鬼の宴会

鬼の宴会


「ほんとに……さあ……、行かなきゃいけないのかよ」
 気分は曇天。
 漏れる声音もその表情も、どんよりとした気配が漂う。
 仕事も終わった金曜の夜。
 隅埜啓輔(すみのけいすけ)は恋人である家城純哉(いえきじゅんや)の部屋に泊まる予定で訪れていた。

 楽しいはずのそのひとときも、明日のことを考えるとひたすら滅入ってくる。
 そう、明日は家城の同期の人達との飲み会に誘われているのだ。
 前々からの誘いについに断りきれなくなった啓輔は、結局強引に承諾させられて。
「誘われていますしね。それに誘われたときに行くと言ったのはあなたでしょう?こんな間際に行かないなんて言っても通用しませんよ。皆、楽しみにしているようですし」
 同情の欠片も感じられない冷ややかな声音がさらに啓輔を落ち込ませていた。
 ラグマットを敷いた床にあぐらをかいて座り込んで、鬱々と口ごもる。
「だってよ、イヤだ、なんて言わせて貰う立場じゃないし……」
 思わず胸の内に抱え込んだ枕代わりに使っているクッションに顔の下を埋める。
「まあ、それほどたいした事にはなりませんよ」
 随分と憂鬱そうな気配に、さすがに家城も肩を竦めた。
 ぐらりと背を預けていたソファのクッション部が重みを失って揺らぐ。
 首を巡らすと家城の姿がキッチンへと消えていった。
 ……そりゃ、あんたはいいだろーけどさ。
 はふっと大きく息を吐き出すと、誰もいなくなったソファの足下に背を預けた。ただぼんやりと天井を仰ぎ見る。
 と。
 その視界に家城が入ってきた。
 その口元に微苦笑を浮かべて啓輔を覗き込む。
「しようがないですね」
 くすっと可笑しそう吐息だけで笑っていた。
「いいよな、あんたは馴れてるから」
 ふてくされてそっぽを抜きながら返すと、言葉の代わりにソファの傍らのテーブルにコトリとマグカップが置かれた。
「何?」
 ほんわりと湯気が立っている。
「ミルクですよ」
 軽い返事に、眉間にシワが寄る。
「……オレ、ビールがいい」
 見上げた先で、家城が目だけを笑せて声は冷たく返す。
「未成年」
「いつもは飲ませてくれるくせに」
 ムスっと唇を尖らせても、今日の家城はそのままマグカップを持ってソファに座り込んでしまった。
 どうあっても今日はアルコール抜きらしい。
 と、余計にがっくりとくる。
「明日はどうせ飲まなきゃいけないんですから、ね」
「そりゃあ、まあ……」
 きっと飲まずにはいられない状況に明日はなるだろうけど、今日だってできれば少しは発散させたい気分なのに。
「はあっ……」
 深いため息が漏れる。
 途端にくすりと微かな吐息が零れて空気が揺らぐ。
 その根元にすがめた目を向けながら、啓輔はムウッと唇を尖らした。
「笑い事じゃねーって」
 行きたくもない飲み会。
 だが、行かなくてはならない状況を作ったのがこの目の前の恋人だというのに。当の本人はそんなこと歯牙にもかけていないらしい。
 思わず漏らしたくなる恨み言は、だが、発する前に家城にかわされる。
「すみませんね。でも別にそんなに拘ることではないと思いますよ」
 家城が身動ぐと柔らかな動きがソファを通して背に伝わる。
 揺らぐ空気の流れに沿って嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔をくすぐってきた。
 官能的な意味合いを持つその匂いに目を細めながらちらりと窺う先で、家城がカップに口を付けている。
「そりゃ、あんたはそーかもしんねーけど……オレ初めてだぞ。しかも、この前の飲みでは散々あんたがみんなを虐めてっから、今度のターゲットはどう考えたってオレだって、思わねーのかよ」
「まあ……そうですねえ」
 ひどく他人行儀な物言いは今に始まったことではないけれど、今度ばっかりはその言葉にムカッとくる。
 さっきから何度も胸の内に込み上がる不快な感情が啓輔を責め苛むというのに、それを相手に発散できないとはどういうことだ?
 こんな事は昔はなかったのに……随分と我慢がきくようになったもんだと、ちょっとだけ過去の自分を思いだして肩を竦めた。
 だが、それはそれで余計なストレスが胸の内に宿る。
「ちくしょ?っ!!」
 結局叫ぶことでしか発散できなくて……。

 啓輔を苦しめている原因の「飲み会」への参加。
 それは、もともと家城達同期の四人が親睦を深めるために行うものであった。
 いつしかメンバーの一人竹井拓也(たけいたくや)の恋人安佐由隆(あさゆたか)が加わり、メンバー内の笹木秀也(ささきしゅうや)と滝本優司(たきもとゆうじ)も恋人同士だと判明してしまったことから、残る家城は……という話になり……。
 その家城の恋人も男であったとばれた日には、皆がぜひ連れてこいと手ぐすね引いて待っている状態になるのは必然だろう。
 が……。
 それだけならまだいい。
 さすがに会社の先輩ばかりだから気後れは多少するにしても、そんなにも物怖じする性格ではないから参加することには抵抗はなかった。
 だがそれ以外に啓輔を憂鬱にさせる原因が、実はあって……。
 実は前回の飲み会で家城はひどく機嫌が悪いままにそれに参加した。
 しかも荒れた原因は、啓輔にある。
 荒れに荒れたと噂されるその飲み会のリベンジを他のメンバーが謀っているとすら聞いている。
 その状態での今回の飲み会。
 誰が好きこのんで行きたいなんて思うだろう。
 なのに……。
「はあぁぁぁぁ」
 何もかも全てを吐き出すように思いっきり大きく吐息をつく。
 まあ……確かに悩んでも仕方がないっていやあ、そうなんだけどさ。
 ちらりと家城を見上げ、すぐに手元のカップに視線を移す。
 せっかく……来ているんだよな。
 暗い考えばっかりしていたら気分が滅入る。
 だったら、少しは楽しいことをして疲れたら……何もかも忘れて眠られるかも……。
 やっぱ、楽しいこと……って言ったら。
 相手をその気にさせないと、それも始まらないわけで……。
 啓輔は飲み干したカップをコトンとテーブルに置くと、ずりずりとソファにずり上がった。
「?」
 ソファの端に座っている家城が何事かと向ける視線に悪戯っぽく微笑んで、その膝の上までずり上がり仰向けに寝っ転がる。。
 平均身長よりさらに高い啓輔だから、頭を膝にのっけてると折り曲げてもソファからはみ出す足。それをぶらぶらと揺らしながら、目線をあげて家城を見上げた。
 啓輔が何をしたいのかと、家城は戸惑いを隠せない表情で見つめ返す。
 そんな様子も珍しいから何となく嬉しい。
「そんなに行きたくないのなら、何か理由をつけて断りますか?」
 しかも予想外に優しいことを言うものだから、現金なもので一気に気分が高揚する。
「どうせ、いつかは行かなきゃいけねーんだろ。だったら覚悟を決めて行くよ。その代わりあんたさ助けてくれよ。オレが虐められたらさ」
「啓輔なら、虐められてもやり返すような気がしますが?」
 くくっと微かに喉が震えるのを見上げながら、口の端を歪めて返す。
「ダチとかさ、オレの同期の連中ならそれもできるけど……一応みんな先輩だぞ。遠慮ってもんがあるし……そう簡単にいかないだろ」
 一応……ってところ強調して言い返すと、楽しそうな声音で返事がきた。
「あなたの口から先輩とか遠慮なんて言葉を聞くとは思いませんでしたね」
 わざとらしく目を見開く家城に、啓輔は苦笑いを浮かべる。
 わざと恨めしげに一睨みして、責める代償のように手を伸ばす。
 それに自分の欲求を隠しながら。
 基本的に聡い家城のこと。その意図を察した途端にその頬がすうっと赤くなる。
 途端にぞくりと全身に微弱な電流のような疼きが走った。
 もともとそのつもりで泊まりに来たのを体が思い出す。
「オレが我が儘言うのはあんただけだろ」
 くすりと笑いながら話し掛けて、我慢ならないと掴んだ腕を引っ張る。
 遠くでかたんとカップを置く音がした。
「まだ早くないですか?」
 掠れた声が上から降ってくるのを迎えながら、啓輔は待てないと誘うように頭を上げた。
 するりとその頭を支えるように指が添えられる。
 指圧するような柔らかな感触が頭を覆ってその気持ちよさにすうっと目を細めた。
 見上げる先で、家城が上半身を屈めてくる。
 待ちこがれた再会のように触れあった唇。
「…ん……」
 どちらとも付かぬ声が漏れる。
 絡み合った柔らかな舌が甘いミルクの味を伝えてきた。


「ああ、来たね」
 思った以上の渋滞で、15分ばかり遅れてしまった啓輔達が慌てて指定された座敷に入る。
 出迎えてくれたのは、竹井だった。
 いつも眉間にシワを寄せた不機嫌な表情しか覚えのない彼が、今日はなんだかとっても機嫌が良さそうでにこにこしている。
 その姿を見ていると、安佐が惚れたのも判るような気がした。
 感情で顔つきがこんなにも変わるんだろうか?
 その優しそうな相貌は竹井の雰囲気を格段に落ち着かせる。
 こういうところに惚れたんだろうなって、安佐の方を見遣ると、彼も随分と楽しそうだった。
「遅くなりました?」
 これならマシかも?、とホッとして挨拶のために頭を下げた。
 その背を促すようにとんとその軽く叩かれる。
 振り返ると家城の口元が綻んでいた。
 こいつって、絶対に楽しんでるよな。
 それを窺わせるに充分な笑み。
 ま、ここまで来てオレも逃げられねーけどさ。
 ちょっとだけ睨み付けると鼻先で笑われた。
 ったくさ、本当にこいつってば、助けてくれるんだろうな。なんだか心配になってきたぞ……。
 だからと言って今更どうしようもない。
 竹井に促されるまま、啓輔は一番奥の席に座らされた。
 これって逃げられねーためか?
 どうも思考が暗い方向にいくのを悟れないように、顔に笑顔を貼り付かせる。
「さてと、全員揃ったし……本日の主賓も来たことだし……家城君、彼を紹介してよ」
 一応幹事役らしい滝本が、窺うように家城を見る。
 それに家城も穏やかに返した。
「ええ、まあ、でも名前は知っているでしょう?皆さん逢っているしね」
「まあ、そうだけど……ほらさ、馴れ初めとか、ね?」
 って、いきなりそれかっ!
「今年の新人だよね、家城君がべったりついているって噂になり始めたのって、入ってすぐあたりだったけど……いつ知り合ったの?」
 こら?、滝本っ!!
 その話は止めてくれっ!!
 はっきり言って思い出したくない出来事を、滝本の言葉で鮮明に脳裏に思い浮かべてしまい、顔が一気に熱くなった。
「あれ……赤くなってる」
 いち早く安佐が気付く。
「あ、本当だ。ということは、そんなに恥ずかしいこと?」
 などと竹井までもが言い出すものだから、皆が興味津々で啓輔を見つめていた。
「ううっ……」
 墓穴を掘った啓輔はさらに顔を赤らめながら、助けを請うように家城に視線を向けるが、それは呆気なく無視される。
「別に出会いを聞きたいだけなのにさ、もしかして最初から迫られちゃったとか?」
 妙に陽気な声音の竹井に、啓輔の視線が彼の手元に向けられた。
 ……もしかして……もう飲んでる?
 すでに数本のビール瓶が彼の足下に転がっていた。
 体よくできあがった酔っぱらい一名。
 どこかとろんとした目つきで、啓輔を見つめてくる。
「あ、あの……何でもう?」
 助けを求めるように背後の安佐を窺えば、苦笑で返された。
「竹井さん……強くないんだ。だけど、今日は負けられない……とか言って景気づけに一気に煽っちゃってさ……止める暇無かったし。しかもなんだかいつもより回るのが早くってさ」
「素面で家城くんに渡り合える人もそういないかも」
 などという滝本達も竹井ほどでなくても飲んでいる気配が窺える。
「飲んだからと言って渡り合える物でもないって言ったけどね」
 一人冷静な笹木が、鋭く突っ込んでいた。
 ってことは何だ?
 啓輔は呆然とその様子を見渡した。
 オレってこんな酔っぱらいの相手を今日はしなきゃいけないってこと?
 なんか……素面の人達相手より、怖いものがないか?
 アルコールが入ると理性のタガが外れやすくなる。
 背後に控える恋人も、その典型的な一例だ。
「家城さん……」
 思わず前を向いたままで話し掛ける。
「はい?」
「今日は飲まないでよ」
 無駄とは思いつつ、釘を刺す。
 だってオレ、これ以上あんたまで面倒見たくない。
「……酔うほどには飲みませんよ」
 揶揄の含んだ返答に、オレはむうっと口先を尖らした。
「ああ、やっぱ仲がいいなあ」
 適度にタガが外れた竹井の邪気のない笑顔を安佐は幸せそうに見つめているけれど、啓輔にとってそれは悪魔の微笑みでしかない。
「だからさ、どうやって知り合ったのさ?」
 もっとも答えたくない質問は、きっと答えるまで繰り返される。
 だから啓輔は、仕方なく肩を落として口を開いた。
「たまたま、休憩時間に遭って……その調子悪いときに話しかけられて……なんか、気に入られちゃって……」
 嘘じゃないぞ?っ!!
 心の中で叫ぶ。背にはたら?りと冷や汗が流れていた。
「あまりに情けなさそうだったので、ちょっとお節介を焼いてしまいまして」
 って、なんだそれはっ!!
 じとっと睨み付けても、そっぽを向いている家城は気づきもしない。
「ふ?ん」
 滝本達は納得したように頷いていたが、ただ一人笹木だけが微妙に肩を震わせていた。
 何なんだ?
 不審に思う啓輔だったが、それに気づいた笹木が先手を打つようにその手元のコップにビールを注ぐ。
「どうぞ」
 なんてにっこり笑われたら誘われるようについついごくりと飲み干してしまう。
 緊張のせいかひどく喉が渇いていて、ビールがひどくおいしく感じた。
「隅埜君は未成年なんですからあまり飲ませすぎないようにね」
 さすがにぴしゃりと家城が指摘すると、苦笑混じりに笹木が答える。
「少しくらいならいいだろ。それよりさ……」
 わずかな間。
 意味ありげな笑みが笹木の口元に浮かぶ。
「何?」
 啓輔が思わず身構えると、微かに小首をかしげて言った。
「どっちがどっちなのかな、ほんとのところ?」
 それがあまりにもふつうの口調だったので、啓輔は一瞬何を言われたか判らなかった。
 笹木につられたようにきょとんと首を傾げ、ちらっと家城へと視線を送る。
 と……。
 あれ?
 そのほんの少し俯いた家城の瞳がわずかに揺れているような、そんな感じがした。
 だが、一瞬後顔を上げた家城はまたいつものように表情が窺えない。
 今……動揺してた?
 それでも啓輔にはそんな家城の感情の機微が判ってしまう。
 何で?って考え込み、一瞬後に笹木の問いかけの意味に気がついた。
 どっちがどっち……って……!!
 ぎくりと笹木を見やると、その顔が期待に満ちている。
「あ、あの……」
 そういえば……。
 笹木には家城が休んだ日の朝に一緒になった。
 無理をさせすぎた家城が会社に行けなくなったからだ。
 あの時……バレてたんだよな……家城が受けだということに……。
 だが。
「別に……どっちでもいいじゃないか……」
 口にしながら、それでも家城が気になる。
 変わらない表情の陰で、家城の動揺が手に取るように判るから。
「ふ?ん」
 意味ありげに微笑む笹木が恐ろしいと啓輔はびくりと体を震わせた。
 その笹木をどこかぼんやりとした滝本がつつく。
 それに気づいた途端、笹木の揶揄するような笑みが一気に柔らかくなった。
「何?」
 首を巡らして滝本の方を見る。
「からかっている?」
 責めるような口調の滝本に、困ったように肩を竦め返した笹木はそれ以上は突っ込んでこなかった。
 よかった……。
 この場合、オレが受けているからと言った方が家城には良いのだろうけど。
 でも……やっぱ……オレ的には……なあ……。
 ほっと一息つく。
「隅埜君、食べなよ」
 滝本が進めてくる皿を、礼を言って受け取った。
「お腹すいていると、酔いが早いからね。しっかり食べてよ」
 にこにこと笑う様は、ここでは一番の年上の筈なのに妙に子供じみている。
 それに、なんだかほんわかした人だな。
 前からそんな感じは合ったけれどこのメンバーの中ではほんとうにそう思える。
「滝本さん」
 何気なく呼びかけた。
「ふぁに?」
 ぱくりと唐揚げを口に放り込んで返事をする様は、ほんとに子供のようで啓輔は思わず口元が綻んでしまった。
「ばか、優司、笑われてるぞ」
「へっ……あっ……」
 笹木に指摘されてようやくそれに気づいて、しかも照れてかああっと赤くなる様子も、確かに可愛い。
 なんだかからかいたくなる。
 竹井も滝本もからかうとひどく照れる。
 それが面白くてまたからかって。
 これ……ヤバいかも。
 家城がみんなをからかう理由がわかるような気がした。
 だってさ、面白いもん。
 それに……独り者の頃の家城からすれば、そんな何だかんだ言ってアツアツの連中と飲んでいたら、からかってやりたくなるのも当然だ。
 よくもまあ、こんな連中と一緒に飲んでいたんだ?
 と、啓輔は家城にも呆れてしまっていた。
「で、何?」
 ごくりと口の中のものを飲み下した滝本が改めて問い返す頃には、ここに来るまでの緊張とか、さっき返答に困った問いとか、そういうものが全部頭から飛んでいて。
「滝本さんって、子供みたいな所あるんですね」
 なんて、揶揄するように言ってみたりする。
「そうだろ」
「何で?」
 笹木がそれに賛同し、滝本がムッとむくれてしまう。
 ああ、結構楽しい。
 くくっと家城が喉で笑う様子を感じながら、啓輔はこの飲み会を楽しむ術をようやく知った。
 からかって、からかわれて……。
 そして、互いの気持ちを高めていく。
 安佐がからかわれてもここにくるのは、それがあるから。
 竹井も滝本も……きっと気づいていなくても、この飲み会を楽しみにしている。
 笹木が一番それを知っていそうだと視線を向ければ、にっこりと艶やかに微笑み返された。
 だから、君を誘ったんだよ。
 そんな声が心の中に聞こえたような気がした。
 ああ、そうなんだ。
 こくりと啓輔はそれに頷いて、そして後ろを振り向いて、家城を目線で誘う。
「何です?」
 動ずることなく反応した家城を手招いて傍らに座らせる。
「はい?」
 訝しげに目を細める家城にすり寄って啓輔は背を預けた。
「気持ちいい」
「重いですよ」
 そういう家城の声は微かな笑いを含んでいた。
 
 
  ……。


 料理も酒も……穏やかになってしまった六人の間でいつの間にか消費されていた。
 もう予約の時間も終わる頃。
 このまま何事もなく成功裏に終わるだろうと、誰もが思った頃。
 いったい何の話からそんなことになったのだろう?
 言い出した本人も後から聞いたって覚えていないと言いそうな──とにかくそんなムードだけがその場を支配していて。
「とにかく、オレ達のキスシーンは家城君に見られているんだからさ、君たちのも見せてよ」
 そんなことを竹井が言い出した。
 彼も相当酔っていた。
 もともと最初から酔っていたから、それに加えて飲んだ酒が彼の理性を完全に奪っていた。
 隣で安佐がおろおろとしている。
「……何で……」
 啓輔がムスッとしていると、竹井がさらに畳みかけるように言い募った。
「家城君とできないのならオレとしてみる?」
「た、竹井さんっ!!」
 竹井の言葉に誰よりも慌てたのが安佐だった。
「なんてこと!」
「だってよ、お前だってキスしただろ。オレもキスされたし……。ということで、今度は隅埜君がキスされる番じゃないかあっ」
 竹井の目は完全に据わっていた。
 その目が射るように安佐を見つめている。
「た、竹井さ?んっ」
「竹井君……もしかして疲れている?」
 様子の変な竹井を笹木が覗き込む。
「最初からそうだったけど、随分と酒の周りが早い……」
「……昨夜、あんまり寝てないんです、竹井さん……その……無茶したかも?」
 がっくりと肩を落とす安佐に、竹井が挑発的な視線を送っていた。
「疲れてなんかない。だ?か?ら、キスしろ?っ!!」
 完璧酔っぱらい状態。
 ひくひくとひきつる頬のままに家城を見やると、ふっとその口元に笑みが浮かんだ。
 ぴきっと、見知ったものならその場で固まるしかない冷酷な微笑み、の筈。
「竹井君達が先にキスしてくれるなら、キスしますよ」
 言った言葉もとんでもないもので?っ!!
 啓輔は呆然と二人を見やっていた。
「ん?いいよおっ!」
 しかも、こくりと大きく頷く竹井。
 それにはさすがに家城も驚いたように目を見開いて、次の瞬間、しまったというようにその顔を歪めた。
「竹井さんっ!!」
 悲痛な叫びが安佐の喉から漏れる。
 げに恐ろしきは酔っぱらい──っ!!
 さすがに滝本達もとばっちりを食って堪るかと、ずりずりと後退していて。
 場の中央にはおあつらえ向きのように二組のカップルが取り残されていた。
「安佐?、ほらキスするぞ?っ!」
「竹井さんってば、正気に戻ってくださいよっ!!」
 うろたえ、あわてふためいている安佐だったが、その顔がなんとなく緩んでいると思うのは啓輔の気のせいだけではないだろう。
「いいから、するんだよっ」
 ぐいっと抱きしめられる頃には据え膳食わぬは?に至ったのか、その手を竹井の背に回していた。
「後で怒らないでくださいよ?」
 なんて呟きながら、そっと唇を重ねる。
 どきっ
 ちょっとだけ、啓輔の心臓が元気になった。
 他人のを見たのは初めてに近い。
 しかも見知った相手だ。
 竹井の閉じられた目蓋がぴくぴくと震えている。
 アルコールのせいだけではないと判るようにすうっと頬の色が濃くなる。
「ん……」
 鼻にかかった甘い声が竹井から漏れ聞こえると、もう目が離せない。
 あの竹井さんが……。
 いつだって高飛車に怒っていた竹井。
 その彼が、いつも怒る相手である安佐に身を委ねて施されるキスを受けている。
 その横顔は、会社での彼を窺わせるものは何もなくて……。
 握りしめた手のひらがじとっと汗ばんできた。
 知らず知らずのうちにごくりと唾を飲み込んでいたけれど。
 しかもそれを家城が見ていたことにも気づかないほどに、啓輔は目の前の光景に熱中していた。
 だから……気がつかなかった。
 家城が意を決するように、立て続けに日本酒をコップに接いで飲んだことに。
 見ていなかったから……忘れていたことも思い出しようがなかった。
 家城は日本酒の時は回るのが早いと言うことに……。
 ようやく解放された竹井はどこか夢見心地のままに安佐の腕の中にいた。
 しっとりと濡れそぼった唇が妙に艶めかしい
「なあ、竹井君ってさ……彼って、記憶無くす方だっけ?」
「いや……どうだっけ?」
 滝本と笹木の会話がちらほらと聞こえる。
 これ……もし覚えていたら、恥ずかしいもんなんてないだろうけど。
 なんて思って……啓輔はふっと家城を振り返った。
「げっ!!」
 驚いた。
 思わず漏れた叫び声に皆が一斉に啓輔を見、そしてその視線の先の家城を見やる。
 途端に、竹井以外のメンバーがひくりと引きつったのは皆がその先の修羅場を想像したからだ。
「の、飲んだ?」
 アルコールに晒されてほんの少し上気した頬。
 何よりも、半眼になった目がじっと啓輔を見つめている。
「ええ、飲んだけど」
 心なしか言葉遣いが……。
 それすらも他のメンバーの肝を冷やさせる。
 つきあいだけは啓輔より長いメンバーだから、この状態に陥った家城がどれだけ危険な存在か身に染みて判っているのだろう。
 せっかく飲んだアルコールがぶっ飛んでしまったような、妙に意識がはっきりしてしまう。
 そんな雰囲気に気づかないのは、完全に酔っぱらっている竹井だけだ。
「キスしないとね。約束だから」
 だからっ!!
「でもさ、竹井さんダウンしているし。別に今しなくてもいいだろ」
 ずりずりと尻で後ずさっていると、家城は家城でじりじりと四つんばいになって近づいてくる。
「約束は約束ですからね。それとも啓輔はしたくないんですか?」
 そりゃしたい……。
 さっきの二人のキスで、すっかり煽られている。
 だけど……、ここには他にギャラリーがいるんだからさ。
 でも珍しく家城の意識は他人には向いていなくて……その鉄仮面もすっかり剥がれている。
 それはそれで二人きりの時でも滅多に見られないラッキーなことだと、啓輔の頭の中にちらりとは浮かんだ。
 浮かんだけれど、さすがにこの場はマズイと思う。
「……久しぶりだね。家城君が完全に酔ったの」
「適度な酔いはいいんだけど、彼が酔っぱらうと竹井君より質悪いからね」
 頼りにならないギャラリーは、どこかあさってのところで勝手なことをほざいていた。
「ねえ?、ここには他にも人がいるからさ?」
「何言ってるのか……他人のキスシーンに煽られてもう我慢できないくせに。君はこんな時にでも欲情しているのだから」
 やっぱ、バレているし?。
 というか、これって嫉妬されてる?
 嬉しいけど……やっぱ恐い。
「今日の原因は?」
 滝本の問いに、笹木が答える。
「やっぱり安佐君の張り切りすぎじゃないのか?」
「すみませ?ん。でもちょっと嬉しかったけどさ」
 謝ってる声が笑ってるって……。
 そりゃ、あのキスシーンには煽られちゃったけどさ。
「安佐さん、恨みますからね?」
 じろっと横目で睨んでいる隙を狙って腕を捕られた。
「い、家城さんっ!!」
「おや……したくない?」
 したいけど、したいけど……。
 だけど?っ!
 あれやこれやといううちに迫ってきた家城。
 煽られていたのは事実だし。
 まだまだ若いオレとしては、据え膳はありがたくいただきたいほどに正直な体しているし……。
 結局啓輔は迫ってくる家城を目を瞑って、受け入れていた。
 最初は触れるだけの優しいキス。
 強引なわりには、ひどく優しくて……。
 啓輔の抗う腕から力が抜ける。
 ずるりと落ちた指先が、かろうじて引っかけたのは家城の袖。
 爪先を食い込ませて、指をひっかける。
 触れあうだけのキスが、啄むようになって──。
 そして、つつかれるがままに唇を開いてしまう。
 ああ……もう欲しい……。
 なんて見られているのも忘れて啓輔は家城の舌を受け入れていた。
 舌先をつつかれて、歯茎の内側を擦られて……。じんじんと伝わる快感に身を焦がす。
 ぎゅっと思いっきり腕を掴んでいないと体が崩れそうで。
 ああ、もっと?。
 なんて思った途端に、パカンと軽い音が頭でした。
 同時に伝わる痛みにはっと我に返る。
「あっ……」
「いい加減にしてよね」
 ため息混じりのその声は、笹木。
「隅埜君、流されないでよ……。家城君もどこまでやる気?」
「あっ!!」
 オレ、オレってぇっっ!!
 すっかりその気になっていた。
 誰もいないと思いこんでいた。
 かああっと全身が羞恥のあまりに朱に染まる。
 かっかかっかと、火を吹きそうなほどに燃えたぎっている体。
 どくどくと激しい音を立てて血流が走り回る。
 もう恥ずかしくて穴があったら入りたい状態の啓輔だった。
 が。
「ああ、すみません……」
 比較的はっきりとした声音に、がっくりと肩を落とす。
「あんた……酔ってんのか、酔ってないのか?」
 問いかければ、相変わらずその口元に浮かぶのは冷笑。
「酔ってはいますけれど……」
 くすりと笑うその冷たさは、周りの人間達をひんやりとさせたけれど。
 でもなんとなく判る。
 今こいつの頭の中、羞恥心でいっぱいだって。
 いつもより赤いその頬が決してアルコールのせいだけではないことだって。
 時折、啓輔を見る目が泳いでいる。
 じっと見つめていれば、他人には気づかれないように視線をはずす。
 そんな細かい仕草が、啓輔に家城の内心を伝えてくる。
「家城君……嫉妬しているみたいだよ」
 こそりと耳打ちしてくれた笹木の言葉に頷く。
 そうだよな。
 わざわざ酒飲んで酔っぱらってまで対抗しようとした家城に、啓輔はそれを思うだけで嬉しくなる。
 この人が、だよ。
「ね、帰ったら続きしようよ」
 家城の耳元で囁けば、すうっとその首筋が赤くなる。
 どうしてこんなに可愛いのに。 
 どうしてそれが他人が気づかないのか……。


「今日は楽しかったな」
 部屋に入って一息ついて、家城に笑いかける。
「よかったです」
 嬉しそうに微笑む家城に、啓輔は手を伸ばした。
「何です?」
「続き……」
 きょとんと問いかける家城に甘えるように強請ると、びくりと震えた。
 その体を愛おしげに抱きしめた啓輔に、家城は困ったように微笑んでそれでもそっと抱きしめ返す。
「すっかり煽られたんですね」
「……まあね」
 言わずもがな……だろ。
 今までそれをしていた家城だから、きっとこういうことになるのは判っていたんだろう。
 それでもそんなことをわざわざ口にするんだから、意地が悪い。
 啓輔は、ふっと小さく息を吐くと、家城を見つめた。
「……しないのかよ。しないんだったら、オレがするけど?」
「いいえ、しますよ」
 速攻で返された。
 ま……いいけどさ。
 だって、もう我慢できねーから。
 ぱふっと軽い音を立ててベッドに押し倒された啓輔は、その手を伸ばして家城を迎え入れていた。
 
 
 体の奥を深く激しく抉られ、熱くとろける感触に晒される。
 昨夜もした行為なのに、それ以上に感じる。
 それが飲み会でさんざんに煽られたせいだと気づいているから。
 だから。
 また……行きたいな……。
 そんな想いが浮かぶのを止めることなどできなかった。

FIN.