【Animal House 迷子のクマ】 8

【Animal House 迷子のクマ】 8

10

 壁にもたれて床に座り込んだまま、檻の中のクマを観察する。
 小屋と呼ばれるこの部屋は、通常の部屋の中に檻が設置してあって、俺が今いるのはその檻と部屋の壁の間の狭い空間だ。
 そこから見えるクマは、打ちひしがれているかのように床に伏して、ひくりひくりと何度もその背が震え続けている。その背には、先ほどディモンが傷つけた痕がくっきりと残っていて、いつの間にあんなに、とぼんやりと数えてしまった。
 今日はあんなに打つつもりなど無かったのに。
 俺がデモするはずだったのに。
 そんな今更のことを考えつつ、けれどクマがあれほどまでに堪えているのは、そのせいでないということも判っていた。
 手の中のタブレットに視線を落とせば、俺にしては珍しく、もう何度か読み直した報告書が表示されていた。
 特に目にしていたのが、クマの親子関係、兄弟の状況、学校での成績に交友関係のところだ。
 色のせいで親から拒絶にも近い待遇だった生活、孤立した学生時代、全てが弟中心で、まるで付き人のような扱いだった生活。次期当主であるやつを守ることだけが家族の中での存在意義でしかなかったクマ。
「おまえさあ、ほんとは勉強も弟よりできたんじゃねえの?」
 その問いかけに、クマが僅かに反応した。
 震えた肩は小さかったけれど、それでも俺の言葉が真実なのだと知らせてくれる。
「弟と同じ経済学部ってよお、おまえ、マジでそこに行きたかったのか?」
 それには無言だったけれど、なんとなく違うんじゃないかと思った。
 詳細な報告データにあった、捕獲時の持ち物が、こいつの趣味を教えてくれたからだ。
 クマが捕まるときですら大切に持っていたずいぶんと型遅れのタブレットと同様にボロボロのスマフォ。その連絡先に入っていたのは弟以外は数人だけ。メールやメッセージの内容は一方的な命令のみ。交友関係などほとんど窺えないそれらには、クマが作成したと判るアプリの数々が多量に入っていたのだ。それらはゲームだったり、仕事にも使えるようなスケジューラーやタスク管理のアプリだったりとさまざまだ。それらがクマの自作だと判ったのは、どこにも公開されておらず、しかもその古いOSでしか動かないようなものばかりだったこと、それにタブレットには作成途中のデータも残されていたから、とあった。
 それらがなかなかの優れものばかりで、特にタスク管理とスケジューラーは最新のOSに対応して欲しい、などという要望が、なぜか報告書の片隅に記載されていた。
 それに対して弟は、捕まる際に持っていたのは際限ないのではというほどに課金されたゲームばかりのスマフォ。多量に音楽データが入った携帯音楽プレーヤー。さらには、クレジットカード会社のブラックカードを何枚も、薄くなった財布にしまっていたらしい。
「大学のこの成績、実はおまえだろう?」
 大学での成績は弟のほうが非常に良く、優秀学生として表彰すらされていて、得意満面な笑みを浮かべた当時の写真が添付してあった。
 けれど、さらに遡った小学生の頃、優秀なのは兄のほうで弟はパッとしない成績だったのだ。ところが中学校の間にそれが、特に提出課題が重視される科目で逆転し始めて、高校ではその傾向が強くなり。
 大学では兄のほうは出席日数がギリギリでかろうじて単位を確保して卒業、だが弟のほうは皆勤で卒業していた。
 ついでに言うと大学はかなりの寄付金が親の会社名義で出されていた。
 とてもマジメで通っていなさそうな弟の当時の写真を見る限り信じられないそれは、たぶんちょっと頭を働かせれば気が付くからくりだ。
「おまえの取り柄まで奪われて、その全てがここに来て無駄になってるっていうのに、それでもなお弟を守る理由がおまえにあるのか?」
 ここ最近クマと相対してて、ずっと引っかかってきたのはそこだ。
 調教していても、楽しいはずの鞭を振るっていても、どこか気にかかっていたそれ。調教するには楽だと思いつつも、あまりの従順さに苛立つことがあった。
 こいつの頭の中にいるのは、いつだって弟だ。
 兄を兄とも思わないあれを、どうしてそんなにも気にかけるのか。
 快楽に堕ちないために、決して楽になる薬に縋らないクマ。痛み止めですら警戒し、拒絶して、ジクジクと響く傷跡の痛みに苦しみながら、それでもおとなしく全ての調教を受け入れる姿は、最初から変わらない。
「でもな……」
 言いかけて、それは伝える必要が無いと口を噤む。
 負けても勝ってもクマとバニーの運命は変わらないということを。
 余興で壊れないようにそれ相応の拡張をするが、この館から兄弟揃って出られる見込みなどあり得ないのだ。少なくとも、あのバニーは出られないのは確定していた。
 何しろ、担当調教師であるマーカスにその気がないのだから。
 ただ、俺の所にいるクマならば助かる道がないこともなくて、そのことを最近時折考えてしまう。
 余興に出場させて盛り上がれば出る報奨金と今までの貯金、それに……宵月祭での賭もあるイベントの一つにも出させて……などと、まさしく捕らぬ狸の皮算用をしていることが多くなってしまった。
 前に専用にしたいとディモンに言ったときにはバカにされてしまったし、その時は本気ではなかったけれど。
 どこが気に入ったのか、自分でも判らない。
 ただ、従順に従う動物が可愛くなってしまうのと同様で、扱いやすいペットにも似た感覚が湧いてきたのかもしれなかった。
 もっとも、俺にそんな考えを湧かしているくせに、これの行動原理は、全て弟のため、なのだ。
 薬を使わず、鞭をおとなしく受けるのは弟のため。
 犯され、無理に拡張されるのを受け入れるのも弟のため。
 あんな弟を助けるがために、俺に従っている、そのことが実のところ腹立たしいのだ。
 それが、今日のバニーの割り込みのときの騒動で、クマが俺に従わなかったことで、しっかりと表に出てしまった。
 あの時、確かに俺は感情的になっており、ディモンに八つ当たりをしたのは間違いない。
「ああ、もう……情けな……」
 思わず口元を手のひらで覆って、呟いた言葉は、クマには届けるつもりがないものだ。
 終わり際に、ディモンが今が躾の好機だと言ったのは間違いない。
 言うことも聞かず暴れて叫ぼうとしたクマの行動は咎めて当然のことで、そんなクマをさんざん鞭打てば、客たちもバニーなんかよりその光景に見入ってくれていただろう。
 バニーのデビューに客が取られるから、なんて、バニーが犯されるさまに暴れるクマを見たくなかった俺の言い訳にしか過ぎない。
 クマが俺に従っているように見えて、その実、未だに従っていないのだという事実を認めたくなかった俺の。
「おい」
 さっきより少し落ち着いたクマの背に呼びかけても、反応しないその姿も、その現実を示している。
「ああ……そうだな……。おまえの従順さは見せかけだったんだ」
 そうだ、なんで今まで気が付かなかったのか。
 あれは未だ俺に従っていないということを。
 いや、気が付いていなかったわけではない。それでも良いと思っていただけだ。そう、思っていて良かったはず、なのだが。
 従順だったのは表だけ、裏では決して従っていなかったのだと改めて認識して、それが苛立ちの源だと理解してしまう。しかも、理由が判ったら、治まるどころか、沸点を超えたかのごとく身の内で熱いそれがフツフツと滾り始めていた。
 こんなにも腹が立つことは初めてで、どうしてこんな怒りが湧くのかもよく判らない。
 アニマルが、身を守るために見せかけの忠誠心を示すことなどよくあることで、それを判ってなお、躾けるのも楽しいことのはずだったのに。
 だが、膨れあがった怒りを抑える術は今無くて、俺はその思いに突き動かされるようにふらりと立ち上がり、ゲートへと向かった。
 出入りに使うそこは、かがんで中に入る。
 ガシャンと金属質の音を立てて開いては締まるそのドアは、重々しい南京錠は飾りで、実際は最新鋭の指紋認証も採用された電子錠だ。
 それがかかったことを無意識のうちに確認し、伏したクマの傍らまで寄って、おもむろにその髪を掴んで引きずり上げた。
「んぐっ、い、痛っ、ひっ、あ……なんでっ……」
 容赦ない力をかけたせいで、指の間で髪がブチブチと千切れる。それを気にせず、涙でぐしゃぐしゃの顔と視線を合わせた。
「選べよ」
 唐突な言葉に、痛みに苦しむクマの顔が呆けたように見えた。
「弟を守ることに固執して変態ジジイの玩具となるか、それとも弟を見捨てて自分が助かることだけを願うか、おまえが採るべき未来は、そのどちらかだ」
 二者択一なんて調教の場ではよくあることだと嗤いながら、問いかける。
「弟を見捨てるなら助けてやる。だが、弟に固執するなら、おまえは何もできずに死んでいくだけだ」
「な、なぜ……っ、勝ったら、俺が……俺が余興……出て、で、良い客に、って」
 痛みに顔を顰めたクマが、唸るように言葉を紡ぐのを、笑い飛ばした。
「ははっ、そうさ、余興に出してやるさ。だが、弟に固執するにならば、そこでこの身体は壊れるだけだ。ばかでかい牡馬のチンポを喰らえば、括約筋はズタボロで垂れ流しになって、股関節は砕けて歩くこともままならない。そんなバカバカになった穴持ちのアニマルなんざ、どっかの変態ジジイの足の保温器ぐらいにしかならねえんだよ」
 その言葉をリアルに想像してしまったのだろう、クマの顔から音を立てて血の気が失せた。
「だが、弟を見捨てるっていうなら、そうならないように調教してやろう。しっかりと拡張して、余興本番でも筋弛緩剤を打って受け入れられるようにしてやる。うまく銜えられて壊れなければ、客だって普通に取れるから、良い出会いがあるかもしれないから、出て行けるかもしれない」
 俺が……なんてことは、今の皮算用だけでは言えなかったが、それでも良いアニマルはよほどのVIPが要望しない限りは、調教師側でも客が選べるのだ。
 そんな俺の問いかけに、けれどクマは困惑も露わに口を噤んだままだった。
 戸惑い、その視線がうろうろと彷徨っている。
 その様に、フツフツと泡立つ不快感がしだいに強くなる。
 選べ、と言ったけれど、選びようがない選択肢のはずなのに。
「ここでは自分のことは自分で守るしかないんだよっ。他人など蹴落としてでも生き残る全てを求めるか、それとも全てを受け入れて滅びの道を少しでも長く過ごすか、諦めるか、それだけだ。もうここでは弟を守る必要は無い。ないどころか、見捨てれば良いんだ」
 空いた手で顎を捕まえ、汗で滑っていく髪を離して頭を掴んだ。
「いい加減、目を覚ませっ、ここでは弟を守れと強要するやつもいない、見捨てて良いんだっ」
 ちりっと頭の片隅が痛む。
 はるか昔、記憶の奥底に封じ込めてフタをしたそれが、表に出てこようする気配に顔が歪み、なぜか苛立つこの感情に胸くそが悪くなる。
「おいっ、なんとか言ったらどうだっ! 俺が命令しているんだぞっ!!」
 ガクガクと頭を揺すり、泣き濡れたグレイがかった青の瞳を睨み付ける。
 その勢いに、ようやくクマが口を開いた。
 アウアウと言葉を探すように数度開閉し、ようようにして言葉を紡いだそれは。
「……守らないと、役に立たないと……」
 小さな声が、ひどく心細げに呟いた言葉はそれだった。
 思わずカッと頭に血が上り、平手でその頬を強く殴打した。
 その勢いに崩れ落ちたクマの虚ろな瞳が彷徨い、けれどゲイルを見つけたとたんに、涙を流しながら悲しく笑う。
「守らないと……駄目……なんです……。俺は……そうじゃないと…駄目だから……」
 消え入りそうな声は、まるで自分に言い聞かせるように繰り返された。
「駄目なんです……役に立たないと。そのために……だけに……俺は、生きていられる……から」
「い、いい加減にしろっ、いい加減に……前の世界は忘れろっ」
 クマの言葉が、腹が立って悔しくて悲しくて。
 いろいろな感情がせめぎ合い、ひどく辛い。こんなのは初めてだと思うほどに、俺の感情は暴れていた。
「お、れは……ライル、のためだけに……生きて、る……から……。ライル、を守るから、生きていられるから……。でないと、また、怖い……やっ……あ」
 話すことも辛いのだと、その表情が言うそれは、決してクマの本意ではないはずだ。
 なのに、クマはそれに逆らえないのだろう。
 辛そうにされた告白に、俺はぞくりと背筋が泡だった。
 訥々と呟く言葉に、全てのあきらめが感じられた。
 その状態に、まさか……と内心で呟いたのは、過去の調教過程で自分がしてきたことが頭の中に過ぎったからだ。
 今のクマの瞳は虚ろのままで、まるで夢の中から言葉が出てきているように感じてしまう。
 これは、調教の最中にある種の技を使ったときに似ていた。
 極限状態に陥らせたアニマルに、繰り返し繰り返し、それから逃れるために何をすれば教え込んだとき。
 そう、マーカスがあの広場でしていたように、苦しみ、絶望の中にいるそれに、甘い言葉で教え込む、洗脳の一種。
 まさか、と思ったが、だが、これは確かに洗脳したときと同種の翳りを身に潜めていた。
「だっ……たら、おまえは何だ? 何者だ? そういえばおまえはクマと呼ばれることを最初から受け入れたが、なぜ本名に固執しなかった?」
 たいていのアニマル素材は、勝手に付けられた名を厭い、抵抗して自分の名を叫ぶものだが。
「お、れ、名は…ハイキ……。お、俺は……ライルの……影。ライルが望むことだけ、が、俺が……すること。」
 ぶるりと全身が震えた。
 報告書には本名も書いてあった。確かにそう書いてあった。名として書かれたその文字は、共通言語では特に意味はない。
 けれど、今こうやって音として聞いたとたん、遙か昔に戯れに調べた某国の単語を思い出してしまったのだ。
 その中でも覚えていたいくつかのうちの一つに、それはきれいに当てはまっていて。
 あれは、その国出身のアニマルを躾けるために、貶めるための言葉を調べたときのものだった。
「ハイキ……廃棄、か……」
 捨てるという意味の単語。まさか、判って付けたのだろうかという疑問は、俺が呟いた言葉に歪んだクマの表情に、当たったのだと気付いてしまう。
「おまえ、知って……ワザ、とか? ワザと、その名を……」
 おまえの親は……。
 続くべき言葉を飲みこんだおれに、クマは小さく震えた。
「……おばあさまの家系に混じった……東国の言葉、だと……おばあ、さまは、白人だったけど、その家系を辿ったら、いろいろな国が混ざっていて……」
 いつ知らされたのか、たぶんずいぶんと昔のことだろう。
「そんな、血は……いらない、と……」
 どんな目に遭ってきたのか。
 少なくとも出生届は出されたから、生まれた頃はそれほど有色系が目立たなかったのかもしれない。
 だが、長じて全てを諦めてしまうほどに絶望に追い込まれた子どもに、弟のためになることだけが生きる道だと教えたら、その子は盲目的に信じてしまうだろう。
 優れたアプリを戯れでも作る知識を持っていても、決して世に出ることなどなく、その成果を認められることなく消えるだけの存在として。
「だ、だったら、おまえが捨ててしまえっ。そんな名をつけた家族など、弟など、捨ててしまえば良いんだっ」
 叫び、荒ぶる感情の中で、ピリリと記憶の保管庫が、警告していた。
 封じ込め、重いフタをしていた隙間から、一つの記憶かせするりと抜け出そうとしてる。
 暗くて澱んだ、思い出したくもない記憶は、本当は覚えている。覚えていても、それを無い物にしてフタをしていたのに。
 だが、それを意識してしまう。
 暖かかったという記憶しか残らない幼い頃に、塵のように貧民窟に捨てられた記憶が出てきてしまうのだ。
 最後に握っていたのは優しく話しかけてきて遊んでくれていたはずの男の手だったのに、気が付けば見知らぬ汚く暗い場所で一人だった。
『お兄ちゃん』
 何度呼んでも応えてくれるものはなく、一人空腹と恐怖で震えて泣いていた俺が助かったのは、あんなところでもあった情というやつだった。
 日々を生きるにも精一杯だった記憶は、今でも覚えている。
 だが、その中でもひどく曖昧で、けれどはっきりとしている、やけに矛盾した記憶が一つだけあった。
 それがどこでいつのことだった判らない。ただ、さまざまな品が並ぶ商店通りの中、きれいな服を着たあの優しかったはずの男が、俺を罵倒しているというものだ。
 何を言われているのか、なぜあれがあんなことを言うのか。
 何も判らぬ中で判ったのは、その瞳に浮かんでいる塵芥を見る目と、その男を俺が兄と呼んで慕っていたことだけ。
 そして、これは時々見ている悪夢の正体なのだと今更ながらに気付いてしまって。
「兄弟なんざ、庇ったってしょうがないんだっ。互いに守り助け合うことのできないのは兄弟でもなんでもねえっ。相手が自分のしたいことするんなら、おまえもしたいことをすれば良いっ、好きなこと、やりたいことがおまえだってあるだろうがっ!」
 芋づる式で引っ張り出された記憶の端くれに、腹の底から柄もしれない暗い感情が渦巻き、あふれ出した来る。
「兄弟なんか、一方的に搾取するような兄弟なんか、何の価値もないっ」
 けれど、クマは頷かない。それどころか首を横に振り、違うと呟くのだ。
 幼い頃にこびり付いた思考は、俺の言葉だけでは覆せないのだと、俺も調教師の端くれとして理解はできて。
 けれど。
「く、そぉぉっ」
 俺だって、さんざん他人の人生を狂わせてきた。色狂いにもしたし、死に至る調教の果てに塵屑のごとく処分したアニマルだっている。
 クマがされたのと同じように洗脳したことだってある。
 今更そんなことに罪悪感なんて持ってやいない。ないけれど、クマに関しては無性に腹がたった。
 親に塵芥のごとく扱われたこいつの心が、未だに弟から離れられないことが嫌で堪らない。
「忘れろ、捨てろっ」
 言い聞かせるように叫ぶ。
 ぐいっとその頭をねじ伏せて、倒れた身体を床へと押しつけて、のしかかる。
「おまえは、クマだ。名前も過去もすべて捨てろっ」
 だったら、俺が上書きしてやる。幼子が味わった苦しみを、今の苦しみと置き換えて。
 生きるために必要な術は何か、教えてやりたくて。
 けれど、俺ができるのはただ一つだ。その方法しか知らない俺ができることは、ただ調教するだけだ。
「あ、うっ、ひぎぃ──っ!」
 痛むだろう背中にのしかかり、その傷を叩けば、確かに生きている証にクマが悲鳴を上げた。
 傷が開き、新たな血が滲みだした。
「痛いか? もっと痛くしてやろうか? 客たちが与える痛みに悦んで答えるようになるまで」
 クマの尻からずるりと拡張用のバイブを引き出せば、汗の浮いた背がビクビクと震えた。
 太く長いそれは潤滑剤と体液にまみれて、ごとんと床に落ちる。その横に、クマの頭を押しつけながら己のペニスを取り出して、数回扱いた。といっても、クマを押し倒しただけで勃起したそれは、すでに臨戦態勢だ。
「おまえが従うべきは、俺だけだ。俺の命令だけを聞いて入れは良い」
 誰のためでもない、自分のために。
「おまえの大好きなチンポだ、ほら、濡れ濡れの穴がもう期待にひくついてるぜ。ほら、尻振って迎えろよ」
 そのまま激情のままに腰を突き出せば、泥濘んだ穴は簡単に俺のものを飲み込んでいく。クマの中は熱く潤み、いきなりの挿入でもしっかりと包み込んでいた。
「く、くるし……ぃ……うっ」
「俺の程度で苦しんでちゃ、馬のなんて入りやしねえっ」
「うっ、あ……」
 苦しげに喘ぎ、目の前にある二つの肩甲骨がきゅっと近寄る。ぺたりと着いた手が、足掻くように床を掻いていた。その身体にのしかかり、ぐいっと腰を動かせば、根元まで飲み込んだ穴がきゅっときつく締め付ける。
 肩口に残る鞭の痕は赤く滲み、内出血を残していた。そこに歯を立ててれば、ぴくんと震えた身体が小さく足掻く。
「やぁ……あっ……うぐっ……」
 さらに深く彫り込むように、グイグイと腰を前進させれば、クマの身体が前へとずれる。その肩を押さえ込み、腰を上げさせて、中を探るように回転されれば、溜まらないほどに締め付けてきた。
 だが、当のクマは相当苦しそうだ。
 すでに奥まで到達した俺のペニスは、クマの内臓を腹の中で動かしているようなもので、快感どころではないだろう。
 それでも、俺は頓着せずに、クマの耳元で囁く。
「どうした? この程度で音を上げるのか? 馬のは、ものによっちゃ、おまえの腹を破るほどに長くて太い」
「あ、あ、そ、そんな……ぁ」
 ドスの利いた俺の声を、僅かに遅れて理解して、嫌だとばかりに首を振る。
「客達には接待係のバニーが付く。あのバニーも当然な。その目の前で余興に出たアニマルは尻の穴を血まみれにしながら貫かれ、腹の奥まで突き上げられ、多量の精液を注がれて、激しい苦痛の中で気が狂う。嗤いながら、腹を貫く馬に、もっとくれって欲しがるんだ。それを、客とバニーどもが遊びながら見るわけだ。おまえの弟なんか、そんな兄の姿見ても、なんとも思わねぇだろうなあ。都合の良い、替えの効く付き人でしかないおまえなんかな。助けてやって、なんて殊勝なことを言うわけでもなく、それどころか客と一緒になってはやし立てるだろうよ。もっとやれってな。どうだ、違うか?」
 近い将来、あり得る未来を口にしてやるが、問いかけには返事はせずに、くっと奥歯を噛みしめる。
 それは俺の言葉が正しいと自分で認めている証だろうけれど。
「だから、弟なんか見捨てろって言ってるだろうがっ」
 そこまで自覚しているのに、それでもクマは俺の求める言葉を言わない。
 自分を助けろ、と。
 弟を見捨てる、なんて一言も口にしないのだ。
「お、まえは、強情なんだよっ、そういうことだけっ、そんなやつが客に媚びを振りまけるのか、えっ?」
 傷跡の残る背に手のひらを乗せ、身体を押さえつけて、腰を振りたくる。
「い、あっ、ぁぁっ」
 激しい抽挿に、クマは喘ぐように舌を出して、意味不明な音を発していた。
 零れる涙が、床に塗り広げられる。
 けれど。
「言ってみろっ、助けてって、自分を助けろ、って言ってみろっ!!」
 どこか必死になって言った言葉に、けれどクマは硬く口を噤んだ。
「クマっ、てめぇ、俺の言うことが聞けないのかっ!」
 命令しているのに、無視されて──否、逆らうクマに、俺の頭の中が赤く弾ける。
「て、めぇっ!!」
「ひぎっ!!」
 怒りのままに、クマの身体を突き飛ばして。
 ジュボッと音を立てて抜けた穴から、ボタボタと粘液がこぼれ落ちてく尻に、俺は大きく振り上げた手を一気に振り下ろした。

11

 どうやって自分の部屋に戻ってきたのか、よく覚えていない。
 ただ、クマの尻を叩き続けた手は未だにじんじんと腫れたように熱く、思うさまに吐き出した欲にすっきりしているはずの身体は重い。
 小屋を出たとたんに自覚した疲れてきっていた身体を引きずるようにドアを通り過ぎ、ベッドのそばに辿り着いたとたん、がくりと身体が崩れ落ちた。
「おいっ」
 慌てた声が耳元でして、力強い腕に腹と腕が支えられる感触に、ぼんやりと視線を向ければ。
「……ディ、モン……、あれ……?」
 自室かと思ったが違ったのだろうか? と辺りを見渡して。
 そんな俺の動作に気が付いたのか、耳朶に苦笑めいた吐息が触れた。
「あんたの部屋だよ。ちょっと用事があったんで寄ったら留守だったから、どうしようかと思っていたところだったんだが……一体どうした?」
 そう言いながら、俺の身体がベッドに横たえられる。高い位置にあるディモンの顔を見上げれば、滑稽なほどのしかめっ面にクスリと音の無い笑みが零れた。
「何だよ、その顔は?」
 問う声音は、自身でも驚くほどに弱い。
 それに、ますますディモンの眉間のしわが深くなった。
「なんかえらく疲れているな。あの後はクマを小屋に戻しただけじゃねえのか?」
 言葉に、「いや」と首を振って、けれど、詳しく語るのも面倒で目を閉じ、口を噤んだ。
 結局どんなにクマに命令しても、クマは弟を見捨てるとは言わなかった。
 泣いて、嫌がって、怯えていた。
 今までさんざん調教し、俺の言葉に従順なほどに従っていたクマだったけれど、結局それは見せかけだけのだったのだと、理解したとたんの敗北感など、こいつに言えるわけもない。
 けれど、このまま眠ってしまいたいほどに身体は疲れているのに、なぜか睡魔はやってこず、鬱陶しいほどに身体だけが怠かった。
 ついでに気配にひどく敏感になっていて、ベッドの傍らに立っているディモンの存在がやけに大きく感じていて邪魔だった。
 なのに、いつまでもその気配が消えず、俺はしかたなく片目だけを開けて、遠く見えるその顔を見つめた。
「……で、何の用だぁ?」
 問いかければ、「ああ」と答えが返ってきたのに、その後が続かない。
 しばらく待っても、結局何も言わなくて、はあぁと大きく息を吐いてから身体を起こした。
「だから、何だって?」
 額にかかった前髪を掻きむしるように持ち上げながら、いぶかしげに見上げる。
 用事があると言っていたのは聞き間違いではないはずだが。
「……クマと何してたんだ?」
 けれど、質問に質問で返してきたことが不快で、睨み付ければ同様の視線で返された。
「あれから三時間近く経ってるだろ? あれを放り込んで、片付けても一時間とかからねぇはずだ」
 しかも、まるで詰問する口調に、不快度はますます大きくなってしまう。
「ちょっとあいつを躾けてただけだ。お披露目での失敗があったから」
 いつものように、と判ってるであろう事柄をなんで説明しなくちゃならないんだ、と思ったが。
「その程度で、なんでそんなに疲れ果ててんだよ。躾けてただけにしては、マラソンでもやったみたいだぜ」
「は、ん。言うこと聞かねえやつに、手こずったのは確かだがな。ったく、あれは頑固すぎる」
 どんなに激しく犯しても、罵倒しても、あれは弟を庇う。
 お陰で、こっちも怒りにペース配分も忘れてやりまくっちまったから、ディモン曰く長距離を走りまくったみたいに疲労してしまったのは否めない。
「絶頂地獄を与えるのに、射精制限したままに前立腺ばっかガンガンに突き上げまくって、性感帯全部に淫具付けて……。声も出せぬほどに喘がしながら犯しまくったっていうのに……な」
 それでも、あれは堕ちなかった。
 絶頂の中で意識ももうろうとしながら、それでも俺の欲しい言葉は言わなかった。
 あれはほんとに頑固で……、あの根付いた意識は、容易に外せないほどに刷り込まれているのだと、再認識しただけだった。
 その徒労感が、よけいに肉体を疲弊させているのだ。
「犯しただけか?」
 膝を起こして肘をついて、重い頭を預けていた俺に、やたらに重々しい声が振ってきた。
「はあ?」
「言うこと聞かなきゃ鞭打ちって決めてただろうが。だいたい、あんたがそんなにも身体を酷使することなんかねえだろ。玩具銜えさせて鞭打てば、ひいひい喚いて、俺たちに傅くしかねえはずだか」
 見上げた先で、不機嫌そうに聞こえたままに眉間に深いしわを刻んだディモンが、その表情のままに苛立たしげに言い放つ。
「何、甘っちょろいことしてんだよ。アニマル躾けるのに、あんたのほうがくたばってちゃ、しめしがつかねえだろうが」
「……それは……。だが、あれもおれより先にくたばったよ。だから、止めて帰ってきたんだよ」
「止めて? 先にくたばったらくたばったで、罰は必要だろう?」
「いや、そこまでは……不要だろう? それに、俺もなんか疲れたんだよ」
 絶頂地獄の中で、白目を剥いて突っ伏したまま、ぴくりとも動かなくなったクマのことを思い出す。
 呼びかけても、尻を叩いても身じろぎ一つしなくなったクマは、ピクピクと小刻みに痙攣したまま、伸びていた。その擦れて赤く腫れ上がったアナルから、ずるりと抜け出した己のペニスはまだまだ元気だったけれど、とたんに電池が切れたかのように、俺の身体からも力が抜けてしまったのだ。
 なんでこんなにもしゃかりきになって犯したのか、今一つ自分でもよく判っていなかったけれど。
 最後には、ゲイルさま、と何度も呼び喘いでいたクマの姿に、もう良いかと思ったのも事実だ。
「お披露目でさらし者になってたし、客のランダムな鞭打ちもあったし……それにバニーの件もな。それで混乱しているクマに、下手に強い精神的なダメージを与えるのがまずそうだったんだ」
 ああ、そうだ。
 だから、止めたのだと、頭の中で己の行動を理論付ける。
 それがそのまま言葉に出ていて。
「あれは幼い頃に洗脳されている。調教師である俺に、表面的には従っていても全ては弟有りきで、心から従っていない。だから、まずはその洗脳を解かないと」 
 まだ庇護がいる年から、純粋な生きようとする欲の代わりに植え込まれた強迫観念とも言えるそれを破壊するには、どうしたら良いのか。
 マーカスが薬を使った際限の無い快楽地獄の中で洗脳していくように、何も考えられないほどに快楽で埋め尽くして、新しい考えを教え込むか。
「甘いな、何悠長なこと言ってんだよ」
 けれど、不意にディモンがかがみ込んできて、俺の顔を覗き込みながら言い放った。
「あれかバニーが余興に出るのは決まっている。というか、当初の予定ではクマを出すはずだったろうが。だから、マーカスは今日、バニーをデビューさせた。クマには壊れないとは言っていたが、あれはマーカスお得意のはったりだろう。あんなおぼっちゃんが、変態ジジイどもの手にかかりゃあっという間に色狂いの淫乱野郎に成りはてるのは目に見えている。となると、賭はクマの勝ち。もう、洗脳がどうのと四の五の言ってる場合じゃないだろうが」
 すぐ近くにある瞳から、明らかな苛立ちが伝わってくる。
 けれど、なぜディモンがそんな苛立ちを向けてくるのか理解できない。
「んなこたぁ、判ってるよ」
「判ってねえっ。もう精神なんか、どうでも良いんだよっ。クマはもう、客に逆らわない程度に躾けて、簡単に壊れないようにして余興に出せば良いだけだ。牡馬に犯されて、簡単に死なねぇ程度に広げてやれば良いだけだろうが」
「そんなことしたら、壊れて使い物にならなくなるだろうがっ」
 今まで何度もみてきた光景が、頭の中に過ぎった。
 小柄な身体に無理に銜えさせられた巨大なペニスに、貫かれたまま息絶えたものだっている。
 頭の中でその顔がクマの顔になって、ぞくりと肌を振るわせた。その理由を理解するより早く、鼓膜をつんざくような怒鳴り声が響いた。
「それがどうしたっ。それが最初っからの予定だろうがっ」
「予定なんか糞食らえだっ」
 反射的に怒鳴り返しながら至近距離のディモンを睨みつけ、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
 確かに、そんなことを言った。
 どちらが勝っても良かったが、クマならば長く楽しめるだろうし、弟を庇うクマが、どこまで保つか楽しみにしていたところもあるけれど。
 今は事情が変わっていた。
「弟のために、死ぬって? なんであんなクソ野郎のためにあれが死ななきゃなんねえんだっ? あれは、きちんと躾けりゃ、良いアニマルになる。俺の手にかかれば、忍耐強くて、従順な……貴重な大型アニマルになる。弟のためでしか生きていられないって、あんなバカな洗脳さえ解ければな。あんな、クソな身内のために、全てを奪ったやつに……っ」
 そこまで叫んだとたんに、喉の奥が詰まった。不意に言葉が途切れた俺に、ディモンがいぶかしげに顔を顰めた。
「ゲイル?」
 その呼びかけは耳に入ってきているけれど、応えられない。
 ただ、不意に自分が別の世界にいるかのように、心許なくなって、視界がすうっと暗くなっていく。
 その中で、やけに鮮やかに甦ったのは、着飾った兄の姿だった。
『ドブネズミがいる』
 と嗤って去っていったのは、あれが今は何者かは知っている。
 正確には義兄と呼ぶべきあれは、異母弟である俺が邪魔だから、捨てたのだ。それまで優しい兄の振りをして、引き取られても肩身の狭い思いをしていた俺を庇うそぶりを見せていたくせに、父が死んだとたんに俺を捨てた。
 自分の力だけでのし上がってきた俺の、今の地位を利用して探った事実は、忘れたいほどに醜いものだった。
「きょ、うだい……なんて……兄弟なんて」
「ゲイルっ」
 つっかえたその言葉が、ようようにして口から出てきて。
 それでも喉の奥に未だ何かがつかえているようで、息苦しい。堪らずに胸を押さえた俺の様子に慌てたように、ディモンがベッドに乗り上げてきた。
「どうしたっ?」
 聞こえる音が邪魔で、けれどもっと大きな音が頭の中で渦巻いている。
 深い闇の中にいるような、そんなふうに目の前が暗くなり、勝手に呼吸が荒くなっていた。
「……に、い……ちゃ……」
 呟いた言葉は無意識で、それよりも息苦しさに喘ぐ。
「ちっ!」
 とたんに、視界が暗くなった。聴覚が鼓動を捕らえる。
 逞しい胸が誰かは理解できた。だが、それをはね除けようとは思わずに、めまいにも似た闇の渦と、ちらつく映像にぎゅっとまぶたを閉じる。
 忘れてようとし続けて薄れていた記憶が、こんなふうに不意に暴れ出して、俺を苦しめる。
「忘れろ、今はここにいるのはおまえ一人だ」
 何かを囁く言葉は遠く、鮮やかに届くのは兄の嘲笑と罵倒だった。
 それに、クマの叫ぶ声が重なっていく。
 『汚らしい、捨てて良かった』と『弟を守る』
 相反する内容の言葉が渦を巻く。
 苦しくて、苦しくて、けれど。
「ゲイルっ、息をしろ」
 どんと大きく背中を叩かれ、かはっとつかえていた喉が通る。
 とたんに一際大きく息を吐いて、吐いた以上の酸素が肺を満たした。とたんに、俺は叫んでいた。
「う、るさぃっ、うるせえんだよっ、何が弟のためだっ、何が守らないと生きていく価値がないだっ! てめぇは生きているんだよっ、立派に生きていて、頭のできも良くて、あんなクソ野郎よりよっほど生きてく価値があるってんだっ」
 つっかえていた全てを叫んだそれはディモンの胸に消えていく。
「ちくしょう……あのバカ野郎が……」
 それでも、そうやって叫んで始めて、俺はようやく気が付いた。
 あれが弟を庇い続けることが溜まらなく不愉快だったことに。
 便利だと思っていたそれが、俺を苛立たせる原因だったことに。
「ゲイル……?」
 おとなしくなった俺に、ディモンの手が少しだけ緩む。それでも、俺はディモンの胸に頭を押しつけたまま、ブツブツと呟いた。
「あんなクソ野郎に囚われたままなんて、許さない。何が弟だ。兄弟なんて一番近くて、遠いんだよ。見捨ててちまえ。自分だけが助かれば良いんだよっ」
 兄弟なんて、どちらかが忌んだら、片側がどんなに慕っても無駄なのだ。
 捨てられたくらいで嘆くなら、こっちのほうがよっぽど立派に育ったと見せつけてやれば良いんだ。
 ドブネズミにも一粒の誇りぐらいはあって、俺を捨てた兄なんか絶対に蹴落としてやると思っていた。
 這いつくばり、物乞いをしてまで生き続けたスラムの生活で、けれど俺は他人を従わせる術を学び、調教師としての糧を得た。
 そんな俺の夢は、いつか兄を貶めて俺の手で調教して、マゾ奴隷にしてやることだ。
 そんな願いを、けれど最近はすっかりと忘れていたのは、ここでの生活が楽しかったからに違いない。それでも、その思いはどこまでも俺の中に残っていたからこそ、クマの姿に苛立って、あれを生かしたいと考えてしまったのだ。
「ああ、そうだな。あれは生きてこそ価値がある。バカな忠誠心など、俺の手で壊してやる……。あれは……俺のものだ」
 俺はあれを生かしたい。
 あんなやつのために、失いたくない。
 俺が生き延びたように、あれもこんなところで壊れて良い存在じゃない。
 より優れたものが勝つ世界で、生き残るのはクマのほうがふさわしい。
 自覚してしまえばあまりにも明確な俺の心に、急速に精神を覆っていた闇が晴れていく。
 その後に残るのは嗅ぎ慣れた男臭い匂いと温もりと。
「ゲイル、判ってんのかよ、あれはただのアニマルで、この館の所有物。俺たちは館の目的に沿うようにあれを調教するだけだ。そのために雇われてるんだろうが」
 接触した肌からの振動と耳から入ってきたディモンの言葉を遅れて理解して。
「ディモン……?」
 不意に、俺は自分の今の状況を把握した。
 今までそこにディモンがいるとは判っていた。ディモン相手にさんざん喋っていた、喚いていた、そんな記憶も確かにある。
 だが、我に返れば、俺はディモンに抱きしめられていたのだ。
 なんでこんなことに今まで気がついていなかったのか、ディモンの腕の中であいつの早い鼓動を聞いているのだ。
 いつの間にと頬を熱くしながらその身体を押しのける。
「なんで、てめぇの……」
「おまえが訳の判らんことをいいまくってたからだ。ほら、あれだ、うなされているときと同じ感じだったぞ」
「うなされて…………あ、ああ、大丈夫だ」
 目覚まし替わりにしているせいで、俺の寝起きを知っているディモンであれば、俺の悪夢も知っている。その時と同じだったと言われれば、確かにそんな倦怠感だとぼおとディモンを見上げた。
「ただ、なんかいろいろ言ってたけど、あんたマジか?」
「マジって……?」
「……クマ……が、自分の物だって……」
 躊躇いがちに言われた言葉を頭の中で反すうして、その意味を理解したとたんに、こくりと頷いた。
「……そうさ、俺はあれを調教する。客のために、館のために、ひいては俺のものにする」
 理解した内容は、あまりにも俺の中でしっくりときた。
 そうだ、俺はあれを自分のものにしたいのだ、という欲求は間違いなく、俺の中にある。
 だから、あれが弟のバニーに囚われていることが許せない。
 気が付けば、近い距離にあった困惑の色を浮かべた瞳を見つめる返した。
「だが、今あれは、客と弟が並んでいたら、間違いなく弟を選ぶ。弟が──あのくそったれバニーが、客から守れと一言言えば、クマは俺たちにすら逆らうだろう、おまえはそんなアニマルを客前に出せるのか?」
「……っ」
 顰められたゲイルの喉が小さく鳴る。
「調教のやり直しが必要だ。まずクマから弟への意識を引き剥がす。賭は無効だ、マーカスが文句を言おうと、これだけは譲れない。あのバニーを余興に出す」
「……だが、マーカス自身も自分のところから余興を出すのは嫌っている。だいたい先だっての余興ですでに提供しているから、今度は絶対嫌だと明言していたからな。だから、あの賭にも乗ったんだ、あの賭の内容なら、クマが勝つのはわかりきっていたからな」
「別に、なんとでもなるさ。俺が提供をドタキャンして、あいつがうまく提供すれば、あいつの評価は上がるし」
「そんなことをしたら、あんたの評価が下がるじゃないかっ」
「不完全なアニマルを客前に晒すほうが嫌だね」
 ランキングはいろいろと特典があるが、上位になるほどその特典はおいしいものなる。だから、一つでも上へ上がりたいという欲求はあったけれど、それでも、不完全なアニマルを提供することは何よりも嫌だった。
 俺にだってランキング上位にいる調教師というプライドはある。
 あれは、もっと良くなる。弟という枷を外せば、化けるはずなんだ。
「ゲイル……」
 喉の奥で唸るようにディモンが名を呟く。
 それを無視して、俺はぱたりとベッドに横になった。
「いい加減出て行けよ、マジで疲れてんだ」
 はああと大きく息を吐き、明るい照明を防ぐように腕で目を覆った。
 未だ残る気配に、再度反対側の手を振れば、「ううっ」と威嚇しているような音が響いて。
「いつものあんたなら、あれが何に縋っていようが無視して、徹底的に痛めつけて支配する。薬で落とさなくても、圧倒的な恐怖で支配するのがあんたの調教だったろうが。なのになぜあのクマだけそんな手心を加える?」
「手心? そんなもん、ひとっつもくわえちゃいねえよ」
「……そうか?」
 未だ納得ができていなそうな応えを、俺はもう無視した。
 何かを言い合う気力もなく、ただ、今はこの疲れた身体をどうにかしたいだけで。
 俺がだんまりを決め込んでしまえば、ディモンも何も言えないのだろう。
 しばらく傍らにいる気配はしていたけれど、それもいつの間にか消えていて。それと気付く間もなく、俺の意識も闇の中に沈んでいっていた。