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薊の刺と鬼の涙 (26) |
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質の悪い風邪をひいていたと会社の届け出は誤魔化して、啓輔は次の月曜にようやく会社に復帰した。それでなくても心許ない有給休暇の残がこれで一気に減ってしまったと、それが別の意味で啓輔の頭を悩ませていて、早々に戻ってきた申請書とにらめっこをしていた。 その姿が微笑ましくて、見ている敬吾も思わず微笑を浮かべる。それでもひさしぶりの会社は楽しいのか、何度か訪れた家城の家で療養していた頃の啓輔からすればその表情は格段に明るい。 そんな彼に、今聞くべきことではなかったかも知れないが、家城の家ではどうしても問うことができなかったそれを聞きたくて、敬吾は暇をみつけてここに来たのだ。 幸いにして、この部屋のもう一人のメンバーである服部は、啓輔がいない間のツケが回っているせいで、朝からバタバタと走り回っている。だが、申し訳なさそうな啓輔に、「病み上がりなんだらか」と笑って部屋から出なくて良い仕事ばかりをさせていた。 それに啓輔は申し訳なさそうだけど、それだから今、あの事の話ができるのだから。 「話した?」 「一応……でも何にもいわれなかった……」 端的な言葉に、間違いのない返答がされる。今最大の関心事であるそれをふたりは間違えようがなかった。啓輔の視線が、敬吾ではなく机の上に散らばった数々の書類に向けられていても、意識はそれしかないようで、手は全く動いていない。その啓輔が小さくため息をついて、言葉を続けた。 「俺のせいじゃないって。でも俺の高校の時の素行のせいだって言ったんだけどさ……。関係ないって……」 「そうだね。それは俺も関係ないと思う。今回はいろんな偶然が重なって、ってことでいいんじゃないか?俺だって、高校の時の仲の良かった友達が、今は警察の厄介になったって話も聞くし……。過去の友達がどんな人生を歩んでいるかなんて、責任持てないよ」 「でもさ……。その時は俺も絡んでいたし……」 結局啓輔の罪悪感はそう簡単には消えないのだろう。 過去の当事者であった自分のせいだと……決してそれから逃れられない。 だから。 「だけどね、俺はそれを許しているよ。家城さんだってそうだろ?それなのに君がそんなにうじうじといつまでも悔いていたら、今度は俺の方が責任を感じてしまうんだけど」 できるだけ明るく、冗談めかして言うと、啓輔が弾かれたように顔を上げた。 「そんな……緑山さんが責任感じる事なんて……。だって被害者なのにさ」 「そうだろ?だから、そのためにも隅埜君がそんなことを考えるのを止めて欲しいんだよ。今回のことだって、いろんな偶然が重なって起きたんだし、これも運命だって思った方がいいよ」 歪む啓輔の顔に顔を近づけて、敬吾は安心させるように笑った。 「それに、今は感謝しているよ君に」 「え?」 「あんなことがあったから、俺は幸人とつきあう決心ができた。……君だってそうだろ?あんなことをしたから、家城さんと知り合えたんじゃないのかい?」 「あ……」 くしゃりと啓輔の顔が激しく歪んで、今にも泣きそうになる。 それは本当に庇護欲を駆り立てるくらいに可愛くて、敬吾はその頭を優しくぽんぽんと叩いた。 「泣かないでよ。これじゃ、俺が泣かせたみたいだ。家城さんに怒られてしまう」 正確には嫌味を言われるんだよな。 きっと冷たい美貌に感情など押し隠して仕事をしているであろう啓輔の恋人の姿を思い浮かべると、苦笑が浮かんでしまう。 「大丈夫だよ。こんなことではね……」 そう啓輔は言うけれど、それこそ敬吾にとっては苦笑ものだ。きっと啓輔にはとっても甘いんであろう家城に、その言葉は惚気られているとしか思えない。 「今回のことも、大丈夫だったんだろ?」 「うん……。でもさすがに今回ばっかりはなんか不気味なぐらい優しくて……実はちょっと恐いんだ」 啓輔の苦笑いの意味に、敬吾は気が付いた。 敬吾自身その怖さを身をもって体験したからだ。 「それ……判る……」 穂波に抱かれるのは好きだが、できればもうちょっと穏やかにして貰いたいと思う。 と、その時、啓輔が何かが気になるようにちらりとドアを見て、それから意を決したように敬吾を見つめた。 「あのさ……緑山さんは同居って考えたことある?」 「へっ?」 同居? その言葉の意味を素直に解釈するには、あまりに突拍子過ぎる話題で、敬吾はそのまま絶句する。 啓輔が言ったのは恋人との同居──いわゆる同棲ということなんだろうけど。 「この前、純哉にちらっと言われた。このままここに住んでくれても構わない……って」 「それは……」 きっと看病している間に、一緒に暮らすことへの希望が湧いてきてしまったのだろう。 いざとなれば遠慮もなくいつでも呼び出すか、押しかけてくる穂波と家城は違いすぎる。 「俺……ちょっと嬉しかったんだけど……」 なのにそういう啓輔は今ひとつ嬉しそうでない。 「同居、したくないのか?」 「そうじゃなくて……。ただ、俺今の家も離れたくないんだ。だってあそこは、俺が育った家で──って母屋は無くなったけど……。俺がいなくなったら、誰もあそこにいなくなる」 「あ、ああ……そうか、そうだよね」 「だけど、純哉との同居ってのも……考えるんだけど……」 「それはそんなに急がなくて良いんじゃないのか?家城さんだって、今回のことがあったから言い出したのかも知れないし」 「うん……そうかなっとも思ったんだけどね」 どうやら、浮かない顔の啓輔の真の悩みはそこに実はそこにあるらしいと、敬吾は天を仰いでため息を漏らした。 ──まあ、いろんな悩みがあるんだろうけどね。 明らかに惚気に近いそれに、敬吾は苦笑を浮かべるが、それでもふと自分がその立場になったことを考えて、その顔が引きつった。 「緑山さん?」 それに気付いたのか、啓輔が問いかけてきて。 「その話……絶対に幸人にしないでね。俺は……まだ自分の身が可愛い」 「?」 きょとんと首を傾げる啓輔を余所に、敬吾は思わず身震いした。 あの精力絶倫男と同居して、まず最初に壊れるのは自分の体の方だ、とそればかりが頭に浮かんだのだ。 「そ、それより、この前の買い物、なんかむちゃくちゃになったら……また一緒に行こうな」 同じ事をしたら嫌なことも思い出すかも知れないけど、かと言って引っ込んでばかりはいられない。 「……そうだね……俺も頑張ってみるよ」 啓輔もこくりと頷いて。 「絶対な」 そう言って、ふたりはまた約束をしたのだけど。 「どうして……」 「ごめん、来るって聞かなくて」 「お前らだけ行かせてどうする?」 「ですから、一緒に行けばいいんですよね。今回は私たちも用事はありませんし」 どうも簡単に許してくれると思ったら。 待ち合わせ場所に言ってみれば呼んでいない筈のふたりが揃っていて、その中で啓輔が申し訳なさそうに首を竦めていた。 「……信用ないって訳?」 心配なのは判るけど。 「心配しているんだ。恋人としては当然だろ」 悪びれることなく言い放つ穂波に、敬吾もがくりと肩を落とした。 だいたい、ふたりだけで行きたかったのは実は理由が合って。 「……邪魔しないでくださいよ。この買い物は俺達の買い物なんですから」 「するつもりはないがな」 大人しい家城と違い、穂波は買い物するにしても結構煩い。 そんな彼がこんな言葉で信用できるものでなく。 「だからっ、こっちの服の方が似合うって」 「俺はこっちの方がいいんだよ」 「でもなっ」 「黙っててって、言ったでしょ?」 「俺はこっちがいいって言ってるだけだろ?」 敬吾と穂波が数着の服の前で言い合う姿に、啓輔が呆れたように家城の方を向いた。 「俺、緑山さんが俺と買い物に出たがる訳、判ったような気がする」 「そうですね……。いい加減穂波さんも大人げないところがあるんですね」 「だね」 前に来た時よりはるかに目立っている状態に、啓輔は家城を誘ってじわじわとふたりから離れていく。 「とりあえずさ、休憩でもしようよ。このふたり、当分時間がかかりそうだ」 「賛成です」 「だったら、こっちの色にしろよ。お前、この色好きだろ?」 「だから、その色はたくさん持っているので、たまには違う色を、と」 「お前なあ、人が言うこと、全部反対していないか?この天の邪鬼」 「どっちがっ」 すっかり口げんかの様相を呈してきたふたりは啓輔達が離れていったことにも気付かない。 「なんかさあ……ああいうの見ていると、緑山さんって穂波さんじゃないと相手にならないんだなって、つくづく思うよ」 ちょうどすぐ目の前にあった喫茶店に入った啓輔は、ちらりウィンドウの向こう側を眺めてから、にこりと家城に笑いかけた。 「え?」 その意味が判らなかったのだろう、家城が僅かに眉根を寄せて啓輔を見つめる。 「だってさ、緑山さんって強いもんな。俺なんかより、ずっとずっと強い。そんな人となんて俺には無理。あんなふうに、対等に喧嘩できないからね。それって辛いじゃない?いっつもいっつも負けてるのってさ。俺も男だから、相手より優位に立って見たいって思うけど、緑山さんだと絶対にそれは無理だもんな。俺はいつだって負けている。それはきっと……あの時だってそうなんだろうって……思うし……。だけど純哉とは、そうじゃないもんな……」 「私は……別に……」 くすくすとその笑みに込められた思いに気付いたのか、家城は口ごもって啓輔から視線を逸らした。その横顔がほんのりと桃色に染まっている。 「そりゃまあ……時には意地悪だって思うけど……だけど……あの時は可愛いし……」 「啓輔……」 ため息と共に制する声は掠れていて、その頬は何かを堪えるかのように強張っていた。。 「ごめん」 へへっと肩を竦めた啓輔は、ちらりと窓の外を見やった。 そこでは、明らかに不機嫌な敬吾と、揶揄するように口許を歪めた穂波の姿があって。 まだやっていると、苦笑を浮かべた啓輔は、頬杖をついたままぽつりと呟いた。 「もう……あんなことは……二度としない。たとえどんなに狂わされても……二度と……」 「啓輔……」 「それに」 啓輔の声音の弱さに家城が声をかけようとして、だが、不意に啓輔は家城に向かって笑いかけた。 それは、暗さなんてどこにも感じなくて。 「やっぱ、抱くなら……ねっ。この前の約束、覚えてる?今日、いいかな?」 ハートマークでも付きそうな楽しげな言葉に、家城は目眩でもしたかのように顔を手で覆う。 「だって……してねーし……。俺……まだ無理だし……」 一応周りを気にしている啓輔がぼそぼそと伝えると、家城の顔はますます赤くなっていった。 それが扇情的に思えるのは、啓輔なのかも知れないけれど。 「……あなたって人は……」 必死で平静を取り繕うとしている家城が、それでも隠しきれない顔色を隠そうとメニューを持ち上げる。 その様子がどんなに啓輔の劣情を刺激しているか、家城は判っているのだろうか? 啓輔だけに照れてみせる家城が愛おしくて、可愛くて、そして楽しくて。 場所が場所だけに声を出せないのが残念だったけれど、それでも堪えきれずに啓輔はくつくつと喉を鳴らして笑い続けていた。
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