仕事始めの日、と言っても、毎年代わり映えのしない社長の訓辞以外は、いつもと変わらない。
と思っていたけれど……。
営業工材二チームの部屋の片隅で、本日最後の電話をおいた来生ははふっと小さくため息を吐いた。
年始の挨拶がてら電話をかけた得意先の担当者が意外にも休みが多かった。
会社自体はやっているのだが、休みを取っている者が圧倒的に多いのだ。
……みんな暇なのかなあ……。
今回の年末年始の休みは、きっちり土曜から日曜までのカレンダー通り。来生自身、前後に休みをひっつけて伸ばしたいと思ったのだから、それを実行した人達も多かったということだろう。
それに。
と、部屋をぐるっと見渡せば、来生のチームも空席が目立つ。
7人分の机が3つも空いている。勤怠を記載するホワイトボードの勤怠の欄は欠勤だ。
質の悪い風邪は、年末からずっと来生を含めて同僚達を脅かしていたが、さすがに気の緩んだ正月休み。細菌とウィルスの総攻撃に撃沈したらしい。
今はいいけれど……。
これが一週間も経てば、得意先も活発になって人手不足のあおりを受けることになる。
そうなれば、とりあえず元気なメンバーにしわ寄せが来るのは必須で、来生はその惨状を想像して眉をひそめた。
ここ数年、風邪らしい風邪をひいていない。
体力だけは体育会系並の来生は、毎年そのあおりを食っているのだから。
「来生さんっ!帰りませんか?」
元気な声に、顰めていた口元を綻ばせた。
くるっと肩越しに上を向けば、今年度の新人で唯一の後輩の坂木がにっこりと笑みを浮かべながら見下ろしていた。
「坂木は、終わったのか?」
新人研修の時から一緒に仕事をしている坂木は、来生になついていて、いつもこうして声をかけてくる。
「はい、今日はお得意さんも風邪の方が多くって。外回りをする予定もないし」
トレードマークのような笑顔で答えが返ってくる。
ちょっと頼りない雰囲気はあるが、はきはきとしている上に細かいことにもよく気付く坂木は、これでも得意先の受けは良い。
「こっちも同じだよ。じゃ、帰るか」
手の空いた時間に、日報も書いて終わっていたから、帰るのに支障はなかった。
椅子にかけていた上着を羽織り、バックを手に取る。
坂木も自席からバックを取り上げて、来生の元に駆け戻ってきた。
「どこかで食べて帰りませんか?」
「そうだな」
嫌みのない笑顔というのは、見ていて気持ちがいい。
つられて笑顔になった来生が頷くと、坂木が嬉しそうにその目元を細めた。
「どこがいいですか?駅前のあの店にします?」
住んでいる場所も近所だから、たまに一緒に食事に行く。だから、坂木の”あの”という言葉の指す場所がすぐに思い浮かぶ。
「ああ、いいね。でも休みじゃないのか?」
確か、先週はずっと休みだったと思い起こしていると、坂木は即座に頭を振った。
「今日から開いています。貼り紙確認していますから」
相変わらず、その辺りにそつはないな。
そう言う所も来生は坂木を気に入っていた。
そう……気に入っていたのだ。
何かを問いかければ、的確な返答が返ってくる。
用事を頼めば、ついでだと別の用事までこなしてくれる。
同僚達に『ツーカーの仲だな』と笑われるくらいに、坂木は来生の言葉の先を読んで実行するから、一緒にいて楽しい。
背の高さは普通なのだが痩せぎすの坂木はどこか小柄に見える。付け加えて、いつもにこやかな笑顔を浮かべる顔は、実は来生の好みなのだ。
見ていて不快でないという意味で。
不快どころか、楽しい。
「坂木、この休み何していたんだ?」
電車に乗って、ぼんやりと外を見ていた坂木に問いかける。
「え?あ、31日から2日までは実家に帰りましたけど、後は大掃除も何もしていないです。ずっと部屋でごろごろしてました」
そういえば、そんな事を年末にも言っていた。
坂木の実家は、隣の県だから帰省といってもたいしたことは無い。
「そうか。俺も似たようなものだな。って言っても実家にも行っていないけど」
お陰で、正月早々電話で母親に愚痴られた事は内緒にしておこう。
なんというか……みっともない。
どうも坂木の前だと、そういう愚痴というか恥みたいな事は言いたくない。
坂木相手では、いい先輩でいたいという見栄が他の誰よりも強いというのを来生は自覚していた。
「でもね、俺、まだ初詣もバーゲンも行って無いんすよね」
「まだ、松の内だから週末にでも行きゃいいじゃないか」
「でも、行っても屋台が出てなきゃ意味無いっすよねぇ」
ぼやく坂木に、来生はぷっと吹き出した。
脳裏に、人混みの中、屋台でいろいろと買い込んでいる坂木の姿を思い浮かべてしまったのだ。
「何です?」
「えっ……あ、いや、何でもない」
慌てて首を振って、誤魔かす。
「でも、急に笑うなんて……?」
胡散臭げに見つめてくる坂木に本当のことなど言えない来生は、曖昧な笑みを浮かべて口を噤んだ。
言える訳がない。
その隣に他の誰でもなく、自分の姿を想像したなんて。
楽しそうな坂木が来生に買ってきた物を差しながら浮かべる笑顔が見たい、と思ってしまったことを。
「まあ、先輩が何を想像したのかだいたいわかりますけどね」
少しだけ顔を逸らした坂木は怒っているようで、だがその口元には苦笑が浮かんでいた。
「何をだよ」
「どうせ、子供っぽいって思ったんでしょう?来生さん、そういう人混み嫌いですもんね」
いつもそうだから……。
仕方がないと微苦笑を浮かべる坂木に、来生も苦笑を浮かべる。
確かにいつもそう言ってからかってはいるけれど。
時折見せる子供っぽいところも、実は気に入っているからついついからかってしまう、なんて、どう考えたって言えやしない。
このままずっと、配置換えなんか無しに、坂木が自分の下にいてくれたらどんなに嬉しいだろう。
こうやって、いつまでも仲良く傍にいて欲しい。
いつまでも……ともに。
そんな密かな願いを、実は年越しの除夜の鐘を聞きながら願ってしまったことを思い出して、来生はふっと自分の手元に視線を落とした。
最近、何を見ても坂木の事を考えてしまう。
好みだったはずの女性アイドルの水着姿を見ても、いっこうに何も感じない。
煩悩を振り払う筈の除夜の鐘を聞きながら思い浮かべたのは坂木のことだけ。
坂木の……笑顔だけ……。
「ね、来生さん?」
ぼんやりとしていたせいで坂木が話しかけているのに気付くのが遅れた。
少し強い口調の坂木に、はっと顔を上げた。
「何?」
心臓がドキドキと酷く高鳴る。
坂木のことを考えていたのだと気取られたくなくて、視線を微妙にずらし、平静を装おう。
そんな来生の様子に坂木は気付いていないのか、ずっと気になっていたというように問いかけてきた。
その声はいつもように明るく、煩い電車の駆動音もモノともせずに伝わった。
「来生さん、4Pって知ってますか?」
「!」
ヨンピィッ!?
途端に頭に浮かんだのは、4人が裸で絡まっている姿……。
4Pって……4Pだよな……。
4人でするってヤツだよな……。
頭の中をピンクの空気が取り巻く妄想が妖しく蠢く。
いったい、坂木は何を言い出したんだ?
どこか冷静な部分がそう問いかけては来るけれど。
ピンクの妄想は、気がついたらその中心にいるのは坂木になっていた。
3人の”男”を従えて、コケティッシュな笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。
ドクンッと心臓が跳ねて、そのショックに視界がぶれた。
硬直する来生に、当の坂木は気付いていないようで、何かを思い出しているかのように視線を中空に彷徨わせていた。
「今度のマーケティング試験、記述の採点が70・50・20って……三段階だそうなんですよぉ。妙な事書いてすっぱり減点されたら、辛いですよね」
どこか遠くで聞こえた声にぼんやりとした視界がすうっとはっきりしてきた。
マーケティング?
何で4Pの話から、記述の採点……なんて……。
呆けていた頭が急速回転して、単語の羅列から意味をはじき出そうとする。
マーケティングの試験で4P???
……って!
あっ!!
不意に4Pの本当の意味に気がついた。
気がついた途端に、自分がとんでもない間違いをしていたことも気がついて、さあっと顔に血が集まる。
熱いくらいに火照ってしまった頬に坂木に気取られないようにと、慌てて出した声はいつもより一オクターブは高い。
「あああ、それはなぁ???」
マッカーシーの4Pかよ?っ!
頭の中を頭文字にPを持つ4つの単語が飛び交う。
「マーケティングミックスだよな。対象市場に対する戦略的条件の……。確か、プロダクト(Product・製品)、プライス(Price・価格)、プレース(Place・流通)、プロモーション(Promotion)だろっ」
最初に浮かんだPとは似ても似つかぬ単語を舌に乗せる。
「そうです?、マッカーシの4P。それって、書き間違えて減点されたら目も当てられませんよね?」
来生の動揺に気付いていないらしい坂木が、そう言いながらうんうんと頷いている。
「あ、ああ……他にも似たような単語はあるし……。坂木は英語、苦手だったっけ?」
「そうなんですよお。ほら、他にもあるじゃないですか、4Pみたいなの」
だから……4Pって言うなって。
坂木がその単語を口にするたびに、妄想が甦る。
本当の4Pの意味が判っているにもかかわらずだ。
「ほら、今工場がやっている5Sとか……それに品質関係の4Mとか……」
SとM……。
SM……。
って……おいっ!
さらに妄想が発展しそうになって、来生は慌てて話題をすり替えようとした。
「今回のテストでは、特に市場の動向をどう捉えるかっていう面が出るらしいって噂だけど?」
「あ、それ俺も聞きました。やっぱり、最近の市場の変化って激しいからでしょうねえ」
あくまで真面目な発言の坂木には、来生の苦悩など気付いていない。
マズイ……。
眉間にシワを寄せてテストの傾向を考え込む坂木が気になってしようがない。
いったん意識し始めると、一度浮かんだ妄想は容易な事では来生の頭から離れていきそうになかった。
こんな衆目の場で顔を赤くしている自分はどういう目で見られているのだろう?
そんな事まで考えてしまい、さらに沸き起こる羞恥心が顔を熱くする。
「来生さん、つきましたよ」
緊張と羞恥心に息苦しさすら感じ始めたとき、ようやく目的の駅に着いた。
「……ああ」
なんだか妙に疲れている体は動かすのも億劫で、早く部屋に帰りたい。
今は、坂木の傍にいたくなかった。
坂木が視界に入るたびに、消えない妄想がさらに鮮やかに甦る。
だが。
「来生さん、今日はまだ空いていますよ。やっぱりいつもより早いからですねえ」
あの店を覗き込んだ坂木がくるっと振り返って嬉しそうに笑う。
「……あ、ああ」
そういえば、一緒に食事をする約束だった。
今更その約束を反故にするのもおかしな話だし、しかも坂木はすでに店の中に入りかけている。
一緒にいるのが楽しいと思っていた相手なのに、それが妄想の対象になってしまうと、傍にいるのも苦痛になる。
そういう欲求を自覚してしまった来生は、このまま踵を返して帰りたい欲求に捕らわれそうになりながらも、のろのろとその後について入っていった。
このまま帰ってしまえば、坂木の機嫌を損ねてしまう。
それだけは避けたいと思ったから。
【了】