【来訪者】 2

【来訪者】 2

「……んで、あのバカはまだ帰っていないんだな」
 舌打ち交じりの辛辣な言葉に、雅人は逆らうことなくコクコクと頷いた。
 苛立たしげに下ろしていた前髪を掻き上げる悠人のうなじにはくっきりとキスマーク。仄かに匂う香りは、健一郎から香る物と同じだ。
 ……やってきたな……。
 不安と心配に身をやつしていた雅人にしてみれば、文句の一つも言ってやりたいところだが、できたのは頷くことだけ。
「しかし、あの脳天気が泣きそうな顔をするなどとは想像もつかんぞ?」
「だろ、だから、俺心配になって……」

「見合い写真を叩き返されたくらいで、か?」
「そうそう」
「携帯は家に置いたままか……」
「そう……」
「その辺はあいつらしいな……」
「そ……う……」
 状況をつらつらと並べてみせる悠人も、だからと言って心当たりがあるわけではない。トレードマークのような眉間のシワをさらに深くして、腕組みをして唸る。
 あの長兄の行方など、判ろう筈もないことは、弟だからこそ良く判っていた。


 二人して唸ること、数分。
 さて、どうしたものかと、それぞれの恋人達も肩を竦めながら二人の様子を窺っていたちょうどその時。
 R、RRRRR……。
 滅多にならない固定電話の呼び出し音にびくりと皆が反応した。
「え、電話?」
 ほとんどの人間が携帯を持っている昨今、わざわざ固定電話に掛けてくる人間はそういない。大半がセールスの物だ。
「知らない番号……」
「ですね」
 ディスプレイに浮かぶ番号は、二人の記憶には無い。
 だが、雅人はそれでも電話に手を伸ばした。浩二名義で据え付けている電話に、普段雅人は出ない。
 しかし、この電話には何か予感めいた物があったのだ。
「はい?」
『……もしもし……』
 帰ってきたのは、明らかに若い女性の声だった。
『増山様のお宅でしょうか?』
 躊躇いがちな声に、今までとは違う緊張が走る。
「はい、そうですが……」
『あぁ、良かった。では、浩二さん、ですか?』
 雅人の返答に弾む声音。
 思わず傍らで様子を窺っていた浩二を睨み付ける。
 どうやら浩二の知り合いだと思うと、さっきとは違う苛立ちが増してきた。
 すうっと息を深く吸い、丁寧にゆっくりとを心がけて。
「いえ、違います。浩二に替わりますからお待ちくださいっ」
 言い切ってすぐに受話器を浩二に差し出した。
「え、私ですか?」
「そうだよっ、女の人っ」
 そんな態度もむしゃくしゃして、受話器をその手の平に叩き付けた。
 何だってこんな時にっ!
 ニヤリと嗤う健一郎の揶揄する視線に、さらに苛立たしさが増してくる。
「ふん、それだけのことで何をカリカリしている。情けない」
 そう言ったのは、同じ場面になればそれ以上の事をしでかしそうな悠人だ。
 途端にしーんと静まりかえった場でこめかみを押さえ、ようようにして返す。
「……兄貴に言われたくねえよ……」
「……私はその程度では腹など立てん」
 ムッとして言い返す悠人の傍らで、健一郎がいつの間にか用意したコーヒーに口を付けていてた。その頬がひくひくとひくついているのは気のせいではない。
 けれど、誰も何も言い出せないままに、浩二がひと言二言受話器に向かって話をしていて。
「雅人さん、あなた宛ですよ」
 そう言われて、戻ってきた受話器を呆然と見やった。
 どう考えても聞いたことの無かった声。
 それに、浩二の名前を言ったのに。
 うろうろと浩二と受話器の間を彷徨う雅人の視線に、浩二がため息を零した。
「お兄さんが行かれている家の方ですよ。出てください」
「は、ああっ!」
 兄貴の行った──家?
「ほら、早く出て」
 呆然としたままに、差し出されたそれを受け取って耳に当てた。躊躇いがちに口を開く。
「もし……もし?」
『あ、すみません、先ほどは。私が用事があったのは、雅人さんの方なんです』
 少しイントネーションの違う、けれど明るい声音に、眉間のシワをますます深くする。
 知らない声。
 まして、雅人の知り合いなら雅人の携帯の方に電話をする筈なのだ。
「あの、どなたでしょうか?」
 恐る恐る尋ねる雅人の視線は、実はさっきから浩二を追っている。
 雅人に受話器を渡した後、素知らぬふりをして健一郎の相手をしている浩二は、いつもだったら嫉妬の炎を胸の内に溜め込む状況の筈。
『あ、申し遅れました。私、河野早樹と申しまして……』
「え、はあ……」
 やはり知らない名だと首を傾げた。
 目の前で浩二が健一郎に何か耳打ちしている。
「あの……?」
『先日あなたのお兄様と婚約した者です』
「……婚約?」
『はい』
 にっこりと目の前で微笑まれたような返答が、耳に響く。
 お兄様と婚約……。
 雅人にお兄様は二人いて。
 一人は、目の前で顔は良いけど仏頂面が全てを台無しにする次兄 悠人。そして、もう一人が。
「もしかして……彰人兄の?」
 悠人そっくりの顔をしながら、いつもにこやか。その脳天気さがこれまた整った顔立ちを台無しにしている長兄、彰人。
 まさか、と思いつつ返す言葉は震えていた。
 けれど。
『はい、その彰人さんのです』
 彼女の言葉には躊躇いなど微塵もなくて、とても嘘だとは思えない。
「あの兄貴の?」
『はい、そうなんです』
 ころころと可愛い笑い声が耳元で響いた。
 明らかに雅人の反応を面白がっているけれど。
 だが、あまりのことに染みついたと思っていた女性との対応も全てが吹っ飛んでいたのだ。
「すみません……俺、初めて聞いて……」
 間抜けな返答を、しかもしどろもどろで行う雅人に、だいたいの事情を飲み込んだ悠人が、バカかと眇めた視線を送っていた。
 もっとも、今の雅人にそれを気にする余裕はなかった。
「あ、の……で、何で家に?」
『それが、彰人さんがいきなりこちらに来られて』
「あの、そちらに?」
『ええ、大阪なんですけど』
「大阪??」
 思わず頭の中に浮かんだ地図。
 関東圏からはるか離れた地に、何故あの彰人が?
 あまりに似合わない地名を言われて本日何度目かの呆然自失状態に陥る。そんな雅人に、彼女はさらに追い打ちをかけた。
『なんでも、弟さんに結婚を反対されたとか……言われて……。ほんとですか?』
 責める口調に、思わずぶんぶんっと音が鳴りそうなほどに首を振って。
 これは電話だったと、慌てて言葉を追加した。
「違いますっ、俺、そんな事してませんっ! だいたい、彰人兄が結婚するなんて、ちっともっ……ん?」
 そんな事は聞いたことも無いと言いかけた雅人の脳裏にふわりと浮かんだのは、彰人が嬉しそうに見せてくれた見合い写真。
 まさか?
「あの、もしかして、うちの兄貴とはお見合いだったりします?」
 頭の中に浮かんだ疑問を恐る恐る尋ねてみる。
『はい、そうなんです。私もともと東京出身なんですけど、大学と就職先がこっちで。でもそろそろって言われてお見合いした彰人さんととっても意気投合して……』
 あの彰人と意気投合?
 という悪寒はさておいて、雅人はごくりと息を飲んだ。
「え?と、和服着た写真見せて貰ったんだけど……あれって早樹さん……ですか?」
『写真館の白い装丁がされた写真ですか? 小物に銀糸のバック持ってました?』
 白い色だった。そしてバックも、そう言えば、持っていたような……。
「たぶん……」
『だったら、私です』
「え……」
『そういえば、彰人さん、ここに来られた時もそれ持ってきてて。聞いたら、いっつも持っているんだって……』
 ……ってことは、あの写真は、彰人兄の、見合い写真……。
『もう、恥ずかしいから止めてって言ってるのに?』
 恥ずかしいと言いつつも朗らかな笑い声を立てる早樹をよそに、雅人の頭は真っ白になっていた。


 つまり、あの見合い写真は彰人のもので。
 贈り物というのは、お姉さんができるっていう意味で。
 互いの勘違いの挙げ句、大阪まで家出した彰人は、そのことが判ると途端に上機嫌になって。
『いい娘なんだよ?、今度紹介するな?!』
 明日帰ると言ってそのまま電話を切ってしまった。
 そんなところは。
「なんだ、やっぱり兄貴は兄貴のままじゃないか……」
 そう悠人に言わしめるほどに、彰人らしい。
「全く人騒がせにも程がある。兄貴も兄貴なら、雅人、お前もだっ!」
「そんな?」
 目から火花が散るほどの拳骨に頭を抱えた。
 この痛みが理不尽なものだとは言わないけれど。それでも、彰人がああでなかったら、と詮無いことを思ってしまう。
 ブツブツいまだ文句を呟く悠人を、半ば引きずるように連れていくのは健一郎だ。
「ホテルを取っているんだわ」
 わざわざ後戻って、ニヤリと嗤う健一郎のホッとした顔が憎たらしい。
「もう帰るっ、疲れたっ」
「だから、広いベッドでゆっくりしようって」
「何がゆっくりだっ」
 彰人も彰人なら、悠人も悠人。
 相変わらず機嫌は最悪、当たり散らしているように見えるけれど。
「……でも、あの兄貴がおとなしく付いて行くんだもんなあ……」
 思わず呟いた言葉は、ドアの閉まる音に掻き消され、幸いにも相手には届かなかったようだ。
 それにしても、一体どういう手管を使って、あの悠人を手なずけたのか。
 手管を教えて欲しいと、背後から伝わる冷気を感じながら雅人はため息を吐いた。
「……ごめん、騒がせて」
 きっと浩二の怒りはそのせいではない。
「いいえ、あなたの大事なお兄さんのことですからね。無事で良かったですよ」
 にっこりと優しい笑みを見せる浩二に向き直る。
 なんとなくこの後の展開が読めてしまうのだが、それでも今の雅人に他の言葉は浮かばなかった。
 何より、少しだけ期待している自分がいる。
「それと……ごめん。勘ぐっちゃって、さ……」
 これも聞いてみれば至極もっともなこと。
 彰人の要領を得ない言葉に、早樹が直接雅人に状況を聞きたいと言って。その彰人が教えたのは、雅人がいるはずの部屋の持ち主──増山浩二の名と電話番号。
「私にはあなただけなのに?」
「知ってる、けど」
 浩二がいつも雅人だけを見つめてくれているのは知っている。
 それなのに、浩二の回りに誰か親しげな存在を感じてしまうと、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなるのだ。
 捕られる──と、頭の中がぐちゃぐちゃになって、自分が自分でなくなってしまう。それは、過去付き合った相手の中でも、浩二が一番酷い。
 昔、二股をかけられた時にも怒り心頭で、思わず手が出そうになったけれど。これはそれとは違う。
 あれは怒りだった。だが浩二の場合は、激しい焦り。
「けど、あの女性(ひと)が浩二の名を言うもんだから……」
 知らない声。
 若くてはきはきとしていて。
 腕も名もある浩二の人気が高いのを知ってしまっているから。
「嫉妬しました?」
「……ん」
 触れてきた手のひらは冷たいのに、なぜか熱く感じて身震いした。
 少し骨張った指が、そっと雅人の頬を辿る。
「嫉妬してくれるのは嬉しいのですが、信じて貰えないのは困りますね」
 眇めた視線が、雅人の全身を縛る。
 ぴくりとも動けない雅人の頬から首筋を、軽いタッチで指が撫で下ろした。
「怖い、ですか?」
「……」
 問いかけに、ひくりと喉が動く。
 いつの間に、こんなことになってしまったのか。
 いつも沈着冷静な浩二の怒りは、とても静かで。けれど、どっしりとした山脈の地下でたぎっているマグマのように膨大なエネルギーを蓄積していて。
「なのに、あなたは私を怒らせるんですね」
 その怒りを解放するのは、雅人が相手の時だけ。
 我慢することで蓄えてしまった膨大なエネルギーを別の欲に換えて。
 それは雅人の行為がきっかけとなって解放される。
 それが怖いと感じたことはあるけれど、今は──。
「期待、しているんでしょう?」
「……別に」
 今まさに想像した言葉を言われて、かあっと顔が火照る。
 思わず俯こうとして、顎を捕らえられた。
「では、信じていないということですか?」
「ち、違うっ、信じるとか信じないとか、そういうんじゃなくて」
「はい?」
「浩二の名を女が呼ぶなんて……。なんか、もう……頭の中が変になって……」
 顎を強く捕まえられて、指が食い込んでいた。
 何を言い訳にしても、浩二の怒りは解放されないと知っているのに。
「だってさ……浩二は、俺のもんだし……」
 きりきりと食い込む痛みだけでなく、雅人の瞳は潤んでいた。
「だから……その……。もう、その考えられなくて……」
「それで、あの態度ですか? あちらの方も変に思われていましたよ。何故、怒ったのか判らなくて」
「それは……そうだよな……」
 まさか、彰人の婚約者だとは、あの時は夢にも思っていなかった。
「全く、困った人ですね。そんなに欲求不満なんですか?」
 さらりと言われて、呆然と浩二を見つめる。
「な……んで?」
「いつもそうですよ。あなたとの触れあいが少なくなると、そんなふうにあなたは誰彼構わず疑ってしまうでしょう? 今回も、忙しくてなかなか一緒に過ごせませんでしたらね」
「え、あっ、違う……」
 そんな事無い、と思うのに、雅人の体は全身が沸騰しそうなほど熱くなっていた。
 引き寄せられて真正面になった浩二の顔が、見ていられない。うろうろと彷徨う視線は、如実に雅人の動揺を物語っていた。
「違いませんよ。あなたは自覚はないようですが?」
 くすりと間近で形の良い唇が弧を描く。
「現にほら?」
「ひっ」
 いきなり浩二の手が、雅人の股間に触れた。
「こんなにも、固くなってますけど?」
「……やっ」
 服越しとはいえ慣れた手が確実に雅人の感じる場所を刺激する。
 それだけで腰が砕けた。
 縋り付く体を浩二の手が支える。
「期待していたんでしょう? 怒られることを」
 耳元で囁かれる甘い声音。
 力強い腕が、息もできないほどに体を縛める。
「本当にあなたは可愛いですね」
 先ほどとは打って変わって優しい声音に、ぞくぞくと背筋を快感が駆け上がる。
「こ、うじ……」
「あまりに可愛すぎて、ムチャクチャにしてしまいたいですよ」
「あっ……」
 言葉に、どくん、と目の前が白くなるほどの快感が弾け、全身が激しく震えて。
「明日のバイトはお休みしてくださいね」
 頷いたことだけは覚えていた。

続く