【DO-JYO-JI】(4) 藪蛇の章

【DO-JYO-JI】(4) 藪蛇の章

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【DO-JYO-JI】 藪蛇の章
 ここのところずっと不在だった園田。今日、ようやく戻って来たと思ったら、今度は卓真の部屋に入り浸っている。
 かと思ったら、また出かけて行った。
 声をほとんど聞いていない。いや、ついさっき、一言だけ声をかけられた。いつもならそれだけでも十分だと思うのに。
 どんなぶっきらぼうな言葉でも、園田の言葉を聞ければ、中井の身体は歓喜するというのに。
 だけど。
「来週から井口の所へ行け」
 その意味を、呆気なく理解した自分が憎い。
 嫌だ、と言えない。言ってはならないことは、やくざの世界に身を置いた時点で理解していた。それ以前に、園田の言葉は中井にとっては絶対だ。
 それでも、思わず園田の広い背に手を伸ばす。
 だが、その手は空を切り、せっかく目に入っていた姿は消えて行った。
 そのまま呆然と閉じたドアを見つめてしまうのは、それがもう一度開いて、園田がさっきの言葉を否定してくれることを期待しているからだ。もっとも、そんなことは有り得ないと判っているのに。
 それが言葉となったということは、もう決定事項だということなのだ。

 井口とは何度か会ったことがあった。
 つい先日、新しい会社を発足させた時に移って行った男だ。
 中井のことを邪険にしなかった一人で、どこかのマンションで警備をするのだと言っていた。
 そこへ行けと言うのだから、その会社で働けと言う事なのだろうけれど。
 それが園田の命令なら従うことはやぶさかではない。だがそれは、園田と会う機会が今以上に減ると言うことになる。
 誰よりも園田の側にいたい。役に立ちたいと願っているのに。
 言葉もない中井の背を、苦笑を浮かべた桂が慰めるように叩いた。
「あ、すんません」
 自身でも何に謝っているのか判らないままに、そんな言葉が口をついて出る。暗い瞳を向けた中井に、桂が仕方ないなと肩を竦めた。
 すでに初老の域に入った桂は、園田の配下の中でも特に頭が切れる存在として一目置かれている。ふだんの性格は穏やかで、中井にもよく構ってくれるのだが、しなければならないことができないからと手加減はしなくて、中井は散々扱かれた。
 園田は放任タイプだから、組のことはほとんど桂から学んだと言ってよい。だから園田の次に桂は尊敬している。
 それに桂はその切れる頭でかなり正確に、中井が何を思って、何がしたいのか知っているようだった。それでも、彼にとっても園田の言葉は絶対なのだ。
「お前なら井口も助かるだろうよ」
「……はあ……」
「園田さんはお前に期待しているんだ。ま、がんばれ」
「そうですか?」
 桂の言葉を拒絶するつもりはなかった。それでも口を衝いてでた言葉はそんなもの。
 それを桂はたしなめるどころか、眉尻を下げて中井を見つめる。
「必要でなければ放りだしている」
 苦笑交じりの言葉は優しい。
 ここにきて、皆に出会って。
 ようやく居場所を見つけた気がした所だったのに。
「邪魔、だから……それに、俺……。新居浜さんとか睨まれてるし……」
 知らず零れたため息がやけに大きく響く。
 考え過ぎだと思っても、暗い思考が紡いだ言葉は思いっきりネガティブなものだ。
 それを桂が笑い飛ばす。
「新居浜のことは気にすることじゃねえよ。あいつの仏頂面は今に始まった事じゃねえ。それに、いくら園田さんでも、本当に邪魔だと思ったら、井口の所ではなく護田ん所に売り飛ばしてるさ。お前なら良い値が付くだろうし」
「護田って──もしかして、あの?」
 弥栄組の者ではない。
 この国でも最大の夜の繁華街を支配し、潤沢な資金と力を政治家や企業とも結び付くことでより強固にして、その力で闇の世界を支配している組の幹部の一人だ。
 あの組を怒らせれば、この地方では最大勢力の弥栄組とはいえ、つぶされるのは時間の問題だ。
 そうだ、と頷く桂に、中井の背にぞくりと悪寒が走る。
 弥栄組が支配する地区に、その護田が支配する店が1件有った。
 どこで知り合ったのか卓真と護田が意気投合して、出店を許可したらしい。いや、卓真自身が遊ぶための店を護田が提供したと言った方が正しいのか……。
 表向きは普通のバーだ。
 だが、奥まったもう一つの扉を開けると、モラルなどカケラもない場所となる。
 異常なほどの欲望を解放させたい者に人気のその店の品は、人。闇の世界から流れた、品物としか呼ばれない人。
 中井がそれを知ったのも卓真を通じてだ。
 そしてその秘密はいつしか噂として、組の末端まで伝わっていた。
 裏切り者がそこにいた──と。
 だが、その店の内情も収益にも、弥栄組は関与しないスタンスを取っている。あの店はあくまで護田の店なのだ。雇われ店長も護田が連れてきていた。
 だから、あの店だけは、弥栄組の者は手を出さない。
 実際、中井も裏切り者の末路を見たことがあった。
 その店ではなく、場末のもっとも質の悪い店の裏であったが、彼が今護田の店で働いているのだと判ったのは、彼の首にぶら下がったタグに記されたマークが見えたからだ。
 そのタグは、四つん這いになった彼の首の下で、揺さぶられる度に街灯の明りを反射していた。白い肌に幾重にも重なる奇妙な赤黒い模様。膝も手も汚れ、首には鎖、そして。
 下劣な罵声の中に、甘い悲鳴が掠れて聞こえた。
 無理に捻り上げられ白濁を浴びせられた顔は、確かにあの男だった。
 まだ若い。
 良い大学を出たという経歴と、空手をやっていた腕っ節を鼻にかけていた男。権力と金に目が眩んで、組の商売ルートを他の組に流そうとして……。
 嬌声を上げる男は、まるで声を出すダッチワイフのようだった──。

 路地裏を辿れば、護田の店が近いのだと聞いたのはそれからすぐのことだ。そして、その路地裏の回りの店はすべて組の息がかかっていて、関係者以外通ることは滅多にないということも。
 晒し者にされた者の凌辱の場所だということも……。
 その時の事を思い出して、悪寒はさらに強くなった。
 あの男は組を裏切ったのだから当然の報いだとしか思わなかったが、それが自分の身に降りかかるとなれば別物だ。
 引きつった表情を晒した中井に、苦笑が伝播する。
「護田よりは井口の方が良いだろう?」
「お前、あそこの客が好みそうな感じが有るしな」
 そんな事を周りの連中に口々に言われる。
 確かにそれよりはマシだと思ったけれど。
 中井にしてみれば、園田と会いにくいと言った時点で、どっちも十分嫌なことだった。

 組事務のビルを出てぽとぽとと歩く。
 皆、口は悪いが励ましてくれたことは判っている。けれど、やはり気になる。
 ──やっぱ、迷惑だったのかな……。
 実際、まだ盃も交わしていない中井は、園田の部屋以外では居心地の悪さを感じていた。
 園田の幹部たちはそんなことは気にはしない。だからつい、普通に振舞っていたけれど。
 だが、特に自分と同じぐらいの若い者達にしてみれば、正式な組員でない中井が園田の部屋に入り浸り、あまつさえ可愛がられていることが、気に食わないのだ。まして、中井は不本意ながら卓真にも気に入られていて。
 それがまた連中の反感を買っているのは、はっきりと伝わってきた。
 それでも気にしないようにしていたのだ。そんなことなど、園田の傍らにいることができれば良かった。
 中井の願いは、園田の傍らにずっといることだからだ。
 だがそれが叶わなくなる。
「どうしたら……」
 井口が悪い人ではないのは知っていた。
 彼の職場は健全な会社だ。設立した時、組からも異動した人達がいたが、その時点で、彼らは組とは関係無くなっている。
 卓真と園田、そして新居浜という弥栄組三大幹部と陰で言われる三人が、組員が彼らと接触するのを禁じたのもある。
 その警備会社も少しずつ業績を上げている。
 あの会社に移った人達は、密かに組から抜けることを望んでいた人達だと、中井は桂から聞いたことが有る。
 あの会社は、駆け込み寺みたいなもんだと言ったのは誰だったか。
「あ、そうか……」
 頑なに舎弟にしてくれない園田は、もしかすると最初からそのつもりだったのかもしれない。
 だったら、やはり無理強いでも何でもして、盃だけでももらっていれば良かったのだろうか。
 今更な事を悔いながら、中井はぼんやりと歩き続けて。
「最悪、卓真さんにでもお願いしようかな」
 代わりに『突っ込ませろ』と言われるかもしれないけれど。
 先日のやけに熱く誘われた言葉を思い出して、肌がぞわりと総毛立った。
 あの時、新居浜がこなければ堪らずに頷いていただろう。
 いつもいつも、手慣れた卓真の手のひらが触れるたびに身体が蕩けそうになる。いい加減、欲求不満も限界な時に卓真はやってくるし、何より巧い。脳もすぐにぐずぐずになって、何も考えられなくなる。
 たぶん、有無を言わさず犯されても抵抗などできずに終わりそうだった。
 園田に会っていなかったら、卓真でも良かったかも、とすら思う。
 けれど。
「ほんとに欲しい人の方が、やっぱ卓真さんだって良いんだろうし……」
 遊びだけならあんな付き合い方で十分だろう。だが、それでは自分たちの飢えを消すことはできない。
 それに──本当は卓真だって代替品なんか望んでいない。
 先日の戯れの時、もしかして──と思っていたせいで、つい言葉にした途端の卓真にしては珍しい動揺を思い出して、笑みが零れた。
 それにあの扉が開いた直後の新居浜は、中井を射殺すのでは無いかという視線を寄越して牽制していたのだ。
 園田と望む関係にない今は、まだまだ命が惜しい。
 けれど、園田だって……。
 ふっと浮かんだ考えに苦笑して、頭を振って振り払う。
 判っていても、今は認めたくない。
 園田があの時、何を思って中井に手を出したかなんて。
 園田の心が誰に向いているかなんて。
 今更考えても仕方がないことだから。


 小綺麗なマンションだった。
 思わず手の中のメモと目の前のマンションの名を見比べる。
「同じ、だよな……。へぇぇ……。弁護士って儲かるのかな? 俺んとこより広そう……」
 中井の住むアパートと比べること自体が間違っているのだが、比べる対象を他には知らない中井は、今、園田が交渉している件の弁護士宅を訪れようとしていた。
 あれから結局、中井は園田の傍らにいるには何か成果を出さねば、という結論に至って、その成果としてもっとも適しているのは、いまだ交渉が難航している卓真専属の弁護士の懐柔だと考えた。
 その相手の住む場所を卓真に聞こうと思って電話したら、新居浜が出てびびったけれど。問われるままに用件を言ったら、結構簡単に教えてくれた。
 それがここなのだ。
「ようし、園田さんのために!」
 こじんまりしたエントランスで一人気合を入れて、インターフォンに向かって──。
 今まさに部屋ナンバーを押そうとした時だった。
「園田氏の知り合いは歓迎しませんね」
 静かな──否、底冷えがするほどの冷たさを孕んだ声音に、中井の全身がぎくりと硬直する。
 気配など微塵もなかったのに。
 今は聞こえる靴底が床を擦る音が近づいてくる。
「おや、初めて見る顔ですね」
 すぐ傍らでダークグレイの質の良さが判るスーツを着込んだ、思ったより若い男が中井の顔を覗き込んできた。
「あ、あんたが……」
 違うとは思わなかった。
「せ、千里?」
 弁護士 千里勝文(せんりまさふみ)。
 35位だと聞いていたが、もっと若く見えた。それでも違わないと思ったのは、彼が纏う雰囲気だ。
 触れれば切れる。
 殺気ではない。だが、細長い冷え冷えとした刀を突き付けられているような恐怖を感じた。
 鋭い切っ先を持つ刃が、ぐるりと中井の体に纏わり付き、身動きできない。
「あなたに呼び捨てされるいわれはありませんが」
 すべてを見透かすような視線が中井の全身を這う。
 何だか、嫌だ。
 ゾクゾクと悪寒が走る。
 この千里という男の視線は、鋭いくせに、なぜか肌の上を這うように動く。
 チロチロと、細長く鋭い何かで表層を嬲られているようだ。
 少しでも動くとその先端が肌を切り裂いて、食い込んでしまいそうで。
 硬直して何も言えない中井に、千里が不愉快そうに鼻を鳴らした。
「それに、挨拶の一つもできないとはね」
「あ……」
 言われて、中井は自分が何のためにここに来たのかを、ようやく思い出した。
 この男なら……。
 強い力を感じるし、嫌みな言葉の中に絶対的な自信を感じた。
 こんな男ならば組でも活躍してくれるかも。
 園田が欲した男は、たしかにそれ相応の力を持っていそうだ。そして中井はこの千里をこの手で懐柔するために、ここに来たのだから。
 こんなことで固まっている場合では無い。
 園田のために。
 そう思うことで、ようやく意思が四肢に伝わった。
 息を飲み、ぎくしゃくと千里に向き直る──とたんに、千里がすうっと目を細めた。
 空気が変わった。
 それが判る。
 不思議なほどに敏感に感じて、やっと動き出した中井の口は、言葉を出す前に止まってしまった。
「ふむ、これはなかなか」
 何か一人で納得している千里に、中井は必死になって言葉を紡ごうとする。黙っていると余計に身体が震える何かを感じ取ってしまいそうだ。
「お、俺、中井って言うんだけど、あ、あんたさ、園田さんから……」
 その弱い声音に千里がふっと唇の片端を上げた。
 笑ったのだと気が付いたのは、それからしばらくしてからだ。
 気が付けば、ぞくぞくと走る悪寒が指の先まで伝わって、足が動かない。
「やはり、園田氏の関係者ですか。だからと言って、あんた、など、呼ばれる筋合いはありませんが。呼ぶなら、千里さん、でしょう? いや──」
 怒気のかけらも無い言葉で中井を叱る千里の口元は、ますます大きく弧を描いた。
 その笑みがさらに深くなり、喉の奥まで鳴らし始めた時。
「君にはもっと甘い声音で、千里様、と呼ばれてみたいですね。さぁ、、おいで」
「は、あぁ?」
 いきなり腕を握られ、引っ張られる。
 その力は酷く強く、必死になって踏ん張ってもズルズルと引きずられた。
 背は中井よりは低い。だがスーツに包まれた身体はがっしりとしていて十分な筋肉を持っていることが窺えた。
 やばい……。
 この男はやばい。
 掴まれた手から、全身に鳥肌が立つほどの冷気を感じる。
 園田のことも何もかもを放っておいて、とにかく逃げたかった。
 でないと、食われる。
 しかも、がぶっと一気に食われるのではなくて、ぎりぎりと締め付けられ、逃れようの無い状態でゆっくりと頭から食われるような……。
 纏わり付く粘着質な視線に、中井はようやく千里に相応しいたとえを見出した。
 途端に、激しい恐怖が身を襲う。
「あ、あっ、離せっ」
「部屋に招待するだけですよ。何なんです、その拒絶は?」
 真っ青な中井に気が付きながら、手の力を緩めもせずに引っ張って行く。
 だって──。
 中井は、情けないと思いながら、イヤイヤするように首を振った。
 だって。
 子供の時からそれは、生理的に受け付けないほど、大嫌いなモノ。
 誰にでも苦手な物はあるはずだが、中井にとってそれは「蛇」。
 先程中井の感じた気配は、その大嫌いな蛇の冷たさ、獰猛さ、生々しさに酷似していたのだった。
「や、やめ……」
 気持ち悪さを含む恐怖が先に立って、足を突っ張る。だが、呆気なくエレベーターの中に引きずり込まれた。
「あ、あんたっ」
 間近に有る千里の瞳の中に浮かぶ喜色がいったいどこから来るものなのか。
 彼の自由な側の手が、頬に触れて来る。ひやりとした手が身震いするほど冷たい。そのせいか、触れられた意味より何より、ただ怖さばかりが、先にくるのだ。
 その動きを追う視線が脅えて揺らぐ。
「嫌だ」
 頑是無い子供のような弱々しさに、千里が嗤う。
「言ったでしょう? 部屋に行くだけですよ。私に用が有るんでしょう?」
 エレベーターからも呆気なく引きずり出されて、一番奥の部屋に放り込まれる。
 本当に呆気ないほど簡単に。
「で、ここに来た目的を聞かせていただきましょうか」
 にこりと微笑んでそう聞かれた時には、中井の視界は千里の肩越しに白い天井を捕らえていた。

 

 千里の指先がギリギリと食い込み、堪え切れない悲鳴が喉を鳴らす。
「いい顔をしますね。酷くそそられる」
 言葉に血の気が失せるほどの恐怖を感じて、自由にならない身を捩る。けれど千里は四肢の関節をうまく押さえ込み、決して中井を自由にさせてはくれなかった。
 今、中井のシャツはしわくちゃになって床に放り出されている。いや、引き裂かれたと言って良い。
 薄手の布地だったのに強く引っ張られて、中井の自重をもかかって裂けたそれは、ただの布切れでしかなくなった。
「何、しようって……」
 この状態が何を表すのか判りきっていたけれど、思わず問うてしまう。
 触れる手の淫猥な動きと、向けられた視線の意味に気づかないほど鈍感ではないつもりだ。だが、理解できないということが、その正しいはずの想像を否定する。
 そんな中井の葛藤などお見通しとばかりに、千里の口元が楽しげに歪んだ。
「鍛えているのかな、良い筋肉が付いている。ますます私好みだ」
「んんっ、はぁっ」
 肩口に置かれていた手が離れた。その手が肌の上をなぞっていく。少し湿った手が肌に吸い付いている。
 その手が与える感覚気持ち悪いもののはずなのに、なぜか身体は呆気なく熱を帯びた。
 ちろちろと身体の奥深くで燻っていたものが、恐怖という触媒を与えられて、一気に燃え上がった──そんな感じだ。
 どうして……。
 何故、恐怖に性欲が煽られるのか判らない。
 ただ、生理的な脅えに、感覚が酷く敏感になったのは気付いていた。
 薄く撫でるように触られただけで、肌がぞくりと粟立つ。口内に溢れ出す唾液を何度もゴクリと飲み込んだ。
 視界が歪んで、ぎゅっと閉じると熱い滴がこめかみを伝った。
 奥歯が鳴るのが、寒いせいのか怖いせいなのか判らない。
 けれど、吐き出す息は堪らなく熱い。
 何よりも隠せないのは、ジーンズの固い布すら持ち上ってきたことだ。
「敏感だね。これは楽しませてくれそうだ。ただ、男と肌を合わせることに慣れているのはいただけないね」
「慣れてなんかっ!」
「くす。こっちは口より正直だけど?」
 ぐりっと押し付けられた場所に走ったのは痛みだけではなかった。
 背筋を這い上がる快感に反射的に目を瞑り、けれど中井はすぐに眉根を寄せた。刹那の鋭い刺激が、酷く緩くなって。だが、決して終わることがなく、不規則に強弱が変わる。
 気が付けば、緩く開いた口から、引っ切りなしに甘い吐息が零れていた。
「ん、やめ……あっん、はぁっ」
「ああ、いい顔をする」
 至近距離の声音にびくりと身体が反応する。
 慌てて見開けば、吐息が触れる場所に千里の顔があった。
「あ……」
 ぎくりと全身が強ばる。
「ああ、そうやって私を見ていなさい」
 一度視線を合わせてしまうと、逃れられなっかた。その言葉が、否──それ以上に強い瞳が、中井を縛る。
 これこそが、射竦められる、という言葉の状態なのかと、頭では判っているのに。
 今視線を逸らせば食われてしまう。
 そんな恐怖が脳と運動神経系の流れを断ち切っていた。
「いい子だ」
 間近で囁く男の口角が上がる。
 園田や卓真が欲するほどの弁護士というけれど、一見しただけではそんな感じはない。とても35には見えなくて、中井とそう変わらないようにも見える。だが、童顔ではあるけれど、決してガキ臭さはない。
 自分とは違う経験の差か、それとも彼が持つ自信からか。
 それに、高みから中井を睥睨するさまは、どこか卓真を連想させた。
 甘い面は敵を釣るエサ。外見に騙されて痛い目に遭う男と同じ。いや、それ以前に千里には敵わないと、本能が教えていた。
 それでも、中井のわずかな矜持が千里の手を拒絶した。
 誰でも良い訳ではないのだ。
「やめ、くっ」
 頭を左右に振る勢いに、薄茶のぱさついた髪が頬を叩く。
 誰よりも園田が良い。だからこそ卓真の誘いにのらなかったのに。
 悔しい。
 力どころか存在そのものに負けていることに。そして、流されるように快楽を味わっていることに。
 嫌だ、と頭を振れば今度はこめかみを伝う滴が辺りに散った。
「別に無理やりしたいわけではないんだけどな」
 苦笑が浮かんでいるであろう表情がどんどんぼやけ、目許に堪った滴がぽろりと溢れ落ちた。
「泣くな」
 優しい声音とまなじりに落ちてきた唇の感触に、肌がぞくりと粟立つ。
「あ……」
 嘘だ、こんなの違う。
 感じてしまう自分が受け入れられない。
 なんでこんなに自分の身体が言うことを聞かないんだ?
「……悔しい……」
 千里に好きなようにされている自分が悔しくて堪らない。
 力でも敵わないことが、さらに悔しい。
 園田の傍らにいて恥ずかしくないように、と、桂達にも鍛練を手伝ってもらっていたのに。
「どうして?」
 のほほんとした応えを聞かなくても、遊ばれていることが判っているのに。
「だってあんたに何にもやり返せてねえ」
 一矢も報いる事なくこのまま犯られるなんて……。
「そりゃあ、こっちだって君が気に入った以上、負けるつもりはないからね。本当に君は私のツボに嵌まりまくりなんだ。それこそ、逃がしたくないと思うほどに。ねぇ、中井君?」
 ふっと声音が酷く優しいものに変わった。
「っ!」
 咄嗟に閉じた瞼がふるりと震えた。
 言葉に、声に、千里の仕草に煽られている。
 身体が熱くなる。
「気持ち良いんだろう? 肌がどんどん熱を上げている。ふうん、上気した肌も結構綺麗だ。いろいろと飾ってみたいね」
「ちがっ、感じてなんかっ」
「ここなんて綺麗に色づいて、しかも固くなっているのに?」
「ひっ」
 胸元を嘗められて、小さく飛び出た突起をパクリと唇で銜えられた。途端に、全身が震えるほどの快感が走る。
「ん、くう」
 止めていた息を思わず出すと、鼻から甘ったるい声が漏れた。
「ふふ、君は案外私と相性抜群なのかも知れないよ。だから一度おとなしく抱かれてごらん。天国を見せて上げるから」
 ぐるぐると回る頭で、千里の言葉を咀嚼しようとするが、今一つ理解できない。
「えっと……?」
「まあ、私に気に入られるって事は、君にもメリットがあると思うよ」
「メリット?」
 そんなものがあるのか?
 訝しげに見上げる中井の瞳を覗き込んだ千里が、すうっと口角を上げた。
「私はこれでもお気に入りには結構尽くすタイプなんだよ。特に私に従う良い子の言うことは叶えて上げたくて仕方がないんだ。ね、中井君。君は何をしに私の元に来たのかな?」
「何って……」
 ここに来たのは園田の役に立ちたかったからだ。
 卓真と園田が欲する千里を仲間にするために。
「俺の望み……叶えてくれるって言うのか? あんた、組にきてくれるっていうのか?」
 千里に気に入られたら、組に来てくれるのだろうか。園田が何度訪ねても色よい返事を寄越さなかったこいつが。
 うさん臭げに見つめる先で、千里ははっきりと頷いた。
 だが──。
「ただ、私はいわゆるサドっていうのに近いんでね。傷をつけるようなことはしないようにはするけれど。ただ、相手を隷属させることに堪らなく興奮する性質なんだ。だから、私を受け入れるなら結構覚悟がいるよ」
 さらりと続けられた言葉は、とんでもないものだった。
「な、なんだよ、それっ」
「ああ、でも良い子にはちゃんと天国を見させて上げるよ。それに中井君にとって、その程度のことメリットに比べればたいしたことではないだろう?」
「あ、それは……」
 従うことで園田の役に立つのであれば……。
「まずは楽しんでごらん。私が気に入るかどうかもまだ判らない──今日のこれは、いわゆる、お試しってことでね」
 千里の言葉に、中井は逡巡し──すぐにコクりと頷いていた。
 ならば、これはしようがないことなのだから、と。
 諦めたように身体から力を抜いた中井の視界の中で、千里がぺろりと舌先で唇を嘗めた。
 その姿はまるで、蛇……。
 千里と重なる影に、全身が総気立った。
 だが、この速くなった鼓動は、追い詰められた恐怖だけなのだろうか?
 期待めいたものを自覚して、眉根を寄せる。
 ぞくぞくと粟立つ肌は悪寒のせいだと思ったけれど、どうしてか身体は熱くなる。
 そんな相反する感覚に、ふっと闇に引きずり込まれそうな目眩を感じた。歪む視界の中で、千里の姿はますます蛇のそれへと変化する。
 獲物を捕らえて爛々と輝く瞳に、鋭い二つの白い牙。
 細い舌先が血の色で蠢く。
「従順な君は、ずいぶんと美味しそうだ」
「……っ、うる、せぇよ……」
 生理的な嫌悪感なんて、そう簡単に無くなる物ではない──はずなのに。
 実際、肌はまだ総気立っている。
 千里の手が纏い付く。
 絡まる四肢が、蛇を連想させる。体に巻き付いた蛇に犯される感覚。
 それは、恐怖でしか無いはずなのに。
「あ、ふっ」
 零れる熱い吐息と甘い声が止まらない。
 ──ああ、もう……。
「もう……」
「ん?」
「くそ、判ったよ。判りましたよっ。もう、なんか、俺、自分がよく判んねえ」
 嫌なのに熱くなった身体を持て余して、中井は自棄になって呟いた。知らず浮かんだのは自嘲の笑み。
 と──。
 不意に千里が纏う空気が変わった。
 余裕綽々だった千里の表情から、笑みが消えて。
 骨が音を立てるほどの激しさで、喉元に食いつかれた。
「ん、あっあぁ」
 喉に牙が食い込む。痛いのに、中井の喉を震わせたのは、歓喜の悲鳴だ。
 食われる恐怖に目が見開かれる。けれど痛みは呆気なく快感になって、陰茎がびくびくと震えた。
「可愛い声を上げる。痛みも良いのか……」
 そんな中井を見つめる千里の瞳は細められ、口元の笑みが消えた。
「どうしよう……。加減ができそうにない」
 ひどく真剣味を帯びた表情で、千里が呟いた。
 千里の突き上げと手淫に、中井は若鮎のように身体を跳ねさせ、あえかな声を上げ続けていた。
 千里の手も中井の下腹部も、中井が吐き出したもので滑っている。
 もう何度達かされただろう。
 千里とて、もう数度達っているはずなのに。
 それなのに、千里のそれはまだ雄々しく立ち上がっていた。
「も、もう……っ!」
 駄目だ。
 そう言いたいのに、深く強く抉られて、音の無い悲鳴を上げる。
 湿った音を立てる後孔は、もう熱いだけで他には何も感じられないのに。
 だが、体内で暴れる熱塊は、確実に感じる所を突き上げて、疲れ切った身体すら狂喜させる。
「ひぃっ! いやあ」
「もっと欲しいんだろう。ここはこんなにも嬉し泣きしているよ。正直で良い子にはたくさんご褒美を上げないと」
「う、うあああっ!」
 先から根元まで滑る陰茎を強く扱かれて、限界に近い身体が全身を震わせた。
 けれど吐き出すものはもう無くて、それでも残っていた勢いの無い白濁が、陰茎を伝う。
 さっきから、良い子だと何度も褒められて、そのたびにご褒美だと、達かされる。気持ち良いのは好きだけど、過ぎる快感は苦痛でしかない。もう身体が、悲鳴を上げていた。
「も、もう……」
「おやおや、若いのにだらしがないよ。さっき少し休ませてあげただろう?」
 呆気なく萎えていくそれをくにくにと弄ばれて、背筋に震えが走る。
 ──まさか、まだ……?
 すでに時間の感覚の無い中井には、あれからどのくらい経ったのか判らない。ただ、ここに来た時にはまだ明るかった窓の外が、真っ暗になっていることだけは判った。
 だか、千里の動きは止まらない。
 もう四肢を動かすことのできない中井の大腿を持ち上げて突き入れる千里は、まだまだ余裕がありそうで。
「んくっ、あはっぁー、やだ……壊れるっ、うくぅ」
 壊れて、しまう……。
 半ば意識を飛ばしながら、中井はただ喘ぐだけだ。
 いっそのこと意識を失えれば良かったのだが、千里はそれすらも許してくれなかった。
 暗い闇にようやく落ちたと思ったら、揺り動かされて、無理に覚醒させる。
「十分休んだろう?」
 そんな言葉が鼓膜を震わせ、熱塊が暴れだす。
 自分がどくらい意識を飛ばしていたか判らない。だが、少なくとも身体はまだ悲鳴を上げている。けれど、揺さぶられて、また歓喜している。
 千里は確かに巧い。それは認める──けれど。
 こんな絶倫ってのも問題だ……。
 こんなの天国じゃねぇよ……。
 お試しどころではない。
「はっ……あっ……あ……」
 突き上げられるたびに吐き出す息に、酸素がうまく取り入れられない。
 苦しくて、辛くて──怠くて。
 なのに身体はどうしようもなく快感に翻弄されて。
「すごいよ、こんなに良いのは初めてだ。こんなに相手が保つのも初めてだ……」
 なんだか恐ろしい言葉が聞こえてきた。
「手放せないな、これは。絶対に手放せない」
 うっとりと酔ったような声音で囁かれる。
「あ、や……だ……」
 聞きたくない。
 とっても恐ろしい言葉……。
 耳を塞ぎたいのに、のろのろと上がった手は、あっと言う間に搦め捕られて耳のすぐ傍らに押し付けられる。
 お陰で、千里の嬉々とした言葉はしっかりと中井の脳まで届いた。
「貰った、もう返さない。君は私のものにする。ずっとずっと毎日、時間が許す限りたっぷりと可愛がって上げるからね」
 その言葉に朦朧とした頭もさすがに覚醒した。
「え、あっ、そんな────っ!」
 だが同時に、千里の陰茎が狙い違わず中井の前立腺を穿つ。
「ああああっ!」
 言葉は悲鳴にしかならなかった。
 意識が真っ白に弾け飛ぶ。
 射精を伴わない激しい快感に、中井の身体がぴんと硬直し、開き切った口の端から涎が流れた。
「あ、あ……」
 完全に焦点が合わなくなった瞳が、身体の弛緩とともにゆっくりと閉ざされる。
 まるで死んだように意識を手放した中井を、千里はもう起こさなかった。
 ひどく満足げに微笑んでいる千里の様子も言葉も、中井にはもう何も入ってこない。
「まあ今日のところはこの辺で。ってことで、ゆっくりおやすみ。また明日可愛がってあげるよ──って、もう今日か、今度は何をしようかな」
 くすくすと笑い声が響く室内で、時計の短針が12時はとっくの昔に過ぎたことを知らせていた。

【了】