【DO-JYO-JI】 約束の章
中井の新しい職場は、部屋付きだ。
園田に言われた時には手配済みだったのだが、中井が千里のところに行ってしまったため、鍵を渡しそびれていたということだった。
昨日園田に、早く顔を出すようにと言われた新しい職場に、その鍵をもらいに中井が訪れたのは昼の3時を過ぎていた。
「何やってたんだ、こんな時間まで?」
あきれた口調の新しい上司、井口に、中井は情けなく頭を下げた。
「まあ……いろいろと」
「まあ良いけどよ。なんかお前、今度組に来る弁護士に捕まってたって? 何やったんだ?」
勤務内容と「心得」と書かれた書類、その他一式を渡しながらの、問いかけに、曖昧に笑う。
何をやったも、何も……。
何もしていないはずなのに。
気がつけば、完全に手綱を取られている状態。
今だって、実は内心すごく焦っている。
早く部屋に入って、電話をしないと。
何せ、あの男が怒っている……ようなのだから。
昨夜遅くまで卓真相手にゲームと奉仕作業をしていたせいで、目が覚めたらすでに昼の12時を回っていた。
解消し切れていない寝不足に朦朧とした頭で、卓真が準備してくれたやけにおいしい昼食を取ると、さすがに頭の中の霞も取れてきた。
「俺……なんかしなきゃいけないことが……」
着替えをしながら、記憶の片隅で浮かびかけて引っかかっている何かを思い出そうと首を傾げる。
「どうした?」
「思い出せないな……」
卓真の問いかけに首を傾げながら返して上着に手を通そうとした時に、かつん、とポケットの中から携帯が滑り落ちた。
何気なくそれを手にとってフラップを開いて──。
「ぎゃあぁぁぁ──」
「な、何だっ」
卓真を驚愕させた程の奇声を上げた中井の携帯は、画面いっぱいに未読メールと留守電連絡のタイトルが並んでいた。
短いタイトルからでも送信者が判るそれ。
短い故に、千里の憤りが伝わってくる。
「わ、忘れてたぁっ!」
朝一番には必ず電話をするように言われていたのだ。
『朝の挨拶は基本ですよ』
と訳の判らない言葉とともに、約束させられたこと。
慌てて、電話をかけ直す。
「メール一つでお前がそこまで慌てるのか?」
背後で嗤う卓真の言葉を無視して何度も電話をかけるけれど、自動的につながる留守番電話サービスの音声に邪魔される。
「どうしようぉ」
そういえば、昼間は忙しいから朝にかけるように言われていたんだった。
「メールしとけば? それで良いだろうが」
「そう、だけど……」
朝寝坊したからであって、忘れていた訳ではない。
卓真の言葉通り詫びの言葉と理由を打ち込んだメールを送った。
けれど、胸の内に言いしれぬ不安が込み上げ、大きくなっていく。
短いがとても濃い時間を過ごした相手であるが故に、この不安が現実のものとして感じる。
しかも、それからしばらく経っても、一向に返信はなかった。
「とにかく明日は朝8時までに出てこい」
「はいっ、あっ、それで、えっと、俺、これから荷物持ち込むんで……良いですか?」
まだ続きそうな井口の言葉を遮ると、強面の井口が眉間のしわを深くした。
うわっ、こえぇぇ。
さすが元やくざ。
と思わせるほどの迫力で睨まれたが。
「しょうがねえか。部屋は、電気水道はもう通っているが、布団はねえぞ」
「あ、それだけは前のアパートから持ってきてます」
おんぼろ軽四でも持ってて良かった──と、後部座席いっぱいの布団の山を思い出す。
あれがなかったら、近いとはいえ抱えて歩かなければならないところだったのだ。
「ほら、部屋の鍵。玄関入ってすぐにインターホンあるから、一番にそれをONにしろ。全てのセキュリティシステムがそれで作動するし、こことも連絡が取れる」
「はいっ」
なんだかんだ言って親切な説明に、中井はこくこくと頷いた。
園田から離れるのは嫌だが、まったく接点がない訳ではない。
何しろ、ここの一番上は園田の部屋があるのだ。
──園田さんと一つ屋根の下……。
千里の恐怖も忘れて、じわりと喜びがこみ上げる。
出かけるときには絶対挨拶しよう。
管理人だから、いろいろなことを頼まれるかもしれない。
そう考えると、この職場も悪くないような気がしてくる。
「まあ、なんだか、ややこしい弁護士らしいな。お前を専属にしろって言うし。いったいどんな奴なんだ?」
そう隣で首を傾げる井口に、中井はこくこくと頷いて。
「ややこしい奴です。千里──って、凄腕らしいんですけどね」
「……千里?」
とたんに、井口の声音が低くなった。
けれど、園田と同じマンション──というだけで盛り上がっている中井は気づかない。
「そうです。千里……えっと勝文。年の割には童顔で……そんな年食ってるようには見えないんでけど」
「そ、そうか?」
「なんつうか、蛇ってあだ名がぴったりと、ねちっこい奴で」
「……蛇……」
「あ、俺、とにかく行きます。また明日からよろしくお願いしますっ」
「お、う……」
気がつけば、井口の顔が強ばっている。
顔色すら悪い彼が気にはなったけれど、話しているうちに千里の件を思い出して気が急いた中井は、慌てて頭を下げて部屋を飛び出した。
その間にも携帯をリダイヤルするが、やはり電話は留守電電話サービスにつながっただけだった。
井口のところで意外に時間を食っていたようで、駐車場と部屋を往復して荷物を運び終えると、完全に日が暮れてしまった。
荷物と言っても、布団が1セットと当座の着替えや日用品、そして千里に持って帰ってくれと頼まれた小さなバッグだけだった。
もとよりあまり持っていなかった家電類は、まだ携帯電話以外何一つ持ち込めていない。
だがエアコンも常備している部屋は、快適な温度で保ってくれるから、しばらくは十分だろう。
飯もしばらくはコンビニで良い。
それよりも、と携帯電話を取り出して、再度電話をかける。運搬の最中にも何度かかけたが、必ず留守電になるし、メールの返信も無い。
そろそろ仕事も一区切りつく時間じゃないかな?
休憩くらいするだろうし。
今度こそ……と、その日何度目かの祈りを込めてリダイヤルを押そうとした、その瞬間。
「う、うわっ」
いきなり手に伝わった振動に、中井の指は思わずキーを押していた。
とたんに静かになった携帯。だが、画面には通話中の文字が浮かんでいる。
「……もしもし」
『おや、ようやく出たね』
その瞬間、電話を思いっきり遠くに投げつけようとしていた。
逃げ出したい衝動をかろうじて堪える中井は、同時にぞくぞくとした悪寒にも襲われ続けていた。
今すぐに、電話を切りたい。そのまま電源まで落としたい。
いや、いっそのこと水没させて壊れたということに……。
なんでこんなに逃げたくなるのか判らないが、とにかく嫌な汗が全身に噴き出していた。
けれど、ここで電話を切ってしまえば、もっとややこしいことになるだろう。
「……すみませんでした」
見えていないと判っていても、ぺこりと頭が下がる。
未だかつて、そんなことなどしたことがないのに。
無責任な放任主義の両親や学校の教師たちに怒られても、屁とも思わなかったのに。
千里の声には、中井にそうさせるほどの何かが込められていた。
「まじ、寝ちまってて……あ、寝てしまってたんです。その、卓真さんに付き合ってて、その……」
丁寧な物言いをするように、という言葉に従って気をつけようとすると、今度は気にしすぎてなかなか思うように言葉が出てこない。
しどろもどろの言い訳に、冷たいため息が返ってくる。
『寝坊ねぇ、昼過ぎまで? 私が何度も携帯に連絡した間ずっと?』
「そうっ、そうですっ。それに着信に気づいて電話したけど、そん時はそっちが出てくれなくて」
『私も今日は忙しかったからねぇ。それこそさっきまで。だから昼を食べる僅かな時間を使ってまで電話をしたというのに』
恨みがましく言われても、理由はさっき言った通り。
その時間は、上質の羽毛布団に包まれ、夢の世界にいたのだ。電話なんて、ちっとも聞こえなかった。
それを説明しても、納得しているような口ぶりの割には千里の機嫌は一向に治らない。
ねちっけぇ……。
ねちねち、うだうだ。
組に来てからずっと、さっぱりとした気性の輩ばかり相手にしていたから、こういうしつこいのに慣れていない。
それに、考えれば考えるほど良い返答が思い浮かばなくて黙り込んでしまう。そうなると、また嫌みな言葉が飛んできて。
『実は言えない事でもしていたとか?』
「……だ、誰が……」
そんな事あるわけがない、と言い切りかけた中井だったが、その瞬間、脳裏に浮かんだのは卓真のたくましい逸物。
まあ、人には言えないか……。
そんなことを考えてしまい、声音が知らず知らず弱くなってしまった。そんな中井に、千里が気づかない訳が無い。
『ふーん、何かしていたのか……』
「ちがうっ、まじ、寝てただけ。ベッドでぐうぐうと寝てただけっ。卓真さんとっ」
なんだか良からぬ方に向かう流れを食い止めたくて、必死に言い募った中井だったが。
『ほう』
さらに温度の下がった声音に失言に気づいた時には、後の祭りだった。
敏腕弁護士の執拗な追求に、夜遅くまでゲームをしていた──と言うだけでなく。
『……なるほど、弥栄氏を楽しませてあげたという訳か』
本人が聞いたら激怒しそうな嘲笑が、電話口から漏れ聞こえる。
「いや、その……別にいつもしていたし……」
『まあ、君は口でするのも大好きだしね』
「……違う」
『飲むのも大好きで、ずいぶんとおいしそうにするしね』
「……美味しくない」
『誰のでも飲めれば良いから』
「……人を、ど淫乱みたく言うなっ!」
『おや、違うのかい?』
爆発しかけた怒りは、千里のしれっとした言葉にしゅるしゅると萎んでしまう。
拙い──拙い……。
「卓真さんのは組のためになるんだよ。俺、卓真さん以外はいらねえ」
『……私や園田氏のも?』
「う、あっ……」
微妙な組み合わせに、口元が強張る。
それに固まった分、頭が少し働いて。
ここで嫌だと言えば怒るだろうし、いると言えば……きっと淫乱だと言うだろう。
そんなことまで気がついて、よけいに何も言えない。
千里はともかく、園田のは……しろと言われたら、いくらでもしたい。
『くくっ、素直なことだ』
対象が変わった嘲笑に、頬を赤くする。
文句を返したいが、そうすれば倍どころか100倍くらいになって返ってくるのが目に見えていた。
どうせ電話を切るまでの間我慢すれば良いこと。
ただ、それだけを頼りに、ひたすら時が過ぎるのを待つ中井だった。
それなのに、ふっと千里の言葉が途切れた。
沈黙は怖い。しかも不意に訪れた沈黙はやたらに不安を煽る。
「……なんだよ?」
思わず言葉に出して問うて、ちっと聞こえないように舌打ちした。
このまま眠るとか何とか言って切っちまえば良かった。
繰り返される後悔は、往々にしてさらに繰り返される。
『そういえば、中井君は携帯のハンズフリーのマイクセット持ってたっけ?』
「は? あ、いや、持っていないけど」
いきなり変わった話の流れに、訝しつつも頷く。
『そう。では、できれば、今すぐに用意して』
「は、ああ?」
『コンビニに行けばあるだろう? 確か、そのマンションから歩いてすぐのところにあると聞いているが?』
「確かにあるけどさ、何で急にそんなものいるわけ?』
電話が終わったら、晩飯でも買いに行こうかと思っていたあのコンビニなら、そのくらいはあるだろう。
『ええ、今すぐに欲しい。中井君、買ってきなさい」
「……まあ、どうせ晩飯買いに行くし……いいけどさ」
『では、頼みます。コンビニに着いたら必ず電話するように。確認することがあるから』
「はあ……」
なんだか要領を得ないが、これで電話が切れるとなると、そんなことは些細なことだ。
「んじゃ、買ってくる」
この後、また連絡を取るにしても、言うことを聞けば少しは機嫌が良くなるだろうし。
そう思って、嬉々として電話を切ろうとしたとたん。
『ああ、それと』
「何?」
まだ買ってくるものがあるのか、と問い返した耳に、とんでもない言葉が入ってきた。
『荷物の中にローター入っているので、それを入れた状態で買ってきなさい』
「……はあ?」
『リモコン式なのでリモコンはポケットに入れておけば良い。それじゃ、急いで頼むよ』
そのままブチッと切れた携帯を、中井はしばらくまじまじと見つめた。
ついで、千里から預かったバックに視線を移す。
「ローター……?」
ごとっと手から落ちた携帯を無視して、バックに手を伸ばした。
やけに重い荷物だった。
どっかで捨てたくなったが、そんなことをしたら後で何をされるか、と仕方なく運んだのだけど。
「嘘……だろ?」
開けた中には、ぎっしりとバイブやらローターやら……。ローションも何本かある。他には拘束具なんてものまであって。
その見覚えのある数々に、くらりと目眩がしてその場に蹲った。
こ、こんなものを、後生大事に持って来たのか……。
手から離れた拍子に傾いたバックから、未だケースに入ったままのローターが飛び出してきた。
「リモコン式……って、こいつか?」
中に入れ込む駆動部と操作用のリモコン、そしてご丁寧に後孔用のプラグでついている。
「これ淹れろって……。で、コンビニまで行けって?」
信じられない言葉を思い出して、突っ伏した場所から動けない。
そんなこと、できるわけがない、けれど。
しなければもっと恐ろしいことを言われそうな気がした。
たかだか卓真の欲求不満解消を手伝ってあげただけなのに。
どうして、こんなことに……。
じとっと横目でパッケージを見やるが、おどろおどろしい紫色をしたそれは、どう足掻いても目の前から消えてくれそうになかった。
20メートルも無い距離。
一緒に入っていた電池まではセットしたけれど、スイッチを入れろとは言われなかったから、動かしてはいない。
だが、昨日の朝までさんざん嬲られた後孔は、そんな人工的なものでも敏感に反応してしまう。
「くそっ……」
うずうずと甘酸っぱい疼きがこみ上げてくる。
よけいな刺激を与えないようにゆっくりと歩くのだが、それでも何かの拍子に力が入って感じる場所を突き上げてくれる。
これがまた測ったように中井のサイズにぴったりなのだ。
今は動いていないから良いが、もしこれが動いたら。
背後に千里が隠れているような気がして、思わず振り返ってしまう。
リモコンは自分のポケットに入っているのに、どこか他で操作されそうで怖い。
これはもう、いっそのこと急いで言った方が……。
のろのろ歩く方が地獄の時間が長くなるような気がして、中井は不意に足を速めた。
「んっ、くっ……うくっ……」
足が動くたびにリズミカルな突き上げがある。
ずりずりと内壁を擦るローターは確実に快感を呼び覚まし、後孔を塞ぐプラグがこつんこつんとローターを突き上げる。
そのわずかな刺激も、今の中井には十分堪える。
たかだか20メートル。
最初はこのくらい──と思っていた刺激が、どんどんきつくなっているような気がする。
まだ早い時間のせいか、コンビニの前の道路は車も人も多い。
念のため、股間まで隠す丈の長いシャツを着ているから隠れているだろうが、そっちがばれないかも気になった。
知らず息が荒くなり、前屈みの格好になる。
時々なんとか姿勢を正すが、すぐにまた前屈みになってしまった。
そんなこんなでまるで何キロも歩いたような疲労感を味わいながら、中井はようやく辿り着いたコンビニのドアを押したのだった。
幸いに他の客はいなかった。
明るい店員の挨拶を無視して、早々に一番奥にある携帯部品のコーナーに立ち寄った。
車通りの多い道が前にあるせいか、ハンズフリー用品もちゃんと置いてあってホッとする、が。
置いてあるのは、商品をカラーコピーしたカードだけ。
どうやら、店員にそのカードを出して、中から取りだしてもらわなければならないらしい。
「ううっ……」
万引き防止の策とはいえ、中井は今こそ万引きをするような奴を恨んだ。
カードを出せばさっさと出してはくれるだろうが、取り出すにはそれ相応の時間が必要だ。商品がここにあれば即行でレジに出してさっさと出て行けるのに。
それに、千里へも電話をかけなければならない。
それがまた気が重い。
はああ、と重いため息を靴先に落として、携帯を取り出す。
もう一度ため息を吐いて、ワンクリックで電話をかける。
呼び出し音は短かった。
『着いたのかい?』
携帯といえ、誰何の声もなくかけられた言葉に、眉間のしわが深くなる。
「ああ」
こくりと頷きながら答えると、「で、淹れているの?」と、間髪を容れずに返された。
「い、淹れてるってっ!」
疑いやがってっ。
憤りの声は、店員が顔を向けるほどに大きかった。
だが、それに気づかない中井に、千里からの含み笑いの声が響く。
『そう。ブルブル震えて気持ち良かっただろう? あれは君のサイズにぴったりの筈だから』
「う、うるせぇっ、振動なんかさせてないわっ」
「いらっしゃいませ」
「──って!」
自分の声に被さった店員の声に、中井は呆然と振り向いた。
入ってきたばかりの数人の客に愛想している店員。だが、その視線が時折ちらちらとこちらに向けられる。
──今、俺は何を話していた?
『どうしたんだい?』
「あ、いや……その……」
たぶん、たいしたことは言っていない筈、だけど。
『せっかくリモコン仕様なのに、使っていないのかい?』
「……頼む……、黙って……ください……」
笑みを隠さない声音に、千里はこちらで何が起きているのか察しがついているようだ。
いや、それを狙ってこんなものを体内に入れさせて、コンビニに行かせたのだ。
卓真にフェラをした、その罰に。
かああっと身体が熱くなる。
きゅっと緊張して締まった後孔が、あのローターを締め付けた。
「っ……くそっ」
こんな時だというのに、その存在感がさっきから増していた。
身体の中が熱い。
なんだかひどく敏感に、ローターの丸みを持つ角の部分まではっきりと感じてしまう。
びくびくと小刻みに震える陰茎に、陰嚢が引っ張られる感覚。
なんだか身体が変だ。
『甘い声を漏らすのは良いけれど、それで目的のものはあった?』
本題はそちらとばかりの話題転換に、息を飲んで携帯を見つけた。
電波でつながるはるか彼方で、千里がほくそ笑んでいるのが脳裏に浮かび、ふつふつと怒りが沸き上がる。
ぎりっと奥歯を噛み締めたのは怒りを押さえるため──の筈だったけれど。
体内に蟠った熱は、怒りよりは快感のそれ。
顔を思い浮かべたと同時に、身体が千里の手の感触まで思い出したのだ。
肌の上を触れるか触れないかの距離で撫で上げて、指先で胸の粒をリズミカルに弾く。
撫で下ろした手のひらが、ふわりと陰茎を包み込む。
「あ……」
千里の巧みな愛撫を身体が覚えていて、記憶が快感を呼び覚ました。
『中井君、早く買って帰りなさい、部屋に帰ったら、また電話するようにね』
この声も……。
揶揄を含んだ意地悪な声音。
それがどんな時に耳に届くか、自分がどんな時に聞いているか。
記憶は厄介だ。
とんでもない時に、とんでもない感覚を連れてくる。
くっと喉を鳴らして、こみ上げる快感を堪えた。
こんなところで欲情している場合では無い。
中井は切れた携帯をポケットにつっこむと、手早く商品カードを取り上げた。
さっきの客で賑やかなレジ前に行き、空いている方に黙って差し出す。
コンビニの店員が商品を取り出す間、じっと立っていることが辛かった。ちょっとした刺激が呼び水となって快感が増幅する。
膝が笑って、足が萎えそうになるのを何とか堪えて、中井は差し出された袋を奪うようにして、コンビニを飛び出した。
「あ……弁当……」
晩飯と朝食も買って帰るつもりだったことを思い出したが、煌々と蛍光灯で照らされた店内に入る勇気はもうなかった。何より、動くたびに身体が疼く。
動かしていないのに、このローターはこんなにも感じるものなのだろうか?
「千里の馬鹿野郎っ……」
千里のところにいたのは、少しの間だけだった筈だ。
なのに、こんなにもあの男の記憶が染みついていて、動いていないローターでも十分に感じてしまう。
力の入らない足でふらふらと歩く中井を通りすがり人が見ているような気がした。
恥ずかしくて、顔が熱くて。
真っ赤になっているであろう顔を見られなくて俯くと、シャツが微妙に盛り上がっているのが見えてしまった。
「わ、判るかな……」
まさか前を引っ張るわけにもいかず、前屈みになって弛みを増やす。そうなるとよけいに歩きにくくて。
帰り道は、行きの倍の時間がかかっていた。
『お帰り、遅かったね。意外に遠いのかな?』
携帯から聞こえる千里の、欲情のかけらも感じられない声音が疎ましい。
こんなにも中井自身の身体は千里を欲しがっているというのに。
こんな動きもしない玩具よりも、あの太くて熱い生身のものを捻り込み、突き上げて欲しい。
はあはあと喘ぐ中井は、欲情に潤んだ瞳でコンビニの袋から取り出したハンズフリーのマイクを見つめた。
それは今、中井の口の前。
きっと厭らしい喘ぎ声を余すところなく捕らえて、千里に送っている。
『買ってきたもの、どうやって使うか、判るかい?』
「……あ、ああっ……」
耳のイヤホンから、千里の声が直に響く。
手がごそごそとズボンのファスナーをおろし、中井自身の陰茎を取り出そうとしていた。
マイクとイヤホンのコードと繋がった携帯は、膝から転がり落ちて床で通話中の明かりを灯していた。
裸の足の裏が、冷たい床を蹴る。
転がる容器は、行く前に使ったローションだ。
「なんて……悪趣味……」
小さな文字で見辛かった説明書き。
最初にちゃんと読んでいれば、絶対に使わなかっただろう。
『ああ、もしかしてローション? 気持ち良いだろう? とても熱くなって、擦って欲しくて堪らなくなるらしいね』
ローターのせいだけでない作用に、中井の身体は慣れた快感を欲して疼きまくっている。
ぐちゅりと引き出されたローターを、また押し込んでしまうほどに、快感が欲しくて堪らない。
「や、もう……こんなの……」
身体が辛い。
こんなものでは物足りなくて、涙が溢れ出す。
「どうして……くれ、んだよ……、こんなの……、どうしろ……って……」
埋め込み型のローターだから、ぐちゅぐちゅと浅いところでしか抜き差しできない。
奥に押し込んで、リモコンのスイッチを入れてしまえば、きっともっと大きな快感が得られるだろう。
『スイッチいれてごらん、気持ち良いと思うよ』
「う、うるせぇ……」
欲しくて堪らないけれど、千里の罠にみすみすはまった悔しさが、それをさせない。
安易に快感を貪るのを理性が拒否する。
『こういう時だけ強情だねえ』
「……だ、だって……こんなの……」
それでも、千里の声を聞いているともっと身体が熱くなっていく。
千里のところで嬲られ続けた身体は、こんなにも快感を覚えていて、中井の矜持などあっけなくねじ伏せた。
『ちゃんと奥まで押し込んで。できるだろう?』
「や、やだ……」
『大丈夫、できるよ。ほら、やってごらん』
ひどく優しい声に、くっと喉が鳴る。
堪えようと息を止めた音だが、手は勝手に動いた。
『ゆっくりと……一昨日だったっけ、淹れてあげたよね。じわじわと君の身体が綻ぶようにね』
「い、あっ……」
千里の言葉が甘く誘う。
ゆっくりと、あの時千里にされたのと同じように、ゆっくりとローターが押し込まれていく。
「うっ……やっ……」
部屋に座り込んで、足を広げて。
股の間に落ちている携帯が、ずっと赤い通話中のライトを灯している。
その携帯から千里がじっと見ているような錯覚を覚えた。
──言うことを聞かないと、お仕置きされる……。
『良い子だね。気持ちいいだろう?』
大きく広がった後孔に潜り込んだローターが、栓と繋がる紐を残して体内に飲み込まれていた。
指で置くまで押し込むと、びりびりと電流が走るような快感が沸き起こる。
「せ、千里さっん、もう……俺……んあぁ……」
『すごいね、性欲を高める効果があるローションだと言っても、しょせんはごく普通に売っている奴なのにね』
くすくすと笑われて、羞恥にかあっと身体が熱くなる。
それでなくても澱んだ熱を蓄えた身体に、その熱は辛い。
はあはあと荒い息がマイクにかかる。
『まあ、中井君は感じやすいからね』
「んなこと……ねぇ……」
首を振ると額から汗が飛び散った。
本当にそれだけの効果しかないのだろうか?
何だかそれだけで無いような気がする。それに、このローター、測ったように中井の良いところを突き上げる。
「あ、あんた……」
『私が……何?』
けれど、そんなことを言おうものなら、きっともっと酷いことをされそうだ。
疑えば行為が激しくなるのを、身をもって知っている。
だから、言いかけた言葉を口ごもり、結局真実を一つ伝えた。
「あんた……しゃべるからっ」
千里の声が、耳から入って脳を冒す。植え付けられた記憶を呼び覚まして、狂わせる。
『だって、これは携帯だよ。喋らなくてどうするんだい? ああ、次は栓をしっかりとして。ぎゅっとお尻を引き締めなさい』
「あ、や──っ、ああっ」
言われるまでもなく、中井の手は栓をすでに後孔に差し込んでいた。
千里の言葉のままに身体に力が入る。
まるで、リモコンのようだ……。
何を考えなくても、身体が千里の言葉通りに動いてしまう。
紐の先に繋がるリモコンを見て、そう思う。
力を入れるとより露わに感じるだけでなく、動いた肉壁がローターをさらに奥に送り込んだようだ。栓自体も、後孔の一番狭い場所を広げていて、千里の陰茎を銜えているように感じる。
『どう? ぴったりだろう?』
「……ん……くっ……、なんで……こんなにぃ……」
まるで千里のものを淹れているような……。
『じゃあ、今度はリモコン……。スイッチ判るだろう?』
言われるまでもなく、うつろな視線が中井自身と繋がるリモコンを捕らえていた。
もう、逆らう気など起きなかった。
ただ、今はもう、この蟠った熱を放出しないと……。
「す、スイッチ……」
わかりやすいリモコンは、ON・OFFのスイッチと強度を変更するダイヤルだけ。
汗とローションで濡れた手で、そのスイッチを弾く。
と──。
「く、うあぁぁぁ──っ」
前立腺を直接叩くような激しい振動に、身体が堪えきれなかった。もとより我慢など考える間もなかった。
気がついた時には、ぴくぴくと脈動する陰茎から、勢いよく白濁が飛び出していた。
ぜいぜいと肩で息をする中井の耳に、千里の甘い声が届く。
『そのバックの中の玩具はいくらでも使って良いよ。ああ、特にそのローションは、全部使い切りなさい。一週間も経てば一度そちらに行けるからね。その時に確認するよ』
朦朧とした頭がゆっくりと言葉を理解していく。
同時に、何でそんなに怒っているんだろう……とぼんやり考える。
『使い切っていなかったら、今度は絶対に達けないようにして、ずっとそのローションを足しながら犯してあげるから。ああ、新しいボトルを開けるからね。一晩中……いや、一日中使ったら、さすがに無くなるだろう?』
「……全部?」
遠くに転がったボトルの中身は、まだ使い始めたばかり。
今日使った量からして、これから毎日使ったとしても一週間で使い切るかどうか。早く使い切るには、一回にたくさん使わなければならない。
それこそ、捨てるくらいの勢いで。
それがバレるとは思わないけど。
『ズルは駄目だよ。毎回たっぷりと中井君の身体の中に入れて愉しみなさい。ローションを入れたらしっかりと中で掻き混ぜて……それからなら出してもかまわないよ』
笑みを孕んだ命令に、全ての気力を奪われる。
中井はもう否と言う気力どころか身体を支える力さえなくして、そのままずるずると床に倒れ込んだのだった。
【了】