薊の刺と鬼の涙 2

薊の刺と鬼の涙 2

「やっぱり、あの色似合いますよね」
「隅埜君こそ……。試着した時にさ、女の子が見惚れていたよ」
 上背があって細身の啓輔が少し着崩したようにシャツを着て出てきたとたん、敬吾の視界の隅にいた女の子が確かに啓輔を見つめていたのだ。
「……そんな、緑山さんこそ」

 照れて頬を赤くした啓輔の言葉には首を振る。
「俺は……女の子にはもてないよ」
『敬吾は女より男にもてる顔だから、心配だな』
 そう言った穂波の言葉を信じるわけではない。
 だが最近穂波に言われ続けているせいか人の視線に敏感になって、そうして気付いてみると確かに男が多いのだ。
「うれしかないけどさ……」
「そんなことないですよ。女の子だって……ほら」
 啓輔がそっと指し示したところの女の子二人連れが敬吾達を見て何か囁いている。
「あれは……君を見ているのか……それとも……」
 男同士の仲の良さに萌えているか……。
 さすがにそれを公言するのは憚られて、口を噤んだ。だが、啓輔はその前半部の台詞に引っかかって、それに気付かない。
「俺じゃないですって。緑山さんってさ、ほんとその目で見つめられるとドキッとするんです」
 話の内容が内容だけに小声でぼそぼそとは話しているのだが、どうも先ほどの女の子達の視線が痛いほどで、敬吾は啓輔の背を押した。
「まあ、いいからさ……それより、今度はどこに行く?」
 手の中にある袋には気に入った服がそれぞれに入っていて、今日の目的は達成できたのだが。
 時計を見ると、穂波が帰ってくるまでにまだ時間はある。
 そういえばお土産を買わねばと、敬吾は思い出して、地下街の天井にある表示を見上げた。
「……こっからだとデパートに繋がってるな……。ちょっと食料品買いたいんだけど」
 たまにはデパートの地階でいいものを買って帰るという贅沢もいいかもしれないと思ったのだ。
「あ、いいですよ。俺も……なんか買って帰ろうかな……。酒以外で……」
「酒以外?家城さんは飲まないのか?」
 そんな筈はなかったと、敬吾が首を傾げながら問いかければ、啓輔は明らかに狼狽えていた。
「あ、……いえ……その……」
 しかも耳朶まで赤くなるというおまけ付きで、その問いかけがどうやら啓輔の何かに引っかかってしまったらしい。そして、敬吾もなんとなくその理由を察してしまった。
「もしかして……家城さんって……酒癖悪い?」
 あの冷静沈着鉄仮面の家城さんが……。
 想像だにできない家城のそんな姿に、だが啓輔は小さく頷いた。
「……枷が外れるみたいでさ……も……大変……。そっちは……そういうことってない?」
「う?ん……」
 枷と言われれば、何かあるような気がするが、それがいつ外れるのかまではよく判らない。穂波に関して言えば、年がら年中発情しているようなところがあると思わせるところがあって、敬吾は結局首を左右に振っていた。
 その間にも二人の足は進んでいて、地下街からデパートの地階へと通じる階段へと向かっていた。
 その階段は6段ほどの短いものだった。
 ただ、その上がった踊り場からもう一つ階段があって、それは地上へと──デパートの外へと出て行けるものであった。だが、まっすぐそこから地上へ出る人は少ない。その出入り口が表通りから少し脇に逸れたところにあることと、同じ上がるにしてもデパートの中を通れば、冷房の効いた中をエスカレーターで上がることができるからだ。
 だからそこは、途中にある踊り場で数人の若者が何かを待っているかのように佇んでいるだけで、人が上下している様子はなかった。
 敬吾達もデパートへ向かっているのだから、その階段の前を通り過ぎ、全面がガラスのドアへと向かう。そして敬吾の手がそのドアの取っ手を掴もうとした時、その階段を駆け下りる複数の音がした。
「ね、待ってよ!」
 音が止まると同時にかけられた声に手が止まった。
 その手首を掴まれる。
「え?」
 聞き覚えがない声に、人違いをされたのかと敬吾が顔を上げた。
「ああ、やっぱりそうだ」
「あっ!」
 嬉しそうな声を発する男が誰か判らないと訝しげに目を細めた途端、啓輔の悲痛とも言える声が響いた。
「ああ、邪魔だよ。こっち来てっ」
 笑みの籠もった声なのに、手の力は酷く強く有無を言わさない動きで引っ張られた。
 その行為に、背筋にぞくりと悪寒が走った。慌てて啓輔を捜せば、すぐ傍でそっちは二人の男に囲まれてその表情が見えない。
「隅埜君っ!」
「緑山さんっ、逃げてっ!!」
 不安に敬吾が呼びかけた途端、啓輔のせっぱ詰まった声が迸った。
「っ!」
 その意味が判らなくても、今が異常な事態だと気付いて、手を振り払おうとする。だが、啓輔の声は男の手をさらに強めただけだった。しかも、最初は一人だったのに、今は二人の手が敬吾の腕を捕らえいた。
「久しぶりだな、ケースケ」
 親しげな声に彼の知り合いかと痛みに顔を顰めながら見上げて。
「……まさかっ」
 悪寒が激しい震えを起こさせて、敬吾の足ががくがくと震えだした。
 それは耳にいくつもはめられたピアスを見たせいで、それと啓輔の知り合いだという考えが一つの結論を導き出したせいだ。
「タイシっ!何のつもりだっ!」
 最近聞くこともなかった啓輔の低い怒声にそれが確信へと変わる。
「……まさか……」
 呆然と呟く声が止めようもなく震えていた。
 それは声だけでなく全身がそうで止められない。触れられている場所からぞわぞわとした悪寒が全身へと広がって、肌が総毛だっていった。
「あの時の……」
 啓輔とともに緑山をいいように弄んだもう一人の男。
 顔かたちのはっきりとした記憶が薄れかけた今でも、あのたくさんのピアスだけは鮮明に覚えていた。それと同じようにたくさんのピアスが、啓輔がタイシと呼んだ男の耳にもついていた。
「意外だね?。ケースケ、この人と仲良いんだ?ぶっ壊すとかなんとか言ってたくせにさ。しかも俺達を痛めつけた奴のホモ達だろ?」
 途端に下卑た笑いと不躾な視線が敬吾へと降りかかった。それに下唇を噛みしめる。
 この男には知られているのだ。それに対して反論する気はないが、それでもバカにされるのは堪えられない。
「うるせっ!どうだっていいだろーがっ!それより何だよ、これは?」
 啓輔の罵声に、道行く人が怯えと侮蔑をいり混ぜた視線を送るが、足を止めることはない。
 今二人は、5人の男に囲まれていた。しかも今や両腕はそれぞれ別の男がしっかりと掴んでいる。そう簡単に逃げられるモノではなかった。
 その理不尽な行為に、啓輔が怒りのままに手を振り回す。
「ぐえっ!」
「隅埜君っ!!」
 カエルがひしゃげたような声が啓輔の喉から漏れ、その体が前のめりに崩れていく。敬吾からはよく見えなかったが、啓輔を捕まえているどちらかの男の拳が腹にめり込んだらしい。
 呼びかけても苦しそうに咳き込む啓輔に、敬吾の顔から音を立てて血の気が退いた。
 そこに友好的な雰囲気は欠片もない。
 あるのは、あの時と同じ殺伐とした雰囲気で、しかもあの時より人数が多いのだ。
「ここだと警備員がくるかも知れないし……。痛いことされたくなかったら付いてきて欲しいね」
 それは懇願の形を取っていたが、返事をするより先に腕が引っ張られる。
「どこへっ?」
 脳裏にあのカラオケボックスがフラッシュバックして、足が動かなくなる。
 こんなことでは駄目だと、逃げるためにもしっかりしないと駄目だと思うのだが、あの時と同じシチュエーションの今は、思った以上に敬吾の精神にダメージを与えていた。
 啓輔相手では癒えたと思っていた筈の事件は、やはり敬吾にとっては根の深いものであったらしい。
「ちっ!」
 思うように動かない敬吾に、そんな理由とは気付かないで焦れたタイシが、舌打ちした。
 途端に頬に鋭い痛みが走る。
「つう……」
 はたかれた痛みに顔を顰めた敬吾に、タイシがくすりとおかしそうに笑みを浮かべる。
「……そんなに痛くなかった?だけどねえ……」
「み……どりやまさん……血が?」
 音に振り返った啓輔が、呆然として敬吾の顔を凝視する。
「え?」
 言葉を発した途端に動いた頬がぴりぴりっと痛みを伝えた。同時に、その頬にタイシが布きれを押し当てた。
「自分の血、見る?」
 くすくすとおもちゃでも見せつけるように広げたそれはハンカチで、そこにまだ赤い染みがついていた。
 それが敬吾の血だというのなら、頬から出た血と言うことだ。
 確かに痛みはまだ続いていて、止まることはない。叩かれたにしては、それは切り裂かれた痛みであったと今頃気付く。
 その染みとタイシを交互に見やる敬吾に、タイシは目の前に叩いた左手を広げて見せた。
「この指輪……面白いだろ?」
「……それ……」
 広げられた中指には幅広のシルバーの指輪がはめられていて、その指の腹側に小さいが鋭い突起が付いているのが見て取れた。
「ふふん。これって便利モノなんだ。普通に叩くとたいしたことないけどさ、これで叩かれたら傷が入るって事。女の子なんてこれ見たら、ビビって結構言うこと聞くよ」
 その指輪が敬吾のもう一歩の頬に触れる。
 そっと触れられても明らかに判る突起物の感触に、敬吾はびくりと体を強張らせた。
「やめろっ!タイシっ!」
「煩いな、ケースケ。あんま騒ぐとこの人の顔にもっといろんな傷つけるよ」
 敬吾に対するより冷たい声音が啓輔を縛る。
「俺さあ……やっぱ、人が傷つくのって好きなんだよねえ……。だから……大人しくついておいでよ。その綺麗な顔がぼろぼろになる前に」
 声音は笑っているのに、二人を睨むその目は笑っていなかった。
 あれから体力もつけて護身術も習っている。だが、どう足掻いても勝てそうにないのだ。ただ単に人数だけ問題ではない。二人を拘束しているタイシ以外の四人が強いのだ。下手に技術を積んだから、そういうことまで判ってしまう。
 そうなると逆らいようがなくて、敬吾は黙って足を踏み出した。
 それに、敬吾が逃げたとしても啓輔は逃げられるかどうかは判らない。タイシも敬吾に対しては穏やかに話しかけるが、啓輔にはかなり刺の入った言葉を発している。それは明らかに怒りが窺えるもので、敬吾にはタイシが啓輔には容赦しないだろうと思ってしまった。
 だから、一人では逃げられなかった。
 そんなふたりから、タイシ達は荷物と携帯を取り上げた。
 それにしてもどうして……こんな事になったんだろう?
 さっきまで楽しく買い物をしていたことが遠い昔のようにすら思える。
 忘れたかった出来事は、まだまだ忘れてはならないことだったのだと、敬吾は力無く歩きながら繰り返し悔いていた。


 剣呑な形相の団体に、人が避けて通る。その無関心さに腹が立つのはあの時もそうだったからだ。だが、同時に誰も助けは来ないとその絶望感にも襲われる。
 地下街の駐車場に入って車に押し込められるまでそれは続いていた。
 頬の傷がもっと深ければ騒ぎになるのだろうが、そこは既に血が止まっているらしく、ぱっと見には人の目に入らないようだった。
 しかも車は敬吾と啓輔が別々だ。もともと二台に別れて来ていたらしく、さっさと二手に分かれてしまう。敬吾はタイシと一緒の車だった。
「離せっ」
 扉が閉まる寸前、啓輔の悲鳴にも似た声が聞こえた。
 慌てて窓から外を見ようとしても暗い色の遮光シートが張ってあって暗い外がよく見えない。
「隅埜君っ!」
 叫んた言葉はエンジンの駆動音にかき消されて窓の外にまでは届かないようだった。
「煩いな……別に殺しやしないって。それよりさあ……これ」
 タイシの手の中でした金属音に、嫌な予感がしてそちらを見やった。同時に掴まれたままの手首に、冷たく硬い物が押し当てられる。
 カシャッ
「やめろっ!!」
 制止する間もなく、はめられた手錠に慌てて両腕を外へと引っ張った。だが、痛みが手首に走っただけで、鎖はちぎれそうにない。
「逃げられたら嫌だしね」
 タイシが嗤う。
 そして。
「あんた逃げたら、相棒がどんな目に遭うか判らねーぜ」
「どんな目って……」
「俺達ねえ……いいやつ探してたんだ。良かった、あんたに逢えて。男でもいいって言ってたしな」
「これなら結構いい小遣い貰えるよな」
 タイシの仲間達が口々に言う言葉を、敬吾は信じられない思いで聞いていた。
 どうやら彼らが誰かに言われて人を捕まえているのだと気付いたからだ。
 ならば最悪な事態が頭の中を駆けめぐり、敬吾はギリッと奥歯を噛みしめていた。


 車で走った距離は長くなかった。
 繁華街から外れて、南へと下る。それは判ったのだが、路地裏をくねるようにあちらこちらに曲がって、方向感覚がおかしくなる。見慣れていた町並みの筈が、気が付けばどことなく荒んだ雰囲気の店が並ぶ地帯に入っていた。その一角にあった駐車場へと車を入れ、タイシが敬吾を外へと連れ出した。ご丁寧に手錠の上にかけられた服によって、まるで連行される犯人のようだ。
 その不快さは言い表せないほどで、敬吾はぎりっと奥歯を噛みしめると、タイシを睨み付けた。
 だが、後から入ってきた車から啓輔が連れ出されて気がそちらに向いてしまう。
「隅埜君っ!」
「あ……緑山さん……」
 少し青い顔に心配になって、駆け寄ろうとするが、すぐに腕を掴んで引き戻された。
「心配しなくても、こっちの用が済むまではなんもしやしねーよ。あんたらが大人しくしている間はね」
 にやけたタイシの言葉は信用できるものではないが、今は従うしかなかった。
 人通りが少ない道をそう進むことなくさらに路地裏に入って、狭い入り口のドアをくぐらされた。明るかった世界からいきなり灯りも満足にない室内に入って目が暗さに慣れない。すえた臭気のする狭い階段は、まるで死刑台のようでぞくっと背筋に激しい悪寒が走った。
 敬吾が微かに体を震わせたのに気が付いたのかタイシが面白そうに敬吾の目を見つめる。
 そこに揶揄する光が浮かんでいるのに気が付いて、敬吾はすぐに視線を逸らした。
「くくっ、恐いかい?」
 だが耳まではふさげない。
 タイシの言葉はわざと敬吾達の恐怖を煽るように、低く笑みを含めて伝えられた。
「俺達ね……このビルの持ち主の下っ端なんだ。その人は、いろんな飲み屋なんかのオーナーでね、羽振りが良くってさ。で、その人の命令なんだよ、誰か男相手でもOKな奴連れて来いって。ただし顔が良くて負けん気の強そうな……簡単に落ちそうにない奴……って難しい注文付き」
「タイシっ!まさかっ!」
 後ろを上がってくる啓輔の驚愕の声に、タイシが嗤って返していた。
「それ聞いた時、この人のことしか頭に浮かばなかったよ。だいたい男OKなんて、そうそう知り合いにいねーし」
 まさか……。
 啓輔がその先に続けたかった言葉の意味は、驚くほど簡単に理解できた。
 信じられないという思いと、今更ながらに湧き起こる恐怖。それは、あのカラオケボックスでの出来事の記憶と相まって足を止めさせるほどの恐怖だった。
「ああ、止まんないでよね。ほら、そこの部屋だから」
 無理に引っ張られて足がもつれる。
 がくりと跪いた敬吾は、休む間もなく引き上げられた。
「は、離せ……」
 震える声で抗っても、それは相手を助長させるだけだった。それでも大人しく従えるものでもない。
「無茶言う人だけどさ、言うこと聞いてる間は優しいよ。面白い人だし。ここまで来たんだから大人しく従ったら」
「てめっ、いい加減にしろっ!緑山さんを離せっ!!」
「うるせーよ、ケースケ」
 啓輔の罵声に苛立ったようにタイシの片眉が上がった。途端に乾いた音が狭い廊下に響く。
「隅埜君っ!」
 敬吾の視界に、頬から血を流す啓輔の痛みを堪える顔が入った。
 あの指輪で傷ついた頬は、どうみても啓輔の方が酷そうで、顔を顰めて見つめる。
「お前を連れてきたのはついでなんだから大人しくしてな。ここでこいつを引き渡したら、後でいろいろと聞きたいことがあるんだ?……すっかり真面目にやってるようなんでね?」
「俺にはないっ」
 声高に返す啓輔の瞳に荒ぶる色が宿る。
 最近の邪気のない表情が、みるみるうちに変化していた。それはあの時を彷彿させる物で、駄目だと、敬吾は止めさせようとした。
 せっかく取り戻した本来の啓輔が消えるのが我慢ならなかった。
「やめっ!」
「うるさい。さっさと入ってこいっ」
 敬吾が制止しようと口を開いた途端、閉まっていたドアが開いて、凛と通る声が階段に響いた。
「あっ……すみません」
 途端にタイシも他の男達も大人しくなる。思わず見上げた先に、逆行で影になった体格の良さそうな男の姿があった。
「ほら、早く動け」
 焦ったようなタイシに引っ張られ、敬吾と啓輔は室内へと連れて行かれる。
「んっ」
 暗かった階段から入った灯りのついた部屋はまぶしいほどで、手を翳そうとして繋がれた手錠の鎖がそれをさせなかった。
 数度瞬きして必死で目を慣らす。
「どっちだ、タイシ?それとも両方か?」
 まだ若い声がして、男が近づいてきた。
 その威圧感に思わず後ずさるほど、慣れた視界に入った男は敬吾より一回りは縦も横も大きかった。だからといって太っているわけではない。スーツがフィットした均整の取れた体格は、そのかっちりした服装にもかかわらず、スポーツ選手のようにも見えた。
「こっちのです」
 ぐいっと背を押され、目と鼻の先に男の喉が来る。
「ほお……」
 指が顎を掴んだ、その意図に逆らおうと必死で首を竦める。だが、男の力は強く、顎で持ち上げられそうになって結局なすがままになった。それでも理不尽な行為に湧いた怒りをその目に蓄えて睨み付ける。前のように何もかもなすがままになるのは嫌だった。
 気を抜けば、がくりと腰が砕けそうな恐怖は身のうちにくすぶっている。それでもまだ事も始まっていない今から崩れていては、穂波に鍛えられた意味が全くない。
 少なくとも、あの時とは違うのだから。
「なかなかいい目をしているな」
 口づけられそうなほど間近に顔を寄せられ、吐息をかけてしまうのも嫌で息すらできない。
「マジで無理矢理連れてきたって感じだな……。まあ、それでもいいか……。で、お前、男を知ってんのか?」
 声の通り、まだ若くいってて20代後半か、30代前半のように見えた。
 短くまとめられた髪は、一見普通のサラリーマンのように見える。だが、見つめてくる眼光は鋭く、まるで獣に射竦められたような気がした。
 質問に答えずにただ睨み返す敬吾に男がようやく視線を逸らした。だが、それは問いの答えをタイシに求めたからだ。
「そいつ、男の恋人持ってんですよ」
 だから、大丈夫だと、下卑た嗤いが辺りに響く。
「なるほど。で、こっちは?こいつもなかなかいい顔してるが?」
 言葉ともに手が離れて、敬吾はようやく息が吸えた。だが、危険が去った訳ではない。値踏みするかのように二人を見比べて、啓輔の頬に流れた血を男が指先で拭っていた。
「こいつは、昔のダチでケースケってんだけど。こいつと一緒にいたもんでつれてきたんですけど。なんか正義感ぶってて胸くそわりーんで、後でしめてやろーかと」
「ふ?ん。もったないない。こいつは男は駄目なのか?」
「うっ」
 頬に触れていた手を襟の中に差し込まれた啓輔が引きつったように小さく喉を鳴らした。
「前は駄目なようなこと言ってたけどさ……」
「そうか?」
 タイシの言葉に面白そうに男がニヤリと口許を歪めていた。その視線が、開いたシャツの内側にじっと注がれている。それに気付いた啓輔が不自由な手で相手の腕を振り払っていた。
「ケースケっ!てめっ」
「ああ、いい。それより褒美だ」
 ピンッと張りつめた空気を一瞬にして和らげさせた男が、タイシに財布を放り投げた。どしんと重たい音を立てる財布にタイシが飛びつく。
「こんなにっ」
 音を立てて唾を飲み込むほどの金額だったのだろう。
 驚愕に目を見張ったタイシがいた。
「二人分だ」
「え?」
「二人とも気に入ったからな。何か文句あるのか?」
「あ、いえっ」
「だったら……そうだな。そこにある紐でそこのソファに一人ずつ縛れ。どう見ても納得ずくではなさそうだし。だったら、逃げられたら楽しみが減るしな」
「はいっ」
「や、止めろっ!!」
 大金を手にしたタイシ達の動きは不必要なほどにきびきびとしていて、敬吾達が抗うのもなんのそので瞬く間に二人を応接用のソファに縛り付けた。後ろ手にした手は背もたれの後ろで括られ、足も椅子の脚にそれぞれ括り付けられる。
「できたら、さっさと出て行け」
「はいっ」
 男の命令は絶対なのか、タイシ達はあっという間に入ってきたドアから消え去っていった。
 応接セットと机という事務所に似た部屋に、情けなく縛られて敬吾と啓輔が放置される。そしてふたりから遠く離れた場所に、ふたりの荷物が転がっていた。
 売られた……。
 その意味するところが敬吾を打ちのめす。それでも、前のように自失してしまわないのは、穂波による意識の強化と、一人だけでないという思いからだった。ここには啓輔もいて、同じように縛られている。それはある意味、状況としては良くないだろう。それでも一人よりか心強かった。
 だが。
「さて……どちらから私の相手をして貰おうか?」
 何でもないことのように男から現実をつきつけられて、二人は顔を見合わせて硬直した。


「あ、あんた、どういうつもりだよっ!!」
 先に言葉を発したのは啓輔だった。
 男が啓輔の目の前にいたせいもあったのだが、荒んだ過去を持っている啓輔の方がこういうことには慣れているところがある。
 だが。
「口が悪いね?、可愛い顔をしているのに」
「な、何がっ、可愛いだっ」
 落ち着き払っている男に対してきゃんきゃんと吠えたてる啓輔の様子は完全に負けていた。
「私は、男が好きなのだがなかなか好みにあった相手は見つからなくてね。まあ……乱暴にするつもりはなかったのだが、あの様子を見ていると君たちが逃げてしまいそうで縛らせて貰った。せっかく大枚を払ったんだから、することはしないとね」
「だからって、こんな無理矢理っ!」
 敬吾も大人しくされるつもりはなくて、必死で言葉を選ぶ。
 相手が落ち着いている以上、こちらも冷静になろうとするのだが、やはり状況はこちらに歩が悪い。
「うん、そうだね。でも嫌がる子を無理矢理ってのもそそるからね」
 笑みを浮かべながら言う台詞でないと、顔に浮かぶのは嫌悪なのだが、相手の冷静さには勝手が掴めない。敬吾はただ睨み付けて次の言葉を探していた。
 何を言えば、相手を怯ませることができるのか?──逃げることができるのか?
「さて……せっかくだから楽しもう。私は巧いよ」
 くすっと吐息で笑うその様は、普通にしていれば格好良い方に入るだろう。
 どこか穂波に似ているとすら思う。だが、穂波よりはもう少し若く、意地悪く、そして好色そうだった。
「ああ、自己紹介がまだだったね。私の名は槻山憲弘(つきやまのりひろ)」
 まるで友人同士の挨拶のようなそれに、一瞬気が抜ける。
「君たちの名前は?」
 それは黙って無視した。
 が。
「教えてくれないのかい?……こっちは確かケースケと言っていたな。ね、ケースケ君」
「さ、触るなっ!!」
 必死の声音に敬吾が啓輔をみやれば、槻山の手が啓輔の襟元から中に入っていた。
「隅埜君っ!!……あ……」
 咄嗟に口走ってから気が付いた。
「なるほど、スミノケースケ君ね。どんな字を書くのかな?」
「んっく……」
「止めろっ!」
 イヤらしく歪んだ顔は、じっと開かれた啓輔のシャツの中を見ていて、敬吾の罵声を意にも介していなかった。
 その手が逆らう動きをものともせずに、どんどん中に入っていく。
「離せっ、てめっ!」
「口が悪いね。抱かれる時はいつもそんな言葉を発してんのかい」
「なっ!」
 ぴきっと啓輔の体が硬直したのが敬吾の目にも明らかだった。
「君も男はOKなんだろ?敏感だし……何より、君の熱烈な恋人がつけた情熱的なキスマークがあちこちに残っているようだし」
 それだけなら女が相手だともいえたも知れない。
 だが、硬直してしまった啓輔も、そして黙り込むしかできなかった敬吾の様子も、何もかもがそれが本当のことだと槻山に知らせていた。
「ま……類は友を呼ぶっていうけどね。見た時からそうじゃないかと思ったんだ。二人とも男に好かれそうな感じだし」
「ど、どこがっ!」
「ふふ、全部」
 槻山の手が啓輔のシャツのボタンを外しだした。啓輔はというとひきつった顔をさらに強張らせて、槻山のすることをじっと見ているしかできない。時折、感じる場所に触れられるのか苦痛に耐えるように顔を顰めていた。
 それを見ながら敬吾の方は何もできない。
 じたばたと体を動かしても、大きめのソファがかろうじて揺れるだけだった。
「止め……ろ……」
 手足だけを縛られているせいで、啓輔のシャツはあっという間にはだけられ、あろうことか来ていたTシャツははさみで開かれてしまう。しかも。
「ほら、腰を上げて」
「イヤだっ!」
 今はズボンと格闘していて、ズリ下げようとする手を啓輔が体重をかけて必死で押さえているところだった。だが、それも縛られているという不自然な体勢で思うようにいかない。
「よいしょっ」
 かけ声とともにジーンズが呆気なく下着とともに下ろされた。足が縛られているせいで膝のところまでしか下りないが、それでも啓輔の前面は完全にさらけ出されてしまった。
「てめー……」
 ぎりっと音がしそうな程に啓輔が悔しそうに顔を歪める。
 暴れたせいか互いのソファがちょうど向き合うようになっていて、敬吾は啓輔の裸体を真正面に見ることになってしまった。羞恥に頬を染めて槻山を睨む啓輔は、その気がなくても確かに扇情的だ。しかも遠目に見てもはっきりと判る鎖骨と胸に広がる朱の斑点。そのまだ新しい印を目にした途端、敬吾は自らの体にもある同じ類の印を思い出して、それからそっと視線を逸らした。
 嫉妬深い恋人達がつけた印は、たぶんどちらも同じ思いでつけたのだろう。
 それが判るから、今のこの状況が悔しくて堪らない。
「や、やっ!止めてくれっ!」
 上擦った声に慌てて視線を戻すと、槻山がその啓輔の印の辺りに顔を寄せているところだった。
「っ!」
 不意に啓輔がきつく目を閉じて、内なる衝動を堪える表情をする。
 槻山の体に隠れて何をされているのか見えなかったが、きっと印の場所に吸い付かれているのだと、敬吾には簡単に想像できた。
「隅埜君……」
 何もできない自分が悔しい。歯噛みするしかない敬吾は、どうにかしようと必死で考えていた。
 確かに啓輔は男相手でもOKだ。だが、元はといえばタイシは敬吾を売ろうと考えていたのだから、啓輔はとばっちりなのだ。
 このままあの男にやられてしまったら、啓輔はどんなことになるのだろう?
 最近の幸せそうな啓輔と昔の啓輔の両方を知っているから──そして、最近の啓輔は敬吾にとって大事な友達だから、助けたいと強く願う。
 こんな目に遭わすために、今日一緒に出掛けたのではないのだから……。
「待てよっ!」
 だから、叫んでいた。
「俺が相手をするから、隅埜君には手を出すなっ!!」
 たぶん、家城しか相手を知らない啓輔。
 家城に出会うことで、今の啓輔になったのだとしたら、そんな彼を好きだから、他人に抱かれるなんて事させたくなかった。
 そして、滅多に表情を見せない家城が、啓輔にだけ優しく微笑むことを知っているから、その顔を歪ませることを啓輔がどんなに忌むだろう事は簡単に想像できたから。
「俺の方が具合はいいと思うけど」
 振り返った槻山に、目を細めて口の端だけで笑う。
 ほんの少し上目遣いにして、挑発するように。
「俺の相手、結構遊んでて、いろいろと頑張らないと駄目だからさ。だからテクだけは彼よりも上だと思うよ」
「ほお……」
 脳裏に浮かぶ穂波の顔が怒っているけど、今はもう他には手段がなかった。槻山の意識をこちらに向けるしか他に方法がなくて。
「駄目だっ、俺でいいから、彼には手を出すなっ!!」
 だが、今度は啓輔が必死で離れていく槻山に追いすがっていた。
「俺がっ。俺がやるからっ!!俺の方が若いから体力あるぞっ。それに……俺はもう男しか駄目だから、平気だからっ!!」
 最後の言葉は敬吾に向けられていた。何度も何度も首を振って、敬吾を思いとどまらせようとしていた。
「ふ?ん。それも楽しそうだね?」
 ちょうど二人の中間に立ちすくんで、槻山が楽しそうに二人を見比べる。
 顎に手を当てて、どうしようかと考えあぐねているようで、しばらくそのままで動きがなかった。
 その間に啓輔が敬吾に声をかける。だが、無理にその顔に笑みを浮かべているのがありありと伝わってきた。
 それでも、啓輔は敬吾を庇おうとしていた。
「俺は……平気だからさ。ねっ」
「隅埜君……でも……」
 敬吾が啓輔を守りたいように、啓輔も敬吾を守りたいのだと、その様子ではっきりと判った。それは時折啓輔が見せる罪悪感に満ちた視線から来ているのかも知れない。彼の中では、まだ贖罪は済んでいないから。だからきっと、敬吾を守ろうとして自分を盾にしているのだと。
「美しい友情ってことか……う?ん。だけど私は両方とも気に入ったし……。この元気な坊やも敏感で楽しませくれそうだし、こっちの君も、その瞳で睨まれるとぞくぞくとしてくるね。しかも男を誘うのに長けている。先ほどの言葉も気になるし……。う?ん、これは優越つけがたいね。本当に……どちらも酷くそそられる」
 感極まったように呟く槻山の言葉に、敬吾達は結局押し黙ってしまった。
 きっと何を言ってもこの男を煽る。
 そして槻山は、二人を離すつもりはないのだ、と。
「ま、夜は長いし、もっと気楽に楽しもうよ。明日になって……私が満足していたら解放してあげるから。ああ、SMの趣味はないから、傷つけるつもりはないしね」
 そのどう聞いても信用できない言葉に、それでも縋りたくなる。そんな二人の視線にくすりと笑った槻山は、かつかつと足音を響かせて部屋を横断した。その先には出入り口とは別の扉があって、それを勢いよく開ける。
「こっち……キングサイズのベッドがあるんだよ。だから三人でも大丈夫なんだけど?」
 振り向いた槻山の笑みに、敬吾達二人の表情は完全に凍り付く。
 どう足掻いても二人を相手にしようとしているのだと、その逃れられない運命にそれでも抗おうとしたけれど。
 室内に入った槻山がすぐに何か小瓶のような物を持って出てきて、二人に笑いかけた。
 その笑みは町中で見ると、気さくな愛想の良い笑みであったけれど。
「それでさ、君たち二人同時ってのも面白いと思わない?」
 その言葉は二人にとって最悪のものだった。
  

つづく









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