「柊(日本の柊): モクセイ科の常緑小高木。葉は革質で光沢あり、縁には先が鋭いとげとなった顕著な切れ込みがある。秋、単性または両性の白色の小花を密生、佳香を発する。節分の夜、この枝といわしの頭を門戸に挿すと悪鬼を払うという。 花言葉は「先見の明」 薊: キク科アザミ属多年草の総称。葉は大形で深い切れ込みがあり、とげが多く、花は頭花で、紅紫色。タイアザミ類の根は煎じて強壮薬・解薬・利尿薬とする。刺草または雷草。魔よけとしても用いる国がある。 花言葉は「独立」「厳格」「報復」「自立」
秘密のひいらぎ(1)
滝本は旅行に行くと言っていた。 木曜日と金曜日に休みを取っている。 あの喜びようからして、愛おしい恋人と行くのだとは容易に想像できる。 空いている席を穂波幸人は頬杖をつきながら見ていた。自らの部下の動向を思い描き、苦笑を浮かべる。 さて。これはどうしたものかな? 一枚の納品伝票。納期は今日。 滝本は月曜納品で許可を貰ったとは言っていたが……。 納品先は「ジャパン・グローバル」開発部 篠山宛。 そりゃそうだな。 相手もいないのだから、月曜納品でもいいだろう。 しかし……穂波は暇だった。 ふっと机の上にあった携帯を手に取る。片手で器用に操作して、アドレス帳から一人の名前を選択する。 『緑山』 それだけ記載されたその中身は、メールアドレスだけが入っていた。 送ったことのないアドレス。だが、忘れたことはなかった。 一度だけ見たことのある顔も忘れようがない。 まだ若い。幼さの残るその顔で、憧れの上司を苦しそうに見つめていた。 さらさらの黒髪をきれいにまとめている彼は、穂波の好みにぴたりとはまっていた。特にそのどちらかといえば可愛い部類の顔に似合わぬきつい眼差しが好みだった。 だから、偶然とはいえメール交換をしたとき、どこか心が踊ったものだ。 「今日は、いるかな?」 ぽつりと漏らすと、再度納品伝票に視線を落とす。 一つの案が浮かんだ。 このまま、想い続けるだけと言うのは性に合わない。 とりあえず、落としてみる努力をしてみるのもいいだろう。 男を恋したことのある人間なら、もしかするとこちらの誘いに乗るかもしれないしな。 穂波はにやりと嗤うと、携帯をポケットに仕舞った。 納品伝票などの書類をまとめ鞄に入れる。 ホワイトボードに行き先を記載すると、車のキーを振り回しながら部屋を出ていった。 『穂波 J・グローバル 直帰』 と。
ジャパン・グローバル社の開発部工業材料2チーム 緑山敬吾は、旅行に行くとかで休みを取った上司の替わりに、事務所でデータを整理していた。 隣の席では先輩の橋本が、別のデータを鬼気迫った表情でコンピューターに叩き込んでいる。 時折、「あのヤロー」とか「帰ってきたら……」とか言う言葉が漏れ聞こえる。 上司の名は篠山というのだが、昨日の木曜日から友人達と県北の温泉に紅葉見物に行ってしまった。電気化学2チームの滝本も同行していると聞いて少なからず驚いたが、それはともかく……。 問題は、今日、金曜日提出資料が未だに出来ていないことにあった。先ほど、その資料の取り纏め役の三宅から出ていない旨連絡を受け、慌てて二人でその資料を発掘し、作り上げている最中。 滝本の方は、その手の資料はきちんと提出されているらしく、あちらのチームは平穏無事なようだ。 羨ましいな、そういう所は……。 ぽつりとこぼしたくなる愚痴を飲み込む。 変わりに、 「んん」 ぐいっと背を伸ばす。 細かい数値を見ていると、肩が凝ってしようがない。 敬吾は24歳。入社2年目なのだが、ずぼらで面倒な仕事はすぐ部下に押しつける上司のお陰で、同期入社に比べるといろいろな仕事を経験していた。それが嫌だとは思わなかったが、やはり緊急突発な仕事はできれば受けたくない。 だがそんないい加減な上司ではあったが、それでもその気になれば他の誰よりも仕事ができる篠山は、憧れの対象であった。いや、恋心を抱いたことがある。それは、玉砕してしまったが……。 今となってみれば、何故あそこまで好きになっていたかは判らない。 相手は女性ではないのにな……。 そう思うことで、諦めたのかも知れない。 敬吾は、こきこきと肩を慣らして、再びスクリーンに視線を移した。 もう、後少しだ。 カチカチとキーを打つ音だけが響く。 後もう少しで、定時(17時)が来る。できればそれまでに終わらせたいな。 そう思いながら、ひたすらキーを打ち続けた。 リリ リリ …… ちょうど、とりあえずデータを打ち込み終わって一息ついた頃……PHSが鳴った。 「はい、緑山です」 左手だけで操作してPHSに出る。右手はマウスを握って、画面をスクロールさせていた。その画面を見ながら応対する。 『お世話になります、川崎理化学の穂波です』 落ち着いた声が聞こえた。 川崎理化学の穂波? 聞き覚えのない名前に、手が止まる。 「穂波さま、ですか?」 『お忘れですか?滝本の上司になります。ずいぶん前になりますが、メールでお話したこともありますが?」 あっ。 それを聞いて敬吾はようやく思い出した。 2〜3ヶ月前に遊んでいる篠山の携帯を取り上げて、入ってきたメールに対応したことがあった。その時の相手が穂波だった。そう言えば、一度顔を合わせた事もある。だが、今ひとつ覚えていない。 そう言えばそれっきりだった。 『もしもし?』 「あ、はい、すみません。失礼いたしました。ところで今日はどのようなご用件で?」 川崎理化学に発注している物は無いはずだが? 訝しげに首を傾げながら問う。 『ああ、今日滝本が休みなもので』 ああ、やっぱり。 篠山の恋人が川崎理化学の滝本という人であることは、判っていた。それを邪魔しようとして玉砕したことは苦い思い出の一つだから。 やっぱり、一緒に旅行に行っているんだ……。 『それで、代わりに篠山さん宛の品を納品に来たんですけど、よく考えたら篠山さんも休みなんですよね』 「はい、そうです。」 敬吾は相手に気付かれないようにそっと息を吐いた。 この穂波という人は、自分が何をしたかを知っている。 自分が嫉妬に駆られて滝本に与えた仕打ちを篠山にばらしてしまった人。 あの時の胸の痛みを思い出す。 すでに篠山に対しては、何も思ってはいない。が、あの痛みだけはいつまでたっても忘れることができない。 『それでですね、ちょっと品物を受け取って頂きたくて……よろしいでしょうか?』 「あ、はい、すぐ参ります」 逢いたいという気にはなれなかったが、品物の納品に来ているのだから、断る理由はなかった。PHSを切って、席を立つ。 「橋本さん、業者がきているので、ちょっと行ってきます。データの入力は終わっていますので」 「ああ、サンキュ。こっちも後少しだから、何とかなるよ」 「はい」 敬吾は立ち上がると、PHSを片手で弄びながら入荷場へと向かった。 ひんやりとした階段を降りていると、長くなった前髪がさらりと落ちてきた。 それを左手で掻き上げる。 入荷場への扉を開けると、さらに冷たい外気が薄い作業着を通して伝わってきた。 「寒っ……」 思わず身震いした。 「緑山さん?」 5m程先から呼びかけられ、顔を上げると記憶の片隅にあるのと同じ顔の人がいた。 「穂波さんですか?」 「はい、お世話になります」 敬吾より背が高い。ほっそりとした体格に短めの髪でまとめられたその顔はきりっと引き締まっていて、同年代の他の中年男性とは比べようもないほどのかっこよさと言う物が漂っていた。 スーツがよく似合う人だな。 思わず見取れてしまっていた敬吾に、穂波が重そうな段ボール箱を抱えて近づいてきた。にこりと笑みを浮かべる。 「それでこちらが納品の品なのですが、重いですよ」 「はい」 両手でその箱を抱える。穂波が手を外された途端ずしっと両腕に重みが加わった。 「あっ」 思わず滑り落ちそうになった所を、穂波が支えてくれた。 「す、すみません。重いんですね」 「ええ。私は結構力が強くてついそのまま渡してしまいましたね。すみません、お手伝いします」 結局二人でその箱を抱えて、入荷場の片隅にあった台車まで運んだ。 確かに穂波の力は強いようで、二人で抱えているにもかかわらず敬吾はほとんど重さを感じなかった。 「ありがとうございます」 台車に無事降ろしてほっと一息つく。 「いえ」 穂波は微かに笑みを見せると、スーツのポケットから名刺を取り出した。 「緑山さんとはきちんとご挨拶していませんでしたね。営業3課で課長をしております穂波幸人です」 差し出された名刺を反射的に受け取った。 「あ、私も……」 慌ててポケットに入っていた手帳から名刺を取り出す。 「緑山敬吾です」 「緑山さんはずっと篠山さんとご一緒なんですか?」 渡した名刺を手帳にしまいながら穂波が問いかける。 「はい、去年入社してからずっとです」 「ああ、そうなんですか。じゃあまだお若いんですね」 「はい、まあ……」 気さくに話しかけてくる穂波に緑山は躊躇いながらも対応していた。 何せ、この人にはいろいろと知られている事が多い。だから、どうしても一歩退いてしまう所があった。 それに……寒い。 入荷場は荷受けのためシャッターが開いていて吹きっさらし状態だった。 早く戻りたい。 本気でそう思っていた緑山だったが、いろいろと話しかけてくる穂波を邪険にはできなかった。 と、穂波がスーツのポケットから携帯を取り出した。 「前にメールアドレスを受け取りましたよね。登録してあるのですけどね」 ピピと操作して出された小さな画面に緑山という名前とメールアドレスが入っていた。 「一度お逢いしたいと思っていたのですけどね、なかなか機会がなくて。今日はお逢いできてたいへん嬉しく思っているんです」 にこりと笑いかけられ、敬吾は言葉を失う。 そう言えば、メールアドレスを送ったんだった。 すっかり忘れていたその行為に、何故か顔が熱くなった。 何故あの時送ってしまったんだろう。その理由などとうの昔に忘れている。 「あの……」 何かを言おうとして、だが、言葉が出ない。 何と言えば良いのだろうか? 消して欲しい……。 「緑山さんって、こうしてお話ししたのは初めてですが、なかなか素敵な方で嬉しく思っていますよ」 「あの……」 さっきからそればかりだが、言葉が出ない。 この穂波さんって人は……、一体何が言いたいんだろう? 「ですからね」 狼狽えている敬吾に、穂波はすうっと口の端をひいた。真面目な表情の穂波は、敬吾を圧倒する力を持っていた。経験の差といったようなものによる力の差。 だが、意に反して敬吾の心臓がどきりと跳ねた。 何なんだ、これは! 自分の反応が信じられなくて狼狽えている敬吾に穂波が静かに話しかけた。 「私とつき合ってみませんか」 「え?」 この人は一体何を言っているんだ? 呆然と視線を向ける。 「ですから、私はあなたのことがずっと気になっていたんです。今日の出会いを心待ちにしていました」 こ、これって! 思わず穂波をまじまじと見開いた瞳で見つめる。 そんな敬吾に穂波がくすりと笑みを見せると提案してきた。 「一度だけでもご一緒に食事に行きませんか?つき合う、つき合わないはその後と言うことで」 「一度だけ?……それなら……」 思わず口走っていた。 言ってしまってからはっと口を押さえる。 まずいっ……。 「よかった。じあ、今日この後、食事にいきましょう」 「え?今日ですか?」 「ええ、今日は金曜日ですし、ちょうどいいかなって思ったんですけど」 とんとんと話を進める穂波に、敬吾は断れそうにない雰囲気を感じて唇を噛み締めた。 どうしよう……この人のペースに巻き込まれてしまった……。 「緑山さん、そんな難しく考えないでください……そうですね、これは接待ということで……どうですか?」 「接待ですか?」 「そうですよ。私が緑山さんを接待のために食事にお連れするんです。そんなに難しく考えないでくださいね」 柔らかな物腰の穂波に、つい敬吾は頷いた。 「たぶん……今日は大丈夫だと。後一時間もすれば帰れますが……」 「それは良かった」 穂波がにっこりと微笑む。 「では、7時に駅の地下改札前でお待ちしています」 「判りました」 まあ、一回くらい良いかな……という気持ちになっていた。 つき合うつき合わないは別にして……まあ、いろいろあったけど、優しそうな人だし……。 と、ちょうどその時、背後から入荷場の社員達ががやがやと荷受けのために集まってきた。 そのせいでふと途切れた会話。 場が白けてしまい、ふっといたたまれないような雰囲気になる。それを感じ取った穂波が、納品伝票を緑山に渡した。 「それでは、ありがとうございました。お待ちしておりますから」 再度微笑んだ穂波は軽く会釈をし、車の方へと向かっていった。 「ご苦労様でした」 その背後に挨拶を返す。 すらりとした穂波は後ろ姿も様になっている。 その後ろ姿を見ながら、敬吾はふっと顔が熱くなってくるのを止められなかった。 立ち竦んでいる敬吾の視線の先で、川崎理化学と側面に描かれた車が通り過ぎていく。 「今日の7時……か」 少し不安はあった。 だが、多少は期待している所もある。 悪い人ではなさそうだし……。 まあ、一度だけなら……。 自分で自分を言い聞かせた。 一回だけだから……。
車を運転しながら、穂波は漏れる笑いを止められなかった。 あの緑山って子、もしかしなくてもつき合う相手としては上玉かも知れない。 自分の想像が当たったことが楽しくてしようがない。 短い時間だったが、話をしていても面白かった。 狼狽えている姿も面白いから、ついついからかいたくなる。 約束も取り付けることができた。直帰の連絡を入れてあるから、このまま家まで帰って車を置いても充分約束の時間には間に合う。 それにしても。 こんなに簡単に約束を取り付けられるとは思わなかった。 勝ち気な子のようだから、その辺りをうまくつつけば、結構思い通りになるかも知れない。 だが、その分「取扱注意」ってところかな。 敬吾の顔に浮かぶ「常時警戒中」のラベルは、営業で百戦錬磨の穂波にははっきりと見て取ることができた。 ほとんど初対面の相手にいきなり付き合って欲しいなどと言われて喜ぶような子ではないことは、先刻承知はしていたが。 それにしてもあの年にしては、仕事の場数は踏んでいるのかも知れない。さすがに当惑していたみたいだが、全体に落ち着いて対応できていた。 いいな、マジで好みだ。 仕事もできて、可愛い中に芯がしっかりとある。一筋縄ではいきそうにない性格。 ……ああ、どこか滝本に似ているかな。 だが、人を見抜く目は滝本の方に軍配は上がるだろうが……。 まだ若いし、経験も少ない。教育次第ではどうとでも転ぶかも知れないから、それはそれで楽しそうだし……ああいう子はうちの会社に欲しいよな。そうしたら、もっと早くに落としていたんだが……。 前方の信号が赤になり、車を停止させた。 付けっぱなしのカーラジオから天気予報が流れていた。 今夜は雨……か。 雨……も似合いそうだ、あの子には。 ふっとそう思った。 印象は黒。しかも烏の濡れ羽色。 初めてみたときも黒っぽい服だったような気がする。黒系統のスーツなんか似合いそうだよなあ。スタイルも良さそうだし。 穂波の想像が際限なく膨らんでいく。 だけど。 楽しそうな笑みを浮かべていた表情が、ふっと真剣になる。 「少し難しいか……」 そう思った。 「取扱注意」の兆候は、単純な会話の中に時折感じていた。 穂波お気に入りの挑むような視線を本人が気がついていないのだから。そういう子は、気をつけないといきなり切れる。 自分の感情に気がつかない子は今までの経験上結構怖い。限界を超えると堰を切ったよう溢れ出す自分の感情に対処できない。だが、彼の場合は、まだそうだとは確定できない。 もしかするとわざとそう見せているのかも知れないし。 だが、彼が滝本にした仕打ちの件もある。 片思いの相手の恋人が取り扱っているからという理由で、装置の採用を別の業者にしようとした。 その行為。 何をするか判らない所があるかもな……。 信号が変わった。 同時に穂波の思考も切り替わる。 とりあえずは今日のことだ。 さて、どこへ連れて行こうか……。 と言っても、この時間で今日すぐさまに予約を入れることが出来るところなど知れている。 まして、今回はただの接待ではない。 決して負けることの出来ない接待なのだ。 相手を圧倒させなければならない。そして我が儘の聞くところ……。 穂波はしばし考え込み……、ふっと口の端を上げた。 それに該当するところは一カ所だけだった。 穂波は、コンビニの駐車場に車を入れると、早速携帯で電話を入れた。 さすがに文句を言われたが、それでも席の確保はできた。 いきなりの予約ではあったが、結構いい食事も用意できそうだ。 これでセッティングはOK。 さてさて、どんなシュチエーションに持っていくか……。 酒を飲ませて、一気にそう言うところまで持っていくのも良いが、怒らせるとまずいかもな。 まあ、ゆっくりと攻めるとしよう。 まだまだ序盤だからな。ゆっくりと過程を先を楽しまないと……。 穂波の運転する車は、帰宅時間に外れて空いている道をまっすぐに自宅へと向かって走っていた。
敬吾は一度家に帰ってスーツに着替え直した。 特に出張等のない日は適度にカジュアルな服で会社に行くのだが、接待という名目で逢うのだからそういう訳にはいかないだろうと、思ったのだ。 11月に入ったばかりだが、夜ともなると結構寒い。敬吾は黒のハーフコートを取り出すと上に羽織った。 待ち合わせの駅は市街地の中心地で、敬吾が住んでいるコーポの側の駅から一駅分電車に乗ったところだった。電車の窓からネオンの灯りが目立ち出すと降りる駅はもうすぐ。 あの穂波さんって人……一体どういうつもりなんだろう。 敬吾は座席に電車に乗っている間中ずっとその事を考えていた。 つきあって欲しい、と言われたが、一体それが何を意味しているのか敬吾にはよく判らなかった。 確かに以前メールで会話をした時はちょっとは気になる相手ではあった。たぶん、それでメールアドレスを送ってしまったのだろう。 だが、それだけのものだった。 敬吾にとって、男に付き合って欲しいと言われたのは初めてだったし、自分自身そんな事を考えたのは篠山相手だけだった。 今にしてみれば、あれは憧れだったのだろう考えている。 入社して初めての上司。 しもまだ若くて、一見いい加減だが−−マジでいい加減だったのだが−−真剣に仕事に取り組んでいる姿はなかなかのものだった。客先相手に巧みに開発ポイントなどを説明している様子は、堂々としていて格好良いとさえ思う。 そして、その風貌も男の目から見ても羨ましいと思うくらい整っていたのだから。 敬吾は、その篠山の自分にない男らしさに憧れていた。 だから、好きになった……。 でも、彼の場合は……どうなのだろう。 印象は悪くなかったけれど……。 確かめてみたい。 それに好奇心もあった。 実際、どんな人なのだろう、と。 つらつらと考えている内に、電車がホームに滑り込んだ。 電車を降りると地下に通じる階段を下りて、そのまま地下改札に出る。 そのまま地下街に繋がる地下改札口は、仕事帰りのサラリーマンや学生達でごった返していた。 「まだ早いか……」 約束の時間まで15分くらいあった。ざっと見回して穂波がいないことを確認すると敬吾は、傍らにあった店に入ってみることにした。 若者向けのファッションを扱っているその店は、敬吾も普段着を買いによく利用する店だったが、こんな時間に入ったのは初めてだった。いつもより学生が多く、何となく場違いなような気がしながらも、目に付いたブルーブラックのカジュアルシャツを手に取る。 だが、買い物袋を抱えて接待を受けるわけにもいかない。 しょうがないか……。 手に取ったシャツをちょっと残念そうにそのままそこに返そうとした、と。 「その色なら君に似合うね」 背後からすっと伸びた手がそのシャツを取り上げる。 え? 聞き覚えのある声に敬吾が驚いて後ろを振り向くと、穂波がにこりと笑みを浮かべて立っていた。 どうして? 思わずまじまじと見入る。 「買わないの?」 そこに穂波がいるということに驚いたが、とりあえず質問に対しては首を振る。 「荷物になりますし……」 「そう?君はこんな服が好き?確かに似合いそうだ」 気さくに話しかけてくる穂波が、持っているシャツと敬吾を見比べる。そして両手で折り畳まれていたシャツを広げると敬吾の躰に当てて見た。 訝しげに見つめる先で穂波が満足そうに笑みを浮かべる。 「ああ、そうだね。この色はやっぱり似合う。サイズはこれでいい?」 「え、はい」 その真意が判らなくて、敬吾は反射的に返答した。 穂波はそれに満足そうに頷き返すと、さっさとレジへと持っていって店員に手渡す。 「あ、の……」 何が起きているのかと呆然としている敬吾を後目に、穂波はお金を払うと紙袋に入れられたそれを持って帰ってきた。 「はい、プレゼント」 差し出された紙袋を自然に受け取って……敬吾は呆然と穂波と紙袋を見比べていた。 「プレゼント……?」 「そう。お近づきの印だよ。さあ、行こう」 ぽんと敬吾は背中を押され、訳も分からずに歩き出す。 プレゼント……って、プレゼント……。 「あ、あの!」 やっと事が飲み込めた敬吾が慌てて紙袋を穂波に突き出す。 「こんな、貰えません!」 「どうして?」 「だって、そんな貰う理由がない、です」 貰う理由……誕生日でもお祝いでもクリスマスでも……じゃなくて、どうしてこの人からプレゼントされなくてはならないんだ? 「私がプレゼントしたいからっていうのは理由にならないかい?」 「そんな、こちらが貰う理由がありません。お返しします!」 敬吾が差し出す紙袋を押し戻しながら、穂波はふっと口の端を上げた。 「返して貰っても私が着るわけにはいかないしね。サイズが違うし……それにこんなところでそんな押し問答をしていると衆目の的だよ」 「え」 言われて辺りを見渡すと、女子高生らしい集団がくすくす笑いながらこちらを見ているのに気がついた。 かあっと頬が熱くなる。 「さ、行こう。予約の時間に遅れてしまう。少し歩かないといけなんだ」 穂波に促されて歩き始める。 「あの、じゃあお金払いますから」 歩きながら、穂波に言う。 だが、穂波は苦笑を浮かべながら首を振った。 「言ったろうプレゼントだって。お金なんか受け取るつもりはないよ」 「でも……」 「いい加減君も頑固だね。まあ、そういう所もいいんだけど」 「え?」 今、さらりと言われた台詞がとんでもない内容だと気がついて、ひくりと顔がひきつる。 「とにかく、それは受け取りなさいって。その後君がどうするかは君の自由だから、ね」 「はあ」 結局、その紙袋を返すことなどできそうにもない。 「ありがとうございます」 ぼそりと呟くように言う。 困ったな……。 当惑気味の敬吾に穂波はくすくすと笑いながら先を歩いていた。 「ああ、ここだよ」 地下街から出て、横道から少し奥まった所にその店はあった。 料亭のような雰囲気の店に、敬吾は眉をひそめる。こういう店は入ったことがない。 よっぽどのことが無い限り縁のなさそうな店。 「さあ」 穂波に促されるままに中に入る。 店の人が穂波と親しげに挨拶を交わしていた。 こういう所ってよく利用するのか。 その慣れた様子を半端羨ましく思いながら、敬吾は着ていたコートを脱いだ。と、穂波がすっとそれを取り上げる。 「じゃ、よろしく」 あっと思う間もなく穂波が自分のコートとあわせて預けてしまった。 そのずいぶんと手慣れた様子に、敬吾はただ従うしかない。 敬吾は勝手の違うその場の雰囲気に飲まれて、促されるままに中の座敷に入っていった。 そこは4畳半ばかりの和室で、テーブルにはすでに料理が並べられていた。 「若い方なので洋風の物がいいかと思ったんだが、今日の今日でね……我が儘が言えるところがここしかなかったんだよ」 穂波の苦笑いなど右から左へと通り過ぎていく。 なんか凄くないか、これ……? はっきりいって入社2年目の若造をつれてくるような場所ではないよ、これは。 だいたいこれって……一人前幾ら? 小市民の悲しさか、値段の検討がつかない。 敬吾とて、お客さん相手の会社の接待に出たことはある。 だが、今回並んでいる料理はそれより豪華だった。 いや、綺麗なのだ。 使われている食器も、素材も、彩りも、飾り付けに至るまで……全てが。 だから、豪華に見える。 だから、高級な料理なのだと判ってしまう。 「あの……」 「気にしないで、接待だからね」 ここまできて、それでも遠慮しようとした敬吾の言葉を穂波が遮る。 「それにここで君が遠慮して帰ったとしても料金は一緒だよ。私に二人前を食べさせるようなことはしないで欲しいな」 くすりと笑いかけられ、戸惑いながらも敬吾は従うしかなかった。 確かにここで敬吾が帰ると、穂波が二人分の料理を食べるか、残すかしか選択肢はない。ここまで出ている以上、料金は払わなければならないのだ。 敬吾は覚悟を決めた。 これも経験だ。どうせ向こうの奢りなのだから。 そう割り切ることにした。 暖房が効いているため、スーツの上着を促されるままに脱ぐ。 割り切ろうとは思ったが、やはり場違いな雰囲気に相変わらず当惑気味の敬吾に、穂波は料理の説明をしていく。敬吾は進められるままに飲み食いしていた。 時折料理を運んでくる以外、店員はやってこず、二人だけでの会話が続く。だが、穂波の話術はさすが営業を長年してきただけあって、巧みでいつの間にか敬吾の緊張がほぐれていっていた。 いい加減、食べ終わった頃には場も充分ほぐれていた。 「穂波さんってまだお若いんですね」 課長という役職にもう少し上の年齢を想像していた。だが、穂波はその言葉を別の意味に取ったようで、やや傷ついたような表情を見せた。 「なんだ、そんなに年喰っているように見えるかい?」 言われて、敬吾は言葉が足りないことに気がつく。 「い、いえ、そうではなくて、あの若いのに課長になられているって凄いなあって……」 慌てて取り繕う敬吾の様子に、穂波は吹き出した。 くくくと堪えるように笑い続ける穂波に、からかわれたことに気がついた敬吾は赤面した。 「からかったんですね」 むっとして睨む。 「ああ、ごめん……若いって言っても君と10歳は違うからね。おじさんだよ、もう充分ね」 「いえ、でも、見た目はそんなに年取ってるとは……あ、じゃなくて、その……」 「いいんだって。でも10歳くらいの違いなら、君とつきあっても大丈夫なって思うんだけど、どう?」 さらりと言われた言葉を頭が理解するのに、数十秒を要した。 「どうって言われても……」 ようやく口を開くことができた敬吾は、それでも言葉が続かない。 なんかこの人って結構いきなりな人? そんな敬吾に穂波はくすりと笑みを見せると、先ほどの紙袋を引き寄せた。その中から、買ったばかりのシャツを取り出す。 「ね、これ着て見せてくれないかな?」 「え?」 話の展開についていけなくて、敬吾は唖然と穂波を見やる。 「せっかくプレゼントしたんだから、さ。着ているところを見てみたいなって。ネクタイ姿もいいけど、やっぱりこういうラフな服の方が君には似合いそうだし、ね。まだ若いんだし」 最後の言葉に含まれる笑いに、苦笑が浮かぶ。しかし、差し出された服を受け取ると躊躇してしまった。確認するかのように穂波を見る。 ここで、着替える? 「遠慮しないで」 「別に遠慮しているわけではないのですが」 どうしよう。 着替えて見せてくれって言うんだから、別に構わないんだよなあ……。 それでも敬吾が躊躇っていると、穂波がテーブルを回ってきて敬吾の傍らに座った 穂波の手がすっと敬吾のネクタイにかかる。 「ほらほら、着替えて」 タイを手際よく解いていく穂波の手元を呆然と見ていた敬吾がはっと気づいて慌ててその手を押さえた。 「ちょっと待って下さい」 この人は、何を! 「なんで?手伝っているだけなんだけどね」 その声が目前から聞こえて、はっと顔を上げる。意外に真剣な穂波の顔が間近に迫っていた。 端正な顔立ちを確認した途端に心臓が跳ねた。 「あっ……」 文句を言おうとした言葉が出てこない。あまりに至近距離にあったその顔に、敬吾は堪えられない動揺に襲われ目を硬く瞑り顔をしかめた。それは無意識の行為だ。 しかし、驚いたように穂波の手が止まった。 僅かな間が起こる。 そして。 「そんな顔……するもんじゃないよ」 静かな声が耳元で囁かれると、それに返答する間もなく、ぐっとネクタイを引っ張られた。そのせいで俯きかけていた顔が上向く。 微かに開いていた唇が柔らかいもので塞がれる。 え? 驚いて見開いた敬吾の視界一杯に穂波の顔があった。 背に力強い腕が回され、抱き締められる。 合わせられた唇が熱く濡れていた。 これって……キス? な、んで! 慌てて振り解こうとするが、穂波の力が強くて逃げ出すことができない。それどころか、すっと離れてくれた唇にほっとする間もなく、穂波の舌がすうっと敬吾の唇をなぞった。 「んっ」 途端、訳が分からない疼きに襲われ敬吾は顔をしかめる。 気怠さに近い浮遊感に襲われ、思わず穂波に当てていた手を握りしめた。 何、これ……? そんなに場数を踏んでいるわけではないが、それでも今までのキスでこんな事になったことはなかった。しかも、ちょっと触れただけで……。 「感じた?」 吐息がかかる距離で囁かれる。その言葉に、敬吾は激しく首を横に振った。穂波から逃れるように背けた顔が火を噴いたように熱い。 これって……。 激しい羞恥心に襲われる。 とりあえず、穂波の腕の中から離れたかった。でないと、とんでもないことになりそうだ、と恐怖心が沸いてくる。 だが、穂波の手が敬吾の顎を捕らえ、無理に上を向かせた。 「んっ!」 再び合わせられた唇から逃れようともがく。だが力の強い穂波から逃れる術はなく……それでももがいているうちに、敬吾の心の中に恐怖にかられた心が怒りの感情を呼び起こした。 嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! こんな! 無理矢理なんて! その怒りが、翻弄されていた敬吾の心を支配した。 沸き起こった怒りをそのまま両手に込めて、渾身の力でぐいっと手を突っ張る。と、火事場の馬鹿力的行為に、穂波の躰が離れた。 離れた穂波をぎっと睨み付ける。 「止めてください!」 言い放ちぎりっと奥歯を噛み締めた。悔しくて、こんな行為を許してしまった自分を情けなく思う。その思いが敬吾の目尻に涙が浮かばせる。 「俺、嫌です!」 震える声が情けない。 穂波はしばらくそんな敬吾を見つめていたが。ふっと微笑みかけると回していた手を離した。 「ごめん」 穂波の口から紡ぎ出された言葉は静かだった。 「あまりに君が可愛い表情を見せてくれたんで、つい、ね」 「可愛いって!」 叫ぶ敬吾に、穂波は落ち着いた様子で苦笑した。 「あんまり大きな声を出すと、店の人が驚いて飛んでくるよ。落ち着きなさい」 「誰のせいだと思っているんです」 それでもかろうじて声を押し殺す。 男に襲われたなんて思われるのは嫌だった。 「ま、悪かった。でも、君だって色っぽい表情見せるんだからね。私が君に興味を持っていると言うことは伝えてあるのに」 興味って……。 確かにそうかも知れない。いや、だからこそ敬吾は必要以上に気にしてしまっていた。だから、あまりに至近距離の穂波に……。 穂波の言うことにも一理ある、とは思う。 確かに俺にも隙はあった。 だけど、それとこれとは別だ。 「俺、帰ります」 「まあ、待ちなさい。送っていくから」 「結構です」 立ち上がり、緩んでしまったネクタイを直そうとして……諦めた。 しゅっと抜き取ると上着のポケットに突っ込む。 「これも」 穂波に渡されかけた紙袋に手を伸ばそうとし、敬吾は止めた。 「それはいりません。お返しします」 「やれやれ、嫌われたものだな。だが、これは君が持って帰りなさい。私の事が嫌いでも、これには罪がないだろう」 そう言って無理矢理持たされる。 確かにそうなのだが、このまま置いていても捨てられるだけ。 ふとそう思って結局受け取ってしまった。 「だけど、ね。私はますます君が気に入ったんだ。だから、いつかまた逢おう」 「私は逢う気はありません」 きっぱりと言い放つ敬吾にそれでも穂波は笑みを浮かべたまま言う。 「また逢うよ、きっとね」 その自信に満ちた言葉を背に、敬吾はそこを出ていった。
「しまったな」 去っていった敬吾を見送り、穂波はひとりごちる。 先ほどまで敬吾に見せていた余裕のある笑みは消えさり、その眉間に深い皺が寄っていた。 あそこまでするつもりはなかったんだが……。 軽く口付ける位はするかも知れないとは思っていたが。 なのに……。 ネクタイを解こうとした事には他意はなかった。ただ、プレゼントしたシャツが似合うだろうと思ったから、見せて欲しいと思っただけ。なのに、敬吾が見せた堪えるような表情に煽られてしまった。 「あんな表情……俺に見せるのか」 ぽつりと漏らした言葉を噛み締める。 きつい眼差しがその瞼によって塞がれた途端、胸が高鳴った。 微かに震える睫を見た途端、ネクタイを握った手に力が入った。 そして。 その柔らかそうな唇に誘われるように口付けた……。 それは予想以上に甘くて、もっと味わいたいという欲望を燃え立たせる。 だから……。 からかうつもりはなかった。 ただ、欲しいと思ったから……無理にでも欲しいと……。 だが、やはり拒絶された。 なんてこった。 この俺が、流されるなど……。 はやる心を押さえつけることが出来ない程そそられるとは思わなかった。 だが、手に入れることができたのは、ただ拒絶の意志を滲ませたそのきつい視線。だが、それさえも穂波の心を鷲掴みにした。悔しさに浮かんだその涙さえも。 手に入れたい。 あの涙が浮かんだ瞳を見た途端、本気で思った。 こんな思い、長い間忘れていたような気がする。いつだって遊びでしかつき合ってこなかったから。穂波にとって恋愛とはゲームだった。楽しければ良かった。 そういうつき合いしかしてこなかったから……だから未だに特定の相手はいない。こういう思いを抱く相手が本命というのなら、確かにそうなのかも知れない。この年になって本気になれる相手がいるとは思わなかった。 本気で手に入れたいと思う相手が出来るなど……。 相手は10も年下の子に……。 穂波は自分の掌をじっと見つめる。 この手の中に一瞬捕らえることができたが、しかし、すぐに逃げてられてしまった。 これは俺のミス。感情に流されてしまった俺のミス。 同じミスは二度と繰り返さない。 穂波の唇が笑みの形をつくり上げる。 まだ、これからだ。一度目をつけた相手はどんなことをしても手に入れる。そうやって今まで過ごしてきた。決して諦めはしない。 「穂波様」 背後から声をかけられ、振り向く。声の主が判ってるから、振り向いた時にはその顔に柔らかな笑みを浮かべる。 「ああ、女将さん。今日は無理をいって申し訳ありませんでした」 「いえいえ。穂波様の頼みとあれば。いつだって贔屓にしてくださっていますもの。ところでお連れさんがコートをお忘れになったようなのですが」 女将の手にある黒いコートを見た途端、穂波は心の中でのみ嗤う。 使えるかも……。 「なんだか、血相を変えて出て行かれたとかで、声をかける暇もなかったそうなんです。何かこちらの不手際でもありましたでしょうか?」 心配そうな女将に穂波は安心させるように微笑んだ。 「いえいえ、こちらには結構な料理を出して頂いて、連れも大変満足していました。ただ、私の方が失敗しまして怒らせてしまったようで……ご心配おかけしまして」 「あらあら、穂波様が失敗なさるなど、信じられませんわ。いつだって、自信満々のご様子ですのに」 「ま、私も人間ですからね。さて、と、会計なんですけど……」 「えーと、いつものように会社のお名前で領収書出させて頂きますね」 「あ、いえ。これは自腹なんです。ちょっと個人的な物で」 「あら、そうでしたの」 女将が驚いたように目を見開く。 そりゃそうだろう。 今日の費用は個人で出すには馬鹿にはならない金額になるのだ。 「まあ、そういうことなんですよ」 穂波の苦笑に女将はただ微笑んで返した。 必要以上の詮索はしてこない。会社でよく利用するので無理が利く。大事な接待だと伝えていれば、必要以上に店員がやってこない。そしてこちらの我が儘に答えて貰える。それがここを選んだ理由なのだから。 戸口で深々と礼をする女将に会釈すると、穂波は敬吾のコートを抱えて歩き出した。 さて、このアイテム、どうやって生かそうか。 緑山敬吾……。 本気で手に入れたいと思った相手は久しぶりだ。 だが、どうしよう。 あの様子では、次回はよっぽどの理由をつけないと逢ってくれそうにない。それでなくても接点が少ないのだ……いや、全くないと言ってもいい。 穂波は本来敬吾の会社の担当ではない。出かける用事もない。部下である滝本の仕事を奪うつもりはない。 だから……。 このコート。そして、携帯を取り出す。 ただ一つの接点が、このメールアドレス。もし彼がアドレスを変えてしまったら、もう役に立たなくなる。だが、とりあえず使える物は使おう。 使える間だけでも。 穂波の手の中で携帯の液晶が光る。 「緑山」 冷却期間をおこう。今まで時間をかけたのだから、この際時間をおくのもいいかも知れない。そして、その間に決してアドレスを変更させないメールの内容を考える。 まずはそれからだ……。 穂波は決して諦めるつもりはなかった。
コートを忘れたことに気付いたのは、最寄りの駅で降りたときだった。暖かい車内から降り立った途端に襲ってきた冷気に身震いする。 「あの店か……」 忘れるとしたら、あの店でしかあり得ない。 とにかくあの場を離れたくて、何も考えずに飛び出してしまったから。あの時は、怒りやいろいろな物が頭の中を巡っていて、走って駅へ向かって、ちょうどきた電車に乗り込んだ。だから寒いとは思わなかった。 取りに行くべきなんだろうけど……。 あそこへ戻れば穂波に逢いそうで、それだけは避けたかった。 「はあ」 大きく息を吐くと、自宅に向かって歩き始めた。 店の名前は覚えているが、電話番号などの連絡先は判らない。それにコートは既に穂波の手に渡っているに違いない。穂波はあの店の常連のようだったから、店から連絡が行くだろう。気に入っていたコートだったが、諦めようか。 敬吾は、冷えてきた躰を温めるように腕を強く擦った。 駅からコーポまで歩いても10分とかからない。走れば5分くらいか。 「あれ?」 ふっと敬吾は顔に冷たい物を感じて立ち止まった。コーポまでの道のりを半分程行った位だろうか。思わず空を見上げる。どんよりと曇った空から、周りの明かりに照らされて白い筋が時折光る。 「雨かよ」 ぽつりぽつりと降り始めた雨に、暗い空を睨みつける。しかも少しずつ強くなっている。 「やば」 慌てて敬吾は走り始めた。 幸い、強くなる前にコーポの玄関先に着けた。普段運動していない躰が酸素を欲して息苦しく、肩で大きく息をして整える。鍵を開けて部屋にはいると、タンスを開けタオルを取り出した。しっとりと濡れてしまった頭を拭く。と、その時ぱさっと軽い音がして持っていた紙袋が落ちた。 思わず手を止め、その紙袋を見つめた。 結局持って帰ってしまったそれ。敬吾は膝をつきその紙袋を取り上げる。 かさかさと乾いた音を立てるその紙袋はあまり濡れていない。その理由を思い出し、敬吾は信じられない思いでそれをじっと見つめる。 敬吾は、走っている間中、濡れないようにそれを胸元に抱えていた……。自分の取った無意識とも言える行動に苦笑が浮かぶ。 捨ててしまえばいい。あんな人がくれた物。無理矢理、俺にキスした奴なんか……キス……。 その時の出来事が鮮やかに脳裏に浮かぶ。と同時に、敬吾の躰にあの時に感じた刺激までもが甦った。 「くっ」 それに歯を食いしばり堪える。 脱力感にも襲われ、ずるずるとタンスにもたれたまま蹲まった。 敬吾とて大学時代には付き合った女性がいた。キスだってしたこともある。だが、ここまでの刺激を受けたことは初めてだった。 『感じた?』 耳元で囁かれた言葉までもが鮮明に甦る。 穂波の一挙一動が、全て鮮明にリピートされた。 忘れたいと思っているのに。なのに、心の奥底では思い出している事を喜んでる自分がいる。そのことに敬吾は気づき愕然とする。 どうして? あんな事されて、なぜ? 判らなかった。ただ、嫌おうと思っても嫌いになれない。忘れようと思っても忘れられない。 そんな自分に堪えられなくて、敬吾はただ唇を噛み締める。 嫌だと……こんなのは嫌だと思って、悔しくて、怒りが沸き起こっているにもかかわらず、あの時、とっさに押しのけた躰が離れた瞬間、離れていった温もりに未練が沸き起こったのも、事実。 動いた足が紙袋にあたり、かさりと乾いた音を立てる。 それに目をやり、手を伸ばして持ち上げた。袋をひっくり返し、中身を取り出す。広げられた服は、店での出来事を思い起こさせた。 驚いたこと。プレゼントだと言われて、戸惑いの中にそれでも少しは嬉しかったこと。だから、持って帰ってしまった。 はあっと敬吾は大きくため息をつくと、顔を上げた。立ち上がり、持っていた服を折り畳むと紙袋に戻し、タンスの上に放り上げる。 もう嫌だ。考えたくない。 俺をこんなにも翻弄してくれるあの人に逢わない。逢えばまた翻弄されるだけだ。あの人のことだから、俺の意志を無視して突き進んでくれそうだから……。 だから、逢いたくない……。 あれから1ヶ月。 穂波の連絡はなかった。最初の一週間は電話が鳴るたびにどきりと心臓が跳ねた。寝るたびに穂波と逢っている夢を見てしまう。 その夢は時にひどく官能的で、夜中にはっと跳ね起きることもしばしば。そして目覚めてしまった敬吾は、ひどい自己嫌悪に陥ってしまう。そのせいでずいぶんと睡眠不足になった。 そのせいで敬吾はひたすら苛々とした日々を過ごしていた。 しかし、結局12月に入っても穂波からは連絡が入らない。それにちょうど始まった開発品の製造移管と顧客からの改良依頼が同時に発生し、その対応にメンバー全員が追われる状態に、当然、敬吾も例外ではなく巻き込まれた。その忙しさにかまけていると穂波の事も理解不能な自分の苛立ちも忘れることができた。あれっきり休みをとることもままならない状態で、夢を見る暇もないほど疲れて眠りこける日々が続く。 それでも仕事の合間にふっと思い出すことがある。それを敬吾は無理矢理頭の中から追い出した。 思い出す度にざわざわと神経を逆撫でするような疼きが胸の中に沸き起こる。それが何なのかは判らなかったけれど、それから逃れるために、極力思い出さないように、そして忘れようと努力していた。 その内、思い出すたびに敬吾はぽつりと呟くようになった。 「あの人は業者の一人に過ぎないのだから、そうそう逢うこともないし、それに業者相手負けていてどうする」 そして、ようやくその頻度が減ってき、努力しなくても平静でいられるようになった頃。 敬吾は、携帯に入った一通のメールに愕然とした。 篠山から移管も改良依頼も目途が立ったと連絡を受けてみんなで喜んだ日だから、結構気が抜けていた。心地よい疲れにベッドに潜り込んだ途端に鳴ったそのメールに一気に目が覚めた。 取るんじゃなかった、と本気で思った。 『仕事の目途がついたとお聞きしました。つきましては、先日預かったままのコートをお返ししたいと思います。都合の良い日にお持ちしますので、ご連絡下さい。穂波』 「どうして、落ち着いたって知っているんだ、この人は?」 敬吾は半端呆れた思いでそのメールを読み返した。 疑問形で呟いては見た物の、その問いのだいたいの検討はついていた。きっと上機嫌だった篠山がその恋人にその旨を話したのだろう。それが穂波の知るところになったんだ、と推測できた。 それにしても、すっかり忘れていた。穂波の手には敬吾のコートが残ったままだった。 いらないと言ってしまえば楽だったが、結構気に入ってはいたし、1ヶ月の間にかなり気持ち的には落ち着いている。ただ、逢うことには躊躇いがあった。またあの時の状態にならないとも言えない。 「あ、ああ、そうか。会社に持ってきて貰えば良いんだ。それが駄目なら諦める、ということで」 敬吾はベッドに寝っ転がったまま、携帯を操作した。 「会社でならお会いします 緑山」 と、用件だけを送る。そして敬吾は携帯の電源をOFFにした。 「もう出ない」 ひとりごちるとベッドの中に潜り込んだ。 せっかくの心地よさは吹っ飛んでいた。ただ、心の中がざわめいている。どこかちくちくと胸の内を刺激するような不快感が敬吾の眠りを妨げていた。 それが何なのか、本当に不快なのかも判らないまま、寝入った敬吾はしばらくぶりに穂波の夢を見てしまった。 夢の中での穂波は、ただ優しかった。 敬吾はこれは夢なんだと思っていながら、その夢に浸っていた。 決してあり得ない事だと……。 あの穂波さんがこんなに優しいわけないと……。 だから、目覚めたときにその現実とのギャップを思い、そんな夢を見てしまった事への自分に嫌悪する。 しっかりしないと……。 そしていつものように自分に言い聞かせるように呟く。 穂波さんはただの業者。そんな人には負けない。いつだって負けない。 と。
穂波は会社の自席で携帯を弄びながら、考え込んでた。 『会社でならお会いします』と簡潔に用件のみで返信されてきたその内容は、予想通りの物だった。 昨夜送ったメールの返事、来るか来ないかは半々の賭。もし来たとしても、会おうという内容でないだろうと、想像はできていた。だから、この内容であればまあ成果はあったと言える。 それにしてもこの一ヶ月、自分でもよく耐えたと思う。 滝本経由で、敬吾のチームが大変忙しいという情報は得ていた。休みもままならないというその情報に、穂波はその間敬吾に関わるのを止めた。何もない状態で一ヶ月放置すれば、穂波への怒りを育ててしまうかも知れないが、仕事が忙しければその考えにかまけているわけにはいかない。そうすれば、怒りはどこかに飛んでいくことだってある。 良しに付け悪きに付け、時が経てば忘却しやすいのが人間だと思っている……。 その成果があったのか、メールの返事に拒絶はない。といっても簡単すぎてそこまで読みとることは困難なのだが、それでも穂波は拒絶はない、と感じていた。 だが、どうしよう。 会社で会おうと言われても、コートを渡して、はい終わり、というのは芸がなさ過ぎる。せっかく会うのだから、次の機会をなんとしてでも作らなければならなかった。 それには、あの入荷場で会うだけでは駄目なのだ。 二人だけで話ができる環境がいる。 だが、そんな状態を作るためにはどうしたらいいのだろう。 穂波は、目前に山積みされた書類に目をやっているように見える格好はとり続けていた。だが、その書類が一向に減っていない。 朝からずっとその調子なので、周りの部下達が皆自分の仕事をしながら上目遣いに窺っている。とりあえずその書類の決裁をして貰わなければ仕事にならないのだが、誰も今の穂波に近寄りたいとは思っていなかった。だから、ずっとそのままだった。 だが、幾らなんでもそのままでは仕事にならない。 「課長、見積もりの件なんですが」 穂波の部下の滝本が、微かにため息をつくと穂波の机に書類を差し出した。 「ああ……」 返事をして受け取る物の、その目は書類を見ていない。 「穂波さん、申し訳ありませんが、それをどうしても今日持っていきたいのです」 滝本の訴えるような声に、ようやく穂波はその視線を書類に向けた。と、その見積もりの宛先を見て取り、穂波の表情が引き締まる。 「ジャパングローバルの……安佐……誰だっけ?」 「生産技術のかたです。測定器の見積もり依頼を受けまして、本日会う約束をしているんですが……」 「そうか。初めてだよな。そうか……」 これは、便乗する価値がありそうだ。 内心ほくそ笑むと、印を押して滝本に返す。 「何時に行くんだ?」 「13時半頃、ここを出ます。14時過ぎに会う予定ですので」 「OK。行くときに声をかけてくれ」 「はい」 滝本が安佐という人と打ち合わせに行く。ならば、それに便乗しない手はない。初めての相手なのだから、軽く挨拶しよう。 そして、可能であればもう一つ部屋を用意して貰う。そう、あそこの会議室にうまく入り込めばいい。幸いにも、あの会社相手に売り込むべき物は多々ある。ただの打ち合わせなら小部屋での話になってしまうので考えてしまったが、確か見せてみたいデモ装置が合ったはずだ。ここは業者としての利点を活かさなければならない。 それにしても。 あの子は流されてくれるだろうか……。 俺が仕掛ける行為に……。 あの子が俺のことを少しでも気にかけていてくれるなら、それならば勝算はあるだろう。 穂波はふっと笑みを浮かべると、電話の受話器を持った。 お得意さんである会社の短縮番号をプッシュする。 「川崎理化学の穂波と申します。香登様をお願いいたします」 繋いで貰った相手は幸いにも在社であった。昔担当であった頃、よく話をしていてすっかり意気投合していた相手は、今でも中のいい友人であった。その彼に頼み込む。 「ちょっとデモ装置がありまして、ちょっとだけでもご紹介したいと。少しだけ時間を頂けますか?……ああ、良かった。それで部屋がちょっと……ああ、準備して頂けます?良かった……。時間は……ええ、その後他の方にもお会いしますので、時間を長めに……はい、よろしくお願いいたします」 相手はこちらの依頼を快く引き受けてくれた。 持つべき物は友だよなあ。 にこにこと受話器を置く。 さて、出かけるには、この山となった書類を片付けないとな。 穂波は俄然張り切りだした。見る間に、書類が片づいていく。その様子を、皆が呆然と眺めている。 「一体、何が起きているんだ?うちの課長に……」 それは誰も判らない。
PHSが鳴った時、敬吾は休憩中だった。 大きな窓に囲まれた食堂は、社員が休憩を取ったり食事をするために充分な広さがある。そこで、橋本達と談笑していた敬吾は、内線番号を表示するそれに何を気にすることもなく出た。 「はい、緑山です」 『お世話になります。川崎理化学の穂波です』 耳に飛び込んだその言葉に、思わず耳からPHSを離した。小さな液晶画面に表示されるのは、明らかに工場内のどこかの内線番号。しかも据え付けの電話の番号だ。 緑山は大きく息をつくと、PHSを耳に当てた。その挙動に、橋本が不審な目を向けるのを引きつった笑みで応える。 「あの、今どちらでしょうか?」 『応接室におります。2番ですが』 「はあ?」 何で……? 入荷場じゃないのか? 『今、測定機のデモ装置を持ってきておりまして、生産技術の方にお見せして終わった所なんです。それで、緑山さんご連絡した次第なんですけれども、今はよろしいでしょうか?』 よろしいでしょうか?って言われても、食堂のこの喧噪さは向こうにも伝わっているだろう。穂波には敬吾が休憩中であることは承知の上の筈だ。 「わかりました。今、行きます」 内心大きくため息をつくと、PHSを切る。飲んでいたコーヒーを一気に飲み干した。 「どうした?」 橋本の問いに、敬吾は努めて平静を装って答えた。 「業者が来たので、ちょっと会ってきます」 「ああ、そうか。いいタイミングだなあ」 休憩時間にぶち当たった事を言っている橋本に、敬吾は肩を竦めた。 食堂から応接室はすぐそこだった。特に打ち合わせをする予定でもないので、手ぶらで向かう。 それにしても、メールを送ったのは昨晩のことだった。あまりに素早い穂波の対応に舌を巻く。とても1ヶ月間何も言ってこなかった相手とは思えない。 応接室の前で、敬吾は大きく深呼吸をした。 冷静に、普通に対応しよう。忘れていたコートを持ってきただけなのだから。 敬吾はドアをノツクすると、扉を開けた。 「こんにちは」 入った途端に穂波が立ち上がり、敬吾に会釈をする。 その姿を見た途端、心臓がどきりと跳ねた。そのままいつもより早い鼓動をし続ける心臓に、息苦しささえ覚える。どうしてこんなことになるのか……相手は業者さんだから。普通に対応すればいい。だから、その思わず顔をしかめそうになる苦しさを、敬吾はその意識的な無表情の下に押し隠した。 「こんにちは、お世話になります」 儀礼でしかあり得ない挨拶を交わし、視線を穂波から机上に移した。そこには、確かに何かの装置が置いてあり、資料がいくつも並べてある。 「今日は、ちょうどこのデモ装置の案内がありまして、滝本と一緒に来させていただきました」 「滝本さんは?」 「別の方と打ち合わせがあるとかで別室におります。まだ、もう少しかかるようですね」 ちらりと壁を見つめる穂波の視線を敬吾は追った。 隣の部屋にいるということか。 敬吾は視線を穂波に戻した。だが、穂波が何も言わない。 特に用事がある訳でもないので、敬吾も言うべき言葉が出てこなかった。だが、この沈黙はいたたまれない。 「あの……この前は、ありがとうございました」 仕方なく出てきた言葉は、この前言いそびれた言葉だった。 例え結果はどうであれ、充分な接待は受けていたのだから。 「いえいえ、もしよろしければまたご一緒したいですね」 にこりと微笑まれ、敬吾は口ごもる。 二度とごめんだ。 そう思った時、何故か胸の奥がちりっと小さく疼いた。 「ああ、それでこちらが預かっていたコートです。どうぞ」 穂波が足下に置いてあった大きめの紙袋を取り出し、敬吾の方に差し出した。渡されるままにその紐の部分を持つ。 「クリーニングされたんですか?」 中に見えるコートは透明な袋に入っており、そこにはチェーン経営のクリーニング屋の名前が描かれていた。 「ええ。少し雨に濡れてしまった物で」 そう言えば、と思い出す。 確かに降り出した雨。 「すみません。クリーニング代払います。お幾らでしょうか?」 これ以上借りをつくるのは嫌だったから、答えてくれないかも知れないけど問うて見る。だが穂波は敬吾の予想通り、首を横に振った。 「こちらが勝手に行ったことですから、お金を貰おうとは思いません」 静かな声音で言われた言葉。それなのに有無を言わせない物があった。敬吾の開きかけた口が、言葉を吐く前に閉じてしまう。 握っていた紙袋の紐をさらにきつく握りしめる。 どうしよう……。 「緑山さん、いかがなされましたか?」 黙ってしまった敬吾に穂波が訝しげに問いかける。その言葉にようやく敬吾は口を開いた。 「やはり、お金は払います」 その言葉に穂波は僅かに口の端を上げた。 「たいがい頑固な方ですね。私は受け取るつもりはありませんよ」 「それでは私の気がすみません」 敬吾はくっと唇を引き締めた。 その様子を窺っていた穂波が、ふっとその顔を和らげた。 その変化に敬吾は戸惑いを隠せない。 「では、提案を一つしましょう」 「提案ですか?」 「そうです」 穂波は言葉を切り、敬吾の方に近づいた。そのせいで敬吾が思わず一歩下がる。 だが、穂波はすばやく足を進め敬吾の腕を取ると、力任せにぐいっと引っ張った。 その力強い行為に、あっと思う間もなく穂波の腕の中に収まってしまう。途端に心臓が音を立てて血流を吐き出した。全身が沸騰しそうな感覚に襲われていた敬吾が、それでも必死で穂波に逆らう。 「何を!」 あまりの事に上がりかけた叫び声を、穂波の手が押さえる。 「声を上げると隣に聞こえますよ」 その言葉に、ぐっと敬吾は唇を噛み締めた。口を噤んだまま抗うが、穂波の手は緩むことなく、その躰に包まれるように抱きしめられる。口を押さえていた穂波の手が回され敬吾の頭を強く押しつけた。そのせいで顔が、穂波の肩口に押しつけられる。 「離してください!」 言葉は押しつけられた穂波の上着を通してくぐもって伝わる。 「提案があるって言いましたよね、だからなんですけど」 苦笑混じりの声が降ってくる。その言葉に苛立ちを感じながらも、敬吾はその包まれた暖かさが嫌でないことに困惑をしていた。 だが、抗わない訳にはいかない……。 「こんな事をすることが?」 「こうしていないと駄目なんです。でないと愛おしい君をまた怒らしてしまいそうで」 「!」 耳元で甘く囁かれた「愛おしい」という言葉に躰が反応した。かあっと熱くなる躰に言葉を失う。心臓が早鐘のように鳴り響く。 信じられない! どうしてこんなにまで俺が翻弄されなければならないんだ! その暖かく包まれた感覚に、脳裏にまざまざとキスされた時の感覚が甦った。そして夢に見たばかりの優しい穂波が現実にいるような感じに襲われる。 駄目だ……。流されてしまう! 駄目だ駄目だ駄目だ! 必死の思いで沸き上がった不可解な暖かい感情を蹴散らす。 「もう、離してください。こんな事をするのなら提案なんて聞けません!」 相反する感情に支配され、困惑したまま僅かに震える声で必死に言葉を紡ぎ出す。 だが、穂波はその手を決して緩めようとはしなかった。 「君が好きだ。愛している」 抗い続ける敬吾に穂波は繰り返し語りかける。耳のすぐ近くで熱く囁きかけられ、敬吾は自分を取り戻そうとぎりっと唇を噛み締めた。その痛みを使って、流されそうになる自分を取り戻そうと足掻く。 違う! 俺はこの人のことなんか好きじゃない! こんな無理矢理に突き進む人なんか! 「怒るなよ……」 敬吾の感情が怒りを呼び起こそうとした途端、穂波が耳元でそう言った。そのあまりのタイミングで放たれた言葉に敬吾の躰が硬直する。 何故? 行動の先を読まれているような感覚に陥る。 「怒るんじゃない……君はそうやって怒っているけれど、ただ認めたくないんだろう。何を認めたくないんだ?」 静かな声が敬吾を縛る。 「認めるって……何が?俺が、何を認めたくないっていうんだ?」 動揺のあまり接客用の仮面が剥がれているのに敬吾は気付かない。 「俺、か……その方が君には似合う。その強い瞳と共に……。本当に何を認めたくないのか自分でも気付いていないのか。ったく、君は私をこんなにも翻弄してくれる……だからね、どうして私が君の顔を上げさせないか判るか?」 穂波の揶揄するような言葉に敬吾はびくりと反応した。 答えられない、答えるつもりがない敬吾に穂波は言う。 「キスしたくなるからだよ。こうしていないと、君にキスしたくなるからこうして君の顔を隠している」 ビクンと全身が大きく震えた。 キス……。 忘れようとして、結局忘れることが出来なかったキスを思い出す。あの時沸き起こった疼きと共に……。 「君はあの時、無理矢理するなんて……と言ったよね。だから、今度するときは君がしたくなった時って決めているんだ。だが、このままではまた無理強いをしてしまいそうだから、こうやって顔を隠している。だから怒らないで欲しい」 どうして……。 敬吾は泣きたいような笑いたいような感情に包まれる。 この人は俺の感情を読んでいるように先へ先へと道を作る。その道しかたどれないように一本道だけを作る。 避けることも除けることも……別の道を行くことも許さないように、ただ一本の道だけを俺に指し示し導く。 そして、俺は気が付いたらそこを辿っている……。 どんなに自分で抗おうとも……否定しようとも……俺は……この人の事……。 隠しきれない感情が、自覚という言葉と共にはっきりと敬吾を支配した。 敬吾はようやく今までの苛つきが何であったか知った。 どうしてこんなにもこの人を意識しないといけなかったのか。 気が付いてしまうと……押しつけられて顔を見せなくていいことが嬉しかった。 こんな、燃えるように熱い顔を見せたくなかった。 「それで提案というのはね」 静かになった敬吾の耳元で囁くように、穂波はゆっくりと敬吾に提案を伝える。 「さ来週の日曜日につき合って欲しいんだ。ま、いわゆるデートなんだけどね」 甘い声で囁かれ、吐息が耳朶をくすぐる。 敬吾は言葉のその内容よりも、耳元から来るその甘い感覚に捕らわれていた。実際、膝がかくりと力を失い、慌てて穂波の服を強く掴む。 何で……こんな……。 穂波はそんな敬吾の様子に気付いて笑みを浮かべると、決して敬吾にその事を悟られないように、そのままの声でさらに囁きかける。 「1日だけでいいから、君と一緒に街中を歩きたい。それだけだから」 最後の言葉と共に穂波の唇が耳に触れた。 途端走った刺激に敬吾は穂波の肩に顔を埋めたまま、固く目を瞑り歯を食い縛る。漏れそうなる声を必死で押さえた。俯いているせいで穂波の眼下にある首筋が際限まで赤い。 きつく掴んでいる手が白くなりぶるぶると震えていた。 「ね、いいだろ?」 問いかけられ、敬吾は何も判らずにこくこくと頷いた。 ただ、ただ自分の身に起こっている反応が信じられなくて。だが、それは決して不快ではない。 それに捕らわれていた敬吾は、頭を押さえていた手が離されたことに気付かなかった。その手が敬吾の顎にかかる。 くいっと上向かされると、穂波の顔が間近にあった。その思っても見なかった距離に顔が火を吹いたように熱い。 「可愛いな……」 熱の籠もった声が穂波の口元から漏れる。 「いい?」 「え?」 何のことか判らなくて、敬吾は訝しげに視線を向けた。 「キスしていい?」 言葉と共に穂波の顔が近づいてきた。 キス?キスって! 敬吾ははっと我に返り、激しく首を横に振った。 ここは会社だ! 何を流されているんだ俺は! 流されそうになった自信を叱咤する。 また、キスされてしまう……。 顎をひきくっと噛み締めた唇の寸前で、穂波の動きが止まった。ほとんど触れ合いそうな距離で、穂波が呟く。 「駄目か、残念だな」 「え?」 離れていく穂波を呆然と見つめる。 諦めてくれるとは思わなかった。本当に嫌だと言ったらしないでくれるのか、この人は? 穂波が敬吾の躰に回していた腕を外した。 「あ、れ?」 膝に力が入らなくて、がっくりと床に跪く。それでも躰を支えられなくて、両手を床に着く羽目になった。 「大丈夫?」 穂波が敬吾の腕を取り立ち上がらせた。そして傍らの椅子に座らせる。 自分が腰砕けになっていることに、羞恥心が沸き起こる。真っ赤になって俯く敬吾の横の椅子に穂波は座ると、自分の手帳に何かを書き留めるとそのページを破り取り、敬吾の目の前に差し出した。 「待っていますから、来てください」 その言葉に、その紙切れを手に取る。 12月23日 日曜日 15時 地下街広場……。 これって。 それを見て、自分がデートの約束を承諾したのだと気が付いた。先ほどの問いはそういうことだったのだと、今更ながら気がついた。 10日程先のその日付は3連休の中日。 「あの!」 「待っていますから」 穂波ににっこりと微笑まれて、敬吾は今更嫌だとは言えなかった。
「落ちた……」 帰りの車の中で穂波がぼそりと呟いた言葉に、運転手の滝本が怪訝な視線を向ける。 それに何でもないと笑ってみせ、だが、その内心は明らかな成功の予感に酔いしれていた。 部屋に入ってきた途端に一瞬見せた敬吾の表情に、穂波は彼が自分の事を気にしていたことを感じ取った。 瞳に浮かんだ切なげな色を必死に押し隠そうとしているのが見えた。あの程度のポーカーフェイスなど、穂波にとって看破することなど容易いことだ。所詮経験が違う。 それでもあの年頃の子としては、その能力は十分であろう。 まして普通の相手であれば、敬吾がどんなに動揺しているかなど見て取ることなど出来ない。数度とはいえ逢うたびにしっかりと観察していた穂波だからこそ、見て取れた。 逢っている間中、彼が時折見せてくれた心の動きは穂波にとって満足のいくモノであった。 だから、賭に出た。 腕の中の敬吾は、あのキスした時の彼を思い起こさせ、思わず突き進みたくはなったが……それはかろうじて抑えた。とりあえず怒りを起こさせる行為は行ってはならない。 だから抱きしめながら、ずっと優しい言葉で彼に言い聞かせた。 ま。 多少なりともその気を持っている相手に抱きしめられて、甘く切なく愛の言葉を囁かれたら、どんな朴念仁でもころっと来てもおかしくはないし……。 今までの経験上、穂波はその事を確信を持って信じていた。 まして、相手は健全でしかも若い男。 性的欲求が無いとは言わせない。 耳はたいていの人にしてみれば性感帯の一つと言える。そこを憎からず思っている相手に刺激されて、感じない……いや、穂波にしてみれば感じさせられない筈はなかった。 その時の敬吾の様子を思いだし、穂波はにやりと満面の笑みを浮かべる。 穂波の服を掴み縋り付くようにして震えていた敬吾をこのまま押し倒したい衝動に駆られ、それに堪えるのに頭の中で般若心経を唱えたほどだ。 それでも、大した者だ。あそこまで腰砕けになって感じていた癖に、キスしようとすると、さっと正気を取り戻した。その瞳に浮かんだ拒絶の意志に、穂波は従うしかなかったのだから。 穂波とてキスをしたくて堪らなかったが、それも傍らの装置の見積もりのことを考えて意識を逸らした。 ったく。 俺の苦労を少しは考えて欲しいね。これだけ君の事を思っているというのに。 敬吾が聞いたら、理不尽だと怒り出しそうな事を考えながら、穂波はほくそ笑んでいた。 隣で滝本が百面相をしている穂波を気味悪そうにちらちらと窺っている。 穂波はそれを無視すると、次の手段を考える。 とりあえず、約束は取り付けた。 ここまで待ったから、本当は今週にでもデートに縺れ込みたかったが、仕事の都合というモノはいかんともし難い。 まあ、クリスマスムードまっただ中のデートだ。 そこそこに良いところまで縺れ込みたいし……となると、それまでに彼の気分も高めてやらないとな。 となると、メールが有効な手段と言えば手段だろう。 穂波はポケットから携帯を取り出した。 はてさて、どんな内容にしようかなあ。 あの意外に頑固で、自分をすぐ隠そうとする可愛い子。神経が高ぶると感情的になりやすいようだから、取扱注意のラベルを剥がすわけにはいかないが、それはそれで面白いじゃないか。 きつく睨まれるのもそそられる所はあるが、まあ恋人となるからには、もう少しいい顔を普段から見せてくれるようになってもらいたいと思うし。かと言って、あの困った性格も好みだから変えたくないし……。 難しいなあ……。 頭の中では困ったとは言っているが、その顔はにやけてくるのを止められない。にこにこと緑山敬吾攻略計画を立てていく。 いきなりホテルって事になったら、速攻で逃げられそうだし……。 ムード満点の中で抜き差しならない状態にしないとなあ。 それにしてもこんなに楽しい事ってひさしくなかったな。 営業に出て自社の製品を舌先三寸で採用されたときにも、興奮して結構楽しめたが、今回のことはそれ以上だ。 さてと。 本当にどうしようか……。 穂波のその表情は楽しそうに笑顔が浮かんでいたが、その瞳は真剣そのものだった。 それに気付いた滝本が、冷や汗を流している。だが滝本は何も言わなかった。穂波の異常な行為を完全に無視することに決めたらしい。 車の中に明と暗、二つの沈黙が漂っていた。
その日……穂波に逢った日……その後、どうやって仕事をこなし、いつ帰り支度をし、どうやって家に帰ってきたのか、ほとんど記憶がなかった。 気付いたときには、敬吾は玄関のドアを開けて中に入ろうとしていた。 入ってベッドの上に持っていた紙袋を放り投げると、自分自身も身を投げ出した。 「怠い……」 ぽつりと呟く。 全身を襲う疲労感に、立ち上がることも億劫だった。 何故こんなに疲れているのか。その理由は明白だったけれど、敬吾はそれを認めたくなくて、唇を噛み締める。 「あんなところで、あんな事するか、普通……」 両腕を顔の前でクロスし、目を覆い隠す。 暗闇の世界にちらちらと漏れる明かりが鬱陶しかったが、だからといって立ち上がって電気を消しにいく元気はない。 その暗闇に、穂波の顔が浮かんだ。 途端に胸が動悸を打つ。 抱きしめられて……自覚した。愛していると言われ、耳元で囁かれ、この前よりはるかに感じてしまい……腰が立たなかった。力が入らなかった。そのどれもを思い起こしても、今の敬吾をどん底に引きずり込もうとする。 「俺って、こんなに流されやすい性格だっだろうか?」 そして、二度と外では逢わないと誓った相手とデートする羽目になってしまった。 何も出来ずに、負けてしまった。 噛み締めた所から鉄の味が咥内に流れてきた。それを味わい、ようやく敬吾は歯を緩めた。出来た傷を舌で舐める。 穂波は敬吾が考えている以上に、危険な存在だった。 既に敬吾は穂波の事が確かに好きなんだと自覚していた。 だが、いいように踊らされているような気がする。穂波の行為はこうやって一人で落ち着いて考えていると、そうではないかと思い当たる節があるのだが、何故か、その時にはそんな事を思いもつかない。 だいたい穂波とはまだ片手で数えられる程度しか逢ったことがない。今日の出来事を逢わせても5回目。その内、まともに会話したのは3回。 それで、彼のどこが好きになってしまったんだろう。 どうして彼は俺の事が気に入ったんだろう。とても穂波が本気であるとは思えなかった。 嵌められたと思った方がぴったりと来る。好きになるように嵌められたと……。 「まさか、なあ……」 ただ、さすがにそれは無いだろうと思うのだが……あの穂波という人を見ていると、なんとなくだがそんな気がしてならない。どこまでが本気でどこまでが冗談なのか……。 今日だってコートを渡すだけなんだから、別に入荷場で渡してくれれば良かったのだ。あんな二人っきりでいられる場所など、どう見てもわざと作ったとしか思えない。 だが、それがどんな手段であれ、敬吾が穂波に対して好きになってしまったという事実は変えようがなかった。 もう好きになってしまったのだ。 それが例え穂波の計略だったとしても……。 だから怖い。 このまま穂波に翻弄されそうな自分が怖い。好きになるのも嫌いになるのも穂波の手で作り出されそうで怖い。 怖いから、脳が穂波の事を考えることに拒否反応を起こす。その拒否反応が、躰自身の神経系をも縛り……そして、敬吾の躰は疲労感に苛まれていた。 「好きだからって……どうしようもないよな。あの人は男だし、俺も男だし……。何かどう見たって結構遊んでいそうな人だし……」 穂波ははっきりと敬吾に愛しているという言葉を言う。 それでも割り切ることはできなかった。 何より、自分が穂波のことを好きなんだという事実を認めることを、心がまだ拒絶しているのだから。 携帯にメールが入る。 今週に入ってから煩雑に入ってくるためメールの着信音を鳴らさないようにしていた。だからバイブの振動音で入ったことに気付く。帰宅して机の上に置かれていた携帯がブルルと震えているのを見て、敬吾はため息をついた。 もう何件も同じタイトルが並んでいるそのリストを見ながら、それでも敬吾は未読状態のそのメールを開くことが出来なかった。 送り主のメールアドレスは、穂波のものだと知っている。未だアドレス帳に登録していないそれはアドレスの最初の部分だけが表示されているが、それでも一目で穂波だと分かった。 他の誰が、件名を「愛している」で送ってくるだろう。 すでに画面一杯、そのタイトルが並んでいる。 次の日の朝からずっと毎日、朝昼晩と入ってくるそのメール。 どことなく見るのが怖くて開くことも出来ないままに溜まってしまったそのメールをどうしようかと敬吾は携帯を見ながら悩んでいた。 あれから一週間。もう、30件は入っているそのメール。そろそろ処理しないと駄目だとは思う。もしかすると日曜の予定が変更になったという知らせかも知れない。 だが、それならそれで件名が「愛している」は無いだろうとは思うのだが、それでも敬吾は読みもせずに削除することができなかった。 後3日。今日は、木曜日。 それにしても……。 芸がない。 同じ件名が並ぶそれを見るたびに思う。 もう少し件名に変化があってもいいと思う。まさか中身まで一緒っていうことは無いだろうな。 それを想像しておもわずくすりと笑みが漏れる。漏れたついでに、敬吾はようやく中身を見る決心がついた。 そして、中身は……。 1件目は、あのメモ用紙と同じ内容。日時と場所。そして、「必ず逢いましょう。愛しています」というものだったのだか……。 2件目からさっき来た全てのメールが全て同じ内容だった。 呆然と最後のメールを確認し、その一件だけを保護する。 はあっとため息をつくと、憮然とした表情で全削除を選んで残っていたメールを全て消してしまった。 何なんだよ、この人は……。想像通りだったと言うことに呆れ、そしてその理解不能な行動のために今日まで悩んでいたということが馬鹿らしくてがっくりと肩を落とす。 マジでどんな内容か見るのが怖くて悩んだっていうのに、これは何だよ。 あの人の事だから、件名と同じように愛の言葉でも並んでいるのかと思っていた。 眉をひそめ、携帯をずっと見ていた敬吾は、一つの考えが浮かんだ。 もしかして、返信しないから同じメールを送り続けてきたのだろうか? 返信……。 でも何て返せば良いんだろう。 返事なんだから……行くって言えばいいんだよな。その、まあ……行くつもりにはしているんだけど……。 結局敬吾は、簡単に返信メールを打った。 『時間には必ず行きます 緑山』 ただ、それだけ。 そして、それだけであれだけ来ていた「愛している」メールがぴたりと止まった。 代わりに一回だけ、次の日にメールが入った。 件名が「楽しみにしています」 内容が「できれば、あのプレゼントした服と先日お返ししたコートを着てきて貰えませんか?」 というもので……。 あの服。 ただそれだけの事なのに、なぜだか顔が赤らむ。 何でこんなことで、と思いながら敬吾は返信した。 『判りました』 と。 そして早速タンスの上で埃を被っていた紙袋から服を取り出し、ハンガーにかけた。 同じく袋に入ったままのコートも隣に掛ける。 その二着を見比べながら、さてと、ズボンは何を着ていこうかな、と思い悩んでいた敬吾は、ふと、自分が楽しそうに微笑んでいるのに気付いた。 俺ってば……何やってんだよ。 まずいなあ。 ほんと、まずい。 逢うのが楽しみになっている事を自覚するにつれ、不安をも思い出す。 今度こそ、流されない。 きっと。 固く誓っては見るものの、どうしても一抹の不安は隠せない。 逢うたびに穂波に翻弄されている、その事実。 また、何かされるのではないかという不安。 「デート、なんだよな……」 デート初心者のように、不安と期待が入り交じっている。 何だよ、これ……俺ってば、何してんだか……。 敬吾は思わず苦笑を浮かべた。
穂波にしてみれば、デートというのは相手が女性であれ男性であれ手馴れたものであった筈。 食事をし、時には一緒に買い物をし、そしてホテルに入る。 遊びと割り切れる相手としか最後まではいかない。面倒な事になるのもいやだったし、結婚までもつれ込む事などしたくなかった。そういう意味で、避妊だ何だと気を使わなければならない女性よりは男性とつき合う方が多かったというだけのこと。 そういう穂波にとって、遊びとも言えないデートは実は久しぶりだった。いや、過去に本気になった相手だっていないといえば嘘になる。 だが、敬吾相手だと完全に勝手が違っていた。何せ相手は男性相手にそういう経験のない全くの素人。食事はともかくして、何か買うにしてもなかなかプレゼントさせてくれそうにないし。しかもいきなりホテルに連れ込むわけにも行かず、今までの経験があまり使えない事に、実は心底困っていた。 映画……もなあ。 せっかくのデートなのに、その間スクリーンを見るだけというのも面白くない。それにどうせいっぱいだろうから、暗闇だからって隣にちょっかいを出すわけにもいかないだろう。 食事はまあ簡単に……そのままどこかの店に入って飲み明かすってのは……警戒しそうだな。 いい加減、企んでいそうなのは気付かれているだろうし……。 うーん、これは営業より難しいぞ。 悩んだ穂波が出した結論は、なるようになる、だった。 それでも、つてを使ってホテルの部屋だけは確保していた。 約束の時間より少し早めに着いた穂波は、手持ちぶたさにその辺りをうろうろしていた。クリスマスイブ前日という事もあって、周りを見渡せばどこもかしこもカップルばかり。 待ち合わせの広場で、座るところはないか見渡した途端、穂波は見知った顔を見つけた。 親友ともいうべきその顔を見た途端、自然に顔が綻ぶ。と、その親友が話している相手を認識し、穂波の笑みが意地悪げに変化した。 二人に近寄り声をかける。 「やあ、香登さん、しかもこちらは篠山さん、奇遇ですねえ」 それに気付いた親友である香登が満面の笑みを浮かべながら立ち上がった。と、一方では、嫌そうに眉をひそめた篠山が穂波から視線を外していた。 「穂波さん、久しぶりです。元気でした?」 「今日は篠山さんとご一緒?」 「ああ、偶然ここで出会ってね、休憩につき合っていて貰ったんだ。って、穂波さんは篠山君と知り合いなんだ」 「香登さんこそ……」 お互い顔を見合わせる姿が何だかおかしくて、口元の笑いを堪えることができない。 香登は数年来の親友だった。穂波が男を相手にしていることを知っても、つき合いをやめようとしなかった希有な友人。そして篠山は部下の恋人としてよく知っている。しかも二人とも仕事の上では、大事なお得意さんだ。 「穂波さんは昔はうちの担当だったからね、取引していたときに意気投合して、プライベートでも逢っているんだ。うちの結婚式にも来て貰ったよ」 「はあ、そうですか。私は今の担当の滝本さんと一緒に逢ったことがあるので……」 「ああ、今の担当者は穂波さんの直伝で優秀なんだってねえ」 部下の滝本の話に、穂波は頷きながら加わった。 「ああ、あの子は優秀だよ、ほんと」 穂波の言葉に、篠山が眉をひそめている。 二人の仲を勘ぐっているのはすぐに判った。こちらを上目遣いに見ている篠山に意味ありげにウィンクしてみせると篠山の頬が明らかに引きつった。 くくく。 やっぱ、この男はからかうと面白い。 「そういえば今日は、買い物?また、誰かを口説くのかい?」 相変わらず鋭いな。 香登の言葉に穂波はつい苦笑いを浮かべる。 「嫌だな、最近はそんなに節操無しじゃないからね。本命一筋だよ」 「へえ。やっとそんな相手が出来たんだ。良かったじゃないか。で、やっぱり男なんだ?」 それに篠山が反応した。と、香登がそれに気づき、口を噤む。 どうやら篠山が男とつき合っていると言うことは知らないらしい香登らしい反応だとは思いつつ、フォローする。 「ああ、香登さん、気にしなくて良いよ、篠山さんは俺の好み知っているからね。口説いたこともあるんだが、今のところ振られてるんだ」 くすくす笑いながら篠山の様子を窺うと、目を白黒させていた。眉間に深い皺が寄っている。 「あ、そうなんだ、よかった。篠山さんは、そういうの理解あるんだ、ああ、良かった……」 おや? 香登の反応に、穂波は首を傾げた。 今までこんな反応をしたことはなかった。ということは、他にも、しかも身近にそういう人間ができたということで、それに理解を示す人間が欲しいって所か? だが、香登の次の言葉にさすがの穂波を息を飲んだ。 「あ、じゃあ、もしかして今日の相手って篠山さんだった?俺、邪魔だったりする?」 「とんでもない!」 篠山の大きすぎる声が辺りに響く。 おいおい……。 衆目を浴びてしまい、顔を赤らめた篠山が小声で反論していた。 「その……俺は、今日は別件ですって……」 まったく面白い。 こんなの相手だったら滝本も楽だろうなあ。どうしてこんなにわかりやすい性格しているのに、リーダーなんて要職につけているのか、よく判らん。 だが、からかいの種をみすみす逃すつもりはない。 「そうそう、篠山さんの恋人は今日は仕事中だからね、デートどころじゃはない筈だし」 「穂波さん!」 焦る篠山が穂波の腕を掴む。 「へえ、穂波さんは篠山さんの相手、知っているの?やっぱり可愛い娘(こ)なんだろうねえ」 香登が女性を指しているのは判っている。だから、篠山だけには判るニュアンスを込めて。 「ああ、可愛い男(こ)だよねえ」 篠山が深くなった皺そのままに穂波を睨んでいた。 「それより、穂波さんは何の用事なんです?」 明らかに話題を変えたそうにしている篠山に乗ってやる。 「ああ、待ち合わせしているんだ、ここで」 さらりと言ってのける穂波に、香登が笑いながら首を傾げた。 「もしかして本命の子かい?」 「そう、今日がさ2回目のデートなんだよねえ、これが。お互い忙しくってさあ。だから、今日こそはいい所までいきたくって」 わざと露骨に言うと、二人とも赤面していた。 何だ、その純粋な反応は……。 そんなに気にするほどのことか? 「そ、そうか、がんばれよ……」 「ああ、ありがとう」 と、その背後、通路をきょろきょろ見回しながら歩いてくる敬吾を見つけた。 メールで言った通り、あのコートを着ている。 「来た来た」 思わず出た言葉に、篠山と香登が顔を上げる。 「え?」 篠山と視線があったらしい敬吾がぴたりと立ち止まってしまった。 その彼に近づく 「ああ、ごめんね。偶然二人と会って話し込んでいた。じゃ、行こうか……」 声をかけてその腕を取るが、驚愕のあまり身動ぎひとつしない。 「じゃっ」 「ああ、また……」 驚きを隠せない香登が挨拶を返してくる。篠山に至っては、呆然と二人を見つめるだけだ。 さて、楽しい待ち時間だった。 これからどこに行こうかな。 穂波は、動きの鈍い敬吾をずるずると引っ張るように歩き始めた。
一体なぜ篠山さんがここにいるんだ……? 敬吾にとって、彼の存在は青天の霹靂。 その存在が視界に入った途端、躰が動かなくなった。 「さあ、行こう」 穂波にぐいっと腕を引っ張られる。だが、それでもその視線は篠山から離すことができない。篠山の驚愕している視線が突き刺さるのを感じて、ようやく目をそらすことができた。 しかし、篠山達の姿を視認したときからずっと襲ってくる胸の痛みからは逃れようがない。 「どうして、篠山さんがいるんです?」 穂波に問いかける声が震えていた。それを聞き取った穂波が、驚いたように敬吾を見る。 「偶然だよ。買い物に来ていたみたいだけどね。私があそこに行ったら、香登さんと話をしていたんだ。それで3人で話をしながら待ち時間をつぶしていたんだけど……」 偶然? 本当に偶然なんだろうか? 敬吾の訝しげな視線に穂波が僅かに眉をひそめる。 「さ、どこに行こうか?」 それでもその顔を笑顔に変化させ、楽しそうに話しかけてくる穂波。だが、敬吾の心の中は一向に晴れなかった。 その事実も、敬吾を余計に追いつめる。 昨夜までの不安の中にあっても、今日のことを考えると楽しかった。それなのに、今は楽しいとは思えない。 そして、それがなぜだかも判らない。 偶然という言葉に嘘は感じられない。 それでも、疑ってしまう。本当に偶然なんだろうか……と。 なぜ、あそこに篠山がいたのか?穂波が呼んだのではないか?敬吾をからかうために……。 だが、今の穂波にそんなそぶりは見られない。 「どうしたんだ?」 何も言わない敬吾の顔を穂波が覗き込む。 「いえ……」 その視線から敬吾は逃れるように俯いた。 落とした視線の先に、ポインセチアの赤と緑の鮮やかなコントラストがある。赤と緑に彩られ、クリスマス・ミュージックが流れる賑やかな地下街なのに、敬吾の心の中は暗く澱んだ灰色でしかなかった。 あの場所に辿り着くまでのどこか浮かれた気分はどこかに吹き飛んでいた。 どうしてだろう。 何で、こんなに気になるんだろう……。 時折立ち止まりウィンドウの中を覗き込みながら穂波が話しかけてくるのに、相づちを打つ。 楽しいはずなのに、先ほど光景が脳裏に焼き付いて離れない。 穂波と篠山……楽しそうな穂波の様子。 似合っていると思った。 篠山には恋人がいる。 邪魔しようとして引き剥がせなかった恋人。 だから諦めたのに……。 それに穂波さんも……。 どうしてあんなに楽しそうなのか?まさか、彼にも手を出しているのか? 懐疑の念は幾らでも膨らんでくる。 楽しそうに話しかけてくる穂波に答えなければとは思うのだが、どうしてもその口数は少なく、無理に作られた笑顔は引きつりがちだった。 それに穂波が気付かないはずはなかった。 1時間くらいぶらぶらした後くらいだったろうか? 穂波がふっと立ち止まった。 気づかずに歩き続けようとした敬吾は、その掴まれた腕を引っ張られて、初めてそれに気付いた。 「穂波さん?」 訝しげな敬吾の問いは無視された。 「君はどこに行きたい?」 問いかける穂波の表情にいつもの笑みはない。ややきつい視線で見つめられ、敬吾はたじろいだ。 「どこって言われても……」 何も考えていなかった。前の時のように、穂波がセッティングするのだろうと思っていた。 「どこでもいよ。君が楽しいと思えるところなら、どこだって付き合う」 呆然と穂波を見つめる。 穂波はそんな敬吾を見、そして歩いてきた通路にちらりと視線を送る。 「篠山さんのこと、まだ気になっていたんだね……もう諦めているんだと思っていたが」 自嘲めいたその口調に、敬吾の胸がずきっと痛む。 諦め切れていない……そんな筈はないと思いつつ……今の胸の痛みはそのせいなのだろうか? 「……そんなこと……ないです」 即答できなかった。 でも……もう諦め切れたと思っていた。 あれからもう半年以上も立っているのに。それなのに、先ほど篠山を見かけた途端、胸が苦しくなった。 でも、それってなぜだろう。 いつだって会社で逢っているのに。その時には、こんなことにはならなかったのに。 「まあ、いいよ。今日はさ、せっかくのデートなんだから、君が楽しくなるところに行こう」 ぽんと背中を叩かれて、歩くよう促される。だが、足を進めたからといって、どこに行く宛もなかった。 だが、このまま歩き続けるわけにも行かない。 どこに行こう……。 いろいろと思い浮かべてみるが、どこにしてみても穂波に合いそうな所はなかった。 「ちょっと思いつかないから……穂波さんの行きたいところでいいです」 強張っていた口元に、無理に笑みを作る。 その言葉に穂波は敬吾をまじまじと見つめる。 「いいのか?」 「ええ」 努めて明るい声を出す。 もともと不安があったデートだけど、だからと言ってこのまま暗い気分のまま過ごすのはもったいない。 敬吾は無理にでも気持ちを切り替えようとしていた。 だが、そんな敬吾の様子を窺っていた穂波が、眉間にしわを寄せる。 「まだ、諦めきれなかったのか……」 微かな声が敬吾の耳に届き、敬吾はびくっと穂波を見上げた。 穂波の口元からため息が漏れる。 「穂波さん?」 「私の行きたい所、行ってみるか?」 問いかけているのに、その返事を待たずに穂波は歩いていた通路から脇道に逸れた。 掴まれていた腕はもう離されている。 まるで自分一人で来ているように早足で歩き続ける穂波に、敬吾は呆気にとられながらも小走りで付いていった。人が多く、油断すると穂波を見失いそうになる。 「穂波さんっ」 何度か呼びかけるが穂波の返事はなかった。 付いて来れなくてもいい、というような態度に、敬吾は怒りを覚える前に、不安になってくる。 どうしたんだろう? きつく前方を睨むようにして、穂波は歩き続けていた。一度も敬吾の方を振り返らない。 結局穂波が立ち止まったのは、人通りもまばらな地下街でも最奥の広場だった。 穂波がくるりと振り向くのと、敬吾が追いつくのがほぼ同時だった。 やや小走りで追いかけてきたせいで、息が荒い。肩で息をして整えている敬吾を、穂波は感情の籠もらない瞳で見つめていた。 「穂波さん?」 その瞳に気づいた途端、敬吾は不安が更に増したのを感じた。心臓が痛みを訴えるような感覚に陥る。 こんな穂波を見たのは初めてだった。 どうして? 敬吾がいたたまれない気持ちで立ち竦んでいると、穂波がポケットから鍵を取り出した。プレートと鎖で繋がれたその鍵が穂波の手からぶら下がる。 「私が行きたいところはこの先だ」 「この先って……」 敬吾はその先に視線を向ける。通路の案内板に書かれた文字を読みとるまでもなく、敬吾はこの先にある物を知っていた。 ターミナル・ホテル。 改装されたばかりのそのホテルは、展望の良いレストランが人気のデートスポットだった。 だが、穂波の手にある鍵。 レストランに鍵はいらない。 まさか? 「それでもいいのか?」 何が?と尋ねたかった。 だが、走り続けたせいと極度の緊張に襲われ、喉が言葉を発しない。からからに乾いた口内。 心臓が激しく高鳴る。 「君は言ったね。私の行きたいところで良いと」 その問いには頷くしかない。 それに穂波の様子が、変だ。 いつもどこか揶揄するように敬吾を見つめていたその瞳。 だが、今の穂波は真剣なのか、怒っているのか……そのどれもが混ざっているのか、敬吾には判断できない。何も彼の表情には浮かんでいなかった。 俺は……どうすればいいんだ? 戸惑いと恐れにも似た不安が敬吾を襲う。 ふっと、穂波がその口の端を僅かに上げた。 敬吾に背を向け、歩き始める。その先はホテル。 「気が向いたら来るがいい」 鍵に付いたプレートを敬吾にかざして見せる。 「615号室だ。忘れる番号ではないだろう?」 615……。 穂波の言う通りだった。それは敬吾の社員番号と同じ。 答えることのできずに立ち竦む敬吾を置いて、穂波はホテルの中に入っていった。
「馬鹿が!」 穂波の口から吐き出された言葉を聞く者はいない。 使うかどうか判らなかったが、それでも予約していた部屋。今そこにいるのは、穂波一人。 穂波は一人水割りを煽るように飲み続けていた。 どこに行く気力もなくて……もしかすると、敬吾が来るかも知れないと、淡い期待があって、部屋から出ることが出来なかった。 ルームサービスで取り寄せた簡単な料理がテーブルの上に並ぶ。 だが、酒以外のどれにも手はつけられていない。 頼んでみたものの、食欲はなかった。 敬吾と別れてから、2時間が経っていた。 窓の外は夜のとばりが落ち、道行く車のライトと街中の灯りが星の変わりに煌めいている。 ぐいっと何杯目かの水割りを飲み干す。 穂波は自分が信じられなかった。 「馬鹿が……」 再度呟かれた言葉は、自分自身に対してのもの。 こんな筈ではなかった。 楽しくするはずだった。 優しくエスコートして、ムードを盛り上げて最後にこのホテルに連れてくる、筈。 だが。 あきらかに、何かに気を取られている敬吾の様子。そして、その原因が篠山だとは想像に難くない。何故、あの時遭ってしまったのか?後悔の念が絶えない。 もう、諦めているのだと思った。 敬吾が篠山の事が好きなのだと言うことは知っていた。だが、その恋は完璧に破れている。だから、もう諦め切れていると踏んでいた。だが、あの様子ではそうではなかったのだろう。 篠山に会ってしまったことを随分と気にしているようだった。穂波と合っていることを知られるのが嫌だったのだ。 諦めきれないのか、と聞いた。 敬吾の返事はうやむやなもので、少なからず穂波は衝撃を受けた。それでも……そんな事もあるだろうと……切り替えようとして……。 結局、穂波は自分がコントロールできなかった……。 どこでもいい、と言われて……その表情が無理な笑いだとははっきり判るもので……。 穂波の胸の中に、何とも言えない激しい感情が沸き起こった。怒りとも悔しさともつかない負の感情。 そして。 つきつけた言葉。 敬吾に選ばせるという無理な事を言ってしまった。 まだ、そんな時期ではない。あんな風に言われて、彼がここに来るはずはない。 ここに来ると言うことは、すなわち、穂波に抱かれても良いと宣言することになる。あの子がそんな事、決断できるはずがない。 穂波は自分があまりにも無理な決断を迫ったのに気付いていた。 だが、一度溢れた感情は、止めることができなかった。 嫉妬……。 穂波はあきらかに嫉妬していた。 敬吾を未だ捕らえている篠山に。
立ち去ってしまった穂波。敬吾はどうすることも出来ずに立ち竦んでいた。 ホテルの部屋で待つ。 その言葉の意味が指し示す事柄に心臓が高鳴り、羞恥に顔が熱くなる。 そんなこと! 出来るわけが無いじゃないか! きつく噛み締められた唇。歪んだ顔で睨み付けるように、穂波の消えてしまった扉を見やる。 信じられない!信じられないっ! こんな所でほっとかれて、はいそうですかって部屋に行けるわけないじゃないか! 最初の驚きが消えてくると、内心にふつふつと怒りが沸き起こってきた。 くるりと扉に背を向ける。 行くもんか! 行ける訳ないじゃないか。 すたすたと地下街の方面に歩いていく。 何で、あんな事を言いだしたのか……。確かに穂波の行きたいところでいいとは言った。だけど、いきなりなんて……信じられない……。 どうして……。 最初は早足だった歩く速度がだんだんとゆっくりになっていく。 どうして……。 穂波があんな事を言いだした原因。判っていない訳ではなかった。 彼は怒っていた……。 あんな感情のこもらない眼で見つめられたことはなかった。あれは、穂波さんの怒りなんだ。 そうだよな……。 自分とて、楽しみにしていたのではなかったのか?なのに、それに集中できなかったのは敬吾自身。 とぼとぼと歩き続ける敬吾は、それでも帰る事は考えられなかった。 帰りたくはなかった。だが、だからと言って穂波のいるホテルに行く気にもなれない。 敬吾は地上の裏通りにあるゲームセンターに入っていた。 ショッピングをする気力もなく、かと言って食事を一人でするのも詫びしいものがあったから。だから、気が落ち着くまでここで時間を潰そうと思ったのだ。 就職してからはあまりいくことはなかったが、学生時代は結構友人達とたむろしていた。 この店も薄暗い雰囲気ではあったが、若者達がたむろしている。 賑やかなゲーム音楽が溢れ、ゲーム盤ではそれぞれのキャラクター達がデモ画面内を暴れ回っていた。 敬吾が向かっていたのはベストセラーでもあった落ち物パズルのゲームだった。 学生時代に培った腕は忘れていなかったようで、最初の何面かは問題なくクリアできる。 眼が落ちてくる形と色を捕らえた途端、条件反射的に右手がレバーを操作する。 クリア画面が出て次のステージに移る瞬間、新たな緊張が沸き起こる。 だがそれも一瞬で、その緊張が消え去ると敬吾はどこか冷めた心でそれを行っていた。 ゲームをしている行為が惰性でしかない、とは判っていた。 常に心の片隅に存在する穂波。 その穂波が怒っている。早く来いと怒っている……。 そして、それに呼応するかのように敬吾の心が穂波の元に行きたいと、訴えていた。 ゲームに集中しているはずなのに、それでもぬぐい去ることは出来ない想い。 俺はこんなところで何をやっているんだろう。 穂波が待っている場所が、ホテルでなかったらすぐさま駆けつけていたかも知れない。 穂波さんはひどい……こんな決断を俺に迫るなんて……。 しかし、その行為を穂波に引き起こさせたのは敬吾自身の行為。 俺は本当に篠山さんの事、諦め切れていなかったのだろうか……。 落ちてきた塊に、レバーを操作しようとした途端、邪魔な塊がドンッと多量に落ちてきた。 「あっ?」 その途端、操作の手が止まる。単純なミスが、相手に勝利をもたらしたらしい。 集中し切れていない頭では、難しい面はクリアできなくてゲームオーバーになる。そのままエンディングシーンを眺めていた敬吾は、コインを取り出すと、また最初からやり始めた。 ゲームを始めると、また頭がさっきの事を考え始める。 会社で篠山に会っているとき、あんな苦しい想いをしたことはなかった。だから、自分は諦め切れていると思ったのではないか? なのに、あの待ち合わせ場所で、穂波といる篠山を見た途端、胸が苦しくなった……。だから、気になった。 穂波が楽しませてくれようといろいろ話しかけていたのは知っている。 だけど、その心に残ったわだかまりが邪魔で、どうしようもなかった。 穂波が篠山といるシーンは、妙に二人が似合っていると思って……。 ……。 こんな想い、前にしたことがあるような気がする。 あれは、篠山の好きな相手が滝本って人であると気付いた時だったんじゃなかったけ。相手の人と楽しそうに話をしているのを見かけたとき……胸が痛んだ。 って……あれ? 敬吾の手が止まった。 これって……もしかして、嫉妬してる? しかも篠山さんに? 止まってしまった操作のせいで、塊が同じ場所にどんどん落ちて来、そしてゲームオーバーの文字が流れた。 それを虚ろな目で眺める。 この胸の痛みってそうだったんだ……。 篠山さんのこと、諦め切れていないから、あんな嫌な気持ちになったんじゃなくて、穂波さんが篠山さんに遭っていたからあんな嫌な気持ちになった……。 その思いに気付かなかったばかりに穂波を不快にさせ、怒らせた……。 俺って馬鹿か? 自嘲めいた笑みが口元に張りつく。 こんなに自分が鈍感だとは思わなかった。自分の気持ちくらい、分かり切っているかと思っていた。だが実際、敬吾は篠山に嫉妬心を抱くほど、穂波が好きになっていたのだ。 行ってみようか……。 とりあえず、逢って謝るくらいはしないと行けないような気がしてきた。 敬吾は、ふうと息を吐くと、立ち上がろうとした。と、同時に隣の椅子に人が座った。 「お兄さん、強いね。オレと勝負しない?」 まだ、大学生かフリーターか……社会人らしい雰囲気が全くない。幾重にも付けられたピアスとネックレス。へらへらと笑いかけられ、敬吾の眉間の皺が深くなる。こういう輩は敬吾の嫌いなタイプだった。 帰ろう……。 黙って立ち上がろうとした敬吾の肩を別の誰かが押さえる。 「いいじゃない。一回くらい」 その馴れ馴れしさにムッとして見上げた背後にも同じようなタイプの若者がいた。長い茶髪を後ろで無造作に束ねている。 何だよ、こいつら? 「離してくれ」 こういう相手とはまともに相手をしない方がいいとは判っていた。だが、この時の敬吾はそういう判断をする余裕がなかった。穂波の元に行こうとやっと決心がついた所だ。相手を邪険に振り払い、席を立つ。 うっとおしい! 敬吾は、足早に店を出ていった。 そんなにそこにいたようには思わなかったが、周りはもう既に完全に暗くなっている。時計を見ると、1時間は優に経っていた。 地下街と違って、寂れた感があるその辺りは、既に人通りが少ない。 敬吾はホテルの方向を確認すると、歩き始める。 と。 「ひどいな。せっかく誘ってんのにさ」 いきなり背後から肩を掴まれた。 驚いて振り返ると、先ほどの二人連れが敬吾の両脇を固めている。 腕を掴んできた手が痛いほど強い。 「離せ!」 まずいっ! 脳裏に警報が走る。 振り解こうと藻掻くが、それは容易には離れてくれなかった。周りの人間が我関せずと行った感じで、足早に通り過ぎていく。 「せっかく遊ぼうって言ってんのに逃げることはないだろう。どうせあんたも独り身なんだからさ。オレ達と仲良く過ごそうって……」 言葉はそれほどきつくない。むしろ柔らかな感じがあったが、その行動も表情もどこか剣呑なものを感じた。 敬吾の背筋にぞくりと寒気が走る。力では敵いそうになかった。 「俺はもう帰るから」 敬吾の言葉に二人がせせら笑う。 「何言ってんの、夜は長いんだからさ」 「そうそう、あんた金持っていそうだし、つき合ってよ」 長髪の方が、周りには見えないように敬吾の手の甲に何かを当てた。 ひんやりしたその感触に思わずそれに視線を移した敬吾は、驚きに目を見張った。 それは、折り畳み式と思われる金属色に光るナイフ。 思わず振り払おうとした途端にナイフの切っ先が敬吾の手の甲に触れ、そこに赤い線が走った。ぷつぷつと浮かんで来る血の塊。 鋭い痛みと視界に入った赤い血の色に、敬吾の顔から血の気が失せる。 「もう、動くからだよ」 ピアスの方がハンカチのような物を取り出すと、敬吾の手に巻き付ける。振り払おうとしたら、長髪の男に押さえられた。その行為が決して親切心からでないことは、明白だった。彼らは隠しただけなのだ。 「なあ、どうする。このお兄さん、意外に大人しくはしてくれそうにないタイプみたいだよ」 「そうみたいだな」 二人が、敬吾を挟んでどこか間延びした会話をする。 逃げなければ。 そう思ってはいたが、がっちり掴まれた腕は離れてくれそうにない。 蒼白になった顔で、ぎりりと唇を噛み締める。 こんな、奴ら! もともと敬吾はこんな理不尽な要求に素直に従うのは大嫌いだった。それに加えて、今は行かなければならない所がある。その焦りが、敬吾の判断を狂わしていた。 「離せ!」 敬吾の深く刻まれた眉間の皺。そのせいで、二人を睨み付けるようになる。 穂波が気に入っているという気の強そうな瞳が、無意識の内に出てしまう。 「はん。このお兄さん、自分の立場がわかっていないみたい」 「ったく……おとなくしく金だけでも出せばいいのにさ」 「ね、あそこ行こうよ」 「そうだな」 にやっと意味ありげに顔を見合わせた二人。 あそこ? 不審そうに眉をひそめた敬吾に、二人は下種た視線を向けると敬吾を引っ張る。敬吾の腕にはナイフが突きつけられたままだ。 どこに連れて行かれるか判らない不安が押し寄せる。 「離してくれ」 無理矢理引き剥がそうとした腕を決して離そうとしない長髪が、敬吾を引き寄せると耳元で囁く。 「俺、あんたの顔、傷つけたっていいんだぜ。せっかくの綺麗な顔、醜くなってもいい?」 途端、敬吾の躰にぞくりと恐怖が走る。 引きつった顔に当てられたナイフの冷たさが、敬吾の躰から力を抜けさせる。 長髪の男はにやりと嗤うと、敬吾を引っ張っていった。 古ぼけた貨車のコンテナを利用したカラオケボックスが、駅前からそう遠くないところにあった。ピアスの方が、受付に行き手続きをすませる。 暴れることが二人を喜ばせると気付いたから、敬吾はおとなしくカラオケボックスに入るしかなかった。 「コート脱げよ」 その言葉に一瞬躊躇ったが、突きつけられたナイフの前では従うしかない。 渋々脱ぎ捨てると、彼らはそのコートで唯一の窓を塞いだ。次にソファを移動し、ドアを塞ぐ。その行為が外からいきなり入らせないためのと、敬吾を逃がさないためだとは容易に理解でき、敬吾は絶望的な思いでそれらの行為を目で追うしかなかった。 もう逃げられないのか……。 力無くソファに座り込んでいた敬吾に、長髪が話しかけてきた。 「さて、金はどこだ?」 金……。 ナイフを目の前でちらつかされても、敬吾は口を開かなかった。 恐怖はあった。だが、あのお金は渡したくなかった。 その想いが敬吾の歯を食いしばらせる。 「……」 黙りこくっている敬吾に、二人組が目を遭わせた。そだがその視線が敬吾に向けられた途端、二人とも卑下したような嗤いを浮かべる。 「あんた、そんなひきつった顔してる癖に、目だけは睨み付けるんだな。なんか、結構そそられるね」 「全くね、壊したくなるような感じだ」 どういう意味だろう? 見上げた視線が訝しげに二人を見やる。 と、長髪の方が敬吾の手を取ると、捻り上げた。 「っ痛」 捻られた痛みにくぐもった叫びが漏れる。 捻られたままソファに俯せになるように押しつけられる。紐状の物が両手首に巻き付かれる感触に、敬吾は跳ね起きようとした。だが、手の甲に巻かれていた布がするりと抜かれたと思った途端、今度はそれを口に押し込まれた。その上から吐き出されないように紐状の何かを巻き付けられる。 身を捩った敬吾の視界に入った物は、マイクのコードだった。それが両手首に巻かれ、その端が顔の方に伸びている。 「ううっ」 ちくしょう! なんだってんだ! いきなり行われた暴力的行為に怒りが沸き起こる。 だが、口に入れられた布のせいで、言葉はくぐもった音としてしか出なかった。 二人が苦しげに唸る敬吾の服を探り、財布と携帯をとりだす。 「入ってる。10万か……儲けっ!」 「やったな」 ちくしょうっ! 敬吾の目尻から悔しさのあまり涙が溢れる。 そのお金は、穂波に貰った服の代わりに何かを贈ろうと思って持ってきた金だった。それを見るまでそんな事は忘れていたが、それでも、こんな二人に渡すためのお金ではなかった。 「ううっ、あやえっ!」 発音できないもどかしさも含めて、怒りをぶつける。だが、その代償は腹に蹴りの形で払われた。 「ぐっ!」 息が詰まる。 躰をくの字に折って、その痛みと苦しみに耐えた。 「最初っからおとなしく渡してくれればこんなことにはならなかったんだよ、ねえ」 けらけらと嗤いながら、足先で唸っている敬吾の躰をこづく。 「おい、見て見ろよ」 ピアスの男が敬吾の携帯を操作していた。それを相棒に見せる。 「愛しているだってさあ。しかもここに書かれている日付って今日じゃん」 「ほら、次のメール……今、こいつが来ている服のことだろ」 「へー、今日はデートだったんだ。それなのに、何でこんなとこにいるのかなあ、一人で」 「彼女に振られたんじゃない?」 「こんな熱烈なメールもらっといて?でも、そんな感じだったよなあ」 縛られ転がされた敬吾の頭の上で、見られたくないメールを見られ、しかもそれをネタに揶揄されている。今まで血の気を失っていた敬吾の顔が朱に染まった。 襲われた激しい羞恥心と怒りに、敬吾は二人を睨み付けるしかなかった。 だが。 「これ……でもさあ、男の名前じゃないのか?」 その言葉に、敬吾の顔から音を立てて血の気が引いた。 忘れてた! 穂波からのあのメールには、穂波の名前がフルネームで記載されていたことを。 「あんた、男とつきあってんのか?」 呆れたような下種な視線を送られ、敬吾は目を固く瞑って大きく首を振った。 「何言ってんだ?メールに書かれたとおりの服を着て、今日待ち合わせしたってことだろ。それでつき合っていないってよく言えるよな」 「で、その男と喧嘩でもしたって?」 その二人の声が耳もとでする。 敬吾はびくりと身を震わした。 「ま、確かに可愛い顔立ちをしているよな。あんた目を開けな」 顎をぐいっと引き起こされ、その痛みに僅かに開いた目の前に、長髪の方の顔があった。 「なあ、男同士でやったことあるんだ?」 その言葉にかっと顔が熱くなる。慌てて首を振ろうとするが、掴まれた顎のせいで身動きもままならない。 「それって、やっぱ尻に突っ込むんだよな」 「あんた、突っ込まれる方?」 露骨な会話に、しかもどう考えてもからかいのネタでしかないその内容に敬吾の頭は羞恥と怒りとが混じり合って、混乱しまくっていた。 もう、止めてくれ! ふるふると首を振り続けようとする敬吾の躰がぐいっとねじ伏せられた。 「どうするんだよ」 ピアスの男の声が頭の上でする。 「尻につっこむ趣味はないけど、口でしてもらおうかなって、な」 「へえ、そりゃあいいや」 何だって! その言葉に敬吾の躰が大きく震えた。逃げようと身を捩る。 だが、慌てて上げた顔の目前にナイフが突きつけられる。 「その可愛い顔に傷つけたっていいんだけどな。ここから逃れたかったら、おとなしく言うこと聞いた方が良いんじゃない?」 二人の言葉使いは激しくない。だが、その目はいつだって冷たくすえた物だった。だからこそ、敬吾の躰に悪寒が走る。 口に巻かれていたコードが外された。口の中の布が取り除かれる。 「あんたが口で達かせてくれたら離してやるよ。嘘じゃないぜ。ほら」 長い髪の方が、目で相棒に合図をすると、ピアスの男が敬吾の中身が空になった財布と携帯をコートのポケットに戻した。 「俺達もさ、人殺しにはなりたくないしね。ただ、楽しめれば良いんだ。あんたが、俺達を楽しませてくれればそれでいい」 ぐいっと近づいてきたナイフが敬吾の顎のラインをなぞる。 ちりりっとした痛みに顔をしかめる。 僅かに突き刺さった場所から、ぷくりと血の塊が膨れあがってくる。 押さえきれない恐怖。そして怒り。 「ほら」 目の前に長髪の男のモノが突きつけられた。 頭を掴まれ、口にぐいっと押しつけられる。汗と入り交じったようなすえた臭いが鼻につき、激しい嫌悪と嘔吐感が沸き上がる。 「口を開けろって」 それでもぐっと固く目を瞑り、歯を食いしばっていると、今度はピアスの方がけらけらと笑い出す。 「もう強情だねお兄さん。あのさ、俺の携帯カメラ付きなんだよね」 カメラ? まさか? 敬吾がはっと見開いた視線の先で、携帯がこちらに向けられていた。 「撮れたよ」 にっこりと笑みを浮かべたその男が、敬吾に携帯の画面を見せる。 そこには小さかったが、それでもはっきりと敬吾の顔と、そこに突きつけられているモノが写り込んでいた。しかもその取り方のせいなのか、銜えていない筈なのに、銜えているようにさえ見える。 「これね、さっきのメールの人に送ろうか?」 その言葉に敬吾は、驚愕のあまり目を見開いた。 「止め、ぐあっ!」 制止しようとして口を開けた途端、そこに男のモノが押し込まれる。 「ぐっ」 いきなり喉の奥まで差し込まれ、えづきそうになるが、男は敬吾の頭から手を離そうとしなかった。その苦しさに涙が目尻に浮かぶ。 「舐めろよ」 敬吾に銜えさせた長髪の声が明らかに性的興奮を味わっているのか、震えていた。 「やっぱ、さっきのメールの人、彼氏なんだ?じゃあさ、しっかりと俺達を楽しませてくれないと、写真を送っちゃうよ」 けらけらと嗤いながら、敬吾に携帯を向ける。 「うう」 涙に潤んだ目で睨むが、それは相手を興奮させるしかなかった。 穂波の携帯が最新式だということは知っていた。あれは、JPEG画像を受信できる。 絶望に打ちひしがれる。こんな姿、穂波に見せたくなかった。 穂波への想い、篠山に嫉妬するほどの想いに気付いたばかりだ。だからこそ、こんな姿、穂波に知られたくなかった。 敬吾は、仕方なく口の中のモノに舌を這わせた。 とりあえず、達かせればいいんだから……。 だが、始めての経験のそれは、なかなかうまく出来ない。男だから、どこを刺激すれば気持ちいいか位は判っていた。だが、口一杯に体積を増したそれのせいで、舌すらもなかなか動かせない。 「じれってーなー」 男が、すぽんと敬吾の口から自分のモノを抜いた。 敬吾の顎を溢れた唾液が伝う。 「舌を出して舐めな」 既に大きくなったそれを鼻先に突きつけられる。仕方なく舌を出してそれを舐める。 「いいなあ、その顔。それだけで興奮しそうだ」 劣情にまみれ掠れた声が頭上から降ってくる。 敬吾の舌先が、くびれた部分をなぞり、舐めあげる。 「う、いいぜ……」 こんなこと……。 敬吾の目尻から流れ落ちる涙を、男が指で掬い取った。それをぺろりと舐める。 くくくと喉から漏れる嗤い。 迂闊に流した涙までもが性的な対象になると知って、こみ上げる思いを必死で堪える。 敬吾は必死で男のモノを達かせようとしていた。 再度口にそれを含む。 それを待っていたかのように、男が大きく抜き差しした。喉の奥に突きつけられ、激しい嘔吐感に襲われる。 「ぐっ、ううっ」 本当に吐きそうになりそれを無理矢理抜こうとした。と、その途端敬吾の歯が敏感かな部分に辺り、それが刺激となって男のモノからどくどくと放出されたモノが敬吾の咥内に流れこむ。 「うううっ」 嫌な味。慌てて吐き出そうとする敬吾の頭はがっちりと押さえつけられていた。 「飲めよ」 吐き出すこともできず、咥内に溜まったそれを、言われるがままにごくりと飲み干す。 ようやく解放され、敬吾はごほごほとせき込みながらその場に踞った。
「まだオレのがあるんだけど」 それまで様子を窺っていたピアスの方が近寄ってきて、敬吾の髪を掴むと顔を上げさせた。 涙で濡れ苦しげに歪んだ敬吾の顔。その口元に、唾液の流れた跡。 ピアスの男が息を飲んだ。その顔が欲情に煽られ、醜く歪む。 そうか……もう一人いたんだっけ……。 敬吾の脳が、現実を考えることを拒否し始めていた。 今の目の前にあるものを受け入れるだけ。考えなければいい。そうすればいつかは終わる……と。 「あんたさ、逃げないんだったら手ぇ解いてやろうか?結構、その姿勢辛そうだしさ」 その言葉に言われた方を見る。 長髪の男が敬吾の背後に跪き、敬吾の返事を待たずにそれを緩めていた。 「あーあ、こんなに赤くなっちゃって」 解かれた手は、血行が回復したせいでじんじんと痺れていた。その痛みに顔が歪む。戒められていた手首には赤い筋が幾重にも走っていた。手の甲の傷も、縛られた時に開いたのか血が滲んでいる。 「手ぇ開いたんなら、お兄さんの手でオレのモノ出してよ」 その言葉に、敬吾はその痺れた手を動かす。ジーパンのジッパーをずらして、その中からすでに昂ぶっているそれを取り出そうとする。 だが体積を増したそれは容易には出てこようとしなかった。 「いてーよ!」 「おまえ、何でっかくしてんだよ」 「しょーがねーだろ。もう」 結局ピアスの男が自ら、ジーパンのボタンを外し前を緩めた。 その出されたモノを敬吾はゆるゆると手で扱く。 「いいよなあ、なんか、このお兄さんの顔ってすげー色っぽくない?」 「そうだろ、オレもこいつの顔にそそられたもんな」 「もっと色っぽい顔させてみてー」 「OK〜」 色っぽい? その単語に、敬吾は上目遣いに二人を見やる。だが、その視界に入ったのは目前のピアスの男一人だった。 と、敬吾の背に重みが加わる。 「何?」 振り向くと、長髪の方が敬吾の背後から前へ手を回してきていた。その手が、ベルトを外そうとしているのに気づき、慌てて逃げようとする。だが、その寸前に頭を強く掴まれた。 「駄目だよ、早くオレのも銜えてよ」 「しかし!」 「写真送っていいの?」 笑いながら言われた言葉に敬吾は硬直した。その間にもベルトは外され、前が開けられる。 「銜えて」 敬吾は固く目を瞑ると、それを口に含んだ。さっきと同じように舌で敏感であろう所を刺激する。その間にも長髪の方が、敬吾のモノを取り出してその手で包み込んでいた。 柔らかく掴まれていた敬吾のモノが、緩急をつけた動きに徐々に体積を増してくる。 感じたくないのに明らかに反応するそれに嫌悪すら抱いて、敬吾は身を捩った。嫌だと叫びたくて発する言葉は、声にすらならなくて喉の奥から漏れる音として、余計にピアスのモノに刺激を与えてしまう。 「ん、んんっ!」 敬吾の口にそれがぐいっと押し込められ、そしてぎりぎりまで抜かれる。途端、再度ぐいっと押し込められる。喉の奥まで突かれたくなくて、咥内に力を込めると、それが相手を喜ばせる。 止めて欲しいと向ける懇願の眼差しですら、二人を煽り余計に火をつける。 男の手が、さらに激しく敬吾のモノを扱き始めた。 「すんげー、色っぽいよ、お兄さんの目」 劣情に満たされた声が掠れている。 「あんた、気持ちいいだろ。あんたのモノ、すっげー濡れてきたぜ」 ぴちゃぴちゃとわざと音を立てられる。 「んくっ」 感じたくないのに、そこは素直に刺激に反応し激しい疼きが背筋を伝う。 「ふあ……」 堪えていた喘ぎが、鼻から抜ける。長髪の方の空いた手が、敬吾のシャツの下に侵入した。その冷たい手が、肌の上をなぞりゆるゆると上昇する。体温を奪われ、外気に曝された肌に鳥肌が立つ。 「怖い?」 それを恐怖心からと誤解した長髪の男が、敬吾の耳元で囁く。だが、口を塞がれ頭を固定された状態で返事はできない。 それ以上に、躰が熱く昂ぶるにつれ冷えていく頭の中の感情が、放っとけばいい、と訴えていた。 「ん、ふっ……」 「お、にい、さん……すごっ」 先ほどより馴れたとは言え、それでも喉の奥を突かれる行為は嘔吐感を沸き起こす。 苦しくて流すまいと思っていた涙までがあふれ出る。その涙を、長髪の男が舌で舐め取った。 「可愛いよ、あんた……」 背中に長髪の男のモノがぐいっと押しつけられた。出したばかりのそれが、激しく昂ぶっているのを感じて、びくりと躰が震えた。 「ううっ!」 そんな…… 銜えながらも視線だけを後方に移すと長髪の男の顔がすぐ横にあった。 「いいなあ、その目……」 目? 穂波さんも言っていた……いつだったろう? まるで遠い昔のような気がする。 長髪が敬吾の目尻に口付ける。思わず目を閉じたが、それに構わず長髪の男は瞼の上に口付ける。 「開けてよ」 そんな声が耳元で囁かれたが、敬吾はそれを無視した。途端、ぐいっと自身のモノを握りしめられる。 「っ!」 走った痛みに思わず口を離しそうになるが、頭を押さえられた手で元に戻された。喉の奥で唸りながら、その痛みに耐える。 「目を開けて……」 限界まで昂ぶっていたそれの根本を戒められ、さらに敏感になった先を掌でゆるゆると撫で上げられる。先走りの液が潤滑剤となり、さらなる刺激を与えてくる。 「うう……」 仕方なく目をうっすらと開くと、やっとその手が緩められた。変わりに、扱く動きが激しくなる。 「お兄さんっ、くっ、そろそろ」 また……またあの苦いモノを飲まなければならないのか……。 そう考えただけで、激しい嫌悪が沸き起こる。身を捩って口を離そうとするが、それは許されなかった。 「う、達くぅ!」 咥内のモノがびくびくと大きく震える。どくんと吐き出された液が、喉の奥に流れてきた。敬吾はそれを急いで飲みこんだ。味わいたくなかった。 喉がごくりと動き、それを確認したピアスの男が自分のモノをずるっと抜き出した。 「よかったよ、お兄さん」 息の荒い男が、屈み込んで敬吾の口に口付けた。慌てて顔を背けようとするが、許されるはずもなく、男は敬吾の口を貪る。 「へへへ、オレの精液の味がするねえ」 その言葉に、かっと躰が熱くなる。ピアスの男は再び、敬吾の口を塞いだ。今度は舌をその口の中に差し込む。 「やっ」 それだけは嫌だった。 もう離して欲しいっ。終わったはずなのに……。 堪えきれない涙が流れ落ちる。 だが、差し入れられた舌が咥内を蹂躙するのを止めさせることはできなかった。 「達かしてあげるよ、あんた。もう、限界だろ」 揶揄している声が背後から降ってくる。だが、制止する言葉はピアスの男の口に塞がれて、発することが出来ない。力の入らない手が、二人を押しのけようとするが、申し訳程度の力しか入らなかった。 「ほら、もう限界だろ」 背筋を舐めあげられ、びくりと躰が震える。 嫌だ……もう、止めて……。 咥内と自身のモノを嬲られ、肌をまさぐられる。嫌悪しか感じなていない筈なのに、自分のモノは確かに昂ぶっていて、それが敬吾を苦しめる。 穂波、さん……。 こんなことなら……穂波さんの所にさっさと行っておけばよかった。変な勘ぐりなどせずに、素直に従っていたならば、こんな事には……。 激しい後悔と共に沸き上がるのは、穂波の顔。 穂波さ、ん……。 「ううっ!」 穂波の顔が脳裏に浮かんだ途端、敬吾の頭の中が白くスパークした。 躰がびくびくと震える。 長髪の男の手の中に白濁した液をどくんと吐き出した敬吾は、力を失い、ぐったりとピアスの男にもたれかかった。 「へへ、やっぱお兄さん、かわいーや」 「溜まってた?こんなに出てる」 長髪の男が敬吾の吐き出した液にまみれた手で敬吾のモノを掴む。そしてゆっくりと扱き、最後の一滴まで絞り出すと、出てきたそれらを敬吾のモノの全体に塗りつけた。 「うんっ」 その刺激に意識しない声が漏れる。 「すっげー、いい顔」 ピアスの男が躰を離した。力を失った躰が前に倒れ込もうとするのを後ろから支えられる。その虚ろな視線の先で、ピアスの男が携帯を向けていた。 写真を撮られたのは判った。 だが、だからと言って何をする気にもならなかった……。 「約束だから、返してあげる。ここ、たっぷりとあんたのモノで濡らしたまんまね……」 耳朶を甘噛みされながら囁かれた言葉にも、反応することができなかった。 外気の冷気に曝され、やっと霞がかかったようにぼーっとしていた意識が覚醒した時には男達はいなかった。 自分がどういう状態なのか、何が起きたのか、全てが一気に押し寄せてくる。 自分のモノが精液にまみれているのをその乾いて引きつった感じで自覚するが、どうしようもなかった。 「くっ……」 唇をきつく噛み締める。その痛みが敬吾を現実に引き留める。 後悔、怒り、恐怖、悔しくて、情けなくて……混乱し崩壊しそうになる頭を引き留める痛み。 「穂波さん……」 逢いたかった。 無性に逢いたかった。 だが、男達に思うように嬲られ、自らのモノを吐き出したままで服を着せられたままの躰で逢うことなど出来なかった。 溢れる涙が、とめどめもなく流れ落ちる。 逢いたいのに……やっと決心がついたのに。 もう、逢えない……。 敬吾は、とぼとぼと駅に向かって歩き始めた。 駅からたいして遠くなかったから、それほど時間がたたないうちに駅までたどり着く。 駅の建物の向こうに一際高いターミナル・ホテルの建物が夜空に浮かんでいた。窓の灯りがいくつもついている。その中の一つに穂波がいる。 敬吾は再び逢いたくなる想いを止められなかった。 「逢いたい……」 じわっと沸き起こる熱い想い。目の奥が熱くなり、慌てて目を閉じた。 ポケットからハンカチを取り出そうとして、携帯が鳴っていることに気が付いた。 短いメロディ。 メールが着信したのか。 敬吾は、それを確認して、息を飲んだ。 穂波からだった。 『逢いたい、待っているから』 ただ、それだけのメッセージ。 「穂波さん……ずるい……」 そのメールを見た途端、溢れ出す涙。 堪えようとして堪えきれない想いが脳裏に満たされる。 「逢える訳ないじゃないか、今更……」 今の自分の姿を見られたくなかった。 それでも……逢いたい気持ちの方が強かった。
穂波は、自分の携帯に送りつけられた画像から目が離すことが出来なかった。 先ほどまで自暴自棄になりそうな酔いは完全に吹っ飛んでいた。 画像は全部で3枚。 敬吾の身に何が起こったか、一目瞭然なその内容。 「敬吾……」 この場にいない愛おしい恋人の名を呼ぶ。 今まで、直接呼びかけたことはなかった。だが、今日こそはそう呼べる仲になろうと画策していた相手。 突き放すように別れてから3時間しか経っていない。 穂波がここでもやもやとした気持ちを持て余しながら、酒を飲んでいた間に、敬吾の身に何故こんな事が起こっているのか? 最初に送られたメールは、『穂波幸人様』そして嫌みのように書かれていた『楽しませて貰いました』というメッセージ。だが添付されていた画像には、敬吾が口一杯に頬張っている姿が写っていた。 何を頬張っているかは、判った。いや、想像がついてしまった……。 思わず取り落としそうになった携帯。 敬吾……。 させてみたいと思ったことはあった。だが、それは自分に対してだけだ。他人のモノを頬張る敬吾など見たくもない。 あいつは俺の誘いを断って、何をやってるんだ! 怒りがふつふつと沸き上がる。 だが、その怒りは次のメールで飛散した。 2件目には、画像だけ。 銜えたまま目元にキスされている姿。上から撮っていると判る構図。 それで相手が二人居ることが判った。 考えてみれば最初の構図だって、二人居ないととれない物。 こんな事、少なくとも男を知らないはずの敬吾がいきなりするわけがない。そして、3件目のメールが来た。 今まさに開いているその画像、だが、見ないではいられなかった。 それは、膝をついて上半身を起こした敬吾の姿。だが、その背後から手が伸びて、躰を支えられている。そして、もう片方の手が敬吾の股間に伸びていた。苦しそうに歪められたその顔。 その姿に穂波はあろうことか、自身が昂ぶりそうになるのを感じ、慌てる。 どうしてこんなこと……。 自身の昂ぶりに自己嫌悪に陥りながらも、敬吾と逢って話がしたいと切に願う。真相を確かめたかった。 どこにいるのか……。 逢って聞き出したかった。 どうしてこんなことになったのか? 敬吾の性格だったら、こんな行為は決して自分の意志でするはずがない。何が一体どうなって、どうしてそうなったのか? 敬吾が二人の男に陵辱されたことだけは明らかだった。 あの、まだ男と寝たことなどない子。それなのに強いられたその行為に、敬吾の表情は歪んでいる。涙さえ見て取れるその画像。 許せなかった。 敬吾をこんな目に遭わした奴ら。 この手で自分のモノにするはずだった敬吾が、他人の手の中にいる。そう思うだけで、ぎりりと引き絞られるように胸が痛む。 それは篠山相手に抱いたモノとははるかにレベルが違っていた。 敬吾をこんな目に遭わせた奴らが許せない。見つけだして、叩きのめしてやりたい。 だが、その前に敬吾を探し出さなければならない。 メッセージは『楽しませて貰いました』。それをストレートに解釈するならば、既に行為は終わっていると言うことだろう。 僅かに写ったバックの様子。カラオケボックスらしきその背景。しかし、この辺りにそれはあちらこちらにある。しかもこんな行為が許される場所だ……表通りではないだろう。 もう家に帰っただろうか……。 穂波は唇を噛み締めると、敬吾を探し出す手段を考える。 敬吾……。 逢いたい……どこにいるんだ……。 穂波は唯一の連絡手段の敬吾のメールアドレスを呼び出した。未だに電話番号を聞いていない穂波にとってそれ以外の連絡法法はない。 穂波は、携帯を操作して敬吾宛にメールを送った。 簡単に、一行だけ。 今どこにいるのか判らない敬吾。ただ、それだけが頼りの綱だった。 だが、幾ら経っても敬吾から連絡はなかった。 何度も送ったメール。だが、それでも返事はないし、敬吾がここに来ることもなかった。 駄目なのか……。 穂波は敬吾の携帯番号を聞いていなかった事を激しく悔やんでいた。 メールだと、届いているのかどうかも判らない。敬吾が携帯を持っているのかどうかも……。 「敬吾、頼む……返事をくれ」 今の穂波には、敬吾と連絡を取らせてくれるなら、神でも仏でも良かった。 苛々と部屋中を歩き回る。 「敬吾……」 もう一度……願いを込めて、メールの送信を押す。 「答えてくれ!」 胸の内の言葉を絞り出すように吐き出す。 と。 微かに着信メロディが鳴った。 微かすぎて、聞き逃しそうな音色。空耳だったんだろうか?既にもう聞こえなくなったそのメロディ。 穂波はふっとドアに目をやった。 もしかして……外? 穂波は一抹の期待を込めて、ドアを開けた。
ホテルのドアの前。部屋番号は615号室。 敬吾はその前で、5分以上立ち竦んでいた。 どうしよう……。入る決心がつかない。 何度手を上げノックしようとしたか……だが、その手は叩かれることなく降ろされていた。 さっきから何度目かの着信メロディがコートのポケットから流れた。 また、穂波からのメール。先ほどから何度も入ってくるメール。 同じ意味のそのメールが、だんだんと苛々した内容になっている。 敬吾は、ほおっとため息をついた。 思い切って入ろう……入って、今日の事謝って……帰ろう……。 敬吾は、ノックしようと手を上げた。 そのドアがいきなり内側に引かれた。 えっ? 開いたその先にいるのは穂波。驚いたように見開かれた穂波の視線がまともに浴び、それに絶えられなくて敬吾は俯いた。 「緑山さん……」 穂波が呼びかけてくる。 敬吾はそれだけで、じわっと目の奥が熱くなった。溢れ出しそうになる涙を必死で押さえ、口を開く。今にも流れ出しそうな涙のせいで、顔を上げることができない。 「今日は、すみませんでした。だけど、俺……」 かろうじて言葉を紡ぐ。それでも途切れがちになる言葉を、敬吾は必死の思いで繋ごうとした。 と、穂波が敬吾の腕を取ると、素早く部屋の中へと引っ張り込んだ。 バランスを失った躰が狭い廊下で踊る。その背後で、ドアがかちりとロックされた。 「穂波さん、俺、帰ります!」 慌てて身を捩るが、それでも穂波の手は緩まない。きつく掴まれた腕が痛いほどで息を飲む。 「何故?せっかくここまで来たのに?」 口調は楽しそうに敬吾をからかっているようだったが、垣間見た穂波の表情がひどく暗い。ひくりとひきつった敬吾に気付いた穂波が、口元を引き締めた。 敬吾は穂波の僅かな表情の変化に、ずきりと胸に杭を打ち込まれたかのような痛みを感じる。 穂波は期待しているのだろう。だけど、敬吾にとってそれはどうしても相容れないモノだった。本当にあの時までは、それでも良いかも知れないという気持ちがあった。 だが、今はそんな気にはとうていなれない。 ちょっと逢いたかっただけ、それだけだ。これ以上、ここにいたくない。 だから、横に大きく首を振る。 「帰ります」 きっぱりと言い切るが、穂波はわざと聞こえないふりをしているのか、全く別の言葉を口に乗せる。 だが、それは敬吾にとって一番触れられたくない事柄だった。 「緑山さん……今までどこにいたんだ?」 「え?」 その言葉に敬吾の躰が大きく震えた。 思わず見開かれた瞳に穂波が写り込む。そのひどく真剣な表情に、敬吾は視線をあわすことができずに固く目を瞑った。 「どこにいた?」 そんな事、答えられる訳無い……。どうしてそんな事を聞くのか? 押さえきれない怯えにも似た感情に支配され、躰が小刻みに震える。 適当に答えれば良いんだ……とは思う。だが、穂波があまりにも真剣だと感じられて、誤魔化すことなどできそうになかった。 「言えないのか?」 答えなければ何度でも問いかけられそうな気配に、敬吾はぐっとその手を握りしめた。 誤魔化すことが出来ないのなら、話せるところまで話してしまおう。 悲痛な思いで敬吾は震える声で、一言呟いた。 「ゲームセンター……」 「こんな時間まで?」 こくりと頷く。掴まれた腕を離して欲しくて、穂波から一歩下がる。それでも、穂波は腕を離してくれなかった。 それどころかぐいっと引っ張られ、敬吾の躰が穂波の腕の中に抱き込まれる。 ひくりと躰が強ばった。 あれだけ欲しかった温もりが、今はそれに触れることが怖い。 「離して……」 俺は汚れたまんまなんだ。あいつらから出されたモノを飲みこんで、吐き出したモノもそのまま。こんな近くにいたら……それに気付かれてしまいそうで……嫌だ。 敬吾は強く穂波の肩に手をついて突っ張った。 「帰るから……お願いだから、離してください」 「どうして!」 穂波が敬吾の耳元で苛々と言葉を吐き出す。 「せっかく、ここまで来てくれたんだ。私に逢いたかったんだろう!だから来てくれたんじゃないのか」 その言葉に敬吾は息を飲む。 逢いたかった。 あんな目に遭いながらも、ずっと逢いたいという気持ちが消えることはなかった。 逢いたかったから、ここまで来た……だけど。 だけどっ! 心の周りに壁を作って堪えていたものが、がらがらと音を立てて崩れていく。 敬吾の瞳から、堪えきれない涙が溢れ出した。 「ほ、なみ……さん……頼むから……帰りたいんだ」 俺は汚れているから……。 「敬吾……」 その涙に穂波が呆然と呟く。 ふっと緩んだ腕に気付いた敬吾はその一瞬の隙をついて、そこから逃げ出した。 「敬吾!」 だが、敬吾の手がドアノブを掴んだ途端、穂波の手が敬吾の肩を掴んで引き寄せた。 「帰りたい!帰りたいんだ!」 再び捕らえられ、その腕から逃れようと敬吾は訳も判らず叫び続ける。 ただ、帰りたかった。穂波から離れたかった。側にいて、気付かれる前に! 「帰らせろよ!」 涙に濡れた目で穂波をきつく睨む。 「敬吾!」 穂波が叫んだ。途端、敬吾の頬に鋭い痛みが走る。 何? 「穂波さん……」 叩かれた頬を押さえ、呆然と穂波を見上げる。その視線の先に苦しそうに歪んだ穂波の顔があった。 「あっ……」 ドキリと胸が高鳴った。 こんな顔……俺がさせているのか? 今まで見たことのない穂波に、敬吾は抗っていた腕から力が抜ける。 「帰さない……何があっても帰さない」 「でも……」 叩かれた痛みが敬吾の理性を僅かばかり回復させていた。だが、だからこそ、その理性が訴える。 このままここにいたら、この人に気付かれる。 「か、帰らないと……」 「まだ、そんな事を言う?私は我慢の限界なんだがな」 くすりと嗤われ、敬吾はかっと躰が熱くなった。掴まれた腕から熱い熱が伝わる。羞恥に赤くなった敬吾の躰が、ふっと宙に浮いた。その浮遊感に、思わず目前の穂波の胸にしがみつく。 とん、と落とされるような衝撃に、見開いた敬吾の視線の先に穂波とそのさらに先に天井が見えた。背に当たる穂波の腕と柔らかいベッドの感触。 さっと敬吾の顔から血の気が引いた。 「駄目だ!」 慌てて身を捩ろうとした寸前、穂波に上からのしかかれる。体重をかけられ、身動ぐこともままならない。 躰にかかる重みと熱に敬吾の心臓はさらに激しく鼓動を打つ。が。 「ゲームセンターの後……どこに行った?」 突然耳元に聞こえてきた台詞。 その途端、敬吾の躰が完全に硬直した。心臓までが止まるかと思った。 「ゲームセンターの後だよ。どこに行ったんだ?」 目の前でその口から同じ台詞が紡ぎ出される。 ゲームセンターの後……。 思い出したくもない光景が脳裏に浮かぶ。 光るナイフ。古ぼけたコンテナ製のカラオケボックス。薄汚れた絨毯とソファの内装。床を伝うコード……。 そして向けられたカメラ付き携帯……。長髪とピアス……。 敬吾の躰がぶるぶると小刻みに震え始めた。何かを言おうして開いた口はからからに乾いて言葉を発することなど出来ない。それどころか歯の根があわなくてがちがちと音を立てる。 怖かった。 信じられないくらいの恐怖が敬吾の心を襲う。 あの時、あの場にいたときより、今の方がはるかに怖い。あの時、どうしてあんな事ができたのか……。 「敬吾?」 穂波が不審そうに呼びかける。それが合図のように敬吾は、その胸にしがみついた。 「穂波さん、穂波さん、穂波さん!」 幼い子供のように縋り付く敬吾に、穂波は唖然と目を見開いたが、一瞬後強く激しく抱き締めた。 その強さが心地よくてさらに縋り付く。 だが、穂波はそんな敬吾を苦しげに見つめていた。その口が躊躇いがちに開く。 「敬吾……カラオケボックスに居たんだろう……」 な、んで? 今度こそ、敬吾は心臓が口から飛び出るかと思った。 「穂波さん……何で?……」 誤魔化すことなどできなかった。思わず発した言葉が、敬吾がその場にいたことを如実に表していた。 「無理矢理だろ……無理矢理連れて行かれたんだろ……」 そう思いたいと懇願するような台詞。 それで穂波が何もかも知っていると判った。敬吾にとって一番知られたくなかった人に……。 両目から溢れた涙が、とめどめもなく流れ落ちてシーツに染みを作る。 「どうして……」 「敬吾、教えてくれ……君の意志じゃないんだろ?」 穂波がそれを言うのも辛そうに顔を歪める。 俺の意志? 意志なんて無かった……。 俺の意志なんかじゃない。それだけは、どうしても伝えなければならない。だから、その言葉にこくりと頷く。 「だったらいい。忘れるんだ……私が君を離してしまったから……」 「穂波さん……どうして……」 何故、穂波がそれを知っているのか? 想像が付かないわけではなかった。だが、頭がそれを強く否定していた。だが、穂波の返答は、否定したくて考えないようにしていたそのモノだった。 「敬吾……画像がね、送られてきたんだよ」 あれ、が? もしかしなくても、あの写真!あんな! 「が、画像って……あれ……そんな……嫌、嫌だっ!」 あれを穂波さんに見られたっ! 途端、頭の中がスパークした。 「送らないって!送りたくなかったらやれっていうから!だから、あんなことまで!」 敬吾の口から血を吐くような叫びが発せられ、穂波はぎりりと歯を噛み締めた。敬吾が何故、あんな事を受け入れたのかが穂波にもようやく理解できた。 「あんな、あんなの!見られたくなかった!だから、言われた通りにしたのにっ!あんなものまで、飲んで!吐き出させてくれなかった!達きたくなかったのに、達かされてっ!」 穂波の腕の中で敬吾がこれでもかと言うほど暴れる。錯乱した敬吾の目は穂波を捉えていない。振り回された手が穂波の顔に当たり、動かされた足が穂波の足を蹴り上げる。しかし、それでも穂波は敬吾に回した腕を放さなかった。 「敬吾!敬吾!」 宥めるように穂波が囁き続ける。何度も何度も。 「やだっ!…………見るなっ!もう、見るなっ!」 「敬吾、愛している。だから、もういいんだ」 耳元で何回も何回も、言い聞かせるように話しかける。「もういいんだよ」 それだけをただひたすら言い聞かせる。 ……穂波さん? 暗いどんよりとした世界。あの光景がフラッシュバックしていた敬吾の精神世界に、微かに聞こえてきた穂波の声が、敬吾の正気を呼び戻す。 虚ろだった瞳が、ようやく光を取り戻したかのように、穂波を探し出す。 「穂波さん……」 「もういいんだ。気にするなって言っても、これは君が忘れるしかないことだから、どうしようもない。だからと言って、君が私のことを気に病む必要はないんだ。君が何をしたからといって、私が君を嫌いになることはない」 「どうして……どうして」 「私を君を放り出したんだ。君が悩んで、ここに来る勇気が付かないと判っていて……そんな所をつけ込まれたんだろ。だから、私のせいだから、いいんだ」 「穂波さん……」 その言葉は穂波の口の中に消えていった。 噛み締めて赤く腫れた唇が、敏感にその感触を伝えてくる。背筋に走る甘い疼きは、今まで受けた口付けよりはるかに敬吾の心を弛緩させる。乾いていてささくれていた唇をするりと舐められ、しっとりと穂波の唾液に濡れた。 「辛かったろう……でも言って欲しかった。言って、整理をつけないと、ずっとずっと苦しむことになるから……辛いこととでも二人で共有すれば、癒されるのも早いからさ」 敬吾の目前で穂波がにこりと微笑む。 それだけで、敬吾の心に締めていた苦痛が癒されるのを感じる。 「穂波さん……」 「そればっかりだな、敬吾は」 穂波がくすりと笑う。 だって……それしか言えない。 穂波の言葉に少なからず癒されたと感じている敬吾。穂波が気にするなと言ってくれる。それだけでこんなにも嬉しい。それが言葉にならない。 潤んでくる瞳が、先ほどまでとは違う涙を流す。 「どうせなら、幸人って呼んでくれないか?君の口から、ずっとそう呼んでくれるのを待っているんだけどね」 幸人って……。 この人は何てことをいきなり言う! 途端に真っ赤になってしまった敬吾に、穂波は楽しそうに笑いかけた。 「言ってよ、ね」 甘えた子供のようにねだられて、敬吾は困ってしまう。 それでも穂波が敬吾のためを思っているのが判るから、だから小さな声で「ゆきとさん」と言ってみた。 だが、穂波は意地悪げにその口の端を上げる。 「聞こえなかったから、もう一度」 この人は! 絶対、根はいじわるな人なんだ、きっと! 促しながら嗤っている穂波に、敬吾は恨めしげな視線を送る。それでも待っている穂波に敬吾はやや不機嫌そうに眉をひそめてその言葉を発する。 「幸人さん」 今度ははっきりと。 すると穂波が嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。 その途端、敬吾の胸の中にじんわりと暖かい物が広がる。 「敬吾、愛してる」 その言葉に敬吾は訳も分からずその胸にしがみついた。
胸の中にしがみついてくる敬吾。 その姿を見るに付け、穂波の心に怒りがひしひしと沸き起こる。 こんな敬吾は見たくない。 敬吾はいつだって強い瞳を持っていた。 だが、今はどうだ。こんなにも怯えている。その瞳が強かろう筈がない。小さな子供のように怯える敬吾を、穂波はただ掻き抱く。 そこにあるのは、たぶん父性だ。 愛している。その言葉に間違いはない。俺は敬吾を愛している。 だが、この状態の敬吾をどうすることができよう。 だからこそ、敬吾をこんな状態に追いやった奴らが憎い。この手で八つ裂きにしてやりたいほど憎い……。 「幸人さん……」 しばらくすると敬吾が恥ずかしそうに顔を赤らめたまま顔を上げる。 躰の下に組み敷いた敬吾は、思ったよりも細い。 前に荷物を渡してふらついたとき意外に非力だなとは思ったが、この細さから推測するにつれ、筋肉があまりついていない。かといって、余分な脂肪が付いているわけでもない。 そのくせ、睨み付けるような視線が相手を刺激してしまう。 今のように怯えた目をされるのも、別の意味で相手を刺激してしまうのだろうが……。穂波は、ずきりと疼く股間に内心苦笑を浮かべる。 「どうした?」 それでも心の動きを悟られないように、微笑みかける。 「シャワー浴びたいんです……」 敬吾のひきつった顔。だから、それが穂波の期待する意味ではないことは想像できた。 奴らに汚された躰を綺麗にしたい、と敬吾は言っているのだ。 穂波は一瞬躊躇した。 「手伝おうか?」 その言葉に、他意はなかった。 敬吾を一人にしたくなかった。一人で自分の躰に起きたことを目の当たりにするような行為をさせたくなかった。 だが、敬吾はその言葉を誤解したようだ。 首まで真っ赤になって、絶句する。 穂波は、自分の言葉が足りなかったことに気が付いた。と、言っても他にどんな言葉がかけられるだろう……。 「そういう意味ではないんだがね……。ただ……君を一人にしたくない」 躰に回していた腕を緩め、敬吾の上に四つん這いになって躰を離す。 コートを着たままの敬吾が、その上気した顔で穂波に笑いかけた。 「大丈夫です……もう、大丈夫」 自分に言い聞かせるかのように繰り返された言葉。 だが、少しずつ戻りつつあるその瞳に宿る力が、敬吾の回復を如実に表してくれる。 穂波も笑いかける。 この子は、何も判らない幼い子供ではない。会社勤めをきっちりとこなしているしっかりした子だ。だからきっと克服できる。 俺は、その手助けなら幾らでもしてやる。 もし、それで俺とセックス出来なくなっていたとしても……。 穂波は最悪の事態を想定していた。 あの画像は、そういうシーンは無かったけれど……もし、そういう行為をされていたとしたら……敬吾は俺を受け入れることは出来ないだろう、と。 それでも、俺は敬吾を離したくないと思っている。 だから、どんなことでもしてやれる。 「……何かいるものはないか?腹減ったろう?何かコンビニで買ってこようか?」 「あんまり、空いていないです。あの……でも……」 笑っていた顔が、何かに気付いたかのように曇った。何かを言いたげに口ごもる。 「どうした?」 「自分で買いたい物があって。一緒に行っていいですか?」 その言葉に穂波は首を傾げた。 俺には頼めない物なのか?それにシャワーを浴びたいと言っていたのに……。 「そりゃ、構わないが……じゃ、行くか?」 確か、ホテルを出てずの信号を渡った所に逢ったはずだ。そう遠くもないし、気分転換になるかも知れない。 「はい」 ほっとしたように頷く敬吾。 穂波は敬吾の躰から避けようとして……その瞬間、敬吾が何を買いに行きたいか判ってしまった。 畜生っ! 一気に高ぶった怒りの衝動を必死で押し隠す。 敬吾の躰の上を動いたとき、微かに匂ったその嗅ぎ馴れた匂い。それが、あの三枚目の画像を脳裏にフラッシュバックさせた。 奴ら、そのまんま服を着させたのか! 何という屈辱をこいつに与えたんだ! ぎりりと音が出るほど噛み締めた歯。 この状態で、敬吾が穂波の元に来てくれたのは奇跡と言うしかない。どこの誰が、そんな状態で逢いたいと思うだろう。敬吾が、ドアの前で躊躇っていた様子が目に浮かぶ。敬吾にしてみれば相当の覚悟が必要だったはずだ。 あんなに帰りたがったはずだ。 「穂波さん?」 ベッドから降りた敬吾が、穂波の僅かな変化に気が付いた。 ああ、まずい。 その青くなった顔を引き寄せ、頬にキスをする。途端にその顔に朱が走る。 青くなったり赤くなったり……。ったく、この顔を朱に染まったままにしたいというのに……。 「気にするな。ところで金は大丈夫だったのか?」 「……」 途端に敬吾は唇を噛み締めて俯いてしまう。 「じゃ、貸しな」 その手に財布からとりだした1万を握らせる。 「すみません」 「気にするなって言っているのに。さ、行こう」 そっと、その背を押す。 本当なら貸しなんてこと言わずに幾らでもあげたいのだか、そんな事を言ったら、余計この子のプライドを傷つけてしまう。 穂波の傍らに立つ敬吾の腕をそっと取る。 気恥ずかしそうに眉をひそめている敬吾は、それでも穂波の手を振り解こうとはしなかった。
コンビニでいくつかのおにぎりやおかずを物色する。その間に敬吾は、目的の物をレジに持っていき金を払っていた。 ここに歩いてくる間、ぽつりぽつりと敬吾は何が起きたか語ってくれた。 一人でゲームセンターにいる所で声をかけられたこと。それを無視して立ち去ったが、出たところで捕まえられたこと。ナイフで脅され、連れて行かれたこと。 そこまでは、敬吾も話してくれた。 だが、肝心のカラオケボックスでの話は、決して口を開こうとしなかった。ただ、相手がカメラ付の携帯を持っていて、それで写真を撮られたから逆らえなかった……と辛そうにだけ教えてくれた。 穂波にしてみれば、今日の所はそれで充分だった。 だいたい、そこまで聞いた時点で自分に非があるのに充分すぎるほど気が付いてしまったから。 一人でゲームセンターで過ごさせるようなまねをしたのは自分。敬吾を帰るに帰れない状態に追い込んだのは、他ならぬ穂波自身。 それ以上の事、知りたいとは思ったが、まだ時期尚早だとは判っている。 レジで支払いをしながらも、ちらちらとこちらを窺っている敬吾。それでも、穂波は無視していた。気づかれたくないと思っているのだから、無粋なまねはしない。 帰ったら速攻でシャワーを浴びようとするだろう。それで、何もかも洗い流すことができるなら、それでいい。 敬吾がレジから離れるのを確認すると、穂波はかごを持ってレジに行った。 しっかりと買い込んだそれは、結構重い。 「これで足りるか?」 敬吾に声をかけると、それを覗き込んだ敬吾が目を丸くした。 「多くないですか?」 「そうか?」 この前、敬吾と食事をした時に、相当な量をぺろりと食べたからこれくらいいるかなと思ったんだが……。 それを伝えると、敬吾はくすりと笑みを浮かべた。 「それはまあ、食べられないこともないですけど……でも、やっぱり多いです」 「じゃあ、ちょっと減らすか」 おにぎりを3つほど戻す。 レジで精算している間、敬吾は雑誌の辺りでぶらぶらしていた。 袋を受け取り帰ろうと振り返るのと、敬吾が真っ青な顔をして腕を掴むのとが一緒だった。 「どうしたんだ?」 「あいつらがいる」 あいつら……ってあいつらか? その言葉に敬吾の視線を追う。 コンビニのすぐ外。駐車場の車のライトに照らされていたために中からよく見えるところに、そいつらはいた。 長髪の男と話をしているもう一人。 レジから離れ、雑誌コーナーから外を窺う。 「間違いないのか?」 そっと敬吾に問うと、敬吾は確信を持って頷き返した。 「間違いないです」 可哀想なほど青くなった敬吾。 あいつらか……。 穂波は、外の二人を窺い見る。 あいつらが敬吾をあんな目に遭わせた。 押さえてきた怒りがふつふつと沸き起こる。だが、今外に出れば一度目に付けた敬吾に構ってくるかも知れない。それはそれで、厄介だ。 「穂波さん……帰りましょう」 噛み切りそうなほど唇を噛み締めた敬吾が、腕を引っ張った。 確かにいつまでもここにいるわけには行かない。店員も胡散臭そうにこちらを見ている。 敬吾にとって、妙に勘ぐられるのも嫌なのだろう。 穂波は敬吾をその二人の反対側になるようにして店を出た。 だが。 「あれえ、あんた!」 長髪の方が、敬吾を見つけた。 ひくりと敬吾の躰が強張る。 「帰ったのかも思ったけど、まだこの辺うろうろしてんの?」 そのずいぶんと馴れ馴れしい物言いに穂波は、苛々とその男を睨み付けた。 敬吾だけ先に帰そうか……。 だが、そうは言っても敬吾が一人で帰るとは思えなかった。最悪なことに、ここの信号は長い。 二人がいいカモを見つけたというような顔で近づいてきた。 穂波は敬吾を庇うように二人の前に進み出た。 「何の用だ?」 「別に、おじさんには用はないよ。そっちのお兄さんに用事があるの」 ピアスをじゃらじゃら付けた男がへらへらと言う。 気に食わない。アクセサリーなんて、量を付ければいいってもんじゃない。 こんな馬鹿ども……どうやって料理してくれようか。 思ったより幼い顔立ちを見て取った穂波。 行っていて大学生か……。 穂波の頭が相手の力量を推測していた。 穂波は蔑んだ視線を向け、くすりと嗤う。その嗤いが二人を刺激した。 「なんだよ、このおっさん」 「なあ、この人あんたの知り合い?」 敬吾は口を硬く結んだまま、俯いていた。 ああ、そんなに唇を噛み締めていたら噛み切ってしまう。 敬吾を今の状態から一刻も早く連れ出さなければならない。穂波は、そう決意すると、敬吾の腕を取ると歩き始めた。 こんな目立つ所では駄目だ。 仕掛けられたすぐに喧嘩を買わないのは性に合わないが、それでも今は敬吾がいる。それに目立つとどこに知り合いがいるか判らない。自分はともかくそれで敬吾が噂の矢面に立たされるのは避けなければならなかった。 「逃げんのかよ!」 その言葉に肩越しに振り替えり嗤う。それがどんな効果を生むか、計算の上だ。 案の定、二人は追っかけてきた。コンビニの脇から裏通りに入る それだけで、いきなり喧噪から取り残されたような、人のいない路地に出た。そのすぐ先には、どろどろのヘドロにまみれた生活排水が流れ込む川がある。 駅前のショッピング&ビジネス街だから、周りは全てビルだ。こんな夜中に人はいない。 「ここならゆっくりと話が出きるな」 穂波は立ち止まると、怒りを抑えた低い声で二人に話しかけた。 敬吾が驚いたように穂波を見た。その彼に買ってきた袋を渡す。 「よくも敬吾をあんな目にあわせてくれたな」 あくまでも静かな声音。 だが、それだけで二人がびくりとひきつった。 こんなチンピラ。穂波が鼻で笑う。 ナイフを出したと聞いた時点で、大した奴ではないと踏んでいた。 「あんた、もしかして穂波って人か?」 「そうだが」 メールが送られたのだから、敬吾の携帯を見たことは判っている。名前が知られていて当然だと思っているから、そんな事には驚きなどしない。 「じゃあ、あんたがこいつの彼氏って訳か?」 「あんた、ホモなんだ」 「別に男しか駄目と言うことはない。女も男もOKだというだけだが」 笑みを浮かべながらそう言ってやる。 二人は穂波の対応が自分たちの思ったとおりならないことに、困惑し、口を開いては閉じる。 「だがな、敬吾はノーマルなんだよ。私が一方的に迫っているだけでな。まだ色好い返事を貰っていなかった……なのに、お前らはあんな事を強要したらしいな」 内心怒りが充満していたが、穂波はゆっくりと言う。 その方が相手に威圧感を与える。 現に男達は勝手が違う穂波を相手に明らかに戸惑っていた。 「まず敬吾から奪った金を返して貰おうか」 ずりっと一歩近づくと、男達が一歩後ろへ下がった。 長髪の方がポケットからナイフを取り出す。 「そんな物だしたって駄目だよ」 満面の笑みを浮かべる。「これで、何をしたって正当防衛だったって言い張れるから、こっちとしては良いんだけどね」 「あ、あんた、怖くないのかよ?」 「怖いって?何が」 くすくすと嗤う。 「何か拳法でも習っているのかい、君は?とてもそんな風には見えないねえ。その程度の腕で俺を倒そうなんて十年は早いね」 その言葉に相手の顔が恐怖で引きつった。 「ほら、お金くらいは返しなよ。まあ、この子をいたぶってくれたお礼に、君たちにも奉仕して貰いたいとは思うけどね、それは許してあげるよ」 楽しそうに……実はマジで楽しく、嗤う。 所詮はったりでしか強がれないガキどもだ。思う存分いたぶってみたい気がしないでもない。 だが、ここには敬吾がいる。 これから手に入れたいと切に願う人の前では、この辺りが精一杯。「穂波、さん……」 敬吾が、ひきつった顔を見せている。 そんな敬吾に柔らかく微笑みかけると、再び冷たい視線を二人に向けた。 「どうする?」 お互い顔を見合わせる二人に、ぐいっと近寄る。 と、長髪の方が穂波にナイフをつきだしてきた。 「穂波さんっ!」 敬吾の悲鳴が聞こえる。 だが、若いだけが取り柄のその男の反射神経は穂波の比ではなかった。軽くそれをかわされると、バランスを失ってたたらを踏んでいる。敬吾の前で手を付きかけたそいつに、敬吾が持っていた買い物袋の中からとりだした500mlのペットボトルを背中に思いっきり叩き付けた。 振り返りざま、もう一人の男めがけて投げつける。 避ける間もなく顔面に食らったそいつはもんどり打って倒れ伏した。 勝負は一瞬だった。 「出しなさい、ね」 背を強打されたせいで息苦しいのか、喘いでいる長髪の男に手を差し出す。 ひくりとその男の顔が引きつった。 その手の中にあった筈のナイフが、敬吾の手の中にあるのを見て取ったのだ。それが男に向けられていた。 「返せよ」 怒りに満ちた声が敬吾の口から漏れる。 眉間に深い皺が寄り、細められた目から漏れる剣呑な光。 「か、返すから……」 常に強い立場にあった者だから、痛めつけられることに弱い。 男がポケットから取り出した金を受け取る。 「ああ、それと二人とも携帯を出しなさい。それと免許証か学生証持っていないのかい?それも出して」 その言葉にこくこくと頷く二人から敬吾が奪うようにして、それを取り上げた。 出された免許証の住所と名前を手帳に書き留め、免許証だけは返した。 「これは、貰うよ」 「そ、そんな!手に入れたばかりなのに!」 ピアスの男が鼻血だらけの情けない顔を歪めて叫ぶ。 「どうせ、次機種がでたらすぐ買い換えるんだろ。その間くらい辛抱したら」 きっぱりと言い切ってやると、二人とも口を噤んで恨めしそうに穂波を睨んだ。 「俺はつきあいが広いからね。警察やら学校やら会社やら……いろんな所に出入りしているんだ。これ以上何か悪さをしたら、そっち方面から二度と悪さできないようにしてあげるからね」 くつくつと嗤う穂波に、二人とも完全に飲まれていた。 「どうするんですか?その携帯」 ナイフを持て余している敬吾に、折り畳むように伝えると、穂波はにっこりと嗤った。 「こうするのさ」 穂波は敬吾からナイフを受け取ると、携帯と合わせて川へと勢いよく放り込んだ。 男達の口から空気が吐き出された。その悲鳴とも付かない音が情けなく響く。 「ま、諦めきれないなら、がんばって取りに行ってくれ。最も携帯の方はお釈迦だろうけどね。ただね、こんな事で終われたこと、感謝こそすれ恨む筋合いではないよ。俺が本気で怒れば、君たち程度など、三ヶ月位寝たきりにする程度には痛めつけることなど容易いのだから」 最後の脅し文句が効いたのか。 その二人は決して後を追ってこようとはしなかった。
驚いた。 常に堂々と立ち回っていた穂波。敬吾はただ、その姿を見つめるばかりだった。 倒れて唸る自分を襲った男達の情けない姿に溜飲が下がる。心の中を占めていたもやもやとしたものが霧散する。 改めて、穂波を見直す。 「穂波さん……」 そんな敬吾に、穂波は笑いかけると、 「ほら」 とポケットに取り戻した金を突っ込んできた。 「ありがとうござまいます」 嬉しかった。 お金が戻ってきた、というその事より、穂波が前と変わらぬ態度をとり続けてくれるというその事が。 「さ、帰ろうか」 穂波の言葉にコンビニの袋を持ち直すと、信号を渡る。 穂波は自分が何をコンビニで買ったのかを知っている。何も言わない、何も見ていないのに……気付いているにもかかわらず、それを口に出すことはなかった。それが嬉しい。そして、申し訳なく思う。 どうして俺なのか? ふと、そう思った。 ホテルのロビーを通り抜け、エレベーターに乗る。 その狭い空間に、穂波と二人きりでいると心臓がどくどくと激しく鳴り響く。先ほど降りるときに使ったときよりはるかに顕著な動きを示すその心臓に戸惑いを覚える。 だけど、先ほど浮かんだ疑問が脳裏に占める。 いつだって威風堂々としている穂波が、何故自分を選んだのか? まるで仕掛けられたゲームのように、心を穂波に捕らわれてしまったけど、何故そういう状態にしようとしたのか、まだ穂波の口から何も聞いていない。 ただ、いつだって、穂波は優しい。 部屋に戻った穂波が、敬吾に笑いかける。 「シャワー浴びるんだろ。私は、少し食べているから、ゆっくりしておいで」 その言葉にほっとしながら、頷いた。 敬吾は、そのまままっすぐにシャワールームに入った。 入った途端に不快な感触が甦る。 急いで、全ての服を躰から脱ぎ去った。汚れた下着は、コンビニの袋に詰め込んできつく縛るとゴミ箱に放り込んだ。見たくもなかった。 水温を熱めに設定すると、それを全身に浴びる。 とにかく洗い流したかった。 髪の先から足の先まで、あいつらに関わってしまった事全て。 記憶は消せない。忘れることなど当分出来ないとは分かっている。だけど、隠すことも気にしなくすることも出来るはずだ。 あんな奴らのせいで、今の自分を壊したくなぞなかった。 だから、洗い流す。 泡立てたシャンプーで髪を洗う。フローラルな香りのそれで、何度も何度も洗う。流した泡が躰を伝い、排水溝へと消える。泡が消えた髪を後方へとなでつけ、水を搾り取る。 それだけで、ほっと気分が楽になった。 今度はボディシャンプーを思う存分泡立て、それで躰を洗う。 奴らに汚された躰。 傷ついた手の甲と、縛られて擦過傷ができた手首にボディシャンプーが染みる。思わずしかめた顔にぽたぽたと滴が落ちる。 痛みを感じる。 その手を目前にかざす。 こびりついた血が洗い流され、一本の線がそこに浮かんでいた。 二度と、あんな目に遭いたいとは思わない。だから、肝に銘じる。 もうどんな事があっても、そういう場所には一人で近づかない。それは自分のためにも……そして、穂波さんのためにも。 先ほどの穂波の勇姿を脳裏に思い描く。 ほおっと漏れる息。 強かった。 自分に自信を持っているんだと、判った。だが、元はと言えば敬吾が起こしたこと。彼にその尻拭いをさせてしまった自分が情けない。何も出来ない内に終わってしまったその事も、実は少なからずショックだった。 強くなりたい。 本当にそう思った。 穂波の腕に抱えられたとき、その力強さに驚いた。いつだって抱き締められると敬吾には逃げようがなかった。 もう……逃げようとは思わないけど……。 自嘲めいた笑みを口元に浮かべる。 降り注ぐシャワーが躰に付いていた泡を洗い落とす。その線の細い……いいかえれば筋肉のない躰が鏡に映る。 「本当に、もうちょっと鍛えようかな」 今度何かあったときには自分から逃げられるように。 もう……あんな目に遭うのは嫌だから……。 ゆっくりと時間をかけてシャワーを浴びてきた敬吾なのに、穂波は食事を一つも手に付けていなかった。お茶やジュースのペットボトルの封すら切られていない。 穂波が待っていてくれたのが判ってしまう。 「すみません。先に食べていてくれてよかったのに」 ふと気が付くと、棚の上にルームサービスで頼んだのであろう食事が、手も付けられずに乗せられていた。 俺が来るのをずっと待っていてくれたんだ。 敬吾は申し訳なく思いながら穂波に視線を移す。 「別に気にしなくていいんだよ」 そう言っていつもの笑顔を敬吾に向ける。「それに一緒に食べた方がおいしいし、君の食べっぷりをまた見たいしね」 軽くウィンクされ、敬吾は顔を熱くなるのが止められなかった。 実は敬吾はやせの大食いとしては会社では有名なのだ。穂波が前回の接待での敬吾の食べっぷりのことを言っているのが判る。 穂波が敬吾に椅子に腰掛けるように促す。 「さ、食べよう。運動したら腹が減った」 「はい、いただきます」 食欲が無いと思っていた。 だが、実際におにぎりを手に取り袋を取り外すと、猛烈にお腹が空いてきた。思わずぱくついていると、穂波が笑う。 「いい、食べっぷりだな。安心したよ」 安堵した、と、穂波の表情が言っていた。 本当に心配をかけていたんだと敬吾の胸が痛む。 きっとシャワーに入っている間も心配してくれていたんだろう。だから、穂波は食べていないのだ。 「ご迷惑をおかけしました。俺、もう大丈夫です。あんな奴らに言い様にされて、それで自分を駄目にしたいとは思いませんから」 そう、負けたくない。 理不尽な行為に負けて、これからの人生を不意にするようなことはしたくない。 「君は、強いね」 穂波が言う。 強い……? その言葉に首を傾げる。 「ああ、精神が強いって言う意味だよ。いつも思っていたけど、君の目は力がある。瞳の中の力が、とても生き生きとしているよ。それは君の心の強さなんだね。そして私は、その瞳に惹かれたんだ」 瞳? そういえばあいつらも言っていた。 俺の目がいいと……。 「穂波さん……あいつらも言っていたんです。俺の目がいいと……。屈服させたいって……」 ふっと脳裏にその情景が思い浮かんでしまう。 それを無理矢理、圏外へ追い出した。 「……悔しいが、同感だね」 穂波が本当に口惜しそうに言う。思わず見つめてしまったその視線の先で、穂波が口元を引き締めた。 「君は気付いていないかも知れないけど、君の目はね、人目を引くんだ。それでなくても結構今風の整った顔立ちだろ。だけどなよっとした所が感じられないのは、その強い力を持つ瞳のせいだよ。だからああいう輩が君に興味を抱いてしまう。気をつけなさい」 とつとつと言い含めるように穂波が言う。 そうなのかも知れない。 今までだって妙な連中に言いがかりを付けられたことは合った。ただ、幸いにして逃れることが出来たって言うだけのことだ。 「気をつけます」 言っては見るものの、だからどうしようって言うのは思いつかない。 「それでいい」 穂波が笑う。それを見ると敬吾はほんわりと胸が熱くなった。顔が火を噴きそうな感覚に、思わず俯いて持っていたおにぎりを口に放り込む。 ぱくぱくと食べていると、穂波のくつくつと笑い声が聞こえた。それに気づき顔を上げると、穂波が堪えきれない笑いに身を捩っていた。 「穂波さん、何ですか?」 「いや、いい食べっぷりだなあ、と……」 言われてはっと手元を見ると、勢いに任せて5つ目のおにぎりにかぶりついたところだった。 「やっぱり最初の量で足りてたみたいだね」 笑われて赤面する。 いい加減食べる量の多さを指摘されるのには馴れていたが、穂波に言われると妙に気恥ずかしい。 「俺、昔から食べる量だけは多くて……そのくせ太らないんです」 「ああ、細いね、君は。今度、私と一緒にスポーツジムにでも行かないか?」 「穂波さん、いつも行っているんですか?」 先ほどの穂波の身のこなしを思い出しながら問う。躰を動かすことに馴れている動き。 「ああ、どうせ休みの日は暇だしね。それに……」 穂波が言いかけて口ごもった。 「何です?」 穂波が口ごもったのは初めてだった。つい言わなくても良いことを言いそうになったという雰囲気に興味をそそられる。 穂波は、しまったというように眉をひそめたが……ふと思い直したように、にやりと笑った。 「ジムに行ってね、いい子がいないかなあって物色したりしていたんだよ」 その言葉に敬吾は絶句した。 いい子って……。 胸の奥がちりちりと焼けこげるような痛みに襲われる。 「くすっ。気になる?」 からかうような声音に、敬吾はムッして睨む。 「別に」 苛々とおにぎりを口に放り込む。ろくに噛みもせず嚥下していると、穂波がその手からおにぎりを奪い取った。 「気になるんだろ」 ふと気が付くと、穂波が椅子から腰を浮かしその顔が目前にある。 かっと顔が熱くなる。 「だからさ、今度から一緒に行こう。君が見張ってくれないと、どこかの別の子にちょっかいを出すかも知れないよ」 目と鼻の先で穂波が甘く囁きかける。 どきどきと心臓が高鳴る。 「穂波さん……」 喘ぐように言葉が漏れる。 「幸人だろ」 数センチ先で穂波の口が優しく動く。 思わず目を瞑った敬吾の口に濡れたその唇が押しつけられる。だが、それは一瞬後にはすっと離された。目を開くと、先ほどと同じ場所に穂波の顔があった。 「ゆきと……さん」 呆然と呟く目前で穂波が再度口を開く。 「一緒に行くね」 その言葉にこくりと頷く。そう言わざるを得ない物を感じた。 「よかった」 敬吾が承諾したのを確認した穂波はにっこりと笑うと、今度はその手を敬吾の頭に回して強く口付けてきた。 熱い……。 躰がかあっと火照ってくる。 アルコールを摂取した後のようだ……。酔いにも似た高揚感を味わう。 かたんと椅子の倒れる音が遠くでした。
穂波がぐいっと敬吾を抱き寄せた。 邪魔な机が、穂波の手によって脇に動かされる。かたんとペットボトルが倒れて、床に転がった。 半端立ち上がるようにして抱き締められ、きつく唇を吸われる。甘い疼きが下半身に走り、がくっと膝が抜けそうになった。慌てて穂波の躰に手を回す。 「ずっと待っていた、このときをね」 唇を離した穂波が、敬吾の耳元にそれを移動させ、囁く。 「君を初めて見たときから、ずっと……」 吐息と言葉が、敬吾の耳をくすぐる。 その度に走る疼きに腰まで砕けそうになり、穂波の躰に回した手に力を込めた。そうしないと床に崩れ落ちてしまいそうだった。 「私はね、篠山さんに嫉妬したんだよ。君が、あんなにも気にしていたから。まだ諦め切れていないんだ、って……悔しかった。だから、つい衝動的に君を放り出してしまった。すまない……」 篠山さんに嫉妬? 俺が、気にしたから……。 でも俺だって篠山さんに嫉妬した。 穂波さんと二人で並んでいたら、お似合いだったから……。 「だけど、君はまだ私に言葉をくれていないだろう?だから不安があるんだ。あんな事があったから、ここに来ているんじゃないか……。流されているだけじゃないかって……」 そんな事ない……。 言葉にしたくて、でも走る甘い痺れに口を開くと喘ぎ声が出そうで、敬吾はただ歯をきつく噛み締めていた。 「敬吾……」 ふっと穂波がすり寄せていた顔を離した。 触れあっていた温もりが消え、ヒンヤリとした空気が頬に触れる。 「あっ……」 その温もりが恋しくて、つい口に出そうになった。 それに気づき、慌てて唇を噛み締める。火を噴きそうに熱い顔を俯かせる。 「君を抱いていいかな?私は、君を愛したい……」 その言葉が耳に入った途端、背筋から下半身に向かって熱い疼きが走った。 思わず掴んでいた手に力が入る。 どうしよう! 頭がパニックを起こしていた。 こんな事は初めてだった。自分が自分でコントロールできない。 返事をしなくてはいけなのに、躰が動かない。びくりともしない敬吾に穂波が首を傾げる。 「敬吾?」 穂波の手が顎にかかり、無理矢理上向かされた。 目と目が合う。 途端に顔が火を噴いた。全身が熱くて、心臓がどきどきと高鳴る。頭の中をどくどくと血流が音を立てて走る。それが煩い。 穂波の瞳はいつものように見えて、だがその奥底にある強い欲情が敬吾にも伝わってくる。敬吾はどうしていいか判らなくて視線を泳がせた。 ここに来るということは、そういう事なんだと判っていた。 それでもきてしまったのは、あいつらのせいではない。 ただ、自分が来たかった。 穂波の元を訪ねて……聞きたくて……。 「穂波さんは……俺のどこがいいんです?」 動こうとしない口を必死で動かす。 声が震えて掠れた声しか出ない。 「君の目かな。言ったろう、君の強い瞳の力。今時の子にはない、意志の強さを感じたからかな。初めて合ったときから、君の瞳は自分に正直だったしね。篠山さんを手に入れたいと、それを邪魔する者をはっきりと敵視していたから。そんな強い瞳を持つ子を自分のものにしたいと……思った。そう……最初は好奇心だった……」 好奇心……。 やっぱり穂波さんにとって俺はそういう対象なんだ……。 途端に目の奥が熱くなる。 「あ、ああ、勘違いしないでくれ」 敬吾の顔がしかめられたのを見て取った穂波がそっと笑いかける。 「最初はそうだったかも知れない。だけど、改めて逢った接待の日。思わずキスしてしまったあの時、私は君の虜になった。あれは、自分の正直な気持ちだよ。君が欲しくなった。手に入れたいと思った。君のことをもっと知りたいとも思った。もっとも、強引すぎて君に嫌われる寸前だったけどね」 くすりと嗤う穂波。 俺の虜? 俺を手に入れたいって……どういう意味? 穂波の言葉が、耳から頭に入っていっているはずなのに、どこか夢の中で囁かれているように感じる。 この人は、何を言っているんだろう……。 ずっと聞いてみたいと思っていた言葉を言ってくれているのに関わらず敬吾はどうしてもそれを頭の中にとどめることができなかった。 先ほどから、穂波の手が敬吾の躰のラインをゆるゆるとなぞり続けていた。それが、敬吾の思考を邪魔する。 するりと穂波の手が背骨のラインを上から下に服の上からなぞられた。 「んっ……」 びくんと仰け反る躰。 その躰をきつく抱き締められる。 どうして…… どうして、触られるだけでこんなにも感じてしまうのか……。力が入らない足を懸命に踏ん張る。それでも穂波の腕がなかったら、倒れてしまいそうだった。 「敬吾、愛している……」 仰け反っていた顔に穂波が口付ける。 額から頬へ、そして唇についばむように降ろされたそれ。 「穂波さん……」 呟くその言葉を、穂波は微かに嗤って「幸人だ」と訂正する。 そんな笑いですら、ああ穂波さんだ……と魅了されている自分がいる。 自分が穂波の事をどう思っているか、なんて、とっくの昔に判っていた。 だから、ここに来たのだから……。 「……ゆきとさん……」 もうどうなってもいい……。 敬吾は背を伸ばし、僅かに離れていた穂波の唇に自らの唇を押し付けた。 「愛しています」 その言葉と共に。 ふわりと浮いた躰に敬吾は思わず穂波の躰にしがみついた。 倒されるようベッドに押し付けられる。上にのしかかられ、その重みで躰がベッドに沈む。 「敬吾……」 喘ぐような声が耳朶を打った途端、耳朶を甘噛みされた。 「んっ」 その刺激に喉から漏れる声が止められない。それがさらに敬吾自身を煽る。 首筋のラインに暖かい物が触れ、硬く尖った先でするりとつつかれる。 穂波の手が性急に動き、シャツの裾から直に肌に触れてきた。 「や、あ……」 そのざらりとした掌が脇腹を擦るように動く。敏感なラインを撫でられ、敬吾の躰がびくりと反応した。触れられた所が熱く熱を持つ。 自分の躰があまりにも敏感に反応するのが怖くて、穂波にしがみついていた。 大学時代には彼女だっていた。数度ではあるが、そういう行為をしたことだってある。だが、自分が受け身になるのは当然ながら初めてで……訳も分からないうちに翻弄される自分に驚きしかない。だが、それも次から次へと躰を襲う疼きと快感に、どうでもいいという気分になってくる。 「んくっ」 硬くなった股間のものを穂波の膝がぐいっと刺激する。 「敬吾……」 穂波の呼びかけにきつく閉じていた目を開けると、その顔が目前にあった。 誘われるように手を伸ばし、キスをする。 するっと入ってきた舌が、敬吾の口の中で舌を捕らえようと蠢く。きつく吸い付かれ、絡め取られた舌からですら、鈍い痺れに似た快感が全身を襲っていた。 「んんっ」 胸から伝わる一際きつい刺激に、耐えきれなくて声が漏れる。無意識の内にそれを遮ろうとした両手がひとまとめにしてベッドに縫いつけられた。力強い穂波の手の力に、敬吾は抗う術がない。 もう片方の手が、敬吾の胸の突起を摘み、つぶすように押さえつける。その度に走る刺激に、敬吾は口を閉じることができなかった。だが、そこから漏れる声は、全て穂波の口内に消えていく。 息苦しさに思わず首を動かした途端、蹂躙されていた舌が開放された。顔を横に向けたまま喘ぐように息をする。と、一旦は離れていた穂波の舌が今度は首筋から肩にかけて這わされた。 「あ、あ……」 穂波の愛撫は、敬吾の感じるところを余すことなく見つけ、よどみがなかった。 既に離されていた両手が躰の横できつくシーツを掴み皺を作る。その間にも、穂波が片手で器用にシャツのボタンを外していく。その間にも、もう一方の手が止まることはない。 「ゆ、きと、さん……」 潤んだ瞳が、穂波を捕らえる。 「可愛いよ、敬吾」 劣情に染まった瞳で見つめられ、自分の痴態をその目の中に見てしまう。 「や、だ……」 強く否定しようとして、結局甘く喘ぐ声にしかならない。それすらも羞恥を煽る。 強く首を振る敬吾の躰がびくんと跳ねた。 股間に直接触れた手を感じたからだ。 「あ……」 気づかないうちに、スラックスの前を緩められていた。下着の中に潜り込んだ手が、敬吾のモノを柔らかく掴み、上下に扱く。 びくびくと反応するそれに、敬吾は戸惑いを隠せなかった。 自分でするよりはるかに感じるその行為。 だが。 「敬吾……あいつらとどっちが感じる?」 耳元で囁かれたその言葉の意味を脳が理解した途端、熱くなった躰が一気に冷める。 脳裏にフラッシュバックする記憶。 ひっ! 「い、やあああっ」 あの時の嫌悪と恐怖が一気に躰を襲う。身を捩って逃れようとする敬吾を、穂波が心得ていたように押さえつけた。 「大丈夫だ、今しているのは私だから……ほら、私の声を聞きなさい」 安心させるかのように囁く声。 あ……幸人さんの声……。 「今、君を抱いているのは穂波幸人だ。ちゃんと私を見て……認識しなさい」 その言葉に、敬吾は涙に濡れた目を開く。 目前にいるのは、笑みを浮かべた穂波だった。 「今、君のモノを握っているのは、私の手だよ。それで、君は感じている。こんなにも、感じて濡れている」 掌と指で、先端を刺激され、びくんと躰が震える。萎えかけたモノが最前よりさらに硬度を増すのが自分でも判る。 「幸人、さん……」 「ほら、今、君を刺激している手は私の手だ。私だけを感じなさい。さあ……」 直に触れたその手と言葉で敬吾の躰は翻弄されていた。ぬぐい去れていなかった記憶が、穂波の言葉にすり替わっていく。 俺のモノに触れているのは、幸人さんの手。 俺を抱いているのは、幸人さん……。 ここにいるのは、幸人さん……幸人さんだから……感じている……。 「んくう……あ、やあ……」 敬吾の記憶から徐々にあの時の嫌悪が消えていった。 全てが穂波の行為へとすり替わっていく。 「愛している、敬吾」 「あ、ああっ」 一際激しく扱かれ、敬吾は堪えることもできずに達ってしまった。 びくびくと小刻みに震える体を、穂波が優しく包み込む。 「……ゆ、きと、さん……」 生理的な涙が頬を伝い、それを穂波がそっとぬぐい取る。 「覚えておきなさい。君がどんな目に遭ったとしても、それでも私は君を愛している。どんな時でも君を抱くのは私なのだから……あいつらに与えられた記憶など、全て私が消し去ってあげる」 穂波の言葉に敬吾はただ頷くだけだった。
手の中に吐き出された敬吾のモノ。そのままの手をそっとさらに這わせる。 その意図を感じ取った敬吾が身を捩り、逃げを打とうとする。 「大丈夫だから」 その身体を包むように抱き込み、敬吾自身の動きを借りて、敬吾を俯せにする。 半端降ろされたスラックスを、下着ごと完全に脱がした。 羞恥心に捕らわれているであろう敬吾が、顔をシーツに埋めている。 穂波の目の前には白い双丘が、誘うようにさらけ出されていた。 それにそっと手を這わせると、敬吾の躰がびくりと跳ねる。 半端脱げかけたシャツが、敬吾の腕と背に絡まっているのを引き剥がす。そうしてから、穂波は自分の来ている物を全て取り去った。 そして、再度敬吾の躰の上に覆い被さった。 直接触れあう互いの肌が熱く熱を伝え合う。 既に硬く大きくなったモノを敬吾の躰に押し付けると、敬吾がびくりと顔を起こした。その怯えたような中にもどこか熱を含んだ瞳が穂波を射る。 それだけで、穂波は耐えきれない想いに誘われる。 このまますぐにでも敬吾の中に入りたい想いを必死で抑える。 先ほど僅かに触れた敬吾の後ろは固く閉じられている。 どうやら、あいつらはそこまでの行為はしていなかったらしい。 穂波は心底ほっと安堵した。そして、だからこそ、最初が肝心だと肝に命じていた。 敬吾にとって初めてであろうその行為。無理にすれば敬吾に痛みしか与えることはできない。それは、敬吾を怯えさせ、警戒させる。それは絶対に避けなければならない。 穂波は念のためにと用意しておいたジェルを枕元に隠した。 そして、目前の背筋にそっと舌を這わせる。 一度快感を覚えた躰が、敏感に反応する。 敬吾の躰は、穂波の愛撫に驚くほどよく反応した。 それが楽しい。 自分の手で、愛おしい相手が翻弄している。もっと苛めたくなる。もっと喘がしたくなる。 穂波は、すぐにでも入れたくなる気持ちを、そちらの方に向けて堪えていた。 「敬吾……腰を上げて」 僅かな隙間から、手を腰の下に回す。 ぴくりと動いた腰が、誘うかのように浮いた瞬間を見計らって、敬吾のモノをその手に柔らかく握りしめた。 躰に施された愛撫に、わずかに固くなり始めていたモノが、一気に硬度を増す。 「ん、くう……」 シーツについた手が、固く握りしめられた。 くぐもった声が、ベッドに響く。 穂波は、その様子を窺いながら、ゆっくりと敬吾のモノを揉み解していく。その一方で、そおっと敬吾の双丘に手を這わせた。 割れ目に添ってゆっくりと目的地に指を進める。その固く窄まったそこをつんとつつくと、敬吾の躰がぶるっと震えた。 「幸人さん……」 微かに漏れる声と共に潤んだ瞳が、穂波に向けられる。 「力を抜いて」 その言葉が聞こえているであろうが、敬吾の躰に変化はない。 無理だろうとは思っていた。 何もかもが初めての行為。 穂波は敬吾のモノを揉みしだいていた手を離して躰の下から抜き取った。 それを追うように敬吾の視線が動く。 不安に彩られたその横顔に口づけを落としながら、穂波は手の中にたっぷりとジェルを取った。 その手を再び双丘に這わせる。 「何?」 冷たいぬるっとした感触に、敬吾が半身を起こした。振り返ろうとするのを、空いた手で押さえてベッドに押し付ける。 「大丈夫だよ。このままでは痛いからね」 押さえた肩口から背筋に添って舌を這わしながら語りかける。 ジェルの力を借りた指が、ずるっと敬吾の中に入り込んだ。 「ひっ!」 その異物感に敬吾が逃れようともがく。 だが、それを許す穂波ではなかった。 躰全体で押さえつけるように敬吾をベッドに縫いつける。 「大丈夫だよ。任せなさい」 いやいやするように逃れようとする腰を抱え込み、その手で敬吾のモノを掴むとゆっくりとしごき始めた。 ゆるゆると扱くリズムに合わせて、指をゆっくりと抜き差しする。添えた他の指で時折周りをつつき、舌で敬吾が感じるところを責め立てた。 「ひ、い……く、……」 敬吾の喉から漏れる声が、部屋の中に響く。 抱え上げられた腰のせいで、敬吾は四つん這いのようになっていた。が、躰を支えていた敬吾の手ががくがくと震えている。 力が抜けかけているその手に、穂波はふっと微笑む。 「ああ」 敬吾のモノの先端を爪で軽くつついた途端、敬吾の腕から力が抜けた。突っ伏すように上半身を倒す敬吾。 濡れた音を立てるそこに穂波は指を増やした。 「やっ!」 さらにきつく締め付けるそこに深く指を入れ、内部をまさぐる。 その行為が違和感しかもたらしていないのは判っているが、止めるつもりは毛頭なかった。 「んくうっ」 びくんと敬吾の躰が震えた。見開かれた瞳が呆然と穂波に視線を移す。 穂波は僅かに口の端を上げると、敬吾が反応した場所に指を伸ばした。 「あ、ああ!」 びくびくと反応する敬吾。 ここか……。 穂波はその場所を記憶するかのように、何度も探る。その度に敬吾が耐えられないように頭をシーツに擦りつけていた。 「うう、あっ、やあ……」 指をぎりぎりまで抜き、もう一本増やしてぐいと差し込む。 痛みを伴うはずのその行為に、敬吾は気づいていなかった。 ただ、内部の一点をつつかれる度に、堪えきれない声を漏らす。 「敬吾、いいだろ……君の中がとても熱い……」 がくがくと揺れる腰。力無く倒れようとするその腰を無理に上げさせ、穂波はゆっくりと指を動かした。 熱く絡んでくる内壁がジェルで充分に潤っているのを確認すると、穂波は自分の猛っているモノを敬吾の後孔に充てた。 ずるりと指を抜く。 その感触に敬吾が虚ろな視線を背後に向けたのと、穂波が腰を進めたのが同時だった。 「あっ」 ぐいっと差し込まれた衝撃に、敬吾が逃れるように動く。 それをベッドに押し付け、その腰を引き寄せた。 「い、痛いっ!」 ぐいっと差し込むたびに上がる悲鳴。 指で解されたとは言え、それでも穂波のモノを受け入れるには敬吾の後孔はきつかった。その痛みが、締め付ける力となって穂波のモノを襲う。 あまりのきつさに穂波にも痛みが伝わり、顔をしかめる。 「け、いご……力を抜くんだ……」 だが、敬吾は痛みに耐えるように歯を食いしばり、指が白くなるほどきつくシーツを握りしめている。 穂波は、手を伸ばし萎えかけていた敬吾のモノを柔らかく包み込んだ。 ゆるゆると扱くその動きに、敬吾が感じたのか少しずつ内部の締め付けが緩んでくる。 「んんっ……」 白くなっていた拳に、色が戻ってくる。 「敬吾、愛してる」 背筋に舌を這わせながら、甘く囁きかける。 「あっ……幸人さん……」 痛みに溢れた涙がぽとりとシーツに落ちた。 痛みは相当な物だろう。 だが、ここで引き返すことはもうできなかった。 「もう一度我慢しなさいね」 言葉と共に、ぐいっと腰に力を込めた。 「ひいっ!」 仰け反る背に口づけを落とす。 完全に差し込まれた穂波のモノをぐいぐいと締め付けるその感触に、穂波は痛みとともにえもいわれぬ快感を感じていた。 あれだけ欲した敬吾の中に入っているというそのことが、穂波を満足させていた。 ぶるぶると小刻みに震える躰を愛おしげに抱き締める。 「敬吾、愛している」 扱く手を激しくすると、痛みの声とは別の声がそれに混ざる。 穂波はゆっくりと腰を動かした。 「くうっ」 喉から漏れる声が、痛みのモノだとは判っている。 無理を強いているのは判っているのだが……。 「ごめん、敬吾。私は我慢できない」 ぽろぽろと敬吾の目から流れ落ちる涙。だが、それでも敬吾が必死に耐えてくれているのが判る。食いしばった歯も、固く閉じられた目も、強張った躰も……今の行為が痛みでしか無いことを表している。 それでも……。 「敬吾、敬吾」 久しぶりの行為と締め付けられる内壁に刺激され、穂波のモノが呆気なく弾けた。穂波も我慢する気はなかったから。 時間をかけても、敬吾の痛みはなくならない。 だが、弾けた瞬間、敬吾がその躰を小刻みに震わした。 微かに漏れた吐息にも似た声が、敬吾が感じたときの声だと穂波には感じられた。 緩んだ穂波の手から、敬吾の腰が崩れ落ちる。 そのため、ずるりと穂波のモノが抜けた。 「んっ」 その刺激に敬吾の口から甘い声が漏れる。 力無く臥せられた躰を穂波は仰向かせた。 虚ろに開かれた目を覗き込むと、敬吾が恥ずかしそうに視線を逸らした。 「すまない、痛かったろう?」 穂波の言葉に、敬吾は何も言わずに微笑んだ。その手が、穂波の躰に回される。 「痛かったけど……なんか幸せだと思った」 耳元で囁かれた言葉に、穂波の下半身が性懲りもなく反応する。 「じゃあ、もう一度するか?」 その言葉に敬吾が息を飲む。 困ったようなその表情に、穂波は笑いかけた。 「そのうち、もっと気持ちよくなるよ。感じなかった訳ではないんだろ」 確かに聞こえた微かな喘ぎ声。 穂波の言葉に、敬吾は真っ赤になって横を向いた。 図星か……。 くすくすと漏れる笑いに、敬吾がむっと口を尖らせた。 「意地悪ですね、幸人さんは」 「意地悪?こんなにも優しくしたのになあ」 いかにも心外だというように、声をかけながら、その手は敬吾の躰をまさぐっている。 「ん、やだ、やめてくださいって」 逃げようとする躰を押さえつけ、穂波はその唇を捕らえた。 舌を差し込み、口内を貪る。 敬吾の喉から漏れる息が熱くなるに連れ、その躰から力が抜けていった。
人の話し声にが、夢現な敬吾の頭に入ってきた。妙に気怠い躰を動かした途端に躰の芯に走る鈍い痛み。 「んっ」 その痛みに急速に頭が冴えてくる。ぼんやりと開いた視界の先で、穂波の姿を認めた。 話し声は穂波がどこかに電話している声だった。 ホテル備え付けの浴衣を羽織ったその後ろ姿を見るとはなしに眺めていると、穂波がかちゃんと受話器を置いた。 振り向いた穂波と視線が合う。 途端に顔が火を噴いた。 例えようもない恥ずかしさが敬吾を襲う。 「おはよう。よく寝ていたね」 穂波がにこやかな笑みと共に話しかけてくる。それを無視することはできなくて、敬吾は半身を起こそうとした。 と。 腰に力が入らなくて、ぐらりと躰が傾く。 それを穂波が慌てる風もなく、脇に手を入れて支えた。その手に縋り付く。躰が自分の物ではないような気がした。 「す、すみません」 触れられた所からかっと熱が上がる。 高鳴る心臓に息苦しさを覚えつつも、敬吾は必死で平静を保とうとした。 「寝ているといい。腰に力が入らないだろ」 何もかも判っている、と言った穂波の言葉に敬吾はただ恥ずかしくて、しかし従うしか術はなかった。本当に力が入らない。動くたびに走る鈍い痛み。しかもお尻の方のじくじくとした痛みを自覚すると赤面するのを押さえられない。穂波の手で横たえられ、沈み込んだ枕にこれ幸いと顔を埋める。 その背を穂波がそっと叩いた。 「チェックアウトを伸ばして貰った。ぎりぎりまで寝ているといいよ」 先ほどの電話はそれなのかと気付く。その手際の良さに感心してしまった。 「幸人さんは、こういうの慣れているみたいですね」 なんだか、何もかも知られているのが恥ずかしい以上に悔しくて、わざとそんな事を言う。 だが、穂波はそれに軽く笑みを浮かべて何も言わなかった。 その代わり、そっとベッドに腰掛けると敬吾の頬にすっと手を添えた。 それだけで、そこから甘い疼きが全身に伝わる。 数時間前の全身を襲っていた快感を躰が覚えているのだ。敏感になっている躰に、敬吾は固く目を瞑って耐える。 「や、やめて……」 するりとなで上げられ、溜まらずその手を押しのける。だが、逆らおうとした手を穂波に握られ、躰を開くように仰向けに枕元に押し付けられた。 真正面に穂波の顔が迫る。 「あ……」 目前で穂波がにこりと笑った。 「意地悪な事をいう口は塞がないとな」 その言葉が終わるか終わらないうちに言葉通りに口を塞がれる。 差し入れられた舌が口内をまさぐる。それだけで、敬吾の躰は一気に高ぶった。 「あ、ああ……」 こんなことって……。 自分の躰の高ぶりが信じられない。 疲れ切っている筈の躰が、穂波を求めて熱く疼く。 「ん……ふっ……」 漏れる声が甘く誘っているようで、敬吾は羞恥に全身を紅潮させていた。 穂波が唾液の糸を引きながら、敬吾から離れた。 「いい声だ……聞いていると、また君を抱きたくなる」 甘く囁かれ、敬吾は潤んだ瞳を穂波に向けた。 抱かれたい……。 ふっと脳裏に浮かんだ言葉。 あ、俺って! そう思っている自分を認めることが溜まらなく恥ずかしくて、敬吾はくっと唇を噛み締める。 心臓が高鳴り、躰の芯が熱く燃えるようだ。肺が新鮮な冷たい空気を求めていた。 穂波に抱かれるその行為は、明らかに痛みを持っていた。それにも関わらず、数度目かの挿入の時、敬吾ははっきりと自分が感じた事を覚えている。痛みに涙しながらも、躰の奥深くを突き上げられ、頭の中が弾けるような刺激を何よりもはっきりと覚えていた。 その甘い余韻を穂波がからかうように呼び起こす。 固く目を瞑ってその余韻に絶えている敬吾に、穂波の目がすうっと細められた。その口元に微かに苦笑が浮かぶ。 僅かにその口から吐息が漏れた。 それは自身の躰の熱を吐き出す物だった。 「さて」 言葉と共に、敬吾の躰をまさぐっていた手が離れた。その言葉に、目を開いた敬吾に笑いかけると、穂波の腕がすっと敬吾の躰の下に入れられた。 次の瞬間軽々と抱き抱えられる。 ベッドから出された敬吾は全裸だった。明るい日の光の下に晒された自分の躰に激しい羞恥を覚える。 「あ、あのっ」 慌てて降りようとする敬吾に、穂波はくすくすと笑いながらその抵抗を意にも介さずに敬吾をバスルームへと運んだ。 「綺麗にしないとな」 その途端、敬吾は躰の中から何かが流れるような感触に気が付いた。 あ、これのこと? 慌てて穂波の躰を押しのけようとする。 「お、俺、一人でしますっ!」 「やらせてよ」 既に準備万端整っていたバスルームには、温水が流され温もっている。その暖かい床に敬吾の躰が降ろされた。 逃げようとするその肩口を浴槽の縁に押さえつけられる。床に膝をつき、尻を穂波の側に突き出すよな姿勢に、敬吾が慌てて身を捩ろうとした。 だが、肩にあった手が素早く腰に回されて、未だ熱く火照った場所に指が這わされた。そこへ、シャワーがかけられる。 「ああっ!やあ」 痛みは全くなかった。 すっかり解されたそこに指が入り込み、中のモノを掻きだしていく。 躰が数時間前の行為を思いだし、全身に甘い期待に満ちた疼きが走る。 明るい中に曝された躰が、穂波の視界に入っている。しかも、その行為に敬吾は逆らう術がなかった。 「出しとかないと後で辛いからね。こうやって中をきれいにするんだよ」 言葉と共に細かく動く指の動き。 それが、もどかしい疼きとなって敬吾を襲う。 「あ、ああっ……」 すっかり勃ち上がってしまった敬吾のモノが触って欲しいとびくびくと震えていた。それに穂波は気づいているにもかかわらず、一向に前には手を伸ばさなかった。 「ゆ、ゆきと、さん……」 「今は綺麗にしているだけだよ……でも、敬吾のここは随分と欲しがっているようだけど。指に凄く絡みついてくる……」 揶揄を含んだ穂波の言葉が余計に敬吾を煽る。 自分の躰がここまでいやらしいとは思っても見なかった。 だが、今は躰が欲しくて欲しくて溜まらないと訴えている。たった一度の行為でここまで自分の躰が変化するなんて思いもしなかった。 男を欲しい、と思う。いや、男ではない、穂波が欲しい。 自然に潤んでしまった瞳で穂波を見上げる。 穂波がごくりと息を飲んだ。 「……困ったな……」 穂波が呟く。 「ゆきとさん、俺……」 ふっと穂波が息を吐くと、背後から敬吾のモノに手を伸ばした。既に濡れそぼっているそれは、水で濡れている訳ではない。その証拠に穂波の手が動くのに十分ななめらかな滑りを与えていた。 「あん……はあ……ああっ……」 極限まで高ぶっていたそれに与えられた刺激は、敬吾の理性を飛ばす。神経が、一点に集中していた。後孔に抜き差しされる指の動きですらもどかしいと感じてしまう。 「敬吾……」 背筋にかかる吐息が、新たな快感をもたらした。 穂波が指をぐいっと挿入し、ある一点を刺激する。 「あ、ああっ!」 びくんと震える動きに連動するかのように、昨夜から何度も吐き出されてきた白濁したとろりとした液が吐き出される。 ずっとかけられていたシャワーの水の流れに洗い流され、排水溝に流れていくそれ。 びくびくと震える敬吾の躰がゆっくりと浴槽の縁に力無く倒れ込んだ。 「敬吾?」 穂波の呼びかけに顔を上げるが、躰に力が入らない。 その様子に、穂波は苦笑を浮かべると敬吾の躰を洗い始めた。 もう逆らう気力もなく、なすがままにされる。 俺って何ていやらしいんだろ。 自分で求めてしまったことが、敬吾自身を責める。それでも、それ以上に穂波の腕の中にいることの、安堵感の方が大きい。 何だか久しぶりにゆったりとしているなあ……。 柔らかなバスタオルに包まれた躰を抱え上げられ、再度ベッドに寝かされたのは覚えていた。だが、穂波の大きな手が額にかかった前髪を掻き上げた頃、敬吾はすうっと夢の中に入っていった。
ベッドの中で幼い子供のような寝顔を見せる敬吾。 穂波が気に入った瞳も、寝ている間は窺い知ることができない。大人びた表情が消え、その表情も可愛いと思う。 その顔にかかる長めの前髪を掻き上げる。 こんなにもこの子が愛おしいと思うとは、今でも信じられない。 逢えば逢うほど、知れば知るほどこの子が好きだと自覚する。 「25歳か……」 自分とは10歳の差。 愛に年は関係ないとは言うが……それでも若いなと感じてしまう。 若くて、元気で、何に対しても全力を出す。恋愛の経験だって、穂波にしてみればまだまだ子供の域を出ないであろう敬吾。 穂波の腕の中で、自分の反応に驚いていた敬吾。 正直なその躰の反応に翻弄され戸惑っていた表情が、さらに穂波をそそる。 だが。 敬吾にとって昨夜の行為は、流されて突入してしまったけかも知れない。襲われたショックだってあるのかも知れない。 愛しているとは言ってくれた。 それが一時の気の迷いでないと、言い切れるのだろうか? 組み敷いた躰の細さに、驚きすら感じた。まだまだ、敬吾の事は知らないことの方が多い。それがもどかしい。本音で語り合う前に、一気にいってしまったのは性急すぎただろうか。 本気で好きになってしまったのは、俺の方だけかも知れない。 自分らしからぬ想いに、穂波自身戸惑いを隠せない。 「これが本気になる、ということか……」 自嘲めいた笑みが漏れる。 嫌われたくない。 心底思える相手に会えたのは初めてだ。 だが、穂波はまだ敬吾の前に本当の自分をさらけ出していない。 ずっと自分の事を「私」と呼ぶ自分を見せていた。だから、敬吾はまだ自分の一面しか知らない。 そっとその頬に手を伸ばす。 昨日からいろんな目に遭った敬吾。それでもその瞳の光は変わらない。 俺はこの子といつまでつき合えるのだろうか……。 年の差だけの問題ではない。 何もかもが敬吾とは違う。 それでも……離したくない……。 「俺は何を弱気になっているんだろう……」 穂波は敬吾の頬から手を離した。 そろそろ敬吾を起こさないと……。 ずっと敬吾の寝ている姿を見続けていた穂波は、強張った躰を伸ばすと敬吾の元に近寄った。 いろいろと思い悩んだ。 だが、今の穂波の表情には笑みがあるだけだ。 その気配に気づいたのか、敬吾がうっすらと目を開けた。 「敬吾」 呼びかける。 その虚ろだった瞳が急速に焦点を合わせた。 「穂波さん……」 手を付き起きあがろうとする敬吾の背に手をかける。 どこか気怠げな緩慢な動き。さらりと上掛けが落ち、敬吾の上半身が露わになった。 その白い肌に浮かぶ赤く染まった斑点に敬吾が気づいた。かっと全身を朱に染め、慌てて上掛けをを寄せる。 「あ、の、俺の服……」 きょろきょろと周りを見渡す敬吾に穂波はくすりと笑みを浮かべながら、渡してやった。 「着せてあげようか?」 その言葉にますます赤くなって、大きく首を横に振る敬吾。 可愛い。 思わず苛めたくなる欲望を、かろうじて堪える。 だが、くつくつと漏れる笑いまでは抑えきれない。敬吾がむっとして睨み付けてきた。 「はは、すまない。外でも見ているから、早く来なさい。もうお昼だから」 「……はい」 敬吾はしばし穂波を窺ってから、ため息を付きながら頷いた。 その様子に、どうしても止まらない笑い。 穂波は口元を押さえながら椅子を引っ張って窓際に座った。 約束通り、眼下に広がる景色を眺める。 「敬吾、昼、何食べたい?」 夜が簡単な食事だった上に結構な重労働を行った。しかも朝食を取っていないとなると、穂波の腹は空腹をさっきから訴え続けていた。それは敬吾も同じ条件だろう。 「今なら……なんでも食べれそうな気がします」 敬吾らしい答えに穂波はくっくっと笑いがこぼれてしょうがない。 「どうして、さっきから笑うんです?」 衣擦れの音共に不快そうな敬吾の声。 「いや、敬吾らしいなって」 「何がです?」 「いろいろとね」 敬吾が寝ている間に頭の中に閉めていた不安を穂波は整理をつけ、半端無理矢理拭い去った。 せっかくのこの機会、今を楽しまなくてどうするというんだ。 ようやく自分を取り戻した穂波が結論付けた事がそれだった。 この若い恋人と会話することが楽しい。 本当に苛めたい位に……。 むくむくと沸き起こる嗜虐心を穂波は懸命に堪える。 そんな自分すら可笑しくて笑えてしまう。 全く、俺は何を考えているんだろうな。 声もなく笑い続ける穂波の横に服を整えた敬吾が近寄った。 その気配に顔を上げると、敬吾が不機嫌そうな視線を向ける。そこに、あの性欲に彩られた表情は窺い知ることができない。そのギャップを見つけることすら楽しい。 「一体、何なんですか?」 「何でもないって……」 誤魔化そうとするが、容易に誤魔化させてはくれなさそうだ。 穂波は、すっと手を伸ばした。 「なっ?」 首に回された手の意図を感じ取ったらしい敬吾が慌てて、一歩下がる。 「そういえば、さっき穂波と呼んだだろう。だからお仕置き……」 「そんな……」 真っ赤になって身を捩ろうとする敬吾の顎を捕まえ、口付ける。 ぐいっと手を突っ張られすぐに離したが、それでも敬吾は赤く潤んだ目で穂波を睨んでいた。それがたまらなく艶っぽい。 たった一夜のことで敬吾が手に入れたそれ。だが本人は気づいていないだろう。今まで以上に不穏な輩に付き纏われかねないその姿に、穂波は一つの決心をする。 「敬吾」 「はい?」 「護身術教えてやるからな」 「は?」 いきなりの話についていけず、首を傾げる敬吾に再びキスを落とす。 諦めたようにそれを受け入れる敬吾の甘い唇を堪能しながら、その脳裏にはいろいろな計画が沸き起こり、穂波は嬉々としてそれらを整理していった。 護身術は、俺が手取り足取り教えて……。 寝技まで教えてしまうっていうのも、楽しいかも。 それより何より基礎体力もつけさせないと……スポーツジムの申し込みも早速この後行って……。 脳裏に浮かぶ今後の計画。 と。 ああ、敬吾にはきちんと行っておかないとな。 穂波は未練がましく唇を離すと、敬吾に話しかけた。 「敬吾に一つ言い忘れていたんだが……」 その言葉に、赤く染まった目を向けた敬吾に穂波は微笑みかける。 「私が、自分のことを「私」と呼んでいるときは、まだ理性があるんだ。だけど、君に向かって自分の事を「俺」と呼ぶときは、君が欲しくて溜まらなくて理性が飛んでいるときだよ。その時は覚悟しておくれよ」 本当に……今回は我慢できた。 始めての敬吾を気遣うことができた。 だが、ここまで惚れてしまった相手。次がどうなるか判らないから、穂波ははっきりと敬吾に伝える。 敬吾が、困ったように口ごもる。 「覚悟なんて……」 「それだけ私は君を愛しているって言うことなんだけどね」 愛おしい敬吾。 君が私を嫌うことがあっても、それでも俺は君を離さないだろう。 穂波はきつく敬吾を抱き締めた。
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