【想う心】  

【想う心】  

【想う心】  ?

優司の悪夢の4日間。ようやく訪れた二人の甘い休暇のはずが……

 疲れた。
 ううう。ほんとに疲れた。
 優司は帰ってくるなり、畳の上に座り込んだ。
 時計は12時を指している。水曜日から木曜日に変わったところだ。
 うつろな表情で、持っていたコンビニの袋からがさがさと弁当とお茶のペットボトルを取り出す。
 どんなに忙しくてもうまく実験が出来れば疲れもそんなに感じないのだが、今日は何をやってもうまくいかず、最後にはお客からのクレームに近い電話に心身共に疲れ果ててしまった。
 食欲ないなあ……。
 家に帰ってからだと何も作る気力ないだろうと思い、帰りに買ってきたが、なんとなく食べる気がしない。
 食べないと……明日、もたないけど……でも。
 えーい。
 無理矢理ふたを開け、箸を握る。
 が、大きくため息をついた。
 ああ、もう。
 少しは楽しいことでも考えよう。
 明日いやもう今日か、秀也がきて、金曜日は二人揃って有給休暇で、……日曜日に帰るんだし、どこかに遊びに行こうかな……。
 げんきんなものでそれだけで気分は明るくなる。
 少しは食欲も戻ってきたようで、かろうじて箸が進む。
 最後にはお茶で流し込むように弁当を食べ終えた。
 すでに次の日になっている時計を見上げ、のろのろと風呂場に向かった。
 風呂に湯を張るのも面倒なので、シャワーだけ浴びた。ぼーとシャワーを浴びていると睡魔が襲ってきた。暖まったせいか睡魔とともに体も猛烈にだるくなる。
「うう。もう駄目だ」
 優司はシャワーを止めると、バスタオルで体を拭いた。
 パジャマを着るのも面倒くさかったが、なんとかのろのろと着込み、ベッドに倒れ込む。
 そのまま睡魔の虜になった。

「……うう……」
 何ともいえないむかつきを覚え、優司は目が覚めた。
 胸やけがひどく、体がだるい。無意気のうちに体を丸めている。
 優司は体位を変えようと身を捩った。とたんに吐き気がきた。
 慌てて、トイレに駆け込む。
 吐き気がどんどんひどくなり、トイレで唸っていると、しばらくしてほとんど消化されていない弁当を吐いた。
「はあ……」
 吐くと少しは楽になった。そのままその場に座り込む。
 なんか、食べたものが悪かったのだろうか……。
 しかし、弁当しか食べていない。んなはずないよなあ……。
 ようやく立ち上がろうとした優司は身震いした。
 寒い……。
 背筋に寒気が走る。
 慌てて、ベッドに戻った。
 まだ暖かい布団の中に入り、ほっとしているとまた胸焼けがひどくなってきた。しばらく我慢していたが、ドンドンひどくなる。
 しょうがないのでトイレに戻ると、また嘔吐した。
 結局明け方まで何度も吐いた。最後には胃液しかでなかったがそれでも吐いた。
 しかも嘔吐するとともに寒気がひどく襲ってくるようになり、トイレに行くのも苦しかった。最後の方には布団を持ってトイレに駆け込む始末だった。
 結局吐き気が落ち着いたのは、明け方になってからだった。

 電話の音に、優司は目を覚ました。
 カーテンからこぼれる明かりは充分すぎるほど明るくて、ある事実を優司に教えた。
 はっと時計を見る。
 8時30分を過ぎようとしているのを見て取った優司は慌てて電話を取った。
「もしもし……」
『もしもし、三宅ですが……』
 会社からの電話だった。
「ごめん……体調が悪くて……今目が覚めた。今日は、ちょっと行けそうにない……」
 起きていると体かだるくて仕方がないので、壁にもたれてずるずると座り込む。
『判ったわ。連絡がないからどうしたのかな?と思って。じゃあ、総務と須藤さんには連絡しておく。後、伝言はない?』
「いや、今のところは。どうせ家にいるから、何かあったら電話して……」
『ん、みんなには伝えておくわ。明日も有休だったから、楽になったらメールのチェックだけはしてね。ところで、風邪?』
 心配そうな三宅さんの声。
「ん。嘔吐して寒気がするんだ……」
『ああ、嘔吐下痢症の風邪。はやってるみたいだから……でも、その風邪だったら1日寝てれば大丈夫だと思うよ。うちの家族もみんなかかったけど、一日で治ったから。でも滝本さんは最近体酷使しすぎてるから、こじらせないように、よっく休んでいなさいね。金土日とあることだし』
「ああ、ありがとう」
『それじゃあ、お大事に』
「ありがとう」
 もう一度礼を言って、電話を切った。
 ずるずるとベッドに戻る。
 寒気と節々の痛み、だるさはまだ体を襲っていた。加えて寝不足もある。
 優司は布団に潜り込むと、寝ることにした。
 
 それから数度トイレに起きたが嘔吐は完全に落ち着いたようだった。
 だが、相変わらず熱が高いのか、体がだるい。
 体温計……どこだったかなあ
と、あたりを見渡すが、探すのも面倒だったのであきらめた。
 熱のせいで何をする気力もなかった。
 ずっとうつらうつらとし、眠ったり起きたりを繰り返していた。
 外からの光が途切れ、部屋の中が暗くなって、ようやく寝ることに飽きてきた。体はまだだるいが、節々の痛みや寒気は消えている。
 まだ、熱があるのかなあ……。
 優司は額に手を当てた。
 体温計探さなくっちゃ……。
 そう思い、立ち上がる。
と、ぐらっと来た。
 目の前が暗くなり、立っていられなくなる。座り込んで目を閉じ、額に手をあてる。
 しばらくするとようやく視界が戻り、意識がはっきりとした。
 ほっとため息をついた。
 ひどい立ちくらみだったな……。そうだ、体温計……。
 体温計を探していたのを思い出して、ずるずると部屋の中を探す。
 やっと引き出しから見つけた体温計は電池が切れていた。
 苦笑を浮かべ、それをキッチンテーブルに放り出したとき、玄関のチャイムが鳴った。
 だれだろう……。
そう思いながら玄関に行く。
「はい?」
「優司?俺だ」
 聞き慣れた声が返ってきた。
「秀也っ!」
 あ、来てくれたんだ!
うれしくて、慌てて鍵を開ける。
 それを待っていたかのように開けられたドアから秀也が入ってきた。
 濃紺のスーツ姿の秀也は書類が詰まっている重そうな鞄を抱えている。
 もうそんな時間なのか?と優司は時計を見上げた。
「早かったんだね」
 優司が不思議そうに問いかけるのを無視し、秀也は優司の腕を掴んだ。
「起きたりして、大丈夫か?」
 開口一番に問いかける秀也に、優司は頷いた。
「一日寝てたから、熱がだいぶ下がったようなんだ」
 秀也は荷物を床に置くと、そっと優司の額に手の平をあてた。
 間近に迫った秀也の心配そうな瞳に、優司は心が取り込まれそうだった。頬が熱くなる。
「まだ、熱い……うろうろせずに寝てろよ」
 少し怒っているような口調、だがその瞳はとても優しげで、それに逆らうことは出来なかった。
「体温計探してて……」
 俯く優司の言葉に秀也はキッチンテーブルの上の体温計を取った。
「なんだ、これ。電池切れじゃないか」
「うん。普段使わないから……」
 秀也は体温計と優司を見比べ、ため息をついた。
「しょうがないなあ……それと食事は?ちゃんと取っているのか?」
 優司が頭をふるのを見た秀也は、優司の頭をこづいた。
「いたい!」
「ちゃんと食べないと、体が持たないだろーが」
「んなこと言ったって、朝はまだ気持ち悪かったし、目が覚めたのだってさっきなんだから……」
「ったく、お前ちゃんと寝てろよ。俺、なんか作るから」
 そういいながら冷蔵庫をのぞく。
 そのまま固まった。
「お前、何にもないぞ……」
 声が怒っていた。
「ちょっとずっと忙しくて、弁当ばっかだっから……」
 口の中でもごもごと言い訳する優司の頭を軽くこずいた。
「ったく!ああ、とにかくなんか買ってくるからな!おとなしく寝てろ!」
そういい残すと、さっさと玄関から出ていった。
「秀也……」
 呆然とその後を見送った優司は、あきらめたように首を振り、おとなしくベッドに入り込んだ。
 しばらく立っていたせいか、ひどく体が疲れていた。
 優司は、さっき秀也が触れた額に自分の手を当てた。
 しばらく外に出ていたせいか、手のひらが冷たく気持ちいい。
 秀也が来てくれた……。
 それだけで、うれしかった。
 確かに今日は泊まりに来る予定であったから、来るのは判っていたけれど……。
 今の時間にここにいるということは、どう見ても定時速攻で会社を出たんだろうな。
 そんなことを考えていると体が少しだけ軽くなったような気がした。
 怒ってはいるがその瞳も表情も自分を気遣っていてくれているのが痛いほど判った。
 自分を気遣ってくれる人が側にいるだけで、こんなに安心出来るんだな……。
 優司はゆったりとした気持ちに包まれ、再度眠りに落ちた。
「……うじ。……ゆうじ。優司っ!」
 乱暴に揺さぶられて優司は意識を取り戻した。灯りでまぶしくてうっすらと開けた目の前に秀也の顔があった。
 ずいぶんと心配そうな表情に、優司は怪訝そうに秀也を見つめた。
「優司……よかった……」
 今にも泣き出しそうな声。そして、優司は布団ごと秀也に抱きしめられた。
 頬にかかる秀也の髪がくすぐったい。
 訳も分からず優司はうろたえた。
「秀也?どうしたんだ?」
「いくら待っても起きなくて、起こそうとしたけど、なかなか起きなくて……このまま優司が目を覚まさないのかと思った……」
 秀也の掠れた声に、優司は秀也に心配をかけた事に気づいた。
 両手を伸ばし、秀也を抱きしめる。
「やだなあ。ただの風邪だよ。私は……秀也が来てくれただけでうれしかった。そう思ったら今度は気持ちよくって寝ちゃったんだ。ずっとうつらうつらしか出来ていなくて、それで熟睡したみたいだ……」
「なんだ、そうだったのか……ごめん起こしてしまって」
 ほっとしたような秀也に、優司は体を離して笑いかけた。
「いや、いいんだ。なんか今気分いいよ。それにお腹もすいたみたいだ……」
 鼻孔をくすぐる匂いにつられたのか、体が空腹を訴える。
「食欲が出てきたのなら、もう大丈夫だな。用意するから、その間にもう一回熱測っとけよ」
 そう言って体温計を差し出してきた。起きあがり受け取って見ると、電池切れをしたものとは別の真新しい体温計だった。
「買ってくれたんだ?」
「さっき買い物行ったついでにね。無いといざというとき不便だろ。さっき寝ている間に計ったけど、38度以上あったぞ。それなのに楽になったなんていうことは、高いときは39度越えてたんじゃないか?」
 少し怒ったような口調。
 だが、心配していってくれてることが判るので、優司はうれしかった。
「ん。そうかもしれない。でも、秀也に会ったときより今はもっと楽みたいだから、もっと下がってるような気がするよ」
 そういいながら、体温計を脇の下に挟み込んだ。
 その間に秀也は台所に立ち、コンロに火をつけた。鍋の中をかき混ぜて暖めなおしている。
「何作ったんだ?」
 ベッドのある部屋からは直接台所が見えない。
 それがなんとなく嫌で、優司は起きあがり隣の和室に移った。
 畳の上に座り込む。
「おかゆ。白がゆにしようかとおもったけど、何も味もないのって食べづらいだろ。もう大丈夫だろうと思うし、卵落として味付けてるんだ。ちょっと待っててくれ」
「ああ」
 優司が頷いたとき、ピピッと電子音がした。
体温計を取り出す。
「何度?」
「37.5度」
「だいぶ下がったんだな。微熱か」
 そういいながら、鍋の中をかき混ぜている秀也を見ていた優司がある事に気がついた。
「なあ、秀也。お前着替えていないのか?」
 秀也が優司の家に着いてから、もう2時間以上立っている。その間買い物に行っていたとはいえ、秀也はこの家に来たときの服装から上着を脱いでいるだけだ。いつも泊まりに来る秀也は、優司の家にある程度の服を置いている。たいていは、来るとすぐ着替えていた。
「あ、ああ、そうか。そんなこと考える暇もなかったから……」
 そう言って振り返った秀也は、くすくすと笑い出した。
「何?」
「熱冷ましが落ちて、パジャマにひっついている」
 秀也が指さす所を見ると、額から剥がれたらしい熱冷ましのシートがパジャマにはりついてぶら下がっている。
 笑われて恥ずかしくて慌ててそれを取る。
 あれ?
 こんなもの家になかったはずだが……。
「これも買ってきたのか?」
「……あ、ああ、体温計買うついでにな」
 優司の胸に熱いモノがこみ上げてきた。
 もし、秀也がこなかったら、食べるものもなく、ただずっと寝て勝手に治るのを待つだけだった。
「おい、どうした?」
 秀也が近づき、秀也の頬に指を当てる。
 その時、優司は始めて自分が泣いていることに気がついた。
「ゆ、う、じ?」
 秀也がかがみ込み、優司の顔をのぞく。
「秀也あ……」
 一度流れ出した感情は、もう容易には止まらなかった。秀也に両手を回し、抱きつく。
 いきなり抱きつかれて、秀也はびっくりしたようだったが、そっとその手を優司の体に回した。
 秀也はその手で優司の頭をさする。それが優司に心地よい刺激と安心感を与えてくれる。
「ありがとう。私は、ほんとうにうれしくて……こんな時に秀也がいてくれるのがうれしい……」
 そんな優司に秀也はくすりと笑った。
「何か不思議だな。二人きりの時にそんな優司を見るのは久しぶりだもんな」
「ん?」
「いつもは、二人だけの時はもうちょっと我が儘で生意気な所あるだろ。まるで誰か他人が側にいるときのお前になっているじゃないか。お前、弱っているときはそんなふうになるんだから」
そう言って優しく語りかける。
「分かっているのか?何かがあったら、それだけ弱ってしまう優司を知っていて、俺が放っとけるわけがないだろ。困ったことがあったらさ、一人では苦しくても二人ならなんとかなるって言うじゃないか。いつも俺は、優司とは離れているけれど、それでもいつだって優司のことを思っている。今回はたまたま俺が泊まりに来る時だったけど、いつだって困ったときがあったら即座に連絡してくれ。そりゃあ、すぐに来るってことは出来ないけど、声を聞くだけで安心出来るときだってあるだろう。苦しいときくらいいつだって頼ってくれよな、俺達はそういう関係だろう。下手に遠慮なんかしなくていいからさ……」
「ああ……」
 優司は秀也の言葉すべてがうれしかった。
 私って、どうしてこんなに甘えてしまうんだろう。
 とても安心できる。いつだって求めてしまうほど……。
 本当は毎日一緒にいたい。
 こんな風に離れて暮らすのは嫌だから……でも、それは無理な話だから……だからたまに会える秀也にはついつい甘えてしまう。
 そんな私を秀也はいつも優しくて……。こんなんじゃあ、そのうち愛想尽かされるんじゃないかなって思うけど……もっとしっかりしなくっちゃって思うけど……
 その時、秀也が優司の顎に指をそえ、顔を上げさせた。
 自然に秀也と優司の視線が絡んだ。
「何、考えてるんだ……ったく」
 口の端をを上げ、苦笑いを浮かべる。
「ごめん」
 優司は羞恥に顔を染め、呟いた。
 秀也は読心術が出来るのではないかと言うほど、感情を読むのに長けていた。通常の感覚では考えられないほど。だからごまかすことはできない。一度視線が合えば、その一瞬で読みとる秀也に、優司はいつも素直に答えてきた。
 ——すでに秀也が知っているのなら、もうごまかししようがないじゃないか。
 昔そう答えた優司に、秀也は笑いながら本当にうれそしうに言った。
 ——そんなこと言ったのは優司だけだ。きっとそんな事言えるの優司だけだよ。優司だから、言える言葉だよ。
……単純だしな。最後に付け加えられた言葉に憤慨した覚えがある。
「謝るなって」
 秀也はそういうと、体を離した。
「用意するから一緒に食べよう」
「え?食べてないのか?」
 2時間もの間、秀也は一体何をしていたんだろう?
「ん。なんかさ、料理が出来ちゃうと何もする気が起きなくて、ずっと優司を見てた。で、気が付いたら2時間くらい経っていたもんだから、慌てて優司を起こしたんだ」
 お椀にお玉でお粥をつぎながら、秀也は優司に笑いかけた。
「情けないだろ」
 優司は黙って頭を降った。
 ずっと見ててくれたんだ。
 それがうれしくて、何もいえなかった。
 情けないなんて思うわけがなかった。
 秀也が和室用の折り畳みテーブルを引っ張り出し、その上にお粥と漬け物の乗った小皿を置く。
「おいしそうだな」
 白い粥に淡い黄色の卵が絡まっている。わずかに匂う醤油が食欲をそそる。
「無理に食べるとまた戻すからな、今日はそれだけだ。明日になったら、しっかり栄養のつくもの食べさせてやる。それと、水分はしっかり飲めよ」
 そういいながら、ミネラルウォーターのペットボトルとコップをどんと置いた。
「脱水症状でも起こした日には目もあてられん」
 そう言われて、初めて自分がずっと水分を取っていないことに気がついた。
 そういえば、ずっとトイレに行ってないや。
「判ってるって。ところで秀也は何食べるんだ?」
「ああ、同じ物だけど……」
 そういって、秀也は自分の分をお椀についでいる。
 てことは、お粥を食べるのか?
 他には何もテーブルの上にない。
「え、でも、そんなんもたないだろっ」
「どうせ後は寝るだけだろ。それに優司が寝ている間、少しだけ買ってきた総菜を食べてるからな、大丈夫だよ」
 ああ、嘘言ってる。
 本当は食べてないんだろうな。 
 優司には食べたということが嘘なのはなんとなく判った。だが、それ以上何も言わなかった。
「いただきます」
「いただきます」
 お互い、声をかけて食べ始める。
 優司はスプーンに取ったお粥を冷ましながら口に入れた。
「……なんか、味がしない……味見したのか?」
「そうか?俺はちょうどいいと思うけど……」
 もう一口お互いに食べてみる。
「やっぱ、おかしいや……」
「うーん。優司の舌が熱でおかしくなってるんじゃないか」
 言われて、優司も頷く。
「そうかもしれない。せっかく秀也が作ってくれたのに……」
 優司が落胆していると、秀也が手を伸ばして優司の頭をぽんぽんと叩いた。
「お粥ぐらいいつでも作ってやるから……仕方がないから、がんばって食べな」
「ああ」
 自分が駄々をこねたのに気がついて、優司は恥ずかしくなった。頬が熱くなる。
 秀也はそんな優司に笑いかけると、自分も食べ始めた。
 どうして私って、秀也の前だとこんな子供みたいになってしまうんだろ……。
 そんな思いが頭をよぎった。
「おい、ちゃんと水も飲めよ」
「ん」
 妙な味がするけど、秀也の作ってくれたものだし、何よりもお腹が空いていた。
 結局一杯を食べ終わってしまう。
「何か……物足りない」
 ぼそっと呟く優司に、秀也は苦笑を浮かべる。
「明日までの我慢だよ。その代わり、スポーツ飲料買ってきたからさ。それでたっぷり水分とっときな」
 そう言って、冷蔵庫からペットボトルを出してきた。
 優司の分と自分の分を注ぐ。
「あ、ありがとう」
「甘いからな、お腹も膨れるよ」
「そうだな」
 ひんやりと冷えたコップが心地よく優司の手を冷やす。
冷たいコップが気持ちいいな。
ごくごくと飲むと体に染み渡るような気がした。
「それはおいしそうだな」
「ああ、まだちょっと変だけど、おいしいよ」
「明日には治るさ。だから、今日はもう寝た方がいいよ」
「そうかなあ……ずっと寝ていたんで、あんまり眠くない」
 口を尖らせて抗議する優司の頭をこつんとこずくと秀也は有無を言わせぬ口調で言った。
「寝なさい!」
「……はい、はい」
 仕方なく返事をすると、優司は立ち上がった。
 ベッドに向かう優司に秀也が付いてくる。
「何?」
「ちゃんと寝るか見張り」
「うう」
 優司は唸るとベッドの中に潜り込んだ。
「眠くなるまで子守歌で歌ってやろうか?」
 笑いを含んだ口調でそう言った秀也に優司はむっとして顔を背けた。
「いらない」
「ふてくされないで、こっち向けよ」
 笑いながら秀也が呼びかける。仕方なく、優司は秀也の方にむき直した。
「いい加減ガキ扱いにするの止めてくれないか?私の方が年上なんだから……んん」
 訴える優司の口を秀也が塞いだ。
 目を見開き驚いた優司は、両手を突っ張り秀也をどかそうとした。
「素直じゃない口は塞がないとな」
 少し口を離してそう言う。
「馬鹿!風邪がうつる!」
 優司がそう言うと、秀也は首を振った。秀也の髪が頬をこすり、むずがゆい。
「うつらないさ、俺、先週その風邪やったから」
「えっ!」
 驚く優司の頬に秀也は微笑みながら口づける。
「だって、そんなの知らない!秀也、何も言わなかったじゃないかっ!」
「別にこちらにくる日じゃなかったし、俺の時は優司ほどひどくなくて、半日もあれば熱も下がったからな」
 それを聞いた優司は、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「どうしたんだ?」
 驚いた秀也が体を起こす。
「だって……秀也は私にさっき言ったじゃないか。『いつだって困ったときがあったら即座に連絡してくれ』って。それ、そのまま秀也に返すよ。私にも連絡をして欲しい。そういう時には必ず。私達はそういう関係なんだろう……」
 秀也だって一人暮らしじゃないか。
 いくら私より楽だったからって、治ってからでも連絡が欲しかった。
 秀也が苦しんでいるとき位、役に立ちたかったのに……。
 顔を歪めて涙する優司に秀也は優しくその頬の涙を嘗め取る。
「ごめん……俺は、優司ほどひどくなかったから、だから連絡しなかったんだ。分かるか?俺はこの位平気だったし、食べ物も薬も持っていた。だから平気だったんだ。そりゃあ2日も寝てたら、心細くなって優司に電話してたかも知れないけどね」
 目を閉じて、秀也の舌がもたらす甘い痺れに耐えながら、優司は頷いた。
「でも、こっちに来てみたら、優司は熱だして休みだっていうし、来てみたら体温計も食べ物すらもなくて、一体お前はどうするつもりだったんだろうって……何か心配になっちまった。それであんなこと言ったけど、そうだな、言われてみれば俺もお前に連絡していないもんな。お互い様ってとこか」
 優しい言葉が耳を打つ。
 それを聞きながらなおこぼれ落ちる涙を優司は止めることが出来なかった。 
いつだって秀也は私を気を遣ってくれるから、私は甘えてしまう。
 私の方が、年上なのに、いつだって弱いのは私だ。
 私は秀也に負担をかけているんじゃないだろうか?
 私は、何でこんなに情けないんだ……秀也にはふさわしくないような気がする……。だけど、今更秀也がいなくなるなんて考えられない。
 だったら、私がもっと強くなればいい……だけど……何となく、だけど、それは無理なような気がする。ずっと自分を見てきた自分がそう思うのだから、私は情けなくて、弱虫で、要領が悪いから……いつか、秀也があきれ果てるかもしれないけど……。
 ああ、私は一体何を考えているんだ。
 こんな事を考えたら、秀也にばれて、秀也が怒る。いや、呆れるだろうか。
 心を落ち着かせないと、秀也にばれてしまう…………。
「優司……」
 秀也の心配そうな声が耳に入る。
 優司は固く目を閉じ、その瞼の上に両手を置いていた。
 目を開けば、秀也に今の想いを知らせてしまう。だから、今は絶対見せられない。
 そして、自分の心の奥底に埋めてしまうんだ。今思ったことを。
「ごめん。私は……なんか熱のせいで気が弱くなっているのかな。やっぱりちょっと休むから。秀也は風呂でも入っててよ。今日から千間さんは留守にするって行ってたから。音は気にしなくていいよ」
 千間は三宅の友達で、優司の隣の住人だった。
「ああ、そうだな。今日は少し暖かかったから汗かいた。じゃあシャワー浴びてくるから、優司はおとなしく寝てろよ」
「分かってる」
 心をかくすために自然につっけんどんになってしまった優司に、秀也は「気にするな」と一言言ってから風呂場に向かった。
 気づいているんだろうか?
 何に対して気にするなって言ったのかが分からない。
 気にしすぎなのかもしれない。
 ああ、もう何がなんだか分からない……。
 もう寝てしまおう。
 優司は目をぐいっと一拭いすると、視線を風呂に入ろうとしている秀也に移し、そして目を閉じた。
 あれだけ寝ていたから眠れないかなと思ったが、あっという間に睡魔に襲われ、深い眠りに入った。
 風呂場に入るとき、視線を感じた。
 ふっと後ろを振り向くと、優司がこちらを向いていた。がすぐにその瞳は閉ざされた。
 しばらく、そのまま様子を見ているとどうやら優司は眠ってしまったようだった。
 はあーーーー
 ため息が口をついて出た。
 病気で気が弱くなっているとはいえ、今日は格別悩むのがひどいな。
 普段はもう少し、言いたいことを言ってくれるので対応し易いんだけどな。
 なんだってあいつはすぐに悩むんだ。
 だからついつい甘やかしてしまって、そしたらまたそのことであいつは悩むんだ。
 厳しくした方がいいのだろうか?
 たまには冷たくするのもいいのだろうか?
いや、そんなことをしたらそれはそれで余計悩むんだ、あいつは。こっちが悪くても自分が悪いと思ってしまって……ったく、少しは自分の心を守ってみろ。他人の言うことなんか気にしないで、俺が何を言おうと聞き流す位でいてくれたら、俺も安心なのに……。
確かに俺はあいつが年上なんて思えない。
単純で真面目ですぐぼーっとして、俺といるときだけ生意気で我が儘で、でも何か言われるとすぐ傷ついてしまうあいつを見てると守ってやりたくなる。
そしたら、またガキ扱いするなって怒られるのだ。
ああ、もう、一体どうしたらいいんだっ!
赤の他人なら平気で感情を読んでしまう秀也も、親しい相手にはあまりこの力は使わない。まして、優司が拒絶しているときにどうして読むことができようか……。
優司が許してくれるまで、俺はいつだって我慢しているのに……。
だから、言ってくれないと俺だって分からないときがあるのに……。
秀也は再び大きくため息をつくと、風呂場に入っていった。
優司が目を覚ますと、隣の和室の布団に秀也がいなかった。
がばっと跳ね起きる。
「し、秀也?」
「ん、起きたのか?」
 台所の方から、秀也がひょいっと顔を覗かせてきた。
「あ、いたんだ……」
 そんな言葉が口から漏れ、慌てて口を塞いだ。
「いちゃ悪いか?」
 むっとしたような口調に優司は慌てて首を振った。
「違うんだ。その、布団にいなかったから、もう帰ったのかと思った……」
「何だ。帰って欲しかったのか?」
 秀也に睨まれて優司は首をすくめた。
「いや……いてくれたからほっとした……」
「そ、そうか」
 素直に告られて、秀也の方が狼狽えた。そんな秀也に優司は笑いを返す。
「何してるんだ?」
「何って、朝食をだな、作っているんだよ。もうすぐお昼がくるから、朝食とは言えないかもしれんが……お腹空いたろ」
「ああ、そういえばいい匂いがする」
「ふふふ、俺の自信作だ。もう少ししたら出来るから、顔でも洗ってろ」
「ああ」
 優司はベッドから立ち上がり、背伸びをした。
 体からだるさが抜けていた。
 気分もよっぽどいい。
「もう、治ったな」
 朝起き抜けから空腹を感じると言うことは体調がいいということだ。
 ふう、と息を吐くと、優司は着替えを始めた。
 考えてみると二日間おんなじパジャマを着続けていた。いい加減汗を吸って気持ちが悪い。
 長袖シャツにジーンズをはくと洗面所に向かう。
「何だ着替えたのか?」
 秀也がお玉を持って、声をかけてきた。
「着替えちゃ悪いか?」
 優司が憮然として問い返す。
「乱れたパジャマも色っぽくて良かったなあ……と……」
 こ、こいつはぁーーー。
 ごん
 優司がものも言わずに、秀也の頭を拳で殴った。
「ってえ!」
 頭を抱える秀也に、優司は冷たく言い放った。
「あんまり馬鹿な事を言うと、出てってもらうぞ!」
「うう。元気になった途端冷たくなるんだから。おはようのキスくらいしてくれてもいいじゃないかあ」
 よっぽと痛かったのか涙目で訴える秀也に、「うっ」と唸って優司は一歩後ずさった。
「せっかく親身に看病したのにぃ……駄目か?」
 げっ、ちょっ、ちょっと待てえ……。
 顔を覗き込まれて、さらに後ずさる。
 秀也の瞳が優司を誘う。
「ああ、もうっ!」
 優司は一言叫ぶと、秀也の口に口づけた。すぐに離れる。
 だが、それだけで優司は真っ赤になった。
「顔洗ってくる!」
 言い捨てて洗面所に向かう優司に、秀也は押し殺した笑いで見送った。

 洗面所からタオルで顔を拭きながら戻ってきた優司の前に、みそ汁とご飯、それに卵焼きなどが並べられた。
「お腹空いたろ。食べようぜ」
「自信作だって言ってたから、もうちょっといろいろあるのかと思った」
 優司が呟くと、秀也は苦笑いを浮かべた。
「ほんとに元気になると言いたいこと言うよな、お前って」
「だってさ、隠しといたって無駄だろ。秀也には」
 そんな優司に秀也はほっとする。
「何?」
「いや、それだけ文句が言えるって事は食欲もたっぷりとあるってとこだろう?だからそろそろ食べようぜ」
「ん、そうだな」
 優司がみそ汁を口に含む。
「ん。おいしいよ。味覚がもどったみたいだ」
「そりゃ、良かった。やっぱどうせならおいしく食べたいもんな」
 ほんと、良かった。
 昨日みたいな味覚だと、ほんと食欲減退するもんなあ。
 体が足りなくなっていた栄養を取り戻そうとするのか、ぱくぱくと食べることができた。
 あっという間に空になった茶碗を見て、秀也が呆れた。
「朝からよくまあそれだけ食べれるもんだ。もしかして、まだ足りないとか?」
「んー。もう少し食べたい」
「じゃあ、みそ汁だけな」
 そういってお椀にみそ汁を注ぐ。
「なあ、私が後でシャワー浴びたら、その後、どっか行かないか?私は、ずっと家の中にいたんで飽きてしまった」
 幸いにも外は天気が良さそうだ。
 せっかく秀也といるのに、家の中にずっといるのがもったいなかった。
「そうだな。お前の車を俺が運転するから、ちょっとドライブして外の空気でも吸ってみるか?あんまり遠出は出来ないけどな」
「ほんとか?良かった……」
 そう言ってうれしそうに笑う優司に秀也もつられて笑みを浮かべた。
 
 
  結局、車で半日ほどぶらぶらし、外食して帰ってくると、もう10時を回っていた。
「ちょっと疲れた」
 そう訴える優司に秀也は呆れたように言った。
「だから俺が何度も帰ろうって言ったのに、お前がいつまでも帰ろうとしないからだ。ったく病み上がりのくせに」
「はいはい、反省しています」
 そういう優司には反省の色は見られない。
「今日はさっさと寝ろよ。またぶり返したら大変だからな」
 ……。
 その台詞は、今日はしないってことなんだろーか。
 ふっとそんな考えが浮かんで、優司は慌ててその想いを振り払った。
「そうだな。何か疲れたし」
 素直に肯定して見せる優司を秀也は面白そうに見ている。
「嘘つき、優司君。ほんとに寝ちゃうのか?」
「だ、誰が嘘つきなんだよっ!」
「優司」
 さらっと言う秀也に優司は真っ赤になった。
「ほらほらすぐ真っ赤になるんだから。もうわかりやすい性格だなあ」
そう言ってけらけら笑う。
こいつはーーー。
優司は、秀也に背を向け笑っている声を無視した。
「あー、優司ってば無視すんな!」
そう言うと、秀也が後ろから優司に抱きついた。
「うーっ、暑い。ひっつくなって」
慌ててふりほどこうとするが、秀也の手は離れない。
「嫌だなあ、ほんとに寝ちゃうのか?」
そんな言葉を耳元で囁かれ、ますます体温が上昇する。
「秀也が……お前が私に早く寝ろっていったんだろうが」
「それで?優司はほんとに一人でさっさと寝るつもりだったのか?俺しかいないここで、いつからそんなに素直になった訳?」
どうして?
どうして、秀也は分かっててからかうんだ。
っくしょう!
「じゃあ、どうしろっていうんだっ!」
 切れて怒る優司の頬に秀也は軽くキスをした。
「そうだな。まずはシャワーでも浴びておいでよ」
 甘く耳元で囁かれて、痺れが体を襲う。だが。
「いやだっ!」
 このまま秀也の思うとおりなんて嫌だ。
「やだって……何怒ってんだよ。んじゃあ、シャワー浴びずに、このまました方がいいのか?」
「う……それも嫌だ……」
 声が小さくなる。
「じゃあどうするって言うんだ?」
 そ、それは……。
 ちらりと秀也の顔を見ると、かすかな笑みが浮かんでいる。
 は、はめられた、ような気がする……。
「……」
「このまま、やっぱ寝ちゃうのか?」
「……」
 それも嫌だ……。
 でも恥ずかしくってそんなこと言えるかあーーー!
「じゃ、俺とする?」
「……」
 したい、です。
 だけど、それを口に出すのも……恥ずかしいし……。
「どっち?」
 悪魔の微笑みで促す秀也に、優司はパニックになりかけ……でも、ふっと思いついた。
「分かった。とりあえず私はシャワーを浴びるっ!」
「うんうん、それで」
 にこにこと上機嫌の秀也にちらりと視線を寄こすと、優司は言い放った。
「後は、秀也の思うようにしてくれっ!私は……秀也がしたいようにしてくれたらいいからっ!」
 そして、するりとその腕を抜ける。
「え、えっとぉ…………」
 どうやら予想していなかった言葉に秀也は呆然としている。
「私は風呂入るから。どうしたいか考えといてくれっ!」
「そ、それは、ずるくないか……」
 少し情けない表情の秀也に優司は冷たく返す。
「秀也が私をからかうからだ」
 滅多に見られない狼狽える秀也に、優司は満足げだった。
 いつもこう巧くいくとは限らない。 いつもいつもからかわれる存在としては、たまにはやり返したかった。
 だけど、そうは言ったものの、秀也がどうしようとするのか、は、ちょっと不安だった。怒って、このままふつーに寝てしまったらどうしよう。反対に乱暴にされたらどうしよう……て今までそんなことなかったから大丈夫だとは思うけど……。
 風呂場で湯を入れながら、優司はぼーと考えた。
 本当は今すぐにでも、秀也に抱かれたい気分なのは自覚していた。
 遠距離恋愛だから、滅多に逢えない。本当なら昨日秀也が来た時点で、抱かれてるはずだった。だが、その貴重な一日が優司自身の風邪でお流れになったのだから、今日はしたくてたまらないっと言った方が正しい。
 そんなん言わなくたってわかるだろーーー!
 なのに、秀也はそんな優司をからかうのだ。
さすがにからかわれていると分かっていて、そのまま素直になんかなれるか?
はあー
大きくため息をつく。
私は、一体何をやっているんだろうな……。
秀也はどう思っているだろう。きっと秀也には私がしたがっていることなんかお見通しに違いないのに……じゃあ、どうするんだろう……。
湯が溜まるまで、優司は部屋に帰ることもできず、一人うじうじと考え込んでいた。
 えっとぉーーー
 逆襲されてしまった秀也は秀也で考え込んでいた。
 俺のしたいようにしろってのは、これまた新しい反応の仕方で、ちょっと反応が遅れてしまったじゃないか……。
 俺は、したいぞっ!
 優司を抱きたい!
 滅多に逢えないのに、いまやらなきゃいつやるんだ?
 だから、俺はやるぞ…………でも、優司はそれでいいんだよな。分かってるはずだよな。俺がしたがってること……。分かってて言ってるんだよな……。
 うんうん。
 だから、やるぞ……って思ってるんだけど……。
 でも病み上がりなんだよな……。
 まあ、今日一日見てた分にはすっかり元気になってたみたいだけど……大丈夫だよな……だけど、ここんとこ仕事立て込んでたみたいだから、結構疲れが溜まっていそうだし……今日はゆっくり寝かした方がいいような気もするし……。
 どうしよう……。
「風呂、空いたよ」
 風呂から出てきたパジャマ姿の優司は、秀也に声をかけた。
「ああ、じゃあ入ってくる」
 のそのそと動く秀也がどんな判断をしたのか優司には分からなかった。
 しようがないので、ベッドにごろんと横になる。
 秀也はするだろうか?
 それともやらないのだろうか?
 ……
秀也が出てくるのを待つのがつらかった。
こんなことなら後から入れば良かったな……。
もし秀也が今日はしないような態度にとられたらどうしよう……。
でも、私としては、したいんだけど、きっと秀也もしたい筈だけど……。
優司はさしてすることもなく、天井を睨み付けていた。 
「何やってんだ?」
「ひっ!」
 突然声をかけられ、優司は跳ね起きた。
「……何やってんだ?」
 再度問いかけられたその口調は、笑いを含んでいた。
 羞恥心に顔が熱くなるのを感じたため、優司はそっぽを向いた。
「急に声をかけるからびっくりした……」
 むすっとして答える。
 ほんとーにびっくりしたんだからな。
 にしてもいつの間にでてきたんだ?気配すらしなかった……。
「ちょっと前に出てきてたんだけど、なんか、天井とにらめっこしているような感じだったんで様子を見てたんだ。だけど、一向にこっちに気が付かないから声かけた……って分かったか?」
「はあ」
 律儀に説明されて、優司は頷いた。
「で、何考えてたんだ?」
 秀也がにやにや笑っているのに気づいた。
「別に」
「くく、どうせ俺がどうするかでも考えてたんだろ」
「分かってるなら聞くな!」
 ったく。どうして秀也は答えられないことばっか聞いてくるんだ?
 しかも分かり切ってるんだろうが……。
「まあ、そうだな」
 そう言って秀也はベッドの縁に腰掛けた。
 その振動が体に伝わり、こころなしか不安になる。
「秀也?」
「もう体は大丈夫か?」
 心配そうな視線を寄こされ、優司は頷く。
 頷くだけじゃあ足りないような気がして、言葉を足した。
「もう、すっかり良くなったよ」
「じゃぁ、いいか……」
 何がいいのか?
 不審そうに優司が秀也を見つめる。
と、秀也は優司の手を掴み引き寄せた。そのせいで、優司の体が前のめりになり秀也に抱きしめられた。
「ち、ちょっと、秀也!」
いきなりの展開に慌てる優司に秀也は笑いを含んだ声で言った。
「俺のやりたいようにすればいいんだろ!」
「!」
 一瞬でその言葉を理解した優司。
 そんな優司の口元に軽いキスを寄こし、秀也は優司を抱え直した。
「昨日お預けくらったから、今日はしないわけがないだろうに……したいならしたいって自分から言ってみろよ」
 その言葉に優司は全身の体温が上昇した。
 紅潮した顔を見られたくなくて、自分から秀也の体に手を回し、胸に顔を埋める。
「素直なんだか、そうじゃないのか……」
 秀也はそう言いつつ、優司の顔を上げさせた。
 どちらからともなく、唇を合わせる。
 秀也の舌が優司の口内に入り、優司のものを絡め取る。
 同時にその手が優司の胸元に差し入れられた。ゆっくりと体の線をなぞるように上昇していく。
 その感触に背筋がぞくりとする。
「んん」
 優司の喉から甘い声が漏れ、秀也に回されている手に力が入った。
 秀也はさらに舌で口内を貪り、手は胸の突起を探し当てる。
「んあ」
 胸元から伝わる刺激に、優司は思わず口を離した。だが、すぐに秀也の唇が覆い被さり、そして優司をベッドに押し倒した。
 舌を唇の端から喉元に這わせながら、手は器用にボタンを外していく。
「……んんっ!……い、いい……」
 舌が胸を嘗めあげ、ときおり突起を吸い上げる。その時の甘い痺れが下半身に伝わり、鈍い刺激が襲う。
 久しぶりの愛撫に体が少しの刺激でも感じてしまう。
「うっああっ!」
 するりとズボンの中に入った手が優司のものを擦る。
 それだけで体が仰け反るほどの刺激に見舞われた。
「……今日は、いつもより激しいなあ……」
 からかうような口調に、優司は歯を食いしばった。しかめた眉が時折震える。
「我慢するなよ」
 楽しそうな秀也は、優司のパジャマの下と下着を一気にずらした。
 途端、優司のいきり立ったものがモノが露わになる。
「!」
 恥ずかしさに慌てて隠そうとする手を秀也は掴みベッドに押さえつけた。
「いまさら恥ずかしがるなよ」
 そう言うと、手を押さえたまま、優司のモノを口に含んだ。
 そ、そんなこと言ったってえ……えっ!
「ああっ!」
 ぬるっとした感触に包まれ、その上ざらりと嘗められる。
 それだけで、優司はイキそうになった。
 慌てて開いているもう片方の手で秀也の頭を除けさせようとするが、その手も難なく掴まれ、ベッドに押しつけられた。両足は秀也の体で押さえつけられている。
「やめて……い、やあ…………ああっ」
 抗う術がなくなり、秀也の舌に翻弄される優司。
 意識が逆らうことを放棄し、快楽の波に飲みこまれそうになる。
「……しゅ、しゅうやあ……、わ、たし……もうだめっ…………ああっ!」
 その言葉を聞いた秀也がさらに激しく刺激を与えようとした……。
 その時。
 玄関のチャイムが鳴った。
 ピンポンピンポン
 としつこいくらいに鳴る。
 あまりのことに秀也は優司のモノから口を離した。優司が切なげな声を上げる。
「……ああ……」
「誰だ?……」
 秀也が怒りを含んだ口調で優司に問いかけるが、優司は息も絶え絶えで何の事やら分からないようだ。
「優司。誰か来た」
 言われて優司の瞳の焦点が合う。
 あ、ああっ!チャイム!って誰だぁ!!
 慌てて、パジャマを着ようとするが、体の感覚が元に戻っていないのでやたら手間取る。
 その間もチャイムが鳴り響く。
 仕方なく秀也に手伝ってもらい何とか取り繕うと、優司は玄関の方に向かった。
 秀也は隣の和室に移って座り込み、その辺りの雑誌を拾い上げた。
「ったく、いいところで……」
 秀也が呟く。
 そんな秀也を横目で見つつ、玄関に向かって問いかける。
「誰だ?」
 かすかに聞こえた声には聞き覚えがあった。
 え?
 優司は耳を疑った。
「恵?恵なのか?」
 慌てて、鍵を開ける。
 その声を聞いた秀也もびっくりして玄関の方へ顔を向けた。
 開けられたドアから入ってきたのは、優司より小柄でさらに可愛くしたような顔つきを持つ優司の弟、滝本 恵(たきもと けい)だった。
 スーツ姿の恵が泣きそうな目を優司に向ける。
「ごめん、こんな遅く」
「い、いや。いいから入れよ」
 恵の背中を押し、部屋の中に入れる。と、恵からアルコールの匂いがするのに気づいた。
「飲んでるのか?」
「うん。今日……接待……があって……」
 言いにくそうな恵の様子があまりにも哀れで優司は、それ以上問いかけることができなかった。
「あれ、お客さんいたの?」
 恵が秀也に気づいて立ち止まった。
「ああ、会社の東京の人なんだけど、同期なんだ。笹木秀也さん」
「こんばんは」
 秀也がにっこりと笑いかける。
「あ、どうも。俺、いやあの、私、滝本 恵といいます」
 ぺこりと頭を下げる恵の頬が赤くなったのは気のせいじゃないな……。
 優司は気づかれないようにため息をついた。
 ったく、営業用スマイルをその顔で振りまくんじゃないっ!
「ってことは、弟か?」
「そう。今社会人二年生だよ」
 優司が説明していると、恵が顔を上げた。
「ごめん。俺やっぱ帰るから……。友達来てるって知らなかったから、さ」
 そう言って、Uターンしようとする恵を優司は慌てて引き留めた。
「ちょっと待てよ。その顔でこんな夜中に家に来られたら、いくら鈍感な私でも何かあったなって分かるぞ」
 うー。
優司は、自分で言った台詞にちょっと自己嫌悪に陥ってしまった。
秀也が笑いを噛み殺しているような顔をしていた。
「俺、そんな変な顔?」
 赤い目、つらそうな表情が普通である筈がないだろっ!
「いつも元気なお前が、落ち込んだときに見せる表情だよ、それは!」
「あれ……俺ってやっぱ落ち込んでる?」
「……気づいていないのか?」
 当の本人があっけに取られているのを見て、優司は脱落した。
「なあ、恵くん。こっちにきて座りなよ。立ち話するような話題じゃないだろ」
 秀也が手招きする。
「そうだな、恵、向こうに行って座ってろ。もうビールはいらないだろうから、水でも持っていくよ」
 恵はしばらく躊躇しているようだったが、結局 秀也の隣に座り込んだ。
 優司はミネラルウォーターをコップに注ぎ、恵の前に置いた。
「ありがとう」
 コップを口に運びごくごくと飲み干す恵を見ながら、優司はため息をついた。
 滅多にこないこいつが、よりによってあんなタイミングで来るとは……。
 恵が何に落ち込んでいるかよりも、そっちのほうがショックだったとは口が裂けても言えないよなあ。
「で、恵くんは、さっき接待っていってたけど、営業の人間なの?」
「え、はい。そうです」
 気さくに話しかける秀也に、恵は僅かに笑みを浮かべた。
「恵はうちの会社にも入っている、川崎理化学っていう会社の営業マンでうちの担当でもあるんだ」
 優司が補足説明をする。
 つうても、私自身取引することはあんまないから、こいつの仕事ぶりってよく分からないんだけど……。
「へえ。じゃ、接待って、うちの会社の人間かい?」
 その言葉に恵の顔が引きつった。
「恵?」
 優司が不審そうに問いかけると、恵ははっとしたように笑顔で頷いた。
 だが、その笑顔は無理矢理つくったとしか思えないほどひきつっている。
「何か、困ったことでもあったのかい?どうもその接待が原因で君の感情が混乱しているようにしか見えないんだが……」
 秀也が優しく恵に話しかける。それはあまりにも優しくて……思わず優司が嫉妬を覚えたほどだった。
「心の中に溜め込みたいのかも知れないけど、こんな夜中にお兄さんを訪ねてきたってことは、話を聞いて欲しかったって言うことだろ……。まあ、ここにおまけがいたけど、話をするだけでも楽になるから……ね」
 その言葉に、恵の目から涙が落ちた。
 その感触に驚いたのか、恵は慌てて目を擦る。
「俺……変なんだ」
 ぽつりと言った。
「変て?」
 優司が問いかける。そんな優司に秀也が自分の口に人差し指を当てるジェスチャーを示した。
 何も言うなってことか……。
 仕方なく優司は頷いた。
 こういう相談ごとは優司より秀也の方がプロみたいなものなんだから。
「何が変なの?」
 秀也が恵に続きを言うようやんわりと催促する。
「今日の接待の相手の人……その人を接待することって何かとってもうれしくて、絶対失敗しないぞって思ってたんだけど……俺、浮かれて飲み過ぎぢゃって……」
 言いよどむ恵に秀也は黙って頷いた。それを見た恵が覚悟を決めたように話し始める。
「そして、何かもう接待っていうよりは友達との飲みっていう雰囲気になっちゃって……俺、結局その人の家までいっちゃった。でも、それはそれで嬉しかったんだけど……。そこで……」
 そこまで話したとき、恵が口を閉ざしてしまった。
 膝の間に顔を埋める恵の姿に、優司はショックを受けた。
 いつだってこいつは元気で明るくて、兄弟の中のムードメーカーだった。
 彼女に振られたときだってもっとあっけらかんとしていた。
 そんなこいつが、ここまでショックを受けてるなんて、一体……。
「ね。話してしまおう。ここには、君のにいさんと俺しかいない。言いたい事を言ってしまうとね、結構対処方法って見つかるもんだよ。自分で自分の気持ちに整理がつくしね。だから、言いにくいかも知れないけど、言ってごらん……」
 うー、秀也って私に対するよりめっちゃくちゃ優しくないか……。
 俺の時はからかうようにつついてしゃべらすくせに!
 と、優司が一人憤慨していると。
「その人、俺のこと抱きたいって」
 聞いた二人が思わず引いてしまうようなことを恵が言った。
 ちょっと待てー。
 接待相手はうちの会社の人間で……恵に接待を受けそうな人間てうちの開発部の人間で、しかもみんな男じゃないかぁ!
 ひきつった顔で恵を見、秀也に視線を移す。
 秀也も苦笑いを浮かべながら、恵を見つめていた。 
恵はというと、言ったら楽になったのか、一気に話し始めた。
「だけど、取引の話題の途中でそんな話して、その人が本気なのか冗談なのかわかんなくって!俺、拒絶して……でも、何か言われたこともショックだったけど、こんな……接待がこんな終わり方したっていう方がショックなのが分かってて……もうどうしたらいいか分からなくて……、こんな形であの人ともう今までみたいに逢えないっていうのもショックで……俺って一体何がどうなっているんだろ……」
 え、えーと……。
 つまり、接待で取引の話をしている最中に「抱きたい」という話がてで、拒絶して帰ってきたんだけど、実は心残りが一杯でどうしようってな所か……。
「つまりまだ恵くんが自分がどういう気持ちでその人といたいかって所が把握出来ていないんだね」
 恵が頷く。
「その人って男なんだけど、俺から見て格好良くて、仕事の話しててもいっつも凄いなって……こんな人みたいになりたいなって思ってた。憧れてた人だった」
 憧れ……うちの開発部にそんな人間いただろうか……。
「ほんとは、一瞬だったけど、抱かれてもいいって思った……」
 まてまてぇ!
 優司は息が止まりそうだった。
「ねえ、恵くん。君が今本当に知りたいことが何か分かっているかい?」
 秀也の問いに恵は首を傾げる。
 しばらく考えていたが、ふっと口から言葉が漏れた。
「本気なのか、仕事の絡みなのか、冗談なのか……」
「そうだね。今一番君が知りたいのはそこだと思うよ。それがはっきりしないと君も態度が明確にならないでしょう?」
「それはそうだけど……」
 口ごもる恵に秀也は微笑みながら優しく言った。
「取引相手だったらこれから先何回でも会わなくてはならない。俺も営業だから分かるけど、そんな訳の分からない想いを持ったまま、いつまでも会うのはつらいことだよ。だから、今度逢えたときに、必ず確かめてごらん。それで、脈がありそうだったら、次の疑問——つまり君の心を確かめてみればいい——そうだな、もう一度接待してみてもいいし、プライベートにでも会ってみるといい。そうすれば、自分の本当の心が何なのかもはっきりする。もちろん、さっき言った相手の心が本気なのかどうかが一番の問題だけどね」
何か、秀也が言うと簡単そうに見えるけど……実際やれって言ったってすっごい難しいと思うが……っていうより、相手、男だって……いや、私も相手が男だし……うちの部にそんなやついたかあ…………。
優司が考え込んでいる間に、恵はふんぎりがついたような表情で、笑みすら浮かべながら秀也に言っていた。
「そうかあ……そうだよね。俺、もう一度ちゃんと確かめてみる。今はまだ、ちょっと会う決心は付かないけど、どうせ会わないといけないから、その時までには何とか方法を考えてみる」
 その晴れ晴れとした表情を向けられて、秀也はにっこりと笑った。
「君はおにいさんと違って、決断が早いね」
「おい、何だって?」
 優司がぴくんと反応した。
「あれ、聞いてたのか。随分と考え込んでいたようだけど?」
 空々しい秀也に優司はため息をついた。
 考え込んで当たり前じゃないか?
 こんなにきっぱり決断づけられる恵の方が早すぎるって思わないのか?
 訴えるように秀也を見つめる優司に、秀也はにこっと笑い返す。
「これは恵くんのことだから、恵くんが決めることだよ。俺が今まで言ったことは助言にしか過ぎないってのをよく覚えていてね。結局、最終判断をするのは恵くんなんだからね。俺でも、君のにいさんでもないんだから……」
 秀也の目は、恵ではなく優司を向いていた。
 暗に、邪魔をするなって言っているのが分かる。
 言ってることは分かる、分かるけど……。
「凄いなあ、秀也さんて……」
 恵が感激している。
 まあ、そりゃそうだけど……。
「そう?」
「だって、あれだけ悩んで、自分で自分が何考えてるのか分からなくなっていたのに、なのに、秀也さんが言ってくれた言葉で、それだけで何かすっきりした」
 ああ、もう、恵は私なんか見ていない。
 その視線の先は秀也だ。尊敬のまなざし。
 あ、何かむかつく。
 このまま私だけ蚊帳の外か?
 私は恵の兄だぞ、一応。
 弟をこれだけ困らしている相手に一矢報いたいと思うのは、してはいけないことか?
 確かに、これは恵の問題だが、それでも私だって言いたいことはあるぞ!
「恵、一つだけ教えてくれ」
「ん、何?」
 すっかり振り切れたのか、晴れやかな顔。いつもの恵だ。
「相手、誰だ……?」
「!」
 一瞬のうちに恵の顔がひきつった。
「うちの会社でお前と取引してるって言ったよな。今日の接待の相手は、だ、れ、だ?」
 何も言わずひきつったまま笑みを浮かべる恵に助け船を出したのは秀也だった。
「優司、今ここで聞かなくても、いずれ分かるから……。恵くんだって、にいさんには言いづらいことがあるだろう。今の問いがまさにそれだと思うが……」
 た、確かにそうかも知れないが……だけど……。
「では、優司?お前は逆の立場だったとして、今恋人がいるか?それは誰だ?と聞かれて、弟に答えられるのか?」
 そう言われて、優司は絶句するしかなかった。
 いくらなんでもその問いの答えを自分から弟に言うことはできないだろう。
「だから、諦めな。まあ、会社に行ったらすぐ分かることだけど……ただ、もしそれで相手が分かったからって余計な事はするなよ。もし、当の相手が何か伝言を伝えるように言ってきたら、自分で伝えてきっちり話をしろって言えよ」
「ごめん、にいさん」
 ……
「分かった。分かったよ」
 優司は大きなため息をついた。
 恵がこれからどうなるかは恵が決めることだ。
 そして、私よりはるかに恵の方がしっかりしているのは自覚しているので、何かしらの結果をこいつはきちんと出すだろう。それが例え最悪の結末であっても。
 そして、それに私が口を挟むことはできない。
 私にできることは……。
「ただ、何かあったらいつでも私の所に来てくれないか?そりゃあまあたよりない兄ではあるが」
 うー、言ってて情けなくなる。
「それでも兄弟なんだから……」
「何か珍しく素直じゃないの、にいさん。でも、ま、ありがと」
 軽く言われてさらに落ち込む優司。
 秀也が笑いをこらえているのを横目でにらむ。
 そんな二人を見比べながら恵は、意味ありげな笑みを浮かべた。それに優司は気づかなかった。
 恵を車で自宅に送っていき、帰ってきたときにはもう2時を回っていた。
「すまないけど、寝ていいか……」
 優司が呟くように言った。
 まだ体が完全に回復していないのか、猛烈に眠かった。
 服のままベッドに倒れ込む。
「ああ、しようがないからな。ゆっくり休めよ」
 秀也が優司の頭をなでる。それが心地よかった。
「なあ……私は、情けないよな」
 俯せのままの優司がぼそっと漏らした言葉に、秀也の手が止まった。
「弟に相談を受けて、私は何も言うことができなかった……。もし、私一人の時に恵がきていたら、きっと無理矢理にでも相手を聞き出して、例え相思相愛だとしても絶対に許せなかったと思う……」
 力のない優司の声。それに秀也は優しく答える。
「それは、彼が優司の弟だから……そういう対処をするのは当然だよ。……彼も、ここには来たけれど、そんな突っ込んだ話をするつもりはなかったと思うよ。彼は、そうだな、意志が強そうだ。俺が話したことはたぶん俺に相談しなくても、きっと自分で道を見つけだしたと思うし……」
「そうだな。あいつなら、そうかもしれない……」
 4人兄弟の末っ子として育った恵は、どちらかというと放任されて育った。普通末っ子って甘やかされるよなあ、と恵が言っていたのを思い出す。どちらかという優司の方が甘やかされて育ったのだ。
 だから、恵は昔から自立心が十分で、親兄弟にすらあまりたよらなかった。
 そんな恵がうちに来たのだから、最初は本当にびっくりした。
「彼は、一目見ても、優司より喜怒哀楽がはっきりしている。それなのに営業が出来るというのは、ビジネス中はそれを押さえるだけの強い意志を持っているということだ。その辺りの使い分けっていうか、駆け引きは、きっと相手を翻弄する位じゃないのか?」
「そう、だな。情けないけど、そう言うところが絡むと私は恵に勝てたことがなかったよ」
 恵は、強い。
 きっと、どんなことがあってもクリアするだろう。
 昨夜の出来事だって、吸収して乗り越えるだろう。この私の所に来てしまうほどのショックを受けたとしても……。
「秀也……」
「何?」
「私は、恵が……うらやましい……」
 かすかな言葉を最後に、優司は睡魔に身をゆだねた。
 あれが優司の弟か……。
 秀也は和室に布団を敷き、転がった。
 確かに、顔つきは似ている。もっと優司を可愛くした感じだ。だが、さっき優司にも言ったが、強い意志を感じる子だ。
はっきりとした性格は、ある意味優司よりも扱いやすい。
 だが、それに油断すると痛い目に遭う。それほど、駆け引きのようなことに長けている、と感じた。
秀也は僅かな時間にそれだけの分析を下した。
そういう所は、兄弟でもまったく似なかったんだな……。
お前、気が付いていないだろうけど、あいつは俺達の仲に気が付いてるよ。
そして、きっとこう思ったんだ。
『もし俺達の仲が上手くいったとして、それににいさんが男同士だからって反対しても、そんなこと言う資格はないよ』ってね。
 それだけ、強い。
 悩みながらでも、それだけのことを判断する力は大したもんだ。うちの営業に欲しいなあ……ああいう子は。
 敵に回すと恐ろしい。
 だから、おとなしく見守ってやるのが一番だよ。
 ああいうタイプは自分で納得しないと、駄目なんだから……。
しかし。
秀也は苦笑した。
優司は恵がうらやましいと言ったが、俺には優司がああいうタイプじゃなくて良かったと、心底思ってるんだがな。
やっぱり優司は、情けないと思ってても、今のままで十分だよ。弱っているとき位しか素直じゃないけど、それでも俺は今の優司が一番好きだから。
にしても……。
今日も出来なかったんだよなあ……。
秀也は大きなため息をついた。

 

「すまん、会社に行かなきゃいけない」
 朝食を食べて、ゆったりとしていた秀也に、優司はそう言った。
「へ?そういや、さっきメールチェックしていたな。何かあったのか?」
「ああ、来週頭までに客先に提出する実験データがトラブって取れてないらしいんだ。ちょっと見てくる」
 ほっといてどうにかなるものなら放っておきたい……だが、そうもいかないからなあ。
「俺がお前と違う会社なら、放っておけって言う所だが、そうして貰うと困るのは俺達自身だもんな。しようがない、俺はその辺で暇つぶししてるよ」
「本当にごめん。終わり次第帰ってくるから」
「ああ、気をつけていっといで」
 やっぱ、木・金と休んだのが響いてきたか……。
 どちらともなくそう思った。
その日優司が帰ってきたのは、夜の10時を過ぎていた。
 秀也が作っていた食事をとると、そのままベッドに入り込んで寝てしまった。
 途中何度か携帯に電話があったから、トラブリ方が酷いのは察していた。
 しかし、こいつはいっつもこんな調子なんだろうな……。
 ベッドの脇で、優司を見下ろしながらに秀也はため息をついた。
 っくしょう、今日も出来ないのか?
 俺は明日には東京に戻るんだぞ。
 こうなったら、明日の朝起きたところでも無理矢理犯ってやろうか。
 でないと、次いつこれるかまだ分からないのに、それまでお預けというのはないだろうが……。
 秀也は一人寂しく和室の布団に寝っ転がった。

 

 ん……。
 息苦しいよーな……何で?
 ぼーとした頭でふとそう思った。
 何か、重いし……それに口になんか柔らかいモノが……って、何だ!
 優司ははっと目を見開いた。
 至近距離に秀也の顔がある。というより、秀也の口が優司の口を塞いでいた。
「んん!」
 両手を秀也の肩にあて、突っ張ろうとするが、起き抜けの気怠い体では今ひとつ力が入らない。
「何だ、やっと起きたのか?」
 やっと口を話した秀也を優司は睨み付けた。
 こいつってば、何朝から欲情してるんだよ。
「重い!」
 よく見ると、優司の上に秀也の体が完全に覆い被さり、お互いの足が絡まっている。
「もう10時もくるっていうのに、あんまり起きないんで、ちょっといたずらしてやろう思ったんだけど……」そう言って秀也はにっこりと笑った。「何か、止まらなくなってさあ」
「馬鹿やろー!さっさと降りろっ!」
「えー、俺止められない……」
 甘えたように囁くついでに、優司の首筋に舌を這わせる。ぞくりとする感触に優司はたまらず秀也の肩に当てた手を固く握りしめた。
「優司だって感じてんだろ。ずっとお預けだったもんなあ……」
 その言葉に優司はかっと全身が熱くなる。
「もう……止めろって……いい加減にしろ…………く……」
秀也が優司の感じるところを舌と手で次々に攻める。絶え間ない刺激で、優司の手がぱさりとベッドに落ちた。
「うう……ああ……」
 確かに秀也の言うとおりだった。
 前に会ったときからだから2週間以上間が空いていた。なのに、この休みずっとできなかったんだから……。
 本当は、もうずっと秀也を欲していたのだから……。
 と。
 ピンポーン

 思わず二人で顔を見合わせた。
「誰だろ?」
 優司が言うが、秀也はむすっとして何も言わなかった。渋々と体をのける。
 優司は小さくため息をついて、玄関口に出た。
「はい?」
「あ、滝本くん。私、千間なんだけど……」
 え、ええー。
「ちょっ、ちょっと待ってて。さっき起きたばっかでまだ着替えていないんだ!」
「あ、はーい」
 慌てて着替えを引っ張り出す優司に、秀也は視線を寄こし、ため息をついた。
 何とか服を整え、髪を手櫛で整えながら、玄関を開ける。
「ごめんね。起こしちゃった?」
 玄関先で申し訳なさそうにする千間に優司は首を振った。
「でね。さっき朝一で九州から帰ってきたんで、これ、おみやげ」
 そう言って包みを渡された。
「あ、ありがとう」
「笹木くんもいるんでしょう?二人で分けてね。今日帰るはずだって聞いてたから、早めに渡そうと思って……」
「あ、うん、わかった」
「それじゃ」
「あ、ほんとにありがとう」
 隣の部屋に戻る千間を見送ってから、部屋に戻った。
 生ものらしいので、冷蔵庫に入れてから秀也の所に戻る。
 秀也は不機嫌そうにベッドの上に座り込んでいた。
「朝っぱらから欲情してるからだ」
 優司が冷たく言い放つと、秀也はきつい視線を寄こした。
「んだよ。お前はこのまま俺が帰ってもいいっていうのかよ」
 いつにも増して不機嫌な口調に、優司も狼狽える。
「そんな事はない……」
「俺、今日の3時の便で帰るんだぞ!今しなかったら、今度いつできるかわからないじゃないか!」
「で、でも」
「ふーん。嫌なのか?」
「そ、そんなことは……」
 な、なんか秀也が怖い。
「嫌じゃないんだったらやろうぜ?何か気になることでもあるのか?」
 すっと立ち上がった秀也が近づいてくる。優司はじりっと後ずさった。
「こんな時間にしてたら、また客がきたらどうするんだよ!もう、私だって邪魔されるのは嫌だから……」
 狭い部屋であるから、あっという間に壁に背中が当たった。
「あ、あの……今度私が東京行くから、さ。その時ということで……」
「駄目。俺、このままじゃあ帰れない……それに優司だってしたいだろ」
「そ、それは……」
 本当にしたかった。
 だけど、これはもうムードもへったくれもないではないか!
「ああ、もうほんとにうるさいな」
 秀也が優司の顎を掴むと唇を会わせた。
「ん……んん」
 つい先ほどまでの快感が体のうずきを呼び起こす。
 心拍が早くなり、体が秀也を求める。
 だけど……。
 やっぱこんな時間にやるもんじゃないだろー。
「し、秀也……。私は、やっぱり……」
「いい加減にしろっ!」 
 秀也はいきなり優司の体を横のベッドに引っ張り倒した。
 バウンドする優司の体を即座に押さえつける。
「しゅ、しゅうやっ!」
「俺はしたいんだ。優司には悪いけど、これは止められない。もしどうしても優司がしたくないって言っても、たぶん俺には止めれない。例え無理矢理体を開くような、乱暴なことになっても……だけど、そんなことはしたくない。だから……やらせてくれ」
 最後には懇願するように言われて、優司は体から力を抜いた。
 したいのは、優司もだった。
 ただ、ここんとこ立て続けに邪魔されたチャイムが気になるだけで……。
「も、途中で止めるようなことってないよな……」
「ないっ!」
 きっぱり言い切る秀也。
「って、その根拠は?」
「ない」
 おいおい。
「でも、今度は多少チャイムがなろうと無視するぞ。いいな」
「……わかった」
 小さくため息をつくと、優司は秀也の首に手を回した。
 それに答えて秀也は優司の首筋に口づけた。
「ん」
 それだけで漏れる喘ぎ。体は、すでに熱くたぎっていた。
 そのまま秀也は優司の胸元に舌を這わせ、乳首を歯で噛み、舌で吸う。手が腰から後ろに回された。
「……んくっ、ああ……」
 秀也は貪るように優司を攻めた。それはあまりにも激しくて、優司は喘ぎ続けた。
「あああっ……いやあ…………も、もう、やめ……」
 あまりの激しい愛撫に、優司が懇願の声を上げる。
 開かれた口から涎が流れ落ち、目から涙が溢れる。
「止められない……。さんざん焦らされたから。だから……すまない……」
 秀也が苦しげに呟いた。その間も秀也の指が優司の体の中で蠢く。
 感じるところをつつかれて、優司は秀也の体を思いっきり掴んだ。
 あああっ!
「う、ああああっ!」
  優司が一気に上り詰めた。
 ほとばしるモノを手で受け止めた秀也は、それを優司の後ろに塗り込める。
「優司……まだだ……」
 さらに与えられる刺激に体を震わせながら、肩で息をする優司。その潤んだ瞳が秀也を見つめた。
 僅かに笑みを浮かべる。
 それに煽られるように秀也は優司の腰を持ち上げた。
「ん」
 秘所をさらされ、優司は、さすがに恥ずかしさがこみ上げ、固く目を閉じた。
 即座に秀也のモノが侵入する感触に、優司は息を呑んだ。
 開かれる痛みが体を貫く。それを歯を食いしばって耐えた。
「優司、きつい……。力を抜いて……」
 秀也の声が聞こえ、優司はふっと息を吐いた。
 その途端、ぐいっと奥まで差し込まれた。
「ああっ!」
 体の奥深くを貫かれ、優司は閉じていた目を見開いた。視点の合わない瞳が宙をさまよう。
 秀也が体を動かすと、そのたびに優司の体が反応する。
 秀也は手を優司のモノに添えた。体の動きに会わせて上下に擦る。
「んあっ!」
 大きく優司の体が揺れた。
 意識が飛びかけて、快楽のみが翻弄している優司の様子に、秀也はさらに欲望をたかぶらせた。
 動きが激しくなる。
「ああ……もう……はああっ……やめて……」
 息も絶え絶えに訴える優司に、秀也は喘ぐように声を出す。
「ああ……いい……優司の中、熱くて……気持ち……いいっ!」
「んあああ……わ、たし……もう……」
「ああ……俺も……おれも……」
 一瞬後。
 二人は同時にイッた。
 体をベッドに投げだし、息も絶え絶えの二人がいた。
「し、しゅうやあ……」
「んあ」
「時間が……」
「うがあ……」
 優司に促されて秀也は体を動かそうとするが、急激な運動にさらされた体はあまりにもだるくて動こうとしない。
「俺、体だりー……」
「私の方がもっと動かない……秀也があんなに激しくするから……」
「うるせ、お前だってよがってたろうが……」
 二人は力無くため息をついた。
「まあ、時間もなかったし……邪魔が入ってもって思ってさ……」
「で、どうする……私は、車の運転などできる状態ではない……」
「あ、ああ……いいよ、もう最悪キャンセルして、最終便でも帰ろうかなあ……」
 突っ伏したままの秀也に優司は呆れたように言った。
「3時の便で帰るのは、夜に雅人さん達と会う予定があるからじゃなかったのか?それをすっぽかすのか?」
「……忘れてた」
 この前の旅行のお金を秀也が出したから、そのお礼で一緒に食事をする約束だった。
 休みが会わないので、他の日にするわけも行かない。
 それにしても、一体どうすれば……いくらなんでも後1時間もしない内に出ないと間に合わない。
「秀也は、とりあえず動けるか?その、飛行機に乗る位は……」
 言われて、秀也はのそのそと体を動かした。
「まあ……なんとか。お前程じゃないからな……」
 うう。
 体が……秀也を空港に送っていくはずだったのに。
 ったく、秀也がはりきるから……まあ、分からないわけではないけど……。
 にしても、これは……困った。
 ずっとできなかったからって、こんなに激しくすることはないのに、秀也ってば帰ること忘れてたんじゃないのか……。
 うー、身を捩るたびに体がぎしぎし鳴るようだ。
 これもあれも、とにかく邪魔があったから……。
 一日目は私が風邪ひいて。
 二日目には圭がきて。
 三日目には仕事が入って。
 四日目朝には、千間さんが来て……。
とにかく、秀也を空港に連れて行かないと……いっそ、誰かにたのもうか……。
っても、誰がいる?
優司はいろいろと思い浮かべる。
隣の千間さんは……でも帰ってきたばっかで疲れているだろうし……あ、そうだ。
「秀也、電話取ってくれ」
「あ、ああ」
 秀也がのそのそと和室に壁づたいに歩き、優司の携帯を取ってきた。
「どこかに電話するのか?」
 それには答えず優司は携帯のメモリから一つの番号を選択した。
 数回の呼び出し音の後、つい先日聞いたばかりの声が聞こえた。
『もしもし、兄さん?』
「ああ、恵。今いいか?」
 優司の言葉に電話の相手に気づいた秀也は眉を寄せる。
『いいよ。どしたの?』
 いつもの明るい恵に優司はほっとした。
「そのさ、ちょっと頼みがあるんだ?」
『へえ、珍しいなあ。俺なんかに頼み事?』
 うー。相変わらず反応がきついなあ。
「そのさ、うちに泊まっていた秀也が、今日3時便で帰るんだけど……ちょっと空港まで送って欲しいんだ」
『あ、あの秀也さん?でもどうしたのさ。兄さんが送るんじゃないのか?』
 う、えっとーー。
「……そのつもりだったんだけど、今ひとつ体調が悪くて、あんまり出かけたくない状態でさ。だから……」
『そう。いいよ。どうせ俺暇だし』
 機嫌の良さそうな恵の声に優司はほっとした。
「じゃあさ、30分後に来てくれるか?それまでに用意させとくから」
『OK!秀也さんには世話になったから、喜んでって言っといてね。んじゃ、俺も用意するから』
「ああ、頼むな。ありがとう」
 優司は電話を切ると秀也に視線を寄こした。
 優司の言葉で電話の内容がだいたい見当がついたのだろう。秀也は、のそのそとシャワーを浴びに行った。
 私も服を着ないと……。
 痛みとだるさに耐えながら服を見に付けていった。

 30分後、ワイシャツにネクタイを締め、スーツを着込んだ秀也を優司はまぶしげに見つめた。
 やっぱ、かっこいいよなあ……。
 見つめる視線に気づいたのか、秀也が笑みを返した。
「ごめんね。送っていけなくて……」
「しょうがないさ。無茶させたのは俺だからな。にしても、ほんとに弱っているお前は素直だなあ……」
 呆れたように言われて、優司は頬を赤らめた。
 うー、意地悪な奴。
「秀也こそ、今朝の機嫌の悪さはどこ行ったんだっていう位すっきりとした顔してる」
「そりゃ、優司とできたんだもんね」
 あっさり言われて絶句した。
 その時、チャイムが鳴った。
「ああ、来た」
 優司は、恵に悟られないように気力を振り絞って大丈夫な風を装って、玄関のドアを開けた。
「やあ、兄さん。秀也さんの用意、出来てる?」
「ああ」
 後ろを振り向き秀也に視線を向ける。
 恵もそちらに視線を向け……固まった。
「やあ、恵くん。今日はすまないね」
「すご……スーツ姿似合うんですね……」
 素直に感嘆の声を上げられて、秀也は面食らった。
 優司は思わず眉間にしわを寄せる。
「恵くんは素直だねえ」
 ぽつりと漏らしたその言葉に、優司はムッとした。
 私は素直じゃないと言うのか……。
「ええ、そうですかあ。でもほんと、かっこいいですよお」
「ありがとう。でも、恵くんの想い人と比べるとどっちがかっこいいかい?」
 意地悪な質問をする秀也に恵はやはり素直に答えた。
「そりゃあ、彼に決まってるでしょ。秀也さんは、何か、軽そうに見える」
 言われて秀也はひきつった表情を浮かべた。
 か、かれーーー。
 優司は呆然と恵を見、そして秀也を見た。
 秀也はかっこいいぞ、なんせホストNO.1だぞ。まあ、確かに軽そうだけど……。
 でも、でも秀也はかっこいい!
 だいたい、秀也に勝てるやつってうちの会社にはいないぞ!
 恵の想い人って、一体誰だあ!
「はいはい。落ち着いて……」
 秀也が何気なく優司の腰を叩いた。
「っ!」
 その拍子に痛みが走り、思わず壁に手を付く。そんな優司に恵が不審そうに視線を向けた。
 秀也は、しまったというように顔をしかめ、優司を隠すように優司の前に立った。
「恵くん。ちょっとこの荷物持って先に積んでいてくれないかな。すぐ行くから」
「あ、はい。兄さん、えらそうだけど、大丈夫なの?」
 心配そうな恵に、優司はかろうじて笑顔で返す。
「ああ、大丈夫だよ。じゃ、秀也を頼むな」
「……ん、分かった。じゃあ、先降りてますね」
 恵は秀也から預かった荷物を持って先に出ていった。
 拍子に玄関が閉まる。
「す、すまん。大丈夫か?」
 気が抜けた優司がへなへなと座り込む。
「ああ。もうちょっと休めば大丈夫だよ」
 何とか笑顔を作ろうとするが、痛みにひきつってしまう。
「それじゃ、帰るから……」
「ん、じゃあ、気をつけて」
 な、んか、寂しいな……。
 秀也が3泊もしてくれるのは滅多にないのに……なのに、ほんの少ししか一緒にいられなかったような気がする。
 これで秀也が帰ったら、また今度いつ逢えるか……。
「おい、そんな泣きそうな顔で見るなよ、帰れなくなるじゃないか……」
 秀也が困ったように優司を見つめていた。
「あ……ごめん」
 優司は俯いた。
 そんな優司に秀也はふっと笑みを浮かべ、優司の顎に指をかけた。
 そのままくいっと持ち上げる。
「また、逢えるんだから、そんな顔するなよな」
 優しく微笑むと、優司の口に軽く口づけた。
 バタン
 いきなりドアが開いて、秀也は仰け反った。
「何してんですかあっ!……て、今何してました……?」
 呆然と恵が突っ立っていた。
 み、見られた?
 優司はあまりのことに真っ赤になり俯いた。
「い、いやーー。優司が随分と調子悪そうでさ、顔色伺ってたんだよー!」
 ははは、と笑いながら弁解する秀也と、俯いている優司を見比べていた恵は、軽くため息をついた。
「にいさん、大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫だから。秀也もはやく行かないと乗り遅れる」
「ん、ああ。じゃあな、優司」
「じゃあ」
 手を振り、玄関から出ていく秀也。
 閉じられたドアを名残惜しげに見つめる。しかし、すぐに気力が萎えてしまい優司は、座り込んだ。
 涙が頬を流れ落ちる。
もの凄く寂しくて、ただただ声もなく泣き続けた。

 携帯が鳴った。
 はっと顔を上げる。
 数度の呼び出しで切れた携帯を取りに行く。
 メールか……。
 壁を伝いベッドサイドの携帯を手にした優司はメールを開いた。
「秀也!」
 優司の顔がはっと明るくなった。
『今度逢ったら、たっぷり喘がしてやるからな』
 げー。
 こんなものメールで送るなっ!
 怒るのを通り越して、呆れていると、再度着信音が鳴り響いた。
『愛してる』 
 その一言のメール。
 優司は迷わず返信した。
「私も愛してる」
 全ての想いを込めて。

【了】