薊の刺と鬼の涙 1

薊の刺と鬼の涙 1

柊と薊の賛歌、ONI GOKKO 誰が鬼? 必読です。
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青みがかったグレーのカーテンが、淡い灯りの中でエアコンの風にそよそよと揺れていた。
 外は夕刻から降り始めた雨が、ずっと降り続いている。梅雨の夜は、昼間の熱を孕んでいて激しく蒸せていた。だが、室内は少し低めの温度と湿度に保たれ快適のはず。
 だが。
「んんっ……んっ……やぁ……っ、あっつい……」
 艶めかしい嬌声が、雨の音を消して響く。

 ベッドサイドのランプシェード越しの灯りの中で、二つの裸体が蠢いていた。その肌が時折きらりと灯りを反射する。それは、肌をしっとりと濡らしている汗のせいだった。
「ふふ、いいぞ……敬吾の中がオレに絡みついてくる」
 荒い息の中、それでも浮かぶ愉悦を隠すことなく、穂波幸人は大きく腰を動かし続けていた。
「はっ──っ、やぁっ……もうっ……」
 少し離れていたむき出しの双丘に腰が激しく打ち付けられ、弾けるような音が響く。そのたびに、緑山敬吾の喉が喘いで声を絞り出していた。
「も、もう……っ」
 四つんばいで後ろから貫かれ、敬吾の腕が力を保っていたのはごく僅かの間で、今はもう頬をシーツに張り付かせ、指が無意識のうちにひっかけたシーツを掴んでいた。
「なんだ、もうバテたのか?」
 からかう言葉は、敬吾にしてみれば無視するに限るのだが、実は気にする余裕もないというのが本音だ。
 もう穂波は三度目だというのに、その声音にはまだまだ余裕が感じられる。
 元気なんだから……。
「ひあっ──ぁぁっ、んぐっ、やあっ」
 ほんの少し意識を逸らした途端に、敏感なところを狙って突き上げられた。
 目の前がちかちかと弾けて、息が止まる。ピンッと反らされた背筋に口づけられて、ようやく体が弛緩した。
 音を立てて崩れ落ちた肢体を投げ伸ばしたまま、それほどまでに効いた一撃に敬吾は弱々しく視線を動かした。
「ひど…………」
 遠慮のない突き上げからくる衝撃は凄まじく、敬吾の意識はなかなかはっきりしない。それでも、そんなことを強いた穂波に恨みがましい視線を送るのは忘れない。
「何だ、イけなかったか?」
 その表情に浮かぶ笑みに、結果を十二分に判ってて行った行為であることは明白で、敬吾の口から堪えきれないため息が零れた。
「……きつすぎる……」
 過ぎた快感は痛みと同じで、かえってイけない。
「ふふん、まだまだ楽しまないとな」
 口の端を上げ、にやりと嗤いながら穂波の手がそれでも萎えることはなかった敬吾の雄に添えられた。
「んっ……」
 それだけで、ぞわりとした疼きが肌を粟立たせる。
「結構出ているな」
 滑るそこは、粘着質な音を立てて指の動きを助ける。それは簡単には乾きそうにないほどの量で、穂波が楽しそうにそれをすくい上げていた。
「追加のゼリーがいらんな……」
「やぁっ……」
 舌っ足らずな拒絶は難なく拒否されて、滑る指がすでに入っている場所をなぞる。
 それだけで、期待した体が小刻みに震え、後孔を締め付けた。しかも締め付けたせいで中に入っている穂波の雄をはっきりと感じてしまう。
 しかも。
「ちょっ、ちょっと!!」
 穂波の指が既にきついそこに入り込んできたのだ。慌てて身を捩って逃れようとするが、もう一方の手がしっかりと腰を押さえている。
「そんなんっ……っく……入ら…な……あっ」
 力を入れて押し出そうとして、余計にいやらしく動く指を感じてしまい、喉が幾度も鳴った。
「お前のここは、柔らかいからこの程度では壊れやしない」
「い…やぁ……あぁ」
「まとわりついて、こんなに物欲しそうにひくついてな。いくらでも俺を欲しがってるぞ」
 指が入ったまま穂波が腰を動かした。
「ん、んくぅ……もっ……やらしー…ことばっか……」
 掠れた声しか出ない喉から、それでも文句を吐き出して、背後の穂波を睨み付けながらお返しとばかりに思いっきり締め付けてみる。
「うっ……」
 途端に眉を寄せて顔を顰めた穂波に、ほんの少しの笑みを見せた。
 ごくり、と明らかに穂波の喉が動く。
 快感に晒されて熱を持った肌がどんな色をしているのかも、痛みにも近い刺激に知らずに潤んだ瞳も、汗に濡れてたち上る芳香を纏った肢体も、それらに加えてどんな効果をもたらすかを知った上の微笑みは、淫猥な娼婦の笑みだった。
「敬吾……お前は」
 穂波が一時の動揺を押さえつけて苦笑する。
「何?」
 怠惰な体が、疲れた視線が、それら全てが穂波を煽ると知っていて、問う。手をついて起こした上体の、その背から腰にかけての曲線が、穂波の視野に惜しげもなく晒された。
「俺を煽ったこと、覚悟できてんだろうな?」
 余裕の無くなった穂波が見せる動きに、敬吾は笑い返す。
 今は小さな動きだが、それが次第に強くなる事を知っている体が、もうその刺激一つ一つを全て捕らえようと敏感に反応していた。
「……知ってる……さ……」
 だから……。
「上等だ」
「うああっ」
 容赦なく突き上げられ、体が跳ねる。それが何度も何度も続いて、敬吾はもう自分の体がコントロールできなかった。ただ、穂波の動きに引きずられて、振り回される。
 肌と肌が打ち合う音と、敬吾の喉から迸る嬌声だけが室内に響き、もう室外の雨の音など全く聞こえなくなって。
 ただ体内の快感の泉を荒らされる、その刺激が意識を全て支配していた。
 そして、限界を超える。
「んんんあぁぁぁぁっ!」
「うぅっ……」
 同時にイッた穂波の腕が力強く敬吾の体を背後から抱きしめてくる。その幸いである温もりを感じながら、敬吾はぐったりとベッドに崩れ落ちた。


「おい、行ってくるぞ」
 頭を数度揺さぶられ、混濁していた意識がすうっと声の持ち主とその意味を理解した。
「ん……もう?」
 はっきりしない視界に焦れて手の甲で数度強く擦る。と、その手を掴まれて持ち上げられた。
「強く擦るな」
 くすりと喉で笑っている気配に気付いて、伏せていた顔を上げた。身動いだ拍子に肩から薄手の肌布団が落ちていく。
「ん……」
 眠いと、開いた瞼がまた閉じられる。その寸前、苦笑を浮かべた穂波の顔が目に入っていた。
「いってらっしゃい……」
 唇だけは動くからと、言葉を紡ぎ出す。今日は穂波だけ休日出勤で、出掛けてしまう。できれば送り出してあげたいのだが、逃れきれない睡魔と倦怠感の酷い体がそれをさせようとしない。
「ああ、今日は適当にしてていいから。そんなに遅くならないし」
「判ってる……俺も、もうちょっとしたら買い物……行くし。気にしなくていい……」
「ああ、じゃあな」
「は?い……」
 最後の方は寝ぼけていて、反射的に応える。その無邪気な子供のような声音に、穂波がくつくつと笑い出したのに、浅い眠りに入っていた敬吾は、気付いていなかった。


 次に目覚めた時、部屋は時計の音しかしない静かな世界だった。
「ん……くうっ……」
 寝起きの怠さに支配された体を伸ばして、ふうっと息を吐きながら弛緩させる。
 延びきった四肢に新鮮な酸素が行き渡るような、そんな爽快さが敬吾の体に満たされた。
「え?と……もう行ったんだ?」
 壁にかけられたモノトーンの時計を見上げれば、時刻は10時を過ぎている。ということは、穂波が行ってからもう2時間は経っているということだ。
 本当はもっと寝ていたいほどに昨夜の行為は重労働で、まだなんなくだが体の奥に違和感がある。だが、それは堪えられないほどではなかった。
 ベッドから足を下ろした敬吾は一糸纏わぬ姿で、その細い肢体がエアコンの冷気に晒されるとぞわっと総毛だった。慌てて、落ちていたガウンを拾い上げ袖を通す。
 あまり日に焼けない白い裸体が薄い青のガウンに隠れる寸前、敬吾の頬に一瞬赤みが差した。だが、その口は拗ねたようにへの字を描いていた。
「また……変なところに……」
 半袖の袖口から出るか出ないか、その微妙な場所に朱印が刻まれていたのだ。
 着込んだガウンを少し肩からずらし、指でその後をなぞる。場所から行って、そこは本当にきわどいところで、敬吾は小さく息を吐いて、肩を竦めた。
 ここは穂波のマンションの部屋で、敬吾の衣服は何かの時のためにしか置いていない。その中に、少し長い袖があったか、と頭の中に思い描いた。
 今日は約束があるのだ。
 それを穂波に伝えたばかりに昨夜の激しい行為となってしまったのは、多少は迂闊だったという悔いはある。それでも敬吾にしてみれば、明らかに穂波が嫉妬してくれていると判ってしまうと自然に頬は緩んでいた。
 この袖口のキスマークもそれの証拠だ、と余計に顔が緩む。
 何せ、今日の約束の相手は隅埜啓輔。
 敬吾にとっては同じ会社の後輩で、今はとっても仲のよい友人でもある彼は、過去あまり思い出したくない事件の相手であった。それ故に、穂波の印象はあまりよくない。しかも、啓輔がいまだに敬吾の事を憎からず思っているとなると妬く理由としては当然のことだ。
 それでも。
 彼は付き合ってみれば良い子で……からかうのには結構面白い。
 穂波相手に気を張る攻防戦をしていると、たまに彼をからかうのがとても息抜きになって楽しくて、ついつい構いたくなるのだ。そんな敬吾の心理状態も穂波は知っているのだろうが、それでもこんな子供のような嫌がらせをしてくれる。
 敬吾は、これなら大丈夫だろうと、群青色のデニムのシャツを手に取った。その袖に腕を通しながら、穂波がどんな思いでこれをつけたのだろうかと思うと、堪えきれない笑いが零れる。
「お土産……何がいいのかな?」
 せっかくの休日に出勤になってしまった恋人のことを思って、夜を楽しむアイテムを思い浮かべた。それはどれも穂波が好きそうなもので、ほとんどが食物だったのだけど。視界の端に引っかかったそれに僅かに眉間にシワが寄った。
 それは確かに穂波の好きなものであったが。
「……なんでこんなもん持ってんのかな……あの人は……」
 ちらっとベッド下から覗いていたその箱を、とんと足先で押し込む。中でごろりと転がったその音に、使われた時の事を思いだして頬が熱くなった。
 ごく普通の行為でも十分満足できる──いや、させられる敬吾にとって、それは無用の長物だというのに。穂波はそういう道具をたまに使って、敬吾をより狂わせるのだ。
 その痴態ははっきり言って思い出したくもないほどで、次の日、敬吾を羞恥の塊へと追いやる程。
 しかもそんな敬吾を穂波は笑いながら揶揄する。
 とんと、再度強く蹴っ飛ばして奥深くに押し込んで、敬吾はそれを無理矢理意識から追い出す。
「あ……もうこんな時間だ」
 そうこうしている内に時間は過ぎ去っていて、敬吾はそれに気付くと肩を竦めて慌てて出掛ける支度を始めた。


「隅埜君……ごめん」
 待ち合わせの駅前の噴水前でぱたぱたと手で襟元を仰いでいた啓輔を見つけて、慌てて敬吾は足を速めた。
「暑かったろ?構内に入れば良かったのに」
 額に汗を滲ませた相手に申し訳なく思い、顔を顰める。梅雨の雨上がりの昼は、思わず音を上げそうになるほどの蒸し風呂状態で、ちょっと小走りになった敬吾ですらじわっと汗が噴き出してくる。
「駅の中に入ってましたから。さっき、そろそろかなあ、と思ってここに出てきたんですよ」
 何でもないと子供の無邪気さと大人の狡猾さが入り交じった表情で敬吾を見つめる彼は、敬吾にしてみれば見上げるほどに背が高い。
「嘘」
 にこりと笑うそれに、ほんの少しの茶目っ気混じりに秋波を加えれば、彼がどんなに動揺するかを知っているというのに。
「緑山さん……」
 引きつった頬に上擦った声の啓輔は知らずに一歩後ずさっていた。
 その様子に、堪らずに吹き出してしまう。
「緑山さんっ」
 強い声音に彼の憤りを感じて、堪えようとしても笑いが止まらない。
「ごめん……」
 眉間に深くシワを寄せて、目を細めて敬吾を見つめる啓輔の顔が赤くて、もっとからかいたくはなったが、そんなことをすれば彼が怒って帰ってしまわないとも限らない。それも困ると、敬吾はごくりと息を飲んで、無理矢理に感情を落ち着かせた。
「ごめんな」
 謝る声音にまだ幾分の笑みが籠もっていたけれど、それでも啓輔は小さくため息を漏らすと頷いていた。
「俺、……節操無しでさあ……」
 だから。
 と、自嘲めいた笑みを口の端にのせて、啓輔は振り切るように空を仰いだ。
「あんまさあ……煽んないでよ」
 最後の言葉ともに降りてきたその目が切なく敬吾を見下ろして、苦笑へと変化する。
「そりゃ……面白いかもしんねーけどさ」
「……そうだね」
 からかいすぎたと思ったが、それ以上は返さない。
 敬吾がどんなに煽っても、彼は決して敬吾には手を出さない。それを知っているからこそ、つい試してしまうのだ。それを啓輔も知っている。
 だから、もう何も言わなかった。
 ただ。
「家城さんは、今日はOKが出てるのかい?」
 それだけがふと気になって、思わず袖口を押さえながら問いかけた。啓輔の恋人も相当嫉妬深いと何かにつけ見かけてしまうから、どうなのだろうと首を傾げる。
「あいつはさあ……機嫌悪かった……」
 啓輔はぼそっと呟いて、苦笑を浮かべていた。
「でも、一応OKは貰ったからさ、大丈夫。黙っててバレた方が怖ーし」
「ほんとに?」
 どんな風にして了承を貰ったのか?
 それは単純な好奇心だった。
「まあ……帰ったら、根掘り葉掘り聞かれるんだろうけどさ。今日は家城さんも大学の友人と会うとか言っていたし。これが暇だったら、付いてきたかも知れねーけど。そういえば緑山さんの方は大丈夫なの?あの……穂波さんって人」
 穂波の名を出す時に、啓輔が言い辛そうにするのはいつものことで、敬吾はこくりと頷いた。
「俺の方も大丈夫だ。穂波さんは今日、仕事なんだ」
 でなければ、敬吾は部屋から出して貰えなかったろう。
 それは嫉妬深さだけではなく、ただ離したくないということらしい。それほどに、貪られてしまうのだ。
 お陰でそれを受ける体力だけは十分についていて、した後でもこうやって出掛けることはできるようになった。
「じゃ、いこーか」
 お互いの恋人の動向に安堵して、視線で頷き合う。
 今日はバーゲン真っ最中の土曜日であった。


 今日という日に、啓輔を一緒にと選んだのは、たまたまだった。
 昨日の会社での休憩時間に一緒になって、もうバーゲンが始まっているという話になったのだ。
「……俺、行こうかなあ……。夏物仕入れねーと」
 ぽつりと呟いた啓輔の手には紙コップに入った緑茶。それをマズそうに一口飲み込んでいた。
「隅埜君は、どんな服を買うんだ?」
 啓輔の先輩である服部が問うのに、彼が答えた。
「……ん?、なんかシャツが欲しいなあ。HUNGっていう店が好きなんで、たいていそこで買ってっから、また見に行こうかな」
「HUNG?地下街の?」
 その店名に反応してしまった。
「あ、そうです」
「へえ、俺も結構好き。いいよね、あそこのは」
「あ、今朝来てたシャツもHUNGのですよね?あのボタン、見覚えがあるなって思ったんだ」
「よく見てたね?」
「っ!」
 ほんの少し揶揄をのせて、上目遣いに窺えば、てきめんに反応した。
 これが楽しいから、つい……ね。
 肩を竦めて気付いていないふりをして、窓の外を見やった。
「あの……」
 声で乞われて視線を戻した。
「そうだ……、隅埜君、明日一緒に行かないか?バーゲン」
「え?」
 動揺を隠しきれない表情が面白くて、だから誘ってしまったのかも知れない。
 それに敬吾の頭の中には明日は穂波が仕事だと言っていたことは既に入っていた。その暇つぶしの意味もあったが、それでも啓輔を困らしたいという思いの方が実は強かった。
 だんだん意地悪くなるな。
 その原因が穂波にあると言い逃れるのはあまりに責任転嫁かも知れないが、本音は間違っていないと思う。
 彼も相当に意地悪いから、それに対抗するには生半可なことでは駄目なのだ。
 心も体も鍛えようとして、気が付いたら啓輔を格好の的にしてしまっていた。もっとも、穂波と付き合うきっかけは啓輔のせいでもあったのだから、彼にも責任を転嫁しようと思っていることも、ないとは言えない。
「どう?」
「え……と……」
「……ああ、家城さんと用事があるんならいいけど」
「あ、いえ……ないです」
 傍らで、服部がハラハラして見ているのは、それぞれの恋人が実は嫉妬深いと知っているほどには、敬吾達とは仲がいいからだ。
 だが、それは服部の方がよっぽど大変そうで、だから彼はあえて誘わなかった。
「もしよかったらでいいんだけどね。俺も最近は買い物行っていないからどっか他にいい店があったら知りたいなあと思って。隅埜君のお薦めは、HUNGだけ?」
「あ、いえ……」
「じゃあ、明日12時でどっかでお昼食べよう……OK?」
「あ、はい」
 それはほとんど条件反射の返事であっただろうとは気付いていたが、一度取った言質を手放さないと微笑む。途端に啓輔が、自らの失敗に気付いたのだろう。その顔が完全にひきつっていた。


 それならそれですっぽかされても良いとは思っていたのだが、やはり啓輔はちゃんと来ていた。
 最近、出掛ける時はたいてい穂波と一緒だったから、こんなふうに違う人と出かけるというのはほんの少し楽しみにしていたこともあって、妙に心が浮き足立っている。
「とりあえずお昼、食べようよ」
「そうですね?。俺、朝あんま食べないからお腹すいて」
「どこがいいかな?」
 こんなふうに遊ぶのもたまにはいいな、と、邪気のない笑顔の啓輔を見やる。
 あの時は、とてもこんな子だとは思わなかったけど。
 初めての出会いの時は最悪で、事が終わった後は憎い対象でしかなかった。荒んだ冷たい表情の男が、会社で新入社員として現れた時、最初は全く気付かなかったほどだ。知った時には、うまく演技していると思ったけれど、実はそれが本当の彼なのだとすぐに思い当たった。
 それに家城と付き合うようになってから、啓輔はどんどん年相応の表情を見せるようになって。仕事熱心で、事故で両親を亡くして頑張っているそんな彼を、敬吾はいつまでも憎む事などできなかった。
「緑山さん、何食べます?」
「そうだね」
 考える仕草に笑みを返して、じっとその様子を眺める。
 敬吾は最近啓輔のことを弟のようだとすら思うことがあった。兄弟はいたが弟という存在はいなかった敬吾だから、本当の弟というものがどういうものかは判らない。
 それでも、ふとそう思ったのだ。
 もし啓輔が、それとも敬吾が、どちらかが会社をやめて離れることになったら、寂しいだろうと思う。それは同僚や、後輩達とそうするよりも、もっとだろう。
「俺……食べる量だけは多いけど、好き嫌いはそうないから、だから何でもイイよ」
「そういえば緑山さんは、すごくよく食べるんですよね?。そんなに細いのに」
「そうなんだ」
 いつも言われるその言葉に、いつものようにくすりと笑って返す。
「穂波さん……も、驚いたんじゃないですか?」
「ん、今でもまじまじと見られることがあるよ」
「でも太らないんですねえ」
「……だから、燃費が悪いって言われるんだ」
 やせの大食いを地でいくと言われて、食べ方が悪いという指導までされてしまった。
 敬吾は、時折横を向いて隣を歩く啓輔を見上げていた。
 少し長くなった前髪が鬱陶しいのか、手で掻き上げている。指に絡まる艶やかな黒い髪は見た目よりも柔らかそうに見えた。
「……もう伸ばさないのか?それに色も……」
 もし、長くしたらあの時のような顔立ちになるのだろうか?
 ふと、そんな事を思ったのは、あの時と同じ顔を見て動揺しなければ、少なくとも啓輔に限って言えば心の中で全てがケリが付いたと思えるからだ。
「……伸ばしません……」
 揺らいだ瞳が細められて、自嘲気味に低い声が零れた。
 それは周りの喧噪に消されそうな程、小さな声であったが、その口許を見つめていた敬吾には何を言ったのかはっきりと判った。
 啓輔は、もう伸ばさないと言う。
 それは、過去との決別なのだと、敬吾なら判る。
 長い髪は、啓輔にとって既に忌まわしい過去と同じものなのだから。
「そうだね。君は短い方が似合うよ」
 見たいと思ってはみたが、それでも啓輔の言葉に安堵していた。


 楽しそうにウィンドウを覗いている敬吾に、啓輔は眩しく感じて目を細めた。
 この人は強い。
 何かにつけ思い知らされること。
 敬吾は初めて出会った瞬間から羨む対象であった。
 落ち込んだ虚ろな瞳が力を持った瞬間を見た時から、自分にないそれを求めて、あきらめれなかった。それは本当に、手に入らないのなら壊したいと思うほどに羨ましい力だった。
 あの時、自分が敬吾に与えた行為が彼にとってどんなに屈辱的なことであったかを、啓輔は決して忘れない。人が持つ物を羨んでしまったそんな愚かな自分が信じられなくて、壊そうとした行為は、いつも彼を見るたびに心のどこかでちりちりと刺激する。
 なのに、忘れられない。
 初恋というのは忘れられないものだと聞いたことがあったが、きっとそれと同じなのだろうけれど。
 今の恋人をどんなに愛していようとも、いつか離れてしまっても敬吾のことは忘れないだろう。そんな自覚は常にあった。
 それでも、会社に入って再会して、今こうしていることが信じられないのも事実。
「ああ、あれなんか隅埜君に似合いそうだね」
 ほんとうに過去のことなど何もなかったかのように親しく付き合ってくれる敬吾に、啓輔は目を離せない。
「あの色だったら、緑山さんの方が似合うと思うけど」
 少し低い位置にある瞳が地下街の灯りを受けて、綺麗に輝く。その瞳が悪戯っぽく細められて。
「でも、君も似合うよ」
 もう一度同じ言葉を伝える。
「……」
 敬吾には反論などできない。反論する前に啓輔の方が悩殺されてしまうのだ。
 敬吾の笑顔を見ているだけで、どきどきと鼓動が早くなる。こんな自分には呆れてしまうのだが、それも仕方がないと最近思うようになってきた。
 きっと赤くなっているだろう顔を、無理だと判っていても逸らしたくて敬吾に背を向ける。そのちょうど目の前にディスプレイ用に鏡があって、啓輔が写っていた。
『髪、伸ばさないの?』
 そこに写る少し伸び始めた髪に、先ほど問われた言葉が脳裏に甦る。
 思わず触れた髪は、もうすっかり黒色でそれに慣れてしまってたから、今更染めようなんて思わなかった。何より、色が変われば思い出したくない過去を思い出す。
 若気の至りといえば聞こえはいいが、あの頃の自分は今から思えば汚点でしか過ぎない。
 会社に入って、いろんなことがあって。
 やっと本当の自分に戻れた時、啓輔はもう絶対に過去の過ちを繰り返さないと誓った。
 何より、今この場にいない恋人とは絶対に離れたくないから、それを壊すようなことはしたくなかった。あの、外見上は冷静沈着で理路整然とした言葉で相手を翻弄する家城が、その内面はひどく感情的で人恋しく、しかも嫉妬深いと知った時から、それはずっと啓輔の心の中にあったことだ。
 だからこそ、からかう敬吾の眼差しや言葉に堪えられる……はずであって。
「何、見てんの?」
「えっ、あ……」
 鏡越しに見つめられて、ごくりと息を飲んでしまうのは……もう条件反射に過ぎないと思っているのだが。
 くすくすと蠱惑的な笑みとともに離れていく敬吾から結局目が離せなかった啓輔は、大きなため息をわだかまりそうな熱ごと吐き出すしかなかった。


 それでも昨夜、家城の嫉妬に満ちた瞳を安心させるように伝えた言葉を忘れない。
「どうして信用してくれないかなあ。緑山さんはいっつも俺をからかってくれるけど、あの人だって恋人いるし。俺だって……純哉のこと……」
 何よりも愛しているのだから。
「……仕方がないですね」
 そう言って、本当に仕方がないと許してくれた家城に、啓輔はすり寄ってキスをねだる。
 膝の上に背を預けて、寝っ転がって、上から降ってくるキスに受け止める。最初は柔らかく、そしてだんだん深く強くなるそれを自ら口を開いて受け入れていた。
「ん……」
 それだけの行為で、簡単に火がついた体がその先を求める。手を伸ばして家城の首にその手を搦めて、もっとと引き寄せた。お互いの口から零れる荒い息にすら煽られて、互いの間にある布地すらもどかしいと思う。
 家城の唇が頬を伝い首筋を這い上がる。耳朶を甘噛みされて堪えきれなく喉が鳴った。
「啓輔……今日は大人しいんですね」
 くつくつと吐息で笑れて、それが耳をくすぐる。それすらもぞくりと肌を粟立たせた。
「別に今日……だけじゃ……っ!」
 言われた言葉に反論しようとして、次なる快感にそれが続かない。
 家城の手が、いつの間にかシャツの下に潜り込んでいて、啓輔の乳首を摘んでいた。その強弱を心得た動きに、何度も息が詰まる。
 もう何度も抱かれた家城には、啓輔の弱いところなどバレまくっていて、あっという間に追いつめられる。
「……でも、罪悪感もあるんでしょう?」
 離れた家城が体勢を変えて覆い被さってきて、至近距離で視線を合わせられる。その切なげに揺れる瞳に、胸がきりりと痛みを訴えた。
 こんな悲しい顔をさせるつもりはなかったのに。
 ただ、欲しいと思ったから家城にキスをねだったのだが、改めて言われるとそれが否定できない。
 敬吾に逢うことが、家城への申し訳なさになって、それで大人しく受けようとした。
 そう言われてもしようがないくらいの自覚はあったから。だからといって、ここで謝るのも家城を傷つけそうで、啓輔は冗談めかして、にへらっと嗤いかえした。
「何だよ、だったら俺にさせてくれる訳?それならそれで張り切っちゃうんだけどなあ」
 そんなことを言うから、殊勝な態度がバカらしくなったと手を家城の太股へと差し入れた。そこを撫で上げて、股間ぎりぎりのところでもう一方の太股へと移る。
「っ……」
 小さな声が家城の喉から漏れ、その頬が微かに強張った。
 そんな鉄仮面とすら評される表情が崩れる瞬間は、啓輔の欲情を煽って仕方がないもので、啓輔はさらに大胆に手を進めようとした。と、その手が掴まれる。
「駄目ですよ。今日は私の方がたっぷりとしてあげますから」
 さっきまでの切なげな瞳はどこに行ったのやら?
 敬吾の笑みが小悪魔なら、家城の笑みは魔王のそれだ。狡猾で何もかもを支配しようとする。だが、家城のそれは、その裏に潜むものを知っている啓輔にとって、甘美なものでしかない。
 絶対的な威圧感を持って、仕事をこなす家城は、本当は誰よりも人に甘えたがっているのだが、そのやっかいな性格上、それができない。だからこそ、啓輔の存在が家城にとっては必要不可欠で、それを啓輔も感じていた。
 そして、啓輔の行為に誰よりも可愛らしい反応を示す家城を知っているから、それを見たいがために今日は素直に従う。
 確かに敬吾に揺れ動いてしまう多少の罪悪感はあるとしても、それはほんの僅かなことにしか過ぎなかった。
 今は、ただ彼を満足させたかった。その裏には、次にくるいつか家城を抱く日が頭にはあったけれど。
「お手柔らかにな……」
 今は笑って返して、啓輔は次を求めて腰をすり寄せる。
「加減は……できませんよ」
 苦笑を浮かべた家城の手が啓輔の股間を撫で上げ、それにぞくりと体を震わせる。
「ん……もっと……」
 その穏やかにして焦れったさ満載のその愛撫に、啓輔は不服そうに唇を尖らしていた。


 言葉の割には優しかったと思う。
 朝、ぺちぺちと頬を叩かれて目を覚ました啓輔は、体に残る違和感が酷くないことに気が付いた。
「そろそろ用意しないと……」
 しかも、敬吾との約束の時間に遅れないようにと、目覚ましの代わりまでしてくれる。
「ん……」
 決して上機嫌ではないけれど。
 すっかり整った朝食の用意に視線を移して、決して手抜きではないその量にいつもと変わらない態度を見いだして、再度家城を見やる。
「ほんとに……行って良いのか?」
 もしかすると行けないほどに攻められるかもしれないと思っていたのに。
「約束したんでしょう?だったら、約束は守らないと。それに……あなただって、友人……のつきあいというものは大事にしないと……」
「純哉……」
 普通の態度を取っているつもりなのだろうけれど、そこはかとなく微妙な違和感が言葉に乗っていることに啓輔は気が付いてしまった。
 家城は決して手放しで賛成しているのではないのだ。それでも行かせようとするのは、それだけ啓輔の考えを優先してくれるからで、今はその行為が嬉しくて堪らない。
 啓輔は、起きあがりながら傍らの家城の腰をそっと抱き寄せた。
 近づくその瞼が閉じられるのを見つめながら、微かにコーヒーの香りのするその唇に口づける。
 時に強硬な態度を見せる家城ではあるが、それでも啓輔にとっては可愛いとしか言い様がない恋人なのだから。
「ありがと……。なるべく早く帰るから……」
 だからこそ、こんな約束までしてしまう。
「……ゆっくりしてきていいんですよ?」
 しかもその返事は想像通りで。
「ん……。でも、俺は純哉と一緒にいたいし」
 途端に頬を染める家城に、啓輔はその言葉が決して嘘ではないのだと教えたくて、再度口づけていた。


続く