売買契約書
 
T.1
 
 発車のベルがホームに長く響く。
 見送りの人も疎らなホームがドアの窓越しにゆっくりと流れていくのが見えた。駅の構内の灯りが途切れ、すうっと視界は薄闇の世界に捕らわれる。それでも、明るい都会の灯りが静けさとは無縁とばかりに輝いている。
 先ほどまで、あの喧噪の中にいた長瀬恵無(ながせめぐむ)は、なんとか間に合った安堵感にほっとため息を吐いた。
 できれば飛行機で往復したかったのだが、金曜日の最終便はすでに満席だったのだ。
 この新幹線は、何とか指定席を取ることができたものだ。
 間に合わなかったからどうしよう、と走った体は、疲れもあって怠さが増してきた。早く席に着こうとチケットを見やり、息を整える間足下に置いたバックを手に取る。
 せっかくの指定席だ、さっさと座ろうと、一歩踏み出すとドアが開き、車内へと足を進めた。
 ほぼ満席に近い。その中で、座席の場所をゆっくりと歩きながら探ると、恵無の席は窓際だった。
 当然、通路側には別の客が座っている。
 うつむき加減に雑誌を見ている彼は、見た目は恵無とそう変わらないように見えた。
 癖のない黒髪が、身動いだ拍子に流れている。
 どうやら傍らに立った恵無には気付いていないらしい。恵無は仕方なく「あの」と声をかけた。
「え?」
 小さな反応があり、彼が顔を上げた。
 若い。
 スーツ姿はきっちり決まっているけれど、前髪が少し降りているせいか若く見える。
 その瞳が少し見開かれていた。
「すみません、そこの席に座りたいのですが」
 声をかけても、まじまじと凝視されているのは変わらない。
 何か、変なのだろうか?
 あまりにも見つめられて居心地が悪くなる。
 座るためには彼に席を立って貰わなくてはならないのに、動いてくれそうにない。しかも、なぜか彼の視線は外れないのだ。
 恵無の困惑の色が濃くなり、視線はうろうろと彷徨う。
 きっちりとした仕立てのチャコールグレーのスーツは、着崩れた感じはない。その下に着込んでいるサックスブルーのワイシャツが、よく似合っていた。そんなところまで見取ってしまうほどの時間が過ぎてしまう。 
 だが、いつまでもこうしている訳にはいかない。
 見られることの気恥ずかしさもあるし、こんなふうに見られるのは慣れていなかった。
「あの……すみません……」
 仕方なく、再度声をかける。と、ようやく彼の瞳が反応する。
「あ……すみませんっ」
 慌てたふうにようやく彼が立ってくれて、恵無は内心ほっとしていた。
 狭い通路に彼が移動し、その前を会釈しながら通り抜ける。
 その瞬間、ほのかなムスクの香りが鼻についた。
 視線が匂いに誘れるように動く。
 向けた先に、少し高い位置に彼の瞳があった。
 視線が絡む。
 とたんに、心臓が跳ねた。
 びくりと震えた体が信じられなくて、恵無は逃れるように席に腰を下ろした。
 荷物を足下に置き、「どうも」と呟く。
 その間も、まとわりつくような視線を感じていた。
 今まで何度も出張に行って、こんなふうに隣に人がいる席に着くことはごく普通にあった。
 だが、こんなふうに見られたことも、こんなにも居心地が悪かったことはない。
 いつもより早い鼓動のせいか息苦しさが増してきて、恵無は襟元に指を入れた。少しだけネクタイを緩め、大きく息を吸う。
 目を瞑り深く体を沈めて、意識を隣から逸らした。
 しばらくすると、彼がさっきまで読んでいた雑誌を再度開いたのが見えた。
 これで視線が外れたとほっとする。ど、同時に、自分がひどく緊張しているのに気が付いた。
 手足を少しでも動かすと、ぼきぼきと関節がなりそうだった。
 なんでだろう?
 何でこんなに緊張するのだろう?
 手に滲む汗に数度開いたり閉じたりする。
 と──。
 突然ばさりと乾いた音がして、足下に何かが落ちた。
 はっと目をやれば、さっき彼が読んでいた雑誌が滑り落ちている。
「あ、すみません」
 彼が体を屈めてその雑誌に手を伸ばす。
 恵無の足に彼の体が触れる。身動いだせいか、ムスクの香りがまた恵無まで匂ってきた。
 ちょうど良い、嫌みでない程度の匂いが、彼が動くたびに届く。
 取りにくいのか、苦しそうに手を伸ばしている彼に気付いて、恵無は足をずらした。
「っ」
 それは偶然だったのだろう。
 彼の体がいきなり傾いだ。
 バランスを取ろうとしたのか、彼の手が恵無の足の上に乗ったのだ。
「……ごめ…すみません……」
 すぐに離れたその場所が熱い。
「あ、いえ……」
 かろうじて返した言葉が、震えていた。
 何で……。
 ようやく雑誌を拾った彼は、少し崩れたスーツのしわを伸ばしている。ちらりと向けた先で、その顔は何事もなかったかのように雑誌を開き直していた。
 そう、何事もなかったのだ。
 けれど、恵無はじんわりと湧き起こった小さな火に呆然としていた。
 彼が触れた場所──太股の少し内側の場所だ。指が少しだけ強く押してきたその場所から、背筋に向かって走ったそれ。
 堪らずに顔を顰めた程の、今まで味わうことの無かった奇妙な疼くような感触だ。
 恵無の語彙からもっとも近いものを選ぶと、『快感』という単語しかない。
 触れられだけで?
 淡い疼きは、今はもう消えている。
 だが、初めてのその感触は記憶として恵無の脳裏に焼き付いていた。
 ぱさりとページをめくる音に、恵無の視線が泳ぐ。
 なぜか彼の一挙一動が気になって仕方がない。
 どうして?
 こんな訳の判らない感情は初めてだった。
 どこをどう見ても、男でしかない彼がなぜこんなにも気になるのか?
 ふっと窓の外を見やれば、ようやく横浜の駅を過ぎたばかりでまだ先は長い。
 早く降りてくれれば良いのに……。
 早くて大阪か……最悪終点まで乗るのかも知れない。
 外が暗くなって、新幹線の中の様子がくっきりと窓に映っていた。顔を俯かせて、熱心に雑誌を読んでいる姿も映っている。
 長丁場だと買ったばかりなのかもしれない。その雑誌はまだ最初の方だった。
 と。
「え……」
 恵無が口の中で思わず叫んだ。
 彼の視線が時折、こちらに向けられているのだ。
 ちらっと窺うように見られている様子が窓に映っている。
 だが、恵無が気付いたのに気付くと、すぐにまた雑誌に視線を移していた。
 どうして……。
 訳が判らないと、恵無は固く奥歯を噛んだ。
 こんなことは初めてだった。
 
 
 それからも見られていると感じたことはあった。
 けれど、だからと言って何が言えよう。
 話しかけられるのでもなく、またこちらから話しかけるのも不自然だ。
 それに、手にしている雑誌を読んでいるのもポーズだけではないようで時折手がページをめくっている。
 ちらりと窺えば、経営に関する雑誌だと判った。
 本屋で物色した時に、そんな題名の本があったことを覚えている。
 難しい本だな、と、自分には縁がないと棚に戻したことも思い出した。
 ああ、そうか。
 見られても気にならないように、こちらも何か読もう。
 いい加減気にしすぎて疲れていた。
 かと言って、終点まで乗るわけでないから寝る度胸もない。
 恵無は、足下のバックから見られても差し障りがない資料を取り出した。
 先日講習会に行った時の資料だ。
 今ひとつ話し方が上手だとは思わない講義だったが、内容は今の仕事に十分役に立つもので、その時のテキストも判りやすかったのだ。だから、恵無はいつも持ち歩いて、目を通すようにしていた。
 その資料を開く。
 ペンを取り出して、気になるところに線を引き、思い出した講義内容を書き込んでいく。そうやって、何度も繰り返されたその資料は、すでにかなりの書き込みがあった。それらをもう一度、辿り、読み直す。
 恵無の仕事は、密閉系の精密機械が駆動する時に発生するガスを吸着させるシートを開発することだった。
 高精度の金属部品で造られる機械を激しく駆動させると、高温になって数種のガスが発生するのだ。それを放っておくと、中の部品が腐食することもある。それを防ぐためのシートだった。
 もっとも要求される性能は、その吸着性能だけではない。
 精密であるが故に、ほんの僅かな塵も許されない。まして、自らガスが発生してはならない。
 目に見えない世界のデータを収集し、分析する。小さな精密機械の中に収まるサイズに設計する能力も必要だ。
 勉強することは多々あって、入社三年目の恵無にとって、まだまだ努力を怠ることはできなかった。
 まとわりつくような視線は、相変わらずだった。
 気にし出すと、資料の内容が頭に入らない。恵無は意識して隣の彼を排除して、必死になって集中した。
 そのうちに、複雑な計算式に辿り着く。
 さすがにそれに集中すると、隣の存在を忘れた。
 そして、いつしか恵無はその資料に没頭し始めて──。
 気が付いた時には、隣の席に彼はいなくなっていた。
 
 
U.2
 
「よろしくお願いします、長瀬さん」
 差し伸べられた手を握るのを躊躇ったのは、あの時と同じような瞳で見つめられたからだ。
 何かを求めるような、どこかいたたまれなくさせるあの瞳。忘れようとしても、それはひどく生々しすぎる記憶だった。しかも、会ったのは昨夜のことだ。
 あの、新幹線で会ったあの男が、自社の応接室で頭を下げ、朝一で入ってきたアポを了承したことに感謝している。
 対応している恵無のチームのリーダーである瀬戸が、如才なげに返していた。
 そんな姿を、少し遅れてやってきた恵無は呆然と見つめるしかなかった。そんな時に、彼がふっと視線をこちらに向け、何事もなかったかのように名刺を差し出した。
 見間違いなどしようはずもない。
 間違いなく昨夜、新幹線の中であった彼だった。
 たぶん大阪あたりで降りたであろう彼がなぜここにいるのか?
 疑問に捕らわれながらも、それでも恵無は緊張した面持ちのままに名刺を交換した。
 小さな四角い厚紙が指先に触れる。
 たったそれだけのことなのに、体が震えそうになる。
 この緊張感は一体どこから来るのか判らない。
 怖い──。
 慣れたはずの行為だというのに、ひどく躊躇われた。
 視線が泳いだその瞬間、彼の目が恵無を確かに捉えた。
「偶然ですね」
 笑いながら言うその親しげな中に、焼き尽くすような炎が見える。
「こちらこそ。高塚さん」
 それでも、内心の動揺などおくびにも出さない術くらい身につけている。お互いが腹を探り合っているであろう笑みは、愛想笑い以外の何物でもなかった。
「どうぞ」
 示されるままに応接室のイスに座り、ちょうど目の前に座った彼を見つめる。
 チャコールグレーのスーツは変わりないが、そのシャツは白いものに変わっている。
 昨夜はブルーのシャツだったのに、とふっと思い、すぐにそんなことまで覚えていたことに気付き呆れた。
 立ち居振る舞いは、ひどく落ち着いている。
 一緒に来た、もう少し年配の営業マンより威厳のようなものすら漂っていた。若いはずなのに、今この場にいる他の誰よりも立派に見えるのだ。そんな彼が、何かの折りに恵無を見つめる。
 技術的な打ち合わせをしている時も、数字の話を上げている時も。
 他の人が話をしているのに、自然な様子で恵無に視線を向け、微笑まれる。
 そのことに気付くたびにひどくいたたまれないような──そして恥ずかしさを覚えて、必死で動揺を押し隠した。
 なぜ、こんなにも彼が自分を見るのか?
 新幹線でさんざん自問自答した答えは、未だに出てこない。
 その視線から逃れるように恵無は、自分のノートに視線を落として──そこに挟んでいた彼の名刺に目をやった。
 株式会社 日本メルサ
 製品技術設計部 課長 高塚宗也(たかつかそうや)
 規模は、中堅どころで、前からジャパングローバル社と取引をしていた会社だ。
 一ヶ月ほど前にも、そこの担当と会っている。だが、そのときに彼はいなかった。
 そこのきっと前の課長だろうと思われる人が、新興であるジャパングローバルの製品を使うことに難癖をつけ、なかなか取引とまではいかないところだ。
 なのに、今回いきなり会いたいと話がきて、課長が替わっていて。
 会議の内容では、自社の製品を使いたいと言ってきている。
 他社製品に比べて技術的には優れていると自負できる。
 他の会社では独占的に入れているところもある。だから、使ってもらえればその優越性はすぐに判るだろう。
 終始にこやかに進む会議の内容に、瀬戸もひどく乗り気になっていた。
 恵無も悪い話でないと思う。
 彼らが提示してきた数字も、かなり魅力的だ。
 だけど。
 我に返ると気が付く、彼からの視線。
 その意味がわからなくて、恵無の心は今ひとつ晴れなかった。
 そして、また視線を感じて、恵無は視線を逸らして──見るモノもなく、名刺を見つめていた。
『高塚宗也』
 その名を、恵無は知らずに口の中で転がしていた。
 
 
「驚いたな、この数字だと、メルサの製品ほぼ全てじゃないのか?」
 高塚達が帰った後、さっそくメンバーが集められた。
 会議に出ていたのは開発部でも古強者のリーダー、瀬戸と担当の恵無だけだ。
 本来営業の片瀬が主に担当しているのだが、彼は朝一の連絡ではこちらに来ることができなかったのだ。
 その片瀬も、夕方の便でこちらにやってきていた。
 今、ここにいるのはその片瀬と開発部 工業材料第三チームの6人だ。
 楕円の会議テーブルをぐるりと囲んだメンバーが、今日メルサから提示された資料を覗き込んでいる。
「ここは、ドーラスタ社が入っていたはずですよ。一社購買だから、ほぼ100パーセント取られていました」
「前の課長が、古くさい頭の持ち主だったからな……」
 ジャパングローバルの競合であるドーラスタ社の名が苦々しげに呟かれる。
 技術力では負けないと言えるのに、価格競争で負けたことがあるのだ。
 安価な素材で作るドーラスタ社との価格競争は厳しい。だからこそ、技術で勝負しているのに、メルサ側がそれを受け入れてくれなかった。
「あの高塚って人若そうだったな」
 瀬戸の言葉に頷く。
 今日は前髪をきちんと上げていたけれど、どう見ても恵無とそう大差ないように見えた。
「確か、メルサの社長は高塚って言うから、同族かもしれないな。後で調べてくれ」
「はい」
 同族──ならば、あの若さで要職は容易いのかもしれない。
 そこはかとない威厳もそのせいなのだろうか?
 いずれ、課長などでなく、部長、はては取締役へと進む道が約束されているのだろう。
 そうしたら、もう会うことはないだろう。
 あの居心地の悪さを思い、嬉しいことだと思ったけれど……。
「恵無、この設計……どこかと似ていないか?」
 先輩にわたる由良(ゆら)が、不意に声をかけてきた。
 思考を飛ばしていた恵無は一瞬何を言われたか判らなくて、きょとんと由良を見やる。
「ほら、ここ」
「え、あっ、はい」
 険を含んだ視線に変化した由良に、恵無は慌てて差し出された図面を見つめた。
 小型精密機械に入れる一辺が10mmにも満たないシートの図面。
 その形状は、確かに恵無にも覚えがあった。
「これ……テクスタイル社の形状に似ています。サイズは違いますし、細かな部分も違いますけど」
 メルサ社の競合であるテクスタイル社は、ジャパングローバルの製品を二社購買で買って貰っている。
 二社購買と言うのは、同じ用途に使う同形状の製品を、違う二社から購入するというものだ。
 これは、何かトラブルが発生した時の負担を回避するためのモノだった。その一社がジャパングローバル、そしてもう一社がドーラスタ社だったのだ。
 だが、二社購買といえど準大手のこの会社の販売台数は大きく、ジャパングローバルのこの製品群の売り上げの半分を担っている。
 そのテクスタイル社の製品図と、メルサ社が提示した製品図は、どこか似ていた。
「どういうことだろう?」
「このシートを入れる装置のシステムが似通っているということですよね。だけど、メルサの製品は、もうワンサイズ大きなタイプのモノが主流で、このサイズにはあまり注力していなかったと覚えていますが」
 片瀬も、不思議そうにその図面に見入っていた。
 不思議といえば、いきなりの訪問もそうだ。
 あらかじめアポがあったとはいえ、当日の朝だ。
 午後からの会議設定にはかなり苦労があったが、それもメルサ社だから何とかした状態だった。
「なんかあるのかな」
 ぽつりと呟く瀬戸の言葉に、メンバーは皆一様に口を噤んだ。
 同じような形状、同じ用途。
 下手すると特許問題に発展することもある。
 吸着シート自体を製品展開することは、自社が抑えているので大丈夫だが、それを組み込んだ製品に問題があって売れなくなりました、では投資した金額が無駄になってしまう。
 同じような形状とはいえ、既存の設備だけで作れるものではないのだ。
「とにかく」
 沈黙が漂う会議室で、瀬戸が口火を切った。
「片瀬くんは他社を含めて接触して欲しい。恵無は由良君と一緒に情報収集と技術設計にかかってくれ。他の者はサポートだな。テクスタイル社の品質監査も控えているから、手は抜けないぞ」
「あ、そうですね」
 忘れていたと言わんばかりに由良が顔を顰めた。
「……テクスタイル社の品質監査が来週火曜日だ。準備に手落ちがないようにしっかりやってくれ」
 瀬戸が、神妙な面持ちで皆に言うのが聞こえた途端、意識がはっきり緊迫感を伝えた。
「あちらさんは、三名来社予定です。こちらは品質保証部と製造にも声をかけていますから……。詳しいスケジュールと工程監査の場所、品質文書の確認をしなければいけませんね」
「確か、工程変更の届けを同時に提出する予定でしたから、その準備も……」
 その品質監査から恵無が抜けることから起きる穴を、皆が手分けすることになる。
 この品質監査に手落ちがあると、決まりかけていた次機種への自社製品の採用が見送りになるかもしれない。そんなことになれば、来期売上は10%は確実にダウンするだろう。
 それだけは避けなければならなかった。
 技術的な問題はクリアしたのだ。こんなところでつまずくわけにはいかなかった。
 ただ、恵無の本音としたら、このままテクスタイル社の方に入っていたい。
 メルサ社の、あの高塚という男と会いたくないのだ。
 まるで捕らわれるような瞳。
 熱く、全てを見透かされるような気がするのだ。目を見て話をしなければ説得力などなくなるというのに、彼に対してはそれができない。
 そんな自分が、これから彼を相手にうまく対応できるとは思えなかった。
 だが、それでもやらなければならないのが仕事だ。
 メルサ社はずっと恵無の担当だったから、誰よりもこの会社の要求性能は熟知している。
 瀬戸の判断に間違いはなく、それに異議を唱えることはできなかった。
 
V.3
 
 
 高塚が来社してからちょうど一週間が経った。
 あれから毎日のように高塚から電話が入ってくる。その内容は、技術的なものから製品単価の見積もり依頼のような本来営業に依頼して欲しいことまで多岐に渡っていた。
 それらに努めて冷静に対応する。
 面と向かわなければ、恵無の緊張もそれほどではなかった。
 声だけが直接耳に吹き込まれるようなものだったけれど、他の電話と大差はない。ただ、何かの折りに彼の顔を思い出してしまうと、急に緊張感が増し、心臓が高く鳴り始める。
 気を付けないと声まで掠れてしまいそうで、恵無は会話の最中に何度も受話器を遠ざけた。そうしないと、唾液を飲む音が聞こえてしまいそうだったのだ。
 そして、電話が終わると、ほっとため息をつく。
 習慣になってしまったその一連の動作は、幸いにしてまだ誰も気付かれていない。
 だが、いずれその不自然な動作に気付かれるだろう。その緊張も恵無を襲っていて、今ではメルサ社からだと取り次がれたとたんに逃げ出したくなるほどだった。
 そんな状態が解消されないままにやってきたのは、テクスタイル社の品質監査の日だった。
 空港に昼に着きそれから来場して、二日間に渡って行われる予定になっている。
 この日ばかりは、恵無もメルサ社のことを忘れていられる。
 テクスタイル社に全員が集中するのだ。
 窓の外は快晴で、その風景を見ていると脈絡もなく品質監査日和という言葉が浮かんできて、恵無は苦笑した。
 朝一に開かれる各チーム分かれての朝礼で、今日の注意事項、スケジュールを再確認し、事務所の席へと戻る。
 とりあえずはメールチェックだと、起動した端末に向き直った。
 並ぶ受信メールを一つずつチェックして、すぐに返事ができるものは、返していく。
 それもあと少し、となったところで。
「おーい、恵無。ちょっと作業場に行って来るんで、これ頼む」
 頭の上から由良の声がして、振り向くまもなくキーボードの上に書類が一束降ってきた。
「うわっ」
 思わず上体を反らす。
 仰け反って上を見上げた先で、由良が笑っていた。
「びっくりした」
 言葉ほどには驚いていない証拠にニヤリと嗤って返してから視線を机上に戻すと、キーボードが隠れてしまう程の資料がばらばらと山積みとなっている。
「これ……テクスタイルの仕様書?」
「ああ、ちょっとミスがないか見といてくれ」
「はいはい」
 今日必要な資料なのに今更だろう、と、思うのだが、それでも首を竦めて了承の返事をする。と、由良がぽんと頭を叩いて去っていった。
 その後ろ姿に苦笑を浮かべて見送ってから、体を戻して手元の資料を集める。
 由良はもう15年もこの開発部にいるベテランだ。もともと現場で作業することを得意とするので、こういう事務書類となると恵無にお鉢が回ってくる。恵無とて慣れたもので、いつものようにその書類をぺらぺらっとめくっていった。
 作業が得意と言っても由良の書類にはそうそう不備はない。
 細かい校正作業は他人がした方が確実だと思っているから、恵無に回ってきただけなのだ。
「問題……ないかな?」
 ざっと見る限りにおいては問題ないようなので、恵無はそれを机の端に積み重ねた。
 それから途中で放置していたメールチェックへと意識を向ける。これだけは済ましておかないと、妙に気になるものだ。
 未読一覧から重要そうなのをピックアップしている内に、ふとニュース速報のタイトルに目をとられた
「え……」
 思わず洩れた微かな驚愕の声。
 空いていた左手が無意識のうちにぎゅっと拳を作り、画面に見入るように上半身が前屈みになった。
 目を見開いて要約されたニュースの内容を読む。
 さあっと血の気が引くような音が耳の奥でした。
 ──テクスタイル社がクレーム?しかも……納入先への損害賠償に10億?
 何度もその社名を確認する。
 ちらりと視線をやった先で、仕様書の表書きの社名があった。
 その綴りと同じ単語だ。
 恵無達が納入した製品は、テクスタイル社の製品に組み込まれる。そして、そのできあがった製品は、今度は別の会社へと納品される。そしてもっと多くの製品が組み込まれて、最終製品ができあがるのだ。
 店頭に並ぶ時には、部品製造元としてテクスタイル社の名は出るが、ジャパングローバル社の名は出ない。
 その最終製品を販売している会社がテクスタイル社を訴えているのだ。
 販売した製品に欠陥が発生したのは、テクスタイル社の部品のせいであり、そのために莫大な回収・交換費用がかかる。その代替品と費用をテクスタイル社に提供しろ、と言っているのだった。
 そして、その対象製品の次機種が、今日の品質監査の対象製品だったのだ。
 恵無は、慌ててそのニュースの詳細が見られるハイパーリンクをクリックした。
 サイトのニュース記事は、まだ速報らしく詳しいことは判らない。それでもメールの要約文よりはまだ内容が判った。その記事内容に、恵無の表情がどんどん強ばっていく。
「うっ……」
 思わず喉の奥から唸り声が零れた。
『販売各社は損害賠償を請求するとともに、交換に関わる代用部品を他社から購入する予定……』
 トップブランドが起こしたクレームは、業界全体に激しい波紋を起こしていた。
 関連ニュース先では、他社の反応も載っている。
 ヤバい──っ!
 深く考えなくても、ジャパングローバル社の納入がストップするのが予測できた。
 テクスタイル社の売り上げが無くなれば、ジャパングローバル社全体の売り上げ予測が達成できない。
 昨今の不景気で、売れるところにはかなり期待して年度計画を立てているのだ。
 ガタッと椅子が音を立てて動く。
 恵無の手がマウスを操作して、その記事をプリントアウトする。それを掴んで、恵無は叫んでいた。
「瀬戸さんっ、大変」
 恵無の泡食った叫びに、瀬戸のみならず事務所にいた全員の視線を集める。
「どうした?」
 開発部でも数少ない50代の瀬戸がその白くなり始めた眉を訝しげに顰めた。
「テクスタイル社が……製品でクレームを出して……大変なことに」
 慌てているせいで言葉がうまく出ない。だが、その言葉に瀬戸がすっとその顔を引き締めた。
 恵無から手渡されたニュース記事に目を通す。
 その顔が一気に強ばっていった。
「由良くんは?」
 再び恵無に向けられた視線は、ひどくきつい。
「作業場に」
「すぐ呼ぶんだ」
「はい」
 恵無は慌ててPHSに由良の番号を打ち込んだ。
 その間に瀬戸が、開発部第一リーダーの須藤の机へと駆け寄った。
 どんなに大変なときでも落ち着いた行動で定評がある瀬戸ですら、今回の件は寝耳に水。青天の霹靂で、狼狽え方が尋常ではない。
 そして、それは恵無もで、そして電話で事情を聞いた由良ですら同じだった。
 まさしく飛んで帰ってきたと言っても過言ではないほど息せき切った由良が、手渡された先ほどのニュース記事をきつく握りしめている。
「ちくしょー……」
 滅多につかない悪態が由良の口から零れた。
「昨日電話で確認した時は何も言ってなかったぞっ」
「今日の品質監査はどうなるんでしょう?」
「恵無、営業への連絡を取ってくれ、俺はテクスタイルに連絡してみる」
「はい」
 由良のきつい視線に息を飲み、恵無は大きく頷いた。
 ちらりと時計を見ると、まだ8時15分。
 営業の開始時間は9時だからまだいない可能性の方が高い。それでも押す番号は、東京営業部の担当 片瀬の机の電話だ。
 長い呼び出し音。
 もう駄目かと切りのボタンを押そうとした瞬間、カチリと小さく音がして電話が繋がった。
「もしもし、開発の長瀬です」
『ああ、今電話しようと思っていた』
 息せき切って呼びかけると、その片瀬と違う声に息を飲んだ。
 電話に出たのは営業部第一リーダー菅野(すがの)だったのだ。
 まさか、と……顔が引きつる。
 どうやら今日は、心臓に負担をかけなければすまない日らしいと、大きく息を吐いた。
 菅野は営業の第一リーダーであると同時に、立場的には開発部の第一リーダー須藤より上の立場の人間だった。
 ある意味雲上人のような菅野を相手にして、恵無も応対する声に緊張が籠もる。
「菅野さん……片瀬さんは?」
『まだだ。呼び出しはかけたが……彼の家からだと、どうしても定刻だな。ところでテクスタイル社の件だろう。私もそのニュースを受けて早出したんだ』
「はい、今由良さんがテクスタイル社に連絡を入れようとしています。瀬戸さんが須藤さんに説明している最中で……」
『うむ。こちらでもできるだけの情報収集はするが……最悪の事態も考えられる。心しておいてくれ。後で須藤くんにも連絡する。片瀬が来たら、一度そちらに連絡させよう』
「はい、お願いいたします」
 慌てているのであろう、がちゃりといつもより大きな音がして、通話が切れた。
「由良さん、片瀬さんはまだで、でも菅野さんがいらして、対応してくれると……」
「おお、こっちはまだ繋がらんな。このニュースで担当者がてんてこ舞いしてて、後にしてくれ、って言われた。しかも、品質監査の件、無期延期だと、冗談じゃねーっ!」
 きりきりと奥歯を噛み締めている由良が、苛立たしげに机を叩く。
 滅多に荒れない由良のいつにない行動。
 開発部の事務所は異様な緊張で包まれていた。
 近くの席に人が集まっているのをちらりと眺め、目があった幾人かに肩を竦めてみせる。
 他の第三リーダー達が、眉間に深いシワを寄せているのも見て取れた。
 彼らとて、人ごとではない。
 工材三チームの売り上げが確実に減るであろうこの局面。
 最悪、次のオーダーがゼロになるということもあり得るのだ。
 そのしわ寄せは、さらなる開発のスピードアップという形で他チームへとのしかかっていく。でなければ、今期の、そして来期の総売上に響くのだ。
 工業材料二チームは、別件でテクスタイル社に関わっているから、その表情の深刻さは、こちらと大差ない。
「どんな様子か判らないのか?」
 その二チームのリーダー篠山が、眉間に深いシワを寄せて近づいてきた。
「まだ、判らんな。とにかく……情報だ」
「俺……情報配信チームにも頼んできます」
「頼む」
 由良の言葉に恵無は頷くと事務所から走り出た。
 
W.4
 
 
 ジャパングローバル社は基本的に情報は自分たちで収集する。
 だが専門的な検索などは、情報配信チームが担当してアドバイスなり代行検索をしてくれる。
 それを行う場所が、図書室横の窓のない空間にあった。
「服部さんっ」
 いつ来てもコンピューター機器のファンや動作音だけが響くこの部屋は、どこか陰湿な雰囲気がある。ここで一人で作業することを考えると背筋に悪寒が走るくらいに嫌なことだが、恵無はここに来るのは好きだった。
 ここで働く人達がいるからだ。そして、ここに詰める情報配信チームの二人が、恵無は好きだった。
 少しおとなしいが優しい笑顔の服部と快活な隅埜のコンビネーションは、恵無の疲れた心も回復させてくれるのだ。
 特に隅埜は、恵無とあまり年が変わらないこともあって、話がしやすい。
「はい?」
 一瞬誰もいないかと思ったが、僅かの間の後にパーテーションで区切られた一角から、ひょいっと顔が出てきた。
 茶褐色の髪が動きにつられてさらりと宙を舞う。
 そのままふわりと立ち上がって、恵無が見上げる位置に彼の顔が来た。
「あれ、長瀬さん……どしたんです?」
 緊張した面持ちの恵無に、親しい相手だと笑みを見せていた隅埜の顔がすぐさま曇った。
「あ、ちょっと情報収集をお願いしたくて……」
「はい。あ、でも……」
 明るい返事だったが、すぐに啓輔が口籠もった。
 視線が、今は空いている席に向けられる。
 恵無の視線も、その席にいるはずのもう一人の情報配信チームのメンバーを知らずに探していた。
「服部さんは?」
 見つからない相手の名を口にして、所在を隅埜に問う。
「服部さんは、今日は休みなんです。ニュース検索なんですね?」
「そうか……」
 服部の情報検索はツボを得てて、的確なのだ。それを期待してきたというのに……。
 思わずため息をつくと、隅埜が申し訳なさそうに首を竦めた。
「今日のニュース速報でテクスタイル社のニュースが出て、それでもっと詳しい情報が欲しいんだけど」
「……俺、やってみます。深く掘り下げた検索は、ちょっと苦手なんですけどね」
 隅埜の視線が自席のパソコンに移動し、その手が伸びてマウスを数度クリックした。
 立ち上がるブラウザを確認すると共に、彼の体が椅子に沈む。
 邪魔そうに机の上に広がっていた公開公報の山を押しのけ、開いたデータベースにキーワードを打ち込んでいる。
 苦手とはいえ、それが仕事の隅埜の動きに無駄はない。
 数度、キーワードを選択し直し、詳細な検索を繰り返す。
 と──。
「これ?」
 指さされた画面に、新しく追加された情報が表示されていた。
 株価の変動も、同時に表示されている。 
 それは、市場にもはっきりと影響を与えている事を示していた。
 だが、これは恵無の欲しい情報としては物足りない。
 一体、何がどうなったのか?
 何が原因なのか?
 そして、他のメーカーはどこまで把握していたのか?
 知りたい情報は幾らでもある。
「もっと詳しい記事ないかな?どうも情報が後手に回っちゃって、こっち混乱してる」
「はい。でも……実質的な検索は明日服部さんが来てからになりますが?」
「ああ、仕方ないよな……ああ、そうだ。だったら……メルサ社やテイコー社の情報も……」
「メルサ社って日本メルサ社?……ああ、ここと同じようなメーカーですよね」
「うん……もしかするとそっちの発注が増えるかもって思ってさ。こっちに来れば良いんだけど……彼らがどういう動きをするのか?とか……」
 そこまで言って、ふっと先日のいきなりの来訪を思い出した。
 あの時の数字──態度。
 テクスタイル社のものとよく似た製品図面。
 彼は知っていた?
 この事態を知っていて、先に行動を開始した?
 テクスタイルがクレームを出したとなると、その納入先はその部品を他から手に入れることになる。その打診はすぐに競合各社に飛ぶだろう。
 そのときに、すぐに対応できたら……。
 一週間前に知っていたとしたら、あの対応も頷ける。
 そういえば……。
 あの日、新幹線で気が付いたらいなくなっていた高塚。
 あの最寄りの駅は新大阪駅で──ドーラスタ社の研究所は、大阪府内にある……。
 おかしいと思った時に、もっとたくさんの情報を仕入れていたならば……今のこの事態は予測できたかも知れない。少なくとも、高塚はこの事を知っていたのだから。
 彼ならば、もっと詳しい内容が判るのではないだろうか?
 と──。
 きつく顔を顰めて唸る恵無の思考は、耳に響く音で遮られた。
「電話」
 自身のを指摘されて、慌ててポケットを探る。
「はい、長瀬です」
『ああ、長瀬君、営業とテレビ会議だ。応接6』
「あ、はいっ、行きます」
 瀬戸の言葉に、体が跳ねるように動いた。
 足が扉へと向かう。
 が、すぐに隅埜に依頼したことを思い出して、恵無は肩越しに振り返った。
 だが、気だけは急いている。
 そんな恵無に気がついているのか、隅埜はくすりと笑った。
「こっちでやっときます。なんか判ったら連絡しますよ」
「あ、ああ……」
 その言葉に、恵無は頼むとばかりに頷いた。
 
 
 事務所に戻って、机の上から関連のファイルと筆記用具を取り上げる。
 慌てていたせいで、ばたばたと立てていたファイルが崩れたけれど、気にする暇はなかった。
 焦るとろくな事にはならない。
 というけれど。
 今の恵無に余裕など微塵もなかった。
 すでに締め切られた応接室にノックもそこそこに入り込む。
 ビデオカメラとテレビが備え付けられた部屋に、工材三チームのメンバーのみならず、開発部、品質保証部、製造、生産技術の主立ったメンバーが揃っていた。
 この部屋は外光が入らないせいで薄暗く、それでなくても暗い沈鬱な雰囲気がよりいっそう暗く感じる。
 テレビに映るのは営業の面々だ。
 見慣れた片瀬の顔がひどく険しく見えた。
 その横に営業の第一リーダー菅野がいる。
 会議だと言っても、普段はここまでメンバーが揃うことはそうない。しかも、皆一様に黙りこくって、眉間にシワを寄せているのだ。それだけ現状の厳しさが伝わって、恵無自身も眉間のシワを深くした。
『まず今までに判っていることは……』
 片瀬が営業側で手に入れることのできた情報を伝えてくる。
 どうやら、市場の方では数日前から噂が流れていたらしい。
 テクスタイル社は大企業だ。
 巧みな情報操作を行って、その信憑性を誤魔化していたらしいという。
 それを掴みきれなかったと、片瀬が悔しそうに俯いて呟いた。
 何より、テクスタイル社の故意の情報連絡の遅れで、こちらは不要な在庫を作ってしまったのだ。
 その事を片瀬が辛そうに伝えてくる。
『次回出荷分は保留が入っています。期限は未定。それに今日の品質監査は中止です。こちらの予定も未定……。それほど遅くならないうちに再開するという連絡は入っていますが』
 あの情報が流れて判っていたこととはいえ、それでも全員から諦め混じりの嘆息が零れる。
 三ヶ月先までの受注情報に沿って作っていたのだ。
 それらが一瞬にして無に帰した。
 最悪だ……。
 定期的に入るオーダーだったから、それを見越して材料の発注をかけている。その在庫もある。
 だから、発注と在庫を管理する生産管理部の顔がもっとも渋い。
 オーダーが無くなれば、その材料も不要。すでに作っていた製品も出荷することはできない。
 不要な在庫は損でしかあり得ない。ということは利益が減る。
 そこで連鎖反応的に浮かぶ思いは、労働者としては切実だ。
 しばしの沈黙の後、由良が先陣をきった。
「テクスタイル社からのオーダーは期待できないとして……その代わりですよね」
 起きてしまったことは仕方がない。なら、この先の事を考えなければならない。
 由良はそう言いたいのだと恵無にも判った。
 だてに、由良の元でやってきた訳ではない。
 だが、そうは判っていても、悔しさは否めない。
「少なくとも代替部品を使用するわけですが、それがどこになるか……」
『うまくすれば、うちの取引先かもしれない。テイコー社だと万々歳なんですが、ここの確率は低いです。あそこの部品はテクスタイル社とは互換性が今一なんです』
 片瀬の言葉に開発部の人間は皆一様に頷いた。
 部品設計の段階で何度も目にした図面がテクスタイル社と互換性がないのは理解している。
 だから、代替品の先がテイコー社になるという頭は先からなかった。
 そうなると──。
『となると、その代替品の先は?』
 菅野が肘を突いて手を組みあせながら、渋い表情で片瀬を見遣る。
『たぶん……メルサ社。あそこの部品はかなりテクスタイル社と同じ設計になっています。先日来社された時の図面も……かなり。互換性はかなりのものですから、簡単な設計変更で作れるはずです』
「メルサ社は……知っていた可能性がありますね。あの数字……」
「ああ、そうだな。だからこそ、いきなりの来社だったんだ……」
 ギリッと誰ともつかない歯ぎしりの音が聞こえた。
 悔しさは皆同じだ。
 あの時、彼が訪れた理由をもっとよく考えていたら──。
『日本メルサ社の担当は?』
「片瀬くんと長瀬くんですね」
 恵無は、口を開いた菅野を戦々恐々の面持ちで見つめていた。
 その先の展開が想像できてしまう。
 そして。
『ふむ、片瀬はテクスタイル社の対応がある。長瀬くん、とりあえず明日片瀬と一緒に日本メルサ社に行ってくれ。その後は、君に任せることになると思う。そして全メンバーでフォローを』
 予想通りの言葉に、目の前が暗くなるような気がした。
 今のこの事態を打破できることの期待が向けられているというのに、恵無の頭に浮かぶのは高塚の顔ばかりだ。
 自然と苦渋に満ちた表情になる。
 ──嫌です。
 という言葉は口にしても無駄だとわかっているから、恵無は言葉もなく頷くしかなかった。
 
X.5
 
 あの時と同じ、高塚の視線はずっと恵無を見つめている。
 そんなはずは無いと思うのに、それでも視線を向ければ必ず絡んでしまう。そのせいで、恵無はひどく落ち着かなかった。
 今は、急遽手配した打ち合わせの場で、恵無は営業の片瀬と共にメルサ社を訪れていた。
 いわば、メルサ社側のテリトリーでの打ち合わせは、それでなくても緊張を強いる。
 それなのに、高塚はさらにその緊張を煽ってくれるのだ。
 何気ない会話ですら、言葉を選んでしまう。
 いっそのこと、雑談などなしにして必要な用件だけを話し合いたかった。
 けれど、こちらの思惑など気付かないとでも言うように、高塚はのらりくらりと一番肝心な用件をはぐらかす。時に、まったく関係ない雑談へと話を持って行くのだ。
 それに、片瀬も苛立ちを隠せないのか、無理矢理話を元に戻そうとしていた。
 それが腹の探り合いだと言うことは判っている。
 必要な技術力がどこまであるのか?
 提示された単価の、残りの余力はどうなのか?
 メルサ社の鋭い指摘が、思い出したように入り、穏やかな話の中でも気は抜けない。
 そして、恵無の側も知りたいことは山のようにあった。
 メルサ社の、テクスタイル社の代替品受注状況から、持っている情報の全て。
 ジャパングローバル社としては、手に入れることのできなかった情報をどこから手に入れたのか?
 決して自社の情報配信チームの力を侮っている訳ではない。少なくとも彼らは、公的に発表されているニュースを、見逃すようなへまはしない。
 いつだって、新しい情報を探し出し、開発として必要な情報を提供しているのだ。
 確かに、今回は遅れをとったけれど。
 テクスタイル社の情報が最初に噂された場所が株の市場だと聞けば、それも納得してしまう。
 株価の変動のチェックは、彼らの仕事ではない。
 そうなると、高塚の方はそういうチェックを怠っていないということなのか?
 だが──。
 ここに来る前に、瀬戸が言っていた。
『メルサ社の来訪は、市場に変化が起こる前だ。噂話を噂だと思わなかった──そこまでの信憑性を確信した情報源を知りたいね』
 今はインターネットでいろんな情報が手元に入ってくるけれど。
 本当に欲しい情報は、そんなところでは手に入らない。
 片瀬が巧みにその情報源についての探りを入れているけれど、高塚はわざとその話題をはぐらかしている。
 そして、その合間に、恵無を見つめてくる。
 熱い。
 恵無は我知らず、襟元に指を入れて、緩めようとしていた。
 前に会った時より、確実にその視線は熱い。
 下手に絡めると、視線ごと捕らわれそうになる。
 必要数量の話、メルサ社の優位性、現段階の数字の確かさ。
 そして、技術的な内容、そのどれもが双方の間で時ににこやかに、時に激しく詰められていく。
 そんな時でも、まとわりつく視線は離れない。
 どうして?
 次第に頭が仕事から離れていく。
 顔を顰めて、露骨に睨み付けても、高塚は薄く笑うだけだ。
 技術がらみの話から離れるとその傾向がひどくなる。
「それでは、次回の打ち合わせ、楽しみにしています」
 にっこりと高塚が笑って手を出してくる。それに答えたのは片瀬だった。
 恵無はと言うと、動けなかったというのが正しい。
 なんとか最後まで平静な態度を取ることはできた。だが、その背は、嫌な汗でびっしょりと湿っていたのだった。
 
 
 メルサ社は長野県にある。
 岡山からとするとかなりの距離になって、打ち合わせが終わる時間を考慮に入れると、どうしても一泊する必要があった。
 そのため宿泊用に駅前のビジネスホテルを予約していた。
 片瀬も、次の日テクスタイル社に行く予定があり、ここに一泊すると言う。別々に予約したのでホテルは別だ。
 このまま駅前のどこかに行って食事でもしようか、と思っていた時。
 メルサ社側から、接待の話が出たのだった。
 片瀬にしてみれば、次の日は問題のテクスタイル社に向かわなければならないし、恵無は個人的な理由もあって、接待はできれば避けたい状態だった。
 だいたいこういう場合、JG社側が接待の席を設けてしかるべきなので躊躇いも大きい。
 それなのに、ぜひ、と言われては、無下には断れない。
 その結果、内心の苦渋を無理矢理にでも押さえ込んで、笑顔でその席につくしかなかった。
 ひどく恐縮する片瀬と恵無に、高塚がにこやかに酒を勧めてくる。メルサ社側は高塚と前から担当していて恵無も知っている富谷(とみや)という技術者だ。だが、富谷は押しが弱く、前任の上司に押しきられて、ほとんど意見らしい意見を聞いたことはなかった。
 それは今も同じなのか、今回の打ち合わせも高塚がほとんどしゃべっていた。
 そして、今もだ。
 終始にこやかな高塚は、年が若いと思われるのに、片瀬相手に堂々と世間話をしている。
 その話は多岐にわたって、感心するほどだった。
 片瀬とて負けてはいない。
 ベテラン営業マンとしての意地があるとばかりに、高塚相手ににこやかに話を進めていく。
 その話の中に、時折情報源についても混じっている。
 けれど。
 ニュースソースは? と食い下がる片瀬に、高塚がにこやかに明かすことを拒絶していた。代わりに酒を勧められて、片瀬は断り切れずにそれを口に含む。
 幾ら飲まされたのだろう?
 酒に強いはずの片瀬の顔が、いつの間にか真っ赤に染まっていた。
 恵無自身もできるだけ気をつけてはいたけれど。
 だが、さすがに後半に近づいて、熱くなった体を冷やしたい欲求に駆られる。
 それでなくても、昼からずっと滲んでいる汗のせいで気持ち悪いのだ。
 高塚が携帯に出るために席を外したのをきっかけに、恵無も断りを入れると座敷を出た。
 冷房が効いているはずなのに、外に出た方がひんやりとする。その涼しさにほっと一息ついて、恵無はトイレと表示された方へと足を進めていった。
「さっさと寝たいなあ……」
 思わず零した愚痴は本音だ。
 もともと接待自体あまり好きではない。
 まして、極度の緊張に苛まれていては、酒も美味しくなかった。
 と──。
 聞き覚えのある声に、不意に足が止まる。
「……ん……遅くなる……。え、やだなあ……」
 それが高塚だと気付くより先に、視界の中に彼の姿が入ってきた。
 こちらに背を向けて、携帯電話で話をしている。
 微かに見える横顔が、どこか愉しそうに緩んでいた。
 その言葉遣いも、固くない。
 それに気がついて、恵無は、高塚と話をしている誰かが、不意に気になった。
 あんな風に親しく話をされてみたい──と、まじまじと彼の横顔を見つめる。
 姿勢良く伸びた後ろ姿は背が高い割には細身で、無駄な脂肪の存在を窺わせなかった。一日が経って、恵無のスーツなど着崩れているのに、彼のスーツは変わりない。
 しっかりとした仕立てのスーツなのだろう。
 それに、ちらりと見えた横顔は、薄闇の中端正さが際だっている。
 きっともてるんだろうな……。
 そんなことまで思って、そういえば、と先ほどの会話の中身を思い出した。
 遅くなる──と彼は言っていた。
 それは誰かとの約束なのだろうか?
 柔らかい声音で話す相手。
 うらやましい。
 ふっとそんなことを思って──恵無ははたと我に返った。
 何で?
 自分が何でそんなことを思ったのか判らない。
 判らないことに焦れて、かと言って、なぜそんな事を気にするのかも判らなくて、恵無は慌てて足を進めた。
 人の携帯での会話を聞いているから、こんな訳の判らない事になるのだ。
 だから足早に、恥ずかしさに俯いたまま、高塚の背後を通り過ぎた。
 
Y.6
 
 排泄の欲求が無くなるとほっとする。
 その安堵感が、虚ろな視線を宙に向けた恵無に愚痴らせていた。
「この仕事……とれれば売り上げの心配はないんだよな……」
 それは、誰にも聞かせるつもりの無かった独り言であったけれど。
「そうでしょうね」
 背後からの反応に、心臓が飛び跳ねた。
 一瞬で硬直した体をなんとか動かし、肩越しに後ろを見やる。
「な、に?」
「僕もそうだと思いますし、で、ですね、その件でちょっとお話があるんですけど、いいですか?」
 悪戯っぽく笑う高塚が、恵無の肩に手を伸ばす。
 仕事でのつきあい、というには近い距離で、高塚が耳元で囁いた。
「長瀬さんに、お願いがあるんです」
 その触れた吐息に、ぞくりと背筋が粟立ち、恵無は深く考える前に、こくこくと頷いていた。
 そんな恵無に、高塚が嬉しそうに笑い、宴会場から少し離れた場所まで恵無を引っ張り出した。
 そこは同じ建物内だというのに、周りの喧噪から外れている。けれど、狭い。
 トイレの個室よりは広い空間だが、それでも大の男が二人もいると圧迫感があった。どうやら、倉庫にするつもりで、特に何も入れていないと言った感じの場所だ。
 恵無もそこそこに身長があるが、高塚はそれ以上だ。
 その高塚が狭い場所だと言うことをさっ引いてもひどく近い場所で、恵無を見下ろしている。
 その瞳は、まるでどう猛な肉食獣のものだ。
 逸らすと、即座に食われてしまいそうなのだ。
 だからこそ、恵無の背筋に悪寒が走る。
「な、何です?」
 自身の動揺を押し隠すように、恵無が問いかけると、高塚が口元だけを歪めていた。
 可笑しそうに笑っているようで、けれど、どこか苦笑しているようにも見える。
 どちらにせよ笑われていると判るのに、恵無は怒りどころかその場から逃げ出したい欲求に駆られていた。
 狭い場所でさらに二人の間が詰まる。そこから逃れようと一歩後ずさるが、無情にも背が壁にぶち当たった。
 視線の先で、唇が弧を描く。
 一瞬震えた、と思ったのは気のせいだろうか?
 そう思ったのもつかの間、その口が、恵無を驚愕させる言葉を吐いた。
「この仕事……欲しければ……。僕のものになりません?」
 恵無の目が大きく見開かれる。
 高塚の唇が戯れのように耳朶を掠めても、動くことはできなかった。
 今や、ほとんど抱きしめられんばかりの距離に高塚がいる。
 狭い空間に、高塚が付けているムスクの香りが充満していた。
 まるで酔いそうな匂いの海につかって、恵無の頭がきちんと働かない。
 彼は──この男は、一体何を言っているのだろうか?
「欲しいですよね……ジャパングローバル社としては……」
 その言葉に、ようやく首が動く。ギギッと軋む音が頭の中に響いた。なんとか視界に入った高塚は、うっすらと口元に笑みを浮かべている。
 冗談だったのか?
 そう思わせるほど、悪戯っぽい笑みだった。
 けれど、冗談にしては質が悪い。
 そして、決して冗談で済まされる態度ではなかった。
 高塚の本気が、恵無の体を縛る。
 それは恐怖だ。
 小刻みに震える体は、触れている場所から高塚にも伝わっているに違いない。
 なのに、止められないのだ。
「な、何で……」
 うわずった声に、高塚が笑んでいた。
「僕はあなたが欲しい。そして、あなたはこの仕事が欲しい。そして、今弊社ではあなたの会社の製品と別の会社の製品を比較している所なんですが、結構有意差がないんですよね。となると後は担当者の判断になります」
「そ、れは……その、つまり?」
「つまり設計担当の僕にかかっているってことですね」
「それって……あなたの判断で採用が決まる?」
 そんなはずはないと思う。
 こういう場合、材料が決まるのは設計だけでなく品質も購買もOKをださなければならないはずだ。
 幾ら他社のことでもそういう仕組みがあることくらい判る。
 そんな事を考えたせいで高塚を見る目にうさんくささが宿ったのだろう、高塚がふっと口元を歪めた。
「僕には、かなりの裁量権を与えられているんですよ。品質の問題はクリアしている。片瀬さんは購買との取引が上手らしいですよね。となると、僕がジャパングローバル社の製品を推薦すれば、かなりの確率で採用が決まるかもしれないんですよ」」
 高塚の言葉を理解するのに要した時間は僅かに数秒。
 だが、その間呆けた顔をしていたに違いない。その証拠に高塚が再びくすくすと吐息で笑い出したのだ。
 本当に可笑しそうに、明るい笑みだった。
 と──。
 緊張に高鳴っていたはずの胸が、きゅうっと引き絞られるような疼きを訴えた。
 どくんと今までと違う鼓動が鳴り響く。
 巧く働かない頭の中に、風が吹き抜けたように、恵無は一瞬惚けた。
「だからって……何で……?」
「気に入ったんです」
 笑いながら、視線だけは真剣そのものだ。
 きつく何もかも縛り上げるような隙のない視線が、恵無を捕らえている。
「……だっ……たか……つか、さ?」
 なぜか呼吸するのも困難なほどに、喘ぐことしかできない口から、ようようにして言葉がでる。
 けれど、なぜ呼びかけたのか、恵無にも判らなかった。
 拒絶しなければならない。
 とんでもない事を言われている。
 混乱している精神の一角で、一カ所だけ冷ややかに状況判断している場所がある。
 それでも、落ち着いて対処などできなかった。
「だから、僕のものになれば、ね」
「どういう……意味……ですか?」
「どういう意味って……こういう意味だけど?」
 頬に触れた手が、つっと肌の上を滑る。
 少しだけ上向かされた顔に、高塚の顔が迫ってきた。
 キス……される。
 そんなことなど気がついているのに、恵無の体は完全に硬直して、動かない。
 柔らかな唇が恵無のそれを塞ぐ寸前、堪らずに目を瞑った。そのせいで、よけいにその柔らかさに気付いてしまう。
「ああ、やっぱり可愛い」
 唇の上で呟かれ、その言葉にようやく目を開けることができた。
 壁に背を預けた体が、今にも崩れ落ちそうになるのだけは必死で堪える。
 だが、実際には恵無の両脇で壁に手をついている高塚の手が支えているようなものだ。
「何で……」
 嫌悪感がないのだろう?
 自問自答のその呟きを、高塚は自分に向けられたものと勘違いしたらしい。
 くすりと笑みを零して、どこか朦朧としている恵無の顔を覗き込む。
「なんだかね、欲しいって思ったんだよ。あの時に」
「あの時?」
「そう、あの時。新幹線で初めて見た時に」
 とたんに脳裏に浮かぶ、あの時の高塚に、恵無は視線を泳がせた。
 じっと見られて、居たたまれなくなっていたあの視線の意味が、今はっきりと判ったのだ。
 くっと目を細め、責めるように高塚を見やる。
 男相手に欲情される謂われはなかった。
 けれど。
 高塚はそんな恵無の反応を見ても愉しそうだ。
 そんな高塚の表情に気付いて、恵無は息を飲んだ。顔が熱くなる。
 じっと見られることが恥ずかしくて堪らなくて、結局視線を外した。宙を惑う恵無の視線は、けれど、高塚によって引き戻される。
 熱い吐息が頬をくすぐり、恵無の背筋にじんわりとした疼きが流れていった。
「高塚さん……離れて……ください」
 思わず手のひらを高塚の肩に押し当てた。
 このまま抱き込まれていると、何をしでかすか判らなくなりそうだった。
 今さっきだって、高塚からのキスを難なく受け止めてしまった。
 嫌だ──と思わなかった。
「どうして?」
 高塚がくすりと嘲笑を向ける。
「いいの?仕事がとれなくても?」
「それ……」
 高塚の言葉に恵無が激しく顔を顰めた。高塚は恵無を抱き込むようにしていたせいで、それに気付かないようだ。
 ただ、びくりと強ばった恵無の体を逃さないとばかりに抱きしめただけだ。
 だが、恵無の体が動いたのは、逃げようとしたせいではなかった。
 痛いっ──と、叫びたくなりそうなくらいの痛みが胸の奥に走ったのだ。
 その鋭い痛みのせいで無意識のうちに顔が歪み、目尻には涙すら浮かびそうになった。
 外的要因などどこにも与えられていないというのに、どうしてこんなにも痛いのか?
「仕事……、メルサ社の採用、のこと……ですか?」
 心臓が痛みに震えながら鳴り響いている。声が掠れて、言葉にすることすら難しい。
 意識が、ぴりぴりと限界まで張りつめた風船のようになっている。
 後ほんの少し刺激を与えると、パンと甲高い音を立てて弾けてしまいそうなそんな緊張感の中で、恵無の口が無意識に動いていた。
「あなたの言うことを聞いたら、採用されるっていうことですか?」
 嘘だ、と懇願する自分に恵無は気がついていた。
 そんなこと、恵無は望んでいない。だから言わないで欲しい。
 けれど。
「……ええ、そうですよ。長瀬さんの会社は、テクスタイル社の割合結構大きかったでしょう。もうテクスタイル社は当分立ち直れない。あんな賠償金額……信用問題もあるしね。そして今回の件を失敗して僕の会社からのオーダーもとれないなんてなったら──どうなるんでしょうね。つぶれるってことはないんだろうけど、結構な痛手じゃないですかね?」
 夢の世界に捕らわれているのだと思いたいのに、高塚の言葉は鋭くその世界を切り裂いた。
 
Z.7
 
「売り上げを伸ばすためにも必要でしょう?」
 高塚の言葉は忘れていたい現実を恵無に思い出させる。
「それは……そうです、けど」
 そして、今、夢の中にいたい自分と、現実を打破しようとする自分の二人が、恵無の中に存在している。
 その現実にいる自分が、高塚と対抗しようとする。
「あなたの裁量権で決定できる範囲とは思えません」
 だから、こんな要望は夢であって欲しい。
 恵無のそんな拙い欲求は、高塚の言葉で露と消えた。
「確かに役員は実績のあるドーラスタ社を採用したいと露骨に言っている。けれど、そいつらのどんな意見よりも、僕の言葉の方が決定権はある」
「ドーラスタ……」
 その名に恵無はぐっと拳を握りしめた。
 ジャパングローバル社とドーラスタ社は親会社からしてのライバルだった。今でも、他社で次機種の新規採用を取り合っている。
 その名を持つ会社は、もっとも負けたくない相手だ。
「技術的な要因は僕自身の裁量で決まる。そして、僕には購買や品証(品質保証)の意見なんか駆逐するだけの力もある。だから──」
 高塚の唇が、再び恵無の唇を柔らかく塞いだ。
 たったそれだけの接触に、恵無の喉から官能的な吐息が迫り上がる。
 そんな自分の反応が可笑しいと思う間もなく、恵無はそれを受け入れていた。
 嫌じゃない。
 酔っているせいなのかもしれないけど──嫌じゃない。
 夢見心地な心が言う。
 けれど。
 もう一つの心が、バカなことを、と、せせら笑っていた。
 恵無は、夢見て過ごすほど乙女ではない。
 甘い態度とは裏腹に、高塚のもたらした言葉は、あまりに恵無を貶めたものだった。
 自分を取引に使われて、何を悦ぶことがあろう。
 冷たい風が胸中を通り過ぎ、消えない痛みが意識を暗くしていく。
「俺で遊びたいんですか?」
 悔しい。泣きたいくらいに悔しい。
 暗い思考が負の感情を増長させていった。
 そして。
 意識が、恵無の心を守ろうと鎧を作り上げる。
 言葉が抑揚を失い、恵無の表情から感情が削げ落ちた。
「そんな会社間の売り上げに関わるような事を取引にするほど、俺に価値があるとは思えません」
 それこそ、好みに合いそうだから思うようにしたいと言ってくれた方が、いっそ真実味があった。
 いや、高塚の言葉から推測するに、そういうことなのだろうけど。
 だからと言って、仕事の取引にするなんて。
「俺なんか」
 ここで嫌だと言えば、諦められる程度なのだろうか?
 取引とはそういうものだ。
 両方が承諾しなければ、成り立たない。
 それが取引──ひいては契約する時の基本だ。
 売買契約書……。
 ふっとそんな言葉が頭に浮かび上がる。
 定常的な取引では関与したことはないが、単発的な取引の際にみかけたことがある。
 納期までに納入する事と単価の設定。
 それが守られなかった時の罰則規定。
 そんな細かな内容が明示された契約書だ。
 今回の場合は、取引対象は恵無自身で、その対価は、自社製品のメルサ社への採用。
 そこまで浮かんで、恵無はくっと小さく吹き出した。
 バカだ。
 こんな割の合わない契約書なんか、誰が署名・捺印するだろう。
 俺なんか……そんな価値はない。
 だが。
「高塚さんが俺なんかで良いというのであれば、いいですよ。その取引、受けても」
 欲しいと思った。
 契約書は双方の承諾がいるけれど。
 言い出しっぺは高塚の方なのだ。
 今更、捺印拒否はないだろう。
「高塚さんの要求、飲みます」
 その言葉に、高塚の目が驚愕に大きく見開かれる。
 それに恵無は乾いた笑い声を小さく上げた。
「どうして、そんなに驚くんです?」
 度胸だけは百人並み。
 由良にしてそう言わせた恵無の内心は、実は外見ほど落ち着いてなどいない。
 油断すればその場に崩れそうなほどだ。
 けれど、ここで崩れれば恵無は負けてしまう。──こんな理不尽な取引にだ。
「随分と落ち着いているんですね。こういうことは初めてではないんですか?」
「初めてです」
 けれど、それもそろそろ限界だ。
 背を預けた壁に縋っていなければ、ずるずると崩れ落ちそうだった。
「ふーん」
 小首を傾げて考えている高塚は、恵無の反応が思ったのと違っていて戸惑っているのだろう。
 だが、思い直したように恵無の体を再び抱きしめてきた。
 その手が背筋を辿り、一方が上へ、もう一方が下へと体を這っていく。
 ごつい男の手だ。
 なのに、嫌じゃないのはどうしてだろう?
 もう何度も考えた問いかけは、いつまでも答えは出そうになかった。
 顎にまで達した指が頬から顎のラインへと移っていく。
 触れている指とは違う指が伸びて、するりと首筋を撫でていく。
 ぞくぞくとむず痒さすら感じる疼きに、口の中に唾液が溢れてきた。
 ごくりと我知らず飲み込んで、その淫猥な響きに息を飲む。
 高塚は心得ているのか、巧みに恵無が刺激を受けるであろう耳の下から髪の生え際、そして喉のラインを指で探るように動かしていた。
 その間何も言わない。どうしろとも言わない。
 けれど、熱いため息が耳朶を擽った瞬間。
「仮契約……」
 そんな言葉にはっと目を見開くのと、唇が柔らかく塞がれたのとが同時だった。
 間近すぎてピントの合わない視界いっぱいに高塚の顔がある。
 首筋を嬲っていた指が恵無の髪の中にあった。
 強く押しつけられ、今までよりも深く激しい口付けが恵無を襲う。
 反射的に手が動いて、高塚の体を押し返そうとする。
 けれど、壁に押し付けるようにして体重をかけられているせいで、身動きもままならない。
「や…っ……」
 僅かに離れた瞬間を狙った言葉は、すぐさま塞がれて封じ込められた。
 香料の匂いがしないキスが深く、恵無を翻弄する。
 舌が、深く口内を犯していく。
 探るように動く舌先が、歯列を辿り、上顎を嬲っていった。
 ぞくぞくと肌が粟立つ。
 快感の渦があちらこちらの触れられてもいない場所で発生していく。
 封じ込められて思うようにできない呼吸に、だんだん息が上がってくる。それすらも、恵無の意識を浸食し、朦朧とさせるのだ。
 息も絶え絶えの恵無がようやく解放されて、開口一番に呟いた。
「く、苦しい……」
 それは、息苦しさもさることながら、絶え間なく訪れた快感の波から来たものでもあったけれど。
 高塚がくすくすと可笑しそうに笑い出した。
「何で笑って……」
 余韻だけでない紅潮した顔を晒した恵無に、高塚がほんの少し目を細めている。
「あんまり落ち着いていたから、経験豊富なのかな……って思った」
「そんなことっ」
「ああ、判ったよ。初めてだろ」
「違いますっ」
 さっきとは違う言葉を口走って、高塚の笑い声がさらに高くなった。
 恵無自身、バカなことを口走ったと、羞恥に俯いた。
 張りつめていた緊張感が微かに弛んで、そうなると、居たたまれなさが増してくる。
 こんなところでするには、あまりにも濃厚なキスだった。恵無の体が、慌てたように高塚から離れた。
「いい加減に──っ!」
 だが高塚は可笑しそうに笑みを崩さない。それに抗議の声を上げようとしたけれど。
 言葉が途中でぴたりと止まった。
 そのタイミングを計ったように恵無の懐で携帯が震え出したのだ。
「すみません、電話」
 良い機会だと高塚に背を向け、電話を取り出す。
 その背に視線が突き刺さってはいたけれど、恵無は完全に無視した。
「もしもし、あ、由良さん?」
 会社からの電話に、別の意味での緊張が走った。
 何かあったのだろうか?
 こんな時間にかけてきた由良の真意を思わず考える。
 だが、その想像がはっきりするより由良の言葉の方が早かった。
『テイコー社が来て欲しいって言っている。明日寄ってきてくれ』
 はっ……?
 テイコーから……?
「明日……ですか?」
『緊急で申し訳ないんだが、な』
 それはすでに決定事項なのだろう。
 由良の言葉に恵無の都合を聞く言葉は一切なかった。
 もっとも、恵無の都合より客先の都合の方が優先されるのが世の常だ。
 どうしても無理だと言えば、由良が行くことになるのだろうけれど。
「はい。判りました。明日、午後ですね」
『ああ、一時だ』
「了解しました」
 後ろに蹲ったままの高塚がいるから、話の内容を窺えるようなことは口にはできなかった。
『うん、頼む。じゃあな』
「はい、失礼します」
 短い会話に由良の焦りを感じる。
 恵無は大きくため息をつくと、高塚の方へと振り返った。
 彼がずっとそこにいたことは、背に感じていた視線で判っていた。
「そろそろ戻ります──片瀬が心配しますし……」
「そうですね」
 考える仕草を一瞬して、高塚は恵無を見つめた。
「では後で長瀬さんのホテルに招待して頂けませんか?」
「えっ?」
「それが取引でしょう?」
 言われて、また胸の奥に痛みが走った。
「さっきのは仮契約ですからね」
 『取引』、『契約』。
 その単語を耳にすると、走る痛みに、恵無はきつく奥歯を噛みしめた。
 どうして、こんなにも傷つくのか、さすがにおぼろげながらに判ってきたのだ。
「ああ、帰りに一緒に行ってもいいですね。じゃあ、部屋に戻りましょうか」
「……」
 愉しそうな高塚が先に歩き出す。
 恵無はしばらくその背を見つめていたが、小さくため息をつくと、その後をついて行った。
 嫌ではない。
 その意味は、判っている。
 だからこそ、高塚の言葉が受け入れられない。
 なのに、その嫌な取引に乗ってしまうほど、いつの間にか捕らわれていた。
 このまま拒絶したら、彼が離れていってしまいそうな気がした。
 けれど、そんな自分の心が信じられないと、固く握りしめた拳は小刻みに震えている。
 その拳を、恵無はぎゅっと胸に押し当てた。
 
[.8
 
 
 高塚の言葉に頷いたものの、頭の中は堂々巡りを続けていた。
 頷いたということは、あんな要求を受け入れてしまったということだ。
 仕事は欲しいけれど。
 けれどこんな条件は飲みたくない。だが、もし「否」といえば、こんな関係すら無くなるかもしれない。
 一体どういう対応をすれば良かったのか?
 自分が取った行動は、決して最善ではない。いや、むしろ最悪かもしれない。
 深いため息を何度も何度も繰り返し、恵無はずうっとぼんやりとしていた。
 記憶の片隅に、片瀬が別れの言葉を言っていたことだけは残っている。だが、ふと我に返ればそこはホテルの部屋だ。
 寝るためだけの狭い室内に、恵無はぼんやりと突っ立っていた。
 やっぱり止めた方がいい……だろうけど……。
 結論づけたはずだったのに、まだ躊躇いが大きい。
 高塚のキスは、恵無を翻弄した。決して不快感はなく、恵無自身の心も体も歓喜に打ち震えていた。
 それは否定しない。
 今まで男とどうこうなどと考えたことはなかったが、どうやら高塚だけは別なのだ。
 あんなにも嫌悪すべき相手だったと思ったのは、自分の心が情けなく揺らぐのが判っていたからかもしれない。本能が無意識のうちに、警告を発していたのだろう
 だがそんな警告も空しく、気が付けば捕らわれていた。いや、最初から捕らわれていたのかも知れない。
 信じられない感情を恵無の心に植え付けたのは、きっと高塚の方だ。あの男があんなにも見つめなかったら、気にする存在などにならなかった。
 なのにっ!
 恵無はベッドの傍らで、枕に拳を叩き付けた。
 あんなふうに見つめておいて、何で取り引きなんだ?
 芯まで見透かすような視線は、ただモノにしたい相手だからだったのか?
 いっそのこと、怒りにまかせて拒絶すれば良かった。
 そうすれば一体どんなことになったのだろう……。
「……くそっ」
 どちらを選んだとしても、辿り着く感情は一緒だろう。怒りと後悔がない交ぜになり、それは消えるどころかどんどんと膨らんでいった。
 たとえば、と最善の答えがなかったか考えるけれど。
 そのどれもがろくでもない結果に行き着いてしまう。
 頷いたのは、あの男を助長させてしまっただけかも知れない。
 取り引きすれば、何でも言うことを聞く相手だと思われたのではないか?
 ぐるぐると頭の中を駆けめぐる嫌な感情に、恵無は苛々と唇を噛みしめた。
 ぱらりと額に落ちた前髪が鬱陶しく、はね除けようと額に手をやれば、そこはしっとりと汗ばんでいた。
 高塚はもうすぐ来る。
 その時、自分はどんな態度を取れば良いというのか?
 結局はそこに行き着くのだが、それはもっと頭に浮かばなかった。
 その代わりのように脳裏に甦ったのは、先ほどの甘く深い口付けだ。全身が痺れて抗うことなど考えもしなかった。記憶が感覚までもを呼び起こし、ぞくりと粟立ってしまった肌に、恵無は慌てて両腕をかき抱いた。
 こんなにも感じたことは初めてだ。
 高塚に初めてか、とからかわれた時に否定したのは真実だ。
 けれど。
 高塚のキスは、触れあうだけでも、恵無を狂わせる。
 俯いて、きつく目を瞑った時。
「っ……!」
 微かなノックの音が恵無の耳にまで届いた。
 びくりと全身が震え、視線だけがゆっくりとドアへと向けられた。
 知り合いも誰もいないこの地で訪ねてくるのは彼しかいない。
 なのにこのひどく控えめなノックの音は一体どういうことなのだろう?
 その音が、何度もゆっくりと繰り返される。
 このまま放置すれば諦めて帰って行きそうな、そんな音だとは思ったけれど。
 恵無はゆっくりと体を翻した。
 高塚は何をしたいのだろう?
 何を求めているのだろう?
 ドアへ向かって歩きながら、頭の中は自問自答を繰り返している。
 恵無の手は、自身ですら意外なほどに呆気なくロックを解除した。ドアノブが動きドアが開いていく。
 開放された空間にいるのは、紛う事なき高塚宗也、その人だ。
「どうぞ」
 ドアが開いても入ろうとしない高塚を恵無は自ら促す。
 その言葉に、高塚の視線が宙を彷徨った。
 まるで躊躇するかのように、足が動きかけては止まる。そんな様子を見て、恵無も困惑を隠しきれなかった。
「なんだか、立場が逆ですね」
 ようようにして足を進めた高塚が、苦笑を浮かべながらぽつりと喋った。
 だが、なぜ彼が苦笑いを浮かべるのか?
 どうしてそんな事を言い出すのか?
 激しい緊張に晒されてありきたりの会話しかできない恵無ではあったけれど、高塚はもっと緊張しているように見えた。笑ってはいるけれど、今まで見たことのないぎこちなさがある。
 けれど。
 そんな高塚を見たとたんに、恵無の高鳴っていた鼓動がさらに激しくなっていく。
「俺は……いつもと同じ……。高塚さんの方が変です」
 抑揚の無い、けれど平静そうな声が出た事に、恵無は自分の緊張癖に感謝した。
 でないと、内心の動揺を伝えてしまいそうだった。
 高塚の姿がここにあるというだけで、悦んでいる自分を晒したくはない。
 そう、悦んでいるのだ。こんなにも、惹かれている自分がバカだと、理性は言う。
 けれど、制御できない感情が、悦んで震えている。
「まあ……緊張はするよ……。ホテルで長瀬さんと二人っきりなんだし」
 その言葉に、心が悦ぶ。
 けれど。
「ほんとに僕と取引するつもりがあるんだってことだね」
 その言葉に、恵無は俯いて奥歯を噛みしめた。
 狭いホテルの一室で、すぐ目の前にはベッドがある。
 シングルの部屋でベッドは一つ。そこに歩みよって腰を下ろした高塚が、立ちつくす恵無に視線を向けた。
「嬉しい……と言ったら、バカにされるだろうけど」
 恵無を見上げて静かに──けれど、ひどく寂しそうな笑い方をされて、恵無の鼓動はさらに激しくなった。
 覚えず数度瞬きし、彼をじっと見つめる。
「実は、ドアの前で門前払いされるかもって考えていた」
「……取引だから」
 僅かに息を飲み、けれど、平然と答える。
 だが、それは嘘だ。
 平然としているのは取り繕った恵無の表情だけだ。内心は、激しい動揺で今にも脳貧血を起こしそうな感じだった。
 高塚さんだから。
 あなただけが特別なんだ。
 だから、受け入れたんだ。
 叫びたい程の欲求に、身が激しく焦がされる。
 けれど、その言葉は出ない。
 緊張のあまり荒くなっている息を整えるだけで、かなりの気力を使っていた。立つというその何でもない動作に、必死になっているとは高塚は気付かないだろう。
 その恵無に、高塚の手が伸びる。
「シャワー……浴びていないね、その格好だと……。さっきのまんまだ」
 伸びた手が、恵無のスーツのボタンを外す。
 高低差で、高塚は幾分動きにくそうだった。それに気付いて恵無は腰を屈めた。
 ただ、そうした方が良いと思っただけだったけれど。その拍子に高塚が驚いたように顔を上げる。
「あ……俺」
 僅かに遅れて、恵無は自身が取った行動に気が付いた。
 信じられない、と思うけれど、確かに自らその体を差し出したのと同じ行為。
 思わずびくりと後ずさった恵無に、高塚の目が深く探るような視線をよこす。
 ごくりと喉が鳴った。
 激しい緊張感に鼓動が激しくなる。
「……長瀬さんは男同士ってしたことある?」
 届かない位置に離れてしまったせいか、高塚の手が降ろされた。寂しげな笑みはなりを潜め、今その口元にあるのは皮肉な笑みだ。
 恵無にしてみれば悔しいくらいに長くすらりとした足が優雅な動きで組まれる。
「長瀬さん?」
「え……あ……、な、ない」
 咄嗟に呟いた言葉は真実だ。
 だが、今はそれが惜しいと思える。
 そんな考えに、恵無の頭の中はぐるぐると結論が付かないままに回り続けている。
「そっか……嬉しいな。僕が長瀬さんの初めての男って訳だ」
「こんなの……二度とない」
 少なくとも高塚以外とこんな事になるのはごめんだった。
 そのつもりで言ったのだけど、高塚がふっと哀しそうに眉間にシワを寄せた。
 けれど、すぐにそのシワが解れる。
「おいでよ、ここに」
 少し明るい声が、恵無を促していた。
 高塚の横、それはベッドの上だ。
 ごくり、と息を飲む音が耳に生々しく響く。期待に満ちた悦びが胸の奥深くにあることは否定できない。
 だが、これは……契約だ。
 そう思うとひどく哀しかった。
「長瀬さん?」
 乞われて、止めかけた足を動かした。
 何もかも──言いたいこともしたいことも何もかも飲み込むしかないのだ。
 その様子を高塚がじっと見ている。恵無の一挙一動を見逃さないとばかりに見つめている。
「座って」
 その言葉のままに、恵無はぎくしゃくと傍らに座った。
 心臓が、破裂しそうなほどにひどく高鳴っている。
 弱い視線が留まるところを探して彷徨いた。
 と──不意に高塚の顔が迫ってきて。
「んっ!」
 驚いて咄嗟に手を突っ張るが、驚くほど力強い腕が恵無を拘束した。高塚の指が後頭部に回され、あやすように髪を梳いている。
 最初のキスは、契約の証のようにしたけれど、今度のキスは根こそぎ奪われるように激しい。
「んうっ」
 生温かく厚みのある舌が、奥へと入ってくる。逃げを打とうとした舌は難なく絡め取られて──その刹那、ざわりと悪寒にも似た痺れが全身を走った。
 堪らずに指先に触れていた高塚のシャツに縋り付く。
 その快感に溺れそうになって、今まで体感したことのない恐怖が湧き起こる。
 ぎゅっと握りしめた指に伝わる熱が堪らなく怖い。
「う──やっ!」
「くっ」
 荒い息が離れた双方の唇から漏れる。
 思わず突き飛ばした先で呆然と見つめてくる高塚の表情が、恵無の瞳に焼き付いた。
「あ……」
 疼くような快感は、全身を襲ったままだ。
 その快感に流されそうな自身が、咄嗟に取った防衛行動だったのだが。
「僕が怖い?」
 怖い、のだろうか?
 その問いには、違う、と即座に反応できた。
 けれど、快感に晒された時に自分が制御できなくなるような──そんな恐怖は確かにあった。だが、言えるわけがない。
 高塚のキスに──堪えきれないほどに感じてしまったなどと。
 だが、高塚は表面上の反応で怖いのだと思ったらしい。
 自嘲気味の笑みが、その表情に張り付いていた。
「まあ確かに。仕事を盾にこんな関係を強要しているんだよな。経験のないあんたには怖いだけだろうよ」
 その手が恵無の頬に触れる。
「あ、ああ……少しは怖いみたいだ」
 まさか今更違うと言えなくて、恵無は他人事のように呟く。
 確かに、こういう行為に対しての恐れは恵無を襲っている。実は、女性ともほとんど経験がない──ということからに他ならないのだが、さすがにそれは感じたこと以上に恥ずかしく、言えるものではなかった。
 その間にも高塚の手が触れた場所から感じるもどかしい疼きに、顔が勝手に顰められる。
 それも恐怖からと、高塚は勝手に解釈しているようだった。
「ほんとは一番駄目なことやっているんだよな。──だけど、こうやって温もりを感じていると……欲しくて欲しくて堪らなくて……」
 辛そうに顔を歪めて──けれど、その瞳から優しさが消えていく。
 男の欲望に満ちた表情が至近距離に迫ってくる。
 まるで狩られているとしか思えないほど、きつく縛められていくのだ。
 掴まれたところが熱い。
 あの、初めて見た時から捕らわれている瞳と同じだった。不躾までに見つめられ、縛られてしまったあの瞳だ。
 こうなると、恵無は動けない。
「あっ……あっ……」
「どうしよう……欲しくて堪らない……。怖がるあんたに優しくしたいのに──、だけどあんたの瞳に煽られる……」
「お、俺の?」
 それは逆だと思うけれど。
 近づく瞳にこれほどまでに体が硬直してしまうのに。
 強ばった頬が小刻みに震える。
 見上げる先で、高塚が自嘲の笑みを返してきた。
「ごめん、優しくしたいけど……ごめん」
 言葉だけは優しい。
 だが。
 労るような言葉とは裏腹に、行動は──激しかった。
 高塚の手が、恵無の体を押し倒す。逃げを打つ暇もなく、その体がぐいっと恵無の腰の上にのしかかってきた。
 全体重をかけられ、骨と筋肉がきしむ。
「痛いっ!」
 思わず叫んでも、悲しげな自嘲が返ってきただけだ。
「ごめん……僕、なんだが狂ってるみたいだ。長瀬さんが嫌がるのに、どうしても手に入れたいって思ってる」
「え……」
 それはどう聞いても告白にしか聞こえなかった。 
 高塚の言葉が耳に入ったとたん、恵無の胸に熱い塊が込み上げてくる。
 耳から聞こえた言葉がひどく熱い。
 心が熱くて、体まで熱くなる。
 近づいてくる赤く湿った唇に、恵無は自然に目を閉じていた。
 柔らかく塞がれるその感触を受け入れる。
 狂っている……か。
 どこか冷静さを持っている頭が高塚の言葉を反芻する。
 狂っていると言いながら──けれど。
「口を開けて」
 唇の上で、高塚が囁く。
 うっすらと緩められた歯列の間を、高塚の熱く肉厚の舌が潜り込んできた。
 反射的に押し出そうとした恵無の舌を反対に捕らえて弄ぶ。
 舌の裏をなで上げられ、じんわりとした疼きが口内にわき起こった。
 そのせいで、大量の唾液が分泌される。だが、口内に入り込んだ高塚の舌がそれを飲み込むことを許さない。
「うっ……うぅ……」
 ぞくりと繰り返し与えられる口内への愛撫に、何度も何度も甘い疼きが全身を襲う。
 たかが、キスなのに……。
 感じて、喉の奥から声が漏れそうになる。
 腰に直結するような巧みなディープキスはこれまでしたことがない。
 こんなにも官能的なキスは、初めてだった。
 
\.9
 
「やっ……あ──っ」
 触れられ、這い上がる疼きは決して不快ではない。だが、そのむず痒さにも似た感覚に体がじっとしていられない。 闇雲に指先が触れるものに縋り付く。
 意識しないままに零れるのは拒絶の言葉だった。けれど、それに気が付いても零れる声はどうしても止まらない。
 甘い喘ぎ声も混じって、激しい羞恥心が恵無を襲う。
 だが、火照った体は高塚の愛撫をさらに敏感に受け取ってしまった。
 ワイシャツの前を広げられ、滅多に人前に晒さない肌が高塚の視界に捕らえられてた。
 陽に焼けていない白い肌の上で高塚の頭が動く。
 滑る舌先が、敏感な胸の先に絡みつき、吸い上げる。
「うっ、ふぁっぁ」
 微かに走る痛みが快感と一緒になって、ざわざわと全身を駆け抜けた。
 始まりの乱暴さとは裏腹に、高塚の動きはひどく遅い。逸る心を必死で堪えているように、その顔はきつく顰められている。
 時折、辛そうなため息が零れるのに、それでも高塚は念入りに事を進めていた。
 それが恵無にも判る。
 キスから始まった行為は、首筋を嬲り、今ようやく胸にまで達していたところだ。
 胸の突起を含まれ、舌先で転がされるたびにじんわりとした疼きが走る。
 もう痛みも消えて、つい身悶えてしまう快感に居ても立ってもいられない。押さえつけられて動けないことが苦しい。じっくりと弄ばれた胸先は、いつもより立ち上がり赤く充血している。
 そのせいで敏感になっているのに、さらにそこを甘噛みし、吸い付かれた。
「っ!」
 あまりの衝撃に声すら出ない。びくりと跳ねた体は、高塚の体が無ければ大きくバウンドしていただろう。
 代わりに荒い息を吐き出して、ぎゅっと目を瞑る。
 ──焦れったい……。
 ざわめく肌は先を求めている。
 快感に晒されて、恵無の雄ははっきりと反応している。
 いつもなら、自ら行動して先に進んでいただろう。自慰にしろ、女性相手にしろ、こんなにも我慢することはない。恵無自身の思うように動くからだ。
 だが、受けの立場がこんなにも翻弄されるものだとは思っても見なかった。
 触れる手が、次にどこに行くのか判らない。
 いつまでそこを愛撫するのか判らない。
 して欲しいのに……触れたいのに。
 きつくなったズボンを取り払いたいのに。
 だが、率先して行うには、あまりにも恥ずかしい。
 あまりにも甘美な責め苦は、恵無の意識を完全に絡め取り、その先を強く求めさせていた。
 何度、『もっと』という言葉を飲み込んだだろう。
 始まった行為は、すべて高塚の主導で進められているのに、決して無理強いはしてこない。
 丹念に愛撫を施し、その場所が感じるようになるまで何度も何度も責め続けるのだ。
 その間も、空いている手は脇から腰のラインを触れるか触れないかの距離で撫でていた。そこが性感帯であることは最初の時点でばれている。
「っ……」
 何度も何度も息を飲み、身悶えるしかないことがこんなにも辛いとは思わなかった。
 高塚の手に翻弄され、それは確実に恵無の快感を煽っていく。
 男であるとかそういこうことは、こういう時は関係ないのかと悔しさを噛みしめるしかない。だが、そんなことを考えたのも一瞬で、あっという間に次の快感の波に飲み込まれた。。
 時折、洩れそうになる喘ぎ声を止めることに、恵無は必死だった。声を出さないために噛みしめた唇が、赤く腫れてくるほどにだ。
「そんなに噛みしめると傷になる」
 高塚の穏やかな声が聞こえ、その指が柔らかく唇を辿った。
「うっ!」
 たったそれだけのことで、全身が自分のものでなくなる。噛みしめた唇が勝手に緩み、その瞬間を逃さなかった高塚の親指が入ってくる。
「声、出せばいい……その方が楽だよ」
 穏やかなのに、だがその声が最初の頃より掠れていて、恵無の下半身にダイレクトに響く。
 口に入っている以外の指が恵無の頬を優しく撫でていた。その優しさが、今はひどく苦しい。
 何かに縋りたい手が、思わず高塚に向かいそうになるのを必死で堪えているというのに。
 その恵無自身が掛けた枷が外れそうになる。
 だが、快感を我慢するのは難しい。
 縋りたい気持ちを我慢するのはもっと難しい。
 その苦しさに、恵無の両眼に涙が溢れ、流れた。
「あ……やっ……こん、な──っ」
 泣きたくなんかないのに。
 けれど、高塚の熱が、恵無を狂わせる。
 だが。
 涙が頬を伝い、シーツを濡らす頃、覆われていた熱が不意に無くなった。
 のしかかっていたはずの重みも消え、その喪失感に恵無の体がびくりと震える。
 慌てて開けた視界は涙で滲んでいたが、高塚がどこか困ったように眉を顰めているのは判った。
「そんなに泣くな……」
 ゆるりと撫で上げられる頬は確かにぬめりを帯びていて、涙が伝ったことを教える。
 苦しそうな声音は、自嘲なのだろうか?
 何かに絶え入るように高塚がきつく唇を噛んでいた。
「泣かないでくれ……」
「ちがっ……」
 悲しくて辛くて出た涙じゃない。
 これは、焦らされて出てきた涙なのだ。
 欲しい、から……。
 だが、それだけは言えないと、恵無は慌てて口を噤んだ。
 それは最後の砦なのだ。契約という名の下の行為で、何もかも明け渡してしまいたくはなかった。
 それでも、もうその砦はすぐにでも崩壊するだろう。
 今は我慢することがこんなにも苦しい。
 なのに、泣いているからと、高塚がその手を止めてしまった。
 どうして?
「ど…し……て……?」
 指が唇に触れてきて、くすぐったい感触に、身を震わせる。そんな恵無を、高塚が切なげに見下ろしていた。
「……そんな、優しい?」
 その聞きづらい質問に、高塚は切なさの籠もった笑みを浮かべた。
 その表情に、恵無は束の間魅入られしまう。
 だが、すぐにそれは視界から消えてしまった。高塚が何も言わぬまま顔を恵無の胸に伏せたのだ。
 かりっ
「んっぁあっ」
 充血した乳首を軽く噛まれ、堪えきれずに嬌声が洩れる。
 一度洩れ始めた声は、閉じられない唇のせいで容易く外へ漏れていった。
 再び与えられた愛撫に、心が全てを放棄する。
 もういい……。
 今はただ快楽の海に浸っていたい。どこまでも、高塚の思うがままに翻弄されたい。
 熱に浮かされ、理性を失うこと。
 そうすることがもっとも甘美な悦びなのだと、恵無を支配する。
 痺れたようにうまく動かせない手が、頼りない自分の体をなんとかしたくて、所在なげに空を掴んだ。
 何度も何度も空を掴み、何かの拍子に指先に何かが絡まる。
 その糸のような触感に、恵無はきつく指先に力を込めた。
「っ!」
 微かな叫び声に、恵無は視線でそれを追い、指に絡まる髪に気付く。
 引っ張られ、不自然な体勢になった高塚と視線が絡んだ。
「あ、ごめん……」
 思わず謝っていた。
 とたんに高塚がひどく驚いたように体を震わせ、目を見開いた。
 体が先ほどと同じように離れて、緩めていた指先から髪がすり抜ける。
 また掴む物がなくなって拳はただ空を掴み、シーツの上にぱたりと落とされた。
 二人の動きが止まる。
 数本の髪が絡んでシーツに落ちた拳と恵無の顔を高塚が交互に見つめた。
 そして。
 深いため息がその口から零れ、吐き出し終わった後、高塚は儚げに微笑んだ。
 切なくて、胸が締め付けられそうなほどに寂しい笑みだ。
 そんな高塚を見つめる恵無に、信じられない言葉が降ってきた。
「やめたい?」
「え……?…やめ…る……?」
 言われて、そんな選択肢など考えてもいないことに気が付く。
 そして、嫌だ、と叫びそうになっていることもだ。
「やめたくないのか?」
 問い返す恵無に、今度は高塚の方が不思議そうに問いかける。
「あ……」
 嫌だ。
 止めたくない。
 だけど、それを言うには──さすがに羞恥心が勝っていた。
 けれど、熱い体が先を求めている。
 一度高ぶった体が解放を求めている。
 だが、それはこんな行為をしなくても解放することはできる。
 こんなふうに高ぶらさせられたとはいえ、このまま先までいくことはない。
 なのに……。
 未だ服を着たままの高塚に、目を向ける。
 対する恵無は上半身裸でベッドに横たわっている状態。
 ふと、高塚の視線を感じて、恵無は体が熱くなるのを感じた。
 ふわっと包まれるような熱い視線に、心臓までもが早鳴る。
 そんな自分を見られるのがひどく恥ずかしくて、恵無は高塚に背を向けた。
 だがその仕草を高塚は拒絶と受け止めたらしい。
 体の熱を吐き出すように大きく息をした高塚は、完全に恵無から離れてベッドサイドに腰を下ろした。
「やっぱ……もういいよ」
 背を向けたままの高塚がぽつりと呟いた言葉に耳を疑う。
「え……?」
「長瀬さんを手に入れたいって気持ちに代わりはない。だけど……無理矢理ってのが受け入れられない。それでも、今を逃したら機会なんてないだろうから……せめて体だけでもって──もう必死だったのに、やっぱあんたに泣かれるのは堪んないや。髪掴まれて、痛みに我に返ったって感じかな」
「これは……」
 引っ張った時の髪が指先に残っている。
 あの時は何でも良かったのだ。ただ、縋りたかっただけで。
「こんな痛みを、長瀬さんに与えているのかも……って思ったら、一気に頭が冷めていった。怖くなったんだよ。実際、キスしても、何をしても──後味がひどく悪いんだ。一回でも欲しいって言ってくれたら、こんな罪悪感無くなるかもって思ったけど……。駄目みたいだし……」
 深い溜息を繰り返した高塚は、本気で止めるつもりのように見えた。
 
].10
 
──罪悪感……って……。
 高塚が言いたいことは判る。
 だが、止めると言われて、「はい、そうですか」と頷く気にはなれなかった。
 だからと言って何か言えるものでもなく、ただ呆然と高塚を凝視しているだけだ。
 そんな恵無に気が付いて、高塚が口の端を歪めて視線を向けてきた。
「服着ろよ。これでも我慢してるんだからな。そんな格好でいるとその我慢も効かなくなる」
「あ……」
 確かにはだけたシャツはかろうじて絡みついているものの、恵無の上半身はほとんど剥き出しになっている。視線を向けただけでも、そこかしこに朱色の印が確認できた。
 その場所は、長瀬が口付けた所だ。
 そのことに気が付いて、体の芯から熱が込み上げてくる。
 羞恥と快感とからくる熱が吹き出して、服の代わりのように肌の上に纏わりついているのだ。その熱がさらに上昇した。吹き出す汗は冷や汗だけではない。
 慌ててシャツを羽織ったのは、ただ肌を隠したかったからだった。だが、触れる布地が肌を擽る。
 いつもなら何でもないその触感が、今に限ってうずうずと何かが這い回るような刺激を与えてきた。何かが肌の上にいる。もどかしげな触感は、くすぐったく──ついで、ざわざわと肌がざわめく。 
 それら全てが、下腹部の奥に集中していくのだ。
 記憶が高塚の愛撫を忘れない。
 忘れないからこそ、体がいつまでも治まらない。それも当然だろう。高まりきった体は未だ解放されていないのだから。
 まだ……──と欲する自身に気がついて、恵無は固く唇を噛みしめた。
 体が疼いている。こんなところで止めたことは無かった。暴走しかけた体は、未だ勢いが衰えていないのだ。
 股間は痛いほどに猛っていて、苦しくて仕方がなかった。
 おずおずと上げた腕で、自らの体をかき抱く。
 ぎゅうっときつく力を込めて初めて、体が震えていることに気が付いた。
「長瀬さん……震えてる?大丈夫か?」
 恵無の様子がおかしいことに気が付いたのか、高塚が訝しげに問うてきた。
 止めると言ったその口で、労るような言葉を吐く。
 違う……。
 欲しいのはそんな言葉では無い。
「もう、何もしないよ。僕は……帰るから」
 ぎしっとベットが軋む音がした。
 揺らいだ体の動きに、高塚が離れようとしているのだと気付く。
 ひどい──。
 闇雲にそう思った。
 ここまでやって、止めるなんてひどい……。
 恨めしさが込み上げて、恵無は上目遣いに高塚を見上げた。
 上背のある高塚が立ち上がろうとしていると、ひどく離れていっているように見えた。
 さっきまで、その体で恵無を翻弄していたというのに。
 快感の虜にして、身も蓋もなく喘がそうとしていたくせに。
 ──欲しい、のに……。
 恵無の手が、無意識のうちに股間へと伸びていた。
 ファスナーを下ろし、下着の中にまで手を差し込んでいく。
 その間も視線は高塚から外れなかった。
 欲しいから、逃したくなかった。
「んっ……」
 待望の刺激に、甘い喘ぎ声が喉から零れ落ちた。
 放り出されていた恵無のモノが、僅かに触れただけでも歓喜に震えている。
「な、長瀬さんっ」
 視線の先で高塚が目を見開き、唖然として恵無を見つめていた。
 半ば立ち上がった姿勢のまま、動くこともできないようだ。先ほどの呼びかけも、喘ぎながらであった。
「……んっく……」
 少しは萎えていたのだが、それはすぐに限界まで熱くなった。
 自慰行為を高塚に見られているという激しい羞恥心が、さらに限界を早めてくれる。
 だが、一度はじめた行為は、もう止めることなどできなかった。
「……ここまできて……何が……我慢だよっ」
 気が狂っている。
 自分が喋った言葉を頭の中で繰り返して、頭の片隅の冷静な部分が自嘲した。
 だが、それでも欲しいのだと、頭の中、ほとんど全ての部分が喚いている。
「こんなとこっ……で、止められてっ……──我慢なんかできるかっ!!」
 頭の中だけで喚いていた言葉が、そのまんま口を吐いて出た。
 激しい感情に飲み込まれて、理性など今はどこにも見あたらない。
「……何で?」
 間の抜けた声が視線の先の口から漏れた。
 バカなことを、と、刹那、笑みを浮かべたけれど、恵無の顔はすぐに顰められた。
 伸ばした手が、高塚に届かなかったからだ。
 込み上げる悔しさに、舌打ちして、無理に先へと伸ばす。
 僅かに触れた爪先で、ひっかくようにして高塚のシャツを摘んだ。
「っ!」
 強ばった表情にいい気味だと、ほくそ笑む。
 シャツを掴んだ指先は、恵無から零れた液に濡れて、灯りに照らされていた。
 滑る指先で、それでもなんとかシャツを手繰り寄せれば、高塚も観念したかのように体を屈めてくる。
 間近に迫った顔に、ふっと恵無は微笑んだ。
 高塚の表情がさらに強ばる。その何もかもが、今手の中にあった。
 だから、恵無は悦んで──そして、笑っている。
 欲しかったのは、自分のほうだ。
 だからこそ。
 ──捕まえた。
 
 
「ど……して」
 触れ合っている唇が蠢いた。
 どうして?
 その問いかけに吐息で笑う。
 簡単な事だと、恵無は思う。
 この体の熱をどうにかして欲しかったからだ。そして、高塚が行ってしまうのが嫌だった。
 ただ、それだけ──だ。
 混じり合う唾液が互いの顎を伝う。
 深く侵入していたはずの舌は、気がつけば押し返され、今は恵無の口内で暴れていた。
 激しいキスは恵無の意識をまた朦朧とさせていった。おぼつかない状況に腕に勝手に力が入り、高塚をきつく抱きしめる。
 それだけで、ひどく安心した。全身に触れる温もりが、何よりも心地よい。
「いいのか?」
 この期に及んで、まだそんなことを言ってくる。そんな高塚に、恵無は熱い吐息と共に頷いた。
「欲しくなったんだよ……」
 欲しいと言ったらやってくれるんだろ?
 微かな声音で、高塚自身の台詞を思い出させる。
 その言葉に、高塚はきつく顔を顰めただけでもう何も言わなかった。
 激情を堪えているその様子はひどく男らしい。
 今ならずっと向けられていたのは熱い眼差しだと判る。そして、こんなにも男らしく格好良い男だったのだと、改めて気が付いた。
 だからきっと、魅入られたのだ、と。
 話すために離れた隙間が口惜しくて、恵無は誘うように顔を近づけた。
「……判った……」
 掠れた言葉が耳朶を打つ。
 今までにない貪るような口付けが、恵無の呼吸を奪った。
 そこに最前までの、優しさは一欠片もない。
 なのに、恵無の背筋を感電したかのごとく激しい痺れが走った。思わず息を飲み、指がきつく高塚の肌に食い込む。
 さっきまで愛撫するしかなかった高塚の手が、互いを隔てる邪魔な布地を荒々しく引き剥がす。無理に引っ張られたせいか、肩先で痛みが走ったが、密着した肌に我を忘れた。
「うっ……あっ──やぁっ……」
「長瀬さん……凄い……、こんな──」
 何を言いたいのか、うわごとのように高塚が繰り返す。
 組み敷かれて、睦言も何もないけれど、それでも恵無は悦びでいっぱいだった。
「すご……こんな、熱くて」
「あっ……んくぅ……ふっ……はあ──っ」
「ちょっと我慢して、解すから……」
 体の奥深く侵入してくる異物感は相当なモノだったけれど、それでも受け入れているのだと思うと、我慢できる。
 言葉の通り、高塚の指先はゆっくりと増やされている。
 けれど、そのたびに恵無の体は苦しさに喘ぐ。
 だが、嫌だとは思わない。
「だ……いじょーぶだから……」
 恵無が顔を顰めるたびに止まる高塚に、かろうじて笑いかけた。
 今更、止めさせるなんてできない。
 止めることもできない。
 違和感が快感に変わるまでゆっくりと蠢く愛撫は、その優しさでもって恵無を翻弄する。
 そして。
 指が恵無の敏感な奥を刺激して、堪えられないと恵無が喘ぎだした頃に、ようやく高塚が体勢を変えた。
 流れるほどの液体がくすぐったい。
 だが、同じ滑りを持った大きなそれが触れたとたんに、体が強ばった。
「あっ……」
「力を……抜いて」
 優しい呼びかけに、こくりと頷く。
 頭上からしてくる声音に誘われるようにして目を開けると、高塚の顔が間近にあった。
「欲しい?」
 最後の確認だと、真剣な面持ちの高塚が問う。
 だから。
「欲しい……」
 熱い吐息と共に、恵無ははっきりと答えた。
 
 
「んっ、あぁぁ」
 受け入れる覚悟はできたはずだったのに、それでも高塚の屹立が沈められた時には苦しさに喘いだ。奥深くまで何か詰め物でもされたような感覚だ。
 息苦しいほどの圧迫感に、短く何度も喘ぐ。
 その呼吸の感覚に合わせて、高塚が腰を動かしていた。
 確認するかのようにじっと恵無を見つめている。
 恵無も堪えきれずに顔を顰めながらも、それでも薄目を開けたまま高塚を見つめていた。
 繰り返される抽挿が少しずつ大きくなっていく。
「んっ……ああっ……ふぁっ…………たか…か……さっ」
「いいよ、熱い。きつくて……」
 かけられていた言葉が不意に途切れた──と。
「長瀬さんっ……ごめんっ」
 切羽詰まった声が耳朶に届く。
 そして。
「あ、ふぁぁ!」
 衝撃に、肺の中の空気を一気に吐き出した。悲鳴が止められなかったけれど、高塚の動きは止まらなかった。
 その勢いに、喉の奥で唾液が絡んだのか、何度も咳き込む。
 それでも、高塚の動きに躊躇いは見られなかった。
 彼も限界を超えたのだ。
 そう思うと、苦しい中にも悦びが湧いてくる。もとより、苦しくても常にじんわりとした快感が絡みついていた。
 後孔の刺激だけでも、恵無の屹立は限界まで勃ち上がっているのだ。
 欲しかった。
 欲しくて、堪らなかった。
 それはきっと、初めて会ったあの瞬間から、きっと──。
 今この瞬間が、欲しくて──。
 
 
 肌の上を撫でていた手が、恵無の屹立を握りしめる。
 刹那。
「うっ、あああっ」
 閃光が走り抜け、意識が弾けた。
 今まで経験したことのない快感のうねりは、意識すら奪い去ろうとする。
 堪らずに力を込めた腕の中で、高塚の体もびくりと震え。
「うっ、──つっ!」
 ほどなくして高塚の体からも力が抜けていった。
 
]T.11
 
 すぐ傍らに大きな温もりがある。
 しっとりと手に馴染むその温もりを、恵無は夢うつつに抱きしめていた。
 どくどくと、低い音が規則正しく響いている。その音を聞いていると、なぜかとても安心できた。だから、もっと聞きたいとその音源に耳を寄せる。
「ん……」
 最適な温もりと子守歌のような穏やかな音が、今までにないほどの深い眠りへと誘う。幸せな音が恵無の浮上しかけた意識をまた深みへと引き戻して──。
「ながせさん……」
 誰かのよく知った声で名前を呼ばれたけれど、心地よい眠りから浮上するのを恐れて、恵無は無視した。
 ただ、このままずっとこうしていたかった。
 
 
 
 かさりと布が擦れ合う音がした。ついで傍らから温もりが消える。
 それまで、深い眠りの中にいたというのに、まるで怯えている子供のようにその変化にひどく敏感に反応した。
「あっ……」
 恵無が伸ばした手は空を掴み、驚いて目を見開く。
 目覚めた直後のせいか視界はどことなくぼやけていて、探し人は見つからない。ただ、まだ薄暗い室内の先で、唯一灯りが漏れている箇所があった。そこを凝視すれば、バスルームだと気が付く。
 ふっと時計を見ると、2時を過ぎた所だった。朝と言うにはまだ限りなく早いし、眠りについた時刻からすれば1時間も経っていない。
 恵無はベッドに横たわったまま、ぼんやりとその灯りを見つめた。
 疲れているはずなのに、そこから視線を外すことができない。
 眠ることもできないのだ。
 耳を澄ませば、シャワーを使う音がしていた。
 汗にまみれた体を綺麗にしているのだろうか?
 僅かに空いた掛け布団の隙間から室内の冷えた空気が入り込む。そのせいで、意識が少しはっきりしてきた。
 そうなると眠気などどこにもなくなり、恵無は大きく息を吐くと、ゆっくりと起きあがった。足と腰が、ぎしっと音がしそうな程にぎこちなく動く──と。
「……っ」
 起こした上半身の重みが腰にかかった途端、息を飲むほどの痛みが走った。ベッドに両手をついて、なんとか痛みを逃したけれど、今度はその姿勢から動けない。
 はあっと、大きく息を吐き出して体から力を抜くけれど、じくじくとした痛みはいつまでも続いていた。
「やば……」
 最中は我を忘れていたけれど、やはり自然でない行為なのだろう。体への負担は、思った以上に大きかった。
 恵無は、なんとか体勢を整えて、負担の少ないように動いてみた。
 ぎしぎしと音がしそうな筋肉と関節は、この際無視して、とりあえずベッドサイドへと座ってみる。
 たったそれだけで、はあっと大きなため息を吐いてしまう。
 今日は、これからまだ客先に行かなければならないのに。
 今更のように、昨夜の由良の電話を思い出して、顔色が青くなる。
 だが、高塚とセックスしたことの後悔はしていない。
 あるとすれば、こんな日に客先に向かうことを了承してしまったことへだ。
「……長瀬さん……」
 ぱたんと軽い音がしたと同時に呼びかけられて、恵無は俯いていた顔を上げた。
「……」
 ひきつった表情で恵無を見つめている高塚は、それ以上は何も言ってこない。
 シャワーを浴びてそのまま出てきたのか、下ろした前髪からまだ滴が垂れていた。その滴を肩にかけたタオルで拭っているところだった。
「あ、の……俺も……」
 沈黙が嫌で、恵無はそう呟いた。咄嗟のことで、本当はそんな事など考えていなかったのだが。
「あ、どうぞ」
 それでも僅かでも会話が続いたことに、ほっとする。
 だが、立ち上がろうとして──。
「っつぅ!」
 走った激痛に、がくりと膝が崩れた。近くなった床についた両手の爪が固いそれを引っ掻く。
「長瀬さんっ」
 悲痛な声が間近でして、がっしりと体が支えられた。
「寝ていないと……」
「でも……」
 シャワーを浴びようとしたのは口実だったが、高塚のボディシャンプーの香りを嗅いだ途端、すぐに浴びたくなった。
 恵無自身の体から情欲の痕跡の匂いが同時に漂ってきたからだ。
 汚い、と思った。
「だいじょーぶだから……」
 その腕を振り払い、恵無は立ち上がった。
「綺麗になりたいし……」
 高塚は綺麗になったのだから、恵無自身も綺麗になりたい。
 ただ、そう思っただけなのに。
 なぜか高塚の眉間のしわが深くなり、恵無の様子を探るようにしていた視線が逸らされた。
 何で?とも思ったけれど、綺麗にしたいという欲求の方が強い。
 まだどこかぼんやりとした脳が、働くことを拒否していたせいもあるかも知れない。
 恵無はぺたんぺたんとぎこちなく足を動かして、バスルームへと向かった。
 途中で、何も身に纏っていない事に気が付いたけれど、どうせ脱ぐのだと思い直す。
 彼のように綺麗にして、それからもう少しだけ寝て。
 そこだけ明かりの点いていたバスルームが妙に眩しくて、目を瞬かせる。
 と。
「僕は……帰りますから……」
 背後からの呼びかけに、びくりと体が震えた。
「……帰る?」
 背を向けたまま、恵無が考えてもいなかった言葉を抑揚なく繰り返す。
 だがそれに返事はなく、かわりに衣擦れの音が静かな室内に響く。その音を聞いた途端、体からすうっと力が抜けた。ぐらりと傾いだ体が、とんと壁に寄りかかる。
 一瞬目の前が暗くなったかと思った。
 だが、ぎゅっと目を瞑って再度開けば、やはりそこは明るいバスルームの手前に違いない。
 着込んでいる音から耳を塞ぎたい。
 何で帰るというのか?
 これが契約だから……だから、用事が済んだから、さっさと帰るというのか……。
 今更ながらに思い出した関係が、恵無の胸の奥をきつく締め上げる。
「これでも羽織って……」
 その体にかけられた柔らかな感触を、恵無はぎゅっと握りしめた。
 優しいのに、けれど残酷な高塚は、すでに着衣を整え鞄まで持っている。スーツの上着こそ着ていないけれど、その姿は昨夜訪れた時のままだ。
 まるで何事もなかったように。
 ただ、恵無の体に残る快感と痛みが、現実にあったことだと教えていた。
「ごめんね、長瀬さん。もう、無理強いはしないから……」
 何を言ってるんだろう?
「長瀬さん……酔っぱらってたし……。だから、理性なくなってたから、だしね。きっと」
 違う、それは違う。
 高塚の自分勝手な解釈に腹が立つ。
 なのに。
「もうこれでいい……。これで──満足……。この一回だけ……で」。
 この……一回だけ?
 契約だって──仕事が欲しかったらって……。
 だけど、その仕事って、まだまだこれから続くことだろう?
 こんな、一回きりで終わる事じゃないだろう?
 仕事のことなんかどうでも良かった。けれど、一回だけ、という言葉が、恵無を切り刻む。
 一回したから、飽きたってことだろうか?
 抱けたら、もういらないってことか?
 それだけが、したかったことなのだろうか? だから満足って……?
 動けないまま、口がきけないままの恵無の傍らを高塚が通り過ぎていく。
 行くな、と縋るほど恵無はまだ理性を失っていなかった。女々しいまねはできないと、僅かな矜持が邪魔をする。 
 そんな恵無の視線の先で、ドアが静かに開いて、また閉じる。同時に、高塚の姿も消えていった。
 
 
 ぱたん、と小さな音が遅れて耳に届いた。その音に促されるように恵無の体が動いた。
「ど……して……」
 同時に込み上げてきた自分では制御できない感情に、翻弄される。
 溢れる涙はひどく熱く、恵無の両頬をとめどなく流れていった。
 寂しくて、哀しくて──それが何でかは判らない。判らないから収拾がつかない。
 正気が愚かなことをしたと恵無を責めている。
 やはり受け入れるべきではなかったのだ。悦びに満ちた時間が終わった後の、この壮絶な寂しさを経験するくらいなら、受け入れなければ良かったのだ、と。
 体に残った痛みも、動くことが苦痛なほどの倦怠感も今更のように恵無を責める。
 けれど。
 たった一回でも高塚に抱かれて良かったのだと、訴える心があるのも判っている。
 なのに。
「うっ……くっ……」
 涙が止まらない。
 契約の履行は完了して、安堵してしかるべきなのに、恵無の心に残ったのは激しい寂寥感だった。
 堪えきれない嗚咽は、どう足掻いても止まらない。
 情けない、と、何とか堪えようと固く目を瞑ると高塚の顔が浮かんできて、拍車をかける。
 最初の頃の強引なきつい視線も、最中の優しい瞳も、恵無を求めている熱さを持った瞳も……。
 何より、取り引きならずっと会えるのではないか?
 そう思ったことの愚かさが、さらに恵無を苦しめた。
 いつまでも、何回でもつきあわなければならないと勝手に思ったのは恵無の方というわけで。
 高塚にしてみれば興味本意の一回だけだったのかも知れない。
 なのに、勝手に期待してしまったのは恵無の方だったという訳だ。
 それが堪らなく悔しくて、寂しくて──。
 嗚咽を漏らし続ける恵無の体は、内も外も冷たく冷え切っていた。
 
]U.12
 
 精神はもう休みたいと訴えているのに、なのに一向に眠れない。
 なんとか気を取り直して、シャワーを浴びたまでは良かったが、その先がいけない。
「っく……眠らないと……」
 眠って……忘れてしまえば……。
 体も癒さなければならない。
 それに考えても、もうどうにならないことなのだ。
 何もかもが理解の範疇を越えている。
 高塚の態度も……そして、自分の態度も、自分の心も。
 目の上で腕を交差させる。
 暗闇に包まれた視界。
 全てのものから逃れたいとした行為だった。だが、何もかも覆い隠すはずの闇は、記憶にあった白い体を鮮明にそこに浮かせた。
 それは、先ほどバスルームまで行った時に鏡で見た恵無の裸体だった。
 肌の上に散らばる高塚が付けた証が、恵無を淫らに彩っている。
 首と肩の境、鎖骨のくぼみ。
 そして、胸へと広がる朱色の斑点。
 それは一時でも愛された証だと思いたかった。
 そう思うことで、暗く澱みにはまろうとする意識を救い出そうとしたのだ。そして、知らず恵無の手は記憶に焼き付いたその場所を辿っていた。
 交差していた手が解け、恵無の指先がゆっくりとその場所を探る。
 そして、首筋のちょうど耳から降りて鎖骨よりは上の場所へと辿り着く。
「バカやろー……」
 闇の中に、掠れた呟きが零れる。
 その場所は、こんなものをつけられては、人前で着替えることもままならないだろう。
 会社に出て作業着に着替える時、どう足掻いてもTシャツから除く場所なのだ。
 それでなくても白い肌にその印は一際目立つ。
 もっとも恵無には、あの最中にその場所に吸い付かれたことは全く記憶にない。
 ワイシャツの衿で隠れるかどうかも難しいその痕を、恵無は悪態を吐きつつも、愛おしげになぞっていた。
「今度は絶対Tシャツからでも覗かない場所にしてもらわないと……」
 そうすれば、着替える時も苦労はしないだろう。
 と、ため息を吐きながら呟いて、刹那、息を飲んだ。
 闇の中、大きく見開かれた瞳には、何も映っていない。だが、恵無はその先をじっと凝視していた。
 今度──今度って何だ?
 今度も──するつもりか?
 だが、高塚はもうない、と言った。
 一回だけ……と言ったのだ。
 ぞくり、と全身が震えるほどの激しい悪寒が走った。
 ようやく止まったはずの涙がまた冷えた肌に流れ落ちてくる。ぼたぼたと落ちた涙がシーツに染みを作り、不快に肌を刺激した。
 寒い。
 思わず布団を掴んで引き寄せる。
 室内の空調は高めに設定してあるというのに、とにかく寒い。
 シャワーの時に体を冷やしたくて低めの温度にしたせいかも知れない。そんな体は布団に潜っていても一向に温まらなかった。
「一回だけ……って」
 繰り返されるのは、高塚のその言葉だ。
 嫌だなんて言いやしなかった。
 欲しくて、あんな恥ずかしい真似までしたというのに。
 あれがマズかったのだろうか?
「嫌われた……かな?」
 あまりに淫猥な行為をした恵無に、興ざめしたのかもしれない。
 恥ずかしがる相手に無理強いするのが好みだったとしたら、恵無など論外だろう。
 だけど。
 恵無はきつくまぶたを閉じると、両手の平で顔を覆った。
「うっ……くっ」
 嗚咽が喉の奥から込み上げる。
 可笑しいのは自分の方だ。
 男に迫られて、悦んでしまった自分が、変なのだ。
 両頬を流れる涙と共に、記憶も何もかも流れていってしまえば良いのに。
 そう思いもしたけれど、それでも嗚咽は止まらない。
 壊れそうな何かが胸の中にあって、それを守りたいと無意識の内に恵無は体を小さく丸めていた。
 ひくひくと何度も何度も体が震える。
 その震えは、時間が経っても止まることはなかった。
 
 
 
 眠ったつもりなどなかったけれど、気が付けば外が少し明るくなりはじめていた。だが、快適な目覚めとは程遠い。
 恵無の全身は、不快なほどに汗をかいていた。
 高めの設定は、思った以上に湿度も上がっていたらしい。被っていたはずの布団など、足下に蹴り飛ばされていた。
「何時?」
 誰ともなく呟く声が、完全に掠れている。
 ヤバイ、と思ったのは、風邪をひいたかと思ったからだったが、喉に痛みはなかった。
 二日酔いにも似た不快感があるのに加え、身動ぐ体の痛みは消えてはいない。
 二時間弱とはいえ、寝たはずだった。
 だが、頭が重く、体が怠い。
 それでも鳴り響く携帯のアラームを止めなければ、と思った。
 いつの間にそんなものを設定したかさえ覚えていない恵無は、ぼんやりとした視線をあちらこちらに動かした。
 どこに携帯があるのか判らない。
 そのうち、もう探すのもおっくうになって諦めた。
 どうせいつかは止まるのだ。
 その代わりに、鏡を見なくても腫れぼったくなっていると判るまぶたを数度擦る。
 明るい日差しがカーテンの隙間から差し込み、ぼんやりとした視界の中のデジタル時計が、起きる時刻を知らせていた。
 けれど、起きる上がる気力などどこにもなかった。
 腫れたまぶたを再度手の甲で擦っても、視界はなかなかクリアにならない。
 結局泣き寝入りまでしてしまったのかと、恵無は自嘲し、口元を歪めた。
「一回だけ……」
 もう二度とない逢瀬は、今までにない快感と激しい欲望を恵無に教えた。と、同時に、気力の全てが費えてしまう程の哀しみも同時に体験した。
 恋に破れて泣きじゃくるなど、今までしたことがない。
 子供でも最近の子供はしないんじゃないかと思う。その情けなさをつくづくと感じてしまう。
 だが吹っ切れないのも事実だ。
 さすがに仕事もあると思い直して、何とか起きあがったけれど、やはりその続きができない。恵無はベッドの縁に腰掛けて、ぼんやりと中空を見つめた。
「ほんとに最後?」
 高塚にとって、恵無はその程度の存在なのだろうか?
 昨夜さんざん考えた事は、まだ頭の中に残っている。
 容易に結論づけられるものでなく、また恵無も諦めきれないのも事実だ。
 だが、こればかりは高塚の考えなのだ。
 もしまた関係を続けたいというのなら、なんとかして高塚を縛り付けなければならないだろう。
 それこそ、高塚が行った契約のように。
 だが。
 一介の技術員である恵無には、取り引きになるような材料などなかった。
 だったら、抱いてくれと泣きつくしかないのだろうけど。
「できるわけ無い……」
 どんなに好きな相手でも、素面でそんなことは言えない。
 かと言って、昨夜のように二人で飲みに行く機会など無いだろうし、また、今度は接待する方だ。恵無が酔うわけにはいかなかった。
 結局何を考えても、全て最悪の結論にいたってしまう。
 恵無は、中空を見やっていた視線をゆっくりと床に向けた。
 考え続けた思考を振り払うように数度頭を振ると、滞っていた血流が少しは動いたような気がした。
 あまりにも女々しい考えばかりしている、と唇が歪む。
 考え続けるだけ詮無いことなのだ、と、恵無は深いため息を吐いて、全ての思考をリセットした。
 
]V.13
 
 
 どちらにせよ、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかなかった。
 ぼおっとしている間にも時間は規則正しく過ぎていく。
 今日はまだ平日で、主張先で、しかも、訪ねるところがあった。
 頭を切り換えて、訪問先への対応を考えなければならない。それにまだ、帰りのチケットを取っていないのだ。
 時間からして、飛行機では最終便になる。
 もし間に合わなければ……またホテルで一泊になるかも知れない。
 さすがに、ヤバイと恵無の意識が一気にクリアになった。
 ホテルはともかく、最終便のチケットなど当日は満席の時が多い。
 慌てて、恵無は鞄からノートパソコンを取り出して起動した。動けば痛みが走るけれど、気にしている暇はない。
 何より、こんな状態で新幹線で帰りたくはなかった。
 客先は東京にある。
 それでなくてもこれから東京まで出なければならないのだから、体のことも考えると帰宅にかける時間は少ない方が良い。飛行機なら一時間。新幹線なら四時間だ。
 インターネット回線につなげるのもそこそこに、恵無は航空会社のサイトに繋いだ。
「あわ……いっぱいか……」
 乗りたかった最終便はすでに満席だった。
 ×印が並ぶリストに、恵無の肩ががくりと落ちる。
 このままでは、新幹線で帰る羽目になるだろう。
 けれど。
 身を捩るたびに体を襲う違和感は、簡単には消えそうにないというのに。
 その痛みを堪えるせいでできた眉間のしわは、そのままくっきりと形がついてしまいそうだった。
 諦めきれない恵無の指が、何かいい案が無いかと所在なげにパソコンの縁を叩く。
 と──。
 リズムのある小さな音とは別に、遠いけれどはっきりとした音が耳に入ってきた。
 それはつい先日も聞いた音だ。
 びくりと肩が震えた恵無の視線が、信じられないとドアへと向かう。
 二度繰り返された音が、しばらく止む。
 中の様子を窺っているような沈黙が続いて、再度ノックの音が響く。
 昨夜も、あんなふうに叩かれた。
「……高塚さん?」
 思わず呟いた。だが、そんなはずはないと頭を振ってはみたものの、続いた音に、恵無は慌てて立ち上がった。
 違うっ、と否定するのに、小走りになった足は止まらない。
 両手で縋り付いたドアノブとロックが、がちゃがちゃと不自然な音を立てた。うまくタイミングが合わなくて、なかなか開かないことに焦れる。
 ガチャッと乱暴なまでの解除の音は、恵無の耳には届かなかった。
 開いたっ! と、気付いた時には、ドアを思いっきり押し開けていて──。
「あ、……、高塚さんっ」
 高塚の姿に、急いていた体が一気に硬直した。
 まだ朝早いというのに、高塚のスーツは昨夜のモノとは違う。
 けれど、きちんと着こなしたその姿はひどく似合っていた。
 それに対して。
 俯き、視界に捕らえた自身の姿に、恵無は頬を赤らめた。
 起きたばかりとはいえ、恵無は寝起きの着崩れた姿だ。思わず明るい廊下の灯りから逃げてしまう。
 その瞬間、確かに高塚の顔は強ばった。
 もとから緊張した面持ちであったのは確かだったが、それよりさらに固いモノになったのだ。
 そして。
 きつく唇を噛みしめ──その直後、高塚が持っていた紙袋が恵無へと差し出された。
 何か思い詰めたような視線が、恵無を捕らえて離さない。恵無もそれより後ろには下がることはできなかった。
 ただ、差し出された袋を呆然と見つめる。
 それに業を煮やしたのか、高塚が部屋へと入ってきた。
 声もかけられない恵無の横を通り抜け、手渡せなかった袋をベッドの上に置く。
 A4のファイルがちょうど入りそうな紙袋は、どこかの店名が入っているもので、おみやげだろうか? とふと思わせた。だが、高塚におみやげをもらう理由もない。
「これを」
 何だろうと問いかける前に、高塚が先に喋り始めた。
 その抑揚のない声音に、恵無の胸が痛む。
「ワイシャツです」
 袋から出されたそれは、クリーニング店らしい名前が印刷された透明な袋に入っていた。サックスブルーの色合いのそのシャツを、どこかで見たなと恵無は首を傾げる。
 それに、なぜ高塚がこれを持ってきたのかが判らない。
 と、そんな疑問を見透かしたように、高塚が言葉を継いだ。
「昨日着られていたのは駄目にしてしまったものですから。残念ながら新しいのは手配できませんでしたので。僕のですけど……ああ、クリーニングはしています」
 駄目って?
 言われて恵無は初めて床下に落ちた自分のワイシャツを探した。
 踵を返して、それを取り上げれば、確かに袖の辺りに裂け目が入っている。
「これ……?」
 記憶にないその裂け目に、近づいてきた高塚が自嘲めいた笑みを浮かべた。
「脱がせる時に引っかかって──無理に引っ張ったら破れたんですよ」
「あ……」
 そういえば、痛みが走ったことをかろうじて思い出す。だが、同時にその時の痴態までまざまざと思い出した。
 ──うっあ、あ……ん……。
 甘い喘ぎ声が直接耳朶に吹き込まれたような錯覚を覚え、恵無は奥歯を噛みしめた。
 ぎりっと軋む音に混じった嬌声は、それでも恵無の体を熱くする。
 頬に熱が集まって、恵無の顔は羞恥も相まって綺麗に染まっていた。
 そんな恵無から、高塚がさりげなく視線を外していた。
「ほんとなら新品が良いのでしょうが、それは次の機会にご用意します。本日はまだどらかに向かわれる──」
 言いかけた高塚の視線が、開きっぱなしのノートパソコンに向けられた。僅かに首を傾げて、その画面を数秒凝視している。
「東京……ですか?」
「はい……」
 別に誤魔化すことではなかったので、頷く。
 それが帰るためにもっとも最短ルートであることは、高塚も知っているのだから。
「東京は暑いようですが……。飛行機……空いてませんね……」
「はあ……」
 何を気にしているのだろう?
 そのまま口を閉ざした高塚は、持っていたワイシャツを恵無へと差し出してくる。
 言動がどこかちぐはぐな高塚を呆然と見つめた。
 ワイシャツは念のためにもう一着は持ってきている。いつ出張が長引くか判らないからだ。
 足りないワイシャツは買いに行けば良いことだ。
 そうは思った恵無だったが、渡されたシャツを突き返すことはできなかった。
 高塚さんの……。
 そういえば、初めて会った時に着ていたのがこの色だった。
「遠慮はいりません、どうぞ」
「ではお借りします」
 気が付いたら、口走っていた。
 これは、きっと、彼が着ていたあの服なのだと、そう思っただけで手放したくなくなっていた。
「それと、薬も入っていますので、必要でしたら使ってください」
 恵無の思いに気付いていない高塚が淡々と言葉を紡ぐ。
 それが少し寂しくて、恵無の視線が彼の顔へと向けられた。けれど、視線は合わない。
「薬って……」
「痛み止めなどです」
「痛み止め……あっ」
 その意味するところに、恵無は顔を熱くした。かあっと血圧が上がった頭は、がんがんと脈打つ。
 薬を飲めば、なんとか今日一日は堪えられるかもしれない。
 けれど、暗に指摘された事柄は恵無にはとにかく恥ずかしく、居たたまれなさを持っていた。
 礼が必要なのだろうが、それを口にするのは肯定するの同じ事だ。
 どうしたら良いかと悶々と考え込んでいて。
「それでは、失礼します」
 言葉とドアが開く音、その二つが耳に入るまで、恵無は高塚が移動したことに気が付かなかった。
「あ、ちょっとっ!」
 帰ってしまうっ。
 激しい焦燥感に晒されて、恵無の手が高塚の腕に伸びた。
 だが、その指先はすんでのところでかわされた。
 離れていくスーツと、そしてちらりと向けられた鋭い視線に言葉を失う。
 その瞳が『近づくな』と制しているようで、恵無の手が止まってしまった。
 昨夜情熱的なキスを交わした唇が、静かに開く。
「僕も……長瀬さんも……酔ってたんです」
「え?」
「酔っていたとはいえ、軽はずみなことをしたと、反省しています。長瀬さんにとって今回の取引がどんなに重要なのか判っているのに、つけいってしまって……。もう二度とこんな事はいたしません。それに、御社の製品に対して、何ら私情を挟むこともありません。今までの経過からいって、御社の製品がどんなに優れているかはよく判っています。その点も鑑みまして、十分の検討の結果は次回にはお知らせできると思います」
 酔っていたから。
 戯れだったのだと、熱い口付けを交わした唇が言う。
 ズキっと胸が鋭く痛む。、
 それは恵無の胸を切り裂くのには十分だった。
 たとえ高塚は酔っていたとしても、恵無の方はそうではない。
 したかったから──欲してしまったから、だから受け入れられたというのに。なのに、高塚はそれすらも酔っていたのだと、自分と一括りにしてしまおうとしている。
 握りしめた拳が震える。
 腹の底から込み上げてくる激情に何もかも放りだして叫んでしまいそうになる。
 けれど。
「お詫びに、昨夜興味をもたれていたニュースソースをお教えします」
 淡々と伝えられた言葉に、今にも動こうとしていた体がひくりと硬直した。
「ある財閥のトップに近い方からですよ。とても懇意にしていまして……。ただ、かなりプライベートな話になるので、お知らせすることはできなかったので──。それで、昨日は誤魔化させてと頂きました」
 財閥……。
 JG社は外資系の新興の会社であるから、そういうものとは縁がない。
 だからどう足掻いても、そこからの情報は手に入れることはできないだろう。
 高塚はそう言いたいのだろう。
 だけど、そんなことは判っていても、直接告げられると悔しさは込み上げる。
 下手すると睨み付けそうになって、恵無は慌てて目を伏せた。
 その姿をどう取ったのか、高塚がふっと苦笑を浮かべる。だが目を伏せていた恵無にはその表情に気付きようもなかった。
「それから、もし飛行機のチケットとれそうにありませんでしたら、ここを利用してみてください」
 続けられた言葉に、恵無が顔を上げる。と、恵無が持っていたワイシャツの上に、高塚が一枚の名刺を取り出して置いた。
 それは、前に高塚から渡された本人の名刺とは全くデザインが違っている。
 何より、『荻野優』という名前だ。それに、その右肩にある、金色の大木のマークはどこかで見たことがあった。
「ここは……?」
「我が家が懇意にしているホテルのフロントマネージャーの名刺です。予約の時に高塚の名を出せば、一室は用意してもらえますから。飛行機に乗れなかったら、無理しないでください」
「え?」
 まるで労るようなその物言いに、恵無は内心の動揺が隠せなかった。
 痛いなどと口が裂けても言えないと思ったけれど、思わず本音を吐露してしまいそうになった。高塚の言葉に縋って頷きそうになった──が。
「今、長瀬さんに休まれるとこちらも困りますからね」
 くすりと笑うその仕草はバカにされているもので。
「休みませんよっ!」
 確かに休めるものではない。
 メルサ社だけでなく、他の会社との対応もあるのだから。
 体調不良だから──それが、たとえ高塚のせいだとしても、絶対に休めなかった。
「けれど、一泊して朝一で帰社するのは問題ないでしょう?」
「それは……」
 一体何が言いたいのか?
「ま、気が向いたらどうぞ」
どう見ても嘲っているような笑みを浮かべて、ドアを押し開く高塚は、恵無の反応など全く無視している。振り向くことなく去っていった高塚に、恵無は結局何一つ訴えることなどできなかった。
 
 
]W.14
 
 長野から東京に向かい、テイコー社を訪れる。
 たったそれだけの事なのに、恵無は酷く疲れてしまった。しかもその間、頭は働かない。
 体調もひどく悪い。
 内臓的な問題は何も無いのだが、筋肉と、そして後孔とがずっと凝り固まったかのような違和感があった。
 渡された薬は我慢することなく服用したのだが、それが効いてこの調子ならば、飲まなかったら一体どういう事になっていただろう。
 零れる熱い吐息は、決して外の暑さのせいだけではなかった。
 体が熱を持っているのだ。
 痛み止めが熱冷ましの役目もしてくれて、テイコーとの打ち合わせは何とかなったのだけど。
 恵無はテイコーの事務棟を出ると、緊張に凝り固まった体を解すように息を吐き出した。
 ふと見上げた視界に、夕闇に沈む空が映る。
 その穏やかなはずの明かりに、恵無は眩しげに目を細めた。
 長時間建物の中にいたのだ。しかも、プロジェクターを使っていたために、その明暗の落差に目がひどく疲れてしまっていた。
 最悪の体調が、恵無から全ての気力を奪い取ろうとしていた。人の目がなくなり緊張が失せたせいもあった。
 押し寄せる眠気を振り払いつつ、誰もいそうにない路地裏に入る。
「はあっ……」
 腹の底から大きく息を吐き出して、恵無は汚れるのも気にせずにコンクリの壁に背を預けた。
 そのままへたり込みたいほどの疲れが、特に腰回りを中心にして存在する。
 そろそろ薬も切れてくるだろう。
 これ以上悪化する前に、次の薬を飲む必要があった。
 それに結局とれなかった飛行機の代わりに、できるだけ早く新幹線に乗りたい。
 今から東京駅に向かい、そして新幹線に乗ったとして……。
 ため息が零れるのは、指定席が空いていないかもしれない、ということと、その後の長い道中座り放しで、起きるであろう苦痛のせいだ。
 会議の間ですら、結構苦しかったのだ。
 できるだけ早く駅に行かなければならないというのに。なのに、今の姿勢を体が強く欲して足が動こうとしない。
 ならばせめて眠気だけでも無くそうと、スーツのポケットへ手を突っ込んだ。そこには、痛み止めと共に高塚がくれた目薬が入っていて、それを取り出ししばらく手の中で弄んだ。
 爽快さを売りにした目薬を最初に差した時、目にぴりっとした刺激を与えてくる。
 今度もそうだった。
 染みるのとは違う。
 これが爽快さという意味なのだろうか?
 薬が目に馴染むように数度瞬きをして、溢れた薬液を手の甲で拭う。
 泣いたみたいだな。
 濡れた手の甲を見て、昨夜泣き続けた事を思い出した。
 胸の奥にある突き刺さっているような痛みは、いつまで経っても消えない。
 朝、高塚が居なくなってから、さらに強くなった痛みだ。
 もう痛みに麻痺しても良い頃だと思うけれど。
 こうやって、ぼんやりしたその瞬間に湧いて出てくる。
 ぎゅっと握った拳を胸に押し当てて、その痛みを逃そうとするけれど、その強さはいつまでも変わろうとはしなかった。
 
 
 太陽が沈み、闇がどんどんと濃くなって。
 恵無の影が消えて無くなった頃。
 いつまでも身じろぎ一つしていなかった恵無だったが、ふっと大きく息を吐き出した。
 胸に当てていた拳が下ろされて、背を預けていた壁から一歩離れる。
 その手が胸ポケットに差し入れられ、出てきた時には携帯を握っていた。
 アドレス帳から見慣れた電話番号を呼び出して、通話ボタンを押す。
「もしもし、長瀬です」
 会社へ経過の連絡を入れて、そして、明日帰社する旨を伝えていた。
 何か言いたげな由良の言葉に小さく答えていると、それに何かを感じたのかそれ以上は何も言われなかった。
 ただ。
「ゆっくり休んでこいよ」
 その言葉を最後に電話が切れる。
 それに遅れて応えたのは、また繰り出された小さなため息だった。
 取り繕う気力も無かったのだ。恵無の調子の悪さはバレバレだろう。
 本当はまだ新幹線があるのだから、帰らなければならなかったのだけど。
『休まれては困ります』
 高塚の言葉が、後押しをした。
 負けるものかと、思ったのか、それとも高塚の言葉に従おうとしてしまったのか──。
 携帯を手に持ったまま、恵無が次に取り出したのは、高塚から貰った名刺だった。
 綺麗な金箔のマーク。
 聞いたことがあるホテル名は、確か一流と言われるものであったような気がする。
 だが、今からビジネスホテルを探す気力は、恵無にはもうなかった。
 だから、まるで縋るように恵無はそこに記された電話番号に電話をかけていた。
 
 
 
「あの……」
 案内された部屋に一歩足を踏み込んだ途端、恵無は思わず目の前の男性に声をかけていた。
 本当はもっと前から前を行く彼を呼び止めたかったのだ。
 あまりにも場違いな自分に気後れして、何度足がもつれそうになったことか。
 ひどく判りにくい場所にあったホテルのエントランスの前でしばし呆然として。
 間違いないよな、と、何度も名刺とホテルの名前を確かめた。
 一歩足を踏み入れれば、すぐにベルガールがやってきて、「ようこそ」と笑顔で用件を聞かれる。
 宿泊だと──そして名を名乗ると、すぐに案内されて。
 落ち着いた灯りに照らされた和の空間は、ひどく和ませるものではあったけれど。談笑する紳士淑女の姿に疲れ果ててみすぼらしい自身に引け目を感じてしまう。
 場違いな場所での緊張感は、大切な客相手の仕事の時とはまた違う。どこか堪えることが苦しい。
 恵無が案内されてフロントに近づけば、何ら合図をしていたふうでもないのに、奥から仕立ての良いスーツを着込んだ男性が現れた。
 スマートな所作ではあるけれど、見た目は恵無より少し上程度に見えた。
 由良と同じくらいだろうか、と、ふと思ったけれど、胸のプレートに視線を移せば、彼が名刺の主だった。あの、フロントマネージャーだという『荻野優』だ。
 どう見ても、30代前半にしか見えないのに、その地位に恵無は思わずまじまじと見つめたけれど、そんなあからさまな態度を取ってしまったというのに、荻野の態度は変わらなかった。慣れているのだろう。
 それに、電話で応対した時も感じ良い雰囲気ではあったが、今目の前にしてもそれは変わらない。
 丁寧な挨拶、気後れする恵無に気を配り、意識することなく恵無の手続きを終わらせた。そして、さりげない仕草で荷物を受け取り、先に立って案内する。
「どうぞ」
 と促されて、思わず頷いてしまったけれど。
 それは傍目から見たら酷く鷹揚とした態度だったろう。すぐに気が付いて、そんな態度を取ってしまったことを恵無はひどく後悔した。
 もうすでに、緊張は限界だ。
 促されるがままに、使い古したビジネスバックを渡してしまったことを、今更のよう悔いる。
 けれど、案内されるがままにエレベーターに乗り込み、彼の後をついて行くことしかできない。
 そして。
 重厚なドアが開いた瞬間、「嘘だろ……」と呟いていた。
 
「こんな部屋じゃなくても……」
 入った部屋は、ごく普通のビジネスホテルを見慣れた恵無の目には、驚くほど広く映った。
 ウェルカムフルーツが置かれた応接セットと小さなカウンター、大きなプラズマテレビに、事務机にはプリンタが設置されており、窓の向こうは大都市東京の見事な夜景が広がっている。そんな窓の手前にはキングサイズらしき巨大なベットがあった。
 大人が三人寝てもなんとかなりそうだ。
 くらりと目眩がしそうになって、疲れた体が今にもへたりこみそうになっていた。
「高塚様のお客様であれば、このお部屋を最優先でご用意しておりますので。それに特別の部屋というわけでもございません」
 にこやかに言ってのける荻野に恵無が何か言えようはずもない。
「でも……」
 それでも食い下がるのは、さすがにお金のことが頭に浮かんだからだ。
 一体一泊いくらするというのか?
「高塚様より長瀬様がいらっしゃいましたら、くれぐれもよろしくと承っております。ご会計は高塚様の方にお回しする手はずになっております」
 恵無の戸惑いなど意にも介さず、的確な返事が返ってくる。
「ところで長瀬様は、明日の御出立は何時でございますか?」
 何か口を挟もうとしても、穏やかに事を進める彼からの問いかけに、遮られた。
「えっと……羽田を8時に経つ便に乗りたいのですが……」
「それでしたら、6時30分に玄関前にリムジンをご用意いたします。朝食は、少々早いのですが、5時30分にお持ちいたします」
「リムジン……」
「よろしいでしょうか?」
「あ、はい」
 こんな恵無のような対応には慣れているのだろうか?
 淀みなく彼は必要な確認事項を進めていく。
 そして。
「それでは失礼いたします」
 深々としたお辞儀の後、その姿は消えて、恵無はふらふらとソファに倒れ伏した。
「な、んなんだ……」
 それでなくても気力だけで立っていたようなものだ。
 なのに、いきなりのこの展開はなんだろう?
「なんでこんなホテル……」
 玄関に入ってすぐに思い出してはいた。名刺に書かれたホテル名が、全世界に名だたる有名なリゾートホテルチェーンの名と一緒だということに。
 けれど、一度予約してしまったし、行かない訳にはいかないだろうと勇気を振り絞ったのだけど。
 恵無はぶつぶつと、「こんなことならカプセルホテルの方がまだマシだった」と愚痴ってしまった。
 不幸中の幸いは、夕食が済んでいたことだろう。
 こんなホテルのレストランなど、恵無では行けるはずもない。
「高塚さんて……」
 経営陣を親族に持つのだとしたら、こんなホテルの関係者と親しいのも判る気がするけれど。
 だからと行って、これはないだろう、と思う。
 彼と会ってから、驚かされることばかりで、もう恵無の神経は限界に近かった。
 ちらりと窺う視線の先で、巨大なベッドが鎮座している。
 昨夜、二人で寝ていたベッドは、ちょっとでも身じろぎすると片方が落ちそうなほど狭かったけれど。
 ここなら寝相がどんなに悪くても大丈夫そうだった。
 けれど……もうない。
 たった一度の逢瀬。
 ふらりと、何とか上半身を起こして、ずりずりとベッドへと向かう。
 なんとかスーツだけは脱いで、そのまま広々としたベッドの上に転がった。
 今から寝れば、少しは体がマシになるかも知れない。
 最低最悪の状態から抜け出せば、もっとマシな考えも浮かぶだろう。
 疲れ切った体は、神経を休ませるような心地よい香りに包まれて、すぐに睡魔を引き寄せてきた。
 こんな部屋なのに……もったいないな……と、ふと思う。
 だが、それもすぐに消えていった。
 
 
]X.15
 
 香ばしいバターの香りがほどよく食欲をそそる。
 クリームたっぷりのフレンチトーストが、デザートなのだろうかと思う程にフルーツとジャムで綺麗に飾られていた。他には、ワッフルにクロワッサン。それにも、ベリー類を主とした果物が添えられている。飲み物はというと、どんな好みにも合うようになのか、紅茶にコーヒーにオレンジジュース。そして瑞々しいレタスとトマト、ハムのサラダ。
 ヨーグルトにはこれまた色とりどりの果物が添えてある。
 それどころか。
「お時間がないようでしたら、こちらをお持ちください」
 運んできたボーイが、ワゴンから取り出したのは紙製のランチボックスだ。
 そんな事を言うものだから空なのかと思えば、中には綺麗なシートに包まれたサンドイッチがあるのが見えた。
 テーブルに並べられたその食事は、これが一人分? と問うてみたくなるような量だとういうのに。
 深々とお辞儀して出て行く彼を見送って、恵無は眠気の吹っ飛んだ目を戻した。
 よくよく見れば、傍らには紙パックではあったが牛乳まで置いてあって。それも、持ち運ぶためだとは容易に知れた。
「至れり尽くせり」
 呆然と呟く。
 未だかつて、こんな待遇を受けたことがない。
 これが高級と言われるホテルの待遇なのだろうか? だが、哀しいかな、今まで縁が無かったせいか、とんと見当もつかない。
 適度な柔らかさと広々とした寝具は、疲れた体に最高の安らぎをもたらした。
 爆睡という言葉がぴったりくるほどによく眠った恵無の体は、多少気になるところはあるにしても、それでもかなり回復している。
 普段なら、煩いと唸ってしまうタイマーの音。その代わりにあったモーニングコールは、耳に馴染む優しい声音で、すんなり起きられた。
 目覚めて最初に目に入ったのは、まだ薄暗い朝の空であったけれど。
 眼下に見下ろす大都会は、薄煙に包まれて、ひどくしっとりと落ち着いていた。こんな情景を見たことなど無い。
 何もかも場違いだった。
 昨日までは、その場違いがたまらなく嫌だったけれど。
 けれど、人間睡眠が足りると、思考は上向くのかもしれない。
 緊張はしているが、昨日ほどではなかった。
 ここでは恵無は客なのだ。ならば、堂々としているしかない。
 割り切ってしまえば、どうとでなるもので、気分はかなり楽になった。
 もっとも、支払いは高塚にいくと思うと、これ以上のサービスなど使おうとは思わない。ただ、すでに用意されてしまった物を拒絶しようとは思わなかった。今から断っても、これの値段は請求されるだろうし、食べ物を粗末にするのも性に合わない。
 それに、昨日は朝からろくなものを胃に入れていなかった。ただ、薬を飲むためだけに定期的に食事をしたようなものだった。食欲すら湧かなかった昨日とはうってかわって、現金なお腹が芳香に反応して、欲を満たそうと活発に動き出す。
 若い体がそれに抗うことなどできやしない。考えることは多々あるが、今はとりあえずこれらを胃に入れてしまわないと──もったいない。 
 豪華な部屋で、しゃれた朝食。
 なんとなく勝手が違う、といたたまれなさが恵無を襲うけれど、もっとも、そんなことを思ったのは一瞬だった。
「上手い……」
 クリームの甘さがちょうど良い。
 ベリーだけかと思えば、柑橘系の酸っぱさも含まれていた。その事がさらに食欲を増進させた。
 薬を飲んでいる胃のためにコーヒーは遠慮したが、代わりに選んだオレンジジュースもとても美味しい。ごくごくと餓えた獣のように飲み尽くした。
 乾いていた体が、もっと欲しいと訴える。
 すうっと全身に爽快さが充ち満ちた。
 結局、ありすぎると思ったけれど、食べてしまえば何のことはない全て胃の中に収まってしまった。いつもよりは食事の量は多いけれど、「今度は胃薬の世話になるかも」という心配は無用だと、体の調子が教えてくれる。
 もっともあの箇所には、いまだに動くと引きつれたような痛みがある。
 それでも、筋肉と関節の痛みはかなり解消されていた。
 それに、どうしようもなく暗かった思考も、満足するほどの睡眠と美味しい食べ物に引きずられて、少しは上昇したらしい。胸の奥底につかえていたものも、ほんの少しだが小さくなっているような気がする。
 食事が終わった恵無はふっと少し灰色がかった空を見上げた。
 その脳裏に浮かぶのは、高塚の──いろんな顔だった。
 そして、優しい言葉と、労りを含んだ声音。
 ちょっとだけ思い出したはずなのに、幾らでも浮かんでは消えていく。
 いつの間にか脳裏にしっかりと焼き付いた彼の顔は、容易なことでは消えてくれそうになかった。
 その中でもふんわりとした笑みを浮かべた顔に、恵無の心も優しく解きほぐされる。
 落ち着いてから考えても、高塚と性行為をしたことを悔いる心はなかった。
 ただ、一度きりだと言われたことが嫌だったのだ。
 好きだと、自覚したその日に、体だけ弄ばれて捨てられたようなものなのだから。
 そんな自虐的な考えに、恵無の頬はひくりと引きつる。だが、深いため息と共に、すぐにその考えを振り払った。
 弄ばれたと言っても、高塚は止めようとはしてくれたのだ。それを自らしてくれと乞うたのは、恵無自身なのだから。 それに応えてくれた高塚を責めることなど、言いがかりも甚だしい。
 ただ気になることはあった。
 もし好色過ぎた態度が嫌がられたのだとしたら──だ。
 それが原因で一回きりなんて言われたのだとしたら、それこそ、どんなに後悔してもしきれるものではない。
「……一回きり」
 その単語を思い浮かべると、胸の奥に鋭い痛みが走る。
 浮上しかけた意識も、僅かばかりに沈み込む。
 だが、この部屋にいて、高塚の最後の言葉をふと思い出した。
『休まれると困る』
 仕事の事だと思ったけれど──。
 抱かれている間の優しさをも思い出してしまうと、とてもそれだけとは思えない。
 高塚の優しさが、この部屋を用意したのだとしたら。
 そして、わざわざ届けにきてくれたワイシャツと薬。
 それがなければ、昨日の出張は失敗に終わっていただろう。
 考えれば考えるほど、高塚の良さを再認識して──否定することも憎むことも、そして罵ることもできない。
 ただ、好きなんだと、再認識するだけだ。
 バックの中にしまわれていたワイシャツを取り出して、袋を破る。透明な袋がふわりと手から離れて床に落ちた。
 両手の間に広がったサックスブルーのワイシャツは、恵無の懐かしい記憶を揺さぶる。
「少し……大きいな……」
 くすりと笑って、袖に腕を通した。
 余裕のあるシャツは、クリーニング後のせいで匂いなど何もなかったけれど。
「高塚さん……」
 まるで高塚に抱き込まれているような錯覚を覚えて、恵無はふわりと微笑んだ。
 
 
「いってらっしゃいませ」
 まだ早い時間だというのに、恵無を見送ってくれたのはあの荻野だった。
 手ずからエントランスに恵無を導き、リムジンのドアを開けてくれる。
「あ、ありがとうございます」
 黒塗りの大型の車に、二の足を踏みそうになるけれど。
 ここで固辞するのも妙な話だと諦める。
 乗り込もうとしつつちらりと振り返れば、荻野と視線があった。
 ふわりと嫌みでない笑みがその口元に浮かんでいる。
 その笑みは、ひどく満足げだ。
「その……すてきでした……」
 もっと何か言えれば良いのに、と思うけれど、結局出てきたのはそんなありきたりの言葉だ。しかも抑揚のない声は、社交辞令にしか聞こえないだろう。
 だが、それを聞いて、荻野はにこりと笑みを深くした。
「長瀬様もお疲れがとれたようで。私どもも安堵しております」
「あ……」
 きっと何もかもバレていたのだろう。
 体も心も、倒れそうなほどに疲れてやってきたことに。そして、今、それがないことも。
「はい、本当にありがとうございました」
 恵無の顔に自然に笑顔が浮かんできた。
「そうおっしゃって頂けますと、喜ばしい限りです」
 深々とお辞儀をされ、恵無はそれに会釈を返すと、広々とした車内に乗り込んだ。
 最高級のホテルはその設備も対応も確かに全てが最高級だった。
 ほんの短い間しかいられなかったことが悔しいくらいだ。
 また、来たいな。
 と思ったけれど。
 さすがにそれは無理だろうと、苦笑いを浮かべる。
 一泊幾らかは、結局は判らない。だが、恵無の給料で利用できるホテルではないだろう。
 静かに走り出したリムジンの後部座席で、恵無はシートに深く体を埋めた。
 心地よい乗り心地は、昨夜の快適なベッドでの眠りを甦らせる。
 いつもなら、バスか電車かで、人いきれにむせながら空港に向かう時間だというのに。
 こんなに余裕がある移動は、今まで経験したことがない。
 優雅、という言葉がこれほどぴったり当てはまる事柄はないだろう。
 そこにあるのは優越感だった。
 そして、ここを利用しているのであろう高塚に対し、羨望もある。
 同じくらいの年齢の男としては、やはり余裕のある財力が窺えるということは羨ましいものなのだ。
 何もしなくてよい時間というのは、頭ばかりが冴える。
 そうなると考えるのは高塚のことばかりだ。
 少なくとも技術部門での打ち合わせでは、まだ高塚と話をすることがある。
 二度とあんなことはない、と言ってはいたけれど、関わりが完全に無くなった訳じゃないのだから。
 だったら──その関わりを離さなければ良い。
 体も気分もひどく安堵した状態でゆったりと巡る思考が、今まで袋小路で苦しんでいた事柄を呆気なく打破した。
 もっと高塚の事を調べよう。
 強引な取り引き、だが、垣間見せた優しさと臆病さ、よく気が付くのに肝心なことには何も気付かない鈍感さ。
 こんな高級ホテルに苦もなく泊まれるのであろう高塚の事を全て。
 知りたい。
 もっともっと知ってしまえば。
 もしかすると、一回だけでは無くなるかも知れない。
 最中に見せた優しさ、わざわざ届けてくれた薬と服。それに責めるような口調ではあったけれど、それでも恵無にホテルに泊まるよう進言してくれた。
 そのどれもが高塚の、恵無に向けた優しさなのだと気が付いた。
 だから、その優しさに──まだ、手だてはあるのだ、と。
 空港に着く頃には、恵無はいつの間にかそんな風に考えるようになっていた。
 
]Y.16
 
 
 
 空港で昼食用のハンバーガーを買い込み、駐車場から車を出して、会社に辿り着いた時には10時が来ようとしていた。
 がやがやと午前の休憩に向かう人達と一緒になって、煩いエレベーターに疲れが倍増する。一番奥の壁にもたれて、ぼんやりとしているとすぐに更衣室のある階に着いた。
 賑やかな食堂のすぐ傍らにある更衣室は、やはり人の出入りが多い。
 その中に、ロッカーへ新しいタバコを取りに来ていたらしい由良がいた。
 おかえり、と明るい挨拶に答えて、恵無の手がロッカーの扉を開ける。
 全員作業着着用が義務の会社で、スーツ姿は目立ってしようがなかった。ちらりちらりと向けられる視線は、どこか好奇に満ちている。特に女性の値踏みするような視線は、いつまでたっても慣れない。
 それはお前だけだ、と言われたのは、誰からだっただろう。
 2割は格好良くなるよ、と面と向かって言われたこともある。
 もっとも、それを聞いてもあまり悦ぶべきものではなく、恵無は肩の凝る上着をさっさと脱ぎ去った。ネクタイも緩めるとほっとする。
 吐き出した息が意外に大きく響いて、恵無は思わず俯いた。と──。
「あれ、そんなシャツ持ってたっけ?」
 もう出て行ったと思った由良が、少し離れたロッカーに手をついて、恵無をじっと窺っていたのだ。
 何を指摘されたのかは、判っている。
「え、まあ……」
 答えに窮して口籠もった恵無が着ていたのは、高塚から借りたサックスブルーのシャツだったのだから。
 由良がじろじろと上から下までそのシャツをさぐるように見つめてくる。
「お前って、あんまり持ってないだろ。そう出歩くこともないし。それに、今まで白しか見たことがないからな」
 出張に行く時しかスーツを着ないから、ワイシャツは無難な白しかもっていない。だが、買ったのだと誤魔化そうとした言葉は、由良の言葉に消え去った。
「でも、それ、買ったにしてはちょっと着古した感じある。それにサイズ、少し大きくないか?」
「えっと……」
 確かに大きいのだ。
 それでなくても慣れないネクタイを締める時に、ひどく困ったことを思い出す。だが、同時に高塚に包まれているような安堵感を覚えたのも確かだ。
 だからこそ、心地よかった。
「はい、借りたんです」
 そのことを思い出したとたんに、さらりと口から言葉が出てきた。
 何を隠すことがあるだろう。
 これは借りたものだ。
 経緯がどうであれ、そこに高塚の親切を感じたことは、間違いない。
「メルサ社の高塚さんが。接待の後にひっかけて破いてしまったので、困るだろうと」
「高塚さんに?」
「夜遅くて困ったなって思っていたら、わざわざ届けてくれて。そこまでしてくれるのに断るわけにもいかなくて」
「……そっか。親切なんだな、高塚さんって」
 由良が何か言いたそうに恵無を見つめているのは判っていた。けれど、少しだけ口籠もった後に、口にしたのはそれだけだ。
 けれど。
 恵無がそのシャツを腕から引き抜き、代わりに作業着の上着をロッカーの中から取りだした時、由良の瞳が驚愕に大きく見開かれた。
 手が伸びてきて、恵無の首筋に触れる。
 びくりと、体が大きく震えた。
 咄嗟に息を飲んだのは驚いただけではない。ぞくりと嫌な感覚が全身を襲ったせいだ。
「な、にっ?」
 大仰な自分の反応にも驚いたけれど、振り向いた時の由良の真剣な瞳にはもっと驚く。
 抗議しようとした言葉が、喉から先に出て行かない。
 それに、首筋から離れない指先のみでなく、その視線が怖い。
「由良、さん?」
 何か変なのだろか?
 由良にそんな瞳をされる理由が思いつかなくて、問い返す声が震えていた。
 だが、由良の手が離れると同時に、そのきつい視線がいきなり柔らいだ。
「どうした、これ?」
 ニヤリと意地悪げな笑みがその顔を覆う。
 詰問が揶揄に代わり、その変化に戸惑いを隠せない。しかも、何を言われたか、判らない。
 けれど。
 由良の手が再度首筋にかかり、恵無もつられてそこに手をやった。と同時に、そこに存在していた物を思い出す。
 その存在を意識した途端、かあっと全身が爆発しそうなほどの熱に覆われた。
 ぶわっと音がしそうな程のその衝撃に、言い訳の言葉すら封じ込められた。
 ぱくぱくと情けなく口を動かす恵無の態度は、由良の考えを肯定しているのも同じだ。その自覚はあったけれど、どうして良いか判らない。
 つけられたのはつい先日のこと。
 ならばそれは消えてはいないはずなのだ。その存在を忘れていた自分自身の愚かさも感じて、恵無の頬がさらに紅潮した。
「言えないところを見ると、そうなのか?」
 したり顔で笑う由良を誤魔化すことなど今更出来ようはずもなくて、恨めしげに見返すことしかできない。
 着替える時に注意をしなければ、とあの時思ったのに、いざその時になると完全に忘れていたのだ。
「まあ、夜は暇だったんだろうしな。そういうのも有りかもな」
 腕組みをしてうんうんと頷く由良は、だがそれでもその視線はそこから離れない。
「別にそういう訳でもないんですけど……」
「隠すなって。それよりお前も遊ぶんだな。若いんだからまあいいけど。でも、一体どんな相手に付けられたんだ?そんな目立つところに付けられて。相手を怒らせるようなことでもしたのか?」
 怒らせた、つもりはなかったけれど。
 迂闊にもその時のことを思い出して、羞恥に視線が合わせられない。だが、由良はわざわざ顔を移動させて、目線を合わせようとするのだ。
 意地が悪い。
 前にも増して、由良への警戒心が増す。
 頼りになる先輩ではあるけれど、遊び心は人の数倍はあると思う。そんな由良の興味津々の言葉に、恵無は慌てて首を振った。
「怒らせたりなんかしてないですっ」
 そうだ、怒らせてはいない。
 一方的に持ちかけられて、一方的に突き放されたのはこっちだ。
 怒りたいのはこっちのほうだった。
 それでも、ようやく先のことを考えることにしたのに。
「そうか?でも出張先でやるような相手って商売女だろ?なのに、そんなマーク付けるなんてな」
「違いますっ」
「ってことは、あっちに本命でもいるのか?何?遠距離恋愛?」
 思わず否定したら、違うところで突っ込まれた。けれど、本命とも言えない。
 体だけの関係、まして、人に言えない契約の関係。しかも、その契約はもういいと勝手に終了させられてしまった。
 だが、そんなことは由良には言えない。
 そうです、とでも言えばいいのだろうけれど。
 脳裏に走った高塚の姿が、恵無から言い訳の全てを消し去ってしまった。
 否定したくないのだ。彼が本命であれば、どんなに嬉しいだろう。
 何も言えずに黙り込んだ恵無に、由良の眉根が訝しげに寄せられる。
「お前……?」
 探るような視線から逃れて、恵無はロッカーへと向き合った。
 その背に、声音が低くなった由良の言葉が投げかけられる。
「にしても……もう少し下につけてもらえよ。丸見えだ」
「……はあ……。そうですよね、これ。なんか隠せないですかね」
 虫さされというには少しだけ無理がありそうなその形だ。その由来を知っているからこそ、晒すには抵抗があった。
「……あるか、そんなもん……」
 だが、由良の返答は素っ気ない。助けてくれないのか、と恨めしげな視線は全く無視されて。
「いいじゃねえか。キスマークですって、堂々としてろ。下手に隠す方が目立ってしょうがない」
「堂々と?」
「そ。それにまあ……人の首筋なんてそうそう注目なんかしないから、意外にその方が気付かれないかもよ」
「はあ……」
 そんなものかな……と思うのだが、気になり出すとついつい手がそこに行ってしまう。
 どのくらい経てば消えるものなのか……。
 ぽつりとひとりごちた恵無に、由良はさあっと首を竦めた。
 恵無にしてみれば、消えて欲しくない気持ちとさっさと消えて欲しい気持ちと相反する感情が胸の内にある。ここにあるキスマークが消えるということは、他につけられた印も消えると言うことだから。
 零れるため息の意味は、二つの意味を持っていた。
 作業着を着込んで、上まできっちりボタンを締めても、その場所はぎりぎり見えるか見えないか、だ。
 しばらく鏡とにらめっこしていた恵無だったが、まだ由良が背後からじっと見つめているのに気が付いた。
 何?
 と視線で問うた恵無に、由良が微かに首を振る。
 だが、その口元が言葉を形作った。かろうじて聞こえたその言葉に気を取られて、恵無は準備の手を止める。
 そんな恵無に、由良が言葉を繰り返した。
「元気出せよ」
「え?」
「何があったか知らんけどな。そんな泣きそうな顔をしていると、よけいにみんなに突っ込まれるぞ」
 びしっと指さされた顔に手を当てる。
「泣きそうって……」
 そんなバカな、と笑おうとして、頬がひくりと痙攣した。
 笑えない。
 笑っているつもりだったのに、どうやらずっと強ばった顔をしていたらしい。
 全く気がつかなかったのだ。
「ああ……ちょっと疲れているだけです」
 無理に笑おうとして、ぎこちなく動く筋肉を意識する。笑うことが辛い。
「メルサ社まで行って、そのあとすぐにテーコー社でしょう?メルサ社もいきなりだったのに、テーコー社にいたっては、何の準備もしていなかったんですから、もう打ち合わせ中ひやひやしてましたよ。結構鋭いつっこみもあったし──あっ、報告書すぐに書きますね。いろいろ宿題貰ったんで……」
「あ、ああ、頼むよ」
 不得要領気ではあったけれど。
 それでも由良はそれ以上はもう何も言わなかった。
 自分の時計を見て、「休憩時間がっ」と慌てて更衣室から逃げようとする。
 その背に、ふっと声をかけた。
「宿題……由良さんもしてくださいよ」
「やだねー」
 と、ふざけた答えに、恵無はようやく意識することなく笑みを浮かべることができた。
 
]Z.17
 
 報告書を書くのは苦手だが、恵無が一人で行ったテーコー社に関しては他に書いてくれる者はいない。
 だが、当時の体の疲れが集中力に出ていたのか、記憶は何とかあるものの、書き記したメモの字はあまりにも乱雑だった。はっきり言うと、読めない。
 唸りながら、それでも記憶を探り出し、何とか数字を引っ張り出して見てくれだけはちゃんとしたものを作り上げる。けれど、意外にも時間がかかり、報告書ができあがった時にはもう夕方がこようとしていた。
「他にもいろいろやることはあったのに」
と、要領の悪さを悔いてひとりごちる。
 たった二日いなかっただけでメールは山のように溜まり、どこかで回覧物のダムが崩れたのか、見覚えのない山ができていた。
 とりあえず、事務作業の邪魔になるその回覧物を片づけ、次に持って行ったところで、恵無はまた指摘されたのだった。
「それ……キスマーク?」
 露骨な言葉にがっくりと肩を落とした部屋にいたのは、情報配信チームの隅埜だ。
「そうだけど」
 今更誤魔化す気力もなく、仲の良さも手伝って、素っ気なく肯定する。その答えに、隅埜が「やっぱり」と頷く。
 それほどまでに、はっきりと判るものなのだろうか?
 付けられた恵無にしてみれば心当たりがあるのだから判るものであったけれど。よくよく考えてみればアザにも見えるはずだ。よく虫さされにして誤魔化している話を聞くけれど。
 確かにいびつなその形は、虫さされと言うには苦しい物がある。
 だからと言って……何もはっきりと指摘しなくても。
 恵無の恨めしげな視線に気付いた隅埜が、苦笑を浮かべて後ずさる。その二の腕を捕まえて、じっと睨み付けた。
「何で、これがキスマークだって判るんだ? 普通、すぐには気付かないと思うけど?」
 投げつけた質問に深い意味はない。
 ただ、知りたかったのだ。知っていれば、対処のしようもある。
「え、あ、それは……そんなとこにあるから、そうかなって……」
 要領を得ない答えに首を傾げ、なおも問いかけた。
「こんなとこにあったら、キスマークなのか?」
「だって、そこって、たいてい吸い付かれるし……」
 その言葉と共に、隅埜の顔がさあっと紅潮した。
 何を考えたんだ?
 隅埜の反応の原因を探ってしまった恵無の頬も、かあっと熱くなる。
 触れられた感触は、まだまだ生々しく記憶に残っていたのだから。
「あはは……」
 乾いた笑いが互いの口から漏れた。
 掴んでいた手を離し、二人揃ってため息を吐く。
「隅埜君も……経験ある訳?」
 つい、問いかけたのは好奇心ではない。
 ただ、何を思う間もなく口をついて出ていたのだ。
 途端に隅埜の赤味が増した頬が、視界から消える。けれど、すぐに恨めしそうな視線が恵無に向けられた。
「聞かないでくださいよ、そんなこと」
 拗ねた物言いに、くすりと笑みが零れた。
 若いけれど、同年代の同僚達と比べれば格段に落ち着いている隅埜の、初めて見る仕草に親近感がさらに増す。
 年はそう違わないが、高卒で入社した隅埜の社会人歴は長い。その差が作っていた壁が、がらがらと音を立てて崩れていった。
「てことは図星?」
 今までこんな話をしたことはなかったけれど。
「……まあ……ね」
 諦めたのか、相貌を崩して照れた笑みを見せる隅埜は、普段とは違ってひどく取っつきやすい印象を与えた。その姿が、恵無の記憶の中で別の人間と重なる。
 笑うと……似てる……。
 高塚も背が高かった。ちょうど隅埜と同じくらいかも知れない。
 だが似ているのは、ただそれだけだというのに、恵無の心臓がドクンと高く鳴る。
 ああ……重症だ。
 似ても似つかない隅埜の顔で高塚を思い出すんだから……。
 恵無は重い溜息を吐いた。
 仕事にかまけて忘れていた高塚を思い出してしまえば、意識はそちらに取られてしまう。
「え、っと……その、ほらっ、メルサ社なんだけどさ」
 その上、焦った隅埜が、いきなり口にしたのは今一番心臓に悪い社名だ。
「えっ?」
「その会社って、最近社長の進退問題が出ているらしいんだけど、知ってた?」
「進退……問題?」
 別の世界に行きかけた精神が、その言葉に一気に現実に引き戻された。
 社長といえば高塚の親族だ。
 ある意味、無視できない問題だと、頭の中で警告音が鳴り響いた。
「どういうことだ?」
「まだはっきりと伝わってないけど、内部の問題……派閥っていう奴で、なんか問題が出ているようで」
 その手が、カチカチとキーボードを叩く。
『派閥?』
 それを目で追いながら、恵無は慣れない言葉を口の中で転がした。
 どこの会社にもありそうなその言葉は、恵無にとっては良い意味ではない。幸いにして、まだ若いJG社にはそういうものは無いと言って良い。
 だが。
 メルサ社は確かに歴史のある会社だ。しかも上層部はほとんどが親族で占められているのだから、そんなこともあるかも知れない。
「社長の次は、じゃあ誰が……」
「これ、あそこの組織表です」
 差し出された資料は、インターネット上のデータベースの印刷物だった。
 社長の名と専務の名、そして役員の幾人かが同じ名字だ。
 思わず探したけれど高塚宗也の名はない。
「問題の社長は、この人。高塚宗佑(そうすけ)。後継に目されているのは、この専務の高塚吉宗(よしむね)って人らしいです。なんか、社長の弟なんだそうですよ」
 長兄である社長。次兄が専務。
「ほんとに同族会社だな」
 揶揄とほんの少しの侮蔑が籠められたのは、そういう会社に良い感情が湧かないせいだ。もっとも、それでも立派な会社は幾らでもあるけれど。問題があると聞いた時点で、その印象は低下する。
「創始者が、現社長の祖父らしいですから……自然にそうなったんじゃないですか?」
 隅埜が首を傾げながら言う。
 その幼い仕草に、恵無は妙な違和感に襲われた。浮かんだ疑問は、はっきりと疑念となって、言葉になる。
「その情報って、誰から聞いたんだ? ここにはそんなこと書いてないけど」
 指し示す資料には、続柄などは書いていない。
 それに、進退問題など──彼は一体どこからそんな情報を仕入れたというのか?
 事実と想像が入り交じる隅埜の言葉に、猜疑心が湧き起こる。噂話の信憑性は低いことが多い。けれど、それが信頼できる筋の情報ならば信用しても良い。
 高塚が言っていたではないか?
 『さる財閥のトップに近い方』
 つまり信頼できる情報筋だから、彼は誰よりも早く動いたのだ。
「え、と……ちょっと知り合いに」
「知り合い?信用できるのか?」
 問題は出所だ、と隅埜に問えば。
「えっと、出所はN社の真島さんって人で、そこの情報部の人……」
 そう言った隅埜が机の中から、名刺を一枚取り出した。黒い名刺ファイルには他に数名しか入っていない。その中の一枚だ。
「これって……確か電気化学2チームの取引先?」
 テクスタイル社が工材3チームのもっとも大きな取引先ならば、電気化学2チームにとってのそれが、このN社だ。
 驚きに目を見開いて、まじまじとその名刺を見つめる。
「はい。その人、服部さんの大学の時の先輩で、外部の研修会の際の懇親会で会ったんで」
 よく見かけるロゴマークが燦然と輝く名刺を見つめる。
 しかも情報部という名前に、恵無の中で噂の信憑性がぐっと高まった。
「それに、俺のメル友にもね、そうらしいから気をつけたら、って言われたし」
 メル友……。
 急にその信憑性ががくりと下がる。
「君のメル友って……なんでそんなこと知っている訳?」
 胡散臭そうに見遣ると、隅埜がメールソフトを起動させていた。
「ほら、ここ」
 そう言って指さすところに、社外からのメールがあった。
「おい……会社のアドレスでやり合ってんのか?」
 メル友というから、個人的なつきあいだと思っていたが、相手のアドレスは会社名らしい。
「名刺に書いて渡したら、向こうから連絡くれるようになって」
 ローマ字読みで書かれたその会社名を口の中で転がして──はたと気付いた。
「っ!メル友って、S社の人っ?」
 固いきっちりとした文章は、簡単ではあるが挨拶文からきちんとある。その上、最後にあった署名はそれこそ、恵無を驚愕させるのには十分だった。
 間違いなくS社と書かれた署名、部課名もあれば役職付き。しかもそれは。
「……情報部部長……」
「この人も懇親会の時に会ったんだけど、なんか気に入られちゃって。普段は世間話とか情報収集の仕方とか。何でもないことだけ。あ、今度、情報検索の試験受けるから、その対策なんか。服部さんが大事なつながりだからきちんと対応しろって言うもんだから」
 難しいですよね、メールの書き方って。
 照れたように笑う隅埜を、恵無は呆然と見やった。
「気に入られたって……何かしたのか?」
「別に、世間話だけ。この人の息子さんが俺と同い年らしくて。でもまだふらふらしているんで、俺はしっかりしているねって話から親の話になったら、えらく同情されちゃって……」
 苦笑いを浮かべる隅埜の親の話は知っていた。
 入社直後の火事で二人いっぺんに亡くなったのだ。
「その結果がメル友?」
「最初はほんと世間話だったんだけど、最近たまにこういうサイトが役に立つんだよっていう当たり障りのない情報もくれたりして。今回の件は畑違いだからって、情報を貰ったんです。もっとも、知っている人は知っている情報らしいですけど」
 確かに有名な会社だが、今回の件は畑違いに間違いない。
 恵無にしてみれば、隅埜など服部の下っ端という認識にしかなかったのだが、いきなりその認識が改まる。
 しかし……。
 と、再度メールの本文を読み返す。
 信憑性が高いとなれば、きちんと対処しなければならない。
「それ、瀬戸さん達にも伝えなきゃならないから、その組織図と一緒に出力しておいて欲しいんだけど」
「はい」
 恵無の依頼に頷いて、隅埜が自分の端末に向き直る。
「長瀬さん、どうぞ。それとあんまりこっちの情報源、社内の人にも言わないでくださいね。頼りにされても困るし、聞けないこともいっぱいありますし」
「ありがとう。判ってるって」
 それにはこくりと頷いて、渡された資料を受け取った。
 情報源は秘匿されているが、渡されたデータは公式のサイトの物だ。信憑性は十分保たれている。
 恵無はそれを確認すると、隅埜に礼を言って部屋を出て行った。
 それでもその時は、この交代劇がJG社に──そして恵無にも関わってくるとは夢にも思ってもみなかった。
 
][.18
 
 
 メルサ社との関係は表面上は何ら変わりはなかった。
 心配された進退劇も、営業の方からさりげなく問い合わせても、一笑に付されたほどだ。それに恵無にしてみればそんなことよりも、日々の高塚との遣り取りの方が思った以上に大変だった。
 聞きたいことはたくさんある。
 けれど、高塚はあの時のことなど何も無かったかのように、応対する。
 電話やメールでごく普通に話をする高塚に、恵無はいつも焦れていた。あれから二週間が経って、体に残っていた違和感もキスマークも全て消え去ったことが焦燥感を増大させる。
 女々しいと自身でも思うけれど、時は恵無の心を癒すどころか、より高塚への思いを自覚させた。
 そんな時に交わす、仕事だけの素っ気ない会話が辛い。
「欲しいですね」
と、言われてドキッと高鳴る胸が。
「耐久性の情報を」
と、言われて、キュッときつく引き絞られる。
 思わず、会いたいと言いたくなって、けれど、事務所の喧噪がそれをさせない。
 だからと言って、高塚のプライベートの連絡先など知る由もない。
 唯一の接点である会社でする電話での、互いの口調はあまりにも固く、それがよけいに恵無の気力を萎えさせた。
 ホテルで迎えた朝には、高塚の事を知ろう、と、少しは前向きになってみたけれど。
 現実問題としてどうして良いのか判らない。
 もう一度、二人だけで直接会えたら、と願う。けれど、お互い直接対面はできても二人だけという機会は訪れなかった。
 もう二度とあんな逢瀬は考えられないのだろうか?
 抑揚のない定番の別れの挨拶の後、電話を置く恵無の表情は暗い。
 何かを誤魔化しているとは思えないごく普通の対応だと思う。
 だが、そんなに高塚の事を知っているという訳でもない。何より、彼の言動の真意はいつも計り知れない。
 判らないからこそ、こんなにも苦しい。
 零れるため息は、いつも高塚からの電話やメールを見た後に出るようになってしまった。
 だが。
「何だ?またなんか厄介な事言われたのか?」
「え?」
「ため息なんか吐いて」
 突然頭の上から声をかけられるまで、ため息を吐いたことに気が付いていなかった。
 振り仰げば、由良が眉間にシワを寄せて恵無を見下ろしている。ちらりと付けっぱなしのパソコンの画面を見つめ、ついで恵無の手元のメモへと視線を走らせていた。
「何で?」
「何でって……。何でもないなら、そんな顔するな。心配するじゃねえか、なんか無茶な要望が来たんじゃないかって」
「無茶なって……」
 刹那頭に浮かんだのは、あの時の高塚との契約だ。
 けれど、あんなことは本当に二度となかった。あれからもう一度だけ直接会えたけれど、仕事の話以外何もすることができなかった。接待の話も固持されて、あのワイシャツを返すこともできない。
 由良が言っている無茶な事は、仕事の納期や、提供する情報の複雑さなどのことだ。
「あ、いえ、そんなことは。ただ、耐久性の情報について、発ガス性についていくつか追加して欲しいと言われただけで」
 欲しいと言う言葉を言うのが辛い。
 その言葉を口にするだけで、日常的な言葉に高塚の言葉が重なって聞こえてくる。けれどすぐにそれが幻聴だと気が付くから、精神が知らずに落ち込んで。
「……」
 傍らで由良が心配そうに顔を顰めて見下ろしているのが申し訳なくて。
「来週月曜日までにって言われたんで、ちょっと手配してきます」
 振り切るように立ち上がる自身の顔色が、ここのところずっと悪いということに恵無は気が付いていなかった。
 
 
 そして。
 ゆっくり休めと言われた土日の休みも、あまり芳しくない体調のままに過ごした。
 何をしていても電話が気になって、メールが気になって。
 もしかすると会社に電話があるかも知れない。
 休みだというのに、そんなことを考えて、いてもたってもいられない。
 だが、すぐに、そんなことはあり得ないと思うのだけど。
 メール確認だけでもしたくなって、一度だけ会社に出かけた。
 忘れ物をしたと、警備に断りを入れて、メールだけ開いてみる。
 けれど。
「仕事の話だけ……だな」
 着信していた高塚のメールアドレスに高鳴った胸は、中身を確認して前よりさらに落ち込んだ。
 何をしているんだ、と、自嘲して、自分がひどく情けなくなる。
 精神が揺さぶられ続けた影響は体にも出てきていて、恵無は今ははっきりと体調の悪さを自覚していた。
 全身がひどく重く、何をする気力も起きない。
 休めるはずの週末は、結局恵無にしてみれば体調を悪化させたに過ぎなかった。
 
 
 月曜の朝は開発部全体の朝礼で始まる。
 昨夜なかなか眠りにつけなく、最悪の体調で望んだそれは、恐ろしいことに30分も続いた。
 第一リーダーの須藤による、社長からの伝達文が長々と続いたのがその原因で、終わった途端にその場に蹲りそうになる。
 傍らにいた由良がそんな恵無に気が付いて、体を支えてくれた。
「大丈夫か?」
 心配そうに覗き込む由良に、「大丈夫です」と答えたが、信じていないようだ。
「医務室で休んでれば?」
「いえ、いいですよ。ちょっと立ちくらみがして──昨日寝るのが遅くって……」
 正確には寝られなかった。
 どうしてか、と言うほどに悪い予感ばかりが胸中に浮かんで、気になってどうしようもなかったのだ。それがここ数日の体調の悪さにも拍車をかけている。
「いいさ、総務には適当に言っておくから、少しでも休んでろ」
 無理に引張られて、医務室のベッドに横にならされる。
 心地よい柔らさの寝具に体が沈むと、ほっとした。
 見上げる先で、由良が笑う。
「疲れている時ってのは、何をやってもうまくいかないもんだろ?気にせず寝てろ」
「はい……すみません」
 去っていく由良に申し訳なく思いながらも、その言葉を口の中で繰り返す。
 疲れているからだろうか?
 あんなにも高塚の事が気になったのは?
 もう二度と彼に会えなくなるような予感がして、しようがなかった。
 だから。
「はあ……」
 深く息を吐いて、そんなはずはないと思う。
 この仕事を取ったら、まだまだ彼との仕事でのつながりは消えない。
 だからこそ、彼からの要求は全て応えようと頑張ったのだから。
 その決定の時期がもうそこまで来ていた。
 
 
 睡魔が、意識を浸食していく。
 うつらうつらと夢と現実の境に恵無が足を踏み入れた、その時だった。
 枕元の台に置いていたPHSがいきなり鳴った。
 驚愕にびくり全身が震える。
 跳ね起きるようにしてそれを手に取った。
「はい……」
『恵無、すまん、大変なメールが入ったんだ。戻ってこれるか?』
 大変な?
 途端にきゅうっと胸が引き絞られる。痛みすら伴ったそれに、恵無は思わず拳を強く胸に押し当てていた。
 嫌な予感が全身にまとわりつき、息すら忘れる。
『恵無?』
「あ、はい、すぐに」
 由良の訝しげな問いかけに、我に返った恵無は慌ててベッドから降りた。
「戻ります」
 PHSを切って、体が怠いのも忘れて、事務所の由良の元に駆け戻った。
「すみませんっ」
 走り寄る恵無を瀬戸や須藤が迎え入れる。彼らが注目していたのは、由良のメール画面だ。
「何です?」
 はあはあと、肩で息をしながら問いかける。
「メルサ社が、うちを切った」
「へ?」
 由良の言葉が一瞬理解できなかった。
 呆然と見つめる先で、由良がますますその眉間のシワを深くした。居並ぶ人々の苦渋に満ちた表情もついで目に入る。
「切った……?」
「メールが来ている。採用を見送ると」
「……理由は?」
「詳しく書いていない。ただ、役員会で採用が見送られることが決まった……と」
 そんな……。
 くらっと、視界が狭まる。
 耳の奥でじーという不快な音が鳴り響き周囲の声が聞こえなくなった。
 
]\.19
 
「……恵無っ!」
 気がついたら、床の冷たさが尻に伝わってきていた。激しく視界がぶれるのは、由良に肩を揺さぶられているせいだ。
「しっかりしろ!」
「長瀬くん、真っ青だ。イスに座りなさい」
 腕を引っ張られて、自分がへたり込んだのだと気が付いた。
「すみません……」
「いや、体調悪そうだし、今までお前が一番頑張ってきたもんな」
 由良の慰めの言葉は、恵無の耳を素通りしていく。
 高塚さん……。
 切られたのだとしたら、もう彼と仕事の話すらできない。何より、そのことが一番気になっていた。
「あ、俺……高塚さんに連絡を……」
 聞かないと……。
 何故不採用になったか、その理由を。それから、それから……もっといろいろなことを……。
「高塚さんはもういないらしいぞ」
 高塚に電話することだけを考えていた恵無に、由良が素っ気ない口調で言い放つ。
「は?」
「メールに書いてある。高塚宗也は金曜日付けで退社した。次の担当者は野々瀬さんだ。高塚さんの前の課長が返り咲いたらしい。このメールその野々瀬って人だ」
「辞めた?」
 金曜日……朝一のメールではそんな事は言っていなかった。
 技術的な詰めの打ち合わせの連絡。
 あの時点で、そんな話は全くなかった。
 呆然とする恵無に、由良は忌々しげに呟いた。
「この野々瀬って奴、いけ好かない奴だったよな。ブランド至上主義って感じで、うちみたいな新参者はテストするの嫌ですって感じでさ。だから、担当を変わるまでうちの製品は鼻にもかけられなかったんだ」
 恵無の前にメルサ社を担当していた由良からの、そんな苛立ちの声に、瀬戸までもが頷く。
「彼が担当になったので、速攻でうちを切ろうとしたのでしょうね。最悪です。私も彼にはいい印象がありません。彼がいる限り、うちを使おうとはしないでしょう」
 瀬戸までもがそう言い切る。
「そういう人もいる。それにしても、この高塚という人は何故急に辞めたのかな?」
「聞いていないです……」
 恵無はただそう答えるしかなかった。
 そんな気配は微塵もなかった。けれど。
「そういえば、社長の進退劇の噂はどうなったんだろ……」
 重い沈黙が漂っていた4人の中に落とされた由良の言葉に、皆がはた、と思い出す。
「何か進展があったのかも知れない。この高塚って人も確か一族だったし。となると社長が替わっただけじゃないかも」
「一族だとしたら、そう簡単に退社することはないと思っていたが……。一族自体がメルサ社から撤退したのだとしたら……。長瀬くんっ」
「あ、はいっ!」
 茫然自失状態の恵無は、声をかけられて慌てて顔を上げた。
「こうなったらメルサ社はもう無理だと思う方が良いかもしれない。その手のフォローは片瀬くんの営業サイドからにして貰う。野々瀬さん相手だと、技術サイドからは難しいという連絡は入れておく。君は、一応念のために情報配信チームの所に行って、何か情報が入っていないか調べてくれ。メルサ社の動きが他に影響してはかなわないからな。それと由良くんは、テイコー社のフォローだ。こうなった以上、あそこを落とす訳にはいかない」
「はい」
 恵無は、震える膝に力を込めて立ち上がると、事務室を飛び出した。
 こんなのは変だ。
 あの時だって、いつだって、高塚はJG社の製品を悪くは言わなかった。
 採用されると、彼自身も自信を持っていたようにすら聞こえた。
 なのに、高塚本人から一切の連絡がないのは変で──そして、諦めきれない。
 今こそ、高塚に会いたい。
 会って、全ての真相を知りたい。
 そんな思いが、恵無の疲れ切った体を突き動かしていた。
 
 
「いる?」
 ばたんと勢いよく開け呼びかけると、驚いた様子で服部と隅埜がパーテーションの向こうから顔を出してきた。
「どうしたんですか?」
 どこかおっとりとした服部の声は、いつもは和ませてくれるというのに。今は、よけいに恵無を苛つかせる。
「メルサ社が、うちを切ったんだ。その理由が今ひとつはっきりしないのと、うちを担当していた技術の人がいきなり退職した。ほら、社長と同じ一族らしいって人。何が起きたか詳しい情報を知りたいんだ」
 ずっとそれを考えながらここまできた恵無だから、問われるままにそれらを全て喋っていた。
「メルサ社……判りました。すぐ確認します」
 服部が隅埜に目配せをすると、隅埜が頷いてメールソフトを開くのが見えた。
 服部はPHSを取り上げると、ボタンを押し始めた。すぐに繋がった電話に応対している。
「はい……お願いします」
 恵無の耳まで届いたのは、先日聞いた名前だ。服部の先輩だという、そんな繋がりの人だった。
 待ち時間の間に服部が無言で椅子を差し出してきたのに頭を下げて、恵無は座り込んだ。と、ひどい疲労感に襲われた。目眩にも似た感覚に、視野が狭くなり、思わず額に手を当てた。しっとりと汗ばんでいるのが、手のひらなのか額なのか判らない。
 高塚さん……。
 闇雲にその名を口の中で転がす。
 メルサ社に切られたことは、恵無に二つの衝撃を与えていた。
「大丈夫?」
 隅埜の心配そうな声音に、「大丈夫」と答えようとして、声がうまく出ない。ただ、うすく笑っただけだったけれど、隅埜の顔がさらに顰められてしまった。
「そこで休んでて。顔、真っ青……」
「ごめん……」
 やらなければならないことはたくさんあるというのに。
 メルサ社がポシャった以上、テイコーの対応を急がなければならない。
 だけど……体が動かない。
 高塚の事も何もかもが気になるのに、動けない。
 そのまま重い沈黙が部屋を襲う。
 隅埜も服部も、恵無のいつにない深刻な表情に、声をかけるのを躊躇っているようだった。
 それは判るのだが、恵無自身どうしようもなかった。
 そして。
 隅埜のパソコンがメールの着信を知らせた。
「来た来た」
 嬉しそうに微笑む隅埜に、恵無も慌てて近寄る。
「ああ、ドタバタ劇があったんだ」
 そこには、メルサ社の社長が退任したニュースが流れていることが書かれていた。
「社長が退任して、その後がまに役員の中の叔父にあたる人が就任した。専務も降格……って。専務も家族か何かだったような……。けど、この新しい社長、評判が今ひとつだって」
 その言葉に息を飲む。
 クーデター……。
 そんな物騒な言葉が頭に浮かんだ。
 何か不祥事があったのなら別だが、そんなニュースは一向に流れていない。
 現にメールにも、前触れはあったが、かなりいきなりの交代劇で市場が混乱しそうだ、と書いてあった。
 今日の午後にはもっと詳しいニュースが世間に流れるだろう、とも。
 前社長はもともと病弱で、あまり向いていなかったから交代劇の噂があったらしいのだが、同時期に専務までもが降格している。しかも名ばかりの役員にだ。
「高塚宗也……彼は?」
 思わず聞いていた。
「彼は、この退任した社長の弟ですね」
 電話を切った服部が答えてくれた。
「弟……?」
「年の離れた三人目、末弟です」
 心当たりがあるのか、少し口元を歪めて服部が答えた。
「弟、なんだ」
「はい。何か不祥事をひっつけて辞めさせたのではないかという話です。こちらに関しては、詳しい話はあまりなかったです。社長の弟とはいえ、課長程度の方ですので」
 それでも彼は言いきっていた。
 『データ的には、JG社の製品は申し分がないから、採用してもらえる』
 彼がそれを好んで使っていたとは思えないけれど、それでも、彼の自信の裏には、社長の縁故関係があったのかも知れない。
 そして……。
 ホテルでのあの夜。
 別れ際に言った彼の言葉を思い出す。
『でも……』
 何かを言いかけた言葉。
 それは、このことを言っていたのかもしれない。
 彼はうすうす気付いていたのかしれない、こうなることを。
 
 
 そして、同日、午前10時。
 メルサ社の交代劇は正式なニュースとして、社会に流れた。
 だが、そこに、高塚宗也の名前は一言も出てこなかった。
 
U].20
 
 高塚の事が気になった。
 だが、恵無には何もできない。
 辞めた人間のメールアドレスなどさっさと削除されたらしく、試しに送ったメールは転送エラーを起こして返ってきた。電話も、退職しました、と、素っ気なく断られる。
 それでも……。
 何度も何度もメールだけは送ってみる。
 その度に返ってくるエラーメッセージに、ため息ばかりが増えていって──気が付けば一週間だ。
 仕事をしていても、考えるのは高塚の事ばかりだ。だから、しなくていいミスを多発していた。
「恵無……お前、いい加減にしろよな」
 言われて気が付けば、由良の席の横でぼおっと突っ立っていた。
 何でここにいるのだろう?
 何かをしていたはずなのに、思い出せない。
「すみません……」
 力ない言葉に、由良が諦めたようにため息を吐く。それに申し訳ないと思いつつも、だがどうしても集中できないのだ。
「なあ、何があった?」
「別に……ちょっと、体調が悪くて……」
 嘘ではない。
 寝不足のせいで体はひたすら怠いし、食事もきちんと取っていないから貧血気味だ。
 こんなことで……。
 と、思うほどに、高塚のことが気になって他のことに気が回らない。それでなくても体調は悪かったから、そろそろ限界も来ているのは判る。けれど、だからどうしようという気力も湧かない。
 失恋より痛い今の状況は、この程度の期間ではどうなるものではなかった。
「参ったな……。今日はもう帰れよ。それと、明日は休みだから土日でしっかり治せよ」
「はい」
 自席に戻り習慣のようにメールを確認する。
 すでにメルサ社からは何の連絡も入らなくなっていた。
 高塚は何をしているのだろう?
 退職したというのなら、次の仕事でも探しているのだろうか?
 別のメールのタイトルをクリックしたまま、恵無は動かなかった。目は、画面の文章を見つめている。だが、頭の中は全く違うことを考えているのだ。
「高塚宗也……」
 ぽつりと口に出た言葉は無意識のうちで、知らずに手が首筋を押さえていた。
 もっと知りたいと思っていた。けれどできなかった。
 もっと早く行動に移していれば──躊躇っていなければ──強引に進めていれば──何とかなったような気がする。
 今考えても詮無いことが、幾らでも頭の中に浮かんできて、悔いが湧き起こった。
 こんな事……。
 できなかったから、しなかったから。
 だから、悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。
 首筋を押さえた手が皮膚に爪を立てながら握り込まれる。
 高塚さんがつけた印……もう……消えてしまった……。
 ぴりぴりとした痛みに顔を顰める。
 もともと悩むのは好きじゃない。
 さっさと結論づけて、諦めることは諦める。それがいつものことだったというのに、忘れられない。諦められない。
 高塚を知った時から、自分は変わってしまった。
 あの、自分を捕らえた瞳が忘れられない。
 こんなにも自分を捕らえてしまったくせに、こんなふうに黙って何もかもなかったことにしようとする高塚に一言どうしても言ってやりたかった。
 だが、今の恵無には高塚と連絡を取る方法がなかった。
 プライベートなことは何も知らない。
 仕事があればずっと続くと思っていた関係は、その仕事が無くなって消え去った。
 今、恵無の手の中にあるのは、過去貰ったメールと資料に残る名と、そしてあのワイシャツと記憶だけだ。
 記憶は薄れる。
 メールは埋もれていく。
 資料は、いつか保存箱に収められて、目に付くことはなくなるだろう。
 そうしたら……もう高塚の事は忘れてしまう。
 そう思うと、堪らなく嫌だった。
 何も進んでいないのに。
 何もできていないのに。
 だから。
 由良が心配そうに見つめていることにも気付かず、恵無はずっと考え込んでいた。
 連絡を取る手段を……ずっと。
 
 
 会社から追い出されるように家に帰った恵無は、クリーニングしてしまいこんでいた借りたままのワイシャツを引っ張り出して見つめた。
 サックスブルーのシャツは、恵無より少し大きくて、持っていても着られるものではない。
 だが、今の恵無にとって、それだけが高塚との接点だった。
 それを見ているとそれらを持ってきてくれた時のことを思い出す。
 時が経つにつれて、そんな高塚の優しかった事だけが脳裏を占めていく。だからよけいに会いたい気持ちは大きくなっていった。
「高塚さん……」
 どうしたら会えるだろう。
 なんとしてでも、もう一度だけ会いたい。
 向こうが会いたくないと言ったら、これを返して自分の気持ちも終わりにする。今のままの中途半端な状態は、恵無がもっとも嫌うものだった。
 だが。
 押しかけようにも住所を知らない。
 退社してしまった人間の行方をどうやって調べればいい。
 判るのは、彼がメルサ社の前社長の弟だっていうくらいで……。
 ──社長……。
 ぼおっとワイシャツを見ていた恵無の瞳にふっと光が差した。
 そうだ……連絡先が判るっ。
 高塚がただの平社員であったら無理かしれない。
 だが、社長の弟なのだ。
 ならば、判る。
 その社長の住所なら、判るのだ。
 記憶の中にあった、見慣れたデータの最下部。そこに、経営者の住所は記されている。
 恵無は、テーブルに放りだしていた車の鍵を手に取った。
 チャリっと音がするそれを手の中に握りしめる。
 ようやく見つけた一筋の光明を、逃すつもりなどまったくなかった。
 
 
 
 次の日、恵無は始発の新幹線で名古屋へ、そこで中央本線に乗り換えて長野に向かった。
 あのワイシャツが入った紙袋を持ち、社長の住所が書かれたデータベースの企業情報の紙を胸ポケットに大事にしまっている。
 思い出したのは、企業情報データベースのデータに書かれていた経営者の個人情報欄だ。そこを見れば住所が判ると言うことを、なぜ今の今まで忘れていたのか。
 住所が判ったのだから電話番号も調べる事はできたけれど、今まで連絡一つ寄越さないのだから、電話だと逃げられる恐れがあった。だから電話はかけなかった。代わりに、直接行くのだ。
 こんな中途半端な状態は嫌だった。
 悩むのも、待つのも、かと言って放置するのも、もう限界なのだ。
 この状態をなんとかしたいと思うからこそ、動くしかなかった。
 そんな恵無が長野駅に着いたのは、ちょうど昼どきだった。
 このまままっすぐ家に向かおうと考えて、ふと思い直す。移動の時間をさっ引いても、到着するのは昼食の時間と言えよう。
 そこが高塚の住居であるならば、この勢いのまま訪れても問題はないと思う。だが、今手の中にあるのは、彼の兄の住所だ。
 そんな時間に訪れて高塚の所在を尋ねるのも失礼なことだ。仕事をしている時でも、電話も訪問も昼食時はずらすのは当たり前だった。そんな会社勤めで培ってきた経験から、恵無は先に昼を済ませることにした。
 それに、どうしても教えて貰いたい恵無にしてみれば、不快さを覚えさせるようなことはなんとしてでも避けたかったのだ。
 だが、さあ昼を──と思ったのも束の間、何も欲しいと思わない。
 視界の中には、いくつか店が並んでいる。
 いつもなら美味しそうだと思うディスプレイの見本も、なんら食指が動かなかった。
 それよりも──会いたい……。
 ちゃんと理由付けて時間をずらそうとしているのに、体の芯を支配しているのは焦燥感だ。早く会わないと、という焦りは、ぐるぐると胸の内を駆け巡り、どんどん大きくなっていく。
 下手に同じ街にいるのだ、と意識してしまったせいなのだけど。
 けれど、恵無は深いため息を吐くと、その焦燥感をどうにか押さえつけた。
 じりじりと焼け付くそれは、相変わらず胸の内を支配している。
 だが、焦ればろくな事にはならない。
 ぎゅっときつく拳を握りしめ、目に付いたパン屋に入る。
 その途端、目に付いたのは、あのホテルで食べたワッフルだった。同じ形状のワッフルだったけれど、これにはフルーツもクリームも乗っていない。それでも、恵無は無性にそれを食べたくなった。
 あの時、あのホテルに泊まらなかったら、今頃恵無は壊れていたかもしれない。
 今ならそう思う。
 少なくともあの時、恵無の感情は一度リセットされたのだ。
 どうしたら良いのか判らなく、混乱していた状態を一度解放し、そして、もう一度高塚の事を考えられるようにした。
 高塚の事を知らなければ、と思ったあの後すぐに、調査に動けば良かったのかも知れないけれど。
 今さらそんな事を考えても、もうどうしようもない。
 だから。
 恵無は待合室を探しだし、固いプラスチックの椅子に座った。
 甘い匂いにつられるように、ワッフルを口に含む。
 乾いた生地は少しぱさついた感触を与える。だが意外にも、すぐにわき出た唾液に口の中が潤った。
 程よい甘さとバターの味が、恵無の舌に心地よく美味しさを伝える。
 一緒に買った缶コーヒーも、ワッフルによくあった。
 ごくりと飲み込めば、胃が嬉しそうに震えている気がする。
 脳が、体が、活性化する。
 あっという間に食べ終わって、手の中の包みを見つめた。
 食べられないだろうと、一つしか買わなかったことを後悔しながらだ。
「まだ──大丈夫」
 ふと、そう思う。
 足りないとは思っても、それでも胃の中に物が入ったことが、神経を少しでも落ち着かせた。
 そういえば、あの時も食欲と睡眠欲が解消されたから、高塚の事をゆったりと考えることができたのだ。
 けれど、高塚と連絡が取れなくなってから、その両方とも恵無はろくに取っていなかった。
「行こっかな……」
 これから行けば、昼は過ぎるだろう。
 そして、高塚の所在をなんとしてでも聞き出して、そして、会うのだ。
 それが終われば、たとえどんな結果になっても、幾らでも寝倒そう。
 笑って高塚と抱き合うことになっても──。
 泣いて泣いて泣きまくったしても──最悪の結果だとしても、無理にでも、寝て、食べて。
 無理にでもそうしよう。
 自分一人の力でできなければ、どこかに泊まって。あの時のような優雅な気分になってみたら、また、考えが変わるかも知れないし。
「ボーナス……まだ残ってたよな」
 一番安い部屋って幾らなんだろう?
 あんなホテルの相場なんて知らないけれど。
 けれど、一晩で回復するための癒しの代価と思えば──どんなに高くても泊まる価値はありそうな気がする。
 だが、そんな事を考えていた時、ひくっと口角が震えた。
 ──バカか?
 最悪の想像に、別の意識が冷静に指摘してくる。
 ──なぜ、そんな事を考える? まだ何もしていないのに。
 愚かだと笑う意識に、恵無は飲み干したコーヒーの缶をぎゅっと両手で握りしめた。まだ冷たく硬い触感に、恵無はふっと息を吐いた。
「もう駄目って考えてんのか、俺は……」
 口にして──悲観的な結末を想像していることを改めて自覚して、うっすらと笑う。
 せっかくここまで来たのに。
 今の今まで気がつかなかったけれど。
 恵無が座っていた待合い室のちょうど目の前。そこにある売店にかかった暖簾に、恵無の口元の笑みがさらに深くなった。
 きっと、そんなことにはならない。
 ただ、そう思う。
 それまで足下に置いていた紙袋の紐に手を伸ばし、しっかりと握りしめてその感触を確かなものにした。
 暖簾と同じ商標が入った紙袋の中身は、あの時、高塚がワイシャツと薬を入れて渡してくれたときの紙袋そのものだった。
 あの時、これを持って尋ねてきてくれた事は決して忘れられない。
 最初は無理矢理だった。けれど、気が付けば自ら望んでいた。
 そして。
 高塚は──優しかった。
 いろんな事を言われたけれど、記憶に深く残っているのは、その優しさばかりだ。
 そんな記憶が恵無の体内奥深くに熱を生み、疲れていたはずの体を昂揚させる。
 熱くなる頬に触れようと手を動かせば、微かな音が胸元でした。もう覚えてしまった住所に住む、高塚宗佑という人。
 会ったからと言って、高塚の行方を教えてくれると限らないけれど、それでも、ようやく手に入れたたった一つの接点を見逃すことなどできない。
 そして、まだ恵無はその人に会っていないのだ。
 何もかも諦めるには、まだ早い。
 全ての手だてが無くなってから、諦めることを考えればいいのだ。
 待合室の質素な時計が示した時刻が、もうそろそろ動いて良い時間だと知らせてくれた。
 
U]T.21
 
 時計が見せた時刻に、タクシーでの移動時間を足してみる。
 あれから十分に時間は経っていて、もう訪ねても失礼はない時間だろう。
 と、恵無が待合室の扉から出て、視線を道路の方に向ける。と──。
「あ……」
 何かが視界を掠めた。
 すぐに消えたそれを、恵無の視線が無意識のうちに追う。目を凝らし、その正体を探ろうとする。
 そして。
 見つけた。
「…つか……ん……たかつかさん……高塚さん……っ!」
 呆然と呟いた声音は、すぐにはっきりとしたものになる。
 道路の向こうに渡りきった彼の姿は間違いようもない。
 慌てて後を追いかけようとしたけれど、その寸前で信号が変わってしまった。すぐに双方の車線に車が走り始め、渡るすべを失う。
 その間にも高塚の姿は遠のいていくのだ。
「高塚さんっ!」
 人の目も気にせずに叫ぶが、道を隔てているせいか、高塚には聞こえないようだ。振り返りもしない高塚に、焦りがどんどん激しくなる。
 道路を渡りたくても交通量の多いせいか信号の間隔は長く、なかなか変わらない。
 焦ってじっと高塚の姿を目で追って、その背が人混みに紛れる頃、ようやく信号が変わった。けれど、走り出した恵無はこの辺りの地理に疎く、すぐに高塚を見失ってしまう。
 それでも、足が向くままに闇雲に辺りを走り回った。
「……高塚さん……」
 息が切れ、それでなくても体力を失っている体が悲鳴を上げる頃。
 やっと見つけた。
 忘れたことなどない後ろ姿だ。
「た…かつかっさんっっ!!」
 掠れて思うように出ない声が焦れったい。
 それでも必死で振り絞って……高塚が弾かれたように振り返った。 
 気がついた……と思ったけれど。
 伸ばそうとした手のはるか向こうで、高塚が首を傾げて。
 背が遠ざかり始める。
 追いかけるにはまだ遠く、けれど、呼びかけようにも声が出ない。
 しかも、それでも息を整えて走り出そうとした途端、激しい目眩に襲われた。どんと倒れ込むようにして、傍らの壁に手をつく。力が抜けた手では支えきれずに、恵無は肩から壁に倒れ込んだ。そのまま、ずるずると壁づたいにずり下がる。
 一瞬闇に覆われた視界が、狭いながらも回復したのはすぐのことだったけれど。
 もう高塚の姿はひどく遠い。
「高塚さん……」
 通行人が訝しげに恵無を見やる。
 そんな中、かろうじて立ち上がった恵無は、よろよろと足を進めようとした。だが、息が整わない。なんとか入り込んだ路地裏で、ビルの壁に背を預けた恵無の口から、苦しそうな呼吸音が鳴っていた。
 その合間に、切なく零れるのは高塚の名だ。
 全身を伝わる汗は、急激な運動のせいだけではない。冷たく不快な悪寒を伴う汗を、二の腕で拭った。
 酸欠のせいか、脳が激しい血流の音を立てていて、頭痛すらする。
「……どこ……へ……」
 呟く言葉は、荒い呼吸に紛れて中空に消える。
 久しぶりに見かけることのできた高塚は、変わりないように見えた。
 仕事中のように口元を引き締め、スーツ姿で早足で歩いていった高塚。
 やっぱり……ここにいるんだ……。
 ここに来たことは間違いではなかったけれど。
 どこに行こうとしていたのか? 駅とは反対の方に向かっていた高塚の、その後を追い損ねた後悔は、今までで一番激しい。
 悔しくて悔しくて──涙が目尻に浮かぶ。
 それでも、高塚がこの街にいるのであれば、社長宅に行けば会える確率は高いと思う。
 やはりこの住所こそが、最後の手がかりなのだ。
「行か……なきゃ……」
 大きく息を吸い込んで吐き出す。
 数回それをして呼吸を整えると、恵無は高塚の兄である元社長の住所が書かれた紙を引っ張り出した。
 すでに記憶しているその文字を恵無は何度も読み返した。
 ここからタクシーで行ける距離だとは確認していた。
 
 
 タクシーの運転手は住所を伝えると、二度と聞き返すことなく、迷いもせずに高塚邸へと辿り着いた。
 社長の家という位だから、そこそこのレベルだろうとは思っていた。だが、タクシーから降りた恵無が目にした高塚邸は、その想像を軽く凌駕していた。そう、邸と呼ぶに相応しいのだ。
 幾ら、都会ではないとはいえ、延々続くこの白塗りの壁は一体どこまで続くのだろう?
 立派な門構えは、それだけで一部屋くらいあるのではないか? と思う。
 その向こうには、緑溢れる日本庭園があって、垣間見える玄関はまたひどく立派な物だった。
 かろうじて窺える邸は平屋ではあるが、それでも、広さは十分確保されているようだ。
 すぐに訪ねるには気後れしてしまった恵無が、うろうろと辺りを窺えば、そこだけは後から造りつけたようなガレージが見てとれた。そこには3台もの車が並んでいる。そのうちの2台が高級車と呼ばれる車で、ガレージを広く占有している。そして、残り1台だけが軽四で、そのアンバランスさに緊張していた恵無も思わず笑顔が零れた。
 ガレージに今あるのは3台だけだったが、その隣には屋根のない駐車スペースがあって、そこにはまだ2ー3台は入れるだろう。
 そんな空間が、まるで当たり前だと言わんばかりの様相に、恵無は息を飲む。
 これが高塚の実家であることは間違いない。
 こんなにも凄い家だったのか……。
 格の違いに圧倒される。
 呆然と見つめる恵無の体には、少し浮遊感すらあった。おぼつかない足取りは、先程の駅前での全力疾走のせいだ。肉体的のみならず、精神的なダメージも酷い。
 そんな恵無の精神を、この邸はさらに揺さぶっていた。
 思わず自分の身なりを確認して、ぱたぱたと先ほど壁で付いたであろう埃を払う。
「え……と」
 高塚の名を思い出して──ついで社長の名を口の中で呟く。
 自分が何をしに来たのかもう一度頭の中でシミュレートし、意識を無理矢理冷静に落ち着かせた。これからが本番なのだと、萎えかけた気力を振り絞る。
 どんなに圧倒されても、それでも、自分は高塚に会いたい。
 そのことだけが、今の恵無の支えになっていて竦んでいた足を動かせる。
 一歩一歩、立派な門に近づいて、ひしひしと感じる重圧感にぎりっと奥歯を噛みしめて堪える。
 会いたいのだから。
 どうしても、会いたいから。
 震える指先がインターホンを押すのを、唇を噛みしめて見つめた。
「高塚さんに会いたい」
 それは縮こまる精神を奮い立たせる呪文だ。
 沈黙が続く中、恵無は何度もその言葉を呟く。そして、再度押そうと右手を挙げた時。
『はい、どちらさまでしょうか?』
 男性の低い声音が、スピーカーから明瞭に聞こえてきた。
 
 
 高鳴る心臓は、一向に鳴りやまない。
 どんな厄介な出張先へと行った時よりもはるかに緊張して、門の中から現れた人を見つめていた。
 背は恵無より高く、均整のとれた体格をしている。どちらかと言うと痩身と言えるだろうが、病的なものではない。白髪が混じり始めた髪を短くきれいに整えている。
 どことなく顔色は悪いが、その眼光は鋭い。
 その彼が近づくにつれ、まだ門の格子を隔てているというのに、威圧感がびしびしと伝わってくる。
「宗也に会いに来られたそうで?」
 まさか……。
 その高塚とどことなく似た風貌に、直感する。
 社長本人だ──高塚宗佑その人だ、と。
 まさか本人がそのまま出てくるとは思わなかった恵無の心臓は、張り裂けんばかりに鳴り響く。張りつめた緊張感は、限界までになっていた。
 だが、問われていつまでも無言でいるわけにはいかない。
 それでは単なる不審者だ。
 そんなことになれば、恵無の目的は叶わない。
 ごくりと気持ちを落ち着かせるために息を飲み、額に流れる汗を拭った。
「はい、どうしても、高塚宗也さんに会いたいと思いまして」
 深々とお辞儀をする。
 だが、宗佑が低い声音のままに喋った言葉が聞こえた途端、上げようとした頭は中途で止まり、顔が上げられなくなった。
「長瀬君……ね。ジャパングローバル社の?」
 インターホン越しに名前は伝えたけれど、会社名までは伝えてはいない。
 宗佑がそれを知っていたことは、恵無を驚かせるのに十分だった。激しい緊張に、呼吸がうまくできない。自然な行為であるそれが、意識しないと続かないのだ。そのせいか、心臓までもが破裂しそうなほどに激しく打つ。
 それでも、いつまでも頭を下げたままのわけにも行かず、おずおずと顔を上げて、宗佑の様子を窺う。視線は彼の胸元を彷徨い、それより上には上げられない。だが、何とか表情が窺える位置だ。
 僅かに首を傾げ、それでも恵無から視線を外さないで宗佑は尋ねてきた。
「宗也に会いたいのか? それはなぜかね?」
「……仕事の関係です。どうしても、高塚さんに聞きたいことがあって」
 嘘ではないのに、どうしてはっきりと言い返せないのか。
 上役に対して感じる威圧感、圧迫感……。そのどれとも同じで、だが、それ以上の── 一言で言えば、貫禄の違いというものだろうか?
 うっかりすると下手になってしまうことに、恵無も戸惑いが隠せない。
「仕事?」
「はい……。いきなり会社を辞められたと聞きまして。けれど、どうしても高塚さんに聞きたいことがあったのと──それと」
 手の中の紙袋を目線で指し示す。
「それに、前回こちらに出張に来た時に預かっていたものもありますし。こちらをお訪ねすれば、会えるかもしれないと思いました」
 いろいろと電車の中で考えてきた。
 その中に社長やその家族と相対した時の仕方も考えていたのに……いざ、そうなったらそんなことは全て頭から吹っ飛んでいた。
 けれど。
 会いたいんだ、どうしても。
 結局、その思いが恵無を突き動かす。
 最初の内は、宗佑の威厳に圧倒されたけれど、会いたい思いが、それを凌駕していた。
「私は、高塚さんにどうしても会って話がしたいんです。それに、これ……直接返さなきゃいけないものですから。だから、高塚さんに会わせてください」
 拙い言葉だと、言いたいことの半分も伝えていないと、情けなさに臍を噛むけれど、それでも、必死の思いを込めて、深々と頭を下げる。
 本当に会いたいから……言葉なんか繕っていられなかった。
 初めてなのだ。
 こんなにも一人の人に、会いたいと、思ったのは。
「君は……宗也に会って話がしたいと……それだけのためにここに来たのかい?」
 面食らっていたのだろう。
 逡巡するような間があって、それからゆっくりと宗佑は語りかけてきた。それは最初の、誰何された時より柔らかく感じた。
「はい……」
「その内容を聞きたいのだが?」
 門の格子戸が、音を立てた。重そうに感じたのに、手入れが良いのだろう、戸は宗佑の片手で軽く開け放たれた。
 遮る物がなくなった先に、宗佑がじっと恵無を見つめている。
 それは恵無の一挙一動を見逃さないかのようだ。
 ──ああ、似ている。
 ふと、そう思う。
 その目元も、見つめる視線の鋭さも、宗佑と宗也はとてもよく似ていた。
「……長瀬君?」
「あ、すみません……」
 似ていることに感慨に浸っていたら、訝しげに問いかけられた。それに慌てて、頭を下げて。
「私は……一度だけ、プライベートで高塚さんに会っています。その時、一方的に終わらされた話に納得していないのです」
 契約そのものの話はできなかったけれど、話したい内容は同じだ。
 もう二度とない。
 その言葉に、恵無は納得できていないのだから。
 だが、宗佑は恵無の言葉に驚いたように目を見開いた。
「宗也の方が、一方的に? ……終わらせたのか?」
「はい」
 疑問に思うところはそこなのか、それだけを問いかけられ、頷き返す。
「私は……、終わらせたくなかったんです……」
 その契約が二人にとっての接点なら、終わらせたくなどなかった。
 ずっとずっと──たとえ契約上でも、求めて欲しかったのだから。
「ふむ……」
 しばらく押し黙って考え込んだ宗佑が、不意に視線を戻したのはそれからたっぷり数分は経っていただろう。
 その口角が、微かに上向きの弧を描いている。
「どうやら深刻な話のようだ。だったら、こんなところで立ち話もなんだろう。今、みな出払っていて誰もいないんだけどね」
「え?」
 突然態度が柔和になって、宗佑が恵無を通すように道を空けた。
 視界に広がったのは苔生す道並みだが、いきなりのことに恵無は動けなかった。代わりに。
「何で?」
 と、問いかけてしまう。
 それに、宗佑が意外そうに笑った。
「宗也に会いたいんだろう? それに君もずいぶんと顔色が悪い。体調の悪そうな人間を無下に追い返すほど、私も人でなしではないしね」
「あ……そんなことは……」
「気が付いていないのかい? 真っ青だよ。私も先だってまでは体の不調で入院していたからね、そんな顔色をしている時はどんなに辛いか判っているつもりだ。さあ、遠慮無くどうぞ」
 それでも動けないでいると二の腕を掴まれた。
 その力は、病人だという割には強い。
「あ、あの」
「……宗也に会いたいんだろう?」
 躊躇いは、その言葉で立ち消えた。
 虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということわざが、突然脳裏に甦る。
 確かにそのために来たのだから、このまま引き返す訳にはいかなかった。
「では、おじゃまします」
 腕を引く宗佑の歩みに揃えて、彼に追いつけば。
「私も、君にはいろんな話を聞いてみたいんだよ」
 宗佑の口元が楽しそうに笑い返してきた。
 
U]U.22
 
 
 玄関に入れば三和土だけで優に4畳半はある。
 続く踊り場は、やはりそれと同じくらいあって、壁と見紛うほど立派な衝立が置かれていた。純日本風だと思えば、案内されたのはフローリングの落ち着いたインテリアの応接間だ。
 落ち着いた色合いのゴブラン織りのソファに勧められるがままに腰を下ろしたけれど、据わりは悪い。居心地の悪さを誤魔化すように視線を彷徨わせれば、その隙に宗佑が部屋から出て行ってしまった。そのせいで、よけいにいたたまれなくなる。
 それにしても、と思ってしまうのはこの居心地の悪さが、あのホテルに泊まった時にも感じたものと同じだからだ。
 こんな空間に慣れ親しんでいる高塚は、ある意味、住む世界が違うのかも知れない。
 男同士、というだけでなくこんな所にもネックがあるのだと、つくづく気付かされてしまうのだ。
 たとえ、高塚が恵無の思いを受け入れたとして、家族の問題もある。
 裕福な家であればあるほど、世間体を気にするのは、ドラマの中でも現実でもよくあることだ。
 そう思って深いため息を吐く。と。
「疲れたかい?」
 いきなりの問いかけに、びくりとソファの上で跳ねそうなほどに驚いた。
 それを見て取った宗佑が、くすくすと笑みを堪えるように喉の奥で笑う。その手に持たれた盆の中で、コーヒーセットがかちゃかちゃと音を立てていた。
「すまないね。ちょうど家人はみな出かけて誰もいなくて……私も、不慣れなもので」
 恵無の視線に気付いた宗佑が、笑みを苦笑へと変化させる。
「え、あ……すみません……」
 これは……。
 はっきり言って恐縮するなんてレベルではなかった。
 全身から冷や汗が流れる。
 仮にも……元とはいえ、取引先の社長に直接コーヒーを入れて貰うなんて……由良辺りが聞いたら、卒倒しそうだ。いや、恵無自身も半ば卒倒しそうな気分だった。
「宗也は今出かけているんだがね。そろそろ帰ってくると思うよ」
「え?」
 入れて貰ったのだから、と、カップを取ろうとしていた所にかけられた言葉。手の中でカップがソーサーにあたって派手な音を立てる。
 茫然と見つめる宗佑がニヤリと嗤った。
「どうしたんだね。驚くことかな?」
「え、あ……一緒に住んでいるんですか?」
「それはそうだろう。ここは私たち兄弟が育った家だからね。宗也も最初は一人暮らししたがっていたが、それも面倒だったんだろう。ずっと一緒に暮らしている。だから、最近の宗也の変化は知っていてね……」
 悪戯っぽく笑う宗佑に、彼の威圧感を与えるほどの威厳が薄れていた。
 それが、恵無というおもちゃを前にして興奮している、と思うのは穿った考えだろうか?
「一時期楽しそうに仕事をしていて。接待だと遅くなった日を境に、思い詰めたような顔ばかりするようになって。それでも普通にできていたのだが。それがここ一週間ほどにこりともしないんだ。まあ、あんな感じで退職させられたのだから……とも思っていたのだが。──そうか」
 最後は呟くように言って、コーヒーを口に含みながら、だがその視線は恵無から離れない。
「あの……いきなりだったんですよね。会社の方にメールで連絡があって……びっくりしました。それまでは何も言われていなかったので」
「あれはね、済まなかった。君たちの会社にまで迷惑かけたようで、それも宗也はひどく済まながっていた。私もデータは受け取っていて、君たちの物の方が勝っているのは知っていたのだが……」
「クーデター?」
 会社内ではそう言っていた。
 だから単刀直入に聞く。
 すると宗佑は困ったように口の端を歪めた。
「やっぱり、他社にも広がっているか……」
 声のトーンが落ち、嘆くように吐息が漏れた。
「私がね、肝臓を悪くして……。もう良くなっているのだが、やはり体力は落ちているからね。それで弟に社長の座を譲るようにしていたんだ。次の役員会でそれは決定されるはずだった。だがね……急に早まった役員会。私すら知らなかった。役員達は叔父の息がかかっていてね……急だったよ。宗也もね……あの子も罠に嵌められて。吉宗は、なんとか残っているが、次の役員会では何くれと理由をつけて辞めさせられるだろう」
「わ、な……?」
 毒々しいその言葉の響きに、恵無は目を見張る。
「写真をね、撮られていたんだよ。ホテルの部屋に入っていくところと、出て行くところ。それに次の日の朝の分と……。紙袋を受け取っているのか、渡しているのか……叔父は受け取っているところだと言い張ったがね。ほら……君が今持っている紙袋だ。だから……相手は誰か判るだろ?」
「それは……」
 ごくりと息を飲む恵無を安心させるように宗佑は柔らかく微笑んでいた。けれど、恵無の顔の強張りは解けない。
一体どんな写真だったというのか?
 あの時のことを思い出そうとして。
 けれど、高塚が出入りする時に何かしたかどうかなど、一向に思い出せなかった。
 どんな写真なのか気になって、窺うように宗佑を見つめる。
 そんな恵無に、宗佑は小さく首を振って返した。
「普通なら何て事はない写真だ。接待した相手を部屋まで送って……次の日は、用事があって訪ねた。宗也もそう言い張っていて、そういうふうにしかとれない写真なんだよ。何もやましいことはないと言い張れるものだった。だけど、今は時期が悪い。技術部の課長の野々瀬という男は、宗也を毛嫌いしていたからね。弟が来たせいで彼は出世街道から外されたのだと逆恨みをしていた。その結果、宗也が出した君たちのデータは、宗也が改ざんしたものだと。証拠の品々を差し出したんだ。ジャパングローバルと癒着したからその便宜を図るために宗也がしたと。あの紙袋に入っているものは賄賂だと……」
「そんなバカなっ!」
 思わず立ち上がって怒鳴っていた。
「俺たちはそんな事していないっ!」
 拳を握りしめ、全身がふるふると震える。
 そんな事……。
 そんな事はないっ、と言い切ろうとして、ふっと視線が泳ぐ。
 確かに、契約だと──採用されるためには体を……と言われたけれど。
 あれは、結局高塚が一方的に破棄したものだ。だいたい、あんなことをしなくても、採用はされるだろう……と言っていたのだし。
 その僅かな躊躇に、宗佑が気が付いたのか眉間にシワを寄せた。
 窺うように、恵無を見つめながらコーヒーを口に含む。ごくりと動いた喉が、言葉を出すのに、たっぷり数分は経っていた。
「何か、心当たりがありそうだね」
 声音は穏やかだけど、向けられた視線は鋭い。
 それに気付いた恵無の喉が上下に動いた。
 だが──言えるものでもない。
「……紙袋。紙袋に入っていたのは、賄賂なんかじゃないんです。俺……私が体調を崩していて──その薬持ってきて頂いただけで……」
「紙袋を渡したのは早朝らしいね。その前──接待の後宗也は、一体何をしていたのかね?」
 誤魔化すわけではなかったが、けれど、宗佑は紙袋よりそのことが大事だと言い募る。
「紙袋は、この付近の和菓子屋のものだ。写真も判別は難しいが、それでも私たちは、宗也が持っていたのは渡す前だと考えた。となると、その前の晩。ずいぶんと長い間君の部屋にいた宗也が、一体何を話していたのかが問題なのだよ。宗也も紙袋の件に関しては君と同じ事を言っていた。けれど、前の晩のことははっきりと言ってくれない。反論できないから、なし崩し的に宗也の立場は悪い物になった」
「それは……」
 言いかけて、けれど何も言えなくて。
 噛みしめた奥歯がぎりっと不快な音を立てる。
 頭の中でいろんな言い訳を考えて、そのどれもが相手を説得するに足るものでないと消えていった。しかも絡み合うように、あの時のことを思い出してしまい、こんな時だというのに高塚が恋しくて仕方が無くなる。
 どうしたら良いのか?
 下手な返答は、きっと高塚の立場をさらに悪くするだろう。だが、このまま黙っているのも得策ではない。
 必死になって考えて、けれど、どこか重たい脳が思考を途切れさせる。さっきから、ずっとこの調子なのだ。
 しかも、集中しようとする今、さらに酷くなっていた。
 ぎゅうっと握った拳の中だけに汗をかいて、指に力が入らない。
 答えられないままに、恵無は口を閉ざすしかなかった。
 たとえそれがさらに自分達の立場を悪化させると判っていてもだ。
 しんと静まりかえった室内で、恵無の答えを黙して待つ宗佑の、カップの音だけが響いていた。
 
 
 一体どの位の時間が経ったのか。
 かちりとカップの音が大きく響いた。
 言い訳を考えてぐるぐると堂々巡りをしていた頭が、その音には反応した程だ。思わず視線を向けた先で、そのカップの中身は先ほどとさほど変わっていない。湯気すらまだ立っているのを見て取って、過ぎた時間は僅かな物だったと知る。
 だが。
 宗佑が慌てたように立ち上がった。
「大丈夫か?」
 手がテーブル越しに伸びてくる。
 額に触れた手の意外なほどの冷たさに驚く間もなく、宗佑の顔がきつく顰められた。
「熱か……」
 言葉と共にすぐに駆け寄られたが、恵無には何がどうなったのか判らない。
「あの?」
 呆けた質問に、宗佑の眉間のシワがさらに深くなる。
「気が付いていないのか?もともと顔色は悪いと思ったが……」
 ぐいっと二の腕を引っ張られて、ソファに体を押しつけられた。
 いきなり視界に入った天井を呆然と見つめ、継いで覗き込んでいる宗佑を窺う。
「さっきから蒼白になっていた。後ろめたさがあるせいかとも思ったが、それだけではないな。君、かなり熱が高いようだ」
「熱?」
 再度触れられた冷たさに、ぶるりと体が震える。
 指摘されてようやく自覚した。
 体がひどく怠い。吐く息も熱く、喉を焼いていた。
 ここのところの体調不良が、駅前での全力疾走、ここでの極度の緊張でさらに悪化したのだと、そう気が付いたけれど、その思考もどこかぼんやりとしている。
 いくら考えても一向にまとまらなかったのは、そのせいでもあったのだ。
 指摘されるまで気が付かなかった悔いは、深いため息となって零れ落ちる。
「……聞きたいことはいろいろあるが、今は休みなさい。そのうち宗也も戻ってくるだろう」
 先ほどとはうって変わって優しい声音が落ちてくる。
「でも……」
 迷惑に……。
 普通に喋ろうとしても震える声に、恵無は言いたいことを飲み込んだ。
 だが、宗佑はその言葉に気が付いたようだ。
 くすりと笑みを零し、恵無の頭を軽く撫でる。
「宗也は……年の離れた弟で。だから、弟と言うより子供のような感じだったよ。家を空けがちな母と、忙しい父。末っ子というのは放置されがちだと気が付いた私はもう一人の弟と一緒にあの子の面倒を見ていた」
 懐かしむ宗佑の言葉は柔らかく、その手はひどく優しい。
 こんなふうに他人に頭を撫でられたことなど無かった恵無に、こそばゆいような感覚が背筋を這っていた。
 それでも、だんだんとその手の感触に慣れ親しむように心地よさが広がっていく。
「だからね、宗也のことはよく知っているよ。あの子も懐いてくれたから。何もかもね……。だから……心配しなくて良い。私たちは……宗也の味方だからね」
 染みいる優しさに知らずうっとりと閉じていた恵無の目が、ぱちっと音がしそうな勢いで開かれた。
「味方?」
 自身に問いかけるように呟いた言葉に、宗佑がはっきり頷く。
「そう、味方だよ。だから、君も……長瀬恵無君。心配しなくて良いよ。こんなに体調を悪くしてまで心配して駆けつけてくれた君を、決して悪いようにはしないからね」
「な……に?」
「意地悪な質問をして悪かったね。けれど、これで君が宗也を責めるために来たのではないと判ったよ。君は宗也のせいにはしなかったから」
 くすりと笑う宗佑の真意が判らない。ただ、黙したまま宗佑の次の言葉を待つだけだ。
「何しろ、宗也の初恋の相手も、その歴代の相手も。しかも、告白もせずに玉砕したとか。結局振られたとか。その手の話は、全て知っているからね」
 なぜ、いきなり初恋の相手の話になるのだろう? 
 堪えきれずに笑い出した宗佑の、その話の内容についていけない。くすくすとおかしそうに思い出し笑いをしている宗佑が悪戯っぽく片眼を瞑って見せたその理由も判らない。
 けれど。
「そんな玉砕ばかりの宗也だったけれど、今度の相手はずいぶんと脈がありそうで。私としては嬉しいのだけどね」
 その言葉の意味はすんなりと納得できて。
 けれど、真っ白になった頭では、なんの質問も思いつかなくて。
「あの?」
 何とか出てきたずいぶんと呆けた問いかけは、宗佑の笑みの浮かんだ頷きで返された。
 
U]V.23
 
 
 目を見張るしかできない恵無に、宗佑の笑いはさらに大きくなった。
 ツボにハマったのかずいぶんと長い間その笑いが止まらない。
「その……高塚さんの初恋の相手って……」
 タイミングが掴めなくておろおろしていた恵無だったが、それでも、何とか問いかけた。
 話の流れをもう一度追ってみて、たぶんそうだろうとは思ったけれど。
「高校の部活の後輩だったかな。おとなしい感じの優しい顔立ちの子ではあったようだが、男だった。その後も宗也の好きになる相手はいつも同性だったよ」
 事も無げに返されて、再び言葉を失う。
 つまり、彼は、恵無と高塚がそういう関係だと……知っているのだ。
 そう結論づけて、途端に、頭の中がまた真っ白になった。
 パチパチと意味もなく瞬きをしてしまう。
「最初のうちは、いろいろと悩んだし、互いに相談もしたし。可愛い女性を紹介したりもしたけれど、二度三度……やっぱり気になる相手が同性だったと知ってしまえば、そう言うものだろうと思うようになった」
「どうして?」
「そんなことで、突き放すことなどできないほど、あの子のことが可愛いから。私には、その程度のことで勘当だ、何だと突き放す方が考えられない。それに母などは、面白いね、と一言、言っただけだよ」
 その時のことを思い出したのか、肩を竦める宗佑の様子に、恵無の頭は相変わらず物事を考えてくれない。まるで働くことを放棄しているかのようにだ。
「そういう母の息子だから、ということにしたくはないが……。まあ、私たちも意外にすんなり受け入れてしまったんだ。もっとも、肝心の相手はそんな宗也の思いなど受け入れてくれなかったようなのでね。その後の落ち込む日々を見るに付け、あんなに良い子を振るなんて、と、ずいぶんと悔しい思いをしたものだ」
 とつとつと語る宗佑の表情に、恵無の頭の中に、ぽかりと『親ばか』という言葉が浮かぶ。それが瞳に浮かんだのか、宗佑が不意に言葉を切って、恥ずかしそうに笑んだ。
「まあ、そういう宗也が、接待があるとひどく乗り気で出かけたのは知っていたし。遅くなると電話が会った時の楽しそうな声音といい。これは良い事が合ったのだと思ったんだ。その時の相手が、君だったというわけだ」
「知って……?」
「想像には過ぎなかったが。だが、今までとは違う熱心さがあったからね。君に初めて会ったのは、あの子が大阪に出張に行った後、いきなり岡山に向かうと連絡してきた時じゃないかね」
 その言葉に、こくりと頷く。
 間違いなく、あの時が初めてで。
「帰ってきてから、あんなに楽しそうな宗也は久しぶりに見た。それまで、あまり仕事熱心でなかったあの子が、足繁くジャパングローバル社とコンタクトを取ろうとしたくらいだから」
「仕事熱心じゃなかった?」
 意外だと問い返せば。
「甘やかしすぎたんだろうね。もともと働く意欲が今ひとつだったんだ。けれど、遊ばせるほど私たちも甘くはないから、技術部に入れていたのだが……。どうも当時の上司と折り合いが悪くて。まあ、宗也の件だけでなく、その男の評価が今ひとつだったこともあって、課長職を宗也に与えたのだよ。それからやる気を見せ始め、ついですぐに君と会った。そして、テクスタイル社の問題もあるし、と。宗也の活躍は私たちにとっても予想外の程だった」
 宗佑の語る高塚宗也像は、恵無の持つ印象とは微妙に外れていた。
 けれど、だからと言って今更嫌いになどなれない。
 宗佑が『宗也』と名を愛おしげに呼ぶたびに、会いたい気持ちはどんどんと募っていく。
 けれど。
「もっとも、課長職を追われた野々瀬は、そうは思わなかったようだね。私が弟可愛さだけで、降格させたと思いこんだ。下衆な勘ぐりも最たるものだ。己の足り無さを棚に上げている。そしてそんな野々瀬や私たちの叔父、それに幾人かの役員が、買収され、今度の茶番劇となったわけだよ」
 不意にきつくなった声音に、怒りが混じっている。
 何より、買収されたとはっきりと言った面々にあった、叔父という言葉に、恵無は目を剥いた。
 派閥、という言葉も同時に脳裏に浮かぶ。
「役員も叔父も、そしてその野々瀬も……全てドーラスタ社に買収されているのだよ」
「ドーラスタ……」
 それは、恵無の会社にとって最大のライバルだ。
「馬鹿だよ。目先の欲望に囚われて……」
 手で目を覆い隠すようにして力無くソファに埋もれた宗佑はひどく痛々しく見えた。
 そうだろう……これは乗っ取り。
 間違いなくドーラスタ社のメルサ社の乗っ取りなのだ。
「まあ、後手に回ってしまった私たちにも問題はあるかも知れないが」
 ただ、そんな愚かな手に乗っている叔父達を嘲笑うかのように顔を歪める。
 けれど、ふと恵無は気が付いた。
 この人もそして高塚も、諦め切れていないのだ。
 解任させられても、彼はまだこんなにも意気揚々で、そして負け犬の気配など微塵もない。
 だから思う。
 きっと高塚はそのために走り回っているのだ。
 高塚家の一大事に、彼ならきっとそうするはずだ。
 そう思いたいと願う。
「だから、今は大変なんだよ。あの子が君に連絡しなかったのも許してやって欲しい」
「許すも何も……」
 実は、まだ体だけの関係なんです──と言えるものでもなく、恵無は押し黙った。
 この話を聞けば、互いが好きなことは判ってしまうのだけど、まだ高塚とちゃんと話をしていないのだ。
「君なら──こんなところまで来てくれた君なら、宗也のパートナーとして相応しいと思うのだけどね」
 だからこそ宗佑の信頼の意味を持つ言葉が、ずしりとのしかかってくる。
 まだ、どうするのか、互いに決まってなどいないというのに。
 躊躇いは激しく、けれど、期待を裏切りたくないとも思う。
 高塚のためになるのであれば、何かしたい。
 だが。
「あの……どうして私をそんなに……」
 信じてくれるのか……。
 言いかけた言葉は宗佑によって遮られた。
「宗也の人を見る目は確かだよ。今まで好きだった相手で、宗也が告白した相手は、受け入れてはくれなかったが、今でも良い友人でもある。あの子の性癖を毛嫌いなどしなかった。そういうふうな、相手の真意に敏感なんだろうね。そんなあの子はずっと野々瀬を疑っていた。確たる証拠までは掴めなくて間に合わなかったが……それは今まで育ててきた私もよく知っている。だから……信じるんだ」
「……」
「それに宗也は君のことで悩んでいる。たぶん、連絡を取りたいんだよ。ぼおっとしている時は、ずっと携帯を弄んでいる。切なげに何度も何度も見つめて……。決して君の事が嫌いになったとかそういう訳ではないんだ。今は、連絡する勇気が無いんだよ。あの子とて、プライドがあるから……自分の気持ちにケリを付けるまでは連絡をとれなかったんだろう」
 その言葉が嬉しくて、けれど、それでも欲しかったと、俯き加減に視線を落とす。
 ソファに横になったままの恵無から見えるのは、部屋のドアだけだ。
 と、その視界に宗佑の大きな手が入ってきた。
 優しく頬に触れる手がくすぐったく、身を竦ませる。
「こんなに……心配かけていたんだね、あの子は……。思い詰めたら……突っ走るからね……」
 くすりと笑って離れる手は高塚のものとよく似ていた。
 あの時、ゆっくりと肌をまさぐっていた彼の手。
「私は……最初に逢ったとき……妙な感じだったんです。新幹線の隣の席で、ずっと居心地が悪くて。高塚さんにずっと見られていたのは判っていたし、けど、きっとそれだけじゃなかったんだろうって今なら思います」
「君も……気になっていたのかね。その時」
「判らないです……。だけどあの日、接待の日に迫られて……いいやって思ったのは確かです。だから、その日会ったんです……。けれど……いきなり連絡が来なくなったら、自分が自分で無いくらいに変になってしまって……。だから、会えないなら……嫌われたりしたのなら、きっぱりと言って欲しくて……だから来たんです」
 込みあげる感情の嵐にとぎれがちになる言葉を、それでも言い切って息を吐く。
 そんな恵無に、宗佑が首を振って返した。
「宗也は……君のこと嫌いになんかなっていないよ」
 その言葉を信じたい。
 だけど、高塚の口から直接聞かないと……信じられない。
「何をしているんです……彼は?」
「いろんなところとコンタクト取っているよ。いつまでも遊んでいる訳にはいかないからね」
「そう……ですか……」
「ここにあの子は帰ってくるよ。だから今日は必ず会えるから」
 その言葉にふっと体から力が抜けた。
 何もかも、全ての力が抜けて体がソファに沈み込む。
「大丈夫かい?」
 慌てて身を乗り出してきた宗佑に力無く頷く。
「少し……気が抜けたみたいで……」
 高塚と会える。
 しかも兄である宗佑公認で……。
 それが判ったからだろうか、会う前から気が抜けてしまったのだ。
 へらっと笑う恵無に、宗佑は優しい笑みを浮かべた。
「ゆっくり休んでいなさい。宗也が帰るまでにはもう少し時間がかかるだろうし」
「はい……すみません……」
 その倦怠感は、積もりに積もっていた疲れが一気に押し寄せた程で、恵無の意識がそれに引きずられたのは、すぐのことだった。
 
U]W.24
 
「……せ…さん……」
 少し低い掠れた音に、意識が呼び寄せられる。
「なが……さん……」
 誰かが恵無を呼んでいるのだと気付いたとき、額にかかっていた髪が肌をくすぐるように移動した。
 同時に伝わる温もりが不思議でそれに手を伸ばすと、その指が絡め取られる。
「ん……」
「長瀬さん……」
 優しく絡められた指がぎゅっと握られる感触に、目を開けると見知った顔があった。
 夢……?
 会いたいと願った、あれ以来触れることもできなかった顔。
「…たか…つか……さん?」
 どこか薄暗く視界のはっきりしない世界に、高塚の姿だけがはっきりと視界に入っている。
 ああ……会えた……。
 絡められていない手の方を伸ばし、高塚の首に回してきつく抱き寄せた。
 指が髪に埋もれる感触も、肩に埋めた頭から漂う高塚の匂いも何週間ぶりだろう。
 そう思った途端ひどく愛おしくて、さらにぐっと抱き寄せる。
「ちょっ!駄目だってっ!」
 だが、耳元で叫ばれた切羽詰まった声に、はっと我に返った。
 見開いた視界に高塚のスーツに包まれた肩から背のラインがある。そして、その向こうにニヤッと笑っている宗佑ともう一人男がいるのに気付いた。
「え……あっ!」
 その周りの景色にこの場所を思い出す。
 慌てて緩めた腕の中から高塚ががばっと跳ね起きた。その顔が羞恥に赤く染まっているのは気のせいではない。
 夢かと……思った。
 高塚が出てくるいつもの夢。
 だからいつものように抱き締めて──だけど、ここは高塚家の応接間だとその顔ぶれを見て思い出す。
 気が付けば、柔らかな寝具が体の上にかけられていて、どうやら寝てしまっていたらしいと気付く。その事が余計に羞恥を煽る。
「……目、覚めた?」
 高塚の窺うような視線にこくりと頷く。
 その目が恵無を責めているような気がして、僅かに眉根を寄せて視線を逸らした。
「すみません……寝てしまって……」
 会えたのは嬉しいのに、自分のおかした失態にそれどころではない羞恥が恵無を支配していた。訪問先で寝てしまった上に、人前で抱きついてしまったのだ。
 それに、どうも歓迎されていないような感じが高塚からしていた。
「あの……すみませんでした。お手数をおかけして」
 混乱している頭をなんとか落ち着かせ、恵無は高塚から逃れるように高塚とよく似た二人に向かって頭を下げる。
「疲れていたのだからね、構わないよ。ああ……先程よりだいぶ顔色がよくなっているし」
 にこりと笑っているのが既に会っている宗佑だからまだ良いのだが、隣で睨むようにしているもう一人が気になる。二人とも似ているからたぶん吉宗氏だろうとは思う。
「すみません……」
 その視線がきつくて、居心地がひどく悪い。
 かけられていた寝具を体から外すと、それを高塚が受け取って素早く畳んで腕に抱えた。
「驚きました。帰ってきたら長瀬さんが来られていると聞いて……」
 その顔が戸惑いを見せていると気付いて、恵無はくっと口元を引き締めた。
 やっぱり来たのは迷惑だったのだろうか?
「連絡がなかったから、どうしたのかと……。理由だけ聞きたかったんです。それに返す物もあったし」
 視線をあわせるのが辛い。
 恵無は、足下にあった紙袋を持ち上げると、両手で高塚にそれを差し出した。
「ありがとうございます。あの時は本当に助かりました」
 この服も、薬も、そしてホテルもだ。
「あ、わざわざ……ありがとうございます」
 どこか硬い会話が恵無の心に傷をつける。
 結局ビジネスライクな話から抜け出せない自分達に、恵無は落胆を隠せない。
 会えて理由が聞けたら……。
 宗佑が言った言葉に期待もしていた。だが、今の高塚の様子からはそんなことは窺えない。
 自分の焦りは空回りだったのだろうか?
 ふと視線を巡らした先の窓の外がすでに暗い。
 慌てて腕時計を見ると、すでに夕刻と呼べる時間が過ぎていた。
「あ、俺……じゃない…私は帰ります。すみませんでした、こんな遅くまで」
 慌てて、目前にあった高塚の体から逃れるように立ち上がる。
 だが、急激に暗くなった視界と激しい脱力感にバランスを崩して、恵無はそのまま前へとつんのめりそうになった。
「危ないっ!」
 支えた腕が無ければ、そのままテーブルに頭をぶつけていただろう。
「長瀬さん?」 
 そっと覗き込む顔はひどく心配げに歪んでいた。
 それに笑って返そうとして失敗する。息苦しくてどうしても顰めてしまう顔を、高塚に見つめられていた。
「宗也、お前の部屋で休んで貰いなさい」
 宗佑のものとは違う声音に、恵無はゆるゆると視線を巡らした。
 宗佑でもなく宗也でもなければここには後一人しかいなかった。
「そう、だね。吉(よし)兄さん、手伝って」
「ああ」
 眉間のシワは深いままに手を出そうとする吉宗に、恵無は慌てて体を起こした。
「大丈夫ですっ。ただの立ちくらみだからっ」
 だが、それより早く伸びてきた手が、恵無の自由を奪う。
「駄目だ。まだ顔色が悪い。こんな状態で外に出せるか。それに、まだ宗也から話を聞いていないだろうが」
 きつい視線に捕らえられ、その言葉に体が動かせなくなる。
「そうだよ、長瀬さん。ほんと顔色悪いし……前より軽くなってる……。だから、休んでいったほうがいい」
 高塚の言葉は優しくて、それに縋り付きそうになった。
 だが、それでも帰った方がいい。
 ここに高塚がいると判ったのだから、またいつか話はできる。
「だけど、もう遅いし……」
 帰る、と言いかけた途端、体がふわっと浮かび上がった。
「えっ!」
 天井が近くなったことと浮遊感に驚いて体を動かした途端。
「動くなっ、落ちるっ!」
 厳しい叱責が恵無を凍らせる。
 何となれば、恵無は吉宗に抱え上げられていたのだ。
 お姫様だっこ──だと気が付いた途端、かあっと全身が紅潮する。
 決して軽くは無いはずの恵無を軽々と抱き上げた吉宗は、硬直したままの体にこれ幸いと運んでいく。
 病気のせいか線の細い感じがした長兄とははるかに違うタイプだ。抱えられた力強さは、宗佑にも高塚にも無い。
「体調が悪いのもどうせ宗也のせいだろう。それにそんな体を押してまで宗也に会いに来た客に帰って貰ったとなったら高塚家の名がすたる。今日はここに泊まればいい」
 ぶっきらぼうで、きつい視線は変わらない。
 だが、恵無を抱き上げる腕にも、ベッドにそっと下ろすその動きかたも、そんな何気ないところに優しさがあった。
 嫌われているというのは気のせいだと思わせるに十分なその仕草に、恵無が礼を言うと、初めて吉宗は笑った。それは口の端が僅かに上がる程度の笑いだったけれど。
 決して、彼に嫌われていないのだと思わせてくれるに十分な物だった。
「宗也、用事があったら呼ぶからここにいてやりなさい」
「はい」
 高塚の返事を背に聞きながら、振り返りもせずにドアから出ていく吉宗を見送る。
「兄は……ぶっきらぼうだけど、本当は優しいんです。誤解され易いんだけど」
 高塚は恵無の動揺に気付いていたのだろう。二人きりになって初めて高塚はそう言って笑った。
 そして、その手のひらが恵無の額に触れる。
「でもほんとに……信じられなかったです」
 その声に含まれる少し躊躇いがちな震えと優しさがあの時の高塚を思い起こさせた。そこには先程までの困惑はなくて、僅かな微笑みすら見えた。
「帰ってきて、宗(そう)兄さんに聞いたときには、驚きました」
「高塚さんに、どうしても会いたくて」
 だから来たんだ、と手を伸ばす。
「ごめん……ごたごたしていたんです。いろんな事があって、盗聴されたりしていることも判ったから、電話も止めてました。メールも……念のためにね」
 そこまで?
 宗佑の話には無かった事実に、恵無は目を見開いた。
「会いたかった。会って話をしたかった。だけど、それどころじゃなくて。謝らなければとも思ったしね」
「謝るって……」
「契約……長瀬さんには強要して受け入れさせたのに、僕は……その代価を返せなかったでしょう?」
 代価……。
「今、野々瀬や叔父の不正を調べていて──もう少しなんだ。少なくともドーラスタが噛んでいるのは判っています。だから、そのことはもう少しだけ待っていて欲しいんです」
「それは……いいんだ……」
 未だに仕事の話を持ち出してくる高塚に、恵無の胸の内がどす黒く渦を巻く。
 違うのだ、そんなことを聞きに来たわけじゃない。
 仕事の結末の理由なんて、すでに宗佑から聞き出したのだから。
 恵無が聞きたいこと。
 ここまで来たのは……。
「高塚さん……」
「はい?」
 ベッドに横たわっている恵無が呼びかければ、高塚が腰を屈めて覗き込んできた。
 さらりと前髪が落ちてきて、手を伸ばせば触れられる距離にある。だから、恵無は躊躇わずに手を伸ばした。
「えっ!」
 髪に触れた手が、それだけでは物足りないと後頭部まで伸びていく。
 限界まで伸ばした指先を曲げて、恵無は高塚を捕らえていた。
「高塚さんは……俺のこと……好きなんだろ?」
 熱は下がっているようなのに、体がひどく熱い。
 問いかける声音は掠れていて、まるで自分のものではないようだ。
「な、好きだって言っていたよな」
 宗佑も言っていた。高塚自身もそんなことを言っていた。
 だから引き寄せながら、問いかける。決して逃れられないように、しっかりとその頭を掴んで。
「長瀬さんっ!」
 近づく顔が、真っ赤に染まっている。
 くすりと笑えば、ますます赤くなった。
「俺も……好きなんだ……。だから、来た……」
 最後には自ら頭を上げて唇を押しつけた。
 柔らかな高塚の唇は前と変わらない。ただ、びくりと震えて、そして最初は硬く拒みはしたけれど。
「好きなんだよ……ほんとだよ……。だから……連絡が付かなくなって……苦しかったんだ……」
 触れあう距離で必死になって言い募っていくうちに、その強張りが解けていく。
「会いたくて……必死だった……」
 ずっと胸中にあった思いの丈を伝えてる。
 ずっと言葉にできなかった思いだ。最初に言えたなら、どんなに展開が違っていただろう。その悔いが今更のように襲ってくる。だから、もう止めようなどとは思わなかった。
「好きだ……だから、仕事なんかどうでも良かったんだ、あの時。俺は……高塚さんに……抱かれたかったから……」
 再び、唇を押しつけて。
 もうその時には強張り等無くて。
「……」
 僅かに震えた高塚の唇が何かを言いかけたような気がした。けれど、すぐに荒々しくのしかかってきた。
 きつく押しつけられて、すぐに舌先が唇を割ってくる。
「んっ……ふっ」
 熱い吐息が混じり合い、きつく抱きしめられた体にかかる重みが愛おしくて堪らない。
 ぬるりと互いの頬が滑ったのは、どちらが流した涙のせいなのか判らない。
 ただ、もう二度と離れたくないと、恵無も高塚も、互いの体に回した手を緩めようとはしなかった。
 
U]X.25
 
 
 ドンドンッ
 遠慮という言葉とはどう考えても無縁の音が室内に響いた。
 びくりと互いの体が震え、継いで高塚の体がゆっくりと起こされる。
 「吉兄さんだな」
 苦笑を浮かべつつ、ベッドから起きあがった高塚が口惜しそうに舌打ちをした。
「話……する暇が無かったね」
「あ……」
「ちょっと待ってて」
 そっと恵無の口の端に口づける高塚に、恵無は薄く笑んで返した。
 話はできなかったけれど、互いの思いは十分交わせたと思う。ならば、まだ幾らでも話をする機会はあるだろう。
 僅かに乱れた前髪を掻き上げて、ドアへと向かう高塚をじっと目で追う。
 強引だけど、優しい故に気弱なところもあって。
 一体どこを好きになったのかは判らない。
 強引なだけの時にははもう好きになっていた気もするし、優しさを感じて、さらに好きになっていた。
 その高塚がドアを開ける。
「何?」
「なんだ、やっているのかと思ったが……違うのか?」
 あけすけな言葉はやはり吉宗の物で、恵無はごそっと布団の中に潜り込んだ。 やってはいなかったが、それに近いキスのせいで体は熱く火照っている。
 赤くなってるであろう顔を見せたくはなかった。
「……長瀬さんは疲れ切ってんだから……休ませろって言ったのは兄さんだろ」
「まあな。それより、客だ」
 最後の言葉と共に吉宗の口元が揶揄するように歪む。その声音に含まれる違和感に気がついたのだろう。高塚が、不審そうに問い返した。
「客?」
「叔父さんだよ」
「……!」
 その言葉に、恵無も跳ね起きた。
 この事態を招いた張本人だ。その男が、高塚家を訪れたという。
「バレたかな?」
 くすりと恵無に背を向けている高塚の肩が揺れたような気がした。
「かもな」
 吉宗も嗤っている。
 何が起きているというのか?
 ただ判るのは、彼らは決して負けてはいない。
 まだ何か企んでいるのだ。
 彼らの自信り根拠を知りたいと思う。
 共有したい。
 もう離れるのは嫌だ。
 するっとベッドから足を降ろすと、緩めていたシャツの前を合わせる。
 それに気付いたのか、吉宗が高塚を目線で促した。
「長瀬さん、寝てていいですから」
 戻ってきた高塚が肩を押す。
 それを手で振り払った。
「その男のせいで、うちの会社は採用を見送られたんだ。高塚さんは採用できるデータだと言ってくれていた。それを自分の私利私欲で……悔しい。俺、そんなに会社に忠実な人間じゃないけど……でも今回のことは凄く悔しい。これでも頑張ってきたから。同僚も上司も……みんな頑張ってきたから……。だから」
 高塚の腕を掴んで見上げる。
 その瞳から視線を外さない。
「口は出さないから……どんな奴か見てみたいから……どこか聞こえるところにいさせてくれ」
 ずっと高塚と会えることだけを考えてきた自分だったが、その案件が片づいたせいか仕事の事にようやく頭が働き始めた。
 会ったからといってどうなるものでもない。
 それでも……事の顛末は知りたい。
 何がどうなったのか……知りたい。
「高塚さん、頼む」
 縋り付くように見上げる恵無に高塚は困惑を隠せないままに見つめている。と。
「宗也、長瀬さんをあの部屋に案内しろ。あそこなら室内の様子が判るだろ」
 吉宗の言葉に、高塚がはっと振り返った。
「あの部屋?」
「ああ、あの部屋だ」
 ニヤリと、悪戯っぽく笑う吉宗が、先に行くと踵を返した。それを見送った恵無が、高塚を振り返る。
「あの部屋?」
「歩ける?」
 恵無の問いかけには答えないで、別の言葉で高塚が促した。
「残念ながら、吉兄さんみたいに抱えてあげられないから」
「歩ける……」
 今、思い出しても赤面もののあの体勢は、例え高塚だったとしてもされたくない。
 男としては……屈辱ではないか?
 むうっと不機嫌そうに口元を歪めた恵無の腰に、高塚があやすように手を添えた。その顔に浮かぶ笑みがずいぶんと楽しそうだ。
「行こう」
「……ああ」
 荒れていた神経が落ち着いているのか、それとも体が落ち着いているのか、先ほどより体を動かすのはずいぶんと楽だった。それでも高塚の気遣いが嬉しい。触れられている温もりが、恵無を安堵させた。
 その高塚に案内された家の中は、二人並んでも十分通れる廊下がはり巡らされていた。宗也の部屋は離れにあるようで、よく見れば二階も地下室もあるようだった。
 道からは二階など見えなかったというのに。
 隠し部屋のような造りに、しばらくじっと構造を頭の中に思い描いた。
 一階に至っては言わずもがな、だ。
「こっち」
 応接間とは反対の方へと高塚は恵無を案内していった。
「遠くなるけど?」
 それとも問題の叔父さんはこっちに案内されたのだろうか?
 だが、その先にある暗くなった通路にそれはないだろうと思った。
 人気が感じられない。
 広い家とはいえ、本当にあの時は宗佑一人しかいなかったのだろう。ひどく寂しい家だと思う。
 そんな家の離れと呼べる一角に、高塚は恵無を案内した。
「ここ」
 言葉短に指し示した扉を高塚が開ける。
 カチッと小さな音がした途端、主がいない割に生活感のある部屋が目の前に広がった。
 広い。
 第一印象はそれだ。
 先ほどの応接間や高塚の部屋の倍はありそうな部屋。
 最奥にあるダブルベッドはともかく、壁面にあるタンスは明らかに桐製だ。しかも相当使い込んでいる。
 と思えば、入ってすぐの壁面には最新鋭のコンピューター機器が所狭しと並んでいた。
「ここは……お兄さんの?」
 そのコンピューターを起動させ始めた高塚に、恵無は違和感を感じながら問いかけた。どう見ても、単なるコンピューターだけに見えない。
 高塚が次々と起動のチェックを入れる数も相当な数だし、幾つかは連動して起動している。
 どう見ても、一台あたりの単価がその辺の電気店で売られているものとは桁違いではないかと窺わせる機器類。
「ここは、母の部屋」
 最後のコンピューターが動いたのを確認した高塚がようやく恵無を振り返った。
「最近ずっと不在だったからメイン以外は落としていたんだ」
「おかあ…さん?」
 高塚達の母親だとしたら、相当年がいっているのではないか?
 そんな年を想像し、この部屋とのあまりの違和感に息を飲む。
「お母さんがこれを使うのか?」
「うちの母は……凄いから……。あ、ここ」
 自嘲めいた笑みを浮かべた高塚が、一つのディスプレイを指さす。
 言われて覗き込むと、その映し出された景色に見覚えがあった。
「これ……応接間?」
 先ほどまでいた部屋だ。見間違えようもない。
 天井の一角から映しているのか、少し高い位置から見下ろすように応接間が隈無く写っている。
 さっきまで恵無が寝ていたソファに、今白髪交じりの髪が半ば禿げ上がっている小太りの男が座っていた。その向かいに宗佑、そして吉宗が座っている。
 お互いの間にあるテーブルには水割りのセットが置いてあったが、それは置かれたままで誰も作ろうとはしていなかった。
「これは?」
 振り返る先で、高塚が肩を竦める。
「母の趣味で……監視カメラ」
「趣味で……監視カメラ?」
 どういう母親だと、眉間にシワ寄せて見据える先で高塚が困ったように笑みを浮かべる。
「無視されるのが嫌いで、父親に来客が来た時なんかそうやって見てたんだ。まあ、邪魔するわけでもなくて……まさか監視されていると思わない客をいろいろと批評して楽しんでいた」
「なんか……やだな」
 嫌悪を抱いて思わず呟くと、高塚が困惑の色を浮かべた。
「それでも……僕たち慣れていたからね。母も理不尽な事には使わなかったし……」
 自分の母親を詰られて少なからず動揺したのだろう。
 眉根を寄せてしまった高塚に気付き、恵無は「ごめん」と小さな声で謝った。
 自分だって母親を詰られれば、怒りもする。口に出して言うことではなかった。
「いや、いいんだ。でも悪い人じゃないんだ。ただ……そうだな、余所の人には厄介な存在かもしれないけど……」
「どういう人なんだ?」
「この家の直系。父は婿養子なんだ。あの叔父の実の姉でね、一族の中では一番強い存在だった」
「へー」
 一体どういう存在なのかと高塚を見遣ったのと、スピーカーから声が聞こえたのとが同時だった。
『宗也はまだか?』
 ぞんざいな口調に、見る間に高塚の眉間にシワが寄った。
『もうすぐ来ますよ』
 対する宗佑はどこかおっとりとしている。
『人を待たせて……。躾がなっていないようだな』
 言葉だけで人を不快にさせる存在は確かにいる。そして、この男もそういう存在のようだ。
 決して相容れないであろう男を恵無は見つめた。
 高塚宗男。
 高塚兄弟と同じ血を引くとはとても思えない男だ。
「行かなきゃ……。このイスに座ってゆっくりと観察していてよ」
 指し示された座り心地最優先といった感じのイスに腰を下ろしながら、高塚を見上げる。
「大丈夫なのか?」
 自信満々の男の態度に不快さがこみ上げる。
 あの男のせいなのだ。
 あの男が姑息な手段を用いるから、高塚と連絡が取れなくなり、仕事を落とした。
 だが、高塚もまた自信ありげにその口元を歪ませる。
「大丈夫。長瀬さんと連絡を取れなかった間、だてに走り回っていた訳じゃないから」
 その手のひらが恵無の顎を捕らえる。
 上向かせた顔にそっと啄むようなキスをすると、名残惜しげに離れた高塚が笑みを浮かべる。
「見てて、大丈夫だから」
 それは恵無にというより自分に語りかけるように、その瞳は真剣そのものだった。
 
U]Y.26
 
 ここを出て行った高塚の姿がディスプレイの中に映し出された。
『揃ったか、儂は忙しいんだぞ』
 尊大な口調は変わらない。
 自分が勝っていると思うと、他人を卑下するタイプがいる。宗男はちょうどそんなタイプのようだった。
『さて、本日はどのような用件です?』
 あくまで穏やかな長兄 宗佑の隣に、無表情で宗男を見つめる次男 吉宗がいる。そして遅れて入った宗也は、その宗佑の背後に立っていた。
 ちょうど影に隠れて見えないその表情。
 恵無はじっと彼の様子を窺っていた。
『お前達が持っている我が社の株を売って貰おう』
 ふんぞりかえって、命令口調で発する耳障りな言葉がスピーカーから洩れる。
 よっぽどいいシステムなのか、まるで彼らがこの場にいるような臨場感を持って声が聞こえる。
『株を?何故です?』
 不思議がられるとは思っていかなかったのか、宗男の眉間のシワが深くなった。
『お前らには無用の長物だろう。もう経営に参加することなどできないのだから』
『それは変ですね。我々の株は3人あわせれば、第二位の保有株になります。あなたを越えているはずですが?』
 黙っていた吉宗が、どこか投げやりな口調で事実を伝えると、いきなり宗男の顔が赤くなった。
『お前らは、不祥事を起こして退任したのだ。株主であろうが何だろうが関係ないっ!』
「無茶言ってる……」
 何を焦っているのか、怒りも露わにしている宗男に、高塚の兄弟達はどこか涼しげにそれを見ている。
『私たちは不祥事を起こしたつもりはありません。それに先だっての役員会での決定は、まだ株主総会で承認されていませんし。それに私たちの株は、父から譲り受けたものです。正当な保有者ですよ。あなたに売るつもりはありません』
 穏やかながらきっぱりと言い切る宗佑に、宗男の禿げかけた頭までもが赤くなる。
『お前達が売らなければ、我が社はどうなる?今、我が社がどうなっているのか知っているのかっ?』
 どんと激しい音は、宗男がテーブルを叩いたせいでがちゃとグラスが倒れる音もする。
 それを宗佑が手を伸ばして直しながら言った。
『知っていますよ。会社の株が買い占められているんですよね。確か、中村の叔父と伯母は売ってしまったそうで。二人ともあんな会社の役員に縋り付くよりお金が必要なんですよね』
 はっきりとは見えないその口元がニヤリと歪んだように見えた。
『一体誰があんな会社の株なんか?』
 宗也がわざわざ口に出して言ったと判る言葉に、宗男が即座に反応する。
『あんな、だとっ!私の父、すなわちお前達の祖父が興した会社をだっ!』
『ドーラスタ社に支配される哀れな会社ですよね』
 それは吉宗の言葉だった。
 その言葉の意味を全員が理解した瞬間、場が一気に凍りつく。
 特に宗男の顔は無様なまでに引きつっていた。
 だが、喉がごくりと動いたと同時に、その顔が必死の形相へと変化する。
『……ドーラスタ社と独占契約を結んだだけだっ!上場企業だっ!世界に名だたるドーラスタ社だぞっ!繋がりを持って何が悪いっ!』
 開き直って叫ぶ宗男は、優位に立っているつもりなのだろうが、外から見れば明らかに劣勢だった。
 それは人としての格の違いのせいなのかもしれない。
 恵無の目には、宗男という男は、病気療養中である宗佑と比較しても風格も何もかもが劣って見えた。
「こんな男に一時でも追い落とされたなんて……信じられない」
 それほどに格が違う、と、恵無はぽつりと呟いた。それは応接間の冷たい応酬しか響かない部屋に、静かに消えるだけの独り言のはずだった。
 けれど。
「所詮は、井の中の蛙。人に遣われてへいこらと頭を下げるしか能のない男」
 艶のある、明らかに女性の声が背後から朗々と響いた。
 心臓がどきりと激しく跳ねる。
 唖然と見開いた目を慌てて背後に向ければ、その視界に、パンツスーツに身を包みぴんと背筋を伸ばしている女性と、その背後にいる若い女性の姿が入った。若いと言っても、恵無よりは上だろう。だが先ほど言葉を発した女性よりは格段に若い。
「相変わらずで、嘆かわしい」
 年の頃は50代だろうか? 
 そんな毒舌を吐く彼女の健康的な肌は隠しようのないシワが入っているが、それよりもハリのある声が女性を若く見せる。
 驚いて茫然と見上げる先で、そのルージュに彩られた唇がにこりと笑みを形作った。
「初めて見る顔ね。あなた、誰?」
 尊大さの滲み出た声音は、だが、あの宗男のような不快さはない。
 何よりもその容姿がどこか宗也に似ていた。
 目元や、唇の形……。
「長瀬…恵無と申します……」
 この人が高塚さんのお母さんだ。
 直感ではあったけれど、それは確信だった。
「そう、めぐむ、ね。どんな字?」
「恵みに有る無しの無しで恵無です」
 上からじっと見下ろされ、恵無は座ったまま上を見上げて答える。立ち上がる機会を逸してしまったのだ。
 途端に、僅かに見開かれた目が恵無を見据える。
「恵みが無い……という意味?」
「さあ、判りません」
 昔から何人も聞かれた問いは、いつからか恵無自身の中ではかなり低い関心事になっていて、久しぶりだな、という程度の感慨しかない。
 そんな恵無の態度に、彼女が不思議そうに首を傾げる。
「不思議には思わなかったの?」
「不思議、とは……。昔は聞いた覚えがありますがそのときは『何となく』と答えられて……それ以来聞くのを止めました」
「そう……なんとなくね。良いご両親だわ。たぶん──そうね、最初は何も無いってことなのよね、きっと」
 そうなのだろうか?
 そんな名前、と暗に両親を責められて同情されたことはあるが、良い、と言われたことはそうはない。
「ところで、ここは私の部屋よ。あなたは何をしているの」
 いきなり変わった話題に恵無は息を飲む。なんと答えてよいか判らない。
 だが、宗佑と宗也に聞いた時の彼女の印象を思い出すに連れ、誤魔化すことは得策ではないと思う。
 すうっと息を飲み込み、最初の驚愕に震えた神経を落ちつかせた。
 きっと引き結ばれた唇が、恵無の印象を落ち着いたものへと変化させる。
 そんな恵無に、彼女は笑みを浮かべて視線をディスプレイに移した。
「まあ、だいたいのところ想像はつくわね。それにしても、うちの息子どもは何をちんたらしてんのかしら。あんな男、さっさと追い出しちゃえばいいのに」
 あんな男……ね。
 ちらりと恵無も向けた視線の先で、宗男が宗佑達にがなり立てている。
 とてもこの女性と血が繋がっているとは思えない。
『だから、株を寄こせっ!お前らの株が全てこちらに渡れば如何に買い占められようとも乗っ取られることはないっ!』
『買い占められているという自覚はあるんですね』
『まあ、内紛を起こしている会社ですから、株主達も見限っている、ということでしょうか?』
『困ったね。どうするの?』
 ちっとも困っていなさそうな高塚の声に恵無の口元に苦笑が浮かんだ。
 相変わらず、ああいう演技は上手いのか。
 仕掛けられて、すっかり騙されていたあの時を思い出す。
 だが、あの時は途中で止めてしまった高塚も、今回ばかりは情けは無用と止めるつもりはないようだ。
 その様子を見ていた彼女が、くすくすと笑みを零す。
「あらあら、さすが私の息子達ね、なかなかの策士だわ。恵無、あなたはどう思う?」
 いきなり名で呼ばれて面食らったが、彼女の瞳は言葉ほどには笑っていなかった。その強い視線に否応なく口を開かされる。
「策士というのは……判りますけれど……」
「あら?」
 恵無の言葉に、彼女の顔が面白そうだと変化する。もしかするとやばいことを喋ってしまったのかもしれない。恵無の背筋に走る冷たい物がそれを教えた。
 強ばった頬を面白そうに見つめる彼女が口を開く。
「誰かに騙された?」
 それは質問ではあったけれど、確定でもあった。
 騙したという言葉とは違うかも知れないけれど、それでも好きだという思いを隠してあんなことを言い出した高塚は、確かに恵無を騙したのだ。だからこそ、恵無は本当の思いを口にすることができなかった。
 もっとも、そんなことは置いといて、彼女の嬉しそうな様子が気に掛かる。
 息子が人を騙したというのに、ずいぶんと嬉しそうなのだ。
 さすがにムッとして、だが見透かされている視線から怯えるように目を逸らしてしまう。
「宗也…さんに……。でも途中までで……謝って貰ったから」
「あらあら、押しが弱いところは変わっていないのね、あの子。ま、それがいいところでもあるけれど……。というと、恵無は宗也の相手な訳ね」
「あ、相手って……っ!」
 逸らされた顔を顎を掴んで持ち上げられる。
「息子の性癖くらい熟知しているわよん。ま、確かにあの子の好みそうな顔ね」
 その言葉に全身が火を噴く。一気に上がった熱が、肌を赤く染め抜いた。
 格とか……そういうものだけではなく……この女性には敵わない。
 高塚が言っていた「一番強い」という言葉が、身に染みて判ってしまう。
「で、どこまでやったの?」
「ど、どこまでっ?!」
 質問の意味がぱんと頭の中に映像として浮かび上がって、がたっとイスが後退する。だが、掴まれた顎のせいで逃げることもできない。
「ほら、ABCって奴、ね」
「え、あのっ」
 あれはCって奴か?
 考えたくないことが、引きずり出されるように頭の中に浮かんでくる。
 ますます赤くなる恵無に、彼女が面白そうに声を立てて笑った。
「恵無は、可愛いわねえ。気に入ったわ」
 その指がようやく離れて彼女の腰に添えられる。そのことにホッとはしたが、言葉は頭の中で駆けめぐったままだ。
 気に入られた、というのに、素直に頷けないのはなぜだ?
「さて、それどころではなかったわ」
 いきなりの話題転換に、パニクっている頭で追いつくのが大変だ。
 彼女の視線がディスプレイに向かうのに、恵無も向ける。
 その傍らにずっといる無言の女性が気にならないわけではなかったけれど。
「さて、恵無。宗男が社長で居続けられると思う?」
 ちらりとくれた流し目が宗也と似ていると思った途端、顔が熱くなって視線を中空に彷徨わせた。
 だが、質問の答えを送るまでその目は恵無を捕らえて離そうとはしてくれないようで、仕方なく浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「あの男と3人の保有株を合わせたとして全株の何割なんですか?」
「そうねえ、たぶん3割。越えるか越えないか……ね。宗男の持っている株数なんてたかがしれているわ。お父様もそれはちゃんと考えて配分しているもの」
 宗男という名に感じられなかった情のようなものがお父様という言葉には溢れていた。
「ちなみに私が持っているのが3割。つまり、私と息子達で総株数の5割を所有しているってわけ。正確には5割を越えているって言うべきかしら」
 つまり、目の前にいるこの人が筆頭株主……という訳だ。
 それは、すなわちこの会社がこの女性のものだということだ。
 そういえば、データベースから取り出した企業情報の筆頭株主欄は女性の名だったと思い出す。
 大きな会社であればあるほど普通銀行やら親会社が持っている株数。それを個人で保有しているということになる。
「それだったら……社長の交代なんて」
「そう、出来るわけがないのよ。だから、急いだんでしょうね。私が出かけているうちに事を進めようと。ドーラスタの甘い言葉に乗って」
 この人は……。
「何もかも知っているんですか?」
 問いかける先で彼女が笑う。とても宗佑の母親でもあるというその年齢には思えない生の輝きを持つ美しさがそこにあった。
 それは内面からくる自信のせいだと、恵無でも判る。
「私は無視されるのは嫌いなのよ」
 婉然とした笑みの中で彼女はそう呟いた。
 
U]Z.27
 
 高塚の母親であるその女性は、恵子(けいこ)と名乗った。
「ふふ、あなたと同じ字なの。光栄でしょ?」
 何が?
 と問いかけるなど無粋な真似はさすがにマズイと思って、ただ頷く。
 それに嬉しそうに笑った恵子は、イスをたぐり寄せてそこに座った。
「それから、この子は沙美(さみ)よ」
「はじめまして、長瀬様。高塚沙美と申します。宗佑の妻です」
 初めて聞いた声音は、綺麗なソプラノだった。
「宗佑……さんの」
 目が、勝手にディスプレイの中の宗佑を捜し出す。
「そ。私の秘書でもあるの」
 恵子の視線が動くだけで、沙美はその意味に気付いたのか、数多くのコンピューターの一台に近づいた。指先がいくつかのキーに触れて、ディスプレイがグラフを映し出す。
「株価は急速に下がっています」
「対応は取っていると思うけど?」
「そろそろ効果が出る頃と思われます。……少し反応がありました」
 リアルタイムの情報が入るらしい。綺麗な声音が、抑揚のないままに言葉を紡ぐ。
「これなら、一両日中には元に戻ります」
「そう、お世話になった方達には後でお礼を言っておいてね」
「かしこまりました」
 黙礼した沙美は、じっと画面を見つめ、時折キーボードを操作している。
 その様子を呆然と見つめていると、恵子がくすりと笑みを零した。
「表だったことなど、男どもにやらせておけばよいわ。幸いにもあの子達は外面は良いですからね」
 言われた言葉を反芻して、その身も蓋も無い意味に気がついて絶句する。
「宗男がいかに頑張ろうとも、メルサの株が全て手に入ることはないし、他人が幾ら売ろうともすぐに買い戻してやるわ。ドーラスタなど、論外。すぐに屈服させてやるもの」
 きっぱりと言い切り、冷たく笑う。
「何も知らない輩が何を吼えているのやら」
 それは、全ての上に君臨する女王の言葉──そのものだとしか思えなかった。
 
 
 向かい合うようになった恵子が、恵無を再度上から下まで舐め尽くすように見遣る。
「あなた、宗也の取引先の相手でしょ。確か、ジャパングローバルって会社ね」
 この人の情報網がどこにあるのかは判らないが、ただもう逆らう気力はなくて肯定する。
「いい会社よ、あそこは。ドーラスタなんかよりよっぽどいい」
 勢いがある会社は、取引しがいがあるというのに。
 そんなことを呟く彼女は、経緯も何もかも知っているのだと、恵無は知る。
「申し訳ないけれど、あなたのことも調べさせて貰ったの。宗也が辞めさせられた写真をもとにね。名前も、宗也との関係も知っていたわ。この家は私の支配下であると同時に護らなければならないもの、大事な息子につく虫は排除しなければならないから」
 すうっと低くなった声音が、場の空気を凍らせる。
「虫……」
「でも……、あなたに悪いところも、ジャパングローバル社に問題も無かった……。だからよりいっそう宗男の悪行が目について……」
 静かに吐き出された吐息は、嘆息とは思えないほど微かなものだった。
 だがそれは一瞬で、顔を上げた恵子はどこか揶揄するような笑みを浮かべている。
「宗也が選んだだけあって、顔も頭も……性格も良いのよね、あなたは。ぜひとも会ってみたかったのよ」
「そ、んな……」
 ころころ変わる彼女の質問にはただ追いつけなくて溜息を吐くしかない。
「で、恵無は宗也のどこが気に入ったの?」
 単刀直入なその問いには、ただ息を飲むしかなくて。
「どこが……って……」
 気がついたら、あんな目にあわせられていたのに、それでもいいと思っていた。
 途端にあの時の光景が頭に浮かんできて、顔が熱くなる。
 何度も繰り返された紅潮と羞恥と、そして緊張で体がどうにかなってしまいそうだ。それでなくても、今日はいろいろ有りすぎて、精神が疲労を訴えているというのに。
 だが、今日はまだ終わらない。
「ね、どこ?」
 恵子は問いかけた答えを待っている。
 仕方なく、恵無は口を開いた。
「たぶん……」
「たぶん?」
 うきうきと子供のような好奇心に満ちた目が恵無を捕らえていた。
 そこに映った恵無が苦笑を浮かべていた。
「一目惚れ。初めて逢った時に、気になったから……たぶんそうだと思います」
 きっとそれが真実なのだろう。
 他に、考えられない。だから、強引でも優しくても、何もかも好きになっていた。
「合格ね」
 だが、その言葉はことのほか恵子を満足させたようだった。
「つまり何も知らない時から、ってことね。あの子の価値も、資産も知らないで好きになったということは、そこには何も打算などないって事だもの。しかも、こんなドタバタになってもわざわざ会いに来たというのであれば。──あなたなら、宗也を渡しても良さそうね。あの子は私、お気に入りだったのに、まあ仕方ないでしょうね」
 えっと……。
 事の展開についていけない頭が必死で今の状況を整理する。
 なんと答えたものか判らなくて、茫然としている恵無に恵子がびしっと指を突きつけた。
「恵無は宗也を泣かしたりはしないでしょうねっ!」
「はいっ!」
 あまりの言葉に、ほとんど条件反射で頷いていた。
「よろしい。ま、うちの息子があなたを泣かした時は、申し訳ないけど我慢してやってね。あれで結構わがままだから」
「はあ?」
 てことは、泣かされたら我慢しろって?
 あまりの理不尽なお言葉に、もう考える力すら萎えていく。
 ぐったりと肩を落とした恵無を、恵子が愛おしそうに見つめているのにも気付かなかった。
 そして、彼女が少しだけ躊躇いがちに……だが、言わなければという決意の元に口を開いたことも。
「……メルサは私の父が作った会社だけれど」
「え?」
「父は他にも幾つかの会社を持っていたの。その中でメルサという会社は一番小さな会社で、吹けば飛ぶような会社なんだけど……でも一番愛していたわ」
 吹けば飛ぶ?
 この会社がそんな事を言われるのなら、うちの会社はどうなるんだと恵無はひとりごちた。
 この会社が岩ならば、小石になってしまうというのに。
「高中(たかなか)財閥。戦前はそう呼ばれていたけれど、父はそこの末弟だったのよ」
「高中……財閥……」
 驚きで目を見開く恵無に恵子は自慢げに笑みを浮かべる。
 どうやら他人が驚くのがとにかく楽しいらしい。
「まあ、財閥の中では小さいから、知らない人は知らないんだけどね。で、当然ながら父も幾つかの会社を保有していたわけ。ところが結婚する時に、高塚家に入り婿として入ったの。それで高中の姓を失った。ついでに、社長職も引退して、名義上だけの保有者になったの。そして、メルサという自分の趣味がしたいだけの会社を作ったの。高塚の名で」
 だから表だって高塚の名が入っているのはこの一社だけだという。
 だが……。
「だけど保有している株は昔のまま。今は息子達にも分配しているけれど。それに高中家は後継者不足でね。うちのように自慢の息子達がいる所ってそうそうないのよ。うふふっ」
 楽しそうに笑う彼女の目が、恵無のワイシャツの胸ポケットを見つめていた。
「これ」
 パールピンクに彩られた長い爪が、そこから折りたたんだ紙切れを取り出す。
「ふふ……ここの住所を調べるのには最適よね」
 開く前からそれが何かを知っていると、彼女は言う。
「ここの株主欄に、高塚宗佑、高塚吉宗、そして高塚恵子と高塚宗也の名のいずれかが入っている会社が一体いくつあると思う?」
「幾つ?」
 それが問いになるほどの数だと、──想像してびくりと体を震わせる。
 ──まさか……。
「宗男は知らないのよ。あの子は高塚の本当の姿を知らない。父は、私にだけそれを相続させたの。知っていることも全てね」
「じゃあ……」
「ドーラスタ? そんなもの……」
 ふんと鼻を鳴らしている彼女の自信は、絶対的な優位にあるものの立場から来るものだ。
「今までいい目をみさせて上げたというのに……情けないったらありゃしない。父が何故、長男である宗男に何も知らせなかったか、それすら気付かないような男はやはりつかえない」
 こ、この人は……。
 強大な組織を支配する女王のように後光が見えるというのは創造の産物だけではないだろう。いや、ついでに後光の中に、手の甲を口に当てて高笑いしている姿すら浮かんでいる。
 高塚の支配者。
 宗男とて、そこそこの実力は有るのだろうが、いかんせんこの女性相手では分が悪い。
 だが……。
 こんな話を聞いてしまうと、今の場所から抜け出せないようなそんな危機感が襲ってきた。
「でも、何故俺にそんなことを?」
 実の弟にすら秘密にしていた事実を、こうも簡単に話してくれた恵子の真意が判らない。
「ふふん。あなたが気に入ったからよ。それに、秘密にしていないとはいえ、あまり口外はして欲しくない事柄を知った以上、あなたはここから離れられないでしょ。たっぷりと可愛がってあげますからね。宗也のお気に入りは、私のお気に入りでもあるのだから」
 ほほほっと、高笑いされて、恵無は絶句するしかない。
「ま、それはともかくね、ここには誰に入れて貰ったの?」
「……入れて貰ったのは宗也さんで……でも入れるように言ってくれたのは吉宗さんです。あの、応接間の様子が知りたいって言ったから……」
「吉宗が認めた人間なら問題ないわ。あの子の人を見る目は宗也以上だもの。それに、気に入ったというのは冗談でも何でもないからね。私、そういう勘は優れているのよ」
 だが、何故自分がそんなにもこの人たちに気に入られたのか、それが判らない。
 自分は、単なる取引先の技術員で、たまたま宗也に魅入られただけで……。
 それなのに、この展開は一体どうなっているのだろう?
 いつの間にか、組織の一員に引き込まれたようになってしまっている事実におののく。
「……まあね、別に秘密にしていた訳じゃないわ。知ってる人は知ってるもの。そうやって公開されているデータベースのあちこちに名前が載っているし、税金も払っているし。ただ、他のことでは目立たないようにしていたから、表だって出ることがないだけ。こうやって……」
 ぺらっとデータベースの紙を広げる。
「きちんと調べたら判ることを、宗男はしなかっただけ」
 その声が少し寂しそうに震えていた。
 この人にとって……宗男はそれでも弟なのだ。
 だから……。
 きゅんと胸に響く痛みは、彼女から伝わったもの。
 だが、切なげな瞳は次の瞬間力強いものに変化した。
「さてと、そろそろ茶番は終わりにしましょう。宗男の悪巧みなど、息子達にだけ任せておいても大丈夫だけど、このままでは面白くないわ。恵無もいらっしゃい」
「……はい」
 女王様の言いつけに、恵無は逆らうべくもなかった。
 差し出された手を臣下が受けるように手を添える。
 ドアを開け、彼女を通す。背後に従うのは、沙美だ。まるでそれが当然だと言う態度に、落ちつかなさはあるけれど。
 恵子を見ていればその対応も致し方がないような気がした。
 彼女の堂々としたその態度は、主人だと、自然にそういう気にさせてくれる。
 格が違う。
 宗男と兄弟達にも思った言葉は、今ここで恵無と恵子、そして沙美の関係にも言える。
 年や経験だけの問題ではない。
 人を支配することに慣れた人間の格が、恵子にはあった。
 それに何となく彼女の心のうちが判ったような気がしたのだ。
 彼女は……彼女の実の弟である宗男を貶める行為を息子達にさせたくないのだと……。
 
U][.28
 
 女王様の登場。
 まさしくそういう言葉が相応しいと、硬直したメンバーを眺めながら恵無には苦笑を浮かべるしかできなかった。
「お、お母さん……いつ、戻って……」
 いつだって穏やかな物腰の宗佑が、驚きにその顔を引きつらせながら問いかける。
「ついさっきよ」
 彼女の背後にいるせいで恵無からは恵子の表情は窺えないのだが、その声音はどう聞いても笑みを含んでいる。気のせいか、あれだけ表情を変えなかった沙美までも隣で笑っているような気がした。
 同じく宗佑の後ろで硬直していた宗也が、不意に恵無に気がついた。
「あ……母さん、部屋に……」
 恵無がそこにいることが示す事実に気付いて、宗也は唖然と言葉を失う。
「え、あ……しかし……まだ一週間ばかりあちらに滞在予定のはずでは?」
 驚くことにあの吉宗ですら、狼狽が声音に出ている。
「あら……私がいては不都合な事でも起きたのかしら?」
 そのわざとらしさに気付かない人間が一体ここにいるだろうか?
 皆の様子が面白いと思うほどに、すでに彼女に感化されている恵無は、曖昧な笑みを口元に浮かべた。
 それに宗也が気付く。
「長瀬さん……母さんと話をした?」
 上目遣いに窺うような問いかけに頷いて返す。
「たっぷりと……お母さんは、全てを知っているようなので誤魔化しもきかなくて」
 途端に硬直するのは宗也だけではない。
 知っている……そのレベルが彼らにとって最悪だというその事実に気付かないのは、彼女の弟である宗男くらいだろう。
 彼は、その言葉ではなく、長瀬という名に反応した。
「や、やっぱり、結託していたんだなっ! 私の言葉に嘘は無いだろうがっ! この事実を知れば、株主も役員も満場一致でお前らに実権など渡しやしないっ!!」
 今更……だろう。
 恵無も、そしてここにいる宗男以外の高塚の人間は、語るに落ちたとばかりに宗男を冷めた目で見つめる。
 何より、彼女が知っているという事実から無意識のうちに逃避してしまった男に、何の勝ち目があろうか。
 恵無の目から見ても、彼ら兄弟がこの場の実権を母に明け渡してしまった雰囲気が感じられるというのに。
 カランと微かな音がして、誰も手を付けていなかった水割りのグラスが吉宗の手に握られた。
「俺も飲みたい……」
 じっとその仕草を見つめて呟く不機嫌そうな宗佑に、冷たい視線を送りながら吉宗が首を横に振った。
「ドクターストップが解けたら飲んでもいいけどね」
「むう……」
 弟に戒められた長兄の子供っぽい仕草に、思わず笑みが零れる。
 その瞬間確かにふうっと和らいだ雰囲気は、だが、次の瞬間再び凍り付いた。
「水割りなど飲んでいる場合かっ! 姉さんっ、言っては何だがあんたの息子どもは私利私欲のためにジャパングローバル社から賄賂を受け取り、契約をしようとしたのだぞ。それを役員会に突き止められ、退任されられたというのに。しかも今、何者かによって株の大量買い占めが起きているんだ。会社を護るために株を渡せと言っているのに、聞きやしないっ!」
 わなわなと震える手。その厚ぼったい唇。
 凍えるような場の雰囲気に気付かないのだろうか?
 恵無はひどい寒気を感じで両腕を掴むとぶるっと身震いした。
 それとも怒りに我を忘れて、熱く燃える怒りに晒された体だから気付かないのだろうか?
 自分の甥達がなぜ酒に手を伸ばしたのか、その理由に気付かない哀れな男がそこにいた。
 そろっと宗也が長瀬の傍らに寄ってくる。
「母さんは……全部?」
 その重ねての短い問いかけに、頷く。
「全てを。俺のこと、調べるくらいには、ね」
「そう」
 想像はついていたらしい。明らかに落胆した宗也の顔には、それでも当然かと諦めの色も交じっていた。
「今回のことくらいは、母さんに任せずに解決したかったんだけどね」
 苦笑いすら浮かべる彼の目の色が複雑に変化する。
「あら、宗也。あなたは私を無視して事を進めるつもりだったと?」
 まさしく宗也の言葉はやぶ蛇で、冷たい視線が背後に向けられ、二人揃って身を竦める。
「い、いえ。ただ、自分たちがどこまでできるか試したかった……というか?」
 本音は無視したかったのだろうが、その事実を告げるには彼女への畏怖の力は強大過ぎたようで、やんわりと宗也が言葉を否定する。
「まあ、いいわ。確かにこんなことくらい手に負えないようでは、あなた達のお父さんにはいつまでたっても敵わないですからね。ただ、ちょっと手間取りすぎ。こんな小兵相手に手間取っていては、後ろの精鋭が来た時に虚をつかれるとも限らないわ」
「申し訳ありません」
 女王様の家来はかしこまって頭を下げる。その役目は、やはり吉宗だ。
「思ったより手間取ったというのは、事実です」
 グラスに口を付けながらであったが、神妙な声音は変わらない。
 だが恵子は、そんな吉宗の言葉など聞いていないようで、きつく宗男を睨み付けた。
 それだけで、ずりっとソファの上で尻をずらした宗男は、ひきつった顔で恵子を見つめた。
「まったく、宗男。あなたも懲りないわね。今度はとうとう他人まで巻き込んでの、大騒ぎ?あなたは、お父様の会社をなんと心得ているの?」
「なっ、私はっ!」
 何か反論しようしたのだろう。
 宗男がいきり立って立ち上がった。だが、恵子の一睨みの方が強い。
 ごくりと喉が鳴る音が恵無のところまで聞こえた。宗也の隠しきれないため息の音が、同時に聞こえてくる。
「筆頭株主は誰か、忘れたの? それから、中村家の株は両家のものともすでに私が買い取っているわ。この私が大事な株をドーラスタなどに渡すとお思い?」
 きつい声音は多分に冷たさを含んでいて、その対象でないのに背筋が激しく震える。
「あ、それは……」
 恵無ですらそうなのだから、その対象である宗男の全身はさっきから小刻みに震えていた。
 視線が泳ぎ、何度も口籠もる。
「お前がドーラスタから受け取ったと思われる金額は、丁重に熨斗付けてお返ししたしね。筆頭株主、高塚恵子の名でね。あの会社の誰がこんな愚かな企てをしたのか知らないけれど、慌てふためく様子が目に浮かぶようね」
「へ……?」
 今度の言葉に、宗男がぽかんと口を開けた。その情けない表情は愚かさでは最たる物であったけれど──誰も笑わない。
 ただ、憐憫の視線を向けるだけだった。
「宗佑」
 凛とした声で、長男の名を呼ぶ。
「はい」
「人事を再検討を。社長には、元の予定通り吉宗を据えなさい。株主総会での対応はお前達に任せます。……無様な事になって、メルサ社の評判を落とすことのないように」
 低い抑揚のない声音が、静かな部屋に響く。
 女王の言葉は絶対であり、反論など許される物ではない。
 だから。
「はい」
 宗佑が厳かに一礼した時、誰も何も言わなかった。
 ただ。
「……わ、私は……」
 呆けてしまってへらへら笑う宗男だけが、実の姉を窺う。
「副社長……は別の人間を当てるしかない。今回の不祥事、お前だけが何の咎も無いというのは、反論を買うだろうし。そうね、監査役の地位が空いていたから、そこに付くといいだろうね。ただし、対外的な場に出ることは許さない」
「は、はいっ」
 地位を約束されて嬉しそうに笑う宗男は、その言葉の意味が判っているとは思えなかった。
 彼は、名だけの監査役というわけだ。
 何の実権も持たない名だけの。
 そんなものに縋り付いて、何が楽しいというのだろう?
 いっそのこと、地位に縋り付くことなど諦めて、静かに暮らせば、とも思う。
 恵無は禿げ上がりかけた頭頂部を憐憫の思いで見つめていた。普通の従業員ならば、そろそろ定年間近だろう。だったら、貰った退職金で安穏と暮らせば良いだろうに。
 けれど、そこにいるのは名ばかりの地位を悦ぶ哀れな人間だった。
 ああは、なりたくない。
 幸いにして一介の社員である恵無に、そんな役職など夢のまた夢だけれど。
「落ち着いたところで帰りなさい。そして、愚かなお仲間達に事の顛末を報告すべきね。高塚恵子が予定より早く帰ってきて、何もかもバレていた。それだけで、皆その意味が判るでしょうから」
「は、はいはい、今すぐに」
 卑屈な笑みを見せ、立ち上がる宗男に、高塚の血が混じっているとはとても見えなかった。
 そんな彼よりも、恵子の傍らでじっと佇んでいる沙美の方がよっぽど近いような気がした。
 そんな彼女が、応接室に入ってから初めて言葉を発したのは、宗男が消え去ってから実に一分以上経ってからだ。
 誰も見送りに行かずに、バタバタと玄関のドアが閉まるのを確認したその直後、沙美はその形の良い眉を顰めて言い放った。
「塩、撒きましょうか?」
 その言葉に、宗佑が肩を竦めた。
「絨毯が塩まみれになると正樹(まさき)が大変だ。撒くなら外でやってくれ」
「植木にかかると傷んでしまう。庭は止めて欲しいよ」
 吉宗がさらりと拒絶した。
「でも、だったらどこへ?」
 口惜しそうに呟く沙美に、皆が視線を泳がすけれど。
「どこに撒いても迷惑になるから、止めとこうよ、義姉さん」
 宗也の宥める言葉に、不承不承頷いていた。
 結構地は辛辣なのか?
 その意外な一面に、恵無は驚きもあって目を見開いたままだ。
 それに。
「あの……正樹さんって?」
 新たな名が上がったと思い、傍らに宗也に問いかける。
「ああ、正樹って──高中正樹って言って、遠縁の子でね。大学生なんだけど、うちのハウスキーパー役なんだよ。何せ、我が家には家事能力が皆無な人が多くって」
「正樹が一週間家を空けると、家中がゴミだらけになるし、冷蔵庫の中は酒とそのつまみしかなくなるし」
「食事はコンビニ弁当になるし……」
 ため息がそこかしこから零れる。しかも、その中には恵子や沙美の分もあって。
「えっと……その……沙美さんも?」
「沙美は、仕事の能力はピカ一なんだが、家事能力は無いに等しい。一度大掃除の時に参加して、前より汚れたくらいだ」
「宗佑さん……言わないでよ」
 頬を赤らめ恥じらうその姿はまたしても意外な一面で。
「正樹、中学の時から家にいるんだ。それまでは家政婦に来て貰っていたんだよ」
 家政婦のいる家。
 そんなものドラマの中だけの話かと思っていた。
 それに、そういう人がいれば、確かに家事などすることもないだろう。
「何とかやってできるのは、宗佑兄さんと僕くらいかな。それでも、ほんと簡単な料理が何とかできる程度だし……」
「そう言えば、正樹は居ないようね?」
「ええ、大学の友人と二泊三日の温泉旅行に行っているんです。紅葉の季節なのでのんびりしてくると。明日には帰宅して、夕食は作ると聞いていますが──ああ、沙美、母さんが帰ったことをメールで知らせてくれよ。いきなりだと夕食の買い物も準備も何もできてないのにって怒られるから」
 苦笑を浮かべる宗佑に沙美も口の端を歪めていた。
 ほんと、怒るんだよな。
 小さく呟く吉宗が、嘆息しているのも聞こえてくる。
「そうですね。それに長瀬様のこともお教えしないと」
「頼む」
「沙美、恵無と呼びましょう。もう家族と同様なのだから。それに、正樹には歓待の用意をするようにも伝えてね」
「はい」
 どうやら、この家での権力者はもう一人いるらしい。
 だが、明日帰る正樹に、なぜ恵無の存在を知らせる必要があるというのだろう? それに歓待?
 と、ふと考えて。
「あ、俺っ、明日帰りますっ」
「駄目よ」
 理由も何も言う間もなく、きっぱりと拒絶された。
「恵無はもう一日は居なさい。正樹には会わせたいし、何より、あの子の料理で歓待したいのよ」
「でも、あさってには会社が……」
「体調不良による発熱と倦怠感で休みなさい。診断書が必要なら用意させるから」
「え、あ、いや……そこまでは……」
「長瀬さん、諦めて……」
 なおも言い訳を考えていたけれど、宗也が恵無の腕を押さえながら首を左右に振るのを見てとって、ため息を吐いた。
「判りました」
 それ以外この場では言わない方が良いのだと、恵無も短い時間の間に学習していたのだから。
 
U]\.29
 
「疲れたろ?」
 招き入れられた高塚の部屋は本日二回目だ。
 さっきキスしたベッドが視界に飛び込んできて、思わず視線を逸らす。
「長瀬さん?」
 黙ってしまった恵無を覗き込んでくる高塚に、慌てて首を振った。けれど、疲れているのは間違いなく、体の怠さがどっと押し寄せてきて、そのままぺたんと床に腰を下ろす。
「そういえば、熱があったのに……」
 額に触れる手のひらの冷たさが心地よい。
「まだあるね。とりあえずこのパジャマなら……」
「え、これ……」
 渡された絹のパジャマの、その慣れない肌触りに恵無は戸惑った。
 しんなりとして、とても肌触りは良い。光沢のある布地が蛍光灯の灯りを柔らかに反射している。色は、薄い青なのだろうけど、見ようによっては白にも見えた。
「あれ、入らない?」
「いや、そんなことはないけど」
 そう言えば、着ていたスーツも質の良い物だった。
 ──高中財閥の傍系。
 恵子の言葉が今更ながらに思い出された。
 けれど。
「何? どうした?」
 動きを止めた恵無を覗き込んでくる高塚に、「何でもないよ」と返す。
 そんなこと、どうでも良いことだ。
 高塚も、その家族も、そんなことなど全くひけらかしたりしない。
 選民意識などどこにもないのに──けど。
「なんか、高塚さんの家族って凄くって」
 それは地位や財産等とは関係なく、とにかく強烈なものだった。
「それは……否定しないけどね」
 苦笑を浮かべる宗也が、恵無のシャツのボタンに指をかけてくる。
 視線を落とせば、指が襟ぐりを掴みボタンを穴にくぐらせている行為が目に入ってきた。ゆっくりと広げられるシャツの隙間から、下着代わりのノースリーブのシャツの生地が覗いていった。
 体温が、それと比例するように上がっていく。裸体を晒しているわけでないのに、羞恥が込み上げる。
 なのに、その指の動きを止めようとは思わない。
 心臓が高鳴る中、高塚はボタンだけを見つめその行為に没頭しているかのようだった。
 けれど、ふっと小さく息を吐く音がした。
「生まれた時からこんな家族の中にいると、他人から見れば凄いと言われる家族でも、僕にとっては普通なんだ。姉である母にへいこらするあの叔父も──僕たちとっては、またか、という感情しかない。本当に、いつものことだって言えばいつものことなんだけどね……」
「いつもの?」
「何かあれば、自分にも決定権がある──と思いこんでいるんだよ、あの人は」
 何もかも、もう叔父には決めることなどできないというのに。
 続く言葉は小さく消えていく。
 愚かな親族に対する──それでも情と呼べるモノが、高塚の心にはあるようだった。
 それを知ってホッとする。
 高塚はきっと優しくて、経営者としては向いていない人間だろう。人の上に立つ者は、愚かな相手に対して情けなど持たない方が、全てに安定している。そういうことくらいは、恵無だって判っている。
 だが、高塚は叔父に対して哀れむ心を持っている。いや、あの恵子でもだ。
「高塚さん──叔父さんのこと嫌っていないんだ?」
 問えば、ようやく顔を上げた高塚が小さく笑い返してきた。
「まあ──ね。僕が小さい頃は優しい叔父だったから。どうしてああなったんだろうね。いつの間にか、権力に固執するようになって……。母なんかは、年を取ってようやく自分の地位の危うさに気付いたんだよ──って言っていたけれど」
 とても安寧とは言えない地位。
 与えられただけの、甥達に追い落とされるであろう地位。
 甥達が成長して初めて気付いた事柄は、もうどうしようもなく、遅すぎたことだったのに。
「なんか、今回のことだって情けなくてね。ほんとは母に知って欲しくなかったよ」
「あの人は……そんなことで……」
 傷つくとは思えなかったけれど、恵無は言葉を続ける事はできなかった。
 彼女にとって、あの男は可愛い弟でしかないのだから。
 他人でも判る事を、高塚達が気付かない訳がない。判らないのは、あの男だけだ。
 愚かで、哀れな男だ……。
 二人のため息が同時に零れる。
「けどね、そんなことが判っているのに、煽動する輩がそのたびに出てくるんだ……。あわよくば──って思うのかねえ」
 そして、笑う。
 だが、恵無はその言葉には笑えない。
「欲まみれなんだよ。俺だって、そうかもね」
 あわよくば──と、思わなかった訳じゃない。
 契約だと話を振られた時、心の片隅に、その言葉が無かった訳じゃない。
 あわよくば、この契約の話が本当の売買契約書となれば。
 そして、高塚とずっといつまでも、と──。
 どちらが強かったと言えば、それは高塚との事だったけれど、それはそれで欲だったのだ。
「高塚さんが欲しい。そうずっと思っていたから……」
 だから、哀しい契約だとは思ったけれど、受け入れた。
「まったく気付かなかったよ……。あの時は」
 ボタンを外し終えた指が、遊びながら裾から襟へと戻ってくる。
 するりと寄り道をして恵無の胸板を辿り、鎖骨を辿って襟ぐりへと辿り着いた。 
「気付いていれば、あのままホテルからこの家に連れてきたのにな。兄さん達に、速攻で紹介していたよ」
「それは……」
 何も知らずに彼らに会う。
 その光景を思い浮かべ、恵無は我知らず息を飲んだ。
「圧倒されて終わっていたかも……。今日なんてあれよあれよという間に終わっていたから良かったけど、ごく普通の時に会ったら、保たなかったかも」
「ああ、そうかもね。特に母さんはね」
 無言でこくりと頷けば、高塚がしようがなさそうに肩を竦めた。
「だけど、あの家族からきっと僕は離れられない。それに、長瀬さんはもう母さんに気に入られちゃったし」
「何でそんなに気に入られたのか判らないんだけど」
 最後まで外されたカッターシャツが肩からずり落ちる。下着代わりのシャツも、躊躇いつつも恵無自身が取り去った。上半身を晒せば、意外に冷たい室温に肌が総毛立つ。
「……あの人の基準はよく判らない。けれど、気に入られなかったらこんなふうにこの家には居られない。沙美さんも正樹も、母さんに気に入られたからここにいるし、そして、確かに二人とも得意な部分があって、とても助かっている」
「俺は……何の特技もないけど?」
 ふわりと肩からかけられたパジャマは、柔らかく肌に馴染んだ。
 促されるがままに袖に腕を通して、前があわせられる。
「それは僕にも判らないけど──でも、母さんはああ見えても優しいし」
「高塚さんのために?」
 意識せずに漏らした自虐めいた口調に、高塚が動きを止め、眉根を寄せて恵無を見つめる。
「……それだけじゃないよ、きっと。でも、確かに母さんに聞かないと判らないな。僕はまだ母さんとは話をしていないから」
 曖昧な言い訳は、それでも恵無を落ち込ませる事はなかった。
「気に入ってもらえたなら──きっとそれで良いんだと思う」
「長瀬さん?」
「何より、この家に入ることを許されたのであれば、俺はそれだけで十分だ」
 すぐ目の前にいる高塚の温もりが、手を伸ばせば触れる場所にあるのだ。
 途端に込み上げる欲求に従って、腕を伸ばした。
「長瀬さん……熱があるんだよ?」
「でも……」
 キスだけの逢瀬では物足りない。
 こんなに近い場所にいる高塚に、恵無の記憶が決して忘れることの無かった快楽を呼び起こす。
「あの時……酔っていたからって高塚さんは言ったけど──今は酔っていない。それに、俺も酔っていない」
「でも、熱に酔っているようだよ」
 躊躇いがちな声音に恵無は焦れて、腕に力を込めた。
「それでも……せっかく会えたんだ」
 明日帰る予定があさってになってしまったけれど。
 それでも、岡山と長野の距離は遠い。たった二日の逢瀬の時間を、恵無は大切に使いたかった。
「いいから、大丈夫」
 少しだけ高い位置にある瞳を覗き込む。
 欲しいと思っているのは自分だけなのだろうか?
 けれど、覗き込んだ瞳は、明らかに情欲に揺れていた。
 口の端から零れる吐息が頬に触れ、その熱さに身が焦がれる。
 だから、恵無は自ら欲するがままに唇を押しつけた。
 
 
「どうも、僕は負けてばっかりだね」
 苦笑を浮かべた高塚がそう言った時には、恵無は力なくベッドサイドに背を預けていた。
 負けて──ばかりじゃない。
 そう言いたかったけれど、それもなんだか悔しくて、僅かに首を振っただけだ。
 キスを仕掛けたのは確かに恵無からだったけれど、すぐに主導権は高塚に移っていた。深く侵入を許した口内を余すことなく貪られ、小さな花火が何度も体の中で弾けていた。繰り返された快感という名の花火は、次第に強くなっていって、恵無の体から力を奪う。
 互いの体が離れた時には、床に座り込んだ姿勢のまま動けなかったほどだ。
「ベッド、移ろうか?」
 反射的に頷いて、ふらつく体を支えられながらベッドへと上がった。
 その拍子にボタンをしていなかったパジャマの上衣がさらりと床に落ち、剥き出しになった白い肌が、灯りに照らされた。
「やっぱ、長瀬さんの肌って綺麗だね」
 ほおっと感嘆のため息が聞こえ、刺すような視線を背に感じた。途端に湧き起こる羞恥が、芯から身を焦がす。
 慌てて布団を被ったけれど、全てを覆い隠す前にそれを止められた。
「見せて、もっと」
 掠れた声に、たっぷりとした欲情を感じた。
 その言葉だけで、恵無の体が熱を持つ。
 どくどくと心臓が激しく鳴り響き、血流が頭の中で音を立てていた。
「ほんとに綺麗だ……」
 欲したのは自分からだったけれど、始まると逃げ出したい気分になってしまった。何より、とてつもなく恥ずかしいのだ。高塚の一言一言全てが、恵無の羞恥を煽る。
「そんなことなんか、ない……のに」
「綺麗だから……僕の付ける痕で染めたくなる。全身余すことなく全て口付けて、僕だけのものだけにしたい」
 ずっと聞きたかった、けれど、いざ聞くとこんなにもいたたまれなく恥ずかしい。
 高塚からの欲する言葉は、恵無の心を麻痺させてしまう。
 返したい言葉は、もう出てこない。ただ。
「んっ……くっ」
 首筋に寄せられた舌の感触に、思わず呻いていた。
 ぞくぞくとむず痒さを持ったくすぐったさが全身を這い回る。
 這い回って、恵無の神経を侵していく。与えられる感覚だけに捕らわれて、逃げられなくなっていく。
「あっ……やっ!」
 固く閉じていた瞳が闇を映す。その中に影を落とす高塚が何をしているか見えていないというのに、肌に伝わる滑った感触で、今どこで何をしているかはっきりと判った。
「やめろっ、そこはっ──あっ」
 思わず突っ張った手のひらで触れる汗で湿った肌。押し返そうとするけれど、気が付けば縋っていた。くしゃりと腕の中で髪が肌をくすぐる。
 胸の先からじんじんと、執拗に伝わってくる快感に、閉じた目は開けられない。
「可愛い……」
 言葉の震動が、吐息が、さらに快感を煽る。
「お、俺……こんな……」
 あの時とは違う。
 あの時は快感もあったけれど、それでも胸の奥に痛みがあった。受け入れる覚悟はできていても、心がすれ違っていた。
 だが、今は違う。
「たか……つかっさんっ!」
 するりと下着の中に入り込んだ手が、直接恵無のモノを掴む。
 甘い、記憶に染みついていたのと同じ痺れが脳髄まで響き、腕に勝手に力が入った。鼻腔をくすぐるのは高塚の匂いだ。
「気持ちいい?」
 甘い掠れ声に、こくこくと頷き、腕にもっと力を込める。苦しそうに身動ぐのは判っていても、腕から力が抜けないのだ。
 その間も、扱く指の動きが、恵無を翻弄する。
 身を捩った拍子に、ズボンが下肢から器用に抜き去られた。
「変わらないね」
 くすくすと鼻で笑うその理由が判らなくて、薄目を開け、胡乱な視線を向ける。だが。
「感じるところ」
 きゅっと先端をきつく詰られて、堪らずに固く目を瞑ってしまった。
 与えられる快感に、恵無は自分を制御できない。
「お、俺……もうっ」
 いつもよりはるかに早く限界を感じる。
 密着した肌の温もりも、舌先の滑りも、その限界を早めていた。
「我慢できない?」
 優しい言葉にこくりと頷くけれど、「ちゃんと言って?」と、意地悪く返された。しかも、指先の動きは止まらない。
「あ、やっ……」
 弾けそうな波に意識を奪われそうになる。
 なのに、限界は容易なことでは超えられない。ほんのわずか、狙い澄ましたように、もっとも感じているところを外された。
「や……だ……」
 甘える声が子供のようだと、思ってはいるのだけど。
「もっと……」
 止まらない。
「欲しいなら、ちゃんと言って?」
 高塚の言葉も甘く優しいのに、今の恵無にとってはひどく意地悪で、恨めしい。
 けれど、襲う快感はそんな反感も覆い隠す。
「あ、ほ、ほしっ……もっと……ちゃんとっ!」
「ふふっ、可愛いね」
 口付けは優しいのに、高塚の手が、ぎゅっと力強く恵無のモノを掴んだ。
「あっ、痛っ」
 張りつめたモノには強すぎる刺激に、涙が目の端に浮かぶ。
 けれど、痛いのに、快感は前より強くなったようだ。じんじんと腫れたように疼く。
「達かせてあげるけど……先に」
 言葉を切った高塚のもう一方の指が、するりと奥へと目指してきた。
 滑る液体がぴちゃりと音を立てている。
「な……に?」
 呼吸をするのも熱く苦しい。言葉はもっとだ。
 けれど、縛められた苦しさはもっと激しい。
「ここ……感じられるでしょう?」
 異物感に息を飲む。
 だが、記憶にあるそれは、その先の快感すら期待させた。
 
V].30
 
 長い。
 限界だと思ってから堰き止められて、一体どのくらいの時間が経ったのか?
 解放を求めて焦らされ続けた体は、どんな刺激も貪欲に貪っている。
 だから。
「挿れるよ」
 耳朶を甘噛みされながら、高塚のモノが押しつけられた時。
 達けるんだ、という期待が全身を震えさせた。
「高塚……さんっ」
 嬉しくて涙が滲む先に、高塚の顔が見える。
 だけど、その高塚が眉根を寄せて恵無を見下ろし、動かない。
 期待が不安に変わるほどの時間、待ち焦がれた恵無がようようにして問いかける。
「高塚さ……何……で?」
「……名前」
 即座に指摘されて、けれど、いい加減惚けた頭では何のことが判らない。
「な……に?」
「名字じゃなくて、名前で……呼んで欲しい……」
 そう言って、待っている。腰はさっきからずっと押しつけたままだ。
 それって……。
 さっきの達く寸前に堰き止められたことも、今も。
「意地悪……だ……」
 優しいけれど、どこか意地悪さが高塚にはあるような気がした。
 もしかして、あの時焦らされて、高塚が止めるなんて言い出したのも、意地悪から来た言葉じゃないかと、勘ぐってしまう。
「あれ……欲しくない?」
 恵無がどんなに欲しているか判っているのだろう。
 ぐいぐいと腰を押しつけながら、けれど、それ以上は進まない。
『うちの息子があなたを泣かした時は、申し訳ないけど我慢してやってね。あれで結構わがままだから』
 恵子の言葉が唐突に浮かんできて、これのことだったのだろうかと恵無は顔を顰めた。
 あの時は言われるがままに頷いたが、おとなしく我慢なんかできないだろうと思っていたけれど。
「そ……やさん、そうや……」
 気が付いたら口から名前が出ていた。
「宗也……お、願い……だから」
 涙がこめかみを伝う。
 それほどまでに焦らされた体が、高塚を欲していた。
「すごっ……堪らない……」
 熱の籠もった言葉と、押し広げられる衝撃は同時だった。
「あっやぁっ!」
 ミシミシと異物に慣れない体が悲鳴を上げる。なのに、両腕は突き放すどころかもっとと高塚の体を抱え込んでいた。
 何より。
「恵無……恵無、好きだ……愛してる」
 押し込められている間、耳元で何度も囁かれた言葉が痛みから意識を逸らせてくれる。それに、名で呼ばれることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
「あっ……んくっ……」
 縛めは解放され、ゆるゆると扱かれる。
 体は、もともとが高塚のものであったかのかと思わせるほどしっくりと馴染んでいた。
「あああっ」
 ずんと最奥を突かれて、全身が仰け反る。
 ほんの少しの間、二人とも動かなかったけれど、すぐに高塚が焦れたように動き始めた。
 最初はゆるゆると、けれどすぐにその抽挿は大きく激しくなっていく。
 突かれるたびに肺から息が押し出される。
 時折全身を貫くほどに強い快感が押し寄せた。そのたびに意識が白く爆ぜる。
 自分が出しているとは思えないほどに甘い声が喉を震わせていた。何度も欲した様な気がする。
 けれど、与えられる快感を全て感じようとしている恵無には、全てが無意識の行為だった。
「あっ……やっ、もうっ!」
 焦らされ続けた体が、一気に高まっていく。
 もう痛みなどないから、何物にも邪魔されることなど無い。
 高塚が止めない限りは。
 その不安感からか、自らの腰が無意識のうちに踊っていた。抜かれるのではないかという不安。放置される事への不安。
「すご、恵無の中、絡みついてくる」
「あっ……やあっ……ふあっ」
 押し寄せる波に、自ら合わせるように腰を振る。それが恥ずかしいとは思わない。
 ただ、欲しくて。
 そして。
「あっ、あぁぁぁっ!」
 一際高い波の頂点で、意識が白く爆ぜる。その今までにない爆発は全身を激しく震わせて、何もかもを解放した。
 びくびくと特に激しく震えたモノが、さらに高塚に弄ばれ、残っていた残滓までもが溢れ出す。
「あ……」
 目尻に落とされた口付けに安堵の吐息が零れた。
 弛緩した体がベッドに沈み、心地よい開放感は未だかつて無いほどだった。
 けれど。
「あ、これ……」
 身動いだ拍子にはっきりと感じた体内の塊に、かあっと体が熱くなった。
 まだ硬度を保ったままの高塚のそれは、彼が達していないことを教えてくれる。そして、少し辛そうに恵無を見つめる高塚の瞳に、何ら言葉が出てこない。
 一人先に達ってしまって、その余韻に浸る間、高塚は待っていてくれたのだ。
 意地悪だと思ったけれどやはり優しい高塚に、恵無は嬉しくなって縋り付く。
「動いて……」
 掠れた声で呟けば、それでも聞こえたようで、すぐに高塚は動き出した。
 いや、余裕が無かっただけかも知れない。
「ひっ、ああっ!」
 達ったばかりで敏感な内壁は、激しい抽挿で悲鳴を上げている。けれど、堪らずに力の入った場所を、高塚は容赦なく攻め立てていたのだから。それは、今までの優しさとは一線を画したもので、快感の中であって悲鳴が出たほどだった。
 それでも、その余裕の無さが嬉しい。
「ふあっ、あっ……やあっ!」
 溢れる涙は歓喜のもので、ぴったりと密着した肌がとても気持ちがよい。
 好きだから、好きといってくれるから、肌を合わせることがこんなにも嬉しい。
「んっくっ!」
 荒い息をしていた高塚がびくりと硬直した。継いで震えたのは、体内のそれ。
 意外なほどはっきりと感じた震えに、恵無の体も引きずられた。
「あっ……」
 とろりと吐き出された正体に気付いて、かあっと全身が熱くなる。
 ぎゅっと目を瞑って顔を逸らしたけれど、頬にそっと口付けられ、「良かった?」などと聞かれては、もう羞恥に焦がれるほどだった。
 しかも、零れた白濁の液を掬い上げた高塚の指先が粘着質な音を立てているのを聞いてしまっては。
「や……めろよ……」
 嬉しそうに弄んでいるのを、制止しようとするけれど。
「だって、恵無のモノ……」
 舌先でぺろりと舐めようとする。
「止めろってっ!!」
 慌ててその手に縋り付いて、すんでのところで止めさせた。
「んなもん、マズいって言うぞっ!」
「マズくたって、恵無のモノならなんだって欲しい」
「だからっ、止めろってっ!!」
 手を離すと本気で舐めそうで、必死になって押さえつけようとする。と──。
「あっ……」
 ずるりと、体内から熱い塊が抜け去った。熱を奪われて、ぶるりと全身が震える。
 同時に、たらりと流れ出る感触は、悪寒すら呼び起こした。
「ああ、綺麗にしないと」
「や、止め」
 触れる手から逃れようと動けば、さらに下肢を流れていく。その感触が気持ち悪く、けれど、ざわりと肌がざわめいた。
「じっとしてて……。シャワーの用意してくるから」
 ぱさりと裸体の上にかけられたのは、着損ねていたパジャマだ。
 高塚はと言えば、何も着ないまま部屋の一角に近づいた。
「宗也?」
 クローゼットから何か出すのかと思ったのだけど。
「今度、恵無のガウンも常備しなきゃね」
 木製のドアを開ければ、そこはクローゼットなどではなく、どう見ても洗面所だった。
「え、そこ……」
「ああ、ここ、シャワールームとトイレ」
 事も無げに言った高塚が入っていき、すぐに水音が響き始める。
「すぐに暖まるからね」
「部屋に……シャワーがあるのか?」
「ん、狭いけどね。便利だから」
 確かに便利だけど。
 普通の部屋には、シャワーなんて無いだろう。
 促されるままにベッドから降りようとした恵無は、呆然としていた。
 だから。
「うわっ……」
 がくりと床に手を付く。
 足腰に力が入らないのだ。前回の時でもこんなことにならなかったはずだった。確かに怠さはあったけれど。
 しかも、全身がひどく怠い。
 そっちの方が深刻な感じで、思わず零したため息は、喉を熱く焼いた。
 やばい……。
 原因に思い当たって、恵無の眉間に深いシワが寄る。
「恵無?」
 同じように屈み込んできた高塚が恵無の体を支えようとして、ぴたりと動きが止まった。
「そうか……熱……」
 二人とも完全に忘れていたのだ。
 もともとそのために、ここで休もうとしていたのだから。
「ごめん、夢中になってて……」
「いや……俺も……」
 このまま寝ていたい欲求がどんどん強くなる。
 心も体もしっかりと交わったせいか、完全に気が抜けてしまったのだろう。
 疲れ切った体が悲鳴を上げていた。
「とりあえず、ベッドで休んでて……。体は僕が拭くよ」
 その言葉にもう抗う気力もなかった。
「うん……」
 なんとかベッドに這い上がり、体を横たえる。
 急速に訪れた睡魔に逆らう気力ももう無い。
「寝てていいよ……」
 優しい言葉と口付けが、眠りにつく直前の記憶だった。
 
V]T.31
 
「どうぞ」
「あ、ありがと……」
 グラスに鮮紅色のワインを注がれ、恵無はぺこりと頭を下げる。
 慣れない場で落ち着きのない恵無に、正樹が笑みを浮かべ見下ろしていた。
 大学は一年目だという正樹はすらりとした長身で、そこだけは高塚達と似ていた。けれど、肌の色が濃い。彫りも深く、一目で外国の血が混じっているのがわかるほどだ。
 初めて見た時に覚えた違和感の原因は、正樹自身が明かしてくれた。
 彼は、高塚達からすると又従兄弟になるのだという。高中家傍系に連なるのだが、不倫の子であるが故に、表だってはその家に入れないらしい。
「あんな良い子なのにねえ、嘆かわしいこと」
 あっけらかんと説明する恵子の横で、彼は旅行から帰ってきたばかりだというのに、歓待の準備に走り回っていた。そんな彼が用意したパーティ料理は、ホテルでの立食パーティのものとそう大差はない。
「簡単なものばかりで」
 と、謙遜する彼の手にあるカナッペなどは、綺麗に彩られ、見るからに美味しそうだった──というより、美味しい。
「正樹が来てくれてから、我が家の食事がいかに潤ったか」
 切実に呟いた宗也に宗佑が頷いているほどなのだから、それはよっぽどだったのだろう。
「……恵無は料理できる?」
「自分が食べる分には」
 大学から一人暮らしで、しかも子供の頃から親に鍛えられていたから一通りはできるのだと言うと、正樹が「僕もなんです」と会話に加わってきた。
「僕の母は、ずっと働いていたから、小さい頃から料理はいろいろと教えて貰いました。待っていると、何時に帰ってくるか判らなくて」
「ああ、俺んとこも。共働きだから、お腹が空く方が親が帰るより早くって。兄と交代で作っていたよ。だから二人前くらいは冷蔵庫の中身で作れる位にはなっていた」
 正樹は人懐っこい笑みで取っつきやすく、しかも話が合う。
「母が亡くなってから、この家に引き取られて。何が一番困ったかっていうと、食事が合わなかったことだったんですよ」
 人間関係なんかよりよっぽど、と肩を竦める正樹の言葉に、宗也が唇を尖らせる。
「母さんの一番の苦手は料理だったからね」
「だから母さんが出かけている間、家政婦が作ってくれる食事の美味しかったこと──って!」
 しみじみとぼやいた宗佑の頭で、軽快な音が鳴り響く。
「せっかくこの忙しい母が、手料理で育ててやったというのに、その言いぐさは何だねっ!」
 いつの間にか恵子の手に握られていた丸めた雑誌が、ほいっと恵無の手に渡された。
 広げてみれば『オレンジページ』で、『100円でできる簡単料理特集』の字がでかでかと載っていた。
「これ……誰が?」
 あまりにもこの家に似合わない雑誌に呆然と呟くと、沙美が真っ赤な顔で取り上げてしまう。
「え……」
「義姉さん、努力はしてんだよ」
 こそっと耳元で呟かれては、もう何も言えない。
「そう」
 無視するのが一番良いのだと、恵無が視線を逸らせればその手に一枚の皿が渡された。
「沙美の作品だ」
 宗佑がにやりと笑っている。
「え……」
 それは、生ハムとメロンのオードブルだ。
「美味しいですよ」
 切って飾っただけの作品は、素材だけは一流品で、幾らカットが不揃いでも味は変わらない。だから、そう伝えるのが精一杯だった。
 
 
 肩の凝らない歓待だったと思ったけれど、高塚の部屋まで戻るとほっと息を吐いていた。
「疲れた?」
 奇しくも昨夜と同じ問いかけに、言った方も聞いた方も苦笑を浮かべる。
「いや、楽しかったよ」
 疲れたと言えば疲れたのかも知れない。けれど、楽しかった。
 パーティと言えば格式張った結婚式のようなものしか知らなかったから、こんなのであれば、いつでも良いと思えたくらいだ。
「正樹……の料理も、美味しかったしね」
 会って早々に呼び捨てを強要されてそう呼んでいるが、実は未だに慣れない。
「そういえば、正樹とばっかり話をしていたもんな」
 高塚の言葉に違和感を感じて、恵無は彼の顔をまじまじと見つめた。
「宗也?」
「正樹は優しいからな、僕なんかより」
「何言ってんだよ」
 逆光ではよく判らなかったが、どう聞いても拗ねているのだと判る。そのことに気付いて思わず吹き出した。
「でもさ」
「正樹は話し上手だったから、俺も取っつきやすかっただけ。それに俺のためにいろいろ料理を作ってくれたのに、話をしない訳にはいかないだろう?」
 可愛い。
 ヤキモチを焼く高塚が。
 恵無が堪えきれずに吹き出しても、高塚はまだぶつぶつ文句を言っている。
 そんな彼に、恵無は思わず頬に唇を寄せていた。
「明日には帰るのに……。喧嘩して過ごしたい?」
 そのまま耳元で囁けば、驚いたように高塚が目を見開いて、首を左右に振る。
「そんなはず無いだろ?」
「だったらね」
 伸ばした指は、辿り着く前に捕まえられた。
「恵無は誘い上手だなあ。そんなに僕としたい?」
「え?」
「そんな目で見られたら、僕も我慢なんかできなくなるな。昨日したばかりだから、我慢しようかと思っていたんだけど」
「え……あ、いや。そんなつもりじゃ……」
 喧嘩をしたくないから。
 それだけのつもりで言った言葉だったのに、一足飛びに寝る話までになっている高塚から、恵無は慌てて離れた。
「俺、今日は、ちょっと……その……」
 仄めかした言葉は、それだけで体を熱くする。
 熱の籠もった瞳で見つめられて、体の奥底がじんわりと熱を帯びてきた。
「……したくない?」
 掠れ声での問いかけ。
 ふわりと立ち昇るのは、高塚自身の香り。
 高塚愛用のコロンの香りが、部屋に染みついている。それは、昨夜も香ったものだ。
「でも……明日帰るし」
 与えられる快感は忘れ難い。
 すぐにでも欲しいと体も心も言う。
 けれど、感じる体であっても、過ぎ去れば結構きつかったようで、今日は一日違和感があった。
 明日は岡山まで帰らなければならない。
 それでなくても体調が悪い体は、一日半ば寝て過ごしたとはいえ、完全回復とは言えなかった。
「そう……だね」
 口惜しそうに呟く高塚の体が離れていく。
「あ……」
 思わず追いそうになって、慌てて堪えるためにぎゅっと拳を握り込んだ。
 そんな恵無に気が付いて、高塚がふわりと笑みを浮かべる。
「何もしない──ってのは辛いけどね。でも、今日は何もしない。それが恵無のためだと思えば堪えられる。だから、今日はいろんな話しようよ。できていなかったいろんな話」
「話?」
「そう、僕は、恵無の家族が共働きなんて知らなかったよ?」
 結局そこに辿り着くのか、と恵無も笑い出して。
「そだね。俺ももっと知りたいよ。お母さんの料理がどんなものだったのか、とか?」
 悪戯っぽく片眼を瞑れば、高塚も思いっきり吹き出していた。
 
 
 和やかな高塚邸での二日目は、そうやって暮れていった。
 すでに静かな寝息を繰り返す高塚の横で、一日寝て過ごしたようなものの恵無は、眠られずに寝返りを打っていた 
 朝には、会社に電話して欠勤にして貰い、それから朝一の電車で帰ることになる。
 そこに、一抹の寂しさが無いとは言えなかったけど。
 次にいつ会えるかは判らない。
 明日からすぐに仕事に復帰すると言っていたから、当分は忙しいだろう。そうなればプライベートで会うことも難しい。
 岡山と長野は交通の不便性もあって、ちょっと会いたいから、と言うわけには行かなかった。
 往復だけで一日かかるのだから。
 ふうっとため息が零れる。
 もうメールも携帯の番号も教えて貰って登録していた。それは、高塚宗也、のみならず、高塚家全員のが入っている程だ。
 だから、今度はこんなことにはならないだろう。
 沙美に、『宗也に泣かされたら、私が味方になりますから』と、そっと耳打ちされたこともそのよりどころだ。
 取っつきにくいと思っていた彼女も、仕事の仮面を外せば、少女っぽいところがあった。
 その違和感が面白くて、楽しくて。
 この家の人達は、みんなそんな意外性を持っていて、楽しい。
 だからだろうか?
 明日、この家を離れるのが寂しくて堪らない。
 何度も宙に消えるため息にいい加減呆れて、もう寝なければ、と無理にまぶたを閉じた。
 と──。
 まるでタイミングを計ったかのように、振動音が伝わってきた。
 それは、携帯のバイブ音だとすぐに気が付いたけれど、薄暗い部屋のどこに置いたか判らない。しかもその音はすぐに止んだから、メールだとも気が付いたけれど。
 恵無は、それでも、そっとベッドから降りた。
 どっちの携帯か判らないけれど、一応確認しておこうと思ったのだ。
 何しろ、恵無の携帯にメールを送ってくる輩は少ない。
 大半が会社の人間だから、何かあったのかと不安になったのだ。
 前もこんなふうになったメールを放置して寝入って、次の朝、同じ会社の社員が事故で亡くなった知らせだったこともあって、夜半のメールには敏感になっている。もっとも、今までは大半が迷惑メールだったけれど。
 着信を知らせたのは、やはり恵無の携帯だった。
 ぱかっと開けて確認する。
「え?」
 途端に、驚愕して声まで出てしまった。
 タイトルと共に並んだ発信人に「恵子」という文字を見つけてしまったからだった。
 
V]U.32
 
『話があるから、起きているのなら部屋に来なさい』
 そのメール本文に、恵無はどうしようかと躊躇った。
 背後のベッドでは、高塚が寝息を立てている。このまま、起きていなかったとシラを切って、明日朝訪ねるのも有りだろう。
 けれど。
 恵無は高塚から借りているパジャマの上に、やはり貸してくれていたガウンを羽織り、廊下に出た。
 ただっ広い家の中は、複雑に通路が走っていて迷いそうだけれど、廊下の灯りが進行方向に向かって順番に点いていく。
 その様子に、見られているのだと気が付いて、歩きがぎこちなくなった。
 何しろ、彼女の部屋には、この家の──だけでない、いろんな情報が入るシステムがあるのだ。
 たぶん、ディスプレイに映る恵無を、彼女はじっと見ているだろう。
 彼女は、全ての情報を手元に置くことで、高塚家のみならずメルサ社をも──そしてきっと高中財閥も守っているのではないかと思う。
 前に高塚が言っていた、テクスタイル社の情報源は『財閥のトップに近い人』はきっと恵子なのだから。であれば、高塚が無条件に信頼できる相手だ。市場に情報が出る前に、動いても当然だった。
 つらつらと考え事をしていれば、広いと言っても所詮家の中すぐに見覚えのあるドアの前に辿り着く。見られているのだから、躊躇う事はできなかった。すぐに、拳で軽くノックをする。
 聞こえなくても構わない。することに意味がある。ふとそんな事を思っている間に、中から微かな応えがあって、恵無はドアノブに手をかけた。
 オレンジの薄暗い灯りから、明るい蛍光灯の灯りへと変わり、目が慣れなく数度瞬きをする。恵子が例のシステムの前に陣取って、何か熱心に見ているのが判って、その傍らに寄った。
 ようやく慣れた目が、ディスプレイが映すグラフを読み取る。
「株価は戻るわね」
 一言呟いた恵子がくるりと恵無へと向き直る。
「恵無は、株はしたことがある?」
「いえ」
 即答して、恵子から再度ディスプレイへと視線を移した。
 複雑な折れ線グラフは、一度一気に下降し、ここ二日ほどでゆるやかな上昇に転じていた。
「そう、慣れない人間が手を出すと痛い目に遭うこともあるからね。やるなら、勉強してからしなさい」
 なぜそんなことを言うのか?
 真意が窺えなくて、ちらりと恵子を見やる。
 夜半だというのに、彼女はまだ寝間着ではなかった。
「さて、呼び出したのは他でもないけど」
 手招きされて、傍らの椅子に座る。
 向かい合い、鋭く見据えられて、背筋がぴしっと緊張した。
「あなた、こちらに移ってくる意志はない?」
「……え?」
 言葉ははっきりと聞こえていた。
 彼女が何を言いたいのかも、遅れて理解した。
 けれど。
 即答できるものではなかった。
「返事は?」
 なのに、恵子は再度聞いてくる。
「返事……って言われても……」
 恵子は判っているのだろうか?
 こちらに移ると言うことは、今の会社を辞めると言うことだ。
 ずっと今まで働いていた仲間達の顔が、脳裏に浮かぶ。それに仕事もだ。
 今担当している仕事はメルサ社だけでない。
 他のいくつかの会社に対するいろんな技術的課題。それらはまだ中途で……。
 今放り出すには、心残りがあるモノばかりだった。
 それに、今の仲間達はほんとに快い人ばかりで──こちらに来ると言うことは、彼らとの別れだ。
 無意識のうちに眉間にシワがより、顔が顰められる。
 それに。
「こちらにきて……俺は、一体何を?」
 仕事は?
 と問いかけたのは、少しでも結論を先延ばしする意識の表れだったのかも知れない。
 けれど、恵子は一笑に付した。
「メルサ社に入っても良いし、それが嫌なら、私の手伝いでも良いね。沙美だけでは大変なのよ。今回の事件で、いろいろとメルサ社はバタバタするし、子供達の周りも落ち着かないだろうしね。やることは幾らでもあるから」
「それは……そうでしょうけど……」
「何を躊躇うの? こちらに来れば、宗也とは会いたい放題なのに?」
 宗也、その名にびくりと体が震える。
 ずっと考えていた二人の住まいの距離。それが恵子に従えば、一気に縮まる。
 けれど。
 すんなりと肯定はできなかった。
 高塚は好きで、離れたくない。だが、ジャパングローバル社も仕事も、まだまだ心残りはいっぱいあった。
「……それは」
 ぐるぐると頭の中をいろんな出来事が駆けめぐる。
 高塚の事。仕事のこと。仲間達のこと。
 ごくりと息を飲んで、それらをひとまとめにして一つの輪の中に入れる。
 けれど、輪の中に入ることなく溢れ出して、結局頭の中全てがそれらでいっぱいになって。
「……今は、結論が出ません……」
「あら、宗也の元にいるのは嫌?」
 恵子の反応は、意外にも平静なものであった。
「そうではなくて……。今やっている仕事を……最低でも片づけたい、と」
 そうだ。
 せめて、そのつもりで片づけて。
 それは、今の予定では1年はかかるものであったけれど。それでも最小限でも片づけて、それでも残ってしまう仕事を他の人に引き継いで貰う。
「1年……待って貰えますか? 返事……」
 そのころにはどうしたいか、はっきり結論づけられるだろう。
 高塚家で働くことも、今の仕事を続けるかも。何もかも。
 1年後、今の状況が続いているかどうかは判らない。けれど、それは、冷却期間でもある。
 高塚に溺れて過ごしてしまうであろう、今という時期の。
「そう……1年」
 それを聞いた恵子は、指先を額に当てて考え込んでいた。
 この女王様の不興を買えば、今すぐにでも出て行けと言われそうなそんな予感はあった。
 だが、こればかりは恵無も迂闊には頷けないのだ。
 高塚と仕事を天秤にかけるつもりはない。
 恵無にだって、仕事に対するブライドがあったから。
 じっと待つだけの、緊張の時が過ぎ去る。
 恵子の指先が離れ、その視線が恵無に向けられる。
 そして。
「それでこそ、私が見込んだ男ね」
 にこりと満面の笑みを浮かべて、その手が恵無を抱きしめてきた。
 甘い匂いに包まれて、恵無は呆然と為すがままになっている。
「何もかも放り投げて、好きな相手の元に走るのも、それはそれで良いとは思う。けどね、会社という組織にいる一人の人間としては、それではとても困るもの。恵無はそれが判っているのよね」
 暖かみと柔らかさに包まれて、恵無は安らぐどころか困惑が大きい。
 これが高塚なら抱きしめ返すけれど、その母親相手にはそれもできなかった。だから、両手をだらりと下げて、せめて押し返す無粋な真似だけはしないように必死で堪える。
 それに、頭上で囁く彼女の言葉は真剣そのものだ。
「高塚家にはそんな人間はいらない。何もかも夢中になるのは結構だけど、今の自分の状況をきちんと把握して、自分の立場をちゃんとこなせる人間でないと。恵無、お前なら大丈夫そうだね」
「それって……?」
「待っているわ。1年後、お前がここに引っ越してくるのを。別に無理強いはしないし、契約を交わすわけでもないけどね」
 真面目な話が、途中から変な感じになっていて、恵無はさすがに恵子の体を押し避けた。
 くすり、と、恵子の唇が弧を描く。
 面白そうに窺う瞳が、その言葉の真意を恵無に知らせた。
「知って……」
 二人だけの秘密の契約までもバレている恐怖が背筋を這う。
「バカ息子の所行、きっちりと問い質すのは母親の役目だから。ちゃんと叱っておいたからね。まったく、策を講ずるなら最後まで責任をとるべきだというのに。途中放棄など、嘆かわしい」
 憂うべき部分はそこなのか?
 羞恥が呆気なく脱力に変わる。けれど。
「まあ、あんな息子でも気に入ってくれたから良かったというべきなんだろうね。ああ、お前が使う部屋は数日中にも用意できるだろう。いつまでも、宗也の部屋では、いつ襲われるか不安だろう?」
「えっ」
 呆然と見やる先で、恵子がにこりと笑う。
「あれも、欲求不満が溜まりやすい質でね。一緒の部屋だと逃げ場が無いだろ?」
 くすくすと笑われ、性生活の事だとすぐに気が付いた。
 肯定しているようなものなのに、かあっと全身が熱くなるのが止められない。
「ああ、ああ、ごめんね」
 誠意の感じられない謝罪の言葉に、ますます顔が上げられない。
 そんな恵無に、恵子は楽しそうに一笑いすると、ふっと穏やかな表情を向けた。
「まあ、真面目な話、部屋は用意するからね。来たくなったらいつでも来ると良い。お前はもう高塚家の一員なのだから、何の遠慮もいらない。帰省費用は、宗也に言えばいい。あの子はそれくらいの甲斐性はあるし」
「え、それは」
 あまりにもオンブにだっこだと思ったけれど。
「お金の問題で帰れないなんて言われるのは、こっちが嫌なのよ。それくらいは遠慮しないように。私からの小遣いだと思いなさい」
 きっぱりと言われては、遠慮することもできない。
 目をぱちくりとさせる恵無に、さらに恵子は言い募った。
「それから、恵無のご両親にもね、そのうちに挨拶に行くからね」
「えっ!」
 冗談じゃないっ!
 思わず叫びそうになった。
 こんなこと、親が知ったら卒倒するだろう。
 だが、驚きに思わず立ち上がった恵無に、恵子は諭すように言った。
「知らせない訳にはいかないことだよ。お前が何をしているか、ご両親はいつだって心配しているはずだから。長期の休みは宗也としてはこっちに来て貰いたいだろうからね。そうするとどうしてもご両親の方がおざなりになる。恵無はどうやって言い訳するつもりだい?」
「そ、れは……」
 そんなところまで考えているのか、この人は……。
 正直、両親のことなどまだ意識外にあった恵無は、現実を突きつけられて、茫然自失状態だ。
「安心しなさい。幾らなんでも、嫁にくれとは言わないよ」
 その言葉にほっとして。
「でもまあ、養子にくれとは言うかもね。正樹もそのうちに、正式に養子にするつもりなんだよ、私としては」
 もう、反論などできようはずもない。そんなことを聞いた両親が卒倒する場面を思い浮かべ、頭が痛くなった。
「すみません……そんなこといきなり言われても」
 恵無も両親も、受け入れられるものではないだろう。
 少なくとも自身は嬉しいだろうけど。両親は好きだから、そんな負担はかけたくなかった。
「判っているって。恵無の大事なご両親に無体な事はしやしない。ちゃんと無難なところで済ませるから。こういう時は、高中の名は便利なんだよ。小さいとはいえ、結構浸透しているからね」
 そうしてもらえると助かる、と恵無はほっと一息吐く。そして。
「ぜひ、無難にお願いします」
 疲れた表情で頭を下げた恵無に、恵子は可笑しそうに笑いながら頷いていた。
 
 
 
V]V.33
 
 ぱたんと恵子の部屋のドアを閉めた時、先日、駅前で高塚の姿を見かけて全力疾走した後よりも激しい疲労感が恵無を襲っていた。
 数歩歩いてから、よろよろと壁に背を預ける。気怠さを吐き出すかのように大きく息を吐き出して、ぎゅっと目を瞑った。
 恵子は決して無茶なことを言った訳でない。ただ、恵無が無意識のうちに後延ばしにしようとしていた事を、目の前に突きつけただけだ。
 宗也とのこと、会社のこと、両親のこと。
 だが、一度に考えるには、それは恵無の許容量を超えていた。
 そのせいか精神がひどく疲れて、何かをしようとする気力が萎えてしまっている。それは歩いて帰るというそれだけのことも、だったけれど。
 耳に足音が聞こえ、視界の片端に人の足が入ってきた。つられるように顔を上げれば、心配そうに眉根を寄せた高塚がじっと恵無の様子を窺っていた。
「高塚、いや、宗也……寝てたんじゃ……」
「母さんに叩き起こされた。恵無を迎えに来いって」
 不機嫌そうに唇を引き結んだ高塚が恵無の腕を掴んで引き寄せる。
「僕も起こしてくれれば良かったのに、こんなに真っ青になって……」
 ゆっくりと抱きしめられ、暖かい頬が恵無の頬に触れる。
「こんなに冷えて」
 その言葉に初めて自分が冷え切っているのに気が付いた。
 心地よかったはずの部屋だ。別に冷気に晒された訳ではないというのに。
「帰ろ、部屋へ」
「うん」
 耳元で囁かれた優しい声音に、素直に頷く。
 その温もりに体の強張りが解けて、胸にわだかまっていた空気が出て行った。
 それは、まだこんなにも残っていたのかと思える量で、がちがちに緊張していたことに気付かされる。「いっしょに寝るんだろ?」
「うん……」
 だから今は、他の何よりも、高塚の温もりが嬉しかった。
 
 
「んぅっ……」
 ベッドに入ると同時に、きつく舌先を絡ませた。
 驚きに引き気味だった高塚が、すぐにそれに応えてくる。深く余すことなく口腔内を貪られて、体内の熱は一気に燃えさかった。
「あ、ああっ、宗也……宗也……」
 名を呼び、その体に縋り付く。
 絹のパジャマは邪魔だと言わんばかりに引き剥がされ、昨夜も身を包んだのは僅かな間だけのそれが床にふわりと落ちていった。
 その代わりに包み込んでくれたのは、高塚のたくましい体だ。
 全てが暖かく、力強く、安らぐ。
 けれど、甘い行為は今日は欲しくなかった。
 どうしても高塚が欲しくて、忘れられないほどの激しさが欲しかった。
 時間がないのだ、と再認識したせいもあるのかも知れない。
 堪えられる、と思った明日の別れは、恵子と話をしている内に恵無の中に激しい寂寥感を呼び起こし、高塚を目の当たりにした途端、爆発した。
 だから、願う。
「おねが……っ、もっと早く、来て。忘れられないくらいに……、次来る時まで、ずっと」
 涙混じりの懇願に、高塚が息を飲む。
 どんなに自分が恥ずかしいことを言っているのかも判っているし、高塚の引き寄せられた眉根がその葛藤を教えてくれていた。だが。
「頼むから……。欲しくて──堪らないっ!」
 自ら、腰を上げて欲情に煽られて固くなったそれを擦り寄せる。
 恥ずかしい行為だと、一瞬だけと思ったけれど、すぐに何もかも、たった一つを除いた思考が停止する。
 ただ、欲しいのだ。
 欲しくて溜まらない。
 そんな恵無に、高塚も気が付いたのだろう、「判った」と小さな声で呟いて。
「うあっ!」
 ろくに解すこともなく荒々しく突き立てられて、喉から悲鳴が迸る。
 けれど、それが嬉しい。
 ぎゅうっと高塚の体を抱きしめて痛みを逃し、その熱い塊を感じた。それが体の中にあることが嬉しい。
「ああ……もっと……もっと動いて」
 欲する言葉が恥じらうことなく出た。
 疲労した精神が、何より癒しを求めていた。
 激しい抽挿が始まった途端、もうそれだけを欲した。
 意識が快楽の波に飲み込まれ、押さえることのない嬌声が、喉を震わせる。全身の汗がシーツに染みを作り、二人の肌を密着させた。
「あっ……ふあっ……そおや……そ、やぁ」
 奥深くを抉られ、全身が大きく震える。
 ぽたぽたと滴が先から流れ落ち、下腹部に滑りを与えていた。ねちゃりと湿った音が、荒い息づかいと共に響く。
 快感で意識は朦朧とし、ただ与えられる行為を受け入れるだけだ。
 吐き出す息は喉を焼くほど熱く、何度も叫んだ喉をさらに痛める。
 時折肌にぴりっと走る痛みに、知らず微笑んで。
 抱きしめた首筋に、そっと唇を寄せた。
 やはり好きだ。
 それしか考えられなくて、もっと愛して欲しいと願う。
「ううっ」
 小さく喘ぐ声が、高塚が達った言葉だともう覚えてしまった。その声が、室内に響いて、恵無は嬉しくなって微笑んだ。
 もっともっと、達って欲しい。
 自分の中で、高塚が精も根も尽き果てるまで。
 
 
「っ!」
 庭に出て空を見上げた恵無は、そのまぶしさに目を細めた。
 朝日が黄色い。
 清浄な身も心も清められる空間で、恵無の周りだけ倦怠感が漂っていた。
 今日はこれから行かなければならないというのに。
 眠い目を瞬かせ、気怠い息を吐き出す。
 その背に、ふわりと上着が掛けられる。
「朝は寒いだろ?」
 気遣う言葉には、そうでもないとばかりに笑んで応えた。
 寒さより何より、寝不足と特に下肢を中心とする倦怠感の方がよっぽど堪えている。だが、それも自業自得だと思うから、恵無は何も言えなかった。
「今日の10時には駅に向かわないと」
「そう。僕は、会社に行かなきゃいけないんだ。だから、見送りには行けないけど」
「判っているよ。昨日そう言っていたから」
 メルサ社は今日が正念場なのだ。
 昨日のうちに、たいていの処理は行っていたとはいえ、所詮は日曜のせいで完全には処理できていない。
 月曜である今日が、全ての始まりだと言っても過言ではない。
 まして、高塚は一度退職した身の上だ。その復職手続きから、野々瀬の犯した顛末の後始末まで、やることは多々ある。
「明日恵無が会社にいる頃には吉報を送るよ」
「吉報?」
「今更ドーラスタの製品を僕が採用すると思う? 検討し直すってことの連絡だよ」
 言われて、そうだったなと思い出した。
「ああ、なんか忘れていた」
「酷いな、僕はそれが一番の気がかりだったのに」
「それだけが?」
 意地悪な質問だと思ったけれど。そして、思った通りに高塚が情けない表情を見せてきた。
「いや……その……」
 口籠もる高塚に、笑いかける。
「判ってるって」
 けど。
「ドーラスタの担当者はショックだろうね。一度採用されたものが、そんな理由で取りやめになるなんて」
 きっと、今回の収賄等何も知らなかったに違いない。
 不採用通知の時の衝撃を思い出して、束の間知らない訳ではない技術者に思いを馳せる。
 確か恵無より少し年はいっていたけれど、愛想の良い人ではあった。何かの展示会で顔を合わせたことがあるのだ。
「ああ、それなんだけど……、野々瀬は内部の反発もあって、ドーラスタに採用の連絡はできていないらしいんだ」
「え?」
 意外な言葉に、恵無の目が大きく見開かれた。
「だって、こっちにははっきりと見送るって」
「僕達だって手をこまねいて見ていた訳じゃないよ。本当はこんな事になる前に何とかしたかったんだけど……。叔父さんがあんなにも急ぐとは思わなかったし──。その結果、遅すぎた分の後始末がでかくなっちまった。それでも、品証の部長は取り込んでいたから、ドーラスタに採用の通達させるのは押さえていたんだ。だから向こうはこんな事になっているとは知らなかったと思うよ」
「そ、う……」
 組織というのは複雑に絡み合っている。
 まだ新しい恵無の会社だってそんなところがある。
 その全てを掌握するには、一週間では足りなかったと言うことだろう。結局、その程度の男なのだ。あの、宗男という男は。
 あの時感じた憐憫は、今でも恵無の中にある。
「だから、今日中に社内のとりまとめをして、再検討ってことにするよ。もっとも時間がないので、すぐに採用の通知は行くだろうね。そうする自信はあるよ」
「じゃあ、驚くのはこっちの方だけだね」
 由良の驚く顔が目に浮かぶ。
 面白いだろう、と思うけれど、同時に演技を強いられるのだと思うと気が重い。
 すでに知っていることを、同じように驚きを持って迎えることができるだろうか?
 そんな疑問を口にすると、高塚は「大丈夫だ」、と言い切った。
「恵無は結構やってくれるよ。僕の所に来たことも、おの母さん相手に渡り合ったことも。叔父が何を言おうとも平静だったしね」
 それは違うのだけど。
 ここに来た時は、もう最後だと思って必死だったし、彼女相手の時はずっと緊張しっぱなしだったし、あの宗男相手の時は部外者に近かった。だから、一歩下がって見ることができたのだ。
 けれど、そんな事はおくびにも出さずに、口元に笑みを浮かべた。
「でも、演技力は宗也の方が凄いと思うよ。俺も最初は騙されたもの。あの契約の時は」
 最初は、本気でそんな関係を強要されるのかと思ったけれど。
「あれは……必死だったから」
「知ってる」
 今なら、はっきりとそう言える。照れて赤くなって、顔を背けるその仕草が愛おしいほどに可愛い高塚を見てしまうと。
 恵無の目が、ふっと背後の家へと向けられた。
 典型的な日本家屋だというのに、中へ入れば実際はいろんな設備が埋め込まれている家。
「宗也……」
「何?」
 問いかける高塚に笑いかける。
「俺……必ずこの家に来るから……」
「え?」
 きょとんと首を傾げる宗也は、昨夜の恵子との話は知らないのだろう。
 だから、曖昧に笑い返す。
 それでも不審そうな高塚に、恵無は別の話を振ってみた。
「とりあえず、今度三連休があって、その時に来たいんだけど……交通費貸してくれる?」
「え、もちろん!貸すなんて言うなよな。それくらい全額こっち持ちでいいからっ」
 今にも財布を取り出しそうな勢いに、くすくすと笑いが零れる。
「でも、悪いから」
「だって、お金が無いから会えないなんて言われたら、悔しいからさ」
 実の母と同じ言葉を言う高塚に、そっくりだなんて言えば怒られるだろう。
「うん……足りなくなったら遠慮無く貰うよ」
「足りなくなったらって……」
「きっと来るたびに足りないって言うかもよ?」
「そんなことっ! 構わないって」
「覚悟しといてよ」
 きっと、凄い交通費になると思うけど。
 けれど、そんなことが会えないネックになるのは、正直、嫌だと思った。
 何より、休みの度にここに来たいという欲求が、今はもの凄い。
 それほどまでに好きなのだ。
 高塚も、この家も。
 きっぱりと言い切れるほどに惹かれる魅力が、ここには満載だった。
 
【了】