ける。 それに慣れているのか、彼の表情には変化がなかった。 それは、最初に逢ったときからだった。 どこか冷たい。 それが最初の印象。 「こちらで手続きを」 「はい、ありがとうございます」 担当の職員を介して、納品手続きを行った。 何せ、ろくに説明も受けずに来ているものだから、どこをどうして良いのか判らない。 逆に向こうから教えられる始末で、赤面しまくりだった。 手続きが全て終わり、事務所を出るとほっと一息つく。 余裕が出来ると、高瀬に対する怒りが湧いてきた。 ……サインだけで良いって言ったじゃないかあ! 頭の中に医療材料トップの喰わせない顔を浮かび上がらせると、怒鳴りつける。 ついつい顔に苦渋の色が浮かんでいたのだろうか。 それまで無表情だった増山がくすりと僅かな笑みを漏らした。 あ、まず。 慌てて表情を整える。 「初めてなんですか?納品は」 静かな声音なのに胸の奥まで染みこむように感じた。 ふとそちらに視線を向けると、視線が絡む。 静かな夜色のその瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいるようだった。 なんか、凄い……。 緑山は慌てて視線を逸らした。 そのせいか、その口から漏れた言葉はひどく言い訳めいたものだった。 「私は、本来工場の人間なんです。情けないことに、営業の人間がインフルエンザで倒れてしまいまして、それで急遽借り出されたというか……ほんとうに」 最後の一言はため息とともに漏れてしまった。慌てて、口を噤む。 ああもう、情けない。こんな愚痴ばっかさっきから吐いてる。 「インフルエンザですか……そういえば、そちらの営業には私の友人がいるのですが、彼は大丈夫でしょうか?予防接種は打ったと聞いてはいるのですが」 「あ、笹木ですね。出て来る前に聞いてきました。彼は、元気です」 「そうですか。それは良かった」 安心したかように微笑むその仕草に見惚れてしまう。 普段表情を変えない人のように見えるが、笑うとそれまでの冷たさが和らいで酷く優しげな表情になる。 顔の作りが変わるわけではないのに、ここまで雰囲気が変わる人も珍しいだろう。 きっと患者達も看護婦も彼のこんな表情を、いつも見ているのだろう。 自信に裏打ちされた言葉共にその笑顔をもたらされたら、それは相手を安心させる。それは医者としては必要不可欠な事と思える。 「せっかくこんな所まで来られたのですから、お昼をご一緒しませんか?と言っても院内のレストランなんですけど、ここは改装してからとてもおいしくなったと評判なんです」 「え?」 どきりと胸が高鳴った。 いやいや、ちょっと待て。 訳の分からぬ感情に動かされつつも、慌てて気を引き締める。 いくら暇とはいえ、それはまずいだろう、と思うのだが……。 断ろうといろいろと頭の中で考えるのだが、言葉が浮かんでこない。それより、断りたくないっていう気持ちの方が大きい。 「あ、それともこの後、お忙しいのですか?」 「い、いえ」 こ、これは……。 緑山は高鳴る胸に信じられない思いだった。 どうしてこんな……ナンパされたような気になってしまったんだろう。 緑山は内心の動揺を隠して、それでも頷いていた。 断りたくはなかった。 ちょっと疲れたし……休憩がてら、でもいいよな。 そんな言い訳を自分にしていた。 広々とした食堂は、中庭に面していて大きな窓からそこにある緑が楽しめる形式になっていた。 そこに入って初めてこの病院の一階だと思っていたところが、実は二階だったと気がついた。 一階にあるのが売店や食堂などで、玄関から直接入っていける外来の受付などがあるところは二階だったのだ。 その食堂も、食堂と呼ぶよりはレストランと呼んだ方がいいように洒落た感じだった。 「凄いですね」 思わず漏れた感嘆の声に、増山は小さく頷いた。 食券方式で、入った場所でまず好みのモノを選ぶ。それだけが食堂ぽく見えたが、メニューはその辺のレストランに匹敵する品揃えであった。 「奢りますから」 遠慮する緑山の声を振り切って、増山がネームプレートから取り出したカードを差し込んだ。 希望するメニューのボタンとともに余所から見えない位置にあるキーボードで幾つかのキーを押す。 「これで決済できるんです。給料天引きなんですよ」 ネームプレートと兼用のそのカードが販売機から弾き出される。 「落としたら大変ですね」 「まあ、ここでしか使えませんから」 それに、と言葉を継いだ増山がカードを緑山に見せた。 「ICカードですから、暗証番号を入れないと使えませんしね」 先程の操作がそうだったのかと、ちらりと食券の販売機を見る。 全面改装したばかりだという病院は、全てにおいて先進的なシステムを組み込んでいた。 結局渋る緑山の分まで食券を買った増山は、一番奥の窓際の席へと緑山を案内する。 増山にとってはひどく自然な振る舞いのようだが、それが緑山にしてみればひどく恥ずかしい。 増山は若くして整形外科部長までなったという話を笹木から聞いていた。だから、病院内でも有名なのだろう。見舞客らしい客達が、増山の動きを目で追っているのが判る。 そんな彼が自ら案内して席に導いている様は、緑山が大事な相手として見えるものだろう。 尊敬と憧れと、そしてどこかやっかみの視線。 営業トップの実力を持つ恋人に、人の見方、対応の仕方をたたき込まれている緑山にしてみれば、それが否応なしに伝わってきた。 緊張して、手足の動きが不自然になりそうにすらなる。 「どうぞ」 勧められた席は、奥側の席で……上座であった。 どうしよう……。 一介の平社員で、今日は単なる代理だというのに……。 笹木さんの同僚だから……の対応なのだろうか、これは。 その席で躊躇している緑山を後目に、増山がその相対する席に座る。 緑山も仕方なく示された席に座った。 「ありがとうございます。何から何まで。」 とりあえず礼を言う。 ぺこりとお辞儀して顔を上げると、増山が僅かに口の端を上げていた。 「そんなに恐縮なさらないで下さい。そこまで恐縮されるとこちらの方が申し訳なく思ってしまいます」 「しかし……」 そんなこと言われてもなあ……。 相手は、上得意様。自分は、一介の営業の代理。 本来、誘われた時点で断るべきだったのかも知れない。 いや、営業の人間としたらそうするべきだったのだ。 どうしよう。 内心の動揺を悟られたくなくて、中庭に視線を向ける。 緑山の戸惑いに気付いたのか、増山は困ったように眉間に皺を寄せた。 ぎこちない緑山を前に増山が何かを逡巡している気配がしたが、緑山とて、どうしようと思い悩んでいたから、対応のしようがない。 「そうですね……緑山さんは、工場の方と言っておられましたね」 「え、はい」 「私は、あちらにも知り合いがいるのです。笹木さんの友人の方で、滝本さんと篠山さんと言われる方なんですけど」 「え?」 何があっても忘れることのない名前を言われて、緑山はたっぷり10秒間は増山を見つめていた。 増山の口元に苦笑が浮かんで初めて、自分がアホ面していたのではないかと気付く。 マズッ……。 慌てて顔を引き締める。 この場に恋人でもいたら、速攻で背後から思いっきりつねられていただろう。 「あ、あの……篠山は私の上司になります。ご存知と聞いて、ちょっと驚きました」 ちょっとどころではなかった。 思いっきりびっくりした。 滝本さんの名前はまだ想像がついた。 が……。 「たまたまなんですけどね。笹木さん達と一緒に旅行に言ったときに一緒になりまして。それで、です。優秀な方と聞いていますけれど」 「は、あ……そうだったんですか?」 何て意外な結びつきだ。 そんな知り合いだったなんて……。 茫然としていた緑山の前に、料理が運ばれてきた。 「え……」 先ほど仕方なく頼んだのは普通のカレーライスセットだった。が、今運ばれてきたのは、カレーだけではない。しっかりとハンバーグまで添えられていた。 「あ、あの……」 「気にしないでください。カレーだけでは足りないでしょう?」 確かに増山の言う通りだった。やせの大食いと言われるほど、緑山の食事量は多い。初めて見た人が呆気に取られるくらいだ。 そういえば食券を買うときに、ちらちらとメニューのこれに視線をやっていた。もしかして、気付かれていたのか? 見透かされていると気付いた途端に顔が熱くなる。 さっきから……驚かされてばかりだ。 でも、こんなのって……なんかやだな。 緑山の心の中に羞恥に晒されている自分がいる。だが、それ以上のスピードで大きくなる感情があった。 「申し訳ありません。何から何まで」 呼吸を整え、にっこりと微笑む。 好意は有り難く頂こう。 ここまで来て、遠慮することは相手にとっても迷惑なことだ。 だから。 彼は確かに上得意様。だが……今ここで自分と対応してくれているのは、友人の知り合いだからだ。それは間違いないだろう。この人がどんな人かはまだ把握できない。だけど。 緑山は、意識を切り替えた。 確かに取引先の方には違いないだろう。だが、今回の好意はそのせいではない。 「増山様とうちの篠山が出会ったというお話を聞いてみたいですね」 そう言って意識して極上の笑みをその顔に浮かべた。 ここまで何もかも手玉を取られてしまうのは癪だった。 だから、自分を取り戻す。 負けない……。 その強い意志をその瞳にみなぎらせて。 それに気付いたのだろうか? 増山がその表情から笑みを消した。 その挑発的であろう視線をまともに受けているのに、堂々としている。 彼は慣れているのだろうか? 他人から挑発的な視線を受けることに? 「私と篠山さんがお逢いしたのは、秋に旅行したときなんです」 変わりのない口調で先ほどの会話を続ける。 あまりにも落ち着いたその姿勢に、緑山は意識を和らげた。 少しだけ、気力が続かない。それは度重なる緊張のせいなのだろうか? それとも、相手の増山の雰囲気のせいなのだろうか? 「その時にお逢いしたのがご縁です。でもその後はお逢いする機会がなくて……」 秋に旅行……滝本さんも一緒と言うことは……。 緑山の脳裏に、その情報と合致する篠山の休暇が一つだけ浮かび上がった。 その旅行の間、いない篠山に代わって納品処理をした。 その時、再会した穂波に口説かれたのが始まりだったのだから。 忘れるはずもない。 あの人は……。 あの人に言わせると、自分は敢えなく手の中に落ちた、らしい。 冗談じゃないとは思うが、結局彼と付き合いようになったことは否定できない事実だ。 そして、この恋人は、一筋縄ではいかない程、強引な策士だった。 先日も緑山が出張だと聞いた途端。 『しばしの別れだからな。私の事を忘れないようにしておかないと』 などとほざいて……腰が立たないほど責め苛まれたのだから。 あの人ってば、絶対サドっ気があるよな。俺を苛めて楽しんでいるようなんだから。 無意識の内に、首筋に手がいっていた。襟に隠れたすぐ下に、その時に付けられたキスマークがある。 『私の印だよ』 耳元で囁かれた言葉まで甦り、ぞくりと、躰がその時のことを思い出してしまう。 と。 「どうかされましたか?」 増山の問いかけに、緑山がはっと我に返った。 自分の手の位置に気付き、自分が何を思い出しているのかを自覚した。途端にふあっと顔が紅潮する。 まずいっ! こんな時に何を。 「え、いえ。何でもないんです。ちょっと思い出したことがあって……」 狼狽える緑山に増山が微かに笑みを浮かべた。 「そう言えば、私も思いだしたことがあるんです」 「え、は?」 「あの時、篠山さんと滝本さんが、喧嘩していたんですけど……いつもあの調子なんですか?」 「え、いえ……でも、まあ仲は普通ではないかと……たぶん」 間の抜けた返事をしながら、緑山はふっと気付いた。 もしかして、助けてくれた? 狼狽える緑山の様子から、触れられたくない話題だと気付いたのだろうか? 緑山は、それに素直に甘えることにした。 気にしないでくれようとするのなら、そうしてもらうに越したことはないのだから。 「あの時篠山さんとはそれほどお話しする機会がなくて……。彼は連れのご友人といつも一緒でしたし」 くすりと笑うその様子に、ふと、この人は何かに気付いているのかと勘ぐってしまう。 友人というのは、一緒に行ったという滝本恵のことだろう。 滝本恵……電気化学2チームの若きリーダー滝本の弟で、穂波の部下。そして篠山の恋人……。 二人がつきあい始めたとき、ある意味滝本恵は緑山にとって恋敵だった。 篠山に想いがばれて、自分がとった行動を責められて……はっきりと拒絶されるまで……。 その二人が行った旅行に、この人も同席したと言うことは……。 まさか、笹木さんとこの人って付き合っている……ってことはないよな。 でも、なんだかただの友人ではないような気がする。 「増山様は、その時はお一人で?」 「いえ、私も友人と一緒に行っていたんです。あ、ああ、その友人が今日ここに来るんですよ。治療にね。紹介しますから」 「友人?」 「ええ、笹木さんとも共通の。面白い人ですから、緑山さんとも気が合うかも知れませんよ」 ……。 緑山は、その笹木と増山共通の友人という人に無性に逢いたいと思ってしまった。 笹木と増山、二人のイメージはあまりにも違う。 笹木の気さくさは、増山にはない。酷く丁寧なのだが、どこか冷たい感じがする。その笑顔が本心なのか掴めない。 笹木が陽なら、増山は陰。 でも陽と陰だから、仲がいいのかも知れない。 だが、その二人の共通の友人となるとどんな人なのだろう? 緑山は、優雅にコーヒーを口元に運ぶ増山の仕草をじっと目で追っていた。 何が琴線に触れる。 気になって仕方がない。 この人たちのことが? 何故だろう? 「緑山さんは、随分と落ち着いていますね。まだお若いですよね?」 「あ、……25です。そんなに落ち着いてはいません」 首を振ると、増山の口の端に僅かに上がった。 あ……なんか変な事、言ったっけ? でも、彼の方がよっぽど落ち着いている。 そういう雰囲気に慣れていないから、どうも落ち着かない。 それにどうも先ほどから体調が良くないような気がする。 どことなく怠い。 でも、何だろう……これ? 緊張しすぎたのだろうか? 「あ、すみません」 いきなり、増山が胸ポケットから携帯を取り出した。 あれ?携帯禁止なんじゃ? 「院内用携帯なんです。特別仕様の」 緑山の不審気な視線に気がついた増山が簡単に説明し、電話に出る。 ああ、そうなんだ。 視線の先で増山が一言二言話してから電話を切った。 「すみません、呼び出しなんです。あ、ここで待っていて貰えますか?そんなに時間がかかる用事ではないので」 「あ、はい。もしここにいなければ、その中庭でもうろうろしていますので」 「すみません」 幾度も頭を下げ、増山が慌てて去っていった。 飲みかけのコーヒーが湯気をたてたまま、まだ半分以上残っている。 忙しいんだろうな。 何かあれば食事中だって呼び出されるのだろう。 そんな忙しい人の時間を割いて貰っているのだと、申し訳なく思ってしまう。 何せ自分ときたら、今日一日ぽっかり空いてしまった予定をどうやって潰そうかと思案しながらここに来たのだ。 彼の誘い……断った方が良かったのかも知れない。 かと言って、もう待っていると言ってしまった後で、さっさと帰るわけにもいかない。 ただそれは建前で、ただ好奇心旺盛なだけかも知れないな。 自然に口元に苦笑いが浮かぶ。 笹木にしろ増山にしろ、どこか年相応から外れているほどの落ち着き。 少しでも、知りたいと思ったのは事実。 彼らがなぜあそこまで落ち着いているのか? それを知れば、あの傍若無人の恋人に冷静に対応できるかも……ふと、そんな事を考えていた時だった。 「ここ、いいですか?」 声をかけられ、はっとその人物を見上げる。 その視線の先ににっこりと微笑んでいるのはちらりと見ただけでも背が高いと判る男がいた。 20代?30はいっていないか?……大学生……じゃなさそうだし……。 ほっそりとした体躯に当世流行りの長い茶髪。Tシャツにジーンズでゴールドのアクセサリ、一見アンバランスのようでひどく似合っていると思わせる。 だが、緑山はその髪型に、ぞくりと背筋に悪寒が走った。 その長い髪を無造作に一つにくくっている髪型といい、その色といい、過去の傷を思い起こさせる。それは、何度忘れようとしても、忘れることのできない記憶だった。 だが。 「どうぞ」 そんな台詞が口からついて出た。 それは、その男の柔らかな笑みと全身から滲み出る人なつっこさのせいだったのかも知れない。 「ありがとう」 彼は再びにっこりと微笑んで、先ほどまで増山がいた席についた。
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