【DO-JYO-JI】(5) 契約の章

【DO-JYO-JI】(5) 契約の章

dojyoji5


【DO-JYO-JI】 契約の章
 ひどく怠くて、思うように身体が動かない。体内奥深くの違和感と言うにははっきりとした痛みが、意識を無理に覚醒させる。
 もっと寝ていたい。
 だが、怠さと痛みがそれをさせない。寝返りをするのも億劫なほどに、あちこちが痛くて、不快だった。
 後孔にいたっては、まだ何かが入っているような異物感と腫れぼったさに苛まれている。
「なんだよこれ──って……ああ、そうか」
 もう嫌だと思った快楽なんて初めてだった。
 何度も何度も射精して、なのに許してもらえなくて。
 もう壊れる──と、思ったことは覚えている。
 一体、いつ終わったのか。
 掛けられていた布団を剥ぐと、一糸纏わぬ自身が目に入る。
 さらりとした肌は、最中にはどちらの物とも判らぬ体液に汚れまくっていたのに。そんな名残など一片も見られない。
 それに、ベッドのシーツも肌触りが良くて、清潔感溢れるものだった。
 少なくとも自分でした記憶はないから、あの千里がやってくれたのだろうけど。
 綺麗に清拭されていると判る身体に花びらのような痕もあって、気恥しさと戸惑いが湧き起こった。
 何て言うか……。
 優しいのか意地悪なのかよく判らない。
 しかも、あんなにも絶倫だなんて……。
 さんざん嬲られた身体には、奥深くに抱え込んでいた熱など、跡形もない。
 だが、それとは違う熱が消えない。
 あの纏わり付くような視線と絡み付く四肢。舌なめずりしながら肌に触れてくる舌の動きは、中井の大嫌いな生き物に酷似していた。
 ぞくりと粟立つ肌を抱き締めて、重苦しいため息をシーツに落とす。
 もういらない、と思っているのは間違いない。
 なのに……。
 千里の気配を感じる場所で、身体が触れられることを期待している。
 これって……怖いもの見たさに似ているよな。
 近づいてはダメだと判っているのに、つい振り返る。
 その瞬間に射竦められ、捕らえられて、浴びるほどの快感に溺れさせられる。
 そのうちに、それに慣れさせられて──。
 だが、中井自身も自覚もしているこの貪欲な身体が、あの絶倫に慣れてしまったら、一体どんなことになるというのか……。
 中井よりは少ないとは言え、それでも何回も達ったはずなの千里。その疲れなど微塵も感じさせずに、ただしつこく、中井に快感を与えることを楽しんでいたように見えた。それこそ、最中に意識を失った中井を揺り動かして目覚めさせ、続きをしたほどに。
 まるで蛇が捕らえた獲物を、じわじわと締め付け、殺すように。
 ゆっくりゆっくり、飲み込んで行く。
 毒牙にかかった獲物は、身動きもできないままに、その身体を晒すことしかできない。
 どう足掻いても、蛇にしかたとえられない男に、中井はがくりと肩を落とした。
 蛇は子供のころから苦手だった。
 触ることはおろか、視界に入ることすら嫌で堪らなかった。
 なのに、何で大人になってから、蛇に翻弄されなきゃいけないんだ?
 昨夜のあれだって、とにかくしつこすぎて。
 天国を見せると宣っていたが、あれは天国なんかじゃない。あれは、地獄だ──快楽地獄だった……。
 それなのに、身体は期待するのだ。
 それほどまでに千里が巧かったのは認めるけれど。
「やってらんねぇ……」
 いくら園田のためとは言え、あれでは堪らない。 
 せめて、昨夜の三分の一……いや、でも……。
「あ?あ……。こりゃ、考えもんかも」
 メリット以上のデメリット。
 許容するには、問題が有り過ぎた。
「も、怠ぃいし……」
 身体を起こし続けるのも億劫で、中井はごろりとベッドの上を転がって、仰向けになった。
 そんな些細な動きにすら、身体が軋む。が──。
「なんだ、これ……」
 怠さと痛みに気を取られて気づくのが遅れたそれら。
 動いた拍子に腕に絡んだ1センチ程の径を持つ赤と黒の組み紐と首に感じる違和感。
「……まさか……」
 掌に乗せて持ち上げた紐の片端は、どう見ても顎の下で繋がっていた。手で探ると分厚い革と金属を感じた。
「これって、首輪?」
 まさか、と、引きつる笑みを浮かべながら、何かが引っ掛かって金具が外れないことに、冷や汗が流れる。
 慌ててベッドに座り込み、顎の下にある見えない金具を必死で辿った。
 けれど、無情にも、普通ならそんな所には有り得ない小さな金属の塊に気が付いた。
 しかもきっちりとセットされたそこには、鍵穴しか感じられない。
 まさか、まさか……。
 思わずぶら下がった紐の、もう一方の端を探って。
「あ……」
 ずるりと手元にやってきた持ち手になる輪っか。幸いにもそれはどこにも繋がっていなくて、ほっとする。
 けれど。
 なんでこんな物が付いているんだ……。
 これでは、まるで──犬、じゃないか……。
 脳裏に、やけに楽しげに微笑む千里の姿が浮かんだ。
 途端に全身を襲った震えに堪らず熱い吐息を吐き出そうとして。
 そんなバカな、と、思いっきり首を振った。
 これは、絶対に悪寒だ──絶対にっ!
 たとえ、下腹部の奥がずきずきと痺れていても──。
 嬲られ続けて、今だ違和感の残る後孔がひくりと震えていたにしても。
 あの絶倫のサド男の遊びに対する悪寒なのだ、これはっ!
 きつく奥歯を噛み締めて、何度も何度も繰り返す。
 ざわざわと総気立って粟立つ腕を摩り、緩く反応する己を足で隠した。
「畜生?、あんの青大将……」
 考えるだけでは収拾のつかない思考を、さらにごまかそうと使った、
その時──。
 まるで狙ったかのように、タイミング良く扉が開く。
「悪口が聞こえたようだけど?」
「ま、まさかっ」
 そんな大きな声で言っていない。
 聞こえるはずないと、冷や汗を流しながら。首を振る。
 近付く千里が浮かべているのは、冷笑だ。
 もっともそんな笑みを見なくても、込み上げる緊張感を消すことはできない。
 敵わないのだと、たった一夜で本能に刷り込まれた相手。
 蛇のような印象がきえない男を目の当たりにして、ごくりと息を飲む。
 園田や卓真に怒鳴られるのは平気なのに。
 特に園田の怒声は達ってしまいそうなほどに気持ち良いのに。
 この男の笑みは、脅えることしかできない。
 それでも首輪は我慢できなくて、震える声で懇願した。
「外してくれよ、これ……」
「でも似合いますよ、その首輪とリード」
「で、でも、こんなの……」
 どうしよう。
 嫌なのに、身体の奥が疼く。
 捕らえられ、拘束される行為に、身体が期待しているのが判ってしまう。
 やばい……。
 隠し切れない高揚感は、隠す物もない中井の身体にも顕著に出てくる。
 ふふ、と千里が微笑む。
「外したい? 外して野良犬になる? 一匹で孤独に生きる野良に。それでも良いなら外して上げる」
「な、なんだよ、それ」
 一体、何を言っているのか。
 判らないと首を振ろうとして、けれど頭は固定されたかのように動かなかった。
 ぺたんと尻をついて、ひざを曲げて。
 前に掌を付いて、千里を見上げる。
「私に飼われなさい。そうすれば、孤独になることはないよ。いっぱい可愛がって上げるから」
「あっ……」
 胸いっぱいに甘酸っぱいモノが込み上げて、中井は堪らずに顔を顰めた。
 嬉しい、と、歓喜に胸が震える。
 だがすぐに、そんなことを感じた己に戸惑った。
 ど、どうして……。
 惑う視線が宙を漂う。
「可愛い子だね」
 千里が囁く言葉に、反感も強い。なのに。
「たくさん可愛がって上げたくなるよ……」
「あっ……ふっ」
 蕩けるような言葉と視線に、身体が過敏に反応した。
 肌が沸騰したかのように熱を持ち、感覚が一気に鋭くなる。
 視線が肌を這うのが判る。
「ああ、思い出したのかい? 物覚えの良い子だね」
 良い子、と、昨夜何度も言われた。
 中井が素直な反応を返すたびに、優しい声で囁かれた。ご褒美だと、気が狂いそうなほどの快感が必ず一緒に与えられた。
 その記憶が頭に浮かぶより早く、身体を反応させる。
 陰茎が震え、最後まで絞り尽くしたはずの滴が、じわりと滲み出る。
「あっ、あ……何で……」
 何も身につけていない中井の反応は、淫らに晒されるしかない。
「良い子だね」
 囁かるたびに、陰茎がむくりと鎌首を持ち上げる。
 これは違うのに。
 園田の声じゃないのに。
「あ、あっ……嫌だ、やだ……」
 千里の指が、首輪を掴む。
 逃げたい、戻りたい。
 これ以上ここにいたら、自分がどうにかなってしまう。
 理性が悲鳴を上げていた。
 逃げないととんでもないことになる。
 昨日だってあんなに辛かったのに。
 なのに。
「んくっ」
 吐息すら奪われるほどのキスに、理性が消えていく。
 口蓋の粘膜をなめられて、舌を強く吸われて。
 溢れる唾液を流し込まれる。
「あ、……あぁ」
 手が今度は裸の尻に触れてきた。
 撫で上げられ、狭間に指先が入ってくる。
「や、やめっ」
「どうして? 君のここはこんなになっているのに。しなくて良いのかな」
「あ、ふっ」
 陰茎も撫で上げられ、腰が勝手に揺れた。たらたらと涎を垂らし、ふるふると期待に打ち震えているそこにもっと刺激が欲しくて堪らなかった。
「ど、して……こ、こんな……」
 どうしてこんなにも呆気なく感じてしまうのだろう。
 判らなくて、目の前の男に縋る。
「君が淫乱だからだよ」
 嬉しそうな声音が耳に落ちてくる。ただ羞恥から否定しようとしたが、指先で陰茎の先端を弄ばれ、揺れる上半身を啄まれて背を反らす。
 滴り落ちるのは涙と唾液と、そして陰茎が零す液。
 千里のいきり立ったモノを受け入れた身体が、狂喜する。
 いまだ柔らかかったそこは受け入れたそれを難無く銜え込み、頬張り、奥へと誘った。
「今日はもう無理かなとも思ったけれど。美味しそうだね、嬉しいかい?」
 抱き締められて弧を描くように動かされて、身体がどうにかなりそうな恐怖に泣き声を上げる。
「い、いや、だ……こんなの」
 こんな優しく動かされると、感じ過ぎて泣けてくる。
 心許なさと、地に足が付いていないような不安定感に、脅えが走った。
「い、嫌だ、こんなの」
 優しい時も楽しい時も、いつも唐突に終わりを告げたから。だからとても怖くて。
「どうして? 君は本当は優しくして欲しいんだろう? もっともっと、かまってもらいたいんだろう? ずっと、傍らにいてくれる人が欲しいんじゃないかい?」
 違う──と言いかけて。けれど、喉の奥で引っ掛かって出てこない。
「君を見ていると、捨てられた子犬を連想してしまう。だから、首輪を上げたんだよ」
 そんなことは絶対に無い。
 絶対に違う。
「だって、俺には園田さんがいるのに……、桂さんも……卓真さんだって……」
 必死になって言い募る声音は、だんだんと弱くなった。
「だって……」
「彼らは、君だけのものなのか?」
 容赦ない言葉に、また言葉が出なくなる。
 自分だけのもの──なんてあるはずも無かった。
 園田にも卓真にも、中井でない誰かがいる。
 桂だって優しくしてくれるのは、園田が連れてきたから、だからだ。
 くしゃりと歪む顔に口付ける千里が、涙をなめ取りながら囁いた。
「こんな淫乱な身体をしているのに、満足していなかったんだろう? 飢えていたんだろう? 寂しかったんだろう? だからあんな寂しそうな顔をして、ここに来たんだろう? ここにいなさい。君が欲しがれば、こうやって君の飢えを、すべてを消し去ってあげる」
「あっ」
 ひくり、と、心がざわめいた。
「これからは欲しいだけ、好きなだけあげるよ」
「あ、あんっ! ん!」
 頷いたつもりなんてなかった。
 突き上げられ、快感に耐えられなくて千里にしがみついただけ。
 けれど、千里が満足げに中井を抱き締める。
 その温もりにほっとした。
 ずっと欲しかった。
 自分だけの温もりが。
 望んでも、いつも手の中から擦り抜けていくそれが欲しくて堪らなかった。だけど、気がついたら無くなるそれに、いつも後悔ばかりをしてきた。
 今度は、逃げて行かないのだろうか?
「離さないよ、もう」
 そんな不安を千里の力強い言葉がかき消す。
「厭だと言っても離さない」
「あっ……んっ」
「君みたいに淫乱で嘘つきでどうしようもない子はね、躾け甲斐があって大好きだ。しかも君はそうそうおとなしくはならないだろう?」
 千里の興奮がそのまま行為の激しさとなる。
 激しくなった抽挿に、中井の身体が幾度も跳ねる。
 もとより散々嬲られてからそれほど時は経っていなくて、中井の体はとても敏感になっていた。
 もういらない、と思っていたことなど、完璧に頭の中から消えていて、千里の巧みさに翻弄される。
 的確な刺激は、確実に中井を追い詰めた。
「ん、あああああっ!」
 意識が弾け、ばらばらになる。
 白い世界に光が走り、身体が千々に千切れ飛ぶ。
 かろうじて回復しかけていた身体には、とてもきつい衝動だ。
 そのまま意識を飛ばしくたりとベッドに沈み込む中井に、千里は嬉しそうに微笑みながらそっと身体を離した。

 まだ時間はあるからね。
 ゆっくりとお休み。
 夢現つに聞こえた声音に、こくりと頷く。
 なんだかとっても疲れていて、だからとにかく眠りたくて。
「ん……」
 触れてきた手に縋り付いて、躊躇うことなく睡魔に身を委ねた。
 空腹感とそれ以上の排泄感に苛まれて、中井は目を覚ました。
 薄暗い部屋は、本当にそういう時間なのか、ただカーテンのせいなのか判らない。
 けれどそれを確認するより先にトイレに行きたくて、中井は動かすのも億劫なほどに怠い手足を動かした。軋む関節と痛む筋肉。ずりずりと這うことしかできない。
 たかが数メートルの移動が辛い。
 だが、千里を呼ぶ気にはならなかった。
 もう、厭だ……。
 これ以上されたら、マジで壊れる。
 気が付いたら流されていた。
 言葉巧みに流されて、絆されて。
 身体も……それに、なんだか心まで壊れて狂いそうだ。
「くそっ」
 思わず口の中で毒づいて、慌てて辺りを見渡した。
 また難癖付けられては敵わない。
 ドアに縋り付くように跪いた時点で、自分が全裸で首輪とリードだけの姿だと気が付いたけれど。
 尿意はどんどん切羽詰まったものになってきていて、いまさら後戻りなどできなかった。
 短い廊下の片端が玄関。
 ならば、その反対側がリビングだと考えて。
 自分が出てきた部屋から斜め先のドアを開けてみた。
「はあー」
 深い安堵のため息が零れる。
 塵一つ無いフローリングの床を這って、便器に縋り付くようにして腰を降ろした。
 尿意を解放した途端、緊張しきった身体まで解放された気分になる。
 もうこのまま動きたくなかったが、さすがに今度は全裸であることが気になってきた。しかも、首輪付きだ。
 だがあの千里に外せと言っても、なんやかんや難癖付けられてはまたベッドに逆戻りになるような気がする。
 それも厭だけど……。
 ううっ、と頭を抱えて唸った途端。
「どうした?」
「うぎゃっ」
 ドアが開くと同時に現れた千里の笑顔に、悲鳴が勝手に漏れた。腰が引けて、背後の蓋に縋り付く。
 カギをしていなかったと、今更ながらに気が付いて、臍を噛む。
「どこか調子が悪いとか?」
 手が伸びて来るのに、慌てて首を振る。
「な、何でもないっ! ああ、でも……あっちこっち痛いけど。あっ、でも何でもないっ」
 大丈夫と言ってしまうとまた犯られそうで。けれど、痛いからと言って、手当されたくなくて。
「や、やだからな。もう、やらないからな」
 言い募った挙句に、震える声で懇願していた。
 その言葉に、千里がとてもそうは見えない表情で残念がった。
「おや、それは残念。今度は趣向を凝らしてみようかと、いろいろ準備中だったのに……」
「い、いろいろ? 趣向って?」
 反応したくないのに、むくりと起き上がった好奇心が問いかける。
「すぐに用意できたのは、ロープぐらいで……。あとはローターが一つ。ああ前に、友人が手錠をくれていたので……」
「は……?」
 手錠をくれる友人?
「その彼にさっき電話していろいろ手配したのだが、どんなに急いでも3日程かかるんだよ。待ち遠しいよね」
「いろいろと手配って?」
 何を?
 聞きたくないのに請うように見上げてしまって、千里がにこりとほほ笑み返した。
「最近のディルドはいろいろな形があるというので、各種見繕うようにお願いしているからね。拘束衣もオーダーメイドで作ってもらうつもりで……。ああ、あと、潤滑剤もいろいろな効能があるようで。君はどんなのが好み?」
 好み──と言われても。
 嬉々として、鞭やらロウソクやら……と続けられても。
「そ、それ誰が使うんだよーーーー」
「だって中井君、そういうの大好きでしょう?」
「だっ、だれがぁ!」
「中井君が、だよ。あんなにも淫乱なんだからねえ。道具がきたら、一日中遊んで上げられるよ。さすがに、私でも休まずってのは無理だから」
「う、そ……」
 目の前が暗くなった。
 がくりと身体が崩れる。
 危うく便座から落ちそうになった身体を千里が難無く抱え上げた。
「いつまでもこんなところにいたら風邪ひくよ」
 肩に上半身を預けるように抱え上げられる。
 しっかりとした筋肉は、昨夜も散々味わったものだ。それに加えて、今度は道具付きで嬲られるというのか……。
「俺、もたない……」
 譫言のように呟けば、千里の肩が揺れた。
「安心しなさい。そう、簡単に壊さないよ。そんなもったいないことできるか」
「信用できるか……」
 なけなしの文句をなんとか呟いて、運ばれる揺れが心地良さに目を瞑る。
「さっきだって止めてくれなかったのに……」
 ドアが開く音がした。
 閉じたまぶたを通しても、明るいのが判る。
「お待たせしました」
 耳のすぐ近くで千里の声が響く。
 同時に息を飲む音。
 それはどう考えても千里のものではなくて──。
「えっ……」
 千里の肩から降ろされて、肌触りの良いラグの感触を膝と手のひらに感じたのもつかの間。
 中井の瞳はこれでもか、というほどに見開かれた。
「そ、のだ……さん?」
 同じく見開かれた瞳。見たことの無い驚愕の表情を浮かべているのは確かに中井の大好きな園田。
 半ば開いた口から落ちそうになった煙草を慌てて摘まんで、灰皿に擦り付けている。そんならしくない表情も、やっぱり格好良いなあ、と、中井が見つめている傍らで、千里が園田に何かを促していた。
「はい、ここどうぞ」
「あぁ……」
「園田さん……」
 園田が見つめているのが嬉しくて、じっと見つめ返す。
 その口で、何か言って欲しい。話しかけて欲しい。
 下される命令を待つ一兵卒よろしく待っていると、園田の眉間に深い皺が刻まれて、視線が外れる。
 それが寂しくてじっと見つめていると、園田の手が急いたように紙に何かを書き込んでいた。
 その間にも、時々園田の視線が中井に向けられては外れる。
 そんな惑うような動きを見せるのは初めてで、さすがに不審に思って首を傾げた。
「あの?」
 何かが起きているような気がする。
 けれど机の上に何があるのか、と、体を起こそうとしても、思うように動かない。腰に力が入らないせいでラグについている手が動かせないのだ。
「くっ」
 ぐっと怠い足に力を込める。
 傍らの千里の身体を支えに身体を起こそうとして──。
「あっ……」
 はた、と気づいた。
「あ? ──ああっ!」
 裸だった。
 肌を彩る花びらも露に、萎えた陰茎すら晒している状態。身に纏っているものと言えば、首輪とそこから千里の手に伸びるリードだけ。しかも、四つん這いの状態で。
「う、うわっ、わわっ」
 慌てて目の前にあったクッションを抱え込んで蹲る。それで隠せたものは下半身だけで、臀部から背中は丸見えだ。
 ここが園田だけなら晒してもやぶさかではないが、千里もいるこの場では場違いも良いところだ。
「な、なんで、言ってくれねぇんだよっ!」
「何を慌てているのかな」
 そう言いながらも、ふわりと身体の上に落ちてくる柔らかなタオル地の布。慌ててそれを引っ掴んで身体を隠す。
「あるんなら早く寄越せって、てめえっ」
 元凶を見上げて怒鳴れば、にやり、と、千里の唇が弧を描いた。
「おやおや、口が悪い。これはお仕置きかな」
 その途端、ぞくりと背に震えが走った。
 視線に射竦められ、咄嗟に逃げようとした身体が動かなくなる。
「どう?」
「あ、や……」
 同じ言葉を園田が言えば、身体は歓喜する。なのに、千里の口から出た言葉は恐怖と悪寒と奇妙な疼きをもたらして、運動神経までも狂わせるようだ。
 じわりと口内に溢れる唾液を、飲み込む。
 訳の判らない衝動に五感の神経もまた伝達が狂ってしまったように感じる。
 凍えそうだと思うほどに寒いのに、腹の奥深くで煮えたぎったマグマが炎を吹き上げる。
 吐き出す息は熱いのに、肌は総気立って、ぞくぞくと寒気がしていた。
「ああ、おとなしくなりましたね。良い子だ」
 それが揶揄だと判っているのに、優しく髪を梳いていく指に、嬉しいと感じた。
 一体自分の身体はどうなってしまったのか。
 もう壊れてしまったのだろうか……。
「では約束どうり貰いますね」
 千里が園田に話しかけ、園田が頬を強ばらせたまま頷く。
 よく判らない会話が頭上でされていた。
 なんだかとても嫌な予感がする。
 二人の会話の意味をとっても知りたいのだけど、同時にとっても知りたくない。
 怖々と二人を見つめる中井に気づいて、千里が満足そうに微笑んだ。
「君の望む通り私は組の顧問弁護士になることになったのだよ」
 喜べと言わんばかりの口調。
 確かにそれが目的だったと、なぜか遠い過去のように思い出す。そのためにここに来て。気が付いたら、延々嬲られた。
 ──お試し……だったよな。
 良かったら、千里が弁護士になる変わりに、中井が千里に従う──と。
 と、言うことは?
「まさか?」
 嫌な予感に心臓が激しく鳴り響く。
 冷たい汗が、タラリと肌を流れていった。
 その様子が判るのか、千里の笑みが深くなる。それがまた嫌な予感を増幅させた。
「わわっ」
 いきなりリードを引っ張られて、中井の力の入らない身体は呆気なく千里の腕の中に収まった。
「たくさん可愛がって上げるからね」
「痛っ」
 耳朶に食い込む鋭い牙。
 肌がぞくりとざわめいて、枯れるほどに出し尽くして萎えたはずの陰茎がぴくりと震えた。
 青ざめた顔に朱が走る。
 その明らかな変化に、園田が顔を歪めて視線を逸らした。
「……ったく。そんなんだから、ついサインしちまった」
 珍しい──というより、初めて聞いた動揺交じりの言葉に目を見開くと、千里が愉しそうに喉を鳴らした。
「君が私付きになることを条件に、顧問弁護士に就任するという契約だ」
「あ?」
「一度契約をした以上、きっちりと責務をこなすつもりだけど、中井君がご褒美をくれるとなると頑張りがいがあるよ」
「な、なんで俺が褒美なんかっ!」
 絶対ろくなことじゃないと判るほどに、千里が愉しんでいる。
 やばい、やばい、やばいっ。
 今すぐにでもその契約書を破きたい。
 なのに、手を伸ばそうとした途端、千里の腕が上半身を強く拘束した。今度は背から回り込んだ手が、顎を掴まえる。
「もう、逃さない」
 ひどく真剣な口調だった。
 ぎりぎりと食い込む指の痛み以上に、中井を縛る。
「君が気に入ったんだよ、どうしようもなく。それに私は一度手に入れたものは、最後まで大事にしますよ。たとえ、壊れても……。その点は安心していいよ、もう間違いなくね」
 暗い情念が触手となって纏わり付き、自由を奪われて行く。その本体もまた中井の身体をしっかりと拘束していて、逃げる隙などどこにもなくない。
 そんな想像をさせるほど、千里の言葉も、向ける視線も真剣そのものだ。
「君を犠牲にするつもりはない、と園田さんが言い張るから、私も君を大事に可愛がることは、ちゃんと宣言した。私は誰彼ともなく愛情を振り撒く性格ではないし、当然浮気もしない。それに君も私の温もりに包まれて身体どころか、心までも心底喜んでいただろう? 今だって、ほら」
 背から包み込まれ、身動きできないほど拘束されているのに、中井は自分が泣きたいほどにホッとしているのに気づいていた。
「気持ち良いだろう?」
 それは、身体だけでなく、心までも。
 気づいているから、千里の言葉が否定できない。
 ただ。
「あんた、しつこすぎるって言われたことねぇ?」
 溢れるほどの愛情は確かに気持ち良い。けれど、この男は性癖に問題がある。
 自身も少し普通でないとは思っているけれど、千里ははるかに変だ。
「ああ、私のあだ名は蛇をたとえたモノが多いのだが、それは別に仕事に限ったことではないよ」
 くくっ、と、千里の喉が震えた。
 その言葉に、園田がふと気づいたように、呟いた。
「確か蛇ってのは、交尾ん時は何時間でも繋がったままらしいな」
「ですから、蛇に譬えられるんですよねぇ」
 その言葉に、昨夜の自分たちの姿が脳裏に浮かぶ。
 もう意識もない中井に千里の身体が絡み付いている姿。肌をなめる千里の舌は赤く、やけに細長い。
「……蛇は嫌いだ」
 想像に、生理的嫌悪による寒気が走る。こればかりは、この身の本能に根付いたもので、中井自身ではどうしようもない。
 温もりの中で身震いした中井に、千里が軽く言い放った。
「蛇だと手足が無い分道具が使えないけど、私はいくらでも使ってあげられるよ。だから蛇よりもっと良いよ」
 それは、想像よりもっと質の悪い──だが、確実に現実に起こるだろうことは容易に想像できて。
「いらねえ」
 自身の拒絶が千里の頭に残らないこともまた、難無く想像できてしまった。

【了】