「そろそろだね」 たった二人のチーム。 先輩である服部誠が、くすくすと笑みを浮かべて声をかけてきた。 隅埜啓輔は、その言葉にちらりとパソコンの右下に表示されている時計を見る。 『15:02』 休憩時間だ。 無意識の内に漏れたため息に、唇を噛み締める。 どこか楽しげな服部の姿。 それを恨めしげに見つめながら問いかけた。 「そんなに笑われる程……面白れーこと?」 このチームに馴染んでしまったら、服部が言葉遣いにあまり煩く言わないこともあって、友達のように話をするようになった。 こんな職場であったことはひどく幸運なのだろう。 会社も仕事場も、そして人間関係も……ここに入って本当にラッキーだった。 この目の前の可愛い先輩も……上から覗き込んでいるこ憎たらしいこいつも含めて……。 「面白いよな」 服部に声をかけたのに、降ってきた言葉はパーテション越しからだった。服部と啓輔は揃ってそちらを見上げた。 服部側にある胸までの高さのパーテションの上から、顔を覗かせていたのは開発部の梅木。 「俺にとっては、梅木さんの行動も面白いと思うんだけどなあ」 すっかり、この場に馴染んでいる部外者をじろり見る。 暇さえあればここに入り浸る梅木は、一体いつ仕事をしているのだろうかと思える。なのに、これでも上司の覚えはめでたいというのだから驚きだ。 「俺は、これが普通だからねえ。でもあの人の場合は……」 意味ありげにほくそ笑む梅木の、言いたいことが判ってしまう啓輔は彼らから視線を逸らした。 んなこと言ったって……。 やっぱり漏れるため息に、啓輔は再度時刻表示を見た。 そろそろかな。 「でも、結構噂になっているよ。噂に疎い僕にすら伝わってくるぐらいだから」 ぎくり 引きつった顔でディスプレイの向こうにいる服部を見る。 「やっぱ、服部さんまで伝わってんだ?」 「うん。というか、聞きに来た人がいる。女の子なんだけど、家城さんって隅埜君が好きなのかって聞かれて……困っちゃった」 苦笑いを浮かべる服部の言葉に、啓輔はひくりと顔を強張らせた。 啓輔自身もその噂を聞いたことがある。 家城が啓輔にご執心だというような内容。 確かに間違いではないのだが……啓輔としてはそれがばれるのはさすがにマズイと思っている。会社では大人しくしようと決意しているのだから。 なのに……。 単なる好奇心の噂ならまだいい。だが、時折突き刺さるような視線を感じることもある。 悪意に満ちた視線は、家城にご執心の誰か、だろうか? 家城は、啓輔以外には知的で落ち着いていて、しかも顔もいいし背もある。 見た目だけでは、もてない理由を思いつく方が難しい。 唯一の欠点は、その感情を面に出さないというところだろう。それがひどく冷たく感じさせる。そのせいで、女性達には近寄りがたい存在と写るようだ。 だが……。 それでも彼がいいという人はいるようで……。 はああ 啓輔は漏れるため息を止めることができなかった。 啓輔とて、今までの経験上女性にもてる方だとは思っている。ナンパしてそう嫌われたこともない。 なのに最近とみに露骨な嫌悪の視線を浴びることがある。 それもこれも。 うんざりとあの家城の顔を思い浮かべる。 あいつがもてるせいで、しかもあいつの遠慮のない行動のせいで何で俺が悩まなきゃいけないんだ。 時刻が15:05になった。 途端に測ったように、ドアが開く。 「ジャスト」 梅木がにやにやと嗤いながらそちらを見る。 「何がです」 入ってきた家城純哉が冷たい言葉を返した。 「相変わらず時刻通りに来るってことさ。よくもまあ、そうやって休憩時間の度に通えるなあ。しかも来れないときはきちんと電話しているだろう?」 「当然でしょう」 それを真面目な顔で言うものだから、誰もつっこめない。 本気でそう思っているんだろうか? 「だいたい、そういう梅木さんも、四六時中ここに入り浸っているようですね。先ほども、医材(医療材料チーム)の方が、品質部でぼやいていましたよ。プレゼン用の資料作成を押しつけられたとかで」 「……押しつけたわけではないんだが……」 家城の言葉にまずいとばかり顔を引きつらせた梅木が、ちらりと服部に視線を移した。 服部も梅木に視線を向けている。 「仕事しないと、ここには出入り禁止にしますって言っていますよね、梅木さん」 にっこり微笑む服部のこの笑顔は爆発寸前の証でもあると、梅木も啓輔もよおく知っている。 「……だから押しつけたわけではなくて……あいつが手伝うなんて言うから、じゃ、やればって……言っただけで」 しどろもどろの言い訳が服部に通じるわけがなかった。 「前に、僕も経験したんですよね」 にっこり微笑む度合いがますます激しくなる。 あはは、逃げよ。 啓輔は、ひそかに休憩に行く用意を始めた。 「梅木さんって、学会発表の資料をほんとに大変そうなふりをして作るでしょう?それで、つい見ている人が、手伝いますって言ってしまうんですよね。そしたら、その資料の大半の作成を手伝うって言ったんだからって、押しつけちゃうんですよね。自分の発表資料なのに……」 「嫌だなあ……最近は、そんな事していないって。ただ、あいつが発表なんて凄いなあ、自分もやってみたいって言うからさ、じゃやってみればって……言っただけだって」 がたりと啓輔が席を立つのと、服部の手元でかたりと音がしたのが同時だった。 持っていたペンが机の上に置かれたのだ。 「休憩、いってきま〜す」 「はい、どうぞ」 その顔から笑顔が消えていた。声だけかけられた啓輔は、家城の手を引くようにドアへと向かう。 「梅木さ〜ん!僕にばっかかまけていないで仕事してください!」 「だってさ」 「だってもくそもないでしょ!僕ももう子供じゃないんです。梅木さんに四六時中見張って貰わなくても大丈夫です。だから!」 啓輔は、がちゃりとドアを開いて部屋を出ていく。 ドアを締める寸前、服部の悲痛な叫び声が聞こえた。 「仕事、してください。梅木さんがそんなことで会社辞めることになったら、僕どうすればいいんですか!」 「あの二人はよく判らない関係ですね」 家城がそう言うのだから、そうなのだろう。 啓輔も、見ていて変だとは思っていた。 お互いに惚れているのだと思う。 服部がああも感情的になるのは、梅木が一緒にいるときだけだ。 啓輔と仕事をしているとき、あんな風に声を荒げたりはしない。 昔、ノイローゼにまでなって内にに閉じこもってしまった服部を無理にでも外に向けさせるために梅木が取った手段は無理矢理に抱くことだったらしい。で、意識を外に向けさせた。 内へ内へと考えることを止めさせた。 「梅木さんは、いい加減なように見えますが、根は真面目な方ですよ。その彼があそこまで仕事を放っているというのは、結構問題になっているようです。ただ、過去の実績もありますから、医材のトップがなんとかその声を黙らせているようですけれど」 「そうなんだ。今の梅木さん見ているとそうは思えねーけど」 服部は梅木に惚れてしまっている。ただ、それを自覚した途端、梅木は服部のノイローゼが治ったのだと判断して、服部を抱くのを止めてしまった。 服部もそれはそれで納得しているのかも知れない。 ただ、時おりひどく辛そうに見える……ああやって怒りを発散した後のことだ。 出ていった梅木をひどく辛そうに見つめる服部に、声をかけたくなるのをいつも止めている啓輔。 と、いろいろ考えているうちに食堂が近づいてしまった。 人が集うところ特有の喧噪さがここにまで聞こえてくる。 啓輔は、何よりも考えなければならない自分たちの事を思い出した。 「なあ」 歩きながら、声をかける。 「はい?」 「なんか、俺達仲が良すぎるって噂になっているんだけど」 「そうらしいですね」 「付き合っているとかという噂もあるんだけど」 「そういう話も聞いたことがあります」 それが何か? 啓輔に送られた視線がそう言っていた。 駄目だ、これは……。 どうやら家城は他人の目など気にならないらしい。 これ以上の会話は、今することではない。 啓輔は口を閉じた。 人に聞かれたら、どんな噂が立つことか……。 食堂で、たまに感じる視線に居心地の悪さを感じながらも、二人でコーヒーを飲んでいた。 と。 「家城くん……」 遠慮がちな声に啓輔と家城は同時に振り返った。 「いいかな?」 首を傾げて問いかけるのは、開発部の滝本という人だった。 「何ですか?」 その途端に家城の表情が僅かに変わる。 それは啓輔にしか判らない程度だったが、確かに家城は微笑んだのだ。 啓輔はその変化を見て取った瞬間、ムッとした。 滅多に表情を変えない家城が啓輔以外の人間に対して笑顔を見せる。 これがどんなに珍しいことか。 そんな啓輔の隣に滝本が椅子に腰を下ろした。 「笹木くんが、今週末来れるって」 「そうですか。じゃあ、集まれますね」 今度こそ誰が見てもはっきり判る笑顔を、滝本に見せる。 ムカムカムカ じとっと啓輔が睨むのだが、少なくとも滝本の方は気づかない。 ほっとしたように家城に向かって話をしていた。 「で、竹井くん達は声をかけた?」 「ええ。でもなんだか竹井くんの機嫌が悪いので、安佐くんにまで話が行っているかどうかは判りませんが」 「……また、喧嘩しているんだ、あの二人」 「みたいですね」 「よく喧嘩の種があるね」 呆れたように言う滝本の表情が、なぜか羨ましそうだった。 ふっと、食堂の大きな窓から空を見つめている。 何で? じっとその横顔を見ていると、痛いほどの視線を感じた。 はっとその視線を探ると、なんでかあちこちからそれは来ているようで、啓輔は身を竦めた。 またか……。 ちらちらとこちらを窺うようにしている仕草が見て取れる。 その内、いじめにでも遭いそうだ……。 本気でそう思っていた。
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