【仕事してよ 緑山敬吾編】

【仕事してよ 緑山敬吾編】


 何をやっているんだろう?
 緑山敬吾は、さっきからじっと篠山義隆を観察していた。
 篠山は緑山にとって、直属の上司であり、憧れの人でもあった。
 しかし、つい先だって完璧に振られてしまったのだが。

 今、その篠山を見張っている自分がここにいる。 
 先ほど作業場で、橋本が声をかけてきたとき、その内容に唖然としたものだったが、こうしてみるとその理由も納得がいく。

『緑山』
 作業場でパソコンに向かっていると、篠山の右腕とも言える橋本が緑山に声をかけてきた。
『はい?』 
『緑山の今日の仕事は何だ?』
 聞かれてとまどう。
 何のことだろう?
『仕事って?』
『ああ、今日すべき仕事の内容だ』
『ああ、それならこの実験データの解析と報告書作成。それが終わったら棚卸し準備です』
 何でこんなことを聞くんだろう?といぶかしげに思っていると。
『そうか。じゃあ、棚卸しはいいから、そのデータ解析は事務所でやっていてくれ。俺の机使っていいから』
 と、何でもないように橋本は言った。
『はあ?』
 棚卸しはいいって・・・…?
『え?でも、何で?』
『事務所でさ、篠山さんが仕事するよう見張っててくれないか?俺がついていたらいいんだが、棚卸しをきちんとやっとかなきゃいけないし、今日は四六時中ついてくわけにはいかないからな』 
『はあ?篠山さんを見張るんですかあ?』
 緑山が間抜けな顔をしたので、橋本が面白そうに笑う。
『ああ、そうだ。ここんとこ、篠山さんが怠け癖ついているんでな。きちんと見張っていないと仕事から逃避行してしまいそうなんだ。たまにあるんだよ、こういうことが。それでなくてもちょっとここんとこ忙しいから。だからといってきちんと仕事して貰わないと、あおりを食らうのは俺達だからね』
『そ、そうなんですか?なら俺やりますけど』
 あの篠山さんが、仕事から逃げるってのが想像つかなくて、緑山はきょとんとしてそれでも頷いた。
『特にな、川崎から電話がかかるとさ、あの人、すっ飛んでいくからな。絶対捕まえといてくれよ』
 川崎って・・…・もしかして橋本さんって、篠山さんの相手が川崎の担当者だってこと知っているって事?
『緑山だって知っているだろう?篠山さんの相手のこと。あの人会議中でも抜けていくんだぜ。ちったあ、自制しろっていうんだ』
 忌々しげに呟く橋本に、緑山は唖然とした。
 やっぱり橋本さんは篠山さんの相手が誰か知っているんだ。
『あ、あの、橋本さんはなんでそれ知っているんですか?』
 声がうわずっていた。
『そりゃあ、俺、四六時中あの人といるんだぜ。ほんとに見張ってないと何やってんだがわかんないときがあるし。でさ、様子をうかがっていると、何となく判るんだな、これが。緑山が篠山さんをじっと見ていたってことも、さ。あの人鈍感だから気がつかなかっただろうけど』
 えー!
 緑山の顔が羞恥で真っ赤になった。
『そんな顔するなよ。俺、別に偏見ないもん。まあ、俺は俺の奥さんが一番いいと思ってはいるが・・・・・・まあ、お前らだって結構いいとは思うよ。篠山さんだって、熱心に仕事しているときは確かにかっこいいと思うし。ただな、誰を好きになってもいいけど、仕事だけはしっかりしてくれないと困るんだ。篠山さん一人で結構大変なのに、お前までそれにかまけられちゃあ困る。まあ、振られたみたいだけど・・・…』
 そこまで知っているんですね・・・・・・ある意味、怖いです。
 やっぱ、あの篠山さんの右腕だけのことはありますね・・・・・・。
『判っています。仕事に影響は出しません。もう、諦めているし』
『ま、緑山なら一度懲りると二度と繰り返しそうにないしね。というか、そういう関係で、他に頼める奴がいなくて困っていたんだ。だから緑山さ、俺がいないとき、あの人の手綱引っ張れるようになってくれ。だから今日頼むな』
『はい』
 緑山はうなずき、そしてここに来た。
 確かに橋本さんの言った通りなんだよなあ。
 さっき、プライベートの携帯にメールが着信してからというもの、ずっとそればっかり見ている。
 最初はにこにこしていたのに、さっきから妙に険しい顔になり、今は完全に怒っているのが判る。
 もう30分位それにかまけているので、当然仕事は進んでいない。
 橋本さんが言っていたのは、この事なんですねえ。
 緑山はため息をついた。
 パーテーションに囲まれた机ってのも善し悪し。
 だけど、確かに篠山さんに仕事して貰わないと、篠山チームとしては困りものですから、俺も鬼になりましょうか。
 再度ため息をつくと、緑山は立ち上がった。
 篠山の背後に立つと手を伸ばし、篠山の携帯を奪い取った。
「な、何するんだ!」
 思わず出たらしい大きな声に篠山自身が慌てて手を口に当てる。
「仕事、してください」
 できるだけ声を抑えて緑山は言った。
 見下すように視線を向ける。
 こうすると、結構相手に鋭い印象を与えるのを緑山は知っていた。可愛いだけじゃないんですからね、俺の顔は・・・・・・。
「いいから、返せ」
 篠山は少しは罪悪感があるのか、上目遣いに緑山を伺う。
「さっきから30分以上仕事していないですよ。俺、橋本さんに頼まれているんです。絶対篠山さんに仕事させてくれって。だからこれはしばらくお預かりします」
 そういって、自分のポケットに携帯を入れる。
「うう、緑山・・・・…返してくれ」
 弱気になっている篠山に、緑山は内心ため息をつく。
 情けないですよ、篠山さん・・・・・・。
「駄目です。定時になったらお返ししますから、それまで我慢してください。早くしないと、いつまでたっても帰れなくなりますよ」
「仕事終わったら返してくれるんだな」
 じとっと上目遣いに見られて、緑山は苦笑いを浮かべた。
「もちろん」
「ちっ、めんどくせー」
 やっと諦めたのか、篠山は机に向かって山となっている資料を崩し始めた。
 手に取った決済書類を脇目も振らず確認すると、印を押していく。
 ちゃんと中身を確認しているのが判るのは、時折難しい顔をして、保留の付箋を貼っていくからだ。
 やれば早いんですけどねえ。
 緑山はため息をついて、橋本の席に戻った。
と、ポケットに入れた携帯がぶるっと震えた。
 やっぱり滝本さんとメール交換していたんだ。
 ポケットから携帯を取り出し、何気なくメールを確認する。
 そこには送信者がすべて「恵」となっていた。
 なにやってんだろう、この人達は・・・…。
 なんとなくむかっとしてそのリストを眺めていたが、どうもタイトルが変なのに気がついた。
 喧嘩しているのだろうか・・・…。
 好奇心がおさえきれなくなって、中身を見てしまった。
 何だ、これ!
 ついつい送信と切り換えながら順を追っていく。
 まるでチャットのように短い文書が並んでいる。
『義隆:今日行けなくなった。ごめん』
『恵:どうしたんだ?何で?』
『義隆:仕事が入った。残業なんだ。』
『恵:仕事くらいなんだ。逢わないつもりか』
『義隆:そーんなに俺に逢いたいのか?』
『恵:逢いたくない』
『義隆:なんだ、それは?』
『恵:だって義隆はしつこいから』
『義隆:俺のどこが?』
『恵:全部』
『義隆:どういう。ん? 恵じゃないな』
『恵:滝本は、仕事しているよ』
『義隆:てめえ、穂波。いつから邪魔してる』
『恵:最初から』
『義隆:恵を出せ』
『恵:仕事の邪魔はしないでもらおうか』
『義隆:人の携帯操作すんな』
『恵:君こそ仕事中に何やっているのかな?』
 そこで途切れていた。
 この穂波って、確か川崎の課長さんだよなあ・・・…、一回飲み会の時に滝本さんといた・・…。
 ということは、メール交換しているのがばれて携帯取り上げられたのか。
 でもこの内容からするとずいぶん面白そうな人だなあ。
 くすくすと笑う。
 そして、そっと携帯を操作した。
『義隆:篠山さんから携帯を取り上げました。仕事中は返しませんので』
 送信する。
 数分後、即座に着信した。
 まさか返ってくるとは思わなかったので、緑山はびっくりしてメールを確認する。
『恵:君は誰なの?』
『義隆:篠山さんの部下の緑山といいます』
 慌てて返信を打つ。
『恵:君が、緑山さんか。篠山さんは何をしているの?』
『義隆:仕事してもらっています。俺、見張り役なので』
『恵:それは面白い。しっかり見張ってて欲しいな。それより君は、もう彼のことは諦めたのかね』
 な、何を言ってるんだ、この人は・・・…もしかして、知っている?
 あ、でもそうなのかもしれない。だからこそ、あの資料を持ってきたのかもしれないし。
『義隆:諦めました。きっぱりと』
 だから、そう送ってみる。
 その文を打つとき、ちくりと胸の痛みが走ったけれど・・…
 すると即座に返信が帰ってきた。
 この人、むちゃくちゃキー操作早くないか?
『恵:そうか諦めたのか。では今度振られたもの同士、一度逢ってみないかな』
 振られたもの同士って・・・…もしかしてこの人、滝本さんが好きだったんだろうか・…。
 飲み会で会ったときの様子を思い出してみる。
 そういえば、やけに篠山さんに突っかかっていたよなあ。
 顔は、まあまあだったっけ。年も結構若かったようだし・・・…。
 だけど、逢うっても・・…。
 飲み会の時、篠山さんに抱きついていた自分を見られているのを思い出した。
 あれって、今思い出しても恥ずかしいのに・・・・…見られているんだよねえ。
 躊躇した。逢わないって言えば簡単かもしれないけど・・・…だけど。
 だから一言だけ送信した。
『義隆:そうですね』
 曖昧な返事。
 振られた者同士が逢ってもしょうがないだろうって気がしたし、でもこの痛みが判る人と話がしたいって思ったから。
 それに、なんとなく好奇心みたいなものもあるし。
 メールが着信した。
『恵:いつか必ずな。ところで滝本がこっちを睨んで一向に仕事しないから、この携帯は滝本に返すから。履歴消しといてくれないか』
 言われて、緑山も慌てて消していった。
 と、着信がはいる。
『恵:送信もな』
 そうですね。そう打とうと思った。
 だけど、実際に打ったのは、自分のメールアドレスだった。
『義隆:何かありましたら、こちらにしてください。私のメールアドレスです。』
 送信する。
 そして、送信履歴も消していった。
 空になった履歴を見ながら、呆然とした。
 何で自分の物教えてしまったのか・・・・・・・。
 自分で自分が分からない。
「緑山ぁ?」
 横から、ドスの利いた声が響いてきて、緑山はひっと椅子ごと後ずさった。
「お前、人の携帯で何遊んでんだよお」
「い、いえ・・・・・・何も・・・・・・あ、これお返ししますから」
 慌てて差し出す携帯を取り上げると義隆は、履歴を確認する。
「おい、あれから着信はなかったのか?」
 睨まれて、こくこくと頷く。
 うう。やっぱ本気の篠山さんは怖い!
「ま、いいか。俺、これから滝本チームとミーティングするから行ってくる」
「はいはい、いってらっしゃいませ」
 無理矢理笑顔を作る。
 そんな緑山を無視して、篠山はミーティングルームに去っていった。
 ま、まじ、怖かった・・・・・・。
 緑山は心底びびっていた。



 緑山敬吾・・・・・・この時は、篠山を怒らしたことにびびって、メールアドレスを送ってしまった事をすっかり忘れてしまっていた。